アスペルガーの館の掲示板(旧)
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IQテストって、
大学とかの入試試験のような、メチャクチャ難しい物だと思ってました...(^^;
あさかぜさん wrote:
> えーと、学校へは行きたがらず、たとえ行っても教室にはいかず、そういう子を預かってくれる部屋を中心にして過ごし、家ではテレビ番組とアニメとゲームとマンガ(コミックス&雑誌)が中心の生活です。親御さんは生活に忙しく、末っ子に手をかける暇がなく、その上「うちの子はちょっと足りない」と考えていて、かといって特殊学級への通級は「あの子はどうせ行かないから」と特に興味を示さず、「学校なんか行かなくてもなんとかなる。上のふたりもそうだったんだから」と決め付けていて、「電話はかけられないから」とお母さんかおばあちゃんが電話をかけて寄越し、直接しゃべることができずにお母さんにその子が耳打ちした内容をお母さんが代理で話すといった状態を続けていて、「身につく」以前の養育者が「訓練する」ことすらしていなくても、いずれは概念が理解できますか?
うちの所長のJoshyaさんは、小学校へはいじめられるために行っているようなもので、授業中は教科書を読んでいるかぜんぜん関係ないことを考えていて、家ではマンガ(雑誌が中心)を含めて本ばかり読んでいて、両親は共稼ぎで放っておかれて「手のかからない子供で助かる」と喜ばれていて、学校では教科書は読むのでテストだけはいい点を取るのに勉強には無関心で、先生には「ちゃんと勉強すればもっとできるようになるのに」と言われつづけ、遊び相手はおじいちゃんか従姉か従弟だったんだけど、中学に上がったら身体を鍛えようと陸上部に入り(肥満体でした。先輩に「何考えてんだ」と言われました)、甘い物と脂肪を控えてダイエットを行ない、図書委員として図書館のヌシみたいな存在になり、生徒会に立候補して会計委員になり、二年生の後半には名物男として知られていました。
この点に関しては、親や教師ができることって、あんまりありません。理由は後述。
> 愛着形成が人間関係の基礎をつくるものだと、わたしは理解していますが、間違っているでしょうか? お母さんの愛情を必死で求めているのに振り向いてもらえなくて、家族以外の他者にはほとんど関心を持たず、はじめて関心を示したらしい相手がアスペっ子であるうちの娘だったという場合、そのお子さん本人は自己肯定感を持って他者との関係を広げていくことができるでしょうか?
社会的な自我形成にいちばん重要なのは、兄弟とか年の近い従兄弟(従姉妹)とかおともだちとかいった、自分に近い存在との間の愛着形成です。周りの変化に対応して、自分も変化してゆかなければならない、という気持ちが、「社会的な自我」を育てます。
で、この「社会的な自我」の形成は一生続きます。会社に入って、「いつか俺も社長になってやろう」と考えている人は、ちょっとヘン。やっぱり同期入社の人間や先輩を見て、後輩ができて部下ができて、みたいな中で「自分」というものができてゆきます。
おともだちとかがいないと困りそうだけど、ひとりでもふたりでもいれば、問題ないんじゃないのかな。
> もうひとつ。自分をなんと呼ぶかが決まってから、他者をなんと呼ぶかが決まるのでしょうか?
他者が他者をなんと呼び、自分が他者からなんと呼ばれる、みたいなところから、決まってゆくのだと思います。自分対他者の関係だけでなく、他者対他者の関係がいっぱいあって、その中に自分が位置づけられている、というのがわからないと、本当の意味で「自分をなんと呼ぶか」はわからないんですよ。
たとえば、おかあさんと本人だけがいるときと、おばあちゃんと本人だけのときと、おばあちゃんとおかあさんと本人がいるときと、先生と本人がいるときと、先生とおかあさんと本人がいるときでは、おかあさんが自分のことを呼ぶ呼び方や、おかあさんが本人を呼ぶ呼びかたや、おばあちゃんが本人を呼ぶ呼ぶ呼びかたや、先生が本人を呼ぶ呼びかたが、微妙に違うということに本人が気づいたころから、ようやく「社会の中の自分」というものを意識するようになるわけです。
……これ、大人になってもわかってない奴とかけっこういるぞ。
小説の中のセリフを書くときに、こうした「呼びかけ」をきっちり設定しておいて、敬語の使い方や口調も含めて、その場の雰囲気や人間関係を表現する、というのは、プロの小説家でもできてないことが(あるいは、気がついてないことが)多いです。で、現実の生活では、それ以外にも態度や表情を読みとって、人間関係を把握しなければなりません。
で、これは生れ育った環境にけっこう依存して、イナカな人はやっぱり弱い(^_^!)。べつに地方出身者だからどうこうというものでもなくて、「そういう田舎臭さが厭で東京へ出てきたけど、やっぱり疲れた」とかいって地方に戻ってくひともいるし、東京で生まれ育ってもぜんぜん分ってない人もいるしね。だから本人の感性というのも重要です。あとは家庭の雰囲気ということになるでしょう。
ただ、こういうところの使い分けを無意識にできるような友達(たぶん高校生以上ですが)がいると、やっぱり感化されて敏感になるみたいです。「彼、いいとこのお坊っちゃんだろう?」みたいに思われるひとって、やっぱりいるし。地方へ行くと、「やっぱり都会の子は違うわ」みたいに言われるひとって、いるでしょう? だけど、会津だとか、仙台だとか、津和野だとか、そういった「地方都市のたたずまい」みたいなところの中で育ったセンス、みたいなのは都会的なセンスと共通するものがあるような気がします。
その意味で「自己肯定感」……というか、単なる否定・肯定を超えた「自己規定のありかた」というのは大事だと思うのね。そんでもってあたしは同じ「無頼派」でも太宰が嫌いで安吾が好き、と(-_-;)。ダダイスト辻潤と伊藤野江の間に生まれ、「地球の居候」を自称した辻まことさんや、「渋沢栄一の孫」という存在から出発せざるを得なかった澁澤龍彦さんにも、そういう「都会的な雰囲気」を強く感じざるを得ません。
だけど、これもやっぱり高校生くらいになって、自分の人生をどう生きるかを考えるようにならないと、形って見えてこないと思うな。
> その子のうちへ泊まると寝るのは真夜中すぎということになり、それもいつ眠ったともわからない電気からテレビから点けっぱなし状態でパッタリ寝るということを知ってしまったからです。
これはぜんぜん関係のない話なのですが、真っ暗な部屋でテレビをつけてみると分るのですが、テレビってとっても明るいんです。だから、テレビ観てると頭の中に夜が来ない。「部屋を明るくしてテレビを観てください」っていうけど、本当だったら夜はテレビのほうにフィルターをかけて観てほしいんだよね。輝度調整が簡単にできないテレビのほうにも問題があるんだけどさ。面倒でも夜は「明るさ調整」を暗めに調整してほしいと思います。そしたら部屋を暗くしても大丈夫。
「老眼で、明るくないと手元・足元が危ない」というお年寄りのいるうちだと、家の中が煌々と照らされていてやっぱり子供にはツラいものがあります。だから、間接照明と手元・足元の灯りを活用して、「必要な明るさを確保したうえで、夜は暗めの生活」を心がけてほしいな。体内リズムをちゃんと作る意味でも。(←めいっぱい自戒をこめて言っている)
(Maria)
Mariaさん wrote:
> お答えしまーす。心配するのが早すぎまーす。せめて小学校六年生になってから心配してくださーい。
レスありがとうございました。
問題に(というか悩みごとに)正面から立ち向かう勇気がわいてきました。
> 自分をなんと呼ぶか、というのは、「他者から見た自分」のイメージがちゃんとでき上がってからです。つまり、「思春期」に入ってからなんですね。で、これが始まるのは普通の子供で小学校三年生か四年生です。それ以前は、使い分けができていても、身についてはいません。犬と同じで「そういう訓練ができている」程度のものです。
娘が保育園のころから「わたし」を使っていたので、つい失念していました。「使い分けができていても、身についてはいない」ことを肝に銘じて覚えておきます。
> 「訓練ができている」というのと、「『他者』・『自己』といった概念を理解している」「他者から見たイメージがどうなっている」というのは別物で、「訓練ができている」のと「実際にどう使う」というのはまた別の話です。
この点について伺います。アスペっ子は、たとえば“養育者からなんらかの働きかけがない場合”でも時がたてば“自然に”概念を理解するようになりますか?えーと、学校へは行きたがらず、たとえ行っても教室にはいかず、そういう子を預かってくれる部屋を中心にして過ごし、家ではテレビ番組とアニメとゲームとマンガ(コミックス&雑誌)が中心の生活です。親御さんは生活に忙しく、末っ子に手をかける暇がなく、その上「うちの子はちょっと足りない」と考えていて、かといって特殊学級への通級は「あの子はどうせ行かないから」と特に興味を示さず、「学校なんか行かなくてもなんとかなる。上のふたりもそうだったんだから」と決め付けていて、「電話はかけられないから」とお母さんかおばあちゃんが電話をかけて寄越し、直接しゃべることができずにお母さんにその子が耳打ちした内容をお母さんが代理で話すといった状態を続けていて、「身につく」以前の養育者が「訓練する」ことすらしていなくても、いずれは概念が理解できますか?
もうひとつ。自分をなんと呼ぶかが決まってから、他者をなんと呼ぶかが決まるのでしょうか?
> 親子関係以外の関係が広がってくると、自然に「自分」というもののイメージも広がってゆきます。で、自分のことをなんと呼ぶか、というのはその関係の中で決まっていったり決めていったりするものです。親子関係というのはずっと続くものだし、その部分は変わらない場合だってあります。
愛着形成が人間関係の基礎をつくるものだと、わたしは理解していますが、間違っているでしょうか? お母さんの愛情を必死で求めているのに振り向いてもらえなくて、家族以外の他者にはほとんど関心を持たず、はじめて関心を示したらしい相手がアスペっ子であるうちの娘だったという場合、そのお子さん本人は自己肯定感を持って他者との関係を広げていくことができるでしょうか?
ごめんなさい。うまく話をまとめることができませんでした。
他人から触れられたり顔を近づけたりされることを嫌い、視力と聴力がいいことを自慢のひとつにしていて、話すことといえば自分が興味があって(ゲームなど)自慢できることだけで、他者との会話をつなげていくことには興味を示さず、記憶力や理解力はかなりあると見てとれる娘さんなのですが、わたしはASなのではないかと感じているのです。
もちろん素人判断はすべきではないと承知しているのですが、かかわりを持ってしまった以上見過ごすわけにもいかず、悩んでいます。その子のお母さんは夜勤があって、娘さんが「お母さんの仕事場までついていく」と言ったので困ってしまい「○子(うちの娘です)ちゃんと一緒ならMもおうちで待っていてもいいと言うので、○子ちゃんに泊まりに来てもらえませんか?」と頼み込まれて、娘を貸し出した(なんちゅう言い方!)こともありました。夫は怒るし、父や母は「いいように利用されてるだけじゃないの!」と文句を言います。その子のうちへ泊まると寝るのは真夜中すぎということになり、それもいつ眠ったともわからない電気からテレビから点けっぱなし状態でパッタリ寝るということを知ってしまったからです。
すみません。要点をまとめることができないばかりに長くなりました。また改めて問題点を検討してからカキコします。
ぶち wrote:
> 私は性懲りも無く、手当たり次第に色々やってます。英語は仕方なしにやってるんですが、好きな物なら読む気になるかと思い、昔読んだ童話を買い込んできて読んでいます。失敗して、何の役にも立たない事も度々・・・ひゃー、旦那に「また無駄遣いして!」って怒られるじょー!!って思いつつ、面白そうだと思うと、またやっちゃうんだなー・・・。うちも娘より私の方が子供です。
>(ぶち)
我が家も私より娘の方がもう大人のような気がします。私は本は今はおおむね子供の本にしか興味がないのですが娘は生意気盛りで色々読んでいる。私は恋愛本には興味がないのですが娘はきっとあるでしょう。実生活でも恋愛には興味がないのです。欠陥人間かも・・・。それともこんなふうな自閉の人って多いのでしょうか?
こりっこ wrote:
>こんにちは。
>質問です。 皆様。
>内なる感情、外なる感情。
なんかこりっこさんの思いで話は悲痛ですね。そんなに嫌われたらつらい。内も外も落ち込んでしまいます。私は内なる言葉も外なる言葉もあんまり区分けがない方です。内なる感情と外なる感情はそうですね。やっぱりあんまり区分けがないです。ただ感情表出を露わにするかしないか程度の差という感じです。当然人間関係をうまく作っていく能力に劣るのでなるべく人とつきあわないようにした方がいいかな、仕事ももう就かない方がいいかなと思案中です。経済面を考えたらそんなわけにもいかないのですが。
自分の間違いにとっとと気づいてしまいました。
ぶち wrote:
> なっていっても「洋服だんすの中から別の世界へ」っていうのが、子供の頃の私の心をくすぐりましたね(「魔術師のおい」でしたっけ?)。
いきなり大間違い。これは「ライオンと魔女」でした。
ひょー・・・
(ぶち)
シュツさん wrote:
> 「内なるコトバ」が「言葉」ではなく「映像」であることも、よくありますね。
> #“よく”なのかぁ?
> その「映像」に重ねている言葉は「これ」とか「あれ」とかだけ。
> 「映像」から「外なるコトバ」へ、苦労して翻訳する訳です。
喫茶店で、「ソーダフロート」を注文したら、店員が「……あれ?」とかいって十秒くらい固まっていました。
「『クリームソーダ』じゃねぇかよぉ……」とかいって頭を抱えていたぞ。
「映像(イメージ)」から「外なるコトバ」への翻訳機構がこんがらがったんでしょうね、たぶん。よっぽど混乱したらしくて、他にアイスコーヒーとかティーフロートとか頼んでたんだけど、「ああっ、また間違えた。だから、『アイスコーヒー』と『ティーフロート』なんだよな」とかぶつぶつ言ってました。
もう十年以上も昔の話だけど、あのひとADDだったのかなぁ……。
あたしはときどき「山かけ」と「麦とろ」、「つくね」と「つみれ」がごっちゃになります。たぶん、イメージと「外なるコトバ」の経路がどっかおかしいのかもしれません。
(Maria)
悲しみと
憶えし色に
溶け込みて
深紅の香り
誰の下より
あさかぜさん wrote:
> お母さんを「ママ」お父さんを「とうちゃん」お兄さんを「あんちゃん」お姉さんを「あね」と呼び、自身のことは名前で「M」と呼んでいる子がいたとします。「Mちゃん、そういうときは『わたし』という言い方をするのよ」と教えても、「MはMだから、Mでいいの!『わたし』じゃない!」と言い切ったとします。他の呼び方を使うことを拒否していますので、当然敬語は使いません。挨拶の意味も理解していませんし、謝罪はまったくしないわけです。
> 現在十歳だとして、成長するにつれて上記のような状態から“自然に”言葉の概念を獲得していくようになるのでしょうか? 時間がどれくらいかかるかは問いません。簡単に答えられることではないと思いつつ、伺いました。どんなもんでしょうか?
お答えしまーす。心配するのが早すぎまーす。せめて小学校六年生になってから心配してくださーい。
自分をなんと呼ぶか、というのは、「他者から見た自分」のイメージがちゃんとでき上がってからです。つまり、「思春期」に入ってからなんですね。で、これが始まるのは普通の子供で小学校三年生か四年生です。それ以前は、使い分けができていても、身についてはいません。犬と同じで「そういう訓練ができている」程度のものです。
だから、大人になっても自分のことを名前で呼ぶ女の子がいたりするのだな。社会性が育たなかったものだから、他者から見た自分のイメージというのが、できあがっていないわけです。子役上がりのモデルとかだと、確かにセルフイメージ混乱しちゃうからな。母親の着せ換え人形みたいに育てられると、こうなっちゃう可能性、大。昨今流行りの「不思議ちゃん」です。
知人にKさんという男性がいて、当時、大阪に住んでいました。で、なにげなく、「小学校の三年か四年の頃、広島市内に住んでなかった?」と訊いたら「なんで知ってはるんです?」とのこと。「いや、“おれ”(「れ」にアクセント)じゃなくて、“おれ”(「お」にアクセント)っていうから。自分をなんて呼ぶかっていうのは、だいたい小学校三年生から四年生の間に決まるんですよ」。当人はたしか四年生から六年生くらいの間に広島に住んでいた、と言っていました。
自衛隊では「私は」というかわりに「自分は」と言います。西日本では、「あなたは」と言うかわりに、「自分」ということがあります。「自分、スタバ入ったことある?」なら、「あなたは『スターバックス・コーヒー』の店に入ったことがありますか?」という意味になります。で、これがつい仕事をしている時にも出てしまうのね。
「訓練ができている」というのと、「『他者』・『自己』といった概念を理解している」「他者から見たイメージがどうなっている」というのは別物で、「訓練ができている」のと「実際にどう使う」というのはまた別の話です。うちのJoshyaさんとKILROYさんは、仕事場では「御社」と「おたく」、「当社」と「私(わたくし)ども」と「うち」、「私」と「あたし(←関東では男も使う)」と「おれ」を使い分けていたりしますし。
たとえば、英語で名前を書く時に、“Ichiro Nakamura”式ではなく、断乎として“Nakamura,Itirou”式に書く人だっていますし、外国人に「イチロー」と呼ばれても、「『中村さん』と呼んでください」と(英語で)言うひとだっているのね。英語を話していると、日本人もついついオーバーアクションになってしまうのですが、あくまで日本式を貫き、相づちも“Yes”ではなく「はい」で通すひともいます。“Yes”には受諾・了承の意味があるけど、「はい」は単に「理解」を示すだけです。だから、話を最後まで聞き終わってから“No.”と言える。これ、アメリカ人はこういう対応に慣れていないものだから、だんだん口調が哀願調になってきたりして面白いぞ。
親子関係以外の関係が広がってくると、自然に「自分」というもののイメージも広がってゆきます。で、自分のことをなんと呼ぶか、というのはその関係の中で決まっていったり決めていったりするものです。親子関係というのはずっと続くものだし、その部分は変わらない場合だってあります。
ドラマじゃないけど、「ですが坊ちゃま」「『坊ちゃま』はよせって言ってるだろうっ!」みたいに怒ってる本人が、家族や使用人(家で商売やってると、めずらしくありません。従業員は、法的には「使用人」で、「社員」というのは「株主」のことです)に対してはつい「ぼく」を使っちゃうとか。で、会社から不意に電話がかかってきて、「ああ、ぼくだ。いや、私だ」とかやってることもあります。
そんなわけで、友達との会話にこっそり聞き耳を立てて、自分のことをどう呼んでいるかを確かめるのが第一だと思います。でなかったら、中学生くらいになって、友達から電話がかかってきたときとかね。悩むのは、それからだと思います。
(Maria)
Maria wrote:
> 人間には、「内なるコトバ」と「外なるコトバ」があります。「内なるコトバ」と「外なるコトバ」は、それぞれ「思考のためのコトバ」と「表現としてのコトバ」と言い換えてもいいでしょう。
「内なるコトバ」が「言葉」ではなく「映像」であることも、よくありますね。
#“よく”なのかぁ?
その「映像」に重ねている言葉は「これ」とか「あれ」とかだけ。
「映像」から「外なるコトバ」へ、苦労して翻訳する訳です。
こんにちは。
質問です。 皆様。
内なる感情、外なる感情。
昔 昔 予備校時代のお話です。全寮制の予備校です。
自称 一番の頑張り者でした。
どうゆう訳か、成績は 伴いません。
だから、頑張ってるふり一番でした。
ある時、日直ノートに、がんばるぞうー
らしきのことを書きました。
次の日になると、黒板に、大きく 寮長さん皆へのメッセージ
<労せずに 夢ばかりみるは 敗北者>
寮長さんに嫌われていました。無視されて、避けられていました。
それを見て、がんばるぞうーと言っているのが、
きにくわないから、もっと 落ち込みなさい。 と受け取り、
書いたことを後悔しました。
これは、外なるもので、内ならば、頑張れだったりするのですか?
でも確か センター試験の当日の朝も、無視をされたので、
本当に、嫌な人だったんだと思っています。
気分の害された方すみません・・・
横から失礼します。
Mariaさん wrote:
> 人間には、「内なるコトバ」と「外なるコトバ」があります。「内なるコトバ」と「外なるコトバ」は、それぞれ「思考のためのコトバ」と「表現としてのコトバ」と言い換えてもいいでしょう。
> このふたつのコトバの間には大きなギャップがあります。だけど、「普通の人」というのはこのギャップをほとんど意識していません。ですが、あたしたち自閉症方面の人間の場合、「内なるコトバ」を口に出した瞬間に、「内なるコトバ」と「外なるコトバ」の二重性とそのギャップに困惑してしまうのですね。
この部分、強く実感できます。「思考のためのコトバ」は自分なりの解釈にもとづいて使っているため、「表現としてのコトバ」を使用する時にはギャップに注意を払わなければならず、時として非常に疲れてしまうのです。「自分の考え方はいわゆる世間一般の人とは違うのだから、常に慎重であらねばならない」といつも自分に言い聞かせていなければならず、ちょっと気を抜くと、相手を激怒させてしまってから「しまった!」と気づくような羽目になってしまいますから。
こんなんだったら沈黙を守った方がなんぼか楽だと思うこともしばしば……。でも、伝えようとしなければ、伝わるきっかけにすらならないしなぁ。
とっかかりのないツルツルの高い壁に爪をたててあがいているようなものだよ。しんどいです。休みたい。頼むから、考える時間をくれ〜!と叫んでしまう。
> 「お母さん」は「母(はは)」なのだから、「お母さん!」と呼ぶかわりに「母!」と呼んだっていいはずですよね? 「お母さん」の代わりに「ママ」と呼ぶのが許されるのですから。
本論から離れてすみませんが、ちょっと聞かせてください。
お母さんを「ママ」お父さんを「とうちゃん」お兄さんを「あんちゃん」お姉さんを「あね」と呼び、自身のことは名前で「M」と呼んでいる子がいたとします。「Mちゃん、そういうときは『わたし』という言い方をするのよ」と教えても、「MはMだから、Mでいいの!『わたし』じゃない!」と言い切ったとします。他の呼び方を使うことを拒否していますので、当然敬語は使いません。挨拶の意味も理解していませんし、謝罪はまったくしないわけです。
現在十歳だとして、成長するにつれて上記のような状態から“自然に”言葉の概念を獲得していくようになるのでしょうか?時間がどれくらいかかるかは問いません。簡単に答えられることではないと思いつつ、伺いました。どんなもんでしょうか?
> 「外なるコトバ」を使いこなすには、相手が「外なるコトバ」をどう「内なるコトバ」に翻訳するかを知らなければなりません。これは考えたら、とんでもなく難しいことなんじゃないでしょうか。
ものすごく難しいと、わたしは思います。どこまでいってもギャップを埋めることは不可能に近いという現実に突き当たります。「ズレ」はズレとして認識したまま、「世間一般」との距離を近すぎず遠すぎないようにして生きていかねば、自己崩壊(?)を起こしてしまいそうな気がします。
> だから、あたしは「自分の言葉が通じる相手」に対して「自分の言葉」で話しているのだけれど、それに対して「勝手読み」をして、こっちが想定していない意味をそこに貼りつけ、思ってもみない反応をする人が出てきたりもするわけです。
うっ!これは耳が痛い!!(本当は心臓がばくばくいっている。今は)
自分もやっているが、他人もやっているさ、おあいこさ!というだけで自分を納得させることができないもどかしさが、たまらなく苦痛……。
> 「科学の言葉」「学術の言葉」で話している限りにおいては、「内なるコトバ」と「外なるコトバ」のギャップを大きく感じることはありません。考えたら「おたく」のコミュニケーションっていうのはこういうものかもしれない、と思います。共通の世界を語る言葉が、コミュニケーションにおける接続点になっている。
のめり込んでしまえれば、のめり込んでしまいたい、なんでのめりこんじゃいけないのよ?……延々と続く自問自答はスパイラルのようです。
本論からはずれまくって、ごめんなさい。
どうもこんにちは、pennpenn58さん。ぶちっす。
pennpenn58 wrote:
>ぶちさん、こんにちはっす。ここでナルニア国物語のファンの方にお会いできるとは・・・。うれしいっす。
なっていっても「洋服だんすの中から別の世界へ」っていうのが、子供の頃の私の心をくすぐりましたね(「魔術師のおい」でしたっけ?)。たんすとか押し入れなど狭い所が好きでした。いつも後で母に怒られるんですが、かかっている洋服を押しのけて、たんすにもぐり込む時、すごくワクワクしました。あの向こうに、ナルニアみたいな世界があったら、たまりませんね!・・・
子供の頃に読んだ童話を、大人になってから少しずつ買って、寝る前に読み返してます(当時は学校の図書室で借りて読んだ)。
>英語の勉強はシャーロックホームズものを購入してみましたがあえなく挫折。か、悲しい。私もコドモ母。今度中学になる息子の教科書で英語を勉強しようかとまた夢見ています。でももう英語をやろうなんて人生に負担をかけない方がいいかなとも思うのですが。挫折したときのがっかり感が怖いので。
私は性懲りも無く、手当たり次第に色々やってます。英語は仕方なしにやってるんですが、好きな物なら読む気になるかと思い、昔読んだ童話を買い込んできて読んでいます。失敗して、何の役にも立たない事も度々・・・ひゃー、旦那に「また無駄遣いして!」って怒られるじょー!!って思いつつ、面白そうだと思うと、またやっちゃうんだなー・・・。うちも娘より私の方が子供です。
(ぶち)
先週のこと。仕事の用事で、久々に元の所にTEL。…したのはいいのだが、たった1つのことを理解してもらうのに、えんえん20分近くもかかり(私の言い方も悪かったと思うけど)、しまいには「(近くの人と)コミュニケーションだよ、コミュニケーション」とまで言われる始末。(しかも言ってくれた相手は後輩。)もちろん、そのコに悪気がないのは十分わかるのだが、それがうまくいかないからこそ悩んでいるのだよ、ASは。
(…とはとても言えなかった…。 グルンサ)
P.S. 上記のタイトル、はたしてこの内容に合っていたのだろうか…?
Mariaさん wrote:
>I wrote:
>> 最近ふと思う。言葉の意味について。
>> 国際政治、日本現代史等をかじるようになって、「祖国ってなんだろう?」と思うようになった。で、すぐに思ったのが、「『母国』との違いは?」だった。
>
> 「母国」が生まれ育った国。
> 「祖国」は国家的アイデンティティが帰属する国。
>
>> また、『母国語』と『母語』の違いについても、どう違うんだろう?とも思う。
>
> (前略)『母語』というと、「親と何語で話したか」であり、母国語は「生まれ育った国で普通に使っていた言葉」ということになると思います。
>
> 高校時代の同級生に「中国人の息子」がいて、(中略)家の中ではいつも日本語。だから、本人は日本語以外喋れないそうです。
>
> 仕事で知合ったあるアメリカ人は、ハワイで香港人の奥さんと知合い、日本で生活していました。(中略)本人は日本語がよくわからないので、「子供とコミュニケーションがとれない」といってお酒を飲みながら泣いていました。(中略)出張先では毎晩一時間くらい電話で子供とカタコトの日本語で話していました。かわいかったぞ。
上2つのことを読んでて、わたしも思い出しました。大学時代、他の研究会に台湾系3世の男の子(と言っても、わたしより年上)がいて、「台湾語話せるの?」と聞いたら、「中国人の息子」さんと同じく、日本語のみ可、とのことでした。(その子の名前自体は台湾のものでしたが、発音は日本語でした。複雑な歴史を思わせるひとコマだったな。)
> 英語で言い換えてみるのはひとつの方法です。「もったいない」や「照れくさい」を英語でなんというか、とかね。
> あるいは、類語との差を考えてみるとか。(後略)
これはいいな。言葉[各外国語。しかしヘンな表現だ]によっての違いというのもおもしろそうですね。(もっとも、「何カ国語できるの?」と聞かれると、「……」と化すのですが。)
随分久しぶりの投稿なんですが、最近新たな問題が勃発!!私の憤りを感じた今回の一件を聞いて下さい。・・・・・一般人のASへの無理解さにほとほと呆れてしまっている私です。高校生の息子に、ASの告知を控えていたのですが、息子が現在お世話になっているご夫婦には、理解をして貰う為にASである旨を伝え、何が苦手なのかを理解してもらおうと訴え続けてはや9ヶ月・・・・結果は”自閉症”=障害児の概念から全く離れられず、何を話しても聞く耳もたず、といった姿勢に困り果てていた矢先の出来事。久々に会った息子は、自分がASだと言う事をその奥さんから周囲の友人に言いふらされ、あげくの果てにバカにされいじめられているというのに、その奥さんは、ASは被害妄想もあるとしかとられず、この怒りをどこにぶつけていけばいいのかとやり切れない気持ちで一杯です。息子には、自閉症=AS=頭がおかしい又はバカ=障害児と言う表現で伝わっていたらしくて、私自身すごくショックでした。勿論息子には、頭がおかしいとか、病気とかそう言う事ではないと話をしたのですが・・・コミュニケーションの障害や、若干こだわりの強い傾向があり、言葉も額面通り受け取る事があり難しく感じる事は確かにあるけど、それは彼の個性として受け止めているだけに今回の事で、人を信じて正直に話をする事の恐ろしさを経験しました。
みどりさん wrote:
>…一瞬きょとんとしてしまいました。
>文句を言っているつもりも、言われたつもりもないので、別に謝られるようなことはないんですけど…
私も、一瞬「えっ?!」と思いました。
こっちが勝手に、表示されている時間で「職場からレスしてるのかな」なんて思い込みで書いたことに、苦情が出ても不思議ではないな…と思っていただけに。
レスありがとうございました。
Lingkoさん wrote:
>あー、こういうテストについては、聞かない方がいいです。っていうか、聞いたり読んだりしてしまったら、点が正しく出なくなっちゃうので。
>
>不安なのはわかるけど。まあ、「言語性」の方は、言葉を使ったパズルやクイズみたいなもので、「動作性」の方は、形や絵を使ったパズルやクイズみたいなもの、とくらいなら言っても大丈夫でしょう。
Lingkoさん、お返事ありがとうございました。(失礼ですが正直なところ、こんなに早く回答が来るとは思っていなかったので…。)
さて、テストからは外れますが(しょっちゅう外してますが)、過去ログにさかのぼって。(02.1.11 No.10281)
Lingkoさんが今にたどりつくまで、実に10年以上かかってたんだなあ…と、改めて思いました。(『十年一昔』とはいうけれど、10年という時間は過ぎれば早い、しかし改めて考えると長い…。)私も、現職について(というより、大学新卒で社会に出されてから)早10年近くかと思うと、早いわ長いわ(これって「わ」でいいんでしたっけ?それとも「は」でしょうか?)。しかも、私は自分自身を知らないまま、大学を出る羽目になりましたので、今頃悲鳴を上げている有様です(情けないなあ)。(これで、ここでも人に迷惑をかけています…。)
…と私のことは措いといて(自分で持ってきたんでしょうが)、Lingkoさん、もっとご自分を大事にして良いのではないでしょうか?(失礼ですが、相当ご自分を痛めつけているようにもある意味、取れなくはなかったので。…って、もちろん、私がそういうふうに受け取っているにすぎないのですが。)
もう1つ、フリージアがお好きなようで、読んでる方もうれしくなりました。(もっとも、私を知ってる人からは「えっ?オマエが?!」なんて言われそうですが(笑)。)
グルンサ wrote:
> …申し訳ありませんでした。
…一瞬きょとんとしてしまいました。
文句を言っているつもりも、言われたつもりもないので、別に謝られるようなことはないんですけど…
Mariaさん wrote:
> 「全体の意味は知っているのだけれど、一個一個の漢字の意味は解らない」という語はけっこうあるので、かな書きにしたり似たような字で置換えてしまえ、とかいった乱暴なことを学校教育ではしてきました。あれはいけません。「日食」では「日本食堂」かなんかの略になってしまいます。正しくは「日蝕」で、「日を蝕(むしば)む」「腐蝕」も「腐り、蝕まれる」だから「腐食」ではいけません。
> 「冤罪」を「えん罪」とかしてしまうのも感心しません。「冤」の字は「免許」の「免」の字の上にワかんむりみたいに見えますが、本当は「兎(うさぎ)」の字にワかんむりがかぶさっている字で、「身動きが取れないようす」を表わし、転じて「無実の罪」「濡衣(ぬれぎぬ)」の意味になりました。かわいいでしょ。
うーん、漢字の置き換えについてのこと、初耳(いや、初見か)です。
「冤罪」についてのくだり、かわいいな、確かに(笑)。
> 韓国では、漢字の使用を制限してハングルで表記するように指導を続けてきた結果、漢語の意味がわからなくなって大混乱しています。それでまた漢字を教えるようになったのだけど、ダメージは大きいぞ。
>
> そんなわけで、漢文を学び、故事成句を覚え、正しい漢字表記を心掛けると国語力が上がります。お試しあれ。
はい。アドバイスありがとうございます。
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