アスペルガーの館の掲示板(旧)

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仏教徒としてのイエス 8698へのコメント
No.8715  Mon, 12 Nov 2001 14:24:05 +0900  shaku [この発言にコメントする]

里辺華 さんwrote:
>わたしは、神ヤハウェを信じます.キリストは神の子供であり、天に於いてみ使いだったが、ヨセフ、マリアという夫婦のもとに人間として生まれ、奇跡と宣教を行った後で、全人類の罪の為に犠牲として死なれたということを信じています。

 里辺華さんって、ユダヤ人なの? 私は、人格神としてのヤハウェはユダヤ人を偏狭にするように思えるんだけど。異教徒殲滅とか、”正常な”ユダヤ人を結集して集団として強くする力がヤハウェなんじゃないの?集団の利のために、個を犠牲にする原理の権化みたいな気がする。
 『ふたりで聖書を』(明窓出版)は救いを求める現代人の、神秘の次元を感じられない渇望を表現していて新解釈の宗教書ですが、なぜなのかラブロマンスって。遠慮してるんだろうな、里辺華 さんみたいな人に。

 私がナザレのイエスを信じるのは、犠牲思想を否定するために、犠牲になったという見方から。民族の、集団のために犠牲を必要とするという旧約の世界から、犠牲は終わりにして愛で世界を救おうよってメッセージをイエスは磔刑であらわした。愛は、エゴの強さを示す為の異物排除の犠牲として死にはしないと。愛の摂理面を示したロゴス。
 ところが、イエスの後のキリスト教は旧約と切れずに、十字軍だのと異教徒狩りにふけってしまう。人間って、止めたほうがいいことをいつまでも繰り返してしまうんですよね。これは多分自分だけで悟らないで、人類の集合的無意識に浸透するまで自分を掘ろうという衝動なのだろうね。だけどもうそろそろイエスの犠牲は目的に達して、犠牲死の要求が収まらなければ。
 犠牲を求めない、多様性尊重の仏道が世界を救うのだ。


Re: 続・聴覚認知障害 8693へのコメント
No.8714  Mon, 12 Nov 2001 12:25:11 +0900  aya [この発言にコメントする]

pennpenn58さん wrote:

> そして改めて自分が聴覚認知障害の可能性のあることを理解しました。Toxさんと同じように私もレジで正しく金額を聞き取れた試しがありません。

 「聴覚認知障害」という言葉はあまり聞いたことがないのですが、
私も似たような問題を抱えています。感音難聴とASで、「聞こえない」と「聞き取れない」との問題が混ざってしまっているようです。

 本題ですが、最近、2日続けてテレビを見るときにヘッドフォンを使いました。
 映画と、健康番組でしたが、映画は話の筋がよくわかり、細かいジョークに笑うこともでき、健康番組は、視覚と聴覚の両方から話が頭にするする入ってくることに感激しました。
 音量を家族が嫌がるぐらい上げなくても、ヘッドフォンだと半分ぐらいの音でちゃんと聞こえるんです。

 今までテレビを見ていても、自分の内部に注意が飛んだりしていたのは、飽きっぽいからだけではなく、音声をちゃんとまとめて頭に入れられなかったからだ、と思いました。ヘッドホンがその役割を代替してくれてるんでしょうね。

 日常生活はヘッドフォンがないので(泣)、あまり改善しないですが、テレビやビデオを楽しめるのは、ずいぶんうれしいです。


ミヒャエル・エンデの問題提起
No.8713  Mon, 12 Nov 2001 12:13:03 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

 最近信仰とか科学ということが、話題なっているので、ちょっとこんなことをお話します。
 
 童話作家で・思想家でもあったドイツのミヒャエル・エンデは、科学が万能ではないことを問題提起するために次のようなことを語っています。

「今ある大脳生理学者が学生に<心というものは、脳の中での電気信号の流れの総和にすぎない>と説いたとする。その中に彼を憎んでいるやつがいて、<じゃー教授をぶっ殺して、その流れを止めれば、単位を落とした俺は救われる>と思っているかもしれない。学者が殺害されれば、彼は自分の思想によって滅びたことになる。このように科学というものは、解釈や使われ方によっては人類に危害を及ぼすものになりかねない。」

私は理性というものは、この災難を防止するためにあるものであり、神とか信仰というものは、その表現形態の一つなのだと思います。


Re: 神を認めるのですか? 8698へのコメント
No.8712  Mon, 12 Nov 2001 10:33:26 +0900  Maria [この発言にコメントする]

里辺華さん wrote:
>わたしは、神ヤハウェを信じます。キリストは神の子供であり、天に於いて
>み使いだったが、ヨセフ、マリアという夫婦のもとに人間として生まれ、
>奇跡と宣教を行った後で、全人類の罪の為に犠牲として死なれたという
>ことを信じています。

 あたしは里辺華さんの信仰を疑う気持は毛頭ございません。そんなわけで、『アスペルガーの館の掲示板』で、里辺華さんが信仰告白をなさる理由がよくわかんなかったりします。

 うちにはイエス先生本人であるJoshyaさんはいるわ(同時に十大佛弟子の一人で「智恵第一」と云われたシャーリプットラさん本人でもあります)、ベタニアのマリア本人であるあたしはいるわで、相当わけわかんないことになっているのですが、べつにあたしはそれを誰かに信じてもらうことを要求することもなければ、それを前提とした対応を他者に迫ることもありません。「妄想」と片付けていただいて結構です。

 日本人にとって『古事記』や『日本書紀』は神話(あるいは民話とか説話とか伝説とか)と歴史がごっちゃになったようなもので、民話的解釈と歴史的解釈の境界がどこにあるかがつねに問題になるようないいかげんな代物です。
 これに対して、キリスト教徒にとって聖書は信仰の基盤であり、「死後三日目にイエス・キリストは蘇られた」というのはあくまで「事実」です(だって『使徒信条』にそう書いてあるし)。だけど、「死んだ人間が生き返る」と主張する人間は、現代社会において、たぶんいかさま師か狂人とみなされます。まして神様が人間と相撲を取ったとかいった話を信じろと言われたら(『創世記』、三十二章二十五節から三十二節)、ちょっとおつきあいを遠慮してほしいと思っちゃいます。

 原理主義者は、「私はそう主張するつもりもないし、それを他者に要求することもありません。だけど、私はそう信じているし、その結果において一般の倫理観を(大きく)逸脱した行動をとって(総じて)健全な社会に対して(はなはだしく)迷惑をかけることはありません」といった態度を「不信仰」に分類するでしょう。彼らにとって、「教理に基づいて社会を改革する」のが「教徒としての義務」なんですから。ですが、あたしは「健全な社会において説得力を持たない理由に基づいて行動しない」という、「消極的不信仰」を「信仰」の側に分類します。で、現代宗教における「信仰」というものは、そういうものだと思っています。この境界線を踏み出してしまったら、それは「狂信」になると思っています。
 まあ、このあたりの境界というのはあまり厳密なものではありません。タイの仏教寺院で日本人観光客がついつい拍手(かしわで)を打ちお賽銭を上げてしまったりとか(だって、そうしたくなる雰囲気なんだもん)、クリスチャン人口が人口比で1%ほどしかいないと云われる日本が聖バレンタインの日やクリスマスに浮かれたりとか、そういうのを狂信と呼ぶかどうかには議論の余地があります。だけど、「赦しがたい不信仰」であり「死に値する罪」とかではないと思うので、あんまり迷惑でなければよろしいんじゃないでしょうか、と思います。あたしは「隣のモスクから夜明け前に聞こえてくるコーランの詠唱がうるさい」とか思っても、そのうちに慣れちゃうくらいの音量だったら「宗教だからしょうがない」と思って我慢します。剣とコーランを持って不信仰税(ジズヤ)を取り立てに来たら警察呼びますが。

 『創世記』あるいは『ヨハネによる福音書』によれば、神はロゴス(摂理/論理/真理)だそうです。イエスはロゴスであるがゆえにキリストなわけです。
 あたしはロゴスに従います。だから、「ロゴスである神」は信じるけれども、お兄さんの祝福を騙しとっちゃうような奴(ヤコブ)を贔屓する神様なんていうのは信じません。あるいは、「あたしにとって事実」であっても、一般の人々にとって事実として受入れがたいことを、事実として主張することは、ロゴスに反すると考えています。「あたしはそう信じている」と表明することは吝(やぶさ)かではありませんが。

 信仰というのは、幽霊みたいなものだと思っています。「私は見た」というのは事実であっても、客観性は持ちえません。そして本来説得力を持ち得ないものです。論理的説得は疑似科学に堕してしまいますし、功利的な説得というのは「信仰」という本来の目的から外れています。感情的説得はロゴスに反します。

 そんなわけで、あたしは信仰に関して「あたしは信じている」という態度は表明しますけれど、あたし以外の誰かがそれを信じることの根拠を示すことはできません。宗教は本来、「信じたいがゆえに信じる」以上のものではないと思います。デカルトのように神の存在を示そうとも思わないし、御利益や罰を理由に勧誘もしないし、情に訴えることもしません。ただ、あたしはロゴスそのものである「天」というものを、研究者としての実感から、自明なものとして受入れています。で、あたしが一流と目する研究者の方々と、「絶対あるよねー」「ねー」と実感を確認しあっています。

 オイラーの公式やマクスウェルの波動方程式に神を見るひとだっています。あたしはそれを宣べ伝えるだけで十分だと思っています。コペルニクスもガリレオもケプラーも、あるいはメンデルも聖職者でした。彼らは信仰の破壊者ではなく、ロゴスの伝道者として評価されるべき人たちだと思っています。

 (Maria)


「LOVE AGAIN 永遠の世界に」
No.8711  Mon, 12 Nov 2001 10:24:57 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

最近僕は、ピアノを弾くと必ずこの曲を弾いている
世の中に向き合おうとしても、どうしても向き合えない自分に腹が立つからだ
決して「繭子」のような可愛い恋人が欲しいというわけではない
だから嵐のように、この曲を弾いている
新しい自分の扉を開けていく力が自分に戻ってくると信じて
いつの日か全てのアスペ人たちに、安らぎが訪れることを願って


Re: 障害についての沈黙の是非 8705へのコメント
No.8710  Mon, 12 Nov 2001 07:57:53 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

蝙蝠(内省型) wrote:
> こんばんわ、武田さん。蝙蝠のなかでも僕がレスするのははじめてだった
>よね。
>
>武田好史さん wrote:
>
> 年齢や発達状況によって3→1→2と変化していくものだと思う。例えば、
>小学校低学年ぐらいまでのAS児を見た保護者や支援者たちは、「この子を
>何とかしてやらなければ」と思うに違いない。この時期は本人が自覚的に行
>動できないために自閉症の特徴が露骨に表れてしまうからね。でも、障害の
>自覚がない分、本人はそれほど自分の障害を苦にしていないはずだ。これが
>武田さんのいう3.の状態かな。
> ところが、AS児たちもいじめに遭ったり、学業につまづいたりしている
>うちに、次第に自分の障害にそれとなく気がついてくる。そしていわゆる二
>次的障害と呼ばれる状態が発生する。そうなってくると、武田さんの言う「
>自分も周りも苦しい」という状態、つまり1.の段階に突入するんだ。なか
>にはこの状態から抜け出せなくなってしまうAS人も多いだろう。
> で、その中でも社会とうまく折り合いをつけていくことができるAS人は
>当然いるだろう。しかし、彼らの折り合いのつけ方は外国人が日本の文化を
>模倣していくようなやり方であるため、完全に同化することはできにくい。
>しかも、そのための努力は時として彼らを疲弊させることになる。しかも、
>その努力は周囲の人には見えにくいため、武田さんのいう2.の状態が発生
>してしまうことになるんだ。
> だから、一口にAS人と言っても、抱えている問題には個人差があるんじ
>ゃないかと思うよ。

 そのとおり。ASの真の問題点を知っているのは、ほかならぬ我々自身である。だから我々は沈黙をしていてはいけない。かつ偽善的や独善的にもなってはいけない。
 それを踏まえたうえで、軽度発達障害児・者のケアに我々の意見が反映されていくように、適度に働きかけていかなくてはならないと思う。


Re: 個性?適性? 8708へのコメント
No.8709  Mon, 12 Nov 2001 02:58:24 +0900  みどり [この発言にコメントする]

>みどりさん wrote:
>>これってなんで私の投稿が引用されたの?  (因果関係が見つからないので、
>>何を読み間違えてるのか気になる)

Maria wrote:
>…あたしの引用は「誤読」の誹(そし)りは免れ得ないと思います。

私が書いた「読み間違えてる」の動作主体はみどりでした。まぎらわしくてごめんなさい。(あーややこし)

で、本題に戻る。
私が「探してみる価値はある」と言ったのは、置き換える言葉ではなく、説明のための言葉です。置き換えちゃったらだめ。「障害じゃなくて個性」みたいな、二者択一のイメージを作ってもダメ。
最初から表裏ありそうな、多面性がありそうなイメージの言葉がいいですね。用法としては、「私は〜〜の障害をもっていて、これは私にとっては○○みたいなものだ」って感じかな。(もちろん最後の部分は選んだ言葉によって変わります)

もうひとつ。
「障害は個性である」という言葉は、障害という言葉にこびりついたマイナスイメージをひきはがして、障害を別の視点から考えさせるのが主な働きだと認識しています。
もちろん当人の自己イメージの問題に作用することもあるでしょうけど、それだけではなく、周囲の、障害者を忌み嫌う人や、そこまでいかなくても特別視せずにいられない人、障害のある子供が生まれて罪悪感にかられている両親なんかに役に立つのかもしれません。
ただ、他人から一方的に言われたら、「人の苦労も知らずに」になりかねないけど。方向性があるなあ。どうしてかなあ。

自分のことを言えば、個性というよりは欠陥と捉えていたので、個性だと思えたらいいだろうなと思いつつ、あまりそうは思えていない。


ときどき自分で自分のことがうるさくてたまらなくなるんだよねえ。少しは黙らんかいっって。
誰かと話してるときも、自分一人で考えてるときも。


Re: 個性?適性? 8706へのコメント
No.8708  Mon, 12 Nov 2001 00:49:27 +0900  Maria [この発言にコメントする]

みどりさん wrote:
>これってなんで私の投稿が引用されたの?  (因果関係が見つからないので、
>何を読み間違えてるのか気になる)

 「反論」ではなく「単なるコメント」であるというのを最初にひとこと断っておいたほうが分りやすかったと、いま思いました。

 みどりさんの

みどりさん wrote:
>それはさておき、障害という言葉の持つイメージが強すぎるのかもしれません
>ね。なにか一つ適当な言葉を見つける、もしくは作り出すだけでもこうもりさ
>んの「説明問題」は解決するかもしれません。
>……と思ったけど、でも「個性」も、その解決策の一つだったんだろうな。
>ってことは、よっぽどうまい言葉を持ってこないと、結局同じことの繰り返し
>になりかねないか。むむ。
>まあ、探してみる価値はあるかも。

が、

>よく問題になるのは、明らかに保護就労が必要と判断さ
>れる成人ASが、子供の頃から「あなたのは個性なのよ」と教えてこられて、
>就労の段階になって「僕のは個性なのになんで保護が必要なんだ」と反発して
>しまう場合だ。本人が「自分はASだ」という自己認識を持っている場合は説
>明しやすいけど、そうでない場合はややこしい。「あなたの特徴は行政的には
>障害だけど、個人的には個性なのよ」という説明が通じるかどうか…
 『Re: 障害についての沈黙の是非』(No.8688、11 Nov 2001 by 蝙蝠(狂人型 ))

を受けたものである以上、『子供の頃から「あなたのは個性なのよ」と教えてこられ』た、『保護就労が必要と判断される成人AS』に対し、『就労の段階になって』行なわれる説明に対しての発言だというのはあたしも承知しています。その意味で確かにあたしの引用は「誤読」の誹(そし)りは免れ得ないと思います。

 これに対して、障害者に対する「障害は個性だ」という教育そのものに対して、および健常者との関わりにおいてなされる「個性」という表現そのものに対して、あたしは論じているわけです。あるいは、「障害は個性だ」という教育によって生じた歪みが、就労という局面において一気に露呈しているのではないか、というコメントとして受取っていただいてもよろしいのではないかと思います。

 だから、「障害」を「障碍」(あるいは「障礙」)という表記に戻しても、「障がい」と書いても、「ハンディキャップト」と呼んでも、あるいは適当な言葉を見つけたり作り出したりしても、それはあんまり本質的な解決にならないんじゃないかなぁ、とあたしは思うのね。それは「言葉」の問題じゃなくて、「障害」というものといかに向き合うか、という理解のしかた・捉えかた・生き方の選びかたの問題だから。

 そういえば、「チャレンジド」というのも一時期ありましたね。日本語訳だと「試みられた人々」っていうの。あれも「乗り越えなきゃいけない」とかいった押しつけがましさを感じます。
 そういえば「北海道 挑戦する大地」とかいったキャッチフレーズがあったけど、もとから住んでるアイヌの人たちにとってはすっげー失礼な表現だと思うぞ。上越の関山地方(南魚沼群、と言ったらわかってもらえるかな? 「コシヒカリの里」として知られる豪雪地帯です)で、ある人が「東京者には雪国に住んでる人間の苦労は分からんじゃろ」とか言ったら、年長者に「わしらが住む前から雪は降っとるべー」とたしなめられていました。わざわざ他所から来て文句言うんなら出てけ、と東京生まれの東京育ちとしては思います。東京なんか外から来た人間のほうが多いのに言われ放題言われてるし。東京は日本のパレスチナという気がしないでもないぞ。他所から来て喧嘩するんなら出てけー、とか思っちゃいます。

 まあ、あたしが言う「障害は適性である」というスローガンの危険性というのは重々承知しているのね。『群書類集』を編纂した塙保己一という偉大な例外もいます。だからといって誰でもが塙保己一やヘレン・ケラーになれるわけじゃありません。宮城道雄や高橋竹山(初代)やレイ・チャールズやスティービー・ワンダーや長谷川きよしがミュージシャンとして成功しているという意味での「適性」であり、それは「才能」と不可分なものです。「一つしか取り柄がない」というのは、迷いがないだけ楽じゃないかなぁ、と思います。日本初のフィールズ賞受賞者は、『ボクは数学しかできなかった』を自伝のタイトルにしています。「器用貧乏」「なんでも来いに名人なし」「けらの十徳」という言葉もあります。

 障害者に「なった」人が「障害者としてのアイデンティティ」を獲得する過程において「障害は個性である」というのは有効かもしれません。だけど、あたしという『成人してから、ずっと持ち続けていた違和感を「自閉症」という概念ですっきりと理解した人間』にとっては、「障害は個性である」というのは自明のことなのね。で、そこに至る齟齬による苦痛というのが、「障害は個性である」とかいった言葉で解消できるとはとても思えないわけ。

 そんなわけで、「障害は個性である」というスローガンは、先天的障害者にとっては、けっこうデメリットが大きいんじゃないかなー、とあたしは思います。

 (Maria)


Re: 障害についての沈黙の是非 8697へのコメント
No.8707  Sun, 11 Nov 2001 22:59:22 +0900  蝙蝠(内省型) [この発言にコメントする]

 8704のコメントを削除して再レスするよ。

みどりさん wrote:
>蝙蝠(狂人型 ) wrote:
>>子供の頃から「あなたのは個性なのよ」と教えてこられて、
>
>これは、暗に「あなたのは障害ではなく個性だ」という意味でしょうから、「
>障害はよくないもの、あなたは違う」と教えてきてしまっているわけで、そう
>やって育ってきたのにいきなり「障害です」と言われたら嫌がるのは無理もな
>いでしょう。
>この教え方にはすでに「障害と個性は排他的なもの」とか「障害はないほうが
>いいもの」という考えがベースにあるわけです。

 この辺りは障害の受容という問題も絡んできそうだね。僕は障害者が自分の
プラス面だけを見てマイナス面から目をそらしてしまうような形で自己受容し
てしまうことには疑問を感じる。理想を言えば、プラス面もマイナス面も含め
てあるがままに自己肯定するという形が望ましいと思う。

 けっきょく、「障害ではなく個性だ」という2項対立的な教え方をしてしま
うと、障害者本人が客観的な自己評価ができなくなってしまう。これは見方に
よっては気の毒な事だ。今の時点では「障害でもあり個性でもある」という思
考に切り換えていく必要がありそうだね。

 発達障害児を健常化させる技術は次第に進歩していっている。でも、発達障
害者本人が自分の障害をどのように受けとめていけばいいのかという点につい
てはもう少し検討しなければ。


Re: 個性?適性? 8699へのコメント
No.8706  Sun, 11 Nov 2001 22:36:18 +0900  みどり [この発言にコメントする]

これってなんで私の投稿が引用されたの? (因果関係が見つからないので、何を読み間違えてるのかきになる)


Re: 障害についての沈黙の是非 8702へのコメント
No.8705  Sun, 11 Nov 2001 21:42:18 +0900  蝙蝠(内省型) [この発言にコメントする]

 こんばんわ、武田さん。蝙蝠のなかでも僕がレスするのははじめてだった
よね。

武田好史さん wrote:

>1.本人が苦であるとそれを「自覚」でき、周りも人もその苦しさを「理解」で
>きるもの
>
>2.本人は苦であると「自覚」しているが、周りの人はその苦しさに容易に「気
>づかない」もの
>
>3.本人には「苦である」という認識はないが、周りの人に「何らかの配慮が必
>要」という認識を与えてしまうもの
>
>>さて君は、現在のアスペルガー症候群児・者は、この中のどれに該当してい
>>ると思うかね?

年齢や発達状況によって3→1→2と変化していくものだと思う。例えば、
小学校低学年ぐらいまでのAS児を見た保護者や支援者たちは、「この子を
何とかしてやらなければ」と思うに違いない。この時期は本人が自覚的に行
動できないために自閉症の特徴が露骨に表れてしまうからね。でも、障害の
自覚がない分、本人はそれほど自分の障害を苦にしていないはずだ。これが
武田さんのいう3.の状態かな。

 ところが、AS児たちもいじめに遭ったり、学業につまづいたりしている
うちに、次第に自分の障害にそれとなく気がついてくる。そしていわゆる二
次的障害と呼ばれる状態が発生する。そうなってくると、武田さんの言う「
自分も周りも苦しい」という状態、つまり1.の段階に突入するんだ。なか
にはこの状態から抜け出せなくなってしまうAS人も多いだろう。

 で、その中でも社会とうまく折り合いをつけていくことができるAS人は
当然いるだろう。しかし、彼らの折り合いのつけ方は外国人が日本の文化を
模倣していくようなやり方であるため、完全に同化することはできにくい。
しかも、そのための努力は時として彼らを疲弊させることになる。しかも、
その努力は周囲の人には見えにくいため、武田さんのいう2.の状態が発生
してしまうことになるんだ。

 だから、一口にAS人と言っても、抱えている問題には個人差があるんじ
ゃないかと思うよ。


Re: 続・聴覚認知障害 8693へのコメント
No.8703  Sun, 11 Nov 2001 20:59:57 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

pennpenn58 wrote:
> 私は今鬱病と言うことで精神科にかかっています。最近になって自分はナルコレプシーではないかという新たな疑問が生じてきて医師にそのことを言いました。「あのう、わたし、ナレコプシーではないかと思うのですが・・・・」「ナルコレプシー」医師は私の顔を見つめて言い直しました。「ナレコプシー?」「ナルコレプシー」「ナレコプシー?」「ナルコレプシー」「・・・ナレコプシー・・・」最後に医師は「ナルコレプシー」と紙に書いてくれました。そして私はやっとナルコレプシーということばを会得したのです。
>
私は「原因」を「げいいん」と読むと思い込んでしまっています。
あと「ケア」という言葉が「ケヤ」というふうに聞こえてしまいます。


Re: 障害についての沈黙の是非 8701へのコメント
No.8702  Sun, 11 Nov 2001 20:50:34 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

武田好史 wrote:
>蝙蝠(狂人型 ) wrote:
>> 僕は蝙蝠(狂人型)。こうもりくんが自分の障害について妙な所に引っかか
>>っているので、僕がかわりにコメントすることになったんだ。
>>
>> こうもりくんの悩みというのはこうだ。こうもりくんが障害者としての自分
>>の立場を説明しようとすると、次のような2つの反応が返ってくることがある
>>そうなんだ。

僕は「障害」という言葉には、次のようなガテゴリーがあると思う。

1.本人が苦であるとそれを「自覚」でき、周りも人もその苦しさを「理解」できるもの

2.本人は苦であると「自覚」しているが、周りの人はその苦しさに容易に「気づかない」もの

3.本人には「苦である」という認識はないが、周りの人に「何らかの配慮が必要」という認識を与えてしまうもの

>さて君は、現在のアスペルガー症候群児・者は、この中のどれに該当していると思うかね?


浅間山を見てきました!
No.8700  Sun, 11 Nov 2001 17:17:52 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

みなさんこんばんは。
 昨日から今日にかけて、父と母と妹夫婦の5人で、軽井沢・嬬恋村へ行ってきました。
 昨日の午後は、悪天候で山々はガスに覆われて、よく見えずホテルの夕食のバイキングで中華料理を4皿などをむさぼり、NHKの聖徳太子のドラマを見たりして寝ました。
 今朝はそれがうそのように晴れ、山頂が雪に覆われて、水蒸気の白煙を盛んに上げている迫力ある浅間山を望むことができました。これが生まれてはじめて私が見た、生の活火山の姿でした。本当に感激して、何枚分ものカメラのシャッターを押しました。
 あと碓氷峠のあたりの紅葉も、山一面色づいた状態で最高でした。
 


個性?適性? 8697へのコメント
No.8699  Sun, 11 Nov 2001 17:11:43 +0900  Maria [この発言にコメントする]

みどりさん wrote:
>それはさておき、障害という言葉の持つイメージが強すぎるのかもしれません
>ね。なにか一つ適当な言葉を見つける、もしくは作り出すだけでもこうもりさ
>んの「説明問題」は解決するかもしれません。
>……と思ったけど、でも「個性」も、その解決策の一つだったんだろうな。
>ってことは、よっぽどうまい言葉を持ってこないと、結局同じことの繰り返し
>になりかねないか。むむ。
>まあ、探してみる価値はあるかも。

Mr.Moto wrote:
> 「障害は個性だ」というフレーズは、いかにも嘘臭い。むしろ「障害は適性
>だ」と言ったほうが実感に合ってんじゃないのか?
 『Re: お母さんの一言』(No.7212、5 Sep 2001)

 「個性」というのは哲学でいう「単子」という概念にしっかり結びついています。集団の中の一個人を指したときの「個人」ではなく、「自分自身にとって、根源所与的な存在としての<私>」、つまり、あらゆるものの基本となる、本人にとってかけがえのない<私>を規定するものが「個性」です。ですから、本人が「障害は“私の”個性だ」と宣言すること、つまり、「世間が私の『障害』とみなしているものは、私にとって“私自身”の存在を規定する、“私自身”と不即不離のものであるという意味で、私の『個性』である」と宣言することは、べつにおかしいことではありません。あたしにとって、自閉症傾向のないあたしというのは、ほとんど想像不能であると同時に、そんなあたしは今のあたしにとってあたしではありません。それを「治療」されるとしたら、それは『カッコーの巣の上を』に出てくるロボトミー手術みたいなもので、いっそ誰かに殺してもらいたいと思うようなものだったりします。

 そんなわけで、「アイデンティティの一部としての障害」というものを受容した人間が「障害は個性だ」というスローガンを掲げることは、かつてアメリカ・インディアンが“Dead better than Red!”(共産化より死んだほうがまし)という反共スローガンをもじって“Red better than Dead!”(殺されたとしてもインディアンであるほうがまし=インディアンとしてのアイデンティティを失って生きるより、インディアンとして死ぬことを選んだほうがまし)というスローガンを唱えたのと同じような意味を持ちます。
 そんなわけで、「『障害は個性だ』という言葉を健常者の口から聞きたくない」という気分はあるのね。

 「私たちには(そして、誰にでも)、できることと、できないことがある」という意味で、「障害は適性である」というのなら、単なる一般論です。「片手で錐は揉まれない」ですから。

 ただ、「自らの障害をアイデンティティの一部として取込むこと」を、「逃げ」や「甘え」だとして排除する人々がいます。「障害は個性だ」というスローガンも、そういう人たちの主張に対するアンチテーゼという意味がありそうに思います。「個性なんだから、曲げることはできない」という主張として。ただ、そういう態度に対して、「障害と正面から向かい合い、それを克服する努力」を放棄しようとしている、と非難したがる『いわゆる「健常者」』が、とても多いということは、ひとつの事実として認めてもらえると思います。

Mr.Moto wrote:
---
 わしらは根底のところで『いわゆる「健常者」』とは感性がズレている。それを「治そう」とする親(というか、教師や医師などを含む保護的立場の人間)と、『しょせん親なんつーのは「自分をなるべく曲げず世間にもそれほど迷惑をかけず、なるべく適当なポジションを見つけて世間と折合う」ことの手伝いしかできん』と悟った親がいる(中略)。
 とはいえ、人間っつーのは誰だって自分の思う通りには生きられないのだ。どこかで挫折しながら他のどこかで自己実現し、それで世の中と折合ってゆくしかないのである。その意味ではわしらはわしら以外の人間と変わりはない。
 ただし、わしらの場合は「ASとして世の中と折合ってゆく」という方策を、親が認めない、ということはある。性同一障害の息子にあえて男として生きることを要求する親がいるように、だ。で、この「要求」は、この日本という国においてはほとんどの場合に「強制」として働くのである。

 親としては「非・AS」として生きることを当然と思い(当然じゃないのだが)、その結果として「立派な社会人」になることを期待し(期待されても困るのだが)、さらには幸せになれると信じているのだろうけれど(必ずしもそうならないことはうちのJoshya氏を始めとして多くの人によって証明されているのだが)、かといってその結果についてはまったく責任は取れないのである。
 「ダメだったらどうすんだよ」みたいな理屈は通じない。『「非・AS」として生きなければ必ず不幸になるのだから、「非・AS」として生きる以外に選択肢はない』と思っているとすれば、「非・AS」として生きた結果がダメだったら、それは「本人のがんばりが足りなかった」とか「運が悪かった」とか、「本人に才能がなかった」とか、そういった原因に帰せられてしまうのである。
---

 「障害を個性として生きる」という生き方を不快に思い、迷惑だと感じ、我侭であると考え、障害者を敵視して社会から排除しようとする『いわゆる「健常者」』、つまり、そういう感性が「健常者」全般の感性であり、それ以外の態度(つまりは障害者の社会進出を歓迎する態度)というのは見せ掛けであり偽善でしかないのだと主張する人がいます。バリアフリーだとかユニバーサルデザインだとかは単なるごまかしかおためごかしでしかなく、「障害者にとって使いやすいものは健常者にとっても使いやすい」というのは嘘だと主張し、バリアフリーやユニバーサルデザインの製品を「醜い」と非難する人が、実際にいます。
 障害者であり政治評論家である櫻田淳さんは、「私は養護学校で、世間というものは障害者にとって温かいものではなく、生きるという行為は悪意との戦いであるということを学んだ」と言っています。あたしも残念ながら、この意見に注釈つきで半分以上賛成です。「悪意との戦い」ではなく、「『ある種の善意』と『善意を装った悪意』と若干の『わかりやすい悪意』との戦い」であり、「わかりやすい悪意」というのはむしろ敵として怖るるに足りない、と思っていますが。

 まあ、障害者を嫌悪する気持はわかんないでもないんですがね。障害者にとって茶道だとか作法・礼法なんていうものはいかなる位置にあるものであるか、みたいなことを考えると、あたしたちの存在自体が「美しい日本の文化の破壊者」みたいに思えてくる人だっていそうに思います。正座ができない人や、長時間じっと坐っていることにはなはだしい苦痛を感じる人だって、世の中にはおるわけだから(もっとも「健常者」にとっても事情は似たり寄ったりなんですけどね)。だけど、茶道だとか作法・礼法だとかいったものの「本質」というものを考えると、問題の本質はそういう点にはない。けれど、「伝統」「型」「様式」といったものにすがる以外に自我の支えを持たない『いわゆる「健常者」』、つまり「障害者」に対する「健常者」という優越意識にしかアイデンティティを見出せない人々というのは、その防壁である「障害者」と「健常者」の境界を侵そうとする者は敵でしかないわけです。

 独裁者が国境を閉ざし、自由主義世界の「穢れた文化」が入ってこないようにするのと、理由は同じ。

 健常者のすべてがそうした観念(あるいは妄想)に取り憑かれているとはあたしも思ってはいません。だけど、自分が「まとも」であり「ちゃんとしている」ことに執着し、「まったく××連中はなっとらん」とかいって、いつでも怒っているような人というのはいるものです。あたしは「近頃の若い連中」だって総じて好きだし総じて認めてますけどね。あくまで「総じて」ですが。

 「被害者ヅラ」「弱者ヅラ」の件のときと同じことを繰返すことになっちゃいますが、「健常者の代表ヅラ」をした『いわゆる「健常者」』を、「健常者の一部」ではなく「本来の『健常者』とは別の存在」として扱うことが、用語やスローガンの問題に先行しそうに思います。

 だけど、そういう連中を「人格障害者」とかいって差別しちゃったりしたら……うーむ。これはこれで、深い。

 今回は黒Maria……かな?

 (Maria)


Re: 神を認めるのですか? 8672へのコメント
No.8698  Sun, 11 Nov 2001 15:47:11 +0900  里辺華 [この発言にコメントする]

Maria wrote:
>I wrote:
>
> ただし、あたしは「神に選ばれた存在」としての「キリスト」を信じない(ナザレのイエスが尊敬に値する人物であり、そういう人物が歴史の上に現われたことが「奇跡的」であるというんを認めるのに吝(やぶさ)かではありませんが)という意味で「クリスチャン」ではありませんし、人格神としてのヤハウェの存在を主張する気はまったくありません。
わたしは、神ヤハウェを信じます.キリストは神の子供であり、天に於いてみ使いだったが、ヨセフ、マリアという夫婦のもとに人間として生まれ、奇跡と宣教を行った後で、全人類の罪の為に犠牲として死なれたということを信じています。


Re: 障害についての沈黙の是非 8688へのコメント
No.8697  Sun, 11 Nov 2001 15:01:04 +0900  みどり [この発言にコメントする]

蝙蝠(狂人型 ) wrote:
>子供の頃から「あなたのは個性なのよ」と教えてこられて、

これは、暗に「あなたのは障害ではなく個性だ」という意味でしょうから、「障害はよくないもの、あなたは違う」と教えてきてしまっているわけで、そうやって育ってきたのにいきなり「障害です」と言われたら嫌がるのは無理もないでしょう。
この教え方にはすでに「障害と個性は排他的なもの」とか「障害はないほうがいいもの」という考えがベースにあるわけです。
実際に障害を持っている、もしくは持っている可能性がある子供に対して、そういう「障害イメージ」を作っちゃうのは、それだけでも問題だと思うなあ。

それはさておき、障害という言葉の持つイメージが強すぎるのかもしれませんね。なにか一つ適当な言葉を見つける、もしくは作り出すだけでもこうもりさんの「説明問題」は解決するかもしれません。
……と思ったけど、でも「個性」も、その解決策の一つだったんだろうな。ってことは、よっぽどうまい言葉を持ってこないと、結局同じことの繰り返しになりかねないか。むむ。
まあ、探してみる価値はあるかも。


さらに別方面から。
保護と言えば、日本では専業主婦 (正確に言えばちょっと違うけど) も社会的保護を受けています。別に働く能力がないわけでも仕事が見つからないわけでもなんでもなくても、税や年金において優遇措置が受けられます。
(年金の優遇措置についてはこちら: http://www82.tcup.com/8243/c3.html )

つまり、保護にはあんまり合理的な理由はいらないのです。政治的な理由でもなんでも、成立しちゃえばいいのです。だから、「個性を基準にした保護」があったっていいんじゃない、という考え方もありかもしれません。


Re: >>8330 8331へのコメント
No.8696  Sun, 11 Nov 2001 14:45:25 +0900  シンタロウ [この発言にコメントする]
( ´∀`)さん wrote:
>   ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
>  ( ´∀`)<  オマエモナー
>  (    ) \_____
>   | |  |
>  (__)_)

     ↑某掲示板のマスコット
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