アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
直子(旧マザー)さん wrote:
>>たとえば息子の(AS)は人を求めているタイプです。おしゃべりです。
> 追記
>息子は思春期に入ってどんどん人に興味を持つようになった。友達をほしがった。
>だけど、自分なりに友達を作ろうとしても、うまくいかず少しずつ抑うつになってしまった。
>息子は中学生の頃から躁状態のように、急にはしゃいでバカ笑いをすることが目立ってきた。
>
>クラスの子に「なんだよ急に!お前バカか!シンナーでも吸っているんじゃないのか」と言われショックを受けて悩んでいた。
>ある時、「お母さん、俺って障害者? それとも精神病?」「俺、なんでこんなに変なんだ?」と息子に詰問された。
>私は「あなたには自閉症という軽い障害があるのかもしれない」と、正直に話をした。
>息子は家庭医学書などで自閉症を調べて私にこう言った。「お母さん、俺は自閉症じゃないよ!だって俺は人に関心がある」と。
>息子ASは人に関心があって、自分を受け入れてほしいと望んでいても医学的には自閉者になってしまう。
>心を閉ざしているわけでもないのに。
直子さんはじめまして。
私なんかもメッチャンコ嬉しくなると、誰それナニソレ構わずにシッポ振ってた
口です。興味が無い場では全く話しの音声自体が機能しなくなっていました。
私は24歳の時に、はっきり自分がヒトと違うことを自覚し、どうしようもなくなって、虚脱状態になりました。こればっかりは、友達にも言えなかったです。
母親に何度か「私は分裂病かしら・・・・」と何度ももらしました。
「自閉」を知ってから、親は「全く別なの。病気じゃないんだ。」と心の穴にフォローしてくれるようになりました。
成人すればするほど、ヒトとの距離は離れてしまって「なんで私は自閉なんだあ!!」と騒ぎ立てて泣き叫んだ時は、逆に悲痛な顔で怒鳴られてしまいました。
そして、「親の寿命を減らさんといてくれ」と頼まれました。
ありのまんま書いてしまったつもりです。
いちいち言わなくて良い事書いてしまってすみません。。
私の時と似てたので。。。
I wrote:
>たとえば息子の(AS)は人を求めているタイプです。おしゃべりです。
追記
息子は思春期に入ってどんどん人に興味を持つようになった。友達をほしがった。
だけど、自分なりに友達を作ろうとしても、うまくいかず少しずつ抑うつになってしまった。
息子は中学生の頃から躁状態のように、急にはしゃいでバカ笑いをすることが目立ってきた。
クラスの子に「なんだよ急に!お前バカか!シンナーでも吸っているんじゃないのか」と言われショックを受けて悩んでいた。
ある時、「お母さん、俺って障害者? それとも精神病?」「俺、なんでこんなに変なんだ?」と息子に詰問された。
私は「あなたには自閉症という軽い障害があるのかもしれない」と、正直に話をした。
息子は家庭医学書などで自閉症を調べて私にこう言った。「お母さん、俺は自閉症じゃないよ!だって俺は人に関心がある」と。
息子ASは人に関心があって、自分を受け入れてほしいと望んでいても医学的には自閉者になってしまう。
心を閉ざしているわけでもないのに。
Mariaさん wrote:
> Mariaだじょ。(↑書いてあるって)
わーい。だじょだじょ。<ははっは(^^)
> うちの所長さんが「マイクロプロセッサ」というものに出会ったのは、たぶん一九七五年です。
うわっつ。私は生まれていませんね!
それまで、なんだかわからない、とにかく「すごい」ものだった「コンピューター」というものが、手の届きそうなところにやってきた、というので大昂奮しました。
>
> それから八年くらい経ったころでしょうか。「自分の書いたプログラムが誰かの役に経つ」ということを知ったのは。それ以降、「基本的に、プログラムを書いて食えればそれでいい。取れるところからは取り、払えないところに回して、つましく生きてゆこう」と思ったそうです。
>
> それから紆余曲折を経て就職した会社(「エー・アイ・テクノロジー」というのですが)は「魔窟」と言われました。なんつったって「自分が欲しいソフトを作る」「自分が払ってもいい値段をつける」で商売してて、しっかり儲かってたんだもん。そうやって築いた資産は、次の製品の開発費に叩っこんでました。
プログラムって、楽しいんですか?
私は高校まではバリバリの理系派だったんですが、
(センターも理数で確保しました。)
どちらかというと、大学の選択自体誤ったのだろうか・・・。と
中退してから思ってしまう。← 理由の擦り付けです。
子どもの時からテレビゲームはクラスの男子と本格的に
競っていたくらいでした。パソコン自体はあまり興味無かったんですが
(解説文章で参ってしまう)今、父親のパソコンを占領して
結局自分だけで使っています。
でも、今更一から自分のできそうな分野でスタートから
周囲と競おうなんて気すら起きない。。。
気象データ入力のアルバイトの時は、秘書さんみたいな人から、
「あら。コンピュータ好きそうねえ?!」←関西人で機関銃のような人だった
と、教えてくれていましたが、とても、周囲バスケのような情報キャッチ
には付いていけなかった(涙)
それに、電話が駄目だし、一回一回周囲との会話にも付いていけない。
田舎だからか、みんな同じようにできないとすぐに話しでぼろくそに出される。
デスクみんなのところに行って、お茶をだすのもひっどイ苦労。
毎日毎日、なんでお茶の為にこんなに苦労を?
後でマックでの仕事しないか?と言われけど、そ、それわ
「美術系」と思い込まれていて期待されていたに違いない。
居るだけで死にそうで睡眠もぶっ飛ぶ。
> 「あたしたちは、生きててやってるんだ! 世の中に必要とされてるから、こうやって生きてるんだ! 自分の為すべきことをちゃんとしている人間が幸せになるのは、自分のためじゃなくって世間のためなんだ。努力が報われなかったら、みんな安心して働いていられないでしょ? だったら『仕事』がいちばん楽しいっていうあたしたちを、うまく利用してどんどん儲けてくださいよ。あたしたちは、自分の才能をめいっぱい活かすことで、その期待に応えてあげるから」。それが、あたしたちのスタンスだったのね。
> なんで世間に「生きさせてもらっている」なんていう目で見られなきゃいけないの? あたしたちは「ちゃんと生きる権利」を、奪われているだけなのよ!
そうですとも。奪われているんですよ!
私だって、自分ができることで満たされたい。
> ……もちろん、「働けない」ひともいるのは確かなのね。あたし自身が「働けない」存在だったことがある(突発性拡張型心筋症で、ベッドから降りることすらできなかった時期がある)から、それは分ります。だけど、「人間として生きている」ことと、「自分のことを自分で決められる」というのは、それだけでも重要なことなのね。
> だから、あたしたちの「寄合所帯」というのが、あるとうれしい。自分の基盤になる場所が、欲しいと思ってます。
>
> 本気で作っちゃおう、と、思ってたりもします。
創ってよおお・・・・・!創って欲しいよお・・・!
小会社でもいいじゃあないですかあ。
自由に才能開発できる場を設けてよおおお。
うちのポカホンタス田舎では、どおおおでもいいよううな
デッカイデッカイ子どもの学習会館を創りおって!
変な城のような建物の前にはでっかい広い広い芝生だじょ。
敷地面積一体どれほどか?
「もったいねえー!」って思った。
なんでこんな物造っちまうんだ?田舎って。
安藤忠雄さんの円形寺の方がよほど為になる←意味不明
え、明日のオフ会待ち合わせ場所では、私は
うえ:オリーブ・グリーンのコート
した:ジーンズ
というカッコウをしております!
私は眼鏡をかけていて、髪は縮れ毛です。
以下、参加する人がいたら、服装をお書き下さい!
あさかぜ wrote:
>ひま人さん wrote:
>>(前略)そんなに天体のことが好きなら、いっそのこと天文学者になればよかったのに?
>
> 横レスします。
> 小学校の卒業文集に「わたしは将来、小説家か天文学者になりたい」と書いていた者です。
>
> どちらにもなれませんでした。学力や能力の足りなさを痛感できたのは、高校時代です。今でも専門書を読むほどの知識はないけれど、一般向けの解説書でたとえば『重力と一般相対性理論』なんか読んでて楽しいし、しし座流星群を見るために夜中に休耕田まで出かけて行ったりくらいのことはします。
> 好きだから好き……それだけじゃいけないの?
そう、だから学者にはならなくっても、ちょっとずうずうしい「愛好家」でいたいです(^O^)。
あさかぜ wrote:
> 「正しくないことを認めにくい」というか「(自分が教わってきた、あるいは信じてきた)正しいことが、ちゃんと行われていないことに対する嫌悪感がある」とでも言いましょうか。(ホントに説明しにくい)
> 「人をいじめちゃいけないよ」「人の悪口を言ったり、叩いたりしちゃいけない」などは、幼児の頃から誰でも言われて育ってくると思います。それが「正しいこと」としてストレートに心に定着していて、正しくないことに対する違和感や嫌悪感が生まれているような感じです。これはどちらかというと「融通がきかない」ほうの部類に属するのではないかな?とわたしは思いました。こういう子は「やられたら、やりかえせ」などと言われたら泣き叫びます。「正しくないこと」をするのは自分自身と「矛盾」するからです。
うわぁんうわぁんびいびぃ〜 (ちょっと子供返りしてます)
やなのよー。そうなのよー。正しくないことをする人、しかも平然とする人たち、そんな人たちがいるなんて信じられない。
ニュース見るは耐えられないことが多いし、親しい大好きな友人が相手でも批判的に思ったりしてしまうの。
しかももっと嫌なのは、実は自分がたくさん正しくないことをしちゃってることに気づいたとき。
もうどうしようもなくイヤなのよー。もうどうしようもなく腹立たしくなるのよー。どうしていいかわからなくなるのよー。
うえーん
冷静でなくてごめん の みどり (こんな追記をしちゃう性格もきらいだ)
えーと、思いついたことだけを書いてみます。
うちの娘を見て、ということだけなので、アスペっ子全体に言えるかどうかはわかりません。(なら書くな?そんなことおっしゃらないで〜)
Mariaさん wrote:
> アスペっ子は、他の子供をいじめることがない。
> アスペっ子は、他の子供にいじめられることが理解できない。
> アスペっ子は、明確な危険やはっきりとした苦痛に鈍感であると言われている。
> アスペっ子は、相手が誰であれ、苦痛を受けているのを見るのが苦痛だったりします。だから、いじめができない。
> 逆に、なぜいじめられるのかがわからない。相手だって同じように苦痛を受けているはずだから。
娘が「学校に行きたくない理由」を三択クイズ形式(こういうの好きみたいです)で突き詰めていって、「同じ部屋(教室とは言わない)の男の子が、お友達の悪口を言うのがいや。そういうのは聞くのも見るのもいや」という原因が出てきたことがありました。
娘自身も悪口を言われたり、イスを蹴飛ばされたり叩かれたりという意地悪にあっているので、これはその時のことが蘇って思い出されたせいかな?と最初は思いました。でも、少しちがうような気がします。うまく言葉にならないんですけど。
「正しくないことを認めにくい」というか「(自分が教わってきた、あるいは信じてきた)正しいことが、ちゃんと行われていないことに対する嫌悪感がある」とでも言いましょうか。(ホントに説明しにくい)
「人をいじめちゃいけないよ」「人の悪口を言ったり、叩いたりしちゃいけない」などは、幼児の頃から誰でも言われて育ってくると思います。それが「正しいこと」としてストレートに心に定着していて、正しくないことに対する違和感や嫌悪感が生まれているような感じです。これはどちらかというと「融通がきかない」ほうの部類に属するのではないかな?とわたしは思いました。こういう子は「やられたら、やりかえせ」などと言われたら泣き叫びます。「正しくないこと」をするのは自分自身と「矛盾」するからです。
「矛盾」を越えてまで行動に出るほどのところまで達していない(うーん、言葉が変です)という気がします。
> で、危険や苦痛はおそらく感じているのだけれど、それが「自分のこと」だというのが、よくわからない。そわそわしたり、イライラしたり、パニックを起こすことはあっても、状況と自分の中の「感覚」がどう結びついているかが、いまひとつよくわからない。
この辺も、「我慢しなさい」と「我慢は正しいことである」という教えを受けてきた場合には、「外に向かって痛みや苦しみを表現する」ことは「正しくない」という状態におちいっている可能性もありうるかもしれないという気がします。すべての危険や苦痛に対していえる事柄ではありませんが。
あくまでも、わたし個人の考えです。
ひま人さん wrote:
>(前略)そんなに天体のことが好きなら、いっそのこと天文学者になればよかったのに?
横レスします。
小学校の卒業文集に「わたしは将来、小説家か天文学者になりたい」と書いていた者です。
どちらにもなれませんでした。学力や能力の足りなさを痛感できたのは、高校時代です。今でも専門書を読むほどの知識はないけれど、一般向けの解説書でたとえば『重力と一般相対性理論』なんか読んでて楽しいし、しし座流星群を見るために夜中に休耕田まで出かけて行ったりくらいのことはします。
好きだから好き……それだけじゃいけないの?
Mariaだじょ。(↑書いてあるって)
オレンジブルーちゃん wrote:
> という前に、私はどこにも安心して認められる「場」があまりにも無いと感じている。被害妄想でしょうか? 自閉の診断をもらったって、現実の場に、どこにもその自閉者に対する「場」が設けられていない。
> ノースカロライナ州の話を見たって、とんだお伽話だ。
>
> この生き辛さ、見せしめに為に障害者が集団自殺なんか起こしてしまえば いいのに。なんて思ってしまいました。
> 精神的に弱っている弱者が居るはずの世界に向かってこんなこというのは犯罪ですが、ごめんなさい。私は今日、本当にそうなっちまえばいいのに、っておもいました。
>
> 先天的に気楽に安心していられる場所が無いなんて、 (私にとって)死んだ方がよっぽどマシな世の中です。
うちの所長さんが「マイクロプロセッサ」というものに出会ったのは、たぶん一九七五年です。それまで、なんだかわからない、とにかく「すごい」ものだった「コンピューター」というものが、手の届きそうなところにやってきた、というので大昂奮しました。
それから八年くらい経ったころでしょうか。「自分の書いたプログラムが誰かの役に経つ」ということを知ったのは。それ以降、「基本的に、プログラムを書いて食えればそれでいい。取れるところからは取り、払えないところに回して、つましく生きてゆこう」と思ったそうです。
それから紆余曲折を経て就職した会社(「エー・アイ・テクノロジー」というのですが)は「魔窟」と言われました。なんつったって「自分が欲しいソフトを作る」「自分が払ってもいい値段をつける」で商売してて、しっかり儲かってたんだもん。そうやって築いた資産は、次の製品の開発費に叩っこんでました。
「あたしたちは、生きててやってるんだ! 世の中に必要とされてるから、こうやって生きてるんだ! 自分の為すべきことをちゃんとしている人間が幸せになるのは、自分のためじゃなくって世間のためなんだ。努力が報われなかったら、みんな安心して働いていられないでしょ? だったら『仕事』がいちばん楽しいっていうあたしたちを、うまく利用してどんどん儲けてくださいよ。あたしたちは、自分の才能をめいっぱい活かすことで、その期待に応えてあげるから」。それが、あたしたちのスタンスだったのね。
なんで世間に「生きさせてもらっている」なんていう目で見られなきゃいけないの? あたしたちは「ちゃんと生きる権利」を、奪われているだけなのよ!
……もちろん、「働けない」ひともいるのは確かなのね。あたし自身が「働けない」存在だったことがある(突発性拡張型心筋症で、ベッドから降りることすらできなかった時期がある)から、それは分ります。だけど、「人間として生きている」ことと、「自分のことを自分で決められる」というのは、それだけでも重要なことなのね。
だから、あたしたちの「寄合所帯」というのが、あるとうれしい。自分の基盤になる場所が、欲しいと思ってます。
本気で作っちゃおう、と、思ってたりもします。
(Maria)
蝙蝠(内省型) wrote:
> ここに書かれていることは医学からは完全に脱線している…。
>
> 自閉とは本人にとって2つの意味がある…。1つは生まれつき
>持っている対人交流の障害…。もう1つは社会と折り合いをつけ
>ていくために自らの心を閉ざしていくこと…。
自分で話題を提供しておきながら、完全にレスが遅れてしまっ
た〜。情けないっす。武田さん,直子さん、丁寧なレスをありが
とうございました。
こうもりです。これはあさってのオフ会の確認メールです。
こうもり wrote:
> こうもりです。鯨夢ミグさんとの間でオフ会の大まかな予
>定が決まりましたので、ここに告知します。
>
> 日程:1月26日(土曜日)
> 時間:11時30分集合(お店に11時50分を目標)
> 集合場所:JR新宿駅南口(改札を出た辺り?)
> 開催場所:「ぴーまん」
> 集合時の目印:不肖こうもりが中国で買った人民解放軍の
> のコートを着て立っております。
>
>緊急時の連絡先
>
>鯨夢ミグか、繋がらなければこうもりの携帯電話へ。なお、
>携帯番号は不肖こうもりが直接メールでお知らせしますので
>参加希望者は下記のメールまでご連絡いただければ幸いであ
>ります。
>
>(連絡先)seijinld@msg.biglobe.ne.jp
>
> 上記の連絡先はオフ会の申しこみ先にもなっています。ち
>なみに会場の住所と連絡先は以下の通りです。
>
>新宿 ぴーまん
>新宿御苑の緑の展望台
>
>東京都新宿区新宿2-2-1 ビューシティ新宿御苑1F
>TEL:03・3341・9472
>営業時間:10:00〜19:30/11:30〜13:30ランチタイム
>定休日:なし
>
> 皆様の参加を心よりお待ちしております。では
I wrote:
> (5)の「赤ちゃん言葉がない」というのは、その過程における試行錯誤が表に出てこない(いわゆる『魔術としてのコトバ』と『外なるコトバ』の間にギャップがある)ためであるように思われる。
えー、とある本に「自閉症に特徴的な行動」として、こんなものがあげられていました。
・通常の教育方法にはのらない
・不適切な笑い方やクスクス笑いをする
・エコラリア(反響言語)
・耳が聞こえないような振舞をする
・明らかな危険に対して恐怖心を示さない
・痛みに対して鈍感
・泣き叫びやかんしゃくを起こす/わけのわからない激しい苦悩を示す
・物をクルクルまわす
・あやしても反応がない
・おかしな遊びに没頭する
・他の子供たちと一緒に遊べない
・日課や習慣を変えることに抵抗を示す
・視線が合わない
・冷淡な態度を示す
・粗大運動と微細運動にアンバランスがある/ブロック積みはできてもボール蹴りをしようとしない
・物に不適切な愛着を示す
・非常に他動であったり極端に受け身的であったりする
これはなんでもオーストラリアのJ・レンドル・ショートという人の資料に改訂を加えたものだそうですが、うーん……偏見入ってるなぁ。だいたい「通常の教育方法」「不適切な」「鈍感」「わけのわからない」「冷淡」「不適切な」ってなんやねん(-_-X)。
でもって、今回はあたしが「常識」だと思っていることと、アスペっ子の教育の世界、あるいは発達障害児教育の世界で「常識」とされていることのギャップについて語っておこう、と思っているのね。
遠山啓先生の著作集やピアジェの『発生的認識論序説』あたりはまあ読んでもらっているとして(コメニウスの『大教授学』まで読めとはいいません……とかいって、まあ、普通は遠山啓やピアジェやブルーナーまで読まないわな)、現今の教育制度の欠陥についてちゃんと認識してもらってないのは困ったことであるなぁ、とあたしは思ってしまうのですよ。
「通常の教育」とはいうものの、「普通の子供にとって適切な教育」=「通常の教育」というわけではまったくないのですね。だからこそ塾やら教材屋やらといった商売が成立っているわけで、「普通の子供にとって適切な教育」というものは、アスペっ子にとっても適切なものなのですよ。だけど、「集団生活を通じて社会性を身につける」という目的と、「横並び意識と競争原理という相反する条件をうまくクリアしていく」という課題が、アスペっ子にはちょっと荷が思いわけです。高度成長期以前の田舎の分校みたいなとこだったら、たぶんアスペっ子も「難産だったから(あるいは、「子供の頃に重い病気をしたから」とかいった、適当な理由のついた)ちょっとおかしい子供」かなんかの扱いで、「ふつうに」育てられたんじゃないかなぁ。
「不適切な笑い方やクスクス笑いをする」とかいうのも、場違いな馬鹿笑いをする人なんかべつに珍しくないし(←ひょっとしてアスペだったのかも)、オヤジギャグのオヤジギャグたる所以はその「不適切さ」にあるわけだし、『伝染るんです』や『大人袋』や『かいしゃいんのメロディ』みたいなギャグのセンスが一般的だとも思わないのね。
だから、それは「何が不適切か」みたいなものを無意識のうちに察知して自己抑制をする(あるいは適切と思われる行動を取る)という訓練がなされているかいないか、みたいなわりと動物的なレベルの問題であって、本質的な部分とは関係がないと思うのね。だからこそ、「耳が聞こえないような振舞をする」「明らかな危険に対して恐怖心を示さない」「痛みに対して鈍感」「泣き叫びやかんしゃくを起こす」「わけのわからない激しい苦悩を示す」「物をクルクルまわす」「あやしても反応がない」「おかしな遊びに没頭する」「他の子供たちと一緒に遊べない」「冷淡な態度を示す」「物に不適切な愛着を示す」「非常に他動であったり極端に受け身的であったりする」といった要素は「診断規準」にはなりえないのね。
大人になって社会性を身につけることで、こうしたことを社会において適切な形で解放するひとは、べつに珍しくありません。「作業に熱中すると、周囲のことがまったく目に入らなくなる」「仕事に関しては勇猛果敢であるが、それ以外ではからきし意気地がない」「いざという時には傷みを忘れる」「普段は冷静なように見えて、酒が入るとしばしば泣き崩れたり、怒りをあらわにすることがある」「他人にはわからない、仕事上の悩みを抱えている」「意外に子供っぽいところがあり、遊園地に行ったりすると子供よりはしゃいでいる」「私生活では無愛想」「あまり一般的でない趣味がある」「本当は人付き合いが苦手」「他人の私生活に首を突っ込むのが厭」「めちゃめちゃ凝り性」「やたらに多趣味/休日とかいうとゴロゴロしてばっかり」。こういうのは、べつに「異常」とは見なされないわけです。
人間は、全能感に支配された「原初ナルチシズム」の段階(「黄金期」)から、多くの挫折を経て、真に自分にとって必要なものを認識し、不必要なものを切り捨て、社会にうまく適応して自己実現することによって、「黄金期」に回帰しようとします。
高田栄一さんという人がいて、椎名誠の『新橋烏森口青春編』にも登場しています。NHKでテレビドラマ化されたときは、伊東四朗さんが演じていました。高田さんは幼少のころ、錦蛇を見て、その身体にみっしりと抱き締められたい!呑み込まれたい!と切望したそうです。
で、高田さんは編集者その他を経て、いまや詩人でもあり、世界的に有名な爬虫類研究家としても知られています。椎名さんはニシキヘビの餌用のヒヨコの番をさせられて辟易した話を上述の『新橋烏森口〜』で書いています。
行政レベル、あるいは社会レベルで言うとですね、納税者、あるいは「社会にとって必要とされる人間」として自己実現してもらって、同時に社会に迷惑でなければ、どうでもいいんですよ。ジョン・F・ケネディが打ち出した政策のひとつに、「すべてのハンディキャッパーを納税者にする」というのがあります。社会に利用されるのはむしろ歓迎すべきことです。「搾取」と「利用」というのはまったく別の話ですから。あたしたちは社会に「寄生」したいとはまったく思ってないし、「共棲」できるのならむしろ願ったり叶ったりなのね。障害者プロレスや小人(こびと)プロレスがビジネスとして成立するなら、べつにいいじゃない、とあたしは思います。
高橋竹山や長谷川きよしやスティービー・ワンダーやレイ・チャールズはすでに「盲目であること」を除いても偉大なミュージシャンだけど、そうなる過程に「盲目であること」によるハンディキャップもあればアドバンテージもあったというのは当然のことなのね。で、あたしはそうした彼らを祝福したいし、そうなれなかった人々を悼みます。だから、可能性を拓かせてもらいたいと思うのね。あたしも、語彙収集という「あたしだからできること」に出会えてどれだけ救われたか、という思いがあるから。
「魔術としてのコトバ」についての解説がどっか行っちゃったけど、「(乳幼児にとって絶対的な主体である)母親に好かれたい」から「(社会人にとって絶対的な主体である)社会に認められたい」に至る過程で、どこかで自分をやりくりしてかなきゃいけないのね。
「社会に組みいれられるべき部品」としては、自閉症方面の人間はかなり「良質」です。だけど、それは「自己実現の方法の一部」であり、基本的人権の一部として尊重されるべき存在なのね。
使い捨てされちゃった人間としては、あたしたちの「プロ意識」っていうのは、自己のよりどころであるぶんだけ、「尊重してくんないと線切っちゃうぞ」という部分は、強調しておきたいと思います。
(Maria)
寺林 wrote:
>>私も学校、家族、社会から AS=変な人、狂人=ばか
>>と受け止められています。私は人とコミュニケーション
>>取れなかったり、こだわりが強く、皮肉や社交辞令が分からない
>>などがあるので。
>私もです。
>>障害は個性だと思います。
>障害は個性だとは思わない。現に私は仕事で苦しい思いをしているから。
>スーパーのレジは2月で辞めようと思ってます。これからどう生きていいのかわかりません。
>手先も不器用、臨機応変も苦手、そんな人間を個性だと思って本当にいいんですか?生きていけないじゃないですか?
こんばんわ。
私は自分の「無力」にほど近い「障害」を自覚して、きちんと「高機能自閉症」
を知り、色んな専門家達が出している情報を知った時は、少しは救われた気がしていました。
でも、何も変らない。
子どもだけの対象機関らしいが、エルデ会の先生と面談した時、
親がほとんど勝手に進めてしまったような「スポーツジム」になるべく
行くようにしなさい、と言われました。
今日行ったのですが、動きが取れないし、大きな鏡に映る私の姿は
ほとんど幽霊ロボットの異常者のようで、はっきり言って「場違い」
のようでした。
途中で突っ立ったままだったり。
何ナノこの人?とすんごい眼付きでみられたり、冷ややかぁな
眼差しやら、何故か私は目線も合わせていないのにこっちをじろじろ見る人やら。
動くことも大変で、一般健常者が利用対象のレベルのスポーツジム
なんかで、どうして障害者が楽しめるのか?
くやしくて、「ちくっしょおおお!負けてなるものか!踊ってやる!」とムキ
になったら少し「ふつう」に見えるようになりました。
でも、社交辞令や、他の利用者の暗黙の仲良し挨拶も無表情・無口自閉モードなの
でなかなかできないので、オバサンや他の利用者にナに言われているかワカリマセン。
私なんか問題にならない身体障害アンド知的障害者の子も利用しているけど、
「あの子はアッケラカンとへらへらしてるし、まだ可愛い。
あのおたまじゃくしみたいな子は、気持ち悪くて大嫌い。
性格もひねくれている。変な子」
(→というか、実際どんな人か喋ってもいないのに、
勝手に喋るオバサンですよね。)
などと、中学生くらいの子に対しても大人はこの有り様で、
一回一回、普通を意識して愛想振りまいて、認知してもらっていないといけないのだろうか?
という前に、私はどこにも安心して認められる「場」があまりにも無いと感じている。被害妄想でしょうか?自閉の診断をもらったって、現実の場に、どこにもその自閉者に対する「場」が設けられていない。
ノースカロライナ州の話しを見たって、とんだお伽話だ。
この生き辛さ、見せしめに為に障害者が集団自殺なんか起こしてしまえば
いいのに。なんて思ってしまいました。
精神的に弱っている弱者が居るはずの世界に向かってこんなこというのは犯罪
ですが、ごめんなさい。私は今日、本当にそうなっちまえばいいのに。
っておもいました。
先天的に気楽に安心していられる場所が無いなんて、
(私にとって)死んだ方がよっぽどマシな世の中です。
被害妄想って、抗鬱剤なんかで改善するんでしょうかねええ???
ひま人 wrote:
>(前略)そんなに天体のことが好きなら、いっそのこと天文学者になればよかったのに?
実は小学生のころは、「なりたい!」と思っていました!
けど高校に入ってに入って、「なるためには、物理・微分・積分・偏微分・代数幾何・確率・・・ETCの高度な数学をマスターすることが、必要(°_°!””)と知ったので、そのころ数学で赤点ばっかとっていたので半分あきらめ、さらに大学は海洋学部という地学系に入ってみたら、「研究者になるためには、非常な高度のソーシャル・スキル&作文能力が必要(〜_〜++)」と解って、完全に学者になるのはあきらめました。トホホ・・・
今では、光害で1・2等星だけになった夜空を悲しく眺めています。
(前略)そんなに天体のことが好きなら、いっそのこと天文学者になればよかったのに?
武田好史さん wrote:
> Aはドイツの規格で、こちらのほうはさらに国際規格(ISO216)になってる。
A4縦置きというのは、欧米でいうレターサイズよりちょっと大きめになっています。
なお、この便箋を折り畳んで入れる封筒は
Standard Size(小型) 縦3.5〜3.75インチ×横6.5〜7インチ
Official Size(大型) 縦4〜4.5インチ×横9〜10インチ
ということになっていて、それぞれJIS規格では、
JIS洋形7号 縦9.2cm×横16.5cm
JIS洋形4号 縦10.5cm×横24cm
と定められています。
なお、美濃紙のサイズを踏襲したのがいわゆる原稿用紙のサイズ(B4)で、あれを二つ折りして綴じると江戸時代の本の標準的なサイズになります。現在では雑誌に多いサイズ(B5。週刊朝日、週刊新潮、週刊文春など)ですね。
(Maria)
武田好史 wrote:
> A、Bどの規格でも、
>紙の短い辺と長い辺の比は、1:√2
>対角線と短い辺の比は、三平方の定理より、1:√3
>対角線と長い辺のなす角度α≒35.26°(TANα=1/√2より)
>対角線と短い辺のなす角度β≒54.74° (TANβ=√2より)
>だし、
>
> それから、短い辺を一辺とする正方形を切り離して残る長方形の紙について、
>元の紙の短い辺と残りの紙の短い辺の比は、1:(√2−1)
>元の紙の短い辺と残りの紙の対角線の比は、1:{(4−2√2)}^(1/2)
>残りの紙の対角線と長い辺のなす角度γ=22.5°{TANγ=(√2−1)}
>残りの紙の対角線と短い辺のなす角度δ=67.5°{δ=180°-(90°
>+22.5°)}
>
>になるみたい!
もうひとつこんなことが解った!
Bは日本独自の規格で、美濃紙の寸法が基になってる!
Aはドイツの規格で、こちらのほうはさらに国際規格(ISO216)になってる。
最近日本のお役所で公的な書類用の紙をB5からA4に切り替えたのは、国際規格に合わせようとしたためみたい。
えー、これまでのところをまとめておきましょう。まず、「自閉症」の特徴と呼ばれるものには、
1)言葉の遅れ。
2)アイ・コンタクトが欠如している。
3)クレーン現象。
4)指差しをしない。
5)赤ちゃん言葉がない。
6)鸚鵡返し。
7)こだわり。
8)人間関係というものが、よくわからない。
というものがある、というのがひとつ。
で、(2)の「アイ・コンタクトの欠如」、(3)の「クレーン現象」、(6)の「鸚鵡返し」に関しては、自閉症の中心症状であるところの「他者認識の欠如」がそのまま出ているのであると。で、「自閉症」という言葉よりもRDD(関係性発達障害)という呼び方が適当であろうと。
(2)の「アイ・コンタクトの欠如」と(4)の「指差しをしない」というのは、どちらも発達過程において解消されることが多い。
「アイ・コンタクトの欠如」に関しては、直感性と意識的なメッセージ性にやっぱりギャップがあるものだから、成人してもやっぱりぎこちなさは残る。
「指差し」については、もともと他者認識がうまくいかないうえに、親との関係が原因で発達がさらに遅れている可能性がある。で、後者は、発達障害児全般に対する養育態度に関係している可能性がある。
(1)の「言葉の遅れ」に関しては、「言葉を発しないだけであって、『内なるコトバ』はちゃんと存在している」ということが経験的に知られており、論理的な推論能力は優れている場合もあるので、あとは「コミュニケーションの道具としての『外なるコトバ』」をどう使うかを身につけるかにかかっていそうだ、と思われる。(5)の「赤ちゃん言葉がない」というのは、その過程における試行錯誤が表に出てこない(いわゆる『魔術としてのコトバ』と『外なるコトバ』の間にギャップがある)ためであるように思われる。
(7)の「こだわり」については、「安定した秩序」というよりどころを求めるという人間の基本的欲求に従ったものであり、周囲には単なる固執のように見えても、その底には何かの「秩序への執着」のようなものがある場合が多いらしい。『「どっちでもいいこと」が決められない』というのも、この「秩序」に対する親和性の高さによるものであり、この「秩序に対する親和性」が、ときにコンピュータ・プログラマーなどの職種では「適性」あるいは「武器」になりうる。
ほんでもって、最後の(8)、「人間関係がよくわからない」の部分も、本質的には「他者理解」の不完全さが原因であって、社会性を身につけることによって克服はできるのだけど、その「身につけかた」が、そもそも他者認識のしかたが「健常者」と異なっているのか、「アプローチは異なるけれど、同じように理解している」のか、それとも「もともと各人各様なもので、傾向としては自閉症方面の人間どうし、健常者どうしで似るのだけれど、どれが正しくてどれが間違っているというものでもない」のか、ということになるわけだな。
……おお、本の構成が見えてきたぞ。うれしいなぁ。
そんでもって、まだ論じていない、「心の理論」とかいう話になるわけです。
まず、自閉症方面の人間には、直感的な他者認識の能力が欠けている、あるいは劣っている、という特徴があります。これは、たぶん間違いありません。
そんなわけで、「意識化」というプロセスを経て、「他者認識」というものができあがってゆくのだな。で、これは健常者でもたぶん同じことで、社会のしきたりだとか、敬語だとか、人間関係の理解だとか(←このあたりは「自分のことをなんと呼ぶか」といった自己認識にもかかわってきます)、心理学だとか、性格分類だとか、そういったものを経て、いわゆる「世間のつきあい」としての人間関係、すなわち自己認識と他者認識の協調にもとづく行動パターン、というのを身につけるようになるのだな。
で、人間はこの「意識化のレベルにおいて社会性を身につけてゆくこと」の比率がかなり高いので、自閉症方面の人間でも、しばしば「高度に社会的な」人がいたりするということになります。
さて。
あたしは「意識化」という言葉を使っているのですが、こうした「他者のモデル」の構築というのは、必ずしも意識的に行なわれているとはいえなかったりします。「こういう人に、こういう働きかけをすると、こういう反応が帰ってくる」という漠然とした印象の中に、なんらかの「他者のモデル」というものが含まれているのは当然のことなのですね。
そんなわけで、自閉症方面の幼児の教育において、「他者理解というのは、すなわち『他者のモデル』の構築である」と考える動きが出てきました。この「他者のモデル」、より正確には「他者の心のモデル」は、一般に「心の理論」と呼ばれています。で、その「心の理論」にはある程度普遍性があり、子供にその「心の理論」を身につけさせることが、すなわち「他者を理解させること」であり、子供がその「心の理論」をどの程度理解しているかをチェックすることが、他者理解を発達させる上で重要である、ということなのですね。
で、あたしは「そういうものなの?」と首をかしげてしまうのだな。
思春期以降、社会性を身につける上で、こうした「心の理論」に相当する「他者のモデル」を想定し、それを精密化してゆくことで社会に対応している人は確かに大勢います。だけど、それを幼児に当てはめ、それを前提となる事実として、幼児教育のレベルで適用するというのは、かなり乱暴な話だと思うのですよ。で、むしろ、自己省察とか、感情移入とか、愛着形成とか、そういったものの組合せで、「自分の思い通りにならない自分」というものを「外にあるものとしての人間」に貼りつけることで、他者概念っていうのは生まれるんじゃないかなぁ、と思うんです。
だから、たとえば「鏡に映っている自分の姿」が「鏡に映った自分」である、みたいなところが、「他者認識」の出発点に近いところにあるんじゃないかな、と思うんですよ。
で、こうしたことに関連して、ちょっと気になることがあるのですね。
アスペっ子は、他の子供をいじめることがない。
アスペっ子は、他の子供にいじめられることが理解できない。
アスペっ子は、明確な危険やはっきりとした苦痛に鈍感であると言われている。
この三つです。
アスペっ子は、相手が誰であれ、苦痛を受けているのを見るのが苦痛だったりします。だから、いじめができない。
逆に、なぜいじめられるのかがわからない。相手だって同じように苦痛を受けているはずだから。
で、危険や苦痛はおそらく感じているのだけれど、それが「自分のこと」だというのが、よくわからない。そわそわしたり、イライラしたり、パニックを起こすことはあっても、状況と自分の中の「感覚」がどう結びついているかが、いまひとつよくわからない。
そんな気がするんですよ。
思春期以降、自閉症方面の人間にも「いじめ」というものが分ってきたりするわけですが、自閉症方面の人間の「いじめ」というのは、「自己嫌悪と自責」が他者に投射されたものなんじゃないか、とあたしは思います。すくなくともあたし自身に関していえば、明確にそうですから。自分のやったこと、自分のしていることがわかってない人間をいじめたって、こっちが不快になるだけ。だから、あたしの働く「いじめ」は、「思い知らせてやる」という感情が基本です。
ところが……ちょっと気になることもあるんですね。だったら思春期以降、自閉症方面の人間には自傷行為がつきまとうはずなんですよ。「苦痛」というものを自分のものとして確認するためにね。だけど、専門書をいろいろと読んでみても、この「自傷行為」を自閉症の社会的発達過程と結びつけることをしている人というのはいないんですよね。
まあ、ドナ・ウィリアムズさんが『自閉症だったわたしへ』のエピローグで、
> 自分を傷つけること、他の人をとまどわせるような行為をわざとすること
> 自分、あるいは他人が、どの程度現実のものであるのか試そうとしている。自分の感覚や感情は、心のチェックポイントのような所ですべてせき止められてしまうので、他人と深い交流を持つことができず、他人の感情を直接感じることもできない。そのため、人が実際に本当に存在しているのかと疑ってみたくなることが、よくあるのだ。
とは書いておられますが、これは「乖離」とみなされていて、自閉症そのものとはちょっと別にされているようにも見えます。
そういえば、「締めつけ器」っていうのもあったな。
「締めつけ器」に関しても、これまたちょっと気になることがあります。
自傷行動の中にも、尖ったもので皮膚をざくざく刺したり、切り裂いたり、あるいはリスト・カットみたいな行動と、噛んだり叩いたり締めつけたりといった行動の二種類があります。で、精神医学で「自傷行動」としてよく問題にされるのは前者のほうで、自閉症における自己確認のための自傷行動っていうと後者のような気がするんです。前者は「サディスティックな自傷」であるのに対し、後者は「マゾヒスティックな自傷」。前者は「クールな自傷」で、後者は「ホットな自傷」。
小さな子供って、ぐちゃぐちゃにされて喜んでることってあるでしょう? ああいう感じがあるんですよ。
これって偏見かな?
(Maria)
Maria wrote:
> 手元の辞書には、以下のように書いてありました。
>
>> 抽象 ちゅうしょう
>> “abstruction”の訳語。個々の事物・事柄、具体的概念から、それらの全部に共通の属性を抜き出して、新たに思考の対象とすること。この場合共通でない他の要素・性質などは度外視されるが、これを「捨象(しゃしょう)」という。「具体」の反対語。
web版大辞林第二版より
【抽象】〔abstraction〕
事物や表象を、ある性質・共通性・本質に着目し、それを抽(ひ)き出して把握すること。その際、他の不要な性質を排除する作用(=捨象)をも伴うので、抽象と捨象とは同一作用の二側面を形づくる。
【抽象的】〔abstract〕
(1)概念的で一般的なさま。「現象を―にとらえる」
(2)事物を観念によって一面的にとらえ、実際の有り様から遠ざかっているさま。「―な説明に終始する」
「的」の有無でニュアンス(特に曖昧さの度合い)が変わるようですね。
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