アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
こんにちわ。Mariaさん、みなさん、satieです。
>satieさん wrote:
>> 駅伝は見ていないのですが、見ていたら私も、「無理するな。。」
>> って呟きたくなったと思います。。
Mariaさん wrote:
> あたしは「無責任な『がんばれ』」は容認しませんが、「がんばれ」は一部肯定派です。
> だって、駅伝に関していえば、大丈夫そうか大丈夫でなさそうかを専門知識と経験と理性によって判断して、万一のことを考えて強引にストップをかける役割を担った監督がちゃんといるんだもん
(中略)
さらに、下の人間をむりやりにでも保護する義務がある。「練習したい」という選手に、「休め」と命令したり、「完走したい」という選手を棄権させる権利と義務があるわけです。こういう信頼感がなければ、人に命令はできません。
選手が練習したい、最後まで戦いたいという切望もあり、動ける状態であれば、私もがんばれの一部は肯定します。。
Mariaさんが仰っているように、
監督と選手との意志の疎通があっていたら、きっと監督も止めるだろうから。
> もちろんプロは違うし、お金払って観てる観客は違いますよ? 結果を出すのがプロだし、お金を払った以上は結果を要求します。このあたりはアマチュアスポーツとプロスポーツの差です。競輪なんかその典型だし。
プロの世界は厳しい。。
> 「がんばれ」という言葉には、「一蓮托生」という裏づけがないといけない、とあたしは思います。「いよいよダメだったら一緒に死のう」という覚悟に裏付けられた「がんばれ」は、許されると思うのね。そのためには「退路を断つ」くらいのことをしてくれないと困ります。いよいよダメなときに周りを見回したら、みぃーんな逃げちゃって自分独りが取り残されている、みたいな経験をさんざんさせられたあたしとしては、そう思います。
> つまるところ、「ヘタレは人を応援する資格がない」ということだと思います。
「一蓮托生」
全員が行動や運命を共にする事。。
Mariaさんの言葉に共鳴しています。
Mariaさんにとって、私の言葉が何かお力づく事になれれば、幸いなのですが。
上手く文章が書けていないかも知れませんが、
レスポンス嬉しかったので、投稿する事に致しました。。
satie
◆発達チャットオフ会集合場所◆
○日程:2002年1月5日(土)
○集合時間:PM1:00
○集合場所:JR桜木町駅の改札口
#改札口は1つしかないので安心してください。
#寒いから早く着いちゃった人は改札を出てお茶でも飲んで時間潰して下さい
○目印:黒いコートを着て『ガイドブックアスペルガー症候群』の本を持っている
男性がいます。
みなさん、この人がうみねこさんです。目指してください。
※当日は寒いと思うので、暖かい格好でいきましょう!
※突然やってきて、ドタ参加もOKです。
参加希望者18人(うち未定4人)です。にぎやかオフですね。
オフ会でみなさんに会える事を楽しみにしております。(^^)。
http://www.netlaputa.ne.jp/~oyama/chat/《おむにさんの発達チャット》
miru_3@hotmail.com ←私のメールです。
参加希望・質問などはチャットかメールにどうぞ。
Mariaさん wrote:
>るうさん wrote:
>> あとは、「温かくすること」を大切にしています。
>> 身体の中からと外からと。
>> 温かいものを口に入れたり、おふろに入ったり(軽く?一時間半くらい)。
>
> あたしもるうさんの意見に賛成。
> あったかいものを食べて、あったかくして、ぐっすり眠って疲れを取るというのは、基本だと思います。
るうさんとMariaさんのカキコを読んで、猛反省しました。
そうでした。昨年の今頃は、失業中の夫と不登校の娘と、うつで神経症で心臓肥大のわたしの三人は冬ごもり状態の「穴倉家族」をしていたのでした。
一月九日にこども病院で「娘さんはASです」と診断を受けてから、久しぶりに自分の行く先について考えはじめたのでした。それまでは息をするのも面倒くさいという状態で「もういつ死んでもいいや。さっさと死にたい。あとがどうなろうと、わたしの知ったことか!」と思っていました。ひでぇ母親だったよなぁ……。
だけど、もしかしたらわたしにもできることが、まだあるかもしれないと考えるようになって……今思えば、それがうつから抜け出すための第一歩だったような気がします。
pennpenn58さん、エラそうなこと書いてごめんなさい。わたしが「釣りが好き!」と言えるようになるまでは、長い長い道のりがあったのです。今だって眠れないときには安定剤のお世話になっています。
わたしは強くも明るくも優しくもないんですよね。おどおどと生きている、気の小さい人間。それでも、いいんだって思いたいです。
> 傷ついているひとは、ついつい自分をいぢめてしまいます。自分をいたわるのは悪いことではありません。(←多分に自戒を込めて言っている)
> 「人にやさしく」も大切だけど、「自分にやさしく」も大切です。「がんばる」ためには、十分に「やすらぐ」ことが必要です。
交流分析でいうところの「他人はOK,自分はNO」という状態があまりにも長かったために、自分をいたわることにものすごい罪悪感を感じていたわたしです。そこから抜け出したかもしれないと思えるようになったのは、わずか数ヶ月前です。でも、ちょっと気を抜くとすぐ元に戻ってしまう……。
うつの最中は、大海原で嵐にもまれる木っ端舟のごとく、心が揺れ動きます。これでもかこれでもかと襲いかかってくる感情の波に、もうかんべんしてよって泣き出したことも数え切れないほどです。どうしてこんな目に合わなければならないのよ、もう楽にさせてよ、ほうっておいてよ、死なせてよ! 何度叫んだかわからない。
だけど、だけど、あえて言います。Mariaさんがおっしゃるように「自分にやさしく」していいんです。まわりが何と思おうと、自分をいたわることを最優先してもいいんです。そのことで自分を責めなくてもいいんです。なかなかできないんだけど。それでも、やってしまっていいんだと思います。
わたし……だれもほめてくれないから、自分で自分をほめました。「よくやっているじゃないか」って。ばかみたいでしょ?「おまえ、なかなかタフなやつじゃないか」って。笑えるでしょ?
他の誰がいたわってくれなくたって、自分がいたわってやれば、なぐさめてやれば、「休んでもいいよ」って言ってやれば……ほんの少しでも気持ちが楽になるかもしれないと思ったから。
> やっぱり身体の声に耳を傾けないと、遅かれ早かれ潰れてしまいます。
自分の身体の声を聞くことって、なかなかむずかしいです。心が傷ついたときって、身体も傷ついていることに気がつかないことが多い。普段から身体の声に耳を傾けるように心がけておくことは大切だと思います。
今は意味がわからなくてもいいからと、娘に「身体の声を聴くようにしなさい」って教えています。体験から学びましたから。
寒い時はあったかく過ごしたいな。のんびりと。
わたしが釣りにぶっ飛んでいってしまうのは、ADD傾向のせいもあります。「血が熱いぜ!」「身体が燃えるぜ!」ってな具合で、いっときもじっとしていられなくなるんです。そういうときは何も考えずに身体を動かすというだけのこと。休息を必要としている身体と心は、充分あったかくして休ませてやりましょうや。
長書きしてしまいました。性懲りもない奴だな、わたしって。意味のないカキコでごめんなさい。雪もやんだようだし、これから雪かきに精出します。
Xanadii改めANKH wrote:
> とゆーわけで、説明おわり。ついてこれるかな?
ハイ、タレイヌです。
説明は、わかりました。
文字読みながら、ドラムの足踏みしてみました。
ドラムしながら、ラップ読んでみました。
理論はわかりましたし、なんとなく、リズムも、耳に届く気がしてきます・・・・。
でも、できなかった・・・。
タレイヌは、ついていけません・・・すみません。
(ギブ・アップのタレイヌ)
風邪がたたっての寝正月+PCを稼動できなかった間に10,000件突破!!
でも、皆さんの名前を見られたことにほっとします。(こらこら、管理人でもないくせに…。この間、休めたおかげで声が出せるようになりました。アドバイスをくれた皆さん、Thanks!)
去年は、仕事の上では2年続きのどしゃぶり状態でしたが、このHPを知って、自分のことをわずかでも捉えられたような気がします。今年は、ありのままの自分を捉え、きちんと向かい合いたいと思います。(それにしても、30代になってから自分の方が周囲[=世間でいう『普通』ですね]と違うということを知った時には、さすがに愕然とした。それまでは、自分の方が正しいと信じて疑わなかっただけに…。想像力のなさゆえか?[←実際、『片付けられない女たち』を読んだ後輩からは、「グルンサさんには、推理能力が欠けている」と見事に言われたほど。しくしく。])
…と、年の始めから自分のことばかり書いてすみません。
また今年もよろしくお願いします。今年は、オフ会で皆さんとお会いしたいです。
(しかし、想像力の欠如ぶりはなんとかできないかな…? グルンサ)
P.S. truthさんへ。
お返事は改めてしますので、失礼ですがお時間下さいね。
みどりさん wrote:
>生まれ変わるという考えは、恐怖です。
>またこれを繰り返さなければならないのでしょうか。
>どんな形で生まれようと、私が感じるつらさはあまり変わらないのではないかと。
>もし生まれ変わらなければいけないのなら、もし可能なのなら、自分のつらさを感じる能力が足らない人間になりたいです。
私も、死んだらまた生まれ変わるとか、この世で心残りなことは次に生まれ変わったときも持っていってしまうとか、そういうこと(考え)を知ったときには、ものすごく、怖くなってしまいました。特にまだ「自分のこと」が全くわからなくて、何が問題なのかもわからなかった頃。
>去年は AS のことを知り、ここを知り、自分と似た困難をもった人たちを発見し、そういうところではとても収穫があったのだろうと思います。
>ほかにはなにもしなかったけれど。
>「自分探し」という言葉は割と嫌いなものでしたが、振り返って見れれば自分がしていたことは自分探しにほかならないみたいです。
私、もう十年近く自分探しをしていました。書けば簡単だけど、自分にはすごく遠い道のりでした。死にかけたことも数回ありました。…でも、なんとかまだ生きてる。
ここ、アスペルガーの館の掲示板では「文章で考えをあらわす」ことを教わりました。
恐らく、自分のADDな部分を含めた今後を考えられる状態に来たんだと思っています。頭の中に発火することとか、ウロウロ歩き回って考えに集中できないこととかが無くなったわけでもないんだけど、途方もなく続いていた砂漠にも終わりがあるような、そんな予感を感じ始めました。
こういう人間もいます。
生まれ変わるという考えは、恐怖です。
またこれを繰り返さなければならないのでしょうか。
どんな形で生まれようと、私が感じるつらさはあまり変わらないのではないかと。
もし生まれ変わらなければいけないのなら、もし可能なのなら、自分のつらさを感じる能力が足らない人間になりたいです。
しばらく逃亡してきました。
帰ってきて、地元の駅で電車を降りたとき、睡眠から覚めたような感じがしました。
逃亡中は、幸せなわけでもつらいわけでもない、私はただそこに感情もなく存在してるだけで、周りで映画が上映されているような気分でいました。
いや、実際は腹を立てたり楽しかったり胃痛に苦しんだりいろいろしたのですが。なんだかすごく普段の自分と乖離した感じがあります。
去年は AS のことを知り、ここを知り、自分と似た困難をもった人たちを発見し、そういうところではとても収穫があったのだろうと思います。
ほかにはなにもしなかったけれど。
「自分探し」という言葉は割と嫌いなものでしたが、振り返って見れれば自分がしていたことは自分探しにほかならないみたいです。
今年はいろいろなことに、もう少し寛容でありたいと思っています。自分自身が少し楽な気持ちですごすために。
去年私を許容してくれたここのみなさまに感謝し、それぞれの方にとってよい年になることを祈っています。
あけましておめでとうございます。
館の管理人様
10000回 おめでとうございます!
Mariaさん wrote:
>るうさん wrote:
>> あとは、「温かくすること」を大切にしています。
>> 身体の中からと外からと。
>> 温かいものを口に入れたり、おふろに入ったり(軽く?一時間半くらい)。
>
> あたしもるうさんの意見に賛成。
>
> あったかいものを食べて、あったかくして、ぐっすり眠って疲れを取るというのは、基本だと思います。
>
横レスですけど、すごく元気づけられたので。
そうか、あたたかくするといいんですね。
何故か涙が出そうになりました。「大丈夫?」なんて言葉より、ずっと効き目がありそう。
ありがとうございます。
(個人的に勝手に感動してるけど、いいの、気にしないで)
がんばれという応援が許容されるのは2つの状況だと思っています。
対象とすごく近い状況にあって、がんばれといういう言葉が相手に与える影響を吟味できている場合。
もう一つは、対象とすごく遠くて、こちらが何を言ってもたぶん気にしなさそうなくらいの場合。
私はどちらの場合になることも少ないので、あまり言える機会がありません。
でも他に妥当な言葉を知らない場合が結構あって、こまってしまいます。
みどりさん wrote:
> 数年前に電子化してすごく楽になったのですが、コメントなしで出す気にはどうしてもならず、でもコメントを書くのはものすごくつらいので、とうとう最近、きっぱりとやめてしまいました。(返事も出さない。)
ここ数年、かなり悲惨な境遇にあったものですから、コメントを書くのがつらくて年賀状を出せませんでした。去年は「まだ生きてます」くらいの意味で返事くらいは出しましたけどね。一昨年(二〇〇〇年)は、病院で過ごしてたから年賀状どころじゃなかったし。最近は医療用機器にもコンピュータが入っていて、しかも年月日が重要な役割を果たしていたりします。二〇〇〇年問題はけっこうスリリングだったぞ(^_^!)。ICUではスタッフが固唾を呑んで見守ってたそうだし、あたしも患者でありながら、コンピュータの専門家ということでスタンバイしてたし。
今年はようやく年賀状を出したい気分になったので、年賀状を復活させたのですが、やっぱりコメントを書くのがつらいので、お年賀をお贈りして年賀状に代えさせていただきました。まあ、お年賀っていったってお金がないから手作りの呪符とかだったりするんだけど。(←我ながら何考えてんだろぉ(-_-;))
とはいえ、年賀状出さないとホントに人と繋がりがなくなっちゃうんだよね。そんなわけで、人間関係を維持するためにも、こまめに挨拶状くらいは出しておこうと思っているあたしだったりします。
(Maria)
satieさん wrote:
> 駅伝は見ていないのですが、見ていたら私も、「無理するな。。」
> って呟きたくなったと思います。。
あたしは「無責任な『がんばれ』」は容認しませんが、「がんばれ」は一部肯定派です。
だって、駅伝に関していえば、大丈夫そうか大丈夫でなさそうかを専門知識と経験と理性によって判断して、万一のことを考えて強引にストップをかける役割を担った監督がちゃんといるんだもん。その監督が、選手のことを考えないで「がんばれ」とか言ったらこれは無責任だろうけどさ、選手は監督がストップをかけるまでは「がんばる」ことだけを考えて走るだろうし、観客も監督がストップをかけるまでは選手と一体になって「がんばれ」と言うだろうと思います。で、ストップがかかったら、「よくやった」と賞賛するのが正しいありかただと思うのね。
人の上に立つ人間は、結果が出なかったとき、結果が悪かったときにその責任を引き受ける覚悟が必要だし、下の人間がちゃんと結果を出したときは報いる義務があります。さらに、下の人間をむりやりにでも保護する義務がある。「練習したい」という選手に、「休め」と命令したり、「完走したい」という選手を棄権させる権利と義務があるわけです。こういう信頼感がなければ、人に命令はできません。
トップ・アスリートとしての生命を失うことと、箱根駅伝という大舞台で「途中棄権」という不名誉な結果を残すことを秤にかけて、選手との信頼関係において「ここまでやれば十分」というところでストップをかけるというのはかなり苦しい決断だと思います。社会人になっても競技を続けられる人は多くありません。だったら、日常生活に支障のない程度には、あるいはファン・ランナーとして走れる程度には、壊れちゃってもいいじゃないか。それより、「いま」という時間を身体に刻んでもいいじゃないか。選手もそう思っている。そして納得してもらえる。そういう覚悟の下での、監督の「がんばれ」は、許されると思います。
かつての日本のオリンピック選手は、「日本国民の期待」みたいなものを背負わされてきました。だけど、その「期待」というのは、まさに「無責任な『がんばれ』」の典型みたいなものだったわけです。ですが、最近はそうじゃなくって、「日本人の底力」みたいなものを見せてくれればそれで十分、みたいな感覚がありそうに思います。「ベストを尽した者への賞賛」を背負う限り、それは「無責任な『がんばれ』」ではないように思います。だって、応援されるほうもそこまで期待してないし、応援するほうだって自分の発言にそんなに責任持てないもん。
もちろんプロは違うし、お金払って観てる観客は違いますよ? 結果を出すのがプロだし、お金を払った以上は結果を要求します。このあたりはアマチュアスポーツとプロスポーツの差です。競輪なんかその典型だし。
「がんばれ」という言葉には、「一蓮托生」という裏づけがないといけない、とあたしは思います。「いよいよダメだったら一緒に死のう」という覚悟に裏付けられた「がんばれ」は、許されると思うのね。そのためには「退路を断つ」くらいのことをしてくれないと困ります。いよいよダメなときに周りを見回したら、みぃーんな逃げちゃって自分独りが取り残されている、みたいな経験をさんざんさせられたあたしとしては、そう思います。
つまるところ、「ヘタレは人を応援する資格がない」ということだと思います。
(Maria)
名加野 wrote:
> この記事を見る限り、買うのは微妙ですね。値段が3000ドル。
> 原付より高い……。
3000ドルだと買えませんが (その価値はあると思うけど盗難が怖い)、値段が下がった暁にはぜひ買いたいです。
別にどこにいくわけではなくても、ただ単に家の周りをぐるぐると乗りたい。
普通の車買うこと考えれば安いもんです(?)
> ……関係ないですが、僕はまだ、全く、年賀状を書いてません(汗。
> 書くのが辛いです。住所を(苦笑。
数年前に電子化してすごく楽になったのですが、コメントなしで出す気にはどうしてもならず、でもコメントを書くのはものすごくつらいので、とうとう最近、きっぱりとやめてしまいました。(返事も出さない。)
いやー年末が楽になったわー。
儀礼的な付き合いをほとんどしない私の数少ない社交事項だったというのに、本当にいいんだろうかという疑問はあるものの。
「ガンバレ」という言葉には、前から疑問に思っていました。ああいう時にふさわしいもっといい掛け声って日本語にはないのかな?
「ガンバレ」って言われると、「オマエ、がんばってないし、がんばれって言ってやらなくちゃならないダメな奴なんだよ、勝手にやめたりするなヨ。とにかく死ぬまでやれ。」って言う風に聞こえなくないと思うの。こんなこと思うのは私がひねくれているからかしら?
かおり wrote:
>私のお勧めの紅茶の葉っぱは、レシピエのクリスマスリースです。これは紅茶の葉っぱの中にシナモンの粒が入っています。ラム酒無しのミルクティにも合います。千駄ヶ谷にお店(多分本店)があり、他にも日本各地に支店があるはずです。宅急便配達もしているはずですが、ここしばらく新しいのを買っていないので、多少変わっているかも。
レピシエのクリスマスリース!! おいしいですよねー。
でもレピシエの葉っぱは高くて買えない…… (いや、消費量が多すぎるからいけないんだけどさ)
こんばんわ。余談ではありますが、先ほどの私の意見矛盾点が多かったので、恥ずかしくて削除した、
satieです。
鷲羽丸さん wrote:
> 走れる状態じゃなくなっているのが明らかなのに、なにを「ガンバレ」と言うのでしょうか?もしあのまま無理して走って、疲労骨折でもして、走ることさえままならなくなったら、どう責任をとるのでしょうか?
> あのようなときは、せめて「もういい、無理するな、やめてもいいぞ」とでも言ったほうがいいのではと、わしは感じました。
駅伝は見ていないのですが、見ていたら私も、「無理するな。。」
って呟きたくなったと思います。。
頑張れ。。
頑張った所で選手生命の寿命が縮まるのなら、無理して欲しくないです。
鷲羽丸 wrote:
>
> 今回、障害のある人に向かって、「大変だね、ガンバレよ。」と言うことと似たような感覚を覚えました。
>
> 明日も朝から「復路」を見るぞっ
「がんばれ」がつらいことがある。私は今、立ち上がることができないほどつらい。最近、ある人に努力を怠っていると言われた。それは「はた迷惑である」と。私の人生ははっきり言って失敗続きだった。それははっきりしている。私が生きてきたあかしは何もなくただ今死なないでいるということだけが私の努力の成果にすぎない。
私は私なりに頑張りそしてそれは全て失敗だった。もはやがんばれない。苦しい。立ち上がれない。疲れている。私を励まさないでほしい。責めないでほしい。慰めないでほしい。「お前なんか死んでしまえ」と正直に言ってほしい。
「がんばれ」に傷つく人間がいる。
年始から意見を投稿して、おはずかしゅうございます。。。
satie
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