死生学というのはあまり知られていない学問かもしれないが、分かりやすく書くと色々な分野(医学、哲学、心理学、法学、民俗学、文化人類学、宗教学、芸術等)から死について学術的に考え、研究していくという学問である。私達は誰でも一度は死について考えたことがあると思うが、一体何人が具体的に自分の死について冷静に考えてみたことがあるだろうか。
日本では慣習として死を語ることはタブーとされてきたが、この世に生まれてきた以上死は避けられない物であり、死を身近な問題として捉えることで自分の生き方を考え直したり、自分自身や身近な人の死にどう対応するかを事前に考えておくことはとても大切なことだと感じている。
仕事柄多くの患者さん達にお会いしてきたが、既にこの世を去っている人たちも何人かいる。中には大往生という人もいれば、働き盛りの年齢で亡くなった方、わずか数年という短い命だったこともあった。知らせを聞いたときはもちろんショックだったが、アスペルガーの私がこれらの事実を悲しみつつも冷静に受け止め、何とか乗り越えて仕事を続けられたのは幼い頃から両親が示してきた死に対する率直な態度と、大学時代学んだ生命倫理の授業のお陰だと感じている。
私が死というものを意識したのは親戚が相次いで亡くなった6歳の時だった。優しかった伯父たちや父方の祖父が病で亡くなり、物言わぬ姿で棺に入っているのを見た。この時初めて「人は死ぬし、私もいつかはこうなるんだ」と感じ、少し怖くなった。でもそれと同時に死について色々考えるきっかけにもなったと思う。
訳が分からぬまま親の様子を見よう見まねで焼香し、別れを告げ、墓地へ行って納骨などの一連の行事を済ませた。その時に「もう二度と会えないんだ」という実感が湧き、悲しい気持ちになったことは今でも覚えている。
その後他の祖父母も亡くなり、遺産について親族間で言い争いが起こった。その中には遺言書さえきちんと作っておけば避けられた問題もあり、死後の始末をきちんとつけることの大切さと難しさを実感した出来事だった。
そして私が死生学に出会ったのは大学2年の時だった。講義概要を読んでいたら生命倫理に関する授業があることを知り、講師陣も様々な方面のスペシャリストが輪講する、というので早速受講してみた。本当に魅力的な講師陣たちで、医学、哲学、法学、倫理学、宗教学といった立場から生と死に関する話を聞いて色々考えることができた。一人の講師につき2回ほど講義を受けた後にレポートを提出するシステムになっていたので考えをまとめる機会もあり、それも私には合っていたと思う。元々私が通っていた大学は外国人の教官が多く、死を語ることについてあまりタブー視してない傾向があったし、ドイツ人の教官はナチス時代のレジスタンス体験なども話してくれた。
大学卒業後訓練士の養成校へ進学したが、何人かの講師がやはり死について話をしてくれた。現場の医師達がこのような話をしてくれたのはとても貴重な経験で、病院で働く上の心構えを作ってもらえたと感謝している。
養成校卒業後、最初に就職したのが救命救急センターが併設された総合病院だった。当然様々な疾病の患者さん達に接する機会があり、中には末期ガンなど余命いくばくもない人達を担当することもあった。その中で日本のターミナル・ケアの不十分さについて考えることも多く、患者のQOLについて悩むこともあった。
その後は発達障害児の専門病院に移り、しばらく仕事に追われる日々が続いていた。そんなある日、両親から独身だった父方の叔父が末期ガンであることが判明し、長兄だった父が面倒を見ることになったという知らせがあった。そこで両親からどう対応したらいいかという相談を受けた。たまたま母も病院勤務の経験があり、死生学について色々勉強していたこともあったため、治療については両親がかなり動いていたし、私が分かる範囲でアドバイスをしたら両親なりに情報を集めて叔父と相談をしてくれた。幸い入院先が両親及び私の家から近かったこと、主治医が緩和ケアを中心にできるだけのことをする、という姿勢を示したため、そのままその病院で治療することになった。
そのうち叔父はどんどん弱っていき、両親達も親族に交代で看病して欲しいと言ってくるようになった。その中で両親が特に頼ってきたのは意外なことに一番年下だった私だった。医療職であるため病院での動き方や基本的な医学的知識もあったし、叔父とも一番コミュニケーションが取れていたというのがその理由だった。幸い叔父も私とは話しやすかったようで、仕事の合間を縫って面会に行くと色々話をしてくれた。両親の話だと他の親族だと黙ったままで話しかけられてもあまり話をしなかったらしいが、私が見舞いに行くと叔父はいつも「よく来たね」と嬉しそうな顔をし、帰るときは「また来てくれるよな」と寂しそうな顔をして送ってくれた。二人だけになるとよく医学的なことを私に質問したり、死についての恐怖を私に素直に話をしてくれた。私も今まで関わってきたターミナル・ケアの話をしたり、一緒にアルバムなどを見て昔話に花を咲かせたりとできるだけ叔父の話の聞き役に回っていた。
恐らく叔父がそうなれたのも私が医療職だったこと、そして親族の中で一番叔父の遺産から遠い人だったというのがあったのだろう。私の方も今まで病院で色々な患者さん達と会ったという経験があったからこそ、叔父の想いを受け入れられたのだろうと感じている。主治医の先生にも「リハビリの仕事をしているんだって?叔父さんから聞いたよ。君が来ていると叔父さんも楽しそうだね」とからかわれて叔父も照れ笑いをしていた。
そんな日々が半月ほどした頃、父から「お前から注意するようアドバイスされていた項目の数値が下がってきた」と残業中に知らせがあり、取る物もとりあえず勤務先から病院へ急行した。顔を見た瞬間もう叔父にそんなに時間が残っていない、ということが分かり、両親も同じ気持ちのようだった。両親の希望もあり、勤務先には事情を話して翌日から仕事を休んで叔父の看病に専念した。もうほとんど声が出なくなっていた叔父は私以外声を聞き取ることができず、そのため手を握り合う、まばたきをしてもらうといった非言語の手段も用いて意思を確認する必要があった。交代する時には親族に意思を確認する方法を伝え、叔父にも私にしたようにやるよう約束してもらった。
それから間もなくして叔父が危篤状態になったと夜中に連絡があり、叔父は親族達と別れを告げた。かなり取り乱した人も何人かいたが、私は静かに叔父を見送ってあげたかった。叔父はもう死を受け入れていたらしく、親族達から「ありがとう」と言われると手を強く握り返し、「何もできなくてごめん」と否定的なことを言われると小さく顔を歪めて手を離してきた。叔父の反応が読み取れない人のために私は表情や行動から叔父の意思を伝えた。そして親族との別れを告げ終わった数時間後、叔父は静かに息を引き取った。
後日父から「主治医がお前のことを叔父さんの意思をとても尊重して上手にコミュニケーションを取っていたね、とすごく褒めていたぞ」という話を聞き、私は涙が止まらなかった。そのことばだけで十分だった。死について勉強し、リハビリの仕事をしていたからこそ叔父の看取りを手伝うことができたし、両親も「秋桜は私達を越えたね」と今までの努力を認めてくれた。
両親達も今回のことで色々なことを教わったようだ。特に父は今まで避けてきた死について考えるようになったようで、父なりに健康でいる努力を最近している。夫も叔父の死はショックだったらしく、付き合いが途絶えていた友人達と少しずつ連絡を取るようになった。夫婦で話し合って家を建てたのを機に万が一のことを考え、お互いに相手が困らないよう遺言状も書いた。「ここまでするのか」と驚く人もいるかもしれないが、遺言とは死ぬことで生じる遺された人達の負担を少しでも減らしたいという相手への思い遣りの気持ちの表明であり、不要な争いを避けるためにも必要なことだと私達は考えている。
畳の上で死を迎えたい、過剰な延命治療はしてほしくない、という希望の人は多いが、元気なうちに意思を表明しておかないと今の日本ではなかなか自分の思い通りの医療を受けられないこともある。色々な事情で希望通りにできないこともあるだろうが、「死んだらそれまでさ」ではなく、「いつかは死ぬんだから、せっかくだから自分の希望を少しでもかなえてもらえるようにしよう」と思う方がずっと前向きに生きていけるような気がしている。