1067_42460.html(32):  折竹孫七が、ブラジル焼酎(しょうちゅう)の“Pinga(ピンガ)”というのを引っさげて、私の家へ現われたのが大晦日(みそか)の午後。さては今日こそいよいよ折竹め秘蔵のものを出すな。このブラジル焼酎(ピンガ)を飲(や)りながらアマゾン奥地の、「神にして狂う(リオ・フォルス・デ・デイオス)」河の話をきっとやるだろう……と私は、しめしめとばかりに舌なめずりをしながら、彼の開口を待ったのである。 1067_42460.html(37):  すると、折竹はそれに答えるかわりに、包みをあけて外国雑誌のようなものを取りだした。Revistra Geografica Americana(レヴイストラ・ジエオグラフイカ・アメリカナ)――アルゼンチン地理学協会の雑誌だ。それを折竹がパラパラとめくって、太い腕とともにグイと突きだしたページには、なんと、“Incola palustris(インコラ・パルストリス)”沼底棲息人と明白にあるのだ。私は、折竹の爆笑を夢の間のように聴きながら、しばしは茫然たる思い。 1067_42460.html(88):  「そうだ。時に、喋(しゃべ)っているうちに気が付いたがね、今夜は、“Bicho(ビッショ)”の発表の晩じゃないか」 1067_42460.html(89):  “Bicho(ビッショ)”というのは、ブラジル特有の動物富籖(とみくじ)である。蟻喰い(タマンツァ)の何番、山豚(ポルコ・デ・マツトオ)の何番というように、いろんな動物に分けて番号がつけられている。その、当り籖が今宵の十二時に、ラジオを通じていっせいに発表されるのだ。それから二人は、パゲタ島からにおう花風のなかで、動物富籖(ビッショ)の発表を待ちながら酒杯を重ねていった。折竹は、もう泥のように酔ってしまっている。 1067_42460.html(138):  「ところで、その新礦地があるのは、“Gran Chaco(グラン・チャコ)”だ。どうだ、グラン・チャコとは初耳だろう」 1067_42460.html(140):  南緯二十度から二十七度辺にまでかけ、アルゼンチン、パラグァイ、ボリヴィアの三か国にわたり、密林あり、沼沢(しょうたく)あり、平原ありという、いわゆる庭園魔境の名のグラン・チャコ。そこは奇獣珍虫が群をなして棲(す)み、まだ、学者はおろか、“Mattaco(マツタコ)”印度人(インディアン)でさえも、奥地へは往ったことがないというほどの場所だ。 1067_42460.html(141):  「で、そのグラン・チャコのなかに“Pilcomayo(ピルコマヨ)”という川がある」とカムポスが淀(よど)みなく続けてゆく。 1067_42460.html(143):  で諸君、諸君はこの川が貫いている“Esteros de Patino(エステロス・デ・パチニョ)”すなわち『パチニョの荒湿地』なるおそろしい場所を知っているかね。いや、ブラジルには通り名がある。パチニョというよりも『蕨の切り株(トッコ・ダ・フェート)』――。俺はその名を知らんとはいわさんぞ」 1067_42460.html(153):  「俺は去年、パラグァイ軍の志願中尉をやっていた。まったくあの国は、学歴さえあれば造作なく士官になれる。で俺は、一通り号令をおぼえたころ、任地に送られた。これが、『蕨の切り株』に大分近くなっている、ピルコマヨ堡塁線(フォルチネス)中の“La Madrid(ラ・マドリッド)”というところだ。俺は、そこへゆくとすぐ上官に献策をした。先占(せんせん)をしなさい、全隊が銃を捨てて探検隊となり、『蕨の切り株』に踏みいって、パラグァイ旗を立てれば――と言ったら、俺はひどく怒られた。理屈はどうでも、銃を捨てて――なんてえ言葉は非常に悪いらしいのだ。俺は、そんな訳で業腹(ごうはら)あげくに、ようし、じゃ俺が一人で行って先占をしてやると、実にいま考えると慄(ぞ)っとするような話だが、腹立ちまぎれにポンと飛び出したのだ。 1067_42460.html(169):  「では、“Escada de ma(エスカーダ・デ・モン)”はいかがで」 1072_22575.html(77):  私と哲学との関係は上に述べたことと関連してやはり三段階を経て発展した。よくあるように私も最初は哲学というものは非常に高遠で奇抜なもののように考え、そしてそのような深邃なもの新しいものを知ろうという好奇心と、そのような人が困難とするところのものを自分は理解し得ることを示そうとする虚栄心と、もっと根本的には貪(むさぼ)ってあくことを知らない知識慾とから哲学に向った。およそ哲学と名のつくものは唯その名のためにたいへん偉いもののように思われた時代が私にも最初にやって来た。その頃私はなるべくたくさんの哲学者の名を暗記しようとしたり、またそれらの哲学者の書いた書物の題をできるだけ多く記憶しようとした。私は単に哲学者の名やその書物の題を知りもしくはその書物を買込み、高々それらについての簡単な紹介かあるいはその書物から断片的な章句を知れば、もうそれだけで自分もひとかどの哲学者になったつもりで思いあがっていたらしい。私はそれの正当な解釈も知らず、またそれが全体の哲学体系の中でいかなる位置と意味とを占むべき句であるかも知らないで、いたずらに先行思想家の言句を喋り廻った。スペンサー曰(いわ)く、ミル曰く、ショーペンハウエル曰く、カント曰く、などということがたくさんにできれば私は得意であったし、またそんな断片的な知識で人を驚かすに十分であると信じていた。けれど真の哲学は他人相手の仕事ではなくして自己の魂の真摯(しんし)なる労作である。私に哲学上の教養があったとするならば、それは“someone said”の哲学に関してであった。しかしながら貨幣の種類をたくさんに示し得る人が必ずしも金持ではない。 1102_14956.html(40):  それで創作家の態度と云うと、前申した通り創作家がいかなる立場から、どんな風に世の中を見るかと云う事に帰着します。だからこの態度を検するには二つのものの存在を仮定しなければなりません。一つは作家自身で、かりにこれを我(が)と名づけます。一つは作家の見る世界で、かりにこれを非我と名づけます。これは常識の許すところであるから、別に抗議の出よう訳がない。またこの際は常識以上に溯(さかのぼ)って研究する必要を認めませんから、これから出立するつもりでありますが、今申した我と云うものについて一言弁じて後の伏線を張っておきたいと思います。もっとも弁ずると申しても哲学者の云う“Transcendental I”だの、心理学者の論ずる Ego の感じだのというむずかしい事ではありません。ただ我と云うものは常に動いているもので(意識の流が)そうして続いているものだから、これを区別すると過去の我と現在の我とになる訳であります。もっともどこで過去が始まって、どこから現在になるんだと議論をし出すと際限がありません。古代の哲学者のように、空を飛んで行く矢へ指をさして今どこにいると人に示す事ができないから、必竟(ひっきょう)矢は動いていないんだなどという議論もやれないでもありません。そう、こだわって来ては際限がありませんが、十年前の自分と十年後の自分を比較して過去と現在に区別のできないものはありませんから、こう分けて差(さ)し支(つかえ)ないだろうと思います。そこで――現在の我が過去の我をふり返って見る事ができる。これは当然の事で記憶さえあれば誰でもできる。その時に、我が経験した内界の消息を他人の消息のごとくに観察する事ができる。事ができると云うのですから、必ずそうなると云うのでもなければ、またそう見なくてはならないと云うのでもありません。例(たと)えば私が今日ここで演説をする。その時の光景を家(うち)へ帰ってから寝ながら考えて見ると、私が演説をしたんじゃない、自分と同じ別人がしたように思う事もできる――できませんか。それじゃ、こういうなあどうでしょう。去年の暮に年が越されない苦しまぎれに、友人から金を借りた。借りる当時は痛切に借りたような気がしたが、今となってみると何だか自分が借りたような気がしない。――いけませんか。それじゃ私が小供の時に寝小便をした。それを今日考えてみると、その時の心持は幾分か記憶で思い出せるが、どうも髯(ひげ)をはやした今の自分がやったようには受取れない。これはあなた方も御同感だろうと思います。なお溯(さかのぼ)りますと――もうたくさんですか、しかしついでだから、もう一つ申しましょう。私はこの年になるが、いまだかつて生れたような心持がした事がない。しかし回顧して見るとたしかに某年某月の午(うま)の刻か、寅(とら)の時に、母の胎内から出産しているに違いない。違いないと申しながら、泣いた覚もなければ、浮世の臭(におい)もかいだ気がしません。親に聞くとたしかに泣いたと申します。が私から云わせると、冗談(じょうだん)云っちゃいけません。おおかたそりゃ人違いでしょうと云いたくなります。そこで我々内界の経験は、現在を去れば去るほど、あたかも他人の内界の経験であるかのごとき態度で観察ができるように思われます。こう云う意味から云うと、前に申した我のうちにも、非我と同様の趣で取り扱われ得る部分が出て参ります。すなわち過去の我は非我と同価値だから、非我の方へ分類しても差し支ないと云う結論になります。 1144_11850.html(256):  アミイバが触指を出して身外の食餌(しょくじ)を抱(かか)えこみ、やがてそれを自己の蛋白素(プロトプラズム)中に同化し終るように、私の個性は絶えず外界を愛で同化することによってのみ生長し完成してゆく。外界に個性の貯蔵物を投げ与えることによって完成するものではない。例えば私が一羽のカナリヤを愛するとしよう。私はその愛の故に、美しい籠(かご)と、新鮮な食餌と、やむ時なき愛撫(あいぶ)とを与えるだろう。人は、私のこの愛の外面の現象を見て、私の愛の本質は与えることに於てのみ成り立つと速断することはないだろうか。然しその推定は根柢的(こんていてき)に的をはずれた悲しむべき誤謬(ごびゅう)なのだ。私がその小鳥を愛すれば愛する程、小鳥はより多く私に摂取されて、私の生活と不可避的に同化してしまうのだ。唯(ただ)いつまでも分離して見えるのは、その外面的な形態の関係だけである。小鳥のしば鳴きに、私は小鳥と共に或は喜び或は悲しむ。その時喜びなり悲しみなりは小鳥のものであると共に、私にとっては私自身のものだ。私が小鳥を愛すれば愛するほど、小鳥はより多く私そのものである。私にとっては小鳥はもう私以外の存在ではない。小鳥ではない。小鳥は私だ。私が小鳥を活(い)きるのだ。(The little bird is myself, and I live a bird)“I live a bird”……英語にはこの適切な愛の発想法がある。若しこの表現をうなずく人があったら、その人は確かに私の意味しようとするところをうなずいてくれるだろう。私は小鳥を生きるのだ。だから私は美しい籠と、新鮮な食餌と、やむ時なき愛撫とを外物に恵み与えた覚えはない。私は明かにそれらのものを私自身に与えているのだ。私は小鳥とその所有物の凡(すべ)てを残すところなく外界から私の個性へ奪い取っているのだ。見よ愛は放射するエネルギーでもなければ与える本能でもない。愛は掠奪(りゃくだつ)する烈(はげ)しい力だ。与えると見るのは、愛者被愛者に直接の交渉のない第三者が、愛するものの愛の表現を極めて外面的に観察した時の結論に過ぎないのを知るだろう。 1150_40143.html(91):  先年私がスウェーデンの読者界のために著した一書『宇宙の成立』“Das Werden der Welten”(Vrldarnas Utveckling)が非常な好意をもって迎えられたのは誠に感謝に堪えない次第である。その結果として私は旧知あるいは未知の人々からいろいろな質問を受けることになった。これらの質問の多くは、現今に比べると昔は一般に甚だ多様であったところのいろいろの宇宙観の当否に関するものであった。これに答えるには、有史以前から既にとうにすべての思索者たちの興味を惹いていた宇宙進化の諸問題に関するいろいろな考え方の歴史的集成をすれば好都合なわけである。 1150_40143.html(208):  マスペロの『古典的東洋民族の古代史』(Maspros “Histoire ancienne des peuples de l'Orient classique”)の中にカルデア人の宇宙観を示す一つの絵がある(第二図)。地は八方大洋で取り囲まれた真ん中に高山のように聳え、その頂は雪に覆われ、そこからユーフラテス(Euphrat)河が源を発している。地はその周囲を一列の高い障壁で取り囲まれ、そして地とこの壁との中間のくぼみに何人も越えることのできない大洋がある、壁の向こう側には神々のために当てられた領域がある。壁の上にはこれを覆う穹窿(きゅうりゅう)すなわち天が安置されている、これはマルドゥクが堅硬な金属で造ったもので、昼間は太陽の光に輝いているが、夜は暗碧の地に星辰をちりばめた釣鐘に似ている。この穹窿の北の方の部分には、一つは東、一つは西に、都合二つの穴の明いた半円形の管が一本ある。朝になると太陽がその東の穴から出てきて、徐々に高く昇ってゆき、天の南を過ぎて西方の穴へと降ってゆき、そこへ届くのが夜の初めである。夜の間は太陽はこの管の中をたどっていって、翌朝になると再びその軌道の上に運行を始めるのである。マルドゥクは太陽の運行によって年序を定め、年を一二の月に分ち、毎月が一〇日すなわちデセードを三つずつもつことにした。それで一年が三六〇日になる。毎六年目に閏月が一つあてはさまることにしたので一年は平均するとやはり三六五日ということになったのである。 1150_40143.html(295):  ギリシアの宇宙開闢説はローマ人によって踏襲されたが、しかしそのままで著しい発展はしなかった。オヴィドがその著メタモルフォセス(Metamorphoses)の中に述べているところによると始めにはただ秩序なき均等な渾沌、“rudis indigestaque moles”があった。それは土と水と空気との形のない混合物であった。自然(ナツール)が元素を分離した。すなわち、地を天(空気)と水から分ち、精微な空気(エーテル)を粗鬆な(普通の)空気から取り分けた。『重量のない』火は最高の天の区域に上昇した。重い土はやがて沈澱して水によって囲まれた。次に自然は湖水や河川、山、野、谷を地上に形成した。以前は渾沌の闇に隠されていた星も光り始め、そうして神々の住みかとなった。植物、動物、しかして最後に人類も創造された。彼らはそこで黄金時代の理想的の境地に生活していた。永遠の春の支配のもとに地は耕作を待たずして豊富な収穫を生じた(“Fruges tellus inarata ferebat”)。河々には神の美酒(ネクタール)と牛乳が流れ、槲樹からは蜂蜜が滴り落ちた。ジュピター(ツォイス)がサターン(クロノス)を貶してタルタロスに閉じ込めたときから、時代は前ほどに幸福でない白銀時代となり、既に冬や夏や秋が春と交代して現われるようになった。それで厳しい天候に堪えるために住家を建てる必要を生じた。すべてのものが悪くなったのが銅時代にはますます悪くなり、ついに恐ろしい鉄時代が来た。謙譲、忠誠、真実は地上から飛び去り、虚偽、暴戻(ぼうれい)、背信、そして飽くことを知らぬ黄金の欲望並びに最も粗野な罪悪の数々がとって代った。 1150_40143.html(426): (注)“Sanctius his animal mentisque capacius altae-Deerat adhuc et quod dominari in cetera posset- Natus homo est.” 1150_40143.html(506):  時代の移るとともに、ペルシアにおけるツァラトゥストラの教えは変化を受け、数多の分派を生じた。その中で次第にツァラトゥストラの帰依者の大多数を従えるに至ったゼルヴァニート教の人たち(Zervaniten)の説いたところによると、世界を支配する原理は無窮の時“zervane akerene”であって、これから善(Ormuzd)の原理もまた悪(アフリメン Ahrimen)の原理も生じたというのである。 1150_40143.html(946):  時間の概念の漸次に変ってきた道程は奇妙なものである。カルデア人が三、四万年の昔に既に天文学的観測を行ったはずだということをキケロが推算したのは前に述べたが、これから見ても、昔の人々は何の躊躇もなくこの世界が非常に古くから存立していたという仮定をしたことがわかる。インドの哲学でもやはり世界の存在に対して永い時間を仮定している。中世に至ってはこの考え方は全然すたれてしまった。ラバヌス・マウルス(Rhabanus Maurus)はその大著『宇宙』“De universo”(九世紀の始めころ)の中に次の意見を述べている。すなわち、今日山の上の高所に発見される化石類は三回の世界的大洪水に帰因するものであって、その第一回はノア(Noah)のときに起り、第二回目はオグ王(Og)の治下長老ヤコブ並びにその仲間の時代に起り、最後の第三回目はモーゼ(Moses)とその時代仲間のアムフィトリオン(Amfitryon)のときに起った、というのである(アムフィトリオンは伝説的人物でペルセウス(Perseus)の孫に当る)。すなわち、世界の年齢は甚だ少なく見積られているのである、スナイダー(Snyder)が『世界の機械』(“The world's machine”)の中に報告しているところによると、シェークスピア(Shakespeare)やベーコン(Bacon)と同時代の大僧正アッシャー(Usher)が、ユダヤの物語に基づいて算定した結果では、この世界は耶蘇紀元前四〇〇四年の正月の最初の週間に創造されたことになっており、この算定数は現に今日まで英国の聖書に印刷されているのである。ビュッフォンはまた、地球が太陽から分離したときの灼熱状態から現在の温度に冷却するまでの時間を約七六〇〇〇年と推定している。ところがバビロニアやエジプトからの発掘物を研究した結果から、これらの地方では西暦紀元前七〇〇〇ないし一万年ころに既にかなり広く発展した文明の存在したことが証明される。南フランスやスペインにおけるいわゆるマグダレニアン時代(Magdalenien-Zeit)の洞穴で発見された非常に写実的な絵画の類は約五万年昔のものと推定されている。そうして、確かに人間の所産と考えられる物での最古の発見物は一〇万年前のものと推定されている。第三紀の終局後ヨーロッパの北部を襲った氷河期よりも前、またその経過中において既に人類が生息していたことは確実である。そうして最後に地質学者等の信ずるところでは、約一〇億年以前から既にかなり高度の進化状態にある生物が存在していたのであり、また一番初めに生物が地球上に現われたのは多分それの二倍の年数ほども昔のことであろうというのである。それでインドの哲学者等が地球上における生命の進化について想像したような長い年数に手の届くのは造作もないのである。 1154_23278.html(1058):  橋川時雄氏の調査によると、当時の柴大人(ツァイターレン)の仁政として今も古老の感謝しているところは、大人が警務長官となるや各米倉を開いてその蓄米を廉売し、いわゆる“糧荒”の虞(おそれ)なからしめた事であるそうである。その他に現存している古老が口伝している柴大将についての挿話には次のような話がある。 1154_23278.html(1064):  柴大人の威勢というものはその頃は大したもので、流行歌にまで歌われたものです。つい二十年位までは、この北城一帯では子供らがあんまり悪戯をすると母親達は“柴大人来了(ツァイターレンライラ)”(そんなおいたをすると柴大人が来ますよ)と言ってなだめていた程です。 1154_23278.html(1067):  満州人敦厚の“都門紀変三十首絶句”というのは多分拳匪の乱を謳ったものらしいが、その中の第七首“粛府”にこういうのがあるそうだ。 1154_23278.html(1070):  この詩にいう道士徐というのは東海に行った徐福が戦乱に苦しんでいる民衆を慰めているというわけで、柴大人の仁政を謳ったものであると解釈されている。この詩の中には“安民処処巧安排、告示輝煌総姓柴”と云って、柴長官の告示によって人民が安心した事も詠(よ)まれている。“拳匪紀略”には、 1154_23278.html(1074): とあり、また“驢背集”という詩集には、 1258_40525.html(883): “君、そこを下りて、室内(なか)へ入って下さい。私たちは、君に質問をしたいのだ!” 1258_40525.html(888): “そうです” 1258_40525.html(892): “なんという、不便な身体をもった男だろう。あッはッはッ” 1258_40525.html(896): “辻川博士は何処へ行ったのか?” 1258_40525.html(905): “辻川博士は、なぜこの邸から居なくなったのか?” 1258_40525.html(907): “天空へ?” 1258_40525.html(912): “博士のロケットには、B18号と書いてあるか?” 1258_40525.html(920): “君に云っても分らないと思う。われ等はウラゴーゴルだ” 1258_40525.html(928): “ドクトル、シュワルツコッフが知っている……” 1317_23268.html(1229): 「それでは」法水は満足そうに頷(うなず)いて、事務机の抽斗(ひきだし)から一葉の写真を取り出した。「いよいよ最後の切札を出すことにするかな。ところでこの写真は、鐘鳴器(カリリヨン)室の頭上に開いている十二宮の円華窓(えんげまど)なんだが、僕は一瞥(いちべつ)すると同時に、気がついた。これもまた、棺龕(カタファルコ)十字架と同様、設計者クロード・ディグスビイが残した秘密記法(クリプトグラフィー)だ――と。何故なら、通例では、春分点のある白羊宮(アリエス)が円の中心になっているのだけれども、これには磨羯宮(カプリコルヌス)が代っている。また、縦横に馳(は)せ違っているジグザグの空隙にも、鐘鳴器(カリルロン)の残響を緩和するという性能以外に、なんらかの意味がなくてはならぬと考えたからだ。ところが熊城君、元来十二宮(ゾーディアック)なんてものは、古来からありふれている迷信上の産物にすぎない。第一、文字暗号ではないのだから、肝腎(かんじん)の秘密ABC(キイ・ウァード)を発見するのに必要な資料が、これにはてんで与えられていないのだ。しかし、僕はランジイ(マクベス、ジイヴィルジュ等と並ぶ斯道の大家。一九一八年、“Cryptographie”を発表す)じゃないがね。仮定す――という慣用語は、まさに解読家にとって金科玉条に等しいと思うのだよ。何故なら(処女宮(ヴィルゴ))とか(獅子宮(レオ))とか云うように、十二宮(ゾーディアック)固有の符号はあるけれども、僕は猶太釈義法(カバリズム)をそれに当てて見たのだ。つまり一八八一年の猶太人虐殺(ポグロム)の際に、波蘭(ポーランド)グロジスクの町の猶太人(ジュウ)が十二宮(ゾーディアック)に光を当てて、隣村に危急をしらせたという史実があるほどだし……、それに、ブクストルフ(ヨハンまたはヨハネス、一五六四―一六二九。瑞西バーゼルの人。その子とともに大ヘブライ学者)の「希伯来略語考(デ・アブレヴィアトゥリス・ヘブライキス)」を見ると、それには、Athbash(アトバシュ) 法・Albam(アルバム) 法・Atbakh(アトバク) 法(Athbash 法―ヘブライABCの第一字アレフの代りに、その最後の字タウを当て、また第二位のベートの代りに、最終から二番目のシンを当て、以下それに準ずる記法。Albam 法―ヘブライABCを二つに区分し、アレフの代りに後半の第一字ラメドを当てる方法。Atbakh 法―各文字を、その数位の順に従って置き換える方法)をはじめ、天文算数に関する数理義法(カバラ)が記されている。そして、古代希伯来(ヘブライ)の天文家が、獅子宮(レオ)の大鎌形とか処女宮(ヴィルゴ)のY字形などに、希伯来(ヘブライ)文字の或るものを当てていたという記録が残っているからだ。もちろんその中には、現在のABC(アルファベット)に語源をなすものがある。けれども、十二宮(ゾーディアック)全部となると、そういう形体的な符号の記されてないものが四つあって、そこで僕は、思いがけない障壁に打衝(ぶつか)ってしまったのだよ。しかし、猶太式秘記法を歴史的にたどってゆくと、十六世紀になって、猶太(ユダヤ)労働組合とフリーメーソン結社(フリーメーソン結社――。衆知の名称なれども、この結社の本体は秘密会議にあり、それが明白なるが猶太的団体であることは、メーソン教会の床に「ダビデの楯」の図を塗り潰したものを描き、また、それが定規とコムパスのメーソン記象にも母体となり、さらに、死亡広告欄を飾る八星形が、猶太教会の彩色硝子窓に用いられているのを見ても明らかなり)暗号法の中に、その欠けた部分を補うものが発見されたのだ。ねえ熊城君、驚くべきことには、この十二宮(ゾーディアック)の中に、猶太(ユダヤ)秘密記法史の全部が叩き込まれている。そうなると、あの不可解な人物クロード・ディグスビイをウエールス生れの猶太(ジュウ)だとするに異議はあるまい。言葉を換えて云うと、この事件には隠顕両様の世界にわたり、二人の猶太人(ジュウ)が現われていることになるのだよ」とそれから法水は、一々星座の形に希伯来(ヘブライ)文字を当てながら、十二宮(ゾーディアック)の解読を始めた。 1317_23268.html(1388):  “Quean(クイーン) locked(ロックト) in(イン) Kains(ケインス). Jew(ジュー) yawning(ヨウニング) in(イン) knot(ノット). Knell(ネル) karagoz(カラギヨス)! Jainists(ジャイニスツ) underlie(アンダーライ) below(ビロウ) inferno(インフェルノ).” 13204_16876.html(51):  次に best sellers は、その内容に good story をもつてゐなければならぬ。良き物語といふのは良き筋といふことである。筋のよいといふことは、必らずしも凡ての小説にとつての必要条件ではないが、よく売れることを目的として書かれた大衆小説にとつては、これは本質的な条件である。即ち大衆小説の筋は活動、変化に富み、人間味に富んでゐなければならぬ。こゝで人間味 human interest といふのは、読者を作中の人物に同化させ、その作品の中の問題、事件に身をもつて当面してゐるやうに感じさせ、読者をして絶えず「これからどうすればいいだらう?」“Now what am I going to do ?”と手に汗を握らせることである。だが、あまりにこの点を誇張しすぎて信ずべからざるやうな筋をこしらへると読者は書物を投げ出してしまふ。「冬来りなば」の成功は大部分は一般の読者がマーク・セーバーに共感するためであり、この小説を好まない人はエフイーの挿話があまりありさうもない話であることをこの小説の欠点と見做すのである。 13204_16876.html(54):  最後にもつと実際的な問題としては物語りの長さである。普通の小説は平均八万語内外のものが多い(日本文に翻訳すると約二十万字見当である)。ところが、最もよく売れる小説は、一般にこれよりも大分長い。“If Winter Comes”“Peter Jackson”“Sonia”“Sinister Street”“The Woman Thou Gavest Me”“The Green Hat”“The Way of Revelation”“The Rosary”“The Middle of The Road”等の人気のある小説はどれを見ても普通の小説よりも長い。しかし、この理由はよくわからない。同じ定価でなるべく分量の沢山あるのを読者が好むからなのか、それとも大衆に受けるやうな小説は相当スケールが大きくなければならんので、短い紙面では書きあらはせないからなのかも知れない。 13204_16876.html(55):  以上は既刊のよく売れた小説を基礎にしての立論であるが、その他に、出版の時機が小説の売れると売れないとに大関係がある。“If Winter Comes”も丁度よい時期に出た。“The Middle of The Road”が若し一九二三年でなくて、もう一年早くかおそくか出たらあれだけの成功を博しなかつたであらう。それから標題が小説の売れ行きに関係するところも尠少でない。マイケル・ジヨセフも A happy title is a tremendous asset と言ってゐる。同じ内容の短篇小説集が英国と米国とで、ちがつた題名で出版され、英国では大成功し、米国では散々に失敗したことがある。そこで米国の出版者は思ひきつて英国版と同じ題名にかへて再版を出したら、急に売れ行きが増して来たといふことである。 1320_42462.html(37): 一、南米アマゾン河奥地の、“Rio Folls de Dios(リオ・フォルス・デ・ディオス)”の一帯。 1320_42462.html(38): 二、北極にちかい、グリーンランドの中央部八千尺の氷河地帯にあるといわれる、“Ser‐mik‐Suah(セルミク・シュアー)”の冥路(よみじ)の国。 1320_42462.html(39): 三、支那(しな)青海省の“Puspamada(プシパマーダ)”いわゆる金沙河ヒマラヤの巴顔喀喇(パイアンカラ)山脈中の理想郷。 1320_42462.html(44):  しかし、以上の三未踏地でさえ足もとにも及ばぬという場所がいったい何処(どこ)にあってなにが隠れているのか、さぞ読者諸君はうずうずとなってくるにちがいない。それは赤道中央アフリカのコンゴ北東部にある。すなわち、コンゴ・バンツウ語でいう“M'lambuwezi(ムラムブウェジ)”訳して「悪魔の尿溜(にょうだめ)」といわれる地帯だ。そこには、まだ人類が一人として見たことのない、巨獣の終焉地(しゅうえんち)「知られざる森の墓場(セブルクルム・ルクジ)」が、あると伝えられている。 1320_42462.html(45):  ではここで、この謎の地域がけっして私のような、伝奇作者のでたらめでないという証拠に、英航空専門誌“Flight(フライト)”に載った講演記事を抜粋してみよう。講演者は、ナイロビ、ムワンザ間のウイルスン航空会社(エアウェーズ)のファーギュスンという操縦士だ。 1320_42462.html(59):  土人は、ゴリラのことを“Soko(ソコ)”という愛称で呼んでいる。私は声を荒らげるよりも呆気(あっけ)にとられて、 1320_42462.html(64):  私にはその悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)の一言がぴいんと頭へきた。事によったら、いまいる我々の位置が途方もなく深いのではないか。そういえば、密林のはずれにあるマヌイエマの部落で、“Kungo(クンゴー)”といっている蚊蚋(かぶゆ)の大群が、まさに霧(クンゴー)のごとく濛々(もうもう)と立ちこめている。私は、そう分るとぞっと寒気だち、あのゴリラがいなければ死んだかもしれぬと思うと、いま頭に手を置いてのそりのそりと歩いてゆく、墓場への旅人に冥福(めいふく)の十字をきったのである。 1320_42462.html(78):  といるわいるわ、女には舞踏病の静止不能症(ラマーナヤーナ)、男には、マダガスカル特有の“Sarimbavy(サリムバヴィ)”や“Koro(コロ)”そこへ、モザンビイク一の富豪アマーロ・メンドーサの援助があり、ついに研究所をひらき土着の決心をした。そうして、座間は黒人の神となった。生涯を、熱地の狂人にささげ、藪草(やぶくさ)にうずもれようとも、あわれな憑依妄想(ひょういもうそう)から黒人を救いだそうとする――座間は人道主義(ヒューマニズム)の戦士だった。そうして、六年あまりもモザンビイクで暮すうちに、彼はカークという密猟者と親しくなった。次いで、よくカークをつれて奥地へゆく、アッコルティ先生とも知りあいになったわけである。しかしいま、ちょっと南阿(アフリカ)から寄港した先生を、なぜ座間が引きとめているのか。たしかに、なにかの驚くべきものをアッコルティ先生に、みせようとしているのは事実であるが、一体なんであろう 1320_42462.html(97):  ゴリラには、憂鬱病(メランコリー)と恐怖症(ホビー)が周期的にきて、その時期がいちばん狂暴になりやすいという。そして苦悶(くもん)が募(つの)って来て堪(た)えられなくなると“Hyraceum(ヒラセウム)”を甜(な)めにきて緩和するというのだ。ヒラセウムとは、岩狸(ハイラックス)が尿所へする尿の水分が、蒸発した残りのねばねばした粘液で、カークはこのヒラセウムのある樹洞(ほら)のまえに、陥穽(わな)を仕掛けようとしたのであった。 1320_42462.html(228):  ナイルの水源(カブト・ニリ)は、クロフィス及びメンフィスという、シェーネとエレファンティス間にある二つの山巓――呼んで半月の山脈(モンス・ルーヌラ)という渓谷の奥にある。その半月の山脈には“Colc(コルク)”という湖があり、バメティクス王が、綱を数千“ogye(オギエ)”も垂れたが底に届かずとある。つまり、ナイルの水源は、その奥にあるというのだ。 1320_42462.html(232):  そういえば、カークもそれに似たような土人の伝説を聴いたことがある。ヌグンベという、ドド発見地の近傍の部落だが、そこから悪魔の尿溜の方向にあたる北西かたの山腹に、“Leo(レオ)”という奥しれぬ洞窟があるのだ。――そこが、人類発祥の地だという。つまり、太古のとき動物とともに、彼らの祖先がその洞から出てきたというのだ。 1320_42462.html(292): 「ここで、白人諸君に会おうとはまったく夢のようだ。どうだ、“Shushah(シュシャア)”という珍しいものを飲(や)らんかね」 1320_42462.html(295):  そういって尻ごみをする一同にはカッサバ澱粉のパンをすすめ、じぶんは「猿酒(シュシャア)」を呷(あお)り“Dagga(ダッガ)”という、インド大麻に似た麻酔性の葉を煙草代りに喫っている。その両方の酔いがもう大分まわったらしく、バイエルタールはだんだん懆(あや)しくなってきた。半白の髪の様子ではもう五十にちかいだろう。ただ剛気そうな目が、恍(うっと)りとした快酔中にもぎらついている。 1320_42462.html(326): (“Latah(ラター)”だ。マヌエラにはマレー女の血がある“Latah(ラター)”は、マレー女特有の遺伝病、発作的神経病だ。ああ、いますべてが分ったぞ。あの夜の、ヤンとのあの狂態の因(もと)も……、いま、マヌエラの発作が偶然われわれを救ってくれることも……) 1320_42462.html(327): “Latah(ラター)”は、さいしょ軽微な発作が生理的異状期におこる。そのときは、じぶんがなにをしているかが明白(はっきり)と分っていながら、どうにも目のまえの人間の言葉を真似たくなり、またその人の動作をそのまま繰りかえす――つまり、反響言語(エヒョーラリー)、返響運動(エヒョーキネジー)というのがおこる。してみると、いつかのあの夜も、と――座間には次々へと浮んでくるのだ。 1320_42462.html(406): 「それは、この蔦葛のうえを“Kintefwetefwe(キンテフェテフェ)”に利用するんだ」 1320_42462.html(409):  リビングストーンのマヌイエマ探検の部に、その“Kintefwetefwe(キンテフェテフェ)”のことがくわしく記されてある。 1320_42462.html(436):  マヌエラよ、天罰が私にくだった。あなたを、このうえ“Latah(ラター)”で苦しませるのは忍びぬと思いそっとあの断崖からつき落そうとしたとき……私は、砂流(サンド・リヴァ)に運ばれて地中に落ちこんだ。それは地中より湧(わ)きいで地中に消える暗黒河であった。 1320_42462.html(455):  Soko(ソコ)――と、やがてそのゴリラをそっと呼んでみた。この“Soko(ソコ)”というのはコンゴの土語で、むしろ彼らにたいする愛称だ。それから、Wakhe(ワケ), Wakhe(ワケ)――と、檻(おり)のゴリラへする呼声をいっても、その老獣はふり向きもしなかった。 1321_8653.html(29):  いよいよ本篇から、魔境記も大ものばかりになってくる。まず、その手初めが“Ser-mik-suah(セル・ミク・シュア)”グリーンランド中部高原の北緯七十五度あたり、氷河と峻険と猛風雪と酷寒、広茫(こうぼう)数百の氷河を擁する未踏地中のそのまた奥。そこに、字義どおりの冥路(よみじ)の国ありという、“Ser-mik-suah(セル・ミク・シュア)”は極光下の神秘だ。では一体、その「冥路の国(セル・ミク・シュア)」とはどういうところか。 1321_8653.html(44):  翌五月十六日、依然天候は険悪、吹雪はますます激しい。天幕(テント)内の温度零下五十二度。嚢内からはく呼吸(いき)は毛皮に凍結し、天幕(テント)のなかは一尺ばかりの雪山だ。すると突然、エスキモーの“E-Tooka-Shoo(エ・ツーカ・シュー)”が死んだような状態になった。脈は細く、ほとんど聴きとれない。体温は三十二度。まさに死温。 1321_8653.html(45): 「死んだよ」と、私がもう一人のエスキモーの“AL-Ning-Wa(アル・ニン・ワ)”にふり向いて、 1321_8653.html(77):  ――というようになれば、いっぱしの太夫。手前も、給金があがるという嬉しい勘定になる。ところがです、あの“Gori-Nep(ゴリ・ネプ)”の野郎ときたら手端にも負えねえ」 1321_8653.html(78): 「“Gori-Nep(ゴリ・ネプ)”って?」と折竹がちょっと口を挟(はさ)んだ。 1321_8653.html(80):  その、通称“Gori-Nep(ゴリ・ネプ)”という得体のしれぬ海獣を、まもなく折竹はしげしげとながめはじめた。身長は、やや海豹(あざらし)くらいだが体毛が少なく、まず目につくのがおそろしく大きな牙。おまけに、人をみる目も絶対なじまぬ野性。ついに折竹にも見当つかずと見えたところへ「あれかな」と、連れのケプナラを莞爾(かんじ)となって、ふり向いた。 1321_8653.html(81): 「ケプナラ君、君はエスキモー土人がいう、“A-Pellah(アー・ペラー)”を知っているかね」 1321_8653.html(83): 「海豹(あざらし)と海象(ウォーラス)の混血児(あいのこ)だ。学名を“Orca Lupinum(オルカ・ルピヌム)”といって、じつに稀(まれ)に出る。その狂暴さ加減は学名の訳語のとおり、まさに『鯨狼』という名がぴたりと来るようなやつ。孤独で、南下すれば膃肭獣(おっとせい)群をあらす。滅多にでないから、標本もない。マア、僕らは、きょう千載に一遇の機会で、お目にかかれたというわけだ」 1321_8653.html(97): 「すべて、どこへ行くとか何をするとか――その辺のところは一切(いっさい)お訊きにならず、ただ手前の指図どおり親船に乗った気で、ちかく“Salem(サレム)”をでる『フラム号』という船にのって頂く」 1321_8653.html(125):  と、やがて現われたのが意外や日本人。“Onobu-san(オノブ・サン), the Fatima(ゼ・ファティマ)”――すなわち大女おのぶサンという、重錘揚げの芸人だ。身長五尺九寸、体重三十五貫。大一番の丸髷(まるまげ)に結って肉襦袢(タイツ)姿、それが三百ポンドもある大重錘をさしあげる、大和撫子(やまとなでしこ)ならぬ大和鬼蓮(おにはす)だ。 1321_8653.html(140):  この、鯨狼の[#「鯨狼の」は底本では「鯨の」]出所については折竹よりも、むしろ、このほうの専門家のケプナラ君に興味多いことだ。ところが、どうしたことかそれを聴くと、ちょっと、折竹が放心の態になった。ただ、“Krt Mnzer(クルト・ミュンツァ)”と呟いている訳は あの、未知国の所在を売るという匿名の手紙の主の、K・Mというのがクルト・ミュンツァの頭文字。 1321_8653.html(157): 「父は、ご存知のとおりの造船工学家でしたが、極地の大氷原を氷甲板(アイスデッケ)として、そこに新ドイツ領をつくろうという、夢想に燃えていたのです。新極北島――と、父は氷原上の都市をこう呼んでいましたよ。ところが、まもなく一隻を自費でつくりあげ、一九三三年には極洋へむかいました。僕は、体質上潜行に適しないので、捕鯨船の古物である一帆船(パーク)にのって『ネモ号』というその潜船に蹤(つ)いていったのです。すると、運の悪いことには半月あまりの暴風雨。無電はこわれ散々な目に逢ったのち、『ネモ号』を見失って漂流一月あまり。やっとグリーンランド東北岸の“Koldewey(コールドウェー)”島の峡湾(フィヨルド)に流れついて、通りがかりの船を待っていました」 1321_8653.html(216):  そこからは、かつての北極踏破者ピアリーが名付けたという、中部浮氷群(ミドル・アイス)の広漠たる塊氷のなか。やがて、“Kangek(カングック)”岬を過ぎ、“Upernavik(ウペルナビック)”島を右に見て、いよいよ拠点となるホルムス島付近の「悪魔の拇指(ディヴルス・サム)」という一峡湾に上陸した。仮定「冥路の国(セル・ミク・シュア)」の位置はこの地点からみると、真東に二百五十マイルほどのあたりに当る。 1321_8653.html(219): 「いるぞ。暫く見えないから断念(あきら)めたと思ったら、『フラム』号のやつ“Kuk(クク)”島にいやがる。どのみち、チャンバラが始まるなら、早いほうがいいな」 1452_16991.html(525):  鄭和(ていか)は王景弘(おうけいこう)等(ら)と共に出(いで)て使(つかい)しぬ。和の出(い)づるや、帝、袁柳荘(えんりゅうそう)の子の袁忠徹(えんちゅうてつ)をして相(そう)せしむ、忠徹曰(いわ)く可なりと。和の率いる所の将卒二万七千八百余人、舶(ふね)長さ四十四丈、広さ十八丈の者、六十二、蘇州(そしゅう)劉家河(りゅうかか)より海(かい)に泛(うか)びて福建(ふくけん)に至り、福建五虎門(ごこもん)より帆を揚げて海に入る。閲(えつ)三年にして、五年九月還(かえ)る。建文帝の事、得る有る無し。而(しか)れども諸番国(しょばんこく)の使者和(か)に随(したが)って朝見し、各々(おのおの)其(その)方物(ほうぶつ)を貢(こう)す。和(か)又三仏斉国(さんぶつせいこく)の酋長(しゅうちょう)を俘(とりこ)として献ず。帝大(おおい)に悦(よろこ)ぶ。是(これ)より建文の事に関せず、専(もは)ら国威を揚げしめんとして、再三和(か)を出(いだ)す。和の使(つかい)を奉ずる、前後七回、其(そ)の間、或(あるい)は錫蘭山(セイロンざん)(Ceylon)の王阿烈苦奈児(アレクナル)と戦って之を擒(とりこ)にして献じ、或(あるい)は蘇門答剌(スモタラ)(Sumotala)の前の前の偽王(ぎおう)の子蘇幹剌(スカンラ)と戦って、其(その)妻子を併(あわ)せて俘(とりこ)として献じ、大(おおい)に南西諸国に明(みん)の威を揚げ、遠く勿魯漠斯(ホルムス)(Holumusze ペルシヤ)麻林(マリン)(Mualin? アフリカ?)祖法児(ズファル)(Dsuhffar アラビヤ)天方(てんほう)(“Beitullah”House of God の訳、メッカ、アラビヤ)等に至れり。明史(みんし)外国伝(がいこくでん)西南方のやゝ詳(つまびらか)なるは、鄭和に随行したる鞏珍(きょうちん)の著わせる西洋番国志(せいようばんこくし)を採りたるに本(もと)づく歟(か)という。 1454_20740.html(33):  柱時計が二時を報ずると、背広の夏服を着た青年紳士が一人の刑事に案内されて入ってきた。右の手に黒革の折鞄(おりかばん)、俗にいわゆる往診鞄を携えているのは、言わずと知れたお医者さんである。人間の弱点を取り扱う商売であるだけに、探偵小説の中にまで“さん”の字をつけて呼ばれるのである。が、この人すこぶる現代的で、かような場所に馴(な)れているのか、往診鞄を投げるようにして机の下に置き、いたって軽々しい態度で三人に挨拶(あいさつ)をしたところを見ると、もう“さん”の字をつけることはやめにしたほうがよかろう。 1454_20740.html(37):  こう言って津村検事は、相手の顔をぎろりと眺めた。この“ぎろり”は津村検事に特有なもので、かつてこの“ぎろり”のために、ある博徒の親分がその犯罪を何もかも白状してしまったといわれているほどの曰(いわ)くつきのものである。彼はのちに、おらアあの目が怖かったんだよ、と乾分(こぶん)に向かって懺悔(ざんげ)したそうである。しかし、この“ぎろり”も、山本医師に対しては少しの効果もなかったと見え、 1454_20740.html(71):  ところが、殺人者は非常な誤りをしたのであります。それは何であるかと言いますに、毒として亜砒酸を選んだことです。ここにおいでになる片田博士のお話によると、西洋では亜砒酸のことを“愚人の毒(フールスポイズン)”と呼ぶそうですが、それは、亜砒酸を毒殺に使用すれば、その症状によってきわめて気づかれやすいし、また死体解剖によって容易にその存在を発見されるから、愚人しか用いないという意味だそうであります。今回の事件においても、殺人者は愚かなことをしました。すなわち、亜砒酸を用いたためにあなたの疑いを起こしたのです。してみると、亜砒酸はこの場合においても愚人の毒たる名称を恥ずかしめなかったわけです。 1454_20740.html(106): 「二男の保一くんは久しく奥田家の出入りを禁じられていたのですが、令嬢からの手紙によって、兄の行動と母の病気とがなんとなく関係のあるらしいことを知り、二十九日の朝、兄が出かけたすぐあとへ忍び込んだのでした。その時、保一くんはどういう心をもって訪ねてきたのでしょうか。親子の愛情によって、母を保護するために来たのでしょうか。それとも他に目的があったのでしょうか。この点は非常にデリケートな問題です。母は保一くんが女と手を切らぬ間は決して家へ入れないとがんばっていました。保一くんは売薬店を開いていて、辛うじて生活していけるかいけぬの程度でありまして、ときどき兄の健吉くんに無心を言ったらしいですが、最近はかなりに困っていた様子です。そこへ妹さんから、母の病気と兄の行動について詳しい通知があったのです。俗に、“背に腹は代えられぬ”という言葉がありますが、保一くんが令嬢の手紙を読んだとき、そうした心にならなかったとだれが保証し得ましょう。すなわち母を亡きものにし、兄に毒殺の嫌疑をかけられれば保一くんは当然奥田家の財産を貰(もら)って、大手を振って歩くことができます。保一くんは幼時より不良性を帯びていました。そうして、最近は母を恨むべき境遇に置かれていました。兄とは義理の仲である。いや、たとい肉親の兄であっても、背に腹は代えられぬ。これはひとつこのまたとない機会を利用して、危険ではあるが一芝居打ってみようと考えつかなかったとはだれが保証し得ましょう。不良性を帯びた人は、悪を行う知恵は鋭敏に働くものです。ことに都合のよいことには、自分が売薬店を開いていることです。すなわち、亜砒酸は手もとにある。ただそれを利用すればよいのだ。こう考えて亜砒酸を携え、奥田家へやって来たのだと推定しても、あえて不合理ではないと思います」 1455_20744.html(61):  さて、お語はわたしの開業当時に戻ります。ある日、わたしの病院へ二十七、八の、大きな腹を抱えた患者が診察を受けに来ました。わたしは彼女を見るなり、どこかで以前に見たことのある女だと思いました。そうして、彼女のひどくやつれた、凄(すご)いほど美しい顔を眺めて、なんとなくぞっとするような感じを起こしました。彼女は自分のお腹(なか)が大きくなったので診察を受けに来たのですが、診察してみるとそれは妊娠ではなく、明らかに肝臓硬変症、すなわち俗に言う“ちょうまん”で、お腹の大きいのは腹水のためであり、黄疸(おうだん)は目につきませんでしたが、腹壁には“メデューサの首”の症候がはっきり現れておりました。あなたがたはもうお学びになったことですから、説明するまでもありませんが、メデューサとはいうまでもなくギリシャ神話の中のゴーゴンの伝説に出てくる怪物で、その髪の毛が蛇からできているそうです。肝臓硬変症の場合には、肝臓の血管の圧迫される関係上代償的に腹壁の静脈が怒張して、皮膚を透かして蛇がうねっているように見え、その静脈が臍(へそ)のところを中心として四方にうねり出る有様は、メデューサの頭をてっぺんから見るように思われ、メデューサの首と名づけられているのであります。え? なに? 講義のときにそんな説明は聞かなかったのですって? では、わたしの考えが間違っておりますかな まあ、どうでもよろしい。とにかく、肝臓硬変にもとづく腹水に悩む患者の腹壁をよくご覧なさい。ギリシャの神話を読んだことのある者なら、たしかに患者の腹の中に、メデューサの首が宿っているのではないかと思いますから。 1455_20744.html(75):  と、わたしは全身に冷水を浴びせかけられたような気がして問い返しました。彼女は“メデューサの首”に気がついているのだ。こう思うと、わたしはなんだか痛いところへ触れられたような思いになりました。 15984_28867.html(27): 「青空」(種村千秋)は手馴れたかきかたで、大人の常識と少年の心情のくいちがいのモメントをとらえ、先生を慕い信頼する少年の感情を描いている、しかし全体を抒情性でばかり貫いていて、特に終りの河原の場面は安易な映画の情景のように通俗的におちいっている、冒頭の、少年を理解しない先生との紛糾も事柄の内容をはっきり描き出していないために読者を納得させられない。少年もの風の“甘さ”と“なれ”が作品を失敗させている。 15985_28853.html(9): 宮本百合子 “生れた権利”をうばうな ――寿産院事件について―― 15985_28853.html(20): “生れた権利”をうばうな 15985_28853.html(28):  寿産院にあずけられた子供が正当な出生の子供でないということが、まるで子供が殺されても仕方がなかったというようにあげられています。しかしあの中には正当な結婚から生れた子供もいたようです。正当な子供、正当でない子供というのは子供にとってどんな区別があることでしょう。どういう男女の間から生れてもそれは人間の一人の子供であって、“生れた”という言葉は絶対にこの世に現われた子供が自分で自分を生んだのではなくて受身にこの世に送り出された関係を語っています。まして私生子というような区別を戸籍の上にさえおかない様になってきている今日、子供はすべて社会の子供として生命を保証される権利があります。そして私どもにはその義務があります。婦人少年局ができて婦人と小さい人の全生活に関する調査や提案を政府に向ってすることになりました。経済難と子供の生命の問題は婦人局にとっても基本的な問題だと思います。国家が社会施設として育児院、産院、託児所を設けなければならないということは、寿産院の事実ではっきり示されています。 16002_30021.html(82):  一九一八年十月二十三日〔東京市本郷区駒込林町二一 中條葭江宛 シカゴ(消印)より(“WILL THEY LAST”と記された諷刺絵の絵はがき)〕 16037_10232.html(34):  ニイチエのツアラトウストラは The cow of many Colours といつた市街で、心の三段變りといふ事を説いた。心が重い荷物を背負つて駱駝となつて沙漠の旅に出た。寂しい旅の半程で、駱駝は急に獅子と化つて、これまで主人として事(つか)へた大きな龍と鬪つた。龍の名は“Thou shalt”獅子のは“I will”といふのだ。兩個は從來龍の持つてゐた『物の價値』について、ひどい取つ組合ひをした。實際獅子にはまだ『價値』を創り出すだけの力量は無かつたが、やがてそれを創らうといふ『自由』を産むだけの力は十分あつた。とかくする間に獅子はまた小兒に生れ變つた。小兒は價値の出發點で、立派な肯定だ。新しい世界はここから始まるといふのだ。 1704_6917.html(1525): されど若し弟(てい)先んぜば、馨子の悲痛は弟にも勝(まさ)りて激しかりしならんか。弟をして此の憂闇(ゆうあん)の力を破り得しむるものは、唯一つ馨子生きて之れが為に戦い、死に及んで止まざりし我等の理想也。彼女の短かき生涯は、その一切の瑕瑾(かきん)と不完全を以てして、遂に人生最高の理想を追い、之れが為めに戦い、戦い半ばならずして斃(たお)れし英雄の生涯也。遂に蜉蝣(ふゆう)の如き人生は、生きて甲斐なけん。昔者(むかし)プラトー、ソクラテスの口をして曰わしめて曰く、“It is not mere life, but a good life that we court”と。仮令(たとい)馨子凱歌の中に光栄の桂冠(けいかん)戴(いただ)くを得ざりしにせよ、彼女の生はその畢生(ひっせい)の高貴なる焔(ほのお)のあらん限を尽して戦い、戦の途上戦い死せる光栄ある戦死者の生也。此の事、弟をして敬虔(けいけん)馨子の死の前にぬかずき、無限のインスピレーションを茲(ここ)に汲(く)ましむ。 1713_43588.html(167): * 例えば哲学に於て、優れたる体系は常に一つの方法である。何となれば体系とはこの場合、モザイックではなくして組織であるべきだからである。一例としてフィヒテの Tathandlung の体系を取ろう。又優れたる方法は常に一つの体系である。何となれば、方法とはこの場合、一つの落想ではなくして秩序ある考え方であるべきだからである。一例として現代の現象学――それは一つの方法”Zu den Sachen selbst“を意味する――を挙げよう。方法と体系との相互の運動を注意せしめたのは、恐らくヘルマン・コーエンであった。 1713_43588.html(237): * 例えば吾々は Lord Kelvin-Tait の物理学である“Treatise on Natural Philosophiy”(1867)を有っている。 1713_43588.html(268): *** ベンサムの“Chrestomathia”に於ける分類はその命名法に於てすでに非現実的である。例えば Somatology, Pneumatology ; Posology, Poiology 等々。この非現実的命名法が必要であったことは分類自身が非現実的であったことの症状と考えられないでもない。 1713_43588.html(280):  学問性概念は前に、体系を意味することが出来たから、体系による分類が先ず始めに今の場合として与えられそうである。強いてその例を挙げるならばカントを選んで好いであろう。彼は第一批判の“Architektonik der reinen Vernunft”に於て云っている、通常の認識をば初めて学問となし、単なる集合を体系とするもの、そのようなものの組織的統一の術が Architektonik である、と。従って学問は体系であるから、之を形造る Architektonik の相違によって、学問の分類が与えられる筈である。分類原理は組織・体系と考えられる。処がカントは続けて云う、それ故この Architektonik は必然に方法論にぞくす、と*。方法を特に体系に対立せしめた吾々にとって、それ故、この言葉は体系による分類から方法――学問性としての方法――による夫への移り行きを意味する。そこで方法としての学問性――それこそ真の学問性であった――による学問の分類、それの例は何か**。リッケルトの科学論の、方法論の、根本的な動機の一つとしてそれは現われるであろう。諸科学の学問性を決定することこそ彼の科学論の根本的な動機でなくてはならぬと考えられるであろうから、科学論に於ける科学の分類は、根柢に於て、このようなものとして現われて来る筈である。後に又それを見よう。 1713_43588.html(394): * 人々はリッケルトの歴史理論と、例えばエドゥアルト・マイアーの歴史論とを比較して見よ(E. Meyer, Zur Theorie und Methodik d. Geschichte.――in“Kleine Schriften”)。両者の比較はすでにマックス・ヴェーバーによって与えられている(M. Weber, Zur Auseinandersetzung mit Eduard Meyer.――“Gesammelte Aufstze zur Wissenschaftslehre”, S. 215 ff.)。 1713_43588.html(395): ** この欠点を補ったものに相当するのは Max Weber, Objektive Mglichkeit und adquate Verursachung in der historischen Kausalbetrachtung(“Gesammelte Aufstze zur Wissenschaftslehre”, S. 266 ff)であるであろう。 1713_43588.html(562): ※底本では「”Zu den Sachen selbst“」の「”」の二点は右下に、「“」の二点は左上に、置かれています。 1876_22503.html(111):  が、いくら著名な専門家の言でも、事実から見て、これはすくなからず変だと言わなければならない。なるほど、犯人は一事狂者(モノマニアック)で、ある一つの迷執(めいしゅう)に駆られてこの犯行を重ねているということは肯定しうるが、しかし、ウィンスロウ博士が想定しているような、意力の加わらない、いわば夢遊病者のごとき発作的錯乱者が、明白なる殺人の目的の下に、兇器を隠し持って夜の巷(ちまた)をさまようだろうか。事実は、そればかりでなく、「ジャック」の行動のすべては、彼の犯罪が初めから緻密(ちみつ)な計画になるものであることをあますところなく明示している。前回にあげたセントラル・ニュース社に舞い込んだ、人血で書かれた“Jack the Ripper”の署名ある葉書と手紙を、何者かの悪戯(いたずら)でなくたしかに犯人の書いたものと認めれば――実際また、事件が進むにしたがいこの通信は真犯人から出たものと信ぜざるを得ない状勢になってきていた。それほど、そこに書かれた彼の「宣言」は着々忠実な履行(りこう)に移されて現われてきたから――彼は、自分の求める売春婦の犠牲者を何街で発見することができるかその的確な「穴(スパット)」を知り、現実にいかにして接近するかその「商売の約束」につうじ、しかも、犯行ごとにあれほどみごとに警戒線を潜って消えうせているのだ。ここでふたたび問題になるのが、例の彼の「長い黒の外套(がいとう)」である。リッパア事件は、鮮血の颱風(たいふう)のようにイースト・エンドを中心にロンドン全市を席捲(せっけん)した。ジャックは、魔法の外套を着た通り魔のように、暗黒から暗黒へと露地横町(ろじよこちょう)を縫ってその跳躍を擅(ほしいまま)にした。彼の去就(きょしゅう)の前には、さすがのロンドン警視庁も全然無力の観さえあった。こうなると、もうこれは、人事を超越した自然現象のように思われて、初めのうちこそ恐怖に戦(おのの)いてその筋の鞭撻を怠らなかったロンドン市民も、日を経(へ)るにしたがって慣れっこになり、他人事のように感じだし、そこはユウモア好きな英国人のことだから、いつしか新聞雑誌の漫画漫文に、寄席のレヴュウに舞踏会の仮装に、このジャック・ゼ・リッパアが大もて大流行という呑気至極(のんきしごく)な奇観を呈するにいたった。するとまた、この人獣をこういうふうに人気の焦点に祭り上げるのは風教(ふうきょう)に大害あり、第一、不謹慎きわまるとあって反対運動がおこるやら、とにかく、肝心の犯罪捜査を外れた傍(わき)道に種々の話を生んだものだが、この、漫画に出てくる「ジャック」、舞台や仮装舞踏会の彼の扮装(ふんそう)は、かならずその、あまりにも有名な「長い黒の外套(がいとう)」を着ることにきまっていた。それほど、この犯人とは切り離すことのできない外套である。彼はこれを、犯行の際はいちじ脱いでかたわらへ置き、「手術」をすますと同時に血だらけの着衣の上からこの外套を着て、それで血を隠し、行人の注意を逃れて平然と往来を歩いて帰宅したものであろうと想像するにかたくない。さもなくて、血を浴びたままの姿でたとえ深夜にしろ、どんな短距離にしろ、道中のできるわけがないからである。そして、この目的のためには、それはたしかに「黒く」かつ「長い」ほうが便利だったに相違ない。イースト・エンドは眠らない町である。男を探す夜鷹(よたか)と、夜鷹をさがす男とが夜もすがらの通行人だ。場末とはいえ、けっして淋(さび)しい個所ではない。それにその時は、毎夜戒厳令(かいげんれい)のような大規模の非常線が張りつめられて、連中の捜査に疲れた警官も倦(う)まず撓(たゆ)まず必死の努力を継続した。不審訊問はだれかれの差別なく投げられた。些少(さしょう)でも疑わしい者は容赦なく拘引(こういん)された。その網に引っかかっただけでも、おびただしい人数といわれている。しかるに、その間を、たったいま人を殺し、屍体を苛(さいな)み、生血と遊んで、全身絵具箱から這い出したようになっているはずの男だけが、この密網の目を洩れてただの一度も誰何(すいか)されなかったのだ。否、誰何されたかもしれないが、追及すべく十分怪しいと白眼(にら)まれなかったのだ。この点が、そしてこの一点が、全リッパア事件の神秘の王冠といわれている。前後をつうじて数千数百の人間が、街上に停止を命じられ凍烈な質問を浴びせられ、身分証明を求められ、即刻身体検査を受けているのに――眼ざすただ一人の人間だけついにこの法の触手にふれることなくして終ったとは、なんという皮肉であろう! 1877_22530.html(109):  捜査主任として第一線に活動したのは、のちの警視総監、当時の警部アウサア・ネイル――Mr. Arthur Neil――だった。この捜査は、じつに長期に亘(わた)って人知れぬ努力を払わせられた記録的なものだという。それはちょうど長夜の闇黒(あんこく)に山道を辿(たど)り抜いて、やがて峠の上に出て東天の白むを見るような具合だった。一歩一歩足を運ぶごとく証拠をあげて、事実の上に事実を積み重ねていったのである。これからの「浴槽の花嫁」事件――すでにジャーナリズムが拾いあげて、いちはやく、“Brides of the Bath Mystery”という、探偵小説めいた名を冠(かん)してそろそろセンセイションになりかけていた――がその多くの共通点に関係なく、すべて独立の過失で、その間なんらの連鎖もないということは、偶然事としてありうるかもしれないが、ちょっと考えられない。かならず底を関連するなにものかが存在するに相違ないという当初の仮定は、ネイルの胸中において、捜査の歩と一緒に確信に進んでいった。アウサア・ネイルは、この事件で名を成して、警察界における今日の地位に達したのだが、実際彼がスミス事件を手がけたのは、適材適所であった。僕はあれで自分の根気を試しただけのことだと、後年彼は人に語っているが、その根気が大変であった。眼まぐるしい変名を追っていちいちスミスに結びつけ、各保険会社の関係書類を調査し、各事件の被害者の身許(もと)を洗い、有無を言わせないところまで突きとめるために、ネイルはじつに四十三の市町村を飛びまわり、二十一の銀行に日参した。その間面会して供述を取った証人の数は百五十七人にのぼっている。いうまでもなくスミスはこうして自分の頸(けい)部の周囲にひそかに法律の縄が狭められつつあることなどすこしも知らずに、例によってブリストルのエデス・ペグラアのもとにあって悠々自適をきめこんでいたのだ。特命を帯びた刑事が日夜張り込んで尾行を怠(おこた)らなかったことはもちろんである。 1891_7611.html(41):  わたしは、三崎に借りてある自分の部屋に、飛べる日まで飼つて置かうとおもつた。わたしは微かな亢奮を覺えてゐた。やはり、いつもひとりの部屋といふものは、好きこのんで心がらとはいふものゝ、とりとめもないものであり、傷ついた鳥に宿を與へるのかとおもふと、餘程嬉しくやがて、この鳥が翼も癒えて、獨酌家の窓から飛び立つて行つた後のことまでが想像された。――油壺の水族館へ赴くと、わたしはいつも二尺四方ぐらゐの小さな水槽のなかで、わたしの小指ほどに、あんなに小さいくせに、フイゴの筒のやうに憂欝さうに口を突(とが)らせ、くるりと尻尾を卷いて偉さうに、海藻の間を浮いたり沈んだりしてゐる、何だかそれにしても餘り姿が小さくてお氣の毒な樣な、あの奇天烈な海ノ馬(タツノオトシゴ)と睨めくらべをするのが習ひであつたが、いまから既にこの鳥が飛び去つて行く後をおもふと、四角の部屋のひとりの自分の顏つきが、見る間に“Sea horse”のやうに偉さうになつて來さうだつた。雛鳥の皷動はわたしの胸にチクタクと鳴り、島の眞晝は底拔けの靜寂さに、明る過ぎるひかりばかりがさんさんたる雨であつた。 1903_16150.html(30): “Is there any room at your head, Willie? 1903_16150.html(35): “There's nae room at my head, Margret, 1907_22576.html(107):  手帳の下から、ぱらりと一枚の紙片が落ちた。それには鉛筆で、“ストーブに入るべきもの”と走書きがしてあった。 1908_22566.html(62):  二人はそれからいっそう声を低めて、何事か話し合った。そして“ハルピンから来た男”は間もなく、その『ナイル・カフェ』を立ち去った。 1908_22566.html(186):  手紙の中の“都合の悪いこと”について、何か心当たりはないかという刑事の質問に、信子は、 1915_22596.html(39):  外国へ来た者の恐らく誰もがぶつつかるのは「言葉」と云ふひとつの不思議な存在です。日本にゐるときには外国の書物を読んでも、言葉は思想の符号或ひは伝達器であると云ふぐらゐの気持しか実際私には出て来ませんでした。ところが、こちらへ来て少しでも外国語の「言葉の感じ」が呑み込めるやうになると、私はひとつの言葉の中に生きてゐる”Genie“と云つたものに気が附くのです。そして私は今更ながら言葉と存在との間の密接な関係を思はずにはゐられません。前に云つたやうに、私が眼を開いてひとつの「机」を見るときにも既にひとつの interpretatio が行はれてゐるのであつて、机と云ふ言葉は私の眼の前に現はれてゐる存在の意味を現はすはたらきをしてゐるのです。若し言葉がその表現の様々な方法に於いて、種々の方面から、存在の意味を現はして、存在を私たちに見ゆるものとすると考へられ得るならば、例へばアリストテレスが語法から範疇を導いたと云ふことにも深い意味があると思ひます。私たちはこのやうな思想の本当の意味を理解するために、言葉がただ読まれたばかりでなく、また単に聞かれたばかりでなく、また到るところ言葉を見、言葉に触れることが出来たギリシア、所謂「アッチカの雄弁」のギリシア、文法が生きてをり、言葉が裸のままで公に現はれて存在してゐた――私たちのギリシア人は言葉のこのやうな存在の仕方を恐らく「アレテスとしての存在」と呼んだでせう――ギリシアの生活を思ひ浮べなければなりません。言葉がひとつの生命をもち、特殊の Genie をもつてゐることに気附くとき、私が各々の民族の言葉の中にその民族の歴史が見出されると云つても、あながち無謀でもないでせう。かの天才フンボルトが、言葉は生産されたものでなく生産であり、出来上つたものでなく活動であると云つたのは、疑ひもない真理であると思はれます。そればかりでなく言葉に対する意識そのものがまた進歩してゆくのです。この意味で例へばヘルメノイティクの歴史、殊に聖書のヘルメノイティクの歴史を調べてみるのも有益な仕事であるでせう。すぐれた研究家ウーゼネルは、言語学者に必要なのは言葉の意識であると云ひました。言葉の意識と云ふのは文法のかたくななる形式を習得することを謂ふのではありません。言葉の意識はむしろ歴史的意識のひとつのはたらき、しかもその最も根本的なはたらきの形式であると私は思ひます。言語学の課題は人間的な、殊に精神的な存在の全体の広さと深みとの上に拡がつてをる、従つて言語学は歴史科学の根柢的な決定的なる方法である、と云つたウーゼネルの言葉には争ひ難い真理が含まれてゐると私は思ひます。言葉の意識が発達してゆく限り言語学上の interpretatio も決して終結することはないでせう。そして私には言語学者の行つてゐる recensio と interpretatio 或ひはクリティクとヘルメノイティクとを理解することが、歴史的意識の作用、歴史的認識の方法を理解する上に根本的な意義をもつてをるやうに感じられます。けれどこれらのことを明かにするためには何よりも言葉と存在、言葉と認識との関係に関する徹底した洞察を必要とします。これらの問題に就いて纏ったことを書かうと私は思つたのではありません。フンボルトの後シュタインタール、そして近くはパウルを失つた独逸の言語学の理論的研究も、今は何だか寂しく感じられます。 1915_22596.html(66): ※底本では、「”」の二点は右下に、「“」の二点は左上に、置かれています。 2011_6885.html(167):  どてらをぬいで片方の肩からななめにかけ、そのエックス・レッグスにかけて沈痛に片肱をつき額を抑えた。そして誰でも知っている“To be or not to be”というせりふをいった。丸まっちいからだの、禿げている頭の丸いハムレットが、紺の毛足袋の短い足を組みあわせ、血色のよい、髭のそりあとの見える東北人らしい顔を傾けて、To be or not to be と煩悶するのは、なんと滑稽なみものだったろう。伸子は手をうって笑った。 2015_42509.html(1119): 「どうかそうしたいものです。しかし……分らない……時が万事を証明するでしょう。それまでは Great big“IF”です」 201_20052.html(850):  その夜船はビクトリヤに着いた。倉庫の立ちならんだ長い桟橋に“Car to the Town.Fare 15¢”と大きな白い看板に書いてあるのが夜目にもしるく葉子の眼窓(めまど)から見やられた。米国への上陸が禁ぜられているシナの苦力(クリー)がここから上陸するのと、相当の荷役とで、船の内外は急に騒々(そうぞう)しくなった。事務長は忙しいと見えてその夜はついに葉子の部屋(へや)に顔を見せなかった。そこいらが騒々しくなればなるほど葉子はたとえようのない平和を感じた。生まれて以来、葉子は生に固着した不安からこれほどまできれいに遠ざかりうるものとは思いも設けていなかった。しかもそれが空疎な平和ではない。飛び立っておどりたいほどの ecstasy を苦もなく押えうる強い力の潜んだ平和だった。すべての事に飽き足(た)った人のように、また二十五年にわたる長い苦しい戦いに始めて勝って兜(かぶと)を脱いだ人のように、心にも肉にも快い疲労を覚えて、いわばその疲れを夢のように味わいながら、なよなよとソファに身を寄せて灯火を見つめていた。倉地がそこにいないのが浅い心残りだった。けれどもなんといっても心安かった。ともすれば微笑が口びるの上をさざ波のようにひらめき過ぎた。 202_20066.html(475):  あなたに書く事は底止(ていし)なく書く事です。しかしあすの奮闘的生活(これは大統領ルーズベルトの著書の“Strenuous Life”を訳してみた言葉です。今この言葉は当地の流行語になっています)に備えるために筆を止めねばなりません。この手紙はあなたにも喜びを分けていただく事ができるかと思います。 2076_34316.html(18): 216_20490.html(83):  “Magna est veritas,et praevalebit.” 216_20490.html(87):  左の足先は階子の一番上のおどり段に頼んだが、右の足は宙に浮かしているよりしようがなかった。その不安定な坐り心地の中で詩集が開かれた。「鐘の賦」という長い詩のその冒頭に掲げられた有名な鐘銘(しょうめい)に眼がとまると、園はここの時計台の鐘の銘をも知りたいと思った。ふと見ると高さ二尺ほどの鐘はすぐ眼の先に塵まぶれになって下っていた。“Magna est veritas,et praevalebit.”……園にはどうしても最後の字の意味が考えられなかった。写真で見る米国の自由の鐘のように下の方でなぞえに裾を拡げている。その拡がり方といい勾配(こうばい)の曲線の具合といい、並々の匠人の手で鋳られたものでないことをその鐘は語っていた。 216_20490.html(94):  “Magna est veritas,et praevalebit.” 216_20490.html(632): 「僕には少し方面ちがいのものだけれども、星野君が家に帰る時、読んでみろっておいていったものだから」と答えながら園は書物を裏返して表紙を人見に見せた。濃い藍の表紙に、金文字でたんに“Mutual(ミューチュアル) Aid(エイド)”とだけ書いてあった。 2190_25517.html(31):  このバーは酒場というよりも応接間、といった方が相応(ふさわ)しかった。四坪ばかりの小ぢんまりしたその部屋に、これは又――いささか古くはあったが――一流の豪華サロンに見るような、王朝風の彫刻をもったどっしりした椅子卓子(テーブル)が、ただ投出すように置いてある、そして、それらを広東更紗(カントンさらさ)の電燈笠(シェード)から落ちる光りが、仄々(ほのぼの)と浮出さしているのであった。――そういえば、このバーへの入口が、実に妙であった。相当銀座の地理には明るいつもりでいた私も、今日、今さっきはじめて此処(ここ)を見付けたばかりなのである。川ッぺりのビルとビルとに挟まれた狭い露地――その奥の、ビルの宿直部屋にでも下りるような階段を下りると、その突当りに“Bar Opal”と、素人細工らしい小さい木彫のネームがぶら下っていた。 2195_25512.html(224):  目をつぶった儘、しいて気を静めようとしても、異様に昂ぶった神経は、却って泡立つ鮮血とあの気味の悪い“ユーモレスク”が思い出されるのだ、唄うまい、としてもその旋律が脈搏に乗って全身に囁きわたるのであった。 2230_7405.html(59):  もしチェホフの劇作が、真直、ロシアの魂の或る時に迫っているものでなかったなら、桜の園その他の上演が、何故、現代において心理的の問題として討議されるだろう。あの夜、一つ一つの座席を埋めた数千の見物は、兎に角自分達の中にあるロシア魂にぴったりよってくる過去の魂を感じた。彼等はそれを理解しないわけには行かない。あまりわかる。或はやり切れない程わかる。だから彼等は、もう断然ガーエフ的人生を拒絶した彼等は、自分の顰(しか)めた顔の前で手を横に振る。ふう! もう沢山だ! 私は、そこで見る。モスクワの街を歩くロイド眼鏡の必然性を。メリイ・ピックフォードの夫ダグラス・フェアバンクスの軽業に対する新ロシアの愛好心を。桜の園を媒介として、我々は、ロシアの異様に独特な魂が、現在、自分の魂の一部分をどんな眼で眺めているか、その眼付を理解することができるのだ。ガーエフは、緑色羅紗の上でおとなしく小さな白い球を転(ころが)して一生を終った。今ロシア人は、ひろいグラウンドへ一つの大きい球をかっ飛ばし、それを追っかけ体ごところがり廻る。ロシアの新しい運動、蹴球(フットボール)。一名、動的生活(ダイナミーチェスキー・ジズニ)。球の皮と皮との継ぎ目には“К”とスタンプが押してある。 2262_34627.html(26):  どんな小説を讀ませても、はじめの二三行をはしり讀みしたばかりで、もうその小説の樂屋裏を見拔いてしまつたかのやうに、鼻で笑つて卷を閉ぢる傲岸不遜の男がゐた。ここに露西亞の詩人の言葉がある。「そもさん何者。されば、わづかにまねごと師。氣にするがものもない幽靈か。ハロルドのマント羽織つた莫斯科ツ子。他人の癖の飜案か。はやり言葉の辭書なのか。いやさて、もぢり言葉の詩とでもいつたところぢやないかよ。」いづれそんなところかも知れぬ。この男は、自分では、すこし詩やら小説やらを讀みすぎたと思つて悔いてゐる。この男は、思案するときにでも言葉をえらんで考へるのださうである。心のなかで自分のことを、彼、と呼んでゐる。酒に醉ひしれて、ほとんど我をうしなつてゐるやうに見えるときでも、もし誰かに毆られたなら、落ちついて呟く。「あなた、後悔しないやうに。」ムイシユキン公爵の言葉である。戀を失つたときには、どう言ふであらう。そのときには、口に出しては言はぬ。胸のなかを駈けめぐる言葉。「だまつて居れば名を呼ぶし、近寄つて行けば逃げ去るのだ。」これはメリメのつつましい述懷ではなかつたか。夜、寢床にもぐつてから眠るまで、彼は、まだ書かぬ彼の傑作の妄想にさいなまれる。そのときには、ひくくかう叫ぶ。「放してくれ!」これはこれ、藝術家のコンフイテオール。それでは、ひとりで何もせずにぼんやりしてゐるときには、どうであらう。口をついて出るといふのである、[#ここから横組み]“Nevermore”[#ここで横組み終わり]といふ獨白が。 2262_34627.html(44):  彼はそのころ、北方の或る城下まちの高等學校で英語と獨逸語とを勉強してゐた。彼は英語の自由作文がうまかつた。入學して、ひとつきも經たぬうちに、その自由作文でクラスの生徒たちをびつくりさせた。入學早々、ブルウル氏といふ英人の教師が、What is Real Happiness? といふことについて生徒へその所信を書くやう命じたのである。ブルウル氏は、その授業はじめに、My Fairyland といふ題目でいつぷう變つた物語をして、その翌る週には、The Real Cause of War について一時間主張し、おとなしい生徒を戰慄させ、やや進歩的な生徒を狂喜させた。文部省がこのやうな教師を雇ひいれたことは手柄であつた。ブルウル氏は、チエホフに似てゐた。鼻眼鏡を掛け短い顎鬚を内氣らしく生やし、いつもまぶしさうに微笑んでゐた。英國の將校であるとも言はれ、名高い詩人であるとも言はれ、老けてゐるやうであるが、あれでまだ二十代だとも言はれ、軍事探偵であるとも言はれてゐた。そのやうに何やら神祕めいた雰圍氣が、ブルウル氏をいつそう魅惑的にした。新入生たちはすべて、この美しい異國人に愛されようとひそかに祈つた。そのブルウル氏が、三週間目の授業のとき、だまつてボオルドに書きなぐつた文字が What is Real Happiness? であつた。いづれはふるさとの自慢の子、えらばれた秀才たちは、この輝かしい初陣に、腕によりをかけた。彼もまた、罫紙の塵をしづかに吹きはらつてから、おもむろにぺンを走らせた。[#ここから横組み]Shakespeare said,“[#ここで横組み終わり]――流石におほげさすぎると思つた。顏をあからめながら、ゆつくり消した。右から左から前から後から、ペンの走る音がひくく聞えた。彼は頬杖ついて思案にくれた。彼は書きだしに凝るはうであつた。どのやうな大作であつても、書きだしの一行で、もはやその作品の全部の運命が決するものだと信じてゐた。よい書きだしの一行ができると、彼は全部を書きをはつたときと同じやうにぼんやりした間拔け顏になるのであつた。彼はペン先をインクの壺にひたらせた。なほすこし考へて、それからいきほひよく書きまくつた。[#ここから横組み]Zenzo Kasai, one of the most unfortunate Japanese novelists at present, said,“[#ここで横組み終わり]――葛西善藏は、そのころまだ生きてゐた。いまのやうに有名ではなかつた。一週間すぎて、ふたたびブルウル氏の時間が來た。お互ひにまだ友人になりきれずにゐる新入生たちは、教室のおのおのの机に坐つてブルウル氏を待ちつつ、敵意に燃える瞳を煙草のけむりのかげからひそかに投げつけ合つた。寒さうに細い眉をすぼませて教室へはひつて來たブルウル氏は、やがてほろにがく微笑みつつ、不思議なアクセントでひとつの日本の姓名を呟いた。彼の名であつた。彼はたいぎさうにのろのろと立ちあがつた。頬がまつかだつた。ブルウル氏は、彼の顏を見ずに言つた。 Most Excellent! 教壇をあちこち歩きまはりながらうつむいて言ひつづけた。Is this essay absolutely original? 彼は眉をあげて答へた。Of course. クラスの生徒たちは、どつと奇怪な喚聲をあげた。ブルウル氏は蒼白の廣い額をさつとあからめて彼のはうを見た。すぐ眼をふせて、鼻眼鏡を右手で輕くおさへ、If it is, then it shows great promise and not only this, but shows some brain behind it. と一語づつ區切つてはつきり言つた。彼は、ほんたうの幸福とは、外から得られぬものであつて、おのれが英雄になるか、受難者になるか、その心構へこそほんたうの幸福に接近する鍵である、といふ意味のことを言ひ張つたのであつた。彼のふるさとの先輩葛西善藏の暗示的な述懷をはじめに書き、それを敷衍しつつ筆をすすめた。彼は葛西善藏といちども逢つたことがなかつたし、また葛西善藏がそのやうな述懷をもらしてゐることも知らなかつたのであるが、たとへ嘘でも、それができてあるならば、葛西善藏はきつと許してくれるだらうと思つたのである。そんなことから、彼はクラスの寵を一身にあつめた。わかい群集は英雄の出現に敏感である。ブルウル氏は、それからも生徒へつぎつぎとよい課題を試みた。Fact and Truth. The Ainu. A Walk in the Hills in Spring. Are We of Today Really Civilised? 彼は力いつぱいに腕をふるつた。さうしていつもかなりに報いられるのであつた。若いころの名譽心は飽くことを知らぬものである。そのとしの暑中休暇には、彼は見込みある男としての誇りを肩に示して歸郷した。彼のふるさとは本州の北端の山のなかにあり、彼の家はその地方で名の知られた地主であつた。父は無類のおひとよしの癖に惡辣ぶりたがる性格を持つてゐて、そのひとりむすこである彼にさへ、わざと意地わるくかかつてゐた。彼がどのやうなしくじりをしても、せせら笑つて彼を許した。そしてわきを向いたりなどしながら言ふのであつた。人間、氣のきいたことをせんと。さう呟いてから、さも拔け目のない男のやうにふいと全くちがつた話を持ちだすのである。彼はずつと前からこの父をきらつてゐた。蟲が好かないのだつた。幼いときから氣のきかないことばかりやらかしてゐたからでもあつた。母はだらしのないほど彼を尊敬してゐた。いまにきつとえらいものになると信じてゐた。彼が高等學校の生徒としてはじめて歸郷したときにも、母はまづ彼の氣むづかしくなつたのにおどろいたのであつたけれど、しかし、それを高等教育のせゐであらうと考へた。ふるさとに歸つた彼は、怠けてなどゐなかつた。藏から父の古い人名辭典を見つけだし、世界の文豪の略歴をしらべてゐた。バイロンは十八歳で處女詩集を出版してゐる。シルレルもまた十八歳、「群盜」に筆を染めた。ダンテは九歳にして「新生」の腹案を得たのである。彼もまた。小學校のときからその文章をうたはれ、いまは智識ある異國人にさへ若干の頭腦を認められてゐる彼もまた。家の前庭のおほきい栗の木のしたにテエブルと椅子を持ちだし、こつこつと長編小説を書きはじめた。彼のこのやうなしぐさは、自然である。それについては諸君にも心あたりがないとは言はせぬ。題を「鶴」とした。天才の誕生からその悲劇的な末路にいたるまでの長編小説であつた。彼は、このやうにおのれの運命をおのれの作品で豫言することが好きであつた。書きだしには苦勞をした。かう書いた。――男がゐた。四つのとき、彼の心のなかに野性の鶴が巣くつた。鶴は熱狂的に高慢であつた。云々。暑中休暇がをはつて、十月のなかば、みぞれの降る夜、やうやく脱稿した。すぐまちの印刷所へ持つて行つた。父は、彼の要求どほりに默つて二百圓送つてよこした。彼はその書留を受けとつたとき、やはり父の底意地のわるさを憎んだ。叱るなら叱るでいい、太腹らしく默つて送つて寄こしたのが氣にくはなかつた。十二月のをはり、「鶴」は菊半裁判、百餘頁の美しい本となつて彼の机上に高く積まれた。表紙には、鷲に似た妙な鳥がところせましと翼をひろげてゐた。まづ、その縣のおもな新聞社へ署名して一部づつ贈呈した。一朝めざむればわが名は世に高いさうな。彼には、一刻が百年千年のやうに思はれた。五部十部と街ぢゆふの本屋にくばつて歩いた。ビラを貼つた。鶴を讀め、鶴を讀めと激しい語句をいつばい刷り込んだ五寸平方ほどのビラを、糊のたつぷりはひつたバケツと一緒に兩手で抱へ、わかい天才は街の隅々まで駈けずり廻つた。 2263_34626.html(26):  どんな小説を読ませても、はじめの二三行をはしり読みしたばかりで、もうその小説の楽屋裏を見抜いてしまったかのように、鼻で笑って巻を閉じる傲岸不遜(ごうがんふそん)の男がいた。ここに露西亜(ロシヤ)の詩人の言葉がある。「そもさん何者。されば、わずかにまねごと師。気にするがものもない幽霊か。ハロルドのマント羽織った莫斯科(モスクワ)ッ子。他人の癖の飜案か。はやり言葉の辞書なのか。いやさて、もじり言葉の詩とでもいったところじゃないかよ」いずれそんなところかも知れぬ。この男は、自分では、すこし詩やら小説やらを読みすぎたと思って悔いている。この男は、思案するときにでも言葉をえらんで考えるのだそうである。心のなかで自分のことを、彼、と呼んでいる。酒に酔いしれて、ほとんど我をうしなっているように見えるときでも、もし誰かに殴られたなら、落ちついて呟(つぶや)く。「あなた、後悔しないように」ムイシュキン公爵の言葉である。恋を失ったときには、どう言うであろう。そのときには、口に出しては言わぬ。胸のなかを駈けめぐる言葉。「だまって居れば名を呼ぶし、近寄って行けば逃げ去るのだ」これはメリメのつつましい述懐ではなかったか。夜、寝床にもぐってから眠るまで、彼は、まだ書かぬ彼の傑作の妄想にさいなまれる。そのときには、ひくくこう叫ぶ。「放してくれ!」これはこれ、芸術家のコンフィテオール。それでは、ひとりで何もせずにぼんやりしているときには、どうであろう。口をついて出るというのである、[#ここから横組み]“Nevermore”[#ここで横組み終わり]という独白が。 2263_34626.html(44):  彼はそのころ、北方の或る城下まちの高等学校で英語と独逸(ドイツ)語とを勉強していた。彼は英語の自由作文がうまかった。入学して、ひとつきも経たぬうちに、その自由作文でクラスの生徒たちをびっくりさせた。入学早々、ブルウル氏という英人の教師が、What is Real Happiness? ということについて生徒へその所信を書くように命じたのである。ブルウル氏は、その授業のはじめに、My Fairyland という題目でいっぷう変った物語をして、その翌(あく)る週には、The Real Cause of War について一時間主張し、おとなしい生徒を戦慄(せんりつ)させ、やや進歩的な生徒を狂喜させた。文部省がこのような教師を雇いいれたことは手柄であった。ブルウル氏は、チエホフに似ていた。鼻眼鏡を掛け短い顎鬚(あごひげ)を内気らしく生やし、いつもまぶしそうに微笑(ほほえ)んでいた。英国の将校であるとも言われ、名高い詩人であるとも言われ、老けているようであるが、あれでまだ二十代だとも言われ、軍事探偵であるとも言われていた。そのように何やら神秘めいた雰囲気が、ブルウル氏をいっそう魅惑的にした。新入生たちはすべて、この美しい異国人に愛されようとひそかに祈った。そのブルウル氏が、三週間目の授業のとき、だまってボオルドに書きなぐった文字が What is Real Happiness? であった。いずれはふるさとの自慢の子、えらばれた秀才たちは、この輝かしい初陣に、腕によりをかけた。彼もまた、罫紙(けいし)の塵(ちり)をしずかに吹きはらってから、おもむろにペンを走らせた。[#ここから横組み]Shakespeare said,“[#ここで横組み終わり]――流石(さすが)におおげさすぎると思った。顔をあからめながら、ゆっくり消した。右から左から前から後から、ペンの走る音がひくく聞えた。彼は頬杖ついて思案にくれた。彼は書きだしに凝るほうであった。どのような大作であっても、書きだしの一行で、もはやその作品の全部の運命が決するものだと信じていた。よい書きだしの一行ができると、彼は全部を書きおわったときと同じようにぼんやりした間抜け顔になるのであった。彼はペン先をインクの壺にひたらせた。なおすこし考えて、それからいきおいよく書きまくった。[#ここから横組み]Zenzo Kasai, one of the most unfortunate Japanese novelists at present, said,“[#ここで横組み終わり]――葛西(かさい)善蔵は、そのころまだ生きていた。いまのように有名ではなかった。一週間すぎて、ふたたびブルウル氏の時間が来た。お互いにまだ友人になりきれずにいる新入生たちは、教室のおのおのの机に坐ってブルウル氏を待ちつつ、敵意に燃える瞳(ひとみ)を煙草のけむりのかげからひそかに投げつけ合った。寒そうに細い肩をすぼませて教室へはいって来たブルウル氏は、やがてほろにがく微笑みつつ、不思議なアクセントでひとつの日本の姓名を呟いた。彼の名であった。彼はたいぎそうにのろのろと立ちあがった。頬がまっかだった。ブルウル氏は、彼の顔を見ずに言った。Most Excellent! 教壇をあちこち歩きまわりながらうつむいて言いつづけた。Is this essay absolutely original? 彼は眉をあげて答えた。Of course. クラスの生徒たちは、どっと奇怪な喚声をあげた。ブルウル氏は蒼白の広い額をさっとあからめて彼のほうを見た。すぐ眼をふせて、鼻眼鏡を右手で軽くおさえ、If it is, then it shows great promise and not only this, but shows some brain behind it. と一語ずつ区切ってはっきり言った。彼は、ほんとうの幸福とは、外から得られぬものであって、おのれが英雄になるか、受難者になるか、その心構えこそほんとうの幸福に接近する鍵(かぎ)である、という意味のことを言い張ったのであった。彼のふるさとの先輩葛西善蔵の暗示的な述懐をはじめに書き、それを敷衍(ふえん)しつつ筆をすすめた。彼は葛西善蔵といちども逢ったことがなかったし、また葛西善蔵がそのような述懐をもらしていることも知らなかったのであるが、たとえ嘘(うそ)でも、それができてあるならば、葛西善蔵はきっと許してくれるだろうと思ったのである。そんなことから、彼はクラスの寵(ちょう)を一身にあつめた。わかい群集は英雄の出現に敏感である。ブルウル氏は、それからも生徒へつぎつぎとよい課題を試みた。Fact and Truth. The Ainu. A Walk in the Hills in Spring. Are We of Today Really Civilised? 彼は力いっぱいに腕をふるった。そうしていつもかなりに報いられるのであった。若いころの名誉心は飽くことを知らぬものである。そのとしの暑中休暇には、彼は見込みある男としての誇りを肩に示して帰郷した。彼のふるさとは本州の北端の山のなかにあり、彼の家はその地方で名の知られた地主であった。父は無類のおひとよしの癖に悪辣(あくらつ)ぶりたがる性格を持っていて、そのひとりむすこである彼にさえ、わざと意地わるくかかっていた。彼がどのようなしくじりをしても、せせら笑って彼を許した。そしてわきを向いたりなどしながら言うのであった。人間、気のきいたことをせんと。そう呟いてから、さも抜け目のない男のようにふいと全くちがった話を持ちだすのである。彼はずっと前からこの父をきらっていた。虫が好かないのだった。幼いときから気のきかないことばかりやらかしていたからでもあった。母はだらしのないほど彼を尊敬していた。いまにきっとえらいものになると信じていた。彼が高等学校の生徒としてはじめて帰郷したときにも、母はまず彼の気むずかしくなったのにおどろいたのであったけれど、しかし、それを高等教育のせいであろうと考えた。ふるさとに帰った彼は、怠けてなどいなかった。蔵から父の古い人名辞典を見つけだし、世界の文豪の略歴をしらべていた。バイロンは十八歳で処女詩集を出版している。シルレルもまた十八歳、「群盗」に筆を染めた。ダンテは九歳にして「新生」の腹案を得たのである。彼もまた。小学校のときからその文章をうたわれ、いまは智識ある異国人にさえ若干の頭脳を認められている彼もまた。家の前庭のおおきい栗の木のしたにテエブルと椅子を持ちだし、こつこつと長編小説を書きはじめた。彼のこのようなしぐさは、自然である。それについては諸君にも心あたりがないとは言わせぬ。題を「鶴」とした。天才の誕生からその悲劇的な末路にいたるまでの長編小説であった。彼は、このようにおのれの運命をおのれの作品で予言することが好きであった。書きだしには苦労をした。こう書いた。――男がいた。四つのとき、彼の心のなかに野性の鶴が巣くった。鶴は熱狂的に高慢であった。云々(うんぬん)。暑中休暇がおわって、十月のなかば、みぞれの降る夜、ようやく脱稿した。すぐまちの印刷所へ持って行った。父は、彼の要求どおりに黙って二百円送ってよこした。彼はその書留を受けとったとき、やはり父の底意地のわるさを憎んだ。叱るなら叱るでいい、太腹らしく黙って送って寄こしたのが気にくわなかった。十二月のおわり、「鶴」は菊半裁判、百余頁の美しい本となって彼の机上に高く積まれた。表紙には鷲(わし)に似た鳥がところせましと翼をひろげていた。まず、その県のおもな新聞社へ署名して一部ずつ贈呈した。一朝めざむればわが名は世に高いそうな。彼には、一刻が百年千年のように思われた。五部十部と街じゅうの本屋にくばって歩いた。ビラを貼(は)った。鶴を読め、鶴を読めと激しい語句をいっぱい刷り込んだ五寸平方ほどのビラを、糊(のり)のたっぷりはいったバケツと一緒に両手で抱え、わかい天才は街の隅々まで駈けずり廻った。 2288_33104.html(113):  たった一言知らせて呉れ! “Nevermore” 2415_45802.html(2480): “SORI-BATTEN!” 2415_45802.html(2485): “SORI-BATTEN!” 2415_45802.html(2490): “SORI-BATTEN!” 2415_45802.html(2495): “SORI-BATTEN!” 2415_45802.html(2500): “SORI-BATTEN!” 2415_45802.html(2505): “SORI-BATTEN!” 2415_45802.html(2510): “SORI-BATTEN!” 2415_45802.html(2515): “SORI-BATTEN!” “SORI-BATTEN!” 2437_10300.html(44):  この叢書の表紙の裏を見ると“Everyman, I will go with thee and be thy guide in thy most need to go by thy side.”という文句がしるされてある。この言葉は今日のいわゆる専門主義(スペシアリズム)の鉄門で閉ざされた囲いの中へはあまりよくは聞こえない。聞こえてもそれはややもすれば悪魔の誘惑する声としか聞かれないかもしれない。それだから丸善の二階でも各専門の書物は高い立派なガラス張りの戸棚(とだな)から傲然(ごうぜん)として見おろしている。片すみに小さくなっているむき出しの安っぽい棚(たな)の中に窮屈そうにこの叢書(そうしょ)が置かれている。 2495_9722.html(134):  故工学博士広井勇(ひろいいさむ)氏が大学紀要に出した論文の中にこのときの知事のことを“a governor less wise than Kenzan”としてあったように記憶する。実に巧妙な措辞(そじ)であると思う。この知事のような為政者は今でも捜せばいくらでも見つかりそうな気がするのである。 2523_20139.html(55):  と言っても、事実は――世間の目から見れば――そこには思い出すことはなんと少ししかなかったことだろう! 朝の目覚めや、夜ごとの就寝命令、復習や、暗誦(あんしょう)、定期的な半休や、散歩、運動場での喧嘩(けんか)や、遊戯や、悪企(わるだく)み、――こんな事がらが、長いあいだ忘れられていた心の妖術(ようじゅつ)によって、あまたの感覚、かずかずの豊富な出来事、さまざまな悲喜哀楽の感情、もっとも熱情的な感動的な興奮などを味わわせてくれたのだ。“Oh, le bon temps, que ce sicle de fer!”(おお、この草昧(そうまい)の時代の、楽しかりしころよ!) 2524_20138.html(103): (15)アルキメデス“De Incidentibus in Fluido”第二巻を見よ。(原注) 2525_15827.html(333): (1) “All in the Wrong”――イギリスの俳優で劇作家の Arthur Murphy(一七二七―一八〇五)の喜劇。一七六一年初演。一八三六年にニューヨークでも上演された。 2525_15827.html(337): (5) Palmetto――南カロライナ州は一名“Palmette State”と言われるほどだから、この棕櫚(しゅろ)がよほど多いのであろう。 2525_15827.html(339): (7) ルグランが antenn(触角)と言いかけたのを、ジュピターは tin(錫(すず))のことと思い違いをしたのであろう。ボードレールは“Calembour intraduisible”だと書いているが、日本語でもやはり訳されないことは同様である。 2525_15827.html(344): (12) William Kidd(一六四五?―一七〇一)――十七世紀の末の有名な海賊。スコットランドに生れ、初め剛胆な船長として世に知られていたが、のち海上生活を退いてニューヨークに隠退中、その船舶操縦術の手腕を時の植民大臣 Earl of Bellamont に認められ、当時アメリカの沿岸およびインド洋に横行していた海賊を剿滅(そうめつ)せよとの命を受けて、一六九六年に“Adventure”号の船長としてイングランドのプリマス港から出帆し、ニューヨークへ行き、それからマダガスカル島へ航した。その後間もなく彼自身が海賊になったと噂(うわさ)が立った。一六九九年にアメリカの海岸へ帰り、やがてボストンで逮捕されて部下と共にイングランドへ送られ、海賊を働いたことを否認したが、船員の一人を殺害した廉(かど)で、九人の部下と共に絞刑(こうけい)に処せられた。これより前、彼はニューヨークの東方ロング島の東にあるガーディナア島に一部分の財宝を埋めておいたが、それはのちに発掘された。その没収された財宝の総額は約一万四千ポンドに達するものであった。しかし、「キッド船長の宝」が大西洋のどこかの海岸にまだ埋められているという噂は、その後も永く世間に伝えられていた。 2525_15827.html(345): (13) この暗号文のうち一カ所は、ステッドマン・ウッドベリー版およびハリスン版が、他の諸版と異なっている。他の諸版の“forty-one degrees”に当る記号が“twenty-one degrees”になっているからである。(初めから四十四番目 1‡(;:………………;) が 8*;:………………)これは、のちに注18[#「18」は縦中横]においてしるすような理由で、たぶん、作者自身が一八四五年出版の彼の『物語集』にのちの刊行の準備として自筆で推敲(すいこう)の筆を加えたときに、書き直したものであろう。ステッドマン・ウッドベリー版、ハリスン版は、そのポーの自筆を加えたいわゆるロリマー・グレアム本を参照して、それに拠ったのである。しかし、ハリスン版の訂正個所はまちがっているし、またハリスン版、ステッドマン版ともにあとの記号の数のところが訂正暗号に合っていないので、この訳本ではあとのほうの数字を訂正したりすることは避けて、普通の諸版のもとの暗号を用いることにした。他の諸版にもそれぞれ小さな誤りがあるので、以下暗号に関するかぎり、諸版から妥当と思うところを取ることにする。 2526_17682.html(86): (12) “Night Thoughts”――Edward Young(一六八一―一七六五)の有名な詩“Night Thoughts : Night I (on Life, Death and Immortality).”and Night II (on Time, Death and Friendship).”のことであろう。 2526_17682.html(87): (13) Carathis――Wiliam Beckford(一七五九―一八四四)の東洋ロマンス“Vathek”(この物語は一七八七年にフランス語で出版され、その数年前に誰かの英訳が流布したりして問題を起し、当時ヨーロッパに広く読まれたものらしい。――最近も、エピローグを付したこの物語の最初の完全な版と称する二巻が、原文のフランス語でオックスフォードから出版された)の主人公の母。占星術の達人。 2526_17682.html(89): (15) Afrasiab――Abul Kasim Mansur(九四〇ごろ―一〇二〇、ペルシャの大叙事詩人)の“Shahnamah”(「諸王の書」の意。イランおよびペルシャの君主英雄の行為を歌った約六万対句の叙事詩)の中の Turan 王 Pesheng の子。イランの諸王との長い戦争ののちに捕えられて殺される。 2536_20184.html(154):  余り寒いので何を志すとなく、明の陳仁錫の『潜確居類書』一〇七をそこここ見ておると、鶏廉狼貪、魚瞰鶏睨、魚不瞑、鶏邪視とある。この文句は何から採っただろうと、『淵鑑類函』四二五、鶏の条を探ると、〈王褒(おうほう)曰く、魚瞰鶏睨、李善以為(おも)えらく魚目瞑(つむ)らず、鶏好く邪視す〉とある。鶏はよく恐ろしい眼付きで睨むをいうので、この田辺辺で古く天狗が時に白鶏に化けるなどいい忌む人があったは、多少その邪視を怖れたからだろう。白いのに限らず鶏をすべて嫌うた村もあったときく。『拾遺記』一、※[#「禾+砥のつくり」、312-2]支の国より堯に献じた重明の鳥は、〈双睛目あり、状(かたち)鶏のごとし、能く猛獣虎狼を搏逐す、妖災群悪をして、害為す能わざらしむ、(中略)今人毎歳元日、あるいは木を刻み金を鋳す、あるいは図を画きて鶏上(ゆうじょう)に為す、これその遺像なり〉。その他支那で鶏を以て凶邪を避けた諸例は、載せて Willoughby-Mcade,‘Chinese Ghouls and Goblins’. 1928. pp. 155-157. に出(い)づ。またマレー群島中、アムボイナやマカッサーの人はその辺の海に千脚ある大怪物すみ、その一脚を懸けられてもたちまち船が覆(くつが)える、がこの怪物鶏を怖れるからとて、船には必ず鶏を乗せて出発するという(Stavorinus, “Account of Celebes, Amboyna, etc.”, in Pinkerton,‘Voyages and Travels’, vol. xi. p. 262, London, 1812)。これら種々理由あるべきも、その一つは鶏の邪視もて他の怪凶をば制したのであろう。王褒は有名な孝子かつ学者で、『晋書』八八にその伝あり。李善は唐の顕慶中、『文選』を註した(『四庫全書総目』一八六)。熊楠十歳の頃、『文選』を暗誦して神童と称せられたが、近頃年来多くの女の恨みで耄碌(もうろく)し、件(くだん)の魚瞰鶏睨てふ王褒の句が、『文選』のどの篇にあるかを臆(おも)い出し得ない。が何に致せ李善がこれに註して、魚瞰とは死んでも眼を閉じぬ事、鶏睨とはよく邪視する事を解いたのだ。前項に、邪視なる語は、唐の貞元中に訳された『普賢行願品』に出でおり、今(昭和四年)より千百三十年ほどの昔既に支那にあったと述べたれど、それよりも約百四十年ほど早く行われいたと、この李善の註が立証する。また魚瞰について想い出すは、予の幼時、飯のサイにまずい物を出さるると母を睨んだ。その都度母が言ったは、カレイが人間だった時、毎々(つねづね)不服で親を睨んだ、その罰で魚に転生して後(のち)までも、眼が面の一側にかたより居ると。さればカレイも邪視する魚と嫌うた物か[延享二年大阪竹本座初演、千柳(せんりゅう)、松洛(しょうらく)、小出雲(こいずも)合作『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』義平治殺しの場に、三河屋義平治その婿団七九郎兵衛を罵(ののし)る詞(ことば)に、おのれは親を睨(ね)めおるか、親を睨むと平目になるぞよ、とある。ヒラメもカレイも眼が頭の一傍にかたよりおるは皆様御承知]。『後水尾院(ごみずのおいん)年中行事』上に、一参らざる物は王余魚、云々。またカレイ、目の一所によりて附し、その体異様なれば参らずなどいう女房などのあれども、それも各の姿なり、その類の中に類いず、こと様にあらばこそと見ゆ。(二月二十八日) 2568_8605.html(9): 與謝野寛 “MONICO” 2568_8605.html(19): “MONICO” 2590_20695.html(436):  しかのみならず、存在の理由というものを徹底的に索(もと)むるならば、それは創生した力に帰すべきものである。一の現象が vorkommen したことがその現象の存在の理由である。ショウペンハウエルは厭世の起源を意志が、時空の方式を通じて現象として個体化したことに帰しているが、それは厭世理由にはならない。意志は何ゆえにかかる過程を経て現象として顕現したか、それは説明できない。顕現した力が存在の理由である。われらは生きている。生きながらに生を厭(いと)うとはいかなることを意味するのであるか。その指示する意味は私に矛盾の感を与える。「ある世界観が厭世観であることは、その世界観の矛盾を示すものである」という言葉に一種の根拠がありはせぬか。いうまでもなく私は世の常の楽天観に与(くみ)するものではない。私は厭世を越えたるいなむしろ厭世そのものの中に見いだされたる楽天観をいうのである。悲しみと苦しみとをもって、織りなされたる悦(よろこ)びをいうのである。そもそも世界観において、楽天だとか厭世だとかいうことは重きをおかるべきでない。それは世界の相(すがた)をできるだけ精細に、如実に anschauen すればよい。その観察が「真」に徹すれば徹するほど私は楽天的な境地が開拓されると思う。私はフローベルやツルゲネフの思想においても、楽天的傾向を見いだすものである。ショウペンハウエルの哲学すら単に厭世観とは思われない。彼の解脱の方法としての愛と認識とはいっそう重要に注意さるべきものである。世界の苦痛と悲哀と寂寞とを徹底的に認識するは楽天に転向する第一歩である。そこに生命の自己認識がもたらす解脱の道がありはせぬか。認識の純なるものは躬(み)をもって知るの体験でなければならない。さらに徹しては愛とならねばならない。愛は最深なる認識作用である。白墨の完全なる表象はただちに黒板の文字となるように、最純なる表象はただちに意志である。私は愛と認識との解脱的傾向を含む特殊なる心の働きなることを認め、しこうしてこれによりて暗示さるる精神生活の自由の境地に注意するものである。オイケンは「人間は自然に隷属す。されどそを知るがゆえに自由なり」といい、トルストイは“Where Love is, God is.”といった。私の思想はもとよりいまだ熟していないが、生物の本能と隷属を脱して神への転向を企つる意識的生活は愛と認識とをもって始めらるるであろう。 2600_8435.html(27):  そう思って自分の読み度いと思う本のリストを繰って見ると、其の大半は欧州の作家である。“The Four Horseman of Apocalypse.”を書いて俄に注目の焦点と成った西班牙(スペイン)のブラスコ・イバンツを始め、松村みね子氏によって翻訳された「人馬の花嫁」の作者、ロード・ダンサニー其他、H. G. Wells, John Galsworthy, Kipling, Anatole France, Maurice Maeterlinck. 等と云う作者は、皆、英国、仏蘭西、白耳義(ベルギー)の人々である。 2600_8435.html(36):  二人はまるで異った傾向を持っているらしい。誰でも知っている通り H.G.Wells は科学小説とでも云うべきものを独特な天地にしているに対して、Galsworthy の方は、面倒な理屈は抜きで、読む者をどしどしと惹つけて行くような筆致を持っている。H. G. Wells は知らない、が Galsworthy は、彼の体付の通り、どちらかと云うと、細づくりな、輪廓の柔かい、上品と落付きと一種の物懶さをまぜたような気分を持っているような心持がする。余り沢山読んでいないので分らないけれども、一寸した短篇ながら、“The Juryman”の主人公の心持は、可成(かなり)作者自身の生活に対する頷きを現わしているものではないだろうか。 2600_8435.html(41):  去年の夏頃米国に来遊して間もなく“Saint's Progress”と云う四百頁余の長篇が出版されて六月から八月までに四版を重ねた。 2600_8435.html(43):  “The Man of Property.” 2600_8435.html(44):  “The Country House.” 2600_8435.html(45):  “Fraternity.” 2600_8435.html(46):  “The Dark Flower.” 2600_8435.html(47):  “Five Tales.” 2600_8435.html(48):  “Villa Rubien, and Other Stories.” 2600_8435.html(49):  “The Island Pharisees.” 2600_8435.html(50):  “The Patrician.” 2600_8435.html(51):  “Beyond.” 2600_8435.html(52):  “The Little Man, and Other Stories.” 2600_8435.html(53):  “The Inn of Tranquility.” 2600_8435.html(54):  “Memories.” 2600_8435.html(56):  “The Silver Box.” 2600_8435.html(57):  “The Eldest Son.” 2600_8435.html(58):  “The Little Dream.” 2600_8435.html(59):  “The Mob.” 2600_8435.html(60):  “A Bit O'Love.” 2600_8435.html(62):  脚本の事で思い出すが、つい先頃紐育(ニューヨーク)で上場して非常な称讚を受けた Maeterlinck の“The Betrothal”が Alexander Teixeira de Mattos. と云う人の英訳で出版された。 2600_8435.html(66):  Romain Rolland の近作“Colas Breugnon”が出版された。 2600_8435.html(70):  “How many glorious things there are on this round ball, things which smile at you, And taste sweet. Life is good, by the Lord.” 2616_18684.html(230):  それからその欄外に鉛筆書で「23XSY」“畜生、イカサマだ云々”、「要警戒勝者」と、三つの文句が横書になっている。帆村の顔は硬(こわ)ばった。 2616_18684.html(312):  23XSYという記号は、すぐ無電局名だと分った。“いかさまだ”というのはよく分らなかったが、これはこんど木田氏から親しく話を聞くことが出来た。「要警戒勝者」という文字からは、気の毒な博士の最期のことを連想させた。これは私の勘だがね。君の軽蔑するあれさ。それはともかくも、私はこれに気がついたので、これは大変な事件だと思いその筋へ報告して置いたんだが、あの日私たちが一足遅れになってしまった。 2637_23919.html(37): “――省線山手線内廻り線の池袋駅停り電車が、同駅ホーム停車中、四輌目客車内に、人事不省(じんじふせい)の青年(男)と、その所持品らしき鞄(スーツケースと呼ばれる種類のもの)の残留せるを発見し届出あり、目白署に保護保管中なり。住所姓名年齢不詳(ふしょう)なるも、その推定年齢は二十五歳前後、人相服装は左の如し……” 2637_23919.html(107):  臼井の姿が部屋から消えると、課長はその途端(とたん)に彼から頼まれたことを一切忘れてしまった。これは永年に亙る課長の修養の力でもあったり且又(かつまた)習慣でもあった。“ものごとを記憶するよりは、出来るだけ忘れよ”という金言があったと確信している田鍋課長であった。 2637_23919.html(110): “――前記姓名未詳(みしょう)の男は、二十五歳前後の青年にあらずして、実は六十五歳前後の老人なること判明せり。かく判明せる原因は、該(がい)要保護人を署内(目白署)に収容せる後に至りて、該人物が巧妙なる鬘(かつら)を被(かむ)り居たることを発見せるに因(よ)る。尚(なお)、同人所有のものと思われる鞄は、赤革のスーツケースにして、大きさに不相応なる大型の金具及び把手(ハンドル)を備(そな)え居り、その蓋を開きみたるに、長さ二尺ばかりの杉角材が四本と古新聞紙が詰めありたる外(ほか)めぼしきものも、手懸(てがか)りとなるものも見当らず。 2648_7392.html(50): “905”日本女の受けとった外套防寒靴預番号の真鍮札。 2659_23879.html(757):  いや、それはそのとおりであることが、後になって学生と博士との会話によって知れた。僕はそれを知って、むしろ安堵(あんど)の胸をさすった。カビ博士の器械によって、一時僕が二十年前に戻されているのは我慢できる。なぜなら待っていれば、博士はこの海底都市の世界へ私を戻してくれることは間違いないからである。しかし、もしかの学友辻ヶ谷君の手によって、二十年前の焼跡へ戻されたなら、これは僕の楽しみにしている時間旅行がここで中絶してしまうことを意味する。――どうぞ“辻ヶ谷君よ。僕のことは忘れて、僕が満足するまでどうぞ僕を二十年後の海底都市で生活させてもらいたい。このことを君に確実に通信できないので、実は僕はいつでもびくびくしているのだよ” 2684_23972.html(249):  犬山画伯は、その日、もう一枚、花の画看板をかいてくれた。そしてそれは、表通りに棒をたてて、その上にはりつけることにした。“この奥に最新開店の花やがございます。どうぞちょっとお立より下さいまし”と、案内の文句がかいてあった。 2686_23968.html(60): 「ねえ、あれをしようよ、一郎君。あれをするにはおあつらえ向きの場所だよ。ちゃんと舞台もあるしね、ほら、あそこを“地獄(じごく)の一丁目”にするんだ。すごいぜ、きっと……」 2686_23968.html(61): 「ああ、そういえばいい場所だねえ。舞台の前にはこんなに雑草が生えていて、ほんとうに“地獄の一丁目”らしいじゃないか」 2686_23968.html(62): 「ね、いいだろう。さっそく準備にとりかかろうや。みんな手わけをして作れば、今夜の間に合うよ。そして胆(きも)だめしの当番は、あそこのくぐり戸からこっちへ入るんだよ。そして鉦(かね)をかんかんと叩(たた)かせ、それから“ううッ”て呻(うな)らせ、それがすんだら最後に縄(なわ)をひっぱらせるんだ。その縄は、みんなの集まっている工場のへいの外のところまでつづけておいて、その縄には缶詰の空缶(あきかん)を二つずつつけたものを、たくさんぶらさげておくんだよ。縄をひっぱれば、がらんがらんと鳴るから、ははあ当番の奴はたしかにこの工場の中へ入ったなと、みんなの集まっているところへ知れるわけさ。そうすれば、ずるして途中で引返した奴はすぐ分っちまうからいいじゃないか」 2687_23970.html(246): 「元来(がんらい)日本人はむずかしい理屈をこねることに溺(おぼ)れすぎている。だから、太平洋戦争のときに、わが国の技術の欠陥をいかんなく曝露(ばくろ)してしまったのだ。ああいうよくないやり方は、この際さらりと捨てた方がいい。分らない分らないで一年も二年も机の前で悩むよりは、すぐ実験を一週間でもいいからやってみることだ。机の前では、思いもつかなかったようなことが、わずかの実験で“おやおや、こんなこともあったのか”と分っちまうんだ。頭より手の方を早く働かせたがいいよ」 2711_23994.html(44): “脅迫状。拝啓、来る十一月十一日を期し、貴殿夫人繭子(まゆこ)どのを誘拐(ゆうかい)いたすべく候間お渡し下されたく、万一それに応ぜざるときは貴殿は不愉快なる目に遭(あ)うべく候。右念のため。草々敬具。烏啼天狗生拝” 2712_23996.html(52): 「ははあ、察するところあなたは“ベニスの商人”の物語に読み耽(ふ)けられたんだな。心配はいらんです。ここにはシャイロックは居ませんし……」 2712_23996.html(87): 「第四には、賊はこの青年紳士安東仁雄君の心臓を強奪すると共に、直ちに代用心臓を与えて居る。つまり賊は、被害者の生命の保護ということについて責任ある行動をして居る。このように仁義のある紳士的な賊は、烏啼天駆めの外にはないのです。有名な彼の言葉に――“健全なる社会経済を維持するためには何人といえども、ものの代金、仕事に対する報酬を支払わなければならない。もしそれを怠るような者があれば、その者は真人間(まにんげん)ではない。たとえ電車の中の掏摸(すり)といえども、乗客から蟇口(がまぐち)を掏(す)り盗(と)ったときは、その代償として相手のポケットへ、チョコレートか何かをねじこんでおくべきだ。そういう仁義に欠ける者は猫畜生にも劣る”――というのがありますがな、猫畜生なる言葉は適切ではないが、その趣旨は悪くないと思う。つまり相手から心臓を奪いながら、すぐさま代用心臓を仕掛けて相手の生命を保護するというやり方は、これは烏啼めのやり方です」 2712_23996.html(122): 「ぷッ」と新聞記者は噴(ふ)きだして「恋愛事件だって。しかし烏啼は男の子だろう。男の子が男の子の心臓を盗んだって一体何になろう。況(いわ)んや、言葉じゃ“心を盗む”とか、“心臓を自分の所有にする”とかいうが、ほんものの血腥(ちなまぐさ)い心臓を盗んだって、なんにもならんじゃないか」 2712_23996.html(139): 「そう、その“あの娘”について伺いに参ったわけですが、そのお嬢さんのお名前はなんというのですか」 2712_23996.html(193):  桃色の風雲は突如としてロザリ倶楽部に捲きおこり、そして次にはそれが新聞やグラフィックに取上げられて、でかでかに報道された。曰く“心臓盗難男の恋の鞘当(さやあ)て”曰く“奇賊烏啼も登場の今様四角恋愛合戦”また曰く“無心臓男の恋の栄冠”と。 2712_23996.html(204): “君は下手なことをしたよ。君の心臓を奪っていった男をひどい目にあわしてしまったんだからね。失恋の傷手(いたで)に悶々(もんもん)たる烏啼の奴は、今頃はやるせなさのあまり、君の心臓を串焼きなんかにして喰べてしまったかもしれないよ。とんでもないことだ、そんなことは安東に話してやれないな” 2714_42455.html(181):  すると第五字(イ)、第八字(ソ)第十四字(ギ)、第十六字(ア)、第十九字(ン)、第二十七字(ゴ)、第三十字(ウ)……であるから、この順に文字を拾ってみると――イソギアンゴウ――イソギアンゴウ――“急ぎ暗号”かなよろしい。もっと先を拾ってみよう。 2714_42455.html(182): 「第三十二字(ヲ)、第三十六字(モ)、第三十八字(チ)、第四十五字(テ)、第五十三字(モ)、第五十八字(ウ)、第六十一字(シ)、第六十四字(ア)、第六十六字(ゲ)、第七十字(マ)、第七十三字(ス)――ヲモチテモウシアゲマス。始めからだと“急ぎ暗号をもちて申上げます”となる、これだ。 2714_42455.html(184): 「“急ぎ暗号をもちて申上げます例の男は”――ここまでで二十五字となる。これだけでは文章が尻切れ蜻蛉(とんぼ)だ。その先はどこに隠れているのだろう。 2714_42455.html(229):  これが出来ると、あとはもう楽であった。二十五字を四倍すれば百字になるわけだから、この窓のあいた紙を、百字の暗号文の上に重ねて、まず“急ぎ暗号……例の男”までの二十五字を読んだあと、この窓あき紙を九十度又は百八十度廻して暗号文に重ねて、窓のあいているところから下の文字を読めばいいのであった。 2714_42455.html(231): “前島セン一と偽名し富子という女を連れ”と文章の切れっ端が出てくる。 2714_42455.html(233): “急ぎ暗号をもちて申上げます。例の男は前島セン一と偽名し、富子という女を連れ、一昨日以来、原の町ともえ旅館離れ竹の間に泊りこみ誰かを待受けている様子です” 2714_42455.html(246): “袋猫々が、周章(あわ)てて自動車で外出しました” 2714_42455.html(247): “上野広小路で買物をしました。旅行鞄を買い、食料品を買い、トランプを買いました” 2714_42455.html(248): “上野駅で、原の町行きの二等切符を買いました” 2714_42455.html(249): “駅前の本屋へ寄りました。サトウ・ハチローの詩集と旅行案内とを買いました” 2714_42455.html(250): “駅前の喫茶店で、紅茶一つ、アンミツ一つをたべました。十円チップを置きました” 2714_42455.html(251): “袋探偵は午後三時帰宅しました。窓から覗(のぞ)いてみると、彼は旅行の準備をしています” 2714_42455.html(252): “取調べたるところ、袋探偵の買った切符は午後十時上野発の青森行急行であります” 2714_42455.html(253): “只今午後九時十七分です。袋猫々は玄関前に現われ、旅行鞄と毛布とを自動車に積みこみ、助手席に少年を一人のせてばあやに見送られて、自動車を自ら運転して出かけました。方向は上野のようであります” 2714_42455.html(254): “中折帽に長い茶色のオーバー、猫背で、茶色の色眼鏡をかけた袋猫々は、黒い旅行鞄と灰色の毛布をもって四番線の九六列車に乗込みました。列車は午後十時一分発車しました。袋猫々はしきりに林檎(りんご)をかじりながら、本を読んでいます” 2714_42455.html(255): “只今午後十時十分、少年が、猫々の自動車を運転して袋邸に戻って来ました。ばあやが起きて来ました。自動車はガレージに入れて錠をかけました。少年は、ばあやからチョコレートの箱と林檎を三つもらって、喜んで帰って行きました” 2714_42455.html(256): “ばあやの部屋の電灯も消え、邸内の窓は全部まっくらになりました。街灯と門灯だけが光っています” 2715_28479.html(151): 「ところが奇賊烏啼の堅持する憲法としまして“およそ盗む者は、被害者に代償を支払わざるべからず。掏摸(すり)といえども、財布を掏(す)ったらそのポケットにチョコレートでも入れて来るべし”てなことを主張して居りまする奇賊――いや憎むべき大泥坊でございます。そんなわけで、こちらの御盗難の場合においても、代償として別の画をはめていったものでありまして、稀(まれ)に見る義理堅い――いや、憎みても余りある怪々賊であります」 2717_23978.html(72):  金属製造――と書いては、いけないかもしれない。博士は“金属Qを創造”としたためている。製造と創造とは、なるほどすこしく意味がちがう。しかし創造ということには製造することがふくまれているのだ。はじめて製造することが創造なのである。してみれば、ぞくっぽく金属製造といってもさしつかえないであろう。 2717_23978.html(74):  しかし、たしかに針目博士は“金属を創造する”と書いてあるのだ。ウラニュウムをぶちこわしてカルシュウムを製造または創造するとはいわないであろうか。 2717_23978.html(76):  そうなると、針目博士が使用した“金属の創造”というのは、いったいどんな意味なのか、深い謎のベールに包まれているように感ずる。――まあ、そのことは、今は大目に見のがすこととして、“金属Q”というものはいったい何だと、ちょっと考えてみなければなるまい。 2717_23978.html(157): 「私は、ここへくる早々(そうそう)、この邸の雇人をつうじて会いたいと申しこんだのです。しかしその返事があって“今いそがしいから会えない。邸内は捜査ご自由”ということなんで、そのまま仕事を進めていました」 2717_23978.html(243): 「ああ、検事さん。かんじんの用むきを忘れていましたが、さっき針目の室まで行って博士に会い、あなたが会いたいといっていられることをつたえようとしたんですが、博士は入口のドアをあけもせず、“会ってもいいが、いま仕事で手がはなせないから、あとにしてくれ。あとからわたしの方で行くから”といって、さっぱりこっちの申し入れを聞き入れないんです」 2717_23978.html(675): 「ははあ、また“金属Q”の怪談(かいだん)か。きみも若いくせにおばけばなしにこるなんて、おかしいよ。良くいっても、きみがおとぎばなしをひとつ作ったというにすぎない」 2717_23978.html(694): “どうしたのだろう。わけがわからない” 2717_23978.html(695):  と博士が叫んだ。その直後、さっきからじりじりと焦(じ)れていた川内警部が、火のついたような声で叫んだため、なにかそれが刺(し)げきとなったらしく、博士は“危険だ、みなさん外へ出てください”と追い出し、そしてそのあとであの爆発が起こったのだ。してみれば、「骸骨の四」が紛失(ふんしつ)していたことがひとつの手がかりかもしれない。いま、蜂矢探偵が、あのへんな透明な針金細工(はりがねざいく)のようなものを、金属Qの兄弟ではないかとうたがっているのも、根拠(こんきょ)のないことでもないと思われる。そこで検事はいった。 2717_23978.html(764): 「今、浅草公園にかかっている“二十世紀の新文福茶釜(しんぶんぶくちゃがま)”という見世物を見物に行くんです。これは、わたしの助手である小杉(こすぎ)少年が、わたしに知らせてくれたものです。じつは茶釜じゃなく、めしたき釜の形をしているんですが、それがひょこひょこ動き出し、音楽に合わせておどったり、綱わたりもするんです。しかもインチキではないらしい……」 2717_23978.html(1012): 「もちろん、こっちは充分に注意をするから大丈夫だ。それにさっき電話で、“きょう怪しい客が行くぞ”と知らせがあったほどだから、怪しい客にはぜひお目にかかりたい」 2718_23979.html(141): “睡っちゃいけない。睡ると死ぬぞ” 2718_23979.html(197): “おーい、元気を出せ。僕はこの帆を使って、この筏を、そっちへよせる考えだ” 2718_23979.html(907): 「おい、ダビット。“恐竜崖の上に現わる”の大光景は、もちろんうまくカメラにおさめたろうね」 2718_23979.html(983): 「鍛冶屋(かじや)のとんてんかんというあの音は好きらしい。蓄音器のレコードにあるじゃないか。“森の鍛冶屋”というのがね」 2718_23979.html(1371): 「ぼくは、よくおぼえていないのですが、なんでも、“あ、見えた、金貨の箱だ”といったように思ったんです」 2718_23979.html(2312): “恐竜の呼吸だな” 2718_23979.html(2378): “宝、死と共にここに眠る”という謎のようなスペイン文字がモレロに読めたら、彼もちょっと考えたであろうが、残念ながら、彼には読めなかった。 2719_45576.html(461): 「だが、君たちは、とてもあの怪物とは太刀(たち)うちができないだろう。いや、君たち少年ばかりではない。どんなかしこい大人でも、あれには手こずるだろう。もしもわしの予感があたっていれば、あれは、超人間(ちょうにんげん)なんだ。超人間、つまり人間よりもずっとかしこい生物(せいぶつ)なのだ。わしは、あれのために、ひそかに名まえを用意しておいた。“超人間X号”というのがその名まえだ。超人間だから、君たちがいく人かかっていっても、あべこべにやっつけられる。だから、手をひいたがいい」 2719_45576.html(633): 「うんにゃ、それよりも鎮守(ちんじゅ)さまのうしろに住んでいる巫女(みこ)の大多羅尊(だいだらそん)さまに頼んで、博士さまについている神様をよびだして、その神様に“早う、おできを直すよう、とりはからえ”と頼んでもらう方が、仕事が早いよ」 2988_10093.html(9): 宮本百合子 “慰みの文学” 2988_10093.html(20): “慰みの文学” 3012_10141.html(63):  ステファン・ツワイクは伝記文学者として多くの仕事をしたが、彼の代表作「三人の巨匠」の中でもディケンズ研究は、最も重く評価されている。ディケンズの天才は、イギリスのみならず世界文学のほこりであるけれども、あれほどの彼の大天才もイギリス流の現実への妥協で終ったために遂に大成するに到れなかった、と云っている。そして、イギリスの独特な資本主義発達の過程はシェクスピアを生んだ環境そのものでディケンズの天才の羽根をおらせた。ゴールスワージーは、魅力ある作家だったけれども、彼の文学にも終点は「人生はこうしたものだ」“Life is such a thing”という言葉がある。ふち飾りである文学が、人類の歴史の進歩に大きく作用する力はなかった。十九世紀のイギリスのロマンティシズムがレルモントフに影響し、サッカレーやディケンズのリアリスムがトルストイなどに作用したにしても、その結果あらわれたロシアの六〇年代の小説と評論は、それが本来の人生の問題につき入っていたからこそ世界精神につよい響をつたえた。戦前、ヴァレリーの「ドガに就て」を訳して、名訳といわれた吉田健一という名を思いおこすと、こんにちの「英国の文学」だの、父親の代弁として、ユーモアのないところに思想はなく、だから文学はないという風なくちのききかたも、何となく中間小説作家流の本来の人生(ライフ・プロパア)の姿を語っているようでもある。 3048_20671.html(57): 「その和歌宮先生が、私の長い脛をつくづく見ていうのだ。“あなたの脛は非常に立派だ。四十三糎(センチ)という長い脛は比較的めずらしい方に属するばかりか、あなたの脛骨(けいこつ)と腓骨(ひこつ)の形が非常に美しい。脛骨の正面なんか純正双曲線をなしている”とね。そして、もしこれを売る意志があるのだったら、九十九万円には買取るというのだ」 3048_20671.html(133): “やみかわ、きちんど に けいこくする。こみや、たまこ は、きみのうつくしいあしを、わかみや、どんちき よりかいとった。そしてそのあしは、かのじょのかねてあいするおとこへささげられた。こんごゆだんをすると、とんでもないことになるぞ。はやみみせいより” 3048_20671.html(196): “臓器や四肢を取替えることによって見掛けの若返りは達せらるるも、脳細胞の老衰は如何ともすべからず、結局永遠の生命を獲得することは不可能である” 3048_20671.html(198): “……大脳手術の最近における驚異的発達は従来不可能とされた諸種の問題を相当可能へ移行させた。老衰せる脳細胞は、若き溌溂(はつらつ)たる脳細胞に植継(うえつ)ぎて、画期的なる若返りが遂げられる。かかる場合、知能的には低き脳細胞へ移植を行うことが手術上比較的容易である” 3049_17914.html(128): 「それからもう一つ、いやなことをいったじゃないか。なんといったっけなあ“今度の旅行は先へ行くほど苦労が加わり、村へ帰れるのは何日のことになるか分らない”そういったじゃないか」 3049_17914.html(261): “神秘なる世界的占師、牛頭大仙人はここに来れり。未来につき知らんとする者は、ここに来りて牛頭大仙人に伺いをたてよ。即座に水晶の珠に照らして、明らかなる回答はあたえられるべし。料金は一切不要、但し後より何か食糧品一品を持ち来りて大仙人に献ずべし” 3049_17914.html(335): 「博士さま、お前さまは“コーヒーに追いかけられて大火傷をするぞ”といわれたでねえかよ、はははは」 3049_17914.html(336): 「はははは。それによ、お前さまの将来は“この世界の涯まで探しても寝床一つ持てなくなるし、自分の身体を埋める墓場さえこの世界には用意されないであろう”といわれたでねえか。やれまあお気の毒なことじゃ。はははは」 3049_17914.html(337): 「おまけによ、お前さまは“心臓を凍らせたまま五千年間立ったままでいなければならぬ。一度だって腰を下ろすことは出来ないぞ”といわれたでねえかよ。お気の毒なことじゃ。はっはっはっはっ」 3049_17914.html(409): 「ふうん“二日後に僕たちが厄介を背負いこむだろう”などというあれだね。あれはひどいよ」 3049_17914.html(447): 「しかし、放送で再三注意しておいたからねえ、“この地区では瓦斯実験を行うので危険につき今日の正午以後翌日の正午まで立入禁止だ”と繰返し注意を与えてある。だから、このへんにまごまごしている者はいないよ」 3049_17914.html(625): 「うん。君たちは、さっき警報ベルの鳴ったのをきかなかったかね。“総員退去せよ”と、ベルがじゃんじゃん鳴ったよ。それをきくと、多くの者は外へとび出し、そして助かったんだ」 3049_17914.html(703): 「そうだ。さっき椿事(ちんじ)を起こしたとき、先生のところへ行って、危険が迫っていますから早く外へ出て下さいとすすめたが、先生は“お前たちこそ逃げろ。わしはどうあっても艇からはなれない”といって、避難することを承知せられなかった」 3049_17914.html(791): 「そうなんだ。博士の部屋で、電気コーヒー沸しを使ってコーヒーを沸していたのさ。すると博士が“あっ、熱い”と叫んで椅子からとびあがったんだ。見るとね、博士の背中へ何だか棒のようなものが伸びているんだ。それがね、よく見るとコーヒーなんだ。コーヒー沸しの口から棒のようになって伸びているんだ。茶っぽい棒なんだよ。それで僕は、博士の背中にもうすこしでつきそうなその茶っぽい棒をつかんだのさ。ところが“あちちち”さ。両手を火傷しちゃった、そのコーヒーの棒で……。だってコーヒーはうんと熱く沸いていたんだからねえ」 3049_17914.html(1133): 「さあ……どれがどうなんだか、全く見当がつかない。とにかく“火星には美人が多い”なんていう話を聞いたことがあったが、あれは全然うそだと分ったわけだ」 3049_17914.html(1533):  それから半年の後、地球人と火星人の合作による新宇宙艇の建造はめでたく完成した。この新艇には“太陽の子”という名前がつけられた。火星も地球も共に太陽の子であるという意味を含めたもので、同じく太陽の子である以上、仲よくしましょうという平和精神が盛られてあるのだった。 3049_17914.html(1534):  試運転も地球人と火星人の協力でうまく行った。そして一ヶ月後に、地球帰還の用意万端は成り、いよいよ“太陽の子”号は、はなばなしく初航空の旅についた。地上からは火星人たちの盛んな見送りがあり、艇からはデニー博士一行と、地球訪問の火星人使節団と技術団とが手を握り、触手を動かして挨拶をかわした。こうしてめでたい地球人と火星人との協力による宇宙旅行が始まったのであった。 3049_17914.html(1535):  デニー博士が調査作製した宇宙航路によって、“太陽の子”号は最も条件のよい航路を選び、地球へ近づいて行った。そしてわずか十五日で、その航路を突破した。“太陽の子”号がニューヨーク郊外の新飛行場“火星”へ無事着陸すると、地球は――いや全世界は歓喜と興奮の渦にまきこまれた。デニー博士以下の乗組員たちは大統領に出迎えられ、光栄ある讃辞を受けた。また火星からの異形の使説団一行は大歓迎をもって迎えられた。 3050_20669.html(82): “なげかわしいことだ。こんなに道義がすたれては、生きて[#「生きて」は底本では「生きで」]いるのがいやになった” 3050_20669.html(83): “あくことをしらないこの頃の人間の欲望。神をおそれない人々。いくら美しく飾りたてようと、これは人間の世界ではない。禽獣(きんじゅう)の世界だ” 3050_20669.html(84): “今に、天のおさばきがあろう。いや、すでにそのきざしが見える。君は気がついているか” 3050_20669.html(85): “うん。君は弟月(おとうとづき)のことをいっているのだろう。弟月が、だんだんあやしい光を強め、大きくふくれて来るわ。気味のわるいことだ” 3050_20669.html(86): “天のおさばきは近くにせまったぞ。今となってはおそいかもしれないが、わしはもう一度人々にそれを知らせて、反省をうながそう” 3050_20669.html(87): “それがいい。わしも生命のあるかぎり、悪魔にとりつかれている人を一人でもいいから神の国へ引きもどすのだ” 3052_20670.html(67): 「……そんなわけでして、どうもはっきりしないところもあるんですが」と大寺警部の有名な“訴える子守娘”のような異様な鋭い声がして「ともかくも、ここの戸口の扉には内側から鍵がさしこんだまま錠がかかっているのに対し、反対側の窓が半分開いて居りますうえに、今ごらんになりましたとおり、被害者の頸の後に弾丸が入っている。それならば、犯人は被害者の後方から発砲し、それからあの高窓にとびあがって逃げた――と考えてよろしいのではないかと思います。私の説明はこのくらいにしておきまして、後はどうぞ捜査指揮をおねがいいたします」 3052_20670.html(918): 「さっきお電話が先生にありましたんですけれど、いくらお聞きしても自分のお名前を仰有いませんの、そしてただ先生に、“鼠も心臓麻痺じゃ”と、それだけを伝えてくれと仰有いましたんですけれど、何のことだかさっぱり分りません。ひょっとしたらその方は気が変ではないかと……」 3052_20670.html(1199):  帆村は電撃をくらったほど愕いた。“たいへん軽い缶詰”――そんなことは今まで想像したこともなかった。帆村は愕いたが、三津子の方は別に愕いていなかった。 3052_20670.html(1344): 「その書簡箋に書いてあった文面が、また興味あるものなんです。こう書いてありましたがね、“告白書。拙者乃チ旗田鶴彌ハ昭和十五年八月九日午後十時鶴見工場ニ於テ土井健作ヲ熔鉱炉ニ突落シテ殺害シタルヲ土井ガ自殺セシモノト欺瞞シ且ツ金六十五万円ノ会社金庫不足金ヲ土井ニ転嫁シテ実ハ其ノ多クヲ着服ス、其後土井未亡人多計子ヲ色仕掛ヲ併用シテ籠絡シ土井家資産ノ大部分ヲ横領スル等ノ悪事ヲ行イタリ、右自筆ヲ以テ証明ス。昭和十六年八月十五日、東京都麹町区六番町二十五番地、旗田鶴彌印”――というんですが、これは如何です」 3053_20674.html(66): 「そのとき格別田鶴子を注意していた訳じゃありませんが、こっちがはっきり四方木田鶴子へ注目するようになったのは、子爵の遭難からです。早くいえば、私は子爵の本家筋にあたる池上侯爵家からの秘密なる依頼で、田鶴子には気付かれないように、秘密裡に彼女を調べたのです。私は常に黒幕のうしろに居り、田鶴子には婦人探偵の錚々(そうそう)たるところの[#「ところの」は底本では「ところを」]数名を当らせたんです。要点は、池上侯爵家からの依嘱により、“もしや四方木田鶴子があの雪山で古神子爵を雪崩の中に突き落としたのではないか”を明らかにするためだったのです」 3053_20674.html(98):  ただその中で一つ、帆村の注意を惹いたのは、「千早(ちはや)館」という文字だった。“田鶴子さんは日本中で一番感覚美を持った建築物は千早館であり、田鶴子さんは毎月一回は栃木県の山奥まで行って、千早館を眺めて来ないではいられない程なのよと、うっとりとした面持で僕に語った”と、日記には出ていた。 3053_20674.html(291): 「ああ、そうです。あの曲は田川の作曲したものですわ。“銃刑場の壁の後の交響楽”」 3053_20674.html(335): 「いいました。地獄の島です。迷路の或るものには“島”というやつが用意されてあるんです。この島へ迷い込んだが最後、なかなかそこを抜け出すことが出来ないんです」 3073_10629.html(33):  先頃、エイ・エス・エム・ハッチンスンと云う作家が(男です。)“This Freedom”と云う長篇小説を発表しました。直訳すれば「この自由」と云いますか。 3139_10761.html(9): 宮本百合子 “子供の本”について 3139_10761.html(20): “子供の本”について 3143_10769.html(36):  彼等は、日本の婦人が全く奴隷的境遇に甘じ、良人は放蕩をしようが、自分を離婚で脅かそうが、只管(ひたすら)犠牲の覚悟で仕えている。そして、自分の良人を呼ぶのにさえその名を云わず“Our master”と呼ぶ、と云ったと仮定します。 3186_10855.html(9): 宮本百合子 “健全性”の難しさ 3186_10855.html(20): “健全性”の難しさ 3216_16432.html(43):  デカルトは「第五省察」において再び神の存在問題に触れている。そこでは認識論的である。明晰にして判明なるものが真である。神の存在ということは、少くとも数学的真理が確実であると同じ程度において自分に確実である。然るに三角形の三つの角の和が二直角であるということが、三角形の本質から離すことができない如くに、神の存在ということは、神の本質から離すことはできぬ。存在ということの欠けた最高完全者というものを考えることは、谷のない山を考える如く自己撞着(どうちゃく)である。故に神は存在する。而して完全無欠なる神は欺かない。そこから我々の自己において明晰判明なる知識の客観性を基礎附けるのである。最高完全者としての神の観念は存在を含むという神の存在の証明は、百円の観念は百円の金貨ではないという如きを以て一言に排斥すべきではない。神はカント哲学の形式によって実在するというのではない。実在の根柢を何処(どこ)までも論理的に考える時、私は「最高完全者は存在する」という理由も出て来ると思う(Leibniz,“Quod Ens Perfectissimum existit.”)。しかし神の誠実性を以て知識の客観性を基礎附けるという如きは、何らの論理性を有(も)たない。主語的論理の破綻(はたん)を示すものである。明晰にして判明なるものは、それ自身によって理解せられるもの、十全なる知識として、真にあるものでなければならない。神はそれ自身を表現するものである。我々の観念が神を原因とするかぎり明晰判明である、十全である。要するにコーギトー・エルゴー・スムから出立したデカルト哲学は、スピノザに至らなければならない。「すべてあるものは神に於(おい)てあり、神なくして、何物もあることも、理解せられることもできない」(Ethica. Prop. 15 p. 1)というに至って極まるのである。スピノザ哲学は、デカルトの実体から出立して、その主語的論理の極に達したものということができる。此(ここ)に至って、全然我々の自己の独自性は失われて、我々は実体の様相となった。我々は神の様相としてコーギトーするのである。我々の観念が神に於(おい)てあるかぎり、我々は知るのである。斯くして我々の自己の自覚が否定せられるとともに、神は対象的存在として我々の自覚の根柢たる性質を失った。最も具体的たるべき神は、最も抽象的にカプト・モルトゥムとなった。 3230_7212.html(70): (手首だった。切り放された黄色い手首が、この番号札を前へ押しだしたのだ。――そして“これを胸へ下げてください”と、その手首がものをいった!) 3230_7212.html(168): “わが政府は、○○の治安を確立するため、同地に、警察力を常置せんとするものである。之(これ)につき、わが警察力は実力をもって、第一に、鬼仏洞を閉鎖し、第二に、鬼仏洞内にて殺害されたるわが忠良なる市民顔子狗の死体を収容し、第三に、右の顔(がん)殺害犯人の引渡しを要求するものである” 3230_7212.html(171): “○○の治安は、充分に確保されあり、鬼仏洞内に殺人事件ありたることなし” 3230_7212.html(174): “なるほど、洞内に於て、何某(なにぼう)が死亡しているようであるが、その写真で明瞭であるとおり、何某から五六メートルも離れた位置より、彼等の内の何人たりとも何某の首を切断することは不可能事である。況(いわ)んや、彼等の手に、一本の剣も握られていないことは、この写真の上に、明瞭に証明されている。理由なき抗議は、迷惑千万である” 3230_7212.html(179): “では、鬼仏洞内の現場に於(おい)て、双方立合いで、検証(けんしょう)をしようじゃないか” 3232_11264.html(290): “こっちは、軍団司令部だ” 3232_11264.html(292): “おう、しめた。こっちは、カモシカ中尉どのからの速達報告だ” 3232_11264.html(293): “なに、速達?” 3232_11264.html(294): “いや、ちがった。至急報告だ。そっちは、たしかに軍団司令部にちがいないだろうね。お前のところは、敵のスパイ本部じゃないのか。商売上、Z軍団司令部らしい顔をして、返事をしているんだったら、後でわしは叱られて迷惑するから、今のうちに、スパイならスパイと、名乗ってくれ……” 3232_11264.html(295): “なんだと。下(さが)れ” 3232_11264.html(296): “なにィ。下れとは、何か” 3232_11264.html(303): “おい、軍団司令部か。こっちへ挨拶もしないで、引込んじまっちゃ、困るじゃないか。手間どっているうちに、こっちが敵の砲弾で粉砕されちまや、貴重にして重大なる戦況報告が司令部へ届かないことになるじゃないか。そうなると、わが軍の損害は急激に――なに、早く本文を喋れというのか。さっきから、喋ろうと思うと、意地わるく、貴様の方で、邪魔をするんだ。いいか、さあ喋るぞ” 3232_11264.html(304):  とモグラ下士は、大きな咳(せき)ばらいをして、“挺進(せきていしん)Z百十八歩兵中隊報告! われは、本地点において――本地点というのは、一体どこなんだか、こっちには、よくわからないから、そっちで方向探知してくれ、いいか――右地点において、敵の怪物部隊に対峙(たいじ)して奮戦中なり。敵の怪物部隊の兵力は約一千十五名なり……” 3232_11264.html(306): “――その怪物は、いずれも、重圧潜水服を着装せるところより推定するにいずれも海軍部隊なるものの如きも、ここに不可解なることは、彼等怪物はロケット爆弾の中にひそみて飛来したものであって、その結果より見れば、恰(あたか)も空中に海がありて、そこより飛来したものと推定されるも、なぜ空中に海があるのか、わしにも分らない、中隊を率いるカモシカ中尉にも、おそらく分っちゃいないだろう……” 3232_11264.html(311): “さっきの続きだ。いいかね。――敵はいずれも全身から蛍烏賊(ほたるいか)の如き青白き燐光(りんこう)を放つ。わしは幽霊かと見ちがえて、カモシカ中尉から叱られた。敵は、その怪奇なる身体をうごかしてカモシカ中尉と余(よ)モグラ一等下士の死守する陣地に向い、いま果敢なる突撃を試みようとしている。この報告は、恐らくわが陣地よりの最後の報告となるべく、われらの壮烈なる戦死は数分のちに実現せん。金鷲勲章(きんしゅうくんしょう)の価値ありと認定せらるるにおいては、戦死前に、電信をもってお知らせを乞(こ)う。スターベア大総督に、よろしくいってくれ。報告、おわり。どうだ、こっちの喋ったことは、分ったか” 3232_11264.html(312): “……” 3232_11264.html(503): “わが元首よりの命令である。只今より、マイカ大要塞司令官は、対アカグマ国イネ州への攻撃戦を指揮すべし。尚(なお)、それと共に行方不明となりたるわが大潜水艦隊の消息を直(すぐ)に探査し、報告すべし” 3232_11264.html(552): “わが艦隊は魔の海溝に於(おい)て突然敵の爆薬床に突入し、全滅せるものの如し、わが艦はひとり、可撓性(かとうせい)の合金鋼材にて艦体を製作しありしを以(もっ)て、比較的外傷を蒙(こうむ)ること少かりしも、爆発床へ突入と共に、大震動のため乗組員の半数を喪(うしな)い、あらゆる通信機は、能力を失いたり、仍(よ)りてわれは、僅(わずか)に残れる廻転式磁石を頼りとして、盲目状態に於て、帰港を決意せるも、何時(いつ)如何(いか)なる事態に遭遇するやも量(はか)られざる次第なり” 3232_11264.html(609): 「いえ、事実でございます。――ところが、部屋の中で、所員の愕くこえを耳にいたしました。“あっ、計器の指針がとんでしまった、なぜだろう”」 3232_11264.html(645): “――わが高射砲部隊は、敵機五十八機を撃墜せり。尚(なお)引続き猛射中” 3232_11264.html(660): “――本日十六時、本監視哨船の前方一哩(マイル)のところに於て、海面に波立つや、突然海面下より大型潜水艦とおぼしき艦艇現われ艦首を波上より高く空に向けたと見たる刹那(せつな)、該艦の両舷(りょうげん)より、するすると金色の翼が伸び、瞬時にして爆音を発すると共に、空中に舞上りたり。その姿を、改めて望めば、それは既に潜水艦にあらで、超重爆撃機なり。潜水飛行艦と称すべきものと思わる。司令機と思わるる一機に引続き、海面より新(あらた)に飛び出したる潜水飛行艦隊の数は、凡(およ)そ百六、七十台に及べり。本船は、これを無電にて、至急報告せんとせるも、空電俄(にわか)に増加し本部との連絡不可能につき、已(や)むなく鳩便(はとびん)を以て報告す” 3232_11264.html(676): “――敵兵は、毒瓦斯に包まれつつ、平然として、陣地構築らしきことを継続しつつあり。尚(なお)敵兵は、いずれも堅固なる甲冑(かっちゅう)を着て居って、何(いず)れの国籍の兵なるや、判断しがたし” 3232_11264.html(696):  すると、敵の司令官から、返書が来て“われは、貴軍の降服申出(もうしで)に応ずるであろう。依ってマイカ要塞の心臓は、只今より当方が監視するから、直(すぐ)に貴軍の兵員を、発電所より去らしめられたい” 3232_11264.html(699): “イネ建国軍キンギン派遣隊司令官カチグリ大佐!” 3233_23563.html(1538):  新聞記事には“原因は目下取調中であるが、ガソリン樽(たる)が引火爆発したのではないかとの説もある”[#「説もある”」は底本では「説もある。」] 3234_24627.html(34): “未来の地下戦車長、岡部一郎” 3234_24627.html(39): “未来の地下戦車長、岡部一郎” 3234_24627.html(58):  電灯会社の修理工の一郎は、だんぜん地下戦車を作りあげるつもりである。さればこそ、毎朝、“未来の地下戦車長、岡部一郎”と、大きな文字を書いて、自分をはげましているのであった。 3234_24627.html(65):  一郎は、それから後も、ずっと、“未来の地下戦車長”の手習(てなら)いをつづけていた。 3234_24627.html(66):  或日、彼は、会社の机に向って、そこに有り合わせた修理引受書(ひきうけしょ)用紙を裏がえしにして、ペンで“未来の地下戦車長”と、また書き始めたのであった。 3234_24627.html(71): 「なんだい、この“未来の地下戦車長”というのは……」 3234_24627.html(126):  彼は、ひとりごとをいった。それで分った。彼は、いよいよ地下戦車の設計にとりかかったのである。察するところ、昼間、係長の小田氏からいわれたこと――“神に祈るのもいいが、ただ祈るだけじゃ、だめだ。また、考えているだけじゃ、だめだ。技術者という者は、考えたことを、早く実物につくりあげて、腕をみがき、改良すべき点を発見して、更(さら)にいい実物をつくり上げるよう、心がけねばならぬ”――ということばが、深く一郎の心に、きざみつけられたものと見える。そこで、いよいよ実物設計にとりかかったわけである。 3234_24627.html(146): “欧米など、外国の工業に依存していたのでは、日本にりっぱな工業が起るわけがない。はじめは苦しいし困るかもしれないけれど、日本は日本で一本立ちのできる独得の工業をつくりあげる必要がある。それは一日も早く、とりかからなくてはならないことだ!” 3234_24627.html(157): 「そうだ。係長さんが、“おい岡部、その瘤は、もぐらもちの真似をして、こしらえた瘤なんだろう”といった。そうだそうだ。僕は、なにをおいても、自分が地下戦車になったつもりで、まず自分で穴を掘ってみよう。それがいい」 3234_24627.html(633): “○○ゴルフ場の怪事件、某国(ぼうこく)落下傘隊(らっかさんたい)の仕業か、多数のもぐらを降下さす” 3234_24627.html(915):  函の中には、意外にも、たくさんの神社のお護(まも)り札(ふだ)が、所もせまく張りつけられてあった。そのお札には、“四月三日祈願”という具合に、一つ一つ日附が書いてあった。また函の一番奥には、工藤の筆跡(ひっせき)で、“岡部伍長殿の地下戦車完成大祈願(だいきがん)。その日までは、絶対禁酒のこと”と記してあった。そして函の中には、小さい薬びんが一つ転(ころが)っていて、栓(せん)の間から、酒がにじんで、ぷーんといいかおりを放っていた。 3236_23565.html(400): “どうです、モール博士。悪いことは出来ないと、始めて知りましたか” 3236_23565.html(402): “私の操縦(そうじゅう)する人造人間部隊を、いくら博士の器械で爆破しようと思っても、それはだめです。これは、博士の望んでいらるるようなB型人造人間ではないのです” 3236_23565.html(404): “あの図面の秘密はもうちゃんとわかってしまいましたよ。千吉のもっていったA型の図面だけでもすぐこれは不完全な人造人間が出来るし。私のもっていったB型の図面だけでも、同様に不完全な人造人間が出来る。――そうでしょう。だから、完全な人造人間をつくるにはA型とB型との両図面をどっちも二つに折って半分ずつつぎあわせたうえで、そのつぎはぎ図面によって作ればいいのです。ねえ、博士、そのとおりでしょう” 3236_23565.html(405): “博士。いまこの丘陵を下りつつある人造人間はその完全な人造人間部隊なんですよ。そして間もなく、博士を逮捕してしまうでしょう。もう覚悟をされたい” 3239_15747.html(415): “――欧弗同盟(おうふつどうめい)側は、一切の戦闘準備を終了した。召集された兵員の数は、二千五百万、地下鉄道網(ちかてつどうもう)は、これらの兵員を配置につけるため、大多忙を極めている” 3239_15747.html(418): “――ワイベルト大統領は、戦費の第一次支出として、千九百億弗(ドル)の支出案に署名をした” 3239_15747.html(419): “――欧弗同盟の元首ビスマーク将軍は、昨夜、会議からの帰途、ヒトラー街において、七名の兇漢(きょうかん)に襲撃され、電磁弾(でんじだん)をなげつけられて将軍は重傷を負った。犯人は、その場で逮捕せられたが、彼等は将軍の民族強圧に反対するアラビア人であった。今後、同国内におけるこの種の示威運動は、活溌になるであろうと識者は見ている” 3239_15747.html(420): “――汎米連邦における敵国スパイの跳梁(ちょうりょう)は、いよいよ甚(はなは)だしきものがあり、殊に昨日は、ワシントン市と南米方面とは互いに連絡をもつスパイの通信が受信せられ、警備隊は、これの検挙に出動した。ワシントン市におけるスパイの巣窟(そうくつ)はついに壊滅(かいめつ)し、スパイの大半は捕縛(ほばく)せられ、その一部は、自殺または逃走した。南米方面のスパイに対しては、厳重な包囲陣が敷かれて居り、彼等の検挙はもはや時間の問題である” 3239_15747.html(424): “――元首ビスマーク将軍は、今、寝所に入ったばかりである。元首は一昨日以来、ベルリンにおいて閲兵(えっぺい)と議会への臨席とで寸暇もなく活動している。因(ちな)みに、ベルリン市には、数年前から一人のアラビア人もいない” 3239_15747.html(619): “コノ者ニ伴ワレ、スグ来レ。鬼塚” 3239_15747.html(717): “戦如風発(たたかうやかぜのはっするごとく)攻如決河(せむるやかわのけっするごとし)” 3239_15747.html(797): “どうかね、黒馬博士。もういい加減、閉口(へいこう)したろうねえ” 3239_15747.html(1174): “○月○日、黒馬博士艇は、X大使の救助をうけて、破損せる艇もろとも、この三角暗礁へ帰還せり” 3239_15747.html(1307): 「黒馬博士。ピース提督に、こう云ってみたまえ。“では提督は今直ちに立って、欧弗同盟国軍に対して、砲門を開くだけの決心があるか”と……」 3239_15747.html(1313): “君が、欧弗同盟軍に対して砲門を開くことは、絶対不可能だというなら、こっちも四次元跳躍術をコーチすることは真平だ” 3239_15747.html(1315): “ぐずぐずしていられないぞ。副長が、こっちへ来る様子だ” 3239_15747.html(1320): “それは賛成できない。平和になってしまうのでは、仕様がない。あくまで、欧弗同盟軍と闘ってもらわないと困る。闘わないというのなら、こっちにも覚悟がある” 3239_15747.html(1322): “おいおい、呑気(のんき)なことをいっては困る。貴官の話を聞いていると、まるで、ワシントンの海軍省の応接室で、貴官の話を承っているようじゃないか。現在の事態は、そんなものではないぞ。おいピース提督、貴官及び貴艦隊は、いま私の掌中ににぎられていることを知らないのか” 3239_15747.html(1336): “それを、貴官の最後的回答と認めて、よろしいかね” 3239_15747.html(1339): “よろしい。そうはっきり云えば、こっちでも、やりようがある。では、貴官は、そのカーテンを揚げて、海を見られるがいいであろう。提督のために、私は、ちょっとした魔術をごらんに入れる。早く見られよ。さもないと、肝腎(かんじん)のいい場面を逸するであろう” 3239_15747.html(1341): “見えるだろう。この旗艦ユーダ号につづく主力艦隊の諸艦が” 3239_15747.html(1343): “さあ、見たまえ。後続艦オレンジ号が、これからどんなことになるか” 3239_15747.html(1346): “さあ今だ。戦艦オレンジ号を見ているがいい” 3239_15747.html(1355): “これからが、見物なんだ。まだ愕くのは早い。よく見ているがいい” 3239_15747.html(1358): “今さら狼狽するのは見苦しいぞ。なぜ初めから、わが申し入れに応じないのか” 3239_15747.html(1366): “ピース提督、改めて聞こう。欧弗同盟軍に対し砲門を開くかどうか” 3239_15747.html(1369): “約束とは、何だ。約束とは、対等の位置の者に対していうべきだ。今、われは勝利者だ。貴官は、降服者だ。それを忘れてどうするのか” 3239_15747.html(1371): “貴官が「わが艦隊をこれ以上傷つけないように」と希望するならば、それも遂げられるであろう。但し、それがためには、貴官は、今言明したことを、早速実行のうえに示さなくてはならぬ” 3239_15747.html(1373): “今、欧弗同盟の空軍の一部は、アフリカ東岸の基地を出発して、極東へ向っているが、あと十数分のうちに、貴艦隊の左舷前方(さげんぜんぽう)から現われるであろう。よって貴艦隊は、これに対し、直ちに高角砲をもって砲撃せよ。よろしいか。そうすることを約束するなら、私は一時、退席しよう” 3239_15747.html(1375): “約束をまもらないときは、貴艦隊はどんなことになるか犠牲(ぎせい)戦艦オレンジ号の例によって、よく考えておくがいい” 3239_15747.html(1377): “いや、それは聴かれない。全艦隊が没収されなかったことを、せめてもの拾いものだと思うがよろしい” 3239_15747.html(1379): “さあ、もうこのへんで、君は引込むのがいいだろう。では元の場所へかえしてあげよう” 3239_15747.html(1396): “人間じゃない!” 3239_15747.html(1398): “人間じゃあるまいし……”と放言して、姿を消した。 3259_10908.html(9): 宮本百合子 われらの小さな“婦人民主” 3259_10908.html(20): われらの小さな“婦人民主” 329_15886.html(116): “――Let us match 3309_8193.html(940): “If my leedle dog Schneider was only here, he'd know me.” 3309_8193.html(997): “We pray too loud and work too little.” 3309_8193.html(999): “We bray too loud and work too little.” 33205_26197.html(438): 「ジーキル博士とハイド氏」は、単に固有名詞としてのみならず、二重性格を意味する普通名詞としても亦、普く世界中に知られているくらいに、有名な小説である。原作の標題は“The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde”(「ジーキル博士とハイド氏の怪事件」)であって、ロバート・ルーイス・スティーヴンスン(一八五〇―一八九四)の一八八五年の作、翌一八八六年一月に初めて出版されたものである。 33205_26197.html(443):  この翻訳は訳者所蔵の一八八六年ロングマンズ、グリーン社発行の初版本に拠ってなした。この書は同年発行の後の版を蔵しておられる市河博士の折紙付きで、その見返しの裏に鉛筆で書き込んであるように、今日ではあるいは“first edition, scarce”(初版、稀覯」)の書の部類の片隅に入るかも知れない。薄茶色のクロース表紙の本である。しかし、後に改版の際に多少改訂された個所は、大体その訂正を採った。 3343_18549.html(74):  有頂天(うちょうてん)になって、“人造人間戦車”の設計図を押し戴(いただ)いて、三拝九拝しているのは、珍らしや醤買石(しょうかいせき)であった。 3343_18549.html(78):  ここでは、熱砂(ねっさ)は舞い、火喰(ひく)い鳥は走り、カンガルーは飛び、先住民族たる原地人は、幅の広い鼻の下に白い骨を横に突き刺して附近に出没(しゅつぼつ)し、そのたびに、青竜刀(せいりゅうとう)がなくなったり、取っておきの老酒(ラオチュー)の甕(かめ)が姿を消したり、泣(な)き面(つら)に蜂(はち)の苦難つづきであったが、しかもなお彼は抗日精神(こうにちせいしん)に燃え、この広大なる濠洲の土の下に埋没(まいぼつ)している鉱物資源を掘り出し、重工業を旺(さか)んにし、大機械化兵団を再建してもう一度、中国大陸へ引返し、日本軍と戦いを交(まじ)えたい決意だった。それからこっちへ十年、遂にこの砂漠の一劃に、十年計画の重工業地帯が完成したのを機に、密使(みっし)油蹈天(ゆうとうてん)をはるばる上海(シャンハイ)に遣(つかわ)して、金博士の最新発明になる“人造人間戦車”の設計図を胡魔化(ごまか)しに行かせたのであった。 3343_18549.html(85): 「それで、わしには鳥渡(ちょっと)分らんところもあるから、お前、この図について、報告せよ。一体、“人造人間戦車”とは、どんなものか」 3344_18550.html(33): “余(よ)は当分(とうぶん)失踪する。これは遺書(いしょ)である。ドクトル金” 3346_18552.html(195): “謹呈(きんてい)。どうだ、持久性神経瓦斯の効目は。燻精は、わしのところから出ていくとき、特設の通路内で無味無臭無色無反応の持久性神経瓦斯を吸って戻ったのだ。だから、そちらの陣営に帰りついたころから彼はそろそろ、脳細胞の或る個所が変になりはじめたはずだ。彼の発明製造した毒瓦斯なんか、どうして信用がおけようぞ。おい醤よ、これに懲(こ)りて、今後を慎(つつし)めよ” 3346_18552.html(198): “金博士よ。バーター・システムの取引を承知しておきながら、かの燻精を変質させて送りかえすとは、片手落(かたてお)ちも甚(はなは)だしい。われに確乎(かっこ)たる決意あり。しっかり説明文をよこされよ” 3346_18552.html(200): “醤よ。身から出た錆(さび)という諺(ことわざ)を知らぬか。燻精を変質させて送りかえしたのは、お前がわしに、表のレッテルとはちがう変質インチキ酒(しゅ)を贈ってよこしたからだ。つまり変質に対する変質の応酬(おうしゅう)である。わしは、バーター・システムの約を忠実に果したつもりである。質的(クオリティヴ)のバーター・システムをね。あのインチキ・ウィスキーは悉く黄浦江(こうほこう)へ流してしまったよ。以後お前とは絶交(ぜっこう)じゃ” 3348_36909.html(218): 「ほら、あれを見たか。あれが、叩きつける“椅子”じゃ。あれでは硬い壁に叩きつけられて、生身(なまみ)の人間は一たまりもあるまい。可哀(かわい)そうに死んだか」 3350_36911.html(44): 「それはそうです。木石ならずですが、たとい爆弾をなげつけられようとも、決して死ぬものですか。おしえましょうか。あのとき博士は、“これは時限爆弾だな、そしてもうすぐ爆発の時刻が来るな”と感じたその刹那(せつな)、博士は釦(ボタン)を押した。すると博士は椅子ごと、奈落(ならく)の底へガラガラと落ちていった。しかも博士の身体が通り抜けた後には、どんでんがえしで何十枚という鉄扉(てっぴ)が穴をふさいだため、かの時限爆弾が炸裂(さくれつ)したときには、博士は何十枚という鉄扉の蔭にあって安全この上なしであったというのです」 3350_36911.html(95):  その地軸は、二十三度半の傾斜(けいしゃ)をもち、太陽に対して一年を周期とする大きなかぶりを振っている。だから、温帯では春夏秋冬がいい割合に訪れて生物を和(やわら)げてくれるが、赤道附近では一年中が夏であり、極地附近は一年中が氷雪(ひょうせつ)に閉(と)じこめられている。シベリア一帯などもかなり極地的であって、寒帯と呼ばれる地域が大部分を占めている。さてこそ、やむなくそこへ逃げこんで一命(いちめい)をもちこたえたのはいいが、後になってくしゃみの連発に気をくさらす者も出来てくる始末であった。これを思えば、なるほど“シベリアから雪と氷とを永遠に追放せよ”との叫びも、彼らの衷心(ちゅうしん)からほとばしり出(い)でた言葉であることが肯(うなず)かれもし、そして又、そのように途方(とほう)もない夢を画(えが)くことによって僅かに自分を慰めなければならぬほど、窮乏(きゅうぼう)のどん底へ陥ってしまったのだとも云える。 3350_36911.html(156): “余(よ)は汝(なんじ)の行き過ぎを遺憾(いかん)に思うものである。シベリアを熱帯にせよとは、申しつけなかったつもりである。早々(そうそう)香港(ホンコン)に赴(おもむ)きて、金博士に談判(だんぱん)し、シベリアを常春(とこはる)の国まで引きかえさせるべし。その代償(だいしょう)として、あと燻製の五十箱や六十箱は支出して苦しからず” 3351_36912.html(47): “流石儂亦顔負也矣! 九排日本軍将兵先生哉!” 3351_36912.html(55): “世の中に、真に不可能なるものは有り得ず。ナポレオン” 3351_36912.html(57): “不可能なるものこそ最も恐るべく、且つ大警戒すべし。フランキー・ルーズベルト” 3352_36913.html(210): “ワシントン、一夜のうちに崩壊(ほうかい)す――白堊館最初に犠牲(ぎせい)となる。危機一髪、ル大統領、身を以て遁(のが)れる。崩壊事件の真相全く不明” 3352_36913.html(211): “ワシントン崩壊事件の原因は、不可視怪戦車か。――崩壊は引続き蔓延中(まんえんちゅう)――軍需工場地帯を南進中” 3352_36913.html(212): “被害遂(つい)にニューヨーク市に波及(はきゅう)。高層建築地帯は昨夜のうちに全壊” 3352_36913.html(213): “不可視戦車の音を聞くの記――特派決死記者アーノルド手記” 3352_36913.html(214): “不可視戦車鎮圧に出動の第五十八戦車兵団全滅す。空軍の爆撃も無力。鎮圧の見込全然なし” 3352_36913.html(215): “怪犯人の容疑者たるルス嬢とベラント氏は昨夜私刑(しけい)さる” 3354_12228.html(103): 「なあんだ。ポコちゃんが、自分のおでこで、テレビジョンのボタン・スイッチをおして“テレビ休止(きゅうし)”にしているじゃないか。困った坊やだ。おいポコちゃん、ポコちゃん。そうしていちゃこまるじゃないか」 3354_12228.html(105):  千ちゃんはあきれながら“テレビ動作”のボタンをおす。するとテレビジョンはすぐさま働きだした。 3354_12228.html(141): 「へえ、ほんとうかなあ、高度二万五千メートルだって……。すると成層圏のまん中あたりの高度だ……。そのあたりなら、大気がうすくて、水蒸気もないし、ごみもないから、太陽の光線が乱反射(らんはんしゃ)しない。それで昼間でも成層圏の中は暗い。ことに高度二万三千メートル以上となれば空は黒灰色(こくかいしょく)にみえるのである……と、“宇宙地理学”の教科書に書いてあったが、ははん、なるほどだ……」 3355_14011.html(358): 「次に、全世界において、本艇の行動につき、盛んなる論調が流れています。本艇の任務を壮(そう)なりとするものが十五パアセント、冷笑ないし否なりとするものが八十五パアセントです。後者について、その論旨を要約すれば、“リーマンとその後援者は気が変になったのだ。彼らは自ら宇宙塵(うちゅうじん)となるために出発したのだ”“あたら貴重なる資材と人材とを溝川(どぶがわ)の中に捨てるようなこの挙に対し、全く好意が持てない。これに許可を与えた政府要人にも重大なる責任が存する”“遊星植民に成功するまでには少くとも今後百五十年の歳月を要するのだ。今日それに成功すると思っている者があったら、それはイソップ物語に出てくる牝牛と腹の膨(ふくら)ましっこをする青蛙の類であろう”“本当に大宇宙に人間以上の高等生物が棲んでいるなら、われわれは徒(いたず)らに彼らを怒らせ刺戟させるを好まない。睡れる獅子の目を覚まして自ら喰(く)われてしまうなんて、誰でも歓迎しないであろう”“それは或る重大なる政治的狙いを秘めたる某国の謀略だと認めざるを得ない”――まあ、このくらいにして置きましょう。これによって見れば、罵言(ばげん)は一切根拠のないものですが、特に注意すべきはかかる非難の過半数がユダヤ系から出たものであることと、もうひとつはドイツ国内にも、われらのこの聖なる行動に対し公然非難をしてやまない一派があるということです。以上」 3356_14010.html(55): “気球(ききゅう)第百六十九部隊” 3356_14010.html(388): “今やイギリス本土は国際避難所の如き感がある!” 3356_14010.html(390): “必要ならば、フランス政府も、一時ロンドンに移転するかもしれない” 3356_14010.html(392): “ドイツ軍の長距離砲敢(あ)えて恐(おそ)るるに足(た)らず、われまた、更に一歩進んだ新長距離砲をもって酬(むく)いん!” 3356_14010.html(397): “東洋”という欄が、ようやくにして、見つかった。わが中国は、安心なことに、まず、イギリス側に立っているようであった。イギリスからは、また新借款(しんしゃっかん)を許したそうであり、兵器弾薬は、更に活発に、中国へ向けて積み出されていることが分った。 3356_14010.html(401): “首都重慶(じゅうけい)は、昨夜、また日本空軍のため、猛爆をうけた。損害は重大である。火災は、まだ已(や)まない。これまでの日本空軍の爆撃により市街の三分の二は壊滅(かいめつ)し、完全なる焦土(しょうど)と化(か)した。しかも、蒋委員長は、あくまで重慶に踏み留(とど)まって抗戦する決意を披瀝(ひれき)した” 3356_14010.html(408): “パリ発――日本大使館附フクシ大尉は、ダンケルク方面に於いて、行方不明となりたり。氏は英仏連合軍の中に在りて、自ら偵察機(ていさつき)を操縦して参戦中なりしが、ダンケルクの陥落(かんらく)二日前、フランス軍の負傷者等を搭載(とうさい)しパリに向け離陸後消息(しょうそく)を絶ちしものなり。勇敢なる大尉及び同乗者等の安否(あんぴ)は、極めて憂慮(ゆうりょ)さる” 3356_14010.html(523):  すると、彼女のいう“仏天青”と、彼自身とは、一体どんな関係に置かれているのだろうか。 3356_14010.html(524):  発音が同じで、文字が違う同発音異人(いじん)という者もないではないが、仏天青という文字以外に、常識的に使われる文字は、そうないのであった。この上のことは、彼女に会って聞くより仕方がない。が、金蓮は、いつまでたってもかえって来なかった。彼はぼんやり、ホームの長いベンチのうえに腰を下ろして、考えつづけていた。しかし結局、金蓮のいう“仏天青”と彼自身とは容貌に於いて別個(べっこ)の人間だと思われ、また彼自身も、いきなりホームで抱きつかれた金蓮に対する印象が淡(あわ)く、どうしようかと考えているうちに、そこへロンドン急行の別の列車がホームへ入ってきたので、彼は金蓮を待つことをやめて、その列車に乗り込んだのだった。 3356_14010.html(546):  彼が“仏天青”ではないと言われたのは、バーミンガム駅にいた女だけだった。いや、それから、この列車の憲兵と車掌も、彼に対し幾分疑惑(ぎわく)を持っているのだ。 3356_14010.html(550): “こんな若僧(わかぞう)じゃない!” 3356_14010.html(622): “立入るを許さず。リバプール防諜指揮官(ぼうちょうしきかん)ライト大佐” 3356_14010.html(690): “中国大使館参事官仏天青氏を御紹介す。アーガス博士殿” 3367_13498.html(515): “……高度二万八千メートルニ達セシトコロ、突然轟音(ゴウオン)トトモニハゲシキ震動ヲ受ケ、異状ニ突入セリ、噴射機関等ニマッタク異状ナキニモカカワラズ、速度計ハ零(レイ)ヲ指シ、舵器(ダキ)マタキカズ、ソレニ続キ高度計ノ指針ハ急ニ自然ニ下リテ、ホトンド零ニ戻ル。気温ハ上昇シツツアリ、タダイマ外部ノ気圧計急ニ上昇ヲハジメ、早クモ五百五……” 3367_13498.html(761): “……高度二万八千メートルニ達セシトコロ、突然轟音トトモニハゲシキ震動ヲ受ケ、異状ニ突入セリ。噴射機関等ニマッタク異状ナキニモカカワラズ、速度計ハ零ヲ指シ、舵器マタキカズ。ソレニツヅキ高度計ノ指針ハ急ニ自然ニ下リテ、ホトンド零ニモドル。気温ハ上昇シツツアリ……” 3367_13498.html(763): “……タダイマ外部ノ気圧計急ニ上昇ヲハジメ、早クモ五百五……” 3369_15092.html(31): 「――貨物船。推定トン数五百トン、船尾に“平靖号(へいせいごう)”の三字をみとむ……」 3369_15092.html(43): “停船せよ!” 3369_15092.html(61):  かの半裸の中国人は、飛鳥(ひちょう)のように後へとびさがったが、そのとき臨検隊の一同は、おやという表情で、その中国人のかおをみつめた。それも道理だ。その中国人が、“あッ、危ねえ!”と、きゅうにあざやかな日本語をしゃべったからである。 3369_15092.html(185): 「船長。ノーマ号が、本船に“用談アリ、停船ヲ乞ウ”と信号旗をあげました。いかがいたしましょうか」 3369_15092.html(196): “飲料水、野菜、果実ノ分譲ヲ乞ウ。高価ヲ以テ購(あがな)ウ” 3369_15092.html(202): “ゼヒ分譲タノム。量ノ如何ヲ問ワズ、本船ニ[#「本船ニ」は底本では「本船に」]壊血病(かいけつびょう)多数発生シ、ソノ治療用ニアテルタメナリ” 3369_15092.html(344):  といって、常日ごろ、ばかに年寄りじみたことをいうので、“お爺(じい)”と綽名(あだな)のある丸本水夫だが、すこし当惑(とうわく)の色が見える。 3369_15092.html(404): “火ヤク船ダ。オレハノコルヨ” 3369_15092.html(406): 「うむ、“火薬船だ、俺は残るよ”そうか、このノーマ号は火薬をつんだ船なのか、それで、竹見のやつが、この船にのこるというのか」 3369_15092.html(408): “どうだナイフにつけてやった手紙の文句のいみが分るか” 3369_15092.html(472):    “死(し)に神(がみ)”船長 3369_15092.html(484):  ところが、事実は、そうかんたんには、いかなかったのである。“死に神”という綽名(あだな)のあるこの秘密の火薬船の船長ノルマンだった。これが一通りや二通りでいくような、そんな他愛のない船長とは、船長がちがうのであった。 3369_15092.html(522): “うそをつけ、小僧、貴様は、日本人じゃないか!” 3369_15092.html(814): 「これは命令だ。このノルマンの命令なのだ。平靖号の船長が、それを聞かないといったら、こういってくれ。“しからば、こっちは、お前の船が、中国人を装った日本人の乗組員でうごいていることを、むこうの官憲に知らせてやる。こっちには、それを証拠だてる映画があるぞ”と、そういってやるのだ。映画のことは、貴様に見せておいたから、どの位の値打のある映画だか、貴様から、よくはなしてやるんだ」 3369_15092.html(824):  これより一時間ほど前、船長は秘密符号から成る電報をうけとった。その電文によると“サイゴン港で、急に貨物船を雇う必要ができたから、海上において、至急、貨物船をさがしてくれ”といういみのことがしるされてあった。発信人の名は、もちろん秘密符号でしるされてあったが、それを解いてみると、ポーニンと出た。 3369_15092.html(1240):  蛇毒にやられて、かびくさい倉庫の床に、気息奄々(きそくえんえん)のハルクほど、みじめな者はなかった。常日ごろ、“巨人”という名をあたえられて畏敬(いけい)されていた彼だけに、今の有様は、なみだなしでは見られなかった。 3369_15092.html(1443): 「こういうんだ“親愛ナル竹ヨ。俺ハ復讐ヲスルンダ。コノ手紙ヲ見タラ、オ前ノ船ハスグニ抜錨(ばつびょう)シテ、港外へ出ロ。ハルク”どういう意味だろうか、この手紙は」 3370_25722.html(1598): “ああ、ああ、うるさい。わしは研究中だ。誰がきても会わんぞ。今日はだめだめ。帰ってくれ” 3370_25722.html(1600): “ああ、ああ、うるさい。わしは研究中だ。誰がきても会わんぞ。今日はだめだめ。帰ってくれ” 3370_25722.html(1604): 「体もなにも変りはないよ。変なのは、この扉のうちで返事をした博士の言葉が、いつも同じ文句だということだ。まるでゴム判をおしたように、“ああ、ああ、うるさい”などと、同じことをいっているのだ」 3370_25722.html(1612): 「だって、この扉の中で、大利根博士が“今日はだめだめ、帰ってくれ”などと、いまさっきも喋ったではありませんか」 3370_25722.html(1640): 「君にはわからないかねえ。つまりこの室内に大利根博士はいなくて、そのかわりにこの蓄音機が仕掛けてあったんだ。入口の外で博士の名を三度よぶと室内では音盤がまわりだして、“研究中だ、会わないぞ、帰れ帰れ”などと博士の声が、この蓄音機から聞えてくるのだ。だからこれを聞いた者は、室内に博士がいるのだと考える。ほんとうはこのように博士は留守なんだ。誰がこしらえたのか、たいへんな仕掛をこしらえてあったものだ。も少しで、うまくひっかかるところだった」 3370_25722.html(2309): “わが帝国海軍戦史のあたらしき一ページは、青江三空曹のこのたびの壮挙により、はなばなしくかざられたり” 3372_15511.html(140):  マリ子は、おびえたように、扉を見なおすと、“倉庫”という文字が、マリ子にもよめた。 3372_15511.html(143):  そこには“人造人間(じんぞうにんげん)エフ氏の室”と書いてあった。 3372_15511.html(200): 「なかなかよく覚えるんだよ。僕が“ずいぶん寒いですね”というと、エフ氏もまたすぐ後から“ずいぶん寒いですね”と、おなじことをいうんだよ。そして僕の声をまねして、おなじような声で喋(しゃべ)るんだ。あまりおかしくて、僕吹きだしちゃった」 3372_15511.html(683):  大辻は、もう夢中になってわめきちらし、背中のうえの正太をふり落そうと、そこら中に土ほこりを立ててうしのようにあばれるのであった。“人造人間がわしの背中に噛みついた?”――という言葉が正太の耳に入ると、少年はようやく大辻のひとりで騒ぎたてているわけがわかったような気がした。大辻は正太のことを人造人間エフ氏とまちがえているのであった。無理もないことだ。さっき大辻は、目の前にあらわれた少年を正太だと思いこんで安心していたばかりに、人造人間エフ氏の拳骨(げんこつ)をくらって目をまわしたのであるから正太の顔をみて、またもや人造人間エフ氏があらわれたと思ったのであろう。 3374_23566.html(63): “――十二日アサ、海ノ色、白クニゴル。ソレカラ一時間ノチ、左舷前方ニトツゼン大海魔アラワレ、海中ヨリ径一メートルホドノ丸イ頭ヲモタゲ、ミルミル五十メートルホドモ頸ヲノバシタ。ランランタル目、ソノ長イ体ハ、波ノウエヲクネクネト四百メートルモ彎曲シ、アレヨアレヨトオドロクウチ、口ヨリ火ヲフキ、鉄丸ヲトバシ、ワガ船ハクダカレ、全員ハ傷ツキ七分デ沈没シタ。カタキヲタノム。ノチノショウコニ、ワガ足ノ傷グチカラ、破片ヲヌキダシ、コノ缶ニイレテオク。第九平磯丸、三浦スミ吉、コレヲシルス” 3374_23566.html(286): “待て太刀川!” 3374_23566.html(288): “お前の使命は、重大だぞ” 3375_15091.html(278): “はい、艇長は電話にかかった”――ということばは一種の暗合であった。そういうことばをいうと、スイッチが、高声器の方へ切りかえられるのであった。スイッチを手で切りかえるかわりに“ハイ、艇長は電話にかかった”といえば、スイッチが切りかえられるのである。 3375_15091.html(279):  むかし、岩の前に立って、“開けゴマ”とさけぶと、岩が二つにわれて、その間から入口があらわれるという話があるが、今はそれと同じことをやって、スイッチを切りかえられるのだった。これを、音波利用のスイッチという。 3375_15091.html(946): “第一斥候隊報告。只今、ミドリ大溝を、カンガルーの如(ごと)く飛び越えたところ” 3375_15091.html(948): “第二斥候隊報告。只今、サギ山の頂上にあり、附近を念入りにしらべたるも、何の手がかりなし” 3375_15091.html(967): “……人間大の怪しき甲虫(かぶとむし)の形をした怪物およそ十匹にとりかこまれた。わが携帯用無電機を眼がけて、拳をふりあげて来る。無電機をこわすつもりか……” 3375_15091.html(1002): “第四斥候隊報告。わが隊は、すこし考えるところありて、火星人隊発見まで、電波を発射しないことを定めおけり。そのわけは、電波を発射せば、火星隊のために、かえってわが隊の所在をしらせることをおそれたるがためなり” 3375_15091.html(1006): “……わが隊は、アメ山より、対(むか)いのヒイラギ山のかげに火星人の乗物があるのを発見せり。火星人隊の総勢は約十名かとおもわれる。彼らの乗物は、その形、大きい皿の如く、その中央の出入口よりぞろぞろと現われるのを見たり。わが隊は、そのあとにて、アメ山を下りて、ひそかに火星人の乗物に近づけり。幸(さいわ)いに乗物には火星人の居る訳なし。しかも出入口は、明け放しになり居りたるゆえ、内部へ入りて見たり。その結果、われらは、風間、木曾の二少年を発見せり” 3375_15091.html(1008): “……さりながら、二少年は共に、人事不省(じんじふせい)のありさまにて発見せられたるゆえ、われらはおどろき、手当を加えつつあるも、いまだにそのききめなきはざんねんなり。われわれ二少年をこのまま連れ戻ろうとす。医療の用意をたのむ” 3375_15091.html(1034): “第四斥候隊報告。わが隊は、目下月世界を離れて飛びつつあり……” 3375_15091.html(1038): “……わが隊は、目下月世界を離れて飛びつつあり……” 3375_15091.html(1044): “わが隊は大なる皿の如き、彼らの乗物を確保しありたりところ、突然火星人の来襲せんとするを発見せるをもって、ただちにこの乗物の内部に入り、すべての出入口を厳重に閉ざしたり。これは外に出て火星人を撃退せんとせば、風間、木曾の二少年に若(も)しものことが起らずとは保証出来ざるためなり。幸い、両少年とも息をふきかえしたるも、未(いま)だに自由に活動出来ざる状態にあり……” 3375_15091.html(1047): “……しかるにこの乗物の出入口を全部閉ざすや否(いな)や、忽然(こつぜん)として空中に浮動するを発見せり。早速ガラス製と思われる窓より、離れゆく月面上を見るに、本乗物の飛行を知って火星人らは痛く驚愕狼狽(きょうがくろうばい)の模様なり、考うるに、本乗物を失っては彼らは既に火星に帰ることが不可能となったためと思わる。これによって見るに、本乗物はわが隊を乗せて、一路火星に飛行するものの如し” 3375_15091.html(1052): “第五斥候隊報告。わが隊の携帯用無電機眼がけて拳をふりあげて来った怪物団は、その甲虫の如き頑丈なる身体つきにも拘(かか)わらず、力ははなはだ弱きことを発見せり。 3375_15091.html(1058): “……かくして怪物団の彼らも閉口したかに思わるる時、はるかに救援隊の二ヶ隊の近づきつつあるを知ったため、最早(もはや)戦闘にはかなわぬと見たるか一斉に退却を開始せり。思うに、風間、木曾の二艇夫の行方不明は、この怪物団の仕業かと疑われるをもって、わが隊は到着せる救援隊と共に、時を移さず目下これを追跡中なり” 3375_15091.html(1066): “第五斥候隊報告。わが隊は怪物団を追跡して(この怪物団が火星人であることを、到着せる救援隊より知らせられたり)アメ山を越えて、そのむかいのヒイラギ山附近まで進出せる時、突如そのヒイラギ山のかげより巨大な皿の如きものが空中に舞上れるを望見したり……” 3375_15091.html(1071): “……思うに、この奇怪なる皿の如きものは、火星人の飛空機らしく、わが隊に追跡を受けつつある火星人を見て、この火星人らを救う遑(いとま)もなく、あわてて彼らを置去りにしたまま逃走せるものの如し” 3375_15091.html(1073): “……このヒイラギ山のがけより舞上れる飛空機を見て、彼ら火星人たちの驚愕狼狽ぶりは一方ならず、追跡せるわれわれも思わず苦笑せるほどなり” 3375_15091.html(1081): “かくして火星人らが狼狽なすところを知らざる中(うち)に、飛空機は一刻も休みなく、上昇をつづけつつあり、遂(つい)に、大空高く消え去(う)せたり……” 3375_15091.html(1084): “仲間の飛空機に飛び去られ、月世界上に置去りを食った火星人らは、全く元気を失いて、遂に全員十匹はわが隊に降伏せり、なお愕(おど)ろくべきことには、彼等は明瞭(めいりょう)なる日本語を話すことを発見せり、わが隊はこれより彼らを連行し、直ちに帰艇せんとす、終り” 3375_15091.html(1095): “第四斥候隊報告。わが隊はこの奇怪なる飛空機に乗りて、一路火星に向いつつあるものの如し。飛行中にこの飛空機を捜査せるところ、思いがけずも火星人一人が残留し居(お)るを発見せり。風間少年の報告によれば、火星人は日本語を話すとのことなれば、早速彼を訊問し、次のことがらが判明せり。一、この飛空機は火星と月との間を、すでに数回往復せるものなり。二、残留せる火星人は給仕にて、残念ながらこの飛空機を再び月世界に帰す方法を知らざるものの如し(なお機中を詳しくしらべたるも、飛行機関と思われるものは一切(いっさい)見あたらず、想像するにこの飛空機は火星と月との間の引力を利用せるものと思わる)。三、従ってわれわれは火星に行く以外、如何(いかん)とも方法なし。四、この火星人の話によれば、火星人たちはおそらく我々に危害を加えることはあるまいとのことなり。終り” 3375_15091.html(1170): “第四斥候隊報告。わが隊は只今火星の中部地方に安着せり。指揮を待つ……” 3375_15091.html(1207): “大宇宙遠征隊司令艇クロガネ号発。本遠征隊は無事ムーア彗星に到着し、予期に数倍せる貴重物質ムビウムの採集に成功、目下極力帰航中なり。只今の位置より計算するに、本隊は今後二百三十六日十三時間二十分をもって東京に帰着する予定なり――” 3376_18412.html(614): “隊長さん。なぜあなたがたは、こんな北極まで探険にこられたのですか。その目的はどんなことなのですか” 3376_18412.html(616): “お前が日本人なら聞かしてもいいことなんだが――” 3377_21542.html(234): 「中尉どのは、昇天された。“生前に、一度でいいから、折角ここまで持ってきた地底戦車に乗ってみたい”といわれたのに、お前が戦車の扉をあけるのに手間どっているもんだから、ほら、もうこのとおり、天使になってしまわれた。ああ、さぞかし無念でしょう。中尉どの、これ一重(ひとえ)に、平生(へいぜい)ピート一等兵が、訓練に精神をうちこまなかったせいです」 3380_15093.html(86): 「船長、ただ今SOSを受信いたしました。遺憾(いかん)ながら電文の前の方は聞きもらしましたので途中からでありますが、こんなことを打ってきました。“――船底(ふなぞこ)ガ大破シ、浸水(しんすい)ハナハダシ。沈没マデ後数十分ノ余裕シカナシ。至急救助ヲ乞ウ”というのです」 3380_15093.html(89): 「それがどうもよくわかりません。“船名ハ――”とまでは、打ってきましたが、そのあとは空文(くうぶん)なんです。符号がないのです。どうも変ですね。なぜ船名をいわないのでしょうか」 3380_15093.html(112): 「はい、今また、きれぎれの信号がはいりました。しかし今度は遭難地点をついに聞きとることができました。“本船ノ位置ハ、略(ほぼ)北緯(ほくい)百六十五度、東経(とうけい)三十二度ノ附近卜思ワレル”とありました」 3380_15093.html(434): 「うむ、これはたいへんなことが書いてある。――“「幽霊船』ニチカヨルナ。ワレラハ”ちえっ残念! そのあとが破れていて分らない。次の行になって“ハ、人間ヨリモ恐ロシイ”で、またあとが切れている」 3380_15093.html(438):  それはそれでいいとして、その次に、この二十四人の生残りの船員たちをひどく脅(おびや)かすものが残っていた。“人間よりも恐ろしい!”という文句が、一体なにをさしていっているかということであった。 3380_15093.html(477):  なぜといって、行方不明(ゆくえふめい)になった丸尾無電技士の手首が発見され、その掌(て)の中に、ただごとではない手紙が握られていたのである。ことに“幽霊船に近よるな”とあるからには、この幽霊船は丸尾たち元の二号艇の乗組員に対して、なにかおそろしい危害を加えたものと思われる。一体彼等はどんなおそろしい目にあったのか。そして彼等は一体どこへいってしまったのか。――いや、いってしまったなどというよりも、彼等は一人のこらず殺されてしまったのだと書く方が正しいかもしれないのだ。いま雷雨のなかに突然現われた幽霊船! 3380_15093.html(688): 「……木谷が野獣にやっつけられたとき、私たちは、わずかの隙(すき)を見出(みいだ)したのです。“今だ、今のうちに安全なところへ避難しなければ……”というので、私たちは、夢中で、船橋へ駈けのぼりました。ところが、ここも駄目だということがわかりました。人間の臭(にお)いをしたって、獣は、後をおいかけて来たのです。私たちは、扉をおさえ、必死になって防戦しました。しかし、硝子戸(ガラスど)がこわされ、そこから黒豹らしいものがとびこんできたときには、もう駄目だと思いました。誰かが、悲鳴をあげました。残念だったのです。私たちは、卑怯なようだが、もうどうすることも出来なくて、船橋を逃げだしました。それから、一同、ばらばらになってしまいましたが、そのとき私の書いた報告文をもって、ボートへ戻ったはずの三鷹(みたか)とも、それっきり会いません。そのうちに、私は通風筒(つうふうとう)の前に出ました。私は不図(ふと)思いついて、その中に、もぐりこみました。それが私の幸運だったのです。生命びろいをしたのは、通風筒へもぐりこんだおかげです」 3381_27730.html(121): 「これを分り易くいえば、わが眼に今見えている君は、君の実体を或るところから、すぱりと斬ったその切り口に過ぎない。たとえば、ここに一本の大根がある。その大根を、胴中からすぱりと切り、その楕円形(だえんけい)の切り口の面だけを見ていると同じことだ。つまり“ほほう、これは真白な、じくじく水の湧いた楕円形の面だ”と思う。しかるに、その白面は、大根の一つの切り口に過ぎないのである。面だけのものではない。だから、今目の前に見えている君は、君の実体の一つの切り口に過ぎないのだ。君の実体は、かの白い切り口における大根そのものの如く、われわれの想像を超越した何者かである」 3446_12352.html(32):  この頃、何と婦人雑誌が出るでしょう。そしてまた、大部分のものが、何とアメリカシャボンの包紙の反古(ほご)みたいなものでしょう。どこにもない様に顔の小さい、足の長い美人たちが、それが商売である図案家によって、奇想天外に考え出されたモードのおしゃれをして、たったり坐ったり寝そべったりしています。お互いに愛想のつきるような電車に乗ってつとめへ往復して、粉ばかり食べて下腹がみにくくつき出る日本の今の若い人達が、こういう雑誌の絵にみとれているのを見ると、新円稼ぎの雑誌屋共を憎らしく思います。もう少し親切に少しは本当の“おしゃれ”の役にでも立つ、せめて同じ顔色と髪の毛を持った日本の女が、今の事情で綺麗に暮してゆける役にでも立つ物をみせて上げたらよいのにと思います。暑い時、口に入る一匙の氷はそれを胃に悪いからとばかりいって止められません。本当にそれで歩く元気も出る時があります。音楽にしろ、芝居にしろ、映画にしろ、一匙の氷の様なその時だけの、慰めに役立つものが、すべて無駄だという事は野暮です。しかし私達はその一匙の氷の中にいつかあった様な殺人甘味が入れられているとしたら、一匙の氷は、時にとっての清涼剤だとして安心していられるでしょうか。毎月見る婦人雑誌が、ただただシャボンの泡のきらめきの様なものだということに大した罪はないようだけれど、働いて一生を築いて行こうとする若い女性達の現実の毎日が、日本ではまだまだ嘘で堅められた民主主義で家庭の中の封建性も職場の中の封建性も、根絶やしにはなってはいませんし、労働法もそのままで、今度の議会では御無理、御もっとも式のものである時、生活にかかわる重大なそれ等の問題からすっかり若い人の心が離れてゆくということは親切なことでしょうか。婦人の社会的地位を向上させることでしょうか。 3466_12372.html(114):  一九四七年九月の予定的な計算でも千八百円基準の生計費は一ヵ月の公定価格による支出一、三五一円九八銭、自由購入による支出一、六八一円一二銭となって合計三、〇三三円一〇銭となる。したがって家計失調は日本において全般的な状態で、この事情は業種別勤労者賃銀表と見くらべると深刻な日本の全人民層の生活難を語っている。一九四七年七月統計局調査によればもっとも収入の高い軌道労務者男子一ヵ月三、七二六円五、婦人一、九七八円であり、婦人勤労者のもっとも多い紡績工業においては男子労務者一ヵ月一、四五五円六、婦人六〇九円である。職員は待遇が差別されていて幾分か増額されているけれども男子労務者と婦人労務者との間にある殆ど二対一のひらきは総(あら)ゆる生産場面の男女差別待遇としてあらわれている。日本では戦争によって全人口中三百万人の女子人口過剰を来している。過去のあらゆる時代に経験されなかったほど婦人の経済的独立の必要はつよく一家の経済的責任の負担が増大されている。改正憲法の上で男女平等がいわれ、平等の選挙権を持ち、半封建的な民法が改正されたとしても、社会生活の基礎である勤労とその経済関係で婦人が男子の二分の一の待遇におかれている事実は注目すべき社会現象である。労働省の中に婦人局が設けられた。これはアメリカの“Woman's Bureau”を模倣したものであるが、日本の官僚主義は婦人局の活動第一歩において婦人局長たちに、予算の不足をすべての不活動の理由とさせている。 3485_12391.html(27):  その時六、七名から十二名におよぶ女子供を銃殺した人達が復員しているという記事が問題となっていました。その中の一人である教員が、もしあの当時、“降伏”という言葉が日本にあったならば、ああいうことを誰がしたろうと語っていました。 3491_12397.html(27):  日本の人民は、東條時代を通じて、もっとも非合理野蛮な侵略主義者の善と悪との規準で支配されてきた。「聖戦」に対して、いくらかでも疑問をもち、侵略行為の人類的悪についてほのめかしでもしようものなら、憲兵と警察と密告者の餌じきにされた。その上、野蛮な権勢を守るための言論封鎖の特徴として、そういう人権蹂躙が行われているという事実にふれて語ることさえ、犯罪行為として罰した。ナチスのドイツが同じこと、あるいは、もっとひどいことをした。第二次大戦の結果は、言論を封鎖し、出版統制を狂的に行ったすべてのファシズム国家の権力は、窮極には倒れざるをえないことを証明した。なぜなら、どんな力でそれについて語り、書く自由を禁じたとしても、「事実」の力が現実に歴史の推移に作用しずにはいないからである。人間は社会的生物である。この基本的な事実から発言の抑圧は直接人間の生存の自由に加えられる抑圧となる。人間というものは感じること、判断したことについて黙っていられないものとして生れている。だからこそ、人類社会は発展して来た。“地球はまわる”この真実は今日子供たちでも知っている。だが十七世紀の法王庁はこの真理を語ったかどでガリレオ・ガリレーを重罪に問うた。ガリレーは以後そのことについては語らないと裁判で答えたが、彼はひそやかにつぶやいた、「しかしそれは動く」と。そしてそれはそのとおりなのだ。徒らに言論を抑圧するということが自然と社会のすべての事実に対して、どれほど目さきのききめしかなく、しかも大局からみて聰明な処置でないかということについての真実がここに示されている。 3506_13513.html(29):  回顧すれば、余の十四歳の頃であった、余は幼時最も親しかった余の姉を失うたことがある、余はその時生来始めて死別のいかに悲しきかを知った。余は亡姉を思うの情に堪えず、また母の悲哀を見るに忍びず、人無き処に到りて、思うままに泣いた。稚心(おさなごころ)にもし余が姉に代りて死に得るものならばと、心から思うたことを今も記憶している。近くは三十七年の夏、悲惨なる旅順の戦に、ただ一人の弟は敵塁(てきるい)深く屍を委(まか)して、遺骨をも収め得ざりし有様、ここに再び旧時の悲哀を繰返して、断腸の思未だ全く消失(きえう)せないのに、また己(おの)が愛児の一人を失うようになった。骨肉の情いずれ疎(そ)なるはなけれども、特に親子の情は格別である、余はこの度(たび)生来未だかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。余はこの心より推して一々君の心を読むことが出来ると思う。君の亡くされたのは君の初子(はつご)であった、初子は親の愛を専らにするが世の常である。特に幼き女の子はたまらぬ位に可愛いとのことである。情濃(こま)やかなる君にしてこの子を失われた時の感情はいかがであったろう。亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない。これまでにして亡くしたのは惜しかろうといって、悔んでくれる人もある、しかしこういう意味で惜しいというのではない。女の子でよかったとか、外に子供もあるからなどといって、慰めてくれる人もある、しかしこういうことで慰められようもない。ドストエフスキーが愛児を失った時、また子供ができるだろうといって慰めた人があった、氏はこれに答えて“How can I love another Child? What I want is Sonia.”といったということがある。親の愛は実に純粋である、その間一毫(いちごう)も利害得失の念を挟む余地はない。ただ亡児の俤(おもかげ)を思い出(い)ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい、飢渇(きかつ)は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。時は凡(すべ)ての傷を癒やすというのは自然の恵(めぐみ)であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。昔、君と机を並べてワシントン・アービングの『スケッチブック』を読んだ時、他の心の疵(きず)や、苦みはこれを忘れ、これを治せんことを欲するが、独り死別という心の疵は人目をさけてもこれを温め、これを抱かんことを欲するというような語があった、今まことにこの語が思い合されるのである。折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉(いしゃ)である、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。 3506_13513.html(30):  死にし子顔よかりき、をんな子のためには親をさなくなりぬべしなど、古人もいったように、親の愛はまことに愚痴である、冷静に外より見たならば、たわいない愚痴と思われるであろう、しかし余は今度この人間の愚痴というものの中に、人情の味のあることを悟った。カントがいった如く、物には皆値段がある、独り人間は値段以上である、目的其者(そのもの)である。いかに貴重なる物でも、そはただ人間の手段として貴いのである。世の中に人間ほど貴い者はない、物はこれを償(つぐな)うことが出来るが、いかにつまらぬ人間でも、一のスピリットは他の物を以て償うことは出来ぬ。しかしてこの人間の絶対的価値ということが、己が子を失うたような場合に最も痛切に感ぜられるのである。ゲーテがその子を失った時“Over the dead”というて仕事を続けたというが、ゲーテにしてこの語をなした心の中には、固(もと)より仰ぐべき偉大なるものがあったでもあろう。しかし人間の仕事は人情ということを離れて外に目的があるのではない、学問も事業も究竟(くっきょう)の目的は人情のためにするのである。しかして人情といえば、たとい小なりとはいえ、親が子を思うより痛切なるものはなかろう。徒らに高く構えて人情自然の美を忘るる者はかえってその性情の卑しきを示すに過ぎない、「征馬不レ前人不レ語、金州城外立二斜陽一」の句ありていよいよ乃木将軍の人格が仰がれるのである。 3525_18465.html(344):  今でも帆村荘六は、あの“東京要塞”と僭称(せんしょう)していた某大国の秘密砲台の位置発見に大功(たいこう)をたてた自記地震計のドラムを硝子(ガラス)張りの箱に入れて、自慢そうに持っている。その黒いドラムの上には、あの特徴のあるとんとんとんととんという地響が白い線でもって美しい震動曲線を描かれてあった。そしてその下には、 3525_18465.html(346): 「――だから僕はいつも機会あるごとに唱(とな)えていたものですよ。外国の大使館なんてものは、すくなくとも丸の内界隈(かいわい)に置いとくものじゃないとね。あの“東京要塞”の巨砲ですか。あれはマール号が本国から持ってきたんですよ。どうしてといって、つまりあの忠魂記念塔の中に隠して大使館内に持ちこんだのですよ。全く某大国にも頭脳(あたま)のいい人がいますよ」 3590_31720.html(121):  学問のこのような戯画的な分裂と自己崩壊とへ導かれないためには、科学と哲学との間の一種絶対的な対立の代りに、もっと内部的な交渉による連関に基いた両者の関係を求める必要があるだろう。そこで第一に、科学は特殊分科の学問であり、之に対して哲学はその成果の総合だという考え方が相当広く行なわれている。或いは同じことに帰着するのであるが、科学をそのまま、その立場の単なる面積拡大によって、哲学的な世界観へ持って行くことが出来るというのである(W・オストヴァルトのエネルゲティックやE・H・ヘッケルの進化論的反宗教理論など、及び十九世紀の俗流唯物論者達の場合――最も有名なK・ビュヒナーの“Kraft und Stoff”は力と物質との世界観を流布させた)。もし之で良いならば、結局ここでも、哲学は何等の独特な意義を持てないわけであって、単に便宜的に書物の名前か集合名詞としてでも使われるだけの、一片の言葉となって了うだろう。この立場の何よりの不幸は、哲学を科学から追放して了う結果、却って機械論という一種の最も乏しい哲学を採用せざるを得なくなることであり、そのために却って、自然科学乃至科学自身が、その研究方法と成果の統制方法とに於て、徒労を避けることが出来ないということである(各種の所謂実証主義の多くのものや「科学主義」其の他は、この機械論の特別な場合だった)。 3590_31720.html(715):  労働力を労働者から時価を以て購入した私有者は、自由に、この労働力を最も能率よく使用せしめることによって、労賃以上の売値に相当するだけの価値を有つ商品を生産せしめる。こうやって出来上った商品の価値はだから、使用した労働の価値よりも多いわけである(その多いだけの価値が余剰価値と名づけられる)。即ち、私有者は支払った労賃以上の価格で商品を売ることによって利潤を居ながらにして受け取るのである(無論この限りでの利潤は、その一部分が余剰価値のそれ以上の再生産の種として、すぐ様引き上げられねばならぬが)。この利潤は無論労働力の売渡し人には帰らない、彼等にはすでに労賃が、而も時価という正義ある価格で、合意の上、支払われてあった。――だがそれにも拘らず、余剰価値は、労働力所有者の労働によって生産されたものだという事実に、変りはない。処がそれが、労働する代りに労働力を購買・管理するだけの労を取ったに過ぎない労働手段・労働対象の私有者の手に、帰するのである。だからこの関係は Usurpation である。之は私有者の悪意や善意とは無関係に“squeeze out”なのである。 3591_44720.html(99): * 例えば或るアメリカのエンジニヤーによれば、「エンジニヤリングとは人間の目的のために科学を経済的に応用するやり方である」(G. Dunn,“Science”No. 1837)。 3591_44720.html(114): * ソヴェート同盟に於ける技術の発達に関する一般的解明及び夫と資本主義国に於ける技術との比較は甚だ多い。ルービンシュタイン前掲書、同じく「サヴェート同盟に於ける技術的再建の基礎としての電化」(『新興自然科学論叢』――“Science at the Crossroads”の邦訳――の内)、ブハーリン前掲書、岡邦雄氏「科学と技術との計画的結合」(『唯物論研究』創刊号・第二号)等々。断片的なものでは J. Stalin, On Technology, 1932 など。 3594_38772.html(140):  吾々がかく説明するのに拘らず、どうあっても、逆に問題が立場から出発する――立脚するだけではなくて――のであると思える人々があるならば、その人々の所謂立場なるものは、恐らく問題としての立場であって、決して立場としての立場――[#「――」は底本では「――――」]それは整合であった――を意味するのではないであろう*。実際何人も単なる整合――整合としての整合――からは出発しない、たといその理論をそれに還元しようとするとも。もし之から出発するならば「AはAである」こそ唯一の内容である筈である。偶々自我が問題であればこそ、”A ist A“ は ”Ich bin Ich“ の出発点と見えるのである(それ故 ”A ist A“ はフィヒテ知識学の唯一の出発ではない)。整合としての整合からは何人も出発する動機を得ることが出来ない。整合は立場であった。故に何人も実際の動機に於ては立場から出発しているのではない。ただ問題としての、問題が立場の衣を着けた限りの、立場からのみ出発出来る。このような立場――人々が日常持っている立場概念――に就いてのみ、立場の深浅・広狭・抽象性・具象性等々が語られることが出来る(前を見よ)。事実、理論の整合からの出発は、理論の実質としてよりも寧ろ多少とも立論上の技術として(叙述・方法・体系とは時にこの技術を意味する)、理論のあとから――決して前からではない――加えられた仕上げとして、価値を有つ場合が多い。 3594_38772.html(439): ※底本では、「”」の二点は右下に、「“」の二点は左上に、置かれています。 3595_39048.html(409): * 彼の文化社会学の最も簡単な叙述は Handwrterbuch der Soziologie (A. Vierkandt) S. 284, “Kultursoziologie” の内にある。 3595_39048.html(458): * M. Scheler, Probleme einer Soziologie des Wissens (in “Versuche zu einer Soziologie des Wissens”)(之は Wissensformen und die Gesellschaft に含まれている)S. 36 ――なおシェーラーの知識社会学はこの文化社会学の一部分である。 3595_39048.html(519): ** シェーラーはマックス・ヴェーバーに反対して、形而上学を単なる世界観から区別する。というのは形而上学は単なる世界観ではなくて Setzende Weltanschauung でなければならない、と云うのである。即ち彼は(自分の)形而上学的体系に対して、世界観説的な乃至は歴史学派的な懐疑をすら有たない(“Weltanschauungslehre, Soziologie und Weltanschauungssetzung” 参照)。 3595_39048.html(588): * W. Jerusalem, Die soziologische Bedingtheit des Denkens und der Denkformen, S. 184―7 (in “Versuch zu einer Soziologie des Wissens”). 3595_39048.html(589): ** Jerusalem, Soziologie des Erkennens (in “Gedanken und Denker”) S. 149. 3595_39048.html(613):  思想は夫々理論上の――「精神上の」――「立場」に基いて性格づけられる、そして立場は又「問題」によって決定される。それ故或る一時代に存在する諸思想は、「問題の星座分布」によって位置づけられることが出来る。併しながら、この問題や立場が歴史的に生起することを忘れてはならない、それは「社会上」の立場――「精神上の」に対して――と関係せられることによって初めて捕捉されることが出来る*。精神上の・体系としての・立場と、社会上の立場とを、このように関係づける処に、思惟の社会学の本来の仕事が初めて生じて来る。思惟が存在と連関する仕方は併しながら、必ずしも、思惟が直接に「利害関係によって動かされる」ことには限らない(マンハイムによればマルクス主義的イデオロギー観は之だという)、そうではなくて、より広義に之を理解して、思惟が間接に利害関係によって動かされること、思惟が存在と「関数関係にある」こと、“Engagiertsein” と呼んで好いようなもの、がそれであると考えられる。思惟のスタイルは、世界観のスタイルという迂路を経て初めて、経済的・政治的・組織に対応せしめられることが出来る。階級という社会層が、世界観的な意志を経営する精神層を通じて、初めて、精神上の――もはや社会上のではない――立場に交渉するのであると考えられる。それ故認識社会学――イデオロギー論――の主な目的はこうなる。まず第一に、歴史の或る一時代に就いて精神上の・体系としての・諸立場を求め、次に之を夫々の世界観――形而上学的予想――の生きた根幹にまで溯源せしめ、第三にこの世界観を経営する世界観的な意志にまで之を帰属せしめ、第四に之を相抗争しつつある精神層に対応せしめる。そうして初めて第五に、この精神層が夫々どのような社会層――階級――に裏付けられているかを見ることになるのである**。 3595_39048.html(614): * Mannheim, Ideologie und Utopie にこの点は詳しい。なお彼の一般的な立場に就いては “Historismus” を見るべきである。 3595_39048.html(617): * “Ideologie und Utopie” は政治学が科学として如何にして可能であるか――理論と実践との問題――を問題にしている(S. 67 ff.)。ユートピアはそして、常に政治的な関心の下にのみ生れた。因みに、マンハイムによれば、存在が観念を通り越したのがイデオロギーであり、之に反して、観念が存在を通り越したのがユートピアである。 3595_39048.html(698): * この代表的なものは例えば、E. A. Ross の “Social Psychology” であろう。 3595_39048.html(699): ** McDougall “An Introduction to Social Psychology” は結局、社会的本能に研究を集中している。 3597_41604.html(219):  これ等の思想家――物理学的観念論者――に対する纏った批判はL・ルダスの”Die Materie ist verschwunden?“(Unter dem Banner des Marxismus, 1929)である。 3597_41604.html(247): *** R. von Mises, ber kausale und statistische Gesetzmssigkeit in der Physik(Die Naturwissenschaften, 1930, ※[#ローマ数字18、36-下-12], 7.)――之は後の吾々の叙述のための参考にもなる――、及び同じく”Wahrscheinlichkeit, Statistik und Wahrheit“を見よ。 3597_41604.html(324):  〃 , Vorrede zur ”Hegels Philosophie der Natur“, 1841. 3597_41604.html(1357): ※底本では「”Die Materie ist verschwunden?“」「”Wahrscheinlichkeit, Statistik und Wahrheit“」「”Hegels Philosophie der Natur“」の「”」の二点は右下に、「“」の二点は左上に、置かれています。 3598_47666.html(579):  最後に、イデオロギーの「心理学」と呼ばれて好いようなものは、無用であるか。そこでは恐らく、元来心理学的でない処の意識が、強いて、何かの形で、心理学的に取り扱われる。心理学的範疇からすれば、意識は結局、個人的意識に帰着しなければならなかった。それ故ここでは、意識は却って何か超心理(mtapsychique)的なものとなるか、社会心理学(“social psychology”)的なものとならねばならない。又は両者の結合として精神分析(”Psychoanalyse“)的なものとなる。之はそして精神病学乃至心理学へと連絡するだろう。――併し元来イデオロギーとは、多くの心理学で考えるような主観的で無形な個人的意識のことではない。それは意識が、歴史的社会的存在に於て、客観的精神として、云わば形態を取って現われた処の、観念形態・意識形態・即ち取りも直さずイデオロギーなのである*。だからイデオロギーの「心理学」は今の問題に取っては恐らく極めて有益な示唆に富んでいるだろうが、併し結局イデオロギー論的認識論乃至論理学の副次的な補助機関として利用されるに止まるだろうと想像する。 3598_47666.html(755): * ドリーシュの思想は”Die Philosophie des Organischen“にまとめられている。なお生気論の歴史と理論の綱要とに就いてはその”Die Vitalismus als Geschichte und als Lehre“が基礎的なものである。 3598_47666.html(787): ** マックス・フェルヴォルンの条件論(Bedingungslehre, Konditionismus)は、この固有法則を決定するような場合のためにこそ必要な方法論なのである。「条件的命題は凡ゆる合法則性を云い現わす一般的な形式である」(M. Verworn : Die Frage nach den Grenzen d. Erkenntnis)。なお”Allgemeine Physiologie“ S.35-38 を参照。 3598_47666.html(845): v. Frankenberg : Kann ”fremddienliche Zweckmssigkeit“ nicht durch Selektion entstehen? (Biolog. Zentralbl., 49) (1929). 3598_47666.html(1260): ※底本では「”Psychoanalyse“」「”Die Philosophie des Organischen“」「”Die Vitalismus als Geschichte und als Lehre“」「”Allgemeine Physiologie“」「”fremddienliche Zweckma:ssigkeit“」の「”」の二点は右下に、「“」の二点は左上に、置かれています。 3602_38773.html(136):  普通実用主義と訳すが適訳でない。この言葉は、プラグマ(身廻りの用具)という言葉から導かれ、パース(C. S. Peirce)の書物“How to make our ideas clear? 1878”に由来する。ウィリアム・ジェームズ(W. James)によって著明となる。ジェームズによれば、この哲学は特に新奇な哲学体系を意味するのでもなく、又新しい見地を意味するのでもない。古来の或る考え方に名づけた名にすぎぬ。単に知識を獲得するための方法を説明するものに過ぎない。之は一定の定説や独断でもなく、研究の結果を意味するのでもなくて、却って新しい真理の発見へ導くための考えであり、より以上仕事をするためのプログラムであるという。彼はプラグマティズムを、一切の知識が一旦そこへ出なければ動きが取れないという意味で、多くの個室に通じる廊下に譬えている。 3699_12991.html(56):  柔い色のオール・バックの髪や、芸術観賞家らしい眼付が、雑然とした宿屋の周囲と、如何にも不調和に見えたのである。始め、彼はAを思い出さないように見えた。何となく知ろうと努め、一方用心しているように感ぜられ、自分の私(ひそ)かな期待を裏切って、初対面らしい圧苦しさが漂った。彼の妻で、知名なダンサーであるラタン・デビーのことなどをきいているところへ、女中が名刺を取次ぎ、一人の客を案内して来た。その顔を何心なく見、“Glad to see you”と云いながら、自分は思いがけない心地がした。 3793_27315.html(32):  僕達のイギリス文学科の先生は、故(こ)ロオレンス先生なり、先生は一日(いちじつ)僕を路上に捉(とら)へ、々(びび)数千言を述べられてやまず。然れども僕は先生の言を少しも解すること能(あた)はざりし故、唯雷(かみなり)に打たれたる唖(おし)の如く瞠目(だうもく)して先生の顔を見守り居たり。先生も亦(また)僕の容子(ようす)に多少の疑惑を感ぜられしなるべし。突如(とつじよ)として僕に問うて曰く、“Are you Mr. K. ?”僕、答へて曰く、“No, Sir.”先生は――先生もまた雷に打たれたる唖の如く瞠目せらるること少時(しばらく)の後(のち)、僕を後(うしろ)にして立ち去られたり。僕の親しく先生に接したるは実にこの路上の数分間なるのみ。 3839_13085.html(26):  常識を働かせ、実際的な立場から考えると、性、育児教育等に関するよい書物も必要でしょう。私には一々指名出来ません。心の上から行くと頭に浮ぶだけでも、夏目漱石の「行人」「それから」「門」ツルゲーネフの「その前夜」「処女地」ロマンローランの「ジャン・クリストフ」名を一寸思い出せませんが、同じ人が女性を主人公として描いた最近の長篇。ガルスワージーの“saint's progress”バッチンスの“this freedom”その他、深く読むべきものが多いと思います。ゲーテの「親和力」アンリー・ファブルの昆虫記のようなものもよい本です。 3843_13019.html(43):  翻刻智環啓蒙の面白さは、そのように機械化した文字が、まだ貴重な一つの解読と云う技能を要した時代を反映していて、微笑されるのである。明治三年頃印刷されたもので香港の宣教師でも作ったのであろう。“A circle of knowledge, in 200 lessons”と云うのを、漢文訳つきで編輯したものだ。題目を見ると、一層面白い。 3843_13019.html(44):  上半頁に Lesson 1. Object, と! 石・本・樹木其他は“are all objects. All things that we can see are objects. The chair, the hat, the book etc., were made by man. The store, the tree etc., were not made by man, but were created by God, and are called created things. The things which are made by man are not created things.” 3866_12970.html(37):  停車場前の広場から大通りに出ると、電車の軌道が幌から見える。香港、上海航路廻漕業の招牌が見える。橋を渡る。その間に、電車が一台すれ違って通った。人通りの稀な街路の、右手は波止場の海水がたぷたぷよせている低い石垣、左側には、鉄柵と植込み越しに永年風雨に曝された洋館の閉された窓々が、まばらに光る雨脚の間から、動かぬ汽船の錆びた色を見つめている。左右に其等の静かな、物懶いような景物を眺めつつ、俥夫は急がず膝かぶを曲げ、浅い水たまりをよけよけ駈けているのだが――それにしても、と、私は幌の中で怪しんだ。何故こんなに人気ない大通りなのであろう。木造洋館は、前庭に向って連ってい、海には船舶が浮んでいるが、四辺人の声というものがしない。遠方の熾んな活動を暗示するどよめきさえ、昼近い雨あがりのその辺には響いて来ない。商館の番頭、小荷揚の人足も、長崎では今が昼寝の時間ででもあるのだろうか。一つの角を曲る時、幌の上を金招牌が掠めた。黒地に金で“Exchange. Chin Chu Riyao.”然し、ここでも硝子戸の陰に、人の姿は見えない。 3979_12781.html(28):  一番関心を持たせられるのは、お役所などから廻ってくる印刷物に相当ムダがあって例えば“祝い終った、さあ働こう”など、全く言わでものことではないかと思います、まるで“朝になった、さあお起きよう”というのと同じことでしょう、こんな標語をレイレイしく印刷するより、もっと内容を厳選してほしいと思います。 4015_12733.html(9): 宮本百合子 双葉山を手玉にとった“じこう様”について 4015_12733.html(20): 双葉山を手玉にとった“じこう様”について 4029_13012.html(35): “すべての人が良心の自由をもっているということを” 4156_17546.html(47):  龍介の恵子に対する気持はいろいろな経過をふんでからの、それから出てきたものだった。かなり魅惑のある恵子が、カフェーの女であるということから受ける当然の事について気をもみだした、それが最初であった。彼はそういう女がいろいろゆがんだ筋道を通ってゆきがちなのを知っていた。その考えが少しでも好意を感じている恵子に来たとき、「ちょっと」平気でおれなかった。この平気でおれない「関心」が、龍介の恵子に対する気持を知らない間に強めていった。しかし一方、彼は自分が身体も弱く金もないということの意識でそういう気持を抑えていった。彼は自分の恋愛をたんに情熱の高さばかりで肯定してゆく冒険ができなかった。彼にとって、そんな冒険はできない、というより、そんな「不道徳なこと」はできない、といった方がより当っている。そうだった。そしてその二つが同じように進んでいたとき、龍介は気軽に女と会えた。恵子はかえって彼に露骨な好意を見せた。女から手紙が時々来た。「あなたがくる気が朝からしていた。が、とうとうあなたはお見えにならない。胸が苦しくなる想いで寝た」そんなことなど書かれていた。恵子についていろいろな噂(うわさ)が龍介の耳に入った。恵子が淫売(いんばい)をしているということも聞いた。それについて入念な――“Eternal Prostitution”“Periodical Prostitution”“Five yen a time”というような言葉までできていた。彼はその事について、恵子にたずねた。恵子は――「そんなことでしたら、誰がなんと言おうと私を信じてもらっててもいいの!」と言った。恵子が淫売で拘留されたことがあるとか、家の裏に抜穴があるとか、もっと詳(くわ)しいことが噂立った。龍介はイライラしてきた。恵子を信じていても、やはりそんなことがいろいろに意識のうちに入ってきて、不快だった。しかしそれと同時に、彼は恵子をすっかり自分のものにしたい気持を感じだしてきた。しつこい強さできた。龍介は危い自分を意識したが、だめだった。彼の気持はずうと前に行ってしまっていた。彼はそのことを打ち明けるのに、市から汽車に乗って三十分ほどで行けるZの海岸にしようと考えた。その海岸は眼路(めじ)もはるかなといっていいほど砂丘が広々と波打っていた。よく牛が紐(ひも)のような尻尾(しっぽ)で背のあぶを追いながら草を食っていた。彼はそこ以外ではいけないと思った。彼はそこでのことをいろいろに想像した。 4158_14753.html(49):  が、此丈で私の感動は静まらない。小さい“The Bubble book”の裏に自分は此那文句をかきつけた。 4160_14755.html(226):  米国の婦人は主我的で、非家庭的で、軽率で感情的だと云う事が極度にまで強調されます。彼の前に米国の女性は愛し、尊むべき女人ではなくて或人の言を借りて云えば、単に“Female”であるに過ぎない、其も物質的な、金の掛る家畜だとまで酷評されるのでございます。 4160_14755.html(263):  此の種の常套に対して、私共は、此とは全く正反対に、あくまでも保守的な、女性を男子以下の生存として肯定した消極に棲息する一種の常套のある事を発見致します。そして、米国の娘も、又日本の青年女子も、此の二つの両端に彼方へ索かれ此方へ索かれして、迷いに迷った末、終に私の此から申そうとする、最も時間に於て新らしい一つの常套的生活に納まって仕舞います。其は、厨川白村氏が、私の云い度い心持を最もよく表現した文字で書かれた、“Against the Convention of Unconvention”を主張する一群なのでございます。 4160_14755.html(269):  社会の有機的組織の緊張は、其裡に生存する各箇人に、公衆との相互関係を痛感させます。物質的生存の不安に対する暗示も其に与って力ある事でございますが、現代の公衆の箇分子は、相互に緊縛した相対的関係を忘れる事が出来ません。そして、社会の有機的組織は、箇人の種々雑多な箇性に依って構成されるものではあっても、若し自分が比較的安易に、且つ好結果を得ようとするのには、どうしても、其の相互関係に何等の不調和をも起さない程度に、自らの箇性を馴致する事を、意識無意識に必要と認めるようになります。米国の箇人的教育は、各種の箇性を重んじながら、其の功利主義の伝統的暗示、或は宣伝に依て、箇人的気質が、公衆の不文律に順応して行ける程度の寛和、或は弛緩を加えて居ります。従って、群集の各人は、箇性の力に明かな局限を認める事に馴れ、其の局限の此方でする活動が、結局は夢想でない今日の現実に於て最も有効である事を滲み込まされます。其で、所謂賢明な者は、相当に一般を首肯させる理論を前提として、最も安全な現状維持を主張致します。此の傾向が、“Against the Convention of Unconvention”を称する一群の動機に大きな関係を持って居る事は争われないのでございます。箇性の各種の発動を自由ならしめる為の社会組織は、その物質的圧迫、或は群集の常識的低見の為に、却って伝習的形式の下に尊むべき箇性を従属せしめようと仕兼ねない価値顛倒に陥って居るのでございます。 4163_14758.html(70):    十八日 “She wanted to stay in her own room this evening, and so I decided to stay in too ! My dearest “Chame”, I don't deserve your love: I don't deserve your kiss, and I don't deserve anything from you. Leave me behind you to struggle, suffer and die alone !!” 4163_14758.html(78):        “Disagreeable atitude of Kozaki, Serino and Wada made me feel unhappy to stay with them so 〔一語不明〕“Chame” sweet dream I came home to sleep. Yes, what a wonderful power she has ! Cherish your heart, my dear “Chame”! How can I leave you ! I woke up early again this morning and felt “Chame's” unseen finger and embraced the vacant space tightly with a desire that she may be my “better half” and mine only.” 4163_14758.html(89):   二十五日 “Victory day” for New York City. 4189_14776.html(85): “暗い部屋から茶の間の方に行こうとすると、畳廊下の下に、錯綜して、明るく、暗く走せ違って居る部屋部屋から洩れる光りで、自分は変な目まぐるしさを覚えた。襖に当って屈曲した三尺幅の光の波が、くっきり斜に、表現派の舞台装置のように、光度を違えて、模様を描いて居る。 4191_14777.html(80): “I know it is one not liable to take infection” 4195_14778.html(32):  英国民が偽善者と云われることにつき、真相をギッシングは実に明確に、愉快に指摘して居る。彼の意見によれば英国民は決してヒポクリットではない。この言葉の使用法は間違って居る。正しく云えば英国人は、パリサイ的なのだ。悪徳の第一は、常に己れを正義とする信念にある。彼等は、“gone wrong”は認める。けれども、英国人たる者が生得権として敬虔、真実な徳義を持つと云う信条は決して否定しない。自分等は選ばれたる者で、特別な精神高揚の努力なしで、仁慈に達せられると思って居る。自分の金を出して一つの教会を建てる騒々しい成上りものは、そう云うことで社会の尊敬を得ると思うばかりでなく、彼の奇妙な小さい霊に、彼は神を喜ばせること、人類に貢献することをしたと信じるのである。両性間の徳義についても、偽善と云う言葉は甚しく間違って使われて居る。英国人の大部分は今日もう国家的宗教の教条は無視して居る。けれども、英国に於る社会表面上の道徳は世界屈指のものだと云う信念を捨てた人は実にまれだ。ところが、実際、若しする気があれば人は、まことに雑作なく、英国の社会生活は他の国々のそれよりちっとも純潔でないと云うことを証明することが出来る。最早絶えることない特種の野卑な醜聞は、嘲弄者に潤沢な機会を与える。大都市の街路は夜毎に世界の他の何処にも又と見られないような展覧会を示して居る。これら総てのことあるに反して、普通の英国人は自分の国の徳義上の優越を授けられたものと考える。そして、他のひと人に迷惑な思いをさせて、それを宣言する機会を失うまいとするのだ。このような男を、偽善者と呼ぶのは抑々(そもそも)其奴を知らないのだ。彼も、自分としては下劣な心情の所有者になるかもしれないし、生活に不注意な者になるかもしれない。が、それは問題外だ。「彼は美徳を信じて居る。」云々。 4199_14781.html(169):  六月 七日八日二日、“do you still love me?” 4204_27912.html(358):  “I am quite all right, so far I keep still.” 4204_27912.html(565):  “Annette felt that, alone, she was incomplete; incomplete in mind, body and heart.” 4204_27912.html(566):  “She had reached the time of life, when one can live no longer without a mate.” 42151_15665.html(32): “This is to introduce a Japanese friend of mine, Mr. Hamada……………who has been a student and admirer of your husband's work and has come all the way from Japan to visit the remains of prehistoric Greece. I wish I could be with him !……… 42232_23645.html(61): 『ハムレツト』中の有名の獨語“To be or not to be……”の譯も詩抄中にあつた。―― 42233_38066.html(518): “O va l'esprit dans l'homme ? O va l'homme sur terre ? 42233_38066.html(521): “O life as futile, then, frail ! 42233_38066.html(701):    (四)プロテアス及びトライトンを指す、有名なる“The World is too much with us”の歌を見よ。 42233_38066.html(704):    (七)セレイの“Stanzas written in dejection, near Naples.” 42233_38066.html(821): “Hail, holy Light, offspring of Heaven, First-born ! 42233_38066.html(1139): “Etre d' un sicle entier la d' pense et la vie, 42233_38066.html(1610): “Er ist dahin, der ssse Glaube 42233_38066.html(2332): “La cloche ! cho du ciel plac prs de la terre ! 42243_23809.html(88): 『あゝ大和にしあらましかば』は、その當時上田敏氏が云はれましたやうに、ブラウニングの“Oh, to be in England”ではじまる例の絶唱を想ひ浮べながら生れた作品です。大和、とりわけ奈良の西の京や、法隆寺、龍田のあたりは、むかしも今も、私には已み難い憧憬があります。 42256_18079.html(28):  しかし、また一方から考えると、元来多くの鳥は天性の音楽家であり、鴉でも実際かなりに色々の「歌」を唄うことが出来るばかりでなく、ロンドンの動物園にいたある大鴉などは人が寄って来ると“Who are you ?”と六(むつ)かしい声で咎めるので観客の人気者となったという話である。そんなことから考えると、鴉がすぐ耳元で歌っている歌に合わせて頸を曲げるぐらいは何でもないことかもしれない。 42338_15651.html(142): 「『あらゆる公衆一般の観念、あらゆる世間一般に承認されたる慣例は愚かなるものと思わばまちがいなし。なんとなれば、そは衆愚を喜ばしむるものなればなり(イリヤ・ア・パリエ・ク・トゥティデェ・ピュブリク・トゥト・コンヴァンシオン・ルシュ・エ・テュヌ・ソティーズ・カアル・エラ・コンヴニュ・オ・プリュ・グラン・ノンブル)』さ」とデュパンはシャンフォオル(11)の言葉を引用して答えた。「いかにも数学者は、君のいま言ったその世間一般の誤謬をひろめるのに全力を尽してきたが、それは真理としてひろまっていたとしても、やっぱりりっぱな誤謬だよ。たとえば、彼らはこんなことを用いてはもったいないような技巧をもって、『分析』という言葉を代数学に適用させてしまった。このごまかしの元祖はフランス人だよ。だが、もし言葉というものが少しでも重要なものであるなら――つまり、言葉というものが事がらに適用されることによってなんらかの価値を生むものであるならだね――『分析』が『代数学』を意味しないことは、ラテン語で“ambitus”が‘ambition’を意味せず(12)、“religio”が‘religion’を意味せず(13)、あるいはまた“homines honesti”が‘honorable men’を意味しない(14)くらいの程度なんだ」 42338_15651.html(171): (2) この警視総監G――氏は前の『モルグ街の殺人事件』にも『マリー・ロジェエの怪事件』にもちょっと出ているが、ボードレールは、ポーは“M. Gisquet”のことを考えていたにちがいないと言っている。「ジスケエ氏」というのは Henri Joseph Gispuet(一七九二―一八六六)のことで、この作の書かれる十年ほど前まで、パリの警視総監をしていた男である。もっとも、似ているのは頭文字と、警視総監であったということだけである。 42338_15651.html(175): (6) Franois la Rochefoucauld(一六一三―八〇)――“Maximes”の筆者としてよく知られているフランスの著作家。 42338_15651.html(181): (12) ラテン語の“ambitus”は「投票を依頼するために走りまわること」、「官職を得るために奔走すること」の意味であって、それから出た英語の“ambition”(野心)とは少し意味が違う。 42338_15651.html(182): (13) ラテン語の“religio”は「注意深いこと」、「律義」、「几帳面」というような意味で、それから出た“religion”(宗教)を意味しない。 42338_15651.html(183): (14) “homines honesti”は「有名な人々」の意味で、“honorable men”(立派な人々)を意味しない。 42338_15651.html(184): (15) Jacob Bryant(一七一五―一八〇四)――イギリスの考古学者“A New System or an Analysis of Ancient Mythology”の著がある。 42338_15651.html(185): (16) 「地獄に降るは易し」。――ヴェルギリウスの“neis”第六巻一二六行。 42338_15651.html(187): (18) 「恐ろしき怪物」。――ヴェルギリウスの“neis”第三巻六五八行。 42338_15651.html(188): (19) 「――かかる痛ましき企みは、よしアトレにふさわしからずとも、ティエストにこそふさわしけれ」――クレビヨンの悲劇“Atre et Thyeste”第五幕第四場。(アトレとティエストとの兄弟の話はギリシャの残忍な伝説であって、ティエストはアトレの妻を誘惑し、アトレはその復讐(ふくしゅう)のためにいつわって和解の宴を張り、ティエストを招き、ティエストの三人の子を殺してその肉を父に食わせたという) 42338_15651.html(189): (20) Prosper Jolyot de Crbillon(一六七四―一七六二)――フランスの悲劇詩人。“Atre et Thyeste”はその一七〇七年の作である。 4243_27740.html(334): 二月。逆立ちの公私。私たちの建設。(婦人のための啓蒙)“どう考えるか”について。 42688_45503.html(97): 「既報“人生紙芝居”の相手役秋山八郎君の居所が奇(く)しくも本紙記事が機縁となって判明した。四年前――昭和六年八月十日の夜、中之島公園の川岸に佇(たたず)んで死を決していた長藤十吉君(当時二十八)を救って更生(こうせい)への道を教えたまま飄然(ひょうぜん)として姿を消していた秋山八郎君は、その後転々として流転(るてん)の生活を送った末、病苦と失業苦にうらぶれた身を横たえたのが東成区北生野町一丁目ボタン製造業古谷新六氏方、昨二十二日本紙記事を見た古谷氏は“人生紙芝居”の相手役がどうやら自宅の二階にいる秋山君らしいと知って吃驚(びっくり)、本紙を手にして大今里町三宅春松氏方に長藤十吉君(現在三十二)を訪れた。おりから町の子供相手の紙芝居に出かける支度中の長藤君は古谷氏の話を聞いて狂喜しさっそくこの旨(むね)を既報“人生紙芝居”のワキ役、済生会大阪府支部主事田所勝弥氏(四八)、東成禁酒会宣伝隊長谷口直太郎氏(三八)に報告、一同打ち揃(そろ)って前記古谷氏宅に秋山君を訪れ、ここに四年ぶりの対面が行われた。“おお秋山さん”“おお長藤君か”二人は感激の手を握り合って四年前の回旧談に耽(ふけ)った。やがて長藤君が秋山君名義で蓄(たくわ)えた貯金通帳を贈(おく)れば、秋山君は救ったものが救われるとはこのことだと感激の涙にむせびながら、その通帳を更生記念として発奮を誓ったが、かくて“人生紙芝居”の大詰がめでたく幕を閉じたこの機会にふたたび“人生双六(すごろく)”の第一歩を踏みだしてはどうかと進言したのが前記田所氏、二人は『お互い依頼心を起さず、独立独歩働こう、そして相手方のために、一円ずつ貯金して、五年後の昭和十五年三月二十一日午後五時五十三分、彼岸の中日の太陽が大阪天王寺西門大鳥居の真西に沈まんとする瞬間、鳥居の下で再会しよう』との誓約書を取りかわし、人生の明暗喜怒哀楽をのせて転々ところぶ人生双六の骰子(さいころ)はかくて感激にふるえる両君の手で振られて、両君は西と東に別れて、それぞれの人生航路に旅立とうと誓ったのである」 42688_45503.html(100):  五年は瞬(またた)く間にたちました。そして約束の彼岸の中日が近づいてくると、私はいよいよ秋山さんの安否が気になってきて、はたして秋山さんは来るだろうかと、田所さんたちに会うたび言い言いしていたところ、ちょうど、彼岸の入りの十八日の朝刊でしたか、人生紙芝居の記事を特種にしてきた朝日新聞が「出世双六、五年の“上(あが)り”迫る誓いの日、さて相手は?」来るだろうかという見出しで、また書きたてましたので、約束の日、私が田所さんたちといっしょに天王寺西門の鳥居の下へ行くと、おりから彼岸の中日のせいもあったが、鳥居の附近は黒山のような人だかりで、身動きもできぬくらいだった。私は新聞の記事にあおりたてられた物見高い人々が、五年目の再会の模様を見ようと、天王寺へお詣(まい)りがてら来ているのだと判ると、きゅうに自分のみすぼらしい――新聞に書かれた出世双六などという言葉におよそ似つかぬ姿を恥じて、穴あらばはいりたい気持とはこのことかと思った。しかし、まさか逃げだしもできず、それに秋山さんははたして来るだろうかと思えば自然光ってくる眼を、じっと西門の停留所の方へ向けていました。 42752_24929.html(352): (三) Lotze: Logik. Drittes Buch, 2 tes Kapitel. (Phil. Bibl. S. 510 ff) 參看。ロッツェはイデアの有り方を嚴密の意味の存在即ち Sein 乃至 Wirklichkeit より區別して Gelten(妥當)と名づけ、兩者を混同したとしてプラトンを非難した。プラトンのイデア説が形而上學へと發展したことに對する抗議として、從つて哲學――觀念主義理想主義の哲學――の最も純眞なる最も本來的なる動機と性格とに忠實であらうとする努力としては、この解釋はたしかに正しい。Windelband は價値哲學の立場よりしてこの Sein と Gelten との區別を思索の中心に持ち來つた。永遠性の觀念に關するかれの解釋(Prludien: ”Sub specie aeternitatis“)は形而上學への進展の道を取らぬ點において、又主體の時間性を率直に承認してゐる點において、典型的意義を有する卓越した業績である。 42752_24929.html(375): (一) キリスト教經典においてはコリント後書三ノ一八がこの思想を示してゐる。なほ次の諸書參看。Bousset: Kyrios Christos1. S. 197 ff.(”Vergottung durch Gottesschau“ といふ見出しの處)。――Reitzenstein: Die hellenistischen Mysterienre Iigionen3. S. 357 f. ―― J. Weiss: Urchristentum. S. 406. 42752_24929.html(407): (三) ニーチェはキリスト教神學の Nchstenliebe に反抗して”Fernstenliebe“(將來に生きる創造的愛)を説いた。Also sprach Zarathustra. I Teil: ”Von der Nchstenliebe.“ 42752_24929.html(428): (六) Zeller がこれを採用して以來これは最も廣く行はれた解釋である。それの誤謬を示し正さうとしたことは H. Maier (”Sokrates.“1913) の功績といふべきであらう。 42752_24929.html(454): (二) K. Barth (”Kirchliche Dogmatik.“I, 2. S. 425 ff.) は愛はいつも對手(Gegenber)對象(Gegenstand)をもつ、即ちいつも他者(der Andere)を愛すると説いて、その限り、正しき理解を示したが、舌の根の乾かぬ間に ander といふ語を無造作にも andersartig に置き換へてゐる。すなはち、神が人の愛の對象である以上、その對象は對象であるが故に主體である人間とは全く類(性質)を異にする存在者でなければならず、逆に人間は神と全く類(性質)を異にする存在者即ち罪人でなければならぬ、といふのである。驚くべき殆ど無鐵砲ともいふべき論の立て方である。尤もややもすれば論理よりも修辭によつて思想の力よりも感情の勢ひによつて動く癖のあるこの神學者においては、このことは或はむしろ恠しむに足らぬであらう。「他者」及び「他者性」の三つの異なつた意義に關しては本書の諸處殊に九節參看。 42752_24929.html(466): (一) パウロ、ロマ書四ノ一七。邦語譯に「無きものを有るものの如く呼びたまふ」とあるは少なくも不穩當である。原語の”kalountos ta m onta hs onta“において hs onta は古代の解釋家もすでに説いた如く hste einai の意に、即ち「無より有を呼び出す」の意に解すべきである。かかる語法が古典ギリシア語においてもすでに存在したことは、いづれの文法書にも記されてゐる事柄である。――アウグスティヌスについては特に Confessiones. XII, 7 參看。――パウロにおいて「無よりの創造」が宇宙論的觀點よりではなく、神の愛の宗教的體驗の觀點よりして解されてゐることは特に注目に値ひする。 42752_24929.html(495): (一) 次の書參看。P. Althaus: Gottes Gottheit als Sinn der Rechtfertigungslehre Luthers (”Theologische Aufstze“ II) S. 21 ff. 42752_24929.html(513): (三) 永遠性に關するアリストテレスの、殆ど典據を擧げる必要のないほど有名な、思想については、例へば次の諸書參看。Metaphysica Vol. XII; De anima Vol. III, 4 seqq; Eth. Nic. Vol. X. ――不死性永遠性を有する人間の理性(nous)が個人のものか否か等の問題に關しては、古代より論議が行はれ、近時 Brentano (”Psychologie des Aristoteles,“1867) と Zeller (”Kleine Schriften,“Bd. I) との間に有名な論爭が行はれたが、それの解決如何は吾々當面の問題には沒交渉である。 42752_24929.html(603): ※底本では、「”」の二点は右下に、「“」の二点は左上に、置かれています。 42754_34853.html(2641): “Die Humanitt erst bringt klarheit ber die Menschenwelt, und von da aus auch ber die Gtterwelt” 42773_39853.html(748): (此(この)原詞(げんし)は“Here's goodly gear.”此(この)意味(いみ)不分明(ふふんめい)。乳母(うば)とピーターとの來(きた)るを見附(みつ)けての評語(ひゃうご)とも、マーキューシオーとベンーリオーの猥雜(わいざつ)な問答(もんだふ)を反語的(はんごてき)に評(ひゃう)したるものと解(かい)せらる。こゝには後者(こうしゃ)を正(たゞ)しと見(み)て、其義(そのぎ)に譯(やく)しておきたり。) 42773_39853.html(895): (此(この)原詞(げんし)は“And what to?”「して何(なん)の爲(ため)に?」といふ義(ぎ)。マーキューシオーはそれをわざと“And what two?”の意味(いみ)に取(と)りて例(れい)の駄洒落(だじゃれ)のキッカケとする。) 43085_22359.html(30):  スウ・レ・トアド・パリの唄から“C'est pour(プル) mon(モン) papa(パパ)”の唄へ――巴里の感情は最近これらのはやり唄の推移によってスイートソロから陽気な揶揄の諧調へ弾み上ったことが証拠立てられた。このとき他の国の財政の慌てふためきをよそにフランスへは億に次ぐ億の金塊がぐんぐん流れ込んでいた。 43095_27996.html(68):  鼠おとし(マウストラプ)はそのくらいにして今度は詩人の親爺さんの店へ案内しましょう、と婆さんに促され、東側の家に入って行くと、其処は博物室(ミュジーアム)と図書室(ライブラリ)になっていて、詩人に関する多くの遺物と肖像画出版物などが陳列されてあり、詳細なカタログが一シリング六ペンスで売られている。それを抜き書きする労力は省きたい。書棚には“quartos”の各種やアシュバートン文庫から二万ポンドで購入したといわれる“the first folio”の完全な一組が揃っていて、蔵書癖のある訪問者の目を羨ませがらしている。 43107_23644.html(34):  右は前記の如く昭和五年に書いたもの、それから四ヶ年の後本年四月二高教授を辭して比較的自由な身となつて居る。『書物を讀む前に著者について大體の知識を持つのは便利だ』と Pryde の“Highway of Literature”にあるのが、尤もと思はれるから筆の序に書いた。 43115_23646.html(38): “Behind the veil, behind the veil.” 4316_20977.html(27):  今日ならって来た所の、フランチェスカといふわけのわからない女が、“What does in[#「in」はママ] matter to me ?”と、“Not at all”以外に、なに事もいはず、常に怒ってゐるのか、真面目になってゐるのか、わからないやうな態度と表情をしてゐるのが、をかしくってならなかった。 4317_9673.html(48):  北にパミール高原、西南にはヒンズークシ、南東にはカラコルム。おのおの、二万フィート級以上が立ちならぶ大連嶺が落ち合うところが、いわゆる「パミールの管」のアフガニスタン領である。ではここが、なぜ永いあいだ未踏のままであったかというに、それは、「大地軸孔」をかこむ“Kyam(キャム)”の隘路に、世界にただ一つの速流氷河があるからだ。温霧谷(キャム)の、魔境の守り、速流氷河(ギースバッハ・グレッチェル)。 4317_9673.html(57):  作者はいま、便宜上「大地軸孔」などといっているが、その“Kara Jilnagang(カラ・ジルナガン)”というのは中央アジア一帯の通称で、「黒い骨」というのが正確な意味になる。で今、もしもその辺りを絶好の月夜にながめたとしたら……。雪嶺銀渓、藍の影絵をつらねているワカン隘路(パス)のかなた、銀蛇とうねくる温霧谷氷河の一部が、ときどき翳(かげ)るのはおそろしい雪崩(なだれ)か。いや、その中腹にくっきりと黒く、一本の肋骨のようなものが見えるだろう。それが地獄の劫火(ごうか)ほの見える底なし谷といわれている、黒い骨の「大地軸孔(カラ・ジルナガン)」。 4317_9673.html(58):  そこは、たぶんめずらしい“Niche rift(ニーチ・リフト)”ではないのか。つまり、壺形をした渓という意味で、上部は、子安貝に似た裂罅(クレヴァス)状の開口。しかし、内部は広くじつに深く、さながら地軸までもという暗黒の谷がこの「大地軸孔」の想像図になっている。ではここが、なぜ世界の視聴をいっせいに集めているのか。というのは、怪光があるからである。 4317_9673.html(94):  翌日は、バグダット、バスラを過ぎアラビヤ半島の突角にある“Sharjah(シャルジャー)”へ着いたのが深更の二時。荒い城壁にかこまれた、沙漠中の空港(エーヤ・ポート)。すると、機体を下りたった彼のそばへ、歩み寄ってきた男がいる。まず、その男は慇懃(いんぎん)な礼をして、 4317_9673.html(140): “Dasht-I-Kavir(ダシュト・イ・カヴィル)”――そのおそろしい塩の沙漠はイラン国の首府、テヘランの東方二百マイルのところにある。これは、マルコ・ポーロ時代からひじょうに名が高く、すべてを焼きつくす恐怖的高熱度。砂は焼け塩は燃え、人畜たちまちにして白骨となるという、嘘も隠しもない世界の大驚異。ではその、見えない魔焔がどうしたというのか。折竹は言葉を次いで、 4317_9673.html(216): 「ふん、“Yazde Kubeda(ヤツデ・クベーダ)”か。その『神々敗れるところ』というペルシア語の意味から、あすこは『驕魔台(ヤツデ・クベーダ)』とかいわれている」 43193_22385.html(9): 坂口安吾 “歌笑”文化 43193_22385.html(20): “歌笑”文化 43261_42029.html(35):  カントは「演繹」に於て次の如く云っている。「外的感性的なる直観の単なる形式である空間はまだ全く認識ではない。その空間は単にアプリオリな直観の多様を或る可能的な認識へ与えるに過ぎない。併し何かを例えば線を空間内に認識するためには私はその線を引いて見なければならぬ。かくて与えられた多様の一定の結合を総合的に成り立たせねばならぬ。かくてこの手続きの統一は同時に意識の統一(或る線の概念)である。そして之によって始めてオブヤェクト(一定の空間)が認識されるのである」と。之によれば始めに「まだ全く認識ではない」と云われた単なる形式としての空間は吾々の先の意味での直観形式であり、カントが之とは区別した処の「一定の空間」なるものは従って明らかに第一の意味での純粋直観に外ならぬと一応は考えられる。事実カントが「空間は単に感性の形式としてではなく直観自身として表象される」(Kritik der reinen Vernunft, 2 Aufl. S. 160)と云う時、この直観自身とは特に直観されたものを意味すると解さねばならぬ如く、前の「一定の空間」とは明らかに第一の意味での純粋直観に外ならぬと一応は考えられる。即ち茲にカントは私が先程指摘した様に第一の純粋直観と直観形式との対立に立つものと考えねばならぬ。然るにこの対立と共にカントは同時に夫に一つの転向を与えていると考えられる。というのはカントの言葉に従えば空間は「ある多様を含む処の直観自身として表象される、即ちこの直観内のこの多様の統一という規定を以てアプリオリに表象される」(S. 160)と云うが「直観自身として表象される」とは依然直観されるということ以外に正当な意味はないと思う。カントは直観的表象に統一するとも云っている。従って茲に直観自身として表象されるという意味での直観と直観自身とが再び区別されねばならぬ。前者は多様の統一という規定を持つに反して後者にはそれを持つということが考えられていない。後者は単に直観されたるもの即ち第一の意味での純粋直観であるに反して前者はカントの言葉を用いれば「多様を一つの直観的な表象に zusammenfassen する」処の統一という規定を備えた直観でなければならぬ。即ち前の場合にはもはや第一の意味での純粋直観と全く同一とは考えられない。カントは特に之を形式的直観と呼ぶのである。併しカントはこの形式的直観と純粋直観との異同は特にこれを言明してはいないように思われる。私はもう少し立ち入って茲を解釈して見よう。形式的直観が統一という性質を備えているということは如何なる意味であるか。夫は云うまでもなくこの統一によって形式的直観そのものが成り立っているということに外ならない。即ち形式直観が統一の結果であるということである。処がこの統一をば統一するものと統一されるものとの二つの分に解いて考えて見るとすれば、この場合統一されるものというのに相当するものはこの形式的直観ではない。何となれば形式的直観はすでに統一されたものであるから。従って求められたものは未だ統一されない処の直観に相当しなければならぬ。即ちそれは先の第一の純粋直観というの外はない。然るに明らかに単に統一するもの又は単に統一されたるものというものはない、成り立っているのは統一されたるものである。即ち単なる純粋直観なるものはない、あるものはただ純粋直観が統一された形式的直観のみである。それ故正しく云うならば形式的直観の統一によって始めて純粋直観が成り立つのである。云い換えれば第一の純粋直観は形式的直観のコンポーネントと考えられることによって始めて空間直観の面目を現わすものである。純粋直観とは実は形式的直観でなければならぬ。カント自身の云うように形式的直観の統一によって空間が直観として始めて「与えられる」のである(S. 161)。吾々は今純粋直観と直観形式との対立から出発したのであるが、純粋直観がかく形式的直観に帰するとすれば、それではかかる形式的直観とかの直観形式とは如何なる関係に立つか。「直観の形式は単なる多様を、之に反して形式的直観は表象の統一を与える」(S. 160)ものである。それ故形式的直観は単なる直観の形式以上のものと考えねばならぬであろう。而も「空間は対象として表象される時(それは実際幾何学で必要なことであるが)それは直観の単なる形式以上のものを含む」(同上)。之によって見れば形式的直観とは実はすでに対象化されたものであると見ねばならぬ。それでは形式的直観の未だ対象化されない処のものは何であるか。それが直観である以上かかるものは必ずなければならぬことである。それは何か。それは明らかにこの直観形式ではあり得ない。何となれば之によっては単なる多様が与えられるだけであるから。併しながら第一の純粋直観が先に述べた意味に於て形式的直観(対象化されたる)に帰する以上その対立たる直観形式も亦形式的直観(対象化されざる)に帰する外はない。直観形式というも実はこの意味での形式的直観に帰するものと考える外はない。単なる多様を与える直観の形式なるものはない、あるものは多様の統一即ち直観的表象への統一を与える直観形式のみである。それ故かくして純粋直観と直観形式との対立は対象化された形式的直観と未だ対象化されざる形式的直観との対立に移って来る。この移り行きはとりも直さずカントがその「演繹」から”Analytik der Grundstze“の空間論に移ることを意味するものであると思う。 43261_42029.html(42):  ユークリッド空間と考えられた直観空間は無限 offen であるというがそれは実は週期性即ち結合からの独立を意味する。従ってそれは無限 offen とも有限 geschlossen とも考えられないと云わねばならぬ。このことは曲率に就いても云われはしないか。即ち直観空間はK=0でもなく又K≠0でもないと。何となれば元来空間その者の結合が問題となり得るのはただ空間の曲率に基くと考えられる限りに於てであり、空間そのものの結合もこの意味に於て計量的であると云わねばならなくなって来るから。私はこの点を追求して行く。直観空間の内面を最も直截に指摘したものはロッツェであると思う。ロッツェに於て直観空間は幾何学を基礎づけるものと考えられる。「線に就いて之を他と比較することによって吾々は長さと方向とを区別するが、両者に関する最も簡単な命題と雖も直観から学ぶのでないならば決して成立するものではない」(Metaphysik, S. 223―4)。幾何学に於ける総合判断は空間の直観によってのみ可能である。然らばロッツェの直観空間とは如何なるものか。線の形に於て直観された二つの要素間の関係rと、角の形に於てかかる二つのr間の関係wとは結合して吾々の直観空間をなすのであるが、此のrとwとが吾々の直観空間に於てとは異った結合をなす時成り立つと想像される所謂 Raumoid なるものは元来あり得ないものである(同上 S. 241)。即ち直観空間は唯一でなければならぬ。次に吾々は直線を曲線の極限と考え得ると云うが「その規定と計量とに当って何等か直線の直観を用いることなくしてはこの曲線の系列を作ることは出来ない」(同上 S. 246)。無限大の直径を持つ円として回帰し得るような直線とは論理的野蛮に過ぎぬ。平行線が永久に交らないということを逆にして平行線は無限遠点で交わると云い換えることは許されない。吾々は論証によって平行線の問題を決定することは出来ない。何となれば直観に対しては問題が起きる理由は全くないのであるから。平行線の存在は「直観の完全に明晰な事実」に基くのであるから、もし物理的現象に於て三角形の内角の和が二直角を離れるような場合が生じたとすれば、その場合にはそこに特殊の物理的な原因が存在して光線をば曲げたのであると吾々は解釈せねばならぬ。そして空間関係そのものは飽くまで不変であらねばならぬ(同上 S. 246―9)、即ち直観空間はユークリッド的と考えられる。併しロッツェによれば直線に対して曲線が考えられる時、それを可能ならしめる原理が直観空間の直線性として働く処のものである。直観空間のユークリッド的性質とはとりも直さずこの直線性の原理に外ならない。それではかかる直線性は何と考えるべきであるか。普通直線は曲率を持たぬと云われるのであるが私はこれを「曲率がない」ということと「曲率が零である」ということとの二つに区別する必要があると思う。吾々は射影幾何学には曲率がないと云い、計量幾何学には曲率があるという。そして後者の内ユークリッド幾何学に於てのみ曲率が零であると考える。それ故以上の区別は単なる言葉の分類ではない。直線が原理であると云う時、それは茲に曲率が考えられていないということ、即ち曲率がないということを意味するに外ならないと思う。何となれば零も一つの数と考えられる以上曲率が零であるという場合はそれが零でないという場合と対等の位置にある筈であり、従って前者が後者を基ける原理となるというようなことは零に特殊の意味を与えない限りこれからは出て来ようのないことなのであるから。直線性が原理であるとは曲率が零であるという特殊の場合を意味するのではなくして曲率がないということでなければならぬ。非ユークリッド幾何学に於ては所謂その直線と雖も曲率を持つのであるが、それにも関らず直線は矢張り一義的に他の曲線と区別されるということは直線性が曲率に依存しないということを意味するのではないであろうか。原理としての直線性は凡ゆる幾何学に一貫する原理であると思う。ポアンカレが射影幾何学は直線を予想し直線は計量に基くが故に射影幾何学も量的であるというが(Dernires Penses, p. 58[#「Dernires Penses, p. 58」は底本では「Dernires Penses, p. 58」])、元来射影幾何学に於てはこのような計量に基く直線はない。単なる線で充分である。而もポアンカレをして云わしめたように吾々はこの線を特に曲線と考える理由を持つことは出来ない、即ちなおある意味で線を直線と考えねばならぬ。量的直線と質的直線とが区別されねばならぬ。直線性の原理は正にこの質的直線によって現わされる。射影幾何学は質的なのである。それ故ロッツェの直観空間を立ち入って追求して見れば、直観空間は質的にユークリッド的であると云い得ると思う。そして非ユークリッド性なるものはK≠0という量的な規定なのであるから之は決して質的なユークリッド性とは矛盾するものではないということになるであろう。ヨーナス、コーンのようにユークリッド空間の先験性を主張する時(J. Cohn, Voraussetzungen und Ziele des Erkennens, S. 249)このように質と量とを区別してユークリッド空間は質的に先験的となるというならばそれは一層明らかとなるであろう。カントの空間をユークリッド的と解するならばそれをかかる質的平面性(直線性)と解することが出来る。そしてかく解してのみ吾々は空間の直観の質的な特質を攫(つか)むことが出来るであろう。空間の直観がユークリッド的であることを許しながらもなおそれが非ユークリッド幾何学を基ける可能性を保つことが出来ると思う。それでは次に平面性と結び付いて見える処の空間の有限無限はどうなるか。普通空間に就いて計量Metrik と結合Connexus, situs とを区別する。勿論幾何学の対象の個々のもの即ち空間内の任意の形像に就いてはこのことは疑えない。併し空間そのものの結合だけは其の計量から独立であるとは考えられない。K=0又はK<0の時空間は必ず無限 offen である事が帰結し、K>0の時空間は必ず有限 geschlossen であることが帰結する。即ち空間そのものの結合は実はその計量的規定の帰結に外ならない。それでは空間に於て結合と計量とを区別することは全く無意味であるのか。吾々はリーマンの空間が有限であるという時直観空間に於て球面を表象し之を次の次元に類推することによってリーマンの空間を表象し得たと考えている。併しリーマン空間の平面として表象される球面は既に二次元ではなくして三次元に於てのみ表象されるのであるから三次元のリーマン空間の表象は四次元を必要とするものと云わねばならぬ。併し実際吾々はかかる四次元の表象を持ち得るのではない。唯空間内の球という形像が実はリーマンの空間を意味すると自らに約束し得るに過ぎない。空間そのものをこのようにして空間内の形像として現わすこの約束によって始めて空間の結合なる概念が成立しその限りに於てそれは空間の計量と独立に考えられるに過ぎない。結合の概念を中心とする所謂位置解析は空間そのものの規定を取り扱うのではなくして空間内の形像の規定を取り扱う特殊の幾何学と云わねばならぬ。ロッツェがリーマンの有限なる空間を批難してそれは空間とその内と形像とを混同したものであると云うのであるが(Metaphysik)空間を空間内の形象と表象することはリーマン空間をそのまま表象したものではなくして表象のこの約束によって表象したまでである。之は勿論リーマンの幾何学に対する批難とはならない。併しそれは空間の結合なるものがかの約束によらずしても本質上成り立ち得るかのように考えることの誤謬を指摘していると思う。それ故空間をばその結合によって分類しようとすることは元来不可能なのである。恰もそれが出来るかのように見えるのは結合が実は計量の帰結として即ち計量とは区別されない結合として考えられているために過ぎない。クリフォード面なども一つの空間 Raumform と考えられるかも知れないが、恰も球面がユークリッド空間内のリーマン空間の表現であるように、私は寧ろそれをリーマン空間内に於けるユークリッド空間の表現、その内の一つの形像と考えられるのではないかと思う。空間内の形像の結合を空間そのものの結合と考えてはならない。空間そのものの純粋な即ち計量とは独立であるという意味に於て質的な結合はない。あるものはただ量的結合のみでありそれは要するに計量に外ならない。リーマンが空間の無際限 Unbegrenztheit とその無限 Unendlichkeit とを区別して前者を延長関係とし後者を計量関係とした(Ueber die Hypothesen, welche der Geometrie zugrunde liegen)ように空間の有限無限とは実は空間の結合そのものではなくしてその計量による結合である。空間を offen とか geschlossen とか云い得るのはただ空間をその内の形像に表現する一定の約束によってのみ出来ることである。さて先に私は直観空間が計量を含むことなくしてもユークリッド的であることを明らかにしたのであるから従ってかかる直観空間は独り質的結合の概念を許さぬ許りではなく計量による量的結合を含む必然性をも有たぬものとなる。直観空間の結合なる概念は一般には成立しない。空間はそれ故一般に有限 geschlossen とも無限 offen とも云うことは出来ない。ただリーマンが”eine unbegrenzt ausgedehnte Mannigfaltigkeit“と云うように一般に無際限と考えられるのである。かかる無際限な空間は有限とも無限とも考えられる筈である。吾々の表象する無際限な空間はそのまま有限であるとも考えられる。何となれば彼は質にぞくし此は量にぞくすのであるから(Kerry, System einer Theorie der Grenzbegriffe, S. 88)。カントはその二律背反の一つに、世界が空間に関して(第一批判、プロレゴメナ)又空間それ自身が(プロレゴメナ)有限であるとも無限であるとも云われるのはそれが何れも不当な概念の上に立つからであると云う。それは即ち無限な Prozess の Reihe そのものを悟性に対して与えられたかの如く見るからである。ロッツェの言葉を用いれば空間そのものを空間内の形像と見誤るからである。空間の結合なる概念は始めから成り立たない。カントが指摘した処の「無限な空間」という概念は無限を offen の意味に解する限りカントの云うように成立しないものである。併し之をリーマンの unbegrenzt の意味に解するならば空間は”das unendlich Gegebene“(K. d. r. V. S. 39)として表象されるであろう(カントは勿論 unendlich と unbegrenzt とを同じ意味に用いるのであるが私は両者を通じて新しい意味に於て unendlich と unbegrenzt とに分つ)。さて私は無限と無際限とが混同され易い理由を識っている。恰も曲率がないということがK≠0と矛盾しないにも関らず之と矛盾するK=0に直接に結び付くと考えられるように、無際限は有限を含み得るにも関らず之と相容れない無限に直接に結び付くと考えられる。それ故この意味に於て空間は質的に無限であると云う言葉も許されよう。そして最後に計量幾何学に於てユークリッド空間が無限であることと対応して、質的にもかの質的平面性とこの質的無限性とが結び付く。その必然性は空間の直観そのものの内にあると云うの外はない。かかる意味に於て空間がユークリッド的であるといっても非ユークリッド幾何学にそれが基礎を与え得ないということはそれ故何処からも出て来ないことである。 43261_42029.html(49):  第一批判の dritte Analogie には「凡ゆる実体は空間に於て同時に知覚される限り完全なる相互作用にある」と云われるが、この空間はカント自身特に何の説明も加えていない処から見ると之を私がこれまでカントに於て見出し来た直観空間と解釈するのが自然であるように見える。そうとすればこのような物理的な実体の相互作用の場となる意味に於て物理的な空間は特に直観空間と区別される手懸りがないかのようである。普通云われるようにカントの直観空間を絶対的空間と呼ぶならば今の場合これも物理的な絶対的空間と呼ばれてよいであろう。処が一方カントは凡ゆる絶対的運動の存在を否定し従って一切の物理的空間”empirischer Raum“は相対的であることを主張する。相対的空間と相対的空間とを含むものは又相対的空間でなければならぬ。唯だあり得る一切の相対的空間を終局に於て包むと考えられた理念としてのみ絶対的空間が要請されるにすぎない(Metaphysische Anfangsgrnde der Naturwissenschaft. Phoronomie.)。今もし始めの第三批論の絶対空間と後の理念としての絶対空間とが同一であるならば茲には何の矛盾も起きない筈である。併しその場合には直観空間と考えられた始めの絶対空間が後の物理的な相対的空間にどう関係するかということが直ちに問題となる。吾々は直観空間が如何にして物理的空間となるかの問題に来る。もし又前の絶対空間と後の理念としての絶対空間とが直ちに同一とは考えられないとすれば、物理的空間は絶対的と考えられ又同時に凡ゆる物理的空間は相対的でなければならぬと主張することによって、それは一つの矛盾に陥るように見える。今この矛盾から脱れる道は絶対乃至相対に二つの異った意味を注意することの外にはない。即ち前の物理的空間は直観空間と考えられるという意味に於て絶対的であり後の物理的空間は運動系と考えられるという意味に於て相対的でなければならぬ。併しこの場合にも吾々は物理的空間と考え得るものが如何にして直観空間から運動系の空間となり得るかの問題に来る。それ故何れにしてもカントに於ては物理的空間は直観空間と関係させられることによって始めてその成立の根を与えられるのでなければならぬ。 43261_42029.html(66): ※底本では「”」の二点は右下に、「“」の二点は左上に、置かれています。 43264_42839.html(34): * 私は範疇に就いての「認識論的」と「存在論的」との対語を O. Spann の“Kategorienlehre”から借りた。無論その区別は必ずしもこの人の思想に相当しないかも知れない。 43264_42839.html(35):  繰り返して云えば、認識論的とは主観と客観との対立を予想することそのことである。そして範疇が認識論的であるというのは従ってそれがロゴスから生れるということであった。処がその淵源(Genesis)をロゴスに有つものは「論理的」(logisch)である。かくて認識論的範疇の第一の性質は論理的であることになければならぬ。処が又一般に、論理的であるものは概念か判断か推論かの形に於てなければならぬということを何人も認めなければならない。故に範疇は第二にこの三つのものの何れかの形に於てある筈である。但しこの三つのものが本来どういう関係にあるかという――例えば概念は実は一つの判断であり之が又実は一つの推論でなければならぬというような――論理学的な議論はしばらく別として、今は仮に之を各々独立に考えて置こう。併し中にも重大なのは概念と判断である。であるからして或る範疇が概念乃至判断の形に於てあることを知ることが出来たならば、それが認識論的であることを着想するのが自然である。さてカントは感性と悟性とを、即ち直観と概念とを区別して、恰も時間と空間とが純粋直観(乃至直観形式)であるように、範疇は純粋概念、「純粋悟性概念」であるとする。それは「純粋悟性の本当の基本概念」と考えられる。かくて範疇はまず第一に概念なのである。併し乍ら何物かが概念であると云われる時、そこには区別しなければならない二つのものが意味されていることを私は注意したいと思う。同一ということは一つの概念である。併し云われる如く吾々は同一なるものを見又聴くことは出来るかも知れないが、同一そのものを見又聴くことは出来ない。というのは吾々はこの概念に当体する存在を承認することが普通の意味に於ては不可能なのである。普通の意味に於てというのは、同一とか相似とかいう関係概念が意味する関係は或る意味に於て存在するかも知れない、併し関係の項が存在すると同じ意味に於て存在するのではない、ということである。今茲に可能である二つの場合は、この関係そのものが何の特殊の存在をも有つのではなくその故にこそ夫を概念であると考えるか、或いは又そうではなくして、それが或る特殊の存在を有ち、そしてかく存在する、関係に就いて我々が関係という概念を有つか、二つである。之を一般に範疇に就いて云い改めれば、範疇が概念であると云うのは、範疇が存在ではなくして概念であると云うのか、それとも範疇は存在しているが其の上に吾々がそれに就いて範疇という概念を所有するのであると云うか、のどれかである。今もし後の場合であるならば、たとえ吾々が範疇という概念を用いて思索するにしても――何となれば概念を用いずして思索することは出来ないから――範疇そのものは概念であるのではない。主観がそれを思索すると否とに関らずそれは存在するものであろう。故に約束に従ってそれは存在論的であるのである。之に反してもし前の場合であるならば、関係の項を関係せしめることに於て関係が成り立つと同じく、範疇は範疇されるべきものを範疇する処に成り立つのであるが、範疇そのものが概念であるに反して範疇されるものは存在であることになるから、範疇と範疇されるものとの間に必ず対立がなければならないわけである。処がこれは主観と客観の対立に外ならない。故に約束に従って之は認識論的である。不用意に、範疇が概念であると云う時、それはなお存在論的とも認識論的とも考えられる余地があるわけである(この混雑は恐らく概念が一切のものを自らの内に含み得る能力、云わば平均性 Nivellierung を持っていることから起こるであろう)。さてカントの考えは何れであるのか。明らかに認識論的である。このことは第二にカントの範疇が判断の形に於てあることによって再び証明されるであろう。「範疇は、与えられた直観の多様が夫によって規定される限りに於て、正にこの判断の機能に外ならない」(K. d. r. V. B., S. 143)。処が少くとも此の場合に於ては判断は判断されるものに就いての判断である。客観に対する主観である。故に茲に於ても亦カントの範疇は認識論的でなければならない(概念ということが直ちに認識論的ではないことと同じに又それに類して、判断ということも直ちに認識論的であるのではない。「論理的」ということに就いてもかく云うことが出来る。之は後に明らかとなるであろう)。カントの範疇をかくの如き意味に於て――認識論的という意味に於てである――徹底したものはヴィンデルバントである。彼によれば範疇は、それが判断に於てあろうと概念に於てあろうと、“Formen des beziehenden Denkens”に外ならない。範疇とは「思惟の総合的形式、即ち直観的に与えられた内容が、統一する意識によって互いに結び付けられる関係」と考えられている。それは「意識に於ける多様の総合的統一」から「生れる」のである(Vom System der Kategorien 参照)。であるからそれは思惟にぞくし又意識にぞくし、又それから生れる。処が已に用いた考え方を繰り返せば、この場合では思惟は思惟されるものに就いての思惟であり、意識は意識されるものに就いての意識である外はない。茲に認識論的範疇の最も判明な典型を見逃すことは出来ないであろう。 43264_42839.html(37):  私にとって範疇をば客観にぞくすと考えたかのように思われる処の人々の内、さし当り代表的な二つの場合、即ちハイデッガー(Heidegger, Kategorien- und Bedeutungslehre des Duns Scotus)とラスク(Lask, Die Logik der Philosophie und die Kategorienlehre)とを参照して見よう。前者。ハイデッガーによれば「範疇は対象の最も一般的な規定である」(S. 232)、それは、「実在界」「対象界」にぞくす。即ちもしこの対象が吾々の求めている客観であるならば、範疇は客観に属すこととなるのである。併しながらこの対象は実は客観ではない。何となればもしこの対象が客観であるとすれば、範疇はまず何よりも思惟や判断等に、一般に主観に、属してはならなかった筈である、処がハイデッガーに従えば、それは一方に於て、「思惟の機能」、「思惟の形」であり、範疇の問題は「判断の問題」及び「主観の問題」へ関係せしめられねばその本来の面目を失うて了うからである。故に範疇は今の場合の意味での客観に属すものではない。吾々はただ彼に於て客観の方向への着眼を発見するだけであって、たとえこの着眼に於て範疇の意味が重大な変化を受けていることは明らかであるとしても、それによってはまだ吾々の探求に適わしい事例を発見することは出来ないであろう。後者。ラスクの「領域の範疇」に於ては純粋形相に属す意味の充実(Bedeutungsfulle)は必ず質料界の特殊によって決定されている。処が特殊の質料を指し示す形式が対象性(Gegenstndlichkeit)に外ならない。故に領域の範疇に於ては純粋形象――それは論理的形式一般である――は対象性一般によって決定されているわけである(2 Teil, 2 Kap.)。故にもし人々が範疇という言葉をば単に純粋形相としての論理的形式ばかりではなく、之とは異った意味にまで拡張しなければならないならば――そしてかく拡張されたものが領域の範疇である――範疇とは「対象の形式」でなければならない。かくてラスクに従えば範疇は対象にぞくすこととなる。従って吾々によればそれは又客観にぞくすこととなりそうである。併しながらラスクの対象乃至対象性とは何か。彼によれば「コペルニクス的定立」に従って、対象の領域は又真理の領域でなければならない。対象性とは、たとえそれが純粋形相にぞくすものではないにしても、なお一つの「論理的形式」「最広義に於ける論理的形式」なのである。無論この論理的形式即ち真理は命題とか判断とかに於けるように“geknstelt”な意味を有つのではなくして、正に対象を意味するのであるが、この対象というのが実はとりも直さず理論的な「意味」(theoretischer Sinn)そのものなのである。それ故に範疇は対象にぞくし、そして対象が即ち真理であるとすれば、範疇は真理そのものの内にぞくさなければならない。それは「真理の形式」である。処で今もしこの真理が認識の普遍妥当性を意味するならば――それは認識の非普遍妥当性即ち虚偽と対立している――已にカントに於て明らかにしたことによって、それは主観の構成に過ぎないから吾々の求めている客観ではない。之に反して真理をば認識の普遍妥当性以上のものとすれば、それはそれ自体に於てあり従って主観を超越し故に又吾々の意味する客観であると考える以外の可能性はない。範疇は客観に於て求め得られたこととなる。もし今この後の場合を取るならば、吾々はラスクに於て吾々の要求――客観に於て範疇を求める――を満足出来るわけである。この要求の外に併し吾々にはもう一つの要求があった。それは「主観と客観との対立を仮定しながら」という約束である。而もラスクはこの約束をも果している。何となれば「認識ある限りに於て必ず範疇あり、認識論と範疇論とがある」(Gesammelte Schriften, Bd. , S. 88)、範疇は認識ある処に於て、即ち主観と客観との対立ある処に於て、成り立つものに外ならないからである。ラスクの範疇も亦認識論的である。 43264_42839.html(38):  私はこれまでに認識論的範疇の二つの主な場合をとり出した。即ち主観と客観との対立を仮定した上で、第一に範疇を主観に於て求めたもの――カント従ってヴィンデルバントの場合――と、第二に之を客観に於て求めたもの――ラスクの場合――と。第一の場合は何の困難を含むとも考えられないと思う。処が之に反して第二の場合には一つの困難に気付かなければならない。今或る事柄を客観に於て、又は之に就いて、又は之に属すものとして求めると云う場合、客観という言葉を最も純粋にする時、吾々は一体主観と客観との対立ということを仮定するのが、第一に必要であるか。第二にそれは可能であるか。無論主観に就いては之は必要であり従って、又可能である。主観とは客観との対立に於て始めて許されることである。主観という一つの概念が、概念の一切の対立がそうであるように、客観を予想しなければならないばかりではなく、この概念が表わす処の事柄そのものが(概念がではない)客観との対立に由来するのである。客観なくして主観は概念としても事柄としても許されないことである。処で客観も亦主観と異る理由はないと云うかも知れない。処が併しそれは実は当らない。客観に就いても主観の場合と同じくまず客観なる概念とこの概念が表わす事柄そのものとを峻別する必要があると思う。客観は概念として主観との対立を予想してはいるが、併し他方に於て、事柄としては主観との対立を否定しているのでなければ客観と云うこと自身が不可能である。何となれば客観は主観を超越するという意味がなくては一般に意味がないからである。超越とはそれとの対立の否定でなくして何であるか(私は已に概念ということに就いてもこの論法を用いた。カントの項を見よ)。或る意味に於て、対立ということは超越的なるものと内在的なるものとの対立の外はない。何となれば並存的なものの対立にはすでにこの対立を内に含む一般者が必要であり、かくてこの一般者――それが超越的なるものである――とそれに含まれるもの――それが内在的なるものである――との対立だけが残されるからである。併し重大なことには、この対立は内在的なものから見て始めて対立であるので、超越的なるものから見れば対立の否定そのものである。主観と客観の場合も亦之に外ならない。客観の(又は対象の)超越性を主観から見れば、主客の対立であり、之を客観から見れば、その否定でなければならない。即ち客観をば概念――それは主観の見地である――として見ればそれは主観と対立し、之を事柄――それは客観の事実である――から見れば対立の否定そのものである。云い返せば客観は主観から見れば主客の対立を予想するが、客観そのものから見れば対立を予想する理由が無くなって了う。即ち何物かを客観に於て、又は之に就いて、又は之に属すものと考える時、第一に主客の対立を仮定する必要がないのである。又第二にそれは不可能でもある。何となればもし対立を許すとすれば、それを主観から見ることとなり、従って客観そのものに就いて語ることではなくなるからである。以上のことを逆に云えば要するに主客の対立に於ては本来の客観を語ることが出来ないのである。もしラスクの場合の如きものがあるとすれば、それはこのような本来の客観をば「主観の側から」という一つの条件の下に、即ち「主客の対立」という仮定の下に、投影したものに外ならないであろう。客観という名辞そのものがかかる投影の所産である。客観というものは一つの二律背反を有っている、それは主観と対立しながら且つ之を超越する、即ち之と対立しない。恰も吾々が直観と云う時それは一応は概念でなければならないのにも関らず、本来はこの概念を超越することでなければならないと同じである。ラッセルが提出したかの二律背反――「百字以下の文字によっては定義し得ない処の最小の数」は明らかに存在する。併し又存在しない、何となれば百字以上を以てでなければ定義されないその数が今や二十四字を以て定義されているから、かかる数は矛盾している故であると。恰もこの二律背反が茲にも現われるのである。而もそれは主客の対立に投影しようとするロゴスの業による。所謂「コペルニクス的定立」も超越的なものに対するかくの如き内在的な解釈でなければならない。無論之を虚偽であるというのではない。併しまた直接の真でもない。それは一つの条件一つの仮定の下に立っているからである。そして今やこの条件この仮定が問題にとって不充分なのである。そして更にその不充分な理由は、この条件この仮定が問題に対して見当違いであるためである。同じくこの理由からして、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの『範疇論』に対しても、私は今の問題の発展解決を要求することは出来ないであろう。少くとも“subjektiv ideale Sphre”と“objektiv reale Sphre”との対立を除き去らない限りはそうである。さて以上のことから結果するのは次の事柄である。もしも吾々が客観そのものに範疇を求めることを要求するならば、吾々は主観と客観との対立という伝統を除き去らねばならぬということ。私はこの要求を歴史的に必然なものであると主張しているのではない。寧ろそれは非歴史的なまでに根本的な転倒を伴うかも知れない。併しこの種類のことは今の問題とあまり関係のあることではない。さてこの要求は、主観と客観との対立を除き去ることを要求する。処が最初に決めた通り、この対立を予想する場合が認識論的であり、そうでない場合が存在論的である筈であった。であるから範疇を客観に於て求めるという着眼は、吾々をして認識論的範疇を去って、存在論的範疇へと推し進ませずには置かないわけである。 43264_42839.html(41):  已に最初に明らかにしたように、認識論的な範疇は論理的でなければならない。併しながら逆に論理的なものが凡て認識論的であるのではない。それは存在論的でもあり得る筈である。そして恰もヘーゲルがその一例である。理性的なものは事実的であり又、事実的なものは理性的である、と云うているように、ヘーゲルの範疇はロゴスと事実との同一――始めを見よ――から生れる。それ故これは最初の約束に従えば存在論的範疇の一つの場合である筈であった。さて併しながら存在論的範疇の他の一つの場合もあるのを忘れてはならない。即ちそれが事実から生れる――始めを見よ――という場合である。そしてこの場合には、それはその Genesis に関しては、ロゴスとは全く関係がないからして、論理的であり得ることは出来ない。即ち一般的に云うならば、存在論的範疇は必ずしも論理的ではないのである。処が多くの人々は範疇を一般に論理的、或いは理知的(例えば、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの“Intellektualfunktion”)と考えている。この矛盾はどう解かれるべきであるのか。範疇が論理的であると云う場合には二つの異った理由があると思う。第一は範疇がその Genesis をばロゴスに有つと考えるからである。処が私はそうでない場合にまで範疇を拡張した。であるから茲にあるものは矛盾ではなくして区別であるにすぎない。第二に範疇がロゴスと共に始まると考えるからである。そうすれば無論吾々は之を承認しなければならないであろう。併しながら最初に触れたように、ロゴスと共に始まることとそれから生れることとは全く別である。前者は、あるロゴス以外のものから産れながら而もその産れる場合にロゴスを縁としなければならないということにすぎない。今仮に範疇が事実から生れるとする、即ち範疇とは事実の或る根本的な規定であると仮定する(之は後に明らかとなる)、更に正しく云うならば範疇そのもの――範疇という概念名又は言葉ではない――は事実にぞくすものとする、その時でも吾々はこの範疇をロゴスとして口にすることが出来るのは明らかである。例えば此処に在る物に就いて「此処」として語ることが出来る。そしてかく、範疇そのものを言葉として口にする時、それ以前にではなく、始めて、この範疇そのものに範疇という名が付くのである。けれども範疇と名づけられるべきものがまず在ったのでなければならぬ。であるからして範疇そのものはロゴスにぞくすのではなくして、ただその概念、名、言葉のみがロゴスにぞくす。それは事実にぞくすのであって、ロゴスはただ之に範疇という名を与え得るだけである。範疇がロゴスと共に始まるというのはこのことを指している。その時それは事実にぞくすから、即ちロゴスに生れるのではないから、私の定義した意味で論理的ではない。併しながら無論之を他の意味に於て、即ちロゴスと共に始まるという意味に於て、論理的と呼ぶことは自由である。この後の意味で論理的であることは一切の範疇に就いて始めから承認されていたことである。故に論理的でない処の範疇が示された処で、それは何の矛盾を含むものでもない。一般に云えば存在論的範疇は非論理的である。 43264_42839.html(48):  存在の範疇は何であるか。即ち存在の制約とは何か。それは存在そのものでなければならない。「存在であるということ」自身が夫である。併し存在であるの「ある」は繋辞の is ではない。凡そ繋辞の is は人も云うように、“The truth is that”ということである。然るにこの、という「こと」は、存在論的ではない。何となれば、例えばソクラテスの髪は白かったとすれば、白かったという「こと」は之を或る書籍の内に発見することが出来る、併しソクラテスの髪はその書物のどの頁に於ても白くはない。というのは白かったという「こと」、この dass は、吾々が之を語り考え推測することは出来るが、この語り考え推測するのは、髪が白いのではない。dass はロゴスにぞくしそれと異るものは異るものに属さなければならぬ。故に「こと」は存在論的ではない。故に又「ある」は繋辞ではない。それ故に「存在であるということ」は「存在するということ」なのである。併し存在することの「こと」は今云ったことによって已に存在論的ではない。故に単に「存在する」と云わなければならなくなって来る。私は之を云い表わすのに人々の用いる「存在の仕方」(Seinsweise)という言葉を以てしよう。但しこの場合の「存在」は私が向に約束した処の狭い意味にのみ解釈した上でのことである。さてアリストテレスに従えば存在――それは一般に広い意味に於てであるが――という意味を二つに分けることが出来る。第一は如何なるかの性質の又は何れ程かの量の或いは其の他の述語の「或る物である」ということであり、第二に「何であるか」ということである。処でこの何であるかにも亦色々の意味があるであろうが、第一義に於けるひたすらなる存在そのものは、正にそれに依って以て或るものが存在し得る処のものでなければならない。それは「或るもの」ではなくして「在る」でなければならぬ。之が「実体」である(Metaphysica, Z 1)。処で今吾々が「存在の仕方」を求めるならば、そして仮に存在という言葉の意味を一般に広く解釈すれば、それは「実体」に外ならないこととなるであろう。何となれば前に結果したことによって、吾々の求めているものは「存在する」であったが、この存在を広く解釈すればそれは正にそのままこの「実体」に当て嵌まるからである。実体とは存在の仕方であると云うことが出来る。それでは実体とは、も一歩立入って見ればどんなものであるか。アリストテレスはその解釈の種類に四つの場合を挙げてその尤なるものとして substratum を指定している。それによれば実体とは、他のものがその述語となりそれ自らは他のものの述語となり得ないものを云う(Z. 3)。実体とは論理学的に云うならば常に主語となる処のものに外ならない。実体は一つの併し根本的な――何となれば他のものは之の述語であるから――範疇なのである。併し私はこの実体という範疇――なる程それが存在の仕方を云い表わすことは已に明らかになっているが――それが存在論的範疇であるか或いは又認識論的範疇であるかということを正確に決定しようとは思わない。唯だ併しこの一般的な意味に於ける「存在」の「存在の仕方」としての実体をば、特殊の意味に於ける、即ち私の意味での「存在」へまで限定して見るのが吾々の問題にとって適当であるであろう。無論一般的なものを特殊なものに限定する場合、後者は前者に含まれなかったものを含んで来るから、後者の結果を以て前者の性質を決めることは出来ない。であるからこの限定によって生じた結果をアリストテレスの実体に当て嵌めることは出来ない筈である。念のためこのことを断わっておかなければならない。さて、「存在」に於て「実体」と考えられるものは何か。というのは他のものがその述語となり自らは述語とならないものは「存在」に於て何であるか。「物」がそれである。併し物という言葉も多義であるのであろう。処が吾々は常に「制約」を求めているのである。であるから例えば山であるか樹であるかは物の区別とはならない、それは凡て一種類の物である。故にそれを「物質」(Materie)としての物と云えば一層明らかとなるであろう(カントは Metaphysische Anfangsgrnde der Naturwissenschaft に於て、物質=物=実体と考えている)。かくて物は吾々の求めている「存在の仕方」であるかの如く思われなくてはならない。何となれば「存在の仕方」と思われる物とは、物としてある、物がある、であって、前に繰り返したことによって無論、物としてある「こと」物がある「こと」ではない。物は存在の制約としての存在の仕方であるかの如く見える。併しながらかく云うことは必ずしも当らないことを注意する必要がある。元来物とは一つの特殊を意味する――恰もアリストテレスの実体がそうであるように。而も明らかにそれは存在に於ける一つの特殊である。即ち領域に於ける――何となれば存在をば存在として他と区別するものが領域である筈であったから――一つの特殊である。故にそれは全体に対する部分でなければならない。処が前に述べたことによって範疇は即ち制約は即ち又存在の仕方は、領域の即ち全体の夫でなければならなかった。それ故物は吾々の求めている処の存在の仕方ではない。吾々は全体に就いて之を探ねなくてはならなかったのである。この特殊に対する一般は何か。まず仮に物を何かの意味で存在の仕方であるとしよう。少くとも存在は物としてあるのであるからこの仮定は許される。併しそうしても物は更に「何処」かになければならぬ。何処かにあるということも明らかに一つの存在の仕方でなくてはならない。今此処にあった物が無くなったとする、そうしても物は無くなったとは限らない、存在しなくなったとは限らない。物は今や彼処にあるかも知れない。所謂「場所による変化」――運動が之である。かくて存在は物としてあるばかりではなく、更に場所を占めてあらねばならぬ。場所に於てなければならぬ。物としてある――それは「こと」ではない――というのは場所に於てあること以外の何ものでもないのである。処が場所とは何か。アリストテレスの「何処」という範疇は他のもの即ち「此処」「彼処」等への関係によるのでなければならない。それは一定の位置――位置(Lage)という範疇を云うのではない――である。場処は関係を含まざるを得ない。場処とは、場処に於てある、という関係である。それは空間関係である。処で何人も物が特殊の空間関係であるということを認めなければならない。それ故空間関係一般が特殊――それが物であった――に対する一般であるということに来なければならぬ。今や物と空間関係とが並べられたであろう。物は特殊である故に「存在の仕方」であることが出来なかった、そして正に此の点で空間関係が「存在の仕方」と想像される優先権を有つわけである。さて今や私は空間関係が実際吾々の求めている「存在の仕方」、即ち存在の領域の必要にして充分な制約、であることをば証明しよう。但しその半ばの事柄、「領域の」ということは、それが一般であり全体であるということから、已に証明されているので、残された証明は「必要にして充分な制約」という事柄だけなのである。而も之は直接に証明出来るであろう。存在するというのはまず第一に物として存在するのである。この意味に於て物が存在するのであって物以外のものが存在するのではない。併し物として存在するためには、即ち物が存在するためには、場処に於て存在しなければならぬ、即ち物が場処に存在しなければならない。場処に於てなければ物としてはあり能わぬ。場処に於て無いものは例えば観念として存在するであろう。併し観念の存在は私の意味での存在ではない。故に場処に於て存在するというのは物として存在するの必要な条件である。即ち存在の必要な条件である。次に又それは充分な条件ででもある。何となれば場処に於て存在するのは物以外の何物でもない。もし物としてなければ場処に於てもない。場処に於て存在すれば、それは物として存在するのである。それは充分な条件である。故に場処に於てある――それが空間関係である――のは、存在の必要にして且つ充分な条件でなければならぬ。吾々は之に依って始めて、物が空間関係という状態――例えば隔っている、続いている、運動している、静止している等――を云々する理由を有つことが出来るのである。故に最後に吾々の求めていた存在の仕方は正に空間関係である。私は空間関係を簡単に空間と名づけよう。そうすれば空間こそ「存在の範疇」である。 43264_42839.html(78):  私は約束の問題に引き返そう。空間が「内容」(Qualitt)を持つということへ。それを持たねばならぬということはすでに存在論的範疇の性質から演繹されてある。問題は何がその内容であるかである。併しまず内容という概念に就いて断わっておかねばならぬのは、私が前からそう呼んでいるのは或る特殊の立場や格別な研究から来る結果として用いられる術語ではないという事である(術語としての内容は例えば対象とか客観とかから複雑に区別されるであろう)。そうではなくしてそれは最も広い意味に於ての形式に対する内容なのである。又それを Qualitt という言葉と相即したのは、今の問題――空間の問題――にあっては、或る他の一般的な事情からそう呼ばれているものの内に、恰も今の「内容」が適々(たまたま)含まれて来るであろうと思われるからである。普通に範疇――認識論的範疇――は今の意味で無内容と考えられる。例えば概念は形式的(無内容)であるが実在や観念には内容があると云う言葉が許される時――そして内容という概念を適当に撰べばこの区別は必ず許されるであろう――その意味に於て範疇は普通無内容と考えられる。範疇とは多くの場合、内容的な例えば実在や観念やが通用しなくなると思われる時それの代りに導き入れられた言葉であるであろう。所が存在論的範疇は之に反して正にこの意味に於ての内容を持っていなければならなかったのである。そこで空間も亦内容を有っている筈である。さて何がその内容であるか。私は空間概念の向のディアレクティークを再び思い起こす。空間を客観的であると謂うならばやがて空間は客観的ではないと謂われなければならなくなる、と。それは空間にもし客観という概念を許すとすれば主観という概念をも許さなければならないからであった。そしてそれは又空間が主観と客観とを共に同時に可能にするからであった。即ちこの矛盾を止揚するのは空間が主客の対立を可能にするというジュンテーゼである。処で一般に主客の対立を可能ならしめるものは或る意味に於て主観でもありそれと同時に必ず又客観でもあり得るのでなければならない。であるからそれを主観又は客観から出発して特徴づければ主客の合一でなくてはならない。無論始めに合一がありそれによって始めてそれが特に主客の合一と考えられるのであるから、このようにして特徴づけるのは不充分である、と云うならば、そうとすればまず或る直接なものがありそれが主観と客観とに分化すると云い改めてもよい。何れにしても主客の対立を可能ならしめるものはかくなくてはならない。人々は之を普通「直観」と呼ぶ。私は用語の争いを避けるために、以上の特徴を有つものを改めて一般に「直観」と定義してよいであろう。そう定義するとすれば向のディアレクティークのジュンテーゼとしての空間も亦「直観」であることとなる。空間が存在論的範疇であると云うだけの場合には、即ちそのように形式的に云い表わされただけの場合には、それが直観であるという事情はまだ顕われない。併しこの存在論的範疇としての空間の事情そのものを分析して行く時、それが実は又直観であるという新しい言葉を要求するだけの新しい事情が浮び出て来るのである。この新しい事情の浮び出て来ることの出来るということが、正に存在論的範疇が内容を有つと云われる理由に外ならない。「内容」は「直観」である(どう考えても認識論的範疇でなければならない処の例えば自同の範疇からは、たとえそれをどう分析しても今の意味での内容は浮び出ないであろう)。かくして形式的には単に存在論的範疇と名づけられていた空間は、内容的には直観でなければならない*。次に何故に空間のこの内容を Qualitt と呼んだかは一つの他の事情から来ると云った。それは例えば Ehrenfels が一般に形態内容(Gestaltqualitten)は“positive Vorstellungsinhalte”であると云った言葉の上からも一応理解出来るであろう。或る人々は空間の形態を無内容な形式と考えるが、それが形態に固有な性質(Qualitt)を有つことによってもはや単に形式ではなくして――全く形式ではないと云うのとは違う――又今私の云う意味での「内容」でなければならぬ、と他の人々は考える。そして後者の人々はこのような形態はそれ自身で直接性――他のものから導来されないという意味に於て――を持ちそれが固有な感覚乃至知覚であると主張する(例えば K. Bhler, Die Gestaltwahrnehmungen, Bd. , S. 17 u. a. O.)。処で私が存在論的範疇としての空間は内容として直観であると云う時、それは心理学によってこのような心理的現象と見做されるもの――それが終局に於て心理的であるのか無いのか私自身はまだ何処にも決めていない――に対する、一つの哲学的な解釈に相当すると云うことが出来る。それ故私は Qualitt という言葉を心理学から借りて「内容」という言葉に多少の方向に与えてよいと考えたのである。 43266_35637.html(91):  概念は、その性格は、歴史社会的存在を持つと云った。けれども、それは単なる事実としては与えられていない。吾々はそれを発見しなければならない筈であった。それ故吾々の分析は必ずしも ”streng“ であることは出来ないであろう。ディルタイの言葉を借りるならば、論証的ではなくして、それは divinatorisch であるとも云うべきである。併しながらこのことは概念の分析の学問性を奪うことは出来ない。何となれば、かかる場合に於て学問性を保証するものこそ、元来分析という概念ではないのか、――分析とは内容なき反覆ではなくして源泉からの分析であった。学問的とは方法的のことであり、方法的とは分析的のことである。そして分析的のみが理論的であり得る。 43266_35637.html(94): * スコットランド学派の常識哲学はそれ故、常識の知識としての独立を主張することによってのみ成立する――“sound”common-sense. 43266_35637.html(108): *** 空間概念の分析が「空間の演繹」と正反対であることをこの機会に注意して置こう。後者の代表者は ”geistreich“ なるシェリングである、彼は空間(それは又物質である)を物理的諸力から構成した。処がかかる構成こそは分析の正反対である。 43266_35637.html(143):  空間概念の事態のこの分析を、強いて既成の知識に結び付けるならば、之はあたかも”Ontologie des Raumes“と呼ばれるべきであるかも知れない。というのはこの分析は空間概念の事態に於ける不変にして一般的なる「本質」の分析であると思われる一面を有ち、そしてその限り「形相論」、従って又 Ontologie の名に値いするからである*。けれども何故に「強いて」であるか。問題の成立と方向とを異にしているからである。吾々の得た処は成程、決して多様にして変化極りない「事実」の展開ではなくして、その事実に於て見られたる本質、――自由なる変更に於て残留する処の本質――であるには相異ない。その限り之は「本質論」であると云っても不都合はない筈である。併しながら吾々の今の分析が如何にして要求されたかと云えば、それは空間概念の分析の一つの段階として始めて成り立つ理由を与えられたのであった。この空間の「形相論」は常に始めから空間概念に制約されている、この分析は常に空間概念の性格と動機に従って遂行された。それ故この場合の本質=形相は単なる夫ではなくして概念に制約された本質=形相でなければならない。であるから例えばこの概念が吾々の発見しようとして来た処の概念とは異った概念として発見されるならば――何となれば概念は与えられてはなくして発見される筈のものであったから――、これ等の形相が指摘される代りに他の形相が見出されるかも知れない。そうすれば延長ではなくして例えば同時存在の順序が空間の根本的規定として挙げられるかも知れない(ライプニツに於てのように)。このようにして茲に発見された本質は一応不変性を有つものと考えられるにも拘らず、それが発見される過程に於て、その仕方に於て、決して一定不変であることを保証されてはいない。こう云った処で、吾々の得た結果がどのような風にでも考え替えることが出来るというのではない。ただそのような考え替えることの出来ないような結果も、その考えを制約する処の過程によって制限されていると云うまでである。処が又この過程自身も、吾々の採用して来た処のものが、勝手に他の仕方と差し替えが出来るというのではない。吾々の採った仕方を無論吾々は唯一のものと信じているのでなければならない。ただ或る人々がこれとは異った仕方を採用しないとも限らないという可能性を承認するに過ぎない。而もこの可能性を承認することによって、吾々の仕方と他の人々の仕方とを共通の地盤の上に立て、その上で対決を迫ろうと欲するに外ならないのである。それ故得られるものが本質的であるということと、それを得る仕方も亦本質的であるということとは、今の場合一つに考えることの出来ない理由がある。もし之を一つと考えること―― Wesensschau のように――が「本質論」の欠くことの出来ない条件であるとすれば、吾々の分析はその成立に於て「本質論」と区別されなければならない。尚また成立に於て異るばかりでなく、その方向に於ても二つを同一と考える理由を吾々は有たない。「本質論」――「形相論」、「本体論」――は、「現象論」に対し、之に向うている。処が吾々の空間概念の事態の分析は、現象論ではない処の何物かに向っているのであるから。 43266_35637.html(160): * Meinong, ber Gegenstandstheorie(”in Abhandlungen …“)S. 492-3. 43266_35637.html(224): ※底本では、「”streng“」「”geistreich“」「”Ontologie des Raumes“」「”in Abhandlungen …“」の「”」のダブル引用符は字面の左下に、「“」のダブル引用符は字面の右上に、置かれています。 43422_23927.html(44):  御推察通り、房枝の生活には何の変哲も見られませんでした。其処で私は第二段の予定行動として、当夜の敵娼(あいかた)の言を頼り、毎夜終演迄の三十分間を、――浅草の寿座の楽屋裏に身を潜める事に致しました。即ち、偶には妻の方から誘いに出張る事もあろうと推察し、逢曳の現行犯を捉える可く企らんだ訳であります。其の月の寿座には御承知のクリエータア・ダンデイ・フオリイズ・レヴュウ団が公演され、相当の観客を呼んで居りました。劇場正面に飾られた“CREATER DANDY FOLLIES”のネオンサインが浅草の人気を独占して居たかの様であります。房枝の情夫が女形であると言うのは寔(まこと)に解せない話であります。何故ならば此のレヴュウ団は、ドラマとしてよりもスペクタクルとしての絢爛華麗な効果を狙った見世物(ショウ)を上演する団体であって、美男俳優やギャッグ専門の喜劇役者を始めそれぞれ一流の歌姫や踊児などを多数専属せしめ、絶対に女形を必要とする様なレベルトアールは組まないからで有ります。其処で私は、女形と云うのをあの夜の女の思い違いであると断定し、大勢の男優達の中から、房枝の情夫と考えて最も可能性のある美男のジャズ・シンガア三村千代三(みむらちよぞう)を選び出しました。と云うのも、彼が最も柄の小さく平素一見して女形の如き服装をして居る点を考えたからであります。御承知の通り、寿座の楽屋口は隣接の曙館(あけぼのかん)の薄暗い塀に面して居りまして、斜(はす)かいに三好野(みよしの)の暖簾(のれん)が向い合いに垂れて居ります。或る晩は泥酔者を粧い曙館の塀に蹲(うずくま)ったり、或る晩は向いの三好野に喰い度くも無い汁粉の椀などを前に置いて、絶えず楽屋に出入する女に注視の眼を見張ったり、――斯う云う無為の夜が三日許り続きまして、遂に最後の夜、二月末の生暖い早くも春の前兆を想わせる無風の一夜――人眼を憚りつつ楽屋口に現われた妻房枝の、換言すればおふささんの紛(まご)う無き姿を発見する事が出来たのであります。…… 43430_24877.html(26):  洋次郎は、銀座の裏通りにある“ツリカゴ”という、小さい喫茶店が気に入って、何時(いつ)からとはなく、そこの常連みたいになっていた。と、いってもわざわざ行く程でもないが出歩くのが好きな洋次郎は、ツイ便利な銀座へ毎日のように行き、行けば必ず“ツリカゴ”に寄るといった風であった。 43430_24877.html(27): “ツリカゴ”は小さい家だったけれど、中は皆ボックスばかりで、どのテーブルも真黒などっしりしたものであり、又客の尠い為でもあろうか、幾ら長く居ても、少しも厭な顔を見ないで済むのが、殊更に、気に入ってしまったのだ。 43430_24877.html(29):  そうして何時か黄昏(たそがれ)の迫った遽(あわただ)しい街に出ると、周囲のでかでかしいネオンサインの中に“ツリカゴ”と淡く浮くちっぽけなネオンを、いじらしくさえ思うのであった。 43430_24877.html(30):  そうして今日まで交(かよ)う中、洋次郎は図らずも今この“ツリカゴ”の中で、一人の見知らぬ男に話しかけられた。その男は洋次郎よりも古くから、店の常連らしく、そういえば彼が始めてここに来た時に、既に何処かのボックスで、一人ぽつねんと何か考え事をしていたこの男の姿が、うっすらと眼の底に浮ぶのであった。 43532_16823.html(15): 43532_16823.html(28):  本書の中に、「“虫喰ひ算”大會」の會場が、第一會場から始まつて第三十會場まである。われと思はん方は御遠慮なく、第一會場から出發して、智惠だめし根だめしをなされたい。 43532_16823.html(31):  但し學といつても、頭の芯がじーんと痛くなり、苦しみの外に何にもないといふやうな詰らないものではない。「虫喰ひ算」は非常に面白く樂しいもので、一旦これで遊んだものは終生「虫喰ひ算」のうれしい味を忘れ得ないであらう。私も二十年來これを愛好し、時にはこれを探偵小説に組立てて書いたこともあつた(海野十三作“暗號數字”)。 43532_16823.html(33):  この兩方をひつくるめて、ここに「“虫喰ひ算”大會」を開いてあるが、會場の初めの方はやさしいが、だんだん後の方の會場となるとむつかしくなる。その代り「虫喰ひ算」の魅力はだんだんに強く加はり、最後の第三十會場までが殘り少くなるのが惜しまれるやうになるであらう。第一會場を合格すれば第一階選士と名乘る。が、第三十階選士となるには、とてもたいへん[#「たいへん」は底本では「たへいん」]である。 43532_16823.html(38): F.C.Boon,“Puzzle Papers in Arithmetic” 43532_16823.html(39): G.C.Barnard,“An Elementary Puzzle Arithmetic” 43532_16823.html(40): F.F.Potter and F.C.Rice,“Common Sense Arithmetic” 43532_16823.html(41): H.E.Dudeney,“Modern Puzzles” 43532_16823.html(42): A.S.E.Ackermann,“Scientific Paradoxes and Problems” 43532_16823.html(64):  そこで本書の“虫喰ひ算”大會の設計に當つても、やさしいものとむつかしいものとを交ぜて四題ぐらゐを一會場とすることとした。 43532_16823.html(478):     四 “虫喰ひ算”大會について 43532_16823.html(480):  いよいよこれから「“虫喰ひ算”大會」を開催する。第一會場から第三十會場まである。一會場につき、いづれも四題ぐらゐづつが掲げてある。じつくりとぶつかつて、推理の力により答を出して頂きたい。 43532_16823.html(488):  では會場を開きますぞ。さあさあ世界にめづらしい「“虫喰ひ算”大會」の會場は、こちらが出發點でございます。自信と興味のある方は、どんどんこの門から御入場なされませい。どうぞ、お先へ、お先へ……。 43532_16823.html(495):         “虫喰ひ算”大會 第一會場 43532_16823.html(497):  さあ、こちらが第一會場です。“虫喰ひ算”大會の出發點です。加へ算、引き算、掛け算、割り算と全部揃つてゐます。 43532_16823.html(544):         “虫喰ひ算”大會 第二會場 43532_16823.html(595):         “虫喰ひ算”大會 第三會場 43532_16823.html(653):         “虫喰ひ算”大會 第四會場 43532_16823.html(708):         “虫喰ひ算”大會 第五會場 43532_16823.html(713): (4)は? “この計算は間違ひぢやないかなあ、三桁の數をかけてあるのに、計算は二桁しか出てをらんぞ”と、誰方か喚いてゐますが、やれやれお氣の毒。 43532_16823.html(765):         “虫喰ひ算”大會 第六會場 43532_16823.html(815):         “虫喰ひ算”大會 第七會場 43532_16823.html(875):         “虫喰ひ算”大會 第八會場 43532_16823.html(942):         “虫喰ひ算”大會 第九會場 43532_16823.html(997):         “虫喰ひ算”大會 第十會場 43532_16823.html(1052):         “虫喰ひ算”大會 第十一會場 43532_16823.html(1055):  ブーン先生の“虫喰ひ算集”は、なかなか數も多く、傑作も集つてをり、私は最も尊敬してをります。先生はこの虫喰ひ算を生徒に與へて、大へん樂しく算數を勉強させました。ところが生徒は、これが縁となり、虫喰ひ算がすつかり氣に入つてしまひ、遂には先生と一緒に問題を考へ出すまでになりました。さういふ生徒さんの作つた問題が、會場の方々に陳列されてゐます。 43532_16823.html(1112):         “虫喰ひ算”大會 第十二會場 43532_16823.html(1174):         “虫喰ひ算”大會 第十三會場 43532_16823.html(1233):         “虫喰ひ算”大會 第十四會場 43532_16823.html(1292):         “虫喰ひ算”大會 第十五會場 43532_16823.html(1350):         “虫喰ひ算”大會 第十六會場 43532_16823.html(1407):         “虫喰ひ算”大會 第十七會場 43532_16823.html(1410):  前の會場で、貴下は“第十六階選士にもなるとどうも問題が物足りなくてね”といはれた由。 43532_16823.html(1471):         “虫喰ひ算”大會 第十八會場 43532_16823.html(1474):  わが國に於いて“數學パヅル”研究の最も熱心なる仁は、大阪に居住される藤村幸三郎氏です。このパヅルの神樣は、古くからこのことに掛り、そしてそれに關する著書も斷然多く、私の記臆するところだけでも三四册あり、その上にこの數學パヅルを應用したゲームの考案もいろいろとあつて市販されてゐます。殊に「立體將棋」は傑作中の傑作で、木村名人を大いに呻らせたと申します。 43532_16823.html(1536):         “虫喰ひ算”大會 第十九會場 43532_16823.html(1596):         “虫喰ひ算”大會 第二十會場 43532_16823.html(1670):         “虫喰ひ算”大會 第二十一會場 43532_16823.html(1733):         “虫喰ひ算”大會 第二十二會場 43532_16823.html(1797):         “虫喰ひ算”大會 第二十三會場 43532_16823.html(1800):  第一は“カンタベリー パヅルと、その他の珍らしい問題”。次は“算術遊び”。この本は非常に有名で、日本の雜誌などに使はれた數學パヅルの種本であります。原名は Amusements in Mathematics です(もしもし、これは覆面算の問題ではありません。鉛筆をおなめになるに及びません)。第三は、 The World's Best Word Puzzles。それから第四は本書の序文に出してある“最新のパヅルとその解き方”です。 43532_16823.html(1857):         “虫喰ひ算”大會 第二十四會場 43532_16823.html(1862):  ブーン先生の名著“パヅル ペーパーズ イン アリスメチック”は本當に愛すべき書物でありますが、その卷頭に於ける例題の「解き方」の解説が間違つてゐるのは御愛嬌であります(その書第九頁)。 43532_16823.html(1916):         “虫喰ひ算”大會 第二十五會場 43532_16823.html(1969):         “虫喰ひ算”大會 第二十六會場 43532_16823.html(2029):         “虫喰ひ算”大會 第二十七會場 43532_16823.html(2089):         “虫喰ひ算”大會 第二十八會場 43532_16823.html(2175):         “虫喰ひ算”大會 第二十九會場 43532_16823.html(2236):         “虫喰ひ算”大會 第三十會場 43532_16823.html(2307): 底本:「“虫喰ひ算”大會」力書房 43533_16824.html(15): 43533_16824.html(29):  本書の中に、「“虫喰い算”大会」の会場が、第一会場から始まって第三十会場まである。われと思わん方は御遠慮なく、第一会場から出発して、智慧だめし、根だめしをなされたい。 43533_16824.html(34):  この両方をひっくるめて、ここに「“虫喰い算”大会」を開いてあるが、会場の初めの方はやさしいが、だんだん後の方の会場となるとむずかしくなる。その代り「虫喰い算」の魅力はだんだんに強く加わり、最後の第三十会場までが残り少くなるのが惜しまれるようになるであろう。第一会場を合格すれば第一階選士と名乗る。が、第三十階選士となるには、とてもたいへんである。 43533_16824.html(39): F.C.Boon,“Puzzle Papers in Arithmetic” 43533_16824.html(40): G.C.Barnard,“An Elementary Puzzle Arithmetic” 43533_16824.html(41): F.F.Potter and F.C.Rice,“Common Sense Arithmetic” 43533_16824.html(42): H.E.Dudeney,“Modern Puzzles” 43533_16824.html(43): A.S.E.Ackermann,“Scientific Paradoxes and Problems” 43533_16824.html(61):  そこで本書の“虫喰い算”大会の設計に当っても、やさしいものとむつかしいものとを交ぜて四題ぐらいを一会場とすることとした。 43533_16824.html(475):   4 “虫喰い算”大会について 43533_16824.html(478):  いよいよこれから「“虫喰い算”大会」を開催する。第一会場から第三十会場まである。一会場につき、いずれも四題ぐらいずつが掲げてある。じっくりとぶつかって、推理の力により答を出して頂きたい。 43533_16824.html(486):  では会場を開きますぞ。さあさあ世界にめずらしい「“虫喰い算”大会」の会場は、こちらが出発点でございます。自信と興味のある方は、どんどんこの門から御入場なされませい。どうぞ、お先へ、お先へ……。 43533_16824.html(489):   “虫喰い算”大会 第一会場 43533_16824.html(492):  さあ、こちらが第一会場です。“虫喰い算”大会の出発点です。加え算、引き算、掛け算、割り算と全部揃っています。 43533_16824.html(537):   “虫喰い算”大会 第二会場 43533_16824.html(587):   “虫喰い算”大会 第三会場 43533_16824.html(640):   “虫喰い算”大会 第四会場 43533_16824.html(695):   “虫喰い算”大会 第五会場 43533_16824.html(701): (4)は?“この計算は間違いじゃないかなあ、三桁の数をかけてあるのに、計算は二桁しか出ておらんぞ”と、誰方か喚(わめ)いていますが、やれやれお気の毒。 43533_16824.html(750):   “虫喰い算”大会 第六会場 43533_16824.html(801):   “虫喰い算”大会 第七会場 43533_16824.html(860):   “虫喰い算”大会 第八会場 43533_16824.html(924):   “虫喰い算”大会 第九会場 43533_16824.html(980):   “虫喰い算”大会 第十会場 43533_16824.html(1036):   “虫喰い算”大会 第十一会場 43533_16824.html(1040):  ブーン先生の“虫喰い算集”は、なかなか数も多く、傑作も集っており、私は最も尊敬しております。先生はこの虫喰い算を生徒に与えて、大変楽しく算数を勉強させました。ところが生徒は、これが縁となり、虫喰い算がすっかり気に入ってしまい、遂には先生と一緒に問題を考え出すまでになりました。そういう生徒さんの作った問題が、会場の方々に陳列されています。 43533_16824.html(1097):   “虫喰い算”大会 第十二会場 43533_16824.html(1160):   “虫喰い算”大会 第十三会場 43533_16824.html(1220):   “虫喰い算”大会 第十四会場 43533_16824.html(1280):   “虫喰い算”大会 第十五会場 43533_16824.html(1336):   “虫喰い算”大会 第十六会場 43533_16824.html(1388):   “虫喰い算”大会 第十七会場 43533_16824.html(1392):  前の会場で、貴下は“第十六階選士にもなるとどうも問題が物足りなくてね”といわれた由。 43533_16824.html(1451):   “虫喰い算”大会 第十八会場 43533_16824.html(1455):  わが国に於いて“数学パズル”研究の最も熱心なる仁は、大阪に居住される藤村幸三郎氏です。このパズルの神様は、古くからこのことに掛り、そしてそれに関する著書も断然多く、私の記憶するところだけでも三四冊あり、その上にこの数学パズルを応用したゲームの考案もいろいろとあって市販されています。殊に『立体将棋』は傑作中の傑作で、木村名人を大いに呻らせたと申します。 43533_16824.html(1510):   “虫喰い算”大会 第十九会場 43533_16824.html(1571):   “虫喰い算”大会 第二十会場 43533_16824.html(1646):   “虫喰い算”大会 第二十一会場 43533_16824.html(1708):   “虫喰い算”大会 第二十二会場 43533_16824.html(1771):   “虫喰い算”大会 第二十三会場 43533_16824.html(1832):   “虫喰い算”大会 第二十四会場 43533_16824.html(1892):   “虫喰い算”大会 第二十五会場 43533_16824.html(1948):   “虫喰い算”大会 第二十六会場 43533_16824.html(2005):   “虫喰い算”大会 第二十七会場 43533_16824.html(2066):   “虫喰い算”大会 第二十八会場 43533_16824.html(2148):   “虫喰い算”大会 第二十九会場 43533_16824.html(2208):   “虫喰い算”大会 第三十会場 43533_16824.html(2282): 初出:「“虫喰ひ算”大會」力書房 43598_38389.html(312): トロフィーモフ 汽車のなかでも、どっかの百姓婆(ばあ)さんに、“ねえ、禿(は)げの旦那(だんな)”って言われました。 4363_8029.html(198):  狡猾な微笑で全身を装飾した宝石売り――独逸(ドイツ)高熱化学会社製の色硝子(ガラス)の小片を、彼らは「たくさん安いよ」の日本語とともに突きつけて止まない――と、二、三間(げん)さきからお低頭(じぎ)をしながら接近して来る手相見の老人――「往年倫敦(ロンドン)タイムス紙上に紹介されて全世界の問題となれる科学的手相学の予言者バガト・パスチエラ博士その人」と印刷した紙を、証明のため額に入れて提げている――と、絵葉書屋と両替人――これは英語で、人の顔を見次第、「両替は(チェンジ・モネ)? 旦那(マスタア)」とか「長官(ガヴァナア)」とか「大佐(カアネ)」とか、対者の人品年齢服装で呼びかけの言葉を使い別けする――と、埃及(エジプト)模様の壁掛け行商人と出張煙草屋と、そうしてふたたび、宝石売りと、手相見と、絵葉書屋と両替人と、壁かけ行商人と出張煙草商と、これらはどこにでも気ながに潜伏していて、甲板上のあらゆる意表外の物蔭から、砂漠の突風のごとく自在に現れて各自その商行為を強要する。奇襲された船客は逃げながらも楽しそうである。“No ! No thankyou,”「のん・めあし・ぱぶそあん――。」 4363_8029.html(254): “Thisway monsieur colonel !” 4363_8029.html(255): “Here you are,anata―anata !” 43657_31779.html(34):  然し茲に Bohr の力量を示す機會が來た.それは Christiansen が自分の講義に關聯して,1905年に丁抹の學士院をして物理學の懸賞論文を募集させた事である.其の題目は“Rayleigh の液體 jet の定常振動の理論を用ひて表面張力を測定”せよといふのであつた.Bohr は此の問題に着手し,自宅(官舍)にあつた嚴父の實驗室で實驗を行つた.此實驗は一度始めると終る迄は止められなかつたので,夜おそく迄も續けなくてはならなかつたといふことである. 43657_31779.html(38):  かくて1909年には magister(學士)となり,1911年には“金屬の電子論”なる論文を提出して理學博士の學位を得た.此論文は丁抹語で書かれ他に發表されて居ないが,其内容は古典的電子論即ち Lorentz の電子論の見地よりして,金屬の諸性質を最も一般的に導き出さうと試みたものであつた.此論文に於ても其異常な天分がよく表はれて居り,殊に統計力學に堪能なことが解る.そして其結論としては,古典論的電子論の見地よりしては,物質の磁性は説明し得られないといふ事であつた. 43657_31779.html(46): “To me Rutherford was not only the great master but a fatherly friend such as I shall hardly find in life any more.” 43657_31779.html(89):  それは Heisenberg の量子力學の發見によつて始まつた.此着想は1925年の春 Heisenberg が病を避けるため Heligoland の島に居た時得たものである.そして島から下りて來る途中 Hamburg に居た Pauli に此話をした所が,Pauli は直ぐ贊意を表したので之を書いて雜誌 Zeitschrift fr Physik に送つた.之が所謂 Pauli の“裁許”(sanction)の一例である. 43657_31779.html(96):  不確定性原理に從へば,正規共軛の二つの量の一方を非常に正確に求める實驗を行ふと,他方の量は全く解らなくなつて了ふ.かやうに量子論に於ては半面的の事態が至る所に存在して居る.Bohr はこれを相補性(Complementarity)と名付け,量子論のことを相補性理論と唱へて居る.これは相對性理論に對應する名前である.以上のことで解るやうに,量子論の領域に於ては,觀測の仕方によつて現象が規定せられる.觀測に無關係に實在する現象はない.これはよく言はれる“物は觀方による”といふ言葉で表はして好いであらう. 43657_31779.html(130):  尚 Bohr はベルギーの Solvay 會議の會長であつて,此處でも同樣に新しい問題が討議せられる.嘗て不確定性原理が論ぜられた時などは,Einstein と Bohr との間に深更に至る迄興味ある討論が行はれたといふことである.Einstein は前から今日の量子論に反對の意見をもち,先年 Podolsky,Rosen と共著で“量子論は物理學的實在を完全に記述し得るや”といふ論文を出して,否定的の囘答を與へて居る.Bohr はこれに反駁の論文 (60) を發表したが,要するにこれは Einstein の誤解である. 43657_31779.html(264): 56. Atomic Stability and Conservation Laws. Fondazione A. Volta, atti dei convegni 1.“Convegno di fisica nucleare, Ottobre 1931”, Roma. 43657_31779.html(275): 61. Zeeman Effect and Theory of Atomic Constitution,“Zeeman Verhandelingen.”Haag, 131~134. 4365_8008.html(292): “So this is Moscow, the city of hidden hopes and treasured secrecy !” 4365_8008.html(356):    “Ville de Lige” 4366_8010.html(241):  英京ろんどん――その age old な権威ある凝結のなかに、低いビルデングと国家的記念像・電車とGENERALの二階つき乗合自動車・市民と市民の靴、これらすべてが現実に地球の引力を意識して、おのおのその完成せる社会制度上の持場にしたがい、感心なほど静止したり這(は)いまわったりしている。ここでは、何もかもが「完成せる社会制度上の定律」によって、工場の調べ革のように滑(なめら)かに運転するのだ。銀行の小使は、銀行の小使としての社会的地位とその役目(ファンクション)を知る事において「紳士」であり、犬は、犬としての社会的地位とその役目(ファンクション)を知る知らないによって「紳士」もしくは「淑女」の犬か、そうでない「普通(コンモン)の犬」かが別れ、時計がとまっても犬が走っても、議会と商業会議所と新聞と牧師は即座に結束して起(た)ち、決議をもって want-to-know-the-reason-why するであろう。だからストランドには、どこまで往(い)ってもおたがいに全然無関係な散歩者の列が、排他的に散歩のために散歩し、ピカデリイでは、芝居の切符を買う人が人道に椅子を据えて夕刊とたばこと相互の無言とで何時間でも待ちつくし、街角の酒場(パブ)、歴史的に権威ある“Ye Old White Horse”のまえには、いつもロイド・ジョウジを汚くしたような老失業者と、バルフォア卿にそっくりの非番のバス運転手とが、ひねもす政党政治と競馬との紳士的討論にふけっているに相違ない。そしてハイド公園の権威ある芝生では、やっとのことで「淑女」の売子嬢を伴(つ)れ出してきた「紳士」の番頭が、四、五年まえに紐育(ニューヨーク)で流行(はや)った made in U.S.A. の駄じゃれ(ワイズ・クラック)を、いったいいつ口に出して彼女の尊敬を買ったものかと、そのもっとも効果的な瞬間を狙っている最中だろうし、権威あるタキシは絹高帽(シルクハット)と鳥の羽の団扇(うちわ)を積んでいかにも思慮ぶかく走り、トラファルガア広場では紳士的な社会主義者が鳩と空気と落葉にむかって対印度(インド)政策の欠陥を指摘し、とうの昔に日本で封切りされた映画に紳士淑女の礼装がいならび――これを要するにあらゆる感激・突発・殺倒・異常・躍動・偶然を極度に排斥して、ただそこにあるのは、牡蠣(かき)――生死を問わず――の保持する冷静・ホテル支配人の常識・非芸術的な整頓・着実な平凡・十年一日除幕式のように順序立った日常・節度と礼譲・一歩も社交を出ない紳士淑女のむれ・権威ある退屈――何世紀かにわたる商業と冒険と植民とが、いまこの海賊の子孫たちに、速度(スピイド)と薬味(スパイス)と火花(スパアクル)の欠けたさくぜんたる近代生活を、単に経営のため経営として強いているのを見る。何たる個人的感情の枯れた(インディファレント)「紳士的現象」であろう! UOGH! なんという無関心な、かなしいまでに実際的過ぎる社会図であろう! 紳士と淑女に「調子はずれ」と「若い愚かさ」と「夢中になる経験」を予期出来ないのは当然だ。が、個性のはっきりしない表情に歴史と領土による尊厳を作為して、あまりにも一糸みだれない毎日を、何らの懐疑も反逆もなしに受け入れている敬愛する英吉利(イギリス)人の道徳律(モラリティ)を呼吸していると、私は正確に、死期を逸した陰険な老猫を聯想する。親切と誇示癖と利用本能。何があっても昂奮する神経を持ちあわさない倫敦(ロンドン)人。その鈍いおちつき、救われないひとりよがり――AH! 私のろんどんは瑕(きず)だらけな緩動映画(スロウ・モウション)の、しかもやり切れない長尺物だ。テンポのおそい荘重なJAZZ――この滑稽な矛盾こそは現代の英吉利だ!――銅版画の古城からきこえてくるエイル・ブルウの舞踏(ステップ)、英文学の古本にこぼれた混合酒(カクテル)のにおい、牛肉と山高帽・牛肉と山高帽。そして、above all ――テムズを撫でる粉炭の風。 43677_33197.html(65):  とにかく、チャンドの気品は、絶品というに近かった。たとえて云えば、キップリングの[#ここから横組み]“Naulakha(ナウラーカ)”[#ここで横組み終わり]に出てくるラホールの王子――といっても、僕自身には褒(ほ)め過ぎとは思えない。 4367_8012.html(147):  一七一二年に発行された、ABCのいろは歌留多(かるた)みたいな“Trivia”のなかに、 4367_8012.html(182):  テエブルにつくと、HON給仕人――日本人の――がHON献立表(メニュウ)――日本語の――を持って“No”のように無言に接近してくる。昼食三志(シリング)・夕食三志(シリング)六片(ペンス)とあって、ア・ラ・カアトのほうを見ると、こうだ。 4369_8016.html(276):  アルトベルグさんは学者肌の中老の紳士で、私達が戸を排したときは、ちょうどお客のお婆さんに日本の紡績絣(がすり)を一尺ほど切って売っていた。店内は日本の品物をもって埋(うず)まり、蓙(ござ)・雨傘・浮世絵・屏風・茶碗・塗物・呉服・小箱・提灯(ちょうちん)・人形・骨董・帯地・着物・行李(こうり)・火鉢・煙草盆――一口に言えば何でもある。ことに鍔(つば)と「ねつけ」の所蔵は相当立派なものらしい。写楽、歌麿、広重なんかも壁にかかっている。珍客――私達――の出現にすっかりよろこんで、お客のほうは女店員に任せっきり、いろいろ江戸時代の絵を出して来たり、自分の著した“Netsuke”と題する研究的な一書を見せたり、そのあいだも、何にするのか女中のお仕着せみたいな染め絣が一尺二尺とよく売れて行く。 4369_8016.html(288):  二日がけで西南バトン潮に沿うヴァッドスナ町に彼女の家を訪ねた。家の名をモルバッカ“Morbacka”という。女史の遺志によって今は一種の婦人ホウムになっている。湖畔の一夜。 43704_20166.html(27):  香港の空港は九龍側にあって,多くの空港と同樣殺風景なところであるが,空路が集中しておって,絶えず飛行機が發着する.例えば“air bus”と稱する廣東行が1日に12回もでるということであった.その後,中共が廣東を占領してからはどうなったであろう. 43719_18746.html(106):  其後テレボックスへの喋る音は、文句でもよいことになった。このテレボックスが出来たウェスティングハウス電気会社のイースト・ピッツバーグの研究所の門は、客が来ると自動的に開くような仕掛けになっているが、それには扉の前で“Open, sesame !”(開けごまの実)と叫ぶと自然に開く、しかし間違って「開け、けしの実」などと呶鳴っても駄目らしい。 4371_8020.html(161):  そんなら一たい、なぜそうこの「儀礼と技芸によって美装されたる牛殺し」が、西班牙(スペイン)民族のうえに尽きざる魅力を投げるか? 言い換えれば、闘牛に潜む“It”は何か!――というと、第一に、闘牛は必ず野天で行われる。しかも夏日炎々として人の頭がぐらぐらっとなってるとき、闘牛場には砂が敷いてある。その黄色い砂利にかっと太陽が照りつけて、そこに、人と動物のいきれが陽炎(かげろう)のように蒸(む)れ、たらたらと流れるわる赤い血――時としては人血も混じて――の池がむっと照り返って眼と鼻を衝く。そうすると観客はすっかりわれを忘れてわあっと沸き返る。というこの灼熱的な、ちょっと変態的な効果に尽きる。この南国病的場面を極度に助長させるため、そこはよく市民の心理を掴んでいて、闘牛はいつも夕方にきまってる。午後四時から五時、六時から七時までのあいだだ。なぜ?――と言えば、長い暑い、だるい一日が終りに近づいてくると、都会人は、強烈な日光にうだって八〇パアセントばかり病的な状態におち入る。これは「気候温和にして」と地理の本にもあるような、わがにっぽん国ではちょっと想像出来ないかも知れないが、砂漠と仙人掌(さぼてん)と竜舌蘭(りゅうぜつらん)のすぺいんなんかでは、誰でも或る程度まで体験する感情に相違ない。つまりこの、一日の暑気と日光に当てられて、町じゅうの人が牛でも猫でも、何でもいいから早く殺しちまいたい発作的衝動に駆られてうずうずしてる時刻、ちょうどこの時は、太陽も沈むまえで思いきりその暴威を揮(ふる)う。南の夕陽は発狂的だ。風は死んで、爆破しそうな焦立(いらだ)たしさが市街を固化する。人の血圧は高い。神経は刺戟を求めて、そしてどんな刺戟にでも耐えられそうに昂進している。おまけに、陽はいま最も地上に近い――といった、心理的にも気象的にも殺伐な潮どきを見計らって、何も猫を殺したところで初まらないから、そこで大々的(スペクタキュラア)に牛を殺すことにしたのが、このいすぱにあ国技「こりだ・で・とうろす」だ。だから、西班牙人(スパニヤアド)は男も女も自らの情熱の捌(は)け口をもとめて、万事を放擲してこれへ殺倒する。もちろん一つは、アラビヤ人との混合血液による国民性だが、毒を征するに毒をもってすという為政的見地から、皮肉に言えば、闘牛は、夏のすぺいん人の一時的錯乱に対する安全弁かも知れない。思うに、この蛮風も風土的必要に応じて発生したものであろう。道理で、サン・セバスチャンにあった有名な賭博場(キャジノ)を閉じて国中からばくちを追った現独裁宰相――西班牙(スペイン)のムッソリニ―― Primo de Rivera ――も、まだこの闘牛だけはそっとして置いてる。もっとも彼だってすぺいん人だから、熱烈な闘牛ファンであっても差しつかえないわけだが、闘牛を禁止すると西班牙(スペイン)に革命が起るとみんなが言ってる。その革命も、夏の暮れ方に、のぼせ上ったDON達が街上に踊り狂ってお互いに料理(ブチャア)し合うんじゃあ騒ぎが大きい。おなじ屠殺するんなら、まあ、人よりゃあ牛のほうが幾らか増しだろう。第一、牛はあんまり文句を言わないし、それに、血がたくさん出る。 43728_18708.html(35):  補助金の文字(まことに文字だけにしかすぎないのであるが)を、may(行ない得るものとする)でよいから残して下さいと、大蔵省の課長から局長へと何度となく嘆願に行くのである。午前中に文部省の局長、午後に私達、続いて御婦人の文部省課長と手を換え品を換えて“人海戦術”を取ったのであった。そして外では二十五年一月十五日を図書館デーとして署名運動、講演会、新聞宣伝と呼応して立上ったのである。こうしてやっとのことで二十七日の閣議通過、三月四日国会上程という運びとなったのである。 4373_8024.html(104):  汽車を出ると地中海が空色の歓声を上げた。誕生日菓子のように立体的な緑の山がそれに答えていた。停車場と機関庫の間に一線(ひとすじ)の海が光っていた。そこに快走艇(ヤット)の赤い三角帆がコルシカからの微風を享楽していた。ヴェランダを広く取って、いぶし銅の訪問板にまでミモザの花の届いてる原色塗りの玩具の山荘(ヴィラ)が、それぞれの地形から人の注意を惹こうとしていた。近づいてみると、その一つ一つが固有名詞を秘蔵していた。La Bohme というのがあった。“MA CHRIE”というのもあった。英語では“The Wood-nymph”などというのが見られた。ミモザはどこにでもあった。空気はその黄金(こがね)色の吐息のためにグラスの香水工場のように湿っぽく、かつ酒精的だった。海岸の散歩街(プロムナアド)では巨人の椰子(やし)があふりかのほうへ背伸びをしながら行列していた。化粧クリイムの浪へ樺色に焼けた海水着の女達が走り込んだり逃げかえったりしていた。砂には日光と恋と子供の遊びと籠椅子とがあった。人々はみんな大金を費(つか)って遊びに来ている者に特有な、小さな事件を好む悪戯(いたずら)らしい眼つきで素早くお互いに見交していた。私たちは自動車道路に沿うオテル・アングレテエルの自動車庫へ行って支配人に会いたいと言った。 4373_8024.html(110):  私達は彼女の好みで鼻の尖(とが)ったランチャを選んだ。三週間の契約だった。それはスポウツ・カアのように背の低い、真っ黄いろに装った稀代(きだい)の伊達者だった。黒と黄の配合はこの週間の流行だと言って、彼女は黒の制服をつけた真面目顔の運転手を悦(よろこ)んだ。私が名を訊いたら彼は「第十九番(ヌメロ・デズヌウフ)」とだけ答えた。こうして19が彼の呼称(よびな)になったのだ。そしてこの黄瑪瑙(きめのう)の巻煙草(シガレット)パイプのように粋(シック)なランチャが、これから三週間私たちの自用車としてモンテ・カアロ公園(ジャルダン)の小径(こみち)に park されるであろうし、19は三週間のあいだ私達が「ほんとに彼男(あれ)だけは私たちが掘り出した宝石(ジュエル)です」と言い得る、身綺麗(みぎれい)で小気(こき)の利いた“My Good Man”となることであろう。 4373_8024.html(125): “Coming this evening. Mr. and Mrs. Tany.” 4375_8028.html(29):  だから私は、私のいわゆるロジェル・エ・ギャレ氏の本名は知らないのだが、それはすこしもこの話の現実的価値を低めはしないと信ずる。なぜなら、私は、彼の名前こそ知らないが、彼がオスロかどこか北方の首府に仕事と地位を持っている希臘(ギリシャ)の若い海軍武官であることも、いつも小さな秤(はかり)を携帯していて、それで注意深くフィリップ・モウリスの上等の刻煙草(きざみたばこ)を計って、自分で混ぜて、晩餐後の張出廊(ヴェランダ)で零下七度の外気へゆっくりと蒼い煙を吹き出す習慣のあることも、例の大陸朝飯(あさめし)――珈琲(コーヒー)・巻麺麭(まきパン)・人造蜂蜜・インクの香(におい)の濃い新聞・女中の微笑とこれだけから構成されてる――を極度に排斥して、BEEFEXと焼林檎(やきりんご)と純白の食卓布に固執していることも、趣味として部屋では真紅のガウンを着ていることも、いまはバルビウスの“Thus and Thus”を読んでいることも、そして、実を言うと、それよりも巴里(パリー)版ルイ・キャヴォの絵入好色本のほうが好きらしいことも、すべての犬を怖がって狆(ちん)に対しても虚勢を張ることも、英吉利(イギリス)の総選挙を予想して各政党の詳細な得票表を作ってることも、その一々に関して食後から就寝までの時間を消すに足る綿密な説明を用意してることも、それから、これは前に言ったが、半東洋風の黒い頭髪をロジェル・エ・ギャレ会社の製品で水浴用護謨(ごむ)帽子のように装飾して――で、私は彼にひそかにこの綽名(あだな)を与えたわけだが、――聖(サン)モリッツ中の異性の嗅覚を陶酔させようとTRYしていたことも、要するに、ロジェル・エ・ギャレという存在は、或いは彼自身の饒舌により、または、私の作家的観察眼で、ほとんど全部、私は、摘(つま)み上げて、蒐集して、分類して、ちゃんと整理が出来上っているのである。 4376_19283.html(101): Un gelsomin d'amore―“ 4376_19283.html(108): ”[#「”」は下付き]―Per dar al mio bene!“ 43790_21400.html(810): 「良寛のあの歌にある“まこと”というのは、この額の文句と同じような気持だろうって、よくそう仰しゃっていますの。」 43790_21400.html(1772): 「今日も、学校から帰ると、祖母が待ちかねていたように愚痴をこぼしはじめた。何でも大巻の祖父がやって来て、今月は先月にくらべ、卵の収穫が三百あまりも殖えたそうで結構だ、と喜びを言ったのがいけなかったらしい。祖母は、みんなが卵の数を自分には知らさないで、大巻にだけ知らしているんだ、というのである。あまりばかばかしいので、つい笑い出したくなったが、やはりがまんしてきいてやることにした。しかし、そのために、夕飯の時にみんなのまえで、“次郎は小さいとき里子に行って苦労しただけに兄弟のうちで誰よりも物の道理がわかっている。”などと言われたのには、僕もさすがに冷汗が出た。 43792_21948.html(1812): 「何より心配だったのは、軍部の巨頭(きょとう)がこれに参加してはいないかということでしたが、それはさすがにないようです。少なくとも、今のところ、直接指揮(しき)しているとは思えません。その点からいって、さわぎがすぐにも全軍に波及(はきゅう)するようなことは、おそらくないだろうと思います。もっとも、派閥(はばつ)を作るような巨頭連のことですから、今後どう動くか、安心はできません。現に、巨頭連の中には、叛軍の説得に行って、“ご苦労さん、よくやったね”とか、“お前らの心はようくわかっとる”とか言って、かえってご機嫌(きげん)をとったり、はなはだしいのは万歳(ばんざい)をとなえてやったものもあったそうですからね。」 43833_34955.html(45):  そのもともとの読み違いはヘーゲルのフェノメノロギーで、「真実は実体(Substanz)としてではなく、寧ろ主体(Subjekt)として把握され又表現されたのである」と考えられた時からはじまっている。即ちそれはピストルの弾のように個体として飛んでゆくものでなく、ロケット弾のように常に自分自身が分裂しながら発展するものとして、Subjekt を新しく読み違えた時からはじまったのである。今後もいろいろ議論されることであろうし、読み違えそのものが、又無限の分裂でもって違って来ることだろう。もともと、「下に」「置かれる」、「下に」「投げる」ということが、[#ここから横組み]“sub”“ject”[#ここで横組み終わり]なのだから、無限に読み違えられて、投げ捨てられることが、subject の言葉のもつ運命とも云えないこともない。 43835_18208.html(30):  例えば『暁の電撃戦』“The Western Approaches”において、基調は大西洋の海の青さであり、その空にひろがる雲は、それのヴァリエーションであった。その中に、繰り返し、繰り返し出てきた、ボートの帆の赤さは、そのリフレインの主題の役目をもっていたのである。 43838_18744.html(46):  特殊飛行中、僕は特に頭を下げて、自分のからだに、今如何なる苦痛が懸っているかを特に注意してみた。急上昇のときだと思うが、胸と太ももとが、目に見えない魔物のために、今にも押(お)し潰(つぶ)されそうに痛むのを発見して、ああこれこそ我慢づよいわが空の勇士が、絶えず相手に闘っているところの見えざる敵“慣性(かんせい)”だなと悟った。 43876_40783.html(52):  鏡にうつすこと、画布にうつすことの差異は、この光の二方向性にあると思われる。この一方向の光より、他の方向の光に転ずるとき、そこに人間的操作が加わる。一般に技術とよんでいるところのものがそれである。それは感覚的存在としての人間を媒介機能とする。眼が「見ること」を、耳が「聴くこと」を、口が「言うこと」を、舌が「味わうこと」を、鼻が「匂うこと」を、皮膚が「触れること」を、手が「つくること」等々。さらにそれぞれの機能の特殊なる拡大としてそれぞれの”Verweisen“als Zeigen としての Zeug 道具ならびに機械がその方向転換の媒材となる。 43876_40783.html(98): ※底本では、「”」の二点は右下に、「“」の二点は左上に、置かれています。 44457_37225.html(9): 岸田國士 “現代風俗”に就いて 44457_37225.html(20): “現代風俗”に就いて 44465_37233.html(1015):  やつとその辺を通りかゝるインテリ風の支那人に、手帳を出して“Talati House Hotel”と書いてみせたら、車夫にそれを説明してくれ、車夫は、さもがつかりしたやうな表情で汗を拭いた。 44503_36691.html(9): 岸田國士 “にんじん”を観て 44503_36691.html(20): “にんじん”を観て 44540_26806.html(54): 「さうぢやない」と答へるのは野暮の骨頂である。さういふ時“Non, Jes uis Japonais.”とでもいつて見給へ、そして相手が気の毒さうに詫でもいふと思つて見給へ。それこそとんだ間違で“Ca m'est gal”(どつちだつておんなしだ)が関の山だ。 44584_28657.html(30):  私が、この作品に打たれた理由の一つは、作者が、微塵も正義派的感傷を交へずに、しかも、限りなく暖かい作品を書き得たといふことである。標題の「恐るべき子供たち」は、頁を繰ると共に「愛すべき子供たち」として読者の心に映るであらう。私は、屡々、フランスの親たちが、その子供らについて他人に語る時、“Ils sont terribles”といふ言葉を濫用してゐたやうに記憶する。日本の親なら「どうも、乱暴でしやうがございません」といふところだらう。コクトオは、この親たちの如く、その「恐るべき子供たち」について語つてゐるとはいへない。しかしかれは少なくとも、それらの子供たちの一人である。 44594_28672.html(30):  といふ風で、十七世紀に於てはフランスで殆んどシェイクスピアは知られなかつたといつていゝのですが、十八世紀になると、シェイクスピアの偉大さを十分に一般に徹底させた文学者がありました。これは御承知の『マノン・レスコオ』の作者 Abb-Prvost です。彼はシェイクスピアのことをそのイギリス滞在中の感想記“Le Pour et le Contre”中に書いてゐます。この書名は、イギリスにはいゝところもあれば悪いところもあるといふやうな意味で、「英国是非」とでも訳しませう歟。それは一七三三年のことです。その翌年、例の Voltaire が、――シェイクスピアを大速力で読んだものと見えまして――、矢継早にシェイクスピア評論を書き始めました。で、フランス人一般がはじめてシェイクスピアに注意を向けるやうになりました。ヴォルテールは、御承知のやうに、文学的にもまた思想的にも、一種の革命家でありましたから、そのシェイクスピア紹介の勢ひは、いはば今日の新人がマルクスを日本に紹介するのに似てゐたらうと思ひます。彼れのシェイクスピアに関する解釈、理解に対しては大分問題がありますが、とにかく彼は口を極めてシェイクスピアを賞讃してゐるのです。そして自分もシェイクスピアの作に摸して、多くの脚本を発表したのみならず、おれはシェイクスピアから影響を受けたと自白してもゐるのです。そしてヴォルテールすらもシェイクスピアの影響を受けたといふことはフランスの舞台芸術に一種の革命を齎した所以であります。 44653_37978.html(35):  ハルビンでは極く地味な存在に過ぎなからうが、東京へ連れて来るのもさう手間はとるまいと思はれるし、演し物次第では相当に成功する可能性があると思ふ。レパートリイとしてはロシアのクラシツクは殆どやつてゐるやうである。私の観たのは一つはフランスの“スクリーブ”、もう一つは作者は忘れたがツルゲーネフの喜劇のやうな味のある却々しやれた喜劇で非常な感銘を受け、残念ながら羨ましくさへも思つたのである。 4467_8266.html(44):  “Was fr ein Gesicht du hast !”おや。) 4467_8266.html(45): (何だと。“Nein, mein Jngling, sage moch einmal, was fr ein Gesicht du machst !” 44696_38412.html(78):  しかしながら、ルイ十四世の治下に於ては、まだフランス古典劇は十分に「国民全体」のものになつてはゐなかつた。国立劇場はまだ王室劇場の実質を脱してゐず、年金を与へられてゐる劇作家も亦、庶民のために書くといふよりは、寧ろ宮廷人士を観客として予想したのではないかと思はれる。モリエールの言葉として、「余は[#ここから横組み]“honntes hommes”[#ここで横組み終わり]のために喜劇を作る」といふ意味の宣言が伝へられてゐるが、honntes hommes とは、この時代に於て正確に何を指してゐるか私にはわからぬながら、およそ、「素姓正しき人々」のことを云つてゐるらしい。「身分高き人々」ではないことを特に明かにしたもので、その点、モリエールの言葉だけに、多分に時代の風潮を暗示してゐる。序に云へば、モリエールの面白いところは、劇作家としての才能の非凡以外に、王の寵遇にも拘らず、その寵遇の故に却つて自己を赤裸々に発揮し、王の側近たりとも容赦せず、権勢の代表たる貴族と僧侶とに鋭い諷刺の戈を向けたことである。 44833_47596.html(357):  第四の疑問は、ちょっと穿った疑問のようですが、その心配は毛頭ないと僕は断言します。ご承知のように、あのドラマは“hrocomique”という題註がたしかはいっていたと記憶します。なるほど、英雄は英雄でも、喜劇化された英雄です。フランス人も、あれでなかなか英雄好きな国民ですが、やはり時代の風潮は争われません。「愛好する」ことは、必ずしも、「崇拝する」ことではなくなっている。この微妙な感情のニュアンスをとらえたところが、ロスタンの曲者たる所以でしょう。たしかに彼は、当時のフランスの芝居好きを手玉に取ったばかりでなく、フランスの民衆の心理を心にくいばかり知りつくしています。あれだけのポピュラリティイをもつ作家の第一の条件をちゃんと備えていることも、どうやら、高踏的な批評家の気に入らぬところらしいのです。しかし、ほんとうの民衆というものは、誰でもいうように、案外、健全なものです。「シラノ」は、そういう民衆の健康な胃袋に適した芝居に相違ありません。 44840_45070.html(48):  フランスでも、十八世紀になると、悲劇と喜劇との区別を無視しはじめた。いわゆる「悲喜劇」という代物が生れ、批評家はこれを「ジャンルの混淆」と言つた。悲劇でもなく喜劇でもないという中間的な色合いの戯曲も書かれるようになる。フランスで「ドラマ」という名称が使われだしたのはこの時代で、“Pice”という名称は、悲劇でも喜劇でもない戯曲を指すために用いられるのである。 44841_42268.html(33):  今年は、戯曲界にぞくぞく変種が現われそうな気配が感じられるし、そういうものゝなかから“ほんもの”を拾い出し、一定のレパアトリイを多彩ならしめる工夫をしなければならぬ。 44877_44753.html(29): 「博物誌」といふ題は“Histoires Naturelles”の訳であるが、これはもうこれで世間に通つた訳語だと思ふから、そのまま使ふことにした。 44909_29558.html(45): Kamuichikap kamui yaieyukar, “Shirokanipe ranran pishkan” 44909_29558.html(46): Chironnup yaieyukar, “Towa towa to” 44909_29558.html(47): Chironnup yaieyukar, “Haikunterke Haikoshitemturi” 44909_29558.html(48): Isepo yaieyukar, “Sampaya terke” 44909_29558.html(49): Nitatorunpe yaieyukar, “Harit kunna” 44909_29558.html(50): Pon Horkeukamui yaieyukar, “Hotenao” 44909_29558.html(51): Kamuichikap Kamui yaieyukar, “Konkuwa” 44909_29558.html(52): Repun Kamui yaieyukar, “Atuika tomatomaki kuntuteashi hm hm!” 44909_29558.html(53): Terkepi yaieyukar, “Tororo hanrok hanrok!” 44909_29558.html(54): Pon Okikirmui yaieyukar, “Kutnisa kutunkutun” 44909_29558.html(55): Pon Okikirmui yaieyukar, “Tanota hurehure” 44909_29558.html(56): Esaman yaieyukar, “Kappa reureu kappa” 44909_29558.html(57): Pipa yaieyukar, “Tonupeka ranran” 44909_29558.html(82): “Shirokanipe ranran pishkan” 44909_29558.html(84): “Shirokanipe ranran pishkan, konkanipe 44909_29558.html(92): “Shirokanipe ranran pishkan, 44909_29558.html(97): “Pirka chikappo! kamui chikappo! 44909_29558.html(115): “Achikara(3) ta wenkur hekachi 44909_29558.html(125): “Shirokanipe ranran pishkan, 44909_29558.html(144): “Shirun hekachi wenkur hekachi 44909_29558.html(164): “Kamuichikap kamui pase kamui 44909_29558.html(183): “Shirokanipe ranran pishkan, 44909_29558.html(193): “Shirokanipe ranran pishkan, 44909_29558.html(221): “Tarap hetapne mokor hetapne chiki kuni 44909_29558.html(249): “Usainetapshui wenkurutar koohanepo 44909_29558.html(265): “Tapne tapne wenkur ane wa raukisamno 44909_29558.html(600): Chironnup yaieyukar,“Towa towa to” 44909_29558.html(614): “Hetakta usa tooani chikoshirepa 44909_29558.html(616): yainuash kushu “Ononno!(2) Ononno!” ari 44909_29558.html(633): “Toishikimanaush towa towa to 44909_29558.html(647): “Usainetap shui nep achomatup 44909_29558.html(663): “Toishikimanaush, towa towa to 44909_29558.html(677): “Usainetapshui nep wenpe an, 44909_29558.html(691): “Toishikimanaush, towa towa to 44909_29558.html(713): “Chikor nishpa nekonne hawe tan?” 44909_29558.html(729): “Toishikimanaush, towa towa to 44909_29558.html(904): “Haikunterke Haikoshitemturi.” 44909_29558.html(982): “Ainupito nep ki ko ashtoma heki, 44909_29558.html(1009): “Iramashire moshiresani kamuiesani 44909_29558.html(1164): Isepo yaieyukar,“Sampaya terke” 44909_29558.html(1179): “Ingarkusu chiakinekur, tantewano 44909_29558.html(1201): “Ketka woiwoi ketka, ketka woi ketka.” 44909_29558.html(1209): “Eneokaipe nep aekarpe tan?” 44909_29558.html(1238): “Shu pop wa chiash yakun, nepneushi ka 44909_29558.html(1383): Nitatorunpe yaieyukar,“Harit kunna” 44909_29558.html(1398): “Hm, shirun nitat wen nitat, kotchake akush awa 44909_29558.html(1417): “Usainetapshui nep ekar kusu tan ainu kotan 44909_29558.html(1437): “Enean pon noyaai neike auninpe tan?” ari 44909_29558.html(1558): “Hotenao” 44909_29558.html(1568): “Pii tuntun, pii tuntun! 44909_29558.html(1574): “Nennamora tan esannot teeta rehe 44909_29558.html(1581): “Pii tuntun, pii tuntun! 44909_29558.html(1586): “Nennamora tapan petpo teeta rehe 44909_29558.html(1593): “Pii tuntun, pii tuntun!” 44909_29558.html(1597): “Nennamora eshinrichihi erampeuteka! 44909_29558.html(1618): “pii tuntun, pii tuntun! 44909_29558.html(1702): “Konkuwa” 44909_29558.html(1704): “Konkuwa 44909_29558.html(1715): “Nen unmoshma sonko otta pawetokkor wa 44909_29558.html(1729): “Nenkatausa sonko otta yayotuwaship 44909_29558.html(1733): “Nen unmoshma pawetokkor wa 44909_29558.html(1746): “Nenkatausa pawetokkor wa sonko otta 44909_29558.html(1963): Repun Kamui yaieyukar,“Atuika 44909_29558.html(2023): “Tominkarikur Kamuikarikur Isoyankekur 44909_29558.html(2036): “Ainupitoutar chikorparep ne kushu 44909_29558.html(2082): “Chiokai anak Otashutunkur chine wa 44909_29558.html(2087): “Tominkarikur Kamuikarikur Isoyankekur 44909_29558.html(2363): “Tororo hanrok hanrok!” 44909_29558.html(2373): rokash kane.“Tororo hanrok, hanrok!” ari 44909_29558.html(2376): “Eyukari ne ruwe? esakehawe ne ruwe? 44909_29558.html(2378): chienupetne,“Tororo hanrok, hanrok!” ari 44909_29558.html(2380): “Eyukari ne ruwe? esakehawe ne ruwe? 44909_29558.html(2384): “Tororo hanrok, hanrok!” rekash awa 44909_29558.html(2386): “Eyukari ne ruwe? esakehawe ne ruwe? 44909_29558.html(2390): “Tororo hanrok, hanrok!” rekash awa 44909_29558.html(2459): “Kutnisa kutunkutun” 44909_29558.html(2467): “Ehumna? Chikarkunekur unkashui yan.” 44909_29558.html(2531): “Tanota hurehure” 44909_29558.html(2541): “Pon Okikirmui shinotash ro! 44909_29558.html(2560): “Sonno hetap eiki chiki yukshut tuye 44909_29558.html(2578): “Achikarata(1) sonnohetap 44909_29558.html(2686): “Kappa reureu kappa” 44909_29558.html(2696): “Ona ekora? 44909_29558.html(2701): “Toi sapakaptek, wen sapakaptek, 44909_29558.html(2714): “Ona ekora? 44909_29558.html(2719): “Toi sapakaptek wen sapakaptek 44909_29558.html(2805): Pipa yaieyukar,“Tonupeka ranran” 44909_29558.html(2810): “Nenkatausa wakka unkure 44909_29558.html(2816): “Toi pipa wen pipa, neptap chishkar hawe 44909_29558.html(2820): “Ayapo, oyoyo! Wakkapo!” ohai chiraikotenke 44909_29558.html(2823): “Nenkatausa wakka unkure untemka okai! 44909_29558.html(2827): “Inunukashki shirsesek wa pipautar 44914_18742.html(226): (十一月六日)“室戸岬”へ 44914_18742.html(286): □“しぐるるや犬と向き合つてゐる” 44914_18742.html(316): “自適集” 44914_18742.html(528): “谿谷美” 44914_18742.html(529): “善根宿” 44914_18742.html(530): “野宿” 44914_18742.html(532): “おかみさんよ、足を洗うよりも心を洗いなさい、石敷を拭くよりも心を拭きなさい” 44914_18742.html(533): “顔をうつくしくするよりもまず心をうつくしくしなさい” 44914_18742.html(783): 新“風来居”の記 44914_18742.html(786): “無事心頭情自寂 45210_24671.html(1272):  推論の正確を期するため、すべての商品(A)、(B)、(C)、(D)……等の交換が行われる市場として役立つ場所が、二商品ずつ交換せられる部分的市場に分れると想像する。他の表現をもってすれば、市場が、交換せられる商品の名称及び上に記した方程式のシステムによって数学的に決定せられる価格を指示する標識をもって区別せられる個の特別の市場に分たれると、想像する。しからば“互に逆数の価格 pa,b, pb,a で行われる(A)と(B)、(B)と(A)との交換”、“互に逆数の価格 pa,c, pc,a で行われる(A)と(C)、(C)と(A)との交換”、“互に逆数の価格 pb,c, pc,b で行われる(B)と(C)、(C)と(B)との交換”、があるわけである。これだけを前提とし、もし、(B)及び(C)を欲する(A)の各所有者が右の第一及び第二の特別市場で、この(A)を(B)及び(C)と交換するに止まるとすれば、またもし、(A)及び(C)を欲する(B)の各所有者が右の第一及び第三の特別市場で、この(B)を(A)及び(C)と交換するに止まるとすれば、またもし(A)及び(B)を欲する(C)の各所有者が第二及び第三の特別市場で、この(C)を(A)及び(B)と交換するに止まるとすれば、均衡はこれらの状態の下において保たれる。だが容易に了解し得るように、(A)の所有者も、(B)の所有者も、(C)の所有者も、この交換の方法を採用しないであろう。彼らはいずれも、自分に最も有利であろう所の方法で交換を行うであろう。 45210_24671.html(1975):  私の金庫の中に入る貨幣は、これを私に貸した資本家または私から生産物を購った消費者から来り、出ていく貨幣は固定資本または流動資本に変形していく。ところで、私は、金庫内に入ってくる金額を現金勘定の借方に記入し、この金額がどこから来るかを示そうと欲し、また同様に金庫から出る金額を現金勘定の貸方に記入して、この金額がどこに行くかを示そうと欲していると想像する。この欲する目的を遂げるために、私は何をなすか。例えば私が最初に金庫中に入れる貨幣は私の友人マルタンが私に貸与した金額であるとする。私はマルタンに対し、二年または三年の内に一部分の返済を約したとする。この場合に、この金額がマルタンから来たことをいかにして示すか。その方法は極めて簡単である。現金勘定の借方に金額を記入した後、私は“資本主”または“マルタン”と記す。だが事を充分に尽すには、それで止ってはならぬ。私は、帳簿の他の頁を採り、見出に資本主またはマルタンと記し、現金勘定の借方にすなわちこの勘定の頁の左方に金額を記入すると同時に、直ちに同一の金額を資本主またはマルタン勘定の貸方にすなわちこの勘定の頁の右側に記入する。そしてこの金額を資本主またはマルタン勘定の貸方に記入するに当り“現金”と記す。これで記入が終ったのである。なお他の一つの事があるのが予想せられるが、それは右と反対に、私が、資本家であるマルタンに借入金の一部を返還するため、金庫から貨幣を取出した場合である。このときには、この金額を、“資本主”または“マルタン”と記して、現金勘定の貸方に記入し、資本主またはマルタン勘定の借方に“現金”と記入する。その結果、現金勘定の借方残高は、私が金庫に有する貨幣の有高を常に示すように、資本主またはマルタン勘定の貸方残高は、忘れてはならない他の重要な点、すなわち我が資本家マルタンに負う所の貨幣額を常に教えるのである。 45210_24671.html(1976):  私が金庫に入れまたは金庫から取り出す他の金額も同様にして記入せられる。例えば私の工場に機械を据え付けるために貨幣を取り出すときは、この機械は固定資本――その重要さについては私は既に簡単に述べておいた――と呼んだものの一部を成すのであるが、この時私は、固定資本勘定を設け、現金勘定の貸方に金額を記入し、かつ“固定資本”と附記し、固定資本勘定の借方に“現金”と附記して金額を記入する。流動資本についても同様である。もし私が原料を購いまたは商品を仕入れ、家賃を支払い、賃銀を支払う等、一般に地代・賃銀・利子を支払って、貨幣を金庫から引出すときは、現金勘定の貸方と、流動資本勘定の借方にこれを記入する。また私の生産物の販売から生ずる貨幣を私の金庫に入れれば、私は現金勘定の借方と流動資本勘定の貸方に、その金額を記入する。現在の会計の慣習では、流動資本勘定の代りに、他の二つの勘定科目を用いる。その一は原料及び仕入商品を借方に記入する商品勘定、他は地代・賃銀及び利子を借方に記入する営業費勘定である。もし必要があれば、この細別を更に詳細な分類とすることが出来る。だが右に見てきたように、一般的流動資本勘定を置き換えたこれらすべての特種勘定は損益計算に当って、結合せられねばならぬ。 45214_18527.html(42):  僕はこんなことを呟(つぶや)きながら、ふと気づくと村の街道に降り立っていた。僕は、鞭(むち)のように細長い剣を持っていた。これも壁に“WASEDA”のペナントの下に、十字を切って懸けてあった練習用の Fencing Sword の一つであった。これは伊達(だて)に飾ってあるのではない、僕は朝夕これを執って、わが家の同人の誰でもを相手に剣術の練習をする、堪(たま)らなく気が滅入って始末のつかぬ時には、これで戦争ごっこをして気分を晴(はら)す、武者修業物語を読んで亢奮(こうふん)すると、これを振り廻して作中人物に想いを擬する。 45216_23057.html(117):  彼女は父親のオフイスでタイプライターを叩いてゐたが、特に土曜日に限つて、日本語の練習といふ「お稽古」のために、十時に仕舞ひ、午前(ひるまえ)の汽車に乗つた。旧東海道線であつたから国府津駅で箱根行の電車に乗り換へ、四十分も揺られた後に小田原で更に熱海行の「軽便」に移り、待合時間を別にして、これが三時間あまりかゝつた。それ故、熱海に着くのは、冬だと、もうとつぷりと暮れてゐた。――「軽便」の到着は三十分位ひのあとさきは珍らしくもないので、私は明るいうちに自転車用のアセチリン・ランプを用意して、咲見町の崖ふちにあつた終点に来るのであつた。どうやら阿父の悪影響らしく、Nに限つては“Girl-shy(はにかみ)”は覚えなかつた代り、いつの間にかその自由さが、単なる友情を超えたおもしろさに移つてゐるのを秘かに意識せずには居られなかつた。私は未だ宿屋の番頭なども繰り込まぬ人気のない待合所のベンチに腰を降して「新進作家叢書」とか「ウエルテル文庫」などゝいふ小型の和訳本を読んだ。やがて麦畑の向方から麦笛のやうな汽笛が響き、炭坑のトロツコの如くに汽缶車の向きをあべこべにつけた汽車がのろ/\と這入つて来ると、忽ち彼女は先頭を切つて車から飛び降りた。すると、出迎への旅館の連中が向方と私を見くらべて、わらふのであつた。――といふのは、私を見出した彼女は、忽ち飛び込むやうに駆け寄つて来て、鳥のやうに朗らかな感投詞を叫びながら両腕を私の肩に載せて、頬つぺたに接吻をおくるのであつた。その光景が間もなく彼等の好奇の眼を誘つたのである。それ故私は、彼女の姿を見出すと同時に合図の腕をあげて、素早く崖径を降つて、海辺へ向ふ松林へ逃れるのであつた。段畑と入れ交つた繁みのスロウプは滑らかな芝に覆はれてゐた。――そんな「劇的」な動作に私は到底人中では堪えられなかつたのである。 45221_39810.html(75): 「蜜柑山の住人が今頃町に現れるなんて、怪しいぞ、つかまへた/\、さあ尋常に白状いたせ。」などとGは“Fool”の身振りをしてふざけ散らしたりした。彼は、以前から酒などの席では必ず賑やかな役目を引きうけてゐた。Gを相手に酒を飲んでゐると大概此方は笑はされてしまふ、女の気嫌の取り方などと来たら実に巧いものだぜ――といふやうなことを樽野の亡父も云つてゐたが、樽野はそんなGは少しも面白くなかつた。だが樽野の母は、自分の眼の前で相手に、賞められたり、無理にでも己れを偉くさせて、高慢な顔をするのが好きだつた。Gは恰も彼女の使用人のやうであつた。彼女は己れの威厳を保つためにはその身の破滅さへも顧慮しなかつた。樽野が母のことを考へて眉を顰めてゐるのも気づかずにGは続けた。 45221_39810.html(176):  折も折、この頃の樽野の読書は、十年のプレトンを出でて、アリストートルの“Meta”に一歩を踏み入れたところであつた。彼は、時の隔りを忘れて、熟読に没頭する歴史の愛好家であつた。彼が始めて「混沌時代」の扉を開いて、次々の哲学者の門をラマンチアのドン・キホーテ的情熱で振り仰ぎながらプレトンに至るまで十年の旅路であつた。この勢ひで計算すると、彼の歴史研究は彼が百歳にならないと、近世の思想には達し得ないわけであつた。 45243_19784.html(59): Come from your golden“incense-breathing”sphere, 45255_19786.html(98): “Kosinski(コジンスキイ) soll(ゾル) leben(レエベン) !” 45288_39792.html(31):  父が若い時にあつめた“Cook book”の文庫のうちに“American's popular Cook book”といふ、表紙にブルクリン橋の写真のついた、大きい本で重くて気の毒だが、画布のやうな布で作られてゐる本があるから、此処に寄る時にそれを持つて来て呉れないかといふことを私は、弟に言伝てた。 45288_39792.html(34): 「これぢやいけないだらう?」と私は、私の友達であるHに訊ねた。“American's popular Cook book”を、昔、その文庫を見たことのあるHが欲しいと云つたのであつた。 45288_39792.html(35): 「……“Presidential Cook book”と? …… the Old festival Volume, ナンバー・ワンだつて! これは困つた、古式の何かだよ。真似どころの騒ぎぢやない。」とHは、自身と吾々に対してその本の表題から皮肉を感じたらしく苦笑した。私は、Hの手でめくられてゐる絵の頁をのぞき込みながら、子供の頃この彩色版を絵本のやうにして眺めたことのある記憶を呼び返された。 45288_39792.html(82):  あなたの幼時の訓育が、少しづゝ報はれてゐる気がします。あなたのオルガンの音の代りに、近頃流行のヂヤツズの如く騒々しい隣室があります。私は、それを、嘗てあなたの得意であつた、そして私のわずかな記憶に残つてゐる“Southern Melodies”のうちの“Ring, Ring, De Banjo”や“Old folks at Home”や“Carry de News”――そして、また、ホーム・スヰート・ホームにも「蛍の光り」にも「青葉しげれる」にも、代へます。 45319_29610.html(9): 牧野信一 祝福された星の歌 “An episode from the forest” 45319_29610.html(21): “An episode from the forest” 45319_29610.html(31):  そこで、降誕祭の“on the one”が、麗らかな天気つゞきのまゝに目睫に迫りました。山に働く他の凡その人々はこの宗教に全く関心を持たぬ麓の部落の村人達でしたから、この師走のおしつまつた日のなかで、あの辺から来てゐる二人の学生は何の戸惑ひをしてのぼせあがつてゐるのだらうか? などと囁くのを、しば/\フロラが、その故を説明などしながら、たつた二人で、花やかな祭りを催すために丸木小屋の中の飾りつけにいそしみました。――それにしてもあの人達、信仰は持たなくても、こんなに綺麗な祭りの悦びだけは迷惑ではあるまい、楽しい夕べが訪れたならば、サンタクロースには山番の老人を頼まうよ――。 45331_41330.html(42):  “A gallant knight, 45331_41330.html(53):  “Over the mountains 45331_41330.html(62):  わたしの書斎は、大鯨の肋骨のやうな棟木が露はな屋根裏の二階であつた。そして、比喩とは云ひ条、屡々わたしに真実そんな夢を見させた如く、そこは薄暗いガラン洞で、鯨の腹の中に潜つて“Mare Tenebrum”の海上をさ迷ひ、梯子を登つて天井のあかり窓から折々息を衝く時は“Oh Universe !”と唸つて、汐を吹く慨であつた。鯨は昼となく夜となく万里の海を泳ぎまはつた。見あげる空には星の変幻出没が限りなかつた。 45331_41330.html(78): “In the meantime bear in mind that all is Life―Life―Life within Life―the less within greater, and all within the SPIRIT DIVINS” 45331_41330.html(87):  そして、こつそりと村境ひのターバンなどへ登楼して、左り団扇をつかひながら、わたしはメートルをあげた。夜更けに千鳥あしで小屋へ戻ると、わたしは近頃“Haunted Palace”を合言葉に唱つたが、そんな時間までもわたしの堅い椅子に腰かけて、こつこつと仕事に没頭してゐるオガワは、わたしの歌が一向に詩人の趣きをつたへて荘重ではなく Haunted――どころか、河童でゞもあるかのやうに素頓狂に響いて、耳障りになると滾した。せめてウヰルソン教授の発音法を応用したならば、そんな失策もなかつたらうに、浮れたわたしの巻舌は、メリケン親爺の口真似になつて、聞くだに野卑で、滑稽なる亡霊の声に過ぎなかつた。囲炉裡端の連中は、どうやらわたしの歌が、先の合言葉とは、音声も抑揚も別人のやうに不思議な力がこもつてゐるのを悟り、監察官でもが姿を変へて現れたのではないかと戦き、わたしが隙間から覗いてゐるとも知らず、これも亦、全くの荘重味に欠けた化物のやうに眼玉を白黒させ、互ひの袂をひきながら、何事か囁いでゐるばかりで容易に扉を開けようとはしなかつた。そして、類ひ稀なるモロコシ酒の利き目は、盞を傾ければ忽ち羽化登仙、二盞を呑み尽せば王侯貴族の宮殿に主(アルジ)となつて、錦の寝椅子に恍惚としてゐるものを、あの声を耳にするがいなや、真さかさまに元の馬小屋に戻つてしまふと、憤つて、やがてはわたしの帰来と知つても故意に扉を開けようともしなかつた。 45331_41330.html(89):  “And travellers, now within that valley 45342_41322.html(40):  片野の主人は何故か慌てゝ手を振り、クワバラ/\などゝしやれた。彼は道楽の時代に、蜜柑山を抵当にしてみわから金を借りた。みわはみそのを伴れて片野の歌留多会に現れたが、母も娘も好く似た横風で他人(ひと)を見降す根生曲りの上に、陰気で誰とも折合はなかつた。英介が休暇で戻つてゐると、みそのは歌留多で夜を明し、朝になると決つて脳貧血を起した。英介は小園と相愛で、婚約も成立ち、幾度か共々に旅行などを試みてゐた程なのだつたが、急にみそのとの結婚を強制された。仲人が父の先輩にあたる河部といふ町長だつた。英介は、長男の新吉が生れぬ前に学校を放擲するとアメリカへ旅立つた。英介はフエヤブンのミドルスクールから出直して、ボストンのハイスクールにすゝんだ後に同市の工機学校に学んだ。彼の最初に乗込んだ艦(ふね)は“U. S. S. Stockton”なる水雷艇で、西インデア州のクルブラ島詰であつた。 45342_41322.html(67): 「新吉ヨ、晴レヤカナルカ、僕ハ今度クルブラ島ヲ去ツテ、バージニヤ州ナル、ノーホーク海軍鎮守府詰メニ出世シタ。“U. S. R. S. Flanklyn”フランクリン号ナル、レシービングシツプデアル、大概港ノ中ニ碇ヲ降シテヰルノデ危険ノ憂ヒハナイガ、僕ニハヤハリ水雷艇ノ方ガ面白イ、君ノ冒険心ガ健ヤカニ成長スルコトヲ望ンデヰル。」 45344_37917.html(41): 「メフイストフエレス――(メ)は、ラテン語の[#ここから横組み]“In”[#ここで横組み終わり]に相当するギリシヤ語にて、否定の義、(フイス)は同じく、光の義、(フエレス)は、愛の義――即ち、光りと愛を打ち消す者――悪魔の同意語なり。メフイストフエレスなる名称は、十六世紀後半に出版されたるヨハネス・スパイスなる伝奇作家の書中に初めて登用されたる者なり。」 45345_41242.html(183): 「これ誰のために……?」と豊かな微笑の中で訊ねて他の部屋のよりも稍大型の村瀬のダイアルを指差した。誰のペン先のいたづらか村瀬は確かめる余裕もなかつたが、そこには“Welcome”――そんな文字が現れてゐた。 45350_37925.html(167): “But this fold flow'ret climbs the hill(この花こそは山にも攀ぢよ), 45350_37925.html(254): [#ここから横組み]“Tattoo Tattoo”[#ここで横組み終わり] 45355_41250.html(76): “Young Narcissuso'er the fountain stood, And viewed his image in the crystal flood, ――” 45356_37933.html(341):  森武一は、唇を噛みながら斯んなことを書き誌してから、[#ここから横組み]“St. Patrick(パトリツク)”[#ここで横組み終わり]と、署名した。 45356_37933.html(347):  竹下は、奇妙な文句を暗詠(そらん)じながら物々しく筆を執つて[#ここから横組み]“The Coming of St. Authony(オーソニーもやつてきた)”[#ここで横組み終わり]と書いて性急な咳払ひを続けた。 45359_40778.html(33): “I chatter, chatter, as I flow 45359_40778.html(82):  一冊の書物は小さな遺伝学書だつた。それには、1=1/2[#「1/2」は分数]+1/4[#「1/4」は分数]+1/8[#「1/8」は分数]+1/16[#「1/16」は分数]――Aはその先代より、その個体性情のを、先々代より……をといふ順序の偶数率をもつて遺伝さるといふゴルトンの法則や、また「優性」「劣性」の実験説をもつて新法則を樹立してゐるメンデルの報告を詳さに記載してゐた。ゴルトン法に従つて私は私の知るかぎりの先々代を想像すると、痴愚と滑稽と猪勇と怯懦とが及びの配率をもつて露はに算えられた。更にメンデリズムに従つて比較すると、いかにもZや自分の如き存在は「劣性」の標本として歴起たるものであるのを知らしめられた。“I chatter, Chatter, as I flow……”私は窓下の流れの音に耳を傾けながら、悒鬱だつた。 45359_40778.html(206):  あのまゝ死にもしないで息づいてゐる私については、こゝで小説らしく擱筆するまでもなく一言の附記を要するだらう。私は未だに鬼涙の水車小屋で剥製の鳥の中に坐つてゐるだけだつた。それにしてもあの長い冬から、今はもうあたりは夏の景色となつて蛍が飛んでゐるといふのに、たゞ思ひ浮べるのはあれらの嶮しい山径が今も越え難い雪解の深さに遥かである思ひだけで、人間らしい悩みさへも忘却したかのやうである。時々暮しに就いての不平を洩しに現れる柚太の片目が、ぎろりと光つて、私の胸も冷えようとするのだがそれも義眼と気づくと物怯ぢもなく、薄暗がりである故に気づかれもしまいと落ちついて、昼寝の夢に耽る彼の面(おもて)を――ぴかりと視開かれた眼(まなこ)の光りを、つくりかけの鳥を見るやうに眺めるだけだつた。唱は蛍をあつめて東京の友達へ贈らうとしてゐたが、その間にも鼬を射止めるべく銃を抱へて、まことに殺伐な蛍狩りともつかぬ異様ないでたちだつた。未だ動物は手がけたことはないが、鼬が首尾よく斃されたら、それを手はぢめに動物標本にすゝまうかなどゝ私は期待して窓下の流れの“chatter, chatter”に耳を傾けるだけだつた。片脚は未だに不自由で、稍遠路をとる場合には松葉杖が必要である。もう一羽がそろへば一対になる筈で、あのまゝ居据りを直してない片われの雄の鵞鳥は、相変らず水車が回り出すと直ぐに転げた。そして生き返つてゐる雌鳥は卵を生みはぢめてゐた。 45361_41328.html(32):  私は、ローレンス・スターンの「風流旅行記」“The Sentimental Journey throuth France and Italy”といふ本を一冊携へて、自分も一ぱしのセンチメンタル・ツラベラと自惚れてゐたのであつたが、未だそれを半ばまでも読まぬうちに、最早自分は“The Vain Traveler”に貌変しさうな己れを憐れまずには居られなかつた。 45361_41328.html(63):  母は顔を顰めて吐きさうになつた。それでも、然し母は益々好奇心を持つて“The Proud Traveler”の手柄ばなしに興味を寄せるのであつた。何故かといへば私の話は折々横道に反れたが、決して虚構はなかつたからである。母は大体、詮索好キナル旅行者(2)に属してゐた。私は、また、自家にゐるよりもケチな旅行をして、生活費の剰余を蓄へようとするゼ・シムプル・ツラベラ(9)にも似てゐた。といふのは、これこそ母に対して私の唯一なる秘密の苦心であつて、私はその剰余金を秘かに遠方の妻に送らなければならなかつたのである。私は、それ故如何にも紳士的な旅を続けてゐる風を装ひながら、或る時は馬小屋のやうな庭に寝たりして、金勘定をする眼付はまことに歴起たるゼ・シムプルであつたが、稍ともするとそんな不甲斐ない己れに業を煮して、折角の計画を覆しがちであつた。 45361_41328.html(85):  母からの手紙は暗に鬱憤を晴らさんと云はんばかりの皮肉まじりで、私の漫談を期待する意味などは元々皆無であり、面白さうに聴いたのはただ馬鹿息子の機嫌を慮つた上の世辞であつたのだといふ風な調子であつた。負けずに私も空呆けて風景描写の手紙でも書かうかと試みたが、すつかり魂が滅入つて抒情味など涌かなかつた。敢て母への便りとせずも、遥かな天地の悠久に呼び掛け度い一片の嘆きの感投詞さへもが困難であつた。私は、沼男(ニツケルマン)のやうな顔つきで穴倉の湯に蹲つては、過剰金の嵩ばかりを計算してゐる吝嗇(シムプル)さ加減を見れば見るほど、慨歎の至りと感ずるだけであつた。そして々たる面上には、次第に狼のやうに深刻気(デリンケント)な皺が深まつた。“Sentimental”を風流と書き換へたが、これには多分の憂鬱味が勝つてゐるので更に異様な重苦しさと陰影に富んだ訳語を案出すべきが当然であらう。 45375_37931.html(30): “…… …… …… 45399_39800.html(42):  私は呟きながら窓を開いた。ラガド市では悉くの人々が夫々一台の小型航空器を所有してゐた。この器具には Vanity of Vanity 測定器と称する一種の(斯う云ふ抽象語は註されぬのであるが)顕微鏡が備へられてゐて、例へば若し我々が仕事に没頭中に空腹を感じたとすれば、我々は仕事にたづさはつたまゝ、この航空器を駆つて、一定の空間を回(めぐ)つて来ると測定器が“The Vanity”のうちから「有」を取り入れて自然に吾々の腹を充しもすれば、思想の場合には思想を充し――といふやうな作用を起して吾々の仕事を補助するのである。それはこの航空器のほんの一つの働きであつて、その他の機能を挙げれば枚挙に遑ない。GOD KHONSU は私が、自用の航空機に冠した洒落たつもりの(そんな洒落気があるうちは到底入学は覚つかないのであるが――)機名であるが私はラガド大学の受験生寄宿舎で日夜、天文と数学の応用ばかりを見物させられてゐると、此処の人々の間には決して無い現象なのであるが、私は砂漠旅行者がオアシスを恋(した)ふに似た喉の乾きを覚へ(それは、叙情感、感傷、涙を希ふと云ひ代へても差支へない)て、人知れず KHONSU を放つて、原始時代の物語に準じナイル河の水源地からロータスの花と野バラの実(ヒツプス)を持ち帰らしめて、秘かに胸を湿ほさうと思つたのである。(これもラガド機の働きを示す一例であるが――) 45403_39814.html(187):  汽車に乗つてからも滝だけが黙り勝ちだつた。彼は、己れの心の何処にも山にゐる時のやうな清新な力を感じることが出来なかつた。「籠る覚悟」だとか、「孤独と睨み合ひをする決心」だとかなどと武張つて、哲学家にでもなつたかのやうにヒロイツクな憧れを持つたのも、源を洗つて見れば愚かな青年が不図したハズミで衒学家に変つたり、厭世思想を抱いたりする浅薄な、至極ありふれた“Girl-shy”の一種の反動に過ぎなかつた――彼は、それだけの説明で一言の許に片附けられるらしいあの自分を思ふと、どんなに傍から、「まさか――」「それ程馬鹿ではないつもりだ。」などと声援しても、堪らない冷汗ばかりに沾(うるほ)はされるだけだつた。と云つて彼は、自分の心の収めどころが何処(どこ)にもなかつた。 45404_39812.html(238):  今時、こゝの酒場などでこ“Burning Knight”酒の壺には橄欖の枝を用ひてゐるところなどは、斯んなところに起因してゐるのではなからうか。 45407_39809.html(61):  などゝ樽野は思ひ出すと、むくむくと胸の血潮が高まり思はず空を見上げると、忽ちこの青空が真ツ黒に掻き曇つて、直ぐ目の先きに、嘗て St. Jeorge の楯に圧し潰ぶされた筈の“Burning Dragon”“Black King”“Giant Blanderon”などゝいふ巨大な怪物が再び勢ひを盛り返して押し寄せて来るのではないか……。 45407_39809.html(72): 「舟歌はやはり舟で歌はなければ――滑稽なものだな。」などと口走つた。いつも彼が歌ひ出すと並居る者が悪擽つたく堪らない顔をして顔を反向けるのが無理もなく思はれて、彼は胸を冷した。酔つて、酔つて、しどけなく胸をはだけて、場所も関(かま)はず連呼する自分の夢のやうな顔が惨めに映つてならなかつた。此間も彼は、酔つて酔つて例の如く「不思議な歌(ナンシイ・リー)」を歌ひながら銀座通りのカフエーをおし歩いて伴れの者に恥を掻せた。紳士淑女の列席する芸術座談会にも出席した。始めのうちは諸種の議論を傾聴してゐたが、間もなく樽野はさつぱり解らない混沌の煙りに巻きこまれて悶絶してしまつたことがある。ここでは並居る綺羅星だつたから、混沌としても、漁屋での騒ぎのやうに黒雲のつかみ合ひは感じなかつたが、香りの高い煙草の煙りが濛々としてゐる中に眩んでゐると、やはり結局は同じに吹雪のやうな“Clouded swans”の羽ばたきに窒息しかかつたのである。 45407_39809.html(91): 「“There's somebody waiting for me……」 45407_39809.html(103): 「おお! “The Sweet Chanty”と彼女は砂の上に走り書いたね。」 45407_39809.html(116): 「花束が一晩で萎れてしまふので、そいつを毎日とり換えるんだが、到頭花屋の親爺が僕を信用しなくなつてしまつてね、月末払ひといふ話に決めて一時切りあげ……」と云ひながら樽野は懐中(ふところ)から酷く古ぼけた“All Kinds of Dinner table Decoration”などといふ大型の本を取り出して花美な食卓写真の頁を手早く繰つて“Three days in Autumn field”といふ項を開いて、 45407_39809.html(141):  鴎丸は胴の間に立ちあがつて、唱歌の練習にとりかかつた。“The Sweet Chanty”の一節で最も豊かな悠(ゆる)やかな声量を要する個所で、彼は歌詞は使はず喉だけで声を験べてゐたが――「ラア・ラー・ラア・ラー……Rolling Rolling……my heartful sky……wearing my solitary heart upon thy sleeve……Bounding Bounding Boundary……ラア・ラー・ラア・ラ……」 45407_39809.html(255):  この先は? それは樽野が近頃毎晩々々夜の徒然を慰めに来る村の老若の友に向つて、自分だ! とすると誰もつまらながつて聴かないので、読んだ本の噺だ! とか、古今を通じての有名な物語だ! とかと勿体をつけて、題名だけを古本にあるまゝに“St. George and the Enchantress”“St. Anthony and the Court of Jerusalem”“The Coming of Northern Knight”“St. David and the Magic Garden”“Sebra's Escape from the Black King”“The Advent of St. Andrew's Son”“St. Patrick's great lament”などとして、出鱈目の勲(いさほし)ばかりをたてさせて秘かに想ひを遂げてゐるのだが、王の御名に寄つて呼び出されたラウンド・テーブルのチヤンピオン達は聖らかなる盃を索めるために諸国遍歴旅行に出発して、あらゆる危険と戦つてゐるのだが、此処では奮戦ばかりが引き続いてゐるばかりで、決して果しがつかないのであつた。 45413_39368.html(38): 「さうだ、君はいつか“Childrens Science”の記者をしてゐたことがあつたね。」 45423_39361.html(130): “Hurrah” 45423_39361.html(131):  私は、ふとそんな声を聞いた。――私は、悸(をど)された。胸がひとつ不気味に鳴つた。振り返つて見ると藤村の寝顔には、変な微笑が浮んでゐる。彼が、口のうちで何かわけのわからぬ寝言を呟いたのであつた。――それを私は、そんな風に聞き違へて感じた、といふより、汽車の轍の音や時計の音が聞きやうに依つては様々な種類に聞かれる、あれと同じものだつたのである。例へば、コケコッコーでも、カック・ア・ダッダルドウでもの声だらうし、太鼓の音を、ドンドンドンと吾々の幼時から云ひ現はし慣れてはゐるが、ラッバダブ・ラツバダブでも別段に反対の称(とな)へようもない――まつたく私は藤村の寝言の叫びを“Hurrah!”と聞いたのである。 45423_39361.html(138): “Hurrah!” 45423_39361.html(140): “Hurrah!” 45423_39361.html(145): “Hurrah! Hurrah!” 45423_39361.html(188): “Hurrah!”と、彼女は叫んだのである。この時彼女が、思はず私の手を握つたといふことは、さつきは述べなかつたが、その彼女の感投詞で私が、甘い切なさを感じた時、(なるほど、云ふんだね、そんな感投詞を、とは思ひながらも――)彼女は、その冷い手で私の熱い手を握つたのである。 45423_39361.html(196):  藤村は、未だ眠つてゐた。そして彼は、うつかり此方が聞き返したくなる程の、ウワ言を呟いだ。――もう“Hurrah!”とは聞えなかつた、通俗的な寝言の形容詞通り、ムニヤ/\/\であつた。 45424_39360.html(189): 「第六号。」と母は、内側に“No 6”の貼り紙がしてある円筒を片手に取りあげながら「第六号――是ハ余等ノ学友ガ卒業記念ノタメニ自ラ作成セル歌詞ニ自ラ作曲シタルモノヲぴあのノ伴奏ニ依ツテ合唱セルヲ吹キ込ミタルモノナリ 謝恩唱歌ノ類ヒナリ 意ハ略スガ音律ニ依ツテ聞カバ己ズト通ズルモノアラン 余モ亦唱歌者ノ一員ナリ」と読みあげた。母は、もう吾家で読み慣れてゐたからどの説明書きも暗誦してゐたが、これは又事新し気に朗読した。そして私も、それ程聞き慣れてゐたので、母の様子がわざとらしくをかしく見えた。――私の父が前の年にアメリカ・フエーヤーヘブンの或る田舎の中学を卒業した時の記念品だつた。父は三十歳であつた。そしてこの年から都に出てカレツヂに入学したと報へて寄した。 45425_39359.html(477):  ――「これやア、好いなア!」と、感嘆して「Wild(ワイルド) bell(ベル) は、好いなア!」などと悦びの眼を輝やかせた。この英文学士は、かの有名な、“In Memorium”をこの時初めて眼にしたのである。そして彼は、更に声を大にして、 45425_39359.html(548): 「いや、知らなければ好いんだがね――俺も、一寸忘れたんだよ、えゝと?」などと彼は、空々しく呟きながら物思ひに耽る表情を保つた。好いあんばいに彼女の母は、黙つてしまつた。そればかりでなく彼は、二三日前から切りにヤドカリの痴夢に耽つて来た阿呆らしさを、こんな風に喋舌ることで払つてしまひたかつた。若しこれを和語で云つたならば彼女等ですら、そのあまりに露はな意味あり気を悟つて苦笑するに違ひない、などと彼は、怖れたのである。――彼は、二階で、和英字引を引いたり、Hermit といふ名詞をワザと英文の字引で引いて、“one who retires from society and lives in solitude or in the desert.”などと口吟んだり、また「やどかり――蟹の類。古名、カミナ。今転ジテ、ガウナ。海岸に生ズ、大サ寸ニ足ラズ、頭ハ蝦ニ似テ、螯(はさみ)ハ蟹ニ似タリ、腹ハ少シ長クシテ、蜘蛛ノ如ク、脚ニ爪アリ、空ナル螺ノ殻ヲ借リテ其中ニ縮ミ入ル、海辺ノ人ハ其肉ヲ食フ。俗ニオバケ。」と、わが大槻文学博士が著書「言海」に述べてゐるところを開いて、面白さうに読んだりしたのである。 45429_39356.html(40):  厭だと云ふのに、どうしても鸚鵡に名前を付けて呉れと云つてFは承知しないので、いつだつたか私は仕方がなしにグリツプと称ふ名前を与へたのだつた。中学の一年か二年の時に習つたチヨイス読本の中にあつた“LAZY RAT”といふ章を私は覚えてゐた。主人公の若い鼠の名前がたしかグリツプといふんだと思つた。Fは、いつもこの鸚鵡のことを「怠け鸚鵡」と叱つて、何を教へても少しも覚えないと滾(こぼ)してゐたので、私はさういふ名前を与へたのだつた。 45430_39052.html(66):  単に、かかる卑しい心の遊戯は別として、彼女達を紹介すると、私が如何に惨めな法螺ふきであつたか! といふ事実が彼女達に知れてしまはなければならなかつた。私は、Fの前では、照子といふ女が、自分の“Sweet Heart”だといふ風に仄めかしてあつたのだ。そして照子には、Fのことを実際の親しさ以上に吹聴してゐるのだ。 45433_37940.html(50):  その温室は、漸く一冬は保つたが春になる頃には私は、すつかり倦きてしまひ、母がブツ/\云ひながら植物の始末をした。母家に泥棒が入つた翌朝、一同が家の周囲を検査すると、温室には莚の寝床や酒樽や食物などが散乱してゐるのを発見した。夜々、泥棒が此処を住家にして母家の様子を窺つてゐたといふことが判明して、被害を私のせいのやうにされてしまつたことがあつた。――ベン船長は私の父よりも十歳も年上だが、今では船長をやめて米国費府の田舎に多くの家族を従へて幸福な日を送つてゐる。今では、年に一回、彼からはクリスマスの賀状を貰ひ、私は、年頭に“I wish you a happy new year”と書き送るより他に往復はなくなつた。尤も、いつか私の父が死んだ時の通知は、六つかしく私が書かされた。 45433_37940.html(81):  西暦千八百十何年かの話である。ノア・ウエブスターがその郷里のハートフオードでその“Speller”を出版した時のことである。この時に著者の肖像画を口絵にして掲載したのであるが、あまり印刷に凝り過ぎたゝめに反つてその肖像画は本人とは似もつかぬ異様なものになつてしまつた。頭髪は針のやうに一本一本逆立つてゐた。そして眼は、ぎよろりとして頭髪と同様な太い線で露はにむき出してゐた。で、この口絵は恰も山あらしの肖像画を掲げたかのやうな怪貌になつた。だが著者は、この印刷を認め、自信を持つて堂々とその下に“Noah Webster”と署して発行した。――ところが常々著者の行動に反感を抱いてゐた村の連中は、この一個所を楯にとつてあらゆる方法で彼を攻撃し嘲笑した。或る者は著者に手紙を送り、宛名をわざと“Mr. Grammatical Institute”と誌した。また“Mr. Squire, Jun.”と呼びかけるやうに書き送つた者もあつた。そして念入りにも遺言状のかたちをとつて――私は、“Speller”の著者某に西班牙貸若干枚を与へる、これはその著書に掲載の肖像画を改版すべき費用のためである、既著の如く著者の醜怪なる肖像を巻頭に掲げるは、その読本に依つて勉学する児童の心を威嚇するものである、終ひには多くの児童の純心を傷け荒ましめ、やがては共和国の前途に憂ひを抱かしむるに至るであらう、速かに著者“Squire”を読本の巻頭より追放すべし……等。初めは笑つて済ましてゐたが彼等の執拗さがあまり凄まじいので終ひに著者は慨然として決闘を申し込んだ。 45433_37940.html(95): “My Dear Flora, H――” 45433_37940.html(96):  私は、胸のうちでこれを修飾的に和訳して胸を顫はせた。和文では恋人に送る手紙でも私にはそんな文字は使へない。極めて非事務的な思ひを込めて、事務的な習慣らしく何気なさゝうに“From, your's, your's”と打ち、心細く S.M. などゝ署名した。父の場合でも私は、父上様などゝ書くのはどうも厭でならなかつた。だから矢張りこれ使つて破れた文字を連ねた。 45436_37937.html(235):  彼等は口々に、科白でも云ふやうに、つまらぬ文句を吐きながら、だが動作は飽くまでも熱心に、悪漢のやうに息を殺し、体を曲げ、足音を忍ばせて、窓に近寄つた。――間断なき轍の音は、刻々と鮮かになり、その合間には晴れやかな女の笑ひ声などが交つて聞えた。“Rolling―Rolling―Rolling”ぐる/\回る、ごろ/\回る……。 45437_37941.html(568):  椽側の隅に古く土に汚れた書籍が一塊りになつてゐた。彼は、そこから二三冊の本を選び出して、日向で繰り拡げた。読書嫌ひの彼は、退屈な時には徒らに辞書を眺める癖があつた。“Synonyms and Antonyms”そんな名前の字引を彼は、偶然見出した。あのオペラ・グラスを貰つた頃、これも矢張りFの贈り物だつた。例へば、“Peril”といふ文字を引くと、それの同意語として“Danger”とか“Risk”とか、“Venture”“Uncertainty”“Jeopardy”等々々などといふ同意語が挙げてあり、同時に反意語として“Security”とか、“Safety”とか“Certainty”等々々といふ風な文字が列挙されてゐるのだ。解らない文字の意味も、二十も三十も同意語、反意語で例証されゝば自づと通ずるのである。彼の英語が余り不たしかなのと、不得手で不便なことをFは迷惑がつて、多少皮肉な意味を含めてFが彼に贈つたのである。皮肉には違ひなかつたのである。Fは、扉に斯んな悪戯書きを残した。 45437_37941.html(570):  “My father was a Farmer 45437_37941.html(586): 「悪といふ文字を探して見ようかな。……なる程あつた/\キタナラしい程列んでゐやアがる。……“Evil”だな! 45437_37941.html(589):  斯う読んで見ると“Evil.”の同意語は、悉く彼の心のシノニムに思はれ、“Ant”十三語には、一つも恵まれてゐない気がして、夫々の文字が彼の眼の前で、壁を隔て/\哄笑してゐた。だが、さう思ふと彼は「その後の母と彼」の仕事に多少の力を得た。母に対しても、周子に対しても、その彼の弱さは決して“Evil”の反意語ではなかつた。二つのうらはらの心と思つたのは、皆な彼の自惚れだつた。 45621_20505.html(115): “x=□□□□□□=74□×?” 45621_20505.html(116): “ハ東京市銀座四丁目帝都百貨店洋酒部ノ「スコッチ・ウィスキー」ノ広告裏面。赤キ上衣ヲ着タル人物ノ鼻ノ頭に星印アリ” 45631_23910.html(120): ♂[#「♂」は矢印が下向き]芸術の回復は労働に於ける悦びの回復でなければならぬ Morris“Art is man's expression of his joy in labour.” 45635_42547.html(41):  相客はほかに二組ほどあつた。表の看板は“WALKER”と出てゐたが、いつ頃からの建物だと聞いたら、おかみは得意さうに十五世紀以來のテューダー・ハウスでございますと答へた。 45742_23674.html(33):  この昏睡の間は体温三十六度であるが、覚めたときは四十一度になっている。その体温表は、丁度過ぐる大震災の地震計を見るようなものである。生きながら、その顔は死の相であったし、視覚も触覚も聴覚も、或る時は殆んど失われていた。腹から下は死の冷めたさであった。頻りに苦痛を訴えて見るに忍びない姿であったが、ことに私は、彼と話を交すために――彼は頻りに私の名を呼ぶので――その口へ耳を寄せる時、殆んど死臭のような堪えがたい悪臭の漂うのには無慙な感をいだかされた。死んでからの顔の方がはるかに安らかであったのである。ポオの小説に“The facts in the ease of Mr. Valdemar”という物語がある。ある男が、催眠術によって人間の生命を保ちえないものかと考えて、瀕死の病人に催眠術をかける。丁度死んだと思う頃、呼びさまして話しかけてみると、自分はもう死んでいると病人は言う、そうして断末魔よりも深い苦痛の声をもって苦しみを訴えるのである。それからの連日二十四時間毎に呼びさまして話しかけると、その表情その声は一日は一日に凄惨を極め、遂いに術者も見るに堪えがたい思いとなって術をとくのであるが、とたんに肉体は忽然として消え失せ、世に堪えがたい悪臭を放つところの液体となって床板の上に縮んでしまう。――大体、こんな筋の話であったと記憶しているが、私は長島の危篤の病床で、この物語を思い出していたのである。一つには長島もこの物語を読んでいたからであって、ある日私にそのことを物語った記憶が残っていたからであろう。そのことと関係はないが、彼は私への形見にポオの全集とファブルの『昆虫記』の決定版とを送るようにと家族に言い残して死んだ。 45801_38837.html(43):  斯様に、代用の具としての言葉、即ち、単なる写実、説明としての言葉は、文学とは称し難い。なぜなら、写実よりは実物の方が本物だからである。単なる写実は実物の前では意味を成さない。単なる写実、単なる説明を文学と呼ぶならば、文学は、宜しく音を説明するためには言葉を省いて音譜を挿み、蓄音機を挿み、風景の説明には又言葉を省いて写真を挿み、(超現実主義者、アンドレ・ブルトンの“Nadja”には後生大事に十数葉の写真を挿み込んでゐる)、そして宜しく文学は、トーキーの出現と共に消えてなくなれ。単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい。 45825_39314.html(117): 日本語に読みうるものに、アランの「散文論」(作品社出版)が最上と思ひますが、そのほかに、モオパッサンの「小説に就て」も参考にならうかと思はれます。これは同人の小説「ピエルとジャン」(岩波文庫)巻頭に訳載されております。変つたところでは、マルセル・プルウストの文章論なぞは如何。これは“Les Plaisirs et les Jours”及び“Chronique”(邦訳もあることと思ひますが)なぞに種々の題目で論じられております。 45900_34356.html(9): 坂口安吾 “能筆ジム” 45900_34356.html(20): “能筆ジム” 45900_34356.html(26):  雑誌「日本小説」に「不連続殺人事件」を連載し、探偵小説の鬼江戸川乱歩先生から過分なる賞讃をいたゞいて以来、僕は文壇随一の探偵小説通と自他ともに許す存在にまつりあげられてしまった。しかしまあ、余り通などとまつり上げられない方がいゝ。僕はおかげで「小説新潮」に「安吾捕物」まで書かされ、はてはA・クリスティの探偵小説を飜訳してくれないかなぞと喰さがる編集者も現れるという有様だ。ところで今日は少し眼先を変えて“能筆ジム”と呼ぶニセ札造りを御紹介しよう。 45900_34356.html(27):  ニセ札造り“能筆ジム”は本名をエマニュエル・ニンゲルといゝ、アメリカの贋造紙幣史上では傑出したニセ札造りの一人で、十七年間も発見されなかったというその道の芸術家であった。発見されたときの次第は後に話す積りだが、あのほんの些細な偶然がなかったら、十七年はおろか千年でも彼の造ったニセ札はそのまゝ流通しつゞけたかも知れないほど見事なものであった。しかし、当局の威信のためにも、読者諸君のためにも、ちょっと申上げておかねばならぬことがある。それは彼が現代の人間ではないということだ。当今のようにニセ札追求の組織と技術の進んだアメリカの当局の前には、さすがの“能筆ジム”も、その最初の一枚で御用となり、従って安吾先生のお目にもとまらなかったであろうし、また彼のニセ札が蒐集家によって額面よりはるかに高く評価されるという珍現象も起りえなかったであろう。 45900_34356.html(28): “能筆ジム”は生粋のプロシャ人で、独逸(ドイツ)ではペン画家であった、彼は、一八七九年より余り遠くない以前、アメリカに渡ってオハイオ州のコロンブスに、妻をはじめ娘三人息子一人と住むことになったが、そこにはしばらくの間で、ニュウ・ジャージー州のウエスト・フィールドに移り、その後また同じ州のフランクフルトに住み、農場を持ち、倹約家の立派な農夫になりすましていた。 45900_34356.html(29):  事実、逮捕になるときまで、彼は隣人たちや多くの友人たちから、寛大で思慮深い性格の男で、家族にとっては申分のない働き手であると思われていた。また、彼の農場は抵当に入ったようなこともなかったから、どうみても金は残るし、銀行預金だってがっちりありそうであった。“能筆ジム”の奥方は、自分の亭主が逮捕されるなんてトンデモ・ハップン、あの人は立派な亭主で、思いやりのある父親で、悪いことをするなんて思いもよらぬことでござんすと、言いはったとか。それもその筈で、この奥方は御自分の亭主が、彼女が自慢に思っていた芸術家としての才能を、犯罪行為に用いていたなどとは、夢にも考えていなかったのだ。亭主が二階にあがり、スタジオに当てられた部屋に入って、戸をぴったり閉ざしているときなど、彼女は亭主は画を描き、でなければ読書三昧にふけっているものとばかり考え、不思議には思わなかった。それに、ニンゲルは古い型の亭主で、家族は彼に絶対服従、彼のすることには口をはさませなかったから、彼女にしても何をしているのか聞く勇気さえなかった。 45900_34356.html(31): “能筆ジム”が十七年間もふんづかまらなかったのは、まったく秘密をまもったからであった。彼は、自分の仕事を誰れにも喋らなかったし、どんな場合にも扉を開け放っておかなかったように、大変な注意を払っていたようだ。ニンゲルのニセ札造りとしての成功は、実に彼の画家としての才能と、プロシャ人特有の万全を期する性格のおかげであった。彼はどんなにニセ札を造る必要に心のせくのを感じても、悠然とかまえて、その当時政府発行の紙幣に使用されている紙とほとんど同じ程度の厚さと強度を持ったものを選んだ。そうしてこの紙を当時の大型の札の大きさに正確に裁断して、それが終ると、この紙をコーヒーの薄い溶液のなかで処理して、年代をつけた。 45900_34356.html(36):  いよ/\“能筆ジム”の最後のニセ札使いの旅の日のことを話さなければならない。その彼は、農夫の服装を身につけ、彼の傑作である二十ドル札を五枚と五十ドル札を一枚ポケットにして、ニュー・ヨークに出かけた。二十ドルのニセ札を三枚処分したのちであった。彼は、三番街と十六番通りのコーナーにある食糧品店ジョン・ウェリマンの店に入っていった。彼は壜詰の洋酒が欲しかった。その店の女店員がエプロンで両手をふきつゝ奥の部屋から出て来た。彼は、自分で洋酒の壜詰を手にとって、三番街の遠く先に荷車が置いてあるから、包んでくれなくともよいと云いながら、二十ドルのニセ札を女店員に手渡した。 45900_34356.html(37):  幸といおうか、不幸といおうか、その女店員がニセ札を受け取ったとき、彼女の指先はまだ濡れていた。彼女は“能筆ジム”に釣銭を渡したが、相手が店から姿を消してまもなくインクが自分の指先についていることに気づいた。一瞬このインクのしみが何からついたものかと戸惑った。そのとき彼女は、反射的に自分があつかった二十ドル紙幣を見つめていた。なるほどその札の通し番号は見事に書かれてはいるが、ほんの少しよごれているようだ。好奇心が首をもたげた。唇の上でもう一度指を濡らして、札の上のインクをこすってみた。まさに彼女の直感の通りであった。自分がニセ札をつかまされたことに気づいて、主人を呼び、事の次第を説明した。ウェリマンとその女店員は入口から飛び出してみたが、もうニンゲルの姿はなく、三番街にも荷車など勿論見あたらなかった。ニンゲルは見事消え失せたのだ。そのころ彼は、ニュー・ジャージー通いの渡船の着くコートランド・ストリート行の鉄道馬車に乗り込んでいた。しかし、彼のニセ札が見破られたことも、彼がニセ札使としてつけられていることも、警察に知らされていることも、とんと御存知なかった。 45900_34356.html(40):  ニュー・ジャージーの農夫たちは、この土地のこの種の店にとっては上得意なので、主人は「札で四十ドル、銀貨で十ドルなら両替いたしましょう」と云いながら、バアーの上に十ドル札四枚を並べ、十ドルを銀貨でニンゲルに手渡たした。しかし、この時“能筆ジム”はニセ札使として全くまずいヘマをやらかしてしまった。彼は両替の金を勘定しなかった。独逸人農夫の注意深さをよく知っている酒場の主人は、奇異に感じた。彼は、札をかき寄せてそのまゝポケットへねじ込んでしまったのだ。その上彼は酒場から出ていくときに、何となくソワ/\と落ちつきがなかった。主人は五十弗(ドル)の紙幣をつく/゛\しらべ始めた。どうもニセ札くさいが、はっきりそうとも断定出来ない。しかし、兎に角主人は、給仕男を一人呼びつけた。ニンゲルをとらえて引き返えさせるようにいいつけた。 45900_34356.html(42):  その後“能筆ジム”は十五年の刑に服したが、その見事な芸術作品のためであろう、人々は彼に対して同情的な温い心を持ったということである。だが、差し入れをしたかどうかは知らない。 45906_37862.html(32):  だから、信者は地下にくぐらざるを得ん。一方その指導者たる神父は、主としてマカオならびにマニラから日本に潜入する。潜入した神父はヨーロッパ人も多いけれども、日本の学林で一応の教義を学んだ後に国外へ脱走して、マニラやマカオで更に勉強し、修道士(当時これをイルマンという)とか、司祭(つまり神父、パードレである。これを当時バテレン“伴天連”という)に補せられて、さらに日本へ逆潜入する。つまり越境してモスコーへ逃げ、そこで共産主義の筋金を入れて日本へ逆に密入国するという今日の様相と変りはない。外国からの思想が断圧されれば、思想の如何を問わず、時代を問わず、こういう様相が現れるのは当り前のことであろう。 45917_36896.html(135):  謹啓、本当はこの手紙は坂口さんに読んで戴き度いと思って書いたのですが、生憎、坂口さんの住所を知りませんので、“安吾巷談”で、時々貴方様のお名前を拝見致して居りましたので、貴方様なら取ついで戴けそうに思い、不躾けと知りながら、厚かましくも、お願いする次第です。 45917_36896.html(136): “安吾巷談”を受売りした為に、罰金千円の刑に処せられる結果になったと言う私の、農村での笑えぬ喜劇をお知せします。 45917_36896.html(137):  それは昨年の今頃、当地に地方事務所の社会教育委員が来られて、青年団員と、村の有志を集めて座談会を持ったことが有ります。其の席で村の有志の一人が“村の発展は青年の犠牲的精神の発揮の外はない”と言う様なことを発言、皆がそれに賛成されたので私が、“今までは国の為、天皇の為の犠牲、今度は村の為の犠牲か、もう我々青年は犠牲なんていう事は真っ平だ”と発言した処がさあ大変、“今まで天皇様は国民に犠牲を求めたことはない、それは暴言だ、取り消せ”とか何んとか、幾人もの天皇護持者連中にまくしたてられたので、私は浜口さんの“野坂中尉と中西伍長”よりの天皇制問題の処をあの儘受売り、ついでにガンジー流の無抵抗主義より再軍備反対論にまで発展させて論争を終えて帰えったが、翌日になって見たらこのことが村中に尾ひれがついて広まり、“小山田は天皇様を馬鹿と言った、どうも前からおかしいと思っていたが、もう奴は共産党に間違いない、あんな奴は村から追出せ”と言う非難がごう/\、そして毎晩の様に遊びに来ていた青年や、中、高校生達を、“あんな奴の処へ遊びに行くと赤く染まるから行くな”と停め、会社にまで転勤を要請して来たから驚くじゃあ有りませんか、(申遅れましたが私は共産党は好きではなく、真の思想的の自由主義者であり度いと願っています。)こんな非難は私は馬鹿らしくて相手にできませんし、会社も労組も私と言う人間を知っているので、時がこんな下らんうわさは解決するだろうと、無視して呑気に構えていたのですが、田舎の人のしつこさは予想外でしてね、私を落し入れる好機をねらっていたのです、そして電産のレッド・パージの時にはこの時こそと策動したのですが、勿論これも駄目、そして私の多血症をねらってか、或る日、“明日県道修理の義務人夫に出ろ、出られなければ皆にお茶菓子代を買え”と言って来たのです。この様なことは私がこの土地に来るまでは毎月一回位あったのですが、私が青年団をバックとして、運動し昨年より廃止していましたので、村の大ボスと大口論になり、相手よりケられたのでカッとなり二つなぐり返した処が鼻血が出、そのことを種に待ってましたとばかり告訴され傷害罪として罰金千円取られたという訳です。 45917_36896.html(138):  駐在巡査が酔っぱらって盆踊りの中にピストル片手にゆかた掛けで暴れ込み、誰彼かまわずなぐり付けたり、中学校の教官が村の有力者の子供を除き全部なぐったり、私に鼻血を出されたボスが、ある矢張り義務人夫を使う工事で働きが悪いと一人の老人を腰の抜ける程の暴行を加えても平気な村民達が、私の場合だけ問題にしたのは私が他処者、その他何かあるかも知れませんが、坂口氏の、“天皇はお人好かも知れないが、聡明な人間ではない”との言を受売りしたのが最大の原因です。 45919_36898.html(32):  お人形ですから、表情が動く訳ではありませんが、喜びや悲しみが見えるようで、寒くなると風邪をひいたんじゃないかしらと思い、お留守番をさせると、“連れてって”と泣き出す顔が浮んで来て、大粒の涙がポロ/\こぼれたりします。お八ツを買って慌てゝ帰って来ますが、三度々々の食事も、お風呂も、おシマツも人並ですの。勿論食物が喉へ通る訳ではありませんから香りを食べさせて、あと私がいたゞきます。夜寝(やす)む時はガーゼを目にあてて、少しでも光線の当りを防ぎます。 45920_36899.html(71):  さる五月十二日、東京丸の内署に沼田という一人の少年(一八)が「茨城県の堂守殺しの犯人は私です」と自首して出た。自供をきいていると犯行当時の模様についてあまりにも詳しく信憑性があるので同署では東京地検に連絡して堂守殺人事件を調べてみると意外にも次の事実が明になった。問題の事件は昭和廿三年四月廿一日茨城県結城郡蚕飼村の観音堂の中に卅年前から住んでいたヤミ屋の青柳宇一郎という六十九歳のお爺さんが何者かに頭を割られ絞殺され現金千円を奪われていたという事件で、現場付近に遺留されていた米の入った乞食袋を手がかりに、同月廿五日容疑者として住所不定小林三郎(三八)を検挙、続いて廿八日共犯として住所不定大内末吉(三四)を逮捕した。二人は警察、検察庁の調べに対して直に犯行を自供したので起訴され、一審の水戸地裁下妻支部でも犯行を認めたのでいずれも無期懲役の言渡しをうけ東京高裁に控訴、二審では最初から否認したが認められず、さらに最高裁に上告、小林は上告趣意書で次のように述べている。「(前略)窃盗容疑で捕われた友人の内妻から弁護料を頼まれたので、そこで大内と相談して四月十九日以前二三回行ったことのある蚕飼村の爺さん(被害者)のところへ行き“米が一俵あるが買ってくれ”と頼んだところ“今日は金がないから明日にしてくれ”というので、翌日また自分だけで行くと、買出人らしいのが二三人いて爺さんは“今金が入ったから大丈夫”といった。その夜自分と大内は吉沼村の農家から俵を一俵持出し、畠の中で袋に入れかえ二人ともはだしになり蚕飼村へ行った、“今晩は今晩は”と何度もよんだが中から返事がない。そこで大内が“今晩は”と声をかけ雨戸をあけて家の中をみていたが“誰かが倒れているようだ”というので自分も行って月の光に中をのぞいてみると、土間に裸で爺さんが倒れていた。その中大内が“家の中に誰かいる”といったので驚きそのまゝ裏の方に逃げ約三丁程はなれた西方の神社まで夢中で逃げ、そこでもっていた袋を“こんなものを持っていると怪しまれる”と道路の側に捨てた(下略)」と述べ、次の四点について不満をもらしている。高橋の内妻吉田照子を証人によんでくれといったのに何故よばなかったか、二人は当夜泥足で行ったのだから畳に足跡がついているはずだ、大内が後から抱くようにして首を絞めたとすれば大内の着衣に血が着いていなければならぬ、捜査主任は何故私に法廷でこの供述書に書いてある事をひっくり返す様な事をしてくれるなといったか。――しかし大内小林の二人についても、二人がヤミの取引なので「昼は具合が悪いから夜来る」と爺さんに話していたにしても、深夜二時頃というのはあまりにも常識外れではないかというような疑問が残らぬわけではない。結局上告棄却となり無期が確定、服役したものであった。 46145_37005.html(748): 「そこで、われわれは、機先を制した。……ステファン五世の不例を口実にして、機動演習の延期を命令し同時に軍司令部と参謀本部の方略的乖離を計画して、これに成功しました。敵側にとってこれは、非常な打撃だったのです。……われわれは、第一撃に成功した。しかし、当然あるべき第二撃を行わなかった。紛擾をある程度でとどめて置きたい、微温的な感情が、それを躊躇させたのです。われわれが二度目の攻撃的攻撃に移ろうかどうかと気迷いしているうちに、敵は新たな“切り返し(リポスト)”の手を考え出した。ステファン五世急逝の報知でエレアーナ王女殿下がマナイールに到着された日、一士官を使嗾して王女の自動車に発砲させました。不幸なことには、それが、参謀本部に隷属するいわゆる、われわれの一味だった。……ポチョムキンはそれを口実にして、臨終の際に作成された勅令をふりかざし、軍令部が独裁権(イニシアチヴ)をとって、即時に戒厳令を実施してしまいました」 46153_38299.html(28):  二十七の若さで倒れた国分が、これまでなした仕事については、今更私がここにおしゃべりする必要もなかろう。まず昭和五年長瀞に赴任し、文集“がっこ”をつくり、翌年は短期現役を終えてから文集一冊と詩集一冊をつくり、それ以来精力的にコツコツと原紙を切り、ルーラーを回転し、文集“もんぺ”“もんぺの弟”を出した。積み重ねると机の高さにもおよぶであろうこの文詩集をみるたび、私はいったい何をしていたろうかとムチ打たれながら驚いていたのだ。 46153_38299.html(30):  今回、扶桑閣から出版した“教室ノート”は彼の教室記録である。あんな大部な文詩集をつくりながら、よくもこんなに丹念に毎日の記録をとったものだと思わせるほど、国分君はすばらしい教室記録を書き綴っている。この記録は全部未発表のものである。一日一日の子ども生活の観察が、あの鋭い国分の“眼”をとおして描かれている。 46153_38299.html(34):  原稿の整理のことで国分の枕もとを訪ねた私に、幾度か“遺著”になるような気がしてと囁いて、心を暗くさせていた国分も最近では“もう死なない自信がついた”と笑ってくれた。私はこの笑いを、全国の諸兄姉──温かく心を寄せてくださった方がたの前におくりたい。そして扶桑閣のこの仕事(救援出版)をひとりでも援助してくれることを願っている。 46213_45433.html(29):  ”Ja, wie lcherlich! und doch wie reich an solchen Lcherlichkeiten ist die Geschichte! Sie wiederholen sich in allen kritischen Zeiten. Kein Wunder; in der Vergangenheit lsst man sich Alles gefallen, anerkennt man die Notewendigkeit der vorgefallenen Vernderungen und Revolutionen; aber gegen die Anwendung auf den gegenwrtigen Fall strubt man sich immer mit Hnden und Fssen; die Gegenwart macht man aus Kurzsichtigkeit und Baquemlichkeit zu der Ausnahme von der Regel.“ 46213_45433.html(43): ** “Das Resultat ist nur darum dasselbe, was der Anfang, weil der Anfang Zweck ist; ―― oder das Wirkliche ist nur darum dasselbe, was sein Begriff, weil das Unmittelbare als Zweck das Selbst oder die reine Wirklichkeit in ihm selbst hat.”(Phnomenologie des Geistes, Jubilumsausgabe, S. 25.)というヘーゲルの言葉は、我々がもしそれをアリストテレスの書のうちに見出すとしても、我々は驚かないであろう。 46213_45433.html(67): * デボーリンもいっている、「マルクスの遵奉者は惟(おも)うに、なお極めて重要なひとつの任務を遂行しなければならない。……マルクス、エンゲルス、プレハノフおよびレーニンの諸労作に立脚する唯物弁証法の理論の完成という任務を果さなければならない。」Deborin, Materialistische Dialektik und Naturwissenschaft im ”Unter dem Banner des Marxismus“, . Jahrg. Heft 3. S. 431. 46213_45433.html(70): * W. Asmus, Marxismus und Kulturtradition im ”Unter dem Banner des Marxismus“, . Jahrg. Heft 3. 46220_25754.html(107):  外国で暮した三年間は、私のこれまでの生涯において最も多く読書した時期であった。その間、私はあまり旅行もしないで、ほとんど本を相手に生活した。留学は私にとって学生生活、下宿生活の延長に過ぎなかった。幸いなことに――この言葉はここでは少し妙な意味をもっている――私はまた当時思う存分に本を買うことができた。ドイツにおけるあの歴史的なインフレーションのおかげで私たちは思いがけなく一時千万長者の経験をすることができたのである。先日も私はラテナウの『現代の批判』という本を読みながら、初めてドイツに入った日のことを想い起した。マルセーユからスイスを通り、途中ジュネーヴを見物して、ドイツに入ったその日、私たちは汽車の中で見た新聞によってラテナウが暗殺されたことを知ったのである。私たちというのは船の中で知り合った四、五人の仲間で、その中にはブルーノ・タウト氏の弟子となった若い建築家上野伊三郎がいた。(上野の名は岩波新書の『日本美の再発見』におけるタウト氏の文章の中に出てくるから読者の中には記憶されている方もあろう)。今手許にあるヘルデルの百科辞書を開いてみると、ラテナウは一九二二年六月二四日ベルリンで「ユダヤ人並びに[#ここから横組み]“Erfllungspolitiker”[#ここで横組み終わり](ヴェルサイユ条約履行主義の政治家という意味)として国民社会主義の行動派によって暗殺された」とある。ラテナウ暗殺事件以来マルクは急速に下落を始め、数日後にはすでに英貨一ポンドが千マルク以上になった。やがてそれが一万マルク、百万マルク、千万マルクとなり、ついには一兆マルクになるというような有様で、日本から来た貧乏書生の私なども、五ポンドも銀行で換えるとポケットに入れ切れないほどの紙幣をくれるのでマッペ(鞄)を持ってゆかねばならないというような状態であった。ハイデルベルク大学の前にワイスという本屋がある。講義を聴いての帰り、私はよく羽仁五郎と一緒にその本屋に寄って本を漁った。それは私ども外国人にとっては天国の時代であったが、逆にドイツ人自身にとっては地獄の時代であったのである。その頃ドイツには日本からの留学生が非常に多くいた。私の最も親しくなったのは羽仁であったが、私と同時にあるいは前後して、ハイデルベルクにいて知り合った人々には、大内兵衛、北吉、糸井靖之(氏はついにハイデルベルクで亡くなった)、石原謙、久留間鮫造、小尾範治、鈴木宗忠、阿部次郎、成瀬無極、天野貞祐、九鬼周造、藤田敬三、黒正厳、大峡秀栄、等々、の諸氏がある。 46220_25754.html(108):  私がハイデルベルクに行ったのは、この派の人々の書物を比較的多く読んでいたためであり、リッケルト教授に就いてさらに勉強するためであった。リッケルト教授はハイデルベルクの哲学を代表し、その講義はかつてヘーゲルが、クーノー・フィッシェルが、ヴィンデルバントが講義したことがあるという由緒のある薄暗い教室で行なわれた。――リッケルトに『ドイツ哲学におけるハイデルベルクの伝統』(一九三一年)という講演の出版されたものがある。――リッケルト教授には自分の家を離れると不安を感じるという一種の神経性の病気――学生たちはたしか[#ここから横組み]“Platzangst”[#ここで横組み終わり]と称していた――があるということで、大学へはいつも夫人と書生のようにしていたアウグスト・ファウスト氏とが附き添って馬車で来られた。私は教授の著書はすでに全部読んでいたので、その講義からはあまり新しいものは得られなかったが、この老教授の風貌に接することは哲学というものの伝統に接することのように思われて楽しかった。リッケルト教授のゼミナールは自宅で行なわれた。私はそのゼミナールで左右田喜一郎先生のリッケルト批評について報告したが、教授も左右田先生のことはよく記憶しておられたので、嬉しそうであった。タイプライターで打ってもらっておいたその報告を今は失ってしまったのは残念なことに思う。リッケルト教授のゼミナールにはいつもマックス・ウェーベル夫人が出席していられたが、その時のゼミナールの台本として用いられたのは、ちょうど新たに出版されたウェーベルの『科学論論集』であった。 46224_23058.html(78):  かくて我々はデモーニッシュなものの概念を現実的な歴史の概念の欠くべからざる要素として獲得し得るとしても、それはまさにかかるものとして上に述べたが如きゲーテの根本思想とは明かに一致し得ないものを含むであらう。従つてそれはゲーテにとつて当然哲学的に深められ、彼の根本思想と調和され、統一さるべきものでなければならなかつた。そして我々は彼の詩[#ここから横組み]”Urworte――Orphish“[#ここで横組み終わり]をもつてかやうな統一を最もよく表現せるものとして理解することができやう。ゲーテはもとンケルマンの美的観念を通じてギリシア的古代についての明朗な形象を形作つてゐた、この形象の本質的な要素は、オリュムピアの輝ける神々の世界の「高貴な単純さと静かな偉大さ」であつた。然るに一八一七年十月九日付で彼はクネーベルへ宛て、彼がヘルマン、クロイツァ、ゼガ、ヴェルカー等の神話学者により「オルフィク的闇」の中にまで陥つたといふことを書いてゐる。これらの神話学者の仕事はその発展においてシェリングの『サモトラケーの神々』についての論文から、バコーフェンの『古代世界の女性支配』、ローデの『プシュヘー』そしてニイチェの『悲劇の誕生』にまでつらなるものである。云ふまでもなく、「かの憂鬱な秘密」をそのままにしておくことはゲーテの本性にふさはしからぬことであつた。彼は「漠然とした古代を再び精粋化し」、「死んだ文句を自分自身の経験の生命性から再び生新ならしめた」のである。ところでオルフィク的根源語としてゲーテの挙げたのはδαι[#ιはアキュートアクセント(´)付き]μων,τυ[#υはアキュートアクセント(´)付き]χη,ε[#εはダイエレシス(¨)付き]ρω,α[#αはグレーブアクセント(`)付き]να[#αはアキュートアクセント(´)付き]γκη,ε[#εはグレーブアクセント(`)付き]λπι[#ιはアキュートアクセント(´)付き]といふ五つの言葉であつた。この場合テュケー及びアナンケーが運命的なものと見られたところのいはゆる「世界」、前者が偶然と見られる限りのそれを、後者が必然と見られる限りのそれを意味したことは、我々のさきに述べた通りである。然るにここに第一の根源語として掲げられたデモンの見方は、かのデモーニッシュなものの概念と直ちに同じでなく、却て前者において後者はゲーテの根本的立場から深められて解釈されてゐる。デモンは固よりここでも運命、しかも内的な、本来的な運命の意味に理解されてゐる。然しそれは同時にエンテレヒー的モナドの意味と直接に結び付けられる。「デモンはこの場合必然的に誕生に際して直接的に言ひ表はされた、個人の限定された個性、特性的なものを意味し、それによつて個人は、なほ甚だ大なる類似性にも拘らず、いづれの他の個人からも区別される。」とゲーテは説明した。それは「内からして」限りなく発展するものであり、しかもそれは「厳密な限定」である。 46226_45434.html(55):  それ故に私は進んで言葉が存在に及ぼすはたらきのうち最も注目すべきものに関して研究しよう。言葉はその具体性において社会的である。話すということは、或る人が、或る物について、或る人に対して話すという構造をもっている*。言葉のこの構造によって、語られた物は、語る私のものでもなく、聴く彼のものでもなく[#「ものでもなく」は底本では「ものてもなく」]、誰という特定の人のものでなく、我々の共同のものになる。このとき存在を所有する者は「我々」であり、「世間」であり、範疇的なる意味における「ひと」(ドイツ語の”man“――フランス語の≪on≫)である。言葉の媒介を通じて初めて存在は十分なる意味で公共的となる。そして世界を相互いに公共的に所有することによってまた初めて社会は成立する。言葉が社会的であるというのは、言葉によって社会が存在するということである。アリストテレスも人間がロゴスをもっていることが彼の特に社会的なる存在である理由だと述べている**。しかるに存在が言葉によって表現されて社会的となり、「ひと」という範疇において成立する世界へ這入って来るとき、それはひとつの著しい性格を担うに到る。我々が存在の凡庸性もしくは中和性と名づけるものがそれである。私がいま机を買いに行くとする。私は家具屋の主人に向って「机をくれ」という。このとき彼は私をただちに理解して、若干の机を取り出して私に示すであろう。彼が私を理解し得るのは机が言葉において中和的にされているからである。家具店よりの帰途私は電車に乗る。車の中には高位高官の人もあるであろう。場末の商人もあるであろう。また悲しみに充てる人もあり、喜びに溢れたる人もあるであろう。しかしながらこの場合それらの人々のすべては乗客という言葉において凡庸化され、むしろこの言葉の見地から経験されるのである。そのとき二、三の空席が車中に見出されるならば、私はそのいずれであるかを構わず私に与えられた席に腰を卸すであろう。それはそれらの空席がすべて空席として中和的にあるからである。存在がかくのごとく中和性においてあることによって、我々の特に社会的なる実践は可能になる。机がもし中和的に存在し得ないならば、商人は机を売り、私は机を買うことは不可能であるであろう。言葉はその根源性において理論的でなくかえって実践的である。存在の凡庸性の現象はこのことを何よりも明らかにする。言葉が本来社会的実践的であるということを理解するのは、ロゴスとともにまず第一に論理あるいは理論を考えることに慣れている今の人々にとって極めて大切である。そのことと関係して、存在の中和性があたかも概念の普遍性に基づくもののごとく見なす普通に行なわれている誤解から、ひとは全く自由にならねばならぬ。私が家具屋と理解し合うのは机という概念の普遍性によるのである、と一般には思われている。しかしながら、私が「机をくれ」というとき、私は抽象的なる、すなわち理論的に普遍的なる机を意味しているのではなく、かえって私は一個の具体的なる、現実的なる机を買おうと欲しているのである。しかもそのとき机という言葉は私が商人の示す種々なる机を選択し吟味した後買って帰るところの全く特定の机をまさに最初から意味しているわけでもない。もしそうであるならば、何故に商人は一個の机の代りに数個の机を取り出し、そして何故に私は選択と吟味を行なうか、は理解し難きことであろう。存在の中和性は概念の抽象性もしくは普遍性によって成立するのでもなく、また反対にそれの特殊性もしくは個別性によって基礎づけられているのでもない。むしろそれは独立なる、具体的なる、しかもそれぞれの存在を表現する。簡単にいえば、それは存在の Jeweiligkeit の謂(いい)である。現実のどれでもの存在が凡庸性ということによって意味される。アリストテレスのいうτ※[#重アクセント付きο、U+1F78、158-上-2] ※[#有気記号と鋭アクセント付きε、U+1F15、158-上-2]καστονとはかかる性格における存在であって、多くの場合考えられているように個別的なるものの謂ではない。言葉が最初には実践的性質のものであり、そしてこの実践が本質的には社会的性質のものであるところに、存在の凡庸性はその根源をもっている。このとき存在はもちろん交渉的存在である。前段で述べた、「意識―主観」の形式にあってはそれに対するものは客観または対象としての存在であるが、これに反して「言葉―我々」の形式においてそれに対するものは交渉的存在であるのほかない。それ故にギリシア人は物をπρ※[#曲アクセント付きα、U+1FB6、158-上-12]γμαという語で表わした。ところで存在の凡庸性において意識の埋没の行なわれることはもとより明らかであろう。我々が存在に対して懐く愛も憎しみも、主観的なるもの、内面的なるものの一切はそこでは埋没してしまい、したがって存在の主観的なる、内面的なる規定はそこでは隠され蔽われてしまう。けれどもかくして失われるものに比して得られるものは一層大であるであろう。人間の社会的なる、実践的なる規定はそこにおいて発揮され、満足させられることが出来るのである。しかしながら、最も注意すべきことには、かつてはこのように人間の社会性を発展させることに役立ち得た存在の凡庸性は、今ではそれの発展に対する桎梏にまで転化した。かかる転化が行なわれるためには、現実の存在そのものの構造においてすでに重大な変化が成就されていなければならない。けだし近代における存在の凡庸化の原理は商品である。商品が次第に支配的範疇となり、ついには普遍的範疇となるに及んで、存在の凡庸性は人間の社会性の発展を拘束し、妨害することにまで到達した。存在の凡庸性はかくして矛盾に陥り、それとともにロゴスもまた同じ矛盾に陥らねばならなかった。我々はこのことについて考察を試みるであろう。 46226_45434.html(67): * Vorrede zur zweiten Auflage vom ”Wesen des Christenthums,“, 283. 46235_38567.html(232):  “「ねつかれない時に見る光りものと耳なりの響は馬鹿にして居ながらひょうげた可愛らしいものだ」 46235_38567.html(553):  小此木先生の処へ行く。[#ここから横組み]“The rainy day”[#ここで横組み終わり] 46235_38567.html(558): [#ここから横組み]“The day is cold and dark and[#ここで横組み終わり] 46235_38567.html(560): [#ここから横組み]“my thoughts still cring to the past.”[#ここで横組み終わり] 46272_31191.html(28):  せんだって、『暁の雷撃戦』“The Western Approaches”というイギリス映画が輸入されたけれども、これはイギリスのドキュメンタル・フィルムとしては注目さるべき作品である。まず最初、輸送船団の船長と、それを警護する艦隊の艦長の委員会の情景から、クランクが回(ま)わされている。 46288_25730.html(43):  最後の目的、即ち教育の第五の目的に就いて一言せん。之は少しく異端説かも知れないが、僕の考ふるところに據れば、教育は云ふに及ばず、又た學問とは、人格を高尚にすることを以て最上の目的とすべきものでは無いかと思ふ。然るに專門學者に云はせると、『學問と人格とは別なものであれば、學問は人格を高むることを目的とする必要がない。他人より借金をして蹈倒さうが、人を欺さうが、のんだくれになつてゴロ/\して居やうが、己の學術研究にさへ忠義を盡したら宜いじやないか』と云ふ者もある。或は又た、『自分のやつて居る職務に忠勤する以上は、ナニ何所へ行つて遊ばうが、飮まうが、喰はうが、それは論外の話だ』といふ議論もある。學問の目的は、第四に述べた所のもの、即ち眞理の研究を最も重しとすればそれで宜い。人間はたゞ眞理を攻究する一の道具である、それでもう學問の目的を達したものである、人格などは何うでも宜いと云ふ議論が立つならば、即ち何か發明でもしてエライ眞理の攻究さへすれば、人より排斥されるやうなことをしても構はぬと云ふことになるが、人間即ち器ならず、眞理を研究する道具ではない。君子は器ならずと云ふことを考へたならば、學問の最大且つ最高の目的は、恐らく此の人格を養ふことでは無いかと思ふ。それに就いては、たゞ專門の學に汲々として居るばかりで、世間の事は何も知らず、他の事には一切不案内で、又た變屈で、所謂學者めいた人間を造るのではなくて、總ての點に圓滿なる人間を造ることを第一の目的としなければならぬ。英國人の諺に“Something of everything”(各事に就いての或事)と云ふがある。或人は之を以て教育の目的を説明したものだと言ふた。之は何事に就いても何かを知つて居ると云ふ意味である。專門以外の事は何も知らないと云つて誇るのとは違ふ。然るに今此語の順序を變へて見れば、“Everything of something”(或事に就いての各事)と云ふことになる。即ち一事を悉く知るのである。何か一事に就いては何でも知つて居ると云ふ意である。世には菊花の栽培法に就いて、如何なる秘密でも知つて居ると云ふ者がある。或は龜の卵を研究するに三十年も掛つた人がある。さう云ふ人は、人間の智惠の及ぶ限り龜の卵の事を知つて居るであらう。其他文法に於ける一の語尾の變化に就いて二十餘年間も研究した人がある。さうすると其等の事柄に就いては餘程精通して居るが、それ以外のことは知らぬ。是は宇宙の眞理の攻究であるから、第四に述べた所の目的に適つて居る。されど人間としてはそれだけで濟むまい。人間は菊の花や、龜の卵を研究するだけの器械なら宜いけれども、决してさうではない。人間には智識あり、愛情あり、其他何から何まで具備して居るを見れば、必ずそれだけでは人生を完うしたと云ふことが出來ぬ。して見れば專門の事は無論充分に研究しなければならぬが、それと同時に、一般の事物にも多少通曉しなければ人生の眞味を解し得ない。今日の急務は餘り專門に傾き過ぎる傾向を幾らか逆戻しをして、何事でも一通りは知つて居るやうにしなければならぬ。即ち菊の花のことに就いて云へば、おれは菊花栽培に最も精通して居る、それと同時に一寸大工の手斧ぐらゐは使へる、一寸左官の壁くらゐは塗れる、一寸百姓の芋くらゐは掘れる。政治問題が起れば、一寸政治談も出來る、一寸歌も讀める、笛も吹ける、何でもやれると云ふ人間でなければならぬ。之は隨分難かしい注文で、何でも悉くやれる譯にも行くまいが、成るべくそれに近付きたい。所謂何事に就いても何か知ることが必要である。之は教育の最大目的であつて、斯くてこそ圓滿なる教育の事業が出來るのである。茲に至つて人格も亦た初て備はつて來るのであらうと思ふ。 46426_23636.html(130):  それはこうです。その年が暮れて、あくる年のお正月のことでした。Aの家ではある晩のこと、親類や知人の家の子供達を集めて、一晩カルタやトランプなどをして遊んだことがありました。そのあとで“who, when, where, what”という遊びをしたのです。「誰がいつどこで何をした」と読みあげるのです。詳しく言えば、まず紙片(かみきれ)を四枚ずつみんなに渡します。第一の紙片には、自分の名前を書きます。第二の紙片には、昨日とか、子供の時にとか、時を書きます。それから第三の紙片へは場所です。これも想像してなるべく奇想天外な場所を選んで書きいれるのです。そして最後の紙へ何をしたと書いて、それを誰にも見られないように、予(あらかじ)め定(き)めておいた第一の紙片を持つ人に名前の紙を、第二の紙を第二の人に、順々に渡して、みんな揃(そろ)った所で、第一から第二、第三と、連絡をとって読みあげるのです。すると自分の書いた「時」がある人の「所」とくっついたり、人の書いた「したこと」が自分のところへ結びついたりして、思いがけない名文や珍文が出来あがるのです。 46470_24599.html(27):  樹庵次郎蔵、――無論仮名ではあるが、現在この名前を覚えている者は尠(すくな)い。が、“On a toujours le chagrin.”(「人にゃ苦労が絶えやせぬ」)――こう云う人を喰った題名の道化芝居(ピュルレスク)が一九三×年春のセイゾン、フランス一流のヴォドヴィル劇場O座によって上演せられ、偶然それが当って一年間ぶっ通しに打ち続けられたことのあるのを、読者は記憶しておられるかも知れぬ。この作者がわが樹庵次郎蔵であった。 46470_24599.html(78):  夜半の洋々たるS河のながめは思ったよりよかった。鏡のようにすみわたった大空にはいつあらわれたのか丘のような白雲がのろのろとながれ、左岸にそびえる騏麟(きりん)の首みたいなE塔の尖端や、河中にもうろうとうかぶN寺院の壮厳なすがたや、点々とちらばる対岸の灯、前後に架せられたあまたある橋のあかりが、青黒い、暗愁の、ものうげにゆれている河面にゆめのような華彩の影をおとし、いまやS河は、奇っ怪千万な深夜の溜息をはいているのだ。おれはそこにたたずんだまま、しばしはせんこくの戦慄もうちわすれ、河よ、いかなれば汝、かくもくるおしくわが肺腑をつくぞ、とせりふもどきでつぶやきつつ、漫(すいまん)たる水のながれをながめていた。たかい月がおれの頭のうえにあった。するうちに気分がだんだん幻想にひやくしていって、今夜の事件はカルコあたりにはなしてやれば、器用な先生のことだから、“L'homme traqu”ばりの犯罪夜話をでっちあげるかもしれぬぞと思い、それとなくその散文のアトモスフェエルを、ああでもないこうでもないとかんがえはじめた。人殺しのあった娼家に「その夜の男」がなにか持ちものをおきわすれて容疑者に擬せられる、こういう恐怖心理もトリヴィアルではあるが微細に描出すればすぐれたロマンになるかもしれぬ、その証拠物件にはなにがいいだろう、万年ペンはどうかな、万年ペン、万年ペン、万年ペン……とぼんやりつぶやいているうちに、はっとあることに気づいて、あわてて体じゅうのポケットをさぐった。 46470_24599.html(116):  と思わずつぶやき、あの一夜の場景が殺人にしてはいかにも不自然だというふしぶしをまとめてみた。だいいち殺人にしてはあまりに不用意だ。脱走者に処罰をくわえるのだったら、なにも客のいる時をえらぶ手はない。室内の電気がやけに煌々とかがやいていたことや蒼古なかざりのほどこしてあったのも、写真撮影がほんらいの目的であったと思えばうなずけるし、はたして万年ペンから足がついたのかどうかわからぬが、おれがひっぱられたというのも平常から素行が不良で、おれが日本のポオル・ド・コックだと疑われたわけだ。刑事が蔵書をひっくりかえしたり、本格的なものをかけとからかったのも、あとで考えればうなずける。事実この Pornographie は、“Bibliothque des Curieux (collection illustre) Volume 13.”という標題のもとに、あの夜の演技が挿入されて、いちぶの人士間に流布し、おれもふとした機会からながれながれた品物をげんにこの眼でみたことはみたので、この事実にうそはないらしいが、しかし、こんなたかのしれた犯罪の口ふさぎのためにおれを河をこえてまでつけてきて、ドスをぬいてきりかかってきたというのはいささか大仰ではないかと、なにかまだ腑におちないおりのようなおもくるしい懸念をいだいているうちに、翌々日の新聞が、こんどはまえよりもいくらか大きな活字でこの事件のもうひとつのかくされた面をばくろしたというのは、X街の娼家と娼家とのあいだにながれている幅わずか二三尺のどぶのなかに、ひとりの日本女のふはいした屍体が発見されたというニュウスで、この犯人がまえに逮捕された結社の一派で、余罪を追及してゆくうちになかまのひとりが犯行を自白したというのだ。しかし、かれらの陳述がいっぷうかわっているのだ。つまり殺人はほんらいの目的ではなく写真の効果をできるだけほんとうらしくするために、男のほうにある程度まで本気で力をいれてバンドをしめさせたところ、男は手かげんのわからぬふうてんだから、つい度をあやまってしめつけているうちに、まえまえから悪病でむしばまれよわりきっていた女の心臓がじっさいにはれつしてしまったという次第だから、わるふざけはするもんじゃない。さすがのかれらも可愛いい日本娘がほんとに死んでしまったと気づいた時、屍体をとりかこんでおいおいないたという。屍体の始末にはこまったが、さいわい家の裏の、それでなくとも不潔なたえずなまぐさい腐敗臭をはなっている下水のふたをあけて、そのなかにほうりこんでおいたのがうまくいって、本職のほうで足がつくまで、つまりおれがよばれた日までは殺人のあったことも、屍体すらも発見されなかったというからうかつなだんどりじゃないか。そんなことをしてまでも悪事には不感な変質者であるやつらは、その日その日の酒にことをかくところから、たかをくくって出版してしまい、ために悪運つきていっせい検挙となった次第だ。 46473_41341.html(275):  勿論、正確なことは断定出来ないが、その夜の空気は、肉眼に映った程それほど澄明ではなかったのだろう。星の凍るほど寒い、静かな晴夜だった。あのスティヴンスンの好んで書いた“a wonderful night of stars”である。北大西洋には附き物の大きな畝りどころか、小皺一つ無い海面だ。尤も、斯うした早春の静夜には有り勝ちの、水に近く、一めんに浅霧(ヘイズ)が立ち罩めていたのかも知れない。それが、断続的なモウルス燈の点(ダット)と線(ダッシュ)を消して、両船の間に信号を交換させなかったのだろうと解釈されている。 46477_41342.html(69):  ××を受けた後、死へまで殴打されたのだった。その上言語に絶する残虐が屍体に加えてあって、何のためか、左の腋の下から左肋へ掛けて注意深く×り×き、背中の肩胛骨の真下にも、左右に各一つずつ深くナイフを×き×した痕があった。左の肋骨などは、宛然鶏を料理するように、殆んど一本一本丁寧に×り×してあって、やっと、皮膚と些少(すこし)の筋で継がっている状態だった。鼻が根元から綺麗に×がれて、水に洗われて大きな空洞(ほらあな)が開いていた。××から小刀を入して下腹部内部を×き廻したらしく、おまけに、刷毛序でと言ったように左脇腹を××して内臓の一部を手際よく切り取ってあった。屍体のこの部分の損傷は、“some of her organs had been removed with care.”云々とぼんやり公表された丈けで、手許にある当時の新聞にも然う載っている。が、筆者は検屍をしたジェネシイ郡警察医(カウンテイ・コロナー) D. R. Brassie 博士が前記のデトロイト時報記者ラルフ・ガル氏に寄せた個人的手記に基いて、ガル氏が遠廻しに記述しているところを簡明に解釈しているのである。恐らく事態を其の儘伝えているものと信ずる。暴行の事実は、それがこの殺人の第一目的と推定して、疑いを容れる余地もなく、またナイフと事後の水に依る局部の損害にも係らず、幾多の専門的検査ののち明白以上に立証されたところでもある。この以前、一九二七年八月二十八日夜、このブレント入江(クリイク)にもフリント市にも殆んど接続しているマウント・モウリス町の、既述の二事件と同じにこれも共同墓地で、生前同町の郵便局に勤めていた二十二歳の Sandrra G. Baxter という美しい女の二日前に埋めた許りの死屍(しかばね)が掘り返され、死×の上、まるで解剖の稽古のような暴虐なナイフがその全身に施こされてあって大騒ぎをしたことがある。州当局は躍気になって活動したが、この喰屍鬼(グウル)もまだ逮捕を見るに到らないで、既に事件は迷宮に這入った形なのだが、今、グリイン検察官がこのドロシイ殺しの手口を見ると、不必要な程屍体を弄んで嗜虐症とも謂う可き観を遺している点と言い、殊に小刀(ナイフ)の扱い方がまるで外科医のように素人離れしていて鳥渡常識以上の人体解剖の知識と経験を示しているように思われることなど、これはひょっとすると此の両者は同一人の仕業ではあるまいか――と、何か香いを嗅ぐように、グリイン氏の頭脳にぴいんと来たものがあった。 46494_41343.html(43): “There was nobody there ―― just a hand, sticking out of the ground, waving at me!” 46494_41343.html(88): “No entrance. The body has been identitied.” 46494_41343.html(134):  会社の外線係(ラインマン)H・W・ジョンソンに会う。彼は確かに、三月五日、七日の両日に、そのハイランド街六一五番の家へ、休止してある瓦斯管を開きに行ったと語った。そして其の二度目、七日に行った時には、看護婦の白衣を着た女が取次ぎに出て、しかも、家中に強い麻酔剤のにおいがしていて、ジョンソンは尠からず変に思ったというのだ。“Like a hospital”――病院のような臭気だったと彼はガフ刑事に話した。 46503_25618.html(29): “UN HOMME! MOI AUSSI”と心に叫んで、引つかへして、元のOPRAの前の広場に立つた。アアク灯と白熱瓦斯の街灯とが僕の影を ASPHALTE の地面の上へ五つ六つに交差して描いた。 46503_25618.html(30): “VOILA UN JAPONAIS! QUE GRAND!”といふ声が耳のあたりで為た様に思つて振り返つた。五六歩の処を三人連れの女が手を引き合つて BOULEVARD の方へ急いで行く。何処を歩かうといふ考へも無かつた僕は、当然その後から行く可きものの様に急いで歩き出した。 46503_25618.html(39): “HALLO! VOICI”と口々に言つて僕の肩を叩いたのは、先刻の女共であつた。 46503_25618.html(53): “TU DORS?”といふ声がして、QUINQUINA の香ひの残つてゐる息が顔にかかつた。大きな青い眼が澄み渡つて二つ見えた。 46507_25640.html(31):  地方色の価値をかなりに尊重している人は今の画界になかなか多い事である。日本の油絵具の運命というものは、この日本の地方色との妥協の如何によって定まるものと考えている人もあるようである。日本の自然にある犯すべからざる定まった色彩が固有していて、それに牴触しては忽ちその作品の“RAISON D'TRE”(存在理由)がなくなってしまうと考える所から、自分の胸にある燃えるような色彩も、夢のような TON(調子)も抑えつけようとして踟(ちちゅう)逡巡している人も少くないようである。いわゆる地方色に絶対の価値を与えて、それに対してやや異色ありと認めた作品は悉く論外として取扱って、唯の ABSCHAETZUNG(評価)を与える寛典すら容さぬ峻厳の態度に居る人もある。そして、地方色の価値は一般から認められて居るようである。「こんな色は日本にない」という言が非難の表白になって居るのを見てもわかる。僕はその地方色というものを無視したいのである。芸術家の立脚地に立って言をなして居る事はいうまでもない。 46507_25640.html(32):  人が「緑色の太陽」を画いても僕はこれを非なりと言わないつもりである。僕にもそう見える事があるかも知れないからである。「緑色の太陽」があるばかりでその絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。この場合にも、前に言った通り、緑色の太陽としてその作の情調を味いたい。僕はいかにも日本の仏らしい藤原時代の仏像と外国趣味の許多に加わっている天平時代の仏像とを比較して、“LOCAL COLOUR”の意味から前者を取る事はしないのである。DAS LEBEN(生命)の量によって上下したいのである。緑色の太陽を画いた作家の PERSOENLICHKEIT に絶対の権威をもたしめたいと考えている。日本の自然を薄墨色の情調と見るのが、今日の人の定型であるらしい。すべて曇天の情調をもって律しようとしているようである。春草氏の「落葉」がその一面を代表している。黒田清輝氏の如きも、自らは、力めて日本化(?)しようと努力して居らるるらしい。そして、世人はその日本化の未だ醇ならざるをうらんで居る形である。地方色を最も重んずる人に柏亭君が居る。同君のこの趣味は、地方色を重んぜよという理論の側よりも、むしろ氏の性情(テムペラメント)の中に根ざして居る純日本趣味並びに古典的趣味の側から多く要求されているのである。この点に関して非常に鋭敏な氏の感覚は、今の都会の色をいわゆる日本の地方色に遠しとして、丸の内の石垣の水、奈良の春日野、利根の沿岸の方を選ぶのである。一箇の芸術家の趣味性とその眼にうつる自国のいわゆる地方色との一致した最も幸福な一例である。氏が内面の要求に駆られて画かんとする情調は、おのずから今日世人のいう日本の自然の色と適合するのである。そこで氏の感覚には動かすべからざる日本の地方色の EIGENHEIT(特性)というものが確立してしまうのである。氏が最も地方色を重んずる一人となるのは自然な事である。従って氏は盛に地方色の試験管によって多くの作品を検査して居る。氏のいわゆる「西洋臭い」作品はかくの如くして摘出される。作画の技巧にまでもその SAEURE(酸)は影響を及ぼさずには止まないのである。この点は僕の ANARCHISMUS に傾いているのに対して氏は MONARCHISMUS(独裁主義)の形がある。等しく自然を見てもその性情の差によってかくの如く相違して来るのである。もとよりいずれを是としいずれを非とする事の出来ない問題である。 46561_25184.html(43):  今から十五年前に素晴しきノルウエー人ラウラマルホルムのペンから“Woman, a Character Study”といふ著作が現はれた。彼女は現在の婦人解放に対する観念の空虚狭隘なること及び婦人の内部生活に及ぼす其悲劇的結果に対して注意を促がした最初の一人であつた。ラウラマルホルムは彼女の著述の中に天才エレオノラデユーゼ、大数学者兼著述家ソニヤコワレフスカイヤ、夭死せる詩人風の芸術家マリイバシユカアトセフの如き世界的名声を有する天賦ある数人の運命に就て語つてゐる。かくの如く異常なる心力を有する婦人の生涯の記述を通じて円満、完全なる美しき生活に対する不満の欲求とその欠乏より生ずる不安と寂寞の著しき足跡が印せられてゐる。これ等の立派なる心理的描写を通じて吾人は女子の智力が発達すればする程彼女にその性ばかりでなく、人類、友人、伴侶及び強き個性を認める様な配偶者に出遇ふことが愈々むづかしくなつてゆくのを見ない訳にはゆかない。彼女の配偶者は彼女の性格の一点一画をも見逃してはならないのである。 46561_25184.html(48):  仏蘭西の作家ジエーンライブラハは小説“New Beauty”の中に解放せられたる理想的美人を描き出さんと企ててゐる。その理想は医師を職とする一少女に体現せられてゐる。彼女は育児法に就て極めて巧妙に物語る。彼女は又親切であつて貧困なる多くの母に自由に薬を供給する。彼女はある知己の青年と未来の衛生状態に関して会話する。而して汚れたるボロを打捨て、石の壁と床を使用することによりて多くの黴菌が駆除せらるるといふことなどを話す。彼女は勿論甚だ質素に実用的な服装をしてゐる。衣物の色はたいてい黒である。青年は彼女との最初の会合に於て解放せられた友人の智識に敬服する。彼は次第に彼女を理解しやうとする。而してあるうららかな日に、彼はとう/\彼女を愛してゐるといふ意識を持つ。彼等は二人とも若い。女は親切で美しい。たとへ服装はキチンと整ひすぎてはゐるが一点の汚れもない白いカラアとカフスによつて柔かい感じを与へてゐる。読者は青年が彼女に恋を打明けることを期待するであらう。然し彼は馬鹿/\しきローマンスを実行するやうな人間ではない。詩と恋の情熱とはその婦人の純潔なる美の面前に紅葉する顔を被(おお)ふてしまふ。青年は自己の自然の声を黙殺して方正な態度をとる。彼女もまたいつもキチヨウメンで、理性的で、品行方正である。若(も)し彼等が結合を作つたなら、青年は恐らく凍死するの危険を冒さなければならなかつたかも知れないと私は気づかつてゐる。私はこの新しき美人に何等の美を発見する事が出来ないものであることを告白しなければならない。彼女はその夢想する石の壁や床の如く冷淡なのである。私はかの物尺(ものさし)によつて計らるが如き品行方正よりも寧ろロマンチツク時代の恋歌、ドンフハンとヴイナス夫人の恋、或は父母の呪咀と悲哀と隣人の道徳的弁明等を後にして梯(はしご)と縄とによる月夜の出奔を讚美したい。恋愛にして無制限に与へ取ることを知らないなら、それは恋愛でもなんでもない。単にプラスとマイナスに力瘤を入れることを忘れない取引の如きものである。 46636_28155.html(41):  土人の言葉には、ひじょうに幼稚な表現だが奇想天外なものがある。この“Dabukk(ダブックウ)”などもその一つ。直経百海里にもわたるこの大渦流水域を称して、「海の水の漏れる穴」とはよくぞ呼んだりだ。 46636_28155.html(43):  周縁は、海水が土堤のように盛りあがっている。ことに、地球自転の速力のはげしい赤道に面した側は、まさに海面をぬくこと数メートルの高さ。さながら、大環礁(アトール)の横たわる心地す――とは、はじめて“Dabukk(ダブックウ)”をみた De Quiros(デ・クイロス) の言葉だ。 46636_28155.html(44):  この、オウストラリア大陸を発見し損なったそそっかしいスペイン人が、“Dabukk(ダブックウ)”を最初みたのが十七世紀のはじめ。しかし彼は、この化物のように盛りあがった水の土堤に、舵をかえして蒼惶と逃げ出した。そしてそこを、雲霧たちこめるおそろしい湿熱の様から、“Los Islas de Tempeturas(ロス・イスラス・デ・テンペラッス)”と名づけた。すなわち、「颶風の発生域の島々」という意味。 46636_28155.html(47): 「その、島々というのはどういう意味だね。“Dabukk(ダブックウ)”のなかには、島があるのか?」 46636_28155.html(49):  と、なにやら仄めかし気にニッと笑った折竹の眼は、たしかに私を驚死せしめる態の大奇談の前触。そしてまず、“Dabukku(ダブックウ)”の島々について語りはじめた。 46636_28155.html(50): 「ニューギニア土人は、その黒点のようにみえる島を穴と見誤った。海水が、ぐるりから中心にかけて、だんだんに低くなってゆく。それを、勾配のゆるやかな大漏斗のように考えた。つまり、その穴から海水が落ちる。そのため、こんな大きな渦巻ができると、いかにも奴等らしい観察が“Dabukk(ダブックウ)”の語原だよ」 46636_28155.html(97):  そのキューネが、この五月に破天荒な旅を思いたち、独領ニューギニアのフインシャハから四千キロもはなれた、かの「宝島」の著者スチーヴンスンの終焉地、Vailima(ヴァイリマ) 島まで独木舟(カヌー)旅行を企てたのである。両舷に、長桁のついた、“Prau(プラウー)”にのって……かれは絶海をゆく扁舟の旅にでた。そして、海洋冒険の醍醐味をさんざん味わったのち、ついに九月二日の夜フインシャハに戻ってきた。――話はそこで始まるのである。 46636_28155.html(98):  土人の“Maraibo(マライボ)”という水上家屋のあいだを抜け、紅樹林(マングローブ)の泥浜にぐいと舫を突っこむ――これが、往復八千キロの旅路のおわりであった。ところが、海岸にある衛兵所までくると、まったく、なんとも思いがけない大変化に気がついたのだ。そこには、ドイツ兵士は一人もいず、てんで見たこともない土民兵が睡っている。ちょっと、ポリネシア諸島の馴化土人兵(フイータ・フイータ)のような服装(なり)だ。 46636_28155.html(145):  そうして二人は、安住の地へと漂泊をはじめたのであったが……それには、まず行きようもないと云う秘境が必要だ。ところが、独領ニューギニアの最北端に、“Nord-Malekula(ノルド・マレクラ)”という、荒れさびた岬がある。そこには、岩礁乱立で近附く舟もなく、陸からの道には“Niningo(ニニンゴオ)”の大湿地があり、じつに山中に棲む矮小黒人種(ネグリトー)さえ行ったことがないと云う。かれは、まず皇后(カイゼリン)オウガスタ川を遡っていった。 46636_28155.html(146):  両側は、いわゆる多雨の森(レイン・フォレスト)、パプアの大湿林。まい日七、八回の驟雨があり、ごうごうと雷が鳴る。その雨に、たちまちジャングルが濁海と化し――独木舟(プラウー)が、大羊歯(しだ)のなかを進んでゆくようになる。わけても、この皇后(カイゼリン)オウガスタ川はおそろしい川で、鰐や、泥にもぐっている“Ragh(ラー)”という小鱶がいる。 46636_28155.html(147):  ほとんど哺乳類のいないこのニューギニアは、ただ毒虫と爬虫だけの世界だ。やがて、独木舟(プラウー)を芋蔓でつないで、いよいよハチロウを負い“Niningo(ニニンゴオ)”の湿地へとむかった。 46636_28155.html(148):  そのあいだの密林行。繁茂に覆われた陽の目をみない土は、ずぶずぶと沢地のようにもぐる。羊歯は樹木となり巨蘭は棘をだし、蔦や、毒々しい肥葉や小蛇ほどの巻鬚が、からみ合い密生を作っているのだ。その間に、人の頭ほどもある大昼顔が咲き鸚鵡や、巨人(モルフォ)の蝶の目ざめるような鮮色。そしてどこかに、極楽鳥のほのぼのとした声がする。やがて、百足(むかで)を追い毒蛇を避けながら、“Niningo(ニニンゴオ)”の大湿地へ出たのだった。 46636_28155.html(152):  人糞を、このんで食う泥亀(テラピン)をとっては、この数日間二人は腹をみたしていた。しかし彼には、この沼をわたる方法がない。こんなことなら、むしろ中央山脈中に、原始的な生活をしている、矮小黒人種(ピグミー)の“Matanavat(マタナヴァット)”の部落へゆけばよかった。と、此処へきてはや一時間とならぬのに、キューネの面は絶望に覆われてしまった。 46636_28155.html(155):  やがて、ほそい藤蔓のさきに小鳥をつけて飛ばしているうちに、キーッという叫び声とともに、ぐっと手応えがした。たしかに、「うつぼかずら」の大瓶花が小鳥をくわええたにちがいない。とそれをキューネが力まかせに引くと、一茎の攀縁一アール(百平方米)にもおよぶと云う、「大うつぼかずら(ネペンテス・ギガス)」がズルズルと引きだされてくる。まもなく、そうして出来た自然草の橋のうえを、二人が危なげに渡っていたのである。いよいよ、目指す、“Nord-Malekula(ノルド・マレクラ)” 46636_28155.html(167):  娘が、キューネに安心するまでには長時間かかった。もし愛らしいハチロウがこの白人のそばにいなければ、おそらくこの娘は必死に逃走をはかったろう。間もなく、かの女が此処へくるについてのかなしい物語をしはじめた。娘は、名を“Nae-a(ナエーア)”という。 46636_28155.html(168): 「私は、ながらくサモアの国王をやっている“Tamase(タマセ)”の孫です。ところが、どういう訳でしょうか、ドイツ領事が、タマセの王系を絶やそうとするのです。祖父のタマセは、今から三十年ほどまえ伯林へ送られました。また、それから転々として亜弗利加ギニアの、おそろしい土地にも送られたことがあります。 46636_28155.html(170):  この、天人ともに許さぬ白人の暴戻は、キューネをさえ責めるように衝いてくる。まったく、ナエーアが啜り泣きながらいうように、サモアへ帰れば殺されるだろうし、といって、此処に一生いるくらいなら死んだほうが増しだという。まして、この“Nord-Malekula(ノルド・マレクラ)”は、けっして安全な地ではないのだ。 46636_28155.html(172):  そうして間もなく、この“Nord-Malekula(ノルド・マレクラ)”を三人が出ていった。果実や泥亀(スッポン)の乾肉をしこたまこしらえて、また、独木舟(プラウー)にのり大洋中にでたのだ。しかし、今度は目的地もない。ただ、絶海をめぐって、孤島をたずねよう。そしてそこが食物の豊富な常春島(エリシウム)であれば……。 46636_28155.html(242):  それが、いま三人が嗅いでいる“Cohoba(コホバ)”の粉だ。これは元来ハイチ島の禁制物、“Piptadenia(ピプタデニア) peregrina(ペレグリナ)”という合歓科の樹の種だ。土人は、そのくだいた粉を鼻孔に詰めて吸う。すると、忽ちどろどろに酔いしれて、乱舞、狂態百出のさまとなるのだ。いま、その“Cohoba(コホバ)”の妖しい夢のなかで、独木舟(プラウー)は成否を賭け飛沫をあびながら走っている。 46636_28155.html(254):  その島は、周囲八マイルもあるだろうか。ながらく外海と絶縁していたため、ひじょうに珍らしい生物がいる。その一つが、“Sphargs(スファルギス)”だ。鳴く亀である。亀が声を発するとは伝説だけであろうがいま、「太平洋漏水孔(ダブックウ)」のこの島のなかには歴然とそれがいるのだ。そいつは、ガラバゴス島の大亀ほどの巨きさで、四、五百ポンドの巨体をゆすりながら愛らしい声で鳴く。私は、肉も食ったが、ひじょうな美味だ。 46636_28155.html(268):  私は、今夜ハチロウを外海へ出そうというのだ。それには、渡り鳥である鰹鳥を利用する。さらに“Cohoba(コホバ)”をハチロウにもちいて泥々に酔わせて置く。そして、そのハチロウを入れた籠を鰹鳥にひかせる。おそらく、五羽の鰹鳥はその籠をひいて、底をかすかに水面に触れながら、まっしぐらに突っ切るだろう。 46636_28155.html(292): ※初出時の表題は、「“太平洋漏水孔”漂流記」です。 46845_29569.html(809):  しからば私は哲學者が教へたやうに神の豫定調和にあつて他との無限の關係に入つてゐるのであらうか。私は神の意志決定に制約されて全世界と不變の規則的關係に立つてゐるのでもあらうか。しからば私は一つの必然に機械的に從つてゐるのであり、私の價値は私自身にではなく私を超えて普遍的なものに依存してゐるのではないか。私はむしろ自由を求める。そして私がほんとに自由であることができるのは、私が理智の細工や感情の遊戲や欲望の打算を捨てて純粹に創造的になつたときである。かやうな孤獨とかやうな創造とのうちに深く潛み入るとき、詩人が“Voll milden Ernsts, in thatenreicher Stille”と歌つた時間において、私は宇宙と無限の關係に立ち、一切の魂と美しい調和に抱き合ふのではないであらうか。なぜならそのとき私はどのやうな無限のものもその中では與へられない時間的世界を超越して、宇宙の創造の中心に自己の中心を横たへてゐるのであるから。自由な存在即ち一個の文化人としてのみ私は、いはゆる社會の中で活動するにせよしないにせよ、全宇宙と無限の關係に入るのである。かやうにしてまた個性の唯一性はそれが全體の自然の中で占める位置の唯一性に存するのではなく、本質的にはそれが全體の文化の中で課せられてゐる任務の唯一性に基礎附けられるものであることを私は知るのである。 46947_33291.html(1372):  黄(きいろ)い本の表紙には、[#ここから横組み]“True(ツルー) Love(ラヴ)”[#ここで横組み終わり]と書かれた。文科の学生などの間に流行(はやつ)てゐる密輸入のアメリカ版の怪しい書(ほん)だ。 4695_25761.html(1305):  黄ろい本の表紙には、[#ここから横組み]“True Love”[#ここで横組み終わり]と書かれた。文科の學生などの間に流行(はや)つてゐる密輸入のアメリカ版の怪しい書だ。 46996_40612.html(951): 145 正しく曰はばイーカリオス。ダイダロスの子イーカロス人工の翼を附けて天に上る、而して誤りて落下し海に沈む、これよりイーカリオス海と呼ばる。バートランド・ラッセル先年“Icarus”を著し、道義を伴はざる物質文明の沒落を諷す。 46996_40612.html(8634): 243 此名句は古人の賞嘆する處、アリストテレスの修辭學十一章、二十一章、プルタルコスのピルロス傳二十九章‥‥に引用。Vossの譯“Ein Wahrzeichen[#「Wahrzeichen」は底本では「Wahrzeien」] nurgilt, das Vaterland zu erretten“ 4702_19344.html(103):  もとよりその外に祐信や清長の見方が出來る。祐信の繪本に、炬燵にあたつて居る女の傍に小鍋立のしてある繪があつた。門の外は降りつむ雪で、ちやうど男が傘をつぼめた所である――河沿ひの低い絃聲のする家の窓から河原の布晒を見るのは此の趣味であらう。然しかう云ふ事をかくと予自身に此遊仙窟(ルパナアル)に對する憧憬があるやうに思はれて不利益である。“Olenti in fornice”はホラチウスの領分であるやうに「祇園册子」は吉井勇君の繩張である。 47086_27953.html(39):  禪にも或時代には參したのであるが、參禪などしない中から寒月流の一家の悟りを開いてゐるのだから、そして又恐ろしい禪師に出會するやうな機縁も無かつたのであるから、傍(はた)から觀ると禪師の方は立派な師家であらうが、氏の方が中洒落てゐる。本所の五百羅漢寺で或時問答をしたのを、丁度誘引されて傍觀した事があるが、思ひ出しても涙がこぼれるほどおもしろかつた。禪師が侍者を具して威張り込んで椅子にかけてゐると、僧俗が交(かは)る/″\出て何か云ふ、應酬宜敷あるといふ次第だ。やがて氏が出て、何をいふかとおもふと、如何なるか是れらいうん、と何か分らない方角を指でさして問うた。予には何だか分らなかつた。「らいうん」なんて何の事だか誰にも分らなかつたらう。すると禪師は、先刻既に説了す、と答へた。流石に澄ましたものだ。氏はそこで工合よく禮を作(な)して而して去つたのである。其場はそれで濟んで仕舞つたのであるが、自分にも「らいうん」といふのが何樣も、トツケも無くて分らなかつた。何樣も禪録にも「らいうん」といふのは思當らないので、後で、あの「らいうん」といふのは何だね、と聞くと、らいうんは來る雲さ、雲がブラ/\と來る其意は何樣だと問うてやつたのさ、と云ふので、予は堪(たま)らなくなつて笑ひ出すと、氏も一緒になつて面白がつて笑つてゐるのであつた。後年基督教の外人宣教師が小梅あたりに來て住んでゐたので、氏も其教を聽いたから、宣教師の妻が氏の家に訪ふに及んだ。ところが來て見ると、室中一ぱいに色な物がゴテゴテ有る、中にも古い佛像などが二ツや三ツで無く飾つてあつたので、外國婦人の事だから眼を瞠(みは)つて驚いた。氏は其樣子を見て、其等の偶像を指さしながら、“All is my toys.”と云つたので、其日だつたか其次の日だつたか、其談を聞いて、予は「らいうん」を思ひ出して、おもしろいと思つた。 47120_27916.html(28):  私はその頃、神戸に住んでいたが、その九歳の年の六月一日に、兵庫の中島の許へお弟子入りをした。師匠が手を取って、最初に教えられたのは「四季の花」であったが、その唄い出しの“春は花”という節の箏の音色に、私は幼いながらも、何か美しいものを感じた。 47297_33239.html(30):  わたくしがこんどの文展に出品したのは能楽にある小町の“草紙洗(そうしあらい)”ですが、しかしこれは能楽そのものをそのままに取ったのではありません。小町の描出を普通の人物に扱ったものですから、画面の小町は壺織の裲襠(うちかけ)に緋の大口を穿(うが)っているのは、能楽同様な気持ですけれども、その顔には面(おもて)を着けてはおりません。ですが、面(めんぼう)を能楽の面に型どっているところに、十分能楽味を保たしたわたくしの心持が表われているつもりです。この能楽に取材して、それを普通の人物に扱ったという点に、わたくしのある主張やら好みやらが含まれているわけです。 47297_33239.html(34):  わたくしはこの前の文展に、やはり能楽に関した“序(じょ)の舞(まい)”というのを出品いたしましたが、あまり能楽がつづきますので、どうかと思う鑑賞家もいられるかと思いますが、そこがわたくしの能楽道楽なところでこういうものなら幾らでも描いてみたい希望をもっています。 47297_33239.html(42):  面(おもて)は喜怒哀楽を越えた無表情なものですが、それがもし名匠の手に成ったものであり、それを着けている人が名人であったら、面は立派に喜怒哀楽の情を表わします。わたくしは曽て金剛巌師の“草紙洗”を見まして、ふかくその至妙の芸術に感動いたしたものですから、こんど、それを描いてみたのでした。 47297_33239.html(44):  小町の“草紙洗”というのは、ご存じのとおり、宮中の歌合せに、大伴黒主(おおとものくろぬし)が、とうてい小町には敵わないと思ったものですから、腹黒の黒主が、小町の歌が万葉集のを剽窃(ひょうせつ)したものだと称して、かねて歌集の中へ小町の歌を書きこんでおき、証拠はこの通りといったので、無実のぬれ衣を被(き)た小町は、その歌集を洗って、新たに書きこんだ歌を洗いおとし黒主の奸計をあばくという筋なのです。 47498_37028.html(104):  六、飛んだり跳ねたりマリオネットの兎小僧。北は巴里を基点として、南は仏伊の国境マントンに至る、ここは仏蘭西の※[#5分の4、26-上-8]を縦に貫く坦々たる国有道路(ルウト・ナシォナアル)。この大道を、磨き上げられた宝石のごとき [#ここから横組み]Peugeot-“103”[#ここで横組み終わり]、海鱸(あしか)のごとき Renault の Les Stella、さてはロオルス・ロイス、イスパノスュイザ、――おのがじし軽やかな警笛(シッフル)と香水の匂いを残して、風のごとく爽(さわ)やかに疾駆するうちに、模様入りの考古学的な自動車が、大いなる蝙蝠傘(こうもりがさ)をさした二人の東洋人を乗せ大工場の移転のごとき壮大な爆音をたて、蒙々たるギャソレンの煙幕を張って、あたかも病みあがりのロイマチス患者のごとき蹌踉(そうろう)たる歩調(あしどり)で、大道狭しと漫歩しているのは、まことに荘重類ない眺めであった。進むと見ればたちまち退き、右によろめき左にのめくり、一上(じょう)一下(げ)、輾転反側。さればコン吉は、手鍋(キャスロオル)の中で炒(い)られる腸詰のごとく、座席の上で転げ廻りながら、ここを先途(せんど)と蝙蝠傘に獅噛(しがみ)ついている様子。 47746_34008.html(38):  ……やがて花の山へかかってきた。番茶の酒盛――“お茶(さ)か盛”がはじまったい。発案者たる大家さんはひとりで気分を出して悦に入るが、長屋の衆はアルコール分がないから滅入るばかりだ。第一、ダブダブの茶腹には、春の日の風が冷たかった。ますます御恐悦の大家さんは一句詠めとおっしゃるけれど、ダ、誰がおかしくって。それでもやっとこさ誰かの一句詠んだのが、「長屋中、歯をくいしばる花見かな」。 47746_34008.html(67): 「よしてくれ病づかせるのは。そんなンじゃアねえ。こちとら、貧乏の“棒”が次第に太くなり、振り廻されぬ年の暮れかなだ」 47851_31630.html(32):  井上博士曰スペンサー氏は所謂「不可知」を説て宇宙の本體なるものは何である乎決して解らぬ、それは哲學の研究すべき領域でないといふやうに説て居るが是は甚だ謬つたことであるけれども併しヘッケル氏に至ては決してそれどころのことではない、靜的實在を全く輕蔑して居る、全く無いものとも言はぬけれども何の用をもなさぬものゝやうに論じて居る、それは左のヘッケル氏の文で解る、[#ここから横組み]Was als ”Ding an sich“ hinter der erkennbaren Erscheinungen steckt, das wissen wir auch heute noch nicht. Aber was geht uns dieses mystische ”Ding an sich“ berhaupt an, wenn wir keine Mittel zu seiner Erforschung besitzen, wenn wir nicht einmal klar wissen, ob es existiert oder nicht?[#ここで横組み終わり]ヘッケル氏の個樣なる議論といふものは全く實在を無視して居る、同氏は又宗教をも全く迷信として顧みないのであるが同氏を尊崇する加藤の如きも矢張同樣である、然るに宗教の古來今日迄存在して居るのは宇宙間には到底自然科學で解釋の出來ぬものがあるから、そこで宗教が必要になるのであつてスペンサー氏の如きも「不可知」を立てゝ宗教と科學とを調和することに努めたから多少道理が立つけれどもヘッケル氏に至ては左樣なことさへせぬのである云々。 47933_39432.html(43):  なんでも大學の文學部の教室かなんかの中らしかつた。僕のまはりには多くの學生達ががやがや話し合ひながら、教師の來るのを待つてゐる。そのうち一人の學生が僕に近づいてきて、僕に一册の洋書を見せてくれた。白いアートペエパアの表紙の本だつた。手にとつて見ると、その表紙には“P. O. P.”と云ふ横文字があるきりだつた。僕が口の中でそれを「ポップ」と發音すると、その男が「ピオピ」と僕の發音を直してくれた。なんでもその男の話によると、その本は英吉利の作家の中で一番新しい作家の書いた小説ださうである。僕はその本を開いて見て、或る一節にざつと目を通した。なるほど、僕がこれまで讀んだこともないやうな、奇拔な、なかなか新鮮な英文であつた。……ところが、その夢が醒めてからも、僕は何だか、その讀んだばかりの奇矯な英文がまだ頭の何處かに殘つてゐるやうな氣がしたので、一生懸命にそれを思ひ出して見ようとした。が、やつと思ひ出したと思ふと、それは無慘にも gentleman, try and do three と云つたやうな何の意味やら分らない文章の切れつぱしだつたり、obac と云ふ奇妙な單語だつたりしたのでがつかりした。これでは僕の貧弱な語學力を示すのみに過ぎまい。とは云へ、その夢の中で讀んだ小説の文章の妙に生き生きと美しい感じだけは、いまだに僕の腦裡を去らずにゐる。 47962_34295.html(87):  ある朝、私は「サウル」の中の[#ここから横組み]“On Sweetest Harmony”[#ここで横組み終わり]の曲を口ずさんでゐた。ジョンがそれを聞いて私に言つた。「君は何故その曲を口ずさんでゐるのか知つてゐるかい?」 47962_34295.html(89): 「二分ばかり前、僕が[#ここから横組み]“Eagles were not so swift”[#ここで横組み終わり]を口ずさんでゐるのを君は聞きはしなかつたか?」 47962_34295.html(90):  私はどうもその覺えがないし、それに私がその合唱を自分でやつたのはよほど昔のことだつたから、私がそれを意識的に認めてゐたとは考へられないが私がそれを無意識的に認めてゐたことは、私がそれの次にくる[#ここから横組み]“On Sweetest Harmony”[#ここで横組み終わり]を口ずさんでゐたことからして明瞭である。 48091_41362.html(50):  ある事件に当面すると彼は小獣を見つけた虎のように緊張する。この緊張裡に彼の微細な推理力は醗酵するらしい。ワトソンが早目に「どうだね、わかったかね?」というような質問をする。すると彼は答える。“I can not make bricks without clay”(粘土がなくちゃ煉瓦は造れないよ)材料がなくては見当がつかぬという意味だ。これまた味わうべき言(げん)である。下手な探偵は粘土なしに張り子の煉瓦をこしらえがちである。そういう軽率なことは彼はしない。 48096_41610.html(33):  探偵小説といえば、こないだ帰った木村毅(き)君に、何か面白い本はないかといって借りた Five Striking Stories というのはそうとう面白かった。アンリ・デュヴェルノア、ジョゼフ=ルノー、ピエール・ミール、アンドレ・ワルノッド、モーリス・ルヴェルの五人のフランスの作家のものを英訳したものだ。序文によるとそのうちのデュヴェルノアのものは「ジャックリーン」という題で、英訳者は、これを英訳して、イギリスとアメリカとの若干の雑誌へ送ったところが、“Powerful, but too Strong for English taste” という意味の文句をそえて申しあわせたように返送してきたそうだ。 48144_47601.html(49):  “I am young”斯うイプセンの戲曲の中のあのボルクマンの息子が母親の前に繰返して言つてゐる所を讀んだ時には、私には、何故といふ事もなく、その青年が私の平生好まない顏――薄つぺらな感じのする顏をしてゐるやうに思はれて、それからその青年の戀人とを乘せて新しい旅にかしまだつ橇の銀の鈴の音が、雪の夜の林の奧から爽かに響いて來るのを、取殘された三人の老人が思ひ/\の心で耳を傾けて聞くといふ暗示的な幕になつても、その幻が私の心から去らなかつた。 48144_47601.html(50):  しかしそれは眞の一時の好惡に過ぎなかつた。少くとも、その青年の繰返した言葉そのものの爲めにさう思はれたのではなかつた“I am young”年若い者と年老つた者との間に、思想の上にも、感情の上にも越え難い溝渠の出來てしまつた時代に於いては、その年若い者の年老つた者に對して言ふべき言葉は、昔も今も、唯この簡單な宣言の外に無い。簡單に相手と自分との相違を宣言して、さうして委細構はず大跨に自分の行きたい方角へ歩み出す外は無い。よしや千萬言を費しても自分等の心持ちなり、行ひなりを親切に説明して見たところで、その結果は却つて頑固な對手の心に反感と恐怖とを深くするばかりである。 48164_47278.html(135):  Law could have no grip upon these things. Only a vigorous social movement, which would attack the very roots of the evil, could reform the habits and customs of everyday life; and in Russia this movement―this revolt of the individual―took a far more powerful character, and became far more sweeping in its criticisms, than anywhere in Western Europe or America, “Nihilism” was the name that Turguneff gave it in his epoch-making novel, “Fathers and Sons.” 48164_47278.html(136):  The movement is often misunderstood in western Europe, in the press, for example, Nihilism is confused with terrorism. The revolutionary disturbance which broke out in Russia toward the close of the reign of Alexander II., and ended in the tragical death of the Tsar, is constantly described as Nihilism. This is, however a mistake. To confuse Nihilism with terrorism is as wrong as to confuse a philosophical movement like Stoicism or Positivism with a political movement, such as, for example, republicanism. Terrorism was called into existence by certain special conditions of the political struggle at a given historical moment. It has lived, and has died. It may revive and die out again, But Nihilism has impressed its stamp upon the whole of the life of the educated classes of Russia, and that stamp will be retained for many years to come. It is Nihilism, divested of some of its rougher aspects―which were unavoidable in a young movement of that sort―which gives now to the life of a great portion of the educated classes of Russia a certain peculiar character which we Russians regret not to find in the life of Western Europe. It is Nihilism, again, in its various manifestations which gives to many of our writers that remarkable sincerity, that habit of “thinking aloud”, which astounds western European readers. 48164_47278.html(137):  First of all, the Nihilist declared war upon what may be described as the “conventional lies of civilized mankind”. Absolute sincerity was his distinctive feature, and in the name of that sincerity he gave up, and asked others to give up, those superstitions, prejudices habits, and customs which their own reason could not justify. He refused to bend before any authority except that of reason, and in the analysis of every social institution or habit he revolted against any sort of more or less masked sophism. 48164_47278.html(139):  The life of civilized people is full of little conventional lies. Persons who dislike each other, meeting in[#「in」は底本では「is」] the street, make their faces radiant with a happy smile; the Nihilist remained unmoved, and Smiled only for those whom he was really glad to meet. All those forms of outward politeness which are mere hypocrisy were equally repugnant to him, and he assumed a certain external roughness as a protest against the smooth amiability of his fathers. He saw them wildly talking as idealist sentimentalists, and at the same time acting as real barbarians toward their wives, their children, and their serfs; and he rose in revolt against that sort of sentimentalism, which, after all, so nicely accommodated itself to the anything but ideal conditions of Russian life. Art was involved in the same sweeping negation. Continual talk about beauty, the ideal, art for art's sake, aesthetics, and the life, so willingly indulged in―while every object of art was bought with money exacted from starving peasants or from underpaid workers, and the so-called “worship of the beautiful” was but a mask to cover the most commonplace dissoluteness―inspired him with disgust; and the criticisms of art which one of the greatest artists of the century, Tolsty, has now so powerfully formulated, the Nihilist expressed in the sweeping assertion, “A pair of boots is more important than all your Madonnas and all your refined talk about Shakespeare”. 48164_47278.html(142):  We used in Irktsk to meet once a week in a club, and to have some dancing, I was for a time a regular visitor at these soires, but gradually, having to work, I abandoned them. One night, as I had not made my appearance for several weeks in succession, a young friend of mine was asked by one of the ladies why I did not come any more to their gatherings. “He takes a ride now when he wants exercise”, was the rather rough reply of my friend, “But he might come to spend a couple of h'ours with us, without dancing”, one of the ladies ventured to say. “What would he do here ?” retorted my Nihilist friend, “talk with you about fashions and furbelow ? He has had enough of that nonsense”. “But he sees occasionally Miss So-and-So”, timidly remarked one of the young ladies present, “Yes, but she is a studious girl”, bluntly replied my friend, “he helps her with her German”. I must add that this undoubtedly rough rebuke had the effect that most of the Irktsk girls began next to besiege my brother, my friend, and myself with questions as to what we should advise them to read or to study. With the same frankness the Nihilist spoke to his acquaintances, telling them that all their talk about “this poor people” was sheer hypocrisy so long as they lived upon the underpaid work of these people whom they commiserated at their ease as they chatted together in richly decorated rooms: and with the same frankness a Nihilist would inform a high functionary that he (the said functionary) cared not a straw for the welfare of those whom he ruled, but was simply a thief ! 48164_47278.html(143):  With a certain austerity the Nihilist would rebuke the woman who indulged in small talk, and prided herself on[#「on」は底本では「one」] her “womanly” manners and elaborate toilette. He would bluntly say to a pretty young person: “How is it that you are not ashamed to talk this nonsense and to wear that chignon of false hair ?” In a woman he wanted to find a comrade, a human personality―not a doll or “muslin girl”―and he absolutely refused to join those petty tokens of politeness with which men surrounded those whom they like so much to consider as “the weaker sex”. When a lady entered a room a Nihilist did not jump off his seat to offer it to her―unless he saw that she looked tired and there was no other seat in the room. He behaved towards her as he would have behaved towards a comrade of his own sex: but if a lady―who might have been a total stranger to him―manifested to desire to learn something which he knew and she knew not, he would walk every night to the far end of a great city to help her with his lessons. The young man who would not move his hand to serve a lady with a cup of tea, would transfer to the girl who came to study at Moscow or St. Petersburg the only lesson which he had got and which gave him daily bread, simply saying to her: “It is easier for a man to find work than it is for a woman. There is no attempt at knighthood in my offer, it is simply a matter of equality”. 48164_47278.html(144):  Two[#「Two」は底本では「Tow」] great Russian novelists, Turguneff and Goncharff, have tried to represent this new type in their novels, Goncharff, in Precipice, taking a real but unrepresentative individual of this class, made a caricature of Nihilism. Turguneff was too good an artist, and had himself conceived too much admiration for the new type, to let himself be drawn into caricature painting; but even his Nihilist, Bazroff, did not satisfy us. We found him too harsh, especially in his relations with his old parents, and, above all, we reproached him with his seeming neglect of his duties as a citizen. Russian youth could not be satisfied with the merely negative attitude of Turguneff's hero. Nihilism, with its affirmation of the rights of the individual and its negation of all hypocrisy, was but a first step toward a higher type of men and women, who are equally free, but live for a great cause. In the Nihilists of Chernyshvsky, as they are depicted in his far less artistic novel, “What is to be Done ?” they saw better portraits of themselves. 48164_47278.html(145):  “It is bitter, the bread that has been made by slaves”, our poet Nekrsoff wrote. The young generation actually refused to eat that bread, and to enjoy the riches that had been accumulated in their father's houses by means of servile labour, whether the labourers were actual serfs or slaves of the present industrial system. 48164_47278.html(146):  All Russia read with astonishment, in the indictment which was produced at the court against Karakzoff and his friends, that these young men, owners of considerable fortunes, used to live three or four in the same room, never spending more than ten roubles (one pound) apiece a month for all their needs, and giving at the same time their fortunes for co-operative associations co-operative workshops (where they themselves worked), and the like. Five years later, thousands and thousands of the Russian youth―the best part of it―were doing the same. Their watchword was, “V nard !” (To the people; be the people.) During the years 1860―65 in nearly every wealthy family a bitter struggle was going on between the fathers, who wanted to maintain the old traditions, and the sons and daughters, who defended their right to dispose of their life according to their own ideals. Young men left the military service, the counter, the shop, and flocked to the university towns. Girls, bred in the most aristocratic families, rushed penniless to St. Petersburg, Moscow, and Kieff, eager to learn a profession which would free them from the domestic yoke, and some day, perhaps, also from the possible yoke of a husband. After hard and bitter struggles, many of them won that personal freedom. Now they wanted to utilize it, not for their own personal enjoyment, but for carrying to the people the Knowledge that had emancipated them. 48307_38461.html(25):  ノワイユ伯爵夫人(Anna-Elisabeth Bassaraba de Brancovan, Comtesse Mathieu de Noailles)は一八七六年十一月十五日巴里に生れた。父は Grgoire Bibesco 公爵で、その希臘系の母方から Brancovan の名を繼いだ人である。母は Ralouka[#uはブレーヴェ付き] Musurus[#すべてのuはブレーヴェ付き] といひ、駐英土耳古大使をしてゐた Musurus[#すべてのuはブレーヴェ付き] Pashe の娘であつた。青みがかつた黒髮、蒼白い顏、大きな眼をした、小柄なアンナは、非常に東洋風な風采があり、希臘人を組先にしてゐることに少からぬ誇りをもつてゐる。生れたのは巴里であるが、少女時代をおほくレマン湖畔のアンフィオンにあるヴィラ・ブランコバンで過ごし、サヴォアの美しい自然から深い影響を受けた。又、コンスタンチノプルに旅をしたこともあつた。幼少のときから詩作をはじめ、ユウゴオやミストラァルなどにも會つたりした。二十一のとき Mathieu de Noailles 伯爵と結婚した。夫の母 Duchesse de Noailles からはイル・ド・フランスの明るい空を愛する趣味を得た。そのころ巴里のサロンに出入して、アナトオル・フランスやモオリス・バレスなどと知り合つた。二十五のとき處女詩集[#ここから横組み]“Le Cur Innombrable”[#ここで横組み終わり](1901)を公にして、世を驚嘆せしめた。ユウゴオの影響のもとに、きはめて浪漫的な熱烈な詩風をもつて人生を歌ひ、その自然に對する愛情によつてフランシス・ジャムと竝び稱せられた。ことに[#ここから横組み]“Offrande Pan”[#ここで横組み終わり][#ここから横組み]“Bitt”[#ここで横組み終わり]などの詩は赫灼たる古代を喚起せしめて見事である。第二詩集[#ここから横組み]“L'Ombre des Jours”[#ここで横組み終わり]は一九〇二年上梓。卷頭の[#ここから横組み]“Jeunesse”[#ここで横組み終わり]において、この若き浪漫主義者は自分から青春の失はれゆく日の胸ゑぐらるるがごとき思ひを歌つてゐる。又「わがもの書くは、われ亡きのち、いかばかり人生と幸福なる自然とをわが愛せしかを人びとに知らしめんがためなり」(J'cris pour que le jour o je ne serai plus ……)といふ詩などもある。その後、しばらく詩作から離れて、三つの小説を續けて書いた。[#ここから横組み]“La Nouvelle Esprance”[#ここで横組み終わり](1903)[#ここから横組み]“Le Visage Emerveill”[#ここで横組み終わり](1904)及び[#ここから横組み]“La Domination”[#ここで横組み終わり](1905)の三篇で、いづれも女の狂ほしい熱情を殘忍なまでに手きびしく描いたものである。そのうち、日に赫いた、花のにほひのする修道院のなかで、春の息吹きに苦しめられる一人の處女を描いた[#ここから横組み]“Le Visage Emerveill”[#ここで横組み終わり]が佳作である。その後、再び詩に戻つて、[#ここから横組み]“Les Eblouissements”[#ここで横組み終わり](1907)を公にした。彼女の生への強烈な愛は、この詩集においてもつとも見事に、もつとも人間的に展開せられてゐる。彼女が太陽と光を歌つてこれほど壯烈だつたことはない。が、又、その生の歡喜をこれほど死の考へによつて暗くせられたこともない。「ああ、わが生を享けしは死のためにはあらざるぞ。」(Hlas! Je n'tais pas faite pour tre morte.)この詩集を書いた後、詩神はひさしく沈默した。約六年間、彼女は羅馬やナポリや西班牙などを旅行したり、少女時代を過ごしたレマン湖畔のアンフィオンに歸つて籠居したりしてゐた。そして遂に一九一三年になつて第四詩集[#ここから横組み]“Les Vivants et les Morts”[#ここで横組み終わり]を書いた。生と死との神秘的な對立はいよいよ彼女にとつて大きな主題となつて來た。歐州大戰の起るや、彼女はユウゴオばりの幾多の詩によつて兵士たちを謳へた。次の詩集[#ここから横組み]“Les Forces ternelles”[#ここで横組み終わり](1921)はいまだ戰爭の思ひ出に活氣づけられてゐるが、彼女はやがて平生の主題に立ち返つて來てゐる。「わが心のうちに諍ひ合ふ二つのものあり、バッカスの巫女と尼と。」(Deux tres luttent dans mon cur: c'est la Bacchante avec la nonne.)一九二四年に第五詩集[#ここから横組み]“Pome de l'Amour”[#ここで横組み終わり]上梓。前の詩集とは見ちがへるほど簡潔な手法で、戀する女のなげかひを詠じた、連作風のものである。次の詩集、[#ここから横組み]“L'Honneur de Souffrir”[#ここで横組み終わり](1927)も、きはめて地味な、明晰な手法で、一友の死を契機として、死についての冥想を抒べたものである。「われはすでにあまりにも生の榮譽を歌ひぬ。」(J'ai trop chant jadis l'honneur d'tre vivant.)最後の詩集は幼年時の詩を集めた[#ここから横組み]“Pome d'Enfance”[#ここで横組み終わり](1928)であつた。以上の七卷の詩集のほかに、隨筆集[#ここから横組み]“Les Innocentes ou la Sagesse de Femmes”[#ここで横組み終わり](1923)[#ここから横組み]“Exactitudes”[#ここで横組み終わり](19330)及び囘想記[#ここから横組み]“Le Livre de ma Vie”[#ここで横組み終わり](1932)がある。最後の著には、佛蘭西のもつとも洗煉された教養と東洋の遺傳との融合した家族のおもひで、ことにピアノの上手だつた美貌の母のことや、レマン湖の靜謐、コンスタンチノプルの華麗などが、魅力のある筆で敍せられてゐる。しかしその書を完成せずに、ノワイユ夫人は一九三三年四月三十日巴里に死んだ。 48363_34007.html(213):  オトナになってから、私は、そんなふうには思わなくなった。人が先天的に「与えられ」て置かれた境遇の良さに対して悪意を持つことは、先天的に貧寒な悪い境遇に置かれた人をケイベツする事と同様に同程度に、浅薄な偏見だと言うことが、私にわかったからである。だから年少の頃の反感は、宮本百合子に対して、完全に私から消えた。以来、私にとって、宮本百合子など、どうでもよかった。自分に縁の無い、好きでもきらいでも無い路傍の女文士であった。もっとも、その間も、この人の書いたものの二、三を読んだ記憶はある。しかし、たいがい自分には縁もユカリも無い世界のような気がし、加うるにその書きかたも書かれた人物たちもなんとなくキザなような印象を受けることが多く、しかし、けっきょく「こんな世界もあるのかな」といったふうの、自分にもあまり愉快では無い無関心のうちに読み捨てたことである。また、この人のソビエット行き、ならびに、それについての文章などにも、ムキになって対することが、私にはできなんだ。それから太平洋戦争の、たしか直前ごろ発表された宮本の文章の一つに、彼女が、たしか中野重治らしい男とつれだって執筆禁止か又はそれに似た事のために内務省か情報局か、そういった役所の役人に会いに行った話を書いたのを読んだ。書きかたはソッチョクで、感情抜きでシッカリしていた。それを読みながら、「これだけの重圧の苦しみに耐えながら、おびえたりイジケたりしないで、シッカリと立っている女がいる、えらいな」と思い、心の中で帽子をぬぎ、そして、当時の国内の状勢の中では或る意味では当然であるとも言えた左翼に対する抑圧を、しかしこのようなバカゲた、このような乱暴な形でおこなっている当局に対して、二重三重の怒りを感じたことを、おぼえている。その時の敬意と怒りとは非常に強かったために、その文章の中にさえも私がカギつけたところの例の宮本の[#ここから横組み]“high brow”[#ここで横組み終わり]さえも、さしあたりは気にならなかった程であった。そして太平洋戦争になり、敗戦になり、やがて彼女は自由に、猛烈な勢いで発言しはじめ、作品を発表しだした。好評の渦が彼女を取り巻いたように見うけられた。私も、彼女の書きものの数篇を読んでみた。それらは、いずれも、ある程度までリッパなものであった。しかし、それまでの宮本百合子観を変えてしまわなければならぬようなものでは無かった。だから、敗戦後、とくに宮本が好評になった理由が、よくのみこめなかった。しかも、この事の中に、「左翼の勢力がもりかえしてきたから、そのスポークスマンの一人の宮本がヤイヤイ言われるのさ」といったふうの俗論――それに九分の真実があったとしても――だけに満足してはおれない問題がふくまれているように私に思われた。それを究明してみることは、他の誰によりも、私自身にとって必要なような気がした。だから、あらためて私は、私の手に入るかぎりの宮本の著作を集めて、その処女作以来の作品や論文を読み返してみた。 48363_34007.html(230):  次ぎに、その生活感情と表現における「好み」や「趣味性」や「習慣」という点でもこの作家が強くブルジョア気質である証拠であると私に思われる個所や要素を、此の作品の中に、無数に指摘することができる。その例をただ一つだけ。作中、終りに近く逃げ去って行きかけている伸子をなんとかしてつなぎとめようと焦慮した夫が、泣いて迫りながら「まだあなたは私を愛している?」と言って伸子に抱きつく所がある。それが、[#ここから横組み]“Do you still love me ?”[#ここで横組み終わり]と書いてある。そこの所を読んでいて、私はゾーッと総毛立ち、ムシズが走って、しばらく、とまらなかった。そしていろいろに考えてみた。第一に考えたことは、作者は、これによって、この男の異様に強直し、病的に西洋化した人柄を描いて、それに対して伸子の感じている嫌悪又は違和の実感を読者にまで移入しようと思ったためだろうかと言うことであった。第二に考えたことは、しかしそうならば、そのような人柄の男を、すくなくともその前には結婚するに至る程度には「愛した」伸子がいるのだが、するとその伸子はどういう人間であった事になるだろう? なぜなら、伸子は何からも強制されたり、ハメこまれて、この男と結婚したのでは無く自ら選んでそうなったのであり、又この男の性質が結婚後、急にそのようなものに変る筈は無いだろうし、事実変ったようには書いて無い。第三に考えたことは、もしかすると作者は実際その時にその男がそういう英語で言った事をおぼえていて、それをただ単純に書き写したに過ぎないのかもしれないという事だ。そして、もしそうならば、このような異様さや「ハクライ」が、この作者にとっては別に異様にも「ハクライ」にも感じられない位の日常茶飯になっているからであろう。ということは、そのような作者の状態そのものが異様で「ハクライ」だからだろうと思われる。以上三通りに考えてみた。そして、第一のように考えても第二のように考えても第三のように考えても、そのいずれもが、非常に強くハッキリとブルジョア的な「好み」と「趣味性」と「習慣」を現わしている事がらだと思った。 48377_32498.html(169): [#ここから横組み]“Raven”――E. A. Poe[#ここで横組み終わり] 48377_32498.html(1806): [#ここから横組み]“Je suis le fils de cette race 48377_32498.html(1814):      “Ma race.”――Verhaelen.[#ここで横組み終わり] 48445_35427.html(25):  この絵は何処だとはっきり云はないがいいかも知れません。題は子供心のあこがれとでも云ふのでせうか。そこの島の八月、今から凡そ二十年も前のことですが、公園に始めてホテルが出来たのです。杉に囲まれた瀟洒な石の建築の脇には山から湧いて流れる溪流があって家鴨が白い影を浮かべてゐました。芝生の綺麗な傾斜に添って、白い砂利道を行くと、噴水のある滝の前に赤いポストがあり、鞦韆(ぶらんこ)に外国の子供が乗かってゐました。ある夕方、幼い私は姉と連れだって、その辺を逍遙ってゐると、突然ピンクのドレスを着た外国の娘が、[#ここから横組み]“Can you speak English ?”[#ここで横組み終わり]と姉に話しかけたのです。姉は黙ってつつましやかに笑ひ、その女は快活に笑ひ、そして私は彼女等がそれだけで何か私にはわからない一つの気持をやりとりしたかのやうに思へました。そこのホテルが出来た時、夜の公園にはアーク燈が真昼のやうに輝き、杉と杉の枝に万国旗が掲げられ、そして沢山の人々が眼に怡びを湛へ、ざわめき合ってゐると、突然中央の四阿からオルケストラが湧き起りました。ふと私が眼を上にやると樹の間にある夜の空は明るい燈のために一層美しく思へ、大きな蛾がバタバタと燈のほとりを廻ってゐたものです。――そして翌日、八月の嵐は海の波を怒らし、雨まじりに、あのホテルの前の岸の大きな岩に、まつ白なしぶきを吹きかけ、吹きかけしたものです。その怒濤を見に、私を連れて行った姉は、彼女も十五年前に死にました。 49078_40582.html(1402):  と定義した上でボオドレェルの“Le Nant”への憧憬を想い出すこと。そうして次のように書いて見る。 49078_40582.html(1444):  “L'Orient de l'Occident” 49078_40582.html(1636):  “Une Saison en Enfer” 490_19862.html(73):  戦国時代の文献を読むと、攻城野戦英雄雲のごとく、十八貫の鉄の棒を苧殻(おがら)のごとく振り回す勇士や、敵将の首を引き抜く豪傑はたくさんいるが、人間らしい人間を常に miss していた。自分は、浅井了意の犬張子を読んで三浦右衛門の最後を知った時、初めて“There is also a man.”の感に堪えなかった。 49290_34003.html(150): 「ホホン、そりゃええ、“中央集権”で、労働者をしめあげて――」 49290_34003.html(153):  しかし、つりがねマントの学生たちは、長野や高坂と同じではなかった。“中央集権”是か非か。“ブルジョア議会”の肯定と否定。“ソビエット”と“自由連合”。労働者側では小野が一人で太刀打ちしている。しかし津田はとにかく三吉が黙っているのは、よくわからぬばかりでなくて、小野の態度が極端なうたぐりと感傷とで、ときにはたわいなくさえみえてくるのが不満だった。たとえば議論の焦点がきまると、それを小野の方から飛躍させられて“そりゃァ、労働者の自由を束縛するというもんだ”という風に、手のつけようのないところへもってゆく。学生たちがそれをまた神棚から引きおろそうとして躍起になると、そのうち小野がだしぬけに“ハーイ”と、熊本弁独特のアクセントでひっぱりながらいう。 49290_34003.html(160):  ボルの理論は、まだしっかりつかめぬながら、小野から日ごとに離れてゆく自分を、三吉は感じている。しかもその大きな裂けめにおちこんで、しかもボルの学生たちとは、つまり土地で“五高の学生さん”というような身分的な距離があるのだった。――そしてそうやって、いらいらしていると、たいくつな、うすよごれた熊本市街の風景も、永くはみていられなかった。 49290_34003.html(162):  夜になって、高坂の工場へいって、板の間の隅で、“来(きた)り聴(き)け! 社会問題大演説会”などと、赤丸つきのポスターを書いていると、硝子(ガラス)戸のむこうの帳場で、五高生の古藤や、浅川やなどを相手に、高坂がもちまえの、呂音のひびく大声でどなっている。そしてボルの学生たちも、こののこぎりの歯のような神経をもっている高坂との論争は、なかなか苦手であった。そばで一緒にポスターを書いていた五高の福原も、筆をほうりだしてそっちへゆくと、三吉はひとりになってしまう。 49290_34003.html(225): 「――いつか、新聞に“現代青年の任務”というのをお書きになったんでしょ。妾(あたし)、とても、感激しましたわ」 49526_42385.html(272):  そのほかに直接間接に劇の趣味を涵養(かんよう)してくれたのは、かの定さんの借りている女髪結の家の娘が常磐津(ときわず)を習っていることであった。親も商売人に仕立てるつもりで、後に家元の名取りになった位であるから、その稽古(けいこ)は頗(すこぶ)るきびしい。殆(ほと)んど朝から晩まで浚(さら)いつづけていると言っても好いくらいで、わたしが裏口からその露地を出るたびに、かならず常磐津のお稽古を聴かされる。そのおかげで、わたしは七歳にして、もうお園(その)六三(ろくさ)の“誓いは二世と三世相”や、小夜衣(さよぎぬ)千太郎の“秋の蛙(かわず)の声枯れて”などを無心に暗記するようになった。またわたしの家の東隣りには望月太喜次さんという長唄(ながうた)の女の師匠が住んでいて、わたしの姉もそこへ稽古に通った。姉ばかりではない、ほかにも大勢の子供が通って来るので、わたしが庭に遊んでいると隣りの稽古がよくきこえる。そのおかげで、わたしは更に「越後獅子」や、「吉原雀」や「勧進帳(かんじんちょう)」をおぼえた。表から出れば長唄、裏口から出れば常磐津、毎日この挟み撃ちを受けていたのであるから、わたしの音楽趣味が普通の子供以上に発達したのも無理はなかった。 49526_42385.html(285):  茶屋の若い者に案内された場所は、西の桟敷(さじき)であることを後に知った。狂言は――これも後に知ったのであるが――一番目「赤松満祐梅白旗(あかまつまんゆううめのしらはた)」、中幕「勧進帳(かんじんちょう)」、二番目「人間万事金世中(にんげんばんじかねのよのなか)」で、大切(おおぎり)には「魁花春色音黄鳥(かいかのはるいろねのうぐいす)」という清元(きよもと)常磐津(ときわず)掛合いの浄瑠璃(じょうるり)が附いていた。この浄瑠璃はわたしは見なかったので、どんな物であったか知らないが、“魁花春”という名題(なだい)に“開化”を利かせたのを見ても、いわゆる文明開化の風が世間を吹き靡(なび)かせていたことが思いやられる。 49526_42385.html(289):  幕間(まくあい)に、わたしは父に連れられて劇場の外へ出た。今日の劇場の草履(ぞうり)の鼻緒は大抵青いようであるが、その頃の草履の鼻緒は白と紅との太い撚(よ)り緒(お)にしてあったように記憶している。いわゆる“福草履”なるもので、鼻緒は藁(わら)を心(しん)にして、厚い紙で巻いたのであるから、ごつごつして頗(すこぶ)る穿(は)きにくいものであった。小屋の表には座主(ざぬし)や俳優へ寄贈の幟(のぼり)が沢山に立てられて、築地の川風に吹かれている。座の両側にも芝居茶屋が軒をならべて、築地橋から座の前を通りぬけた四つ角まで殆(ほと)んどみな芝居茶屋であった。その花暖簾(はなのれん)や軒提灯(のきぢょうちん)の華やかな光景はもう見られない。 49526_42385.html(290):  ここで少しく註を入れて置きたいのは、この劇場の呼び名である。勿論、新富座というに相違なく、わたしも現に新富座と書いているが、その当時の人はそれを“島原の芝居”とか、または単に“島原”とか呼び慣わしていて、正直に新富座という人は少なかったようである。明治の初年、ここに新島原の遊廓を開いたが、四年の七月に立退きを命ぜられ、その跡へ新富町という町が出来て、その六丁目に劇場が新築されたので、東京の人は元の地名にちなんで、普通に“島原の芝居”と呼んでいた。その習慣も年と共にだんだん消え去って、明治二十年以後にはよくよくの老人でない限りは、島原の名を口にする者もなくなって、一般に“新富町”というようになったのである。 49526_42385.html(292):  一番目の「赤松満祐」は結局わからずじまいであったが、中幕の「勧進帳」はわたしの期待していたものであった。というのは、前にも吹聴(ふいちょう)したような事情で、隣りに長唄のお師匠さんを控えていたお蔭で、わたしは「勧進帳」の文句を大抵は心得ていて、“判官おん手を取り給い”ぐらいの事はちゃんと暗記している。こういう予備知識があるのと、それが舞台の上でどんな事になるのかという一種の好奇心とで、わたしは頗る緊張した気分で、この中幕の舞台と向かい合った。 49526_42385.html(293):  やがて義経が揚幕からあらわれた。俳優は今の羽左衛門の父の家橘である。つづいて四天王が出て来て花道に立ちならぶ間、義経らはうしろ向きになる。わたしたちは西の桟敷に陣取っているのであるから、ここで義経らとまさしく眼を見合わせることになった。わたしは生まれてから初めて俳優の舞台顔というものをはっきり見たのである。尤(もっと)も他の四天王などには注意しないで、上品で美しい義経ばかりを一心にながめていた。つづいて団十郎の弁慶があらわれると、観客は盛んに成田屋を叫んでいたが、わたしは赤松満祐の坊主に悩まされた苦(にが)い経験があるので、この方にはあまり注意の眼を向けなかった。わたしは義経の家橘をむやみに好(い)い役者だと思った。渥美五郎の御注進でわたしを喜ばせた左団次の富樫(とがし)も、ここではあまりわたしをよろこばせてくれなかった。“判官おん手を取りたまい”ぐらいの予備知識では、やはりこの芝居も判らないことを発見して、わたしはまた失望した。 49526_42385.html(308):  これもその年代をはっきりと記憶していないが、かの“かべす”即ち菓子と弁当と鮨との三品を意味する言葉が、一般に通用するようになったのも、やはり明治十四、五年以後のことであると思う。勿論、その以前からそういう倹約な客もないではなかったが、例の“花より団子”主義で養成されている観客の多数は、芝居はうまい物を食わせる所のように考えていたらしかったから、すでに芝居小屋へはいった以上は、飲み食いについて余り倹約しようとは初めから考えていなかったらしい。それがいつとはなしにだんだん倹約になって来て、殊(こと)に彼(か)の見連(けんれん)などという団体見物が盛んになるに連れて、菓子と弁当と鮨とで腹の虫をおさえ、ゆう飯は帰り途で食うか、家へ帰って食うとかいうような経済主義がひろく行なわれて来たらしい。実をいえば、むしろそれが本当のことで、劇場と料理屋とを混同しているような昔の観客は、確かに不心得者に相違ないのであるが、その余習のまだ失せない時代に哺(はぐ)くまれたわたしなどは、“かべす”などという言葉を聞くと、一種の卑しいような、惨(みじ)めったいような、いやな感情を誘い出されたものであったが、そんなことは疾(と)うの昔の夢となってしまった。今日、劇場内の食堂で旨い物を食おうなどと考える人があったならば、それこそ本当の不心得者であろう。 49526_42385.html(345):  こういう風情は現代の若い人たちには十分に会得(えとく)されまいと思う。それから歳の暮になると、絵双紙屋の店にはいろいろの双六(すごろく)がかけられる。これも道中双六や武者双六や教訓双六や、その種類は数々あったが、やはり歌舞伎狂言の双六がそのなかの錦であった。大判物、中判物、その大小はいろいろあるが、要するに、似顔絵を小さくして綴り合わせたようなもので、歌舞伎双六はどうしても十銭以上、上等は二十銭、三十銭、五十銭ぐらいの物もあった。その頃の三十銭、五十銭といえばかなりの高価で、前にいった芝居小説の草双紙ですらも、二冊つづき五銭が普通の時代において、三十銭以上の双六などがよく売れたものだと思うが、今日と違って、歳暮や年玉の贈答品に歌留多(かるた)や双六のたぐいが多く行なわれたので、その方面の需要が多かったのであろうかと察せられる。いずれにしても歌舞伎双六は歳晩の絵双紙屋を飾り、あわせて歳晩の巷(ちまた)を彩(いろど)る一種の景物(けいぶつ)で、芝居を愛する人も愛せざる人も、絵双紙屋の店さきに立って華やかな双六のいろいろをながめた時、おのずと“春近し”の感を起こさぬ者はなかったであろう。それに比べると、今の絵葉書屋は甚ださびしいような気がする。その頃は双六ばかりでなく、歌留多にも歌舞伎に因(ちな)んだものは少なくなかった。似顔絵の羽子板だけは今も廃(すた)れないが、それでも昔にくらべると三分の一にも足りまい。第一に羽子板屋というものが著るしく減じたのであるからやむをえないのである。押絵の似顔を巧みに描く人もだんだんに減じてゆくらしい。衣裳の小切れも悪くなった。いや、こんな事ばかり言っていると、余りに老いの繰り言じみるから、先ずこのくらいにして置く方がよかろう。 49526_42385.html(346):  明治十四年の夏から秋へかけて、“六三掛(ろくさが)け”と“お園櫛(そのぐし)”というものが流行(はや)った。なかんずく六三がけは素晴らしい人気を以て東京中に拡まった。それは新富座の七月興行に上演された「古代形新染浴衣」――おその六三をざんぎり物に書き直した新狂言に、五代目菊五郎が大工の六三郎に扮し、八代目岩井半四郎が福島屋の娘お園に扮して、いずれも好評を博したのから起こったもので、六三がけは大工の鉋屑(かんなくず)になぞらえて作られた一種の頭掛けであるが、その鉋屑のような物が時節柄なんとなく涼しげに見えるせいかも知れない、東京の若い女のあたまの上には、鉋屑の六三掛けがむやみに結び付けられていた。下町(したまち)ばかりでなく、しまいには山の手にまでその流行がだんだんに拡がって来て、わたしの近所の娘たちも皆それを掛けていた。勿論、その後にも俳優や芝居に関する流行物はたくさんに出来たが、どうも彼(か)の六三掛けほどの勢力はなかったらしい。 49526_42385.html(352): “六三掛け”のような流行物は格別として、その頃の芝居がとかく世間の評判になりやすかったのは、興行の度数の少なかったためであったように思われる。全盛時代の新富座ですらも、一年の興行は先ず五、六回が関の山で、他の猿若座、市村座、春木座なども同様で、一年の興行わずかに三、四回に過ぎないこともあった。したがって、興行ごとに世間の注意が一度にそこに集まるのであったが、今日のように劇場の数も多く、しかもそれが殆(ほと)んど休みなしに興行するという有様では、それからそれへと眼移りがして、一つの狂言の評判がまだ本当に拡まらないうちに、もう次の狂言の噂が出るという風で、万事があまりに気忙(きぜわ)しくなったために、一つの狂言の噂が耳の底によく沁み込まない。たとい面白い狂言が出ても、むかしほどの評判にもならず、人の記憶にも残らないのは、あまりにその変転のあわただしいためであろう。外国のように長期興行が出来るならば格別、殆んど毎月替りというような現在のありさまでは、劇場側でも観客側でも万事が自然懸け流しという傾きになるのはよんどころないことで、この点だけは昔の方が優(まさ)っていたらしい。その頃は興行の回数が少ないだけに、作者にも俳優にも休養や工夫の余裕もあり、観客も開場を待ちかまえて熱心に見るということになって、どちらも気の入れ方が違うようであった。 49526_42385.html(368):  実用の点からいえば、江戸以来の番附はあまり便利なものではない。勘亭流(かんていりゅう)の細字で役割を記してあるのがかなり読みにくい上に、古来の習慣として“捨役(すてやく)”なるものが附け加えられている場合が往々ある。たとえば、座頭(ざがしら)の俳優が実際においては一役か二役しか勤めていない場合でも、ほかに二役か三役かの役割が附け加えられてあるが、それはでたらめにこしらえた嘘の役割である。それであるから、それが誰も知っている狂言の場合には、どれが本役で、どれが捨役であるかを判別することも出来るが、馴染(なじみ)の薄い狂言や新狂言の場合には容易に見当が付かない。加藤清正とか家主長兵衛とか書いてあっても、その清正や長兵衛が果たして登場するのかどうだか判(わか)らない。それは座頭の俳優ばかりでなく、中軸(なかじく)や書出しや立女形(たておやま)や庵(いおり)などの位地に坐っている主なる俳優が皆それであるから、真偽混淆(こんこう)でずいぶん困らせられたものである。 49526_42385.html(385):  築地の成田屋といえば団十郎の家に相違ないが、なんの用で正月早々からうるさく呼びに来るのかと、母や姉が噂をしていると、日が暮れてから父は帰って来た。その話によると、団十郎は小中村清矩(こなかむらきよのり)、黒川真頼(くろかわまより)、川辺御楯(かわのべみたて)などという人たちをあつめて、“求古会”というものを作ることになって、父もその会員の一人に加えられた。そこで、きょう突然にその第一回の会合を団十郎の自宅で催すことになったので、使の者が手分けをして方々へ迎いに行ったのであるが、何分にも突然のことであり、かつは正月の三日というのであるから、ちょうどに自宅に居合わせた人は少なく、使の者はそれからそれへと出先をたずね歩いて、ひどく困ったということであった。 49526_42385.html(386):  団十郎がなぜこんな会を作り出したかというと、それは彼(か)の“活歴(かつれき)”を作り出す準備で、彼はその会員を顧問として、有職故実(ゆうそくこじつ)を研究しようと企てたのである。会員の名は一々記憶していないが、最初は六、七人で、後には十二、三人に上(のぼ)ったらしい。その結果として先ず現われたのは河竹黙阿弥作の史劇「二代源氏誉身換(にだいげんじほまれのみがわり)」で、仲光の身がわりを脚色したら好(よ)かろうという原案は、求古会員から提出されたらしかった。 49526_42385.html(389):  この芝居はわたしも母や姉と一緒に見物したが、一番目は「満二十年息子鑑(まんにじゅうねんむすこかがみ)」という徴兵適齢を取扱った散髪(ざんぎり)物で、頗(すこぶ)る面白くない物であったように記憶している。さて中幕の「仲光」二幕も実のところ、わたしには一向に面白くなかった。周囲の観客もみな退屈そうな顔をしていた。しかも今日の或る芝居に見るような、いわゆる“観客が沸く”というようなことは少しもなかった。土間桟敷(どまさじき)は勿論、大向(おおむこ)うの立見の観客に至るまで、みな神妙におとなしく見物していた。それはこの劇の主人公が団十郎であったためでもあろう、また一面にはただ何がなしに烟(けむ)に巻かれてしまったためでもあろう。その理由は種々であるに相違ないが、わたしの見るところでは、その当時の観客は多く礼儀をわきまえていたというのが第一の原因であったらしく思われる。 49526_42385.html(390):  勿論、江戸以来の習慣で、成田屋とか高島屋とか声をかける人は沢山(たくさん)あった。しかしその以外に一種の悪褒めをするような観客は極めて少なかった。たまたまそういう人があれば、それがいつまでも話し草になって、世に残るくらいのものであった。平民的に発達した芸術とはいいながら、父より子へ、子より孫へと、何百年来養成されて来た観客は、劇場内における一種の礼儀というものをおのずからに心得ていた。鎮守の奉納相撲や野天芝居を見物するような料簡で、江戸の劇場の木戸をくぐった者は一人もなかった。その余風が江戸から東京へ伝わって、明治の初年までは残っていたので、殆んど“前代未聞の椿事”ともいうべきこの活歴芝居に対して、たといその内心では、何と感じていようとも、表面は比較的冷静の態度を維持していることが出来たのであろうと、わたしは判断している。 49526_42385.html(392):  団十郎の活歴なるものは毀誉褒貶まちまちであったが、大体においては余り歓迎されなかった。そもそもこの“活歴”なる熟字は団十郎自身が命名したのではない、求古会員が製造したのでもない。単に歴史をありのままに見せるに過ぎないという、一種の冷罵(れいば)を意味している名称で、絵入新聞に仮名垣魯文(かながきろぶん)がこう書いたのが嚆矢(こうし)であるとか伝えられている。いずれにしても、そうした悪意の名称がたちまち世間に伝播(でんぱ)して、今日に至るまでも取消されないのを見ても、かの活歴なるものが世間一般から好感を以て迎えられなかったことが想像される。勿論、今日では殆んど何の意味もなしに、単に因習的にそう呼ばれているのであるが、最初の名付け親は決して好意を以て活歴の名をあたえたのではなかった。それを伝播した人たちもまた好意の所有者ではなかったのである。 49526_42385.html(415):  いつの代にも観客は大芝居の客ばかりでない。殊(こと)に活動写真などというものの見られない時代であるから、それらの小芝居も下級の観客を迎えて、皆それぞれに繁昌していた。今これを語っている明治十八、九年頃に、小芝居として最も繁昌していたのは、牛込の赤城座、下谷の浄瑠璃座、森元の三座などで、森元の三座とは盛元座、高砂座、開盛座をいうのである。わたしは盛元座と高砂座へたびたび見物に行った。木戸銭は三銭ぐらいで、平土間(ひらどま)の大部分は俗に“追い込み”と称する大入り場であったから、腰弁当で出かければ木戸銭のほかに座蒲団代の一銭と茶代の一銭、あわせて五銭を費せば一日の芝居を見物することが出来たのである。盛元座の座頭(ざがしら)は市川団升、高砂座は坂東勝之助で、団升も勝之助も大芝居から落ちて来た俳優であった。 49526_42385.html(416):  その当時の鈍帳芝居なるものは、同じ小芝居とはいいながら、今日の小劇場とは全くその構造を異にしていた。鈍帳芝居には本花道を設けることを許されないので、今日の帝劇の花道を更に短くしたようなものを、下手(しもて)から舞台へかけて斜めに作ってある。東の花道はまったくない。廻り舞台も許されないので、場面の変わるごとに幕にするか、あるいは引道具にするのである。幕を横に引かないで、上から吊り下ろすのである。こんな構造も今日から考えると別に不思議でもない、むしろ新式として歓迎されるかも知れないのであるが、その当時にあっては、花道のないこと、舞台の廻らないこと、幕の下りること、それらが甚だ不自由らしくもあり、見そぼらしくも感じられて、鈍帳芝居の卑しさと惨(みじ)めさとが沁々(しみじみ)思い知られるようであった。場内は無論に狭い。畳も座蒲団も実に穢(きたな)い。座蒲団などは汚れてじめじめしている。その頃、大劇場ではすでに瓦斯(ガス)の灯を用いていたが、鈍帳芝居にはそんな設備がないので、雨天の甚だ暗い日や日暮れ方の暗いときには、昔風の蝋燭(ろうそく)を舞台へ差出して、かの“面明(つらあか)り”をみせていた。幕間(まくあい)には五銭の弁当や、三銭の鮨(すし)や、一銭五厘の駄菓子や塩せんべいなどを売りに来た。わたしは一個八厘の樽柿(たるがき)をかじりながら「三十三間堂」のお柳の別れを愉快に見物したことを記憶している。 49526_42385.html(421):  第一には入場料の廉(やす)いことである。大入り場は一人六銭で、序幕のあかない前に来たものには半札をくれ、それを来月の興行に通用することが出来るというのであるから、今月の半札を持参すれば、来月の芝居は半額の三銭で観られるのである。いかに物価の廉い時代でも、入場料三銭で大劇場を一日見物することが出来るのであるから、廉いが中にも廉いものに相違なかった。もちろん弁当持参は随意であるが、かの鈍帳芝居とおなじように、弁当や菓子などを場内でも売らせていた。この座の特色としては、在来の男の出方(でかた)を全廃して、場内の案内や食物の世話などは、すべて若い女に扱わせていたのである。これは上方(かみがた)式に拠(よ)ったのであろうが、東京の劇場内でいわゆる“女給”なるものを採用したのは、ここが新しい記録(レコード)といってよい。この女給をすべて“お梅さん”と呼ばせて、観客が何かの用のある場合には、大きな声でお梅さんお梅さんと呼び立てると、そこらからお梅さんが駈けて来て、その用を聞いてくれた。開演中に赤ん坊などが泣き出すと、お梅さんはその児(こ)をすぐに負い出して、廊下で子守唄などを歌いながらあやしているのをしばしば見た。お梅さんは、冬は黒木綿、夏は中形(ちゅうがた)の浴衣(ゆかた)の揃いを着ていた。 49526_42385.html(437):  馬鹿な話をするようであるが、その頃までのわたしは、劇場というものは滅多に満員になるわけのものではない。劇場の土間(どま)や桟敷(さじき)があんなに広く作られているのは、たとえば多摩川の河原の如きものである。普通の場合には、水は単に河原の一部を流れているに過ぎない。ただ三年目に一度か、五年目に一度の増水などの用心のために、無用の河原を広く残して置くのである。劇場もやはりその通りで、何年目に一度という万一の用心のために、あんなに広く作られているのであろうと、わたしは子供ごころに考えていた。その推断は、かの鳥熊の芝居の毎興行大入りによって動かされたのであるが、それでもあれは特殊の興行であって、普通の芝居の例にはならないと思っていた。ところが、今度という今度、わたしはその“多摩川の河原”が一面の水に浸(ひた)されているのを初めて見せられた。まったくそれは大洪水であった。土間も高(たか)土間も桟敷も、人を以て真っ黒に埋められている大入りの盛況に、わたしは少し呆気(あっけ)に取られた位であった。 49526_42385.html(441): 「夢物語」に対しては、諸新聞の評判もよかった。江戸の残党の劇通連も“新しい芝居”だといって賞讃した。これからの芝居はこうでなければいけないと言い触らす人もたくさん現われて来た。今にして思えば、こうならなくて仕合わせであったが、わたしも実はこうなるものかと思っていた。 49526_42385.html(442):  新富座がこれほどの大入りを占めているのに対して、いかにも惨めな不景気を示したのは、それと競争して殆(ほと)んど同時に開場した千歳座であった。一方が団十郎、左団次、小団次、秀調、源之助という顔ぶれに対して、千歳座は菊五郎、九蔵、松助、寿美蔵、国太郎、伝五郎という座組で、まず五分五分の勝負が付けられそうなものであったが、一方のおびただしい景気に圧倒されて、千歳座側はさんざんの敗軍であった。狂言は「恋闇鵜飼燎(こいのやみうかいのかがりび)」という散髪(ざんぎり)物で、菊五郎の芸妓小松が笹子峠で狼(おおかみ)に啖(く)われるのと、菊五郎の二役鵜飼甲作(うかいこうさく)がほんとうの鵜を遣って見せるというのとで、初日前の噂はなかなか高かったが、さて開場してみると、明けても暮れても薄暗い陰気な場面ばかりだという不評で、一向に客足が付かなかった。わたしの見物した日も気の毒なような不入りで、ここには“多摩川の河原”が一面に大きく開けていた。 49526_42385.html(446):  それにしても、無代価という触れ出しでは定めて非常な混雑であろうと、今日の人たちはおそらく想像するであろうが、実際は無代価にしろ、半値段にしろ、初日は案外にさびしいものであった。由来、芝居の初日というものに対する観念が、むかしと今とは違っていて、その当時の観客は一種の舞台稽古(ぶたいげいこ)をみるような心持で、初日の舞台を眺めていたのである。劇場側でもやはりそんなつもりであったから、初日無代価とか半額とかいうような安目を売っていたらしい。初日を見物した人はかならず幾日かの後、その出揃うのを待って再び見物するのが習いで、無代価であるとか、入場料が廉いというがために、特に初日を択(えら)んで見物にゆく者は極めて少ないのであった。したがって、初日の観客は一部の劇通かまたは特別の熱心家にかぎられ、初日満員などというのは殆んど例のないことで、どこの劇場も初日はいつも不入りに決まっていた。江戸以来の諺(ことわざ)に“芝居の初日を観に行くような娘を嫁に貰うな”といったのは、初日を観にゆくほどの娘ならば非常の芝居好きで、おなじ芝居を幾度も見物する女に相違ない。そんな女を貰っては家のためにならないというのである。それを考えても、むかしと今とは初日の観客の種類が著るしく違っていることが明らかに判るのである。 49526_42385.html(454):  改作問題というのは「勧進帳」を天覧に供するについて、ある人が――末松謙澄子(すえまつけんちょうし)だとか伝えられている――その字句の修正を行なった。その修正が妥当を欠いているといって、『東京日日新聞』の紙上で一々それを批難したのである。筆者が福地桜痴(ふくちおうち)居士であるということを、わたしは後に知ったのであるが、その議論の焦点は例の“判官おん手をとり給い”のくだりで、今度は“判官やがて手を取りたまい”と修正されているが、“おん手”と言っても差支えない。御手というのは弁慶の手を意味するのではない、この場合の“御”というのは“取り給い”の方へかかるので、つまりは“御取らせ給い”という意味で、こういう文例は徳川時代の公用文書にもしばしば見受けることである。まして音律の上からいっても、“やがて手をとり給い”などは甚だ妙でないというのが、『東京日日新聞』の主張であった。それに対して、改作者側の弁明も出たようであったが、その論旨はよく記憶していない。いずれにしても、“おん手”の方が勝を占めたらしく、今日でも“やがて”と歌う人はないようである。 49526_42385.html(455):  こればかりでなく、この時代にはこういうたぐいの改作論や修正論がしばしば繰返されて、新聞紙上を賑わしていた。たとえば、かの「忠臣蔵」の七段目で、おかるの口説(くど)きに“勿体(もったい)ないが父(とと)さんは、非業(ひごう)の最期もお年の上”というのは穏かでない。勿論、この議論は江戸時代にも唱えられて、かの曲亭馬琴(きょくていばきん)なども頻りにそれを攻撃していたのであるが、それがまた復活して来て、“勿体なや父さんはお年の上に非業の最期”と修正しろというのである。その主張者は誰であったか記憶していないが、わたしの父はその新聞記事を読んで、「判(わか)らない奴には困るな。」と冷笑していた。その当時まだ肩揚げの取れないわたしもそれには同感で、「判らない奴だな。」と思った。しかも、こういうたぐいの議論がだんだんに勢力を張って来たのは、争うべからざる事実であった。 49526_42385.html(456):  その当時のわたしはもちろん無我夢中であったが、今から振返って考えると、明治以来、殊(こと)に明治十一、二年以来、かの新富座の全盛と相伴って、演劇というものが次第に社会の各階級の注意をひくようになって、演劇改良の声が四方から湧いて来たのであった。明治十九年には朝野の顕官名士を賛成者として、“演劇改良会”なるものがすでに発企されていた。その宣言は頗(すこぶ)る堂々たるものであった。爾来(じらい)、その運動がますます盛んになって来て、その当時のいわゆる知識階級の口々から種々の改良意見などが発表された。前に挙げた「忠臣蔵」七段目修正論のたぐいも皆その余波である。鹿鳴館(ろくめいかん)の夜会と演劇改良論とが新聞紙上に花を咲かせているのも、この時代の特色の一つで、その結果は知らず、ともかくも賑かいものであった。 49526_42385.html(457):  これも群衆心理というのかも知れないが、少年から大人に蝉蛻(せんぜい)し切らないわたしの幼い頭脳が、これらの改良論のために著るしい刺戟をうけたのは言うまでもなかった。父の腰巾着(こしぎんちゃく)で大劇場を覗(のぞ)いたり、腰弁当で鳥熊の芝居に入り込む以外に、自分も一つ芝居を書いてみようという野心は、この時分から初めて芽を噴(ふ)いたのであった。父は初めにわたしを医師にしようという考えであったそうであるが、友人の医師の忠告で思い止まって、更にわたしを画家にしようと考えたが、何分にもわたしに絵心がないので、それもまたやめてしまって、ただ何がなしに小学から中学へ通わせて置いたのである。しかも父はその当時の多数の親たちが考えていたように、わが子を“官員さん”にする気はなかった。時はあたかも藩閥政府の全盛時代で、いわゆる賊軍の名を負って滅亡した佐幕(さばく)派の子弟は、たとい官途をこころざしても容易に立身の見込みがなさそうである。そういうわけで、父はわたしに何の職業をあたえるという定見もなく、わたしもただぼんやりと生長してゆく間に、あたかも演劇改良などが叫ばれる時代が到来したので、わたしも狂言作者になってみようかと父に相談すると、それも好(よ)かろうと父はすぐに承認してくれた。 49526_42385.html(458):  父が容易にそれを許可したのは、第一に芝居というものが好きであるのと、求古会員の一人として常に団十郎らに接近していたのと、もう一つには流行の演劇改良論に刺戟されて、かの論者が主唱するように“脚本の著作は栄誉ある職業”と認めたためでもあったらしいが、更に有力なる原因は、こんな事にでもしなければ我が子を社会へ送り出す道がないと考えたからであろう。八歳の春には「誰がこんな詰まらない、芝居などというものを書くものか。」と、団十郎の前で窃(ひそ)かに肚(はら)をきめていたわたしが、十六の歳には自分から進んで芝居というものを書こうと思い立ったのである。これも一種の宿命であるかも知れない。もうその頃には、わたしに「熊谷陣屋(くまがいじんや)」や「勘平(かんぺい)の腹切り」を見せてくれた印板屋の定さんはどこへか立去ってしまった。藤間の大奴さんは長わずらいで世を去った。長唄(ながうた)の師匠の望月太喜次さんはやはり東どなりに住んでいた。裏手の露地の出口に住んでいる女髪結(かみゆ)いの娘はもう常磐津(ときわず)の名取りになって、いわゆる狼連の若い衆を毎晩唸(うな)らせていた。 49526_42385.html(462):  読んでみると、わたしは驚いた。まったく驚いた。芝居を書くというのは大変なことだと思った。というのは、その道具立てや、出入りの鳴物(なりもの)や合方(あいかた)のたぐいが、わたしにはちっとも判らないからであった。かつて「霜夜鐘(しもよのかね)」などを読んだ時には、まだほんとうの子供であったので、そんなことは恐らく夢中で読み過したのであろうが、今になってよく注意して読んでみると、判らないことおびただしい。たとえば“さんげさんげの合方にて幕明く”とか、“地蔵和讃の合方になり”とか、“白ばやしにて幕明く”とか、何のことかちっとも判らないのである。こういうことを残らず呑み込まなければ、芝居は書けないものかと思うと、わたしは実に怖ろしくなって来た。これを一々研究するのは容易なことではあるまいと、しみじみ考えた。 49526_42385.html(463):  今日の劇をかく人、劇を書こうとする人、劇を研究する人、おそらく“さんげさんげ”が何であろうが、“地蔵和讃”が何であろうが、殆んど問題にしていないであろうが、その時代のわたしには、それを知らないでは芝居は書けないもののように一途(いちず)に思われた。実際、劇場側でもそう言っていた。つまりは、黒衣(くろご)をかぶって、何年か楽屋の飯を食わなければ、芝居というものは書けないように言い伝えられていた。世間と楽屋と、その間には大きい黒幕が降りていて、外間からは窺(うかが)い知ることの出来ない秘密が深く鎖(とざ)されているように説かれていた。どんな学者でも才人でも、いわゆる“芝居者”にならない以上、どうしても本当の芝居は書けないと言われていた。それについて多少の疑いを懐(いだ)いていたわたしも、“さんげさんげ”や、“地蔵和讃”に突き当たって今更のようになるほどと思い当たった。 49526_42385.html(464):  読めば読むほど判らなくなるので、わたしはいよいよ途方にくれてしまった。いっそこんな事はやめようかと再び父に相談すると、これからはだんだんに世の中も変わって来て、現に“演劇改良会”の人たちも脚本をかくというではないか。この人たちも道具立や合方などを知っているはずはない。おそらく劇場の方で何とか手を入れてくれるのであろう。それでも済むような世の中になるのであるから、そんなことを苦にしないで精々(せいぜい)勉強してみろと父は言った。それを聞かされて、なるほどとわたしはまた思い直したが、どうも芝居をかくということに対して、今までのように張り詰めた勇気と興味とを持つことが出来なくなった。 49526_42385.html(470):  市村座はむかしのいわゆる“二丁目”で、江戸三座のうちで、この一座だけが明治二十五年まで元地(もとち)に残っていたのである。勿論、その小屋の構造はすっかり変わっていたが、ともかくも昔の猿若町(さるわかまち)に踏み留まっているということが、江戸以来の観客には一種の昔なつかしいような感じをあたえたらしい。わたしが覚えてからの市村座は、先代の中村芝翫(しかん)を座頭(ざがしら)にして、中村福助、片岡我童(がどう)、市川権十郎、関三十郎などの顔ぶれで、我童と権十郎とが殆(ほと)んどおなじような位置を占めている人気争いの両花形であった。しかもこの両者を圧倒する若手の売出し役者はかの福助で、それが花のなかの花と謳(うた)われて、新駒屋の艶名が東京市中に喧伝(けんでん)されていた。かの団十郎の八重垣姫に対して勝頼をつとめ、団十郎の岩藤に対して尾上(おのえ)を勤めた頃が、その人気の絶頂であった。 49526_42385.html(480):  この七月十五日には岩代(いわしろ)の磐梯山(ばんだいさん)破裂という怖ろしい出来事があって、五百人ほどの惨死者を出したという報道が世人の耳目を衝動した。それを当て込んで、鳥越の中村座では天明年間の浅間山噴火を脚色した「音聞浅間幻灯画(おとにきくあさまのうつしえ)」という五幕物を十月興行の二番目に出した。作者は黙阿弥であるが、“写絵”を“幻灯”と書いたところにその時代のおもかげが窺(うかが)われる。その前年にも新富座で古河新水が「三府五港写幻灯(さんぷごこううつすげんとう)」という狂言をかいている。この時代には幻灯などというものが今日の活動写真のように持て囃(はや)されたのである。その一番目は「嫩軍記(ふたばぐんき)」で、団十郎の熊谷(くまがい)、菊五郎の敦盛(あつもり)と弥陀六(みだろく)、福助の相模(さがみ)という役割であった。 49526_42385.html(487):  明くる二十二年の新富座三月興行から市川荒次郎と大谷門蔵の二人が名題(なだい)俳優に昇進して、門蔵は馬十と改名した。この二人が同じような柄行(がらゆ)きで、いつも相列(あいなら)んで同じような役所(やくどこ)をつとめていたので、世間一般に“御神酒徳利(おみきどっくり)”と呼び慣わしていた。その御神酒徳利がやはり相列んで、名題俳優の列に加わったのである。 49526_42385.html(505):  わたしの見物した日には、菊五郎は病気だというので、その持役のうちで河童(かっぱ)の吉蔵だけを勤め、藤井紋太夫と浄瑠璃の喜撰(きせん)法師は家橘が代っていた。団十郎の光圀(みつくに)はもちろん適任者で、世間一般からも好評であったが、その光圀よりも、わたしは浄瑠璃における文屋康秀(ふんやのやすひで)にひどく敬服させられた。例の“富士や浅間”のくだりなど、わたしは実に恍惚(こうこつ)として眺めていた。今日でも彼以上に達者に踊り抜く俳優はたしかにある。しかも彼のごとく悠揚迫らずして、おのずから軽妙洒脱(けいみょうしゃだつ)の趣を具えている俳優は、殆(ほと)んど見当たらないように思われる。たってその後継者を求むれば、やはりかの幸四郎であろうか。菊五郎の河童の吉蔵ももちろん評判がよかった。最も不評であったのは福助の魚屋久五郎で、初めから無理な役を引受けたのであるから気の毒であったが、魚屋よりも八百屋に近いという評判であった。何分にもあの丸く肥った体とねちねちした上方(かみがた)の調子とで、江戸っ子の魚屋を勤めようというのであるから、どうにも仕様がない。わたしは何だかはらはらするような心持でその魚屋を眺めていたのを、今でもありありと記憶している。浄瑠璃の遍昭(へんじょう)もよくなかった。 49526_42385.html(506):  この日、わたしは父と一緒に楽屋へ行って、はじめて福地桜痴居士に逢(あ)った。わたしが団十郎の部屋へはいると、そこには小紋の着物に黒ちりめんの羽織をかさねた五十前後の紳士が坐っているのを見た。団十郎に紹介されて、わたしはその紳士の前に頭をさげた。団十郎は単に“先生”といってその人を紹介したのであるが、それが桜痴居士であることを私はすぐに覚った。一応の挨拶が済むと、桜痴居士はわたしに向かってしずかに言った。「君は芝居をかくつもりだというじゃないか。そうですか。」「はい。」とわたしは再び頭をさげると、桜痴居士は微笑(ほほえ)みながら重ねて言った。「まだ若いね。やるつもりならしっかり勉強したまえ。君は外国語が出来るかね、英語ができるかね。」特に英語と指定されたので、わたしも少し力を得て、「はい。英語ならば出来ます。」と大胆に答えると、「それは宜(よろ)しい。なんでも勉強しなければいけないよ。ちっと僕の家(うち)へも来たまえ。」と初対面から至極(しご)く打解けた調子であった。新聞の論説や小説の『もしや草紙』をとおして、わたしが窃(ひそ)かに想像していた桜痴居士その人とは、その風(ふうぼう)も態度もよほど違っていて、初対面から親しみやすい人のように感じられたのを、わたしはなんとなく嬉しく思った。桜痴居士が席を起(た)って行ったあとで、団十郎は今度の「黄門記」の江戸城中で光圀が護持院の僧を説破するくだりは、桜痴居士の加筆に成ったことを話して、「どうして河竹にあんなことが書けるもんですか。」などと言っていた。団十郎は心から桜痴居士に推服しているらしかった。 49526_42385.html(529):  前に言った“時の力”――それは彼(か)の人々の上ばかりでない、これを語るわたしの上にも強く流れているのは勿論であった。鴈治郎や左団次や、その人々の目ざましい発展を見るにつけて、わたしは自分の寂しい影を見返りたい。わたしはこの年の一月末から東京日日新聞社に出勤することになったのである。 49526_42385.html(530):  その当時の東京日日新聞社長は関直彦(せきなおひこ)氏で、わたしの父はかねて関氏を識っていた。ある時、父が関氏にむかって、わたしが芝居を書きたいと言っているという話をすると、関氏はひどく賛成してくれて、時々にわたしを遊びによこせとのことであった。そこでわたしは無遠慮に関氏の家へ押掛けてゆくと、氏はこころよく逢(あ)ってくれて、今後の劇界のことや、氏が洋行中に見物した外国の演劇の事などについて、いろいろ親切に話してくれた。関氏は福地桜痴(ふくちおうち)居士の後をうけて日日新聞を経営していた関係上、すこぶる桜痴居士に私淑していたばかりでなく、かの“演劇改良会”の幹事か評議員かを勤めていたので、劇というものについて多大の趣味を有していたらしく、わたしが劇作家になるということを非常に賛成してくれたのであった。現にかの榎本虎彦(えのもととらひこ)も関氏と同郷人で、氏の紹介で桜痴居士の門に入ったのである。そんな話も出た末に、関氏はわたしに向かって、芝居を書こうとするには先ずたくさんの芝居を観なければいけない。それについてはわたしの新聞社に籍を置くことにしないか。新聞社にいれば、どこの劇場でも自由に見物することが出来ると教えてくれた。 49526_42385.html(555):  しかしこの場合に、誰もの口にのぼせられたのは、かの粂八の名であった。粂八ならば男優と同じ舞台に立って、おそらく遜色(そんしょく)はあるまいと言われた。殊に彼女が団十郎の門下であり、団十郎崇拝である事情から、気の早い新聞では粂八が団十郎の相手になって歌舞伎座に出勤するかも知れないなどという噂話を書いたのもあった。かなりに野心の多いらしい粂八が、この機会をうかがって何らかの運動を試みたかどうだか、また一方の団十郎がそれについて何と考えていたか、私はそれらについて何も知らないのであるが、とにかくに粂八が大歌舞伎に出勤するらしいという噂がしばしば繰返されたのは事実であった。しかもそれは文字通りの“噂”にとどまって、どこの劇場でも在来の女芝居以外に女役者を雇い入れようとはしなかった。粂八はやはり女芝居の女王たるに過ぎなかった。わたしは今ここで個人としての粂八を論じたくない。単に一個の名女優として彼女を観るときは、彼女が四十年ほど早く生まれたのを彼女の不幸と認め、あわせて我が劇界の不幸と認めないわけには行かない。 49526_42385.html(582):  わたしの二十歳(はたち)の年には、初めて桜痴(おうち)居士を築地の宅に訪問したという以外に、更に記憶すべき重大の出来事があった。それはいわゆる“壮士芝居”なるものを初めて中村座で見物したことである。 49526_42385.html(584):  それを勧められて、角藤も一旦は躊躇したが、結局思い切って同志をあつめて、試みに舞台に立ってみると、それが案外に成功して、どうやら一つの商売になるようになった。そうして、壮士芝居という一種の興行物が出来あがったのである。元来の出発点が敵本主義で、芸術的の発奮があった訳でも何でもないのであるが、ともかくも木戸銭を取って観客を呼ぶ以上、なにかの売物がなければならないので、彼らはその目的の政談以外に一つの売物をかんがえた。それは立廻りである。その頃のいわゆる“壮士”は、ややもすれば腕力沙汰に訴えるのが習いで、明けても暮れても喧嘩の絶え間がない。その喧嘩を舞台へ持ち出して、滅茶苦茶の掴(つか)み合いや殴(なぐ)り合いをやる。それがいかにも真に迫っているというので、一部の観客に喜ばれた。立廻りは確かに壮士芝居の売物になった。以上は兆民居士の直話である。 49526_42385.html(625):  まだそればかりでなく、市村座の三月興行に左団次、家橘らの一座で、近藤重蔵と阿古屋(あこや)の琴責(ことぜめ)を上演していたところが、その興行中に家橘が急病で死んだために、よんどころなく半途で閉場して更に次興行の相談中に、劇場もまた焼亡してしまったのは、劇界に取って重ねがさねの災厄といわなければならなかった。家橘は五代目菊五郎の弟で、今の羽左衛門の父である。面長の、しかも膨(ふく)らみのある顔で、調子も“鳩ぽっぽ”と綽名(あだな)されていたような含み声であったが、和事師(わごとし)をしては当代第一人と称されて、かの団菊左の三名優に次ぐべき地位を占めていた。今の羽左衛門も切られ与三郎を得意としているが、どうも父には及ばないようである。前にもいった通り、わたしは本所の寿座(ことぶきざ)で、家橘の与三郎、源之助のおとみ、伝五郎の蝙蝠安(こうもりやす)を見たことがあるが、いわゆる持味で、与三郎の体に持っている自然の柔かみには他人の企て及ばないところがあった。兄の菊五郎も歌舞伎座でおなじく与三郎を演じたが、これも弟には及ばなかった。晩年の家橘は和事師から抜け出そうとして、熊谷(くまがい)や、鱶七(ふかしち)や、大岡越前守や、そういうたぐいの役々を好んで演じていたが、いずれも団十郎張りであるという好評で、やがては大立者(おおだてもの)となるべき鷹揚(おうよう)な芸風であったのを、急性腹膜炎のために四十七歳で死なせたのは残念であった。 49526_42385.html(670):  ついでに言うが、この二番目狂言の名題がちょっとその当時の問題になった。これは竹柴彦作の作で、清玄(せいげん)を散髪(ざんぎり)に書きかえたような三幕物、その主人公の教心という僧を上京中の鴈治郎(がんじろう)がつとめていたが、名題の“土産”の二字を一字にして、土偏に産の字をつけたのは珍らしいといわれた。この正本(しょうほん)が『歌舞伎新報』に掲載された時には、やはり「熱海土産雁皮玉章」となっていたのであるが、それでは八字になる。由来、芝居道では偶数の名題を忌(い)む慣習があるので、いろいろに無理な遣り繰りをして、三字、五字、七字にする。したがって、江戸時代の狂言や浄瑠璃(じょうるり)の名題に、妙な宛字や作字をしているのも少なくないが、明治以後の新狂言の名題に※[#「土へん+「顏のへん」の「彡」に代えて「生」」、U+2A915、214-9]というような作字があらわれたのは珍らしいという評判であった。新聞社の招待日に、わたしは各社の人たちと一緒に西の桟敷で見物していると、そこへ作者の彦作氏が挨拶に来たので、ある人――たしか須藤南翠(すどうなんすい)氏であったように記憶している――が番附を彦作氏にみせて、かのみやげの字を笑いながら指すと、彦作氏も相撲取りのような大きいからだを揺(ゆす)って笑いながら、「なに、芝居はそれでいいんですよ。」と澄まし返っていた。 49526_42385.html(711): 「暫」の舞台をわたしは豪壮華麗と前に言った。そんな抽象的の形容詞を仮りないで、もっと具体的にそれを説明したいのであるが、残念ながらわたしはそれを詳しく説明すべき詞(ことば)を知らない。銅像や写真でおなじみの、素襖(すおう)をきて大太刀(おおだち)をはいた姿――あれに魂がはいって揚幕から花道にゆるぎ出た時、さらに花道の七三(しちさん)に坐って、例の“東夷西戎南蛮北狄”の長台詞を朗々たる名調子で淀みなくつらねた時、わたしは満場の観客と共に、ただ酔ったような心持になっていた、と言うに過ぎない。どうかんがえても、それ以上には説明の仕様がない。 49526_42385.html(756):  一体この菊五郎にはこういう癖が強かったようである。その翌年の六月、やはり歌舞伎座で「天竺徳兵衛(てんじくとくべえ)」を上演したときに、たしかその三日目と記憶しているが、例によって新聞劇評家の招待があった。わたしも見物に行って、他の劇評家諸君と一緒に西の桟敷(さじき)に陣取っていると、その序幕に天竺徳兵衛が浜人(はまびと)をあつめて異国のみやげ話をするくだりがある。そこで菊五郎の徳兵衛がいろいろ話すうちに、天竺には銀座通りという賑かい町があると言った。そこには大きい煉瓦(れんが)づくりの店が列(なら)んでいると言った。そこにはまた新聞社というものが沢山(たくさん)あると言った。その新聞社の人たちには女がむやみに惚(ほ)れると言った。勿論、かれも毎日こんなことを言うのではあるまい。きょうは新聞社の者が来ているということを意識して、一種の愛嬌のつもりで言っているのであろうが、かれが西の桟敷をじろじろ視(み)ながらこんなことを言うので、ほかの観客も我々の方を見返ってげらげら笑い出した。さすがにむきになって怒るほどの者もなかったが、我々のあいだには「去年にも懲りないで……。」と苦々しそうに呟く声がきこえた。かれに悪意のないことは判(わか)っているが、去年の小猿七之助といい、今度の天竺徳兵衛といい、舞台の上でこういう脱線をしばしばくり返して怪しまない彼の態度に対して、何分にも敬意を払うわけには行かなかった。しかし彼の徳兵衛は実に巧いものであった。例の座頭(ざとう)の木琴のくだりで“かねて手管(てくだ)とわしゃ知りながら”の粋な錆(さ)び声は、この人でなければ聞かれまいと思われた。 49526_42385.html(763):  今日ではおそらく誰も話し草にはしないようであるが、そのころ二銭団洲(にせんだんしゅう)と謳(うた)われた俳優があった。その名もその伎倆もあまねく好劇家のあいだに認められて、似て非なるものを指して“二銭団洲”という通語(つうご)さえも出来たくらいであった。わたしもこの二銭団洲の芝居をしばしば見物した。 49526_42385.html(776):  大向うの立見席の前には鉄格子が嵌(はま)っているので、そのころの通言に“熊”といっていたのである。しかし舞台の俳優から熊と罵られては、その本人ばかりでなく、ほかの立見連が承知しない。大勢が一度にさわぎ立って、舞台の紅車を罵倒したので、その一幕はめちゃめちゃになってしまったということである。かれが相当の腕を持っていながら、大歌舞伎の楽屋に辛抱していられなかったのも、こういう性質の持主であったためかも知れない。 49526_42385.html(842):  何分にもこの時代のことであるから、これらの諸作も作者自身としてはいろいろの妥協もあり譲歩もあったであろうと察しられるが、いずれにしても局外者の作物がこうして続々上演されるというのは、明治以来たしかに類例のなかったことで、それに対して注意の眼を瞠(みは)ったのはわたしたちばかりではなかったであろう。由来、わが国の芝居道では、劇というものは素人に書けるものでない、楽屋の作者部屋の飯をくって、黒衣(くろご)をかぶり、拍子木を打ち、稽古をつけ、書抜きをかき、ここに幾年かの修業を積んだ上でなければ、いわゆる“舞台(いた)に乗る”劇は書けないものであると決められていた。かれらが局外者の作物に対して敬遠主義を取っていたのも、あながちに一種の鎖国的思想とばかりは言えない。素人には満足な劇が書けないという信念がかれらの頭に強く浸み込んでいたためで、つまりは“食わず嫌い”という傾きもあったのである。その惑いを解くには、論より証拠、まず何んとかして、素人の作物を上演させて、その舞台上と興行上との好成績をかれらに見せ付けるよりほかはなかった。松居君は巧みにその機会を捉えた。そうして、素人のかいた劇も決して彼らが恐れているような危険なものではないという実例を示したのである。多年とざされていた芝居国の“不入(いらず)の間(ま)”の扉をこうしてともかくもこじ明けたのは松居君の力である。つづいてその扉をあけたのは山崎紫紅(しこう)君である。山崎君は真砂座(まさござ)に「上杉謙信」、明治座に「歌舞伎物語」、「破戒曾我」などを上演させた。 49526_42385.html(843): “不入の間”の扉が遅かれ早かれ開放されるのは自然の勢いで、かならずしも両君の力ばかりとは言えないかも知れないが、実行の方面において最も早くその大勢を導くことに努力した両君の功績は、長く没すべからざるものがあると言ってよい。 49526_42385.html(850):  ところで、今日とは違って、その時代には盆と正月との藪入り、その習慣が一般に残っていたので、正月狂言と盆狂言とはどうしても藪入りの観客を眼中に置かなければならない。藪入りの小僧たちや、それと連れ立って来る阿母(おっか)さんや姉さんたちを相手にして新しい狂言を書くということは、ずいぶん難儀な仕事ではあるが、その当時のわたしたちは何事かの機会をみつけて局外者の脚本を劇場内に送り込んで“不入(いらず)の間(ま)”の扉をこじ明けようと苦心している最中であったから、なんでも構わない、こういう機会を逃さずに書いてみせて、素人の作った芝居でも金が儲かるということを芝居道の人たちに悟らせるがいいというので、藪入り連中ということを承知の上で引受けたが、さてそうなると、題材がなかなかむずかしい。そこで、まず正月らしいものというので、凧(たこ)をかんがえた。凧は先年この座で菊五郎の上演した「奴凧(やっこだこ)」の浄瑠璃がある。何かそれとは離れたもので、凧の芝居はないかということになると、条野採菊翁は柿の木金助のことを言い出した。 49526_42385.html(860):  そんなわけであるから、自作がともかくも上演されるということに対して、岡君もわたしも余り多くの興味も期待も持たれなくなった。歌舞伎座は予定のごとく一月九日から開場したが、この興行は成績が思わしくなかったようであった。諸新聞の劇評もあまり注意して読まなかったが、毀誉相半ばするという程度であったらしい。かの『続々歌舞伎年代記』には、この二番目狂言“世評よからず”とある。それが本当であったかも知れない。 49526_42385.html(869):  実際それは終り初物になったのである。それは十一月のなかば過ぎから開場した芝居で、わたしは松居松葉(まついしょうよう)、岡鬼太郎(おかおにたろう)、鏑木清方(かぶらぎきよかた)の諸君と、たしかその四日目を平土間(ひらどま)で見物したように記憶している。なにしろ初役の勘平というのであるから、わたしたちも一種の興味を以て待ち受けていたのであるが、例の“落人(おちうど)”で花道にあらわれた勘平は実に水々しく若やいだもので、その当時綺麗(きれい)ざかりの福助のお軽と立ちならんで、ちっとも不釣合いにみえないのみか、“いつか故郷へ帰る雁”などはお軽以上に柔かくしなやかに見えたのは、さすがに菊五郎だと感服させられた。当人自身も言っている通り、大体において当人がその人になりすまして踊っているよりも、道行の勘平はかくあるべしという一種の型を教えているかの観がないでもなかったが、“恋にこころを奪われて、お家の大事と聞いた時”のあたりは、型の伝授をはなれて確かに道行の勘平その人になっていた。我々はただ口をあいて眺めているばかりであったが、清方君は熱心にそれをスケッチしていた。 49526_42385.html(914):  わたしの長物語も先ずここで終ることにする。明治の劇談を団菊左の死に止(とど)めたのは、“筆を獲麟(かくりん)に絶つ”の微意にほかならない。 49569_43495.html(31):  この緑雨の死亡自家広告と旅順(りょじゅん)の軍神広瀬(ひろせ)中佐の海軍葬広告と相隣りしていたというはその後聞いた咄(はなし)であるが、これこそ真に何たる偶然の皮肉であろう。緑雨は恐らく最後のシャレの吐き栄(ば)えをしたのを満足して、眼と唇辺(くちもと)に会心の“Sneer”を泛(うか)べて苔下にニヤリと脂下(やにさが)ったろう。「死んでまでも『今なるぞ』節の英雄と同列したるは歌曲を生命とする緑雨一代の面目に候」とでも冥土から端書(はがき)が来る処だった。 49569_43495.html(32):  緑雨の眼と唇辺(くちもと)に泛べる“Sneer”の表情は天下一品であった。能(よ)く見ると余り好(い)い男振(おとこぶり)ではなかったが、この“Sneer”が髯(ひげ)のない細面(ほそおもて)に漲(みなぎ)ると俄(にわか)に活(い)き活きと引立って来て、人に由(よっ)ては小憎らしくも思い、気障(きざ)にも見えたろうが、緑雨の千両は実にこの“Sneer”であった。ドチラかというと寡言の方で、眼と唇辺に冷やかな微笑を寄せつつ黙して人の饒舌(おしゃべり)を聞き、時々低い沈着(おちつ)いた透徹(すきとお)るような声でプツリと止(とど)めを刺(さ)すような警句を吐いてはニヤリと笑った。 49569_43495.html(33):  緑雨の随筆、例えば『おぼえ帳』というようなものを見ると、警句の連発に一々感服するに遑(いとま)あらずだが、緑雨と話していると、こういう警句が得意の“Sneer”と共にしばしば突発した。我々鈍漢が千言万言列(なら)べても要領を尽せない事を緑雨はただ一言で窮処に命中するような警句を吐いた。警句は天才の最も得意とする武器であって、オスカー・ワイルドもメーターランクも人気の半ばは警句の力である。蘇峰(そほう)も漱石も芥川龍之介も頗(すこぶ)る巧妙な警句の製造家である。が、緑雨のスッキリした骨と皮の身体(からだ)つき、ギロリとした眼つき、絶間(たえま)ない唇辺(くちもと)の薄笑い、惣(すべ)てが警句に調和していた。何の事はない、緑雨の風(ふうぼう)、人品、音声、表情など一切がメスのように鋭どいキビキビした緑雨の警句そのままの具象化であった。 49569_43495.html(44):  何でもその時分だった。『帝国文学』を課題とした川柳をイクツも陳(なら)べた端書を続いて三枚も四枚もよこした事があった。端書だからツイ失(な)くしてしまって今では一枚しか残っていないが、「上田の附文(つけぶみ)標準語に当惑し」、「先生の原稿だぞと委員云ひ」というようなのがあった。前者は万年博士が標準語に関する大論文を発表した際で、標準語という言葉がその頃の我々の仲間の流行語となっていた。また誰かの論文中“Chopin”をチョピンと書いてあったので、「チヨピンとはおれが事かとシヨパン云ひ」という川柳が出来たが、この作者は緑雨であったか万年博士であったか忘れてしまった。『門三味線(かどじゃみせん)』を作ったのもこの壱岐殿坂時代であって、この文句が今の批評家さまに解ったら一大事だなどと皮肉をいいつつ会心の文句を読んで聞かした事があった。 49573_43499.html(131):  この時代の愛読書であって、二葉亭の思想を豊かにし根柢を固くしたのはモーズレーの著述であった。殊にその“Pathology of Mind”は最も熱心に反覆翫味して巨細(こさい)に研究した。この時分の二葉亭の議論の最後の審判官は何時(いつ)でもモーズレーであって、何かにつけてはモーズレーを引合に出した。『浮雲』に二箇処まで見えるサリーやペインも愛読書であって、サリーの所説はしばしば議論の典拠となったが、殊に傾倒していたのはモーズレーの研究法であった。 49574_43497.html(32):  二葉亭の頭は根が治国平天下の治者思想で叩(たた)き上げられ、一度は軍人をも志願した位だから、ヒューマニチーの福音を説きつつもなお権力の信仰を把持して、“Might is right”の信条を忘れなかった。貴族や富豪に虐げられる下層階級者に同情していても権力階級の存在は社会組織上止むを得ざるものと見做(みな)し、渠らに味方しないまでも呪咀(じゅそ)するほどに憎まなかった。 49605_37002.html(672): “I am a rolling stone !” 49617_34958.html(28): 詩集を[#ここから横組み]“PAN”[#ここで横組み終わり]とわが「屋上庭園」の友にささぐ 49617_34958.html(910): [#ここから横組み]“*Ogamadashi, Mauske”[#ここで横組み終わり]自慢らしい手つきで 49617_34958.html(933): [#ここから横組み]“Changhang-deki no Mariya Sanna 49617_34958.html(1341): [#ここから横組み]“Chonkina! chonkina! 49617_34958.html(1357): [#ここから横組み]“Chon-aiko! chon-aiko! ……”[#ここで横組み終わり] 49617_34958.html(1370): [#ここから横組み]“Chon-aiko! chon-aiko! ……”[#ここで横組み終わり] 49617_34958.html(1381): [#ここから横組み]“Chonkina! chonkina! 49617_34958.html(1406): [#ここから横組み]“Chonkina! Chonkina! ……”[#ここで横組み終わり] 49617_34958.html(1415): [#ここから横組み]“Chon-aiko! chon-aiko, 49617_34958.html(1420): “Chonkina! chonkina! ……”[#ここで横組み終わり] 49621_37003.html(569): ユーモアのある句、[#ここから横組み]“Humorous Haiku”[#ここで横組み終わり] 49717_38563.html(33):  長次郎は私をいざなって、一つのピークに立った。そして昔の山びと特有のヨードルを高らかに放った。鳶の鳴き方に一寸似た、[#ここから横組み]“Oho………horrr………ooo”[#ここで横組み終わり]という様な、美しい声であった。 49722_34439.html(27):  今の若い者のやっている事は、勝手気儘に任してあるので、一所に描いていても絵具かニカワ位を借りに来る位で殆ど何をやっているのか分らない程です。以前と違い水墨の妙味とか雅趣があるとかいうような事は顧みられないで細密描写だとか言って細い線で描き倒してその上を塗り潰して行くというやり方で、今度の出品の椿でも、大きな絹のまん中に“トボン”と描いてあるのだなぁとからかうと、反対に一寸見ると面白いとか、趣があるなどというような詰まらぬ絵は描かんと申します。 49780_39091.html(80): “Natural nonsense” 49780_39091.html(157): “高くこゝろをさとりて俗に帰るべし” 49780_39091.html(160): “鬼が笑ふ” 49781_39092.html(515): “諸行無常” 49781_39092.html(516): “木魂” 49782_39466.html(776): 過去帳、――“みんな死んだ、死んでしまつた、死んでゆく” 49782_39466.html(1479): “かくなればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂”(松蔭(マヽ)) 49783_39467.html(73): “無明実相即仏性” 49783_39467.html(141): “地熱” 49783_39467.html(142): “空像” 49783_39467.html(247): “鶏肉はありませんか”隣家と間違へた女の声。 49784_39690.html(150): “旅日記ところ/″\” 49784_39690.html(519): “浜松の印象” 49784_39690.html(583):   “山の宿” 49784_39690.html(593): “朝は           お風呂こゆつくり 49784_39690.html(603): “得何和” 49784_39690.html(604): “一人を楽しむ” 49784_39690.html(648): “天龍のぼれば[#「のぼれば」は底本では「のほれば」]”小唄二つ三つ 49784_39690.html(725): 宿の扁額に曰く“故郷難忘” 49784_39690.html(734): 水を堰き流木を整理してゐる、“や”と呼ぶさうな、路傍の石仏を昔から在つたまゝにコンクリートの壁をわざ/\拵らへて祀つてある、うれしい心づかひである、私も立ちどまつて心経一巻諷誦する。 49784_39690.html(808): 赤石連山の壮観、家々の五月幟、時に満員、乗客の漫談(二十六人の徴兵検査で二十五人合格したとか)、車掌が声高く“高遠原”、このあたりは高原らしい蕭条たるものがあつた。 49784_39690.html(823): “いろ/\” 49784_39690.html(860):  “井月の墓” 49784_39690.html(868): 墓碑、(自然石)“降るとまで人には見せて花曇り” 49784_39690.html(872): 墓石、“塩翁斎柳家井月居士”俗名塩原清助 49784_39690.html(873): 位牌、“塩翁院柳家井月居士” 49784_39690.html(880): “苧環をくりかけてあり梅の宿” 49784_39690.html(881): “何処やらに鶴の声きく霞かな” 49784_39690.html(882): “駒ヶ嶽に日和さだめて稲の花” 49784_39690.html(928): 酒屋の主人曰く“――お泊りになりましたな”、それほど通行人が少なく、旅客が稀なのである。 49849_46687.html(239):  このごろステイヴンスンを読んでをりますのよ。わたくしこの人の小説が大好きになつてしまひました。いま読んでゐるのは“The frovidens and the guitar”といふ小説ですけれど、この人にはそのほかにも面白い旅行記や感想なんかがたくさんあるといふ話をきいて、急にそれがほしくなつてしまひましたの。ある方のお話ですと、きつと丸善には来てゐるだらうとのこと。ですから、どうぞあの二階に連れて行つて下さいまし。二三日うちにきつと参ります。午前中なら大がい家にいらつしやるでせう。 49989_37783.html(56):  ところで、かような高級道楽(どうらく)食いの店を、新橋界隈(かいわい)に求めていったい何軒あるだろうか。もちろん立ち食いそのままの体(てい)でよくできている店というならば、何軒でもあるにはあるが、実際には“羊頭(ようとう)を掲げて狗肉(くにく)を売る”たぐいが大部分である。殊(こと)に近ごろ流行の、硝子(がらす)囲いに材料を山と盛り、お客さんいらっしゃいと待ちかまえているような大多数の店は、A級寿司屋とはいい難(がた)い。 5004_14198.html(38):  さう云ふけれども、実際はなかなかさうは行かない。気心で物いつたり、読みたての書物で物いつたり、自分の作物の注解、分疏として物いつたりいろいろである。さういふ事に関聯して、去年この夜話で紹介した、吹田順助氏訳の「二十世紀の神話」でローゼンベルクは好い事を云つてゐた。『理論と実行との矛盾は、シラーやシヨーペンハワーと同様にゲーテにもある。十九世紀の全部の美学の罪は、それが芸術家の作品に結び付かないで、彼等の言葉を分析したことにある』といふので、彼等といふのは、シラー以下の諸先進のことを指してゐる。私自身の備忘録として原文を引くなら、原文は、”An die Werke der Knstler anknpfen“である。この、”anknpfen“といふ語は、糸などを結ぶことに用ゐられてゐる。つながり、接続、関係、機縁、縁故などといふ意味にもひろがつてゐるが、兎に角、結合してゐて離れない意味がある。ローゼンベルクはその事をいつてゐるのである。 5004_14198.html(54): ※底本では、「”」の二点は右下に、「“」の二点は左上に、置かれています。 50066_38025.html(812):  フランクリンが十三歳で印刷屋の小僧となつてから、十七歳の一七二三年フイラデルフイアに移つて以來週刊新聞を發行するまで、彼のイギリス渡りの二三枚の活字ケースがどんな重大なはたらきをしたかは、周知のやうに彼の「自傳」が彼がアメリカ憲法草案を書いたときのそれにも劣らぬ感動をもつて語つてゐるところだ。フイラデルフイアの町はすべてが新らしくすべてが草創であつた。コロンブス發見以來日の淺いこの大陸へ移住してくる人々は、しかも過去十八世紀の文化の傳統を持つてをり、そしてすべての人々が獨力で新らしい天地を築きあげようといふ熱意に燃えてゐた。フランクリンのわづかの活字はさういふ人々の生活のなかで、新らしい秩序をつくり、町の發展と方針を定める輿論の寵兒とならねばならなかつた。ケース二三枚の古活字は木彫頭字の圖案化や手描きの彩色などしてゐる餘裕はない。肝腎のことは活字自體があらはしてゐる文字の正確さである。活字が表現する言葉と思想である。古風な「イタリツク」や「ローマン體」よりも、正確で端的な「ニユウスタイル」である。豐富な言葉を敏速に表現し、しかも大多數に行渡ることが必要であつた。フランクリンの古活字はたちまち磨滅し、ヨーロツパ渡りの古風なハンドプレスは使用に堪へられなくなつたばかりでなく、不便でもあつた。しかも活字鑄造所はフイラデルフイアは勿論アメリカぢゆうにさへなかつた。彼は活字を買ひに大西洋を渡つてイギリスへ再度旅行したが、十九歳のとき自分で活字鑄造法を考案したと「自傳」で述べてゐる。「アメリカには活字の鑄造所はなかつた。――けれども私は鑄型を考案し、手許にある活字を打印器に使つて鉛に打ち込み、かうして却々上手に足りない活字を揃へたものだ。また時折はその他種々のものを彫刻し、インキも作り――」といふので、ここでいふ打印器とは種字の意味であらう。西洋の印刷歴史書では、彼がロンドンの活字鑄造所で見覺えた趣きも書いてあるが、「自傳」に書かれてゐる限りでは簡單すぎてグウテンベルグ以來の鑄造法にどれほどの改良を加へることが出來たかは判斷できない。ただ彼が周知のやうな電氣發見その他の大科學者であつたことからして多少の改良を加へただらうと想像するだけであつて、たとへばオスワルドの「西洋印刷文化史」もこの點詳細な記述はない。しかし今日のこるフランクリン考案の印刷機は多少の新工夫を加へたものだとされ、「印刷文明史」はこの寫眞を載せてゐる。巨大な木製のハンドプレスで、レオナルド・ダ・ヴインチが最初に考案した印刷機に酷似してゐる。[#ここから横組み]“Benjamin Frankrin, printing press”[#ここで横組み終わり]と誌された機臺の上には、それを組みたててゐる五人の人物が小さく見えるくらゐだから、これのハンドをひくときは恐らく數人がかりだつたにちがひない。 5007_47698.html(66): ** Vorrede zur zweiten Auflage vom ”Wesen des Christenthums“ (, 283.). 5007_47698.html(76): * Vorrede zur zweiten Auflage vom ”Wesen des Christenthums“ (, 283.). 5007_47698.html(125):  それ故に私は進んで言葉が存在に及ぼすはたらきのうち最も注目すべきものに關して研究しよう。言葉はその具體性に於て社會的である。話すといふことは、或る人が、或る物について、或る人に對して話すといふ構造をもつてゐる*。言葉のこの構造によつて、語られた物は、語る私のものでもなく、聽く彼のものでもなく、誰といふ特定の人のものでなく、我々の共同のものになる。このとき存在を所有する者は「我々」であり、「世間」であり、範疇的なる意味に於ける「ひと」(ドイツ語の”man“――フランス語の≪on≫)である。言葉の媒介を通じて初めて存在は十分なる意味で公共的となる。そして世界を相互ひに公共的に所有することによつてまた初めて社會は成立する。言葉が社會的であるといふのは、言葉によつて社會が存在するといふことである。アリストテレスも人間がロゴスをもつてゐることが彼の特に社會的なる存在である理由だと述べてゐる**。然るに存在が言葉によつて表現されて社會的となり、「ひと」といふ範疇に於て成立する世界へ這入つて來るとき、それはひとつの著しい性格を擔ふに到る。我々が存在の凡庸性もしくは中和性と名づけるものがそれである。私がいま机を買ひに行くとする。私は家具屋の主人に向つて「机をくれ」と云ふ。このとき彼は私をただちに理解して、若干の机を取り出して私に示すであらう。彼が私を理解し得るのは机が言葉に於て中和的にされてゐるからである。家具店よりの歸途私は電車に乘る。車の中には高位高官の人もあるであらう、場末の商人もあるであらう。また悲しみに充てる人もあり、喜びに溢れたる人もあるであらう。然しながらこの場合それらの人々の凡ては乘客といふ言葉に於て凡庸化され、むしろこの言葉の見地から經驗されるのである。そのとき二三の空席が車中に見出されるならば、私はそのいづれであるかを構はず私に與へられた席に腰を卸すであらう。それはそれらの空席が凡て空席として中和的にあるからである。存在が斯くの如く中和性に於て在ることによつて、我々の特に社會的なる實踐は可能になる。机が若し中和的に存在し得ないならば、商人は机を賣り、私は机を買ふことは不可能であるであらう。言葉はその根源性に於て理論的でなく却て實踐的である。存在の凡庸性の現象はこのことを何よりも明かにする。言葉が本來社會的實踐的であるといふことを理解するのは、ロゴスと共に先づ第一に論理或ひは理論を考へることに慣れてゐる今の人々にとつて極めて大切である。そのことと關係して、存在の中和性が恰も概念の普遍性に基くものの如く見做す普通に行はれてゐる誤解から、ひとは全く自由にならねばならぬ。私が家具屋と理解し合ふのは机といふ概念の普遍性に依るのである、と一般には思はれてゐる。然しながら、私が「机をくれ」と云ふとき、私は抽象的なる、即ち理論的に普遍的なる机を意味してゐるのではなく、却て私は一個の具體的なる、現實的なる机を買はうと欲してゐるのである。しかもそのとき机といふ言葉は私が商人の示す種々なる机を選擇し吟味した後買つて歸るところの全く特定の机をまさに最初から意味してゐるわけでもない。若しさうであるならば、何故に商人は一個の机の代りに數個の机を取り出し、そして何故に私は選擇と吟味を行ふか、は理解し難きことであらう。存在の中和性は概念の抽象性もしくは普遍性によつて成立するのでもなく、また反對にそれの特殊性もしくは個別性によつて基礎付けられてゐるのでもない。むしろそれは獨立なる、具體的なる、しかも夫々の存在を表現する。簡單に云へば、それは存在の Jeweiligkeit の謂である。現實のどれでもの存在が凡庸性といふことによつて意味される。アリストテレスの謂ふτ※[#重アクセント付きο、U+1F78、59-11] ※[#有気記号と鋭アクセント付きε、U+1F15、59-11]καστονとはかかる性格に於ける存在であつて、多くの場合考へられてゐるやうに個別的なるものの謂ではない。言葉が最初には實踐的性質のものであり、そしてこの實踐が本質的には社會的性質のものであるところに、存在の凡庸性はその根源をもつてゐる。このとき存在は勿論交渉的存在である。前段で述べた、「意識―主觀」の形式にあつてはそれに對するものは客觀または對象としての存在であるが、これに反して「言葉―我々」の形式に於てはそれに對するものは交渉的存在であるの外ない。それ故にギリシア人は物をπρ※[#曲アクセント付きα、U+1FB6、60-3]γμαといふ語で表はした。ところで存在の凡庸性に於て意識の埋沒の行はれることは固より明かであらう。我々が存在に對して懷く愛も憎みも、主觀的なるもの、内面的なるものの一切はそこでは埋沒してしまひ、從て存在の主觀的なる、内面的なる規定はそこでは隱され蔽はれてしまふ。けれどもかくして失はれるものに比して得られるものは一層大であるであらう。人間の社會的なる、實踐的なる規定はそこに於て發揮され、滿足させられることが出來るのである。然しながら、最も注意すべきことには、嘗てはこのやうに人間の社會性を發展させることに役立ち得た存在の凡庸性は、今ではそれの發展に對する桎梏にまで轉化した。かかる轉化が行はれるためには、現實の存在そのものの構造に於て既に重大な變化が成就されてゐなければならない。けだし近代に於ける存在の凡庸化の原理は商品である。商品が次第に支配的範疇となり、遂には普遍的範疇となるに及んで、存在の凡庸性は人間の社會性の發展を拘束し、妨害することにまで到達した。存在の凡庸性はかくして矛盾に陷り、それと共にロゴスもまた同じ矛盾に陷らねばならなかつた。我々はこのことについて考察を試みるであらう。 5007_47698.html(137): * Vorrede zur zweiten Auflage vom ”Wesen des Christenthums“ , 283. 5007_47698.html(191): ** 我々が哲學的研究の中へ導き入れようとする「存在のモデル」若くは「認識のモデル」なる概念の含む重大な諸問題に今は立入ることを許されない。我々のモデルの意味をフッサールは“der exemplarische Index”といふ語をもつて表現してゐるやうに見える(Edmund Husserl, Philosophie als strenge Wissenschaft, Logos, , S. 295.)。一般に認識のモデルが論理學または數學的自然科學に求められ、そしてこのモデルが更に存在のモデルにまで高められてゆくといふことは、現代の哲學の著しい傾向に屬する。我々はその例として矢張フッサールの『哲學的文化の理念』(『日獨學藝』一九二三年八月)を擧げることが出來る。この現代の傾向を批評することもまた我々にとつて別個獨立の題目を作るであらう。 5007_47698.html(252):  發展が絶えず自己完了的全體を目差すことによつて、辯證法はまた特殊な構造をもたねばならないであらう。一般に辯證法は正、反、合の三つの契機を具へてゐるが、そのうち正と反とは矛盾であり、合はこの矛盾の綜合であるから、辯證法には矛盾と綜合との二つの方面があると解されることが出來る。矛盾は辯證法的運動に於て特に過程的なるものであり、これに反して綜合は、よしや暫定的と考へられるにせよ、完了的なるものの性質をおのづから帶びてゐる。從て體系が現實的に求められるところでは、辯證法に於て、矛盾にではなく却て綜合に重きがおかれるのは自然の勢ひであらう。實際ヘーゲルの辯證法にあつてはその通りである。そしてこのことはまた次のことと關係する。汎神論では存在の諸規定と價値の諸規定とが合致する。從てそこでは存在の高まりゆく規定に於て同時に價値的に否定的なるもの、矛盾的なるものが次第に肯定と調和とに昇つてゆき、かくて遂には宇宙に於ける神の、絶對的價値の支配が隈なく認識されねばならない。神の攝理が到るところ現實に實現されてあるといふことを理解するのが汎神論の大いなる關心である。宇宙は矛盾と鬪爭とを經つつも究極は調和と和解とに於てあり、世界に於ける否定的なもの、反價値的なものも神の普遍的現在を妨げるものではない、といふことを闡明することは、それの關心すべき目的である。このやうにして、ヘーゲルは彼の歴史哲學的考察がひとつの「神義論」(Theodizee : Rechtfertigung Gottes)であることを述べてゐる。それは世界に於ける禍を概念的に把握し、思惟する精神と惡とを和解せしめ、かくて思惟をもつてこの世の罪を贖ふべき、ひとつの”vershnende Erkenntnis“である。斯くの如き罪を贖ふところの、和解せしめるところの認識は、何處に於ても世界歴史に於てほど甚しく要求されはしない、とヘーゲルは信じた。「この和解はただ、それのうちではかの否定的なるものがひとつの從屬的なるもの、征服されたものにまで消え失せるところの肯定的なるものの認識によつて、一部分は、眞理に於てあるものが世界の究極目的であるといふところの、一部分は、この目的が世界のうちに實現されてあり、そして惡はそれとは究極は競ひ得なかつたといふところの意識によつて、到達されることが出來る*。」そのためには、ヘーゲルによれば、單に攝理に對する信仰のみでは不十分であつて、νο※[#曲アクセント付きυ、U+1FE6、142-3]に對する信仰が必要である。理性はその「思辨的」本質の故に、否定的なるものを肯定的なるものへの必然的關係に於て思惟する。然しながら理性の辯證法的思惟がひとつの vershnende Erkenntnis であり得るためには、辯證法はそれ自身特殊な性格のものであるべきであらう。そのためには、辯證法の構造に於けるかの二つの方面のうち特に綜合に重心が落ちて來なければならない。ヘーゲルの辯證法が自己完了的傾向を示してゐるのは、一部分はここからも由來するのである。このやうにしてヘーゲルにあつては世界歴史は漸次に高まりゆく調和の過程であり、それは恰もヘーゲルに於て最高點に達したものの如く見做される。彼の哲學に於て過去の歴史の一切の矛盾は綜合され、聖化されて、理念は絶對的認識に到る。これに反してマルクスに於ては如何であつたか。彼によれば、あらゆる從來の社會の歴史は階級鬪爭の歴史である。抑壓者と被抑壓者とは互ひに絶えざる對立に立ち、間斷なき、或るときは隱れたる、他のときは明らさまなる戰を戰つた、この鬪爭たる、つねに全社會の革命的な變革もしくは相戰ふ階級の共通の沒落をもつて終つたのである。階級の間の對立、矛盾乃至鬪爭は、現代に於て調和に到達しないのみか、まさに凡ての歴史的時代よりも普遍的となり、全面的となり、激烈となつたのである。かかる見方をするマルクス主義に於て、その辯證法がいつでも矛盾の方面に重きをおくのは當然であらう。辯證法は、それが辯證法である限り、必然的に矛盾と綜合とを自己のうちに含んでゐる。しかしヘーゲルの觀念的辯證法では特に綜合に、これに反してマルクスの唯物辯證法では特に矛盾に、おのづからその構造の重心が定まるのである。この著しい對立は、如何に兩者が現代を把握したか、といふことに於て最も顯はになる。ヘーゲルは彼の屬する現代を綜合の完成した時代と見做し、マルクスは現代をもつて矛盾の完成した時代であると考へた。現代の意識はしかるに、過去の歴史が如何に把握されるか、といふことに對する根源である。二人の思想家の全史觀の對立は辯證法の構造に於ける對立に於て明瞭に窺はれることが出來る。ところでこのことは恰も次のことと聯關する。 5007_47698.html(285): ※底本では、欧文横組みのダブルクォーテーションである「”」は文字列の左下に、「“」は右上に、置かれています。 50112_42137.html(258):  そして、“Expectavi orationem, mihi vero querelam adduxisti !”と、叫んだ。続いて、息もつがず、毒々しいラティン語の奔流を、轟くばかりに浴びせ始めた。叱責と、怒罵と、苛烈な揶揄とが、驚嘆すべき流暢さで、こもごも口をついて出るのだった。取り巻いていた者どもは恍惚となった。みんな女王さまの教養については知っていたが、こうまでとはまったく意外だった。あんなに無準備(エクス・テムボレ)な演説が、ちゃんと法にかなって舌の上に踊る。哀れな大使は降参した。ついに、最後の終止符をまん丸く打ち終わると、彼女はちょっと口を噤み、それから侍臣たちを顧みた。「やれ、やれ、みなの人よ」と、彼女は満足げな微笑みとともにいった「わたしのラティン語も、長いこと放っておいたので錆びかかっていたからね。今日は久しぶりに引き出させられて、おかげで錆を落とすことができましたよ!」あとで彼女はロバアト・セシルを召し寄せて、彼女のラティン語を、エセックスがいたら聞かせてやりたかったのに、ともいった。セシルは如才なく、この出来事の詳細を伯爵に書き送ろうと、女王に約束した。そして実行した。おかげで、ポーランド使節謁見の興味ある情景は、彼の手紙とともに後世にまで残ったのである。 50131_42408.html(82):  The noblest of all these Kings was Arthur. He was the son of Uther Pendragon, and he succeeded to the throne at a very early age, though not without great trouble, as the knights and barons said they would not be ruled over by a “beardless boy,” and if he wanted his crown he might fight for it. However, by the aid of an old man named Merlin, who was supposed to have magic powers, the rising insurrection was stopped, and young King Arthur was crowned with great pomp in London. 50131_42408.html(83): (譯)是等諸王の最も尊ふときはアーサー王である、ユーサー、ペンドラゴンの子にして弱冠にして(at a very early age)王位を繼ぎたるが、領内の士、貴族共、何條『無髯の小童(こわらべ)』が配下に立たうや(would not be ruled over by a “beardless boy”)、王冠欲しくば(if he wanted)劍の先で取つて見よ(he might fight for it)と云ふ勢ひ(as……said)、其困難一方ならずであつた(not without great trouble)。されども、マーリンと云へる、不思議の術ありと思はれたる(who was supposed to have magic powers)一老翁の助力に依つて、起り立つ叛亂茲に鎭まり(the rising insurrection was stopped)、年若きアーサー王は儀式盛かんに(with great pomp)龍動にて王冠を戴く事になつた。 50131_42408.html(91): “To reverence the King as if he were 50131_42408.html(144): “‘Ay, go then, an ye must: only one proof, 50131_42408.html(165):  Gareth thought for a while, and then accepted the condition. “For,” said he, “the thrall in person may be free in soul. And I shall see the jousts.” The Queen was very sorry she had yielded so far as to make a condition; she had hoped that Gareth would refuse indignantly; but the mischief was done. 50131_42408.html(184):  As Sir Gawaine, one of the knights, was gazing idly out of the window, he saw the three men approaching, and he went to the King and said: “Sire, go now to your dinner, for here comes the adventure.” 50131_42408.html(196):  Then Gareth stepped in front of the others, made a low reverence, and said: “God bless you, and all your fair fellowship, and especially the fellowship of the Round Table. And I have come hither, Sire, to ask of you three things. I will ask the first now, and leave the other two until this day twelve months, when you are again holding the feast of Pentecost.” 50131_42408.html(199): “Well,” said the King, “and what is your petition?” 50131_42408.html(200):  “This,” said Gareth, plucking up heart, as he noticed the King's kind and frank expression. “This--that you will give me meat and drink in your kitchen for a year and a day.” 50131_42408.html(204):  “That is a very small matter,” said the King; “if you had asked for horse and harness I would have given it, but as for food, that I have never refused to friend or foe--I give it you gladly. But now tell me your name and degree.” 50131_42408.html(208):  “That I may not tell, Sire, and I entreat you of your kindness not to desire it of me.” 50131_42408.html(211):  “You shall have your way,” said the King; and then he called Sir Kaye, the Seneschal, and charged him to provide all that was necessary for the stranger, and added that he should be treated as one of noble birth, “for I am quite sure,” said he, “though he refuses to tell his name, he is noble.” 50131_42408.html(214):  “Indeed,” said Sir Kaye, who was a very sour, sarcastic person, “that will not be needed, for if he had been noble he would have asked for horse and armour, and not for food alone. I will take care he has all he can eat, but he shall live in the kitchen, and help the serving-men, and that will be good enough for him. I warrant he has been brought up in some monastery, and they can feed him no longer, so he comes to us. As for a name, I shall call him Beaumains--that is to say, ‘Fair Hands.’” 50131_42408.html(237):  “For,” said Sir Kaye, “if he is a fine gentleman, a little taking down will do him good.” The only pleasure Beaumains had was to try his luck in the different games, and he soon proved both his strength and skill were beyond the common. Whenever there was any tilting he was on fire to go, and if Sir Kaye really could not find him another task he would reluctantly give him leave. 50131_42408.html(249): “What is the lady's name?” said the King, “and who is the knight that besieges her?”] 50131_42408.html(250):  “That I may not tell you sire,” said she, and shut up her pretty lips with great decision. 50131_42408.html(254):  “There are many knights here,” returned the King, “who would gladly do battle for this lady; but if you will neither tell me her name, nor his who attacks her, they shall none of them go with my consent.” 50131_42408.html(260): “Sir King, God thank you, I have now been twelve months and a day in your kitchen and now I will ask my two gifts.” 50131_42408.html(261):  “With all my heart,” said the King. 50131_42408.html(266): “First,” said Beaumains, with a glance at the damsel, who was looking very displeased that her business should be set aside, “give me this adventure. Let me be the one to succour the distressed lady. Secondly, I pray you, let Sir Launcelot make me knight, and then I will ride on my way to the castle.” 50131_42408.html(267):  “Both these I grant,” said the King. 50131_42408.html(271):  Then the lady was very angry, and, with crimson cheeks and flashing eyes, she cried out: “What! shall I have none but he that is your kitchen page?--Then I will have none!” And in great wrath she turned and left the royal presence with scant ceremony, flung herself into the saddle, and rode away, followed by her servant. 50131_42408.html(285):  “Willingly,” said Sir Launcelot; “but you must tell me your name before I do this.” “My name is Gareth, and I am the youngest son of the King and Queen of Orkney, and my mother would let me come to the court on one condition only, that I should serve in the kitchen for a year and a day and tell my name to none, not even to the King.” 50131_42408.html(289):  “I am right glad” said Sir Launcelot; “I knew you were noble all the while.” 50131_42408.html(294):  There was much discussion among the knights, and some laughter, as they watched him go, and Sir Kaye, who had always been unfriendly, said: “Now I will hie me after my boy of the kitchen, and see if he will know me for his master!” 50131_42408.html(297):  Just as Beaumains overtook the lady, Sir Kaye came spurring up behind in great haste, crying, “Hold, Beaumains! know ye not me? We miss you by the kitchen fire.” 50131_42408.html(298):  “Yes,” said Beaumains, “I know ye for an ungentle knight, and therefore look to yourself!” 50131_42408.html(305):  Beaumains then came up to the lady, who had been watching the encounter, curious, in spite of her scorn, to see which would win. She gave him but a poor reception, however, calling him “kitchen knave,” and declaring his beautiful new clothes had the odour of the dishes about them. She told him it was only by chance he had overcome Sir Kaye, who, as every one knew, was his master, and again declared she would not have him for her champion. 50131_42408.html(309):  “Damsel,” said Gareth, as we must now call him, “say to me what ye like. I have undertaken to King Arthur to achieve your adventure, and I shall finish it or die in attempting it.” 50131_42408.html(312):  “Fie on thee, kitchen knave!” cried Lynette, for that was the lady's name, “thou shalt meet one whom, for all the broth thou hast supped, thou darest not look in the face!” 50131_42408.html(313):  “I shall try,” said Gareth quietly. 50131_42408.html(318):  Just then a man came rushing up to them. “Help! help!” cried he; “my master has been set on by six ruffians, overcome and bound, and I fear for his life.” 50131_42408.html(321):  “Show me the way,” said Gareth. The man led him to where his master lay bound, and three of the robbers made off when they saw him coming. Gareth laid about him so fiercely that he soon had the three others disabled, but was only slightly wounded himself, owing to his great skill in arms; then he went back to the prostrate man, unbound him, and helped him to regain his horse. 50131_42408.html(324):  The knight was most grateful, and thanked Gareth heartily, and begged him to go with him to his castle and rest and refresh himself. He even wished to reward him, but Gareth refused. “Sir,” said he, “I will no reward have. I was this day made knight of the noble Sir Launcelot, and this is reward enough. I must follow the lady.” 50131_42408.html(342):  “Best go back,” said she, “for you won't dare risk your bones!” 50131_42408.html(343):  “Not I,” said he; “not if there were six of them,” and with that he rushed up to the ford. 50131_42408.html(347):  Then there was another fight, long and hard, but in the end Gareth overcame his two assailants, and he and Lynette passed over the river in safety. Small credit did he get at his lady's hands, however. “Alas!” said she, “that ever a kitchen page should have the fortune to overcome two such doughty knights.” 50131_42408.html(355):  “Nay, would you have me a coward?” said Gareth, smiling. 50131_42408.html(366):  “Nay,” said Gareth, “not unless you ask me for your sake to show mercy.” 50131_42408.html(370):  “Fair damsel,” cried out the Green Knight, as she hesitated, “I beseech you, ask for my life, and I have thirty men at my command, and they shall be at his orders, if he will but spare me.” 50131_42408.html(382):  “I will go down and engage with him,” said he, “for I see he is a knight-errant.” So he armed himself in blue from top to toe, and he had a blue shield and blue spear. Then he sallied out to meet Gareth, and again there was a fight, and, as before, Gareth was the victor, and held his adversary under his sword. 50131_42408.html(397):  If he had a tremor, it was one of pleasure, for the fire in Lynette's eyes was softened, and there was quite a kindly tone in her voice as she begged him to be careful, “For,” said she, “I dread me full sore lest that you should suffer some hurt and that I would not have, for you are a brave knight and a gentle, and I am truly sorry I used you so roughly.” 50131_42408.html(402):  “Dear lady,” said Gareth, “do not speak of it; for you have done me no harm, and now I shall fight better than ever I did, under the sunshine of your smile.” So on they rode in high spirits, and in the afternoon they came to a gloomy castle, and there was martial music sounding from within. 50131_42408.html(405):  Close by the entrance there was a sycamore tree, and on it hung a horn of ivory, the largest they had ever seen. Said Lynette, “The Knight of the Red Lands has hung it up there, and if any errant knight should come by and wish to fight, he must blow that horn, and then the Red Knight will come out and do battle with him.” 50131_42408.html(409):  “But I pray you, sir”--Lynette was growing civil--“do not blow it now, but wait till it is night, for from now till sunset he has the strength of seven, but after that time he has only what belongs to him of right.” 50131_42408.html(412):  “Oh, my lady,” cried Gareth, “do not talk to me of fear; no matter what strength he may have, I will rescue your sister or die.” 50131_42408.html(418):  “Sir,” said Lynette, “look that you be merry and bold, for here comes your deadly enemy, and at yonder window is my sister, Dame Lyonors, whom he holds in bondage.” 50131_42408.html(421):  “She is the fairest lady--save one--that I have ever seen,” said Gareth, “and I am proud to do battle for her.” And he looked up to the window with a bright smile, and Dame Lyonors smiled in return, and waved her hand. 50131_42408.html(424):  Then the Red Knight called out in a great voice, “Leave, Sir Knight, thy looking, and beware of me, for she is my lady, and for her I have fought many battles.” 50131_42408.html(428):  “That may be,” said Gareth, “but I warrant she cares little for your company, or she would not have sent to ask for help against you. I will rescue her from your hands, or die in the attempt.” 50131_42408.html(431):  “You had better take warning,” said the Red Knight; “look in those trees yonder.” And there hung upon the trees forty dead knights, with their shields and swords about their necks and gilt spurs on their heels. “These doughty champions,” said the Red Knight, with a grim smile, “all came hither on the same errand as yourself. Perhaps you would like to join them? I dare say I can find another tree!” 50131_42408.html(435):  “Make ready,” cried Gareth fiercely, “for I will parley no longer.” He desired Lynette to stand away at a safe distance, and then the two rushed together with a tremendous onslaught. 50131_42408.html(441):  Then Lynette burst out weeping, and cried, “Oh, Sir Beaumains! what is become of thy strength, in which we trusted?” 50131_42408.html(447):  “Oh, noble knight, I yield me unto thy mercy,” gasped the Red Knight. 50131_42408.html(448):  Then Gareth said, “I ought not to save thy life, for the sake of all those knights thou didst slay so shamefully.” 50131_42408.html(451):  “Stay thy hand,” said the vanquished man, “and I will tell thee why I treated them so. I once loved a fair damsel, and her brother was slain, and she said it was Sir Launcelot or Gawaine who did the deed, and she made me promise that I should daily seek out those of the Court, and put them to a shameful death as a reprisal.” 50131_42408.html(457):  “I am willing to spare his life,” said Gareth, “especially as all the wrong he has done was at a lady's request; and he shall go humbly to Dame Lyonors and ask her pardon, and remove himself from this castle in all haste. He shall also go to the Court, taking his followers with him, and ask of the King pardon for the foul wrong he has done to knighthood.” 50142_41224.html(31):  よう来てくれた、お前の師匠の生命を取りとめたいと思つてお前を呼んだのだ。もう長いことはあるまい、かまどの火が揺れて消えるやうに、もうすぐ火が消えさうなのだ、王がさう言ふと、熱病でございますか、と弟子が訊く。否、自分から死を選んだので、彼は死んで抗議する積りらしい、私の玄関さきで死んでくれては、民衆が騒いで私を攻撃するだらう。王はその点を心配するのであつた。王は細かくこの三日間の話をする。弟子は、それで安心しました、古い習慣なんぞ、そのために死ぬほどの値うちはございません、私がすすめて何か食べさせませう。弱りきつてうとうとしてゐるので、王の御親切なお声が聞えなかつたかもしれません。王はいろいろな報酬を約束して退場。この時、王はその愚痴の中に詩人のことを並べて“……… His proud will that would unsettle all, most mischievous, and he himself, a most mischievous man, ……”と言つてゐる、今死なうとしてゐる詩人は最もいたづら好きな人間、いたづらつ子なのである。王の眼には常識以外のものはすべてワイルドなもの、またミスチスなものときめられてゐる。 50201_39689.html(81): “自省録” 50201_39689.html(83): “秋葉小路の人人” 50201_39689.html(95): 六月十日 曇。“時の記念日” 50201_39689.html(234): 夕方、Yさんがいつものやうに自転車で坊を連れて来訪、Wさんのお土産“三楽”を味ひつゝしみ/″\話したことである。 50201_39689.html(412): “酒を飲む者は閑をあるじとし” 50201_39689.html(413): “ひとり住むほど面白きはなし” 50201_39689.html(520): “自画像” 50201_39689.html(684): “貧閑自詠” 50201_39689.html(693): 留守中、やあさん来訪、私が帰るところへ引き返して来たので、同道して帰居、しばらく話す、罐(マヽ)詰を買つて下さつた、酒代も頂戴した、私が早速酒屋へ出かけた留守中に君は、“酒は恐ろしいから帰りますよ”と書き残して帰つてしまつた、禁酒はなか/\むつかしいものである、君よしつかりやつてくれたまへ、君よ、私は久しぶりにうまい酒を飲んだ、ありがたう、すまなかつた。 50201_39689.html(775): 裏の子供ら、“汝の性のつたなきを泣け” 50201_39689.html(839): “水の話” 50201_39689.html(884): “風がふくので年とつたやうな気がする”とD老人が誰かと話してゐる、市井の風。 50201_39689.html(1209): 午後便で、“層雲”と“小さき者”と到着、層雲を手にすると、武二君の苦心を察しる、小さき者を読んでは微笑した、天地のかため男女のちぎりはおもしろかつた。 50202_39691.html(29):   “同塵居” 誓詞に代へて 50202_39691.html(54): “こゝに昭和十五年の元旦を迎へ恭しく聖寿の万歳を寿ぎ奉り、いよ/\肇国の精神を顕揚し、強力日本を建設して新東亜建設の聖業完遂に邁進し、もつて紀元二千六百年を光輝ある年たらしめんことを堅くお誓ひ申します。” 50202_39691.html(76): あまり寝ないで稿をすゝめる、明日までには“鴉”を、数日内に一代集の原稿をまとめなければならない。…… 50202_39691.html(106): “三鈍”│どんこつ │どんこ和尚(澄太) 50202_39691.html(112): “草庵きのふけふ” 50202_39691.html(124): 駅で千人の(マヽ)“力”の字を書いてあげた。 50202_39691.html(131): “椿祭”(縁起笹) 50202_39691.html(181): “三ドン物語”(ドンコ和尚、ドンビキ先生、ドングリ翁) 50202_39691.html(183): “早春日記”“松山散策ところ/″\”“野人断想” 50202_39691.html(246): 夜は“遍路行”推敲。 50202_39691.html(259): “草庵昨今”“山水行脚” 50202_39691.html(287): 昨年度の映画の中でベストワンといはれる“土”の入場券を貰つてゐたけれど、たうとう――行かず仕舞になつた、衰へたるかな山頭火、いつまでも青年性を失はないであれ、老いても老いぼれたくない、若い老人のよさを保持せよ。 50202_39691.html(298): “一草一人”俗仙人 50202_39691.html(350): “早春の一日” 50202_39691.html(366): 明日から当寺の御祭礼といふので、近所の人々がやつて来て、幟を立てたり何かしてゐる、大国旗小国旗、“御幸山大権現”の幟が何本も立てられた。 50202_39691.html(406): “三月六日の記” 50202_39691.html(416): ……私も“山頭火一代集”ともいふべき此句集の刊行を転機として転一歩したいと念願してをります、これでは私はまだ/\落ちつけません。…… 50202_39691.html(420): ようこらへるぞ、――と私は私を励ましてゐる、一杯やりたいのをぢつとこらへてゐる、疳癪をぐつと抑へつけてゐる、私もだん/\ほんたうの私に落ちついてゆくらしい、澄太君が“坐を定めたる山頭火”と説いたが、その坐は一草庵の坐だけでなく、私本然の坐でなければならない。 50202_39691.html(475): “梛の葉” 50202_39691.html(526): “山兎の仔よ” 50202_39691.html(546): 毎日の行事“松山散策”は、曇つて寒いので、今日は止めにした、外出する元気、散歩する余裕がないからである、衰へたるかな、山頭火、しつかりしなさい! 50202_39691.html(625): 煙草がない、数軒探しまはつたがない、詮方なく“光”を買ふ、貧乏人はユウウツにならざるをえない(刻煙草があるにはあるが私たちには高級すぎるものばかりである!)。 50202_39691.html(649): “持つ物、持たない物” 50202_39691.html(983): “あるときは王者のこころ 50202_39691.html(1019): “颱風一過の心境” 50202_39691.html(1035): “一草閑話” 50202_39691.html(1107): 出かける、あれこれ買物、そして“歴史”観覧、近来にない好映画だつた。 50202_39691.html(1127): 大山君から近著“尊皇と禅”を贈られてゆつくり読む、杉本中佐、寺原少佐の純真にうたれる。―― 50202_39691.html(1136): 厚志を持つて道後へ、それから松山へ、“歴史”第二部第三部を観た、よかつた、T屋で夕食、五十五銭、おいしかつた。 50202_39691.html(1171): “自律生活” 50202_39691.html(1200): “一事一心” 50202_39691.html(1217): 朝の涼しさ、何となく秋を感じた、“土用なかばに秋の風”である。 50202_39691.html(1276): “粒々皆是菩薩” 50202_39691.html(1308): “私は旧生活体制を清算する。 50358_39394.html(67): 「それから慶応三年(一八六七)になってまた私はアメリカに行った。これで三度目の外国行、慶応三年正月二十三日に横浜を出帆して……この時にはアメリカと日本との間に太平洋の郵便船が始めて開通したその後で、第一着に日本に来たのが、“コロラド”という船で、その船に乗込む。 50359_39395.html(45):  だがこれで七つの海にことごとく汽船が通じたと考えてはならない。「太平洋汽船会社」とは名乗っても、実はリヴァープールと南米の太平洋岸チリ、ペルーをつなぐラインで、いにしえのバルボアのように、太平洋を覗(のぞ)いたというまでのことだ。サザンプトンを起点とする、P&O(彼阿(ピーオー))は、スエズを“overland route”で連絡しながら、一八四五年には香港まで延びた。しかし太平洋は依然一隻の汽船も渡らなかった。汽船にとって世界はまだ扁平だった! 50360_40670.html(32): 「政府は七〇年二月樺太開拓使を置いた。ついで五月に黒田清隆を開拓使次官に任じ樺太政務を兼摂、七月樺太に出張して露国士官と協議させた。そのさい黒田は、係争事件はことごとく無雑作に譲歩してしまい、九月帰京するや“樺太ノ経略、断然之(これ)ヲ棄テテ魯西亜(ロシア)ニ附シ、力ヲ無用之(の)地ニ労セズ、之(これ)ヲ上策トス。タトヒ一歩ヲ譲ルト雖(いえど)モ経略ヲ画定ス、之(これ)ヲ中策トス。雑居ノ旧ニ依リ機ヲ待テ断然之(これ)ヲ棄ルヲ下策トス”と建議した。おどろくばかりの屈服である。岡本や丸山のような攘夷家が、かかる長官をいただけば憤然辞退するのは当然だ(森谷秀亮氏『明治時代』)」(第二巻、三四頁)。 50360_40670.html(76): 「太平鉄路積雪の為に、既に十有余日山中なる塩湖と云へる市府に淹留(えんりゅう)、空しく曠日(こうじつ)未(いま)だ華盛頓(ワシントン)府に達する能(あた)はず……現今英米両国の間に起りたる“アラバマ”一条頗(すこぶ)る困難の事情に至り、或は争端を起すも不可測との新聞を屡々(しばしば)検せり。欧州よりの新聞にて明瞭なるべし。 50360_40670.html(78):  米人の説に、今若し英米戦争を開かば、魯兵直ちにインドを掠奪すること疑なしと。魯威インドに揮(ふる)ふ時は、東洋の諸国自から漸々その害を蒙らざるを得ず。此時に至らば米国は直に“カナダ”を奪ひ、海軍を以て英の“アイルランド”を衝(つき)て之を取るべし。是(これ)此島の住民等英政府を厭(いと)ひ、その政府に服従せざるを以てなり。 50366_39440.html(103):  英幕の危機が極度に迫っている時期の六月四日および二一日(ただし太陽暦)付の文書では、幕府(タイクン)は完全に見切りをつけられ、ミカドの政府を承認すべしという意味の重大な提案がなされている。「大君(タイクン)政府はこの地(長崎)では純粋な市政事項を除けば絶対に無力である。内地交通が既に遮断されているのではないかとさえ疑われる。」と報じ、江戸間近の横浜で幕府の勢力を示すことの危険を暗示したうえ、攘夷策のいっさいが強力な京都の方角から来ているのだから「ミカドに赴(おもむ)いてミカドとの間に改訂条約を結ばない限り、絶対に満足な対日関係が生じ得ないことは明かである。当面要求されているものはかかる手段であると思われる。そして全外国列強がこの目的のために連合しさえしたら、かつて日英間にその表示を見た待望この上もない“新時代”はついに明けるであろうし、日本みずからは我々によって内乱の禍悪から免かれるであろう。」と結んでいる(パスク氏前掲)。 50367_39396.html(60): 「………王陵侵掠という前代未聞の事件は、朝鮮人の攻撃に逢ってマニラ兵が死んだばかりに、ボロを出した。領民が殺害されたというので、スペイン領事が事件をセワード氏――当時の上海米国総領事――に照会する、セワード氏は早速ジェンキンスを捕縛する。四人の“参審”の一人としてこのときの領事裁判に列席した私は、事件がどんな茶番だったか、よく記憶しているが、予審で何から何まで喋(しゃべ)ったシナ人が、公判廷では牡蠣(かき)のように沈黙を守るので、参審会議を開いても判決のしようがない。とはいえ、事件を知悉(ちしつ)した者の眼からすれば、この海賊的遠征隊の暴状は、花崗(かこう)岩の霊廟を石炭ショベルで破壊せんと企てた馬鹿さ加減以上であることは、明らかであった……」。 50373_40161.html(40): A “bad hat”=Berrobo-yaru(べらぼう野郎) 50423_47066.html(308): 六 “Ivan's Nightmare” 50423_47066.html(531):  固より藝術が現實超脱の努力に參加するには樣々の途がある。これは或ひは“La nouvelle Heroise”の著者ルソーの如く、自己の憧憬に姿を與へて、現實の生に於いて發展せしむるに由なかつた内奧の本質を藝術の世界に於いて生かすことであるかも知れない(Vgl. W. Dilthey: Das Erlebnis und die Dichtung. S. 217ff.)。或ひは“Leiden des jungen Werthers”の著者ゲーテの如く、夢魔の如く襲ひ來る過去の追憶を脱却して、「大懺悔をした跡のやうに自由に樂しい心持になつて、新しい生活を享ける權利」を囘復することであるかも知れない。或ひは又“Salambo”の著者フローベールの如く、人生の苦艱を増盛することによつて平淺と無味とから脱却することであるかも知れない。或ひは又「手」の彫刻者ロダンのやうに、對象の精髓を掴んで其處に萬物の底に流るゝ「心」を發見することであるかも知れない。孰れにしても藝術は現實の人生の奴隷ではなくて、現實以上の人生を我等に示唆するものである。我等を更に生き甲斐のある人生に導くものである。この意味に於いて、「藝術」を「人生」の上に置く思想は當然の理由を持つてゐると云はなければならぬ。藝術至上主義に對して如何なる態度をとるにしても、我等は先づこの事實を承認して置く必要がある。 50424_44632.html(178):  三、殊に俺の性格の奧にはドン・ホアンの敵なる「哲學者」がゐる。冷靜なる客觀性(オブゼクテイテイ)が大きく重く俺の全性格を抑へてゐる。然るにドン・ホアンの倫理的立脚地は徹底的主我主義(イゴイズム)でなければならない。ドン・ホアンの愛するは――彼がその熱情を傾倒し盡して異性を愛するは、自分をその愛する者の地位に置いて、專念に愛する者の生活の充實と福祉とを希求するのではない。愛する者によつて掻き鳴さるる我が魂の慄へ(トレモロ)を熱愛するのである。自分の歡樂のために他人を犧牲に供するに堪へない者は、ドン・ホアンとなる資格がない。ドン・ホアンにとつては、その愛する者は、嚴密な倫理的意義から云へば、人格ではなくて唯彼の魂にトレモロを準備するための器械である。故に自分の中に他人を見、他人の中に自分を見る者――之が客觀性の中核である――は容易にドン・ホアンを放つて、自分の衷に闊歩させる事が出來ない。逆にドン・ホアンも亦基督教的客觀主義――基督教の精神は、異教の「自然的」な精神に對して云へば要するに哲學的な精神と云はなければならない――と兩立する事が難いのである。曾てステンダールは“La Chartreuse de Parme”に於いて侯爵夫人サンセリナの恐怖を描いた。サンセリナは曾てその敵を除くために毒を用ゐた女である、而も今、自分の戀人が毒殺されむとしてゐると云ふ報知を耳にして、恐怖のために度を失つてゐる女なのである。作者は此瞬間に於ける侯爵夫人の心理を説明してかう云つた(これは俺が直接に讀んだのではない、ブランデスの中から孫引するのである)―― 50424_44632.html(193):  俺は俺の中にゐる「神を求める者」を檢査するために、イエルゲンゼンの「聖フランシス」を讀んだ。此處に俺を待つものは、譬へるものもないやうに尊い、聖い魂が、惱みながらも猶踏み迷はず、右顧左眄せずに、痛快に切れ味よくその往く可き道を進んだ一生であつた。フランシスは、アツシジの富裕な、佛蘭西好きな商人の家に生れて、騎士の生活を理想とする十二世紀の末葉に育つた。彼の周圍にはプロンスの Chansons de geste やアーサー王及び圓卓の騎士の歌が響いて居た。プロンスの快活な智慧“La gaya scienza”が彼を捉へた。彼はアツシジの青年に交つて饗宴から饗宴に渡り歩いた。さうして夜は笛又は絃樂器に合せて歌ひながら街頭を彷徨ひあるいた。彼は自ら雜色なミンストレルの衣を拵へて之を着た。彼の富裕とその物惜みせぬ性質とは幾許もなく彼をアツシジ青年間の中心人物とした。彼は決して商家の事務に疎い者ではなかつたが、唯餘りに交游に夢中になる性質がその家人を惱ました。彼は食事中と雖も、友達が呼びに來れば直に飛出して歸る事を忘れた。併し彼はその歡樂の間にも貧しい者を忘れなかつた。一日彼は急いで店から飛出さうとして丁度其處にゐた乞食を追ひ退けた。さうして「此人が若し俺の友人から、伯爵又は男爵から遣された者ならば、その求めるものを與へられずにはゐないだらう。然るに俺は王の王、主の主から遣された此人を空手で歸した。」彼は自らかう云つて責めた。さうして此日から以後、神の名によつて彼に乞ふ者には必ず與へようと決心した。 50670_38556.html(46):  最後の目的、即ち教育の第五の目的に就いて一言せん。これは少しく異端説かも知れないが、僕の考うるところに拠れば、教育はいうに及ばず、また学問とは、人格を高尚にすることを以て最上の目的とすべきものではないかと思う。然るに専門学者にいわせると、「学問と人格とは別なものであれば、学問は人格を高むることを目的とする必要がない。他人より借金をして蹈倒そうが、人を欺(だま)そうが、のんだくれになってゴロゴロしていようが、己れの学術研究にさえ忠義を尽したら宜いじゃないか」という者もある。あるいはまた、「自分のやっている職務に忠勤する以上は、ナニ何所へ行って遊ぼうが、飲もうが、喰おうが、それは論外の話だ」という議論もある。学問の目的は、第四に述べたところのもの、即ち真理の研究を最も重しとすればそれで宜い。人間はただ真理を攻究する一の道具である、それでもう学問の目的を達したものである、人格などはどうでも宜いという議論が立つならば、即ち何か発明でもしてエライ真理の攻究さえすれば、人より排斥されるようなことをしても構わぬということになるが、人間即ち器ならず、真理を研究する道具ではない。君子は器ならずということを考えたならば、学問の最大かつ最高の目的は、恐らくこの人格を養うことではないかと思う。それに就いては、ただ専門の学に汲々としているばかりで、世間の事は何も知らず、他の事には一切不案内で、また変屈で、いわゆる学者めいた人間を造るのではなくて、総ての点に円満なる人間を造ることを第一の目的としなければならぬ。英国人の諺(ことわざ)に“Something of everything”(各事に就いてのある事)というがある。ある人はこれを以て教育の目的を説明したものだと言うた。これは何事に就いても何かを知っているという意味である。専門以外の事は何も知らないといって誇るのとは違う。然るに今この語の順序を変えてみれば、“Everything of something”(ある事に就いての各事)ということになる。即ち一事を悉く知るのである。何か一事に就いては何でも知っているという意である。世には菊花の栽培法に就いて、如何なる秘密でも知っているという者がある。あるいは亀の卵を研究するに三十年も掛った人がある。そういう人は、人間の智恵の及ぶ限り亀の卵の事を知っているであろう。その他文法に於ける一の語尾の変化に就いて二十余年間も研究した人がある。そうするとそれらの事柄に就いてはよほど精通しているが、それ以外のことは知らぬ。これは宇宙の真理の攻究であるから、第四に述べたところの目的に適(かな)っている。されど人間としてはそれだけで済むまい。人間は菊の花や、亀の卵を研究するだけの器械なら宜いけれども、決してそうではない。人間には智識あり、愛情あり、その他何から何まで具備しているを見れば、必ずそれだけでは人生を完(まっと)うしたということが出来ぬ。してみれば専門の事は無論充分に研究しなければならぬが、それと同時に、一般の事物にも多少通暁しなければ人生の真味を解し得ない。今日の急務はあまり専門に傾き過ぎる傾向をいくらか逆戻しをして、何事でも一通りは知っているようにしなければならぬ。即ち菊の花のことに就いていえば、おれは菊花栽培に最も精通している、それと同時にちょっと大工の手斧ぐらいは使える、ちょっと左官の壁くらいは塗れる、ちょっと百姓の芋くらいは掘れる。政治問題が起れば、ちょっと政治談も出来る、ちょっと歌も読める、笛も吹ける、何でもやれるという人間でなければならぬ。これは随分難かしい注文で、何でも悉くやれる訳にも行くまいが、なるべくそれに近付きたい。いわゆる何事に就いても何か知ることが必要である。これは教育の最大目的であって、かくてこそ円満なる教育の事業が出来るのである。ここに至って人格もまた初て備わって来るのであろうと思う。 5072_39444.html(31):  地図を辿って行くに、河は西南独逸の山中から細(ほそ)くなって出て来ている。僕は民顕(ミュンヘン)に来てから、“die Donau”という書物を買った。これは、Schweiger(シュワイゲル)-Lerchenfeld(レルヘンフェルト) の撰で、西紀一八九六年に維也納(ウインナ)から出版されたものである。僕は此の書物を愛して時々拾読した。その中には Donau(ドーナウ) を中心として、地理学・水路学・船舶学・人類学・考古学・博物学・歴史があった。おなじ大河でも Wolga(ウォルガ) と Donau(ドーナウ) とは趣のちがうことをいうあたりには何かの感激があった。それから、Donau(ドーナウ) に沿うた維也納の古い絵図などを見ると、やはりなつかしい気持が湧き、それは、ヨハン・シュトラウスの、“Spiegelt sich in deiner Wellen Tanz”などという歌曲に因るのみではなかった。 5072_39444.html(34):  僕は民顕(ミュンヘン)の停車場から買って来た新聞を読むと、それに日本人の記事があった。北米合衆国で日本の移民問題が紛糾しかかった時に、その記事がちょいちょい独逸の新聞にも載った。きょうの日本人に関する記事というのも、自然亜米利加との問題からの連想であった。未だ大戦の起らぬだいぶ前に記者は露西亜に旅したことがある。その同じ列車に日本の留学生も五六人いた。ある時、汽車の旅の無聊(ぶりょう)に、みんなが餐(さん)を共にし、酒も飲んだ。日本の留学生の二三は快活に飲み快活に話したが、二三の留学生は黙々として何も語らない。ところが其の沈黙の一人が何かのはずみに、『私どもは天皇のために命を捨てることなどは何でもありません』と云った。これが記者には何かを暗指(あんじ)している異様な響で聞こえたのであった。そこで記者は、『御国(おくに)のいまの天皇の御名前は何と仰せられますか』と問うた。するとその沈黙の留学生は、『私どもは決して天皇の御名前を申あげることはありません』と答えた。そして、『それは畏多(おそれおお)いことだからです』と付加えた。そういう話であるが、その沈黙の留学生の言葉を記者は今おもい起して、亜米利加問題と或る関連を有(も)たせたいのであった。そして、その記者は、日本の国民は何時でも天皇のために命を捨てるものだと堅く信じて居た。そうして、“schweigsame Japaner”などといって、底気味の悪い国民だということを其処に暗指していた。 5072_39444.html(36):  そのころの独逸の漫画雑誌には又、こんなのがあった。絹帽(シルクハット)に星のついたのを冠っている老翁の寝部屋に一つの尾長猿が這入って来ているところが先ず画いてある。老翁が猿の尾をつかんで、“Der verdammte Japs hat nichts bei mir zu suchen!”といっている。その次は、老翁が両手で猿の尻尾をしっかりと握って放り出そうとしている。翁は忿怒の相をして、絹帽は飛んでしまっている。猿は放り出されまいとして両手で翁の寝衣(ねまき)の臀(しり)の処のずぼんにかじり付いている。その次は、もう翁の白髪は逆立っている。猿の体が延びて彎曲して断(ちぎ)れそうになっている。それでも猿は苦しまぎれに寝衣にかじり付いたから、寝衣はずるりと捲(まく)れて、老翁の臀が全く露出したところである。そして老翁の眼は爛々とかがやいている。僕はこの絵を見てなかなか旨いと思った。旨いと思ったのはその画方(がほう)にあったが、今はその筋書が頭に浮んで来ている。僕はその絵のことを思い出してしばらく思に耽っていた。 5072_39444.html(66):  それから朦朧として国の興亡のことなどをも思った。“die Donau”の著者は、遠くアリアン族の移住から筆を起して、石器、青銅時代の遺物に就いて記述している。それからケルト族のことも説いている。ホメールの用いた地図だの、ヘロドートの用いた地図だの、エラトステネスの用いた地図なども載っている。そういう地図を見ると、ドナウは、Ister(イステル) ともなっている。又 Danuvius(ダヌビウス) とも云った。亜歴山大王のこと、羅馬人占住のこと、トラヤン帝の戦のこと、羅馬街道のこと、などが書いてある。羅馬人の勢が衰えて、呉底(ゴオト)族の侵入して来たあたりから、いろいろの種族が相興亡し、東洋の種族までその辺にあばれ廻ったりなどして、次いで段々と国の出来て来る有様が書いてある。西紀第六世の終頃のクロヴァチアと、アヴァールと、東羅馬帝国との境界は全くドナウによって限られて居り、スロヴェン族の勃興した第七世紀から第八世紀にかけても、その境界はやはりドナウに拠った。匈牙利王国が起り、セルビア国と、ワラカエ国が起った時でもそうである。それゆえ、ドナウの沿岸には砦があり、軍が屯し、いろいろな哀な物語などをも残した。ニイベルンゲンの歌の如きはその一つに過ぎない。それ以後いろいろの国が起るに及んで、ドナウは必ずしもその境界ではなくなった。そういう興亡の史蹟を此の書物が書いて居る。僕は伽藍の頂にいて、その輪廓をおもい浮べていた。 5072_39444.html(67):  伽藍の塔を降りるときには割合に活溌に降りることが出来た。伽藍の内にはもう誰も礼拝しているものはなかった。僕はそのなかを無意味に大股に歩いて、そして出て来た。街の辻々に“Hunde und Katzen sperre”などという張札がある。犬猫を拘禁して置けというのは、はやり病の予防のためだなと僕は思いながら歩いて行った。 5072_39444.html(79):  僕は山上の孤児院のことを思い、そこに勤めている若い女のことを思った。遙々と留学して来て以来、月光のこのように身に沁みたことは、今までになかった。業房(ぎょうぼう)に閉じ籠もって根(こん)をつめて居たせいもあろうが、月光を顧みたことなどはついぞなかった。然るに今夜は不思議にも、生れ故郷の月を見るような気がしてならない。この月に照らされているドナウがうねりながら遙か向うに見えなくなるのをみていると、目に涙のにじんで来るような気がした。僕は“Tiefsten Ruhens Glck besiegelnd herrscht des Mondes volle Pracht”のところのファウストの句、「いと深き甘寝(うまい)の幸(さち)を護りて、月のまたき光華は上にいませり」を思い出していた。 5072_39444.html(108):  僕は「ドナウ源泉」(Donauquelle)を見に行った。清冽な泉で、昔は寺の礼讃を終えてこの泉を掬んだということである。又公爵が家来を連れてここで酒宴をしたということである。この泉は、海抜六七八米。海洋に至るまで二八四〇基米と註され、大理石の群像は、バアル神が童子と娘とを連れて、行手の道を示すところを刻したものである。泉の水は、直ぐ下をくぐってブリガッハに灑いでいる。その灑ぐところに、ウィルヘルム二世が小さい堂を建てて(西暦一九一〇年)、Danuvii caput exornavit Guilelmus II., Friderici filius, Guilelmi Magni nepos, Imperator Germanorum という銘を彫らせて居る。独逸人は、このあたりのドナウをば“junge Donau”というが、発音に快い響を持っている。そこにも掃除夫が居たので、その老いた掃除夫と少しばかり会話をし、泉の水を飲んでそこを出た。公の居城は直ぐ隣だが見ることは出来ないということであった。 5077_39446.html(42):  セガンチニもいろいろなものを画いた。けれども、その一つの傾向として、「曙(あけぼの)」(あるいは「黄昏(たそがれ)」)と題した油絵を取って来てもいい。この絵を僕は或時は独逸で看(み)、また数日前に瑞西で看たのであった。”Dmmerstunde“となっていた時もあり、”trbe Stunde“となっていた時もある。日出前の高原を場面として、(あるいは「黄昏」であって、日没後の余光ともおもう)左手に一人の女が石に腰を掛け、膝の上に両手を組んで眼(まなこ)を瞑(つぶ)っている。厚ぼたい衣を著て、頭には水色の巾(きれ)をかぶっている。その女の前には鍋に何か煮てあり、それから白い蒸気(いき)が立ち、鍋の下に赤い火の燃えているところが画いてある。そのあたり一面は小石原で、石と石との間には草が生えている。セガンチニは、すべてそういうものをば種々の原色の顔料で、一筆一筆に盛りあげている。その丹念に拠(よ)って、絵に静さと厚みとが出来て来て、甘い感傷性と或る調和を保っていたのであった。女の右手には一匹の大きい斑牛がいて頸に鈴が附いている。あたかもいま吠えているところで、頸を延べ口をあいたままを画いてある。その牛の彼方(かなた)向うには柵と牧場とがあって、一人の男が多くの牛羊を連出すところを段々と遠くに画いてある。その向うには既に峻峰が迫っており、左手には寂しい人家を画いている。女の膝のところには焚火の火明りがうつっているから、暁が未だほの暗いのであるが、太陽が暫くするとのぼる気配を示して、黄色の光の放射しかけているように画いている。その他の空の部分は黄・赤・紫・青など細かい顔料で埋めてある。 5077_39446.html(45):  妻と二人は「頂上」の丘を下りて旅舎(ホテル)に帰って来た。玄関で絵葉書などを買って、そこの貼紙を見ると、「御客様方は、日の出三十分前に、アルプス山の角笛を以てお起こし申上げます」”St. vor Sonnenaufgang werden die Gaeste durch Alphornblasen geweckt“と書いてあった。 5077_39446.html(81): ※底本では、「”」の二点は右下に、「“」の二点は左上に、置かれています。 50913_40167.html(39): “Je ne permettrais jamais, que ma fille s'adonnt une occupation si cruelle.” 51167_41894.html(38):  大正五年、府立三中を出た私は『早稲田大学に入って政治家になりたい』と父にいったところ、えらくしかられた。父は『政治家というものは財産をスリ減らして家をつぶすのがオチだ、実業家か、慶応の医科に入って医者になれ』という。その反動からどうせ一度は兵隊に行くのだから、いっそのこと軍人を少しやり、しかる後に早大に入ろうと思い、陸軍士官学校を二回、海軍兵学校を一回受けたが、いずれも落第してしまった。早大志望は募るばかりで、同年九月第二学期から編入試験を受けて、早稲田大学に入った。もちろん父の了解を得ず入学したものだから、家を飛び出して馬喰町の友人が経営する文房具店で働きながら勉強した。そのころは第一次大戦は終り、ロシア革命などの影響もあってデモクラシーが思想界を風靡(ふうび)した時代で、大正七年暮には東大に“新人会”が生まれた。早稲田でも東大に負けてなるものかと、同八年高橋清吾、北沢新次郎の両教授に、校外の大山郁夫教授が中心になって“民人同盟会”を作った。 51167_41894.html(39):  しかしこの“民人同盟会”も、当時の思想界の変動とともに急進派と合理派に分れる羽目になり、急進派の学生は高津正道氏らを中心に暁民会を作り、暁民共産党に発展した。一方、私たちは北沢新次郎教授を中心に和田厳、稲村隆一、三宅正一、平野力三、中村高一らが集まって建設者同盟を結成した。建設者同盟は「本同盟は最も合理的な新生活の建設を期す」という文句を綱領として、池袋の北沢教授宅の隣りに本部を置き、雑誌“建設者”を発行、盛んに活動した。 51167_41894.html(40):  池袋の本部合宿所は“大正の梁山泊”ともいうべきもので、同人が集まっては口角泡をとばして盛んに天下国家を論じたものだった。 51167_41894.html(44):  やがて不気味なふん囲気の中に大隈侯銅像前で学生大会が開かれ、私が「自由の学府早稲田大学が軍閥官僚に利用されてはいけない」との決議文を朗読したまではよかったが、雄弁会幹事戸叶武君が演説を始めようとすると、突如、相撲部、柔道部の部員が襲いかかってきたので、会場は一大修羅場と化した。また校外より「縦横クラブ」一派の壮士も侵入し、打つ、ける、なぐるの乱暴の限りをつくした。この間、暴力学生側では糞尿を入れたビンを投げ、会場は徹底的に蹂躙(じゅうりん)された。われらは悲憤の涙にくれ、五月十二日を忘れるなと叫び、この日を“流血の金曜日”と名づけたものである。 51167_41894.html(65):  この戦前無産政党時代、私はずっと組織部長をやったが、これが政党人としての私の成長に非常なプラスになった。実際活動としては演説百姓の異名で全国をぶち歩き、またデモとなれば先頭に飛び出したので“デモの沼さん”ともいわれた。昭和五年のころと思うが、メーデーがあり、私は関東木材労働組合の一員として芝浦から上野までデモったことがある。そのときジグザグ行進で熱をあげたため検束された。当時の私は二十四貫ぐらいで非常に元気であった。私は無抵抗ではあるが、倒れるクセがあるので、検束するのに警官五、六人がかからねば始末におえない。このとき、暴れたあげく、荷物のように警察のトラックにほうりこまれた。若き日の思い出はつきない。 51167_41894.html(91):  その三は昭和二十四年の第一次吉田内閣当時、定員法をめぐって与野党が衝突したときのことである。社会党など革新派は首切り法案(定員法案)を葬るため頑張ったのだが、ついに審議引延しのタネが切れてしまった。ところへ田中織之進君が『国税庁設置の大蔵省設置法一部改正案の提案理由の中に“最高司令官の要求にもとづき……”とあるのを問題にしたらどうか』と提案、私がこれをタネにして本会議で一席弁じ審議引延しをすることになった。私は同法案が『政府の責任で出したものか、マ司令部の責任で出したものか、日本の国会の審議権を守れ』と迫った。ところが『修正した』と答弁があったので『それは削除か、誤字修正か』と手続きを問題にし、また当時の池田蔵相の前日の失言をとらえて食い下がった。私は四たび登壇してねばり、とうとう演壇から強制的におろされたがその途中、私の演説を聞いて共産党議員がいきり立って、民自党議員と乱闘を演じ、共産党の立花君が民自党の小西寅松親分の頭をポカポカなぐる騒ぎとなった。このため本会議は休憩となり、私はしてやったりとほくそ笑んだが、私のアジ演説は共産党員を走らせたのだから共産党以上だといわれた。 51167_41894.html(98):  その後昭和五年、当時の東京第四区(本所、深川)からはじめて衆議院議員選挙に打って出たが、これも三千二百票ばかりで惨敗した。ついで満州事変直後の昭和七年一月、総選挙が実施されたが、分裂した無産政党の大同団結がなり、全国労農大衆党が結成された直後でもあるので、私も大いに張切った。そのとき私ども全国大衆党の立候補者は“帝国主義戦争絶対反対”をスローガンとしてかかげた。ところが投票前夜に社会民衆党の公認候補馬島氏側が「満州を支那に返せという大衆党(浅沼)は国賊である」とのビラを全選挙区にばらまいた。 51167_41894.html(113): 九、野人で通す“マア・マア”居士 51167_41894.html(120):  こういう私ごとは別として書記長の最大の仕事は党内とりまとめである。私は“マア・マア居士”といわれている。ある座談会でマア・マアという言葉をやたらに連発したので、つけられたのが初めだが、その後は党内をマア・マアとまとめるからということになった。事実私は中央執行委員会などの会議では採決をしない。たった一度、二十六年秋に、講和、安保両条約の賛否で党内が分れたとき採決をやったが、これが原因で党内左右派が大分裂した。 51167_41894.html(122):  最後に私は書記長としての自分を批判してみよう。私は昔から党会計に関係しない。社会主義政党は昔から党会計が委員長、書記長とならんで党三役と呼ばれ、重要な職務となっている。この会計がいるため、私の書記長は続いているともいえよう。また私は党のオモシとなって鎮座しているのは苦手である。“雀百まで踊りを忘れず”というべきか、書記長兼アジ・プロ部長心得で動いているのがすきだ。理論家でない私にとって行動こそが、私の唯一の武器であり、党につくす道であると思っている。私は学校を出て以来三十余年、議員以外の一切の勤めをしたことがない。自分でもよく今まで食ってこられたと不思議に思うが、野人はよくよく私の性にあっているのだろう。 51828_47166.html(103): “O miserable of happy! Is this the end 51860_41507.html(371): ドールン いや、くだらんどころじゃない。酒とタバコは、個性を失わせますよ。シガー一本、ウオトカ一杯やったあとのあなたは、もはやソーリン氏ではなくて、ソーリン氏プラス誰かしら、なんです。自我がだんだんぼやけて、あなたは自分に対して、あたかも第三者――つまり“彼”に対するような態度になるわけです。 519_43561.html(76):  事業のことを考えますときに、私はいつでも有名のデビッド・リビングストンのことを思い出さないことはない。それで諸君のうち英語のできるお方に私はスコットランドの教授ブレーキの書いた“Life(ライフ) and(アンド) Letters(レターズ) of(オブ) David(デビッド) Livingstone(リビングストン)”という本を読んでごらんなさることを勧めます。私一個人にとっては聖書のほかに、私の生涯に大刺激を与えた本は二つあります。一つはカーライルの『クロムウェル伝』であります。そのことについては私は後にお話をいたします。それからその次にこのブレーキ氏の書いた『デビッド・リビングストン』という本です。それでデビッド・リビングストンの一生涯はどういうものであったかというと、私は彼を宗教家あるいは宣教師と見るよりは、むしろ大事業家として尊敬せざるをえません。もし私は金を溜めることができなかったならば、あるいはまた土木事業を起すことができぬならば、私はデビッド・リビングストンのような事業をしたいと思います。この人はスコットランドのグラスゴーの機屋(はたや)の子でありまして、若いときからして公共事業に非常に注意しました。「どこかに私は」……デビッド・リビングストンの考えまするに……「どこかに私は一事業を起してみたい」という考えで、始めは支那(しな)に往きたいという考えでありまして、その望みをもって英国の伝道会社に訴えてみたところが、支那に遣(や)る必要がないといって許されなかった。ついにアフリカにはいって、三十七年間己れの生命をアフリカのために差し出し、始めのうちはおもに伝道をしておりました。けれども彼は考えました、アフリカを永遠に救うには今日は伝道ではいけない。すなわちアフリカの内地を探検して、その地理を明かにしこれに貿易を開いて勢力を与えねばいけぬ、ソウすれば伝道は商売の結果としてかならず来るに相違ない。そこで彼は伝道を止めまして探検家になったのでございます。彼はアフリカを三度縦横に横ぎり、わからなかった湖水もわかり、今までわからなかった河の方向も定められ、それがために種々の大事業も起ってきた。しかしながらリビングストンの事業はそれで終らない、スタンレーの探検となり、ペーテルスの探検となり、チャンバーレンの探検となり、今日のいわゆるアフリカ問題にして一つとしてリビングストンの事業に原因せぬものはないのでございます。コンゴ自由国、すなわち欧米九ヵ国が同盟しまして、プロテスタント主義の自由国をアフリカの中心に立つるにいたったのも、やはりリビングストンの手によったものといわなければなりませぬ。 519_43561.html(83):  イギリスに今からして二百年前に痩ッこけて丈(せい)の低いしじゅう病身な一人の学者がおった。それでこの人は世の中の人に知られないで、何も用のない者と思われて、しじゅう貧乏して裏店(うらだな)のようなところに住まって、かの人は何をするかと人にいわれるくらい世の中に知れない人で、何もできないような人であったが、しかし彼は一つの大思想を持っていた人でありました。その思想というは人間というものは非常な価値のあるものである、また一個人というものは国家よりも大切なものである、という大思想を持っていた人であります。それで十七世紀の中ごろにおいてはその説は社会にまったく容(い)れられなかった。その時分にはヨーロッパでは主義は国家主義と定(き)まっておった。イタリアなり、イギリスなり、フランスなり、ドイツなり、みな国家的精神を養わなければならぬとて、社会はあげて国家という団体に思想を傾けておった時でございました。その時に当ってどのような権力のある人であろうとも、彼の信ずるところの、個人は国家より大切であるという考えを世の中にいくら発表しても、実行のできないことはわかりきっておった。そこでこの学者は私(ひそ)かに裏店に引っ込んで本を書いた。この人は、ご存じでありましょう、ジョン・ロックであります。その本は、“Human(ヒューマン) Understanding(アンダスタンディング)”であります。しかるにこの本がフランスに往きまして、ルソーが読んだ、モンテスキューが読んだ、ミラボーが読んだ、そうしてその思想がフランス全国に行きわたって、ついに一七九〇年フランスの大革命が起ってきまして、フランスの二千八百万の国民を動かした。それがためにヨーロッパ中が動きだして、この十九世紀の始めにおいてもジョン・ロックの著書でヨーロッパが動いた。それから合衆国が生まれた。それからフランスの共和国が生まれてきた。それからハンガリアの改革があった。それからイタリアの独立があった。実にジョン・ロックがヨーロッパの改革に及ぼした影響は非常であります。その結果を日本でお互いが感じている。われわれの願いは何であるか、個人の権力を増そうというのではないか。われわれはこのことをどこまで実行することができるか、それはまだ問題でございますけれども、何しろこれがわれわれの願いであります。もちろんジョン・ロック以前にもそういう思想を持った人はあった。しかしながらジョン・ロックはその思想を形に顕(あら)わして“Human Understanding”という本を書いて死んでしまった。しかし彼の思想は今日われわれのなかに働いている。ジョン・ロックは身体も弱いし、社会の位地もごく低くあったけれども、彼は実に今日のヨーロッパを支配する人となったと思います。 519_43561.html(85):  トーマス・グレイという人は有名な学者で、彼の時代の人で彼くらいすべての学問に達していた人はほとんどなかったそうであります。イギリスの文学者中で博学、多才といったならばたぶんトーマス・グレイであったろうという批評であります。しかしながらトーマス・グレイは何を遺したか。彼の書いた本は一つに集めたらば、たぶんこんなくらい(手真似にて)の本でほとんど二百ページか、三百ページもありましょう。しかしそのうちこれぞというて大作はありませぬ。トーマス・グレイの後世への遺物は何にもない、ただ Elegy という三百行ばかりの詩でありました。グレイの四十八年の生涯というものは Elegy を書いて終ってしまったのです。しかしながらたぶんイギリスの国民の続くあいだは、イギリスの国語が話されているあいだは Elegy は消えないでしょう。この詩ほど多くの人を慰め、ことに多くの貧乏人を慰め、世の中にまったく容れられない人を慰め、多くの志を抱いてそれを世の中に発表することのできない者を慰めたものはない。この詩によってグレイは万世を慰めつつある。われわれは実にグレイの運命を羨むのであります。すべての学問を四十八年間も積んだ人がただ三百行くらいの詩を遺して死んだというては小さいようでございますが、実にグレイは大事業をなした人であると思います。有名なるヘンリー・ビーチャーがいった言葉に……私はこれはけっしてビーチャーが小さいことを針小棒大にしていうた言葉ではないと思います……「私は六十年か七十年の生涯を私のように送りしよりも、むしろチャールス・ウェスレーの書いた“Jesus(ジーザス), Lover(ラヴァー) of(オブ) my(マイ) soul(ソール)”の讃美歌一篇を作った方がよい」と申しました。チョット考えてみるとこれはただチャールス・ウェスレーを尊敬するあまりに発した言葉であって、けっしてビーチャーの心のなかから出た言葉ではないように思われますけれども、しかしながらウェスレーのこの歌をいく度か繰り返して歌ってみまして、どれだけの心情、どれだけの趣味、どれだけの希望がそのうちにあるかを見るときには、あるいはビーチャーのいったことが本当であるかも知れないと思います。ビーチャーの大事業もけっしてこの一つの讃美歌ほどの事業をなしていないかも知れませぬ。それゆえにもしわれわれに思想がありまするならば、もしわれわれがそれを直接に実行することができないならば、それを紙に写しましてこれを後世に遺しますことは大事業ではないかと思います。文学者の事業というものはそれゆえに羨むべき事業である。 519_43561.html(86):  こういう事業ならばあるいはわれわれも行ってみたいと思う。こう申しますると、諸君のなかにまたこういう人があります。「ドウモしかしながら文学などは私らにはとてもできない、ドウモ私は今まで筆を執ったことがない。また私は学問が少い、とても私は文学者になることはできない」。それで『源氏物語』を見てとてもこういう流暢(りゅうちょう)なる文は書けないと思い、マコーレーの文を見てとてもこれを学ぶことはできぬと考え、山陽の文を見てとてもこういうものは書けないと思い、ドウしても私は文学者になることはできないといって失望する人がある。文学者は特別の天職を持った人であって文学はとてもわれわれ平凡の人間にできることではないと思う人があります。その失望はどこから起ったかというと、前にお話しした柔弱なる考えから起ったのでございます。すなわち『源氏物語』的の文学思想から起った考えであります。文学というものはソンナものではない。文学というものはわれわれの心のありのままをいうものです。ジョン・バンヤンという人はチットモ学問のない人でありました。もしあの人が読んだ本があるならば、タッタ二つでありました、すなわち『バイブル』とフォックスの書いた『ブック・オブ・マータース』(“Book of Martyrs”)というこの二つでした。今ならばこのような本を読む忍耐力のある人はない。私は札幌にてそれを読んだことがある。十ページくらい読むと後は読む勇気がなくなる本である。ことにクエーカーの書いた本でありますから文法上の誤謬(ごびゅう)がたくさんある。しかるにバンヤンは始めから終りまでこの本を読んだ。彼は申しました。「私はプラトンの本もまたアリストテレスの本も読んだことはない、ただイエス・キリストの恩恵(めぐみ)にあずかった憐れなる罪人であるから、ただわが思うそのままを書くのである」といって、“Pilgrim's(ピルグリムス) Progress(プログレス)”(『天路歴程』)という有名なる本を書いた。それでたぶんイギリス文学の批評家中で第一番という人……このあいだ死んだフランス人、テーヌという人であります……その人がバンヤンのこの著を評して何といったかというと「たぶん純粋という点から英語を論じたときにはジョン・バンヤンの“Pilgrim's Progress”に及ぶ文章はあるまい。これはまったく外からの雑(まじ)りのない、もっとも純粋なる英語であるだろう」と申しました。そうしてかくも有名なる本は何であるかというと無学者の書いた本であります。それでもしわれわれにジョン・バンヤンの精神がありますならば、すなわちわれわれが他人から聞いたつまらない説を伝えるのでなく、自分の拵(こしら)った神学説を伝えるでなくして、私はこう感じた、私はこう苦しんだ、私はこう喜んだ、ということを書くならば、世間の人はドレだけ喜んでこれを読むか知れませぬ。今の人が読むのみならず後世の人も実に喜んで読みます。バンヤンは実に「真面目なる宗教家」であります。心の実験を真面目に表わしたものが英国第一等の文学であります。それだによってわれわれのなかに文学者になりたいと思う観念を持つ人がありまするならば、バンヤンのような心を持たなくてはなりません。彼のような心を持ったならば実に文学者になれぬ人はないと思います。 52211_46229.html(226): (このおばけは“moir-innaysam〔国の・ばけもの〕kotan-innaysam〔村の・ばけもの〕”と対(つい)にして用い,また“moir-ikonnup〔国の・ばけもの〕kotan-ikonnup〔村の・ばけもの〕”ともいう.「シンナイ」は「別の」「異っている」の意.「シンナイ・サム」(別な・側(がわ))は,もと他界から来る異類をさしたものらしい.樺太でばけものを意味するオヤシという語も,「オヤ」(oy)は「別な」「他の」の意味で,「オヤシ」は,もとはやはり「オヤコタン」(他界)から来る異類の意味だった. 52211_46229.html(294): “人間の女どもが普通の食物を食うなら,痛くもかゆくもないが,男を食うんだそうだ.しかも背の低い男だと,丸呑みにしてしまうというから,俺たちなんかは丸呑みの範疇(はんちゅう)に属するわけだ” 52211_46229.html(296): “そいつは険呑(けんのん)な話だ.危なくメノコの下の口に丸呑みにされるところだったわい” 52211_46229.html(631): (15) この化物婆はたぶん「シリクル・オヤシ」(irikuru-oyai)であろう.シリクル・オヤシは,iri-koro-oyai〔地を・支配する・ばけもの〕と解され,やはり地下に住居をもつおばけである.この説話と同じ内容のものが,樺太西海岸北部のウソロ(鵜城)で“tem tuna tuna”〔さし伸べた両手が・ふるえる・ふるえる〕という折返しをもつ神謡として謡われ,そこではシルクル魔が地中に没することになっている.[181] 52689_46623.html(131):  早起きして、邦楽座へ、「会議は踊る」“Der Kongress Tants”の試写会へ行く。早起きした甲斐ある、よきもの。歌は、白井鉄造が「ブケダムール」に使ったもの、よき主題歌。ウイリー・フリッチの芸に感心した。済んでサトウハチローに逢ひ、此の主題歌をハチローの訳したものを二月下旬ヴァラエティーでやらうと話す。座へ来て次狂言の1・2の脚本読む、共に感心せず。明日配役、それまでに又二本読まねばならず。バカに入りがいゝ。「いえ今日は河岸の公休で」なんて、何うしても川口、我らのせいで入るとは言はぬ。 52689_46623.html(163):  出がけに日本劇場へ寄り、チャップリンを見ようと行く。“City Lights”を見る。あんまり期待してたせいか、少々期待外れ。ヴァジニア・チエリルってのが、エドナ・パヴィアンスだったら――と思ふ。ある場面は、キーストンへ復帰で感心しない。要するにチャップリンものとしては筋が持廻りすぎてゐる。然し、チャップリンの横顔見てたら何となく涙が出さうになった。座へ来る前、ハゲ天で食ったハシラのかき上げが悪かったらしく腹痛み、ひるの部ます/\気のりなし。夜の部は全然三枚目の顔をして、いろ/\ふざけた。楽屋には受けるが、出る人間がみな可笑しい顔してゐては反って客は笑はない。夜又々「只野凡児」の稽古。十二時。 52689_46623.html(239):  午前十時新宿駅楼上で森岩雄氏と東宝と掛持問題につき話す、東宝は虫が好すぎるから高飛車におやんなさいとすゝめられる。大勝館の「唄へ踊れ」“Too much Harmony”は期待外れ。セニョリタ・ヴァニタの踊り二つも感心せず。座へ来て、三の「凸凹レヴィウ団」の幕開きを見て、いさゝか寒くなった、エライ芝居をやってゐる。ひるの部済んで、新京へ行って支那食を食ひ、サリーで茶をのんで帰る。よるの部終ったのが九時四十五分。 52689_46623.html(840):  九時に起きて、ムサシノ館へ「プレジャンのトト」“Toto”の試写へ行く。これは久しぶりにいゝもので、前半殊によく、後半もフランス気分ではないが見られる。肥後博に逢ひ、又マーブルへ寄る、平岡権八郎が「毎日何うも―」と喜んでゐる。座へ出る。神田は、来替りから休ませよう、それより他に手は無い。ひるの部終って、川口を神田と結びつけようとした清川を呼んで、一言注意を与へた。夜の部済んでから、「大政小政」を立つ。神田へは父へ手紙を持たして帰し、明日から休めと言ってやる。「大政」の歌のけいこもありて二時近くなる。 52689_46623.html(996):  九時に起きて、メトロゴルドインへ、メイ・ロブスンて老女優の“You can not buy Everything”って八巻物の試写を見に行く。脚色は充分苦労してゐるが、結局長すぎることゝ暗いことがいけない。メイ・ロブスンは、ドレスラーよりいゝが、何しろ老婆だから救ひはない。大黒と上山でオリムピックへ寄り、トマトスープと、チャプスイを食ふ、トマトスープはいゝが、チャプスイはゼロ。浅草へ来て、「かごや」と「結婚」を続けさまにやり、入浴して、川口と次狂言の話。「次男坊」を出しものとし、これ一本として貰ふ。ヴァラエティー一本書く約束する。夜の部終って、中町と銀座へ出てそれから横浜までドライヴした。 52689_46623.html(1072):  十時半に起きる、声いかん。伊藤松雄訪問、昨日のラヂオは成功と言ふ。座で、「次男」やってすぐ表へ行き、次のヴァラエティーは「笑の王国ニュース」ってことにしたらと案を立てる。五十番でシュウマイと中華丼、このまづさに呆れる。大勝館へ、評判がいゝので、コロンビアの「或夜の出来事」“It happend one night”を見る、長きこと二時間近し、とてもよきものなり。シナリオもいゝが、フランク・キャプラってリアリストの監督に参った。音を実によく選んでゐる。此ういふもの見ると、リアルな映画やってみたくなる。夜の部終って、中町と銀座へ。 52689_46623.html(1076):  午前九時に起きて、メトロの試写室へ、“Men in white”の試写を見る。苦しい重い圧力のあるストーリー、全くストーリー本位で、監督の影も薄い。だが、クラーク・ゲイブルって役者はいゝ役者だ。テーマに押された後、パッとしたくなり、マーブルへ行き、定食とスパゲティを食ふ。座へ来て、次のヴァラエティーの本を書く。「笑の王国ニュースレヴィウ」。ひるの部、声全くいかん、又禁酒しようと思ふ。徳川夢声妻、死去、去月三十一日、もう葬式も済んだ由、今夜皆で顔を出すことにした。大阪屋のハヤシライスとトースト。ハネ後、荻窪まで急行する。 52689_46623.html(1109):  今日けい古日。三時より早くは始まるまいからと、日比谷映画劇場へ行き、「絢爛たる殺人」“Murder at the Vanities”を見る、脚色がゴタついたのと、マクラグレンとオーキーを活用せんとして結局無為に終ったことで、傑作とは言ひがたいが、見てゝは面白い。ついでにJ・Oトーキーの「恋の舗道」を見る、田中栄三原作脚色で、ねらひどころはルビッチなんだが、伊奈の監督、とても及ばず、醜ガイをさらす。東宝事務所へ、吉岡重三郎に逢ったら、名人座出演のことしきりにすゝめられたが、座へ出て川口に話したが、イカン断はれと言ふ。モダン日本まつりの日比谷新音楽堂へ行く、三益と二人で万才(10)。菊池先生がきいてたのは弱った。すぐ座へ引返して、ヴァラエティーの演出し、「旗本」の舞台稽古終ったのは十二時半。 52689_46623.html(1117):  自動車の中で思ふ、浅草に住むこと一年と五ヶ月――もうそろ/\動きを見せなくちゃいけないと、つく/″\。座へ出る、「ニュースレヴィウ」は、まあ/\狙いどこを外さず。又声が悪くなって困る、酒てものピチッと止めることは中々むづかしい。「旗本退屈男」は作者菊田、ひるの部に来ず、カットすると思ってたとこ又やらされる。菊田は仕事は一ばんいゝが人間がルーズで困る。ひる終って、大勝館へ、白十字で食事して行くと、おめあての「ワンダバー」“Wonder Bar”のつまらぬこと、豪華キャストと、映画ならではのレヴィウシーンがいゝだけ、つまらんので出ちまった。「週刊朝日」の赤井より「喧嘩之研究」は不適当なりとして返却して来た。かせぎそこなひ――くさり。夜の部から、四五景カットになったので九時四十分にハネた。入浴して、森永でウイのみ、銀座へ出る。 52689_46623.html(1186):  鏑木が十二時すぎに入ればいゝと言ふので、円タクの選り好みをしたりして、ゆっくり出たら、もう前が終って幕間、大あはてゞ「ガラマサ」の扮装をした。ひる終って大勝館へM・G・Mの「ターザンの復讐」“Tarzan and his mate”を見る。猛獣百出、たゞめちゃ/\な面白さである。ローレル・ハーディの短篇を見て、白十字でビフカツと飯を食ひ、座へ帰る。夜の「ガラマサ」をやって、新宿第一劇場(元新歌舞伎)の松竹少女歌劇を見に行く。先づ入りの無いのに驚く。「秋のをどり」たゞいつもの通りといふだけ。マイクを使ってるのがとてもいけない。岩田氏に「笑の王国」をかけて一つ一杯にしてみようじゃありませんか、と笑って、十時四十五分、母上を新宿駅に、上高地への旅を送る。 52689_46623.html(1194):  八時半起きで、帝劇へ試写を見に行く、昨夜のんでるので、評判のカザリン・ヘプバーンの「若草物語」“Little Women”の半分頃まで見てたらねむくて辛くなり、出ちまった。「ガラマサ」相変らず受ける、ひる終って、ねころんでると国民学芸部の記者来り、「秋のにほひ」について語れと無理を言ふ。それからそぼ降る雨の中を一人で、上野のポンチ軒まで食事しに行く。カツレツよろし、ビフスチウは普通。紅谷で紅茶二杯の菓子二つ。満腹。のびて足をもませる、一寸天国。夜の部の「ガラ」大した受け方、ヤンヤという笑ひだ。「モダン日本」の大島来り、「ガラ」の写真うつして行った。 52689_46623.html(1206):  雨、寒くなった。座へ出る。「ガラマサ」相変らず気がいゝ。一回終ってすぐ、講談社へ呼ばれ、例の如きヘンテコな速記をとられる、まるで警視庁の調べ室だ。金がある時ならこんなの断はっちまふんだが――何しろ貧なので。而も今日は帰りに金をよこさず、くさる。西村小楽天とポンチ軒へ寄りカツレツを食ふ。座へ帰ると表で配役してる。渡辺が一本だから、こっちも一本にして呉れと言ってみたが、「二つのネクタイ」のアルバースと、「青春音頭」に、何と有閑マダムをやることになった。四十近い女ださうだ、これは自信がある。夜の部終って、友田等と日本館へ「空襲と毒瓦斯」“I Was a Spy”を見た、前半で草疲れて出る。英国トーキー、芸のないもので材料のまゝ見る感じがいやだった。 52689_46623.html(1492):  午前中、伊藤松雄の家へ行って話し込み、二時近くに座へ出る、今日は稽古初日だが、「坊ちゃん」は舞台稽古無し。わりに入りは悪からず。大分暇があるので大勝館へ行く。「合点承知」古きルウコディーが出てるのが懐しかったゞけ。ジャック・オーキー舞台裏ものばかりやってる。「征服王大脱線」ひどい名をつけたもの、原名“Hollywood Party”ジミイ・デュランド感じ出ず、ロレル・ハーディーのアチャコ・エンタツ振りいと面白し。殊に卵割のとこなど面白かりし。とんかつ屋で食事して座へ。「坊ちゃん」学生をやる連中が二月の時より悪く、一寸おやからぬ感じ。十時二十分ハネ、堀井・川村と、みや古で、次のヴァラエティーの案を練る。 52689_46623.html(1521):  十時半、教文館ビルのフジアイスに集り、R・K・Oの「キングコングの復讐」“Son of King Kong”を、菊田・堀井その他女の子達も見せてやる。愚も甚しきものの、てんでお笑草映画。その他カリオカの踊りのとこだけ一寸写して貰ひ、千疋屋で食事して座へ出る、咽喉いけず、吸入しようとすれば大西間違へてへんな薬を買って来る、腹の立つこと頻りである。マリダンゲームで遊ぶ、皆相当上達した。夜の部は熱が七度二分なので大分苦しい、榊磐彦とその友の医者来訪、正木その他を誘ってかもめへ行く。 52747_43484.html(29):  私は、初歩英語読本が随分好きだつた。往年それらの聚集モノメニアに陥つて、海外の知友の助けまでかりて幅は三尺位ひだが四段になつてゐる書架を一杯以上にしたことがある。十年も前のことなんだが、その為に英語のほんとの勉強を疎かにして今もつて初歩英語以上の知識は備はらず、馬鹿を見たと思ふこともある。だがその文庫は随分私を悦ばせて呉れた。モノメニアには違ひなかつたのだ、単純なものを悦び始めれば限りがないからな! 一種の神経衰弱病である。そんな時には小学一年の国語読本の第一章を思ひ出して、ハ、ハタ、タコ、コマ、マリ、マツニツキ……など朗吟しても涙が滾れる、“Are you a man?”“Yes, I am a man.”“Are you a girl?”“No, I am a boy.”――そんなことを呟いても、何だか面白くなつて、肚に力を込めたりするのだ。今度は皆な整つて、と先生が云ふと、中学一年級全体が一つの大声になつて、ジス、イズ、エー、スクールと合唱する、その時私はその合唱隊に加はるのが何となく厭で、決して声を挙げたことがなかつた、口だけ動かしてごまかした。 52780_44576.html(44):  と云つた。――実は、上京以来、僕たちは、或る友達の好意に甘へて、今月の大方の芝居を見て歩いた後だつたのである。歌舞伎座は、「葵の上」の琴に酔ひ、「十六夜」の、月もおぼろ……に、退屈し、演舞場では、折角楽しみにして行つた六代目が、病気あがりのせゐか、何うも観た眼に気勢の欠けた感じで、何となく淋しく、何とかといふ狐使ひの悪者に扮(な)つて長髪で現れ、祠の前で法を結んでゐるところまで観て、失敬し、帝劇のカーピ・オペラにも行つたが、リゴレトの日で(オペラは解らないから番組などは何うでも好いのだが)、ヒイキのミセス・ヘンキナが登場しないので、落胆し、ブツ/\云ひながら帰つたり、そして、最も面白かつたのが、明治座の軽羅をまとふて(この衣裳万上の傑作、推賞措くあたはざるものなり。)ヒラヒラと踊つた飯島あや子嬢の――まさしく春の野に踊る黒い蝶々の朗らかさだ。今でも僕は昆虫採集に中学生的興味を持つてゐて、田舎にゐると、これからの陽気では麗らかな日には、捕虫網をかついでひねもす野山を駆け廻る習慣だが、それで、あの踊りを見ながら、そんな愚かな夢に走つたのではあるが、若しもあんな蝶々が現れたら、あゝ自分はどんなに烏頂天になつて、吾身を忘れて、森を越へ、谷を渡り、山を飛んでゝも、追ひかけ/\、することだらう……やア、素的だ/\、ヤンヤ/\と、手の平がしびれるほど拍手した。アンコール、アンコール、アンコールと望みたい――などゝ云ひ過ぎて妻君に反感を持たれたりした、――で、それだけ方々の芝居を見て、それが一番面白かつた(これは僕ばかりではない、観客全部の大喝采なのだ。)――なんて何だか自分に哀れを感ずる――などゝ、その帰りに、その辺の薄暗い酒場に立寄つて、盃をつまみながら六ヶ敷気な表情をしたが、何う考へてもあれは爽々(すが/\)しく愉快で、未だに眼を閉ぢると、眼蓋の裏にあの妙なる踊り子の幻が髣髴とする位ゐなのである。序でに云ふが、この頃の小さな酒場の光りの具合は僕にとつては特別に都合が好い、何故なら僕は、気六ヶ敷い酒のみで、はぢめのうちはいつも勿体振つて、一口毎に酒をのんでは何事かを深く考へるといふ風な重々しい表情を稍暫し保つ癖があつて、屡々相手に笑はれたり、不快がられたり、軽蔑されたりするのだが、都の多くの酒場では相手の顔が判別し難い暗さであるから、そんな心配もなくなり、また、あれならば、美しき酌女(ウエイトレス)に関心を抱いて弄れるにしても多くの酒徒に和やかな落つきを持たせ、見る者の眼にも野卑なる思ひを感ぜしめずに済むだらう――綺麗だ! と思つた。僕自身には嘗て左ういふ懸念はないが、田舎の居酒屋で僕にとつて最も見るに忍びない光景は、白昼婦女に弄れる野卑なる酔漢であつた。それらの酔漢を眼にして何時か遊女に対しても端然たる態度を保つやうになつてゐた僕であるが、都のあの様な配光の和やかな室に於てゞあるならば、自分もあの様に美しい酌女(ウエイトレス)の肩や手に大らかに触れても見たい――などゝ思つたりした。都でならば、あれらのタバンでならば、静かにならば、田舎流の野卑たる酔漢を真似ても、あの手ぎわよい光りが覆ふて呉れるだらう。見得を持つて律儀を保つてゐた僕の胸に、反つて野蛮な歓喜の影が翼を拡げた。――行かう/\、これからは妻にかくれて、裏町の酒場へ忍び、それからそれへと“Tavarn's pleasure”を漁つてやらなければ馬鹿/\しい――と思つた。 52784_44609.html(51):  前略、亡父の「署名」に関する御問合せの御手紙拝見いたしました。書類は全部散乱いたしたる後にて「署名」が何うしても見つかりませんでしたので、つひ御返事を申しおくれましたが、今日不図思ひ出したら、一昨年の秋頃、友人の某作家(頭の病気を患つて近くの温泉に保養に来てゐた。)に進呈した古本「ハムレツト」の扉に“189……?”だつたか“19??”…… “Christmas―― H, makino”と誌してあつたことを思ひ出しました。それで、よろしかつたら借りて来て御参考に呈しても関ひません。電話かハガキで御返事下さい。 52792_44591.html(38):  ――私は今此処で、それから私達が訪れた村の情景や出来事や私達の出遇つた事々をも誌したいが、それよりも今日の目的は KATA-KOMAS なる言葉の解釈なのである。これは、村から村へ流れ渡る――といふ意味の言葉である由だ。おそらく村から村へ流れ渡る者の胸のうちには、それが何んな姿であらうとも切なる寂しさを抱かぬ者はあるまい。KATA-KOMAS は「寂しき者」とも云ひ換へられるであらう。そして、この寂しき者は、三界に家なく、たゞその日/\を村から村へ食を求めて、止め度もなく流れ渡る者――永遠のヴアガヴオンドと同意の語であるが、私は私の経験に依つてこれを説明したかつたのであるが、私は未だ事実上の放浪の験を持たない――で、斯んな遊戯的情景を持ち出し何か忸(じく)ぢたる感があるが――これでも、夕暮が迫り、ドリアンの嘶きを耳にしながら天幕を背に次の村へ赴く森かげになどさしかゝると、「村から村へ」の旅人のそこはかとなき万感が想像されぬでもなかつた。――そして私も生活の上では常に“KATA-KOMAS”に他ならぬではないか。町に生れ、都へ出て、村へ帰り、村を追はれ、村へ移り、そして都へ出て……。 52800_44613.html(41): 「アナグノオリスが出たので――そいつに就いて、もう少し、俺に、斯うして彼の著書を翻すに伴れて「ユレーカ」「ユレーカ」を叫ばしめた返礼のために、有名な花の研究者の言葉を君に告げるのだが、その前に君に、ちよつと訊ねたいのは、“Eureka”なんだが、アルキメデスの、この「叫び声」を験べて見ると、その伝説に就いては、実にまちまちの説が多く、語原に関して俺は今九種類の材料を得てゐるのだが、そのうちの最も卑近なる一つ――Eureka, ――The exclamation of Archimedes when, after long study, he discovered a method of detecting the amount of alloy in King△△△'s Crown : hence, a discovery ; esp.one made after long research : an expression of triumph at a discovery or supposed discovery : Gr. hurka, I have found, perf. ind. act. of heurisk, to find 52820_44706.html(54):  丁度先程も、“Kick(キツク) me(ミイ) more(モア) ――”といふ俗歌をオフイスのお友達がうたつてゐるのを耳にしましたが、もつとお蹴りよ、いくら蹴つてもわたしは恋の起き上り小法師(タムブラア)――そんな意味の復誦句がついてゐました。ほんの俗歌で浮いた歌詞ですが、私たちも悲しみの前には蹴られても蹴られても直ぐ起きあがる「起き上り小法師(タムブラア)」に成りませう。さうしていつも明日の希望に生きて行きませう。 52837_44716.html(53):  この一個所を抜萃しただけでも、この作がどんなに傑れた諧謔味と、また慎ましくいろいろなことを考へさせられる、何と当今の歪んだ文芸界に異彩を放つた明るく、ほのぼのと霧の漂ふた景色が、浮んで来るでありませう。わたしは、何も感傷的な読者ではないつもりです。わたしは、かれの、見得易からざる才分の、恰もゑんゑんたる春の波にもてあそばれて、恢々と、即ち、人生のための芸術の扉を開かれるのであります。“At last a hand was laid upon the door, and the bolt shot back with a slight report.(――)Then the door opened, letting in a little more of the light of the morning;” 52837_44716.html(57):  と、わたしは、これを読みながら、ゆくりなくも Robert Stevenson 作“New Arabian Night”を思ひ浮べて、人生と芸術の妙に、ふところを開かれるのでありました。嗚呼、芸術と人生の澎湃極みなき魔宴(サバト)よ、甲斐多き哉! 52837_44716.html(98):  軍艦の上からひゞいて来る夕べのラツパの音が、崖の上にかゝつた弦月の光りを破つてゐた如月の或る晩――わたしはこの悩み多い一文を書き出さうと武張つたとき、御覧のごとき表題を選んだのは、どうせ自分には何んなに武張つたところで、碌なことの云へる気遣ひはなく、志願はしたものゝ容易には猛々しいフアランクスの隊員には望めさうもなく、所詮は悲しい田(でん)々太鼓をたゝくやうなことになりはしまいかと、既にして消極的なるおもひで、云ふならば、どうやら自己弁護的なる畏怖の心から、斯様に題したまでゞ、更にまた何とも迂滑千万なことには文壇の風潮に浪曼派なる呼声の挙つてゐる勢ひを知らなかつたのである。若しも左うとはつきり気づいてゐたならば、むしろわたしは照れ臭かつたのだ。多少は左ういふ文字を見ないでもなかつたが、わたしはこの一年ばかりの間、病弱の身をもてあまして蹌々踉々と辺鄙なる村から村を流転してゐたので、新しいものをおちおちと繙く折もなかつた。わたしのふところには売り忘れたアラン・ポーの「ユリイカ」が一冊しのんでゐるだけだつた。わたしは、それを一日に二三頁読み、一枚翻訳すると発熱した。翻訳は上梓の目的だつたが、一ヶ月に十枚もあやしかつた。――それにしても新浪曼派文学の提唱の益々さかんなることは、まことに望ましく、それらの人々とは寝食を忘れても語り明したく、討死しても決してラツパを口から離さなかつた勇敢なる兵士の誠志をもつて、ロマンティシズムの中にこそ、わたしは“I found the Truth(ユリイカ!  ユリイカ!)”――Truth, と鳴らしつゞけずには居られない。 52839_44701.html(41):  わたしは、三崎に借りてある自分の部屋に、飛べる日まで飼つて置かうとおもつた。わたしは、微かな亢奮を覚えてゐた。やはり、いつもひとりの部屋といふものは、好きこのんで心がらとはいふものゝ、とりとめもないものであり、傷ついた鳥に宿を与へるのかとおもふと、余程嬉しく、やがて、この鳥が翼も癒えて、独酌家の窓から飛び立つて行つた後のことまでが想像された。――油壺の水族館へ赴くと、わたしはいつも二尺四方ぐらゐの小さな水槽のなかで、わたしの小指ほどに、あんなに小さいくせに、フイゴの筒のやうに憂鬱さうに口を突(とが)らせ、くるりと尻尾を巻いて偉さうに、海藻の間を浮いたり沈んだりしてゐる、何だかそれにしても余り姿が小さくてお気の毒な様な、あの奇天烈な海ノ馬(タツノオトシゴ)と睨めくらべをするのが習ひであつたが、いまから既にこの鳥が飛び去つて行く後をおもふと、四角の部屋のひとりの自分の顔つきが、見る間に“Sea horse”のやうに偉さうになつて来さうだつた。雛鳥の皷動はわたしの胸にチクタクと鳴り、島の真昼は底抜けの静寂さに、明る過ぎるひかりばかりがさんさんたる雨であつた。 52840_45369.html(29):  ちかごろ或る日、十何年も他所(よそ)にあづけ放してあるトランクをあけて見ると昔のエハガキブックや本や手帳にまぢって、二十歳前後の写真を二束見つけた。その中に“To Mr. S. Makino. ――From Saburo Okada”と誌された手札型の岡田三郎の半身像と、「屋上」小会紀念とある故片上伸先生をとりまいた一団の学生の写真があった。学生は十四人ならんでゐるが(斯ういふ写真には裏に名前を書いておくべきだと思ったことには――)そのうちに、浜田広介、須崎国武、下村千秋、水谷勝、岡田三郎、神崎勝とまでは指摘出来たがその他の七人は、顔には覚えがあるのだが何うしても名前が浮ばなかった。「屋上」といふのは原稿紙を綴ぢて一冊とする廻覧雑誌の名で、僕は何とかといふ全くはぢめて書いた小品を岡田三郎の手から綴ぢて貰ひ、それぎりだったので準会員といふやうな感じで何時(いつ)その雑誌が止めになったのかも知らなかったが三郎との交際はそのころからはぢまった。何時どうして変になったのか、別段反感を覚えたり喧嘩をした覚えもなく、彼がフランスへ発つ時には送りにも行き帰朝の時には迎へにも行ってゐるところを見ると、口も利かなくなつたのはその後のことらしいが信一としてはどうしてもはっきりとした源因が思ひ当らぬのである。だが日を経るに伴れて益々変梃で終ひには銀座などで出過ってもどちらもその顔つきは厭に嶮しく果はフンといふやうな態度を示すに至ったのである。浅原六朗と三郎がいろいろと人の集ったところで徹底的に牧野の悪口を吐くといふことを聞き、また彼等の、折々見た僕に関する文に接すると事毎に暗然とさせられるのであった。三郎といふ男は何か悟ったとこのあるやうなやつで、妙に人の悪口を云はないね――と、僕は柏村といふ亡友と学生時分からはなしてゐたので、聞くにつけ意外の感に打たれた。六朗には漠然としたことで種々の源因もあり、また僕の小説の文中にそれとなく突き返すような個所があったりして無理もなかったが、感想の筆(ペン)やまた人の前でも僕が少しも彼等のことを口にしないのが、狡いとか白々しいとかといふ風な感じを与へて二重に苛立たせた結果に赴いたと想像された。事実、だまってゐるといふ態度は如何にも相手を黙殺し、軽蔑でもしてゐるかのやうな感で僕としても二重に若しかったわけであるが、不幸にして僕は平和円満論者で「人生は舞踊といふよりも寧ろ相撲に似てゐる」といふ言葉の反対で、寧ろ舞踏と云ひたく、そゞろ感傷的になって黙ってしまふに他ならないのであった。 52848_45392.html(31):  モンテーニュの「随想録」といふ本を購読して見ると以上のやうな言葉に出会つた。ポウの「ユリイカ」を翻くにつれて、僕の亢奮と歓喜と戦慄の奥底を揺がせたものを一言にして言ひ換へるならば、正しく凡ての習慣が真理と理性の前に引き据ゑられて、とどのつまりは神秘の極光に射抜かれたと云ふより他は無かつた。この場に於ける「神秘」を、僕は“Serpent of Eternity”の意訳から用ふるのであるが、神秘と永遠の分析に関して、凡そ意味ありげなる漠然たる言葉を排して、恢々たる煌星の姿を直言した斯の如き大演説に接した験しはなかつた。僕の偉大なる自慢の鼻“Nose-of-wax”は、まんまとへし折られたものの、遠く近く無何有に煌くアンドロメダは金粉となつて降り灑ぎ僕は何も彼も忘れて、光りの雨の中に恍惚とした。云ふを止めよう、どうやら白銀製の鼻が盛りあがつて来た感が強いだけだ。 52855_45394.html(35):  こんな文章を書きながら自身のことを云々するのは悪趣味といふべきであるが、わたしはこの二三ヶ月たゞ薄ぼんやりとして、どうかして自分が小説家であるといふことを忘れなければならないといふだけの胸を抱いて、無闇とあちこちとさまよひ歩いたものだ。そして、そのわずかなる結論の蔓草の果に咲いたものは、小さく白い粉雪のような五味子の花に過ぎぬのだ。わたしは、そんなことを考へれば考へるほど単にそんな類ひの一介の小説家であることを自覚しなければならなかつた。ただ、吹けば飛ぶほどの花びらの一片にも、それがその宿命である限り、自ずと内に醗酵するほどの悩みに関しては根限りの吟味の眼を視張らねばならず、それはハーキユリイズの仕事に匹敵する大困難であらうとも、それより他に打ち鳴すべき行進曲は絶無であると考へるばかりであつた。所詮相手が、“Serpent of eternity”である限り惻々泣路岐の感からは逃れ得ぬに定つてゐるのだ。 52867_45393.html(37):  といふやうな具合に、簡単ながらも要を得た製法をいろいろと教へてゐるのであつた。細君のクツキング・ノート・ブツクはいつの間にか半ばを埋められて、季節毎に筆記の増えてゆくのを余程楽しんでゐるかのやうであつた。ピクニツク・ランチとか“For the camping ready”などゝいふ項はピクニツクやキヤムピングに赴かぬ場合でも、折にふれてはわれわれの貧しい食卓の役に立つた。 52867_45393.html(38):  つまり、何うせ僕は何処に住んでもキヤムピングに等しい暮しばかりを過して、女房の不機嫌をかふと同時に“N's Cooking note”ばかりが役にたつてしまふのであつた。 52894_42657.html(262):  いつでしたか日は忘れました。快い宵でしたが私は退屈しましたので、散歩がてら家を出ました。さうして私は友達の家を訪れました。友達の妹さんやそのお友達が遊びに来てゐたところで、私達はトランプを始めたのであります。“Two Ten Jack”といふ遊び方は皆様のうちでも御存じの方が多いだらうと思ひます。友達とその妹さんの敬子さんと光子さんと私との四人です。私は――また自慢ぢやありませんが――トランプがそれはそれは大した名人なのです。多くの場合私の相手は此の三人なのでありますが、未だ嘗て私は敗北したことがありません。これを始めると、いつも彼等は口惜涙をふるつて私を総攻撃します。然し要領のいゝ私には決して敵ひません。 52914_42891.html(293):  また何か初まつた。彼は、待ち構へて、眼を瞑つた。――直ぐに眠れる。その時ふと、こんな文句が浮び出た。(たしか此頃になつて初めて読みかけた“An Opium-Eater”の初めの方にあつた一句らしい。)と、思ひながら。 52914_42891.html(296): “A man who is inebriated, or Tending to inebriation, is, And Feels That he is, in a condition which calls up into Supremacy. The Merely Human, too often The Brutal, Part of His Nature; …… 53050_44304.html(36):  明日の新聞には、こうした記事が掲載されるであろう。今午後九時二十分。北緯五十度、東経百六十五度のあたりを、大圏航空路にそって、ただ一路、東に向って飛んでいる。昨夜の十時大阪国際飛行場を出発して、そのままずっと飛行を継続しているのだ。星一つ見えない暗黒の闇だ。が、無気味なほど気流はいい。殆ど操縦棹に触れる必要もないほどだ。航続時間はあと四時間を余すのみ。しかし、二時間もあれば、この手記を終り得ると考える。積載燃料の総てが、消費しつくされる一時間前には、横浜に向けて航行中の北太平洋汽船会社“シルバー・スター号”の船影を認め得るはずだ。 53050_44304.html(56):  彼は詰問するように鋭く云い放った。私は彼の目の前に、週刊雑誌“北極(アークティック)”を置いた。 53050_44304.html(61):  本誌“北極”主催のもとに、本月二十五日、土曜日、午後十時より大阪――東京間を指定区域とせる飛行機による宝探しを挙行する。参加資格はアマチュワー・オーナー・フライヤーに限る。集合場所及び出発点は大阪国際飛行場。 53050_44304.html(64): 「参加機の離陸にあたって、本社係員より厳封せる封筒が飛行士に手渡される。機は直ちに出発を命令される。封筒には一篇の詩(ポエム)、または和歌が記されている。この詩、または和歌は、東京――大阪間の一、市町村附属の飛行場を暗示させる。飛行士はそれを解し、指定された場所に向って、最短コースを飛行する。指定飛行場では平常使用せる航空標識は全部消灯し、ただ、場の中央なる地上に、本誌名“北極”を意味する英字(arctic)の最初の一文字、即ち『A』をネオン・サインで表した文字を置く。これは十フィート平方の大きさで、赤く点灯される」 53050_44304.html(155):  三機は並んで出発命令を待っていた。主催者“北極”の係りの人が私に近づいた。 53506_47604.html(41):  八月廿八日。火曜。いい部屋が無くてどうも困つた。郊外の方か、新市街地に行けば虫の出ない部屋が幾らもあるといふが、為事のためには矢張り教室の近くでなければならない。今までは余り人に頼り過ぎた、けふからは自力で自分のこれから住むべき部屋を求めようと思ふ。さう思つて私は先づ宗教の方で関係してゐる“Hospitz(ホスピツツ)”に行つた。部屋には古い基督(キリスト)の木像などが掛かつて居り水道の設備も附いてゐた。値段は相当に高いが候補の一つにして、それから Schwanthaler(シユワンターレル) Str.(シユトラセ) の数軒を見た。Pension(パンシヨン) Moralt(モラルト) といふところを見、Frau(フラウ) Keim(カイム) の部屋を見、Frau(フラウ) Valentin(フアレンチン) の部屋を見、Hotel(ホテル) Schneider(シユナイデル) の部屋を見た。最後の部屋を見た時に上さんは、若し借りるなら百万麻克(マルク)の手金を置けなどと云つた。 53506_47604.html(42):  心が落付かず街頭を急いで来ると計らず二人の日本人に逢(あ)つた。一人は不思議にも維也納(ウインナ)で知つた医者であり一人の老翁と一しよであつた。老翁は齢已(すで)に古稀を越したT氏であつた。私も元気づきミユンヘンの事では一日の長がある様な態度を自(おの)づから示して、夕食を共にした後、けふ見て来た宗教関係の下宿“Hospitz(ホスピツツ)”に案内し、私は日本媼にたのんでソフアの上に寝た。連夜南京虫に苦しめられたので、自分の今借りてゐる部屋に帰つて寝る気になれなかつたのである。 53506_47604.html(43):  八月廿九日。水曜。朝便(あさびん)の配達のとき長兄から、午後便の配達のとき妻から、実父伝右衛門(でんゑもん)の死を報じて来てゐた。午前も午後も教室で為事をし、夕食のとき維也納(ウインナ)から来たきのふのT翁に逢つたところが、私の世話した“Hospitz(ホスピツツ)”で昨夜南京虫に襲はれたことを報じ、頸のあたりの赤く脹(は)れた痕(あと)を示した。私は気の毒になり、一しよに行つて部屋を取換へるやうに談合した。それから今夜も日本媼の一室に寝せてもらつた。夜半に屡(しばしば)目が醒め、実父の死んだといふのは夢ではないかなどと思つた瞬間もある。 53507_47605.html(39): 『ミユンヘン人は何でも真直(まつすぐ)に物云ひますから、先生も喧嘩(けんくわ)なすつちやいけませんよ』などと云つたことがある。“direkt”と云はずに“gerade”などと云つたのが珍らしいやうな気がして、帳面に書きとどめたことがある。 53508_47606.html(31):  そこに夕刊の新聞売が来たので三通りばかりの新聞を買ひ、もう半立突(リツトル)の麦酒を取寄せて新聞を読むに、伊太利(イタリー)と希臘(ギリシヤ)とが緊張した状態にあることを報じたその次に、“Die Erdbebenkatastrophe in Japan”と題して日本震災のことを報じてゐる。 53508_47606.html(43):  九月十日ごろN君のところに故郷の家族無事といふ電報が届いた。電文は『ヂシンヒドイブジ』としてあつた。なか二三日おいて十三日の夕がた私のところに、伯林(ベルリン)のM君から電報が届いた。電報は、Folgendes Telegramm aus Japan erhalten “Your family friends safe” = Mayeda としてある。 53508_47606.html(52):  私は実に久しぶりで翁の言に接したのである。そして独逸語で頭を痛めてゐるときに、是等(これら)の言葉はすらすらと私の心に這入(はひ)つて来た、のみならず翁の持つ一つの語気が少年以来の私に或る親しみを持たせるのであつた。カアル・マルクスの『宗教は国民の阿片(あへん)である』(Religion ist das Opium des Volks.)といふ西暦一八四四年の言葉が、西暦一九一七年の露国革命の際に、彼のグレコが聖母の像と相対した壁面上に書かれたといふ。これは莫斯科(モスカウ)の出来事で、レニンなどが主になつてああいふことをやつた。レニンは、“Die Religion ist Opium fr das Volk.”と書いて、さて、宗教といふものは下等なフーゼル酒(しゆ)のやうなものだ。資本の奴隷どもは、漸(やうや)く真人間の仲間入をしようとする権利を得ながら、半途にしてこの宗教といふ下等な火酒(くわしゆ)の中に溺没(できぼつ)してしまふのである。とさへ罵(ののし)つてゐる。近ごろ読んだああいふレニンの言葉に較(くら)べると、『無神無仏の徒は既に神を無みし仏を無みするだけの』云々といふ幸田露伴翁の言葉には、少しもそこに反語がないところに露伴の面目がある。レニンのものの如くに、“streitbar”とか“revolutionr”とか謂(い)ふ臭気がまつはつてゐない。そんな事を私は一人ゐながら思つた。レニンの病気もその後悪いさうだが、追つかけ死ぬだらう。臨終の近くに誰かがどういふ言葉かを掛けるだらう。それが所詮(しよせん)、希臘(ギリシヤ)加特利(カトリツク)教の儀式の代弁ならつまらぬなどとも私は思つた。 53509_47602.html(31):  ドナウの流れは『藍のドーナウ』と謂(い)ふが、ここは、『緑のイーサル』である。“Solang die grne Isar, durch's mnch'ner Stadt'el geht.”といふ古い歌謡は、ミユンヘンの市民が麦酒(ビール)に酔うてよくうたふのであつた。 53510_47603.html(45):  あるところに下ると、旅客等は皆車から降りて一軒の家に入つた。ここは食店(レストラン)・珈琲店(カフエ)である。彼等は、“Lacrimae(ラクリメエ) Christi(クリスチ)”(聖涙酒(せいるゐしゆ))といふ酒を飲まうといふのである。僕は、無念の心が未だ晴れず、そんな物を飲む気になれぬので、一人車房に残つた。暫(しばら)くして車房をいで、藪(やぶ)の方に小便をしに行くと、そこに日本にあるやうな白芙蓉(ふよう)が咲いてゐる。それから頭の上に胡桃(くるみ)の実がなつてゐる。さういふものを弄(もてあそ)んで時を過ごすに、彼等の銘々は赤い顔をして帰つて来て車房に入つた。 54374_46226.html(36):  ここに訳出した『ベートーヴェンの生涯』(“Vie de Beethoven”)は、ロランがベートーヴェンについて発表した最初の作品である。これはシャルル・ペギーが編集していた定期叢書カイエ・ド・ラ・カンゼーヌの第一巻として一九〇三年に初めて世に出た。この論文の中には、その後さらに複雑に展開したロランの二つの要素の萌芽が一つに結合している。一つの要素は歴史家として記録と事実とを学的良心をもって考証する態度の根底にあるところのそれであって、ロランの作品中『ヘンデル』や『ミケランジェロ』(まだ邦訳されたことのないプロン版の論文)や『過去の国への音楽の旅』や、またその後の大きいベートーヴェン研究の中に多分に感じられる要素である。他は、この『ベートーヴェンの生涯』を直接『ジャン・クリストフ』へ結びつけているところの芸術家的・創造的要素である。ロランはかつて画家ユージェーヌ・ドラクロワについていったことがある――「この真に浪漫的な天才の知性はしかし非常に古典主義的だ」と。われわれはこれに似たことをロマン・ロランについてもいえるであろう。音楽史家としてのロランの特徴についてはかつて彼の弟子であり現在 La Revue musicale の主筆であるプリュニエールがいったとおりに――「音楽技術についての十全な知識へ、普遍的精神の宏大な博識と探求心とを結合させた」ところにあるのであろう。この点に関してのロランの権威を認めている人々の中で私は、ケクラン、オーリック、ストラヴィンスキー、アーノルド・ベネットらの名を挙げておこう。そして偉大なアンドレ・シュアレス(『偉大なシュアレス』といったのはモーリス・マーテルリンクであるが)は、彼がドビュッシーの熱愛者であるにもかかわらず近頃こう書いた――「福音書を書くような態度でベートーヴェンについて書く権利を私はロマン・ロランにだけ認容する。なぜなら、彼は実際その精神で生きているのだから。」 605_20934.html(64): [#ここから横組み]“Perdidit antiquum litera prima sonum.”[#ここで横組み終わり](初めの文字は昔の音を失えり) 605_20934.html(173): 原注 ルソーの[#ここから横組み]“Nouvella Hloises”[#ここで横組み終わり] 669_43608.html(104):  次の晩、ぼくが、二等船室から喫煙室(きつえんしつ)のほうに、階段を昇(のぼ)って行くと、上り口の右側の部屋から、溌剌(はつらつ)としたピアノの音が、流れてきます。“春が来た、春が来た、野にも来た”と弾(ひ)いているようなので、そっとその部屋を覗(のぞ)くと、あなたが、ピアノの前にちんまりと腰をかけ、その傍に、内田さんが立っていました。 688_23234.html(117):  “[#「“」は下付き]MON(モン). VERRE(ヴェエル). N'EST(ネエ). PAS(パア). GRAND(グラン). MAIS(メエ). JE(ジュ). BOIS(ボア). DANS(ダン). MON(モン). VERRE(ヴェエル)”[#「”」は下付き] 729_43614.html(91):  ぼくは自分の死者との実感から、この病者に惹きつけられる愛情と反撥する憎悪を同時に感ずる。彼らこそ、その病気に自然に移行しながら、いつの間にか人生に、「さようなら」していて、病人となってからは、いつ死んでも同じなのだ。彼らは精神病院の一室で誰の邪魔もせず、邪魔にもされず、呼吸して食事し眠って起き、その中ひとに知られずふいと死ぬ。ぼくはそんな彼らを堪らぬと嫌いながらも、既に死んでいる点で共感し憧がれてもいるのだ。彼らでさえ、現実にはっきり、「さようなら」をいうのを拒否しているのが小気味よくもあるのだ。自分では不合理、非論理と思うが、ぼくは自分を使者と信じながらも、実は未だ生の世界に「さようなら」をいいたくない。ぼくは今でもふいと耳に、ボレロの如き明るく野蛮な生命のリズムが鳴り響き、晴れて澄んだ初秋の午後、アカシアの花が白く咲き芳しく匂う河岸、青い川面に白いボオトを浮べ、自分の心や身体を吸いよせ、飽和した満足感で揺り動かし、忘我の陶酔に導いてくれる、そのひとを前にし、軽くオオルを動かしている幻想のよみがえる時がある。例の神を涜した為、未来永劫(えいごう)にわたり幽霊船の船長として憩いの許されぬ“さまよえる和蘭人(フライング・ダッジマン)”でさえ、女性の無償の愛が得られれば許されるという中世紀伝説があるのだ。だから中世紀敗戦日本の安っぽい、勝手に死者を気取ったぼくが未だに、こうした伝説に憑かれ、またの日、もう一度、そうした日があり得ることを秘かに信じ、その時に自分の復活があると、待望するのも可笑しくないだろう。 770_43504.html(41):  京都の深田教授が先生の家にいる頃、いつでも閑(ひま)な時に晩餐(ばんさん)を食べに来いと云われてから、行かずに経過した月日を数えるともう四年以上になる。ようやくその約を果(はた)して安倍君といっしょに大きな暗い夜(よ)の中に出た時、余は先生はこれから先、もう何年ぐらい日本にいるつもりだろうと考えた。そうして一度日本を離れればもう帰らないと云われた時、先生の引用した“no(ノー) more(モアー), never(ネヴァー) more(モアー).”というポーの句を思い出した。 779_14973.html(39):  しかしながら冬の夜のヒューヒュー風が吹く時にストーヴから煙りが逆戻りをして室の中が真黒に一面に燻(いぶ)るときや、窓と戸の障子(しょうじ)の隙間(すきま)から寒い風が遠慮なく這込(はいこ)んで股から腰のあたりがたまらなく冷たい時や、板張の椅子が堅くって疝気持(せんきもち)の尻のように痛くなるときや、自分の着ている着物がぜんぜん変色して来るにつれて自分がだんだん下落するような情ない心持のする時は、何のためにこんな切りつめた生活をするんだろうと思う事もある。エー構わない。本も何も買えなくても善いから為替(かわせ)はみんな下宿料にぶち込んで人間らしい暮しをしようという気になる。それからステッキでも振り回わしてその辺を散歩するのである。向へ出て見ると逢(あ)う奴(やつ)も逢う奴も皆んな厭(いや)に背(せ)いが高い。おまけに愛嬌(あいきょう)のない顔ばかりだ。こんな国ではちっと人間の背いに税をかけたら少しは倹約した小さな動物が出来るだろうなどと考えるが、それはいわゆる負惜しみの減らず口と云う奴で、公平な処が向うの方がどうしても立派だ。何となく自分が肩身の狭い心持ちがする。向うから人間並外れた低い奴が来た。占(しめ)たと思ってすれ違って見ると自分より二寸ばかり高い。こんどは向うから妙な顔色をした一寸法師が来たなと思うと、これすなわち乃公(だいこう)自身の影が姿見に写ったのである。やむをえず苦笑いをすると向うでも苦笑いをする。これは理の当然だ。それから公園へでも行くと角兵衛獅子に網を被(かぶ)せたような女がぞろぞろ歩行(ある)いている。その中には男もいる。職人もいる。感心に大概は日本の奏任官以上の服装をしている。この国では衣服では人の高下が分らない。牛肉配達などが日曜になるとシルクハットでフロックコートなどを着て澄している。しかし一般に人気が善(よ)い。我輩などを捕えて悪口をついたり罵(ののし)ったりするものは一人もおらん。ふり向いても見ない。当地では万事鷹揚(おうよう)に平気にしているのが紳士の資格の一つとなっている。むやみに巾着切(きんちゃくき)りのようにこせこせしたり物珍らしそうにじろじろ人の顔なんどを見るのは下品となっている。ことに婦人なぞは後ろをふりかえって見るのも品が悪いとなっている。指で人をさすなんかは失礼の骨頂だ。習慣がこうであるのにさすが倫敦(ロンドン)は世界の勧工場(かんこうば)だからあまり珍らしそうに外国人を玩弄(がんろう)しない。それからたいていの人間は非常に忙がしい。頭の中が金の事で充満しているから日本人などを冷かしている暇がないというような訳で、我々黄色人――黄色人とは甘(うま)くつけたものだ。全く黄色い。日本にいる時はあまり白い方ではないがまず一通りの人間色という色に近いと心得ていたが、この国ではついに人-間-を-去-る-三-舎-色と言わざるを得ないと悟った――その黄色人がポクポク人込の中を歩行(ある)いたり芝居や興行物などを見に行かれるのである。しかし時々は我輩に聞えぬように我輩の国元を気にして評する奴がある。この間或る所の店に立って見ていたら後ろから二人の女が来て“least poor Chinese”と評して行った。least poor とは物匂い形容詞だ。或る公園で男女二人連があれは支那人だいや日本人だと争っていたのを聞た事がある。二三日前さる所へ呼ばれてシルクハットにフロックで出かけたら、向うから来た二人の職工みたような者が a handsome Jap. といった。ありがたいんだか失敬なんだか分らない。せんだって或芝居へ行った。大入で這入(はい)れないからガレリーで立見をしていると傍のものが、あすこにいる二人は葡萄耳(ポルトガル)人だろうと評していた。――こんな事を話すつもりではなかった。話しの筋が分らなくなった。ちょっと一服してから出直そう。 779_14973.html(42):  その夜の十時頃自分の室(へや)で読書をしていると、室の戸をコツコツ叩くものがある。“Yes, come in.”といったら宿の亭主がニコニコして這入(はい)って来た。「実はあなたも御承知の通りこの度引越す事にきまりましたが、どうでしょう、向うはここよりも大分奇麗(きれい)でかつ器具などもよほど上等にしますが、来ていただく訳には参りますまいか」「それは君の方で僕に是非来てくれと言うのなら……」「イエ是非といって御無理を願う訳ではありませんが、御都合がよければ――実は御馴染(おなじみ)にもなっておりますし家内や妹も大変それを希望致しますから」「君の新宅へ下宿人を置きたいという事は僕も承知していますが、あながち僕でなくっても善(よ)いだろうと思ってね」と実はこれこれだと話すと、亭主の顔が少々陰気になって来た。我輩も少々手持無沙汰(てもちぶさた)である。「それじゃこうしよう、いずれ先方から返事が来る、来ればひとまず行って室を見て、それが気に入らなかったら君の方へ行くとしよう、ほかを探す事はやめにして。あの手紙を出す前に君の方の希望がどのくらいの程度だか分っていれば、聞き合せるまでもない御望みに応じたのだが、こうなっては仕方がない。まず先方の返事次第ですね。その代りほかはけっしてさがさない。あれがいけなければきっと君の方へ行きますよ」。亭主は御邪魔様といって下りて行った。 852_21056.html(101):  ある時、私の翻訳中のテキスト――即ち英訳の“Man of Genius”を本郷の郁文堂に預けて落語を聴きに行ったことがあった。その時、僕は本箱も蔵書も殆ど売り尽して僅かに辞書一、二冊とそのホンヤク中のテキストを[#「テキストを」は底本では「テストを」]座右において暮らしていた時なので、それ程困っていながら、なぜ落語などを聴きに行きたがったのか? 853_15049.html(30):  僕は此処でその可否を論ずることはしばらく失敬するが、つまりその精神の洗礼を受けなかった連中は、“Modern Spirit”に取り残された人なのである[#「人なのである」は底本では「人のなのである」]。だから、それより一時代後に生まれた若い人達が「所謂自然主義前派」だったりなどするのはこれ又不思議でもなんでもない。兎に角、僕は幸か不幸かその大きな波をくぐって来たことだけは事実なのである。それからナチュラリズムに対する色々なリアクションが起った――その中で最も著しいのが武者小路氏を中心とした「白樺派」のイディアリズムの勃興である。その二個の精神の争闘の間に抑圧せられながらも、底流として存在する別個の精神にロマンティシズムがある。更に最近に於て著しく台頭して来たソシアリズムの精神は遠く明治初年に於ける仏蘭西学派にその最初の酵母を有するが如くに思われるけれど、少くとも日本現代に於けるそれは基督教のイディアリズムを母とし、ナチュラリズムを父とする一種不可思議な奇形児である。彼こそはまことに“Romantic Spirit”の“Antipode antipodes”である。 853_15049.html(40):  一寸気付いたからといって置くがスチルネルの「所有人」(Eigner)という言葉は彼自身の発明であるように見えるが、「荘子」を読むと(「荘子」は又僕の昔からの愛読書の一つである)「独有人」という言葉が出て来る。この「独有人」という言葉をそのまま“Eigner”の訳語として借用しても差支えはなさそうだ。「独有人」とはどんな人間かというと「……能物レ物。明レ乎一レ物レ物者二レ之非物也。豈独治二レ天下一而己哉。出-二入六合一。遊レ乎二レ九州一。独往独来。是謂二レ独有一。独有之人。是之謂二レ至貴一。」 854_21301.html(32): 青臭い“La(ラ) Variete(ヴリエテ) d'Epicure(デピキュウル)”なのだ 854_21301.html(47): 新しい“Folly(フォリイ) Variete(ヴリエテ)”を建設しろ 854_21301.html(49): “Striking(ストライキング)”の憧憬者 黒瀬春吉は 857_34611.html(30): Dada-o-koneru,―this “Stray-Leaves Bohemique” is nothing but Dada of poor nameless grasses trampled and dispised under… 857_34611.html(31): Who is the man who plays “Traumerei” on Shakuhati ? 865_23818.html(46):  高声器が廊下に向って呶鳴りはじめた。“隣りのアリシロ区では一人たりないぞ”という戒告だった。 870_23837.html(79):  そのとき博士は、屏風岩の上に一冊の雑誌が落ちているのに気がついた。なにげなくとりあげてみると、たいへん物珍らしい外国雑誌であった。表面には中国婦女子の顔が大きく油絵風に描いてあって、たぶんそれは誌名なのであろうが、“SIN・SEI・NEN”と美国文字がつらねてあった。 870_23837.html(82):  その「軍用鼠」なる小説は、結局全体として居睡り半分に書いたような支離滅裂なものであったけれど、なにか指摘してある科学的ヒントにおいては傾聴すべきものが多々あったのである。なかんずく著者のコンクルージョンであった。“――軍用鳩あり、軍用犬あり。豈(あに)、それ軍用鼠なくして可ならんや!” 870_23837.html(87): 「ああ偉大なる東洋鬼。されど吾れはさらに偉大なり。君が卓越したるアイデアに、吾れはさらに爆弾的ヌー・アイデアを加えん。“軍用鳩あり、軍用犬あり、軍用鼠あり。しかして豈(あに)それまた軍用鮫なくして、どうしてどうして可ならん哉”と」 874_23901.html(91):  と、そこで汽船の中は上を下への大そうどうとなり、無電を打ったりして、“大恐龍が熱帯海(ねったいかい)にあらわる。二十世紀の大ふしぎ”とて世界中に報道されて大さわぎになるだろう。 874_23901.html(92):  ぼくたちは恐龍の目玉の中にとりつけてある写真機で、汽船のさわぎをいく枚も撮っておく。そして当分知らない顔をしているのだ。そして、夏休みがすんだ頃、“恐龍艇の冒険”と題する例の写真を発表して、全世界をげらげらと笑わせてしまおうというのだ。これが正直なところ、サムとぼくが考えた大計画の全部だった。 875_42450.html(186): 「やっ、これは書いたね。“汽船ゼムリヤ号は突然発狂した。何月何日の深夜、この汽船は発狂の極、アイスランド島ヘルナー山頂に坐礁した。そして目下火災を起し、炎々たる焔に包まれ、記者はあらゆる努力をしたが、船体から十メートル以内に近づくことが出来ない。この前代未聞の怪事件は、本記者の如く、自らの目をもって見た者でなければ到底信じられないであろう。このゼムリヤ号発狂の謎を、解き得る者が果たしてこの世界に一人でもいるであろうかと、疑わしく思う。もちろん本記者も決してその一人でないと、敢えて断言する。それほどこの事件は常識を超越しているのだ。だが本記者は、同業水戸記者の協力を得て、これより最大の努力を払って本事件の実相を掘りあて、刻々報道したいと思う”なるほど、これは上出来だ」 875_42450.html(191): 「ねえ、ハリ。君は“ゼムリヤ号発狂事件”という名称が大いに気に入っているのだと思う。いや、全くのところ、僕も君の鋭い感覚と、そして大胆なるこの表現とに萬腔(まんこう)の敬意を表するものだ。しかし、欲をいうならば、この驚天動地の大怪奇事件を“ゼムリヤ号発狂事件”という名称で呼ぶには小さすぎると思うんだ」 875_42450.html(195): 「そのことだが、僕なら、こう命名するね。“地球発狂事件”とね」 875_42450.html(196): 「なに、“地球発狂事件”? 君は、地球が発狂したというのかい、この巨大なる地球が……」 875_42450.html(203):  ハリ・ドレゴの発した“巨船ゼムリヤ号発狂事件”の第一報は、果して全世界に予期以上の一大衝撃を与えた。 875_42450.html(204):  この報道を受け取った新聞通信社の約半数は、この報道内容の常識逸脱ぶりを指摘して、報道者ドレゴの精神状態が正しいかどうかにつき疑問を持ち、報道をさしひかえた。これはこの事件が桁(けた)はずれの怪奇内容を持っているところから考えて、当然のことであったろうが、その代わりそういう新聞社は、遅くとも三十六時間後には非常な後悔に襲われると共に、睡りから覚めたように“巨船ゼムリヤ号発狂事件”について広い紙面を割(さ)かざるを得なかった。 875_42450.html(208):  このような大掛りな調査競争となったために、ハリ・ドレゴや水戸宗一の役割は、すこぶる貧弱なものに墜(お)ちてしまった。彼ら両人には、完全な耐熱耐圧服の一着すら手に入れることは出来なかった。従って両人は甚だ残念ながら報道の第一線から退(しりぞ)く外なかった。そして、“有名なる第一報者のハリ・ドレゴ”という博物館的栄誉だけが残されているだけであった。 875_42450.html(310):  この事件が発見された当時は各紙とも、この問題の解決に殆ど無能力に見えた。なにしろ一万数千トンもある巨船が、海抜五千米のヘルナー山頂へ引掛(ひっかか)っていることをどう説明したらいいか、途方にくれたのは当(あた)り前(まえ)であった。その点において、事件発見者のハリ・ドレゴが、“巨船ゼムリヤ号の発狂事件”と題名をつけたことは、寧(むし)ろ彼の頭脳のよさを証明していたものといっていいのだ。そうだ、ゼムリヤ号は発狂でもしなければ、そのような狂態を示し得ないであろう。 875_42450.html(311):  しかし、ドレゴの選んだこの事件の題名も、そばに居合(いあ)わせた水戸宗一の意見によって改訂され“地球発狂事件”として報道されたのであるが、この一層奇抜な題名は、今も尚(なお)この事件の題名として全世界に公認され、使用され、そして愛用されているのだといって誰もが本気になって“地球が発狂した”とは考えているわけでない。それはジャーナリスティックな奇抜な事件題名としてその感覚を買われているだけのことであって事件内容に触れ、そして事件の謎を解釈するものとしているわけでない。 875_42450.html(313):  この困難な解決案の収集において現われたものを分類すると、凡(およ)そ顕著な傾向を示すものが四種類あった。その一は“この事件は殊更(ことさら)人騒がせをして大儲を企んだインチキ事件である”としてかかる陰謀者がヘルナー[#「ヘルナー」は底本では「ヘレナー」]山頂へ材料を搬(はこ)び汽船を組立てておいて自ら騒ぎたてたものだとした。しかしこれは現場を検分したことのあるものなら明らかに不適当な解答だと認定することが出来る。その二は“この報道は一種の四月馬鹿的報道であって、ヘルナー山頂にはそういう事件の事実はないのだ”という説である。しかしこれは全然無意味だ、何故ならヘルナー山頂には確かにそうした事実が厳然として存在しているのだから。その三は、奇跡説ないしは怪談説である。つまり、“超自然現象”とするものである。これは余論もあろうがともかくも一説をなしている。しかし然らば如何にしてこの奇跡ないしは怪談が生じたかという説明がつかないかぎり、事件の解答として満足すべきものとはならない。ドレゴの感覚から摘出した“ゼムリヤ号発狂事件”や、水戸の唱えている“地球発狂事件”は共にこの範疇に入るものといってよろしかろう。最後の第四説として“原子爆弾説”がある。 875_42450.html(325):  “ゼムリヤ号は赤洋漁業会社の要求によりマルト大学造船科が設計した世界一の新鋭漁船である” 875_42450.html(331): 「いや、僕は始めからあの国を疑ぐりはしなかった。しかしあの国は何故“ゼムリヤ号は当時賑(にぎや)かな大西洋を航行中だったんだから、そのような嫌疑は無用である”という謂い方で釈明しなかったんだろうか。この事実を投げ出せば、釈明は一言でもって明瞭に片附くではないか、それをしないであのような謂(い)い方(かた)の釈明を採用したのは一体どういう訳だろうかね」 875_42450.html(340): 「すると結局かねて君の自慢の命名、“地球発狂事件”に収斂(しゅうれん)するわけじゃないか。抑々(そもそも)どこを捉えて本事件を“地球発狂”というか、ということになる」 875_42450.html(668):  実はドレゴが急にこんな翻意をするようになったわけは、その前夜、アイスランドから一通の無線電信を受領したことに拠(よ)る。それは差出人が匿名で、ただ“汝の崇拝者より”とあるだけであったが、電文は左のとおりであった。 875_42450.html(669): “愛スルドレゴヨ、コレガ第二ノ警告! ゼ号ノ秘密ハ当地ニ於テ今ヤ解カレル一歩前ニアリ折角ノ名誉ト富ヲ捨テル気カ、スグ帰レ、花ヲ持ツテ待ツ、汝ノ崇拝者ヨリ” 875_42450.html(687): 「ははは。そこで君の持説“地球発狂事件”かね」 875_42450.html(748): 「唯一無二の親友であっても、そこまでは気がつきやしないそうだよ、ね。第一その手紙には、“あなたの崇拝者より”としてあるから、僕はてっきり僕の崇拝者が僕を呼んでいるんだと思った。このことは、はっきり分かるだろう、え」 875_42450.html(750): 「だっても何もないよ。僕の崇拝者でもないくせに、なぜ僕宛に“あなたの崇拝者より”なんて書いて寄越すんだい」 875_42450.html(1002):  その第一報は、次のようなものだった。“アメリカが誇りとするワーナー博士とその調査団一行十名が、近来頻発する大西洋海底地震の調査のために昨日来大西洋の海底に下りて観測中であったが、博士一行は図らずも同海底に国籍不明の怪人集団と、それが拠れる海底構築物を発見した。この輝かしき発見の後、博士一行は悉く遭難し、全滅の悲運に陥った。それがため以後の調査は杜絶したが、アメリカ当局は更に新に調査団を編成し、大西洋海底の秘密の探求に本腰を入れることとなった。因(ちなみ)に、その怪人集団は吾人の想像に絶する巨大なる力を有するものの如く、而(しか)もその性情は頗る危険なるものの如くである。彼等が如何なる国籍の者なるかについては、なお今後の調査に待たなければならないが、その真相の判明したる暁には、全世界に有史以来の一大恐慌が起るおそれがあり、その成行は注目される” 875_42450.html(1021): 「まあ、待てよ。それにだ、もし博士一行が海底で全部死んだものなら、海底に怪人集団を発見したことを報告できやしないよ。われわれの場合は、ちゃんとそれを報告しているんだ。しかも吾人の想像に絶する巨大なる力を有するものだとか“性情頗(すこぶ)る険呑(けんのん)なるもの”などと相当深い観察までが伝えられている。おまけに今後の調査団の強化までが決定されているじゃないか。そして、“全世界に有史以来の大恐慌が起るであろう”などと相当責任のある予想をつけ加えている。これらのことを考え合わすと、ワーナー博士の一行が全部海底で死滅したんでは、こんなしっかりしたことは報道できやしないよ。そうじゃないかね」 875_42450.html(1035): “――既報の大西洋海底に蟠居する怪人集団は、従来地球上にその存在を確認されたことのない高等生物の集団だと認むべき理由が発見された。但し彼等が、地球外の宇宙より侵入せるものか、或いは以前より海底又は地中に生存していたものが今回われらの目に触れたものであるか、それはまだ判別できない。いずれにせよ、彼等の出現により、われら世界人類は突如として測り知ることの出来ない脅威に曝されることとなった。目下のところ彼等怪人集団の勢力は大したものではないが、われら世界各国民は一致協力して、直ちに大警戒を始めねばならない。世界各国はこれまでの対立を即刻解き、その総力を結束して、われら地球人類の防衛に万全を図らねばならない” 875_42450.html(1104): 「ほら、これだがね。これを読むと、また面白いことになって来たよ」とドレゴは封筒から出した用箋をひろげながら「こういうことが書いてある。読んでみるよ。――“ゼムリヤ号事件は、まことに不幸な出来事ではあったが、一面から考えると、それはわれらのために全然マイナスではなかった。何故ならばゼムリヤ号がああいう事件に遭わなかったとしたら、わがヤクーツク造船所の技術が如何に優秀なものであるかを、世界の人々はまだ了解する機会を持たなかったであろう。ゼムリヤ号は、とにかく或る巨大な衝撃に耐えたばかりか、その巨力に跳ね飛ばされて実に七十哩(マイル)を越える長距離を飛翔し、ヘルナー山に激突したのであるが、既に知られるとおり船形も殆んど崩れず、世界人の想像に絶する耐力を示した。しかしこの事件は、まだ真の答が出ていない。というわけは、わがゼムリヤ号に作用した巨大なる外力が毎平方糎(センチ)に幾巨万瓦(グラム)の圧力であったかについて詳細を知ることが出来ないために、われらの知らんと欲する答はまだ出ていないのだ。余はその巨大なる外力の数値を何とかして得たいと思って努力したが、それは不成功に終った。その不成功の原因の一つは、わが国に対する妥当でない猜疑心(さいぎしん)によるものである。しかし余の現在における希望は、もはやそういう問題をどうのこうのと論ずるにあらずして、われらはわれらの仕事に更に熱中することにある。具体的にいえば、更に強力なる耐圧船を建造することにある。われらの技術は、まだ世界人の知識にないほど進んでいるのだ。今日われらの売出そうとする砕氷船の如きは、もはやわれらがその技術を秘密の埒内(らちない)に停めて置かなければならないようなそんな特殊なものではなくなったのだ。われらは今後も続々とわれらの技術作品を公開する考えである。ただ一言したいのは、われらがわれらの考えで研究し設計し試作し実験するものに対して、世界人が常に理解ある態度を持つべきであるということだ。われらには、われらにとって特に興味のある問題、そして特に切実なる要求に基づく問題があるのだ。研究は自由に行わるべきであると思う。以上述べた余の信念により、貴君は余に協力されんことを切に希望する。わがヤクーツク造船所の販売代理権を極めて好条件で貴君の手に委ねることにつき、余は用意がある。しかして余はその交換条件として、次のことを貴殿に依嘱したい。それは外でもない。わがゼムリヤ号に働きかけたる巨大なる外力に関する出来るだけ詳細にして具体的なる報告を提供されたいということだ。これは余およびヤクーツク造船所が、さきに記したる答を算出したいためのものであり、それ以外に他意がない。貴君が、余のこの提案に承諾されることを切に希望する。余は貴君に十分信用せらるるの自信をもってこのあけすけな手紙を書いた。この提案が容れられないときは、余は貴君が余の如くあけすけになり得ない人物だと断定するであろう。終に、溌剌(はつらつ)たるエミリーによろしく伝言を頼む”――こういうんだがね、ロシア人らしい長い手紙だ」 875_42450.html(1175): 「見えたね、銀翼がきらりと光った。飛鳥の群が空へ飛上ったかと思われるような光景だった。四、五十機は見えたがね、それが大体五百メートルぐらいにつっこんで来て、何かをぽいと放り出すんだ。と、落下傘が開いて、そのものがふわふわと暖かい海面へ落ちて行く。何だろう、あれは……。食糧投下かな、それとも機雷投下か。わしたちは船橋に固まって、今にも爆発音が起るかと耳と目とに全神経を集中していたが、一向爆発の起る様子もない。ふしぎだわいと首をひねっていると、大きな声がして無電局長がとびこんで来た。“船長、空中からの命令の無電です。すぐ探照灯を消せといって来ました。これが命令です”。わしは受信紙をとって読んだ。絶対の命令だ。違反すれば、軍行動の妨害者と見なすと注意がしてあった。わしは愕いて、すぐさま探照灯を消させた。わしが見たのはそれだけだ。その後も頭上ではいつまでも飛行機の音がひっきりなしにぶんぶんいっていたがね」 875_42450.html(1323): “――この際最も必要とするところは、如何なる方法により、かの怪人たちとわれわれとが意志の疎通を図ることが出来るかという問題にある。この問題が解決しないかぎり、われわれが如何に平和的解決を望んでいたところで、その目的は達せられないのだ。有能なる世界の人士たちよ。至急知力を働かして、この問題について適切なるアイデアを本連盟へ提供せられんことを。われら地球人類の安危は、一にこの問題の解決如何に懸っているのである。云々” 875_42450.html(1377):  ウラル号の使節団は、それに拘(かかわ)らず失望することなく、“尋ねたいことがある”旨の信号を発射し続けつつ、ひたむきに前進していった。 875_42450.html(1501):  こうして、ゼムリヤ号の山頂座礁事件から始まった一連の恐怖事件は、一応解決し、終結をとげたのであった。そしてこの事件の名称は、ゼムリヤ事件の名誉ある第一報発信者のドレゴが採用したとおり“地球発狂事件”と呼ばれることに本式の決定をみた。この物語はこれですべて述べ終ったのであるが、なお、この上に書きつけて置くのがいいかと思われることは、エミリーが遂に水戸夫人となったことであるが、これはそう簡単なことでなく、殊に当時水戸が仲々うんといわなかったのを、ドレゴがさんざん説きつけてやっと結実に至ったのだった。それは水戸がエミリーを嫌っているわけではなく、水戸は結婚という問題をこの十年あまり全く考えたことがないためであったという。 879_23881.html(182): 「シー・エッチ・プルボンドンケン博士曰く、“透明猫は一万年間に一ぴきあらわれるものであるんである”と」 882_20930.html(128):  私たちの読んだ書物――長年のあいだ、この病人の精神生活の大部分をなしていた書物――は、想像もされようが、この幻想の性質とぴったり合ったものであった。二人は一緒にグレッセの『ヴェルヴェルとシャルトルーズ』、マキアヴェエリの『ベルフェゴール』、スウェデンボルグの『天国と地獄』、ホルベルヒの『ニコラス・クリムの地下の旅』、ロバート・フラッドや、ジャン・ダンダジネエや、ド・ラ・シャンブルの『手相学』、ティークの『青き彼方(かなた)への旅』、カンパネエラの『太陽の都』というような著作を読みふけった。愛読の一巻はドミニック派の僧エイメリック・ド・ジロンヌの“Directorium Inquisitorum”の小さな八折判(オクテーヴォ)であった。またポンポニウス・メラのなかのサターやイージパンについての三、四節は、アッシャーがよく何時間も夢み心地で耽読(たんどく)していたものであった。しかし彼のいちばんの喜びは、四折判(クオートー)ゴシック字体の非常な珍本――ある忘れられた教会の祈祷書(きとうしょ)――“Vigilioe Mortuorum secundum Chorum Ecclesioe Maguntinoe”を熟読することであった。 888_28091.html(35): ミス、プロクトルの“The Sailor Boy”という詩を読みまして、一方ならず感じました。どうかその心持をと思って物語ぶりに書綴(かきつづ)って見ましたが、元より小説などいうべきものではありません。 891_20724.html(26): 我(わ)が所謂(いはゆる)文学者(ぶんがくしや)とはフィヒテが“Ueber(ユーバル) das(ダス) Wesen(ウエーゼン) des(デス) Gelehrten(ゲレールテン)”に述(の)べたてし、七むづかしきものにあらず。内新好(ないしんかう)が『一目(ひとめ)土堤(づゝみ)』に穿(ゑぐ)りし通(つう)仕込(じこみ)の御(おん)作者(さくしや)様方(さまがた)一連(いちれん)を云ふなれば、其職分(しよくぶん)の更(さら)に重(おも)くして且(か)つ尊(たふと)きは豈(あ)に夫(か)の扇子(せんす)で前額(ひたひ)を鍛(きた)へる野(の)幇間(だいこ)の比(ひ)ならんや。 _1255_6571.html(1671):  “黒猫”に「予報省」二十七枚 _1255_6571.html(1672):  “自警”に「地獄の使者」第二回分二十五枚 _1255_6571.html(1673):  “少年”に「科学探偵と強盗団」の第一回二十二枚 _1255_6571.html(1674):  “少年クラブ”に「珍星探険記」の第一回二十三枚 _1255_6571.html(1675):  “サン、フォトス映画部”のための立案「掌篇探偵映画」 _1255_6571.html(1676):  “函館新聞社”の“サンライズ”の随筆「炬燵船長」六枚 _1255_6571.html(1677):  “エホン”の「そら とぶ こうきち」の七枚 _1872_3492.html(38): “That it was easier to commit than to justify a parricide” was the glorious reply of Papinian, who did not hesitate between the loss of life and that of honour. Such intrepid virtue, which had escaped pure and unsullied from the intrigues of courts, the habits of business, and the arts of his profession, reflects more lustre on the memory of Papinian, than all his great employment, his numerous writings, and the superior reputation as a lawyer, which he has preserved through every age of the Roman jurisprudence.(Gibbon's the Decline and Fall of the Roman Empire.) _1872_3492.html(54):  国王の璽じは重要なる君意を公証するものであるから、これを尚蔵する者の責任の大なることは言を待たぬところである。故に御璽ぎょじを保管する内大臣に相当する官職は、いずれの国においても至高の要職となっており、英国においては掌璽しょうじ大臣に“Keeper of the King's Conscience”「国王の良心の守護者」の称がある位であるから、いやしくも君主が違憲の詔書、勅書などを発せんとする場合には、これを諫止かんしすべき職責を有するものである。フランスにおいて、掌璽大臣に関する次の如き二つの美談がある。 _1872_3492.html(352):  訴訟は時として随分長曳くもので、シェークスペーヤの“Law's delay”という言葉が名高くなっている位であるが、我輩の知っている限りでは、古来最長の訴訟は、有名なる英国のバークレー(Berkley)事件であろう。同事件は一四一六年に始り一六〇九年に終り、前後百九十年余も継続したのである。 _1872_3492.html(407): “Happy is the king who has a magistrate possessed of courage to execute the laws; and still more happy in having a son who will submit to the punishment inflicted for offending them.” _1872_3492.html(411): “O merciful God, howe moche am I, above all other men, bounde to your infinite goodness, specially for that ye have gyven me a juge, who feareth not to minister justyce, and also a sonne, who can suffre semblably, and obey justyce!” _1872_3492.html(431):  三五 “He shakes his head, but there is nothing in it!” _1872_3492.html(438): “He shakes his head, but there is nothing in it!” _1872_3492.html(444): “Believe me, gentlemen, if you remain here many days, you will yourselves perceive that when his Lordship shakes his head, there's, nothing in it.” _1872_3492.html(798):  明治の初年にはウェーランドの「ポリチカル・エコノミー」(Wayland's Political Economy)が一般に行われ、その冒頭に、“Political Economy is the Science of Wealth.”という定義が掲げてあるので、一時「富学」という語を用いた人もあったが、これではいささか金儲けの学問と聞える弊へいがあるとて、広くは行われず、異論はありながらも、やはり「経済学」と言うておったのである。 _1872_3492.html(904):  しかるに、これらの説を発表してから二十年も過ぎて後ち、明治三十七年に、アメリカのセント・ルイ世界博覧会の万国学芸大会から比較法学の講演者として招待せられた時、同会の比較法学部において、我輩は比較法学の新研究法として法系別比較法を採用すべきことを提議した。従来泰西の比較法学者の間には、国を比較の単位とするもの、即ち国別比較法と、人種を比較の単位とするもの、即ち人種別比較法との、二種の研究方法が行われておったのであるが、人類の交通が進むに従い、一国の法が他国に継受され、これに因って甲国の法と乙国の法との間に親族の如き関係(Kinship)が生ずるから、我輩はこれらの関係を示すために「母法(“Parental law”or“Mother law”)「子法(“Filial law”)なる新語を用い、またその系統を示すために「法系」(“Legal genealogy”)なる語を用い、法系に依りて諸国の法を「法族」(“Families of law”)に分つことを得べく、そしてその研究方法は「法系別研究法」(“Genealogical method”)と称すべしと提議したのである。その事はローヂャース博士の「万国学芸会議報告」第二巻(Howard J. Rogers, Congress of Arts and Science. vol. II[#「II」はローマ数字の2], pp. 376-378, 1906, Boston and New York, Houghton, Mifflin & Co. The University Press, Cambridge.)および拙著英文「日本新民法論」(The New Japanese Civil Code, pp. 29-35. 2nd ed.)中にも載せてある。後に聞くところに拠れば、ドイツには我輩より先に「母法」「子法」に相当する語を用いた者があるとの事であるが、通用の学語としては行われておらなかった。 _1872_3492.html(962):  既に出版と決した上は、次にその遺稿を整理編纂する任に当る者は何人なんぴとであるかの問題を決せねばならぬ。オースチンは前にも述べた通り、非常に緻密な思想家であって、物ごとに念の入り過ぎる方であったから、その草稿の如きも周密を極めたものであることは勿論、幾たびかこれを書き直してなお意に満たざりしものの如きものもあった。また毎葉に夥おびただしき追加、抹消、挿入あるのみならず、或は連続を示す符号があり、或は縦横に転置の線が引いてあるなど、これを読むには殆んど迷園を辿るが如きもの極めて多く、またオースチンの癖として、自己の新理論を読者の脳中に深く刻み込もうと思う熱心の余りに、重複をも厭いとわず、同一事を幾度も繰り返し、或はイタリック字形を用うること多きに過ぐるなどの弊もあって、これを整理編纂するには、非常な学識と手腕とを有するは勿論、平素オースチンの思想、性癖を熟知しておった者でなくては、到底出来難い事業であった。さりとてオースチン夫人は、自身でこの事に当ることは好まなかったのである。如何に重複が多ければとて、如何にイタリックの多きがために体裁を損ずるが如く思わるればとて、夫が或る主義のためにかく為なしたるものを、その妻としてこれを改めることは到底忍び難きことである。他日何人かこの書を出版することある場合に、この目障めざわりを除くことあっても、それは彼らの勝手である。彼らは自分が守らなければならぬような敬順の義務には束縛せられてはおらぬ“Future editors may, if they will, remove this eye-sore. They will not be bound by the deference which must govern me.”と言うておる。 _1872_3492.html(965): “One of them, who spoke with the authority of a life-long friendship, said, after looking over a mass of detached and half-legible papers, ‘It will be a great and difficult labour; but if you do not do it, it will never be done.’ This decided me.” _1872_3492.html(970): “I have gathered some courage from the thought that forty years of the most intimate communion could not have left me entirely without the means of following trains of thought which constantly occupied the mind whence my own drew light and truth, as from a living fountain; of guessing at half-expressed meanings, or of deciphering words illegible to others. During all these years he had condescended to accept such small assistance as I could render; and even to read and talk to me on the subjects which engrossed his mind, and which were, for the reason, profoundly interesting to me.”[#「for the reason」はイタリック体] _1872_3492.html(1036): “It was not Bentham, by his own writings, it was Bentham through the minds. and pens which those writings fed, through the men in more direct contact with the world, into whom his spirit passed.”――Mill, Dissertations and Discussions. _1872_3492.html(1039):  ベンサム死して既に半世紀、余威殷々いんいん、今に至って漸ようやく熾さかんである。偉人は死すとも死せず。我輩はベンサムにおいて法律界の大偉人を見る。ミルの讃評に曰く、ベンサムは「混沌たる法学を承けて整然たる法学を遺せり」と。“He found the philosophy of law a chaos, and left it a science.” _1872_3492.html(1186):  原人中には、往々刑罰として罪人の財産を強奪することを許すことがある。例えばフィージー島の土人、ニュー・ジーランド人中には、タブー(禁諱)を犯す者あるときは、その刑罰として、隣人がその犯人の財産をば何なりとも奪い去ることを許している。この刑罰を“Muru”という。故にタブーに触れる者があるときは、近隣の者共は寄集って刑の宣告を待ち、いよいよ裁判の言渡があって、有罪を決すると、我れ勝ちにその罪人の家に駆けつけて、手当り次第に家財や家畜などを奪い去るのである。 _1872_3492.html(1568): 閣下、余は今いま自己の訴訟を自ら弁護せんとするに当り、あるいは彼の“He who acts as his own counsel has a fool for his client.”なる諺の適例を示さんことを恐れるのであります…… _1872_3492.html(1579):  本書の第三版を印行するに当って、我輩は本書第一版以下を閲読して懇切なる批評と指教とを与えられたる友人各位、就中なかんずく男爵菊池大麓博士、織田萬博士および船山曄智君の好意に対して深厚なる謝意を表せねばならぬ。本版において、第一版に存したる幾多の誤記誤植を訂正することを得たのは、主として上記三君の賜である。我輩はまた「国家学会雑誌」において本書中に記せる母法、子法なる熟語について詳細なる指教を賜った中田薫博士に対しても、特に深厚なる謝意を表せねばならぬ。「母法」「子法」なる学語は、我輩これを新案したと思い、セント・ルイにおける万国学芸大会の比較法学部においても“Parental Law”or“Mother Law”および“Filial Law”なる英語に訳して講演中に用いたが、中田博士の指示に依って、始めて我輩より以前、既にドイツにおいてこの種の熟語を用いた学者があったことを知り、これ畢竟我輩の浅見寡聞のいたすところと、深く慚愧ざんきに堪えぬ次第である。依って本版においては、この語の新案らしく聞える文字を改め、この誤謬を正すことを得たのは、全く同博士の高教に負うのである。勿論ドイツ語の、“Mutterrecht”“Tochterrecht”は母法、子法に符合する熟語であるが、普通に学語としては行われておらなかったし、殊に Mutterrecht なる語は、一八六一年にバハオーフェン(J. J. Bachofen)が有名なる母権制論を発表した名著 Das Mutterrecht 出でて以来、母権制に対する学語として社会学者、法律学者中に一般に用いられているので、我輩がその他の意義に用いた人のあったのを知らなんだのは甚だ恥かしい事である。 _1872_3492.html(1581):  このような例は学問史上には少なからぬ事で、新発見、新学説などが同時または相先後して異所に現われ、しかも両者の間に何ら因果の関係がないことは最も多い。太陽系の起原に関する星雲説は独のカント、仏のラプラース(Laplace)、英のヘルシェル(Herschel)相前後してこれを唱え、始めは三国各々自国の発明の如く誇っておったが、後にはいずれも独立の創見であるという事が分った。また第四十二節に記した如く、海王星の発見においても、仏のルヴェリエーが天王星の軌道の歪みを観て、数万里外の天の一方において引力を天王星の軌道に及ぼす一大惑星の存在することを予断してその位置を測定したが、英国においては、殆どこれと同時にアダムス(Adams)が同一の意見を発表した。またこの推測に基づいてドイツではガルレ博士(Dr. Galle)、イギリスではチャリス教授(Prof. Challis)が、相前後してその惑星(海王星)を発見したために、この理論的測定については英仏の間に、またその事実的発見については英独の間に、各々その先発見の功を争うことになったが、しかし後に至っていずれも独立の事業であったということが明らかになったのである。なおこの他、数学上にても微分法に関するニュートン、ライブニッツの発明、進化論の基礎となった自然淘汰の原理に関するダルウィン、ウォレースの発見などを始めとし、発見、発明、新説などにして、相前後して現われ、しかも前者後者没交渉なる事例は枚挙するに遑いとまないのである。故に学者は自家独立の研究に因る学説発見などでも、直ちにこれをもって第一創見なりと考えるのは甚だ危険な事である。純然たる独立創見は滅多にないものである。海王星の発見もそれ以前に数学、力学、星学および望遠鏡の製作などが、最早もはや海王星を見付けねばならぬ程度にまで進んでおったから、二星学者をして各々独立して同時に同一の推測をなし、同一の発見をなさしめて、二十八億哩マイル以外における空間の物塊を二国の人民が奪い合ったような事も出来たのである。故に学者たるものは、常にこの点に留意して自己の所説をもって容易に創見なりと断ずることを慎まねばならぬ。またこれと同時に、他人の学説に対しても、論理学の誤謬論法の範例として挙げらるる「前事は後事の因にして、後事は前事の果なり」(“Post hoc, propter hoc”)との断定を容易に下すことを避けねばならぬ。書を著わし、文を草して、しばしばこの種の誤謬に陥ることあるに鑑み、ここにこれを書して自ら戒めるのである。 _2020_5902.html(44):  時間が来ると、私共は“All right, sir !”と頭で合図をしながら、ゆさりと鞄を持ち上げたポーターの、盤石のような背後に従って、黙って改札口を通り抜けた。 _2020_5902.html(82):  暫く、店舗やデパートメント・ストアの賑やかな街道りを歩き、私共はその頃評判であった“Broken Blossoms”を看た。それから、夕靄の罩こめ、燈火の煌きらめくブロードウエーを、ずっと下町に行って、食事をした。家に帰ったのは、およそ八時頃であったろうか。 _2020_5902.html(202):  北部カロライナと、南方カロライナのちょうど境界線の上にあるブラックスブルグで、始めて、停車場に“Coloured”“White”と、別にした札を下げてあるのを見た。 _2020_5902.html(339): “Isn't that splendid !” _2020_5902.html(341): “I wish your happiness.” _2020_5902.html(355):  彼方のコムパアトメントには“Vogue”の中から抜け出して来たような若夫婦がいる。また、静かな軍人の家族も見える。 _2020_5902.html(363):  そこで彼はあらゆる瞬間に生命を賭けて来た。今は死なない。然しこういう刹那に死んでいるかもしれない。無数の人間が殺されて行く。人類に本能的な、平安、幸福、希望の輝を皆圧し伏せて、恐ろしい、惨忍な光景に眼を据え、手足も抗し得ず“No man's Land”に流しこまれる心持は、堪らないものだろう。 _2020_5902.html(368):  今度の欧州戦乱で、英国フランス白耳義ベルギーその他から“War bride”として紐育の埠頭に著いた婦人の靴だけでも、夥しいものであった。 _2029_5855.html(148):  眼をほそくし、何ともいえない単純な、平和な、眠たい幼子の歌うような声で、“In Happy Moments Day by Day”という、彼の愛唱歌の節ばかりを口吟くちずさみ始める。 _2034.html(22):  二階の夫婦が、貸間ありという札を出した。これは決して珍らしいことではない。この湖畔の小村では、夏になると附近の都会から多勢の避暑客が家族連れで来るので、大抵の家は二間三間宛よぶんな部屋を拵えて、夏場に金を儲ける工夫をしている。六月も中頃になって、ニューヨークの激しい炎熱が、黒いアスファルトを油臭く気味悪く溶かし始めると、この村の古い街路樹に包まれた家には一斉に“Furnished rooms”という札を往来にまで張り出す。そして、秋風立って旅客をまたもとの都会に送り帰すまで数箇月の間を、家族は小さくどこかの隅に逼塞ひっそくして、外来の者のために部屋部屋を提供するのである。それ故あまり豊かでない夫婦が空間あきまを貸す計画を立てたということは決して驚くべきことではない。むしろ当然なことともいうべきなのである。けれども、それを見ると、一緒に私共は思わず、まあ、あのお婆さんに貸す部屋があるの? と云った。私共の知っているお婆さんの二階は狭くて、とうてい今いる以上の人数を収容することはできそうにもなかったからなのである。 _2034.html(125):  このごろ私は、先せんよりはずうっと現象その物をじっと見守って行くような傾向にいる。自分の持って生れた気質と、周囲の雑多な無数な箇性との折衝をも考えてみる。しかし、ガルスオーシーの小説の主人公のように“Curious thing――life! Curious world! Curious forces in it――making one do the opposite of what one wished!”と云って、差し上る月光の柔かい夜気のうちに溜息を吐くだけではすまされない。結局人間一人の力は、その不可見な力に及ぶものではない。人間にはあまり多過ぎる。人間にはあまり高すぎる、「私共はつまり出来るだけ親切になり扶たすけ合い、多くを予期しないと共にあまり多くのことをも考えずにやって行くのだ。thats' all!」そうだろうか、ほんとにそれが thats' all なのだろうか。 _2034.html(127):  やや暫く経ってから、私は足音を忍ばすようにして自分の部屋へ上って行った。二階を昇りきって、三階へ掛ろうとするところに新らしく左右へ渡された板には“Please do not come up unless you are responsible for any damage!”と書いてある。私は暫く立ってその文字を見つめた。 _2035_5837.html(27):  金色の日光がキラキラと金粉を撒くように降り注ぐ明るみの中で、嬉戯きぎする子供等と、陽気な高声で喋りながら、白く肥った腕を素早く動かして、張りわたした綱に濡れた布を吊る彼女の姿は、どんなに彼の心を悦ばせたことだろう。一足毎に大きなかごを傍へ傍へと引寄せながら、上下する体の運動につれて、愉快な小唄を口誦む彼女。跼しゃがむ機勢はずみに落ちかかる後れ毛を、さもうるさそうに手の甲で掻き上げながら、ちょっと頭をあげて大きく息をする彼女。そこには若い母親の豊饒な愛が、咽むせるほど芳しく漂っている。見馴れた光景でありながら、その家庭的な情景に逢うと、彼は湧き上る感謝を圧えることができなかった。よき家である。よき妻や子等である。わざと木影に隠れて、我れともなく恍惚とした父親を真先に見つけた子供達が、弾む小毬こまりのように頸や胸元に跳びつく頃は、微風に連れて雲のように膨れたり萎んだりする白布を背景にして、眩ゆそうに額際に腕を挙げたマーガレットが、血色のよい頬に渦巻くような笑を湛えながら、“Halloo dear”と野放しの声を投げる。 _2035_5837.html(86):  “No! sir” _2035_5837.html(88):  この瞬間、彼の心を満したものは、決して、愛する妻を独り死なせるに堪えないという単独な情でもなければ、偕ともに死ぬべきであるという倫理的な判断でもない。まして、この瞬間に、生と死とを選択して、英雄的最後を選ぼうとするような心はない。ただ、彼女の全霊が、真赤な火の玉のようになって燃え上った生の執着の偉大なる共鳴である。二つの箇体が、一つの生命になっていた。一つの生命の前にあらゆる空間が絶していた。二つの体躯を貫通して反響があったばかりである。彼の心には、死という文字の存在を許す、いかほど些細な間隙もなかった。あくまでも生である。何といったって生きてやるぞ! という真っ暗な絶叫である。死んでも生きて見せるぞ! という執念である。ひたすらの執念である。あの寸刻前の恍惚は? あの幸福な夢幻は? 運命は、運命は……。そんなことがあって堪るもんか。彼は、生命全部の緊張をただ一点に集中して“No! sir”と叫んだのである。何に? もちろん死である。体中でふるえながら、二人の周囲を駈けまわって、叫んだり、呟いたり、躓つまずいたりしていた猫背の男は、Wが“No! sir”と叫んで、マージーの上に重るように地上に横ったのを見るや否や、殺されるような悲鳴を挙げて、走り出した。なぜとも分らずこちらへ向って確実に猛進して来る列車の、一つ目の化物のような前面を目がけて馳け出したのである。が、二三間行くか行かぬに、彼の聾ろうした耳を劈つんざくようにシュワッ! と空気を截断して、機関車の丸い頭部が擦れ違った。と同時に、彼は轟々ごうごうたる車輪の響に混って何ともいえない人間の叫喚が、あたりの空気を刺しとおして空の彼方まで響きわたったような気がした。彼は急に双脚の力を失った。地面がズルッと足の下で滑った。彼は髭の疎に生えた口をパッと開くと、あらいざらいの生命を一時いちどきに吸いこむように息を窒つめて、傍の茂みの中に転り込んだ。 _662.html(1237): “月は高く _828_2741.html(544): 「“Know thyself”(汝なんぢ自身じしんを知しれ)とは、まことに千古この金言きんげんだ」