私が柳澤桂子さんのことを知ったのは6年程前、生命倫理に関するNHKのテレビ番組だった。当時彼女は原因不明の病で寝たきりで中心静脈栄養で命をつなぎながら原稿を書き、生命科学者としてのメッセージを発していた。当時は「ああ、そういう人もいるんだな」という位の印象しかなかったが、30年近く病と向き合いながら科学に対する畏敬の念を失わない姿勢に衝撃を受け、それ以来機会があると彼女の記事が載っている新聞や雑誌、著作などを読むようにしている。
幸い彼女は理解ある医師と出会い、処方された薬が功を奏して寝たきりの状態から脱することができたそうである。それまでの経過は彼女の著作に詳しく記されているが、症状がひどいのに原因がよく分からなかったため、医師達から「ヒステリーだ」「心身症だ」「わがままだ」と言われ、時には心無い対応をされたことが多かったそうだ。そして原因が分からないまま症状が悪化して仕事を続けることが困難になり、結局辞めざるを得なかったという。現在同じような立場にいる者として彼女が感じた気持ちは共感を覚える。現在の西洋医学では診断名がつかないものに対してはあまりにも無力で、検査では分からない症状を訴える患者に対する医師の態度は時として「私の苦しみを認めてもらえない」という気持ちを生むことになり、結果として医療不信につながっていると感じている。
現在私も体調を崩しており自宅療養をしているが、いくつかの要因が絡んでいるため所見のわりには症状が重く、様々な可能性を探りながら検査・治療を進めている状態である。幸運なことに漢方にも詳しい現在の主治医を見つけることができ、じっくり話を聞いてもらった上で症状に応じた薬を処方してもらっている。恐らくこの主治医に出会わなかったら私ももっと孤独感に悩むことになっただろう。現に精密検査のために訪れた他の病院では地域の基幹病院だったにもかかわらず、症状をいくら訴えても「血液検査では異常がないんだから気のせいでしょう」という冷たい対応をされ、一層心細い気持ちになったことがある。この時も主治医に相談したらすぐに内視鏡検査ができる病院を紹介してもらい、その結果思いがけない病気が発見されて治療を開始することができた。血液検査だけでは発見されなかったいい例である。
柳澤さんは生命科学者として障害に対しても一言を持っている。2月8日(火)の朝日新聞に書かれてた彼女の文章「宇宙の底で」から一部抜粋する。
遺伝子に突然異変はつきものである。一見正常な私達も十個前後の重い病気の遺伝子を持っているという。それがたまたま正常な遺伝子にマスクされているので、発現しないだけである。 私たちは、ヒトの染色体の大きな集団から、46本の染色体をあたえられて生まれてくる。けれども、人類という集団のなかには、かならずある頻度で、障害や病気を持った子供が生まれてくる。ヒトの遺伝子集団のなかに入っている病気の遺伝子を誰が受け取るかわからない。それを受け取ったのがたまたま自分でなかったことに感謝して、病気の遺伝子を受け取った人にはできるだけのことをするのが、健常者の義務であろう。そして、どのような病気の子供も安心して産める社会をつくらなければならない。
受精卵診断などによって、異常児を排除することは、優生思想につながりかねない。病人や障害者を排除する思想である。障害者を排除する社会は、人々が自己中心的で住みにくい社会であろう。弱いものをもっと守っていく社会であってほしい。
彼女はきっと病気にならなかったら日本でも有数の研究者になれただろう。しかし病気になったことでより広い領域での仕事をすることになり、私たちに勇気と希望を与えている。自分の病名を知るまでに30年という年月がかかったが、多くの困難に負けずに真実を知ろうとした気持ちには頭が下がる。また科学者という冷静な視点と女性らしい細やかな配慮が見える文章からも彼女の生命に対する愛情の深さが伺われる。彼女の文章を読むと「知ることの大切さ」「知らないことの恐ろしさ」を感じる。
発達障害もまだまだ未知の分野が多い領域である。これからも様々な研究や治療法が出てくるだろうが、「誰のための医療なのか」「その治療は必要なのか」「科学的に考えて適切なのか」「倫理的に考えてどうなのか」といった視点を常に持って仕事をしていけたらと考えている。