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Re: どうしてもできないんです。 10266へのコメント
No.10398  Mon, 14 Jan 2002 20:24:19 +0900  あおび [この発言にコメントする]

ご意見ありがとうございました。今のところは落ち着いているみたいですが。でも、やっぱり不安というか、常にパニックになりそうな要素というか、タネはもっています。でも、ゆっくりしてしっかりやっていきます。


Re: 「どっちでもいいこと」が決められない。(第二章) 10336へのコメント
No.10397  Mon, 14 Jan 2002 19:26:29 +0900  Maria [この発言にコメントする]

 第2章 「自閉症」という概念の成立

 自閉症方面の疾患は、じつにいろんな名前で呼ばれています。これは、医学・教育・行政それぞれの分野で呼び名が違い、あるいは社会の人たちが、医師・教師・親として自閉症患者をどう捉えていて、どう扱うか、どう接するかによって、呼び名が違ってくる、ということだったりします。

 代表的なものを上げてみましょう。

・カナー型自閉症/アスペルガ−型自閉症
・自閉症/高機能自閉症
・自閉症/アスペルガー症候群
・広汎性発達障害/高機能広汎性発達障害
・情緒障害

 ……とまあ、これだけあったりします。
 「名は体を表わす」という言葉もありますので、まずはこの「名前」というものについて説明します。

 で、最初に「自閉」という概念について。

 「早発性痴呆症」という言葉が、その昔存在しました。現在では「精神分裂症(分裂病)」、あるいは「スキゾフレニア」と呼ばれているものです。現在、「精神病」と呼ばれているのは、ほとんどすべてこの「精神分裂症」です(コラム参照)。

 そして、「精神分裂症」のうちの、「破瓜型精神分裂症」の症状の中から、「自閉」という言葉が出てきたんですね。

 そもそも、この精神分裂症が「早発性痴呆症」と呼ばれるようになったのは、本来は老人に起きるはずの痴呆症によく似た症状が、二十代の若者に起きる、という理由からでした。で、この「早発性痴呆症」を詳しく調べてみると、「痴呆」というような知能の低下とは違った、「自己の統制ができない」という「乖離」、あるいは「他者との心の通いあいがうまくいかなくなる」という「精神的な孤立」という症状が中心にある、ということが分かってきたわけです。この「精神的な孤立」を「自閉(autism)」呼んだのが、この言葉が使われたそもそもの始まりでした。

 ところが、一九四〇年代に、それまで「精神薄弱(智恵遅れ)」とみなされていた子供の中に、この精神分裂症によく似た「知能は必ずしも劣ってはいないのに、自閉傾向が見られる」子供がいることに気づいた人々がいました。
 すなわち、「二歳か三歳の子供に、『自閉』を特徴とする精神分裂症によく似たもの」があるということが、わかってきたわけです。

 この「『自閉』を主たる特徴とする、幼児に見られる、精神分裂症によく似たもの」を、アメリカの精神科医カナーは「早期幼年性自閉症(Early infantile Autism)」、ヨーロッパの小児科医アスペルガーは「自閉性性格異常(Autistic Psychopath)」と呼びました。当時は、「精神分裂病の子ども版」といった認識だったようです。

 で、本来ならこの二つは同じものとしてひとまとめにされそうな気がするのですが、実際にはそうなりませんでした。確かにカナーが報告した病像とアスペルガーが報告した病像はその後「自閉症」というひとつの概念で結びつけられたものの、現在でも「カナー型自閉症」と「アスペルガー型自閉症」は別の概念だとされています。
 では、なぜ「カナー型」と「アスペルガー型」に分けられているか。
 ひとつは、症状に多少差があるらしい、ということがあったようです。

 カナー型には、明確な幼児期の言語発達の遅れがある。
 アスペルガー型には、言語発達の遅れがあっても、それほど深刻ではない。

 そう言われていました。

 あるいは、カナーはこの原因を、「何らかの原因で精神の発達が阻害されたもの」と考えたのに対し、アスペルガーは「性格の極端な偏り」と考えたという、原因に対する考え方の差、というものがあったりしたのもあると思います。
 ただ、この二つが同じものか違うものかについては、まだはっきりとした結論は出ていません。カナー型と診断されたあと、アスペルガー型に移行したという例も多くあります。

 知能や言語能力や学習能力によって、「自閉症」と「高機能自閉症」に分けることもあります。
 典型的なカナー型自閉症だけを「自閉症」と呼び、言語の遅れのない、比較的軽いものを「アスペルガー(氏)症候群(Asperger's syndrome)」と呼ぶ人もいます。
 また、自閉症とアスペルガー症候群をまとめて「広汎性発達障害」と呼び、とくにアスペルガー症候群のことを「高機能広汎性発達障害(high-functioning pervasive developmental disorder)」と呼ぶひともいます。

 ……ふぅ。大変だこりゃ。

 いろいろ書いてはきましたが、ぶっちゃけた話、こうした『「自閉症」およびその亜型とみられる症候群』の名前については、あんまり意味がない、ということだったりします。

 そんなわけで、上記の『「自閉症」およびその亜型とみられる症候群』の名称は、結局は「自閉症のようなもの」の言いかえにすぎません。ですから、こういうものを全部ひっくるめて、「自閉症圏」とか「自閉症スペクトラム」(あるいは「自閉症スペクトル」)とか呼びます。
 だけど、これはあんまりいい言葉じゃないのね。「圏」というと明確な境界線がありそうな感じだし、「スペクトル(ラテン語のスペクトラム)」という言葉には、本来「領域」という意味はありません。「幻影」です。これはプリズムを使って光を屈折させたときに現われる光の帯の意味で用いられ、分光学(ドイツ語のスペクトルアナリーゼ)の語源になり、「領域」の意味でも使われるようになった弧度場です。

 それにもう一つ。果たして『「自閉症」およびその亜型とみられる症候群』は「治る」のか?という問題があります。
 たとえば、眼鏡をかけることで、近視の人でも普通の人と同じように社会生活を送ることができます。それと同じように、「〜症」「〜症候群」「〜障害」といった言葉は、「社会的な対人技術(ソーシャル・スキル)」を身につけることで「克服」した人間には使えないわけです。
 確かに社会にはちゃんと適応していて、社会的なトラブルも起していなければ、知能テストなどでは「正常」の範囲内に納まってしまう。だけど、生きてゆく上での明確なしんどさ、鬱陶しさ、息苦しさを常に感じている。こうした人々を、なんと呼んだらいいのか。こういう問題があります。

 そこであたしとしては、「客観的に『自閉傾向』が見られるひとと、自分の『自閉傾向』をはっきりと意識していたり、それによる苦痛を感じているひと」を全部ひっくるめて、「自閉症方面(autisum region)」という、あっさりした名前で呼ぶことを提唱します。
 これで、「医師によってはっきり病気と診断された」レベルの人から、「私にはひょっとして自閉症の傾向があるのかしらん?」みたいなレベルの人まで全部含める呼び名ができたわけです。

 問題はもう一つ残っています。『「自閉症」およびその亜型とみられる症候群』の疑いありとされ、教育上、なんらかのケアを行なう必要のありそうな子供たちをどう呼ぶか、です。

 教育上では、知能や言語といった、学習に直接かかわる部分の能力に着目して、「高機能」という言葉を使うことがあります。「高機能自閉症」とか、「高機能広汎性発達障害」とかね。
 ですが、じっさいのところ、「自閉症方面のお子さんをお持ちのお母さまがた」には、この「高機能」って言葉はあんまり評判よくありません。「あそこの家の子は『高機能』だけど、うちの子はそうじゃない」とかいった、無用の摩擦を生む原因になっちゃうからです。

 で、似たような理由で「自閉症」という言葉もあんまり好かれないのね。お医者さんに「あなたのお子さんはナニナニ(アスペルガー症候群・広汎性発達障害・情緒障害など)です」と診断されて、「それって『自閉症』とは違うんですか?」とお医者さんに訊き返したとしても、明確な答えはなかなか返ってきません。なぜかというと、「自閉症」というと「非常に深刻な障害」みたいな印象があるからなんですね。

 これは、「自閉症」というと、「人と人との心のつながり」という、人間の精神の根源みたいところでコミュニケーションができない、という絶望感、あるいは危機感があるからだったりします。まあ、実際にはそんなご大層なもんじゃないんですけどね。「自閉症」の人の考えていることは、わりと分りやすく、なおかつ相当に論理的です。ただ、いわゆる「普通の人間」には理解しにくい、ってだけの話です。

 あたしは一応名門といわれる高校(都立日比谷高校です)を出て、ちゃんとした大学(日本大学理工学部航空宇宙工学科です)も出て、けっこう優秀な社会人として生活してきました。で、そのあたしにしてからが、よく考えると自閉症方面の人間なのね。だから自閉症方面のお子さんの考えていることがよくわかる。だから、あたしは自閉症方面のお子さんとそのお母さんの間の通訳みたいな存在だったりします。で、むしろ「普通の大人」の考えていることのほうが、よっぽどわからない。

 だから、基本的には、よっぽど重篤な、発達の遅いお子さんを除けば、自閉症方面の子供が社会に適応してくのはそう難しいこっちゃないと思うのね。で、自閉症方面の子供にはかなり強烈な「秩序に対する強い興味」っていうのがあるから、「読み・書き・そろばん」といった基本的な部分は、教えかたによっては結構とんでもない能力を発揮します。実際、自閉症方面の人で、翻訳家やコンピュータのプログラマとして活躍してらっしゃる方もいらっしゃいます。

 けっこう身も蓋もない言い方だけどさ、学校の成績さえ良ければ世の中けっこう何とかなっちゃいます。「学歴社会の終焉」とか「実力主義の時代」とかいっても、まだまだ大丈夫。マニュアルがしっかりしていて、職場の人間関係が良好だったら、<私たち>は相当にうまくやっていけます。

 ただ、そうやって才能を伸ばすことをえてして邪魔してしまうのが、親御さんの「この子をちゃんとした子供にしてあげよう」という思いだったりするんですね。

 自閉症方面の子供というのは、もともと「精神の造り」が違うのね。それを「普通」にして、「普通の世の中」で「普通に生活」させようとなんかしたら、それこそ死んじゃいます。
 ただ、自分の流儀をとことん通そうと思うと、世の中では生きていけない。だけど、世の中に合わせていたら、苦しい。その間の、どこか適当な場所を見つけること、あるいはそういう場所を作ることのお手伝いが子育ての本質である、というのを理解しておくべきだと思います。

 えー、そんなわけで、「自閉」とか「高機能」とかいった言葉を使わない、『「自閉症」およびその亜型とみられる症候群』の言い換えとして、今後は「関係性発達障磑(RDD:Rerativity Development Disorder)」という名前を使うことにします。

 ところで、RDDのお子さんに、「情緒障害」という診断がつくことがあります。なんか、この「情緒障害」っていう言葉だけ、なんとなく毛色が違ってますよね? これはどういうことか、ということです。

 じつは、「情緒障害」という言葉はなかなかに困った言葉で、これには大きく分けて二つの意味(行政上の意味と教育上の意味)があり、そのどちらかによって関連性発達障礙を含んだり含まなかったりします。

 成人の場合、精神的な障害は大別すると以下の四つに分けられます。

1)精神薄弱(智恵遅れ、精神遅滞)
2)精神病。多くは精神分裂症(分裂病)。かつては癲癇、躁鬱病を含んだが、現在は除外。
3)精神病質(サイコパス、またはソシオパス。性格異常、変質者など)
4)神経症(ノイローゼ)。乖離障害(ヒステリー。多重人格を含めることも)や同一性障害はここに入る。

 で、関連性発達障礙(自閉症)はこのうちのどこに入るか、ということになります。

 まず、(1)の精神薄弱は除外していいでしょう。そもそもが、「精神薄弱とは明らかに異なった特徴を見せる一群の子供たちがいる」ということで、「自閉症」という概念ができたのですから。

 つぎに、(2)の精神病。これはどうか。確かに自閉症と精神分裂症は一見よく似ています。けれどその本質において違いがあるらしい、というのが分かっているのでこれも除外します。

 一方、(3)の精神病質(性格異常)という概念は本人の生育歴などの影響が大きく、大人に対しても問題の多い概念であり、まして人格の形成期にある子供には使わないという考え方が強かったりします。しかし厄介なことに、関連性発達障礙を「性格の偏り」とする説があるので、この「精神病質(性格異常)」という言葉も外すわけにはいかなかったりします。

 で、最後の「神経症」なんですが、この言葉に対しても、

1)そもそも、子供に「神経症」があると考えていいのだろうか。
2)仮にあったとして、子供に対して「神経症」という診断名を使うべきなのかどうか。
3)「子供の神経症」という言葉が使えないとすると、大人の「神経症」にあたる子供の行動異常を何と呼んだらいいのか。

といった問題があります。なお、「行動異常」のことを、「問題行動」とか「逸脱」とかいうこともあります。「問題行動」とかいうと暴力や他動をイメージしがちですが、チックや夜尿症も「問題行動」と呼びます。これでは誤解を受けやすいので、「逸脱」という言葉が使われるようになったようです。

 で、「情緒障害」という言葉は、こうした議論の中から生まれた言葉だったりします。

 昭和三十六年(一九六一年)に、児童福祉法の一部改正により「情緒障害児短期治療施設」が新しいタイプの施設として発足しました。つまり、「情緒障害」という言葉は、もともと行政上の言葉でした。
 法では、「この施設は情緒障害を有する児童をその障害の軽いうちに収容し、あるいは通所させて短期のうちにこれを治すことを目ざす」となっているのだけれど、「情緒障害」とは何かという定義は、法律にもそれを受けた政令にも書かれていませんでした。
 昭和四十二年になって、中央児童福祉審議会が厚生大臣に対して「情緒障害児短期治療施設の対象となるべき子供」についての意見具申を行なったのですが、そこでは施設の対象者を、たとえば人間関係がうまくいかないなどの原因で感情生活に歪みを生じ、そのために行動異常を起したものに限ったため、「自閉症、自閉傾向の強い子は除く」となっていました。

 これに対し、文部省が昭和四十二年(一九六七年)に行なった児童の心身障害に関する実態調査の中では、「情緒障害」として「緘黙の疑い、登校拒否の疑い、神経症の疑い、自閉症の疑い、精神病の疑い」が挙げられています。

 現在、診断上は「人間関係がうまくいかないなどの原因で感情生活に歪みを生じ、そのために行動異常を起した子供」は「病気」とはみなさないため、「情緒障害=人間関係に関する障害=自閉症」という捉え方をされています。

 つまり、診断上は「情緒障害」≒「自閉症方面の障害」という扱いのようです。

 次章では、「自閉症」の主症状、および広く見られる症状やその理由、そしてどのように「関係性発達障磑(RDD)」という考え方にあたしたちがたどりついたか、について話したいと思います。

註)
 このあたりを詳しくお知りになりたいかたは、玉井収介さんの『自閉症』(講談社現代新書697)をどうぞ。

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☆コラム/「精神病」とは?☆

 かつては「三大精神病」という言葉があり、これは「精神分裂症」「癲癇(てんかん)」「躁鬱(そううつ)病」のことを指していました。

 その後、癲癇の原因はほぼ解明され、治療法も確立されたので、「精神病」からは除かれました。
 また、「躁鬱病」は、現在、

 1)鬱病(単極性鬱)
 2)躁鬱病(双極性躁鬱病)
 3)気分変調症(神経症性鬱病)

に分類されています。なお、これ以外に感染症や薬物中毒によって起きる脳器質性鬱病や症候性鬱病といった鬱病があります。

 (1)の鬱病と(2)躁鬱病に関しては「選択的セロトニン再阻礙(碍)薬(SSRI)」という薬を使った治療法が確立して「精神病」という分類からは外され、「気分障害(mood disorder)」と呼ばれるようになりました。わりとよく見られる症状で、しばしば再発もするので、最近では「心の風邪」くらいの扱いです。この「気分障害」で自殺しちゃう人もけっこういらっしゃいますから、さっさと病院へ行って治しちゃうことをお勧めします。

 いっぽう、「気分変調症」は「神経症」の一種として扱われており、主にカウンセリングと抗不安薬(癲癇の治療にも使われます)による治療が行なわれます。
 これは相当にしつこい病気で、抗鬱剤もあまり効きません。「病気」と考えるより、むしろ性格の一部だと思って、気長につきあうしかないと思います。
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Re: 私は障害者手帳が欲しいです。 10313へのコメント
No.10396  Mon, 14 Jan 2002 18:51:10 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

 すみません。ちょっと補足レス…

武田好史さん wrote:

>2.知的障害者手帳
>IQがやや低く、自分で考えたり・判断するのが苦手な人

 本来、発達障害者が取得すべきなのはこの手帳なんですけど
、これがすごく取得しずらいです。ボランティア先でも

(1)測定された知能(IQ)
(2)障害そのものの重さ
(3)適応状態

の3領域でわたしよりも困難の重い発達障害者でも、厳しいみ
たいです。


>3.精神保健福祉手帳
>ストレスに弱く、人間関係をうまくとるのが苦手な人

 で、多くの軽度発達障害者は精神保健福祉手帳の取得を目指
すことになるそうです。二次的障害が発生している場合は、発
達障害よりも精神障害や神経症による困難を主張した方が障害
者手帳を取得しやすくなるためです。


Re: オフ会(東京方面)に際してのアンケート 10324へのコメント
No.10395  Mon, 14 Jan 2002 17:36:14 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

やっとこさ、スキーキャンプから帰ってきたこうもりです。鯨夢
ミグさん、話を進めておいていただいてありがとうございました。

鯨夢ミグさん wrote:

>ミルラさん、いかがでしょう?
>
>開催場所:新宿近郊
>開催会場:参加人数、時間帯によって調整致します。
>費用:実費

 とりあえず、待ち合わせ場所は例によってJR新宿駅の南口改札
口にしとくのがいいかな、と。

>1.日取り 1月26日(土) OR 2月23日(土)

 現時点までの参加希望者は1月26日が大丈夫みたいですね。

>2.時間帯 11:30集合 OR 13:30集合 OR 17:30集合

 現時点では正午がいいという人が多いようです。

>参加希望のある方は、20日13:00までに、掲示板上にレスを下さる
>よう、お願い致します。(20日13時以降に集計いたします)

これについては追加です。掲示板にコメントするのが不安だという
人は、成人LDの会のメールアドレスに参加の申しこみと日時の希望
をお知らせください。

(連絡先)seijinld@msg.biglobe.ne.jp

 また、すでに掲示板で希望を出された人も緊急連絡先をお知らせす
る必要上、上記のメールに連絡してくださると助かります。


Re: 再び考えます2. 10384へのコメント
No.10394  Mon, 14 Jan 2002 16:28:06 +0900  Maria [この発言にコメントする]

I wrote:
> これはわかんない人にはわかんない話なんだけど、「ヤッちゃった」「ヤられちゃった」という関係は、すごく重いのね。「援助交際」とかいったものを認めるべきでないのは、この「重さ」がわかってない人間が、セックスという関係を結んじゃいけない、ということだったりします。

白さん wrote:
> ここのところがすごく気になるんですが、もう一度聞き直してもいいでしょうか。

 いじめによる自殺、というのが問題になったことがあります。中高年の自殺が統計上の死亡率を押し上げるほどに増加して社会問題化しているという現実もあります。

 「正しい」ことをしているひとが、「間違った仕打ち」をされることで自殺してしまうのはなぜでしょうか。それは、「セルフ・イメージ」と、「いま自分が置かれている状況」に乖離があって、セルフ・イメージを維持できなくなっちゃうからです。だから、自分が壊れてしまうまえに、自殺する。

 「自分はまちがっていない」というのが分っているのに、大勢に取り囲まれ、袋叩きにされ、屈服されられ、言いなりになっている自分というのが認められない。学校はちゃんと対処してくれないし、親に言おうにも、そういう自分のみじめな姿というのを他人に訴えることで、そういう「事実」が公になることが怖い。そういうセルフ・イメージが社会に定着してしまうのに耐えられない。
 中高年のサラリーマンは、自分たちが営々と築いてきたものが否定され、自分の存在が否定されるのに耐えられない。「自分たちのしてきたことは正しかった」という主張が、社会によって否定されてしまう。そして、家族にも受け入れられない。だから自殺する。

 変な話ですけどね、「相手と一緒にいるのが楽しい」というのが苦痛だから、一緒にいたくないという人もいるんですよ。親が厳しくて、自己否定的に育てられた人は、親の前で人に褒められて喜んだりすると、あとで親に「つけあがるんじゃない」「相手はただお世辞を言っているだけなのがわからないのか」「うぬぼれるんじゃない」と折檻されたりするのね。そういうことを繰返していると、人に賞賛されるのが怖くなってしまいます。それを素直に信じて、後で痛い目に遭うのが怖い。で、逆に自分を叱ってくれる人に惹かれてしまったりします。「この人は自分を愛しているから、自分を叱ってくれるのだ」みたいに信じこんじゃうのね。でないと、「自分の親は自分を愛していたのだ」ということが信じられなくなってしまうからです。

 だから、資産家で良家のお嬢様で美人、みたいな人が風采の上がらない貧乏学者と結婚してけっこう幸せになってたりもします。男性と親しく接して、会話を盛り上げて、それで楽しく時間を過ごす、みたいなことは「商売女みたいな真似」として否定されていたりするわけです。で、周囲の人がちやほやしてくれるのも、財産とか、家柄とか、顔とか、そういったものが理由であって、決して自分の人間性によるものではない、みたいな思いこみがあったりします。
 で、そういう人の前に、自分の機嫌を取ろうとも思わず、金だの名誉だのに興味を持たず、「女にモテよう」なんていう意欲を持ち合わせておらず、自分が好きなことばかり熱心に話し、それでも自分が「うんうん」と話を聞いてあげると喜んでくれて、しかも世の中の役に立つ仕事をしているひと、とかいった男性が現われると、がぜん「世話焼き女房」の血が目覚めてしまって、「良妻賢母」への道を突っ走ってしまったりするわけです。
 でまあ、だいたいこういう女性は高学歴なので、夫の学界における位置、みたいなのも分ってしまうのですね。有名で業績もあるのにお金はない、みたいな先生はいっぱいいらっしゃいます。そういうのを陰で支えるのが楽しい、という女性は多かったりします。深窓の令嬢とかってつまんなそうだけど、「敏腕マネージャー」というのは女性の職業としてはかなりカッコいい。しかも学問的に意義のあること、とかいった錦の御旗があるもんだから、堂々とできる。

 セックスというのは、快感にせよ苦痛にせよ、暴力と似通ったところがあるんです。それを「自分のもの」として引き受けるのに、「プロ意識」にせよ「パートナーシップ」にせよ、それなりの基盤が必要なんです。遊び半分で手を出すと、現実の感覚とセルフ・イメージの間の調節がつかなくなって、精神がおかしくなっちゃうんですよ。

 「不感症」という言葉がありますが、この中にはいろんなケースがあって、中には「快感恐怖」なんていうのもあります。つまり、セックスを「気持いいこと」として受け入れてしまう自分というのを認めたくないものだから、セックスを嫌悪する。その結果、暴力的で、苦痛に満ちた、快感のないセックスだったら平気、という女性もいるんです。

 高校生にこういう話をするのは早すぎるかも知れないけど、エッチが上手な男性の、たぶん99.7パーセントくらいは奥さんに頭が上がりません。男と女というのは、友情で結ばれているうちは、たとえ相手に嫌われても言うべきことを言う、ということができます。ところが男と女の関係になっちゃうと、女性は「相手に嫌われたくない」というのが先に立って、言いたいことを我慢してしまう……のは最初のうちで、結婚しちゃうと居直るのですね。で、セックスの快感というものは、いやおうなしに女性をそこまで追いつめてしまうのですよ。で、男というのは、そういう女性に対して「守ってやらなきゃいけない」という気持にもなるわけで、同時にそういう自分の優位性みたいなものを実感しているから、奥さんの尻に敷かれてニヤついていたりするのですね。「都合が悪くなると、すぐエッチでごまかそうとするんだから」「悪い。反省してる。ごめん。謝る」「誠意が感じられない。目が笑ってる」みたいなカップルは、おおむねうまくいってると思います。

 山仲間と夫婦に通じるものは、「お互いが相手に対して、安心して無力でいられること」だと思います。で、それは同時に、そうしたパートナーが自分には存在する、という喜びでもあるのね。自分しか信じられない状況というのは、社会性哺乳類である人間にとっては苦痛なんですよ。
 だから、「プロ集団」というのは居心地がいい。そのかわり、過剰な「甘え」は許されず、自分に割り当てられた職務を忠実にこなすという義務はありますけどね。

 そんなわけで、お互いに対して責任を果たすという能力と契約関係のない男女間のセックスというのをあたしは認めません。逆に、そういう能力と契約関係にもとづくセックスというのは基本的に認められてしかるべきだと思うから、「売春」というのを犯罪だとは思いません。それがちゃんとした「双方の合意に基づく商取引」であればね。ただ、自分というものがしっかりしていないと、そうしたビジネスライクな関係で自分を納得させることができません。
 その意味で、ビジネスに徹するという「プロ意識」というものが、娼婦には要求されると思います。でまあ、その徹しきれない部分につけこむのがヒモという存在だったりするのですけれどね(^_^;)。そんなわけで、援助交際で稼いではホストに貢ぐ女子高校生、なんていう構図ができあがっちゃうわけです。だから、あたしは援助交際に反対します。あれははっきり言ってビョーキです。

白さん wrote:
> ところでMariaさん、僕ガンダム思いっきり知ってますよ。

 あたしはよく知りません(^_^;)。このネタは中島秀之さんという、コンピュータ・サイエンスの分野ではかなり有名なひとが、認知心理学会の発足にあたって『bit』というコンピュータ・サイエンス誌によせた文章で使われたネタのパクりです。
 中島さんに「中島さん、ガンダムファンなんですか?」と訊いたら、
 「きみ、ガンダムファンじゃないの?」。
 「あたしは『宇宙戦艦ヤマト』ですもん」
 「ひょっとして、第一回放映組か?」
 「そうですけど?」
 「ぼくはあのとき留学してて、第一回放映を見てないんだ。だから、第一回放映組には、コンプレックスがあるんだ!」
 世界に知られる「DEC−10 Prolog」のインプリメンタの知られざる劣等感、というお話でした。まる。

 (Maria)


Re: 再び考えます2. 10384へのコメント
No.10393  Mon, 14 Jan 2002 16:07:30 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

白 wrote:
>昨日はすっかりパニックで一日過ぎてしまいましたが、もう一度考えてみようと思います。
>取り乱してすいませんでした。
>
>とりあえずですね、僕は今、女の子のことがどうのこうなんじゃなくて、まだよくわかってはいないけれど、今やASの感性そのものに興味を持っているわけですよ。
>いや、興味と言うと、なんだか失礼な言い方じゃないかと思うんですが、最初、これも失礼な言い方なんですが、敢えて伝えるためにそのまま表現すれば、とても受け容れられないと感じたASというものが、実はすごく面白い(これも失礼ですね)物の見方なんじゃないか、それがまだどういものなのかは、繰り返しますが、分かっているわけじゃないですよ。でも、ここを乗り越えれば、何かが見えてくるような、そういう感覚ですね。
>うまく伝わらないかもしれないけれど、ちょっとどきどきするような。
>僕もようやくここまで来ました。
>
ASの女の子の心理を知りたかったら、鬼束ちひろの「INJECTION」という歌を聴いてごらん。
 これほどまでに近いのは、俺も聴いたことがない!


「横並び」形成の一翼
No.10392  Mon, 14 Jan 2002 15:13:19 +0900  鷲羽丸 [この発言にコメントする]

 日本社会を形容するとき、よく言われるのが、「“みんな同じ”の横並び」。
 わしはこのような社会を形成する一翼を担ったのは、教育現場の一部の教師たちではないかと思えてならないのです。

 彼らははなから「競争は悪」と決め付けています。
 競争なんかせず、学校の成績も徒競走の順位も「みんな同じ」ならば、人はみな平等になり、平和に暮らせる。そう考えてきました。競争によって差をつけるのは差別につながるからダメだ、と言うのです。
 しかし、それはまったくの誤りでした。
 「みんな同じ」が、「異質なものを排除」の考えを生み出してしまったのです。

 いつだったか、一部の教師たちの大会で、東京都の教育長が来賓(つまり、教師たちが招待した)として挨拶に立ったところ、なんと彼らは「帰れ」コールを浴びせました。自分たちの気に入らないものを排除する、ということを率先してやったわけです。
 こんな人たちが教師の中にいるのですから、「多様な考えを認める」ことなど望めはしません。

 不思議なのは、こういった教師たちの実態を、なぜマスコミはあまり取り上げないのでしょうか? ということです。
 
 100%正しいことなど存在しないと考える   鷲羽丸


Re: 再び考えます2. 10384へのコメント
No.10391  Mon, 14 Jan 2002 14:58:32 +0900  Maria [この発言にコメントする]

白さん wrote:
> 関西の人ならわかると思うんですが、これって確か、ある意味誉め言葉、悪く言っても親しみの表現なんですよね?(実はちょっと不安。あってるんでしょうか。)

 東京生まれ東京育ちのあたしとしては、「あほ」という言葉はあまり好きではありません。
 遠藤周作さんに『おバカさん』という小説があって、この小説のモデルはたしか新宿・歌舞伎町で『エポペ』というバーを経営しておられるジョルジュ・ネランさんという牧師さんだったりします。大阪の「あほ」が人間の本性のようなものに忠実なこと、つまり「自分に正直」な人間の行動に対するものであるのに対し、東京の「ばか」は世俗の名利や出世・栄達・富を離れ、損得勘定抜きで自分の信念を貫いてゆくことに対するものであるような気がします。大阪の商人文化、東京の侍文化の差、とも言えます。
 そういえば、大阪では福袋の中身が気に入らなかったから取り替えてくれ、というお客さんが多いそうです。東京ではちょっと考えれません。

> 「お前変ってるよなあ」は、僕と僕の友人たちの間では、明らかに誉め言葉です。
> 「変人」というのも、言ってみれば一つの称号ですね。
> 「おもしろいぞ」とか「受けてるぞ」とか「大好きだ」とか、場合によっては「お前は天才だ」という感じでしょうか。

 この「変人」が褒め言葉だというのも、東京人の感性、よくいって「都会人の感性」なんですよ。
 「社会的な規範」というものを尊重しない文化、というのがあります。自分の好きにできる範囲は大きい方がいいじゃないか、禁止されていないことはやっていいのだ、という考え方です。だいたい「田舎」ではこういう考え方が支配的です。日本では非常口に「非常の際はここを開けてください」と書いてありますが、アメリカに行ったら「非常の場合以外はここを開けるな」と書いてありました(-_-;)。まったく田舎はこれだから。
 田舎では、「変人」は「あいつは変人だから」ということで「特別扱い」をされてしまいます。つまり、社会的な規範から外れた扱いを受けても、「あいつは変人だから」ということで、通ってしまいます。
 ところが都会では、それほど迷惑でなく、お互いを尊重するという合意があれば、誰でもが……つまり、変人であろうがなかろうが関係なく、同じ扱いを受けることができます。だから、「変人」であることが褒め言葉になります。「変人」であることによって、不利益を受けることがないから。
 ところが田舎者が都会に出てくると、「禁止されていないことは、やっていいのだ」と思ってやりたい放題をやってしまいます。で、都会人に「そういうことは、やってはいけないのだ」とたしなめられ、「そんなことがどこに書いてあるんだ。どこにも書いてないじゃないか。おれはやりたいんだ。だからやっていいんだ」と喧嘩になります。
 そうして世界最大の訴訟大国アメリカというものができあがってしまったのだな(-_-!)。

 都会というのは、わりと好きなことができるところなのね。で、田舎者がその自由に憧れて都会に出てくるんだけど、そのうち都会の生活に慣れてくると、他の田舎者の慎みのない振舞にかつての自分を見てしまって、「いかん、これでは世の中がおかしくなってしまう」と思って自ら規範を身につけるようになる、という構造になっているわけです。
 で、日本人にはそれができました。百万都市であった江戸には都知事にあたる町奉行が二人とその配下の同心数十名以外に地方公務員というのがいなかったのね。で、その他の業務はすべて民間委託だったわけです。だけど江戸の住民はその中で自分たち自身を統治していったのね。そういう「自由と自律性の間のバランス感覚」が、おそらく都会的センスであり、「粋」というものだったのではないかなぁ、と思います。「『粋』とは常識から半歩踏み出すことだ」と言ったのはたしか池田弥三郎さんでした。

 とはいえ江戸東京の人間だって最初から都会人ではありませんでした。江戸時代の法律というのはおおむね「〜してはいけない」という禁令の形で発布されました。徳川綱吉の時代に「老人や病人以外の町民は駕篭に乗ってはならない」というおふれが出ましたが、これは町人に駕篭に乗ることを禁止したわけではなくて、もともと駕篭というのは武士の乗物だったものなのだけれど、町民でも老人や病人は駕篭に乗ってもいいですよ、という話だったわけです。「犬猫をむやみに殺してはいけない」という『生類哀れみの令』も、犬猫を殺すことが悪いことだと思ってない人が多かったから、こういう禁令を出して注意を喚起したということです。
 明治時代には軽犯罪法というのができて、「立小便するな」みたいな法律ができました。田舎ではそこら一面畑や田んぼですから、立小便というのは「普通の行動」だったんです。「都会では、立小便というのは恥ずかしい行動なのですよ」というのを知らしめるためには、こうした法律が必要だった、ということだったりします。薩摩だの長州だのの田舎侍が都会に出てきて「どこに何があるかわからん」というので看板ができました。だから江戸時代の武家屋敷に『会津藩江戸屋敷』とかいった看板がかかっているなんていうのは大嘘です。で、その結果現在でも各省庁の入口には「××省」とか「○○庁」とかいった看板がでかでかと掲げてあったりするわけですよ。ああ恥ずかしい。たとえばの話、皇居に「皇居」とかいって看板出てるところを想像するとげんなりするでしょ?

 中島義道さんの『うるさい日本の私』の中にくりかえし出てくる「分っていることを何度も言うな」という主張は、こうした「都会人の自律性」というものに対する自尊心を傷つけるな、ということだったりします。たとえば、人と待合せをするときに「いいか、ちゃんと時間通りに来るんだぞ」と念を押したり、本を貸すときに「いいか、本を読むときに、つばをつけてページをめくったり、ページを折ったり、ページを破ったり、書込みをしたるするんじゃないぞ」と注意したりするというのは、失礼なことです。「言わずもがなのことを言うな」という気分が、「うるさい」には込められています。

 そんなわけであたしは、言わなきゃわかんないくせに言えば怒り、言わなくてもいいことは言うくせに言うべきことを言わない田舎者が大嫌いです。

 久々の黒Mariaさんでした。まる。

 (Maria)


Re: レス ありがとうございました 10389へのコメント
No.10390  Mon, 14 Jan 2002 13:20:22 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

武田好史 wrote:
>武田好史 wrote:
>>風呂糸 wrote:
>>>色々教えていただいて、たすかりました。
>>>ありがとうございます。
>>>
>>>武田さん、ちなみにSPECT検査した場合の金額とかはご存知でしょうか?
>>>国保の対象になるのかな?
>>>
>>>風呂
>>
以下に示すのは「東海大学病院・放射線診療センター」のURLです。

>>http://trhome.med.u-tokai.ac.jp/

「核医学」とあるボタンをクリックすると、スペクト検査を含む「核医学検査」についての情報が見られます。


再び3
No.10385  Mon, 14 Jan 2002 12:41:13 +0900  白 [この発言にコメントする]

一生懸命文章を打ち込んでいる間にMaria さんの書き込みが投稿されていました。で、すぐ下の文章は、最新のMaria さんの書き込みを読んでなかったんですが、なんか関連のあることが書かれているので、もう一度考えます。

>Mariaさん wrote:

> 現代の義務教育における国語教育(特に小学校)は、具体的になにを教える、と>いう目標を欠いている気がします。けっきょく、漢字の書き取りのような、数値>化できるものに偏りすぎていると思うんですよ。それはそれでアスペっ子が適応>しやすい部分があって助かる部分はあるのだけれど、アスペっ子や外国人に「普>通の(日本人の)子供にとっては自明なこと」を教えるメソッドが欠落してたり>とか、思春期以降、自分を客観的に見つめるようになってから、そのための道具>としての基本的な「ことば」が身についていなかったりとかいった弊害を生んで>いるように思います。日本人は日本語という環境の中だけしか知らないこともあ>って、「ことば」を通じて自らを見つめる体験をしていません。
> だからイーデス・ハンソンさんにも「日本人は『異質なもの』を受け入れる能力>が低い」とか言われるんだよな。本当はそんな馬鹿なことはないんですよ。漢語>だってカタカナ語だって、日本人が積極的に取り入れてきた「異質なもの」なん>だから。そうではなくて、「自分」というものに対する問いかけというものが欠>けているのだと思います。だから、「自分」という規準に何の疑問も抱かなくな>ってしまう。自己中心的だとか社会性の欠如というのは、周囲が見えてないので>はなくて、自分が見えていないのだと思います。それは同時に「客観性」に身を>置くということで、「社会」という目を持つということです。おとなに必要なの>は、社会を見ることではなくて、社会の目でものを見ることです。

やっぱりMaria さんてすごいです。
僕がさっきの投稿で、苦労してごちゃごちゃと書いていたのは、結局こういうことなのかもしれません。
この部分、

>「自分」というものに対する問いかけというものが欠けているのだと思います。>だから、「自分」という規準に何の疑問も抱かなくなってしまう。自己中心的だ>とか社会性の欠如というのは、周囲が見えてないのではなくて、自分が見えてい>ないのだと思います。

そうなんですよ。
僕がこのところずっと感じているのはそういうことなんです。
って、ここでまたまた言葉が同じためにMaria さんの考えを理解したつもりになっているのかもしれませんが、もうそれを恐れずに、どんどん発言してみるとすると、
僕ははじめASを理解するつもりだったけど、もがいていく中で見えてくるのは、ほかならぬ自分の姿なんですね。
もちろん、まだ何も見えているわけじゃないんですが、それは単に今までの自分の物の考え方や感じ方を疑うと言う程度のものではなく、もっと根本的な、自分ってどんなヤツなんだろうと言う感じでしょうか。
始め、僕はASが理解できず、人間ってなんなんだろうと言う思いに苦しみました。
それを今、やっぱり人間は同じだ、同じ人間なんだから、きっと分かり合えると言う結論にもっていくんではなく、あー、もうここがうまく言えなくてイライラするんですけど、考えれば考えるほど、問題が自分に帰ってくるんですよ。
それは自分の方がおかしいんだとか、自分もASかも知れないとか、そういう具体的なことではなくて、くそー、もうほんとに、何でうまく言えないんだろう。
自分と言うものがいったい何から出来上がっているのかとか、どこから来たのかとか、そういうことなんでしょうかね。
って、人に聞いて分かるわけないですよね。

とにかく、そういう思いです。

>あさかぜさんwrote
>もちろん、人間はASという部分だけで成り立っているわけではない。男女の違>いというものもあろうし、育ってきた家庭環境や出会ってきた人間によっても違>いが生まれるわけだ。
>人間は「個」として確立している、とわたしは考えている。人間はひとりひと>>り、みんなちがうのだ。人と人が出会うことって、異文化接触そのものだと思っ>ている。たとえ親子の間であっても、だ。たとえばASという背景をしょってい>なくても、相手は「自分とはちがう人間」なのだから、ちがう考え方や受け取り>方をしても当然、というところがわたしの基本。

ここのあさかぜさんのお考え、確かに今の僕は受け止めました。頑張って考えていきます。

>でも、自分なりの誠意で接しても、相手に通じなければ失礼なだけですよね。

>だからね、「相手に通じなければ失礼なだけですよね」というのは、どこからく>るわけ?相手もまた自分と同じように思っているはず、というのは思い込みでし>かないかもしれない。どんなに誠意を尽くして接しても通じない相手なんてもの>は、世の中にゴマンと存在するんだよ。白さんには酷な言い方かもしんないけど>さ……。男女の違いとか年齢の違いとかを超えて、“通じない相手”というもの>はいる。

でも、ここはまだ同意しません。
間違っているかもしれないけれど、僕は「通じない」ことはないと信じます。
信じてます。
多分、この部分は僕の基本なので、「重い」とか何とかいわれても、人を信じて真剣に関わっていきたいという思い、それは僕を僕として成り立たせる重要な要素だと思うんです。
多分、皆さんがアスペでなくなれば、ご自分じゃなくなってしまうように。
なぜ僕がそんなふうであるのか、それはおいおい考えて行きたいと思います。
それがさっきから話していることなんだと思うんですよ。
で、最後ですが、

>(すっかり女性心理におびえている白)

>あのなー。これからやんけー。スタートラインに立ったとこじゃんか。
>「目覚めよ、冒険心!」だぜいっ!!

あ、はい、先輩、すいませんです。m(__)m
でも、女の子の心理には、基本的に別に興味ないんで、それこそそんなことを研究して、機嫌取りたくないわけで、微妙な心境なんです。
それじゃやっぱしダメでしょうか。(笑)


再び考えます2.
No.10384  Mon, 14 Jan 2002 11:52:08 +0900  白 [この発言にコメントする]

昨日はすっかりパニックで一日過ぎてしまいましたが、もう一度考えてみようと思います。
取り乱してすいませんでした。

とりあえずですね、僕は今、女の子のことがどうのこうなんじゃなくて、まだよくわかってはいないけれど、今やASの感性そのものに興味を持っているわけですよ。
いや、興味と言うと、なんだか失礼な言い方じゃないかと思うんですが、最初、これも失礼な言い方なんですが、敢えて伝えるためにそのまま表現すれば、とても受け容れられないと感じたASというものが、実はすごく面白い(これも失礼ですね)物の見方なんじゃないか、それがまだどういものなのかは、繰り返しますが、分かっているわけじゃないですよ。でも、ここを乗り越えれば、何かが見えてくるような、そういう感覚ですね。
うまく伝わらないかもしれないけれど、ちょっとどきどきするような。
僕もようやくここまで来ました。

だからもう、ある意味では、例の彼女がASかどうかということは、あんまり関係がないことなのかもしれません。
そりゃあ、実際には僕にとっては大問題なわけですが、ここでそういうひとつの具体例にこだわってしまうと、全体が少しも見えてこない。
例えばこれはようやく理解したことですが、ASの人と言っても一人一人個別の人間だと言うこと。
僕ははじめ、自分が受けた衝撃があまりに大きかったために、自閉症と言う、特殊な状態にいる人たちが、同じような状態で存在しているのだというような感じに、漠然とですが理解していたようです。
実際、色々書かれている本と言うのは、いわゆる善意の「普通人」の研究者が書いているんであって、いい意味にせよ、悪い意味にせよ、「普通人」的な感性で、皆さんの事を見てしまっているわけなんだと思うんです。
この間も書いたことですが、僕たちの間には、幸か不幸か共通の言葉が存在する。
全ての誤解はここから始まるのではないかと思うんですよ。

同じ言葉だけど、その内容というか、意味しているものというか、概念と言うか、いや、そういう単純な言い方では多分ダメですね。
もしかしたら、内容とか概念さえも同じなのかもしれません。
だからそうではなくて、同じことに対する感覚が違うと言うか。
うーん、この言い方でもダメですね。
誰か、もう少しうまく表現できる人がいてくれるといいんですが、一つの言葉が持つ語感というか、言葉の持つ背景が違うと言えばいいんでしょうか。

例えばなんですが、と言いながら、これもこの前から書いていることですが、ぼくと皆さんの間では、この比喩表現と言うのはけっこうこわいもんだと僕は思います。
よくわかるだけに、必ず自分の世界側の理解の仕方をしてしまう。
少なくとも、このところ、ぼくはそうだと思っています。

でも、とりあえずここでは、ぼくにはたいした表現力はないので、ゼロの理解よりはましかなと、それだけの注意書きをつけて表現してみると、
大阪の「あほやなあ」と言う表現。
関西の人ならわかると思うんですが、これって確か、ある意味誉め言葉、悪く言っても親しみの表現なんですよね?(実はちょっと不安。あってるんでしょうか。)
だから、「あほ」という言葉は「ばか」とも「まぬけ」とも「ろくでなし」とも決定的に違う言葉なのであって、言ってみれば、好意の表現な訳(違う例もあるんでしょうが)なんでしょうが、しょって立つ物が違うもの同士が話をすると、ここで多分混乱が起きる。
そこで、「あほ」だと言われている相手に対して、「だからあ、誉めてるんだって」といっても、それ以上説明しなければ、「こいつ、からかいやがって」とか最後には「ごまかしやがって」ということになるんじゃないでしょうか。
これを理解してもらうには、大阪における「あほ」という言葉の使い方を説明するのはもちろんですが、それだけではダメで、相手がどの部分に反応して怒っているのかを、きちんと把握しないと、意味がありません。
つまり、この場合なら、相手の「あほ」に対する同義語としての、「ばか」という言葉の使い方を知らないでは、違いを説明することが出来ないと思うんですよね。
さらには、大阪における「あほな人」に対する、大阪人の伝統的な受け止め方と言うものが、問題になってくると思うんですよ。

あほなこと、つまり、ドジ(この言いかえでいいのかこれも不安)だとか、発想が変っているとか、天然ボケとか人がいいからいつも損をするとか、こういう普通ならマイナスに評価されることを面白がってしまうと言う大阪の感性がわかって初めて、「あほやなあ」と言われて、悪い気がしなくなるわけですよね。
って、このあたり、実は全部兄貴の受け売りなので、もし大阪の人が読んで、これはおかしいと思われたとしたら、全部兄貴の責任です。(笑)

分かりやすいかなと思って、使ってみましたが、人の例ではやっぱなんとなく実感わかないんで、もう一つ僕の例。
「お前変ってるよなあ」は、僕と僕の友人たちの間では、明らかに誉め言葉です。
「変人」というのも、言ってみれば一つの称号ですね。
「おもしろいぞ」とか「受けてるぞ」とか「大好きだ」とか、場合によっては「お前は天才だ」という感じでしょうか。

だから思うんですが、今まで僕は皆さんに対して、色々なことを質問することで、皆さんを理解しようとしてきました。
でも多分、それだけではダメで、僕はこう受け止めると言うことを、もっと伝えていかなければならないのじゃないかと思うんです。
僕は、そういうことは皆さんもう十分にご存知だと思っていたので、そういう一般的な感じ方をここでごちゃごちゃ書くのはウザイだけだろうと思っていましたし、最初の方で、「好意を伝える」とか「頑張れ」がどうのこうのの話をしたときに、これはやっぱり言わない方がいいと思ってしまったんですが、

>Mr.Motoさん Wrote
>じつは白くんの書込みをその直前(つまり自分の文章を読み返す直前)に読んで>いて、「とはいえ同じ『わからない』でも、何を分っているつもりでいるのかに>よって説明も違ってくるのだよな」と感じていたのである。「普通の人」が「あ>たりまえ」だと思っていることが、我々にとっては全然「あたりまえ」ではない>ところに問題があったりするので、何かを「付け加える」ことで説明することで>は説明にならず、逆に「ここんとこの点についてこう思ってはいまいか?」と>>「あたりまえ」の部分を崩してゆかないといけないということが、あったりする>のである。

の部分を読んで、僕はこれからは、僕なりのアプローチをしていこうと思っています。
それにはまず、先ほど書いた、僕がどの部分に反応して、感情的になったり悲しくなったりするのかを、やっぱり正直に書いていかないといけないと思うんです。
僕は表現力がそうあるわけじゃないし、変なところに気を遣うタイプなので、なかなか率直な意見は言いにくいんですが、それにその過程では、また皆さんの気分を害することが出てきてしまうと思うんですが、僕も頑張るので、どうか付き合っていただけませんでしょうか。
そういう意味で、Mariaさんの論文、すごくよくわかるし、期待してます。早く次を載せて下さい。本当に有難うございます。

ただ、いい訳ですが、そういう過程では、やっぱり僕の生の実感として、彼女の話をすることはあると思うんですけど、あくまでも、そっちが主体じゃないんで、そう思って相手になってくださったら嬉しいです。
もちろん、そのことで相談に乗ったり、励ましたりしてくださっている皆さん、僕はそれは本当に、ものすごく嬉しいんですよ。
でも、もう潮時なんで、ミグさんの指摘もあったことだし、もう考えないようにしようと思います。(って、今まで何回そういう決意をしてるかわからないんですけどね。笑)
昨日の夜、さっきの例を聞くために、兄貴の部屋へ行ったら、
>好きじゃない人に言い寄られても、気分が悪いだけ。
>好きじゃない人が電話をして来ても、時間が無駄なだけ。
とかいう中島みゆきの歌がかかっていて、嫌なことにこの部分だけ鮮明に聞こえてしまいました。
よりによって、このタイミングでこんな歌かけるかなあ、って感じです。(笑)

僕としては、やっぱり彼女はAS傾向くらいはあると思うんですけどね。

>ふれさんwrote
>「あの人(白さん)、私のこと好きなのかなあ。ちょっとうれしい。でも、なん>となく、私の感性とちがうわ。悪気じゃなくて言っていることも、分かるけど、>あんまり詰め寄ってこられると、私苦しい。対応の仕方どうしていいかわからな>い。頑張れってこの間言ったのは、私のダメなところをよく知っているからだ。>自尊心傷つくな。でも、私もちょっとは好きだから、お土産あげちゃおうっと。>でも、あんまりヘンな関係にもなりたくない。だいいち、男の子と付き合うのな>んかどういうことなのか全然わかんない。そばに寄られると、なんか言われそう>だからやだ。す〜っとして、あっち行っちゃおう。わたしが、白さんのことで>>いろいろ感じていること、周りに悟られたくないよ、だから、無視が一番。これ>しかできない。私ってなんてヘンなやつなんだろう。」

>ASは、まるで傍からは想像も出来ないことで気持ちが変わることがあるので、>あまり突き詰めないで、適当に相手を受け止めてあげる度量の大きさって必要か>もと思います。わたしは、自分の思考回路をかき乱すようなことを言う人と交わ>ると、テキメンに奇行があらわれることがあり、ヘンな人だと思われることがあ>ります。私なりに自分の中では論理的な成り行きなのですが、一般の人にはまず>理解してもらえないことなので誰にも説明できず、一人で解決して(気持ち的>>に)自分で自分を慰めているようなところがあります。彼女もきっとどうしてい>いか分からなくて、無視という幼い結論にはまってしまったのかも知れません。

ふれさん、有難うございました。
この説明はよくわかるし、僕としては随分救われるものがあります。
お礼を言うのが遅くなってしまってすいませんでした。

僕は彼女がASだと思いたいんでしょうか。
でもね、僕は女性心理がわかってないんでしょうが、普通だったら、好きじゃなくて、僕に踏み込まれたくないと言うなら、
「あたし、白君のこと、どうしても好きになれない」とか、
「気持ちはうれしいけど、受け止められない」とか
「悪いけど、他に好きな人がいるし」とか
「白君って、いい人だと思うけど、恋愛の対象じゃない」とか
「白君のこと、いいお友達だと思ってる」とか
「あたし、今、そういうこと考える余裕ない」とか
「実はあたし、男の子ってダメ」とか
なんとか、はっきり断ればいいじゃないですか。
でもね、彼女の場合は、何かが違うんですよ。もう一度ここでは書きませんが。

でも、とにかくこれからそういうことで、頑張っていくんで、よろしくお願いします。
Yamoriさん、Mariaさん、KILROYさん、レスして下さって、有難うございました。
でも、なんかとっても難しくて、すいません、あんまり分かりませんでした。
特に、

>MariaさんWrote
>これはわかんない人にはわかんない話なんだけど、「ヤッちゃった」「ヤられち>ゃった」という関係は、すごく重いのね。「援助交際」とかいったものを認める>べきでないのは、この「重さ」がわかってない人間が、セックスという関係を結>んじゃいけない、ということだったりします。
> とはいえ、これは単にセックスという行為のことを言っているより、たとえば>登山においてザイルで結ばれた関係に近いものがあります。「バディ」とでも言>いましょうか。
> 言っとくけど、セックスって怖いぞぉ? 「気持が身体に持ってかれる」って>いうのがあるからな。

ここのところがすごく気になるんですが、もう一度聞き直してもいいでしょうか。

ところでMariaさん、僕ガンダム思いっきり知ってますよ。
「ジオンの系譜」っていう戦略シミュレーションゲームがあるんですが、それにはまって、初代ガンダムだけだけど、全部ビデオで見ちゃいました。
僕、実はマンガとか映画とかに関しては、結構オタクなんです。
「殴ったね」とか。(笑)


Re: 今さらですが…。(補足) 10371へのコメント
No.10383  Mon, 14 Jan 2002 11:51:28 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

Joshya wrote:
> なお、毎時1852メートルは毎分30.87メートルとなり、これは毎分百フィートちょっとになります。毎分47フィート3インチでは「1852m/h」にはならないような気がするのですが。ひょっとしたら計算をお間違えではないでしょうか。
>
> (Joshya)

 小学館の英和辞典「PROGRESSIVE」には、KNOTの意味として「(船の速さを測る)測程線の単位。47フィート3インチ。」とあります。つまり元は地球の1分の長さとは全くべつの基準を用いていて、後になってから、「そっちの基準が優れている」ということで、単位の変更があったらしいです。


Re: 探しています(風呂系さんへ) 10330へのコメント
No.10381  Mon, 14 Jan 2002 11:46:05 +0900  ”けい” [この発言にコメントする]

風呂糸 wrote:
>こんにちわ風呂糸です。
>最近「わかってるのに出来ない脳」を読んで、
>日本で、脳のSPECT検査をしてくれて、それをADDなどの検査に使ってくれる病院をさがしています。

東京でしたら、御茶ノ水にある日本大学の精神科はやっていたと思います。
病院に電話して、相談してみたらいかがでしょうか??もし、やっていなかったら
ごめんなさい。


Re: 再び考えてみました。 10354へのコメント
No.10380  Mon, 14 Jan 2002 11:29:07 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

 ちょいとご無沙汰いたしやした。ご心配いただいて、ありがとさんでございやす。なに、循環器系と消化器系にちっとばかり不具合がありやしてね。ま、たいしたことではござんせん。

 あれこれ考えをめぐらしているうちに鯨夢ミグさんの鋭いご指摘があって、白さんも考えがすすんだようだと思いますんで、今さらわたしが書くことなんかありそうにないなーと感じます。でも、書いちゃう。

鯨夢ミグさん wrote:
> もし、白くんの好きな彼女がASだったとしても、それ以前に個人という、パーソナリティーがあります。
>本当に、ASだと診断され、生きている人間を見て下さい。
>ASである以前に、人間である、

 これらのことは、とても大事ね。もっとも白さんも鯨夢ミグさんの言わんとするところがだいたいは掴めたと思う。以下の部分を引用してレスを書いているところから、わたしはそう判断したのだけれど。

>白くんはASと女性心理の違いを認識しているか、ということが少し気になったんです。
>人間関係で、深く関わりたいタイプは往々にして、男同士ならいい関係が築ける性格ですが、こと、男女間の係わりに関しては、そうでもないほうが多い。
>なぜか?
>男同士では良しとされることが女性社会ではそう、取ってもらえるとは限らない。
>多分、白くんの躓きの原因はその辺にもあるのではないでしょうか?

白さんwrote:
> 僕って、ASが理解できないんじゃなくて、女性心理が分かってなかったんですかー???!!!

 一面は当たっていると思う。わたしが白さんに気づいてもらいたかったのは「彼女がASである」という思い込みがどこからきたのかを、もう一度考えなおしてみてほしかったということなのだ。それが、「自分の感覚というか、ものごとの捉え方を疑ってみたことはありますか?」と書いた理由だったりする。
 ASという部分だけに焦点をあてても、いろいろな捉え方があると思うわけさ。「彼女がASで、白さんは普通の人」「彼女は普通の人で、白さんがAS」「彼女はASで、白さんもAS」「彼女も白さんもともに普通の人」とまぁ、いくつもの可能性はあるわけだし。

 もちろん、人間はASという部分だけで成り立っているわけではない。男女の違いというものもあろうし、育ってきた家庭環境や出会ってきた人間によっても違いが生まれるわけだ。
 人間は「個」として確立している、とわたしは考えている。人間はひとりひとり、みんなちがうのだ。人と人が出会うことって、異文化接触そのものだと思っている。たとえ親子の間であっても、だ。たとえばASという背景をしょっていなくても、相手は「自分とはちがう人間」なのだから、ちがう考え方や受け取り方をしても当然、というところがわたしの基本。

>でも、自分なりの誠意で接しても、相手に通じなければ失礼なだけですよね。

 だからね、「相手に通じなければ失礼なだけですよね」というのは、どこからくるわけ?相手もまた自分と同じように思っているはず、というのは思い込みでしかないかもしれない。どんなに誠意を尽くして接しても通じない相手なんてものは、世の中にゴマンと存在するんだよ。白さんには酷な言い方かもしんないけどさ……。男女の違いとか年齢の違いとかを超えて、“通じない相手”というものはいる。

>この辺りには僕にも相当の葛藤があって、だからわかりたい、理解できなければ、とても出来ないと思ってしまうところなんですね。

 なんか、わかるような気がする。似てるなー、と思う。それこそわたしの思い込みだけどね(笑) わたしはどっちかっていうと「男女の恋愛」より「男同士の友情」みたいなもんに憧れる人間なんでね。たぶん、「性」のアイデンティティを獲得する時期になにか“ひっかかり”みたいなもんに出合って、多少のゆがみが生じたんだろうくらいに思っているけど。別に困ることじゃないしね。

 あー困った。時間がなくなってしまった。静ちゃんと朝倉南ちゃんに関してはまた書くから、勘弁ね。他にも書くことあったんだけど、次回にまわすっきゃないな。じゃ。

>(すっかり女性心理におびえている白)

 あのなー。これからやんけー。スタートラインに立ったとこじゃんか。
 「目覚めよ、冒険心!」だぜいっ!!


「綺麗」と「にぎやか」
No.10379  Mon, 14 Jan 2002 10:30:21 +0900  Maria [この発言にコメントする]

 日本語処理の仕事というのはどこか「マジメにお仕事している」風情がないので困ったものだと思う。

 「〜やか」「〜らか」型の語の一覧(「さわやか」「にぎやか」「なごやか」「あでやか」「おだやか」、「きよらか」「なだらか」「ほがらか」……)とか「〜な」(上記の語に加えて「綺麗」「達者」「頑固」……こうなるとすべて漢語という気がしてくるのだけれど、「見事」という例外があるのが困り物)がつく語の一覧とか、そんなのを点検していると、「あたしは何をやっているんだろぉ」みたいな気分になってきたりする。

 さて。

 突然気になってしまったのが、「綺麗」と「にぎやか」だったりする。
 「綺」というのは「あやぎぬ」のこと。そんなわけで、「綺麗」というのは「美しく飾り立てられた状態」のことを言うのですね。それに気がついてから、世間の人がなんでもかんでも「きれい」と表現するのに無神経さを感じるようになってしまいました。まあ、あたしのほうがヘンなんだろうけど。「まず、傷口をきれいにしましょう」「レースで飾り立てたりとか?」「しません(-_-;)」。
 「清らか」「清める」という言葉もあんまり使わないしね。言い換えのむつかしい言葉です。

 「にぎ」というのは「和」と書きます。反対語は「荒」。「荒魂(あらみたま)」「和魂(にぎみたま)」なんていう言葉があります。自閉症方面の人の集まりというのは、「にぎやか」だけど騒々しくない、という点でちょっと特異なものがあります。
 似たような言葉で「なごやか」というのがありますが、これは「凪(なぎ)」(風が止まって水面が静かであること)と同系の言葉ですから「仲がいい」という意味より「動きがない」「(動きが)静かである」が本来の意味。「心がなごむ」も、おそらくは「落ちついて静かになる」だと思います。

 こうした「正しい意味で使うと通じなくなってしまった言葉」というのはなんとなくワタシの心を不安定にさせてしまうのだな。(←ちょっと詩人)

 白くんは「アスペ語」という表現を使ったけれど、アスペっ子はアスペっ子で日常の言葉の獲得に苦労しています。「おきにいり」と「だいこうぶつ」はどうちがうの? 「わく」と「はえる」と「のびる」と「しげる」はどうちがうの? アスペっ子のお母さんたちは、こういう質問をされては毎日「?」「!?」「???」と思っていたりするのですね。「Mariaさん、アスペっ子向けの辞書を作ってください」とお願いされたこともあります。うーん、外国人向きにもいいかもしれない。

 現代の義務教育における国語教育(特に小学校)は、具体的になにを教える、という目標を欠いている気がします。けっきょく、漢字の書き取りのような、数値化できるものに偏りすぎていると思うんですよ。それはそれでアスペっ子が適応しやすい部分があって助かる部分はあるのだけれど、アスペっ子や外国人に「普通の(日本人の)子供にとっては自明なこと」を教えるメソッドが欠落してたりとか、思春期以降、自分を客観的に見つめるようになってから、そのための道具としての基本的な「ことば」が身についていなかったりとかいった弊害を生んでいるように思います。日本人は日本語という環境の中だけしか知らないこともあって、「ことば」を通じて自らを見つめる体験をしていません。
 だからイーデス・ハンソンさんにも「日本人は『異質なもの』を受け入れる能力が低い」とか言われるんだよな。本当はそんな馬鹿なことはないんですよ。漢語だってカタカナ語だって、日本人が積極的に取り入れてきた「異質なもの」なんだから。そうではなくて、「自分」というものに対する問いかけというものが欠けているのだと思います。だから、「自分」という規準に何の疑問も抱かなくなってしまう。自己中心的だとか社会性の欠如というのは、周囲が見えてないのではなくて、自分が見えていないのだと思います。それは同時に「客観性」に身を置くということで、「社会」という目を持つということです。おとなに必要なのは、社会を見ることではなくて、社会の目でものを見ることです。

 小学校の国語教科書も、ちゃんとしたのが欲しいなぁ、と思います。

 (Maria)

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