アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
こうもり wrote:
> 最近、後知恵で思いついてしまうことが多すぎる…
>
自分の思考を検証し発展させていくことは、哲学を形作る重要な作業の一つだと思います。
何故なら哲学というものは、過去の思想をよりどころにして、自ら編み出していくものだからです。
日本の地球科学者に信奉者が多いヘーゲルは、「法則は変化するものである。」
と説いています。 変化させる主役はもちろん私たち人間にほかなりません。
私たちは見聞きするもの特性にいろいろな価値観を抱き、それらの合理・不合理をつき合わせて、新たな思想なり・法則なり・理論を打ち立てられる、今のところ宇宙で唯一の生命体なのです。
その営み全てが哲学なんだと私は思います。
わしの18年と6ヶ月の長きにわたる学校生活(義務教育9年、高校で1年、予備校で2年、大学で4年、そして技工士学校で2年6ヶ月)のなかで、わしはあまり「尊敬に値する教師」にめぐり合えませんでした。いつも、どこででもわしは「かわったヤツ」「要注意人物」の扱いだったからでした。
そんななか、わしが唯一「恩師」と思える人がいます。
技工士学校時代の教務主任(当時)の先生です。
その先生は、技工士学校入学のときからわしに厳しく、かつ暖かく指導してくださり、就労への不安から就職で悩んでいたときも、いつでも快く相談に乗ってくださいました。
で、わしは結局2年の本科を終え卒業し、国家試験に合格して資格をとった後も「卒後研修」という形で学校に残りました。
その5ヶ月目ぐらいのとき、わしは先生に
「個人的な相談があるのですが、聞いてもらえますか。」
と言いました。わしがASの傾向があることを話したかったのです。先生は快く承諾してくれました。家族以外の人にわしの複雑な事情を話すのはこれが初めてでした。
わしは本科で先生から
「君には社会性が欠けている。」「協調性がなく、周囲にあわせようとしない。」
としばしば言われていました。先生にASのことを話して、なんとか少しでもわしの事情を理解してもらいたい、そんな思いがあったのでした。
わしと先生は別室でふたりだけで話をしました。わしが自分の事情について話すと、先生は
「すまないが、その分野については私は全く関与できない。申し訳ない。だが、君はまだ自己診断しているに過ぎないんだろう。やはり病院で正確な診断を受けたほうがよいのではないか。まあでも、そういった事情があることはわかった。」
と言いました。少なくともわしの人格を否定することなく、話を聞いてくださったことに、わしは好感を持ちました。
そしてそのあと、先生はわしの母親と電話でわしのことについて話しました(わしはその内容は知りませんが)。あとでわしが母親に聞いたところ、先生はわしのことをとても心配してくださっていたようで「事前にそのことを言ってくれれば、それを踏まえたうえで指導にあたれたのに。」と言った、とのことでした。
だからと言って、具体的にどのような指導をするのか、との疑問はありましたが、わしを気にかけてくれている、というだけで安心できたのでした。
わしは今まで、これだけわしを気にかけてくれる教師に会ったことがなかったのです。
で、先生の言に従い、わしは病院へ行ったのですが……、以前書いたとおり、わしはそこでロクに診察されることなく、失望感に満ち溢れた気持ちとなり、医者不信に陥りました。
しかし幸いその1ヵ月後、念願の就職が決まりました。
欠員の穴埋めという形だったので、1年間の予定の研修を途中でやめることとなりました。ギリギリでわしの事情を言うことができたのはよかったと思っています。
わしは親身になってわしに接してくれた、あのときの先生に、今でも感謝しています。というより、これが当たり前になってほしいのですが。
もちろん今の職場の院長にも感謝している 鷲羽丸
みどり wrote:
>みどり wrote:
>>私が何かすると大抵かえって悪い方に転がるので
>
>これで思い出した。
>私が無意識に他人を傷つけてしまう理由の一つに、自分の言葉の影響力がわかってない、というのがあります。
>「私なんかがなに言ったって、誰も気にかけるはずがない」と思いこんでいるのです。
>
>人の話をきかない家族の末っ子として育って、すごく多弁だけど家族からの反応はまったくないか、適当に聞き流されるか、ハナから馬鹿にされるかという子供でしたから、まあそう思いこんだのも不思議はないなと。
>
人間なら誰でも、一生の中で何百回もそう思うことがあると思う。
でもはっきりと意識できることは、ごくまれであると思う。
それが分かったとき、本当に優しい言葉のストロークを相手に返せるんだと、
私は思います。
こうもりさん wrote:
>最近、後知恵で思いついてしまうことが多すぎる…
こうもりさんはナーバスになっていて、発想がネガティヴになっているのではないかにゃ?
あたしは「書く」「発表する」「ディスカッションする」といった表現活動自体も問題解決のプロセスの一部だと考えています。ですから、掲示板にアップすることで、「書いたもの」から「書かれたもの(発表されたもの)」になった時点で、その内容に向かい合う意識のありようが切り替わるので、それまで見えなかったものが見えてきた、ということなのだと思うのですよ。それを「後知恵」とマイナスに評価するのはいかがなものかにゃ? 「発見があった」というのはいいことだと思うんだけど。
慣れてくると、「ひとりディスカッション」ということができるようになり、さらに、そのときに意図的に「肯定的な立場からの視点」「否定的な立場からの視点」を使いわけることができるようになます。で、その経緯を第三者の視点で読み返してみることで、また新たな発見があったりもします。
「思いついてしまうことが多すぎる」というのは、さっぱり思いつかない人にとっては、かなりうらやましいことだと思うのですが。
(Maria)
最近、後知恵で思いついてしまうことが多すぎる…
こうもり wrote:
>みどりさん wrote:
>>反省については、反省自体はしてくれた方がいいんですけど、裁判での扱いに
>>はいつも疑問があって、「計画的な犯行ではなく反省している」みたいな情状
>>酌量って、どういう根拠から来てるのかなあと。「よく考えもせずやってすぐ
>>反省しちゃえる」ような軽はずみな犯行なら、きっとまた繰り返すと思うんだ
>>けどなあ。
>
> それはわたしも考えていたことです。かつてオウムの裁判でも気になったん
>ですけど、なぜ減刑されることを目的に早々と反省を表明した人が減刑されて
>しまったのか?わたしには「迷いの中にある」ことを正直に表明し、淡々と事
>実を語って第一審で死刑を宣告された被告人の方がよほど誠実に見えました。
つまり、刑罰において反省をした人ほど減刑されるという原理を用いてしま
うと、反省をすることが減刑されるための手段に成り下がってしまう危険性が
あるのです。反省自体は大切なことですが、何か見返りを求めるような性質の
ものではないような気がします。
今回の件でも反省を口にすること自体を自分の過ちに対する免罪符として利
用することがないように気をつけたいと思います。
横レスです。こんばんは。
釈さん wrote:
> 多次元への信頼の絆を持てれば、徐々にでもすべては好転していきます。捨てるべきものと求めるべきものが次第に明瞭になり、利への執着よりも大切な、調和感覚が得られるでしょう。
> ASとかADDとかLDとかは自然からの、人の文化の常識への違和感の表明ではないでしょうか?
↑とても分かりやすくて、同感できる感じがします。
すこしずつエネルギーが戻ってきている状態のわたしは、人もまた自然の中の一部なのだなあ、自然はありがたいなあ、と感じています。
地道な農林水産業に従事する方々に感動することがあります。教わることが多いなあ。人間は死ぬまで学び続けることができるのって、ありがたい。
もうめそめそしていない、あさかぜちゃんからでした。
釈 さんwrote:
>皆さんのお役に少しでも立てれば、大いに私の力になります。
有難うございます。
釈 さん。 色々有難うございます。もしよろしかったらもう1つ知りたいのですが、、お手数でなければ。。。この「多次元への信頼の絆を持てれば」この多次元とは、自然や宇宙のことですか?
実は、人間との関係で信頼感を失ってしまい、そして一般人以外の世界の人からもやはり信頼感を失ってしまい。ずっと身動きが取れなく成ってしまっています。さあ。頑張ろうと思うのですが、どうしても動けなくなってしまいます。本当は好転させて行きたいのですが。自然や宇宙は大好きなのですが。
人間同士の付き合いがないと、この世界ではやっていけないので、なかなか踏み出せないでいます。
もう何年間もそうです。最近自分のまわりで色々な動きもあるのですが、怖くて踏み出せないです。踏み出せばよいと言うことでもないと思いまして。。
> 人間関係に養われるキャラクターよりも深いところで育つ地の感覚が確かなら、どんな人やどんな事態にも適切に対応できるでしょう。
そうなりたいです。人間関係に養われるキャラクターではないものが好きです。
人間関係でつぶされそうに成りますが、地の感覚という自然との結びつきがあれば、超越できるということなんでしょうか?
以下のように人間関係に養われた恐れや色々持っていますが、、
だから色々な人に適切に対応できないのかもしれないです。事態にも。
深いところでは、自然と結びついていると思うのですが。
人間関係だけに意識が狭まった先程例を書かれていらっしゃった、エネルギーの奪い合いゴミを押しつけるような人がとても苦手です。。嫌いです。でもそういう一番性質の悪い人達のご機嫌をとらないといけないという、試練を今与えられています。兆度、最近、自分のことをやるべき仕事をしなければ行けないと思っていた矢先に、別な仕事の方から他のお客サンから苦情が来ているから様子をみて今後を決めるといわれました。以前仕事を中心となっていたその社長さんの母親が悪口のようなことを言っているのも事実で、地の感覚を持っているような良い人達からは、私は気に入られているようですが。。そう言う人は悪口も噂も言わないので、不利になっています。
>「人間関係だけに意識が狭まると、イジメとかの病的な現象に負けてしまう。加害者か被害者かというより、感情に巻き込まれて柄目だけになり、地の感覚をなくしていくのが恐いです。」
最初はいじめや色々その他の概念をもっていなかったので、イジメにあっていることやひどい目にあっているという意識がありませんでしたが、だんだん物心ついてからそれがわかってきてから、どんどん辛くなってきたのは、地の感覚というのを無くしてしまったということなのでしょうか。以前は、自然の中に身を置き人間にいじめられた感覚を元に戻したことがありましたが。
>人間は性急に快を求めて、
合理性で繊細さを押しつぶしています。複雑さの認知を捨てて、整理のしやすさを美と見なす傾向がひどいです。次元を減らすことでゲームに勝とうとしているようです。多次元への信頼の絆を持てれば、徐々にでもすべては好転していきます。捨てるべきものと求めるべきものが次第に明瞭になり、利への執着よりも大切な、調和感覚が得られるでしょう。
「捨てるべきものと求めるべきものが次第に明瞭になり、利への執着よりも大切な、調和感覚が得られるでしょう。 」
捨てるべきものとは、実際の物の話しではないのですよね。自分の中にある人間関係に養われたキャラクターのことでしょうか。
「調和感覚。」は人と交流している時にそして自然から得られたことはあるのですが。満足感のようなものですが。これが調和感覚なのかどうかわかりませんがそうなんでしょうか?
> ASとかADDとかLDとかは自然からの、人の文化の常識への違和感の表明ではないでしょうか?
この中でも、人の文化の常識が様々であることを思い知らされた経験があります。
るおうさん wrote:
>大切なことを色々有難うございました。励まされました。
皆さんのお役に少しでも立てれば、大いに私の力になります。
><基本的信頼感覚が弱りやすいのでは。
>主語は。これは人間同士の信頼感覚ということですか?
人間同士のという問題以前に、いのちが存在する根拠としての環境への感覚です。人間関係だけに意識が狭まると、イジメとかの病的な現象に負けてしまう。加害者か被害者かというより、感情に巻き込まれて柄目だけになり、地の感覚をなくしていくのが恐いです。
地の感覚は、人間関係によって強くなるだろうと思いますが、普通のひとには認識できない領域から、枠組みを得るように思います。人間関係だけに閉じ込められるから、エネルギーの奪い合い、ゴミの押し付け合いで悲惨になる。
人間関係に養われるキャラクターよりも深いところで育つ地の感覚が確かなら、どんな人やどんな事態にも適切に対応できるでしょう。人間は性急に快を求めて、
合理性で繊細さを押しつぶしています。複雑さの認知を捨てて、整理のしやすさを美と見なす傾向がひどいです。次元を減らすことでゲームに勝とうとしているようです。多次元への信頼の絆を持てれば、徐々にでもすべては好転していきます。捨てるべきものと求めるべきものが次第に明瞭になり、利への執着よりも大切な、調和感覚が得られるでしょう。
ASとかADDとかLDとかは自然からの、人の文化の常識への違和感の表明ではないでしょうか?
武田好史 wrote:
以下のULRは、東海大学放射線診療センターが作成した、最近ADHDの診断で注目されている「脳SPECT検査」をはじめとする、「核医学検査」を受ける患者さんのためのガイドブックです。
http://trhome.med.u-tokai.ac.jp/contents/kaku/INDEXHTM
タレイヌさん,みどりさんへ
どうも祝辞をありがとうございます。
(タレイヌさんへ)
わたし自身の自己イメージは「自閉的境界人」だったので、この診断には
十分すぎるほど納得しています。
(みどりさんへ)
「とにかく長かった…」という気持ちと「やっと故郷(原点)に帰ってこ
れたのだ」という気持ちが入り混じっています。
(みなさんへ)
様々な叱咤激励やアドバイスをしてくださりありがとうございました。ま
た、検査の前後に気が立ってしまい、ご迷惑をおかけしたことをお詫び申し
あげます。
ぶちさん wrote:
> それにこうもりさんの書かれている、「過去に与えた被害を元の状態に復す
>ること」が、相手に対して何をすることなのか、ちょっとピンと来ないんです。
>過去に起きた事で、たくさんの事がその問題から発生してしまったであろうし
>「元の状態に復する事」なんてありえるのかな。物なら替わりの物を持って来
>たり出来るけど。
この償いの難しさこそが、レヴィナスの語りたかったことだと理解していま
す。ほとんどの場合、「元の状態に復する」という形で過去の償いを行うこと
は困難なのです。
見方を変えれば、レヴィナスの説は「過ちをおこしてもそのことを悔い、反
省することによって、神(社会と置き換えても話はつながる)の赦しを得るこ
とができる」という考え方に対する批判でもあります。これを言い出すと近代
刑罰は成り立たなくなってしまうんですけど。
> 贖罪という私の書き方が悪かったです。自分がおかした罪って、本当は消え
>ないのかもしれません。やってしまった過ちについて精一杯考えて、それを良
>い方向に生かしていくだけだと、私は言いたかったんです。
これが今のわたしにできる未来への償いだということになるでしょうね。
加害者としての過去も引き受けながら、実践していきたいと思います。ども
どもです。
みどりさん wrote:
>実際のところ、これが可能なケースはあまりない (特に内容が深刻なものは)
>と思うのですよね。
そう。例えば婦女暴行を受けた被害女性が加害男性から「一生賭けて償いを
したい。」と申し出られても、「それ以前に近づかないでほしい」という気持
ちの方が先行すると思います。
>被害者が加害者を許せるようになるような行動を取るってのがせいぜいかなあ
>と。
以前コメントした哲学者レヴィナスの説というのは、まさにこの償いの難し
さを語っているんです。
>話が少しずれますが、私がいつも疑問におもうのは、誰かの家族を殺したと
>して、その家族に補償するってのはどういう根拠によるのかなあと。
そして、レヴィナスは「償いは生きている者同士の間でしか成立しない。死
者は元の状態に復する(生き返す)ことができないから」と述べたのです。
だから、死んだ被害者の家族に補償するというのはレヴィナス的な観点から
言えば、全く償いにはなっていないことになるでしょう。家族以外の者に補償
する場合も同様です。特に殺人とかになると、元の状態に復することは絶望的
に不可能になりますから。
>この二つを、時間的なものととらえてもいいんですが、私は対象の違いと考え
>た方がわかりやすいかとも思います。
ええ、対象の違いと見てもいいですよ。つまり
(1)過去への償い→被害者本人に対する償い
(2)未来への償い→これから出会うことになる不特定多数の人に対する償い
という意味です。で、よく話題になるのは、現在欧米や日本で優勢になってい
る教育刑は、未来への償いが重視され過去(被害者に対する)への償いという
観点が欠けているという批判です。ちょっと前に話題になった被害者立法とか
「犯罪者に重罰を!」という主張もこの流れの中から発生しました。
>ま、自分のことはさておいて、社会的にまずいことをしたのなら、第一の被
>害者は社会全般なわけで、償いも社会全般に対しておこなうことが可能です。
>犯罪被害者の救済や、被害の未然防止に役立つ行動がこれにあたるかなと。
>社会的にはそれで許されていいんじゃないかと思います。
社会とか世間というのはわたしには実体がつかめず、把握がしがたい存在
です。でも、少なくとも未来に対する償いの方はそれで十分なんだと思いま
す。
>反省については、反省自体はしてくれた方がいいんですけど、裁判での扱いに
>はいつも疑問があって、「計画的な犯行ではなく反省している」みたいな情状
>酌量って、どういう根拠から来てるのかなあと。「よく考えもせずやってすぐ
>反省しちゃえる」ような軽はずみな犯行なら、きっとまた繰り返すと思うんだ
>けどなあ。
それはわたしも考えていたことです。かつてオウムの裁判でも気になったん
ですけど、なぜ減刑されることを目的に早々と反省を表明した人が減刑されて
しまったのか?わたしには「迷いの中にある」ことを正直に表明し、淡々と事
実を語って第一審で死刑を宣告された被告人の方がよほど誠実に見えました。
なんか頭がこんがらがっているので、なぜかレスを2つにわけちゃいました。
それから遅くなりましたが、こうもりさんASの診断をもらったそうで、おめでとうございます。
こうもり wrote:
>> こうもりさんは、ここまで考えて悩んで、自分を責めたわけですから、贖
>>罪はすんでいると思います。次はこの経験を何かに生かせればいいんじゃな
>>いですか?
>
> 哲学者のレヴィナスは言いました。「償いは過去に与えた被害を元の状態に
>復することができる場合のみ、成立する」と。殺人とかのように元の状態に復
>することのできない(死者は蘇ってこない)罪ならともかく、相手が生きてい
>る状態ならば、かろうじて償いは成り立つと思います。
みどりさんがちょっと書かれているようですが、相手に会って謝罪する機会があったとしても、それは相手が望んでいる事かどうか分からないと思います。その人が自分の辛かった過去と向き合って、乗り越えて行く事を望んでいるなら、こうもりさんが現れて昔の事を謝るというのはいいかもしれません。もちろん相手の人にも、辛い経験を乗り越えてもらわないと、本当の解決とは言えないのかもしれません。でも本当に辛い時には、壊れてしまいそうな時もありますから。相手がその頃の傷をずーっと背負い続けていて、必死にそれを忘れる事でかろうじて自分を守っているような場合には、その頃の話を聞くというのは、辛いだけかもしれません。謝るというのは、こうもりさんの気持ちには有効なのは確かですが、その誠意が相手にとっても良い方向に働くかどうかは、私にはわかりません。
それにこうもりさんの書かれている、「過去に与えた被害を元の状態に復すること」が、相手に対して何をすることなのか、ちょっとピンと来ないんです。過去に起きた事で、たくさんの事がその問題から発生してしまったであろうし、「元の状態に復する事」なんてありえるのかな。物なら替わりの物を持って来たり出来るけど。
贖罪という私の書き方が悪かったです。自分がおかした罪って、本当は消えないのかもしれません。やってしまった過ちについて精一杯考えて、それを良い方向に生かしていくだけだと、私は言いたかったんです。相手が謝罪を望んでいるなら、それをすれば良いし・・・でもしてしまった事にとらわれて、身動きが取れなくなるのは、二重に良くない(相手にも良くないことをした上に、自分にも良くない)ような気がして、ああいう書き方をしてしまいました。ごめんなさい。
自分は困った事があっても、改善してもらえば基本的には納得、安心してしまう単純な人間なんで(しかもずーずーしく改善要求したりする)、人間の深い問題は理解出来ないのかなぁ・・・ふぅ・・・反省。
(ぶち)
黒Mariaさん wrote:
> 被害者として加害者を理解することは、それほど難しくないように思いま
>す。それは相手を赦すこととはまた別問題ですから。むしろ問題はその逆で
>す。あたしは被害者ヅラした連中、弱者ヅラした連中に対して、あえて加害
>者あるいは強者として対峙することに決めました。
わたし自身が被害者ヅラ・弱者ヅラをすることにはひどい嫌悪感がありま
す。理由としては
(1)自分が弱者や被害者であることを売り物にして、相手に自分の意見や
主張を押し通そうとするのは卑怯な態度である。
(2)自分が弱者や被害者であるという立場で発言すると、相手を自分と同
じ土俵に立てることができなくなる。スポーツにおいて対戦相手に「
自分は弱いのでハンディーをつけてくれ」と要求しているようなもの
であり、公平さに欠く。
(3)弱者や被害者という立場から発言すること自体にニーチェの言うルサ
ンチマン(怨恨感情)的な要素を感じる。
などが挙げられます。この点、Mariaさんの考え方に賛成します。ただ
他人に対して、弱者や被害者という立場を放棄するように主張することがで
きるかという点には迷いがあります。
自分が取っている立場を他人に強要できるかという点ではよく葛藤が生じ
ます。
(PS)
わたしはこの掲示板でよく軽度発達障害者の一員という立場から発言しま
すが、わたしには障害者は弱者であるという観点が欠けているので、上記の
コメントとは矛盾していません。
ちょっと題を変えてみました(内容が「どうして憎いと思うのですか?」から離れてきているので)。
どうも、こうもりさん、3さん、みなさんこんばんは。ぶちです。
> この連鎖を止めるのが難しいんです。で、わたしがいた小学校ではいじめ
>られっ子同士がお互いをいじめ合うという状態が続いていました。
こうもりさんの言う通り、いじめの連鎖ってあります。上手く引用して来られなかったんですが、3さんの言う通り、同世代の連鎖だけではなく、世代を超えて受け継がれる「ゆがみ」(その一つの現れ方がいじめだったり)もあります。
子供を制御する方法として「腕力」を使う親の子は、友達との揉め事を「腕力」で解決しようとする子が多いような気がします。自分がされて嫌な事を、なぜか他人にするようですね。いじめられたから、いじめてしまう、叩かれているから、叩いてしまう・・・
やっぱり、どこかで止めないと・・・って思います。
そして出来れば、個々の間での問題をそれぞれ解決していかないと。すこしずつでも解決していけば、長い時間はかかるけど、いつか少しはましになるような気がしてます(いじめに限らず、全ての問題について)。
その時から随分たってしまったとしても、自分の非を認めているこうもりさんは、すごいなぁと思ったわけです。こうもりさんの相手の人に対する直接の謝罪はまだなされてなくても、そうこうもりさんが思われた事で、ほんの少しでも、何かが良い方向に動いたような気がするんです。全ては自分の過ちを認めた所から始まるんだし(って私が一番自分の非を認めない人間だったりして・・・)。
> 日本でも逆の問題が発生したりします。
本題に関係ないんですが・・・娘のいじめ問題の相手は、こっちに来た後のものまで、相手は全部日本人の子です。こんなに日本人の少ない地域に住んでいるのに、なんでまた相手が日本人なんだか・・・
わりと安全な地域に住んでいるので、アメリカの標準っていうのは分からないんですが(危険な地域の子供はどうか?とか知らない)、アメリカの子供は案外単純で、陰湿ないじめはうちの近所の場合、低学年では見かけません。わが道を行っちゃってる子が多いし、特定の子をターゲットにして「ストレス解消」のような子供には、今の所会った事がありません。機嫌の悪い日に、「地雷踏んじゃった」状態でヤツアタリされるくらいでしょうか? 自分に合わない子には、元々関わろうとしないみたい。
高学年や中学、高校になると、ドラッグや暴力も含めた色んな問題があるようですが、今の所はみんなスッキリしてます。
他の地域で暮らす日本人の知人とも話したんですが、小さい頃から「陰湿ないじめ」(反撃しなさそうな子を狙うとか、特定の子を追いまわしてまでする)をするクセがある子は、なぜかみんな日本の子なんですよね・・・どうしてなのかは、わからないんですが・・・単に私達の周りがそうなだけなのかしら?
(ぶち)
Maria wrote:
> あたしは被害者ヅラした連中、弱者ヅラした連中に対して、あえて加害者あるいは強者として対峙することに決めました。
弱者のふりをしている人に対してはそれでいいと思うんですが、本当の弱者と弱者ヅラを区別できるかどうかが問題ですね。
私には残念ながらそれを見抜くだけの力がないので、危険性が少ない行動をとりたいと考えています。
真の弱者を弱者ヅラとみなすことは、弱者ヅラを真の弱者とみなすより遥かに危険なので、それは避けたいです。
武田好史さん wrote:
>みなさんこんにちは。
> 今日はみなさんが就労に関してどのような意識をもっているのか、お尋ねしたいと思います。
>4・その他
今回、保健所の勉強会で、病院でケース ワーカーをされている精神保健福祉士
の方の話を聞いて、生活支援センターなどの施設を利用するのも いいかな、と
思います。支援センターで働いておられる相談員に自分がどの程度、社会性に困
難をもっているかを理解してもらい保護的配慮を受けられる、職場を斡旋して
もらえるよう働きかけてみたらどうかともおもいますが……。
こうもり wrote:
> ちょっと追加です。わたしは償いには2種類があると思います。
>
>(1)過去に対する償い
>
> 過去のおこなった加害について、被害を受けた本人に直接償うこと
実際のところ、これが可能なケースはあまりない (特に内容が深刻なものは) と思うのですよね。
被害を受けた側は、加害者に関与されること自体が新たな被害となるかもしれませんし。
被害者が加害者を許せるようになるような行動を取るってのがせいぜいかなあと。
話が少しずれますが、私がいつも疑問におもうのは、誰かの家族を殺したとして、その家族に補償するってのはどういう根拠によるのかなあと。
本人への補償をしてそれを家族が相続するならまあわかるんですけど、どうもそうではないようです。
悲しみに対するものなら、なぜ家族なのか。家族以上に大切な友人は。籍を入れていなかった恋人は。被害者が抜けたおかげでつぶれちゃった会社は。それらのものをさしおいてなぜ家族だけが優遇(?)されるのか、私にはよくわかりません。
(家族を特別扱いすることに関する疑問はほかにもつきないんですが)
>(2)未来に対する償い
>
> 過去の過ちを反省し、二度と繰り返さないこと
この二つを、時間的なものととらえてもいいんですが、私は対象の違いと考えた方がわかりやすいかとも思います。
「悪」とされているものの多くは、そのものの善悪は別として、「それを悪いことにしておかないと社会的にいろいろまずい」という側面もあるわけです。
(私自身は「そのものの善悪」というのは誰にも決められない、もしくはそもそも存在しない、という立場をとっています。ただし自分が被害を受けたときにはその考えがふっ飛ぶので、ダブルスタンダードになってます。未熟者だ。)
ま、自分のことはさておいて、社会的にまずいことをしたのなら、第一の被害者は社会全般なわけで、償いも社会全般に対しておこなうことが可能です。
犯罪被害者の救済や、被害の未然防止に役立つ行動がこれにあたるかなと。社会的にはそれで許されていいんじゃないかと思います。
で、またも話がずれます。
反省については、反省自体はしてくれた方がいいんですけど、裁判での扱いにはいつも疑問があって、「計画的な犯行ではなく反省している」みたいな情状酌量って、どういう根拠から来てるのかなあと。「よく考えもせずやってすぐ反省しちゃえる」ような軽はずみな犯行なら、きっとまた繰り返すと思うんだけどなあ。
こうもり wrote:
> こうもりです。今日ようやくわたしの医学的な診断が正式に下されました。
>
>「視覚的認知に困難を持つAS」
おめでとうございます。
診断を聞いたときはどうでしたか? ほっとしました?
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