アスペルガーの館の掲示板(旧)
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Mariaさん、お返事ありがとうございました。ぶちです。
Mariaさん wrote:
> 病気をすると分かりますが、「自分は相手の気持が分かる」と信じこんでいる非自閉の人のほうがタチが悪いことがあります。
「他人の気持ちを理解する」っていうのは、すごく難しい事で、それが出来ていると思い込むのは危険な事ですよね。
こうもりさんが書かれていたけど、「共感している振りをする」事を、本当に共感している事と誤解している人も多いです。それに自分自身「振り」をしながら、自分は本当の共感する力があるって誤解している人・・・これはMariaさんの言う通り危ない(タチが悪い)です。
自分はいかにやさしいか、いかに良心的だかを表現するために行動している人も多いですよ(あー、こんなこと言うと、またまわりに嫌われそうですね)。
そういう人は訓練を積んで、「こういう時には、こう振舞うと良い人っぽい」とか、「こういう時には、こう答えてあげるとやさしそうに聞こえる」とか、研究して身に付けているだけですから、今までの学習の範囲を超えると、突然すごい事を
言ったり、すごい行動に出たりします。
> (略)「まずい」とか言うと怒って帰ってしまい、台所は散らかし放題で残り物が山できてしまうとか……そういう人っていそうでしょ?
いるいる、いますね。
うーん、私は「古狸」だから「まずい」って言わない(言えない)かな? 事実は事実でも、やっぱり相手を怒らせるか悲しませるかになる確立が高いから。私が高熱出して倒れると、うちのパートナーは必ず氷まくらを持ってきます。何度も「私は寒がりだから、冷たいの嫌い」って言っていても、心配で血迷って持ってきます。それに「要らない」って言ってきかない・・・彼は氷まくらが好きなんです(特に熱のある時には)。自分が私の立場だったら、一番欲しいものなんでしょうね。そういう時は、一応もらっておいて、しばらくしたら横に置いておきます。
私が氷まくらをしていると、「きっとすぐ良くなる」って、彼が安心するみたい。そういう意味でも効果がある(私にはないけど、彼の不安は少し解消する)なら、それでもいいかなぁ・・・って、もらっておきます。ポンポコポン。
> ・どうやったら手伝えるのかが分からないときは、相手が具体的な指事をしてくれるまで放っておく。
> ・自分のやりかたとは違っても、相手の指事通りにする。
> ・できれば、普段から、なにかあったときのためにお互いが手伝えることをあらかじめ予行練習しておく。
上から順番に1,2,3とすると・・・
1は了解。基本的に必要ならその旨言ってくるから、それまで放っておいてくれって事ですよね。前にみどりさんへのメールにも書いたんですが、「何かある?」
って聞くのも、「余計なお世話」になりますか? ちょっとこのあたり知りたいです。困っている時に「困ってる」ってサイン(または言葉)を発信してくれてる場合はいいんですが、むおーんと変な雰囲気は漂って来るんだけど、何がどうなっているのかわからないって事がよくあります。そういう時にも「何かある?」って聞くのは、やっぱりおせっかいなんでしょうか?(実は私はやってしまう・・・)
2も了解。前のメールでちょっと書いたけど、近くに「困ってる」「怒ってる」等の感情を持った人が近くにいるのが苦手なだけですから、私としては、相手のその感情がやわらげばそれで満足なんです。だから「こうしてくれれば困ってる状態が改善する」って伝えてもらえれば、それだけして、それ以上の事はしないと思います(こういう所、ある意味冷淡でもある)。
3は半分わかりました。半分っていうのは、例えば限られた友人、同僚、家族なんかの場合は、実現可能だから、その部分については理解したという事です。でも相手が不特定多数の場合は、予行演習のしようがないです。
> 仕事の場合は、「バディ・システム」といって、どっちかが一時的に戦力外になってもお互いがフォローできるような体制をふだんから作っておくことがあります(チームの場合は「減員操法」というのがあります)。
バディにしないでも、情報を一人が溜め込まないという方法は、どこの会社でもとっているんじゃないでしょうか? 情報の共有化っていうか・・・そうじゃないと一人欠けると全体が動かなくなるし。
(ぶち)
名加野さん wrote:
>> 「言われないと分からない」っていうのは、普通の事だと
>>思います(そう思わない人も多いけど)。
>
> 良い事おっしゃいますね。僕も鈍感なので、言ってくれなけりゃわかりません(無言の会話とは別の話)。けれども、僕の場合言われても中々動けません。
うちの場合、彼もできるだけ仕事をふって欲しくないか
ら、なかなか動いてくれません。まぁ、そういう時は、あ
の手この手で動かすんですよ(「よっしゃ、俺がやったる
!」って言わせる)。
相手の働きかけ方によっては、名加野さんも「よっしゃ!」
って思うかもよ?
あ、これも関係ない話でしたね・・・(ぶち)
こうもり wrote:
> で、自然主義的誤謬は元々は道徳哲学から発生した概念なのですが、わたし
>自身は事実や正常・異常かの判断にも適用できる概念であると考えています。
>現に自然主義的誤謬の例としてよく挙げられる『「男である」から「男らしく
>なければならない」という判断を導き出すことはできない』というのは、善悪
>(道徳)上の判断ではなく、正常・異常の判断です。
後半がよくわかりません。「男らしくならねばならない」と「正常異常」ってどう結びつくのでしょう?
医学的な診断は、「判断基準に添うかどうか」ですから、どちらかというと「価値」より「事実」側に入りそうに思うのですが、あえて価値側に入れるのがわからないところです。
たとえば、「あなたは肺炎にかかっています」や「胃がんではありません」も「価値判断」ですか?
>>> 通常、同年齢の子供は一桁のたし算・ひき算はできるはずである(価値判断1)
>>
>>この文章が「同年齢の子供の大半は〜ができる」なら事実とできるでしょうか
>>。その場合、「できるはずである」の場合と、「(価値判断2)」へのつながり
>>においてどれだけ違いがあるのでしょうか。
>
> つまり、みどりさんがおっしゃる例は
>
>・Aくんは10才だが、一桁の計算ができない(事実1)
>・通常、同年齢の子供は一桁の足し算・引き算はできる(事実2)
>・ゆえにAくんはLDである(価値判断)
>
>という構図でしょうか?蝙蝠が担当するスレッドの話題ではともかく、こちら
>では、このような構図を想定してもかまわないと思います。上記の例の場合、
>(事実1)と(事実2)から(価値判断)を導き出せるかということが問題と
>なるでしょう。
>
> 上記の(事実2)の部分を事実と見なすか価値判断とみなすかは意見が分か
>れるところです。
「全員を検査した結果、同年齢の子供の99%は一桁の足し算・引き算ができた(事実2)」とかでも構いません。(もちろん実際にはこの分は仮定です。私はそんな数字は知りません)
3つの命題を A,B,Cとして、私が変えた方は A, b, C とします。
A: >・Aくんは10才だが、一桁の計算ができない(事実1)
b: > 「通常、同年齢の子供は一桁の足し算・引き算ができる(事実2)」
B: > 通常、同年齢の子供は一桁のたし算・ひき算はできなければならない(価値判断1) (文章をちょっと変えました。これ、問題あります?)
C: >・ゆえにAくんはLDである(こうもりさん説では価値判断、みどり説では事実)
元の話の構成は (A , b) =>B =>C なんですね。で、=>B の部分が自然主義的誤謬。で、ここですでにジャンプがあるので、後半 (B=>C) には意味がなくなっちゃってます。
つまり、B の導出方法はヘンでした。そこは無視して、もしもBが (単独で) 正しいとしたら、B=>Cは価値判断をもとに価値判断をするという論理になるわけですね。こうやって導かれるLDの診断は、確かにヘンです。これは医学的診断とは思えない。
Bのジャンプをなくしたのが私の (A, b) =>C 。こっちは C も事実側であれば、別になにも問題はない気がするんですが。
医学的診断をしようってときに B に寄り道するのがヘンなんじゃないかなあ。
# 本当は =>C の前には「LDとは〜である」という命題 D が入るし、ここはここで中のボリュームが大きそうですが。
「自然主義的誤謬」論自体を疑うという方法もあるけど。そういう誤謬がたくさんあったからといって、なぜ事実から価値を導くのはつねに間違いであると言えるのか。それ自体が誤謬じゃないのか。そもそも「つねに間違い」と言ったのだろうか、「よくある間違いだから気をつけろ」と言ったのだろうか。
もとの論文か適当な解説書を読まなきゃいかんかな。理解できるんかなぁ。なんかおすすめの本あります?
名加野 wrote:
> くだらない話で申し訳ないですが、他人にアイスを落とされた時に、パニックで拾い食いする事も関係あるのでしょうか?
元の例だと、逆に相手に拾わせようとして失敗する方かも。
相手に床を拭き掃除して新品を買ってこいとか言うかもしれない。(すみません、買ったものにはあんまり執着ないんで、新品でいいんです、私の場合は。)
ただ、他人に理解できない形での代償を求めてしまうという点では、根はつながっているのかもしれません。
自分が作ったケーキとかだったら私も拾い食いしかねない。
> やっぱ僕が悪いのかな? 拾い食いはやっぱアウト?>ALL
健康のことを考えたら、やめといた方が無難だと思います。
ただ、それを押して拾い食いしてるのを、他人に文句言われる筋合いはないと思います。
(周囲にいた友人が他人のフリするのを止めることもできないだろうけど)
みどりさん wrote:
>ここでいう「価値」とはなにか、が気になります。事実以外のものは全て価値
>なのか、それとも善悪の判断に限るのか。医学的診断は「価値判断」になるの
>でしょうか?
事実以外の全てが価値になる訳ではありません。例えば、冗談,社交辞令,お
せじ,演劇のセリフ,文学作品などは事実以外のことが書かれていますが、決
して価値判断には含まれないからです。
で、自然主義的誤謬は元々は道徳哲学から発生した概念なのですが、わたし
自身は事実や正常・異常かの判断にも適用できる概念であると考えています。
現に自然主義的誤謬の例としてよく挙げられる『「男である」から「男らしく
なければならない」という判断を導き出すことはできない』というのは、善悪
(道徳)上の判断ではなく、正常・異常の判断です。
>> 通常、同年齢の子供は一桁のたし算・ひき算はできるはずである(価値判断1)
>
>この文章が「同年齢の子供の大半は〜ができる」なら事実とできるでしょうか
>。その場合、「できるはずである」の場合と、「(価値判断2)」へのつながり
>においてどれだけ違いがあるのでしょうか。
つまり、みどりさんがおっしゃる例は
・Aくんは10才だが、一桁の計算ができない(事実1)
・通常、同年齢の子供は一桁の足し算・引き算はできる(事実2)
・ゆえにAくんはLDである(価値判断)
という構図でしょうか?蝙蝠が担当するスレッドの話題ではともかく、こちら
では、このような構図を想定してもかまわないと思います。上記の例の場合、
(事実1)と(事実2)から(価値判断)を導き出せるかということが問題と
なるでしょう。
上記の(事実2)の部分を事実と見なすか価値判断とみなすかは意見が分か
れるところです。
みどりさん wrote:
>というわけでまたも質問。
>
>>、善悪の問題はわたしに重くのしかかっている…。
>
>ここでいう、「のしかかる善悪の問題」って、どういう種類のものなんでし
>ょう?
哲学を学んでいるうちに価値判断が成り立たない領域に入りつつあるため、
これまで考案してきた倫理思想をもう1回再構成しなければならなかなってき
たからである…。感情に訴えて善悪を判断する方法はもはやわたしには通用し
ない…。そして今、理論による善悪の判断も自然主義的誤謬の存在によりいき
づまりはじめている…。
わっわっわー!
るおうさん、お返事ありがとうございます。
ほんとーに、ゆーりが落ち込んでいる時に声かけてくれるのは
いつも、るおうさんですね♪
とっても、慰められます。
また、親に怒鳴られて・・・
こっちが悪いのじゃないのに謝らなきゃいけない。
「あなたの’申し訳ありません’には誠意を感じたことがないのよね!
なにニヤついてんのよ!」
とかまで言われて。そんなに信用できないなら自分で育てたまえよキミ。
一生懸命、工夫して、園の制約とかくだらない決まりとか枠とかを
打ち壊しながら、子どものために、子どものために、と思ってやっている。
ガチガチの保守主義・管理主義・付和雷同主義の先生とも対立しながら
毎日の保育を考える。
みんなはつるんで派閥を作って、こっちは仲間はずれ。
でも、親は、結果しか見ようとしない。
運動会の出来が良かったか、子どもがきちんと席について静かにしているか、
製作展で作品がよくできていたか、ケンカが無いか、
そんなところで教師の価値を決める。
ほんとは、過程が大事なのに、そんなこと気がつく大人はいない。
「千と千尋の神隠し」でブタになっちゃった両親、今の日本はあんなのだらけ。
こっちが穏やかでいると、子どもも安定しているのです。
にこにこしていると、子どもも幸せです。
一生懸命やっていれば、必ずこたえてくれるのが子ども。
この子達の未来に、幸あれと思います。
でも、この仕事、長く続けられないだろうな。
今までどこ行っても、うまくいかなかった。
これから、自分にぴったり合った、ほっとできる職場ってないでしょうか。
なんだか今の職場を辞めると、
社会不適応になって、引きこもりになりそうで恐いです。
名加野 さんwrote:
> やっぱ僕が悪いのかな? 拾い食いはやっぱアウト?>ALL
タレイヌ、拾い食いして、たしなめられたこと、数知れず。
タレイヌの母は、綺麗好きで、色んなものをきたない、きたないといわれて育ちました。色んなもの、片付けさせられました。それが当たり前だから・・・という理由で。
でも、タレイヌ自身は、あまり頓着なく、そだってしまった・・・。(つまり、人のいう事を聞かない人ではあるわけです)
落として、べちゃっとつぶれたら、いまでこそ、人目があれば、ぐぐっと、こらえます。でも、誰も見てなければ、上だけ、食べると思うし、飴玉とか、ころっとしたものは、「ふふ」って吹いて、口に入れちゃう。おせんべだって、ぱんぱんって払って、食べるよ、平気。(旦那は、「やめろ」っていう事も在るけど、言われれば、『もったいないなあ』と思いつつ、黙って我慢します。つまり、時々、人目があることを忘れて行動してるわけですな、おっとっと。)
内緒だけど、犬と、一緒のスプーンで、ヨーグルト食べちゃうこともあるし・・・
すみません!気持ち悪くなった人、ごめんなさ〜い。>ALL
(タレイヌ)
みどりさん wrote:
>自閉症の子供が、自分の作品を壊されたときに元に戻せと言って怒るという
>話を聞いて、自分のことだと思いました。
>相手が作りなおしたものでは我慢できないんだもん (それは自分が苦労して
>作ったものとは別物だから)。さっき相手が壊した、自分が最初に丁寧に
>作った、あれを返して欲しい。いまから作ったのでは違う。他人が作ったの
>なんてほしくない。ないものねだりとわかっていても相手のせいなのだから、
>なんとかしてほしい。
名加野さん wrote:
> くだらない話で申し訳ないですが、他人にアイスを落とされた時に、パニッ
>クで拾い食いする事も関係あるのでしょうか?
あると思います。自分が食べようと思って買ったアイスは、その時点で「自分の一部」なんです。ですから、「本来自分に所属しているはずの自分の一部」が地面に落ちちゃったとしても、それが「自分の一部」であることには変わりはないわけですね。そんなわけで、自分から「排泄」されないかぎりは、まだ自分の一部なわけですから、「穢(きたな)い」という感覚はないわけです。ですから、つい拾い食いをしてしまうというのは当然ありえます。
恋人というのは、「自分の一部」です。ですから「排泄物」は別にしても、唾液だとか、汗だとか、精液だとかというのは、「穢い」範疇には入りません。だからこそ、セックスという行為が成立するという部分はあります。
あるご高齢の小児科の先生は、赤ちゃんのウンチを熱心に観察するあまりついつい顔を近づけすぎてしまい、しばしば赤ちゃんのウンチを鼻の頭に付けていらっしゃったそうです。衛生面でも問題はなく(新生児のウンチは有害な微生物をほとんど含んでいません。仮に含んでいたとしたら、それは医師にとって深刻な事態です)、倫理面でもむしろ正当あるいは賞賛されるべき行為と認められる以上、これを「穢い」と言ってはいけないと思います。
ただ、あたしにとって「自然環境」はともかく「都市」というのは「自分の一部」ではないんですね。ですから、奥多摩の河原とか広葉樹林の中だったら落としたアイスの上のほうの汚れてないところを取って食べちゃったりはしますが(だいたい川の水とか湧き水とかだったらそのまんま飲んじゃうし)、都会ではちょっとなぁ、と思います。
(Maria)
あと、「健常者をぶん殴ってもいいんだよ!」「健常者が意地悪してきたら殺しなさい!」「健常者にムカついたら殴り殺しなさい!」「俺達自閉人は健常者より優れているんだ!」
まあ!!その子はまるで昔の私みたいなコだわ!!
あなたが専門家では無いのなら
その子には何もしようがないかもしれませんねえ・・。
シンタロウくんとまろんすさんに質問です。
なぜこうも健常者や先生という存在を憎むのですか?
ケイン wrote:
>
>あなたが幼い頃に、いじめにあっていたとします。
>そのいじめでの精神的な傷により、あなたが子育てを断念するとします。
>
>そうすると、いじめっ子によって子供の命を間接的に奪われたことになりませんか?
>
>《今の社会では このような考えは受け入れられていませんが、、》
極論をいえばそういう解釈もできます。
だからこそイジメというのはやってはいけないことなのだろうと、私は思います。
hirochan さんへ
まあ!!その子はまるで昔の私みたいなコだわ!!
あなたが専門家では無いのなら
その子には何もしようがないかもしれませんねえ・・。
みどりさん、こんにちは。
>自閉症の子供が、自分の作品を壊されたときに元に戻せと言って怒るという話を聞いて、自分のことだと思いました。
>相手が作りなおしたものでは我慢できないんだもん (それは自分が苦労して作ったものとは別物だから)。さっき相手が壊した、自分が最初に丁寧に作った、あれを返して欲しい。いまから作ったのでは違う。他人が作ったのなんてほしくない。ないものねだりとわかっていても相手のせいなのだから、なんとかしてほしい。相手にとっては「床にあった折り紙に気づかず踏んでしまった」だけでも、その代償ははかりしれないという感じ。腹が立っていることにも腹が立ち、腹を立てて不愉快な気分になったのをどうしてくれる、ああイライラしたからやり直した分も失敗したじゃないか、ああ八つ当たりで物を投げてしまってへこませた壁の分の責任もとってくれと、とどまるところなく怒りが続く。
くだらない話で申し訳ないですが、他人にアイスを落とされた時に、パニックで拾い食いする事も関係あるのでしょうか? 僕はしました。よりによって卒業パーティーのあとで。しかも、ランドマークタワーの入り口で。色々問題になりました。結局こちらが悪いことになってしまいました。
>ただ、ケインさんがおっしゃるようにこのテの怒り方は他人に受け入れられることはまずなく、しかもそういう考えになっているときは完全に悪循環にはまっているので、コントロール可能なときにはそう思わないようにしてます。(ただし一旦その方向へ走り出してしまうと、たちまち怒りでいっぱいになってしまって、まず自分では止められない。しかもそれが長時間続く。そこが私の問題。)
僕もそうです。半年経った今でも不意に「その時の感情」を思い出すので、いやですね。しかも、弁償してくれるわけでもなく、謝ってくれてるわけでもなく。
向こう曰く、「団体行動乱してアイスクリームを買うから悪い。拾い食いするお前が悪い。つーか、犯罪」だそうで。友達やめたいな。サークルの関係上会うんだけど……。
やっぱ僕が悪いのかな? 拾い食いはやっぱアウト?>ALL
ぷちさん wrote:
>共感力の話をこうもりさんがなさってますけど、よくある
>「非自閉圏の人間は共感力がある」っていうのは、誤解だと
>思います。もちろん共感する力の大きい人もいますが、そう
>じゃない人もたくさんいます。
病気をすると分かりますが、「自分は相手の気持が分かる」と信じこんでいる非自閉の人のほうがタチが悪いことがあります。
たとえばの話、「レトルトのお粥と野菜ジュースと総合ビタミン剤でいい」って言ってんのに、「そんなものじゃ栄養がつかない」とかいってわざわざ雑炊かなんか炊こうとして、よく考えたらご飯がないのでまずご飯から炊こうとして失敗し、ようやくできあがったものがとても食欲をそそるような代物ではなく、「まずい」とか言うと怒って帰ってしまい、台所は散らかし放題で残り物が山できてしまうとか……そういう人っていそうでしょ?
・どうやったら手伝えるのかが分からないときは、相手が具体的な指事をしてくれるまで放っておく。
・自分のやりかたとは違っても、相手の指事通りにする。
・できれば、普段から、なにかあったときのためにお互いが手伝えることをあらかじめ予行練習しておく。
仕事の場合は、「バディ・システム」といって、どっちかが一時的に戦力外になってもお互いがフォローできるような体制をふだんから作っておくことがあります(チームの場合は「減員操法」というのがあります)。だけど、多くの職場だと、こういうふうに仕事がオーバーラップしていると「無駄」に思えるらしく、わざわざバラバラにすることがあります。
マイクロソフト社のビル・ゲイツは、「六人必要な仕事は四人で、四人必要な仕事は二人でやらせることで、組織の効率を上げる」とかいったことを言っています。マイクロソフト社のソフトウェアにバグが多く、しかもなかなか修正されない理由が分かる気がします。ウォークスルーとかレビューとか知らないんだろな。日本では「品質は性能である」というデミング博士流の品質管理技法がある程度普及してたからまだしもよかったんだけど、ここ十五年くらいでボロボロになっちゃった気がします。過労自殺者が増えた理由がわかるような気がします。
(Maria)
こうもり wrote:
>
> 話を発達障害に限定しましょう。発達障害もまた価値判断なしに診断を行
>うことはできません。例として医学的LDを挙げておきましょう。当然の事
>ながら、この例は他の発達障害の例に置き換えても当てはまります。
>
>(例)
>
>・Aくんは10才で一桁のたし算・ひき算ができない(事実)
> ↓
>・通常、同年齢の子供は一桁のたし算・ひき算はできるはずである(価値判
> 断1)
> ↓
>・故にAくんはLDと診断される(価値判断2)
>
> こうして考えていくと、医学的な発達障害の診断はどこまで行っても自然
>主義的誤謬の範疇から抜け出すことはできません。ここで「全ては解釈だか
>ら」と言って相対主義に逃げ込むことは可能です。しかし、それは第三者の
>論理であって当事者の論理ではありません。当事者にとって、医学的な診断
>に基づく所属は本人の人生に大きな影響を与えるからです。現在、この問題
>に葛藤しています。
もう故人となってしまいましたが私が大学で哲学を教わった先生が、ルネッサンス以降の自然科学について次のようなことを述べていました。
「ボールが落ちるよね。物理学ではそれをみてY=0.5gT^2なる法則を見いだしているが、なぜ・どうしてボールが落ちるのかということには、根本的な答を見いだした訳ではない。このように自然科学は、現象を見て・記録して・法則性を見いだすことに終始していて、なぜ・どうしてその現象が発生したのかということは置き去りにされている。」
またドイツの思想家で数々の童話を著しているミヒャエル・エンデは次のように述べています。
「科学者は自分が発見した事物に対して、最後まで責任を負わなくてはならない。そうしなければ地球は人間が暮らしにくい文明の砂漠と化すだろう。」
上の流れは、次のように変革すべきであると私は思います。
A君は10才で一桁の足し算引き算ができない。(事実)
彼はなぜできないのか? (分析1)
障害と言える水準であるか? (診断)
どうすれば出きるようになるのか? (療育・ケア)
彼と同じようなハンディをもった子に
共通の特徴は何か? (分析2)
将来どのようなケアをしていくべきか? (分析3)
ぶちさん、こんにちは
> パートナーも「僕は鈍感だよ。君の心の中にある事を読め
>って言われても、それは無理だよ。だから僕に動いて欲しい
>時には、ハッキリ動いて欲しい内容を伝えて欲しい。これが
>すれ違いをなくす一番の方法だと思う」って言ってます。
> 「言われないと分からない」っていうのは、普通の事だと
>思います(そう思わない人も多いけど)。
良い事おっしゃいますね。僕も鈍感なので、言ってくれなけりゃわかりません(無言の会話とは別の話)。けれども、僕の場合言われても中々動けません。
鈍感以前に怠け者だなぁ……。すみません。あまり意味の無い内容でしたね……。
ケイン wrote:
>あなたが幼い頃に、いじめにあっていたとします。
>そのいじめでの精神的な傷により、あなたが子育てを断念するとします。
>
>そうすると、いじめっ子によって子供の命を間接的に奪われたことになりませんか?
>
>《今の社会では このような考えは受け入れられていませんが、、》
そういう考え方はありだと思います。その場合同時に、「いじめがなくて子育てを断念しなかったとすると、いじめなかった子によって子どもの命が救われた。間接的生命救助。」と言う考え方も成り立つでしょう。
自分の場合で言えば、もう少し短い時間レンジですが、「〜という不当なことをされたゆえに〜となってしまって結局〜となってしまったじゃないか、どーしてくれる!」という怒りは始終沸いてます。
自閉症の子供が、自分の作品を壊されたときに元に戻せと言って怒るという話を聞いて、自分のことだと思いました。
相手が作りなおしたものでは我慢できないんだもん (それは自分が苦労して作ったものとは別物だから)。さっき相手が壊した、自分が最初に丁寧に作った、あれを返して欲しい。いまから作ったのでは違う。他人が作ったのなんてほしくない。ないものねだりとわかっていても相手のせいなのだから、なんとかしてほしい。相手にとっては「床にあった折り紙に気づかず踏んでしまった」だけでも、その代償ははかりしれないという感じ。腹が立っていることにも腹が立ち、腹を立てて不愉快な気分になったのをどうしてくれる、ああイライラしたからやり直した分も失敗したじゃないか、ああ八つ当たりで物を投げてしまってへこませた壁の分の責任もとってくれと、とどまるところなく怒りが続く。
そういえばあの壁をへこませたときは当時の彼が横にいて、びびっていた… 私があいつにふられた責任の一部はあの電車の車掌に…
ただ、ケインさんがおっしゃるようにこのテの怒り方は他人に受け入れられることはまずなく、しかもそういう考えになっているときは完全に悪循環にはまっているので、コントロール可能なときにはそう思わないようにしてます。(ただし一旦その方向へ走り出してしまうと、たちまち怒りでいっぱいになってしまって、まず自分では止められない。しかもそれが長時間続く。そこが私の問題。)
とりあえず5年前のあの車掌のことは今日はなんとかがんばって許してあげることにしよう。ああでもこの葛藤もあいつのせい。きぃっ。
pennpenn58 wrote:
> ところでずっと気になっていたのですが前に武田さんがリタリンを処方してもらったら?といっていたことがありますが言えば処方してくれる薬なのですか?
それはお医者さんに任せるしかありません。現在日本では、まだ「言えば処方してくれる」とか「ADDの症状の改善薬=リタリン」といったことは、極めて慎重でしょう。
これはリタリンというものが、アンフェタミンという神経興奮剤の誘導体であり、依存性が高いという特徴を持っているからです。リタリンはアメリカで子どものADHDの改善薬として広く用いられているのですが、その点を心配してクリントン元大統領の夫人のヒラリーさんを中心として、「子どもに乱用すべきではない!」というキャンペーンが行われたといいます。また「飲んだら自殺したくなった!」と言った人もいます。
ですがかなりの有効な治療成績をあげた薬でもあります。「集中力がついた!」「まるで傷ついた私の脳味噌をおおってくれる絆創膏のようだわ・・」「子どもがちゃんということを聞いてくれるようになった。」という意見もあります。また岐阜県にすんでいるお医者さんは、ピクノジェールというヨーロッパ産の松の木からとれる成分を併用することによって、有効的なリタリンの量を患者さんの体内でコントロールすることに成功したとのことです。
このようにリタリンは「諸刃の刃」と言わざろうえない薬です。私がそういったのは、あくまで「本当に困った場合の最終手段として」ということだと思って下さい。
蝙蝠 wrote:
>わたしが不思議に思うのは、「なぜ
>、人を殺してはならないのか?」という議論が流行した時、ほとんどの論者
>は「人を殺すのは悪である」という価値判断1の結論を導き出せば、問題に
>終止符が打たれたと考えていたことである。善悪の判断と実行するか否かの
>判断は別問題のはずなのに…。
ああそうか。
こういう論理飛躍を見たときの私の反応は「それじゃ説明になってないだろ!」とか「なにいってんだこいつ」くらいのもので、論者が阿呆なのだと思って終わりだったのですが (もちろん自分が阿呆なこともよくあるけどそれは別問題なのでさておく)、そういう「よくある混同」があって、それがベースになっている場合があるのですね。
いままで、そういう視点で「ずさんな論理がなぜこんなにもまかり通る理由」を考えたことがありませんでした。話し手も聞き手も同じように混同してたらそれでお互い納得できちゃうわけか。
(今まで考えていた方向というのは、「実は正しい理由付けなんて誰も必要としてなくて、自分の信じたい事項についてそれらしい関連事項を提示してくれれば、それだけで裏づけが取れた気分になるのだろう」というものです)
今度そういう機会(?)があったら、「自然主義的誤謬」の分を抽出してみます。その誤謬の起こりかたにも興味があるけど、抽出したあと残っている飛躍分がなにかというのも、おもしろ(?)そう。
# "(?)" をつけたのは、単語の選択が間違ってる気がしてる部分。
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