アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
吟遊詩人 wrote:
>
>悲しみと
> 憶えし色に
> 溶け込みて
>深紅の香り
> 誰の下より
我が命 道端に立つ 草の芽か
花咲く日待つ 世の風に耐え
朝日うけ 茶の葉の緑 輝けり
狭山の原の 午前過ぎゆく
みどりさん wrote:
> そういう、メンサを謳ったパズル本を期待して買ったのに、中身は不条理なものばかりで、なんだこりゃと投げ棄ててあります。ったく。(私も出版社が悪いと思う)
『偽金の問題』のバリエーションで、
「八枚のコインがあり、そのうち一枚だけ偽金が混じっていて、わずかに軽い。天秤を二回使って、偽金を検出せよ。」
というのがあります。これ「八枚」というのが引っ掛けで、「九枚」だったら簡単だから、あまりいい問題ではない、という意見があります。
名作としては、
「十二枚のコインがあり、そのうち一枚だけ偽金が混じっていて、わずかに重さが違う。天秤を三回使って、偽金を検出せよ。」
というのがあります。これにはアルゴリズム的な解法と組合せ的な解法の二通りの解法があって、それぞれに味があります。
で、こういうのが、あります。
「十三枚のコインがあり、そのうち一枚だけ偽金が混じっていて、わずかに重さが違う。天秤を一回使って、偽金を検出せよ。」
答えは「正十三角形の天秤を使う」。
ああっ、ぶたないで。
(Maria)
Mariaさん wrote:
> そんなわけで、知的能力というのは「答えが合っているか」だけでは判断ができません。かといって「説明」や「証明」がついていれば判断できるかというと、そうでもなかったりします。極端な例を挙げれば天才数学者ラマヌジャンの例があります。答が合っているのはおそらく間違いないのに、なぜそういう答が出てくるのかが本人にもわからない。「ナマジリ女神が夢枕に立って教えてくれるのだ」と言われても困るぞ(←マジな話です)。
えっ?!ラマヌジャンの天才のもとって(すみません。うまく書けない。最近ヘンな表現ばっかだ)これだったの?!…TVで、こんなこと言ってなかったから驚いた。(…って、フツーは言わないが。)しかし、ラマヌジャンも才能に恵まれながら、それをロクに生かせないまま終わってしまったんだものね…。何か悲しいな。彼もASだったのかしら?
…しかし、彼の死んだ年齢と、今のわたしの年齢が同じということを考えると、なんか複雑…。(天才と一緒にする方が間違ってるんだろうけど。)
>Mariaさん wrote:
>> アメリカには高IQの人間だけが入会できる『メンサ』というクラブがありますが、その『メンサ』が出したというパズル集を読んだら、なんだか訳がわからないことになっていました。
手元に本がないところですみませんが、もしかして『ぼくのアスペルガー症候群』の、ケネス・ホールくんが入ってるのが、このクラブなのかな?
Maria wrote:
> アメリカには高IQの人間だけが入会できる『メンサ』というクラブがありますが、その『メンサ』が出したというパズル集を読んだら、なんだか訳がわからないことになっていました。
> なにしろ、ほとんどのパズルで解がバーストしています。つまり、複数の解釈がありうるのに、そのうちの一つだけを正解にしている例が多いんです。これは『メンサ』の責任というよりその本を発行した出版社なんかの責任じゃないかと思うんだけどね。本来のパズルでは「発想」を問題にしていて、そこに挙げてある「解」も「こうした考え方があるんですよ」というひとつの例にしかすぎなかったのだと思います。だけど、それでは「正解」「不正解」という判定が機械的に出せない。だから、パズルの解を「ただ一つの正解」に限定してしまった結果、本来の主旨とは違う、「なぞなぞ集」みたいなものになってしまった。そういうことだと思います。
そういう、メンサを謳ったパズル本を期待して買ったのに、中身は不条理なものばかりで、なんだこりゃと投げ棄ててあります。ったく。(私も出版社が悪いと思う)
ニコリの方がよっぽどおもしろかった。次のニコリはいつ出るかしら。
g
グルンサさん wrote:
> 『言語性・動作性IQ』は、どんなテストで、どうやって診断が下されるのでしょうか?
Lingkoさん wrote:
> あー、こういうテストについては、聞かない方がいいです。っていうか、聞いたり読んだりしてしまったら、点が正しく出なくなっちゃうので。
> グルンサさんだけじゃなく、他の人もうっかり読んじゃうといけないから、あんまり返事は書かないでほしい……。
風呂糸さん wrote:
>IQテストって、大学とかの入試試験のような、メチャクチャ難しい物だと思ってました...(^^;
pennpenn58さん wrote:
> 私が子供の頃は結構学校でこまめにIQテストをやらされました。今はそんなことはないのでしょうが。読書能力テストとか。いろんなテストをやらされたなあ。IQテストは私にはめっちゃ、難しかったです。特に積み木の山の絵があって隠れている積み木も含めて全部でいくつというのが超苦手で考えるのもいやでした。
前にも同じようなことを書いた記憶があるのだけれど、あらためてもう一度。
IQというのは小学校に上がった頃にはだいたい決まってしまっていて、あとは一生変化しないものだと言われています。ですから、「こまめに」IQテストをやるなんてことは、通常ありません。可能性としては、IQテストを繰返すことでテストに習熟させ、IQの値を水増しするということくらいだけど……それにどういう意味があるのかが分りません。
そもそもIQというものに対してあたしは懐疑的です。せいぜい意味があるのは七十から百三十にかけての中間部分で、それより下の領域ではIQテスト自体に適応できなくて意味のある値が出てこないし、それより上の領域ではテストで計ろうとすること自体に意味がないように思われます。
アメリカには高IQの人間だけが入会できる『メンサ』というクラブがありますが、その『メンサ』が出したというパズル集を読んだら、なんだか訳がわからないことになっていました。
なにしろ、ほとんどのパズルで解がバーストしています。つまり、複数の解釈がありうるのに、そのうちの一つだけを正解にしている例が多いんです。これは『メンサ』の責任というよりその本を発行した出版社なんかの責任じゃないかと思うんだけどね。本来のパズルでは「発想」を問題にしていて、そこに挙げてある「解」も「こうした考え方があるんですよ」というひとつの例にしかすぎなかったのだと思います。だけど、それでは「正解」「不正解」という判定が機械的に出せない。だから、パズルの解を「ただ一つの正解」に限定してしまった結果、本来の主旨とは違う、「なぞなぞ集」みたいなものになってしまった。そういうことだと思います。
一見、答えがわかりきった問題でも、いろんな考え方があり、いろんな解があり、それに応じて答えも違ってきます。それは小学校レベルの理科の問題でさえ、そうなんです。
たとえば、
『水の入ったコップがあり、そこに氷が浮いています。
氷が溶けたときに、水面は
1)上がる
2)下がる
3)変わらない
のうち、どれでしょうか。』
みたいな問題があったとします。
正解は(3)……と普通なら考えるはずですが、本当のところ、どうなんでしょう?
まず、氷が解けることで、氷の融解熱によって水の温度は下がります。そうすると水の体積は収縮して、水面は下がります。したがって、答えは(2)。
ところが、これは水温が摂氏四度以上の場合について言えることで、摂氏四度を切ると水は逆に膨張をはじめます。そうすると、「氷を入れる前の水の温度」というのが問題になってくるわけです。
まあ、それでもずっと放っておくと、氷が溶けきった状態では、零度の水と四度の水が上下に層をなした状態になっているわけですね。で、その時点では、初期状態から水面が上がっているのか下がっているのかは分りません。だいいち、その間にコップと周囲の空気のあいだ(空気がなかったら「水面」はできません)で熱の出入りがあるはずです。そのときの気温は何度なんでしょう? 氷の浮いた四度以下の水が、たとえば気温によって二十度くらいまで温まったとして、水の体積は増えるんじゃないんですか?
とはいえ、放っておいて定常状態になった時点を「氷が溶けたとき」と考えるのだ、という意見もあります。そうすると、「変わらない」というのが正解になりそうですが……よく考えてください。その間、コップは空気に接していたわけです。だったらその間に水分は蒸発しているんじゃありませんか?
いやいや、そんなことはない、という人もいるでしょう。だって、氷が解ける間、その水は周囲の空気よりずっと冷たい状態にあったのだから、そこに水蒸気が凝結して、水かさが増えそうな気がしませんか?
じゃあ、実際に水面にレーザー光かなんか当てて、水面の位置を精密に測定して結果を出せばいいじゃないか、という意見だって出そうです。
だけど、そうやって測定した値に意味があるんでしょうか。結果はおそらく1ミリよりもはるかに小さい値です。そんな僅かな差を、日常生活で気にする人はいません。そもそも、もともとの問題には、コップの熱容量だとか熱伝達率だとか、水や氷の量と温度だとか、空気の温度だとか空気中の湿度だとか、そういったデータはまったく示されていないわけです。だったら、「氷が溶けて水がコップからあふれた」みたいな話は現実に聞いたことがないのだから、「変わらない」が正解ということになります。
こうなると、「それって論理的思考能力のテストじゃなくって、常識のテストなんじゃない?」みたいな話になっちゃうわけですよ。だいいち、「常識」のレベルで考えたら、表面張力とかなんとか考えなきゃなんないわけだし、「多少体積が増えたって表面聴力でなんとかなる程度の変化だ」みたいな話は、これはまたこれで実際に測定するなりなんなりしてみないと分らない。
とはいえこれって大学院の入学試験じゃないんですよ。小学校とかそういうレベルの話なわけです。そこまで考える必要なんてあるの?
そんなわけで、知的能力というのは「答えが合っているか」だけでは判断ができません。かといって「説明」や「証明」がついていれば判断できるかというと、そうでもなかったりします。極端な例を挙げれば天才数学者ラマヌジャンの例があります。答が合っているのはおそらく間違いないのに、なぜそういう答が出てくるのかが本人にもわからない。「ナマジリ女神が夢枕に立って教えてくれるのだ」と言われても困るぞ(←マジな話です)。
あるいは、証明を思いついたからって、なぜその証明を思いついたかという「発想」という部分はやっぱり謎です。『解析概論』の著者として知られる高木貞二さんは積分を使う以外に証明法がなかった微分方程式の問題を微分を使って証明することに成功して脚光を浴びました。で、「どうして微分法を使って証明しようと思ったのですか?」と質問されて、「昔から言うではありませんか。『ビブンのことはビブンでせよ』。」
……これ、本人も「なんとなく思いついて、なんとなくできそうに思ったので、面白そうだと思ってやってみたら、できた」くらいしか言えないんじゃないかな。「戦争中、海外からの文献が入ってこなかったのでヒマだった」っつーのが理由のひとつとしてあったんだそうだけど、それと発想の問題はまた別だしね。
つまるところ、動作性IQに関しては、ある程度意味のある数値も出てくると思っています。だけど、それにしたってかなりいいかげんなものだし、言語性IQに関しては、実際のところ何計ってんのかわからない部分はあります。
けっきょく、「知性」の正体が理解できたのなら、コンピュータに載せかえれば済む話なのね。現在のIQテストは、コンピュータやマスメディアが普及する以前のものです。「知性」の正体は科学の及ばない部分であり、人間にしか判断できないものだという考え方は、やっぱり不動のものとして存在します。
そんなわけで、IQなんていうものには、「IQテストとテスターに対応できるような常識と社会性」以上の意味はないと思うぞ。もっとも、それがIQの意義だ、と言われればその通りなのだけれど。
(Maria)
風鈴 wrote:
>息子には、自閉症=AS=頭がおかしい又はバカ=障害児と言う表現で伝わっていたらしくて、私自身すごくショックでした。勿論息子には、頭がおかしいとか、病気とかそう言う事ではないと話をしたのですが・・・コミュニケーションの障害や、若干こだわりの強い傾向があり、言葉も額面通り受け取る事があり難しく感じる事は確かにあるけど、それは彼の個性として受け止めているだけに今回の事で、人を信じて正直に話をする事の恐ろしさを経験しました。
ひどい話ですね!!(怒)なんか自分の事の様に心の中で怒って
ます。私も学校、家族、社会から AS=変な人、狂人=ばか
と受け止められています。私は人とコミュニケーション
取れなかったり、こだわりが強く、皮肉や社交辞令が分からない
などがあるので。
息子さんには、風鈴さんの様な理解がある親はとても大切
だと思います。いいお母さんだと思います。
誰になんと言われても、息子さんの個性を
大切にしてください。人は皆、背が高い低い、足が長い太い、
髪の毛がまっすぐ、くせ毛など特徴がありるように、
障害は個性だと思います。
私は息子さんを応援しています。
Maria wrote:
> これはぜんぜん関係のない話なのですが、真っ暗な部屋でテレビをつけてみると分るのですが、テレビってとっても明るいんです。だから、テレビ観てると頭の中に夜が来ない。「部屋を明るくしてテレビを観てください」っていうけど、本当だったら夜はテレビのほうにフィルターをかけて観てほしいんだよね。輝度調整が簡単にできないテレビのほうにも問題があるんだけどさ。面倒でも夜は「明るさ調整」を暗めに調整してほしいと思います。そしたら部屋を暗くしても大丈夫。
実は普通のテレビは、買ったままの状態では、昼でも明るすぎるくらいになってます。
テレビを買ってから一度も画質調整をした覚えのないあなた。ぜひ調整してください。いじるのは「輝度 (ブライトネス)」だけでも十分。
節電モードがあるならそれにするのが簡単でしょう。
調整の目安は、基本的にはずいぶん前にパソコン画面調整の話で書いたのと同じ、壁面と同じくらいの明るさを目指してみてください。
電気代の節約にもなります。ボリュームなんか絞るより、よっぽど効果的で、しかも目の疲れも減って快適になるはずです。
とくにゲームやアニメ画面などコントラストの強い画面を多く見る人や、子供がテレビを見る家は、ぜひ調整すべきです。
風鈴 wrote:
>随分久しぶりの投稿なんですが、最近新たな問題が勃発!!私の憤りを感じた今回の一件を聞いて下さい。・・・・・一般人のASへの無理解さにほとほと呆れてしまっている私です。高校生の息子に、ASの告知を控えていたのですが、息子が現在お世話になっているご夫婦には、理解をして貰う為にASである旨を伝え、何が苦手なのかを理解してもらおうと訴え続けてはや9ヶ月・・・・結果は”自閉症”=障害児の概念から全く離れられず、何を話しても聞く耳もたず、といった姿勢に困り果てていた矢先の出来事。久々に会った息子は、自分がASだと言う事をその奥さんから周囲の友人に言いふらされ、あげくの果てにバカにされいじめられているというのに、その奥さんは、ASは被害妄想もあるとしかとられず、この怒りをどこにぶつけていけばいいのかとやり切れない気持ちで一杯です。息子には、自閉症=AS=頭がおかしい又はバカ=障害児と言う表現で伝わっていたらしくて、私自身すごくショックでした。勿論息子には、頭がおかしいとか、病気とかそう言う事ではないと話をしたのですが・・・コミュニケーションの障害や、若干こだわりの強い傾向があり、言葉も額面通り受け取る事があり難しく感じる事は確かにあるけど、それは彼の個性として受け止めているだけに今回の事で、人を信じて正直に話をする事の恐ろしさを経験しました。
いやASに限らず全ての障害者が無理解にさらされています!
今日職安に行って、埼玉県内の障害者の求職状況をがまとめられた冊子を見てきましたが、事故で手の指を一本切断しただけで、何年も職につけない人もいるみたいです。
耳が聞こえない人も仕事を見つけるのは、なおのこと大変みたいです。音声的な言葉が話せませんから接客業にはつけませんし、仮に工場とか就労したとしても、手話で話し合える人がいたり・筆談をわずらわしく思わずにやってくれる人がいなければ、四面楚歌状態でしょう。職安で、私が所属している手話サークルの講師役をやっている聾者の人に合いましたが、その人は求人票閲覧のパソコンの画面をもう1時間半以上もも眺めていました。
また「現在の盲学校では、『目が見えない物はマッサージ師になりなさい!』と決まってしまっていると、今年の青年の主張で弱視の女の子が申しておりました。
さらに「統合失調症」(精神分裂病の新しい呼び名)やてんかんの人も、薬をちゃんと飲みさえすれば、ある程度しっかりと働けるのに、「何をしでかすか解らない!」と就労を断られるケースが未だに多いみたいです。
これら障害者が安心して社会の一員として生活していくためには、
1.障害者がが有する能力・障害の見極め
2.企業や地域社会への「障害者への接し方」の啓発
3.障害者が勤めやすい職場環境の追求・開拓
4.障害者に対する職業のあっせん
5.企業に勤めている障害者のサポート
を一元的にやってくれるような機関(公的な)が必要だと私は思います。現行の制度では、これらがばらばらに行われているので、本当に辛いです!
いろいろと、ありがとうございました。
なんというか……わたしがよその家庭との距離の取りかたが分からなくて、混乱していたのだということが見えてきました。
Mariaさん wrote:
> 社会的な自我形成にいちばん重要なのは、兄弟とか年の近い従兄弟(従姉妹)とかおともだちとかいった、自分に近い存在との間の愛着形成です。周りの変化に対応して、自分も変化してゆかなければならない、という気持ちが、「社会的な自我」を育てます。
これは思い当たります。いえ、思い当たるような気がします。
> おともだちとかがいないと困りそうだけど、ひとりでもふたりでもいれば、問題ないんじゃないのかな。
多分そうなんでしょう。娘がなにがしかの影響を与えている部分もありそうだと、うちに来た時のMさんの行動の変化から推測できます。
> 自分対他者の関係だけでなく、他者対他者の関係がいっぱいあって、その中に自分が位置づけられている、というのがわからないと、本当の意味で「自分をなんと呼ぶか」はわからないんですよ。
> ……これ、大人になってもわかってない奴とかけっこういるぞ。
そういうもんなんでしょうか……。わたしは「大人になる」というのもどういうことなのか今ひとつ理解していませんので……あ、これは別の話になってしまうので、ここではやめておきます。
> ただ、こういうところの使い分けを無意識にできるような友達(たぶん高校生以上ですが)がいると、やっぱり感化されて敏感になるみたいです。
ありそうです。娘にはそういう友達がほしいなって、かなり以前から思っていました。べつにASと診断されなくても、「昔はあったけど今は失われている社会資源」みたいなものが、切実にほしいと思っていました。周りに理解してはもらえませんでしたがね。「子どもは親だけが育てるものじゃない」って気が付いてくれる身近なひとがほしいです。(←ないものねだり。でも、あきらめないわ)
> その意味で「自己肯定感」……というか、単なる否定・肯定を超えた「自己規定のありかた」というのは大事だと思うのね。そんでもってあたしは同じ「無頼派」でも太宰が嫌いで安吾が好き、と(-_-;)。ダダイスト辻潤と伊藤野江の間に生まれ、「地球の居候」を自称した辻まことさんや、「渋沢栄一の孫」という存在から出発せざるを得なかった澁澤龍彦さんにも、そういう「都会的な雰囲気」を強く感じざるを得ません。
> 「老眼で、明るくないと手元・足元が危ない」というお年寄りのいるうちだと、家の中が煌々と照らされていてやっぱり子供にはツラいものがあります。だから、間接照明と手元・足元の灯りを活用して、「必要な明るさを確保したうえで、夜は暗めの生活」を心がけてほしいな。体内リズムをちゃんと作る意味でも。(←めいっぱい自戒をこめて言っている)
あー、説明が足りなくて失礼しました。
娘は暗いところで寝ているんです。豆電球すら点けません。Mさんは自分の部屋を与えられていて、電気もテレビも点けっぱなしでないと眠ることが出来ないのだそうです。それも、お母さんが帰って来るまで起きていようとしてがんばるらしく、夜中すぎまで眠らないのです。
娘が泊まりにいくときは、夕飯が済めば「ほったらかし」になり、どこの部屋へ出入りしていても何をしていても何も言われないらしいです。いつ寝てもそれは子どもの勝手ということらしく(大人には大人の都合があるので)Mさんの部屋で遊び疲れて眠ってしまえば、お母さんが夜中にテレビも電気も消すということのようです。娘は暗いところで寝たいと思ってMさんとは別の部屋で寝たこともあるし、リビングで眠ってしまって、起きたらふとんがかけてあったということも以前はありました。
今はお泊りを週に一度と制限しているのですが、そのお宅では「うちはいつ来てくださってもかまわないですから」とお母さんが言い、Mさんも「うちはいつでもいい」としきりに誘います。お泊りに行けば、翌日わたしが迎えに行くと当然のようにMさんはうちへ遊びに来て、お母さんが迎えに来る6時までうちにいます。
その繰り返しが、わたしには辛かったということです。娘はいまはリズムが完全に崩れて夜中近くでないと寝ないし、朝は9時ころでないと起きなくなってしまいました。ははは……。
もうすこしマトモなカキコになればよかったんですが、どうもいけません。2〜3日ROMになって冷静さを取り戻したく思います。
風鈴さん wrote:
> 一般人のASへの無理解さにほとほと呆れてしまっている私です。高校生の息子に、ASの告知を控えていたのですが、息子が現在お世話になっているご夫婦には、理解をして貰う為にASである旨を伝え、何が苦手なのかを理解してもらおうと訴え続けてはや9ヶ月……結果は「”自閉症”=障害児」の概念から全く離れられず、何を話しても聞く耳もたず、といった姿勢に困り果てていた矢先の出来事。久々に会った息子は、自分がASだと言う事をその奥さんから周囲の友人に言いふらされ、あげくの果てにバカにされいじめられているというのに、その奥さんは、ASは被害妄想もあるとしかとられず、この怒りをどこにぶつけていけばいいのかとやり切れない気持ちで一杯です。息子には、「自閉症=AS=頭がおかしい」又は「バカ=障害児」と言う表現で伝わっていたらしくて、私自身すごくショックでした。勿論息子には、頭がおかしいとか、病気とかそう言う事ではないと話をしたのですが……(中略)今回の事で、人を信じて正直に話をする事の恐ろしさを経験しました。
まったくの私事で恐縮ですが、昨年末に「八ツ頭(やつがしら)」という里芋の一種を買って半分ほどお水に浸しておきました。そしたらなかなか芽が出ないのね。「たくさん芽が出る」というので縁起物として飾られることの多い八ツ頭ですが、「新年早々さっぱり芽が出ない」とかいったら縁起悪いぞ。とはいえ無事に芽と根が出始めたので一安心。やれやれ。枯らさないように気をつけよっと。水耕栽培用の根腐れ防止剤も買ってこなくっちゃ。
……えー、ことほど左様に人間はつまんないことでも抱えているとストレスになるのですね。で、そのストレスはその事実が消えたとしても解消しなくて、人に伝えることで解消されるわけです。これをクレッチマーは(←クレッチマーというのもいいかげん古いなぁ)「伝導」と呼んでいます。この「伝導」の能力があったから人間は文明というものを築いてこられたんだけどさ、これがしばしばゴシップや宗教の押売りみたいな形で社会の迷惑になったりもするのだな。
で、一般人にとって、自閉症方面の人間が身近に存在することがなぜそんなにストレスになるのか?ということなのですね、問題は。
まあ、ひとつには実存を支えるものがあんまりない、ということだったりします。「一般人」というのは文字通り「一般の人」なわけだから、「他人と同じ」ということで自我を支えているわけです。「みんなと同じ」だから「安心」。だけど、「べつにみんなと同じでなくたっていいじゃん」とか、「みんなと同じだからって安心っていう訳じゃない」とか、そういった事態にたち至った場合にパニックを起こします。前者が異端の排除で、後者が被害者非難心性。普通の親から普通でない子供が生まれて、普通でないのに普通の生活をしているというのが我慢できない。で、普通でない子供が生まれた以上は何か「よくないこと」という原因があったに違いない、と考えてしまうわけです。
アスペっ子のお母さんで、この『アスペルガーの館の掲示板』に顔を出すようになって、自分の中の自閉症的傾向を知るにしたがって、「そーかうちの子がアスペでもしょうがないな」と思って安心しちゃうお母さんってけっこう多いと思う。で、自閉症方面の人間というのが、それぞれ似たような苦労をしながらも、おんなじような選択をしてそれなりに社会で生きている、というのを知って、「なるほど、そんなもんか」と思う。ところが「一般人」というのはそういうプロセスを経ていないんですね。だから、「自閉症」というのは、「社会の異物」であり、そこに存在するだけで居心地の悪くなるようなものなのですよ。
ディーヴォというロック・グループがあって、『サティスファクション』という曲の奇天烈なカヴァーで有名なのですが、その代表曲に『モンゴロイド』という曲があります。「誰も知らなかったけれど、彼はモンゴロイドだったのだ!」みたいな曲なのだけど、人種差別の奥底にある「蔑視」や「嫌悪」以外の、「薄気味の悪さ」を表現した名曲だと思っています。これは「アンドロイド(人造人間)」と「モンゴロイド(モンゴル系人種=黄色人種)」の語呂合わせなんだけど、確かに「同じ人間」というのを納得しがたい部分はあるよな、と日本人のあたしとしても思ってしまうわけです。
そんなわけで、「横並び意識」というもので自分を支えている人間には向上心もへったくれもないし、社会というものは「普通の人間」だけでできていると信じたがっていて、そこから外れた人間は蹴落とすという態度が身についています。そういう人たちは敬して遠ざけるしかありません。
この、「一般人の横並び意識」にはけっこう悩まされます。だから、あたしは「ひと目で自閉症の人間だと分る格好」をしようかと、ときどき思うのね。いっそ、ローズピンクの逆三角形でもつけて歩こうかと思ったりして。ちなみに、「ローズピンクの逆三角形」というのは、ナチス・ドイツが用いた障害者の印なんだけどね。
(Maria)
風呂糸 wrote:
>IQテストって、
>大学とかの入試試験のような、メチャクチャ難しい物だと思ってました...(^^;
私が子供の頃は結構学校でこまめにIQテストをやらされました。今はそんなことはないのでしょうが。読書能力テストとか。いろんなテストをやらされたなあ。IQテストは私にはめっちゃ、難しかったです。特に積み木の山の絵があって隠れている積み木も含めて全部でいくつというのが超苦手で考えるのもいやでした。もちろん、私のIQは話にならないくらい、低かったようです。なぜ成績がいいのでしょうねと先生が私の親に聞いていました。
IQテストって、
大学とかの入試試験のような、メチャクチャ難しい物だと思ってました...(^^;
あさかぜさん wrote:
> えーと、学校へは行きたがらず、たとえ行っても教室にはいかず、そういう子を預かってくれる部屋を中心にして過ごし、家ではテレビ番組とアニメとゲームとマンガ(コミックス&雑誌)が中心の生活です。親御さんは生活に忙しく、末っ子に手をかける暇がなく、その上「うちの子はちょっと足りない」と考えていて、かといって特殊学級への通級は「あの子はどうせ行かないから」と特に興味を示さず、「学校なんか行かなくてもなんとかなる。上のふたりもそうだったんだから」と決め付けていて、「電話はかけられないから」とお母さんかおばあちゃんが電話をかけて寄越し、直接しゃべることができずにお母さんにその子が耳打ちした内容をお母さんが代理で話すといった状態を続けていて、「身につく」以前の養育者が「訓練する」ことすらしていなくても、いずれは概念が理解できますか?
うちの所長のJoshyaさんは、小学校へはいじめられるために行っているようなもので、授業中は教科書を読んでいるかぜんぜん関係ないことを考えていて、家ではマンガ(雑誌が中心)を含めて本ばかり読んでいて、両親は共稼ぎで放っておかれて「手のかからない子供で助かる」と喜ばれていて、学校では教科書は読むのでテストだけはいい点を取るのに勉強には無関心で、先生には「ちゃんと勉強すればもっとできるようになるのに」と言われつづけ、遊び相手はおじいちゃんか従姉か従弟だったんだけど、中学に上がったら身体を鍛えようと陸上部に入り(肥満体でした。先輩に「何考えてんだ」と言われました)、甘い物と脂肪を控えてダイエットを行ない、図書委員として図書館のヌシみたいな存在になり、生徒会に立候補して会計委員になり、二年生の後半には名物男として知られていました。
この点に関しては、親や教師ができることって、あんまりありません。理由は後述。
> 愛着形成が人間関係の基礎をつくるものだと、わたしは理解していますが、間違っているでしょうか? お母さんの愛情を必死で求めているのに振り向いてもらえなくて、家族以外の他者にはほとんど関心を持たず、はじめて関心を示したらしい相手がアスペっ子であるうちの娘だったという場合、そのお子さん本人は自己肯定感を持って他者との関係を広げていくことができるでしょうか?
社会的な自我形成にいちばん重要なのは、兄弟とか年の近い従兄弟(従姉妹)とかおともだちとかいった、自分に近い存在との間の愛着形成です。周りの変化に対応して、自分も変化してゆかなければならない、という気持ちが、「社会的な自我」を育てます。
で、この「社会的な自我」の形成は一生続きます。会社に入って、「いつか俺も社長になってやろう」と考えている人は、ちょっとヘン。やっぱり同期入社の人間や先輩を見て、後輩ができて部下ができて、みたいな中で「自分」というものができてゆきます。
おともだちとかがいないと困りそうだけど、ひとりでもふたりでもいれば、問題ないんじゃないのかな。
> もうひとつ。自分をなんと呼ぶかが決まってから、他者をなんと呼ぶかが決まるのでしょうか?
他者が他者をなんと呼び、自分が他者からなんと呼ばれる、みたいなところから、決まってゆくのだと思います。自分対他者の関係だけでなく、他者対他者の関係がいっぱいあって、その中に自分が位置づけられている、というのがわからないと、本当の意味で「自分をなんと呼ぶか」はわからないんですよ。
たとえば、おかあさんと本人だけがいるときと、おばあちゃんと本人だけのときと、おばあちゃんとおかあさんと本人がいるときと、先生と本人がいるときと、先生とおかあさんと本人がいるときでは、おかあさんが自分のことを呼ぶ呼び方や、おかあさんが本人を呼ぶ呼びかたや、おばあちゃんが本人を呼ぶ呼ぶ呼びかたや、先生が本人を呼ぶ呼びかたが、微妙に違うということに本人が気づいたころから、ようやく「社会の中の自分」というものを意識するようになるわけです。
……これ、大人になってもわかってない奴とかけっこういるぞ。
小説の中のセリフを書くときに、こうした「呼びかけ」をきっちり設定しておいて、敬語の使い方や口調も含めて、その場の雰囲気や人間関係を表現する、というのは、プロの小説家でもできてないことが(あるいは、気がついてないことが)多いです。で、現実の生活では、それ以外にも態度や表情を読みとって、人間関係を把握しなければなりません。
で、これは生れ育った環境にけっこう依存して、イナカな人はやっぱり弱い(^_^!)。べつに地方出身者だからどうこうというものでもなくて、「そういう田舎臭さが厭で東京へ出てきたけど、やっぱり疲れた」とかいって地方に戻ってくひともいるし、東京で生まれ育ってもぜんぜん分ってない人もいるしね。だから本人の感性というのも重要です。あとは家庭の雰囲気ということになるでしょう。
ただ、こういうところの使い分けを無意識にできるような友達(たぶん高校生以上ですが)がいると、やっぱり感化されて敏感になるみたいです。「彼、いいとこのお坊っちゃんだろう?」みたいに思われるひとって、やっぱりいるし。地方へ行くと、「やっぱり都会の子は違うわ」みたいに言われるひとって、いるでしょう? だけど、会津だとか、仙台だとか、津和野だとか、そういった「地方都市のたたずまい」みたいなところの中で育ったセンス、みたいなのは都会的なセンスと共通するものがあるような気がします。
その意味で「自己肯定感」……というか、単なる否定・肯定を超えた「自己規定のありかた」というのは大事だと思うのね。そんでもってあたしは同じ「無頼派」でも太宰が嫌いで安吾が好き、と(-_-;)。ダダイスト辻潤と伊藤野江の間に生まれ、「地球の居候」を自称した辻まことさんや、「渋沢栄一の孫」という存在から出発せざるを得なかった澁澤龍彦さんにも、そういう「都会的な雰囲気」を強く感じざるを得ません。
だけど、これもやっぱり高校生くらいになって、自分の人生をどう生きるかを考えるようにならないと、形って見えてこないと思うな。
> その子のうちへ泊まると寝るのは真夜中すぎということになり、それもいつ眠ったともわからない電気からテレビから点けっぱなし状態でパッタリ寝るということを知ってしまったからです。
これはぜんぜん関係のない話なのですが、真っ暗な部屋でテレビをつけてみると分るのですが、テレビってとっても明るいんです。だから、テレビ観てると頭の中に夜が来ない。「部屋を明るくしてテレビを観てください」っていうけど、本当だったら夜はテレビのほうにフィルターをかけて観てほしいんだよね。輝度調整が簡単にできないテレビのほうにも問題があるんだけどさ。面倒でも夜は「明るさ調整」を暗めに調整してほしいと思います。そしたら部屋を暗くしても大丈夫。
「老眼で、明るくないと手元・足元が危ない」というお年寄りのいるうちだと、家の中が煌々と照らされていてやっぱり子供にはツラいものがあります。だから、間接照明と手元・足元の灯りを活用して、「必要な明るさを確保したうえで、夜は暗めの生活」を心がけてほしいな。体内リズムをちゃんと作る意味でも。(←めいっぱい自戒をこめて言っている)
(Maria)
Mariaさん wrote:
> お答えしまーす。心配するのが早すぎまーす。せめて小学校六年生になってから心配してくださーい。
レスありがとうございました。
問題に(というか悩みごとに)正面から立ち向かう勇気がわいてきました。
> 自分をなんと呼ぶか、というのは、「他者から見た自分」のイメージがちゃんとでき上がってからです。つまり、「思春期」に入ってからなんですね。で、これが始まるのは普通の子供で小学校三年生か四年生です。それ以前は、使い分けができていても、身についてはいません。犬と同じで「そういう訓練ができている」程度のものです。
娘が保育園のころから「わたし」を使っていたので、つい失念していました。「使い分けができていても、身についてはいない」ことを肝に銘じて覚えておきます。
> 「訓練ができている」というのと、「『他者』・『自己』といった概念を理解している」「他者から見たイメージがどうなっている」というのは別物で、「訓練ができている」のと「実際にどう使う」というのはまた別の話です。
この点について伺います。アスペっ子は、たとえば“養育者からなんらかの働きかけがない場合”でも時がたてば“自然に”概念を理解するようになりますか?えーと、学校へは行きたがらず、たとえ行っても教室にはいかず、そういう子を預かってくれる部屋を中心にして過ごし、家ではテレビ番組とアニメとゲームとマンガ(コミックス&雑誌)が中心の生活です。親御さんは生活に忙しく、末っ子に手をかける暇がなく、その上「うちの子はちょっと足りない」と考えていて、かといって特殊学級への通級は「あの子はどうせ行かないから」と特に興味を示さず、「学校なんか行かなくてもなんとかなる。上のふたりもそうだったんだから」と決め付けていて、「電話はかけられないから」とお母さんかおばあちゃんが電話をかけて寄越し、直接しゃべることができずにお母さんにその子が耳打ちした内容をお母さんが代理で話すといった状態を続けていて、「身につく」以前の養育者が「訓練する」ことすらしていなくても、いずれは概念が理解できますか?
もうひとつ。自分をなんと呼ぶかが決まってから、他者をなんと呼ぶかが決まるのでしょうか?
> 親子関係以外の関係が広がってくると、自然に「自分」というもののイメージも広がってゆきます。で、自分のことをなんと呼ぶか、というのはその関係の中で決まっていったり決めていったりするものです。親子関係というのはずっと続くものだし、その部分は変わらない場合だってあります。
愛着形成が人間関係の基礎をつくるものだと、わたしは理解していますが、間違っているでしょうか? お母さんの愛情を必死で求めているのに振り向いてもらえなくて、家族以外の他者にはほとんど関心を持たず、はじめて関心を示したらしい相手がアスペっ子であるうちの娘だったという場合、そのお子さん本人は自己肯定感を持って他者との関係を広げていくことができるでしょうか?
ごめんなさい。うまく話をまとめることができませんでした。
他人から触れられたり顔を近づけたりされることを嫌い、視力と聴力がいいことを自慢のひとつにしていて、話すことといえば自分が興味があって(ゲームなど)自慢できることだけで、他者との会話をつなげていくことには興味を示さず、記憶力や理解力はかなりあると見てとれる娘さんなのですが、わたしはASなのではないかと感じているのです。
もちろん素人判断はすべきではないと承知しているのですが、かかわりを持ってしまった以上見過ごすわけにもいかず、悩んでいます。その子のお母さんは夜勤があって、娘さんが「お母さんの仕事場までついていく」と言ったので困ってしまい「○子(うちの娘です)ちゃんと一緒ならMもおうちで待っていてもいいと言うので、○子ちゃんに泊まりに来てもらえませんか?」と頼み込まれて、娘を貸し出した(なんちゅう言い方!)こともありました。夫は怒るし、父や母は「いいように利用されてるだけじゃないの!」と文句を言います。その子のうちへ泊まると寝るのは真夜中すぎということになり、それもいつ眠ったともわからない電気からテレビから点けっぱなし状態でパッタリ寝るということを知ってしまったからです。
すみません。要点をまとめることができないばかりに長くなりました。また改めて問題点を検討してからカキコします。
ぶち wrote:
> 私は性懲りも無く、手当たり次第に色々やってます。英語は仕方なしにやってるんですが、好きな物なら読む気になるかと思い、昔読んだ童話を買い込んできて読んでいます。失敗して、何の役にも立たない事も度々・・・ひゃー、旦那に「また無駄遣いして!」って怒られるじょー!!って思いつつ、面白そうだと思うと、またやっちゃうんだなー・・・。うちも娘より私の方が子供です。
>(ぶち)
我が家も私より娘の方がもう大人のような気がします。私は本は今はおおむね子供の本にしか興味がないのですが娘は生意気盛りで色々読んでいる。私は恋愛本には興味がないのですが娘はきっとあるでしょう。実生活でも恋愛には興味がないのです。欠陥人間かも・・・。それともこんなふうな自閉の人って多いのでしょうか?
こりっこ wrote:
>こんにちは。
>質問です。 皆様。
>内なる感情、外なる感情。
なんかこりっこさんの思いで話は悲痛ですね。そんなに嫌われたらつらい。内も外も落ち込んでしまいます。私は内なる言葉も外なる言葉もあんまり区分けがない方です。内なる感情と外なる感情はそうですね。やっぱりあんまり区分けがないです。ただ感情表出を露わにするかしないか程度の差という感じです。当然人間関係をうまく作っていく能力に劣るのでなるべく人とつきあわないようにした方がいいかな、仕事ももう就かない方がいいかなと思案中です。経済面を考えたらそんなわけにもいかないのですが。
自分の間違いにとっとと気づいてしまいました。
ぶち wrote:
> なっていっても「洋服だんすの中から別の世界へ」っていうのが、子供の頃の私の心をくすぐりましたね(「魔術師のおい」でしたっけ?)。
いきなり大間違い。これは「ライオンと魔女」でした。
ひょー・・・
(ぶち)
シュツさん wrote:
> 「内なるコトバ」が「言葉」ではなく「映像」であることも、よくありますね。
> #“よく”なのかぁ?
> その「映像」に重ねている言葉は「これ」とか「あれ」とかだけ。
> 「映像」から「外なるコトバ」へ、苦労して翻訳する訳です。
喫茶店で、「ソーダフロート」を注文したら、店員が「……あれ?」とかいって十秒くらい固まっていました。
「『クリームソーダ』じゃねぇかよぉ……」とかいって頭を抱えていたぞ。
「映像(イメージ)」から「外なるコトバ」への翻訳機構がこんがらがったんでしょうね、たぶん。よっぽど混乱したらしくて、他にアイスコーヒーとかティーフロートとか頼んでたんだけど、「ああっ、また間違えた。だから、『アイスコーヒー』と『ティーフロート』なんだよな」とかぶつぶつ言ってました。
もう十年以上も昔の話だけど、あのひとADDだったのかなぁ……。
あたしはときどき「山かけ」と「麦とろ」、「つくね」と「つみれ」がごっちゃになります。たぶん、イメージと「外なるコトバ」の経路がどっかおかしいのかもしれません。
(Maria)
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