アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
寺林さん wrote:
> 障害は個性だとは思わない。現に私は仕事で苦しい思いをしているから。
> スーパーのレジは2月で辞めようと思ってます。これからどう生きていいのかわかりません。
> 手先も不器用、臨機応変も苦手、そんな人間を個性だと思って本当にいいんですか?生きていけないじゃないですか?
えー、本当は「心の理論」について次は述べるつもりだったのですが、その次に予定していた「『自閉症方面の人間のこだわり』がなぜ生まれるか」と「自閉症方面の人間の適性と就労」の話題について先に述べることにします。
「自閉症方面の人間といっても、人それぞれ」といいつつ、「こだわり」というのは共通してあるわけで、「こだわり」と「仕事」というのは切っても切れない関係にあり、この「こだわり」を仕事に活かすことはできないのか?といった話が出てくるのは当然のことだと思うんですよ。
自閉症方面の人間は、他者の行動原理を直感的に把握することができません。したがって、「気まぐれな相手」というのは、とてもつきあいにくい存在です。まして「へそまがり」「あまのじゃく」といった存在は、悪魔以外の何者でもありません。(←根拠もないのに断言している)
ですから、「明文化された秩序」というものをよりどころにして生きるのが楽、という部分があります。「エチケットを守る」、というのは、自閉症方面の人間にとって得意とするところです。ちなみに「エチケット」というのは「掲示されたもの」という意味で、ワインのラベルのことをフランス語で「エチケット」と言います。「ワインの銘柄を当てるコツは?」「ばれないようにエチケットを盗み見ることです」。たしか、『刑事コロンボ』の『別れのワイン』でやってたネタです。麻雀の必勝法と同じ。相手が見てないうちに、勝手にツモっちゃう。(←所ジョージの歌に、こういうのがある)
そんなわけで、慣れ親しんだ安全なやりかたに執着するのがまず一点(←誰でもそうじゃん)。で、それが「公式に認められたもの」である場合には、より安心、という部分があります。
ところが「普通の人」というのは、ルール違反をして恥じることがないのですね。「それはそれ、これはこれ」「あのときはあのとき。今は事情が違う」みたいな言い訳を平然とできる感性というのは、「普通の人」の証です(←めいっぱい皮肉入ってます)。それを「臨機応変」と呼ぶのは詐欺というものです。そういうのは、「オポチュニズム」というのですね。
原理原則を貫くという「ファンダメンタリスト(原理主義者)」というのもあっちこっちで評判落としてますけど、「オポチュニスト(日和見主義者)」っつーのもけっこう評判悪いぞ。そういう意味では、筋金入りのファンダメンタリストたる自閉症方面の人間は、図書館の司書、役所の出納係、鉄道の保線係といった「固い」職業でなおかつ「属事的」(反対語は「属人的」)な、原理原則のはっきりした職業に向いている……というか、そういう商売でないとやってけない部分がありそうに思います。
その意味では、東海村の再処理施設における事故なんていうのは、担当者が自閉症方面の人間だったら起こりようがなかった気がします。もっとも「頭が固くて強情で扱いにくい」とか言われて馘首(くび)にされちゃったら終わりなんだけどね。
そんなわけで、「頑固なんだけど腕は確かだから、切るに切れない」みたいな存在だと安心は安心。だけど、恨みをかってどん底に叩き落とされたりするぞ。こっちは筋を通そうとするものだから、なりふり構わない相手には対抗できないし。言っとくけど日本の司法制度なんて無力だぞ。
儲かってる会社で好き放題にやらせてもらえれば、実力を発揮できるところはありそうに思います。だけど、「社内の派閥争いみたいなののあおりを喰って経営状態が悪化しちゃった」とかいった、原則論・筋論が通じない「なりふり構わない」環境だと、いいように使われ、絞られるだけ絞られて捨てられることになります。(←また断言している)
「段取七分に腕三分」という言葉があります。自閉症方面の人間は、不器用なだけに「段取」の部分に目が行くのね。そんなわけで品質管理とかシステム開発とか、そういう分野には適性がありそうに思います。
状況を客観視し、分析する技術は必要だと思うぞ。とはいえ責任問題とかが絡むとえらいことになるんだけどね。入札方式の非合理性を正そうと思ったら、経理担当者が業者と癒着していたりとかするし。(←実話)
そんなわけで、「頑固職人」でいるのが気楽といえば気楽です。
「障害は個性だ」とかいうのは、「障害→特性→適性→個性」という形で、昇華することができた人の言うことなのね。で、そのためには、それを支える環境というのが不可欠です。その意味で、この不況の中では「障害は個性だ」というスローガンは「お題目」でしかないと思うぞ。(←日蓮宗にはある程度共感するけど創価学会は嫌い)
(Maria)
寺林 wrote:
>>障害は個性だと思います。
>
>障害は個性だとは思わない。現に私は仕事で苦しい思いをしているから。
障害が個性かどうかは、どの立場から見るかによって変わってくるでしょう。
本人にとって個性かどうか。
周囲の人から見て個性かどうか。
個人として個性かどうか。
社会の中で個性かどうか。
個人が他人に対して、障害を個性と認めて欲しいと思ったとしても、社会は個性とは見てくれないこともある。
本人が障害であって個性ではないと主張しても、周りが「その程度は障害ではなく個性のうちだ」と取り合わないこともある。
個性かどうかの議論の多くは、視点が違ったまま擦り合わせをしないで議論がなされているように思えます。
>私も学校、家族、社会から AS=変な人、狂人=ばか
>と受け止められています。私は人とコミュニケーション
>取れなかったり、こだわりが強く、皮肉や社交辞令が分からない
>などがあるので。
私もです。
>障害は個性だと思います。
障害は個性だとは思わない。現に私は仕事で苦しい思いをしているから。
スーパーのレジは2月で辞めようと思ってます。これからどう生きていいのかわかりません。
手先も不器用、臨機応変も苦手、そんな人間を個性だと思って本当にいいんですか?生きていけないじゃないですか?
Maria wrote:
> なお、「短辺を一辺とした正方形を切り取ると、残った部分がもとの長方形と同じ形になる長方形」の短辺と長辺の比は一に対して(1+5の平方根)/2で、これを「黄金比」といいます。比の値は1.618033989‥‥となり、これを「フィボナッチ数」といいます。
>
確か正五角形のひとつの辺と対角線の長さの比も、
1:(1+√5)/2
になりますよね。
武田好史さん wrote:
> 日本の紙の規格には、A・Bという規格がありますよね……
> いずれも二つ折りでは、正方形になりません。
> また正方形を切り取って残る紙も、やはり二つ折りでは正方形になりません。
>これらの規格の紙の長いほうの一辺の長さは、短いほうの長さの何倍になっているのでしょうか?
> またどうして、二つ折りにして切っていっても、これらの紙は正方形ができないように作られているのでしょうか?
「二つに折ると、同じ形で面積が半分の紙ができるようになっている」からです。
したがって、短辺と長辺の長さの比は、1:1.41421356‥‥つまり、1と「二の平方根」の比になっています。
A0(えーぜろ)またはA全紙(えーぜんし)と呼ばれるのは面積が一平方メートル、B0(びーぜろ)またはB全紙(びーぜんし)と呼ばれるのは面積が一.五平方メートると決まっています。で、A全紙を二つに分けるとA1、さらに半分に分けるとA2……というふうに、なってゆきます。
なお、「短辺を一辺とした正方形を切り取ると、残った部分がもとの長方形と同じ形になる長方形」の短辺と長辺の比は一に対して(1+5の平方根)/2で、これを「黄金比」といいます。比の値は1.618033989‥‥となり、これを「フィボナッチ数」といいます。
どちらにせよ短辺と長辺の長さの比が無理数になっているので、きっちりとした整数比で表わすことができません。ですから、正方形を取りつくすことで比を求める方法(ユークリッドの互除法)を試しても、永遠に終わりません。
ああっ、こんなことを書いていたらピタゴラス教団の刺客がっ!(←ウソ。読み筋は以下の書込み)
> ちなみに、弦が云々というのはピタゴラスです。
> この人は、世界は数学をもとにしてつくられていると考えた神秘学者でもあるのです。
> ピタゴラス教団なんてものも作ってるんですよ。
> 彼は、「二乗したら2になる数字(√2)」が「どこまでいっても割り切れない数字」であることを「創世における神の失敗」と考え、この数字の存在をひたかくしにしようとしました。
> この数字が存在することを世間にばらしてしまったピタゴラスの弟子は、
> 教団の手によって殺されてしまったという話も残っています。
大槻いつき『Re: 「わかりやすさ」について』(No.7514)
(Maria)
日本の紙の規格には、A・Bという規格がありますよね・・・
いずれも二つ折りでは、正方形になりません。
また正方形を切り取って残る紙も、やはり二つ折りでは正方形になりません。
これらの規格の紙の長いほうの一辺の長さは、短いほうの長さの何倍になっているのでしょうか?
またどうして、二つ折りにして切っていっても、これらの紙は正方形ができないように作られているのでしょうか?
蝙蝠(内省型)さん wrote:
> ここに書かれていることは医学からは完全に脱線している…。
>
> 自閉とは本人にとって2つの意味がある…。1つは生まれつき
>持っている対人交流の障害…。もう1つは社会と折り合いをつけ
>ていくために自らの心を閉ざしていくこと…。
こうもりさん、皆さん、こんにちはー。
久しぶりにカキコします。年始の挨拶でマザーから直子に変更したままだった
ので皆さんに、もう忘れられたかも(^_^;)
最近フランシス・ハッペ著の『自閉症の心の世界』を読み返し、
第四章・『生物学的レベルで見た自閉症』の“自閉症は遺伝か”の
記述の中に自閉症になる遺伝的素質は存在するようなことが書かれている。
それは、私の中でずっと気になっていたこと。
実は私の父は、人との付き合いが苦手で孤独を好む人なのです。
全然社交的ではなく、家に訪問客が来ると何処かに逃げてしまう人です。
その来客者が嫌いという訳ではなくて、気を遣うのが苦痛なのか、会話
自体億劫になるのかよく分からないのですが。
近所の人達からも「人のことを言わない珍しい人」だと思われているようで
私から見れば、ただ人に関心がないだけと思えるのですが(汗)
私の父が、対人関係を苦手としているのは障害なのか心を閉ざした人なのか
私にはよく判らない“謎”だったりします。
たとえば息子の(AS)は人を求めているタイプです。おしゃべりです。
でも父は本当に孤独が好きという気がします。誰も求めていないというか、
独りで居るときが一番幸せ、みたいな人。
吟遊詩人 wrote:
>
>悲しみと
> 憶えし色に
> 溶け込みて
>深紅の香り
> 誰の下より
我が命 道端に立つ 草の芽か
花咲く日待つ 世の風に耐え
朝日うけ 茶の葉の緑 輝けり
狭山の原の 午前過ぎゆく
みどりさん wrote:
> そういう、メンサを謳ったパズル本を期待して買ったのに、中身は不条理なものばかりで、なんだこりゃと投げ棄ててあります。ったく。(私も出版社が悪いと思う)
『偽金の問題』のバリエーションで、
「八枚のコインがあり、そのうち一枚だけ偽金が混じっていて、わずかに軽い。天秤を二回使って、偽金を検出せよ。」
というのがあります。これ「八枚」というのが引っ掛けで、「九枚」だったら簡単だから、あまりいい問題ではない、という意見があります。
名作としては、
「十二枚のコインがあり、そのうち一枚だけ偽金が混じっていて、わずかに重さが違う。天秤を三回使って、偽金を検出せよ。」
というのがあります。これにはアルゴリズム的な解法と組合せ的な解法の二通りの解法があって、それぞれに味があります。
で、こういうのが、あります。
「十三枚のコインがあり、そのうち一枚だけ偽金が混じっていて、わずかに重さが違う。天秤を一回使って、偽金を検出せよ。」
答えは「正十三角形の天秤を使う」。
ああっ、ぶたないで。
(Maria)
Mariaさん wrote:
> そんなわけで、知的能力というのは「答えが合っているか」だけでは判断ができません。かといって「説明」や「証明」がついていれば判断できるかというと、そうでもなかったりします。極端な例を挙げれば天才数学者ラマヌジャンの例があります。答が合っているのはおそらく間違いないのに、なぜそういう答が出てくるのかが本人にもわからない。「ナマジリ女神が夢枕に立って教えてくれるのだ」と言われても困るぞ(←マジな話です)。
えっ?!ラマヌジャンの天才のもとって(すみません。うまく書けない。最近ヘンな表現ばっかだ)これだったの?!…TVで、こんなこと言ってなかったから驚いた。(…って、フツーは言わないが。)しかし、ラマヌジャンも才能に恵まれながら、それをロクに生かせないまま終わってしまったんだものね…。何か悲しいな。彼もASだったのかしら?
…しかし、彼の死んだ年齢と、今のわたしの年齢が同じということを考えると、なんか複雑…。(天才と一緒にする方が間違ってるんだろうけど。)
>Mariaさん wrote:
>> アメリカには高IQの人間だけが入会できる『メンサ』というクラブがありますが、その『メンサ』が出したというパズル集を読んだら、なんだか訳がわからないことになっていました。
手元に本がないところですみませんが、もしかして『ぼくのアスペルガー症候群』の、ケネス・ホールくんが入ってるのが、このクラブなのかな?
Maria wrote:
> アメリカには高IQの人間だけが入会できる『メンサ』というクラブがありますが、その『メンサ』が出したというパズル集を読んだら、なんだか訳がわからないことになっていました。
> なにしろ、ほとんどのパズルで解がバーストしています。つまり、複数の解釈がありうるのに、そのうちの一つだけを正解にしている例が多いんです。これは『メンサ』の責任というよりその本を発行した出版社なんかの責任じゃないかと思うんだけどね。本来のパズルでは「発想」を問題にしていて、そこに挙げてある「解」も「こうした考え方があるんですよ」というひとつの例にしかすぎなかったのだと思います。だけど、それでは「正解」「不正解」という判定が機械的に出せない。だから、パズルの解を「ただ一つの正解」に限定してしまった結果、本来の主旨とは違う、「なぞなぞ集」みたいなものになってしまった。そういうことだと思います。
そういう、メンサを謳ったパズル本を期待して買ったのに、中身は不条理なものばかりで、なんだこりゃと投げ棄ててあります。ったく。(私も出版社が悪いと思う)
ニコリの方がよっぽどおもしろかった。次のニコリはいつ出るかしら。
g
グルンサさん wrote:
> 『言語性・動作性IQ』は、どんなテストで、どうやって診断が下されるのでしょうか?
Lingkoさん wrote:
> あー、こういうテストについては、聞かない方がいいです。っていうか、聞いたり読んだりしてしまったら、点が正しく出なくなっちゃうので。
> グルンサさんだけじゃなく、他の人もうっかり読んじゃうといけないから、あんまり返事は書かないでほしい……。
風呂糸さん wrote:
>IQテストって、大学とかの入試試験のような、メチャクチャ難しい物だと思ってました...(^^;
pennpenn58さん wrote:
> 私が子供の頃は結構学校でこまめにIQテストをやらされました。今はそんなことはないのでしょうが。読書能力テストとか。いろんなテストをやらされたなあ。IQテストは私にはめっちゃ、難しかったです。特に積み木の山の絵があって隠れている積み木も含めて全部でいくつというのが超苦手で考えるのもいやでした。
前にも同じようなことを書いた記憶があるのだけれど、あらためてもう一度。
IQというのは小学校に上がった頃にはだいたい決まってしまっていて、あとは一生変化しないものだと言われています。ですから、「こまめに」IQテストをやるなんてことは、通常ありません。可能性としては、IQテストを繰返すことでテストに習熟させ、IQの値を水増しするということくらいだけど……それにどういう意味があるのかが分りません。
そもそもIQというものに対してあたしは懐疑的です。せいぜい意味があるのは七十から百三十にかけての中間部分で、それより下の領域ではIQテスト自体に適応できなくて意味のある値が出てこないし、それより上の領域ではテストで計ろうとすること自体に意味がないように思われます。
アメリカには高IQの人間だけが入会できる『メンサ』というクラブがありますが、その『メンサ』が出したというパズル集を読んだら、なんだか訳がわからないことになっていました。
なにしろ、ほとんどのパズルで解がバーストしています。つまり、複数の解釈がありうるのに、そのうちの一つだけを正解にしている例が多いんです。これは『メンサ』の責任というよりその本を発行した出版社なんかの責任じゃないかと思うんだけどね。本来のパズルでは「発想」を問題にしていて、そこに挙げてある「解」も「こうした考え方があるんですよ」というひとつの例にしかすぎなかったのだと思います。だけど、それでは「正解」「不正解」という判定が機械的に出せない。だから、パズルの解を「ただ一つの正解」に限定してしまった結果、本来の主旨とは違う、「なぞなぞ集」みたいなものになってしまった。そういうことだと思います。
一見、答えがわかりきった問題でも、いろんな考え方があり、いろんな解があり、それに応じて答えも違ってきます。それは小学校レベルの理科の問題でさえ、そうなんです。
たとえば、
『水の入ったコップがあり、そこに氷が浮いています。
氷が溶けたときに、水面は
1)上がる
2)下がる
3)変わらない
のうち、どれでしょうか。』
みたいな問題があったとします。
正解は(3)……と普通なら考えるはずですが、本当のところ、どうなんでしょう?
まず、氷が解けることで、氷の融解熱によって水の温度は下がります。そうすると水の体積は収縮して、水面は下がります。したがって、答えは(2)。
ところが、これは水温が摂氏四度以上の場合について言えることで、摂氏四度を切ると水は逆に膨張をはじめます。そうすると、「氷を入れる前の水の温度」というのが問題になってくるわけです。
まあ、それでもずっと放っておくと、氷が溶けきった状態では、零度の水と四度の水が上下に層をなした状態になっているわけですね。で、その時点では、初期状態から水面が上がっているのか下がっているのかは分りません。だいいち、その間にコップと周囲の空気のあいだ(空気がなかったら「水面」はできません)で熱の出入りがあるはずです。そのときの気温は何度なんでしょう? 氷の浮いた四度以下の水が、たとえば気温によって二十度くらいまで温まったとして、水の体積は増えるんじゃないんですか?
とはいえ、放っておいて定常状態になった時点を「氷が溶けたとき」と考えるのだ、という意見もあります。そうすると、「変わらない」というのが正解になりそうですが……よく考えてください。その間、コップは空気に接していたわけです。だったらその間に水分は蒸発しているんじゃありませんか?
いやいや、そんなことはない、という人もいるでしょう。だって、氷が解ける間、その水は周囲の空気よりずっと冷たい状態にあったのだから、そこに水蒸気が凝結して、水かさが増えそうな気がしませんか?
じゃあ、実際に水面にレーザー光かなんか当てて、水面の位置を精密に測定して結果を出せばいいじゃないか、という意見だって出そうです。
だけど、そうやって測定した値に意味があるんでしょうか。結果はおそらく1ミリよりもはるかに小さい値です。そんな僅かな差を、日常生活で気にする人はいません。そもそも、もともとの問題には、コップの熱容量だとか熱伝達率だとか、水や氷の量と温度だとか、空気の温度だとか空気中の湿度だとか、そういったデータはまったく示されていないわけです。だったら、「氷が溶けて水がコップからあふれた」みたいな話は現実に聞いたことがないのだから、「変わらない」が正解ということになります。
こうなると、「それって論理的思考能力のテストじゃなくって、常識のテストなんじゃない?」みたいな話になっちゃうわけですよ。だいいち、「常識」のレベルで考えたら、表面張力とかなんとか考えなきゃなんないわけだし、「多少体積が増えたって表面聴力でなんとかなる程度の変化だ」みたいな話は、これはまたこれで実際に測定するなりなんなりしてみないと分らない。
とはいえこれって大学院の入学試験じゃないんですよ。小学校とかそういうレベルの話なわけです。そこまで考える必要なんてあるの?
そんなわけで、知的能力というのは「答えが合っているか」だけでは判断ができません。かといって「説明」や「証明」がついていれば判断できるかというと、そうでもなかったりします。極端な例を挙げれば天才数学者ラマヌジャンの例があります。答が合っているのはおそらく間違いないのに、なぜそういう答が出てくるのかが本人にもわからない。「ナマジリ女神が夢枕に立って教えてくれるのだ」と言われても困るぞ(←マジな話です)。
あるいは、証明を思いついたからって、なぜその証明を思いついたかという「発想」という部分はやっぱり謎です。『解析概論』の著者として知られる高木貞二さんは積分を使う以外に証明法がなかった微分方程式の問題を微分を使って証明することに成功して脚光を浴びました。で、「どうして微分法を使って証明しようと思ったのですか?」と質問されて、「昔から言うではありませんか。『ビブンのことはビブンでせよ』。」
……これ、本人も「なんとなく思いついて、なんとなくできそうに思ったので、面白そうだと思ってやってみたら、できた」くらいしか言えないんじゃないかな。「戦争中、海外からの文献が入ってこなかったのでヒマだった」っつーのが理由のひとつとしてあったんだそうだけど、それと発想の問題はまた別だしね。
つまるところ、動作性IQに関しては、ある程度意味のある数値も出てくると思っています。だけど、それにしたってかなりいいかげんなものだし、言語性IQに関しては、実際のところ何計ってんのかわからない部分はあります。
けっきょく、「知性」の正体が理解できたのなら、コンピュータに載せかえれば済む話なのね。現在のIQテストは、コンピュータやマスメディアが普及する以前のものです。「知性」の正体は科学の及ばない部分であり、人間にしか判断できないものだという考え方は、やっぱり不動のものとして存在します。
そんなわけで、IQなんていうものには、「IQテストとテスターに対応できるような常識と社会性」以上の意味はないと思うぞ。もっとも、それがIQの意義だ、と言われればその通りなのだけれど。
(Maria)
風鈴 wrote:
>息子には、自閉症=AS=頭がおかしい又はバカ=障害児と言う表現で伝わっていたらしくて、私自身すごくショックでした。勿論息子には、頭がおかしいとか、病気とかそう言う事ではないと話をしたのですが・・・コミュニケーションの障害や、若干こだわりの強い傾向があり、言葉も額面通り受け取る事があり難しく感じる事は確かにあるけど、それは彼の個性として受け止めているだけに今回の事で、人を信じて正直に話をする事の恐ろしさを経験しました。
ひどい話ですね!!(怒)なんか自分の事の様に心の中で怒って
ます。私も学校、家族、社会から AS=変な人、狂人=ばか
と受け止められています。私は人とコミュニケーション
取れなかったり、こだわりが強く、皮肉や社交辞令が分からない
などがあるので。
息子さんには、風鈴さんの様な理解がある親はとても大切
だと思います。いいお母さんだと思います。
誰になんと言われても、息子さんの個性を
大切にしてください。人は皆、背が高い低い、足が長い太い、
髪の毛がまっすぐ、くせ毛など特徴がありるように、
障害は個性だと思います。
私は息子さんを応援しています。
Maria wrote:
> これはぜんぜん関係のない話なのですが、真っ暗な部屋でテレビをつけてみると分るのですが、テレビってとっても明るいんです。だから、テレビ観てると頭の中に夜が来ない。「部屋を明るくしてテレビを観てください」っていうけど、本当だったら夜はテレビのほうにフィルターをかけて観てほしいんだよね。輝度調整が簡単にできないテレビのほうにも問題があるんだけどさ。面倒でも夜は「明るさ調整」を暗めに調整してほしいと思います。そしたら部屋を暗くしても大丈夫。
実は普通のテレビは、買ったままの状態では、昼でも明るすぎるくらいになってます。
テレビを買ってから一度も画質調整をした覚えのないあなた。ぜひ調整してください。いじるのは「輝度 (ブライトネス)」だけでも十分。
節電モードがあるならそれにするのが簡単でしょう。
調整の目安は、基本的にはずいぶん前にパソコン画面調整の話で書いたのと同じ、壁面と同じくらいの明るさを目指してみてください。
電気代の節約にもなります。ボリュームなんか絞るより、よっぽど効果的で、しかも目の疲れも減って快適になるはずです。
とくにゲームやアニメ画面などコントラストの強い画面を多く見る人や、子供がテレビを見る家は、ぜひ調整すべきです。
風鈴 wrote:
>随分久しぶりの投稿なんですが、最近新たな問題が勃発!!私の憤りを感じた今回の一件を聞いて下さい。・・・・・一般人のASへの無理解さにほとほと呆れてしまっている私です。高校生の息子に、ASの告知を控えていたのですが、息子が現在お世話になっているご夫婦には、理解をして貰う為にASである旨を伝え、何が苦手なのかを理解してもらおうと訴え続けてはや9ヶ月・・・・結果は”自閉症”=障害児の概念から全く離れられず、何を話しても聞く耳もたず、といった姿勢に困り果てていた矢先の出来事。久々に会った息子は、自分がASだと言う事をその奥さんから周囲の友人に言いふらされ、あげくの果てにバカにされいじめられているというのに、その奥さんは、ASは被害妄想もあるとしかとられず、この怒りをどこにぶつけていけばいいのかとやり切れない気持ちで一杯です。息子には、自閉症=AS=頭がおかしい又はバカ=障害児と言う表現で伝わっていたらしくて、私自身すごくショックでした。勿論息子には、頭がおかしいとか、病気とかそう言う事ではないと話をしたのですが・・・コミュニケーションの障害や、若干こだわりの強い傾向があり、言葉も額面通り受け取る事があり難しく感じる事は確かにあるけど、それは彼の個性として受け止めているだけに今回の事で、人を信じて正直に話をする事の恐ろしさを経験しました。
いやASに限らず全ての障害者が無理解にさらされています!
今日職安に行って、埼玉県内の障害者の求職状況をがまとめられた冊子を見てきましたが、事故で手の指を一本切断しただけで、何年も職につけない人もいるみたいです。
耳が聞こえない人も仕事を見つけるのは、なおのこと大変みたいです。音声的な言葉が話せませんから接客業にはつけませんし、仮に工場とか就労したとしても、手話で話し合える人がいたり・筆談をわずらわしく思わずにやってくれる人がいなければ、四面楚歌状態でしょう。職安で、私が所属している手話サークルの講師役をやっている聾者の人に合いましたが、その人は求人票閲覧のパソコンの画面をもう1時間半以上もも眺めていました。
また「現在の盲学校では、『目が見えない物はマッサージ師になりなさい!』と決まってしまっていると、今年の青年の主張で弱視の女の子が申しておりました。
さらに「統合失調症」(精神分裂病の新しい呼び名)やてんかんの人も、薬をちゃんと飲みさえすれば、ある程度しっかりと働けるのに、「何をしでかすか解らない!」と就労を断られるケースが未だに多いみたいです。
これら障害者が安心して社会の一員として生活していくためには、
1.障害者がが有する能力・障害の見極め
2.企業や地域社会への「障害者への接し方」の啓発
3.障害者が勤めやすい職場環境の追求・開拓
4.障害者に対する職業のあっせん
5.企業に勤めている障害者のサポート
を一元的にやってくれるような機関(公的な)が必要だと私は思います。現行の制度では、これらがばらばらに行われているので、本当に辛いです!
いろいろと、ありがとうございました。
なんというか……わたしがよその家庭との距離の取りかたが分からなくて、混乱していたのだということが見えてきました。
Mariaさん wrote:
> 社会的な自我形成にいちばん重要なのは、兄弟とか年の近い従兄弟(従姉妹)とかおともだちとかいった、自分に近い存在との間の愛着形成です。周りの変化に対応して、自分も変化してゆかなければならない、という気持ちが、「社会的な自我」を育てます。
これは思い当たります。いえ、思い当たるような気がします。
> おともだちとかがいないと困りそうだけど、ひとりでもふたりでもいれば、問題ないんじゃないのかな。
多分そうなんでしょう。娘がなにがしかの影響を与えている部分もありそうだと、うちに来た時のMさんの行動の変化から推測できます。
> 自分対他者の関係だけでなく、他者対他者の関係がいっぱいあって、その中に自分が位置づけられている、というのがわからないと、本当の意味で「自分をなんと呼ぶか」はわからないんですよ。
> ……これ、大人になってもわかってない奴とかけっこういるぞ。
そういうもんなんでしょうか……。わたしは「大人になる」というのもどういうことなのか今ひとつ理解していませんので……あ、これは別の話になってしまうので、ここではやめておきます。
> ただ、こういうところの使い分けを無意識にできるような友達(たぶん高校生以上ですが)がいると、やっぱり感化されて敏感になるみたいです。
ありそうです。娘にはそういう友達がほしいなって、かなり以前から思っていました。べつにASと診断されなくても、「昔はあったけど今は失われている社会資源」みたいなものが、切実にほしいと思っていました。周りに理解してはもらえませんでしたがね。「子どもは親だけが育てるものじゃない」って気が付いてくれる身近なひとがほしいです。(←ないものねだり。でも、あきらめないわ)
> その意味で「自己肯定感」……というか、単なる否定・肯定を超えた「自己規定のありかた」というのは大事だと思うのね。そんでもってあたしは同じ「無頼派」でも太宰が嫌いで安吾が好き、と(-_-;)。ダダイスト辻潤と伊藤野江の間に生まれ、「地球の居候」を自称した辻まことさんや、「渋沢栄一の孫」という存在から出発せざるを得なかった澁澤龍彦さんにも、そういう「都会的な雰囲気」を強く感じざるを得ません。
> 「老眼で、明るくないと手元・足元が危ない」というお年寄りのいるうちだと、家の中が煌々と照らされていてやっぱり子供にはツラいものがあります。だから、間接照明と手元・足元の灯りを活用して、「必要な明るさを確保したうえで、夜は暗めの生活」を心がけてほしいな。体内リズムをちゃんと作る意味でも。(←めいっぱい自戒をこめて言っている)
あー、説明が足りなくて失礼しました。
娘は暗いところで寝ているんです。豆電球すら点けません。Mさんは自分の部屋を与えられていて、電気もテレビも点けっぱなしでないと眠ることが出来ないのだそうです。それも、お母さんが帰って来るまで起きていようとしてがんばるらしく、夜中すぎまで眠らないのです。
娘が泊まりにいくときは、夕飯が済めば「ほったらかし」になり、どこの部屋へ出入りしていても何をしていても何も言われないらしいです。いつ寝てもそれは子どもの勝手ということらしく(大人には大人の都合があるので)Mさんの部屋で遊び疲れて眠ってしまえば、お母さんが夜中にテレビも電気も消すということのようです。娘は暗いところで寝たいと思ってMさんとは別の部屋で寝たこともあるし、リビングで眠ってしまって、起きたらふとんがかけてあったということも以前はありました。
今はお泊りを週に一度と制限しているのですが、そのお宅では「うちはいつ来てくださってもかまわないですから」とお母さんが言い、Mさんも「うちはいつでもいい」としきりに誘います。お泊りに行けば、翌日わたしが迎えに行くと当然のようにMさんはうちへ遊びに来て、お母さんが迎えに来る6時までうちにいます。
その繰り返しが、わたしには辛かったということです。娘はいまはリズムが完全に崩れて夜中近くでないと寝ないし、朝は9時ころでないと起きなくなってしまいました。ははは……。
もうすこしマトモなカキコになればよかったんですが、どうもいけません。2〜3日ROMになって冷静さを取り戻したく思います。
風鈴さん wrote:
> 一般人のASへの無理解さにほとほと呆れてしまっている私です。高校生の息子に、ASの告知を控えていたのですが、息子が現在お世話になっているご夫婦には、理解をして貰う為にASである旨を伝え、何が苦手なのかを理解してもらおうと訴え続けてはや9ヶ月……結果は「”自閉症”=障害児」の概念から全く離れられず、何を話しても聞く耳もたず、といった姿勢に困り果てていた矢先の出来事。久々に会った息子は、自分がASだと言う事をその奥さんから周囲の友人に言いふらされ、あげくの果てにバカにされいじめられているというのに、その奥さんは、ASは被害妄想もあるとしかとられず、この怒りをどこにぶつけていけばいいのかとやり切れない気持ちで一杯です。息子には、「自閉症=AS=頭がおかしい」又は「バカ=障害児」と言う表現で伝わっていたらしくて、私自身すごくショックでした。勿論息子には、頭がおかしいとか、病気とかそう言う事ではないと話をしたのですが……(中略)今回の事で、人を信じて正直に話をする事の恐ろしさを経験しました。
まったくの私事で恐縮ですが、昨年末に「八ツ頭(やつがしら)」という里芋の一種を買って半分ほどお水に浸しておきました。そしたらなかなか芽が出ないのね。「たくさん芽が出る」というので縁起物として飾られることの多い八ツ頭ですが、「新年早々さっぱり芽が出ない」とかいったら縁起悪いぞ。とはいえ無事に芽と根が出始めたので一安心。やれやれ。枯らさないように気をつけよっと。水耕栽培用の根腐れ防止剤も買ってこなくっちゃ。
……えー、ことほど左様に人間はつまんないことでも抱えているとストレスになるのですね。で、そのストレスはその事実が消えたとしても解消しなくて、人に伝えることで解消されるわけです。これをクレッチマーは(←クレッチマーというのもいいかげん古いなぁ)「伝導」と呼んでいます。この「伝導」の能力があったから人間は文明というものを築いてこられたんだけどさ、これがしばしばゴシップや宗教の押売りみたいな形で社会の迷惑になったりもするのだな。
で、一般人にとって、自閉症方面の人間が身近に存在することがなぜそんなにストレスになるのか?ということなのですね、問題は。
まあ、ひとつには実存を支えるものがあんまりない、ということだったりします。「一般人」というのは文字通り「一般の人」なわけだから、「他人と同じ」ということで自我を支えているわけです。「みんなと同じ」だから「安心」。だけど、「べつにみんなと同じでなくたっていいじゃん」とか、「みんなと同じだからって安心っていう訳じゃない」とか、そういった事態にたち至った場合にパニックを起こします。前者が異端の排除で、後者が被害者非難心性。普通の親から普通でない子供が生まれて、普通でないのに普通の生活をしているというのが我慢できない。で、普通でない子供が生まれた以上は何か「よくないこと」という原因があったに違いない、と考えてしまうわけです。
アスペっ子のお母さんで、この『アスペルガーの館の掲示板』に顔を出すようになって、自分の中の自閉症的傾向を知るにしたがって、「そーかうちの子がアスペでもしょうがないな」と思って安心しちゃうお母さんってけっこう多いと思う。で、自閉症方面の人間というのが、それぞれ似たような苦労をしながらも、おんなじような選択をしてそれなりに社会で生きている、というのを知って、「なるほど、そんなもんか」と思う。ところが「一般人」というのはそういうプロセスを経ていないんですね。だから、「自閉症」というのは、「社会の異物」であり、そこに存在するだけで居心地の悪くなるようなものなのですよ。
ディーヴォというロック・グループがあって、『サティスファクション』という曲の奇天烈なカヴァーで有名なのですが、その代表曲に『モンゴロイド』という曲があります。「誰も知らなかったけれど、彼はモンゴロイドだったのだ!」みたいな曲なのだけど、人種差別の奥底にある「蔑視」や「嫌悪」以外の、「薄気味の悪さ」を表現した名曲だと思っています。これは「アンドロイド(人造人間)」と「モンゴロイド(モンゴル系人種=黄色人種)」の語呂合わせなんだけど、確かに「同じ人間」というのを納得しがたい部分はあるよな、と日本人のあたしとしても思ってしまうわけです。
そんなわけで、「横並び意識」というもので自分を支えている人間には向上心もへったくれもないし、社会というものは「普通の人間」だけでできていると信じたがっていて、そこから外れた人間は蹴落とすという態度が身についています。そういう人たちは敬して遠ざけるしかありません。
この、「一般人の横並び意識」にはけっこう悩まされます。だから、あたしは「ひと目で自閉症の人間だと分る格好」をしようかと、ときどき思うのね。いっそ、ローズピンクの逆三角形でもつけて歩こうかと思ったりして。ちなみに、「ローズピンクの逆三角形」というのは、ナチス・ドイツが用いた障害者の印なんだけどね。
(Maria)
風呂糸 wrote:
>IQテストって、
>大学とかの入試試験のような、メチャクチャ難しい物だと思ってました...(^^;
私が子供の頃は結構学校でこまめにIQテストをやらされました。今はそんなことはないのでしょうが。読書能力テストとか。いろんなテストをやらされたなあ。IQテストは私にはめっちゃ、難しかったです。特に積み木の山の絵があって隠れている積み木も含めて全部でいくつというのが超苦手で考えるのもいやでした。もちろん、私のIQは話にならないくらい、低かったようです。なぜ成績がいいのでしょうねと先生が私の親に聞いていました。
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