アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
武田好史 wrote:
>ルールとは・愛とは・大人とは・仕事とは・社会性とは・・・と悩みまくりながら過ぎ去っていく日々!もう、10年以上だ。
>
>がんばって生きよう!それでも!こんな僕でも、いつかどこかで幸せにめぐり合えると信じて。
私もむかし、こんなふうに思っていました。でも、聖書を教えてくれる人に会い、すべての謎がとけたと思いました。神様が本当にいることも、本当にこの地上に楽園がくることも、しんじられたし、神の活動力である聖霊を受けてからは、鬱病も治りました。
今月の17日、私が住んでいる入間市の隣町の狭山市で、悲しい事件がありました。
知的障害のある女の子ののお母さんが、その子が「普通学級に入るのは、困難でしょう」と就学前検診で言われたことを苦にして、子供を道ずれに車に火を放って無理心中をはかり、その子とその妹の姉妹が焼死し、お母さんも全身に大やけどを負い、車の前で途方にくれていたところを発見されたというものです。
僕自身就学自前検診では、結構もめたほうと聞いているので、何かひとごとでないような気がしました。
このような事件の背景には、知的障害児の教育に対するインフォーム・コンセントつまり納得のいくような説明の不足があるのではと、私は思います。
養護学校というと、「子供の未来が閉ざされる」「馬鹿の烙印を子供に押してしまって自身をなくさせてしまう」と思う親御さんが多いかもしれませんが、断じてそんなことは無く、むしろ場合によっては、より良い人間関係を学べたり・特殊な才能が開花したり・将来社会で仕事をしていくために不可欠な能力が早い段階でつくというメリットもあるのです。
そこで全国の教育委員会のみなさんに、私は次のようなお願いをしたいです。
1.地元の障害児の教育の状況に対する詳細な実態調査を行い(一年に一度)、白書的なパンフレットを作成して、全ての就学期の子供がいる世帯に配布する。
2.就学時前検診で「普通学級には入るのは困難」という判定を子供が受けた親御さんに、養護学校や卒業生が通勤している事業所・福祉作業所を見学させる。
3.判定の回数はできれば2回にする。またその子が専門の医療機関で検査を受けている場合は、その結果も考慮するようにする。
Mariaさんのカキコはとても難しいことがあります。理解するのに一苦労・・・。
私のあたまが悪いだけかも。気にしないでください。
かおりさん wrote:
>最近Mariaさんしかお見掛けしませんが、大森研のみなさまはお元気ですか?
おおむね元気です。JoshyaさんとKILROYさんは、大森総研の独自サイトを立ち上げるためにいろいろ動いているので、ちょっとご無沙汰しております。Motoちゃんは出番がないのでここのところお休み。
I wrote:
> Mさんが、心臓の病気にかかりました。心臓の筋肉が腫れて、膨らんでしまう
>病気です。医学的には突発性拡張型心筋症、それも非常に特殊なもの、という診
>断を受けました。
(中略)
> Mさんはみるみるうちに痩せ、筋肉や骨格が浮き出し、鼻が高く飛びだし、目
>だけがぎょろぎょろと光り、同時に水分が減ったためにしわしわのカサカサになっ
>てしまいました。ですが、とりあえず危機的な状況は脱しました。
かおりさん wrote:
>ここでの質問は、Mさんが病院にかかった時、明らかに具合が悪かったからか、
>それとも何となく疲れやすくなって念のため病院に行ったらいきなり聞いた事も
>無い病名を言われ、入院の運びとなったか、です。
外見上は咳と痰、それに浮腫(むくみ)です。それほど悪そうにはみえません。自覚症状としてはだるさと胸部から腹部にかけての苦痛。お母さんは、「風邪が胃に来たのだろう」くらいに思っていたのですが、本人が心配になって受診した、ということです。
>危機的な状況を脱したというのは、Mさん本人が自覚するほどの改善だったの
>でしょうか?それとも、検査の結果上は良くなっただけのことで、体重が減っ
>たためと喉の渇きで本人は返って状態は悪くなったと思っているのでしょうか?
問題は、本人や医師にとって「改善された」と感じられたとしても、それが単に本人の感覚や医学的データでしかなく、直接的に示せないことにあります。
本人は、たしかに楽になりました。安静にしていたために筋肉がごっそり落ちちゃってちゃんと歩けなくなっちゃいましたけど、これはリハビリで戻ります。
医学的には、心臓の周囲に溜っていた水が抜け、肝臓の肥大も正常に戻りました。
だけど、外見はまるっきり幽霊のようで、逆に病気がひどくなったようにしか見えません。歩きかたも、よたよたしています。
> そういう経験を持つMさんのお母さんは、「このままでは娘(Mさん)が
>死んでしまう」とパニックを起こし、担当の医師に対して、Mさんに「十分
>な水と栄養」を与えるよう要求しました。(略)
>ここで言う十分な水と栄養という意味があいまいです。食べ物の中にも水分は
>含まれている訳で、別にお茶とかコーラとかわざわざ飲まなくてもカロリーメ
>イトの様な食事でないかぎりは病院食というのは必要な栄養と水分を栄養士さ
>んがわざわざ考えてメニューを作っているものと私は理解しています。(中略)
>少なくとも病院側は必要最小限の水分、栄養はMさんに摂ってもらっている筈
>です。じゃないと今度は腎臓やら肝臓やらに負担がかかりますから。
理性的に考えればその通りです。ただ、お母さんにとってはとても十分に栄養が足りているようには思えないような食事内容だった、ということです。
>また、Mさんや担当の医師を認めるということは、妹さんとの関係が間違って
>いたことを認めることになりますから、そもそも心理的に無理があります。
>これも変な話です。Mさんは心臓病で、妹さんは食思不振症が最初で心臓発作
>を起こした訳ですから二人を同一視する必要が無い事をはっきり出来ないので
>すか?
戦後の食料不足の時代を生きてきた人にとっては、自分の身近にいたひとが栄養失調を起こしたり結核にかかりして、がりがりに痩せ細って死んでいった、というのが現実です。ですから、「痩せる」ということに対する生理的ともいうべき恐怖感があります。
それと同じように、「自分の家族ががりがりに痩せ細っている」という現実の前には、理性は無力だったりします。蛇嫌いの人に、「この蛇は毒蛇ではなく、人間には無害だから」と言っても説得力がないのと同じです。
>私の考え、
>Mさんは自分の治療に専念だけしてください。(中略)
>いづれにせよ私がいいたいのはなぜに具合の悪い病人にそんな負担をかける?
>本人は自分の命を掛けて病院にいるんでしょ?医療サイド(医者、および看護
>士、栄養士、ソーシャルワーカー)は患者とその家族に十分な説明(相手がちゃ
>んと納得するまでの)を与えるべきだし、「上司の医者の指示」という、言い
>訳にもならない言い訳を患者に与えるくらいなら、担当医になるな、と言いた
>い。そんな言い訳をするから、お母さんはその医者に信頼が置けなくて自分の
>考えに固執するのでは?
大学病院における研修医の立場はとても弱いものです。で、お母さんにとっては自分の子供のような年齢の人間で、とても信頼できる医者には見えなかった、ということです。
同時に、大学病院のような医療機関や、現代医学そのものに不信感を抱いている人も大勢いますし、それは当然のことでもあります。たとえば原作・取材:遠山一歩/作画:小山田いく『生命(いのち)のダイアリー』秋田書店チャンピオン・コミックス(ホームページ:『姉の日記より』、http://www.asahi-net.or.jp/~jp8s-wtnb/、およびhttp://www2.tokai.or.jp/keikomama/)等を見ていただければおわかりになると思います。
そして、たしかに突発性拡張型心筋症なんていう病気に対しては、正直なところ現代医学はほとんど無力です。
>因みに、Mさんが成人し、なおかつ、意識がはっきりしており、精神に異常を
>認めない限りは、家族の同意はあればそれにこした事はない、程度に出来ない
>のですか?
本人が病気である場合、本人が常に意識がはっきりしている状態は期待できません。ですから、そうでない「万一のとき」のために、「保護者たるべき家族」による治療に対する同意、というのが必要なんです。つまり、病気した段階で、本人は一種の「禁治産者状態」に置かれ、本人の権利の行使を保護者が代行することになるわけです。
で、その「保護者」が理性的な説得を受けつけられない程度に感情的であり、しかしながら保護者としての権利を強制的に剥奪できない程度に社会的である場合(そして、その保護者の判断が、「感情的には社会的に認められるもの」である場合)について、あたしは想定しているわけです。
「理屈の上では正しいのかもしれないけれど、私には理解できないし、感情的・感覚的にはまったく納得できない」ことを受け入れることを、法は強制できません。
そして、「受益者本人」以外の誰かによってしかそのことが決定できず、しかもその決定権が法的に保護されている場合があります。その場合、本人の意志に反した決定が、本人以外の誰かによって決定され、正当な手続きによっては本人ですらそれを覆すことが不可能である場合がしばしば存在する、ということなんですよ。
『エホバの証人』というキリスト教系宗教団体では、輸血を禁じています。その場合、意識を失った『エホバの証人』の熱心な信者の子供が緊急の手術を要し、しかも輸血が不可欠である場合、保護者の同意が得られません。そんなわけで、法的にはその子供を救うことは(厳密にいうと)「犯罪」となります。基本的人権のひとつである思想・信条の権利を犯すわけですからね。その場合、その子供が意識を失う前に「宗教なんかどうでもいいから助かりたい」と医師に伝えたとしても、その意志を尊重することは杓子定規に言うと犯罪にあたります。実際には裁判官がどうにかしてくれるでしょうが、条文重視の杓子定規な裁判官だって少なからず存在したりもするわけです。
精神障害者は、しばしば自己決定権を剥奪され、保護者の管理下におかれます。問題は、その「保護者」の判断が「自然な感情」を尊重するあまり合理性を欠いたときに、法制度はそれに対して無力だということなんですね。そういうときにどうするか、っていう話なんです。これは「親のしつけ」をどこまで尊重するか、みたいな問題と結びついています。「折檻したら死んでしまった」とかいった場合、単なる過失致死(第二一〇条、三十万円以下の罰金または科料)で済ましちゃっていいのか?みたいな話になるわけです。
こうした問題は、あらゆる場面で出てきます。外務大臣が独断で条約を結んでしまったらどうなるか(批准の段階でチェックは入りますが)。企業経営者が、独断で取引をしてしまったらどうなるか。国民や従業員の権利はどうやって守られるのか。そういうことなんです。
民法第一条には、『私権は公共の福祉に遵ふ。権利の行使及び義務の履行は真偽に従い誠実に之を為すことを要す。権利の濫用はこれを許さず。』とあります。だけど、こういうことをすべての人に期待することはできませんし、強制することもできないんですよ。人の弱さや愚かさというものがありますから。
ダメな親でも親は親、なんです。それは尊重しなければなりません。
どうしたらいいんでしょうか。
(Maria)
こんにちは、シンタロウです。
今日、ネットでいろいろ検索したら、興味深い文章を見つけました。そこには差別のことがいろいろと書いてありました。
そしてもっとも印象深かった言葉が『差別を受けている人々の中には逆に健常者差別が生まれてきていることも事実です。強い人は健常者社会を敵視し、弱い人絶望する。』
僕は↑の文を見たとき「自分のことだ」と思いました。僕はいつも健常者を憎み、敵視していたような気がします。
詳しい全文は↓にのってます。
http://www3.big.or.jp/~muma/konsyuu104.htm
truth wrote:
>あまり書き込みをしていないのに、すみません・・・。
>
>仕事で・・・プライベートで人と会っていて・・・例えば、会議の時とか・・・沢山の人達がいて、喋っていると、何言っているのか分からないときがあります。分かろうとして・・・一所懸命聞く努力をしていても、話は次の話に移っていたりするのです・・・。
>>沢山の人が喋っていると、色々な人達が喋っていて、誰が誰に喋っているとか・・そんな事が分からなくて、気が動転してしまうのです・・・。
>自分に対して話しているとか・・・そーいう事も分からないことがあります。
>そんな経験がある人がいたら、教えて欲しいのです。そんな時は、どう対処しているんでしょうか?
これはいわゆる「聴覚認知障害」の症状の一つだと思います。要するに、聞こえてはいるけれども、その中で何が重要かという篩い分けをする脳内のフィルター(脳幹網様体だといわれているが・・・)が、うまく働いていないのです。
このような人は、現代の若い歌手(倉木麻衣・安室奈美江・浜崎あゆみなど)が歌っている歌の歌詞の聞き取りに、チャレンジしてみると良いかもしれません。私は最初、聞いてもあまりよく聞こえなかったので、こういったジャンルの歌は好きではなかったのですが、倉木麻衣の「REACHING FOR THE SKY」がNHKの朝ドラのテーマで流れたのを聞いていくうちに、それらの曲がだんだんと聞き取れるようになっていきました。
「君が教えてくれたこと」の繭子さんのように気象に興味を持っているなら、NHKのラジオ第二の「気象通報」を聞いて、聞いた各地の気圧・気温・天気・風向・風速の情報を用紙に書き込んで、天気図を作るのも良い訓練になると思います。(私も昔やったことがあるけど、これは結構難易度が高い)
また重要な会議に参加するときは、テープレコーダを持ち込んで、会議のやり取りを録音するのも、多くの人がやっている対策の一つです。
pennpenn58 wrote:
> 最近、このページでコウモリさんが社会を生産者群と非生産者群に分ける試みをしたり、慎言居士さんが富裕者群と非富裕者群に分ける試みをなさったりしている。私も色々考えたのだけれどどうも今の私にはその分類の仕方がピンとこないというよりもうこの現代社会は対立構造を設定するというのが無理という段階に来ているような気がします。
そうです。そしてこのことはすでに知識人と呼ばれる人たちによって指摘されています。
> 人を生産者だからこうだ非生産者だからこうだと決めつけるのが難しいと思うのです。たとえば昔なら障害者は不幸なことが多かった。でも今ではきっと不便はきっと色々あると思うのですが現状に満足している障害者もいれば現状に満足することができない健常者もいる。
障害が不幸の要因になりうるという事実は、いつの時代も変わらないと思われます。今後も。
そして今後どんなに医療技術が進歩して障害者の負担が軽減出来るようになっても、幸不幸の落差、生きていく上での有利さにおける格差はなくならないでしょう。
> 私がいつも感じる対立構造は世の中には幸せな人と不幸な人がいるということです。富裕であっても幸せな人がいれば不幸な人もいる。お金がなくても幸せに暮らしている人がいる。ASであっても幸せな人もきっといると思うし、不幸せな人もいる。私は・・・・・幸せではありませんが・・・・・。
裕福な人たちに占める不幸な人の比率と、貧しい人たちに占める不幸な人の比率を比較してみれば、おそらく貧しくて不幸な人の比率のほうが大きい(多い)のではないでしょうか。
同様に、健常者に占める不幸な人の比率とASに占める不幸な人の比率を比較すれば、これも後者のほうが大きくなるのではないでしょうか。
> いつも思うのです。世の中はなんで不公平なんだろうと。でも人によっては私が幸せだと思う人もいるかもしれない。結婚して3人の子供がいる。世の中には子供を産みたくても産めない人もいるのに・・・。
徹底的に不平等です。そしてこの事実は人類が絶滅するまで動かないでしょう。
> 私はこの世の中を2分類するとしたら大脳生理学的にセロトニンの多い人と少ない人に分類したい。自分の状況に幸せを感じることができる人とできない人。私の問題はASかどうかではなく幸せを感じることができないことにあるような気がします。たしかにASであることでいじめられたこと、苦労してきたこと、悩んだことは多かったけれど今の私の状況は人によっては幸せという人もいます。自分の実の親と同居できていいねなんて・・・・・・。沈黙・・・。
それはあなた自身の責任ではないでしょう。
どんなタイプの人間であろうと、幸福だと感じることの出来ない状況というのは存在するでしょう。
> 武田君は散歩して農作業をしている老夫婦をみて安らぎを覚えたとのこと。そうなんですよね。些細なことに安らぎと幸せを感じる。それが大事。セーターを裏返しに着たっていいじゃないですか。でもASってそうなんですよね。些細なことでショックを受けるような気がする。些細なことでも繰り返しが続くとストレスになるのですよね。長々とすみません。ではまた。
このような、「いろんな生き方や考え方があっていい」というたぐいの口吻を最近よく新聞などで見かけるのですが、これはある種無責任ではないでしょうか。
それが、そうした意見が出てくる背景が、場合によっては当事者の責任ではないという慰安感をあたえる範囲内なら結構でしょうが・・・
Maria wrote:
> Mさんが、心臓の病気にかかりました。心臓の筋肉が腫れて、膨らんでしまう病気です。医学的には突発性拡張型心筋症、それも非常に特殊なもの、という診断を受けました。
>(中略)
> Mさんはみるみるうちに痩せ、筋肉や骨格が浮き出し、鼻が高く飛びだし、目だけがぎょろぎょろと光り、同時に水分が減ったためにしわしわのカサカサになってしまいました。ですが、とりあえず危機的な状況は脱しました。
ここでの質問は、Mさんが病院にかかった時、明らかに具合が悪かったからか、それとも何となく疲れやすくなって念のため病院に行ったらいきなり聞いた事も無い病名を言われ、入院の運びとなったか、です。
危機的な状況を脱したというのは、Mさん本人が自覚するほどの改善だったのでしょうか?それとも、検査の結果上は良くなっただけのことで、体重が減ったためと喉の渇きで本人は返って状態は悪くなったと思っているのでしょうか?
>(略)
> そういう経験を持つMさんのお母さんは、「このままでは娘(Mさん)が死んでしまう」とパニックを起こし、担当の医師に対して、Mさんに「十分な水と栄養」を与えるよう要求しました。(略)
ここで言う十分な水と栄養という意味があいまいです。食べ物の中にも水分は含まれている訳で、別にお茶とかコーラとかわざわざ飲まなくてもカロリーメイトの様な食事でないかぎりは病院食というのは必要な栄養と水分を栄養士さんがわざわざ考えてメニューを作っているものと私は理解しています。味については、期待しちゃ駄目です。少なくとも病院側は必要最小限の水分、栄養はMさんに摂ってもらっている筈です。じゃないと今度は腎臓やら肝臓やらに負担がかかりますから。
>また、Mさんや担当の医師を認めるということは、妹さんとの関係が間違っていたことを認めることになりますから、そもそも心理的に無理があります。
これも変な話です。Mさんは心臓病で、妹さんは食思不振症が最初で心臓発作を起こした訳ですから二人を同一視する必要が無い事をはっきり出来ないのですか?
> とりあえずの選択肢は三つ
>1)医師の指示通り、カロリー制限と水分制限を守りつづける。ただし、その結果、お母さんと病院との間で深刻なトラブルが予想される。
お母さんの入院費支払い拒否ですか?
>
>2)お母さんの指示通り、お母さんの持ってきた食事を取る。ただし、その結果、Mさん本人と病院との間の深刻なトラブルに発展することが予想される。
当然強制退院ですね。
>
>3)お母さんの持ってきた食事を取ったふりをして、お母さんにわからないようにどこかで吐く。この場合、病気のために活動が不自由であるMさんがお母さんの厳重な監視の目を逃れて食事を吐くことに関するかなりの困難があり、(2)と同様にMさん本人と病院との間の深刻なトラブルに発展することが予想され、しかもMさんの健康にも深刻なダメージを与える危険性がある。
これは当然却下です。両方に良い顔をしようとしてすべてを失う一番ばかげた考え。
> Mさんはどうしたらいいでしょうか?
>
私の考え、
Mさんは自分の治療に専念だけしてください。もし、Mさんが担当医の先生を信頼しているのであればその指示にしたがって頂きたいと思います。もし、信頼できないのであれば(大概は医者の説明不足、知識不足から生じる事が多い)、、、ちょっと話は難しくなりますね。
いづれにせよ私がいいたいのはなぜに具合の悪い病人にそんな負担をかける?本人は自分の命を掛けて病院にいるんでしょ?医療サイド(医者、および看護士、栄養士、ソーシャルワーカー)は患者とその家族に十分な説明(相手がちゃんと納得するまでの)を与えるべきだし、「上司の医者の指示」という、言い訳にもならない言い訳を患者に与えるくらいなら、担当医になるな、と言いたい。そんな言い訳をするから、お母さんはその医者に信頼が置けなくて自分の考えに固執するのでは?
信頼できない医者に一人娘を預けるお母さんの気持ちも分からんでもないけど、、
Mさんのお父さん側の親戚で頼りになるひととか、Mさんの親友とか、お母さんのとても親しい友達とかはMの代わりにお母さんと病院の間に入ってくれる人はいないのですか?
そういう人がいなくても、病棟の看護婦さんとか、同じ科に入院している人の家族とかにお母さんの話を聞いてもらうとか。どの点がはっきりしていないのか、なぜやせただけでお母さんはそんなにうろたえるのか。Mさんと妹さんの相似点はやせたというある一点だけで、そこに至る経路は全く違う事をはっきりさせないと。
(ちなみに、お母さんは妹さんの事をMさんや周りの人に話しているのですか?)
医者は自分は理解し易いように言ったつもりでも、ある1点が理解できないために全体の理解が阻まれるという事を理解していない生き物である事を念頭においてわからない事はしつこく訊ねるべきです(でも、感情的になっては駄目)
あと、病院側でもメンタルケアをちゃんとすべきでしょう。
因みに、Mさんが成人し、なおかつ、意識がはっきりしており、精神に異常を認めない限りは、家族の同意はあればそれにこした事はない、程度に出来ないのですか?
最近Mariaさんしかお見掛けしませんが、大森研のみなさまはお元気ですか?
(かおり)
Maria wrote:
>
> 「誰が」発言したかではなく、「何を」発言したかを重用視する風土というのを、あたしたちは育ててゆく必要があると思います。
>
> (Maria)
そうなんですよね!!Mariaさん。「誰が」ではなく「何を」発言したかを重要視する風土であればもっとこの社会は住みやすいものになりますよね。
でもたとえば会社なんかだとおそらくどの会社でも同じだと思うけれどグループまたは派閥というものがあってもう徹底的に「誰が」が重要視される世界。そんなとこだと孤立しやすいASの人なんかもう何を言ってもだめという感じ。人脈、根回しそんなものが大事な今の日本ではほんとうのことをいっても受け入れられない人たちが大勢います。
ちなみに私は会議なんかではわからないことは必ず発言者に説明を求めるタイプでした。「よく聞けるね」とよくいわれたけど公の場での発言は私には楽だった。まわりへの影響を考慮しないASなので。会議とか集会だと結構「何が」が重要な場合もあるし。むしろ普通の一般会話がだめ。
でも私は結局、社会の落ちこぼれ意識が強くMariaさんのように『「何を』発言したかを重要視する風土というのを、あたしたちは育てていく必要がある』という風になかなか考えることができない。そうしなければいけないのだとは強く強く思うのだけれど。
Mariaさん。そんな風土をつくって下さいなんて他力本願なこことをいったらおこりますか?
自分に絶望しているpennpennでした。すみません。
Mariaさん wrote:
> とても悲しいことですが、算数の答えや学問においてすら、「純粋に理性的な解決」というのはありえなかったりするわけです。
> 「人の喋っていることがわからない」というのは、自分以外の人は理解しているのに自分だけが理解できない、ということを意味しているわけですが、実際のところ、他の人も解っていないんだけど解っているふりをしているだけで、ただ、それを他のメンバーの前で認めることに心理抵抗があるだけかもしれない。そういうときに、いちばん偉い人が「私にはいま説明されたことがまったく理解できなかった。できれば私にも解るように説明してくれないか?」と発言することで、問題が解決しちゃったりということもあるわけですよ。
ふむふむ、確かにそうだ。
ただ、偉くは無くても、とりあえず、「説明してくれ」といえる人は、強いかな(?)でも、そうなると、ここで、話がまた、いじめの振り出しに、戻ってしまう・・・いや、次の段階に踏み込んでしまうのかもしれません。
> そんなわけで、「立場」というものを離れて一般論として論じるだけで、しばしば問題は解決してしまうわけです。で、問題は、どうやってその「立場」の呪縛を逃れるか、ということだったりするわけですよ。
確かに、そうですね。
「立場」の呪縛から、少しずつ上手い事逃れて、どこかにいってしまう人もいますよね・・。
> で、「相手の発言の意図を相手の利害に帰着させることで、相手の発言の是非を問わずにその影響力を殺ぐ」ということをする人が多かったりするわけです。誰かが「こうしたらどうだろうか?」と意見を述べたときに、「それで得をするのはあんただろう!」というのがこのパターン。
もう一つは、「言い出した、あなたが、やってみれば?」式もある気がしますけど・・・・。
> 「誰が」発言したかではなく、「何を」発言したかを重用視する風土というのを、あたしたちは育ててゆく必要があると思います。
ああ、そうやって、ポイントを絞るべきなんですね。
(ありがとうございます・・かな?)
(タレイヌ)
pennpenn58さん wrote:
> 最近、このページでコウモリさんが社会を生産者群と非生産者群に分ける試みをしたり、慎言居士さんが富裕者群と非富裕者群に分ける試みをなさったりしている。
おはようございます。慎言居士さんへ、に続いての、横レスごめんなさいね。
NO.8945で、慎言居士さんに、横レスしているタレイヌです。
NO.8883の、タレイヌのカキコを、見ていただけると嬉しいですが・・・。
言葉が、勝手に一人歩きをはじめてるようなので、気に成り始めたタレイヌです。
こうもりさんの名誉(?)のために申し上げますが、分類したのは、こうもりさんではなく、タレイヌですので、お間違えなきよう、お願いいたします。
こうもりさんへの、説明のために、無理やり、タレイヌがわけました。
「生産者群」「非生産者群」ではありません。
分けた目的に、言葉どおりの意味が込められているのではありません。(NO.8883での、こうもりさんと、タレイヌとの、やり取りをお読みいただきたいです。よろしくお願いいたします。)
(タレイヌ)
タレイヌさん wrote:
>つまり、多くの、この手(いじめ)の問題は、どんな場合でも、算数の答え(?)
>や、学問(?)のようにある程度のみんなが納得するような「解決」あるいは
>「結論」には、至れないんですよね。(むしろ、至ってはいけないかも?)時
>間的な「スパンが長い解決(?)」をめざすことが、せいいっぱい・・という
>ことが、多いように思います。
とても悲しいことですが、算数の答えや学問においてすら、「純粋に理性的な解決」というのはありえなかったりするわけです。
算数の答えにおいては指導法に対する考え方の差によって同じ答えが○になったり×になったりするし、学問においては学派間の政治的闘争というものがあったりもします。
「人の喋っていることがわからない」というのは、自分以外の人は理解しているのに自分だけが理解できない、ということを意味しているわけですが、実際のところ、他の人も解っていないんだけど解っているふりをしているだけで、ただ、それを他のメンバーの前で認めることに心理抵抗があるだけかもしれない。そういうときに、いちばん偉い人が「私にはいま説明されたことがまったく理解できなかった。できれば私にも解るように説明してくれないか?」と発言することで、問題が解決しちゃったりということもあるわけですよ。
そんなわけで、「立場」というものを離れて一般論として論じるだけで、しばしば問題は解決してしまうわけです。で、問題は、どうやってその「立場」の呪縛を逃れるか、ということだったりするわけですよ。
たとえばの話、肥満というのは消費したカロリーよりも多くのカロリーを吸収することで起きるわけですから、「肥満の原因はカロリー吸収の超過にある」ということは言えるわけで、摂取カロリーがゼロのときは痩せざるを得ないわけですから「食べなきゃ痩せる」というのも確かなことではあるわけです。
ですが、中程度のやせ〜肥満に関していうならば、肥満している人のほうが、やせているか平均体重に近い人に比べて、摂取しているカロリーは平均的にいって少なかったりするわけです。つまり、太っている人は燃費がいいんです。で、ダイエットをすることでますます燃費がよくなっちゃったりするんですね。
この場合、太っている人がこの事実を指摘したときは「それはダイエットをさぼる言い訳でしかない」と反論されるだろうし、痩せている人が「だったら、私はたくさん食うとかえって体重が減っちゃうんだが、これはどうしたことだ?」と発言したとしても、「やせと肥満は別だ」と反論されちゃうわけです。
で、「相手の発言の意図を相手の利害に帰着させることで、相手の発言の是非を問わずにその影響力を殺ぐ」ということをする人が多かったりするわけです。誰かが「こうしたらどうだろうか?」と意見を述べたときに、「それで得をするのはあんただろう!」というのがこのパターン。
「誰が」発言したかではなく、「何を」発言したかを重用視する風土というのを、あたしたちは育ててゆく必要があると思います。
(Maria)
truth さんwrote:
はじめまして。タレイヌです。
Mariaさんの、レスのほうに、先に答えている失礼をお許しください。
pennpenn58 さんが、おっしゃっている事は、結構当たってるかもね、と思ったタレイヌです。
>自分に対して話しているとか・・・そーいう事も分からないことがあります。
私が話し掛けているのに、答えてもらえない・・とか思う相手は、確かに、結構いますよ。でも、実は、タレイヌ自身も、そう思われていたらしい・・・と、子育てし始めて、気付いたりしてるわけですよ、これが。
仕事とかでは、大きな問題に膨れ上がるのなら、大変な事ですが、そうでない範囲で、何とかなっているのならば、疲れないようにしながら、この後も、続行ですね、いままでどおり。
別の部分で、最近タレイヌは、耳が、悪くなったと、明らかに感じています。これが、老化なのだとおもっています。非常に微妙な事なのですが、話し掛けられた言葉が、言葉どおりに意味が繋がって入ってこなくなってきています。話し掛けられた言葉を、もう一度、再生してみて、それから意味を考えて、答えを組み立てていたのですが、最近は、話し掛けられた言葉を再生しようとすると、その時点で、??と成るのです。たぶん、言葉のいくつかを聞き取れなくなってぬけてしまっているので、再生しても意味不明になってしまうのですね。当然、「いま何て言った?」と聞き返すことが、多くなってきています。
聞き返しが出来る関係でしか今のところ、生きていないので、恵まれているのかもしれませんけれどね・・。子供なんて、強制的に、こちらのペースで、合わせていますし、子供は子供で、聞かれたくない事とかもあるみたいで、聞こえない事は、いまや、都合がいい(?)部類に入っているかも、しれません・・?けど。
(答えになってないタレイヌ)
鷲羽丸 wrote:
>
> それはさておき、わしはこのマンガで強く疑問に思う点がありました。それは、
>
>「千兵衛(アラレを作った人)が、アラレはロボットであることをしきりに隠す」
>(中略)
> これ、「見た目にわからない障害を抱える子供を、普通であるように見せる」親の考えとダブって感じてしまうんですよねえ……。
>
> 鳥山氏の考えはどうだったか 鷲羽丸
私は「究極超人あーる」(ゆうきまさみ著、サンデーコミック)が好きでした。まあ、基本的にアニメのパロディをそこここに散りばめたのりの軽いマンガではありましたが。このマンガでは「あーる」君がロボットであることはいとも簡単に明らかにされます。でも、何の不都合も起こりません。あーる君がちょっと変なのはロボットだからと周りが納得してるから。これもある意味ちょっと考えてしまう事ではあるかもしれませんね。でも、ある点においてはあーる君は抜群の能力を発揮します。
(あさかぜさん、「究極超人あーるの歌」ってご存知ですか? 実は山本正之さんの作品の中で私はこれが一番好きだったりします。)
あられちゃんが明らかに常人ばなれした能力(これを障害とみるか才能ととるかも思案のしどころでは)を持っていながら周りが彼女を人間と信じているってのはちょっと無理があると私は思っていました。昨日まで一人暮らしの所にいきなり妹じゃねぇ。ほんとは皆知っていて、ただ千兵衛さんだけはばれてないって思っていたんじゃないかなぁと。でも、天才科学者を自任する彼が、その最大の作品を世の中に発表しないほうが、私には納得がいかなかったのも事実です。まあ、あくまで、この作品はギャク系なので、シリアスにとらない方が良いのかも、ってことですか?
そう言えば、「ヴァーチャル ガール」というSFがありました。4-5年ぐらい前に早川SFから出版されました。枝葉を覚えるのは苦手なのでちょっと違うかもしれませんが、ここの世界では移動型ロボット、あるいは進化型人工知能は作るのが許可されていない。で、主人公のロボットちゃん(名前忘れた)は、とある事故で制作者と逸れた後自分がロボットである事を隠して何とか彼の元に辿り着くのです。その理由はメンテナンスのため、で彼に隷属していたからではありませんでした。とても自立したロボットでした。自我に目覚めていたとも言えます。見た目も可愛いから彼の奥さんは彼女に嫉妬します。彼女が彼を愛がゆえに追いかけて来たと思い込んだから。まあ、二人の間には誰にも邪魔されないある種の絆というものがあった訳ですね。で、彼は奥さんに彼女がロボットである事を証明します。その後奥さんが見せたのは確か異質の物に対する嫌悪だったと覚えているのですが。
「Five Star Stories」はちょっと理解するのに縦糸と横糸が絡みすぎて複雑ですが、ここではロボットというよりもクローン技術で作られた人工生命体ファティマの話です。で、彼女らはファティマであるがゆえに受ける差別があります。とはいうものの、6巻あたりから読むのが止まったのでどういう展開になったかは定かではありませんが。
アン マキャフリーの「クリスタルシンガー」「キャラサンドラ」「クリスタルライン」は元は普通の人間がいわゆる「よーかい」になる(というと作者に失礼でしょうが)殆ど不老不死の肉体を得る変わりに記憶力がとっても悪くなってしまう、という、クリスタルシンガーのお話です。
「超人ロック」なんても特殊能力が故の苦悩の少年の物語だったような。彼の求める幸せって年取って老衰で死ぬって事かなと思ったりします。記憶が無くならないっていうのは時として残酷なのかもしれない。
話がずれてしまったらすいません、 (かおり)
pennpenn58さん wrote:
> 私はなんか頼りない母親で時々落ち込んで気弱になってつい言われるまま中3の娘に携帯電話を買ってやってあとでいくら何でも与えるには早すぎたなんて落ち込んでめそめそ泣いたりなんて・・・・・。
>元気なときには何とかやっているのですが。
レスありがとうございました。
わたしだって頼りない母親ですよ〜。元気なときにはできるだけ動いて、元気がないときには何も考えずに寝ている(横になるだけでもOK)という状態を繰り返しています。それでもなんとかなるものだということを知りました。
いろいろと引き受けなくちゃならない(子育てのほかにも家族の健康管理とか、ご近所親戚のお付き合いやら、日常生活の細かいことあれこれマルチに)ことの多い「母親」というのはかなり疲れる仕事なので、休みもたくさん取っていいんだと気づくまでに何年もかかったわたしです。
できるだけ無理をせずにマイペースを心がけるのが、遠回りなようで回復への早道かもな〜と思う今日この頃です。うつから抜け出すと、元気もわいてくるのでメソメソしなくなります。メソメソしてたらまだうつかもしれないので、思いっきりひたりましょう(笑)。
最近、このページでコウモリさんが社会を生産者群と非生産者群に分ける試みをしたり、慎言居士さんが富裕者群と非富裕者群に分ける試みをなさったりしている。私も色々考えたのだけれどどうも今の私にはその分類の仕方がピンとこないというよりもうこの現代社会は対立構造を設定するというのが無理という段階に来ているような気がします。
人を生産者だからこうだ非生産者だからこうだと決めつけるのが難しいと思うのです。たとえば昔なら障害者は不幸なことが多かった。でも今ではきっと不便はきっと色々あると思うのですが現状に満足している障害者もいれば現状に満足することができない健常者もいる。
例外的なことが多すぎて人を外面的に分類して対立的にものを考えるのが難しいように思うのです。
私がいつも感じる対立構造は世の中には幸せな人と不幸な人がいるということです。富裕であっても幸せな人がいれば不幸な人もいる。お金がなくても幸せに暮らしている人がいる。ASであっても幸せな人もきっといると思うし、不幸せな人もいる。私は・・・・・幸せではありませんが・・・・・。
いつも思うのです。世の中はなんで不公平なんだろうと。でも人によっては私が幸せだと思う人もいるかもしれない。結婚して3人の子供がいる。世の中には子供を産みたくても産めない人もいるのに・・・。
私はこの世の中を2分類するとしたら大脳生理学的にセロトニンの多い人と少ない人に分類したい。自分の状況に幸せを感じることができる人とできない人。私の問題はASかどうかではなく幸せを感じることができないことにあるような気がします。たしかにASであることでいじめられたこと、苦労してきたこと、悩んだことは多かったけれど今の私の状況は人によっては幸せという人もいます。自分の実の親と同居できていいねなんて・・・・・・。沈黙・・・。
このページでも幸せな人ってきっといますよね。考え方がポジティブな人。うらやましいです。それはきっと脳のセロトニンが多いせいに違いないなんて思考の拒否でしょうか。それとも鬱が改善しないせい?
武田君は散歩して農作業をしている老夫婦をみて安らぎを覚えたとのこと。そうなんですよね。些細なことに安らぎと幸せを感じる。それが大事。セーターを裏返しに着たっていいじゃないですか。でもASってそうなんですよね。些細なことでショックを受けるような気がする。些細なことでも繰り返しが続くとストレスになるのですよね。長々とすみません。ではまた。
更にずれてしまいますが・・・。
Maria さんwrote:
> あたしは、「こうした論理的に閉塞した状況において、人間が理性的にふるまうことが本当にいいことなのか?」についてちょっと疑問に思っています。キレて大暴れをして、収拾がつかないほど大きなトラブルに発展させて、「当事者みんなの問題」にすることによってしか、こうした問題は解決しないんじゃないだろうか、とあたしは思っています。
そうだと思います。当事者は、上手に(?!)騒ぐ努力(!)が、必要です。しつこく、しつこく・・・。
> ただ、みんなが「これはわれわれ全員の問題だ」と納得してくれるとは、とても思えませんが。
実際的には、『みんな』は無理ですが、運がよければ、そのうちの、何人かが気付くので、時間をかけて、解決・・・ではなく、「変化させていく」しかないのかもしれません。
つまり、多くの、この手(いじめ)の問題は、どんな場合でも、算数の答え(?)や、学問(?)のようにある程度のみんなが納得するような「解決」あるいは「結論」には、至れないんですよね。(むしろ、至ってはいけないかも?)時間的な「スパンが長い解決(?)」をめざすことが、せいいっぱい・・ということが、多いように思います。
(タレイヌ)
truth さんの状況は、私が英語ネイティブに取り囲まれた状況にすごく似ているようです。
私の場合はそういうときは仕事のことが多いので、わからないときには「わからない顔」をしているのがいちばん問題は起きないように思います。
# お仕事の場合は、わかったフリをしているとあとで必ず困る。
# でもお仕事内容が交渉ごとの人にはおすすめできるかどうか??
でも、その場その場はなんとかなっても、頻度が上がるとだんだんつらくなってくるんですよね。
お気持ちはすごくわかります。
どう対処していいかはよくわからないんですが。
truth wrote:
>あまり書き込みをしていないのに、すみません・・・。
>
>仕事で・・・プライベートで人と会っていて・・・例えば、会議の時とか・・・沢山の人達がいて、喋っていると、何言っているのか分からないときがあります。分かろうとして・・・一所懸命聞く努力をしていても、話は次の話に移っていたりするのです・・・。
>
>そんな時は、「うんうん・・・」と聞く努力をして、分かっているように頷いたりするのですが、全然分かっていない時があります。一対一だと比較的相手の話が分かるのですが・・・。後、概念的な話とか・・・物とかに対する話だったり、単純な話だと理解出来るのですが、全体を把握したりする話・・・現実的にどうするかという話だとほとんど全然分かりません。
>
>メールや文章だと理解でき、又、人間対人間でない方が理解しやすいです。人間だと、その人の印象とか・・・相手の存在感みたいなものに気を取られてしまい、言葉が出てこなくなってしまいます。
>
>無理して合わせるより、そういう時は、「分かりません」と言うべきでしょうか?又、「よく分からないので、ゆっくりもう一度言って下さい。」と言うべきでしょうか?
>
>沢山の人が喋っていると、色々な人達が喋っていて、誰が誰に喋っているとか・・そんな事が分からなくて、気が動転してしまうのです・・・。
>
>自分に対して話しているとか・・・そーいう事も分からないことがあります。
>
>そんな経験がある人がいたら、教えて欲しいのです。そんな時は、どう対処しているんでしょうか?
私も全くその通りの症状で悩んできました。ほうぜんとしたのは大学の授業のとき。授業は一時間半だったのですがその時間を私は集中力を維持することができなかったし、教科書のない教師の話すことを理解してノートを取ることができませんでした。
社会生活ではtruthさんのおっしゃるとおりの状態です。どうしたらいいのかについては私もわからないのですがそれはこのページで聴覚認知障害と言うものらしいということを知ってなにか気が楽になりました。症状があることはつらいことだけれどそれが病気だということが分かればいくらか耐えるのが楽なような気がします。仕方がないのだ、それは自分の病気なのだからと人とのコミュニケーションのまずさを自分で許すのが私は楽になりました。
どう対処したらいいのかはわからないのですがでもそこは年の功でひたすら図々しくいろんな話しに「あー、それはねえ」とか「エー、何何々?」とかいって話の輪に混じってしまうのが結構有効のようです。
人って気さくに接すれば受け入れてくれるけどお高く(そんなつもりは全然なくても)とまっているように見える人とはつきあいが深まらないもののようです。
なんかお互い大変だけれどこのありがたいホームページで気楽におしゃべりできるのはうれしいですね。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami