私と母の関係は普通の親子関係とはかなり違っていたと思う。「セラピストと対象児」というのが一番分かりやすいだろう。私は現在発達障害児の訓練を仕事にしているが、普通の親子は子育てをしながら親との関係を確認していることを、私の場合は仕事という形で代償しているように感じる。
小さい頃は母親への執着がすごく強く、分離不安もかなり強かった。私にとって母親は裁判官のような存在で、母親の態度で善悪を判断していたんだと思う。母親に否定されることは私にとって存在の全てが否定されることだった。感覚の偏りも大きく、好き嫌いもかなり激しかった。母は相当戸惑い、専門書を読んだり独身時代学んでいた精神分析関係の人にも相談したらしい。
そんな私と母をつないだのは文字だったのかもしれない。私が言葉を話し出したのは4歳だったそうだが、母によると2~3歳代から文字へ関心を示し始め、本を読み聞かせることで大人しくなっていたそうだ。また3歳頃から心理の先生が家庭教師として週1回来るようになり、母もその人に相談することで、精神的に落ち着けたのだと思う。しゃべるようになった頃、私が「もういい」と言い出したのをきっかけに家庭教師は終わりになったそうだ(私はこのことは記憶にない)。
4歳を過ぎて簡単な会話ができるようになっても説明などが苦手で、事あるごとに母親にきちんと説明するよう促された。まるで訓練を受けているかのように自分の行動を意識化する練習が毎日続いた。今思えば「よくやったな」と感じるが、当時はそれが当たり前だったから煩わしさは感じても、別に何の疑問も持たなかった。またよく「お前はわがままだ」「自分勝手だ」とよく叱られたが具体的な意味が分からず「はぁ?」という態度を取って余計に叱られていたことをよく覚えている。
小学校入学時に不安を持った母親は家庭教師だった心理の先生に相談に行くが、「知的にはノーマルだから普通学級でいい」と言われ、その助言どおりにした。しかし入学後担任の先生まで加担するようないじめに遭い、学校までそっと様子を見に行っていたらしい。
ただ、母親自身思ったことをはっきり口にしてしまう、穏やかなコミュニケーションを取るのが下手ということもあり、母のそのような行動でよけいにいじめられたこともまた事実だった。
教会へ行くようになって自分の世界ができることで少し母親から距離を取れたため、そこでいろいろな形の人間関係を実践的に学べたことは私にとってはとても役立った。
思春期になって母親の考えが全てではないことが分かると、事あるごとに反発を覚えるようになった。母は精神分析の盲信者で、何かにつけて「どうしてそんなことをしたの?ちゃんと訳を言いなさい」という人だった。今でもはっきり覚えているのは小学校5年生の時、風邪を引いて寝込んでいたら「何で風邪を引きたかったの?」と言われて「こんな辛い思いをしているのに、そんなこと分かるわけないじゃん。一体何考えているんだ?」と思ったことである。
我が家の家族の在り方を疑いだしたのもこの頃で、親が過干渉なこともものすごく苦痛になってきた。しかし当時は反発しても母親に全てを見抜かれ、余計に口惜しかったこともよく覚えている。大学で心理学を専攻したのも「母親が言っているのは本当にそうなのか?」という反発心からだったし、専門家を目指して挫折した母親を追い越したいという気持ちからだった。
しかし小さい頃から何かと優等生だった姉と比較され、大学入学後も「あっちは国立大に行って親孝行、それに引き換えお前は私大で迷惑ばかりかける」「お姉ちゃんは泊り込みで実験しているのよ。あんたは何遊んでばかりいるの(アルバイトで生活費を稼いでいたし、学部では相当まじめだったけど)!」と両親から言われ、よけい居場所がなかった。
医療関係の専門学校入学後は少し落ち着いたが、就職活動しても最後まで決まらない娘に「お前は気が利かないから」「やっぱりアスペルガーだから」「決まらなかったら職安に行け!」とよけいにプレッシャーをかけ、親子共々ピリピリしていた。
Shinyu(館の管理人)と出会ったのはこの頃で、携帯電話を持てたことをきっかけに「アスペルガーの女友達ができたから」と嘘をついて逢引をしていた。当時彼は私の家族関係に対して「彼女をこの家から連れ出さないと駄目だ」と本気で思ったらしい。就職先は卒業間近に決まったが、非常勤で一人暮らしでは生活が大変なこともあり、思い切って彼との同居を決め、親にも打ち明けた。最初は相当混乱していたが、アパートの契約までしていたこと、二人の意志が固かったことで渋々承諾した。ただ、入籍するまでは「破廉恥だ!」「家の娘を返せ!」とよく彼はなじられていた。当時一度だけ普段は温厚なShinyuが「いい加減にしてください!僕の好きな人の悪口をそんな風に言わないで下さい!!」と言ったことがあり、彼が怒ったのを見たのは後にも先にもこれ1度なので「やっぱりうちって変かも」と思ったことはよく覚えている。
入籍後は大分落ち着き、むしろパソコンのことなどは「秋桜は冷たいから、Shinyuの方が優しく教えてくれるから彼に聞くわ」と言っているので随分勝手だなぁと思う今日この頃である。
今振り返ってみると父も母も親から愛情を受けて育った人たちではなかったと感じている。
父は山奥の農村で生まれ育ち、全て金勘定と村のしきたりで動くようなコミュニティの中で育った。何も知らずに東京に出てきたため、相当苦労したらしい。学習障害と注意欠陥障害も若干あるようなので文字からの情報処理は苦手だったが、視空間認知と運動能力が優れていたため、運転手として家族を養っていた。
母はアスペルガーの疑いが濃厚な祖父母の下に生まれた。母親も最近になって「私もアスペルガーだと思う」と言い出している。彼女は祖父母と同様教師になったが、指導力に自信がなくなり、上京して精神分析の勉強を始めた。その後父と見合いし、結婚したらしい。
彼らの系譜を見ていると私のような娘が生まれたのはむしろ当然のことで、愛情や信頼を基にした親子関係が築けなかったのもうなづける。
私が育った当時は今ほど自閉症に関する情報はなかったし、むしろ「自閉症=親の愛情不足」という誤った考え方が医療関係者の間でも常識だったから、相当辛かったし、必死だったと思う。そういう意味では私は小さい頃から療育が受けられたのはすごくラッキーだったし、訓練士として母を見ると「技術面では一流の訓練士」だと思う。
しかし母親の第一の役割は子どもに「生まれてきてよかったね」「あなたはここにいていいんだよ」というメッセージを送ることである。私の母は私に対してその役割を果たせなかった気がする。
仕事をしていると母のようなお母さん方に遭遇することはよくあるし、そういう母親達を心情的に許せない同僚もいる。しかし私にとっては当然のことであり、それは仕方のないことだと感じている。むしろそういうお母さんを許せる面がある。子どもを愛せない、受け入れられないと相談してきたお母さんは多いが、私は自分の経験を踏まえた上で「それでいいじゃないですか。でもお子さんにはぶつけないで下さいね」と返すことにしている。そういう母親達は自分の気持ちを認めてもらうことで楽になったと帰って行き、前向きな気持ちでに子ども達に向き合うことができている。
逆にそういう母親達を見て楽にさせてもらっているのは私の方なのかもしれない。