アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
悲しみと
憶えし色に
溶け込みて
深紅の香り
誰の下より
あさかぜさん wrote:
> お母さんを「ママ」お父さんを「とうちゃん」お兄さんを「あんちゃん」お姉さんを「あね」と呼び、自身のことは名前で「M」と呼んでいる子がいたとします。「Mちゃん、そういうときは『わたし』という言い方をするのよ」と教えても、「MはMだから、Mでいいの!『わたし』じゃない!」と言い切ったとします。他の呼び方を使うことを拒否していますので、当然敬語は使いません。挨拶の意味も理解していませんし、謝罪はまったくしないわけです。
> 現在十歳だとして、成長するにつれて上記のような状態から“自然に”言葉の概念を獲得していくようになるのでしょうか? 時間がどれくらいかかるかは問いません。簡単に答えられることではないと思いつつ、伺いました。どんなもんでしょうか?
お答えしまーす。心配するのが早すぎまーす。せめて小学校六年生になってから心配してくださーい。
自分をなんと呼ぶか、というのは、「他者から見た自分」のイメージがちゃんとでき上がってからです。つまり、「思春期」に入ってからなんですね。で、これが始まるのは普通の子供で小学校三年生か四年生です。それ以前は、使い分けができていても、身についてはいません。犬と同じで「そういう訓練ができている」程度のものです。
だから、大人になっても自分のことを名前で呼ぶ女の子がいたりするのだな。社会性が育たなかったものだから、他者から見た自分のイメージというのが、できあがっていないわけです。子役上がりのモデルとかだと、確かにセルフイメージ混乱しちゃうからな。母親の着せ換え人形みたいに育てられると、こうなっちゃう可能性、大。昨今流行りの「不思議ちゃん」です。
知人にKさんという男性がいて、当時、大阪に住んでいました。で、なにげなく、「小学校の三年か四年の頃、広島市内に住んでなかった?」と訊いたら「なんで知ってはるんです?」とのこと。「いや、“おれ”(「れ」にアクセント)じゃなくて、“おれ”(「お」にアクセント)っていうから。自分をなんて呼ぶかっていうのは、だいたい小学校三年生から四年生の間に決まるんですよ」。当人はたしか四年生から六年生くらいの間に広島に住んでいた、と言っていました。
自衛隊では「私は」というかわりに「自分は」と言います。西日本では、「あなたは」と言うかわりに、「自分」ということがあります。「自分、スタバ入ったことある?」なら、「あなたは『スターバックス・コーヒー』の店に入ったことがありますか?」という意味になります。で、これがつい仕事をしている時にも出てしまうのね。
「訓練ができている」というのと、「『他者』・『自己』といった概念を理解している」「他者から見たイメージがどうなっている」というのは別物で、「訓練ができている」のと「実際にどう使う」というのはまた別の話です。うちのJoshyaさんとKILROYさんは、仕事場では「御社」と「おたく」、「当社」と「私(わたくし)ども」と「うち」、「私」と「あたし(←関東では男も使う)」と「おれ」を使い分けていたりしますし。
たとえば、英語で名前を書く時に、“Ichiro Nakamura”式ではなく、断乎として“Nakamura,Itirou”式に書く人だっていますし、外国人に「イチロー」と呼ばれても、「『中村さん』と呼んでください」と(英語で)言うひとだっているのね。英語を話していると、日本人もついついオーバーアクションになってしまうのですが、あくまで日本式を貫き、相づちも“Yes”ではなく「はい」で通すひともいます。“Yes”には受諾・了承の意味があるけど、「はい」は単に「理解」を示すだけです。だから、話を最後まで聞き終わってから“No.”と言える。これ、アメリカ人はこういう対応に慣れていないものだから、だんだん口調が哀願調になってきたりして面白いぞ。
親子関係以外の関係が広がってくると、自然に「自分」というもののイメージも広がってゆきます。で、自分のことをなんと呼ぶか、というのはその関係の中で決まっていったり決めていったりするものです。親子関係というのはずっと続くものだし、その部分は変わらない場合だってあります。
ドラマじゃないけど、「ですが坊ちゃま」「『坊ちゃま』はよせって言ってるだろうっ!」みたいに怒ってる本人が、家族や使用人(家で商売やってると、めずらしくありません。従業員は、法的には「使用人」で、「社員」というのは「株主」のことです)に対してはつい「ぼく」を使っちゃうとか。で、会社から不意に電話がかかってきて、「ああ、ぼくだ。いや、私だ」とかやってることもあります。
そんなわけで、友達との会話にこっそり聞き耳を立てて、自分のことをどう呼んでいるかを確かめるのが第一だと思います。でなかったら、中学生くらいになって、友達から電話がかかってきたときとかね。悩むのは、それからだと思います。
(Maria)
Maria wrote:
> 人間には、「内なるコトバ」と「外なるコトバ」があります。「内なるコトバ」と「外なるコトバ」は、それぞれ「思考のためのコトバ」と「表現としてのコトバ」と言い換えてもいいでしょう。
「内なるコトバ」が「言葉」ではなく「映像」であることも、よくありますね。
#“よく”なのかぁ?
その「映像」に重ねている言葉は「これ」とか「あれ」とかだけ。
「映像」から「外なるコトバ」へ、苦労して翻訳する訳です。
こんにちは。
質問です。 皆様。
内なる感情、外なる感情。
昔 昔 予備校時代のお話です。全寮制の予備校です。
自称 一番の頑張り者でした。
どうゆう訳か、成績は 伴いません。
だから、頑張ってるふり一番でした。
ある時、日直ノートに、がんばるぞうー
らしきのことを書きました。
次の日になると、黒板に、大きく 寮長さん皆へのメッセージ
<労せずに 夢ばかりみるは 敗北者>
寮長さんに嫌われていました。無視されて、避けられていました。
それを見て、がんばるぞうーと言っているのが、
きにくわないから、もっと 落ち込みなさい。 と受け取り、
書いたことを後悔しました。
これは、外なるもので、内ならば、頑張れだったりするのですか?
でも確か センター試験の当日の朝も、無視をされたので、
本当に、嫌な人だったんだと思っています。
気分の害された方すみません・・・
横から失礼します。
Mariaさん wrote:
> 人間には、「内なるコトバ」と「外なるコトバ」があります。「内なるコトバ」と「外なるコトバ」は、それぞれ「思考のためのコトバ」と「表現としてのコトバ」と言い換えてもいいでしょう。
> このふたつのコトバの間には大きなギャップがあります。だけど、「普通の人」というのはこのギャップをほとんど意識していません。ですが、あたしたち自閉症方面の人間の場合、「内なるコトバ」を口に出した瞬間に、「内なるコトバ」と「外なるコトバ」の二重性とそのギャップに困惑してしまうのですね。
この部分、強く実感できます。「思考のためのコトバ」は自分なりの解釈にもとづいて使っているため、「表現としてのコトバ」を使用する時にはギャップに注意を払わなければならず、時として非常に疲れてしまうのです。「自分の考え方はいわゆる世間一般の人とは違うのだから、常に慎重であらねばならない」といつも自分に言い聞かせていなければならず、ちょっと気を抜くと、相手を激怒させてしまってから「しまった!」と気づくような羽目になってしまいますから。
こんなんだったら沈黙を守った方がなんぼか楽だと思うこともしばしば……。でも、伝えようとしなければ、伝わるきっかけにすらならないしなぁ。
とっかかりのないツルツルの高い壁に爪をたててあがいているようなものだよ。しんどいです。休みたい。頼むから、考える時間をくれ〜!と叫んでしまう。
> 「お母さん」は「母(はは)」なのだから、「お母さん!」と呼ぶかわりに「母!」と呼んだっていいはずですよね? 「お母さん」の代わりに「ママ」と呼ぶのが許されるのですから。
本論から離れてすみませんが、ちょっと聞かせてください。
お母さんを「ママ」お父さんを「とうちゃん」お兄さんを「あんちゃん」お姉さんを「あね」と呼び、自身のことは名前で「M」と呼んでいる子がいたとします。「Mちゃん、そういうときは『わたし』という言い方をするのよ」と教えても、「MはMだから、Mでいいの!『わたし』じゃない!」と言い切ったとします。他の呼び方を使うことを拒否していますので、当然敬語は使いません。挨拶の意味も理解していませんし、謝罪はまったくしないわけです。
現在十歳だとして、成長するにつれて上記のような状態から“自然に”言葉の概念を獲得していくようになるのでしょうか?時間がどれくらいかかるかは問いません。簡単に答えられることではないと思いつつ、伺いました。どんなもんでしょうか?
> 「外なるコトバ」を使いこなすには、相手が「外なるコトバ」をどう「内なるコトバ」に翻訳するかを知らなければなりません。これは考えたら、とんでもなく難しいことなんじゃないでしょうか。
ものすごく難しいと、わたしは思います。どこまでいってもギャップを埋めることは不可能に近いという現実に突き当たります。「ズレ」はズレとして認識したまま、「世間一般」との距離を近すぎず遠すぎないようにして生きていかねば、自己崩壊(?)を起こしてしまいそうな気がします。
> だから、あたしは「自分の言葉が通じる相手」に対して「自分の言葉」で話しているのだけれど、それに対して「勝手読み」をして、こっちが想定していない意味をそこに貼りつけ、思ってもみない反応をする人が出てきたりもするわけです。
うっ!これは耳が痛い!!(本当は心臓がばくばくいっている。今は)
自分もやっているが、他人もやっているさ、おあいこさ!というだけで自分を納得させることができないもどかしさが、たまらなく苦痛……。
> 「科学の言葉」「学術の言葉」で話している限りにおいては、「内なるコトバ」と「外なるコトバ」のギャップを大きく感じることはありません。考えたら「おたく」のコミュニケーションっていうのはこういうものかもしれない、と思います。共通の世界を語る言葉が、コミュニケーションにおける接続点になっている。
のめり込んでしまえれば、のめり込んでしまいたい、なんでのめりこんじゃいけないのよ?……延々と続く自問自答はスパイラルのようです。
本論からはずれまくって、ごめんなさい。
どうもこんにちは、pennpenn58さん。ぶちっす。
pennpenn58 wrote:
>ぶちさん、こんにちはっす。ここでナルニア国物語のファンの方にお会いできるとは・・・。うれしいっす。
なっていっても「洋服だんすの中から別の世界へ」っていうのが、子供の頃の私の心をくすぐりましたね(「魔術師のおい」でしたっけ?)。たんすとか押し入れなど狭い所が好きでした。いつも後で母に怒られるんですが、かかっている洋服を押しのけて、たんすにもぐり込む時、すごくワクワクしました。あの向こうに、ナルニアみたいな世界があったら、たまりませんね!・・・
子供の頃に読んだ童話を、大人になってから少しずつ買って、寝る前に読み返してます(当時は学校の図書室で借りて読んだ)。
>英語の勉強はシャーロックホームズものを購入してみましたがあえなく挫折。か、悲しい。私もコドモ母。今度中学になる息子の教科書で英語を勉強しようかとまた夢見ています。でももう英語をやろうなんて人生に負担をかけない方がいいかなとも思うのですが。挫折したときのがっかり感が怖いので。
私は性懲りも無く、手当たり次第に色々やってます。英語は仕方なしにやってるんですが、好きな物なら読む気になるかと思い、昔読んだ童話を買い込んできて読んでいます。失敗して、何の役にも立たない事も度々・・・ひゃー、旦那に「また無駄遣いして!」って怒られるじょー!!って思いつつ、面白そうだと思うと、またやっちゃうんだなー・・・。うちも娘より私の方が子供です。
(ぶち)
先週のこと。仕事の用事で、久々に元の所にTEL。…したのはいいのだが、たった1つのことを理解してもらうのに、えんえん20分近くもかかり(私の言い方も悪かったと思うけど)、しまいには「(近くの人と)コミュニケーションだよ、コミュニケーション」とまで言われる始末。(しかも言ってくれた相手は後輩。)もちろん、そのコに悪気がないのは十分わかるのだが、それがうまくいかないからこそ悩んでいるのだよ、ASは。
(…とはとても言えなかった…。 グルンサ)
P.S. 上記のタイトル、はたしてこの内容に合っていたのだろうか…?
Mariaさん wrote:
>I wrote:
>> 最近ふと思う。言葉の意味について。
>> 国際政治、日本現代史等をかじるようになって、「祖国ってなんだろう?」と思うようになった。で、すぐに思ったのが、「『母国』との違いは?」だった。
>
> 「母国」が生まれ育った国。
> 「祖国」は国家的アイデンティティが帰属する国。
>
>> また、『母国語』と『母語』の違いについても、どう違うんだろう?とも思う。
>
> (前略)『母語』というと、「親と何語で話したか」であり、母国語は「生まれ育った国で普通に使っていた言葉」ということになると思います。
>
> 高校時代の同級生に「中国人の息子」がいて、(中略)家の中ではいつも日本語。だから、本人は日本語以外喋れないそうです。
>
> 仕事で知合ったあるアメリカ人は、ハワイで香港人の奥さんと知合い、日本で生活していました。(中略)本人は日本語がよくわからないので、「子供とコミュニケーションがとれない」といってお酒を飲みながら泣いていました。(中略)出張先では毎晩一時間くらい電話で子供とカタコトの日本語で話していました。かわいかったぞ。
上2つのことを読んでて、わたしも思い出しました。大学時代、他の研究会に台湾系3世の男の子(と言っても、わたしより年上)がいて、「台湾語話せるの?」と聞いたら、「中国人の息子」さんと同じく、日本語のみ可、とのことでした。(その子の名前自体は台湾のものでしたが、発音は日本語でした。複雑な歴史を思わせるひとコマだったな。)
> 英語で言い換えてみるのはひとつの方法です。「もったいない」や「照れくさい」を英語でなんというか、とかね。
> あるいは、類語との差を考えてみるとか。(後略)
これはいいな。言葉[各外国語。しかしヘンな表現だ]によっての違いというのもおもしろそうですね。(もっとも、「何カ国語できるの?」と聞かれると、「……」と化すのですが。)
随分久しぶりの投稿なんですが、最近新たな問題が勃発!!私の憤りを感じた今回の一件を聞いて下さい。・・・・・一般人のASへの無理解さにほとほと呆れてしまっている私です。高校生の息子に、ASの告知を控えていたのですが、息子が現在お世話になっているご夫婦には、理解をして貰う為にASである旨を伝え、何が苦手なのかを理解してもらおうと訴え続けてはや9ヶ月・・・・結果は”自閉症”=障害児の概念から全く離れられず、何を話しても聞く耳もたず、といった姿勢に困り果てていた矢先の出来事。久々に会った息子は、自分がASだと言う事をその奥さんから周囲の友人に言いふらされ、あげくの果てにバカにされいじめられているというのに、その奥さんは、ASは被害妄想もあるとしかとられず、この怒りをどこにぶつけていけばいいのかとやり切れない気持ちで一杯です。息子には、自閉症=AS=頭がおかしい又はバカ=障害児と言う表現で伝わっていたらしくて、私自身すごくショックでした。勿論息子には、頭がおかしいとか、病気とかそう言う事ではないと話をしたのですが・・・コミュニケーションの障害や、若干こだわりの強い傾向があり、言葉も額面通り受け取る事があり難しく感じる事は確かにあるけど、それは彼の個性として受け止めているだけに今回の事で、人を信じて正直に話をする事の恐ろしさを経験しました。
みどりさん wrote:
>…一瞬きょとんとしてしまいました。
>文句を言っているつもりも、言われたつもりもないので、別に謝られるようなことはないんですけど…
私も、一瞬「えっ?!」と思いました。
こっちが勝手に、表示されている時間で「職場からレスしてるのかな」なんて思い込みで書いたことに、苦情が出ても不思議ではないな…と思っていただけに。
レスありがとうございました。
Lingkoさん wrote:
>あー、こういうテストについては、聞かない方がいいです。っていうか、聞いたり読んだりしてしまったら、点が正しく出なくなっちゃうので。
>
>不安なのはわかるけど。まあ、「言語性」の方は、言葉を使ったパズルやクイズみたいなもので、「動作性」の方は、形や絵を使ったパズルやクイズみたいなもの、とくらいなら言っても大丈夫でしょう。
Lingkoさん、お返事ありがとうございました。(失礼ですが正直なところ、こんなに早く回答が来るとは思っていなかったので…。)
さて、テストからは外れますが(しょっちゅう外してますが)、過去ログにさかのぼって。(02.1.11 No.10281)
Lingkoさんが今にたどりつくまで、実に10年以上かかってたんだなあ…と、改めて思いました。(『十年一昔』とはいうけれど、10年という時間は過ぎれば早い、しかし改めて考えると長い…。)私も、現職について(というより、大学新卒で社会に出されてから)早10年近くかと思うと、早いわ長いわ(これって「わ」でいいんでしたっけ?それとも「は」でしょうか?)。しかも、私は自分自身を知らないまま、大学を出る羽目になりましたので、今頃悲鳴を上げている有様です(情けないなあ)。(これで、ここでも人に迷惑をかけています…。)
…と私のことは措いといて(自分で持ってきたんでしょうが)、Lingkoさん、もっとご自分を大事にして良いのではないでしょうか?(失礼ですが、相当ご自分を痛めつけているようにもある意味、取れなくはなかったので。…って、もちろん、私がそういうふうに受け取っているにすぎないのですが。)
もう1つ、フリージアがお好きなようで、読んでる方もうれしくなりました。(もっとも、私を知ってる人からは「えっ?オマエが?!」なんて言われそうですが(笑)。)
グルンサ wrote:
> …申し訳ありませんでした。
…一瞬きょとんとしてしまいました。
文句を言っているつもりも、言われたつもりもないので、別に謝られるようなことはないんですけど…
Mariaさん wrote:
> 「全体の意味は知っているのだけれど、一個一個の漢字の意味は解らない」という語はけっこうあるので、かな書きにしたり似たような字で置換えてしまえ、とかいった乱暴なことを学校教育ではしてきました。あれはいけません。「日食」では「日本食堂」かなんかの略になってしまいます。正しくは「日蝕」で、「日を蝕(むしば)む」「腐蝕」も「腐り、蝕まれる」だから「腐食」ではいけません。
> 「冤罪」を「えん罪」とかしてしまうのも感心しません。「冤」の字は「免許」の「免」の字の上にワかんむりみたいに見えますが、本当は「兎(うさぎ)」の字にワかんむりがかぶさっている字で、「身動きが取れないようす」を表わし、転じて「無実の罪」「濡衣(ぬれぎぬ)」の意味になりました。かわいいでしょ。
うーん、漢字の置き換えについてのこと、初耳(いや、初見か)です。
「冤罪」についてのくだり、かわいいな、確かに(笑)。
> 韓国では、漢字の使用を制限してハングルで表記するように指導を続けてきた結果、漢語の意味がわからなくなって大混乱しています。それでまた漢字を教えるようになったのだけど、ダメージは大きいぞ。
>
> そんなわけで、漢文を学び、故事成句を覚え、正しい漢字表記を心掛けると国語力が上がります。お試しあれ。
はい。アドバイスありがとうございます。
グルンサさん wrote:
>『言語性・動作性IQ』は、どんなテストで、どうやって診断が下されるのでしょうか?私自身は、心理テストを受けはしたものの、こういったIQに関わるテストを受けたことがないのです。また、『WAIS−R』についても、併せて教えていただければ幸いです。(先日のオフ会の時に詳細を聞こうとして、見事に忘れてきてしまいました…残念。)
あー、こういうテストについては、聞かない方がいいです。っていうか、聞いたり読んだりしてしまったら、点が正しく出なくなっちゃうので。
グルンサさんだけじゃなく、他の人もうっかり読んじゃうといけないから、あんまり返事は書かないでほしい……。
不安なのはわかるけど。まあ、「言語性」の方は、言葉を使ったパズルやクイズみたいなもので、「動作性」の方は、形や絵を使ったパズルやクイズみたいなもの、とくらいなら言っても大丈夫でしょう。
みどりさん wrote:
>>> みどりは職場では一切外部への投稿はしてません〜
>>> 私の問題は出勤時間の方 (-_-;;;
>なんで投稿をしないかと言えば、職場への気遣いよりも、主にインターネット側に証拠を残さないためです。(職場と関係のある発言だと思われるとやだ。[後略])
…申し訳ありませんでした。単に時間だけで判断(正確には「思い込み」)してはいけませんね。ごめんなさい。
>まあ、勤務先への気遣いもないわけではありませんが。(略)
>しかも、今は黙認されていても、将来記録をほじくり返される可能性まである。しかもほじくり返すひとはエンジニアの職場のことをわかってるとは限らない。
私はそこまで考えてなかった…。(いくら、共用PCでしかできないからって言っても…。)
>用心深すぎるかもしれないけど、出勤時間の弱みがあるからなあ。
私もです、実は。(しかし、何で東京⇔埼玉間で?)
いずれにしても、すみませんでした。
武田好史さん wrote:
> まず知的障害者手帳から考えてみると、言語性・動作性の平均IQが75以下というのがひとつの発給条件となっています。(以下略)
今回、AS(もしくは、AD(H)D、自閉症スペクトラム等含めて)の診断を受けた方、もしくはテスト(適切な表現を知らないので、以下、このまま使わせていただきます。)を受けた方(診断の有無は不問とします。)にお聞きします。この『言語性・動作性IQ』は、どんなテストで、どうやって診断が下されるのでしょうか?私自身は、心理テストを受けはしたものの、こういったIQに関わるテストを受けたことがないのです。また、『WAIS−R』についても、併せて教えていただければ幸いです。(先日のオフ会の時に詳細を聞こうとして、見事に忘れてきてしまいました…残念。)
まろんす wrote:
> アスペルガ―とかでも障害者年金ってもらえるのでしょうか?
現状ではとても厳しく、もらえない可能性が高いといえます。
障害者年金の給付を受けるためには、最低限『障害者手帳』が要るのです。
障害者手帳をもらうためには、居住地の市町村の福祉課に障害者側が申請書を出し、市町村が属している県の判定機関へその申請書を回し、判定機関が「障害者判定を受けさせる!」という決定を下し、さらにそこが「手帳を発給すべき!」という判定を出す必要があるのです。
さてASの人がもらえそうな手帳はと言えば、「知的障害者手帳」か「精神障害者保健福祉手帳」という類の物になるでしょう。ところが現行の手帳制度では、厳密にかつ硬直的に判定者が考えてしまった場合は、我々はいずれも取得できないのです。
まず知的障害者手帳から考えてみると、言語性・動作性の平均IQが75以下というのがひとつの発給条件となっています。これは私の場合88なので、私は現行の基準ではもらえないということになります。しかし最近では神奈川県や東京都で、「ASにも知的障害者手帳を発給しよう!」という動きもあります。
精神保健福祉手帳は、「精神機能に障害を受け、ストレスに弱かったり・対人関係がうまくできなかったり・注意力に支障をきたしたり・投薬など長期にわたる治療が必要な人」ということになるので、「長期にわたってうつ病・強迫神経症などの二次障害で苦しんでいる」ならば「OK!」ということになるはずです。しかし手帳をもらうことによって、いわれのない偏見にさらされてしまう恐れもあります。また「そもそもASは精神病なのか・同一の扱いをしてもよいのか?」ということにも、疑問の余地があります。「精神科のデーケアに行ったものの、孤独感にさいなまれるだけだった」という意見も、最近掲示板で聞きました。
手帳がもらえても障害者年金がもらえるとは限りません。とにかく「日常生活に支障がある人」が最優先なのです。
武田好史さん wrote:
> 我々が「自閉症」と呼ばれる由縁は、この「失語症」というハンディによるところが大きいのではと、俺は思えてならない。つまり「言葉の不自由さ・流暢性のなさから、その人の心の奥底をうかがうことができないか・困難な人」という意味が、「自閉」という用語の原義なのだろう。
これは本来『「どっちでもいいこと」が決められない。』のスレッドで語られるべき内容なのだけれど、ちょうど関連のある話題が出てきたのでコメントという形で発表したいと思います。
いわゆる「失語症」と、自閉症方面の人間の「言語の遅れ」には、本質的な差があって、自閉症方面の人間の「言語の遅れ」は、むしろ「意味的な吃音」に近いものではないかという気がするのですね。
「聴性入力を分析する中枢(A)」から「言葉の概念を汲み取る中枢(B)」への、「A→B」という情報の流れ以外にも、「次にどんな言葉が来るかを予想して、聴き取りに役立てる」という「A←B」の情報があったりするわけです。で、吃音というのは、「声を出すために構音器官へ指令する中枢(M)」から構音器官を経て発せられた声の情報が、「聴き取りの機能をつかさどる部分」を経由してまた構音器官の制禦に用いられる。ここここのフィフィードバックき機構がじじじ自励ししし振動を起こ起こしてききき吃音というのはお起こるのだな。
逆に「音痴」というのは自分の声がちゃんと聞こえていないから調音ができなくなっちゃうのが原因であることが多く、コーラスだと他の人の声が聞こえないか自分の声と他の人の声を同時に聞くことができないから他の人と合わない、ということが起きたりするのである。
フェルディナント・ソシュールじゃないけど、言語には「表わされるもの」と「表わすもの」があります。どっちがどっちか忘れたけど、これをシニフィアンとシニフィエといいます。「失語症」の場合、言いたいことははっきりしているのだけれど、それに対応する言葉が出てこない。で、言葉はあるんだけど、発話ができないのが(狭義の)言語障害。言われていることが意味として認識できないのが認知障害で、自閉症方面の人間の問題としてよく挙げられるのはこの「認知障害」なのだけど、「言葉を発しない」という点については、あたしはまた別の原因を考えているのね。
人間には、「内なるコトバ」と「外なるコトバ」があります。「内なるコトバ」と「外なるコトバ」は、それぞれ「思考のためのコトバ」と「表現としてのコトバ」と言い換えてもいいでしょう。
このふたつのコトバの間には大きなギャップがあります。だけど、「普通の人」というのはこのギャップをほとんど意識していません。ですが、あたしたち自閉症方面の人間の場合、「内なるコトバ」を口に出した瞬間に、「内なるコトバ」と「外なるコトバ」の二重性とそのギャップに困惑してしまうのですね。
たとえば「そば」。「やきそば」や「支那そば」のように、「麺類」という意味で使われることもあります。「そば粉」「そばがき」のように、「そばの実の製品」という意味もあります。「そばの花」「そば畑」のように、植物種の一種としての「そば」の意味もあります。
だから、「そばが食べたい」と口に出したときに、自分の言いたいことと、自分の言ったこととの隔たりが、苦痛である。重苦しい。もどかしい。そういうところがあります。
「お酒が好き」という言葉にも、解釈の幅があるように、「内なるコトバ」にぴったりとあてはまる「外なるコトバ」があるとは限らないわけです。
その原因としては、たとえば外延と内包、表現と現実のからみあい、というのがあります。
「明けの明星」は「金星」です。「宵の明星」は「金星」です。ですが、「明けの明星」は、「=宵の明星」でしょうか? 「明けの明星は宵の明星です」は「金星は金星です」と「同じ意味」でしょうか? 「彼は『明けの明星』が金星であることを知っていた」と、「彼は金星が金星であることを知っていた」は、果たして同じ意味でしょうか。
「カレーライス」と「ライスカレー」は、果たして同じものでしょうか。そういえば、マクドナルドのメニューに「フランクバーガー」というのがあったりします。「ホットドッグじゃあ〜!」とあたしは怒ってしまうぞ。フランクフルト市民とハンブルク市民の立場はどうなるんだ、と思います。
「お母さん」は「母(はは)」なのだから、「お母さん!」と呼ぶかわりに「母!」と呼んだっていいはずですよね? 「お母さん」の代わりに「ママ」と呼ぶのが許されるのですから。
こういうのは、一つの現実の「もの」に対して、いくつかの「概念上の、『もの』(これを「個体」と呼ぶことにします)」が対応しているということです。たとえば、「お母さん」という現実の存在には、「お父さんにとっての妻」「おじいちゃん・おばあちゃんにとっての娘」「自分にとっての母親」といった、複数の「個体」と結びつけられているということだったりします。それは(天体としての)金星が、「金星」でもあり、「明けの明星」でもあり、「宵の明星」でもあるのと同じことです。
これって、かなり奇妙なことですよね。あたしたちは、物理的存在としての「世界」について語っているはずなのに、言語が指し示す対象は、物理的存在としての“もの”ではなくて、あくまであたしたちの心の中にある「個体」であって、あたしたちはその心の中の「個体」と物理的存在(物体)との対応関係という、あやふやなものに基づいて世界を把握しなければならないからです。
そんなわけで、「個体」に対応する物体が、物理世界に存在しない場合もあるわけです。「3」とか「三角形」とか「命」とか「怒り」とか「愛情」とか。「だったら目の前に出してみろ」と言われたって出せないんですよね、これ。「借金」なんていうのもそうです。「借金」=「借用書」だとしたら、借用書がなければ借金もないことになります。あるいは、「所有」というのは単なる概念ですから、「窃盗」というのは(物理的には)存在しないはずです。そもそも「法律」というものも、(物理的には)存在しないのですから。
現実というものは、非常にややこしく、あやふやで、不確かなものです。言語あるいは論理によって捉えられるものは、そのうちのごくわずかな部分だけです。そういう、いいかげんで頼りない世界で、あたりまえのように生きてゆくことができる「普通の人」、「常識」というものを平然と信じられる「普通の人」というのは、自閉症方面の人間から見ると、非常に「気持ち悪い」ものかもしれません。
日本人はエビやカニやタコやイカを食べますが、それを見て「日本人はなんて気持ちの悪いものを食べるんだ」と思う外国人はいるでしょう。逆に日本人は孵化する直前のアヒルの玉子を茹でたものを見て「うげぇ!」と思います。日本人は白いご飯が好きですが、欧米人は味のついていないご飯というのをおいしいとは思いません。何が常識で何が常識でないかは、論理では判断できません。そして、それは人それぞれなんです。同じものに対し、人それぞれが違う印象を持っているように。蝶が美しくて蛇が無気味だとは限りません。蝶が怖い人、猫が怖い人はいっぱいいますし、蛇や蜘蛛が好きな人もいっぱいいます。
「蛇のように執念深い」といいますが、蛇がどう執念深いのかあたしにはよく分りません。「蛇蝎のように嫌う」というけれど、蛇とか蠍とかけっこう飼ってみたいと思います。「波を蹴立てて進む」とかいうと「造波抵抗大きくて推進効率悪そうだなぁ」と思うし、「おでんグツグツ」とかいうと「煮立てたらおつゆが濁っちゃうじゃないか」と思います。
「外なるコトバ」を使いこなすには、相手が「外なるコトバ」をどう「内なるコトバ」に翻訳するかを知らなければなりません。これは考えたら、とんでもなく難しいことなんじゃないでしょうか。
自分を虐めている人間に、「痛いから止めてくれ」と言ったとしても、相手は痛いからやっているわけだし、「痛くないからもっとやれ」と言ったほうがいいのかというと、「強情なやつめ」とますます激しく虐められたりします。
他人と自分とは、「内なるコトバ」が違っている。「外なるコトバ」と「内なるコトバ」の翻訳機構は人それぞれだ。だから、「誰にでも通じるコミュニケーションの道具」としての「外なるコトバ」というものが、明確に形成されない。自閉症方面の人間にとっては、同じ言語を話していても、それは「外国語」に近いものだったりするのかもしれません。
だから、あたしは「自分の言葉が通じる相手」に対して「自分の言葉」で話しているのだけれど、それに対して「勝手読み」をして、こっちが想定していない意味をそこに貼りつけ、思ってもみない反応をする人が出てきたりもするわけです。
ヤマブシタケ(別名ジョウゴタケ)という茸があります。人工栽培もされていて、食用としてお店に並んでいたりもします。あたしはこのキノコをついつい「けもけも」と呼んでしまうのね。なんとなく「けもけも」した感じがかわいいからです。だけど、このキノコを見て「得体の知れないもの」と感じ、「気持ち悪い」「そんなの食べるなんて信じられない」という人はいるはず。鍋に入れようとしたなら、「ギャー! なにするの! やめて! 食べられなくなっちゃう!」みたいに言われてしまうかもしれない。で、たぶんそういう人にとっては、「けもけも」というのは「妖怪けもけも」みたいな響きを持って迫ってくるのだと思います。
で、ある人にとっては鶏肉がそういうものであったり、椎茸がそういうものであったりするわけです。で、そういう人にとっては、「とりにく」「しいたけ」という言葉が、やはりおぞましい響きをもって迫ってくるのだな。それは、沖縄の「“まんこ”公園」や「“おんな”村(そん)の“いんぶ”ビーチ」といった地名を聞いた(沖縄以外の)多くの日本人が失笑せざるを得ないのと同じような構造だったりもするわけです。
だいたいあたしたちが自閉症自閉症と平気で口に出しているのも、事情を知らない第三者が見たら相当に不快なものかも知れません。「興味本意で『自閉症』なんていう言葉を軽々しく口に出すんじゃない! 自閉症の人が可哀相じゃないかっ!」とかいって怒る人だっていると思います。「あのー、あたしたち自閉症なんですけど、あたしたちって可哀相なんですか?」とか訊きかえしてしまいたくなるけれど、そうすると「自閉症っていうのは、もっと大変なものなんだ! お前らなんか自閉症じゃないっ!」みたいにまた怒られそうです。そうなのか、ぽりぽり、とかいって頭を掻いてしまうぞ。
そんなわけで、あたしはそういったコミュニケーションに対する絶望から、ある種の「神」のような存在を想定することにしました。つまり、「外なるコトバ」がイコール「内なるコトバ」であり、物理的世界がイコール「内なる世界」、つまり「個体」であるような存在です。で、それが「科学」「学術」の世界だったんですね。
「科学の言葉」「学術の言葉」で話している限りにおいては、「内なるコトバ」と「外なるコトバ」のギャップを大きく感じることはありません。考えたら「おたく」のコミュニケーションっていうのはこういうものかもしれない、と思います。共通の世界を語る言葉が、コミュニケーションにおける接続点になっている。
自閉症方面の人間が、きわめて抽象的・客観的な物言いを好む、というのには、こうした理由があるように思います。
(Maria)
syakuさん wrote:
>何もできてない私の切なる望みが、動物専門ヒーラーになることです。ヒトほど狂ってないように見えるから、たたられにくそうだし(コラコラ)
おねーさま……
わたくしだって、なりたいのですよ。自分は指圧も鍼もやってもらうのに、動物がヒ−リングを受けていけないはずはないですもの。
競走馬の関節炎治療がヒトにも有効なように、ヒトへのマッサージがイヌネコにも有効であるということは、ヒトもまた動物だからなのだと感じます。もう少し謙虚になりたいわたくしは、獣からさして離れていない自分を確かめとうございます。
で、ヒトはたたるんですか? おっかねぇな〜。
こんばんはです〜。
みどりさん wrote:
>そういえば私もいつも「たまにはまっすぐ帰ってこい」って言われてました。
>放課後はいつも、何の用事があるでもなく、そこらを散策してました。
中学時代は放課後の誰もいなくなった教室の雰囲気とか好きでした。暗くなるまで家に帰ったことはなかったなー。家に帰ること自体がいやだったから……おかげで卒業式には精勤賞(欠席・遅刻・早退合わせて3日以内)をもらい、なんじゃこりゃ?と思ったのでした。
みどりさんに合わせて、わたしも「自称AS」を名乗るのもいいと思ったけど、なんか違うような気もしたし……かといって「元AS」と言えるほど社会適応が良いわけでもないし、「出戻りAS」(変な言葉だなぁ)みたいな状態になっているので、なんかいい表現はないかな〜と模索しています。(←どうでもいいっちゃ〜、どうでもいいことだけど)
>「カレー」とか「牛丼」とか、余計なものが入ってないことがわかりきったメニューじゃないと食べられませんでした。
子どもの好き嫌いをなくそうと親がものすごくがんばると、たいていのものは食べたという経験だけは残ります。泣きながら吐き気をがまんして食べたものは、おいしいとは思わないから、いずれ食べなくなるんですけどね(苦笑) おふくろさんにはご苦労さまでしたと心でつぶやいております。
ひたすら「手作り」にこだわってくれた母のおかげで、わたしはインスタント大好き人間になってしまいましたとさ。AS児の母をやると、また違った側面から食の大切さを見直すことができるので、今は娘に感謝、感謝です。
>そしたらそしたで、世界中のいろいろなものを食べつくさないといけないような気分になって、これはこれで問題だったりする。
いっこいっこ試していきましょうよ。毎日の食事メニューに昨日と違う一品を加えていると、1年で365品食べられるような気が……無理か(^_^;)
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