アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
シュッツ wrote:
>
>いじめる人もいるし、優しい人もいるし、どちらもいじめを受けてパワーアップするのではないでしょうか。
ほんとうですか?!でも私は、パワーアップしなくてもいいのです。心穏やかな毎日を宝と考えます。けれどそんな日は永久にこないような気がしてきました。つらさが心の許容量を超えると人間は爆裂してしまいます。
pennpenn58 wrote:
> いじめにあった人間は仕返しにいじめることのできる人間を捜し、不幸にあった人間は人を不幸にする権利を得たと信じ、火星人は自分より弱い火星人を餌食にし、アスペはアスペを傷つけることがどんなことかを知ってアスペを傷つける。それが死に至る傷と知っているからこそアスペを傷つけるよろこびに打ち震える。
ロールプレイングゲームに例えて考えてみました
敵=いじめる人
味方=優しくする人
レベル1:いじめにあっていない人
(1)敵
苦しいだろうと思われることを想像して、いろいろないじめを試してみる
(2)味方
どこに傷を受けたか分からないので、全体の雰囲気で癒そうとする
レベル2:いじめを知っている人
(1)敵
いじめのつぼをピンポイントで攻撃してくる
(2)味方
個々の傷を治そうとする
いじめる人もいるし、優しい人もいるし、どちらもいじめを受けてパワーアップするのではないでしょうか。
pp. wrote:
>
>いま私は、アスペの当事者同士の「いじめ」について考えている。
>中略
>新年草々 いじめ と 戦う pp.(ピアニシモ)
pp.さん、おめでたくない正月ですね。私も皆さんから心が傷ついたときの対処法についていろいろレスをいただいたのですが傷はますます深まり、今までの人生のつらいこと全てがフラッシュバックし頭のなかが爆発しそうです。明けない夜はないというのはアスペにとって真実ではない。
いじめを知っている人間は人にやさしくなれるのか、不幸を知っている人間は人の不幸にやさしくなれるのか、火星人同士ならやさしくなれるのか、アスペ同士ならやさしくなれるのか、そんなのは全て幻想にすぎない。
いじめにあった人間は仕返しにいじめることのできる人間を捜し、不幸にあった人間は人を不幸にする権利を得たと信じ、火星人は自分より弱い火星人を餌食にし、アスペはアスペを傷つけることがどんなことかを知ってアスペを傷つける。それが死に至る傷と知っているからこそアスペを傷つけるよろこびに打ち震える。
この世は煉獄である。つらいことはさらにつらく、孤独はさらに深まり、傷もさらに深まり、やがて腐敗していく。それが年を重ねると言うことである。それが新年である。
ゆえに正月は全くめでたくない。
そういえばどうしてめでたいんだろうなあと考えていたら、「めでたいってなんだ?」と悩むことになってしまいました。
とりあえず辞書ひいてみると、めでたいって「愛でたい」なんですねー。知らなんだ。
私はなにかと「区切り」に対して厳粛な気持ちがわくのです。年越し、新学期、誕生日、旅行に出るとき、誰かと別れるとき、会社から帰宅するときまで。確かにちょっと愛でたい気分かもしれません。
で、確かに私はおめでたいかもしれません。
ま、私はピリピリイライラしてるかおめでたいか、どちらかのことが多いので、どちらかといえばおめでたい状態の自分の方が平和でいられそうでいいかなあと思います。
シュッツさん wrote:
>あけまして
> おめでとう
>
>……と言いますが、何がめでたいのでしょう?
>何か不思議
あ、いいですね。「何か不思議」というところが。
自分がいかに何も考えずに言葉を使っているかを、思い出させてくれて。
「不思議がたくさんある人生は面白い」なんて思っていながら、日常生活の忙しなさに埋没して、つい何も考えずに過ごしてしまう自分が情けない……。
結婚して十年、婚家のジンクスに従って二年参りも初詣もしなくなって、それはそれで気楽なものだなと思っていました。
とりあえず一年間生きのびることができたという区切りに、新年をおめでとうと(自分に)言い聞かせる習慣くらいは残しておきたかったので、使っています。
あとは、ひらがなが好きだから。「明けまして」より「あけまして」と書くほうが好きです。「あけまして おめでとう ございます」と書くと、ひらがな五文字が三つでなんか綺麗……。
ふれ wrote:
>I wrote:
>1月1日になったから、さあ、おめでたいなんて、そんな人こそよっぽどおめでたいよね。
>ああ、私ひどいこと書いてしまったわ。。。おめでとうございますって、きちんとご挨拶しているレスの方に悪かったかな?と後になってやっと気がついたのです。
>おめでたいのは、どうやらわたしかも。あははは。
私もおめでたいと投稿した一人ではありますが、
「おめでたいのは、どうやらわたしかもっ」とか思っちゃってたりする
煮え切らないADHDです。
ではでは。。
satie
シュッツさん wrote:
>あけまして
> おめでとう
>
>……と言いますが、何がめでたいのでしょう?
>何か不思議
あ、嬉しい。ここ数日、私も同じ事を考えて悩んでたのです。
年賀メールを書くのに、何が「めでたい」のか分からないまま「おめでとう」って書きたくなくて、挨拶の言葉に悩んでました。
Mariaさん wrote:
> 明けない夜、満ちることのない月、長くなることのない昼の不安から解放される日が、「元日」なんです。夜はまた明ける。月はまた満ちる。昼はまた長くなって、暑い夏が来る。そうした安心感が、「おめでとう」なんです。
お正月はおめでたいもの、理由なんて考えたことありませんでした。
一年生き抜けておめでとう、ぐらいかな?なんて思ってました。
またお正月を迎えれたことがおめでとうなのかなと。
だから、お誕生日とおんなじような気持ちで私はおめでとうと思っています。
I wrote:
1月1日になったから、さあ、おめでたいなんて、そんな人こそよっぽどおめでたいよね。
ああ、私ひどいこと書いてしまったわ。。。おめでとうございますって、きちんとご挨拶しているレスの方に悪かったかな?と後になってやっと気がついたのです。
おめでたいのは、どうやらわたしかも。あははは。
みどりさん wrote:
>鷲羽丸さん wrote:
>> 卒業後もわしは、当時のサークルの同期の連中のメーリングリストに入り、連絡を取り合っています。今まで、「連絡を取り合う」ことが「交友関係を維持する」ことだと気づかず、多くの人との関係を自ら断ち切っていました。
>
>そうなんですよねー。
>私もあるときそれに気づいたのですが、しかし、「連絡を取りあう」こと自体が難しかったりします。
>
>今回の逃亡先と同じ街に、古い友人が住んでいました。当時かなり親しかった友人ですが、やはりどうしても連絡をとることができませんでした。
>なんといって連絡を取っていいのかわからないんです。
>近くまできたからなんだというんでしょう? 会いに行ったとして、なにを話したらいいんでしょう? 二人きりで会ったらどうしていいのかわかりません。
>
>せっかく接点があった時代の友人とこうやってどんどん疎遠になってゆくんですね。
わたしも、昨年「いいかげん、家を出ねば…」と思って(ひとり暮らしをするための場所探しで)中央線沿線の某駅で降りた時。「あっ、ここ、彼女(友人)がいる所なんだ…。ここに住んでいるんだな」と思い出したまでは良かったのですが、その後「会ってどうするんだろう?」という思いにかられてしまいました。(それまでにも手紙のやりとりや、年に1度会う、ということをしてはいたのですが、互いに父親を亡くして以来(同じ年ではなかったのですが)、連絡を取り合えなくなってしまいました。こんなことが、連絡を取り合えないことにつながるなんて思ってもいなかっただけに、今思い返してもの悲しさも…。それだけに、決して人と接することが得意といえないわたしに、年賀状を送りつづけてくれたり、仕事絡みで悲鳴をあげるたび、心配してくれる友人たちを本当にありがたく思います。(そのくせ、未だに彼女たち[学生時代の友人・職場の同期の友人たちetc.]に、なんにも返すことができないでいるのだからなさけない、とも思うのですが…。)せめて、身近にいなくても、自分のことを気にかけてくれている人たちに、「ありがとう」の思いを伝えたい…そう思います。
シュッツさん wrote:
> あけまして
> おめでとう
>
> ……と言いますが、何がめでたいのでしょう?
> 何か不思議
こうもりさん wrote:
> 確かに、人間が便宜的に作り出した暦の中で、1年の1番はじめに来
> るとされる日の夜明けがめでたいというのはちょっと謎。
>
> ただ単に「想起した出来事にすぎない」とも言えそうですよね。
「一年の始まり」というのは、本来はどこにあってもいいはずのものです。
ですが、日本における年初というのは、「一日がいちばん短い日を乗りこえた次の新月」ということになっています。
明けない夜、満ちることのない月、長くなることのない昼の不安から解放される日が、「元日」なんです。夜はまた明ける。月はまた満ちる。昼はまた長くなって、暑い夏が来る。そうした安心感が、「おめでとう」なんです。
「冬期うつ症」というのがあって、日照時間が短くなると、人間は鬱になりやすいそうです。気分が「明るく」なったり「暗く」なったりするというのも、「明るい=活動的」「暗い=憂鬱」といった関連性があるからではないでしょうか。人間が夜行性だったら、「気分が暗くなる」が「うきうきと活動的になる」という意味になったかもしれません。
そんなわけで、「正月は、めでたい」のだとあたしは思っています。
(Maria)
シュッツさん wrote:
>あけまして
> おめでとう
>
>……と言いますが、何がめでたいのでしょう?
>何か不思議
確かに、人間が便宜的に作り出した暦の中で、1年の1番はじめに来
るとされる日の夜明けがめでたいというのはちょっと謎。
ただ単に「想起した出来事にすぎない」とも言えそうですよね。
シュッツさん wrote:
>あけまして
> おめでとう
>
>……と言いますが、何がめでたいのでしょう?
>何か不思議
年が明けたので自動的におめでたいなんて、なんかヘンだと子供の時から思っていたの。おめでたい気分には私はちっともならなかったから。1月1日になったから、さあ、おめでたいなんて、そんな人こそよっぽどおめでたいよね。
あけまして
おめでとう
……と言いますが、何がめでたいのでしょう?
何か不思議
「がんばれ」という言葉、これって、なぜか、命令する形。励ましの言葉なはずなのに。がんばるのは私なのに、なんで命令されてんの?
他人に命令されてがんばれる人、こなせる人、昔からそういう人ってすごいなあと思っていた。
いくら先生や上司から「がんばれ」と言われても、私が「そうしたい」と思わないことはできない。
と自分が言われると不快な言葉だから、なるべく「がんばれ」といわないことにしてる。でも、他にいい言葉って浮かばない。何かないかなあ???仕方なく使うと、あとで心が痛む。
でも、もうひとつ、「がんばれ」という言葉は、その事柄に対して責任があることを自覚させるために使う言葉なのだろうか?という考えも、最近うかんできた。
「この仕事を最後までやり抜きなさい」
「最終的な責任はあなたにあるのです」
もちろん実際の最終責任は上司にあり、私が失敗しても上司が責を負うのだけれども。信頼関係の構築を上司もしようとしているのかもしれないし。
鷲羽丸 wrote:
> 卒業後もわしは、当時のサークルの同期の連中のメーリングリストに入り、連絡を取り合っています。今まで、「連絡を取り合う」ことが「交友関係を維持する」ことだと気づかず、多くの人との関係を自ら断ち切っていました。
そうなんですよねー。
私もあるときそれに気づいたのですが、しかし、「連絡を取りあう」こと自体が難しかったりします。
年賀状は絶好のチャンスなんでしょうけど、とうとうそれも放棄してしまいました。
今回の逃亡先と同じ街に、古い友人が住んでいました。当時かなり親しかった友人ですが、やはりどうしても連絡をとることができませんでした。
なんといって連絡を取っていいのかわからないんです。
近くまできたからなんだというんでしょう? 会いに行ったとして、なにを話したらいいんでしょう? いまとなっては別に共通の話題があるわけではないのに。
もう少し仲間が集めて、3ー5人で集まるのなら、彼らの話を脇で聞いて、笑ったり、口をはさんだりできますが、二人きりで会ったらどうしていいのかわかりません。
せっかく接点があった時代の友人とこうやってどんどん疎遠になってゆくんですね。
杉山登志郎氏・辻井正次氏編著「高機能広汎性発達障害」(ブレーン出版)の中より引用。(カッコ内を除く)
=====================================
彼ら(注・ASなど、「高機能広汎性発達障害」の青年たちのこと)は自分の世界のなかでは永遠の幼さや純粋さを維持していけるかのようである。自分たちの幼児期から持ち続けてきた「こだわり」も趣味という社会的にも受け入れられるような形に「合わせ」て呈示することが可能になる。学校でも「クイズ研究会」や「鉄道研究会」「アニメ同好会」など、いわゆる「おたく」的な文化系サークルでは「強迫的」とカナーが記述している長年の熱心さで知識を蓄えているだけに、その知識の豊富さに関しては受け入れられる。「変わっているが優れたところもある奴」として受け入れられ、対人関係が問題とされて排除されなければ楽しい学生生活も可能である。
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わしの大学時代が、まさにそうでした。サークルに入ったことで、今まで経験したことのない「交友関係」を構築できました。
わしは「クイズ研究会」に入っていたのですが、ここでは不思議とわしの存在がすんなりと受け入れられました。入会後すぐに行われたサークル内新人戦で、かなりいいところまで行ったことで注目され、すぐにサークル内に名が知られました。
また、周囲が総じて「どこか変なところがあるヤツ」ばかりだったので、「ひときわヘンなヤツ」のわしの存在も、それほど際立ってなく、ある程度受け入れられた、と思われます。「ある程度」というのは、「知識」「クイズ」以外の分野での他人とのつながりが、うまく作れなかった、ということです。
卒業後もわしは、当時のサークルの同期の連中のメーリングリストに入り、連絡を取り合っています。今まで、「連絡を取り合う」ことが「交友関係を維持する」ことだと気づかず、多くの人との関係を自ら断ち切っていました。サークルに在籍し、そのことを「学習」して、数少ない「交友関係の維持」に努めています。
これがいわば「自閉圏と非自閉圏の接点」といったものかもしれません。
他にもこういったものが、なにかないでしょうか?
大学卒業から今年で6年 鷲羽丸
ふれ wrote:
「ガンバレ」って言われると、「オマエ、がんばってないし、がんばれって言ってやらなくちゃならないダメな奴なんだよ、勝手にやめたりするなヨ。とにかく死ぬまでやれ。」って言う風に聞こえなくないと思うの。こんなこと思うのは私がひねくれているからかしら?
ふれさん、私にも「がんばれ」という言葉は一言一句、ふれさんが言うとおりに聞こえます。私が「がんばれ」と言われたら一瞬のうちにそう心の中で翻訳します。私に死ねと言ってるんだなと考えてしまいます。その他、「まじめなんだね」は「あんたってつまんない人間なんだね。つきあいにくくてあんたのことなんて大嫌い」、「頭がいいんだね」は「つまんないことばっかり考えて理屈ばっかりこねてないで少しは仕事でもしたら?あんたの話なんて聞いていられない」と翻訳します。
私は長い間、自分がひねくれているのだと思っていました。でも違うようです。ppさんとひま人さんのカキコによればそれは私達が火星人のせいなのです。その証拠に私達が翻訳できない言葉も数多くあります。ふれさんも以前、「言葉の丸飲み」をしてしまうとおっしゃってましたよね。私もそうです。翻訳できない言葉が数多くあります。
たとえばこれは私がまだ若い新婚の頃の話です。私はアルバイトで病院に勤めていました。車をまだもっていなかったのでアパートからは自転車で通勤していました。職場の上司は明るく優しい人で自転車で通勤している私に「帰りは車で送ってあげようか」と親切に申し出てくれました。でも車で送ってもらうと次の日の出勤に困ります。それで私は感謝しつつも「自転車で通勤しているので結構です」とお断りしました。でも親切な上司はその後3回、車で送ることを申し出てくれたのです。私はその3回とも丁重にお断りしたのですがその後すぐに私は病院を首になってしまいました。
私は何が何だかわかりませんでした。でもよくよく考えてようやくわかったのです。上司の「車で送ってあげようか」という言葉は「ご主人に黙っていいことをしようよ」という浮気の誘いだったということが。私はまだ若く世間知らずでその言葉を正しく翻訳することができなかったのです。今ならわかります。かな?でも年齢制限でそんな言葉をかけてくれる人もいなくなりましたが。
地球人の言葉を正しく理解できないのは私たちがひねくれているせいではなく、日本語に問題があるせいでもありません。それは私たちが火星人のせいなのです。地球で苦労している私たち。せめて火星人は火星人同士、分かり合える言葉を使いたいものです。
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© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami