アスペルガーの館の掲示板(旧)
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流れよ、涙
流しても、流しても
顧みられることのない
霧の涙よ
流れよ、鮮血
眼から流れ出るとき
人それを
涙と呼ぶ
溢れ出る鮮血に
人々は恐れおののき
そして蔑む
自らの体内を
流れる血液を
涙だと信じる人々よ
みどりさん wrote:
> Maria さんが言ってるのは「本質のみをもってきた => 抽象化された」というもののことよね。
> …あってる?
その通りです。
手元の辞書には、以下のように書いてありました。
> 抽象 ちゅうしょう
> “abstruction”の訳語。個々の事物・事柄、具体的概念から、それらの全部に共通の属性を抜き出して、新たに思考の対象とすること。この場合共通でない他の要素・性質などは度外視されるが、これを「捨象(しゃしょう)」という。「具体」の反対語。
> カウンタ列は矢印も困るの。「矢印に沿ってならべ」なのか、それとも「あっち側へ並べ」なのか、わからない。
> 「沿う」だとしても、矢印の位置が悪いと、矢印の方向を向いて並ぶのか、それとも矢印の方向に列がのびてゆくように並ぶのか、わからないことがある。
矢印を使うなら、
『 こっちから→
←こっちへ
お並びください』
くらいの芸はしてもらいたいと、あたしも思います。人形(ひとがた)や足形だったら、相手が日本語のわからない人でも、指差せば分るし。でなかったら、
『順にお並びください
<<<<<<<<<』
とかいうのなら、まだしも分りやすいんですけどね。
(Maria)
Maria さんwrote:
ちょっとだけ、の、タレイヌです。
> 奥さんが「なんであたしの言うことは聞かないで、ドク(うちの所長のあだ名)の言うことは聞くのよ」とむくれておられました。違います。うちの所長は「ご飯ものを食べろ」なんて一言も言ってません。単に現状について解説しただけです。
うふふふ、あははは。笑ってしまいました。(ずれていますね、完全に)
こういうことって、タレイヌの周りで、よく起きるので、身につまされております。
連れ合いと、この辺で、何度『あわや、勃発!!』となりかけたことか・・・・・。
連れ合いは、学びました。タレイヌの、回路を。(おかげさまで、ございます。ほんとに)
> 「火消しの仕事は、ドブ掃除だ」。そう断言するひとは、多かったりします。これは、逆にいえば、思い込みによって阻害されてしまったコミュニケーションによって状況がこんがらがっちゃうケースがいかに多いか、っていうことなのね。
ほんとうに、そうだと思います。
『何にもしてないんだってばぁ・・・・』って場面には、結構遭遇しているタレイヌです。でも、『この人ずれてるから、はずしておきましょう』という対応も、結構されているので、正解率は、3対7(←失敗がおおい)ぐらいかもしれません(お粗末!!)
(タレイヌ)
るうさん wrote:
>って、今どき、こんなゲームやってる人いるのかなあ?
いまーす! 娘でーす!!
ネットでもやっていましたが、GBカラーでスペースシャトルが飛ぶところまでやったら満足したらしく、今はジグソーパズルやってます。(ショックウェーブ・コムという無料ゲームサイトです)
おいらは目が疲れるので、やれないのだ。倉庫番が好きだけど、GBでやったら死ぬほど頭が痛くなった……。
みどり wrote:
>Maria wrote:
>> 対角線の交差点(つまりは長方形の中心)を重ねて直角に重ねて十字形にし、その中心を中心にして、短辺を一辺とする正方形(紙が重なった部分)に外接する円を描くと、きっちり十字形に内接する円が描けます。
>
>十字形に内接する円って??
あ、わかった。そっち側ね。
Maria wrote:
> 対角線の交差点(つまりは長方形の中心)を重ねて直角に重ねて十字形にし、その中心を中心にして、短辺を一辺とする正方形(紙が重なった部分)に外接する円を描くと、きっちり十字形に内接する円が描けます。
十字形に内接する円って??
>Maria wrote:
>> 自閉症方面の人間が、きわめて抽象的・客観的な物言いを好む、というのには、こうした理由があるように思います。
>Nobusan wrote:
>> 私の今までの理解では、自閉方面の人は抽象的な概念を把握するのが苦手というふうに理解してきたのですが、この人(自閉方面の人)が発言するという場合には抽象的物言いをするということなのでしょうか? とすると、こちら(普通人)からの働きかけは常に具体的な物言いを心がけ、相手(自閉傾向の人)の発言は言いたいことの概念が抽象化されていると理解しなければならないということでしょうか? この辺の構造的な説明を伺えれば息子とのやりとりに参考となると思いますので是非お聞かせ(お読ませ)ください。
Maria wrote:
> で、「抽象的」というのは、いろんな対象から、必要な概念のみを抽出したもの、なのですね。まあ「のみ」というのは理想でしかないにせよ、とにかく「抽象的」であるということは、「曖昧さがない」ということなわけです。
一般には、「抽象的」という言葉で「物事を遠くからとらえてあいまいでぼんやりさせた感じ」をイメージすることがあるようです。
Nobusan のいう「抽象的な概念」もそうなんじゃないかな。
Maria さんが言ってるのは「本質のみをもってきた => 抽象化された」というもののことよね。
…あってる?
カウンタ列は矢印も困るの。「矢印に沿ってならべ」なのか、それとも「あっち側へ並べ」なのか、わからない。
「沿う」だとしても、矢印の位置が悪いと、矢印の方向を向いて並ぶのか、それとも矢印の方向に列がのびてゆくように並ぶのか、わからないことがある。
独り善がりで想像力不足のアイコンは大きらい の みどり
最近、テトリスにはまっています。
隅っこから「秩序」だてて積んでいくのがカイカン。
変な形が落ちてきて、秩序が乱れると、イライラ。
でも、また、うまく消せて秩序ができてくると、たのしい。
って、今どき、こんなゲームやってる人いるのかなあ?
武田好史さん wrote:
> A、Bどの規格でも、
>紙の短い辺と長い辺の比は、1:√2
>対角線と短い辺の比は、三平方の定理より、1:√3
>対角線と長い辺のなす角度α≒35.26°(TANα=1/√2より)
>対角線と短い辺のなす角度β≒54.74° (TANβ=√2より)
>だし、
>
> それから、短い辺を一辺とする正方形を切り離して残る長方形の紙について、
>元の紙の短い辺と残りの紙の短い辺の比は、1:(√2−1)
>元の紙の短い辺と残りの紙の対角線の比は、1:{(4−2√2)}^(1/2)
>残りの紙の対角線と長い辺のなす角度γ=22.5°{TANγ=(√2−1)}
>残りの紙の対角線と短い辺のなす角度δ=67.5°{δ=180°-(90°
>+22.5°)}
>
>になるみたい!
Mariaさん wrote:
> 長辺の長さを半径として、どこかの隅を中心として円弧を描くと、反対側に接した点が、隅を含む短辺を一辺とした正方形の隅と一致します。
>
> 対角線の交差点(つまりは長方形の中心)を重ねて直角に重ねて十字形にし、その中心を中心にして、短辺を一辺とする正方形(紙が重なった部分)に外接する円を描くと、きっちり十字形に内接する円が描けます。
>
> ……とかいって、これって文章で読んでて分るひとがいるのかぁ〜! だいたいこんなの読んで面白がってる人間が何人いるんだぁ〜!(←結構いそうだぞ(-_-!) by Mr.Moto)
…高校以来の数学に挑戦してみましたが、お手上げでした。(考えてみれば、中学[正確には中2]以来、理系科目は×でした。大学での地学[一般教養科目]もだったし…。)アタマ使いたいよ〜!…なんて、不順(?)な動機でやってみたのがいけなかったのだろーか?
それはさておき、今回の内容、高校までの数学だと、どの科目になるんでしょ?(ex.基礎解析、代数・幾何など。微分・積分だとしたら…履修範囲にありませんでした。もっとも、前2つの科目も既に忘れてしまいましたが。)
武田さん、ミニオフ会でお会いしたら、この答え(?)を教えて下さーい!
(文章自体は面白がってました。 グルンサ)
長辺の長さを半径として、どこかの隅を中心として円弧を描くと、反対側に接した点が、隅を含む短辺を一辺とした正方形の隅と一致します。
対角線の交差点(つまりは長方形の中心)を重ねて直角に重ねて十字形にし、その中心を中心にして、短辺を一辺とする正方形(紙が重なった部分)に外接する円を描くと、きっちり十字形に内接する円が描けます。
……とかいって、これって文章で読んでて分るひとがいるのかぁ〜! だいたいこんなの読んで面白がってる人間が何人いるんだぁ〜!(←結構いそうだぞ(-_-!) by Mr.Moto)
(Maria)
I wrote:
> 自閉症方面の人間が、きわめて抽象的・客観的な物言いを好む、というのには、こうした理由があるように思います。
Nobusan wrote:
> 私の今までの理解では、自閉方面の人は抽象的な概念を把握するのが苦手というふうに理解してきたのですが、この人(自閉方面の人)が発言するという場合には抽象的物言いをするということなのでしょうか? とすると、こちら(普通人)からの働きかけは常に具体的な物言いを心がけ、相手(自閉傾向の人)の発言は言いたいことの概念が抽象化されていると理解しなければならないということでしょうか? この辺の構造的な説明を伺えれば息子とのやりとりに参考となると思いますので是非お聞かせ(お読ませ)ください。
えー、あたしが困ってしまうのは、Nobusanがおっしゃる「抽象的」「具体的」という言葉が具体的に何を意味するのが明確でないことなのだな。「普通の人」の間では、「抽象的」=「むつかしい」、「具体的」=「わかりやすい」みたいな印象がつきまとっていて、こういう「評価などがあらかじめ貼りつけられている言葉」のことを「手垢のついた言葉」というわけですね。「雨が降っている」から「鬱陶しい天気」だとは限らないわけで、「いいお湿りで」みたいな捉え方だってあるわけです。
で、「抽象的」というのは、いろんな対象から、必要な概念のみを抽出したもの、なのですね。まあ「のみ」というのは理想でしかないにせよ、とにかく「抽象的」であるということは、「曖昧さがない」ということなわけです。
本屋さんなどの会計カウンターに、「右からお並び下さい」と掲示してあるので、「右」から並んだら、「ちゃんと右から並んでください!」とか注意されてしまったりします。
「右から並んでるでしょう?」
「右はこっちです!」(と、左を指す)
「そっちは『向かって右』じゃないですか。」
「とにかく『右』っていったらこっちなんです!」
……こういう人ってキライ。だけど、「普通の人」というのは、「普通の人」が常識だと信じていることを、当然のように相手に押しつけてくるのね。
「お客様側から見て、向かって右側からお並びください」と書くのが鬱陶しいなら、人が並んでいる絵を描いておけばいいんです。でなかったら、大きく足型を描いておくとかね。で、店側が客に何を要求しているかを端的に表わしているぶんだけ、それは「抽象度」の高い表示なわけです。
「右」というのは、「客」という対象物に対しては具体的かもしれないけれど、それが「客」から見た「向かって右」だという前提が明確に示されていないものだから、わかりにくく、「性質を引っ張りだす(抽象)」の度合いが低いといえます。
テーブルの上に置いてある本を指差して、「これは誰の本ですか?」と質問したとして、「それは、ウタ・フリスが書いた本です。そう表紙に書いてあります。」と答えられたらずっこけるでしょう? 「そうではなく、これは誰の物か、と訊いているのだよ」「それは、図書館の本です」「そうじゃなくて、この本をここに置いたのは誰だ、と聞いているんだ!」「それは私が借りてきて、お母さんが読み終わったので、そこに置いたのです」「つまりはお前の本なんだね?」「そうではなくて、図書館の本です。」「そういうことを訊いているんじゃないっ!」
……そういうときは、「この本は、現在誰の管理下にある本なのですか?」とか、「この本は誰がどのような事情でどこからどうした結果、ここにあるのかな?」と訊けばよいのですよ。
だから、「私はいかなる情報を求めているか」と、できれば「なぜ私はそうした情報を求めているか」を、明確かつ誤りなく伝えていただきたい、と思うのね。
職場の上司に、「明日の午前中は暇かね?」と質問されて、「明日の午前中は仕事をする予定なのですが」と平然と答えたら、盛大にずっこけられたこともあったりするな。そういうときは、「明日の午後一時までに片付けてもらいたい仕事があるのだが、それに困難あるいは不都合がないかどうかスケジュールおよび仕事の内容を検討してもらいたいのだが?」とか言ってくれれば、「簡単に終わるようなら今夜中になんとかしますけれど」みたいなことだって言えるのね。
で、「普通の人」は、そういう物言いに慣れていないから、「いちいちそんな面倒なことをしたくない」「めんどくさい」と感じるわけです。だけど、あたしは自分の表現が「ばっちりハマッた」感じがとても気持ちいいのですね。
「普通の人」というのは、文章をあんまり書きたがりません。人に文章を読ませるのも好きじゃないしね。で、文章の正確さというものにも、こだわらない。
あたしは文章を書くのが気持いいんですよ。で、「かっちり感」を観賞してもらいたいと思います。だから、「ヌルい文章」を垂れ流している人を見ると不快になりますし、杜撰な論理展開をしているのを見ると殴ってやりたくなります(えー、「うっ、それは私のことか?」と思った人、違います。そういう人は自己省察が不足しているので、狼狽したりしません。たぶん、「そうだよな、全く困ったもんだ」とか頷いてます。そうだ、お前だよ、お前!(←すんません(-_-;)。最近手ぇ抜いてます by Mr.Moto))。
うちの所長さんが、お寿司屋さんで飲んでいたときの話です。
「何も食べないでお酒飲むと身体に悪いわよ」みたいなことを奥さんに言われて「うるさいな」とか言ってる人に、「血糖値を上げるのに時間のかかる炭水化物を摂取しておかないと、あとでアルコールが代謝されたときにお腹が空いて眠れなくなるんですよね。それで夜食を食べちゃうから、肥満の原因になるんです」と言ったら、その人が「……すみません、鉄火と穴子巻いてください」。
奥さんが「なんであたしの言うことは聞かないで、ドク(うちの所長のあだ名)の言うことは聞くのよ」とむくれておられました。違います。うちの所長は「ご飯ものを食べろ」なんて一言も言ってません。単に現状について解説しただけです。
うちの所長のJoshyaさんが、億単位、数十人規模、数カ月に及ぶソフトウェア開発プロジェクトを立て直して「修羅場の救世主」「土俵際の魔術師」と呼ばれた理由のひとつが、じつはJoshyaさんの自閉症傾向だったんじゃないかと思うのね。普通の人にとって「あたりまえ」のことが、Joshyaさんにとっては「あたりまえ」ではない。で、普通の人が「あたりまえ」だと思っていることには、かなりの幅があって、それがコミュニケーション上の障害になって、結果としてプロジェクトがにっちもさっちもいかなくなる。で、それはプロジェクトが大きければ大きいほど、深刻な問題になります。
で、うちのJoshyaさんは、途中から参加した部外者で、しかも決して「中の人間」にはなれません。だって、他の人とものの見方を共有することが、そもそもできないんだ
もの。心情的にはどこにも属さず、コミュニケーションの障害になっている「思いこみ」を、わかりやすい文章で説明し、関係各所に文書として配布して回るわけです。
えー、そうしたプロジェクトに参加している人というのは馬鹿ではないのですね。自分のやるべきことはきっちりこなす能力はもちろん持っているわけです。ただ、問題の所在がわからない。で、現状がわかれば問題がわかる。問題がわかれば対策もわかる。そうすると、プロジェクトは自然に流れはじめるのですね。
「火消しの仕事は、ドブ掃除だ」。そう断言するひとは、多かったりします。これは、逆にいえば、思い込みによって阻害されてしまったコミュニケーションによって状況がこんがらがっちゃうケースがいかに多いか、っていうことなのね。
だから、「どうして分ってくれないんだ」とかいってイラついてると、問題は解決しません。そんなわけで、あたしもこうやっていろいろ相談とか受けてんだけど、「しょせんは他人事」なのね。で、「他人にわかるように説明する」という努力をした段階で、この手の問題は九十七パーセントくらい解決してたりするんですよ。延々と事情を説明されて、「こうしたらいいんじゃないでしょうか」とか言われて、「うーん、それは難しいんじゃないかなぁ(←簡単だったら悩まないって)。結論を急がないで、その前にもう少し考えを整理してみたらどうですか?」みたいなことを言っていると、「適切な助言をありがとうございました。おかげで目が覚めるような思いがしました」とかお礼を言われたりするのだな。だから、あたしはなんにもしてないんだってば(^_^;)。『あなたもカウンセラーになれる』とかいう本でも出そうかな、とか、“Doctor”っていうカウンセリングをするプログラムが昔あったっけ、とか思っちゃったりします。
「第三者の立場で考える」とかいうのは、決して体裁を取り繕うことではないんですね。「傍目八目(おかめはちもく)」ということなんですよ。自閉症方面の人間は、自分のことでもなぁーんか他人事みたいに見えるんだけど、それは生きるために身につけた智恵なのね。切実なのは分るんだけど、あたしが見るところ、「子供を信じて、手を放す」ということができる親御さんが、アスペっ子に限らず子育てに成功しているように見えるのね。だいたい当人がいちばん切実なんだしさ、親がなんでもかんでも面倒みる訳にいかないでしょう?
そんなわけで、「自分を突き放して考える」訓練をしてください、というのが、アスペっ子の親御さんに対する第一のアドバイスということになるでしょうか。子供を突き放しちゃったら駄目だよ。つかまえておこうとするのをやめるのは大事だけど。
(Maria)
A、Bどの規格でも、
紙の短い辺と長い辺の比は、1:√2
対角線と短い辺の比は、三平方の定理より、1:√3
対角線と長い辺のなす角度α≒35.26°(TANα=1/√2より)
対角線と短い辺のなす角度β≒54.74° (TANβ=√2より)
だし、
それから、短い辺を一辺とする正方形を切り離して残る長方形の紙について、
元の紙の短い辺と残りの紙の短い辺の比は、1:(√2−1)
元の紙の短い辺と残りの紙の対角線の比は、1:{(4−2√2)}^(1/2)
残りの紙の対角線と長い辺のなす角度γ=22.5°{TANγ=(√2−1)}
残りの紙の対角線と短い辺のなす角度δ=67.5°{δ=180°-(90°
+22.5°)}
になるみたい!
Mariaさん wrote:
> 自閉症方面の人間が、きわめて抽象的・客観的な物言いを好む、というのには、こうした理由があるように思います。
>
私は自閉傾向があって今、2年間学校へも行けない状態になっている中学3年男子の父親です。彼に話しかけても、返事をしないか、自分の関心のあることにだけかろうじて必要最小限の意思表示をするといった状態です。その息子とのコミュニケーションをとろうとして自閉のことを調べていくうちにこの掲示板に出会いました。とくに、Mariaさんの書き込みには目を開かれる話題と解説が多いのですが、今回の、内なる言葉と外なる言葉の解説、具体的でとても解りやすかったです。これからも息子の内なる言葉の理解に勤めていきたいと思っています。ただ、この書き込みの最後に来て、上記の文に行き当たり当惑しています。私の今までの理解では、自閉方面の人は抽象的な概念を把握するのが苦手というふうに理解してきたのですが、この人(自閉方面の人)が発言するという場合には抽象的物言いをするということなのでしょうか?とすると、こちら(普通人)からの働きかけは常に具体的な物言いを心がけ、相手(自閉傾向の人)の発言は言いたいことの概念が抽象化されていると理解しなければならないということでしょうか?この辺の構造的な説明を伺えれば息子とのやりとりに参考となると思いますので是非お聞かせ(お読ませ)ください。
寺林さん wrote:
> 障害は個性だとは思わない。現に私は仕事で苦しい思いをしているから。
> スーパーのレジは2月で辞めようと思ってます。これからどう生きていいのかわかりません。
> 手先も不器用、臨機応変も苦手、そんな人間を個性だと思って本当にいいんですか?生きていけないじゃないですか?
えー、本当は「心の理論」について次は述べるつもりだったのですが、その次に予定していた「『自閉症方面の人間のこだわり』がなぜ生まれるか」と「自閉症方面の人間の適性と就労」の話題について先に述べることにします。
「自閉症方面の人間といっても、人それぞれ」といいつつ、「こだわり」というのは共通してあるわけで、「こだわり」と「仕事」というのは切っても切れない関係にあり、この「こだわり」を仕事に活かすことはできないのか?といった話が出てくるのは当然のことだと思うんですよ。
自閉症方面の人間は、他者の行動原理を直感的に把握することができません。したがって、「気まぐれな相手」というのは、とてもつきあいにくい存在です。まして「へそまがり」「あまのじゃく」といった存在は、悪魔以外の何者でもありません。(←根拠もないのに断言している)
ですから、「明文化された秩序」というものをよりどころにして生きるのが楽、という部分があります。「エチケットを守る」、というのは、自閉症方面の人間にとって得意とするところです。ちなみに「エチケット」というのは「掲示されたもの」という意味で、ワインのラベルのことをフランス語で「エチケット」と言います。「ワインの銘柄を当てるコツは?」「ばれないようにエチケットを盗み見ることです」。たしか、『刑事コロンボ』の『別れのワイン』でやってたネタです。麻雀の必勝法と同じ。相手が見てないうちに、勝手にツモっちゃう。(←所ジョージの歌に、こういうのがある)
そんなわけで、慣れ親しんだ安全なやりかたに執着するのがまず一点(←誰でもそうじゃん)。で、それが「公式に認められたもの」である場合には、より安心、という部分があります。
ところが「普通の人」というのは、ルール違反をして恥じることがないのですね。「それはそれ、これはこれ」「あのときはあのとき。今は事情が違う」みたいな言い訳を平然とできる感性というのは、「普通の人」の証です(←めいっぱい皮肉入ってます)。それを「臨機応変」と呼ぶのは詐欺というものです。そういうのは、「オポチュニズム」というのですね。
原理原則を貫くという「ファンダメンタリスト(原理主義者)」というのもあっちこっちで評判落としてますけど、「オポチュニスト(日和見主義者)」っつーのもけっこう評判悪いぞ。そういう意味では、筋金入りのファンダメンタリストたる自閉症方面の人間は、図書館の司書、役所の出納係、鉄道の保線係といった「固い」職業でなおかつ「属事的」(反対語は「属人的」)な、原理原則のはっきりした職業に向いている……というか、そういう商売でないとやってけない部分がありそうに思います。
その意味では、東海村の再処理施設における事故なんていうのは、担当者が自閉症方面の人間だったら起こりようがなかった気がします。もっとも「頭が固くて強情で扱いにくい」とか言われて馘首(くび)にされちゃったら終わりなんだけどね。
そんなわけで、「頑固なんだけど腕は確かだから、切るに切れない」みたいな存在だと安心は安心。だけど、恨みをかってどん底に叩き落とされたりするぞ。こっちは筋を通そうとするものだから、なりふり構わない相手には対抗できないし。言っとくけど日本の司法制度なんて無力だぞ。
儲かってる会社で好き放題にやらせてもらえれば、実力を発揮できるところはありそうに思います。だけど、「社内の派閥争いみたいなののあおりを喰って経営状態が悪化しちゃった」とかいった、原則論・筋論が通じない「なりふり構わない」環境だと、いいように使われ、絞られるだけ絞られて捨てられることになります。(←また断言している)
「段取七分に腕三分」という言葉があります。自閉症方面の人間は、不器用なだけに「段取」の部分に目が行くのね。そんなわけで品質管理とかシステム開発とか、そういう分野には適性がありそうに思います。
状況を客観視し、分析する技術は必要だと思うぞ。とはいえ責任問題とかが絡むとえらいことになるんだけどね。入札方式の非合理性を正そうと思ったら、経理担当者が業者と癒着していたりとかするし。(←実話)
そんなわけで、「頑固職人」でいるのが気楽といえば気楽です。
「障害は個性だ」とかいうのは、「障害→特性→適性→個性」という形で、昇華することができた人の言うことなのね。で、そのためには、それを支える環境というのが不可欠です。その意味で、この不況の中では「障害は個性だ」というスローガンは「お題目」でしかないと思うぞ。(←日蓮宗にはある程度共感するけど創価学会は嫌い)
(Maria)
寺林 wrote:
>>障害は個性だと思います。
>
>障害は個性だとは思わない。現に私は仕事で苦しい思いをしているから。
障害が個性かどうかは、どの立場から見るかによって変わってくるでしょう。
本人にとって個性かどうか。
周囲の人から見て個性かどうか。
個人として個性かどうか。
社会の中で個性かどうか。
個人が他人に対して、障害を個性と認めて欲しいと思ったとしても、社会は個性とは見てくれないこともある。
本人が障害であって個性ではないと主張しても、周りが「その程度は障害ではなく個性のうちだ」と取り合わないこともある。
個性かどうかの議論の多くは、視点が違ったまま擦り合わせをしないで議論がなされているように思えます。
>私も学校、家族、社会から AS=変な人、狂人=ばか
>と受け止められています。私は人とコミュニケーション
>取れなかったり、こだわりが強く、皮肉や社交辞令が分からない
>などがあるので。
私もです。
>障害は個性だと思います。
障害は個性だとは思わない。現に私は仕事で苦しい思いをしているから。
スーパーのレジは2月で辞めようと思ってます。これからどう生きていいのかわかりません。
手先も不器用、臨機応変も苦手、そんな人間を個性だと思って本当にいいんですか?生きていけないじゃないですか?
Maria wrote:
> なお、「短辺を一辺とした正方形を切り取ると、残った部分がもとの長方形と同じ形になる長方形」の短辺と長辺の比は一に対して(1+5の平方根)/2で、これを「黄金比」といいます。比の値は1.618033989‥‥となり、これを「フィボナッチ数」といいます。
>
確か正五角形のひとつの辺と対角線の長さの比も、
1:(1+√5)/2
になりますよね。
武田好史さん wrote:
> 日本の紙の規格には、A・Bという規格がありますよね……
> いずれも二つ折りでは、正方形になりません。
> また正方形を切り取って残る紙も、やはり二つ折りでは正方形になりません。
>これらの規格の紙の長いほうの一辺の長さは、短いほうの長さの何倍になっているのでしょうか?
> またどうして、二つ折りにして切っていっても、これらの紙は正方形ができないように作られているのでしょうか?
「二つに折ると、同じ形で面積が半分の紙ができるようになっている」からです。
したがって、短辺と長辺の長さの比は、1:1.41421356‥‥つまり、1と「二の平方根」の比になっています。
A0(えーぜろ)またはA全紙(えーぜんし)と呼ばれるのは面積が一平方メートル、B0(びーぜろ)またはB全紙(びーぜんし)と呼ばれるのは面積が一.五平方メートると決まっています。で、A全紙を二つに分けるとA1、さらに半分に分けるとA2……というふうに、なってゆきます。
なお、「短辺を一辺とした正方形を切り取ると、残った部分がもとの長方形と同じ形になる長方形」の短辺と長辺の比は一に対して(1+5の平方根)/2で、これを「黄金比」といいます。比の値は1.618033989‥‥となり、これを「フィボナッチ数」といいます。
どちらにせよ短辺と長辺の長さの比が無理数になっているので、きっちりとした整数比で表わすことができません。ですから、正方形を取りつくすことで比を求める方法(ユークリッドの互除法)を試しても、永遠に終わりません。
ああっ、こんなことを書いていたらピタゴラス教団の刺客がっ!(←ウソ。読み筋は以下の書込み)
> ちなみに、弦が云々というのはピタゴラスです。
> この人は、世界は数学をもとにしてつくられていると考えた神秘学者でもあるのです。
> ピタゴラス教団なんてものも作ってるんですよ。
> 彼は、「二乗したら2になる数字(√2)」が「どこまでいっても割り切れない数字」であることを「創世における神の失敗」と考え、この数字の存在をひたかくしにしようとしました。
> この数字が存在することを世間にばらしてしまったピタゴラスの弟子は、
> 教団の手によって殺されてしまったという話も残っています。
大槻いつき『Re: 「わかりやすさ」について』(No.7514)
(Maria)
日本の紙の規格には、A・Bという規格がありますよね・・・
いずれも二つ折りでは、正方形になりません。
また正方形を切り取って残る紙も、やはり二つ折りでは正方形になりません。
これらの規格の紙の長いほうの一辺の長さは、短いほうの長さの何倍になっているのでしょうか?
またどうして、二つ折りにして切っていっても、これらの紙は正方形ができないように作られているのでしょうか?
蝙蝠(内省型)さん wrote:
> ここに書かれていることは医学からは完全に脱線している…。
>
> 自閉とは本人にとって2つの意味がある…。1つは生まれつき
>持っている対人交流の障害…。もう1つは社会と折り合いをつけ
>ていくために自らの心を閉ざしていくこと…。
こうもりさん、皆さん、こんにちはー。
久しぶりにカキコします。年始の挨拶でマザーから直子に変更したままだった
ので皆さんに、もう忘れられたかも(^_^;)
最近フランシス・ハッペ著の『自閉症の心の世界』を読み返し、
第四章・『生物学的レベルで見た自閉症』の“自閉症は遺伝か”の
記述の中に自閉症になる遺伝的素質は存在するようなことが書かれている。
それは、私の中でずっと気になっていたこと。
実は私の父は、人との付き合いが苦手で孤独を好む人なのです。
全然社交的ではなく、家に訪問客が来ると何処かに逃げてしまう人です。
その来客者が嫌いという訳ではなくて、気を遣うのが苦痛なのか、会話
自体億劫になるのかよく分からないのですが。
近所の人達からも「人のことを言わない珍しい人」だと思われているようで
私から見れば、ただ人に関心がないだけと思えるのですが(汗)
私の父が、対人関係を苦手としているのは障害なのか心を閉ざした人なのか
私にはよく判らない“謎”だったりします。
たとえば息子の(AS)は人を求めているタイプです。おしゃべりです。
でも父は本当に孤独が好きという気がします。誰も求めていないというか、
独りで居るときが一番幸せ、みたいな人。
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