アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
ハンドルネームを間違えていたっす。我ながら間抜け…
30歳で無職の兄は、職業が見つからず、見つかっても人付き合いができないなどの理由で解雇されてしまいます。無職で変わり者という事で、他者からの風当たりが強いし、犯罪者予備軍的に見られる感じです。似たような経験のある方いますか?
どうやって自分の中で解決してきたのですか?
milky wayさんが引用さる、森口さんのコメントを見て関係者の
あり方について思ったこと。
># 従って、居場所を見つけられないまま、現在までにシニア(30代後半
>〜)になった人は、残念ながら、いわゆる専門家や関係者などに対して、あ
>まり良い感情は持ってはいないようである。
まだ、20代半ばなのですが、一部の関係者には不信感を持っています。
幼児期に肢体不自由,てんかん,小児自閉症,MBDなどの検査で明らかに
異常が発見されていたのに、その当時、自閉症の専門家以外はあまり知られ
ていなかった障害(AS)であったために、診断されませんでした。
しかし、診断を受ける前、関係者の一部からは「大人になるまで診断され
なかったのだから、発達障害ではなかったのだろう」と言われる有様。少し
は発達障害の歴史を見つめなおしてくれ、という気分になります。
むろん、その当時の医学の限界という面もあったでしょう。それでも、未
診断の成人が発生した背景に医療サイドにも責任の一旦があることを差し置
いて、診断の信憑性を語ることには不快感を覚えます。
ついでに言えば、18才以上だという理由で受診を拒否されている成人は
多いのですが、検査もされずに受診を拒否された人はそれでも医師の判断を
信頼しなければならないのでしょうか?わたしにはどうしても納得ができま
せん。検査をした上で否定したのなら、まだ納得できますが。
ホウギョ さんへ
こんにちは。
はじめまして、
私も大人になってから自分が発達障害と知りました。
>ところでASの場合、どんな医者にかかれば良いのか、治療ってどんなことをやるのか、
>そもそも医者が「あんたASでんな」と判断する基準は問診によるものしか
>ないのでしょうか?外部的な特徴とか遺伝子を調べるとかはしないのでしょうか?
>本当にASなのかただの思い込みなのかを判断する基準を知りたいのですが…
専門のクリニックは少ないですが日本のあちこちにあります。
あなたは何県にお住まいですか?
私も自分の住んでいる県にある自閉専門のクリニックに予約していきました。
そこで私は自分の幼い頃の行動や今の症状の事を病院が作った質問診断書に書かされてそして医者にそれを直接見てもらい
医者から質問をいくつか受けそしてだいたいの診断を受けました。
外部的な特徴はどんなものかはわかりませんが
医者から妙な姿勢や歩き方をしてるかどうかを質問されました。
遺伝子チェックはしないようですが
脳波チェックや脳のMRIはやる人もいるようです。
私は今、専門のクリニックではなく大学病院での詳しい検査を控えています。
まろんす
鷲羽丸さん wrote:
> 先日、「アスペルガータイプ自閉症(高機能自閉症にかわる語として使います)」の診断を受けた、鷲羽丸です。
>
> わしは診断を受ける際、「相談票」というものを提出しました。
> それには親が自分の子について色々と書くところがあり、その中に「親として感じていること」の項目がありました。
> そこには、こう書かれていました。
>
>=====================================
> 小学校入学の時期、特殊の学校にやるべきか、一般の学校にするか、夫婦で少し迷った。生活習慣について何も不自由はないし、普通になってほしい望みもあったので、一般の学校にした。今日、本人がどれだけつらい日々だったかを想うと、よかったかどうか疑問である。
> (以下略)
>=====================================
>
> わしはこれを読んで、複雑な気持ちでした。
> この頃からすでにわしは、障害があらわになっていた、ということが見て取れます。武蔵野東幼稚園についての本まで、すでに本棚にありましたし。
> どうやら両親は、わしの「普通でない」部分を認めたくなかったようで、「一般の学校へ入れれば、普通になってくれるだろう」と考えていたようなのです。
>
> しかし、わしとしては「特殊の学校」の方へ入れて欲しかった、と思います。
> やはりこの時は、わしのようなガキは「障害」と診断されず、「性格」の問題とされていたのが、わしの両親を「普通願望」へと導いたようです。
>
> これから現れる、わしと同じようなガキたちには、わしのような思いはさせたくありません。
> あらためて、早期の診断が大事だと、切に感じました。
>
> 誤診したO大病院の精神科に診断書を見せてやりたい(大人げないが) 鷲羽丸
鷲羽丸さん、遅ばせながら、ご診断をおめでとうございます。
診断の問題については、やはり『変光星』の森口さんが、ブレーン出版の「高機能広汎性発達障害」isbn4-89242-635-0という本の中で、このように述べておられます。ご参考まで。
#【百回のカウンセリングよりも一回の診断を】
# 少なくとも自分の経験を振り返るに、何よりもいちばん困ったのは、義務・準義務教育期間中、自閉症としての診断が降りない、誤診される、あるいは以前の診断(これがまた曖昧なものなのだが)が撤回される、あるいは否定されることだった。なぜなら、例えば「大学受験資格検定試験」を通過するためには、全ての科目にたいして一定の水準以上を満たさなければならないが、体育実技の免除の際に、ただ「不得手である」だけでは理由にならないからである。例えばそうした社会的不都合はいたるところで直面する。
# つまり、世の中で居場所を見つけるためには明確な診断が不可欠であるが、皮肉にも、巷で乱発される安直な診断への反省と反動とが、高機能自閉症およびアスペルガー症行軍としてのとしての診断を更に難しいものとしている。そうでなくとも、例えば私のようなものは「曖昧にされること」を最も嫌う。つまりそれは拘りであると同時にアイデンティティの問題でもあり、それはドナの最初の著書のタイトル“Nobody Nowhere”の意味する通りである。少なくとも私の場合、明確な診断が何よりの助けとなったことを付け加えておく。
#【専門家に背を向けて】
# かつてある精神科医が私に「自閉症のことは自閉症専門のところに行ってください」と言ったのは、要するに、餅は餅屋で買えということである。一般的な精神科の外来クリニックにとって、患者が自閉症であるかどうかを見抜くことは、なかなか難しいことらしく、まして高機能・アスペの診断を求めることは、現時点(1999)ではまだ無理な話のようである。従って、精神科には掛かったものの、誤診されたまま、しばし誤った投薬と治療のもとに、時間と健康とを長時間、無駄にすることになりかねない。一方、不登校などの教育問題の市民組織などは主義主張が強すぎ、自分たちの考えを一方的に押しつけるだけ、というのも決して珍しくない。
# 従って、居場所を見つけられないまま、現在までにシニア(30代後半〜)になった人は、残念ながら、いわゆる専門家や関係者などに対して、あまり良い感情は持ってはいないようである。だからそうした人へは、自閉症などの発達障害、あるいは不登校や出社拒否、いじめの問題を理解するだけでは不足である。つまり、関係者自身の問題を振り返る必要があるということであり、まずそれらを解決しない事には本質の問題に立ち入れないのである。
じゃあ私の場合は何なのか。診断が下りないことは、時間と努力の大いなる無駄だった。はっきり言ってこのトシでは診断が出たとしても既に手遅れ状態です(就業に於ける年齢差別もあることだしね)。もし普通を目指すとしても、診断ナシではゼッタイに無理があると思います。もし私が早期診断・早期療育をきちんと受けていれば、今頃は普通の社会人として、普通に働く、普通の納税者となっていたことでしょう。 (Milkyway)
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こうもり wrote:
> しかし、この感覚は親には全く理解できません。だから、わたしが障害者
>としての立場を主張すると、今までの努力が否定されたような気持ちになっ
>てしまうようです。明らかに自閉に対して否定的な感情を持っているため、
>わたしもこの部分については反発せざるをえません。
>
僕の親もそうです。
Maria wrote:
> 自分の不幸を単なる不幸に終わらせない努力を怠るというのは、ある意味身勝手であり、それこそ迷惑、と思うのですが、いかがなものでしょうか。
Mariaさん、レスありがとうございます。うれしくて涙が出ました。この間のタレイヌさんからのレスといい私は泣いてばかりです。でも家には主婦が大声をあげて泣く場所はないので娘の脱ぎ散らかした靴下をハンカチ代わりにして鼻水を拭いています。ぐずん、ぐずん。
常にこの掲示板に暗い話題を提供し続けるpennpenn。それは私。でも思うのですがへりこさんとかLingkoさんとか関西の人はアスペといいつつおもしろいですよね。つっこみができるアスペって世界的にみても珍しいのではないでしょうか。私は北方の人間なのでつっこみも呆けもできません。芸無しです。(涙)
私は、アスペ(推定)といいつつ皆さんのように小学校のうちから親や教師から問題児扱いされたことはありません。ただ自分自身も周囲も気がつかなかっただけでやはり不適応を起こしていて、保育園から小学校の間ストレス反応で私の髪の毛は白髪でした。でも白髪だからといっていじめられたことはありませんでした。片耳が聞こえないということもありましたがそのことでもいじめはありませんでした。
いじめられたのは中学校になってから。ストレス反応がうんちのおもらしに変わってしまったのです。これは普通男の子に多い病気らしいのですが女の子にもたまにあります。これはいじめられました。いやがられたし、臭いといわれたし、当たり前ですよね。先生からもいじめられました。真冬、教室に入ってきた教師に「臭い! 窓を開けろ」と怒鳴られ寒風吹きすさぶなか、授業を受けたことがあります。こたえました。一応、小学校までは優等生だった私。夢だとしか思えなかった。たびたびのうんちのおもらしなんて現実とは思えなかった。そして私はその現実を拒否したことで人格が分裂し、多重人格者となったのです。
私は死にたいと思いつつ死ぬこともできず、毎日とさつ場に引かれる牛のような気持で学校に通いました。恥ずかしくて親にも言うことができなかった。
そのまま対人恐怖症になり就職するのがこわかったので大学に入学しました。でも大学も教室にはいるのがこわくてろくに授業にはでませんでした。とほほです。その頃はうんちのおもらしは良くなっていたので今度はなんとか対人恐怖症を克服するためにアルバイトをしては仕事のできなさにくびになるということを続けていました。
でも、多重人格というのは記憶のとぎれがあるので仕事は失敗続き。おまけにADHD。まあ首にならないほうが不思議。記憶のとぎれが短時間ならいいけど長いと別人格が出現するということになります。
で、別人格のとき、男の人を誘ったりすることもあって気がつけばなぜか私自身は知らないけど男の人のアパートで朝を迎えていたとか。これはかなりの恐怖。私はセックス恐怖症になりました。なんか若い頃は辛かったなあ。
で、自殺しようとするとこれがうまくいかない。別人格が出現して自殺を阻止する。悔しくて何度頭を柱に打ちつづけたことか。コーヒーカップやらなにやらで何度血が出るまで自分を殴り続けたことか。
夫と結婚したのは何度めかの自殺を失敗して呆然と自宅に帰ってきたときの見合い。もはや断る気力もないというとき。新婚旅行先で死のうとして結婚しました。で、なにやらかにやら結婚して16年。子供はほしくなかったけれどまわりの圧力に負けて。私は気が弱いのです。3人子供がいるのはもし私が自殺しても兄弟がいれば心強いだろうと思ったから。
私は自分のことを正直に夫に話すことができなかった。常によい妻であろうと努力しつつも失敗を繰り返し、仕事も夫に愚痴ったことはなかったけれど失敗続きで苦しかった。
私はほんとうの自分を受けいるてくれる場がほしかった。だからこの掲示板を知ったときはうれしかった。自分のことも今までの疑問が一気に氷解しました。40歳までは周囲に自分を隠して元気なふりをしてめげないふりをしてきたけれど40をすぎて今までの嘘がたたって鬱病になり、精神科がよい。でも精神科では薬物療法が中心で、いくら昔のことが頭から離れないのですと医師に訴えても昔のことはもう過去のこと、未来を考えなさいと3年間説得され続けました。くそ医者めがー。
自分の人生から学んだことがひとつあります。それはうれしいことは必ず辛いことに変わるということ。やさしくされてうれしがっていると必ずその人に嫌われたりとか。だから私はうれしいことがあっても喜べない。うれしいことがこわい。じゃんけんで勝つのもこわいし、トランプで一番になっても不安になる。でも絶望のあとには少しの希望がやってくるということも学びました。たくさんの絶望と少しの希望。それで私は今日も生きています。
あ、とか言いつつ、また似非自殺を試み中なのでした。今ダイエットと称して拒食しています。死にたいのです。でもきっと失敗するでしょう。以前の拒食は娘にばれてお母さんが食べないなら私も食べないと泣かれました。今度もきっと失敗するとわかっているのです。でもそうしないではいられない私。ゴメンね。子供達。弱い母親で。
Mariaさん、MariaさんにはMariaさんの不幸があり私には私の不幸がある。Mariaさんに今回、不幸を不幸に終わらせない努力を怠るというのは身勝手とアドバイスを受けましたがそのことばは私の心には届かない。私は努力してきました。なにかの結果につながる努力ではなかったけれど。私は人生に負けたのです。迷惑をかけました。ごめんなさい。長文失礼。
Mariaさん wrote:
> 人と人との摩擦というのは、激しすぎたら痛いし弱すぎても物足りなくてイライラするし、ちょうどいいと気持ちいいといったものなのですよ。で、そのあたりの加減というのは、苦痛だとか苦難だとか恥辱だとかを乗りこえて身につけてゆくしかない性質のものなのね。で、人はそうして大人になってゆくのですよ。(←まあエッチ(^_^;))
>
>(中略) 人間は、いいにつけ悪いにつけ、人の予想や期待を裏切りつづける存在だったりします。で、目指すべきはマイナス面をゼロにすることではなく、総合的なプラス面を最大限に伸ばすことなのね。
>
> 「障害は個性だ」なぁーんていう甘っちょろい言葉は嫌いだけどさ、障害者であることのメリットというのも確かに存在する以上、それをハンディキャップからアドバンテージに転化して生きることを考えるのが前向きな、生き方というものだと思います。あたしは自分のAS的な特性を仕事に活用することで、「システム設計者」「アルゴリズム開発者」としての評価を勝ち取ってきたわけだしね。
>
> そんなわけで、「マイナスをプラスに転化するしたたかさ」というものを身につけないと、かえって周囲の人を暗くし、傷つけてしまいます。で、それは「社会性」の重要な一部でもあったりするわけです。自分の中だけで考えたらマイナスはマイナスでしかないけど、社会全体としてはプラスになりうる、なんていうケースはけっこうあります。個人のレベルで見れば「難病」だけど、大学病院では「貴重な症例」になったりもするし。(後略)
私事ですが、こうもりさんからのレス、Mariaさんのカキコに考えさせられました。(自分がよっぽどガキなんじゃないだろうか…って。それとも、自分が傷つくのを恐がってんのかしら?自分でもよくわかりませんが。)このことについて、よく考えてみた方がよさそう…。
こうもりさん wrote:
>I wrote:
>
>> うーん、実の親子でも互いを理解し合うというのは難しい(おそらく、健常
>>者同士でも)。対人関係の構築が難しいというのは、身近な人ですら理解し合
>>えないことも拍車をかけているのではないだろうか…ともふと思ってしまいま
>>した。
(こうもりさんの項、失礼ですが割愛させて頂きます。)
> わたし自身は「親に感謝すること」と「障害と共に生きていくこと」は矛
>盾していないように思えるのですが。
正直なところわたし自身、こうもりさんのように考えたことはありませんでした。(ここから先、自分のことの羅列になってしまうので、「読みたくない」と思う場合は飛ばして下さってかまいません。)
子供の頃、小学校にて「もう嫌だー!!」と思うことを経験して親に相談しようとしたら、逆に親の方は先生の言い分を丸呑みし、わたしの思うことを聞いてくれようともしなかった(当時7歳じゃ、きちんと表現もできないか…?でも、する子はするのかな?よくわかりませんが。)ことがネックになっていたらしく、それ以来、わたしは母に対して物事を相談する気にならなくなってしまいました。(今は、生活時間そのものが母とかみ合わないため、話そのものもしません。たまにやると、気持ちの上ですれ違いばかり。)結局、小学校時代の2/3は、こういったことの記憶がほとんどで、思い返すのも嫌なくらい。(正直なところ、書くのもつらかった…。)論点がずれましたね、すみません。単に自分がガキなだけなのかしら…?
だから、こうもりさんのように上記のことが矛盾していない、ということをきちんと捉えられるということがうらやましいのかな、とも思います。
(ちゃんとした答えになっていなくてすみません。もし、よろしければこのことでレス頂ければ幸いです。答えたくない、というのであれば、無理強いはしません。しかし、上と下で自分で書いていることが矛盾している気もなきにしもあらず…です。)
■「発達チャット」オフ会のお知らせ■
2002年1月5日(土)に横浜でオフ会を行います。
桜木町の近辺でお昼頃からお茶を飲んだり公園を散歩したり、
山の手の洋館、みなとみらい21に行ったりして
のんびりすごしましょう。\(^.^)/
参加希望のかたは、
miru_3@hotmail.comにメールをを送るか
http://www.netlaputa.ne.jp/~oyama/chat/《おむにさんの発達チャット》
に書き込んでください。
その際に「オフ会参加希望」と書き、以下の1,2を書き添えてください。
1.名前(HNでOKです。)
2.可能な方は「携帯電話の番号」「メールアドレス」など連絡先を書いてください。迷ってしまったときなど、緊急時連絡に便利です。
●現在の参加希望者(12人):うみねこ、ひろた、みる、pennpenn、如月、ぽよ子、ミント、BIS、シュッツ、おむに、レント、風呂糸さんです。
●集合場所、時間、目印など、詳細は後ほど連絡します。
AS、ADHD、LDの本人、発達障害に興味がある人、そうでないひと
みなさんの参加をお待ちしています。(^^)。
とある育児セミナー(?)のチラシで「アスペルガ−症候群」の単語を
目にして自分もそうなのではないかと思いはじめた者です(もうエエ歳)。
普段感じる社会的・人間的な『普通』とのズレに気持ちは擦れる一方です。
来年そうそうにこちらで紹介されている文献から色々と学んでこんな自分と
付き合える方法を模索してゆきたいと思っています。
ところでASの場合、どんな医者にかかれば良いのか、治療ってどんなことをやるのか、
そもそも医者が「あんたASでんな」と判断する基準は問診によるものしか
ないのでしょうか?外部的な特徴とか遺伝子を調べるとかはしないのでしょうか?
本当にASなのかただの思い込みなのかを判断する基準を知りたいのですが…
pennpenn58さん wrote:
> 暗黙の了解、「お約束」を守らない人間は世の中の人々を傷つける危険人物だ。
> 自分が傷つくのはかまわない。それは世の中の害にはならないから。けれど世の中の人を傷つけるのははっきりした悪である。
>
> 「お約束」を守らない人間はこの世の中に存在してはならない。
静寂は音楽の基本であり、沈黙は会話の基本です。
その意味で、「お約束」というものは必要ではあるのだけれど、それは通信における搬送波(キャリア)のようなもので、そこから逸脱することにこそ新しさがある、といったものでもあります。だけど、それは「計算されたもの」「意図したもの」である必要があるのね。
人と人との摩擦というのは、激しすぎたら痛いし弱すぎても物足りなくてイライラするし、ちょうどいいと気持ちいいといったものなのですよ。で、そのあたりの加減というのは、苦痛だとか苦難だとか恥辱だとかを乗りこえて身につけてゆくしかない性質のものなのね。で、人はそうして大人になってゆくのですよ。(←まあエッチ(^_^;))
人を傷つけない、というのは、同時に人間関係の拒絶でもあります。それは自分以外の人間の人格を否定することでもあります。
「人間は一人では生きてゆけない」とか言う人がいるけれど、ほんとうは「人間は一人で生きていてはいけない」のだとあたしは思います。ストア哲学だと、人間は神から与えられた能力を社会に役立てる義務がある、と考えます。あたしの考え方はそれに近いんですよ。人に惜しまれるような生き方をしてはいけない。それは、「持たざる人」に対する侮辱だと思います。
人間は、いいにつけ悪いにつけ、人の予想や期待を裏切りつづける存在だったりします。で、目指すべきはマイナス面をゼロにすることではなく、総合的なプラス面を最大限に伸ばすことなのね。
「障害は個性だ」なぁーんていう甘っちょろい言葉は嫌いだけどさ、障害者であることのメリットというのも確かに存在する以上、それをハンディキャップからアドバンテージに転化して生きることを考えるのが前向きな、生き方というものだと思います。あたしは自分のAS的な特性を仕事に活用することで、「システム設計者」「アルゴリズム開発者」としての評価を勝ち取ってきたわけだしね。
そんなわけで、「マイナスをプラスに転化するしたたかさ」というものを身につけないと、かえって周囲の人を暗くし、傷つけてしまいます。で、それは「社会性」の重要な一部でもあったりするわけです。自分の中だけで考えたらマイナスはマイナスでしかないけど、社会全体としてはプラスになりうる、なんていうケースはけっこうあります。個人のレベルで見れば「難病」だけど、大学病院では「貴重な症例」になったりもするし。
自分の不幸を単なる不幸に終わらせない努力を怠るというのは、ある意味身勝手であり、それこそ迷惑、と思うのですが、いかがなものでしょうか。
(Maria)
先日、「アスペルガータイプ自閉症(高機能自閉症にかわる語として使います)」の診断を受けた、鷲羽丸です。
わしは診断を受ける際、「相談票」というものを提出しました。
それには親が自分の子について色々と書くところがあり、その中に「親として感じていること」の項目がありました。
そこには、こう書かれていました。
=====================================
小学校入学の時期、特殊の学校にやるべきか、一般の学校にするか、夫婦で少し迷った。生活習慣について何も不自由はないし、普通になってほしい望みもあったので、一般の学校にした。今日、本人がどれだけつらい日々だったかを想うと、よかったかどうか疑問である。
(以下略)
=====================================
わしはこれを読んで、複雑な気持ちでした。
この頃からすでにわしは、障害があらわになっていた、ということが見て取れます。武蔵野東幼稚園についての本まで、すでに本棚にありましたし。
どうやら両親は、わしの「普通でない」部分を認めたくなかったようで、「一般の学校へ入れれば、普通になってくれるだろう」と考えていたようなのです。
しかし、わしとしては「特殊の学校」の方へ入れて欲しかった、と思います。
やはりこの時は、わしのようなガキは「障害」と診断されず、「性格」の問題とされていたのが、わしの両親を「普通願望」へと導いたようです。
これから現れる、わしと同じようなガキたちには、わしのような思いはさせたくありません。
あらためて、早期の診断が大事だと、切に感じました。
誤診したO大病院の精神科に診断書を見せてやりたい(大人げないが) 鷲羽丸
グルンサさん wrote:
> うーん、実の親子でも互いを理解し合うというのは難しい(おそらく、健常
>者同士でも)。対人関係の構築が難しいというのは、身近な人ですら理解し合
>えないことも拍車をかけているのではないだろうか…ともふと思ってしまいま
>した。
親とわたしの議論には相当なすれ違いが発生しています。つまり、親は障
害を「克服すべきもの」と考えていて、そのために育児に払った努力を評価
されることを願っています。事実、親の子供の頃からのアプローチがなけれ
ば、わたしはASよりもっと重い自閉症の診断を受けていたかもしれないと
診断に立ち会った専門家からは指摘されています。この点について親の努力
を評価しない訳にはいきません。
ところが、わたしの方は障害を「自分から切り離すことのできない体の一
部」と捉え、「障害と共に生きていこう」と決心した時に、二次的障害から
解放されました。19世紀の哲学者ニーチェは「せむしの背中からこぶを取
ってしまえば、その人の偉大な精神を奪ってしまうことになる」と述べてい
ますが、わたしもそれに似た感覚を持っています。(「せむし」は差別表現
ですが、あえてそのまま引用しました)
しかし、この感覚は親には全く理解できません。だから、わたしが障害者
としての立場を主張すると、今までの努力が否定されたような気持ちになっ
てしまうようです。明らかに自閉に対して否定的な感情を持っているため、
わたしもこの部分については反発せざるをえません。
わたし自身は「親に感謝すること」と「障害と共に生きていくこと」は矛
盾していないように思えるのですが。
こんばんは。
こんな日のこんな時間にひとり事務所で仕事をしていて、息抜きに覗きにきたら、
一番上にこんな話が書かれていたので、思わず書き込んでいます。
> はてさて、あなたは、ここで用が足せますか? 大きいの?小さいの?>皆さま
大きいのも小さいのも足せそうな気がします。
っていうか、「やっておかなきゃ、ソン」とか思いそう。
ただ、日本人が一緒にいたら、ちょっと恥ずかしいですね。でも日本人じゃないような顔をしてしてしまいそう。
トイレといえば、タイの山岳民族の村の家にお世話になっていたとき、
「トイレでは紙は使わずにひしゃくですくった水を指先にすくってぴちゃぴちゃかけて洗う」「外でトイレに行きたくなったときにはちょっと道から外れて、用の後は木の葉でふく」と教えらました。
畑仕事の合間に、やや小高くなった見晴らしのいいところでするトイレは開放感があって、
畑の方から「いい葉っぱはあったかー」などと聞こえてくる声を除けば、まさしく「荒野のどまんなか」気分で気持ちよかったです。
お尻にやさしそうな大きくて厚みがあって柔らかな葉っぱの物色も楽しみのひとつでした。
ただ、水で洗うトイレの場合は、乾くまでお尻がぺちょっとしていて、ズボンや腰に巻いた布のお尻の部分もぬれるし、あまり気持ちのいいものではなかったんですが。
(水をすくうひしゃくに黄土色の水垢(だという事にしたかった)のようなものがこびりついていることも多かったし。)
> あの公衆トイレがまだそこに存在しているかどうかは、わたしは存じません。
そのタイの村に一緒に行った友人がその後中国に行った時(3年程前)には、
場所は違うかもしれませんが、まだそのタイプのトイレはあったそうです。
彼女は「おお!開放的!ようちえんの頃のトイレを思い出すなあ。こりゃやっておかなきゃ」と、迷わず用を足したそうです。
類は友をよぶ?
ヒマネタplusシモネタです。
(タイトルの由来についてはNo9736のMariaさんのカキコをお読みください)
あれは1988年のことでございました。
とある団体旅行に参加していたわたしは中国数箇所を訪問し、絨緞工場で最後の見学を終え、天津港へと向かうバスの中におりました。
バスが港に着いても船が見えません。到着まで若干の時間がかかるということで、一行はトイレタイムを許されました。何台ものバスから公衆トイレに向かってぞろぞろと歩く人々に混じって、わたしものんびり歩いていきました。
が……不審なことに、先に行った女性のほとんどが戻って来るではありませんか。用を足した様子もありません。?と思い、顔見知りの女の子に声をかけますと「とてもできない」と答えます。
「えー、なんで?」と尋ねると「行ってみればわかるわよ」との返事。
さても怪訝なことよと思いつつも、わたしはトイレの入り口にたどり着きました。で、中を覗いてみましたら……充分納得いたしました。
入り口の角を曲がると、公衆トイレの内部が見わたせます。通路から一段高くなったコンクリートの床に、一定の間隔をおいて白い便器が並んでおります。他には何もありません。
仕切りは?壁は?扉は? そこには……「個室」という言葉を裏切る、だだっ広い空間が広がっておりました。
「うわー、やだー」と一声残して戻っていく女性達。う〜む、なるほど、これがいわゆる「カルチャー・ショック」とかいうやつか……などと感心してしまったわたしでございました。
さてさて、ここで戻ったのでは話は進みません。わたしはといえば、何台ものバスからやって来た何十人もの女性陣の中で、そこで用を足した数人の中のひとりとあいなりました。
一緒にはいったMさんと、ひとつおいた便器に(だって間隔が狭くて、膝がくっつきそうだったから)しゃがんで用を足しながら「中国の人ってスゴイね」「大きいほうのときはどうするんだろうね?」「きっと知らんぷりするんだよ」「見てみぬふりね」「こうやって壁を見ているんだね」「うん」などと和やかに会話していたのでございます。
砂漠の真ん中で用を足していると思えばどうってことはない。
ここには自分ひとりしかいないと思えばどうってことはない。
目を閉じれば、荒野のど真ん中にいる気分じゃないか……。
言い訳は次々と浮かんできますが、実際のところナイスでグッドな気分の用足しではございました。日本じゃこういうのは、まず味わえないぞ!って、自慢できるも〜ん!!(心のなかで、わはははは〜と笑う)
その後、噂を聞きつけた男性陣がやってきて「ホントかよ、おい」と声をかけるもので、「もうみんな済んだからいいよ」とMさんとわたし立会いのもとで、幾人かが中を覗きこみ「おおー、すげェー」と喚声をあげておりました。写真に撮っていた方もおりましたですね、はい。
ま、なんですな。通路から一目でどこが空いているかチェックできる利点というのは、ありますな。そうでしょ?
はてさて、あなたは、ここで用が足せますか? 大きいの?小さいの?>皆さま
(ちなみに、その後天津港へ行く機会がありませんでしたので、あの公衆トイレがまだそこに存在しているかどうかは、わたしは存じません。悪しからず)
長らくのご乗車ありがとうございました。(お粗末さまでした) あさかぜ
I wrote:
>(内容が的外れになってないことを祈りたい…。ここんとこ、あっちゃこっちゃでやらかしてたよーな気がしなくもないので。)
見事にやらかしていたようです。(しかも、文字どおりあっちゃこっちゃで。)
恐らくはお怒りか、もしくはお呆れであろうみなさま、申し訳ありませんでした。
Maria wrote:
>
> 「お約束」は守ってほしい、と思います。
世の中には暗黙の了解というものがある。誰もが知っているから口に出されることのない約束。けれど中にはその暗黙の了解に気がつかない鈍い人間もいる。私は、暗黙の了解をたびたび侵しては周囲を傷つけそのことで自分も傷ついてきた。そして学んできた。
暗黙の了解、「お約束」を守らない人間は世の中の人々を傷つける危険人物だ。
自分が傷つくのはかまわない。それは世の中の害にはならないから。けれど世の中の人を傷つけるのははっきりした悪である。
「お約束」を守らない人間はこの世の中に存在してはならない。
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