アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
シュッツさん wrote:
>あけまして
> おめでとう
>
>……と言いますが、何がめでたいのでしょう?
>何か不思議
あ、嬉しい。ここ数日、私も同じ事を考えて悩んでたのです。
年賀メールを書くのに、何が「めでたい」のか分からないまま「おめでとう」って書きたくなくて、挨拶の言葉に悩んでました。
Mariaさん wrote:
> 明けない夜、満ちることのない月、長くなることのない昼の不安から解放される日が、「元日」なんです。夜はまた明ける。月はまた満ちる。昼はまた長くなって、暑い夏が来る。そうした安心感が、「おめでとう」なんです。
お正月はおめでたいもの、理由なんて考えたことありませんでした。
一年生き抜けておめでとう、ぐらいかな?なんて思ってました。
またお正月を迎えれたことがおめでとうなのかなと。
だから、お誕生日とおんなじような気持ちで私はおめでとうと思っています。
I wrote:
1月1日になったから、さあ、おめでたいなんて、そんな人こそよっぽどおめでたいよね。
ああ、私ひどいこと書いてしまったわ。。。おめでとうございますって、きちんとご挨拶しているレスの方に悪かったかな?と後になってやっと気がついたのです。
おめでたいのは、どうやらわたしかも。あははは。
みどりさん wrote:
>鷲羽丸さん wrote:
>> 卒業後もわしは、当時のサークルの同期の連中のメーリングリストに入り、連絡を取り合っています。今まで、「連絡を取り合う」ことが「交友関係を維持する」ことだと気づかず、多くの人との関係を自ら断ち切っていました。
>
>そうなんですよねー。
>私もあるときそれに気づいたのですが、しかし、「連絡を取りあう」こと自体が難しかったりします。
>
>今回の逃亡先と同じ街に、古い友人が住んでいました。当時かなり親しかった友人ですが、やはりどうしても連絡をとることができませんでした。
>なんといって連絡を取っていいのかわからないんです。
>近くまできたからなんだというんでしょう? 会いに行ったとして、なにを話したらいいんでしょう? 二人きりで会ったらどうしていいのかわかりません。
>
>せっかく接点があった時代の友人とこうやってどんどん疎遠になってゆくんですね。
わたしも、昨年「いいかげん、家を出ねば…」と思って(ひとり暮らしをするための場所探しで)中央線沿線の某駅で降りた時。「あっ、ここ、彼女(友人)がいる所なんだ…。ここに住んでいるんだな」と思い出したまでは良かったのですが、その後「会ってどうするんだろう?」という思いにかられてしまいました。(それまでにも手紙のやりとりや、年に1度会う、ということをしてはいたのですが、互いに父親を亡くして以来(同じ年ではなかったのですが)、連絡を取り合えなくなってしまいました。こんなことが、連絡を取り合えないことにつながるなんて思ってもいなかっただけに、今思い返してもの悲しさも…。それだけに、決して人と接することが得意といえないわたしに、年賀状を送りつづけてくれたり、仕事絡みで悲鳴をあげるたび、心配してくれる友人たちを本当にありがたく思います。(そのくせ、未だに彼女たち[学生時代の友人・職場の同期の友人たちetc.]に、なんにも返すことができないでいるのだからなさけない、とも思うのですが…。)せめて、身近にいなくても、自分のことを気にかけてくれている人たちに、「ありがとう」の思いを伝えたい…そう思います。
シュッツさん wrote:
> あけまして
> おめでとう
>
> ……と言いますが、何がめでたいのでしょう?
> 何か不思議
こうもりさん wrote:
> 確かに、人間が便宜的に作り出した暦の中で、1年の1番はじめに来
> るとされる日の夜明けがめでたいというのはちょっと謎。
>
> ただ単に「想起した出来事にすぎない」とも言えそうですよね。
「一年の始まり」というのは、本来はどこにあってもいいはずのものです。
ですが、日本における年初というのは、「一日がいちばん短い日を乗りこえた次の新月」ということになっています。
明けない夜、満ちることのない月、長くなることのない昼の不安から解放される日が、「元日」なんです。夜はまた明ける。月はまた満ちる。昼はまた長くなって、暑い夏が来る。そうした安心感が、「おめでとう」なんです。
「冬期うつ症」というのがあって、日照時間が短くなると、人間は鬱になりやすいそうです。気分が「明るく」なったり「暗く」なったりするというのも、「明るい=活動的」「暗い=憂鬱」といった関連性があるからではないでしょうか。人間が夜行性だったら、「気分が暗くなる」が「うきうきと活動的になる」という意味になったかもしれません。
そんなわけで、「正月は、めでたい」のだとあたしは思っています。
(Maria)
シュッツさん wrote:
>あけまして
> おめでとう
>
>……と言いますが、何がめでたいのでしょう?
>何か不思議
確かに、人間が便宜的に作り出した暦の中で、1年の1番はじめに来
るとされる日の夜明けがめでたいというのはちょっと謎。
ただ単に「想起した出来事にすぎない」とも言えそうですよね。
シュッツさん wrote:
>あけまして
> おめでとう
>
>……と言いますが、何がめでたいのでしょう?
>何か不思議
年が明けたので自動的におめでたいなんて、なんかヘンだと子供の時から思っていたの。おめでたい気分には私はちっともならなかったから。1月1日になったから、さあ、おめでたいなんて、そんな人こそよっぽどおめでたいよね。
あけまして
おめでとう
……と言いますが、何がめでたいのでしょう?
何か不思議
「がんばれ」という言葉、これって、なぜか、命令する形。励ましの言葉なはずなのに。がんばるのは私なのに、なんで命令されてんの?
他人に命令されてがんばれる人、こなせる人、昔からそういう人ってすごいなあと思っていた。
いくら先生や上司から「がんばれ」と言われても、私が「そうしたい」と思わないことはできない。
と自分が言われると不快な言葉だから、なるべく「がんばれ」といわないことにしてる。でも、他にいい言葉って浮かばない。何かないかなあ???仕方なく使うと、あとで心が痛む。
でも、もうひとつ、「がんばれ」という言葉は、その事柄に対して責任があることを自覚させるために使う言葉なのだろうか?という考えも、最近うかんできた。
「この仕事を最後までやり抜きなさい」
「最終的な責任はあなたにあるのです」
もちろん実際の最終責任は上司にあり、私が失敗しても上司が責を負うのだけれども。信頼関係の構築を上司もしようとしているのかもしれないし。
鷲羽丸 wrote:
> 卒業後もわしは、当時のサークルの同期の連中のメーリングリストに入り、連絡を取り合っています。今まで、「連絡を取り合う」ことが「交友関係を維持する」ことだと気づかず、多くの人との関係を自ら断ち切っていました。
そうなんですよねー。
私もあるときそれに気づいたのですが、しかし、「連絡を取りあう」こと自体が難しかったりします。
年賀状は絶好のチャンスなんでしょうけど、とうとうそれも放棄してしまいました。
今回の逃亡先と同じ街に、古い友人が住んでいました。当時かなり親しかった友人ですが、やはりどうしても連絡をとることができませんでした。
なんといって連絡を取っていいのかわからないんです。
近くまできたからなんだというんでしょう? 会いに行ったとして、なにを話したらいいんでしょう? いまとなっては別に共通の話題があるわけではないのに。
もう少し仲間が集めて、3ー5人で集まるのなら、彼らの話を脇で聞いて、笑ったり、口をはさんだりできますが、二人きりで会ったらどうしていいのかわかりません。
せっかく接点があった時代の友人とこうやってどんどん疎遠になってゆくんですね。
杉山登志郎氏・辻井正次氏編著「高機能広汎性発達障害」(ブレーン出版)の中より引用。(カッコ内を除く)
=====================================
彼ら(注・ASなど、「高機能広汎性発達障害」の青年たちのこと)は自分の世界のなかでは永遠の幼さや純粋さを維持していけるかのようである。自分たちの幼児期から持ち続けてきた「こだわり」も趣味という社会的にも受け入れられるような形に「合わせ」て呈示することが可能になる。学校でも「クイズ研究会」や「鉄道研究会」「アニメ同好会」など、いわゆる「おたく」的な文化系サークルでは「強迫的」とカナーが記述している長年の熱心さで知識を蓄えているだけに、その知識の豊富さに関しては受け入れられる。「変わっているが優れたところもある奴」として受け入れられ、対人関係が問題とされて排除されなければ楽しい学生生活も可能である。
=====================================
わしの大学時代が、まさにそうでした。サークルに入ったことで、今まで経験したことのない「交友関係」を構築できました。
わしは「クイズ研究会」に入っていたのですが、ここでは不思議とわしの存在がすんなりと受け入れられました。入会後すぐに行われたサークル内新人戦で、かなりいいところまで行ったことで注目され、すぐにサークル内に名が知られました。
また、周囲が総じて「どこか変なところがあるヤツ」ばかりだったので、「ひときわヘンなヤツ」のわしの存在も、それほど際立ってなく、ある程度受け入れられた、と思われます。「ある程度」というのは、「知識」「クイズ」以外の分野での他人とのつながりが、うまく作れなかった、ということです。
卒業後もわしは、当時のサークルの同期の連中のメーリングリストに入り、連絡を取り合っています。今まで、「連絡を取り合う」ことが「交友関係を維持する」ことだと気づかず、多くの人との関係を自ら断ち切っていました。サークルに在籍し、そのことを「学習」して、数少ない「交友関係の維持」に努めています。
これがいわば「自閉圏と非自閉圏の接点」といったものかもしれません。
他にもこういったものが、なにかないでしょうか?
大学卒業から今年で6年 鷲羽丸
ふれ wrote:
「ガンバレ」って言われると、「オマエ、がんばってないし、がんばれって言ってやらなくちゃならないダメな奴なんだよ、勝手にやめたりするなヨ。とにかく死ぬまでやれ。」って言う風に聞こえなくないと思うの。こんなこと思うのは私がひねくれているからかしら?
ふれさん、私にも「がんばれ」という言葉は一言一句、ふれさんが言うとおりに聞こえます。私が「がんばれ」と言われたら一瞬のうちにそう心の中で翻訳します。私に死ねと言ってるんだなと考えてしまいます。その他、「まじめなんだね」は「あんたってつまんない人間なんだね。つきあいにくくてあんたのことなんて大嫌い」、「頭がいいんだね」は「つまんないことばっかり考えて理屈ばっかりこねてないで少しは仕事でもしたら?あんたの話なんて聞いていられない」と翻訳します。
私は長い間、自分がひねくれているのだと思っていました。でも違うようです。ppさんとひま人さんのカキコによればそれは私達が火星人のせいなのです。その証拠に私達が翻訳できない言葉も数多くあります。ふれさんも以前、「言葉の丸飲み」をしてしまうとおっしゃってましたよね。私もそうです。翻訳できない言葉が数多くあります。
たとえばこれは私がまだ若い新婚の頃の話です。私はアルバイトで病院に勤めていました。車をまだもっていなかったのでアパートからは自転車で通勤していました。職場の上司は明るく優しい人で自転車で通勤している私に「帰りは車で送ってあげようか」と親切に申し出てくれました。でも車で送ってもらうと次の日の出勤に困ります。それで私は感謝しつつも「自転車で通勤しているので結構です」とお断りしました。でも親切な上司はその後3回、車で送ることを申し出てくれたのです。私はその3回とも丁重にお断りしたのですがその後すぐに私は病院を首になってしまいました。
私は何が何だかわかりませんでした。でもよくよく考えてようやくわかったのです。上司の「車で送ってあげようか」という言葉は「ご主人に黙っていいことをしようよ」という浮気の誘いだったということが。私はまだ若く世間知らずでその言葉を正しく翻訳することができなかったのです。今ならわかります。かな?でも年齢制限でそんな言葉をかけてくれる人もいなくなりましたが。
地球人の言葉を正しく理解できないのは私たちがひねくれているせいではなく、日本語に問題があるせいでもありません。それは私たちが火星人のせいなのです。地球で苦労している私たち。せめて火星人は火星人同士、分かり合える言葉を使いたいものです。
新年あけましておめでとうございます。
昨年中はマザーこと直子がお世話になりました。今年もよろしくお願いいたします。年末から年始にかけて息子とは喧嘩ばかり(^_^メ)
なんとか生き長らえて、こうして皆様に挨拶できて嬉しゅうございます。今年も時々おじゃまさせてください。
超おそいレス(^_^;)
武田好史さん wrote:
>もし生まれ変わったら、あなたは、どこで・どのような生活をしたいですか??
今度生まれ変わっても女性がいいです。素直に感謝できる人になりたいです。朝、ジャブジャブと両手で顔を洗うことにも幸せを感じられる人になりたいです。
場所は日本がいいです。結婚はしたくないです。私は早く結婚をしたのでずっと、誰々の奥さん、○○君のお母さんで生きてきました。もっと自分を生きたい。静かな時間を過ごしたいです。
あらかじめ断っておくが、僕は断じてフェミニストではない。特定の
思想を参考にするのはかまわないが、依存するのは間違っていると考え
ているからだ。そんな訳で今回のコメントは全く僕が思いつくままに書
いただけだということを先に指摘しておこう。
正月、やっと時間ができた僕は『現代のエスプリ』NO.414の「
ADHDの臨床」という特集を読んでいた。その中に、成人女性のAD
HDについてまとめた論考があり、近年の受診者の増加を次のようにま
とめていた。
「そこでは『忘れっぽく』『片づけられない』女性のことが扱われてい
る。(サリ・ソルデン『片づけられない女たち』のこと)社会で要求さ
れる『女らしさ』や『女性の役割』が果たせないことで、適応状の苦痛
を味わっている成人の注意欠陥/多動性障害(Adult ADHD)
の女性たちのことである。これを読んだ多くの女性が注意欠陥/多動性
障害の診断と治療を求めて、我々精神科医を受診するようになった。」
治療とは全く関係ないことだが、僕は障害そのものとはちょっと違う
角度から、この点を考察してみたい。
(1)家族の補完機能
この文章を見る限り、主婦でADHDの診断や治療を求めてくる女性
のほとんどは、本人がADHDであるか否かに関係なく、家事がうまく
できないことに悩んでいる場合が多いのだろう。しかし、ここでは本人
が実際にADHDであるか否かは問題ではない。問題なのは受診者のA
DHDが治療されれば、問題は消滅すると短絡的に考えられていないか
という点にある。
僕は「家事がこなせない」という理由で主婦が受診する場合、次のよ
うなケースがあるのではないか、と考えている。
「そもそも、その受診者には家族の中に家事を手伝う者がなく、1人で
こなさなければならなくなっている。」
この場合、単に家事を担当している女性を治療したり、アドバイスし
たりするだけでは不十分だ。家族が家事に協力していないことも問題に
されるべきだろう。家事を全くやっていない人間よりも、家事をうまく
こなせない人間が非難されるのは筋違いだ。
もし、臨床家がこのような事例を見かけたら、受診した本人だけでは
なく、家族を巻き込んでアドバイスをしてほしいと。家族療法に似た考
え方だけど。
(2)性的役割の問題
女性らしさや女性の役割が果たせないという理由で悩んでいる主婦は
「家事は女性がしなければならない」という性的役割にがらんじめにな
っている可能性がある。でも、よく考えてほしい。「女性である」とい
う事実から「家事をこなさなければならない」とか「女性らしくなけれ
ばならない」という事実を導き出すのはかなり極端な自然主義的誤謬じ
ゃないだろうか?
家事ができないということは、性別を越えて非難されてもいい話だ。
許されるのは、障害があってどうしても家事を遂行できない場合だけだ
ろう。もちろん、家事をしようとする気はあるが、極端に苦手なこうも
りくんは十分に社会的な非難を受けてもいい。こうもりくんの障害なら
ば家事がこなせないことはないだろうから。
家事は性別によって分担を決めるのではなく、適材適所に分担してい
くという形が望ましいと思う。また、ある程度の年齢に達したら、男女
に関係なく、簡単なことから分担していくべきだろう。
ま、まずはこうもりくんから変えなきゃな。家事ができるようにビシ
バシ指導しなければ。では、失礼。
pennpenn58 さんwrote:
> 皆さんは心が傷ついたときどのようにして心を癒しますか?私は、ストーブの前に座り込んで長い時間を過ごします。ほんとうはたき火がいいのですが今のご時世、いくら田舎でも長い間たき火を焚くというわけにもいかないので私はストーブ。
> 時間は私の場合、心の痛みの特効薬にはならない。いつまでもいつまでも傷は残ります。やさしくされたら私は傷を負う義務を負うことになるのです。あまりにも不器用で世間知らずなので。でも今はお正月。あんまり母親がぼーっとしているとおばかに見えるので困ります。何か傷を癒すいい方法があったら皆さん、教えて下さい。
火を見る、水を浴びるなどで瞑想状態になり、深い意識に入ればそこから願いをかなえることができやすいです。しかし、否定的な心で閉じこもると、傷を固定してしまい、強化さえすることがあります。恨みや自己否定感情は受け取れるはずの救いから自分を遮断します。
言葉を使ってトラウマを開放するのは難しいものです。なぐさめや支援を受け取れない状態なら、否定的な感情や忘れたい体験は外に見せずに書いた紙を焼き捨てるなどしたほうがいいのです。
からだを動かすことで、こころもほぐすことができます。私の経験では、気功は薬よりずっといいです。難しいことができなくても、くつろいだ姿勢でただ手か足をぶらぶらさせるだけでもいいものです。これは健康にいいと、自他に言い聞かせてやってみてください。
僅かでも肯定できる希望にしがみついて大切にしてください。否定的なエゴの強化は不幸をこじらせるもとです。掟を守らなければいけない宗教ではこころを小さくします。無条件の救いを信じるのです。南無阿弥陀仏です。
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
といっても、思いっきり休んでいたのでほとんどはじめましてですね。
最近のこだわりは、1984年に新日本プロレスに来日したヘラクレス・ローン・ホーク選手が、どうもお仲間ではないかということです。
・千円札と一万円札の区別がつかなかった。
・一流大学の理工学部を卒業したというプロフィール。
・動きがトロくしょっぱいレスラーの代表だった。
・藤原選手に関節技を決められ大使館に駆け込んだ。
・集合時間が何度聞いても覚えられず深夜に何度も電話した。
当初は、ただの頭の悪いレスラーだと思っていたのですが、Dマードックのイタズラの餌食によくなっていた、とこをみるとひょっとしてという気になってきました。
せっかく、自分を生かせる仕事についたというのに、障害が理解されず消えていったとすれば、悔しいです。アスペルガー症候群は、社会で皆、ローンホークのような運命をたどるとしたら、悲しいです。
chihiroさん wrote:
>成人したAS、ADHDを認めない人達は今も多い。
>私には、2人のASの子がいる。
>成人しても、なんとか自活出来るようになっても、やっぱりASはASで
>あり続ける。
(中略)
>診断されなくても、そういう傾向がある事を認めてもらえるだけで救われる。
>世間知らずでも、努力が足りないのでも、疲れているのでもないのです。
最近、一般向けの軽度発達障害関係の特集を見ていて感じること。なんか、
軽度発達障害やADHDの診断を求めている未診断の成人が専門家の側からす
ごく警戒されているように思えます。
診断を取得して売名行為を行なう者や、特定の薬(リタリンなど)を処方し
てもらうためだけに診断をしようとしている人は確かにいるでしょう。でも、
ほとんどの未診断の成人はそんな事をしていないだけにやるせない気分です。
新年早々、皆さんに挨拶するのを忘れていました。
あけましておめでとうございます。
気が向いたときに、たまーにしか顔を出しませんが、
いつも欠かさず読ませてもらってますので、
今年も、来たときにはよろしくお願いします。
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© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami