アスペルガーの館の掲示板(旧)
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シンタロウくんへ
コメントが遅れてすみません。今回の件についてわたしからはシンタロウくんに対してあまりコメントしていなかったので、この場を借りてコメントします。
わたしは23才ぐらいまで「誰かを殺して、死刑になろう」と思いながら生きてきました。しかし、教育学的にLDと判断されて、その事を少しは受けいれることができるようになってから、考え方が変わってきました。「他の軽度発達障害者たちの誇りを汚さぬように生きていこう」と考えるようになったのです。
わたしたちの発言や行動は自分自身に対してだけ、責任を負えばいいのではあり
ません。軽度発達障害者全体に対して責任を負わなければならないのです。障害者として生きていくことは、支援を受けるだけでなく、その責任を引き受けていくことでもあります。
それはシンタロウくんが子供の時に受けた苦痛をこの場で語ってはならないという意味ではありません。しかし、忘れないでください。シンタロウくんの発言はLDの一員として、重い価値を持っているということを…。シンタロウくんの一言が
LD全体の評価を高くしたり、低くしたりしてしまうということを…。
そして今回、武田さんの言葉を聞いて踏みとどまったことの敬意を表します。ではまた
武田好史さん wrote:
>>>それはそのとおりだと思う。
>>> そうしなければ彼の自尊心が保障されない。
>>>だからこそ、俺は許しをこうレスを書いた彼に感謝したい。
>>
>>ありがとう!
>>お互い辛いことが多いけど、がんばって生きていこう!
>
>もう一言。
> 不愉快なことをいって本当に申し訳ない。
いえいえ、こちらこそ先陣を切って問題に切りこんだ事の評価がおろそかに
なってしまい、すみません。
武田好史 wrote:
>>それはそのとおりだと思う。
>> そうしなければ彼の自尊心が保障されない。
>>だからこそ、俺は許しをこうレスを書いた彼に感謝したい。
>
>ありがとう!
>お互い辛いことが多いけど、がんばって生きていこう!
もう一言。
不愉快なことをいって本当に申し訳ない。
武田好史 wrote:
>みどり wrote:
>>それからもう一つ、誰かに高圧的にどなられることで思いやりの気持ちが沸いて出たことがありますか?
>>感謝の気持ちをもつのも大事ですけど、それは「感謝の気持ちをもて!」といって持てるものだとは思えません。
>>もてないような状況で単に「もて」と言われても、せいぜい自虐的な自己否定につながるだけで、なにもいいことはありません。
>
> 僕だって大学の先輩から、そういわれたときはへこみました。
>でもそういわれていなかったら、いつまでも思いやりのもてない人間のままでいたことでしょう。
武田好史 wrote:
>> 1点だけ、ケアという問題に言及するならば、「障害者が健常者にケアを求める
>>ために、健常者から被害を受けた人の口封じをすることが許されるのか?」という倫理学的な問題は残されていると思われます。わたしは「何かよいことを実現する
>>ために多少の犠牲はやむを得ない」という考え方は嫌いなのです。第三者から見れば多少の犠牲であっても、犠牲者本人にとっては全く多少ではありませんから。従ってシンタロウくんが健常者から受けた被害についても、本人が適切な表現を行う
>>のであれば、認められるべきだと思うのですが、いかがでしょうか?(実は蝙蝠が
>>言いたかったことはこれであった)
>
>それはそのとおりだと思う。
> そうしなければ彼の自尊心が保障されない。
>だからこそ、俺は許しをこうレスを書いた彼に感謝したい。
ありがとう!
お互い辛いことが多いけど、がんばって生きていこう!
この間コメントをくださったときも、有難う。
それだけです。
えっと今酔っ払いです。
私は悪くないのに。
私ノ車に、ドアをあけて、ぶつけた上司の母親が悪いのに、私が怒ったのは
悪い。年上には、それなにり。。といわれて切れまくっています。
ばかみたい。まざこんおとこ。。色々いったら、、こっちも短気だから切れるぞと
おどかされて、、首だそうです。へ。。ばか・。。としよりばか
pennpenn58さん wrote:
> こんばんは。コウモリさんの投稿に『障害の認定を「今まで曲がりなりにも
>困難や不適応とつきあいながら生きてきたことに対する勲章」と考えている』
>との一文がありました。
あくまで、他人に自慢することはできない勲章ですけどね。にゃはは
> 障害の認定が出たら私もその認定を自分の勲章と思うと思います。結果が出
>なかったら私はまた原因を自分の中に探すことになるとサ
ご自身にとって納得のいく勲章(障害の認定)があることを祈ります。では
武田さんへ
これはリゲルさんにもレスしたことなんですけど…。
みどりさんの再レスを見て確認が取れましたけど、要するにみどりさんやわたしが反論している部分は武田さんのコメントの目的ではなく、コメントの仕方にあるのです。
しかし、どうもリゲルさんや武田さんはコメントの目的を非難されていると誤解しているように思われます。以前から、コメントの目的ばかりを説明されているので…
少なくとも、わたしにとっては武田さん本人が「言い方はまずかった」と認められた時点で、問題は終わっているのです。コメントの目的については全くと言っていいほど、異論がありません。
わたしがややしつこくコメントをしていたのは、わたし自身が結論より根拠や考察過程を重視する議論の進め方をする傾向を持つためです。そのことで不安を与えてしまったのならばお詫びします。
1点だけ、ケアという問題に言及するならば、「障害者が健常者にケアを求める
ために、健常者から被害を受けた人の口封じをすることが許されるのか?」という倫理学的な問題は残されていると思われます。わたしは「何かよいことを実現する
ために多少の犠牲はやむを得ない」という考え方は嫌いなのです。第三者から見れば多少の犠牲であっても、犠牲者本人にとっては全く多少ではありませんから。従ってシンタロウくんが健常者から受けた被害についても、本人が適切な表現を行う
のであれば、認められるべきだと思うのですが、いかがでしょうか?(実は蝙蝠が
言いたかったことはこれであった)
武田好史さん wrote:
> みどりさんのこの発言は、「シンタロウ君を信頼していない」ということ
>になると思います。
私には武田さんの言っていることの意図がよくわかりません。意味はわかるけど。
少なくともあたしは今回の件についてシンタロウくんを信頼する気にはなりません。
シンタロウくんの
>健常者をぶっ殺せ〜♪イェ〜イ♪
『第1次健常者警報』(No.8329、26 Oct 2001)
という発言は、おそらく健常者の視点から発せられた言葉……たとえば、健常者が、「障害者が健常者に対して無意識のうちに抱く憎しみ」を揶揄することで、障害者が健常者に抱く劣等感を指摘し、それを「健常者の障害者に対する優越感」に転化して優越感に浸るとか、そういったことのための言葉では、ないように思われます。
で、いわゆる「健常者」(いい意味ではない、差別者としての健常者)がこの書込みを読んだ場合に彼ら(あるいは彼女ら)がどう判断するかと考えると、やっぱり「やはり自閉症患者は(健常者に対する攻撃性を内在しているという意味で)危険な存在なのだ」とおそらくは考えるわけですね。
イスラム原理主義者の中のさらに一部であるテロリストが行なったアメリカに対するテロが、「イスラム文化に対する自由主義に対する攻撃」とみなされ、イスラム教徒に対する弾圧の正当化に用いられるとしたら、これはイスラム教徒にとって非常に迷惑なことです。それと同様に、シンタロウくんの発言は、自閉症方面の人間を「適切に管理する(これはほとんど「社会の迷惑にならないように隔離する」の同義語です)」ための理由にされかねないという意味で、自閉症方面の人間にとって非常に迷惑な発言です。
で、あたしはそういう「自分が他人に迷惑をかけていることがわからない人間」、あるいは「他人に迷惑をかけるというネガティブな方法によって自己確認を行なおうとする人間」を信頼するほど馬鹿ではなかったりします。
で、 武田好史さんの
> でもこれだけは分かって欲しい。
>どんな障害者も100%健常者から独立して生活できるわけではない。
>障害者と健常者が歩み寄らなければ良いケアの実現はありえない。
『Re: どうして憎いと思うのですか?』(No.8357、28 Oct 2001)
とかいった話は、これとはぜんぜん別のことなのではないかと思うんですよ。
あたしは『Re: ケア?』(No.8374、29 Oct 2001)の中で、
> “care”という言葉は、古代英語「悲しみ、不安」から来た言葉で、いち
>ばん一般的な訳語は「心配」です。で、人は「大丈夫」だと思ったら「心配」
>しないのね。
と書きました。で、武田さんはシンタロウくんは「大丈夫」ではないと思ったのだろうけれど、みどりさんはそれは「心配」の域を越えて「介入」になっちゃってるんじゃないかな?と感じたんじゃないかなぁ、と思うのですね。まあ、あたしは武田さんでもみどりさんでもないから確かなことは言えないのだけど。
あたしは以前、人はなぜ血を流して倒れている人にまで「大丈夫か?」と訊いてしまうのか、けっこう悩んでいました。「血を流して倒れている人間が『大丈夫』なわけがないだろう。なんという馬鹿な質問だろうか」と思っていました。
ただ、「大丈夫」を「心配」と対になる概念だと考えると、この質問も無理なく理解できるということに気がついたのですね。
「大丈夫か?」「大丈夫だ、心配するな。」
というのは、
“May I help you?”“Thank you. But that is not your business.”
ということだったりするわけです。
「大丈夫だ、心配するな。」という答えは、「私は少なくともあなたのケアを必要としていない」を意味します。で、これは必ずしも「私は他者による一切のケアを必要としていない」を意味しません。同時に、「私はあなたのケアを拒絶します」を意味しません(もちろん拒絶したくなる場合が多々あるのは、あたしが『Re: help(care)について』(No.8282、24 Oct 2001)で述べたことでもあります。
だけど、「自分のケアを受けようとしなかった相手が自分以外の人間のケアを受け入れたり求めたりすること」を「侮辱」と受けとる人というのが世の中にはとても多かったりします。で、そういう人が、自分がコントロールしなけらばならないと信じている相手が自分以外の人間からケアを受けることを妨害したりするのですね。
たとえば、友人の炊いた白いお粥を削りたての鰹節と塩の利いた昔風の梅干で食べたいよう、と思っても、母親が「そんなのじゃ栄養足りないから体力がつかない。だいいち鰹節も梅干も塩分が多すぎて身体に悪い」とか言って捨ててしまい、「すっぽん雑炊」とか食べさせられてしまったりするかもしれない。「食欲がないからあっさりしたものが食べたいよう」とか言っても、「すっぽん雑炊がいかに高価で滋養があるか」とかいった話をされて、食べさせてもらえないかもしれない。そうして「病人はおとなしく言うことを聞いていなさい」とかいって、自己決定権を奪われてしまうのですね。
あたしがみどりさんの文章から読み取ったメッセージは、「私の自己決定権を尊重せよ」「ケアの見返りとして自己決定権を手放すことはしたくない」「『障害者であること』を理由に自己決定権を奪われたくはないし、『障害者としてのケアを受けること』と『自己決定権を放棄すること』はまったくの別問題である」といったことなのですね。で、みどりさんが言うセルフ・エスティームというのは、自己決定権に附随する自己責任を引き受けることに、密接にかかわっている、ということだと思います。
違ってたらごめんなさい。
(Maria)
みどり wrote:
>これ、自閉圏の人にはよく起こっているのではないかと思います。子供の頃からそういう目に何度もあうことによって、セルフエスティームがひどく下がったり、その反動でそれこそ健常者全般を憎むようになってしまったりという二次障害が出るのだと思います。私の場合は理論武装身につけることになりました。(あまり役にたってないけど)
>
みどりさんのこの発言は、「シンタロウ君をを信頼していない」ということになると思います。
「分かり合えない・かわいそう」ということから「不正を放置する」のは、よくない考えだと思います。
そうしていたら、いつまでもお互いに相手を認め合うことができないと思います。
私は「健常者を殺せ!」というレスの裏に、シンタロウ君の「誰か俺を止めてくれ!」というSOSが読めたので、彼を叱ったのです。
彼の自尊心を傷つけるのを省みなかったことを、重ね重ねお詫びします。
みどりさんの、その書き込みは、とてもアスペにとっては、頷けて、共感できました。すぱっとしていて気持ちが良かった。上手くわからないけれど、何故かリゲルさんの書き込みノ時期頃から、いきなりみどりさんが、忙しく成ってしまって。。それででもみどりさんは、その短い時間でも、出来るだけ気遣いをして誠実に書いているのが感じられる。と独り言です。ちょっと大変だなって。
みどり wrote:
># AC まじりの自称 AS である私は、「なにもしないほう」を選びすぎる傾向もありますけど
私もそうです。
どんなに志が高くても、方法を間違えたら無意味なばかりか、なにもしないほうがましということもあります。
# AC まじりの自称 AS である私は、「なにもしないほう」を選びすぎる傾向もありますけど
武田好史 wrote:
> しかし、相手が危険な言動をしたら止めるのもケアの一つではないでしょうか?
止めることはいいんです。実際私も、武田さんの言動が危険だと思うのでこうやって止めようとしているわけです。
しかし、「ただ黙らせる」のでは問題が深く潜り、こじれてしまうだけです。通りすがりの他人が「あいつうるさいから黙らせよう」というのと同じになってしまいます。
相手のことを思いやって止めるのであれば、それなりの方法があるはずです。少なくとも、なぜそういう発言が危険なのかという理由くらい説明しなきゃ片手落ちです。
> 私がシンタロウ君に一番伝えたかったのは、「今生きているのは、必ず誰かのおかげである。」ということです。
それも構いません。しかしその相手をなぜ健常者に限定するのでしょうか。逆効果にしかならないと思います。
> それを知ることが、人に対する「思いやり」や「いたわり」の気持ちを作っていくんだと思います。
武田さんが、相手を「そんな発言をするとは思いやりやいたわりがないやつだ」と決めつけていることにも大きな反発を感じます。
それからもう一つ、誰かに高圧的にどなられることで思いやりの気持ちが沸いて出たことがありますか?
感謝の気持ちをもつのも大事ですけど、それは「感謝の気持ちをもて!」といって持てるものだとは思えません。
もてないような状況で単に「もて」と言われても、せいぜい自虐的な自己否定につながるだけで、なにもいいことはありません。
> 健常者も私たちも同じ人間である以上、いつまでも憎みあっていていいことがあるはずがありません。それを教えることも、仲間としての責任だと私は思います。
その目的には賛成ですが、世界を「健常者集団 対 障害者集団」の構図で捉えている限り、周り道ばかりで前進はないと思います。
武田さん自身がそう捉えるのは勝手ですが、「健常者なんていなくなっちゃえばいい」と言っちゃうような状況の若い人に、その構図を強化させるようなこと (しかも上下関係つきで!)、 言わないでください。
こうもり wrote:
> わたしなりに問題を整理すると、みどりさんが武田さんに異を唱えている点
>は発言の目的ではなく表現の仕方にあるように思えます。発言の目的とは武田
>さんがシンタロウくんに伝えようとしたメッセージであり、表現の仕方とはそ
>メッセージを伝えるために用いた表現の手段です。
あ、そうです。もちろん。
私が思うに武田さんの意図は、「そういう発言には問題がある」と「健常者を全部まとめて憎むのは不当だ」の2点だったと思います。
で、これ自体はまったく問題ない、というか、私も基本的には同じようなことを思いました。
しかし、その理由としてあげられたのが「思いやりがない」とか「自分をもっと卑下しろ」というものだったので、これらは見当違いで目的が達せられないばかりか、かえって問題を深くこじらせてしまう、と思いました。
リゲルさんはそこに異論があるのかと思いましたが、… もしかして私が健常者を憎んでいるとか、まとめて憎んでもいいと思っているとか、そんな風に思われてる??
>わたしみたいに「発言の目的には賛成できるが、表現の
>仕方には納得できない」という理由で、異論を唱えてしまう人間もいることで
>すし…。
こうもりさんの反応は私のととても近いものでした。
ついだだから(?)蝙蝠さんのコメントへのコメントも書いちゃいましょう。
憎悪の制御はとても難しそうなのでさておいて、憎悪の表現の方法は、学べるものなら学んでおいた方が自分が損をしないですむだろうと思っています。それに、表現方法によっては自分自身の憎悪感情をなおさら高めてしまうようなものもあるので、こういうのを避けることができたら、精神的にも多少は楽になりそうに思います。
ということで、誰か私にいい憎悪表現の方法を教えてくれ〜。(私の憎悪の対象は健常者全体とかじゃありません。念のため)
みどり wrote:
>こういう状況を思い浮かべてみてください。
>「非自閉人が自閉人のストレートな発言を勝手に拡大解釈して、その結果言った自閉人は、思いもよらなかったことに対して不条理な説教を受ける」
>これ、自閉圏の人にはよく起こっているのではないかと思います。子供の頃からそういう目に何度もあうことによって、セルフエスティームがひどく下がったり、その反動でそれこそ健常者全般を憎むようになってしまったりという二次障害が出るのだと思います。私の場合は理論武装身につけることになりました。(あまり役にたってないけど)
>
>私が読んだところでは今回の武田さんの発言は、この「非自閉人」の「勘違いお説教」にすごく似ていました。正直なところ、どっかの青春小説からコピーしてきたんじゃないかと思ったほどです。
>
確かにそういった誤解を招く発言であったことは認めます。
しかし、相手が危険な言動をしたら止めるのもケアの一つではないでしょうか?
私がシンタロウ君に一番伝えたかったのは、「今生きているのは、必ず誰かのおかげである。」ということです。
それを知ることが、人に対する「思いやり」や「いたわり」の気持ちを作っていくんだと思います。
健常者も私たちも同じ人間である以上、いつまでも憎みあっていていいことがあるはずがありません。それを教えることも、仲間としての責任だと私は思います。
えー、横レスでございます。この横レスの横レスたる所以(ゆえん)は、訊かれもしないのに自分のこと(それも自分のことだけ)を喋る、という点にあります。
あたしは『Re: help(care)について』(No.8282、24 Oct 2001)において、“care”という言葉を表題の一部として使いました。で、あたしはこのカキコにおいて、看病について書いています。
それからしばらくして、武田好史さんが『質問(自閉症の人のケアのゴールはどうあるべきだと思いますか?) 』(No.8317、26 Oct 2001)において、「ケア」という言葉を表題に使っておられます。で、文中にも『僕が最近疑問に思っているのは、みなさんが「自閉症の人のケア」というものに対して、どのような到達点を求めているのかな?ということです。』なんていう言葉が、出てきていたりもするわけです。
で、みどりさんは「ケア」という言葉を『ケア?』(No.8340、27 Oct 2001)において表題に使っていて、文中には
>武田さんが考えるケアというのは、こういう、決めつけと高圧的な態度によって
>相手を矯正しようとするようなものなんでしょうか。
なんていう文章が出てきます。
さて。
“care”という言葉は、古代英語「悲しみ、不安」から来た言葉で、いちばん一般的な訳語は「心配」です。で、人は「大丈夫」だと思ったら「心配」しないのね。
で、「看護(care)」というものが「治療(control)」と違う点は、看護というものは「セルフケアの不足を補うもの」だということであって、相手が日常生活において本来行なうべき「自分で自分をケアすること」を肩代わりすること、あるいは手助けすることでしかない、という点だったりします。日常生活においては「治療」は必要ありません。
そうすると、
患者:セルフ・コントロールが必要かつ十分に行えない人。
障害者:セルフケアが必要かつ十分に行えない人。
程度のことなんじゃないかなー、と思います。あたしは。
“control”という言葉は、古期フランス語の「登録簿に載せる」が語源で、「支配」という意味が一般的だったりします。
ケアされることを欲しているからといって、コントロールされたくはない。これは、当然のこと。
だけど、「ケア」を逸脱して「コントロール」しようとする保護者ヅラした「健常者」は、それこそ掃いて捨てるほどいます。
「ケア」と「コントロール」の境界線を踏み越えないことというのは、重要だと思います。相手をケアすることは親愛の情を示す場合がありますが、相手をコントロールすることは、(それが仮に愛情の発露の結果であるとしても)本来「親愛の情」とは相容れないものと心得るべきものだと思います。
(Maria)
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