アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
はじめまして。
私は鬱病と分裂病のひとです。自傷癖もあります。
いわゆるリストカッターっていうものです。
今日、私のとっている夕刊に山口もえの写真がのっていた。
かわいいひとだなあと思ったので、今日初めてそのドラマ見た。
対人関係、私も苦手です。
今、学生ですが、週に2回しか行ってない。こわいから。
卒業できるか、危ない。就職活動も全部ダメだった。これからどうするのかな。
私、喋るのも下手だけど、耳もあまりよくない。
「まゆこ」っていう名前がずっと「れいこ」に聞こえてた。
漢字見ないとわからない。
ASっていうのは私にはまだよくわからない。
でも、興味あります。
私、鬱病のひと。これも結構困ること。
親亀こけたら・・・ wrote:
> 自分自身アスぺと認識した方は何かそれまでよりも意識は変わりましたか?
私の場合は、人間関係がダメでも、そのことを悩んでいなかった(よほど気楽な人以外とのつき合いを断ちきってしまっていて、それで快適で、孤独と思っていなかった)ので、少し立場がちがっていて、あんまり参考にならないかもしれませんけど・・・。役に立ちそうなところだけ、つまみぐいして、あとは忘れてください。
私も人と話すと話の腰を折ってしまうか、みんなが飽きようが呆れようが気づかず一方的に演説してしまうか(気づいてもどうせ止められない)、何の話なのかわからなくてひたすら黙っているか、なんかやたらとちぐはぐなことをしてしまいます。
アスペと知らされてからは、「まあ、私はそういう人なんだしなー」とあきらめたので、あんまり過剰防衛にならなくなったかな。ものすごく気をつけていたって、やっぱり失敗するし、その上にさらに「気にする」が重なると、態度がよけい不自然になるらしいんですが、その「気にしてるせいで不自然」の部分だけがなくなったかな。もともとの失敗は相変わらずですね。
それと、人と会ったり話したりすると、ものすごーく疲れるのは当然なんだ、自然なことなんだと知ったので、どうしても人に会わなきゃいけない用事があるときは、それに備えて、あらかじめ休んでおいたり、ほかの用事を作らないようにしたり、準備万端、整える(正確には、整えようとする)ようになりました。それでも疲れるけど。
そうそう、「控え目で切り上げる」っていうのを、あらかじめ計算に組みこんでおくことが増えました。一応顔だけ出して、「疲れたら早めに帰るぞっ」と最初から決めておく、とか。
あと、「人にはっきり頼んでしまう」ことが増えたかな。「私は心の準備がヘタくそなんで、急に言われるとアワアワしちゃうんですよねー」なんて、前もって言ってしまうとか。「頭が混乱しやすいから、その場で急に決めるのは苦手ー。ゆっくり考えてから改めて返事することにしていーい?」とか、「すみません、後でもう一回、ファックスかメモでもらえますー?」とか。
いつも言ってると、だんだん相手が慣れてくるみたいです。「ピンチになってから言い出さないで、日ごろから小出しに言っておく」「最初から頼む」っていうところかなあ。たとえば、「顔が覚えられない」というのは、最初に紹介されたときに言ってしまうんですよ。何回か会って顔がわからなくて気まずい思いをしてから言うんじゃなくて。診断されてからは、「努力したらそのうち克服できるかも」ってハカナイ希望を持って告白を先送りにすることがなくなったので、早めに頼むことができるようになったかな。
まあ、私は子どもがいないので、生協の班の人、町内会の班の人、それに仕事関係者と、私と夫の家族くらいしか相手にしなくてすんでいるのですが。
親亀こけたら・・・ wrote:
> 幼稚園に通う我が子がアスペルガーと診断されたのはつい最近のこと。
>早速本を購入し、読んで見ること最初の章で自分がアスペルガーという事を認識しました。私はすごく物忘れが激しくて、注意力欠陥症候群だと今まで思っていました。が、一番苦手なのは対人関係なのです。雑談の場などでは波に乗れずいつも話しの腰の骨を、折ってしまいます。友達もなかなか出来ません。いつも孤独です。自分自身アスぺと認識した方は何かそれまでよりも意識は変わりましたか?
私の子ども時代の呼び名は、「スローロリス」でした。
動物園へ行って、「ほら、お前がいるよ」と親に言われて、じゃあ、自分もこの暗い水槽の中がほんとの世界なんだなーと思ったのを覚えています(笑)
それ以来、自分のことを「スローロリス!」と叫んだりしてました。
親は恥ずかしかったでしょうね。でも、知名度の低いコだったから、誰も知らなかったかも(笑)
私の場合、母親が「自閉症=脳障害」と認識していて、まぁ、つまり、医学的検査(脳波とか)で異常が見られなかったため、
産まれたときからお世話になっていた主治医に、「自閉症の可能性がありますよ」と言われても、
頑として認めなかったんで、未診断で成人してしまいましたから、かなり生きにくかったですよ。
それでも、今までそうやって生きてきて、現在の自分があるということは、
(療育が受けられなかったことは別にして)診断されようがされまいが、自分は変わらない、ということです。
実際、今から、自閉症の可能性を疑われた三歳に戻ってやり直せるならともかく、そんな夢みたいなことはあり得ないので。
自分で疑って、親と医者に確認して、認識してからしばらくは、今までできてた「我慢」ができなくて苦労しましたけど、今はまた、「我慢」できてます(と思う)。
どういうことかというと、「生きにくさ」を軽減するために身につけたはずの「社会的スキル」が、一時的に必要なくなったような感じだったんです。
急に歌ったり、叫んだり、喋りだしたりしちゃダメとか、自分でみつけだした法則に従って自分自身に禁止していたことが、「絶対悪」ではなかったんだ、と安心したことで、タガがはずれてしまったのかな、と思いますけど。
あらゆる場面で「あなたって、〜〜よね」と、よく言われます。大抵、ちょっと変わってる、ということを指摘されるんですが。
だとしたら、そのまんまの自分でいいや、と思って生きてきました。今もそれは変わりません。
その、「変わってる人」といるのがいい、って言ってくれる人も、世の中いないわけじゃないし(笑)
秘密のアッコちゃんみたいに、別の誰かに変身できるわけじゃないので、逆に、こういう自分が生きやすいように、環境を選んであげようと思います。仕事とか。
>私は今、人と会話するのがとても苦痛です。でも子供の事を考えればそんな訳にもいかず、悩んでいます。
そうですね。お子さんがいらっしゃると、大変だと思います。
でも、自分を肯定できるのは、自分しかいない、ということを忘れないでください。
そして、人になにか言われたからって、その人が自分を否定できるわけじゃないことも、忘れないでください。
Niki Lingko(マルハナバチ) wrote:
>なんか、私がファウラーさんの主張に反対する理由が全然伝わってない気がするのだけれど。
…スレッドの一番最初の書き込みを見た時は、こんな展開になると思いませんでした。
だって、私にとっては、砂に水が染み込むように、自然に感じられたから。
>なぜか。「婉曲語を導入すべき」という主張は、婉曲語で言わなかったらストレートな呼称は差別語になるということを前提にしています。
これって、放送コードとか、出版コードなどの、「差別的表現」を避けよう、という方針と同じですよね。
だから、別に、その「前提」は、私にとっては、ことさら言う必要のない、まさに「前提」だったんですけど…。
>しかも、従来の呼称、婉曲語ではないストレート語(?)を、本人が自分を指すときに使うことまで不愉快に感じているらしい(そこまで「やめろ」と言わないで自制している点は評価しますが)。
>でもファウラー氏の主張は、過剰に強調しないための手段として、婉曲語を導入しようというものでした。日本人であることを過剰に強調しないために、「日本から来た人」とソフトに言いかえるべきっていうつながりかたには、私は反対なんです。
「被差別意識」だと思うんです。
巧く言えないんですけど、自分から進んで、自分をマイナスイメージに向かっておしやらなくてもいいんじゃないかな。と思います。
これは、自分の意識の問題ですけど、逆に、それを言い立てられる側からの意見も、聞いたことがあります。
なんか、「自分を差別しろ」って言われてるような気がする、そうです(笑)
つまり、こっちには壁も境界線もなかったのに、言われたことで逆に意識して、強調されてしまうらしいんですね。
だから、婉曲語を導入しようとすることは、逆に、そのもとの呼称を意識させて、帰納式に差別意識を想起させてしまう、という皮肉な結果にならないでしょうか?
「言い換えなければならない」「言い換えるべきだ」という「背景」…つまり、その裏に「shame」の意識があることを、逆説的に強調してしまいませんか?
「あ、ADHDって言っちゃいけなかったんだっけ。差別用語になるんだから」なんて、誰だっていやじゃないですか?
ってことを、マルハナバチさんは言いたいんじゃないのかな。と思ったんですが。違ったらごめんなさい。
たま子 wrote:
>皆さんの反響のすごさにおどろいてます。
>というより、私へのコメントは無いし、
ごめんねー。無視するつもりだったわけではなかったのです。
たま子さんの、当の発言は、たま子さん個人の心境の変化であって、
それはたま子さんのものだから、口を出すべきではないって思っちゃったの。
いろんな人がそれぞれにしっくりする感覚を自分で見つけていくものだから、
よほど大感激した場合なんかを除いては、黙っていよう、って思ったのね。
>まあ、べつにみなさんが私の過去の発言なんて誰も気にしてなかった。
>気にも留めてなかったって事か、トホホ。
たま子さんの過去の発言は、読んだけど、
最初から、問題があると思わなかった。悪いと思わなかった。
だから、なんにも言わなかった。
そしたら、その後の「反省」についても、「考えかたが変わったんだなあ」「たま子さんも、いろいろ、考えているんだなあ」「みんなも、いろいろ考えているんだろうなあ」って、ふむふむして、それっきりになっちゃった。
>単にファウラーさんの
>「言葉狩り問題?」の是非をめぐっての討論会になってしまいましたね。
ごめんねー。これは私が悪いんだよ。たま子さんが引用していた、ファウラーさんの文章にばっかり反応してしまったのは、「木を見て森を見ない、視野の狭さ」の爆発でした。
全体の文脈と関係あろうがなかろうが、部分が目についたら止まらなくなってしまったのです。ガマンしたらしたで、いつまでも引きずる(切り替えの遅さ、繰り返し好き)のは、目に見えているし。
#こういう、細部にレスつけたくなるスタイルが私の自閉らしい部分なんですよね。それが今回はたまたま悪い方向に出てしまったわけです(同様に、同じ細部志向が、良い方向に出ることもありますが)。自閉が「芸風」っていうのは、そういう意味だったんですよ。今回は身をもって悪い実例を見せちゃいましたけど。
もちろん、細部志向なんだから許してくれって言って甘えるために言ってるわけではなくて、次から同じ失敗しないためには傾向を自分で知っておいた方がいいと思ってこんなこと言ってるわけですが。
#いま思うと、レスにしないで新規発言にして、スレッドを改めたらよかったんですよね。なんで思いつかなかったんだろう?
>>それを自分であえて使うと「それはよくない言葉なの、自己卑下している
>ように思われるから、自分をそういう風に呼んではダメ」と、
>ある時期は、障害者の親たちも苦労して子どもに使わせないように
>気を付かったりしたのでしょうね。
>「障害を持ってるけど私は普通なの!」って胸張っていきれるようにって。
>「模範的に」育てたりして……。それが正しい「障害者の母」っていうのも、
>相当なプレッシャーでしょう。
>なんかマルハナ・バチさんから論点がずれてる……。
いや、ずれてないです全然。私が言いたかったことそのまんまだから。
私はたま子さんの話、ずらしちゃったのに、たま子さんはずらさないでつないでくださって、ありがとうございます(おじぎ)。
Niki Lingko(マルハナバチ) wrote:
>私が反対しているのは、そういう状況ではありません。むしろ、そのちょうど裏返しの状況です。ファウラーさんはいわば、どんな場面でも「日本人」という言葉を「日本から来た人」に置き換えようと言っているわけです。「日本人」という言葉そのものを廃止して「日本から来た人」に置き換えようと主張してるんですよ。
>
>「ベルギー人」「カナダ人」は差別用語ではないからそのまま使っていいのに、日本人だけは婉曲に、「日本から来た人」と言わないと失礼にあたる・・・ そう言われたら、「日本ってそんなに汚い国?」って思いません?
>
>>> 誰かのことを「女の人」と言ったって、その人の人格は剥ぎ取られますか? その人は女そのものになってしまいますか?
>>
>>私は女の人でないけど、女の人が男ばかりの職場などで、同じ仕事をしているのに常に「女だから」とあつかわれるとすると、やはり不自由であろうと思います。
>>
>私もそれは不自由でいやだと思いますが、現状を変えずに「あの人は男ではないから」と言い換えてことが解決するとは思わない、ということです。男性は「男の人」でいいけど「女」は差別用語だから「女性属性をもつ人」と言い換えないと失礼にあたる、って言われたら、「女性は汚いもの」という前提がなおさら固定化され、女性差別の実態はかえって悪化する気がしませんか?
あの、わたし実はファウラーさんの本も、マルハナバチさんの本も
テンプルさんの本もまだ読んでないんですけど・・・(テンプルさん
はこっちの話です。)
ファウラーさんが「ADHD者」と言わずに「ADHDを持つ人」に言い換えましょう。
といっているのは、ADHDを良くないものと言っているように聞こえます。
ファウラーさんはきっとADHDの人ではないんでしょう・・・(憶測)
ADHDは、今の社会では悪いものとされてしまいがちですが、
教育のシステムなどが変わって社会が変わればいいものにもなると思います。
(現状でもADHDにはいい面もいっぱいあると思います。)
(ASでも同じことが言えると思います。)
なにも遠慮して「ADHDを持つ人」なんて言う必要はないと思います。
差別する人がいたらその人の考え方がおかしい。
こっちが気を使う必要なんてないです。
差別している人の方が、もっと勉強するべきです。
まだ読ませていただいてませんが、世の中にADHDのことを広める本を
翻訳してくださってありがとうございます。>マルハナバチさん。
幼稚園に通う我が子がアスペルガーと診断されたのはつい最近のこと。
早速本を購入し、読んで見ること最初の章で自分がアスペルガーという事を認識しました。私はすごく物忘れが激しくて、注意力欠陥症候群だと今まで思っていました。が、一番苦手なのは対人関係なのです。雑談の場などでは波に乗れずいつも話しの腰の骨を、折ってしまいます。友達もなかなか出来ません。いつも孤独です。自分自身アスぺと認識した方は何かそれまでよりも意識は変わりましたか?
私は今、人と会話するのがとても苦痛です。でも子供の事を考えればそんな訳にもいかず、悩んでいます。
なんか、私がファウラーさんの主張に反対する理由が全然伝わってない気がするのだけれど。
第一、私と管理人さんの言っていることは共存可能だし、お互いに矛盾してないですよね?
私がファウラーさんに反発するのは、「レッテルを貼らない」という趣旨(そこは別に構わない。そして、管理人さんが賛成するのはこの部分でしょう)を実現するための手段として、婉曲語を普及させようとするからです。趣旨は別にいいけど、その手段として婉曲語を導入したことに反対なんです。
なぜか。「婉曲語を導入すべき」という主張は、婉曲語で言わなかったらストレートな呼称は差別語になるということを前提にしています。
しかも、従来の呼称、婉曲語ではないストレート語(?)を、本人が自分を指すときに使うことまで不愉快に感じているらしい(そこまで「やめろ」と言わないで自制している点は評価しますが)。
館の管理人 wrote:
>Niki Lingko(マルハナバチ) wrote:
>> だって、誰かのことを「日本人」って言ったって、その人の人格は剥ぎ取られますか? その人は日本そのものになってしまいますか?
>>
>はい、私は日本人です。私がもしも仮に、日本人があまりいない社会の中でくらしているとする。まわりの人たちから常に「やあ日本人」と言われて、私の一挙手一動が日本人の特徴ととられて、しゃべることはみんな「日本人の言うこと」ととられるとしたら、とても不自由な気がします。
>
私が反対しているのは、そういう状況ではありません。むしろ、そのちょうど裏返しの状況です。ファウラーさんはいわば、どんな場面でも「日本人」という言葉を「日本から来た人」に置き換えようと言っているわけです。「日本人」という言葉そのものを廃止して「日本から来た人」に置き換えようと主張してるんですよ。
「ベルギー人」「カナダ人」は差別用語ではないからそのまま使っていいのに、日本人だけは婉曲に、「日本から来た人」と言わないと失礼にあたる・・・ そう言われたら、「日本ってそんなに汚い国?」って思いません?
>> 誰かのことを「女の人」と言ったって、その人の人格は剥ぎ取られますか? その人は女そのものになってしまいますか?
>
>私は女の人でないけど、女の人が男ばかりの職場などで、同じ仕事をしているのに常に「女だから」とあつかわれるとすると、やはり不自由であろうと思います。
>
私もそれは不自由でいやだと思いますが、現状を変えずに「あの人は男ではないから」と言い換えてことが解決するとは思わない、ということです。男性は「男の人」でいいけど「女」は差別用語だから「女性属性をもつ人」と言い換えないと失礼にあたる、って言われたら、「女性は汚いもの」という前提がなおさら固定化され、女性差別の実態はかえって悪化する気がしませんか?
「女」「女の人」という呼称を廃止されたら、私生活で「たまには女だけで飲みに行くのもいいよねー、くつろげてさあ」「女どうしの助け合い」といった言いかたもしにくくなってしまいます(ファウラー氏は、ADHDをもつ人自身が、自らを「ADHD者」と名乗ることにマユをひそめていますが、仲間どうしの打ち明け合いの本であり、内輪の助け合いの本でもある「片づけられない女たち」では、「ADD女性」という自称が、愛情こめて使われています。その事実は、ファウラー氏の挙げる根拠と矛盾する気がする)。
>日本人であることも女の人であることもネガティブな属性ではないけれど、もしそればかりが過剰に強調されたら、ちょっとそれはいやだ、という場合もあるということです。
それには全面的に賛成です。
でもファウラー氏の主張は、過剰に強調しないための手段として、婉曲語を導入しようというものでした。日本人であることを過剰に強調しないために、「日本から来た人」とソフトに言いかえるべきっていうつながりかたには、私は反対なんです。
スレッドが大きくなって、どこにレス付けたらいいか分からなくなったので、新しくします。
レッテルが必要なのかどうかは、各個人の状況によるでしょう。
特に大きな要素は「実害を生み出すかどうか」だと思っています。
アスペ的要素のために実害がある場合で考えると:
(1)レッテルがないために「何でこんなことができないのか」と言われても説明する根拠がない。障害(仮にこの言葉を使っておきます)だと思うと説明しても、「その程度じゃ障害とは言えない、甘えているだけ」と言われてしまう。
(2)レッテルがあると、健常者と変わらない結果を出せるにも関わらず、「障害者だから」という目で見られて正当に評価されない。
この2つの場合にはレッテルの有る無しが逆であれば、どちらも多少はうまくいく可能性が高くなりそうです。
大事なのは「どうしたら実害を減らせるか」であって、その可能性の一つとしてレッテルがある訳で、状況によってはそれが逆効果になりうるでしょう。
以上のことは対外的なことであって、自分自身が納得するためのレッテルはまた別問題です。
なお、「障害」という言葉の問題については、私自身の考えが固まっていませんので、今は取り上げないことにします。
Niki Lingko(マルハナバチ) wrote:
> だって、誰かのことを「日本人」って言ったって、その人の人格は剥ぎ取られますか? その人は日本そのものになってしまいますか?
>
はい、私は日本人です。私がもしも仮に、日本人があまりいない社会の中でくらしているとする。まわりの人たちから常に「やあ日本人」と言われて、私の一挙手一動が日本人の特徴ととられて、しゃべることはみんな「日本人の言うこと」ととられるとしたら、とても不自由な気がします。
> 誰かのことを「女の人」と言ったって、その人の人格は剥ぎ取られますか? その人は女そのものになってしまいますか?
私は女の人でないけど、女の人が男ばかりの職場などで、同じ仕事をしているのに常に「女だから」とあつかわれるとすると、やはり不自由であろうと思います。
日本人であることも女の人であることもネガティブな属性ではないけれど、もしそればかりが過剰に強調されたら、ちょっとそれはいやだ、という場合もあるということです。
「女性の感性を生かした仕事をしたい」とか「外国の地にいても自分は何より日本人だし日本人らしい生き方をしたい」とか、そういう人も当然いるだろうしぜんぜん悪くないです。でもそうでない人もいていいでしょう。
館の管理人 wrote:
>>
>> >>このように、誰かのことを、その人のもつ障害の名前で
>> >>呼ぶ──。すると、その人の個人としての人格は剥ぎ取られ、
>> >>その人は障害そのものになってしまう……。
>
>わたしはファウラーさんのこのいい方に、わりと共感するほうです。
>みんな、感じ方はいろいろでしょう。
>
私がファウラーさんに反発する大きな理由は、ここです。
>(前略)……私は至るところで(時には外国語でまで)、
>人々が自ら「ADHD者」と名乗ったり、
この人は、他の人が、自ら「ADHD者」と呼ぶことにまでマユをひそめているんですよね。さすがにやめろとまでは言ってないけど。
Niki Lingko(マルハナバチ) wrote:
>
>つまり、英語だと、an ADHD child という言いかたと、a child with ADHDとい
>う言いかたと、両方できるんですね。「ADHD児」と呼ばずに、「ADHDのあ>る子」「ADHDをもつ子」と言い換えようという、一種のPC語です。
>
>私自身を例にとれば、私は自閉(具体的にはアスペルガー症候群ですが)は自分の>人格の中心部分をなす、かけがえのない特質だと思っているので、a person
>with autism と言われると、あまりいい気はしません。自分では an Autistic
>あるいは、an Aspieと名乗ります。比喩(ジョーク)とはいえ、「自閉連邦市
>民」だとか「在地球領事館附属図書館館長」なんて名乗っているくらいですから。
私は、ADHDなくしては、今の人格にたどり着くことはなかったと思います。
一時期は、のろまな自分や、
遅刻常習犯のだらしのない人間からどうやったら生まれ変われるのか、
高校の頃いろいろ考えました。自分の何がいけないんだろう。
自分は、学校の成績が良かったから、そこにあぐらをかいて、
多少のだらしなさは、成績が良いというイメージで
カバーしてると思ってるんだろうか(自問自答)、
あぐらをかいて他人を見下しているから、人との待ち合わせに遅刻するのか、
何かのミーティングの時に大事な物を忘れたり、
期限を過ぎてしまったりするのか、
私は傲慢だから、父親に嫌われているのでは・・・?
いろいろ自分で思い付くことのできる欠点を部分的に改善して、せめて、
不必要に人が傷つくような場面にいたらそれを止めてあげよう。
とか、人の長所を見つけたら、
えんりょなくじゃんじゃん誉めて自信をつけてもらおう。
とか、絶対人を見下さない(これ重要)。とか、
傷ついている人は、見つけたらできる限り癒してあげよう。痛いから。
そしたら、一生の親友と呼べる友達がたくさんできたんです。
これは宝物なんです。ADHDでなければ手に入らなかった。
>ですから、「ADHDのある人」「ADHDをもつ人」と言おうか、「ADHD族」「ADHD人
>種」と言おうか、というのは、完全にその場の文脈だけで決まります。
>
>部屋を片づけられない自分を許してやろうよー、といって、ADHD仲間と一緒に開き>直り、散らかし自慢をし、という文脈では、「ADD族なんだからさー」とか「やっ
>ぱりADD女はさー」と言います。それは、ADHDも含めて自分、と認めてやりたい文>脈だからです。
>
>ところが、時間管理のテクニックとか、金銭管理のテクニックなんかを考えたり、>計画を立てたりする文脈では、「私はADD族だから」とは言わず、「私にはADHDが>あるのだから」と言います。この場合は、ADHDはコントロールする対象となってい>るからです。
いま「片づけられない女たち」を読んでいますが、そういういわれ方をしても、全然嫌じゃないし、そんな事に気づかなかった。だってじぶんがADHDなのだから。
私がたくさん出てくるので、おもしろいです。翻訳して頂いた、マルハナバチさんに感謝しています。ADHDはどうしても、子供の障害としか思っていない両親に、今読ませています。「片づけられない女たち」を読み始めたら、私がたくさん出てくるので、興奮して眠れなくなりました。心強い、まさに応援歌です。
>一方、チックや強迫に関しては、ただ邪魔なだけ。おさえ込んでも捨てても何とも>思わない。完全に他人ですから。どこからか突然割り込んでくるだけの存在ですか>ら。コントロールしたい。できれば追い出したい。だから、「チック族」とか「強>迫人」とか思わない。
同感です。こればかりは、好きになれるものではありません。
早く私のからだから消え去ってほしいです。
>======
>一方、もしも私がアスペルガーじゃなくなったら・・・。それはもはや私ではあり>ません。私という人間はいなくなってしまいます。
>
私からADHDがなくなって、てきぱきして気がきいて、
こまかいところまで目が行き届く、計画どおりに物事を処理する、
遅刻しない人間になったら、これは私じゃありません。気持ち悪いです。
皆にも気持ち悪がられることでしょう。
館の管理人 wrote:
>Niki Lingko(マルハナバチ) wrote:
>> 補足。
>>
>> >>このように、誰かのことを、その人のもつ障害の名前で
>> >>呼ぶ──。すると、その人の個人としての人格は剥ぎ取られ、
>> >>その人は障害そのものになってしまう……。
>>
>> 私ね、何かこの人のこのいい方は「障害」という言葉に対する偏見が見えて好きじゃないの。
>
>わたしはファウラーさんのこのいい方に、わりと共感するほうです。
>みんな、感じ方はいろいろでしょう。
>
>ある属性をアイデンティティの中心と感じる人もそうは思えない人もとうぜんいます。
いろんな人がいろんな感じかたをすることは、私も当然だと思ってます。ただ、私みたいなのはたぶん、少ない方なのだろうから、誰かが悪役になって言っておかないとみたいな気になってしまっただけです。
だから、
>ファウラーさんの考えは、人を選ぶと思っています。
>まあ、「人が思う分には、反対はしないけど、強制はしないで」ってとこかな?
って書いてしまったけど、まずかったでしょうか?
>
>わたし自身は自分を「障害者」とは思っていなくて、ただのちょっと不器用な人ということで充分だと思ってます。
私も、別に自分を「障害者」だとは思っていません。現に法的にも健常者なわけだし。でも、障害者ではないからといって、「障害者ではない」ということを強調するのは好きではない。ファウラーさんは、
>>この子は決して障害者などではない。
と書くけど、それが、どっからどう見ても障害者っていう人の耳にはどう響くかまで考えているとは思えない。
あるいは、この人は「ADHD者」という言いかたを排し、「ADHDのある人」と言いかえることを提唱しています。でも私は、「○○のある人」とか「○○をもつ人」とかいう用語を、新たに作らなくてはならなくなる文脈というものが私は好きじゃない。「障害」は婉曲に言わなくてはならないものだっていう前提が好きじゃないんです。たとえ現実の場面では婉曲語を使うとしても、「障害とは、婉曲語を使わなくてはならないほど禍々しい存在」っていう前提は、当然視したくない。
もう一つ、自分を「自閉者」とは思っても別に「障害者」とは思わないのは、自閉的センスは持っているけど完全に健常の範囲の人たちを切り捨てたくないから。私が自分の人格の重要な部分だと思っているのは、アスペも含めた、そして「そのケはあるけど診断外」の人も含めた、そしてスペクトル内の別のサブタイプも含めた全体に共通する、「意識の切り替えの遅さ」「繰り返し好き」「視野の狭さ」のことです。だから、「障害」「健常」という切り方とは関係ない。機能レベルとは関係なく、質的に共通するセンスを持っている人たちを身近に感じるってことです。そのセンスさえ共通していれば、重度と呼ばれる人たちであれ、健常者に属する人たちであれ、切り捨てたくない。
>三年前、アスペ・自閉のことを知った当時はかなりその新しいアイデンティティに夢中になって、なんか自分のすべてがそれで説明できるかのような錯覚にとらわれたたような感じがする。でもそれは不自由なことであったと思う。
うーん、私はたぶん、そういう感じではなかったんだろうと思います。だって、私にとって、診断は「苦しかった部分」に説明をつけてくれたのではなく、「物事に夢中になるときのリズム」「気分の切り替わりかた」という部分、つまり「実は実害がないのに、異常なのかと思い込まされていた部分」を解放してくれただけだったので。私にとっては、自閉スペクトルって「芸風」であり、「作風」なんですよ。
そして、それがアイデンティティの中核をなすからといって、「自分のすべてがそれで説明できる」なんて思ったことは一度もなかった。だって、「芸風」っていうのはあくまで調理法、技法であって、素材、ネタは関係ないから。自閉的芸風がアイデンティティの中核をなすっていうのは、つまり、どんな素材、どんなネタでも自閉的作風で料理してしまうことになる、っていう意味です。
>自分のことならまだいいけど、たとえば親から、何をしても、この子はアスペだからとかADHDだからとかしか認めてもらえないとしたら、子にとってとても生きにくいです。(私の身近な人はそんな親子関係にとても苦しんできました。)
そんな見かたになってしまうのって、ADHDなり、アスペなりを、症状の集積としてしか考えてないからじゃないでしょうか。そこがファウラーさんのADHD観の狭さだと思うんです。
ファウラーさんが記述している、デイヴィッド君のすてきな性質の中にも、ADHDが貢献している部分って、あると思うんですよ。
>>黒い髪に青い目をした、機転の利く子。
>>魅力に溢れ、人をひきつけるほほえみ
>>と、さわやかな弁舌、真実を見抜く目、それに人並みすぐれた
>>エネルギーを持った子。
「機転が利く」「さわやかな弁舌」「人並みすぐれたエネルギー」。どれも、しばしばADHDのプラス面として挙げられる性質です。
デイヴィッド君は、ADHDの症状とは闘っているかもしれないけど、彼の好奇心、情熱、意地、瞬発力などは、ADHDと切り離せないものかもしれないのに。
私は前回、
>「障害者」というのと「障害は持っていても一個の人格」というのと、このふたつは両立し得ない、排他的な概念ででもあるかのように言ってますよね、この方。
と書きました。
私ね、
>このように、誰かのことを、その人のもつ障害の名前で
>呼ぶ──。すると、その人の個人としての人格は剥ぎ取られ、
>その人は障害そのものになってしまう……。
この前提がちがってると思ってるのですよ。
だって、誰かのことを「日本人」って言ったって、その人の人格は剥ぎ取られますか? その人は日本そのものになってしまいますか?
誰かのことを「女の人」と言ったって、その人の人格は剥ぎ取られますか? その人は女そのものになってしまいますか?
私は日本人でアスペで翻訳家で仏教徒でトレッキーだけど、「仏教徒」と言ったからといって、私が翻訳家であることやトレッキーであることは消えてしまわない。剥ぎ取られてしまわない。「翻訳家」と言ったからって、私がアスペであることもトレッキーであることも消えてしまわない。
どうしてたまたま障害名だというだけで、ダーティー・ワード扱いされるのか。汚い言葉じゃないぞ。ってね。
Niki Lingko(マルハナバチ) wrote:
> 補足。
>
> >>このように、誰かのことを、その人のもつ障害の名前で
> >>呼ぶ──。すると、その人の個人としての人格は剥ぎ取られ、
> >>その人は障害そのものになってしまう……。
>
> 私ね、何かこの人のこのいい方は「障害」という言葉に対する偏見が見えて好きじゃないの。
わたしはファウラーさんのこのいい方に、わりと共感するほうです。
みんな、感じ方はいろいろでしょう。
ある属性をアイデンティティの中心と感じる人もそうは思えない人もとうぜんいます。
わたし自身は自分を「障害者」とは思っていなくて、ただのちょっと不器用な人ということで充分だと思ってます。わたしの場合、感覚過敏も強迫もチックもパニックもなくて、いまの生活にわりと満足しているという状態ですので。
過去から今まで自分を振り返って、ああアスペルガー症候群といわれるものにあてはまるところがあるなあ、とは認めます。でもそれがアイデンティティの中心かというと、そうでもない。少なくとも今は。(ほんとにアスペかどうかもどうでもよいです)
三年前、アスペ・自閉のことを知った当時はかなりその新しいアイデンティティに夢中になって、なんか自分のすべてがそれで説明できるかのような錯覚にとらわれたたような感じがする。でもそれは不自由なことであったと思う。
自分のことならまだいいけど、たとえば親から、何をしても、この子はアスペだからとかADHDだからとかしか認めてもらえないとしたら、子にとってとても生きにくいです。(私の身近な人はそんな親子関係にとても苦しんできました。)
ファウラーさんが言っているのはそうならないようにということだと思います。
ピロきちさん,最近は如何ですか?
実はピロキチサンに実は伺いたいことがあったのですが、おむにさんの所で待ち合わせが出来たら,嬉しいですが。。
どの様に連絡とって良いかわかりませんでした。
引越をされてから、お見かけしないので。。なんて不躾にすみません。
青木さんこんにちは。
ここは、ときどきしか覗いていないので、ついつい、ごぶさたしてしまいました。
ごめんなさいね。
青木雨人 wrote:
>【追記】マルハナバチ様
> あなたのご指摘を読みましたが、もっともなことです。言いたいことをなかなかうまく言葉で言い表せないので、しばしば誤解を招いてしまっているようです。それから、あなたを診断したり、アドバイスをするなどという傲慢なことは考えていません。
あ、私も別に、そんな心配はしていませんでした。きつい言いかたに聞こえてしまったら、すみませんでした。
だけど、私はたまたま、わりと正式に診断されてから2年くらい経ってるし、診断も身になじんで確信持ってるし、精神的にも安定しているので別に平気なんですが
(おそらく、青木さんもそれをご存じだからこそ、安心して私のことを例に出すことができたのだろうと思いますが)、
でも、それは私がたまたま大丈夫だったというだけであって、誰もがそうとは限りません。だから、もしも、新しく来られた方などが、青木さんのその書き込みだけを見て、うっかり「ここでは、他の参加者のことを、分析したりしても構わないのかな」とかんちがいしてしまっても困りますものね。
>あなた宛にメールを送りたいので、できればアドレスを教えてください。
んーー、どうしたもんかなー。
実は私、一対一のコミュニケーションって、ものすごーく苦手なんですよ。
掲示板だとこんなに偉そうなことばかり書いて、はきはきしているように見えますが、
個人メールだとかなり人見知りしてしまうんです。
(それだけでなく、私はとんでもないメール無精です。
たまたま「書ける期」にメールもらうと3分で返事を書くこともあるのに、
「書けない期」にもらうと、1年くらい前のお返事をまだためていたりする)
掲示板などでたーくさんやりとりした相手とは、
少しずつ安心してメールもできるようになっていくんですが、
なかなか決心つくのに時間がかかります。
掲示板でも自分のページでもアドレスを表示していないのは、
メールが苦手だからなんです。
相手が誰だから、っていうことはあまり関係ありません。
すみませんが、もう少し気長に待っていただけませんでしょうか。
勇気が出てきたら、アドレスお送りします。
あ、ついでに、私の返事を大昔から待っていらっしゃる皆様、本当にすみません。
そのうち何とかしますんで、お許しください(汗)
補足。
>>このように、誰かのことを、その人のもつ障害の名前で
>>呼ぶ──。すると、その人の個人としての人格は剥ぎ取られ、
>>その人は障害そのものになってしまう……。
私ね、何かこの人のこのいい方は「障害」という言葉に対する偏見が見えて好きじゃないの。
だいたい、人はそれぞれ個性があるのだったら、障害にだって個性があると考えることもできるのに、「障害」には個性がないかのようなこの言いかた。
確かに、「全ろう」なんかは、障害の中では比較的均一の障害かもしれませんけどね。「弱視」とか「難聴」とか「読字障害」とか「分娩麻痺」とか、それぞれ百人いれば百通りです。
要するに、「日常生活の場でまでADHD児とよばない」「ADHDゆえの配慮を必要としない場所でまで、ADHD児と呼ばない」というだけで十分なんじゃないの?たとえば法律の整備を求めるとき、あるいは予算を要求するとき、その他もろもろ、ADHDゆえの配慮を要求するような場であれば、ADHDという共通項を規準に団結しているわけだから、そこではADHD者と言ったって構わないと思うんですけどね。
>>私は、息子ディビットを育ててきた経験から、
>>自分は「ADHD児の母親」などではないと思っている。
>>私はディビットという少年の母親だ。
>>黒い髪に青い目をした、機転の利く子。
>>魅力に溢れ、人をひきつけるほほえみ
>>と、さわやかな弁舌、真実を見抜く目、それに人並みすぐれた
>>エネルギーを持った子。そしてその上たまたま、ADHDという
>>障害とも闘っている一人の少年。
>>この子は決して障害者などではない。障害は持っていても、
>>一人の人格なのだ。……(後略)
「障害者」というのと「障害は持っていても一個の人格」というのと、このふたつは両立し得ない、排他的な概念ででもあるかのように言ってますよね、この方。
私は別に、「障害者」という言葉は嫌いではないので、わざわざ避けなければいけないって気がしないんですよ。いつでもどこでも使うわけではありませんが(なんてったって私、法律的には健常者なんですからね!)、文脈に応じて、必要があるときには平気で使います。たとえば、「非自閉の晴眼者の聴者」に対して「自閉者と盲人とろう者」がまとまって物を言う文脈であればね。
たぶん、このお母さんは、自分自身がADHDではないから、というのもあるんでしょうね。「障害はあっても一個の人格」なんて言うのは、「差別にならないように気を使った言いかた」ですから。
同じADHDを扱った書籍でも、「へんてこな贈り物」や「片づけられない女たち」は、著者自身がADHD本人です。ですから、自分で「ADD族」と名乗ろうが「ADD女性」と名乗ろうが、自分のことなので、ハタからは文句も言いづらい。それに、やはり仲間が仲間に呼びかけているような親しみがあるのでしょう。ファウラー氏が批判している「ADD族」「ADD女性」という表現が、平気でゾロゾロ出てきます。
================
ここで、私の友人、ジムの短文、「ぼくが『自閉のある人』という言いかたを好まない理由」から一部を引用させてください。
>誰かのアイデンティティの中心をなすと認められている属性なら、きちんと直接「人」を修飾する位置に置かれるか、ときにはさらに、一つの名詞を形成する。「男の人」「女の人」「男の子」「女の子」という言いかたがあり、「男性」「女性」「男」「女」という名詞があるではないか。だれも「男性性のある人」とか「女性性をもつ人」などとよびはしない。
>だれかの文化的・宗教的背景を云々するときも、「ロシア人」「カトリック教徒」とよぶ。「ロシア人性のある人」「カトリック信仰をもつ人」などとよびはしない。人の社会的役割も重要な性質と考えられているので、「親」とか「労働者」ということばが使われる。「子どもをもつ人」「職業のある人」とはいわない。人の性格についても、それが重要だと考えるからこそ、「寛大な人」「陽気な人」と表現する。「寛大さのある人」「陽気さをもつ人」などという言いかたはない。
>(中略)
>プラスの、あるいは中立と考えられている性質を表すことばなら、直接名詞を修飾するのに使っても、だれも文句を言わない。「左利きの人」というのを、「左利き性をもつ人」と言いかえようとはだれも言わない。「スポーツマン」とか「音楽家」というのを、「スポーツをする人」「音楽のできる人」と言いかえなければならないとはだれも思わない。「目の青い人」、「青い目をした人」、どちらを使っても文句は出ない。
>それなのに、なんらかの性質が「マイナスの意味だ」と判断されると、とたんにみんなはそのことばを「人」から切り離そうとする。
>ぼくは知っている。自閉は禍々しい存在などではない。ぼくは自閉のせいで人間以下の存在になったりはしない。自閉だからといって、ぼくが人間性をもつことに変わりはない。そんなこともわからない人がいるとしたら、それはその人の問題であって、ぼくの知ったことではない。
こんにちは、ニキです。
別にたま子さんに反論するわけではないです、ちょうどこの話が出てきたので。
実は私、このファウラーさんの考えは、人を選ぶと思っています。
まあ、「人が思う分には、反対はしないけど、強制はしないで」ってとこかな?
あるいは、この方針を採用するかどうかは、個々人の、その障害との距離のとり方、その障害をどう受け止めているかによって変わってくるのだと思います。
たま子 wrote:
>こんにちは、たま子です。
>
>今、『手のつけられない子それはADHDのせいだ』という
>タイトルの邦訳の本を読んでいます。
>この本の前置きより以下引用しますが、
>
>(前略)……私は至るところで(時には外国語でまで)、
>人々が自らから「ADHD者」と名乗ったり、
>我が子を「ADHDっ子」などと呼ぶのを
>耳にしてきた。
>このように、誰かのことを、その人のもつ障害の名前で
>呼ぶ──。すると、その人の個人としての人格は剥ぎ取られ、
>その人は障害そのものになってしまう……。
>私は、息子ディビットを育ててきた経験から、
>自分は「ADHD児の母親」などではないと思っている。
>私はディビットという少年の母親だ。
>黒い髪に青い目をした、機転の利く子。
>魅力に溢れ、人をひきつけるほほえみ
>と、さわやかな弁舌、真実を見抜く目、それに人並みすぐれた
>エネルギーを持った子。そしてその上たまたま、ADHDという
>障害とも闘っている一人の少年。
>この子は決して障害者などではない。障害は持っていても、
>一人の人格なのだ。……(後略)
この文章は、英語圏での「パーソン・ファースト・ランゲージ」の流れを受けたものです。
つまり、英語だと、an ADHD child という言いかたと、a child with ADHDという言いかたと、両方できるんですね。「ADHD児」と呼ばずに、「ADHDのある子」「ADHDをもつ子」と言い換えようという、一種のPC語です。
私自身を例にとれば、私は自閉(具体的にはアスペルガー症候群ですが)は自分の人格の中心部分をなす、かけがえのない特質だと思っているので、a person with autism と言われると、あまりいい気はしません。自分では an Autistic あるいは、an Aspieと名乗ります。比喩(ジョーク)とはいえ、「自閉連邦市民」だとか「在地球領事館附属図書館館長」なんて名乗っているくらいですから。
ところが、ADHDに関しては、まあ、付随する性質くらいに思っているので、どっちでもいいやという感じです。物忘れの原因であり、私の毎日の生活の機能レベルをはなはだしく下げている困った要因である一方、世界について学ぶべき年齢の子どものとき、自閉の暴走にツッコミを入れて、ときどきリアリティ・チェックの風を入れてくれたのはADHDの衝動性だと思っているし、どうしても気分の切り替えがつかずに身動きのとれないとき、ADHDを起爆剤にむりやり行動を起こすテクニックを覚えたために助けられていることもあります。また、ADHDがなかったら、私は今ほどの好奇心は持っていなかったでしょう。新し物嫌いの自閉の性質と拮抗して、私の世界を広げ、情報をとり込んでくれたのは、ADHDがあってくれたからだと思っています。
まあ、人格の中心部分ではなく、いいことも困ったこともある性質、という感じでしょうか。完全に他者というほどよそよそしくもない。他者ではないというのは、自分で波がわかるからでもありますね。チックや強迫やパニックのように、いきなり天から降ってくるのではなく、いつもそこにあって上下動しているのを、ずっとフォローしているせいもあります。
ですから、「ADHDのある人」「ADHDをもつ人」と言おうか、「ADHD族」「ADHD人種」と言おうか、というのは、完全にその場の文脈だけで決まります。
部屋を片づけられない自分を許してやろうよー、といって、ADHD仲間と一緒に開き直り、散らかし自慢をし、という文脈では、「ADD族なんだからさー」とか「やっぱりADD女はさー」と言います。それは、ADHDも含めて自分、と認めてやりたい文脈だからです。
ところが、時間管理のテクニックとか、金銭管理のテクニックなんかを考えたり、計画を立てたりする文脈では、「私はADD族だから」とは言わず、「私にはADHDがあるのだから」と言います。この場合は、ADHDはコントロールする対象となっているからです。
一方、チックや強迫に関しては、ただ邪魔なだけ。おさえ込んでも捨てても何とも思わない。完全に他人ですから。どこからか突然割り込んでくるだけの存在ですから。コントロールしたい。できれば追い出したい。だから、「チック族」とか「強迫人」とか思わない。
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さて。私が何らかの方法で、ADHDの症状がなくなったら(まあ、ふつうは薬でなんだろうけどさ)、それはやはり、相変わらず私だと思うのです。ただ、ずっとそのまんまってのは、もしかしたら困るかも(笑) 翻訳作業をしている間は消えていてくれてもいいんだけど、ネタを探したり、ブレーンストーミングしたり、企画をまとめたり提案したりしているときは、ADHDがついていてくれなきゃ困る。
一方、もしも私がアスペルガーじゃなくなったら・・・。それはもはや私ではありません。私という人間はいなくなってしまいます。
ADHDは、今の仕事をやっていく上で得になったり損になったりするものですが、アスペルガーは、今の仕事を選ばせてくれたもの。ADHDがなくなったら、仕事のある部分ははかどり、ある部分はキレを失うでしょうが、アスペルガーがなくなったら、今の仕事が面白くなくなるでしょう。
ADHDは、ときによって夫との関係を良くしたり悪くしたりしますが、アスペルガーは、今の夫を選ぶことになった価値観や嗜好と不可分です。ADHDがなくなったら、夫との関係は良くなったり悪くなったりするでしょうが、アスペルガーがなくなったら、今の夫のよさがわからなくなるでしょう。好きでなくなってしまうかもしれない。
強迫やチックやパニックがなくなったら、他の点は何もかも今のままで幸せになるだけでしょう。
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