アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
みどりさん wrote:
>議論で得られることは、「それは一理あるな」と納得すること。賛同はしなくて
>もいいんです。
>ハタからみたら、相手の意見にいちいち文句を言ったりねじふせようとしてるよ
>うに見えても、それは「その説明ではここのところの筋が通らん、本当はなんか
>違う理由があるんじゃないのか」ということなのです。(そうか、この後半を略
>すから誤解されるのか)
>で、そうこうするうちに、思いも寄らなかった視点からの説明が出てきて、
>「おぉそういうこともあるのか」と目からうろこがおちると、むちゃくちゃ嬉
>しくなっちゃうんですねえ。結果的に賛同しちゃうこともあるし、自説がボロ
>ボロだったことに気づいて大ショックを受けることもあります。(そういう相手
>にはなおさら敬意が強くなる)
あたしは「議論」を三つに分類しています。討論とディベートとディスカッションです。
「討論」は、それぞれが自分の支持する説を掲げてぶつかり合い、どっちが正しいか決めること。説得あるいは交渉はこれに近いけれど、功利的な説得や感情的な説得にもとづく交渉というのもあるから厳密にいうと別物です。
ディベートというのは、純粋に相手を論破する技術を競う「競技」です。相手が白といえば黒、黒といえば白という立場で論陣を張るわけです。古代ギリシャのソフィストたちから続く、長い歴史があります。だけど不毛といえば不毛です。
みどりさんがいう「議論」は、あたしのいう「ディスカッション」に相当します。対話を楽しむことの一部としてディスカッションを行なうこともあれば、問題解決の一部としてディスカッションを行なうこともあります。「相談」というのもディスカッションの一種です。また、ソクラテスの言う「産婆術」もこのディスカッションに含めてもいいと思います。
ディスカッションの価値は、そこに発見の悦びがあるかどうか、だと思います。
なお、相手の発言を誤読したり拡大解釈したりして相手にネガティブな人間像を貼付けて攻撃の対象とし、相手が説明ないし弁明しようとするとさらに誤解・曲解して攻撃がエスカレートする、というタイプの人がいます。こういうタイプの人物を「蛸」といい、こういうタイプの人物に関わってしまうことを「蛸釣った」といいます。「私はそんなことは一言も言っていないでしょう?」って言ってんのに、「いや、そういう意味にとれる」とかいって攻撃してきます。
まあ、中には善良なタイプのおいしい蛸もいますけど。にょーん(触手を伸ばしている)。おいしくハズすというのは、なかなかに痴性と狂養を要求されます。
(Maria)
名加野 wrote:
>
> いえ、間違ってはいません。非論理的です。困った者です。
あれ・・・困んなくっていいんですよ。
文章が、そうであるからといって、本人の頭の中が、そうであるとは限らないんですけど・・・??(言ってる意味が、つながらないかしら?)
> 距離感が掴めない、というか、間違ってる感じはします。
タレイヌには、必ずしも、間違っているとは、思えないんですよ、なぜか。そう、何故だか、どうしてだか、よくわからないんですけど、「天性」と感じるのは、その辺なんですけど、バランス感覚としては、絶妙なものをお持ちなのではないか・・・と。(実際あった事ないのにね、変だねぇ・・・考えてみれば?)
>
>とある先生に「大成功するか、大失敗するか、どっちかだ!」とか言われています……(汗。
この言葉は、現実に会っている「大人」が、名加野さんに、言ったんでしょう?だったら、やはり、なんかあると思うけどな・・・。
>
>http://www.charamil.com/report/assoc.php?id=eiPuWQwt0s2so24556p33o78nq7_82r_5so2no121n0o04s9u
この結果はさておき・・・・・・。
実は、タレイヌのダンナは、しし座、AB。(関係無いけど長男は1979年8月生まれ。)ひぇ〜〜〜!!とか、思った!
(タレイヌ)
るおうさん wrote:
>皆さんマニュアルのコメント有難うございます。欲しいですよね。
マニュアルで問題の回避はできても、解決にはならないでしょう。
むしろ、グローバリゼーションで弱いところへ問題が押し寄せられる傾向に貢献してしまう怖れがあります。壁にぶちあたるたびに、さあ、これから自分は壁を破って成長するんだと、見守る気分がいいと思います。
マニュアルより地図として、E・H・エリクソンの8つの発達段階を頭に入れておくといいかもしれません。第一段階は基本的信頼対基本的不信。希望の強さをここで獲得すれば卒業して次へ。この世の重力の中では、ピラミッド型に発達する必要があって下のほうの段階をおろそかにすると不安定になります。根無しのきのこは風の中で立っていられません。頭の重さだけでは、傍目にも落ち着きません。人間味のなさを自慢に感じてしまうのは、下のほうをとばして曲芸ができるという快感なのではないかと思います。快を求め、不快を避けるのが当然だとすると、破壊の快感のために何がどこまで犠牲になるか知れません。
だから、不快な事件や病気は軌道修正の機会として(社会の軌道の問題だけだったりもしますが)足りなくなっていたのは何かをみつけてください。色々な感情を流してみて問題を消化できる方向を、本当に気持ちのいい、自分が伸びて行ける方を探して欲しいです。 思い切り退行してみても、不足を補うことができればいいでしょうし。人は家族を変え、環境を変えて成長します。ようやく手に入れたものを捨て、新たな段階の目標をつかむのです。
芸術家や研究者など、活躍の場を得られる人はまっすぐに伸びていけるのでしょう。でも、基本的信頼が傷ついていると生命力が
心配です。人はシステムによって守られもするし、拘束で歪められもします。病気には、大地の力との結びつきが何よりの薬だったりします。私が弱っていた頃には、裸足で野道を歩くことが心臓にいのちの力をもらうことでした。人と切れても、自然は拾ってくれましたね、私の場合。自然がシビアになると人も厳しくなって(弱い者いじめがひどくなる)、基本的信頼感覚が弱りやすいのでは。
「外国なら異質なものを排除しないでくれる」という期待は、明白なる差別に何度か遭えばあっさり崩れます。(言葉が通じないおかげで差別に気づかずにすむとか、向こうが異質さに気づかないでくれるということはある)
しかも、文化の違いにより、それまで学習してきた「普通はこうするものらしい」というパターンが崩れてしまうのも苦しいものです。私の場合は、英語がそこそこに理解できるようになってから、かえってアメリカ人、イギリス人と接したときになに考えてるんだかさっぱり理解できないことが増えてきました。(他の国の人にはまだあまり縁がない)
そうとはいっても、異文化体験は、日本の狭い世界での「常識」をうちやぶってくれるという点ではすごく貴重だと思うので、ずっと国内で暮らしてきて悩みがある人は、状況さえ許せば是非一度行ってみることをおすすめします。(一般には仕事があれば時間が、なければ資金が問題になるけど、私はそこをかなり無理してでも行く価値があると思っている)
本当のところは、外国までいかなくても、普段自分がつきあわないような人たちと交流するだけでも異文化体験は十分できるはずなんだけどね。でもそれって実際には「普段付き合わない」には「付き合わない理由」があるので、なかなか実現困難だったりする。
Maria wrote:
> あたしの感覚だと、「親しさ」「親密さ」というものは、それだけではなぁーんの意味もないものなのね。それは単なる結びつきであって、そのことによって伝わるものがなにもなかったら、価値のないものだという気がします。単なる「仲良しごっこ」で終わってしまうと思うんですよ。だから、あたしはみどりさんにとって「議論をふっかける」ことがコミュニケーションの中で重要な位置を占めているということが感覚的によくわかります。
議論は、それなりに敬意をもてる相手とでないとうまくいかないのです。逆に、ある相手と楽しい議論ができたとしたら、それだけでその相手には敬意が沸きます。
私にとっての議論は、相手をねじふせたり、賛同させるようなものではないのです。(そういうのは「説得」とか「交渉」とか呼ぶ、別物です。なお交渉術のひとつとして、「相手には議論をしているように思わせおく」というのもあるのでややこしいのですが)
議論で得られることは、「それは一理あるな」と納得すること。賛同はしなくてもいいんです。
ハタからみたら、相手の意見にいちいち文句を言ったりねじふせようとしてるように見えても、それは「その説明ではここのところの筋が通らん、本当はなんか違う理由があるんじゃないのか」ということなのです。(そうか、この後半を略すから誤解されるのか)
で、そうこうするうちに、思いも寄らなかった視点からの説明が出てきて、「おぉそういうこともあるのか」と目からうろこがおちると、むちゃくちゃ嬉しくなっちゃうんですねえ。結果的に賛同しちゃうこともあるし、自説がボロボロだったことに気づいて大ショックを受けることもあります。(そういう相手にはなおさら敬意が強くなる)
でもまあ普通は「なるほど納得した。そういう立場・視点があることは理解できた。でも私自身の意見はやっぱり違う」というあたりで落ち着きます。
「何を言っても受け入れます」という相手は、同時に「なに言われても自分の意見は絶対変えませんけどね」ということが多く、淋しく思います。
自分の意見の土台を揺るがす覚悟でやらないと、話はつまらない領域 (お天気の話と同じレベル) で止まっちゃうんですね。
お互いに敬意をもち、親しくしている相手と的を射た議論をするのは、子犬が噛み合ってじゃれるのと同じ、この上なく楽しいことなのにね。(学会なんかまさにこういう場よね)
逆に、「議論とはねじふせること」だと思っている相手や、こちらを下に見ている相手、単に頑固な相手と「議論」をしようとしても、それこそ相手の真の目的は議論ではなく説得だったり強要だったりして、「なにを言っても私は聞き流すだけだぞ」という抵抗光線がばりばり飛んできたあげく、「こわい」「うるさい」「しつこい」という評価を受けてしまいます。
(親族の年寄りというのは大抵、この多くにあてはまるので、強敵です)
で、議論が目的ならしなきゃいいだけなんですが、場合によっては、こういう相手を「説得」しなきゃいけないこともあるわけです。
その場合は、議論形式で論理的に納得してもらうのはまず期待できないので、別の方法を探さないといけません。
とりあえず仕事上の場合は「利益誘導方式」(「ほらあなたにとってもこんなにオトク」というやつ)でなんとかしてますが、こういうのって感情的なものには意味がないんですよね。
いい方法があったら知りたい。
そうして「あなたは攻撃的すぎる」と複数のアメリカ人英会話講師から言われてしまう みどり
◎用意するもの:ジョーカーを除いたプレイングカードひと組52枚。
◎成功条件:別に用意した四つの台札の席の上にAを出し、すべてのカードをスート(模様)毎に昇順にスタックする。
◎場札の配置:場札の席は八つ。横一列にカードを表にして八枚並べ、残りのカードは下になるカードが見えるように手前に少しづつづらして並べる。七枚の列が四本、六枚の列が四本できる。なお、台札の席は場札の上(向こう側)に横一列にあると考えるのが一般的なようである。
◎ルール:
・場札の天札がAである場合、台札の空席に移すことができる。
・場札の天札は手に取ることができる。ただし、手札は最大四枚。
・場札の天札または手札は、台札の天札が同じスートで数がひとつ“小さい”場合、そこに移すことができる。
・手札は、場札の天札が同じスートで数がひとつ“大きい”場合、そこに移すことができる。
・場札の天にあるシークエンス(同じスートの降順の並び)は、場札の天札が(そのシークエンスの最大のカードが)同じスートで数がひとつ“大きい”場合、そこにまとめて移すことができる。
・場札の空席には、手札から任意のカードを下ろすことができ、場札の天札あるいはシークエンスを移すこともできる。
◎戦略:Aを台札の空席に移すことと、作業用に場札の空席を確保することを優先すること。シークエンスを伸ばしてしまうと、移動が難しくなる。
◎参考文献:野崎昭弘『トランプ ひとり遊び88選』(朝日選書)
◎課題:いかなる方法によっても成功しない場札の配置というものが存在しそうな気がする。そうした配置であることを確かめるためのプログラムを書くにはどうしたらよいか。そうした配置が現れる確率はどれほどか。
(KILROY)
みどりさん wrote:
>執着から離れようと思っても離れるのができないのとおんなじように、
>いくら考えよう、考えなくちゃ、と思ってもだめ。切り替わるきっかけ
>を探すくらいが限度。
そういう意味でいうと、あたしも「積極的に考える」のは不可能です。
「考える」主体をとりあえず「右脳」とでも呼んでおきましょう。実際にはどうだかわかんないけど、イメージとしてはしっくりくるから。
で、その「右脳」は猟犬、それも紀州犬のような日本古来の猟犬のようなもので、狩りそっちのけで主人に「遊んで」とせがんでいたりとかするし、逆に獲物を追ったまま帰ってこなくて「おーい」ということにもなりかねません。
だから、仕事上の問題なんかだと、分析段階にじっくり時間をかけて、「考える」ことに没入するための準備がけっこう必要になってきます。「考えて」いる間に調べものが必要になったりすると、そこから興味が別のほうに逸れてしまうことがあるわけです。雉子を追っているのに野兎が通りがかったらそっちを追って駆け出してしまったりしたら困ります。で、あたしはこういう「潜水前の深呼吸」みたいな時間もそれほど嫌いではなかったりします。この段階で、「これはダメだ。現状ではとても手に負える問題ではない」と諦めちゃうこともありますしね。で、新しい手法やコンセプトに出会ったときに、「あっ! これはあの問題に使える!」と思いついてそっちを追いかけたりもします。
最近の例だと、「『有限束の数えあげ』と『グルーピング問題』の関連」というのがあります。
たとえば三人の人間がいて、これをいくつかの(1個以上の)グループに分ける方法は、全員が1つのグループを作る場合(1通り)と、一人が別で残りの二人がペアを組む場合(3通り)と、三人がそれぞれ別に行動する場合(1通り)の計五通りあります。で、こうした「n要素集合のグルーピングの場合分け」の数が、どういう訳か「n+2元の有限束の個数」とよく一致するというのに最近気づいちゃったんですね(とはいえ「七元束の個数は五十二個なのか五十三個なのか五十四個なのか」とかいったわりと初歩的なところでつまづいていたりもするのですが)。で、この問題は「日本語の文章の解析における候補の数」「電子回路の複雑さ」「ウィンドウ・システムの高速化」「赤外線スペクトロメータによる化合物の分子構造決定とデータベースの検索」なんかにどうやら応用がききそうだったりするわけです。
まあ、これってけっきょく「群論」になっちゃうのかもしれません。それぞれの要素の「個性」を抜きにして、「違い」と「関係」だけに着目した結果、「関係」のありかたというのはどのようになるのか、といったものなわけですから。
「有限束の数え上げ」問題は、当初「手に負えない問題」でした。理解はできるんだけど、うまくプログラムが書けない。その状態が十年以上も続いていたと思います。
で、これとは別に、何年も前から「グルーピング問題」を、教育心理学の点から考えていました。つまり、「五人の人間が二つのグループに分かれる分かれかたは何通りあるか?」という問題を、人はそれぞれどうやって解くか?ということを考えていたわけです。
で、この「グルーピング問題」を一般化した結果が、なぜか「有限束の数え上げ」問題とn<7の範囲(つまり3・4・5・6の四つの場合でしかないんですが)で一致する、ということに気がついて、「ひょっとしたらこの二つの問題は本質的に同じ問題なんじゃないだろうか?」と考えはじめて見事にハマッてしまいました。
ところがこの問題、今度は大きすぎて手に余っています。「適当な成果をゲットして帰ってくる」ということは、できそうにありません。それでまあ、またちょっと問題を離れようとしているのですが、これが、なかなか難しい。
そういえばしばらく前も音階と和声の関係にハマッてしまい、とりあえず長調(メジャー)に関しては整理がついたものの、短調(マイナー)に関しては手つかず、というのがあったりします。そういう「積み残し」をそのまんまにしておくのはちょっとイヤ。で、そういう「現在ここまでわかっていて、今後こういう形で明らかにされてゆくのではないか?」みたいなことをみんなにわかるように整理して発表し、みんなで考える、というのが「学会」のもともとの姿なのですね。
「マイン・スイーパー」みたいなゲームは、もう数理的に解析しつくされてしまっていて、いまさら掘っても何も出てこないだろう、という意味で興味が湧きません(雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』で取り上げられていたことはありますが)。「カリキュレーション」に関しては、故・島内剛一(しまうち・たかかず)先生が『数学セミナー』誌上で詳細な解析をすでに済ませておられますし、偶然性に左右されるという点であまり好きなゲームではありません。
これに対して「四人の仲間」は、完全情報ゲーム(伏せられたカードが一枚もない一人遊び)であり、解析が完全かつエレガントに行なえない程度に適度に難しく、熟練者にとっては非常に成功率が高いというけっこう嬉しいゲームです。「このゲームをコンピュータに解かせようと思ったら、どうしたらいいだろうか?」みたいなことを考えながらプレイしていると、けっこう負荷がかかってよいです(ルールについてはまた改めて)。
あたしはけっこう問題の選り好みが激しいほうだと思います。だから、あたしにとって「おいしい問題」というのはなかなかに貴重なのですね。で、一人で味わうのもいいんだけど、大きすぎて一人では手に負えない問題に関しては、大勢でワイワイやりながら味わうというのもひとつの手だと思っています。
ですから、その問題について誰かと話しあう、議論する、というのは「考える」ことの入口になりえます。あるいは誰かにわかってもらうことを前提に文章としてまとめる、ということで、その問題に入り込んでゆく、というアプローチもあると思います。
なお、「この問題は本質的につまらない問題だから、解く価値がない」ということを説明しようと思ってその問題を検討したら、じつはとても面白い問題だった、という経験もあたしにはあります。現在またブームになりつつあるステレオグラムがそうでした。ステレオグラムに関する解説書は出版したのですが、絶版になってしまいました。また書こうかなぁ、と思っています。
(Maria)
2000年度の国勢調査によると、15歳未満の子供の人口は、
1847万2499人であるという。
自閉症の有病率は人口1万人あたり20人というのが、世界的に認められた値だということからこの中には、
18472499*20/10000=36944人
の自閉症の子供がいると推定される。
うちIQが70以上の子は半数だといわれているから
36944/2=18472人
とみつもられる。
またASやレット症候群までを考慮した自閉症スペクトラムであれば、有病率は1万人に100人になるというからそれには、
18472499*100/10000=184724人
の子供が該当することになるという。
タレイヌさん、こんにちは。
>そうです。タレイヌにとっては、みんな「偏人」(へんじん・かたよりがある)です。(凄いでしょう!?当然、タレイヌ自身もかなりあると自負!しているの、実は)
なるほど、「偏人」ですか、おもしろいですね。
>自分の姿かたちや、本来の資質みたいなものって、自分だけの力では、どうしようもない事ってたくさんあるように思います。(誰かに何とかしてもらうにも、限度ってあるし)
「資質」……これを認めたくなかったのかもしれません。いつも、「名加野だから」……でテキトーに済まされてきた僕にとって。
>名加野さんは、感情が、とてもよく表面に出てきている気がしています。(逆の意地悪な見方をすれば、非論理的な文章・・・ぁ、怒らないで、パソコン関係だから本当は、そんな事ないんでしょうけど、“偏ったタレイヌ”から見える、名加野さんの仮?姿が、そう見える、というわけです、こうもりさん当たりと比較してるかもなぁ・・・タレイヌ・・)
いえ、間違ってはいません。非論理的です。困った者です。
>人との関係の深さは、(中略)それぞれ本人の持つ、バランス感覚が作用して、微妙なところで、決まる気がします。ですから、考えてやるのは難しい事です。
距離感が掴めない、というか、間違ってる感じはします。
>名加野さんは、たぶん、無意識でいるんだと思いますが、タレイヌには、天性かな・・?って思えたという事です。あくまでもタレイヌには・・ですけどね。
認めたくないですが……天性らしいです。無意識的に心(頭)の声をそのまま発言するタイプのようです。おかげで普通の人は理解不能(苦笑。とある先生に「大成功するか、大失敗するか、どっちかだ!」とか言われています……(汗。
総合判断しますと……
http://www.charamil.com/report/assoc.php?id=eiPuWQwt0s2so24556p33o78nq7_82r_5so2no121n0o04s9u
ここで、一応前に皆さんもやったと思われる、性格判断のページ作りましたので、よかったら「名加野」と言う人物がどういうものかの判断にして下さい。アホ丸出しですが……(苦笑
tuduさん wrote:
>有名人の中で誰がASだと思いますか。
>このことについて議論しましょう。
ノンフィクション作家の最相葉月さん(有名人ではないと思いますけど……)
最相さんは、雑誌のインタビューで「私は不器用だ。要領が悪い。したがって
同時に二つ以上のことは出来ない。そのかわり、一つのテーマが決まるとほか
に何も手につかないほどの集中力で没頭するのである。」と述べてあります。
それに、「ひとつのことをこれでもかというくらい、つきつめて調べまくるの
はなぜか」、と毎度きまって訊ねられるらしい。
う〜ん! ASっぽいと思うんだけどなー。
あと、鬼束ちひろさんあたりも。
なんとなく雰囲気が独特で、自分の世界を持っているって感じかな?!
歌詞の内容もASっぽいと思うんだけど。
tudu wrote:
>有名人の中で誰がASだと思いますか。
>このことについて議論しましょう。
ASっぽい有名人たくさんいるような気がします。
私がASかなと感じたのは梅宮アンナとダウンタウンの松ちゃんです。
出版した本を読んでそう感じました。
tuduさん wrote:
>有名人の中で誰がASだと思いますか。
西村知美が「そのケあり」のように思います。
というのは、数年前わしが母親に「西村知美って、あんたに似てるとこがあるね。」と言われたからなのです。
「自分独自の感覚で話をする」ところが似ているそうです。
確かに彼女の喋りをTVで聞いていると、なるほどそうだな、と思うことがしばしばあります。
凡人には考えもつかない比喩表現、マンガ・アニメに夢中でキャラに没頭するハート、他人からの質問に対する主旨をはずれたコメント(いっときますけど、非難しているんじゃーないんですよ。わしはむしろ彼女に好感を持っています)、そのあたりがASっぽいかな、と感じます。
でも、一部のタレントたち(特に明石家さんま)は、そんな彼女の特徴を否定的にとらえ、バカにしているように思えます(本当は好感を持っているが、演出上そうしているのかもしれない)。
関係ないですが、西村知美の誕生日、偶然わしと同じ(12月17日)でした。
やっぱり何かつながっているところがあるのでしょうかねー。
20代も4/5を過ぎようとしている ミッドランド
Maria wrote:
> このところ流されっぱなしでいいところなしのMariaでございます。へにょへにょ。
しばらく投稿がなくて淋しかったわ。
>みどりさんwrote:
>>「考えようと思って考える」ことができる能力って、なにか特別なものなんで
>>しょうかね? 普通の人はできるのかなあ。
> あたしが思うに、「できる/できない」の次元ではなく、「好き/嫌い」の次元なんじゃないでしょうか。考えることが好きなひとというのは、ごく限られているような気はします。
あーちょっとずれちゃったな。私の疑問は「考える能力」ではなく、「意図的に思考を開始する能力」、なのです。
意図せずに考えてしまう、というのは私もできるんだけど、考えようと思って考えるのってできない。
執着から離れようと思っても離れるのができないのとおんなじように、いくら考えよう、考えなくちゃ、と思ってもだめ。切り替わるきっかけを探すくらいが限度。
パズルは大好き。でもパズルを目の前にしたときは、それを考えようとして考えるんじゃなくて、もう見えない力で考えさせられているような状態なのよね。(その感じが気持ちいいのかも。)
あとは、私はアイドリングとかショート防止とか呼んでます。頭が回転モードになっているのに負荷が軽すぎると、頭がおかしくなりそうな気がすることがあるのね。適当な難易度のパズルはちょうどいい負荷になってくれます。
ただ、簡単すぎるのはだめで、私もマインスイーパには散々はまったんだけど、ある程度慣れてくると、頭の回転は上げるのに負荷が軽すぎて、かえってショートしてしまってもうボロボロって感じになってしまうので (本当に熱が出ちゃったり)、最近は避けてます。(アンインストールした)
難しすぎると、それはそれで全身疲れちゃってもうぐったりするしね。(次の日会社に行けなかったりして。でもさすがに理由として「昨日変なパズルにはまっちゃって」とはちと言えない)
理解できた部分については概ね賛成なんですが。(いやでも私は渋いお茶より発酵度が高くてほんのり甘いのが好きだけど)
Maria wrote:
> そんなわけで、人間関係に疲れたひとは、自分を掘ることをおすすめします。金と違って知性や教養はいくら使っても減らないし、使えば使うほど自分を豊かにします。
普段はいいんですけど、うつ状態がひどいときだけは、あまり積極的に掘るのはおすすめしません。
ま、うつのときは放っておいてもついつい掘っちゃうもんなんですけど、判断力に負のバイアスがかかっているので、危険です。
> ……ああ、また長くなってしまった。あたしはみどりさんの文章が好きだから、「長い」というより「もっと読みたいからもっと書いてほしい」と思ってるんですけどね。やっぱり身に堪(こた)えてしまいます。
あら、どうもありがとう &堪えさせちゃって (?) ごめんなさい。(実は「堪える」の意味するところはわかってませんが)
このところ流されっぱなしでいいところなしのMariaでございます。へにょへにょ。
みどりさんwrote:
>「考えようと思って考える」ことができる能力って、なにか特別なものなんで
>しょうかね? 普通の人はできるのかなあ。
あたしが思うに、「できる/できない」の次元ではなく、「好き/嫌い」の次元なんじゃないでしょうか。考えることが好きなひとというのは、ごく限られているような気はします。
「クイズ」は好きだけど「パズル」は嫌い、という人は多そうに思います。推理小説(ミステリー)が好きな人は多そうだけど、そういう人のほとんどは推理小説を「パズル」としてではなく、「クイズ」として楽しんでいそうに思うんですよ。だから、「答えを当てる」ことに興味があるのであって、「謎(ミステリー)」そのものに対する興味というのはあんまりない。「解答」でいうと、「答」が合っているかどうかには興味があるけれど、「解」の部分には興味がなさそうに思います。あたしはそこんとこが面白いと思うんだけどなぁ。
アルゴリズム開発という仕事がら、三ヶ月くらいモヤモヤを抱えこんでいたりする経験もしていたりします。だから、三日くらい考えてからがようやく本番、という感じだったりもするわけです。だけど、「普通の人」は十五分ももたないんですね。それに、「答え」が出そうにない問題を考えるということもしません。
こういう、ひとつの問題をぐるぐるぐるぐるずーっと(理性的に)考えている状態を、「悩む」でなく「脳む」と表現した先生がいます。カラダで考えているのですね。脳の一部がコンピュータと化してしまったような感覚、というのがあるわけです。
「マイン・スイーパー」や「カリキュレーション」や「四人の仲間」(あたしはこれが一番好き)にハマった人ならわかってもらえると思うんだけど、「考えることの快感」というのがあると思うんです。それが身についているかいないかの差なんじゃないのかな?
(Maria)
pennpenn58さん wrote:
>もっと素朴に人の気持ちを大事にするところならもっと楽にいきられるのでは
>ないかと思うのです。日本でもネイティブと言われる人たちの本が出ています
>が、読んでいると私もこういう生き方ならできると思うのです。アメリカイン
>ディアンとかアボリジニの人とかエスキモーの人たち。文明世界に汚染された
>私にはもう無理でしょうか。
「素朴」であるということは対人関係に関する技術が未熟であるということにも通じるわけで、「心ない仕打ち」に結びつくこともずいぶん多かったりします。そうした対人関係の軋轢の中で磨かれた「優しさ」を、「素朴さ」とイコールであるように思い込むのは危険です。閉鎖的なムラ社会のいやらしさというのは、知っている人は知っているけどこれは本当に激烈なものです。横溝正史の小説じゃないけど、悪いほうに出ると血みどろの殺人事件に結びつきかねません。そういう田舎の閉鎖性が厭で都会に出てきたひとというのもいっぱいいるしね。
権威性だとか利害関係だとかいったことを抜きにした集まりにおいては、「楽に過ごすことのできる文化圏」を形づくることはそんなに難しくありません。ただ、これって第三者から見るととても「白々しい」世界のようにも見えてしまったりします。いわゆるボーダーライン性格の人には人間関係というのはもっとドロドロした濃密なもので、そうした世界を「嘘臭いもの」としてぶち壊したり踏みにじってやりたくなったりもするわけです。だから、権力闘争のような対人関係のゲーム(心理学の中の交流分析という分野でいうところの用語としての「ゲーム」)を持ちこまない、というルールはどうしても必要になってきます。
で、具体的にそういう文化圏というのはどこにあったかというと、江戸時代の私塾や道場、それに「講」と呼ばれた一種のサロンがそうでした。また、近くには「科学者の楽園」と呼ばれた理化学研究所があります。もっと近いところだと、思想家でもあり「日本野鳥の会」を作った中西悟堂や「棲み分け理論」で有名な生態学者・今西錦司らを中心とした京大学派がありますし、「梁山泊」と呼ばれた数学者・遠山啓らのグループもあります。遠山先生の『無限と連続』(岩波新書)からは新数学者集団(SSS)も生まれています。
あたしが思うに、明確な目的意識を持った人間というのは、こうしたグループを形成しやすいように思います。で、その「目的」としてもっともふさわしいのは、けっきょく「学ぶ」ことだと思うんですよ。「学会」と日本語で言ってしまうと「なんだかなぁ……」みたいな感じになってしまいますけれど、「ソサエティ」というと「そうかもしれない」と思います。
あさかぜさんやタレイヌさんやsyakuさんは、わりと強烈な知的好奇心の持ち主のようにお見受けします。で、それが人間的な魅力に結びついているように思うのですね。
学会誌の自己紹介欄を見ると、「〜に興味を持っている」とよく書いてあります。自分はいまこういうことに興味を持っているんだよ、という意欲を持ちつづけられるひとというのは、実際つきあってみて不快な人というのをほとんど見かけません。だからあたしは有能な研究開発者であるというだけで、そのひとの人間性を大部分信じてしまいます。
あたしの感覚だと、「親しさ」「親密さ」というものは、それだけではなぁーんの意味もないものなのね。それは単なる結びつきであって、そのことによって伝わるものがなにもなかったら、価値のないものだという気がします。単なる「仲良しごっこ」で終わってしまうと思うんですよ。だから、あたしはみどりさんにとって「議論をふっかける」ことがコミュニケーションの中で重要な位置を占めているということが感覚的によくわかります。
あたしはこのところ、渋いお茶にぐいぐいハマッています。渋味、あるいは収斂性の味覚(アストリンジェンシー)が「おいしい」と感じるというのは、非常に年寄り臭い話なのですけどね。だけど、確かに「おいしい」。渋い紅茶が嫌いな人もいれば、「渋くなくっちゃ紅茶じゃない」という人もいます。うちのJoshyaさんは高校生の頃から筋金入りの「茶虫(ちゃちゅう。福健語でお茶好きのこと)」でしたが、紅茶や烏龍茶のような醗酵茶に関していえば「渋好み」で、後輩のHASHくんとともに胃が痛くなるようなウヴァ茶を飲んでは「うぐぐぐぐ」とかいって悶えていました。だから、若いから苦いのが嫌いというわけでもなさそうなのですね。経験によって嗜好がそっちの方へ向かう、ということのようです。で、現代では「渋味」を排除する傾向があるので嗜好が育たない。その意味で現代は渋好みにとっては受難の時代です。だけど、「渋茶を啜る」のが断固として好き、というのが現役女子中学生の中にもいたりするのだな。で、こうした「渋味」嗜好に関する研究というのはほとんど未知の領域なのですね。だからこそ「渋味」を売りにした食品というのは登場しません。だったら渋好みが結集して「日本渋味学会」を結成して渋味研究に邁進してしまったっていいわけです。
そういえばトレヴェニアンという小説家(クリント・イーストウッド主演で映画化された『アイガー・サンクション』もこの人の作品)には、『渋味』という傑作スパイ小説もあります。で、この小説の主人公である世界最強のスパイ、ニコライ・ヘルは、日本文化にどっぷり漬かった日本通であり、俗化した日本を離れてバスク地方の寒村で隠遁生活をしていたりします。だけどバスク地方はけっして「素朴な」土地柄ではありません。むしろ、民族主義に裏打ちされたしたたかさがその根底にあり、シラノ・ド・ベルジュラック(実在の人物です。念のため)やフランシスコ・ザビエルといった強烈な個性の持ち主を輩出した土地柄でもあります。おお、テーマに戻ったぞ。ほくほく。
そんなわけで、人間関係に疲れたひとは、自分を掘ることをおすすめします。金と違って知性や教養はいくら使っても減らないし、使えば使うほど自分を豊かにします。他人に「退屈な人間」と決めつけられると媚びたくなっちゃいますけどね、それより自分で自分のことを「つまらない人間」だと思うようになっちゃおしまいだ、と思ってます。
……ああ、また長くなってしまった。あたしはみどりさんの文章が好きだから、「長い」というより「もっと読みたいからもっと書いてほしい」と思ってるんですけどね。やっぱり身に堪(こた)えてしまいます。うーうーうー。そんなわけで、みなさん長くてごめんなさい。
(Maria)
tudu wrote:
>有名人の中で誰がASだと思いますか。
>このことについて議論しましょう。
私は宮沢賢治だとおもいます。
彼は仏教から農学・地質鉱物学・化学・気象学・天文学など幅広い分野の知識を持っていました。なかなかの博学でした。
ASの人は造語を作るのが得意だといいいますが、彼はその典型であったのでしょう。「天気輪の柱」「ミザントロピー」「貝の火」「プレオシスの鎖」「虹の絵の具皿」「ケンタウル祭り」、数々の奥が深い言葉を童話の中にとどめています。
詩もたくさん書いています。私は「雨ニモ負ケズ」が好きです。
彼は博学のわりには、成功していなかった人のほうで、今でいう「貴石屋」を志したものの家族に反対されたり、学校の先生をやっていたのを辞めさせられたり、やはりADDの気もあったのか学生のころ化学の実験をしたあと薬品のビンのふたを閉め忘れて先生に叱られたこともあったようです。
けどやさしい人であり、農民の子の藁もちを自分の弁当と取り替えたり、メンコとりの最中に馬車に手を引かれて負傷した子の応急処置をしたことが伝えられています。また仏教を信仰するようになってからは、肉食をかたくなに拒み、死の直前に知り合いが生がつくということで、オブラートに包んだ鯉の生き胆を彼に飲ませたとき、それを知った彼は「とんでもないことをしてしまった」と嘆いたといいます。
シンタロウさん wrote:
こんにちわシンタロウサン
> 僕も聞き覚えの無い噂をばらまかれた事がよくありました。皆からは白い目で見られて、いじめられてる時周りで見ている人は誰も助けてくれなくて、そのおかげで人を信用できなくなって、人を疑いの目で見たり、非常に警戒心が強くなってしまいました。
私も、、信用しすぎたり、アンバランスになってしまったり、わけがわからなくなります。
> 日本人は古くから異質なものを排除する性質があるからしょうがないと思う・・・・・・(あ〜ぁ、日本から抜け出してもっと広い世界へ行きたいな〜)
だからなんだ。。今わかりました。
いつも、変な目でみられたり、排除されるのは。。
皆さんマニュアルのコメント有難うございます。欲しいですよね。
tudu wrote:
>有名人の中で誰がASだと思いますか。
>このことについて議論しましょう。
う〜ん・・・・・・・山口もえAS(?)っぽい。あと、釈由美子も・・・・
この二人、喋り方がどこか普通じゃない気がする・・・・・・・・・
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