アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
I wrote:
>●名刺を作る
> (たぶん写真とかが入っていたほうがいいと思う。珍しい名刺というのもけっこういい。捨てずに取っておいてもらえるから)
Lingkoさん wrote:
> ここですが、字や色は珍しくてもいいけど、大きさだけはコンサバな方がいいです。標準サイズから離れないことをお薦めします。
> 受け取った人が使っている名刺入れにうまく入らないと、整理してもらえないから、見つけてもらえないことになりがちだからです。
> 大きすぎるのは絶対ダメです。
ゴム印(縦書きと横書きの両方)を作っておくのは宛名書きをサボれてけっこう便利なのですが、木を薄く削いで作った名刺(名刺大の経木、ですか)というのがあって、それにそのゴム印を押して渡す、というのはけっこう効きます。うちのJoshyaさんは新木場(東京ディズニーランドや葛西臨海公園の近くの駅)の駅前にある、『もくもく』という「木のスーパーマーケット」で売っている「ねずこ(あすなろ)」の名刺を愛用。割れたり裂けたりせず、むしろ紙より丈夫です。
この名刺、目の前で作って「はい」と渡すと「へー」とか驚いてもらえます。難点は、「すいません、押してないの二三枚ください」という人がたまにいることです(-_-;)。まあ、これをネタに振ってウケを狙う、というのもありますが。
ゴム印でなく、印刷もできます。文字の輪郭がくっきり出てよいです。名刺の印刷は平らな状態で一枚一枚プレスして印刷(印刷の古い形はこれ。「印刷=プレス」だし)するので、普通の印刷屋さんにその名刺を持っていって頼むと刷ってもらえます。ただし、ロスが出るので百枚のうち五六枚は無駄になると思ってください。
その他、竹紙とか、新日鉄かどこかで作っている「鉄の名刺」(金属箔でできている)とか(字が読みにくいけど)、そういったのもあります。
写真はプリクラみたいにシールで印刷して貼っちゃう手があります。最近は名刺サイズのCD−ROMもあるぞ。
あとは、名入りの封筒とか、自分用のレターヘッドとか、そういうのもいいと思います。連絡をつけたいときに、「えーと、どこだっけ」というとき、すぐ見つかるように。
(Maria)
武田好史さん wrote:
>1.周りの人の接し方で困る(た)ことは何ですか?
>2.あなたはどんな感じの癒しが欲しい(欲しかった)のですか?
>3.引きこもりの体験を人前で話すとなったら、抵抗を感じますか?
私はかって、自宅での祖父の葬儀にも顔を出さない引きこもり状態でした。幻聴などあるのだろうと医師に疑われましたが、ないったらない。パニック障害の重症化だったと思います。そのうち、家族の対応のほうが怖くなってしまいました。
ある夜遅く玄関に来たセールスマンに、すごく癒しを感じました。別に顔も見たわけでなく、ただ外部からの訪問者があっただけで救いを感じました。変な時間という意外性が閉塞した家の中の気を変えたのです。引きこもりという異常な行動への嫌悪は、家族ならではの激しさがあります。恥を隠そうと、異常な家族のコミュニケーションを妨害することさえあります。ひどい緊張は保健婦さんなどの手には余るでしょう。私の場合は、昨年来た猫の感触から最も明瞭に、仏の力を感じています。アニマル・セラピ−ですね。
その後、無理して自室に電話を引いて外部との繋がりをつくり、お古のPCでネットも見られるようになりました。今はとにかく生活する経済力が欲しいですが、お金もらったって人前でそんなことしゃべれませんよ。法話の実技試験はあがってめちゃくちゃだったし。
名刺について補足です。すごく細かい補足ですみません。
Mariaさん wrote:
>●名刺を作る
> (たぶん写真とかが入っていたほうがいいと思う。珍しい名刺というのもけっこういい。捨てずに取っておいてもらえるから)
ここですが、字や色は珍しくてもいいけど、大きさだけはコンサバな方がいいです。標準サイズから離れないことをお薦めします。
受け取った人が使っている名刺入れにうまく入らないと、整理してもらえないから、見つけてもらえないことになりがちだからです。
大きすぎるのは絶対ダメです。
メロディさん wrote:
>Lingkoさんの引きこもり体験のことを否定してるのではなくて
>むしろ教科書の書き方に疑問を感じたので書いただけです。
あ、ほんとだ。ちゃんと読んだらそう読める。あちゃー。失礼しました。
>説明が足りなくてごめんなさい。
いえ、私が用心過剰だったみたいです。アセアセ。
武田好史さん wrote:
>引きこもり中・経験者の方に質問します。
2タイプのひきこもりの時期がありました。
1. 完全な(?)ひきこもり。家からもほとんど出られませんでした。
2. 通院などのために外出はできましたが、社会的に自分の居場所(働くところとか)がない状態が続きました。
>1.周りの人の接し方で困る(た)ことは何ですか?
1.もう人生が終わったような反応をされました。自分でもそう思ってしまいました。
2.特にありません。
>2.あなたはどんな感じの癒しが欲しい(欲しかった)のですか?
1.主観的には何もいりませんでした。後から、病院に連れて行ってもらえばよかったと思いました。
2.親しい人には、理解してもらう努力をしました。「癒し」という言葉から連想される積極的なケアは必要としませんでした。ただ、エネルギーを回復させるための時間が必要でした。
>3.引きこもりの体験を人前で話すとなったら、抵抗を感じますか?
1.抵抗を感じます。
2.別にかまいません。
Mariaさん wrote:
> 平成十三年十二月二十八日(金)の産経新聞夕刊より。
おー、ボクのおたんじょうび付の記事なんで、つい反応しちまったい!
>●職務経歴書を作る
> (これはあたしの個人的な意見だけど、自分を「商品」と思ってプレゼン資料を作るくらいのことはしてもいいかな、と思う)
これは大賛成。就職の「面接」は、限られた時間の中でいかにして「自分を売りこむ」かにかかってくるわけです。技術も必要な部分。プレゼン資料を作るくらいの手間はかけてもいいと思うぞ。とは言っても中高年(特に男性)では、これができる人がものすごく少ないね……日本だけなのかな〜???(べつに男性を非難しているわけではないよ。事実として述べただけ)
>●人脈をフルに活用する
> 地縁、血縁、かつての取引先でも、自分に好意を持ってくれる人に「情報だけでいいのでお知らせください」と言って回る。
これも男性でできる人は少ない。もっとも、できりゃ〜誰も苦労しねーわけで……なんでやらんのかな?とわたしなんかは思ってしまうのだが、そもそも思いつきもしない人のほうが多いらしい。←感謝の気持ちが足りねーって感じするぜ。今まで好意を持って接してくれた人々がいるから、今の自分が生かされてあるんだと思えば、気づけることなのにさ。(私怨入ってるかも。ダンナがそうだからね、つい言いたくなっちまうのさ)
> うーん、自信はたしかに重要だけど、業績となるとちょっとな(-_-;)。なにが「売り」かというのは明確にしておく必要はあると思うけど。
そーそー、「売り」はここだ!って点をまず自分でようく確かめて、アピール方法を考えればいいと思う。資格取るのでも、自分が得意なものややりたい方向が見えてないと、時間と金をかけた割には今ひとつ……ということにもなりかねないし。(う〜、自分に言っているようだ)
とても参考になりましたっす、姐御!
おいら昨日フォークリフト運転士の学科講習受けて合格したぜ。あとは2月25〜27の三日間実技講習と試験がある。いっぱつでパスしたいと思っているから、気合い入っちまうなー♪
仕事探しのほうも、ご近所で情報もっていそうな人にはまんべんなく声かけて(だって、できるだけ近い所で働きたいもん)フォークリフトを使っていそうな職場関連も念入りにチェック中だよ〜ん。ふっふっふ。
倉庫の規模や扱う品によっても違うけど、フォークリフト運転は個人的な仕事に近いです。人とあまりしゃべらなくても黙々と荷物を積み下ろししてりゃいいんだもん。自閉症方面で向いたタイプの人もあるかもしれない。普通免許を持っていて車を動かすのが苦にならない人は、一度検討してみることをすすめたいな。
東京クレーン学校のように、普免あるなしにかかわらず免許取得講習を扱っているところも全国にいくつかあるようだし……。金はかかります。が、職場に恵まれれば70歳くらいまでは働けるぞ。(わしのように「生涯現役」と覚悟しておる人間としては、できるだけ「使える」資格が欲しいのじゃよ〜)
「自閉症」には「コミュニケーションの障害」があると言われています。
たとえば、赤ちゃんが、一歳になっても二歳になっても喋らない。耳が聞こえていないのかと思うと、そうでもない。むしろ、「言葉」というものに感心がないようにも見える。で、ときには大人になっても喋らない。
ところが、言葉というものがない、というわけでもなかったりする。なぜかというと、こちらの言うことは通じていたりするので。だから、子どもに多くみられる「緘黙(かんもく)」かもしれない、と判断されることも、ある。
あるいは、喋るにしても、さっぱり意味がわからない。漢字や言葉を創作する。あるいは、こちらの言っている言葉がうまく通じていないらしい。知能が低いのかと思うと、そうでもない。理解力が不足しているというわけでも、なかったりする。特定の専門分野なんかだと、極端に論理的だったりもする。
この「コミュニケーションの障害」というのは、こんなふうにいろんな形で出るので、けっこう謎とされてきました。だから、統一的なすっきりとした説明ができるとは思われていなかったのね。ひょっとしたら、これらの「症状」というのは、ぜんぶバラバラな原因で起きているのかもしれない。たしかにそう考えてもいいように思うのだけど、原因は結局のところ「自閉症」というところに行きつくのも、また確かなことなのね。
乳幼児期にみられる「ことばの遅れ」というのは、まず「ことば」というものの存在を理解するのにちょっと手間がかかる、ということだと思います。これはまあ、あたりまえ。そもそも自閉症方面の人間にとって、「他者」というものを理解するのが大変なのですからね。「コミュニケーション」ということ自体を理解することがそもそも難しかったりします。
で、次に「魔術としてのコトバ」の時期がやってきます。「コトバには意味がある」ということですね。コトバを発することによって、他者に影響を与えることができる。これは「自己」と「他者」の間に「信号(シグナル)」が伝わることの結果なのだけれど、実際には多くの人はそうは考えていません。その道のプロである情報通信の研究者や、生体情報処理システムの研究者ですら、そうは思っていないのね。
「コトバには力がある」。これはもう「普遍的な真理である」と、みんなが思っています。これは世の中のあらゆる宗教において基本的な考え方としてある、と言っていいでしょう。実感としては、たしかにそうです。
で同時に「コトバは音である」というのが事実としてあるのですね。音は、身体の中から出てゆき、外から入ってきます。
そういう「怪しい力のあるもの」が身体の中に入ってくる、というのは相当に気持ちの悪いことです。そんなわけで、自閉症方面の子どもの「耳塞ぎ」というのが起きるのですね。
これも、よく考えるとべつに異常なことではありません。過去の忌わしくも恥ずかしい体験、怖い話、痛い話なんていうのは、「いやぁ〜っ! やめてぇ〜っ! 言わないで言わないで言わないでぇ〜っ!」と耳を塞いで絶叫したくなったりするでしょう? それと同じことなんですよ。
で、自閉症方面の子どもに耳栓愛好家が多かったりします。これは「愛好者」ではなく、まさしく「愛好家」なのね。声が聞こえると不快、音が聞こえないと不安。夜、眠るときと昼間うちの中にいるときと遊び場で遊ぶときと道を歩くときでは、おのずと遮断したい音・聞き取りたい音は違うわけですから、できれば耳栓も使い分けたいものです。(←何者だあたしは)
なお、レーサー用の強力な耳栓(オレンジ色のやつ)というのは、核磁気共鳴装置のある大手の病院の出入りの業者から手に入ります。あるいは、円筒形の耳栓(黄色い耳栓には二種類あります。円筒形のものと、「銃弾形」のやつと)を二つに切ると、弱い耳栓ができます。
そんでもって、次の段階では「内なるコトバ」と「外なるコトバ」のそれぞれの発達と、その相互作用からいろんな造語が起きたりとかする、というのをいままで何回か論じてきたのだな。
で、いま考えているのは、いわゆる「普通の人」と自閉症方面の人間では、感情に食い違いがあるように見える、ということだったりします。で、それは「感情を伝えるやりかた」が、普通の人と自閉症方面の人間とでは違うからではないか、と思うのですね。それは、普通の人と自閉症方面の人間では「対人関係の認知構造が違う」という、自閉症そのもののに拠っているのではないか。で、その結果として、感情をめぐっての対立が起きてしまうのではないか。そう思っているんです。
「ある状況下において、どういう感情を持つのが普通か」というときに、普通の人にとっては、それは自明であり、説明不要であり、なおかつ説明のしようのないことだったりするわけです。ところが自閉症方面の人間にとっては、それは必ずしも自明のものではなくて、類推や推論によってようやく「正しい感情」にたどりつくようなものであり、しばしば「普通の人」にとっては不可解で、説明を要するようなものであり、説明を聞いても納得できないものだったりもするのですね。
そんなわけで、普通の人と自閉症方面の人間の間に感情をめぐる対立(「感情的な対立」ではないことに注意。ただし、ほとんどの場合、感情的な対立になっちゃってるんだけど)が起きたときに、自閉症方面の人間は沈黙せざるを得ないのね。自閉症方面の人間が「私はこう感じた」と言っても、普通の人に「そんなの変だ」と言われたら、そこで議論は終わってしまうんです。
普通の人が障害者を見て「可哀相だ」というのに対し、自閉症方面の人間が「『障害=不幸』みたいな短絡的な発想は間違っている」と言ったとして、「じゃあ、あなたは可哀相だと思わないのか?」と言われちゃうと、本当に返す言葉がない。
普通の人にとっての「感情」というのは、むしろ「動物的な衝動(アージ)」ともいうべきものであり、自分の「感情」を「飼い馴らす」ことで社会に適応してきた自閉症方面の人間にとっては、直接自分の中からわき上がってくる感情というのは、「浅い、動物的な感情」だという部分があるように思うんです。
自閉症方面の人間が一般的にいって倫理的だというのには、つまり「外にある規準」に照らしてみて、「こう考え、こう感じるべきだ」という形でしか、自分の感情の正当性を主張できない、という理由がありそうに思うのね。
で、「感情を飼い馴らす」訓練をする必要がなかった普通の人は、自分の感情を意識化するのが苦手だというのがあります。逆に、そういう訓練を積むことで世の中に適応してきた自閉症方面の人間は、普通の人がいう「感情」を社会的なレベルで消化してからでないと表現できないので、普通の人から見ると「感情に乏しい」ように見えてしまうのだと思います。
普通の人は、自分の鬱積した感情を相手にぶつけようとします。で、それが相手にちゃんと伝わっていないと感じると、イライラしてさらに相手に感情をぶつけます。ところが、「耳塞ぎ」の話にもあったように、自閉症方面の人間は、そういう「外からの異質なもの」が入りこんでくるのがとても苦痛だったりなんかするわけですね。で、防衛機構によってその「感情」をなんとか解消しようと思うのだけど、そうするとまた次の攻撃がきます。
これって相当に不毛な状況なんですよね。
コミュニケーションの基本は、「情報を伝えることで相手(の状態)を変え、その結果として相手の行動を変えること」です。で、普通の人は「感情的な軋轢」というのは、相手の心の深い部分に根ざしているものだと考えるものだから、「感情対感情」のレベルでコミュニケーションを計ろうとするわけです。
だけど、自閉症方面の人間にとって、普通の人がいういわゆる「感情」っていうのは、知識とか論理とか認識のレベルの話なわけですよ。そんなわけで、「気持が伝わらない」という歯がゆさ、じれったさ、あるいは怒りを感じてしまうわけです。
そんなわけで、「じつはこれこれこういう事情があるのだけれど、ひとつこういうふうに考えてはもらえないだろうか」みたいな説得は、自閉症方面の人には効きそうに思います。いわゆる「三方一両損」の話みたいなもので。
とはいえ、あれには「三方一両得」というバージョンがあります。つまり、奉行が三両のうち一両を貰って、残りをそれぞれに一両づつ渡す。金を受け取らないと言った方は、戻ってこないはずの金が一両戻ってきて一両得、金を返すと言ったほうは、全部返すはずのところが手元に一両残って一両得、奉行は一両懐に入って一両得。
こうした「パラダイムの組替え」というのはなんとなくごまかしのような印象があるのですけれど、「ものは考えよう」という言葉も、世の中にはあります。
この話、続きます。
(Maria)
お久しぶりぃ・・・・なんですが、タレイヌです。
こうもりさん、オフ会、定期開催、いいですね。ミグさんも頑張って下さい。
ところで、ASのお子さんの「母」達に、ボランティア先での講演会をお知らせしたいと思っているんですけれど・・・・・??・・・・いいでしょうか??
(タレイヌ)
あんく wrote:
>浮舟の君さん wrote:
私自身、ハンドル名にこだわっていますが、プライベート用と公式用(不特定多数の人が出入りするサイトなど)と分けております。
本来のハンドル名はRosamondeです。最近、このRosamondeの使用が問題になって来ました。Rosamondeと言う名前がセキュリティー上都合が悪くなって来たので、もう一つ名前を使う事にしました。
ですから、『浮舟』か『Rosamonde』で大丈夫です。ここではRosamondeで安全である可能性が高いので、『浮舟』か『Rosamonde』のどちらかで使うと思います。
言葉ってやはり難しいですね。特に日本語独自のファジーな感覚はいまだに分かりません。その点まだ、外国語の方が使いやすいです。
では。
平成十三年十二月二十八日(金)の産経新聞夕刊より。
再就職支援会社「日本ドレーク・ビーム・モリン」(日本DBM)は、二万人の失業者の再就職を手伝い、ほぼ百パーセントが就職に成功。しかも八割が四十五〜五十八歳というもっとも再就職が難しい年齢層だという。で、同社の再就職のノウハウというのは以下のようなものだそうである。
●職務経歴書を作る
(これはあたしの個人的な意見だけど、自分を「商品」と思ってプレゼン資料を作るくらいのことはしてもいいかな、と思う)
●名刺を作る
(たぶん写真とかが入っていたほうがいいと思う。珍しい名刺というのもけっこういい。捨てずに取っておいてもらえるから)
●人脈をフルに活用する
地縁、血縁、かつての取引先でも、自分に好意を持ってくれる人に「情報だけでいいのでお知らせください」と言って回る。日本では「迷惑をかけたくない」とか、「失業しているんを知られたくない」と敬遠されるが、アメリカでは個人的人脈で職が決まるのが八割ほど。なにより、人の紹介なら競争率が低い。
(とはいえ、かつて在職していた会社が迷惑をかけた取引先とか、義理にからんで受けた仕事がポシャって大損こいたりとか、いろいろあったりするからな(-_-;))
●ダイレクトメールを送る
職務経歴書と自分の売込み文を入れたダイレクトメールを就職したい企業に片っ端から送ってみるのも一つの手段。三パーセントぐらいの確率だが、万が一反応があった場合は八十パーセント以上就職できる。
実際に651通を出しつづけた男性は561社めで面接を勝ち取り、就職できたという。
(就職じゃないけど、日本語処理システムやステレオグラム本の企画の売込みでは実際に試していい成績をおさめています)
同社のチーフコンサルタントによれば、「再就職には求職者の失業後の波打つような不安定な精神状態を立直し、サポートしてくれる家庭や仲間が重要な要素です。なぜなら自信喪失した、暗い中年男を採用する会社はないからです。まずは自分が会社で二十年やっていた業績を振り返り、自信を取り戻すことが大切」とか。
うーん、自信はたしかに重要だけど、業績となるとちょっとな(-_-;)。なにが「売り」かというのは明確にしておく必要はあると思うけど。
参考になれば、と思います。
(Maria)
こうもりさん、こんばんわ。
久しぶりの書き込みなので、なんだかキンチョーします。
私自身の仕事が忙しくなったり、身内がけがをしたりと
バタバタしてしまって
なかなかネット・カフェに足を運ぶことができずにいました。
早く書き込みしたかったのですが・・・。
あれから彼とはなんとか続いています。
実は今も彼の仕事が終わるのを待ってるんです。
以前よりは距離は近くなったものの
やはりまだまだ困難や理解するのが難しい部分があります。
誕生日プレゼントに自分がカスタムした、
かなり凝ったチェーンメールを送ってきたり。(笑)
私が切羽詰って、
どうしても夜中に彼に会いたくなって
明け方まで仕事終わるの待ったことがあったんです。
疲れてるだろうに会ってくれたのですが、
私の顔を見るなり「ビール買ってきて!2本よ!」と言って、
1人で2本飲んだり。
多分、今、誰にもわがまま言えないし
仕事も決して良い仕事とは言えない職種なんです。
どこかで矛盾を感じているはず。
でも、同僚と必死でコミュニケーションを取ろうと、
彼なりに努力しているのが、最近よくわかるんです。
何度も失敗して、一時は逃げに走ってたけれど。
こうもりさん
こうもりさんにも{こだわり}ってあるんですか?
彼には「靴」へのこだわりが前からあって
凄く気にはなってたんだけど、
ある日「靴を買ってくれ!!」ってしきりに言い出して。
今まで一度も「買ってくれ」なんて言わなかった人が、
突然言い出したから少し驚きました。
結局、頑張って靴を買いました。
本当に、本当に本当に本当に頑張って。
そしたら「今度、うめ合わせするね」とメッセージをくれました。
・・・どういうことなんでしょう?
靴、少し合わなくて痛いのに
「靴は痛いものだ。大丈夫!」って言うし・・・
(あと最近どうも、私の声を録音するのにハマッているみたいです。
だから電話に出ずに留守電にして、 私が声を吹き込むのを待ってるんです。)
また書き込みしますね。
なんかバタバタですいません。
・・・最近、ホントにバタバタしてて、目が回りそう。
Lingko wrote:
>Lingko wrote:
>>メロディ wrote:
>>>Lingkoさんの投稿を見て教科書の説明を見ると
>>>あってるようなあってないような……
>>
>>そうですね。すみませんでした。
>>
>>私が引きこもり経験者というのは、嘘だったのかもしれません。ごめんなさい。
>
>あ、でも。
>
>最初の半年から1年半くらいは、あんまり外には出られなかったりもしたので、その間に関してだけは、引きこもりと呼んでもよい状態だったとは思います。
>
>だから、「自分で回復を目指そうとした回復期で躓いて異常に長引いてしまった」時期を引きこもりに含めたら嘘になってしまうのかもしれませんが、私が経験者であることは本当だったかもしれないです。
Lingkoさんの引きこもり体験のことを否定してるのではなくて
むしろ教科書の書き方に疑問を感じたので書いただけです。
説明が足りなくてごめんなさい。
引きこもりというのも個人差が大きいものであると思うので
教科書の定義はあまりにもひとくくりにしすぎているというか……
そんな感じがしたのです。
Lingkoさんの場合も引きこもりで合っていると私は思います。
(という書き方も変でしょうか?)
Lingko wrote:
>メロディ wrote:
>>Lingkoさんの投稿を見て教科書の説明を見ると
>>あってるようなあってないような……
>
>そうですね。すみませんでした。
>
>私が引きこもり経験者というのは、嘘だったのかもしれません。ごめんなさい。
あ、でも。
最初の半年から1年半くらいは、あんまり外には出られなかったりもしたので、その間に関してだけは、引きこもりと呼んでもよい状態だったとは思います。
だから、「自分で回復を目指そうとした回復期で躓いて異常に長引いてしまった」時期を引きこもりに含めたら嘘になってしまうのかもしれませんが、私が経験者であることは本当だったかもしれないです。
メロディ wrote:
>Lingkoさんの投稿を見て教科書の説明を見ると
>あってるようなあってないような……
そうですね。すみませんでした。
私が引きこもり経験者というのは、嘘だったのかもしれません。ごめんなさい。
翔ママさま、はじめまして。こんばんは。
直子さま、こんばんは。いつもお名前拝見しておりましたが、あらためましてよろしくお願いいたします。
あさかぜさま、こんばんは。お嬢さまがASでいらしたのですね。よくわかりもせずお話させていただいておりました。たいへん失礼をいたしました。
ASの「子供の母」のみるらでございます。
ASのお子さまをお育てになっておられるお母さまには、自ずと頭を垂れる稲穂になってしまいます……(実っておりませんが)。
私は残念ながら自己不全感のシャワーをたっぷり浴びて育ちました。
子供ができて母の有り難さを知るどころか、不満ばかりが募っておりました。診断を得るまでは。
今は、面倒をかけたことよりも、不安を感じさせてしまったことよりも、
子育てに当然あると思われた喜びをあまりプレゼントできなかったであろうことを切なく思っております。
そして、いろいろと改善すべき点はあったにせよ、常にひたむきに、一生懸命に接してくれたことを、素直に感謝しております。
これから子育てをする過程で多くの困難に出会うであろうと言われ、加療中です。
そして、きっと、ASのお子さまを育てていらっしゃる先輩お母さまからいろいろなことを
学ばせていただけるのでは……と思うようになりました。
みなさま、これからもどうぞよろしくお願い申しあげます。
図書館で発見した精神保健の教科書に書いてあった引きこもりの説明
「引きこもりは、現実に直面しきれない状況におかれた人が、安心できる居場所を求めたり、あるいは、引きこもることによって安定しようとする対処行動の1つであったりする。」
Lingkoさんの投稿を見て教科書の説明を見ると
あってるようなあってないような……
武田好史さん wrote:
>引きこもり中・経験者の方に質問します。
経験者です。
引きこもりを卒業し、出不精へと進化しました。出不精に進化してからの方が、外出頻度が減ったぞ(爆)。
「引きこもりからの卒業≠日常的に外出をくり返すライフスタイルの確立・定着」という生き上人、じゃないや、生き証人でございます。
今では、ふたたび外出頻度が上がって、ほぼ毎日「通勤」するライフスタイルを確立しましたが、出勤する先は自宅のマンションから歩いてすぐの所に借りてるマンションであって(要するに、夫の転勤で引っ越すときに、前の住まいより狭い物件しか見つからなかったから、2軒借りたってだけのことなんだけどね。夫が住宅街の支社から学生街の支社に転勤したもんで)、出勤した先でも一人なので、これを「毎日通勤できるようになった!」と呼べるのかどうか、いまいち疑問ではありますが、それでも、何てったって、2週間に1度の通院がこなせているんですから、それだけだってすごいもんだと思います(病院行かないと、パキシルとリタリンが受け取れないしなあ)。
>
>1.周りの人の接し方で困る(た)ことは何ですか?
引きこもりイコール精神的・心理的な原因によるものという思い込み。
たとえば、場面の切り替えの遅さ、したくを整える技術の不足など、即物的な要因に起因する「外出べた」が引き金になる(「外出できなかった」という事実の積み重ねから悪循環が始まる)こともあるという認識の不足。
「出不精というライフスタイルが存在する」っていう認識の不在。
でも、基本的には、「周りの人の接し方」よりも、「自分の自分に対する接し方」のマチガイの方がはるかに有害でしたね。
>2.あなたはどんな感じの癒しが欲しい(欲しかった)のですか?
当時ほしかったのは、「癒し」ではなく「鍛錬」だった。
今思えば「癒し」も「鍛錬」も特に必要なかった。逆に、必要なのは「癒し」あるいは「鍛錬」だろうという思い込みに足をとられていた。当時の私が求めていた、ほしがっていたのは「鍛錬」だったけど、だから自分で調達、供給したけど、逆効果でしたね。
そのときの本人が欲しがっているものが、必ずしも解決への道を開いてくれるものであるとは限らない。
場面の切り替えの遅さ、したくを整える技術の不足など、即物的な要因の影響力も意外にあなどれないぞという発想の転換が必要だった。だから、必要だったのは、そのための援助。
私の場合、外出できないのは自分が敏感すぎるからいけないのだと思い、「激しい刺激に身をさらすことによって感受性を鈍麻させよう!」なんて考えてたので、たまにがんばって外出ができたときは、「この機会をのがすまい」として、とにかく無茶をしておりました。定期的な外出のできている人たちさえやらないような無茶をして、「これが普通だ」あるいは「これでも足りない」と思い込んでたんだから。だから、当時、「たまに外出ができたときの私」を出先で見ていた人たちは、その時の私の姿しか知りませんから、私のことをとんでもなくエネルギッシュで情熱的で極端に親切な剛の者、強者だと思い込んでいたようでございます。
で、ぼろぼろになって疲れ果てて家までたどり着いたら、あるいは「配達」してもらったら、ふたたび動けなくなる(当たり前だっつーの)。ところが、私の中にはこれが、「ほらみろ。出かけたら、やっぱり疲れ果てて燃え尽きてしまったではないか」というデータとなって蓄積するんですねぇ。だから、「また出かけるのは怖い」と思ったり、「今度こそもっと激しい経験をして、自分を慣らし、鈍麻させるぞ」と決意を固めたりしてたわけですな。
しかも、出先でたまに出会った人たちは私のことを「のことをとんでもなくエネルギッシュで情熱的で極端に親切な剛の者、強者」だと思ってるワケですから、そのつもりで接してくる、あるいはそういう感想を漏らす。すると私は、その過大評価に驚き、「自分は買いかぶられている」「みんなをだましている」と罪悪感に悩んだり、「そう思われてるんだからその通りにならなきゃ」と思ったり、あるいは「そうか、自分はそうなんだ」と舞い上がったり、「一面的なワタシ像」からもいろんな影響を受けておりました。
そんなわけで、必要だった援助の一つは、リアリティー・チェックの機会の供給か脳〜。
引きこもりしてると、入る情報の量が減るだろうと思われがちですが、量以上に、質が偏ります。
外界ともっと頻繁に接してる人は、普通に考えれば雑音に相当するような「あまり役に立たない情報」「無駄な体験」が、積もり積もってリアリティ・チェックの役割を果たしてくれます。でも、引きこもりしてると、どうも情報の純度が高くなりがちなんですわ。
それに、本人が周囲の批判に敏感になってるから、関係ないことまで自分とひき比べたり、自分の状態への批判、非難と結びつけがちで、そのために、自分から「役に立たない情報」を排除したくなってしまうんだよな。反動形成で「雑談」を軽蔑するようになったりするとなおさら。
だから、せっかく雑談などの雑音情報が入ってきても、それがリアリティ・チェックとしての機能を果たせない。だから、援助側としては、「防衛が強くなってる人でも聞き入れやすいような、リアリティ・チェックのパッケージング形式」を開発したらいいのかもしれないね。
>3.引きこもりの体験を人前で話すとなったら、抵抗を感じますか?
話すことには抵抗ないけど、話す場所まで外出していくとなったら計画を上手に立てなくちゃ(爆)。
ま、引きこもりの人の全員ではないし、多数派ではないと思いますが、ごく一部に、私と似たようなサブタイプの人はいると思うのです。
本格的な引きこもりの時期はすでに終えて、さて社会復帰、と思って一歩を踏み出しかけた所で、その方針を間違えたために、「社会復帰訓練期」が長引いてしまうタイプの人。
その人たちに対する「望ましい援助のあり方」は、引きこもりの中の多数派、もっと一般的な引きこもりの人たちに対する援助のあり方とは、質的に違ってくるんじゃないかと思うんですよね。
だから、「少数だろうが、こういうサブタイプもいる」ってことは、そろそろ言い出した方がいいのかな、と思ったり。
武田好史さん wrote:
こんばんわ。satieです。
>引きこもり中・経験者の方に質問します。
>1.周りの人の接し方で困る(た)ことは何ですか?
障害故の欠点をつっつかれる事です。障害故の考え方を周囲に打ち壊される事は、私が生きてきた事すべてを否定されている気がするからです。
(障害の事等話せない人には、沈黙する場面です。)
>2.あなたはどんな感じの癒しが欲しい(欲しかった)のですか?
障害を否定しない空間です。
>3.引きこもりの体験を人前で話すとなったら、抵抗を感じますか?
今は抵抗はありません。
武田好史 wrote:
引きこもり中・経験者の方に質問します。
1.周りの人の接し方で困る(た)ことは何ですか?
2.あなたはどんな感じの癒しが欲しい(欲しかった)のですか?
3.引きこもりの体験を人前で話すとなったら、抵抗を感じますか?
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