アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
私はねえ、自称用の用語は、行く先々で、考えて考えて使い分けているんですよ。その場の顔ぶれ(バンドのライブにたとえれば、「対バン」っていうやつね)、その日の発言の趣旨、その他モロモロによって。純粋に実用的な判断です。
たとえば、頚椎損傷の人と盲の人と弱視の人と4人で壇上でお話ししたときは、アスペルガーであろうとカナータイプであろうとそんなことは関係ないんであって、「自閉者です」って名乗ったし。
もしも仮にカナー型の人と対談するとかいう機会があったら、アスペルガーだと挨拶するかもしれない。
ADHDの人ばかりが集まって、家の散らかし具合や、これまでの大遅刻の経験を自慢(?)し合う場所でだったら、「私もADD族だしさああ」なんて言うかもしれない。いくらDSMの規準ではPDDの人はADHDと診断しないと決められているからって言って、私の中からADDが消えてなくなるわけではないんだから(オフィシャルな場で私がADHDだと言ったりしたら、厳密な人に叱られるから言わないけど)。
ところが、同じADHDでも、男性と女性では社会の要求が違うことが多いから、精神的な苦労の種類が違う、というような文脈のことを話すときは、「ADD女性」と言うと思う。
そして、国際自閉ネットワークの集まりで、何かのトピックについて、仲間の自閉者に「日本だったら現状はどう?」って聞かれたら、日本在住者として答えるでしょう(日本国籍に精神的な執着があるというのとは関係なく、日本に住んで日本の現状を少しは見ている、という意味で)。
メディアや情報へのアクセシビリティと著作権の関係を考えるような場であれば、アスペであることよりもNLD的な側面の方が影響が大きくなるだろうから、LDの立場から参考意見を出すこともあるでしょう。
「自閉連邦市民」なんていうふざけた名称を考え出したのは、自閉っぽい嗜好や感性、情報処理スタイル(繰り返し好きや細部志向、意識の切り替えの遅さなど)は共有しているけど、機能レベルが高すぎて「健常」の領域に入る人たちを排除しないためでした。あれは文化的タームです(英語だとAutistic and Cousinの略でACっていうんだけど、日本では「アダルトチャイルド」の略語として先にACが取られちゃってたので、使えなかったんです)。
私は、めんどくせーなーもーと思いながらも(必要以上に楽しんでいるわけではありませんが)、こういった使い分けを続けています。だから、私が使える用語の候補は、多ければ多いほど自由になれる気がする(もちろん、一度も使わない用語がほとんどですけど)。
どれを使っていようと、私の中にある自分観は少しも変わらない。ただ、(仕事も含めて)公的な場では、その場その場での役目を果たしたり、対バンの人とキャラがかぶらないようにしてるだけ。私的な場では、その場の人と、何を仲立ちにつながるか、どの(共通の)性質をさらけ出す場なのか、それを考えて選んでいるだけ。どの名称も、決してフルタイムにはならない。
どっちにしても、「障害」の名称を人に冠するのは、障害と関係のある文脈の場に出たときのことですよね? ファウラーさんが「耳にした」というのだって、おそらくADHD関係の権利擁護運動や、対政府交渉の場だったのでしょう。なにも、子どもの誕生パーティーやスイミングスクールで「うちのADHD児は」と言ってたわけではないと思うんですけどね。
ある用語を、状況に応じてときどき使うことで、レッテルになってしまうかどうかっていうのは、人にもよるでしょうから難しい問題ですが、少なくとも私にはそれはありませんね。
=========
ファウラーさんがあの前書きを書いたのと同じころに、「ADHD児」「ADHD者」「ADHD女性」という用語を排除しようという動きは、一部で流行っていました。
そういう流行を知らない初心者が、地方の集まりなどで、挨拶のときに、自分で自分のことを「ADHD者」と名乗ってしまい、撤回を迫られるなんてこともありました(ファウラーさんがそこまでしたという話は聞きません。彼女はそこまで過激ではなかったと思われます)。
サリ・ソルデンの本(「片づけられない」の原書)や、ハロウェル、レイティー両博士の本(「へんてこな贈り物」の原書)などには、平気で「ADD女性」とか「ADD族」とか「ADD仲間」といった言い回しが出てくるため、それを不愉快に思う人もいたようです。私自身も、「片づけられない」を訳したと言って、少なくとも一人から、「あの本は、差別用語を平気で使っている本なのに」と言われる経験をしました。
また、ある場所で発表をしたときに、"As an Autistic....."と語った(つまり、自分を「自閉のある人」ではなく「自閉者」と名乗った)ところ、翌日の休憩時間にカフェテリアでいきなり近づいてきた人に、「あれは意図的な選択なのか」と質問されたこともありました。「そうだ。ろう者が大文字でDeafと書くのと同様、下位文化の名前だから固有名詞として使っている」と答えたら、「それなら話は別だ」と納得してくれましたが。
館の管理人です。
行の先頭の > の記号は、引用文であることのしるしです。自分の言葉を書くときは
>あいうえお
のようにはしないでください。まぎらわしくなります。
何か補足的な注釈など書きたいときは次のように # を使ってください。
# このように行の先頭に # を入力すると色が変わって表示されます。これは補足的な注釈などを書くときに使います。
あと、まえにちょっと気になったのは、長いもとの文章がすべて引用されているというのがありました。これもなるべく避けてください。
以上、よろしくお願いします。
どうも。館の管理人です。
わたしが余計な反応をしたのは、たま子さんの「レッテルをつけていた(反省)」という文脈で引用されていたものについて、自分もそんな感覚をもっているというようなことを言いたかっただけです。マルハナバチさんがまとめてくれたように、「レッテルを貼らない」という趣旨についてです。
たま子 wrote:
> それでもどうしてもそのことに言及して、説明をしなければならない
> 立場になったら、ファウラーさんのように婉曲な表現がときには必要
> なのかもしれません。彼女自身もそうやって理論武装をして生きてきた
> 人生の重みというものがあるのでしょう。
> 一つのテクニックとして覚えていても損はないかもって思いました。
私もそんな感じに思います。閉じたコミュニティの中だけならストレートな表現で通じ合えても、障害について特別理解があるわけでもない人々に対して表現するときは、なかなかそうもいきません。語順を変えるだけで伝わりやすくなるというのならそうしたっていいと思います。
「婉曲語を普及させたい人たち」といわれるのには違和感がありました。
ファウラーさんが言っていることは、あるレッテルをつけてものを見るとその個性の多様性を見失いがちになるから気をつけましょう。言葉と意識というのは連動するから、レッテルの言葉はむやみに使わないほうがいいじゃない。というようなことだと思います。
いろいろな考えや感覚の人がいていいです。マルハナバチさんと私ともしも同じだったら、もう私のHPなどあまり価値ないし閉じていいかなあと思うけど、ぜんぜんそんなことないですし。
合同太郎 wrote:
アスペルガーであるかないかの判断を下す事が出来るのは医師だけです。
普通の人では判断できません。
と言う事で、もしどうしてもアスペルガーであるかどうか知りたいので
あれば自閉症を診断している所(小児科が多いですけど)を探し出して
たずねてみて下さい。
ちなみに就職している場合はアスペルガーと診断されません。
これはアスペルガーの診断基準書にそう言う前提があるそうです。
みなさんに質問があります。
今の日本のアスぺびとに、必要なものは何ですか?
なお、回答は下記のメールアドレスにお願いします。
yoshifumitakeda@hotmail.com
僕は幼い頃からアトピー性皮膚炎だったので、人との付き合いが苦手なのは
そのせいだと思っていました。
が、しかし、たまたまアースペルガー症候群というやつを知って、自分と
似てるなと思ったのですが、いまいち気のせいに思えてしまうのです。
あと、僕はどちらかというとというか、それなりに俗っぽい人間なので、
僕の好きなゴッホやアインシュタイン、ビルゲイツなども同じ症状だと
知り、ラッキーだとも思ってしまいます。
あと、知ってる人が死んだときも面白いことが起こるとか思ったので
「駄目だなあ僕」とか思って無理矢理涙を流したり、「親戚に会うのめんどくさいなあ」とか思ったりもします。49日には、「まだそんなに経ってない」と言い
行きませんでした。
なんだか支離滅裂な文章になってすみません。
何が言いたいかというと、アスペルガーだと思って「ラッキー、レアな症状だ」
とか思ってしまうのは、本当はアスペルガーじゃないんじゃないか、
ということです。
どなたか、アドバイスを下さい、よろしくお願いします
追伸
アスペルガーってなんか他の病気を引き起こしますか?
YAHOOで検索して立ち寄りました。
健康を考えるホームページをご案内させていただきます。
http://www.tokyo-reimei.or.jp/
この書き込みを削除する場合はできたら御一報下さい。
あむ wrote:
>親亀こけたら・・・ wrote:
>>私は今、人と会話するのがとても苦痛です。でも子供の事を考えればそんな訳にもいかず、悩んでいます。
>はじめまして、親亀こけたら・・・さん・みなさん
>1.ご主人がもし可能であれば、ご主人に応援してもらいましょう。うちの場合、町内会もPTAも井戸端会議まで主人の担当でした。
>
>3.からだが弱いとさりげなく言っておくのも(それほど親しくない人の場合は)使えます。先に席をはずす理由になります。その際ご自分を責めない事。体の病気と対人関係ですぐ疲れてしまう事は、同じレベルと思いましょう。
なるほどー、やはりちゃんと子育て経験のある方の(しかもうまく行った方の)お話は具体的だし、何といっても希望が持てますね。私は子どもがいないけど、町内会なんかで参考にしますね。
こういう技術的な面に関しては、実は、ASではなくてADHDの本ですが、「片づけられない女たち」の後半に詳しく解説されています。(自分が関わった本だけに、何だか商業宣伝みたいになりそうで気が引けて、迷っていたのですが、やはりあまりにも関係ある話なので・・・)
親亀こけたら・・・ wrote:
> 幼稚園に通う我が子がアスペルガーと診断されたのはつい最近のこと。
>早速本を購入し、読んで見ること最初の章で自分がアスペルガーという事を認識しました。私はすごく物忘れが激しくて、注意力欠陥症候群だと今まで思っていました。が、一番苦手なのは対人関係なのです。雑談の場などでは波に乗れずいつも話しの腰の骨を、折ってしまいます。友達もなかなか出来ません。いつも孤独です。自分自身アスぺと認識した方は何かそれまでよりも意識は変わりましたか?
>私は今、人と会話するのがとても苦痛です。でも子供の事を考えればそんな訳にもいかず、悩んでいます。
はじめまして、親亀こけたら・・・さん・みなさん
こちらの掲示板の1年余りの愛読者です。子育てほぼ終了者として(長男17歳 次男15歳)技術的?なことをいくつか。
1.ご主人がもし可能であれば、ご主人に応援してもらいましょう。うちの場合、町内会もPTAも井戸端会議まで主人の担当でした。もちろん運動会も学芸会も主人と一緒にでかけて、お母さん方の名前を教えてもらったりしました。第一主人と一緒にいれば雑談に参加しなくてもよいというメリットもあります。(「夫婦仲が良くていいわねえ」という評判も得られます。)
2.お子さんのために1人は味方を作りましょう。できたら情報通で、世話好き、ひとりでしゃべりまくって下さる方がベストです。その際、「私は人付き合いがへたで。」とか「お顔を覚えるのが苦手で」とかなんども強調しましょう。(ついでに「あなたがたよりなの」ということも)
3.からだが弱いとさりげなく言っておくのも(それほど親しくない人の場合は)使えます。先に席をはずす理由になります。その際ご自分を責めない事。体の病気と対人関係ですぐ疲れてしまう事は、同じレベルと思いましょう。
私の場合「自分がASかも」とも思わず、子育てをしてきてしまったのですが、
なんとかなったなあというのが最近の感想です。
長男はA傾向はありませんが、母親が他のお母さんとちょっと違うということをそのまま受け入れて育ってくれました。むこうから歩いてくる人をさりげなく「お母さん、○○くんのお母さんだよ」と教えてくれるようになったりします。
親亀こけたら・・・さん 参考になればと思い長々と書いてしまいました。人間関係のコツは、非Aの主人にいわせると「相手の感情まで気にしないこと」だそうです。人間関係から逃避中なのであまり自信を持って言えないのですが。
nana wrote:
>しかし、自分は自閉の世界のどっかにいることを知ったおかげで自分は変わってい>るのが普通なんだと分かり、下手な我慢をするより、自分にあった環境を自分で作>ろうと思えるようになりました。
>
>最近ここで話題になっているレッテルを自分で見つけた訳ですが、今のところそれ>を周りに言う気はありません。言わなくても私を知っている人なら私が変わってい>るということは分かってますし、幸いそれを肯定的に捉えてくれている人達ばかり>なので、特に困っていることはありません。
全く同感です。でも両親が否定的にしか捉えてくれないのが残念。
私はADHDらしいです。目の前にレッテルがぶら下がってて、
それを自分の体ににぺたっと貼っても、つかわないでぶらさげたままでも
どっちでも平気だよねー。いつでもつかめるところにレッテルはあるからね。
って感じになりました。いろんな本読んそう思いました。今のところ。
自分は大事にしたいものです。上手に生きていきたいものです。
はじめまして。
私は鬱病と分裂病のひとです。自傷癖もあります。
いわゆるリストカッターっていうものです。
今日、私のとっている夕刊に山口もえの写真がのっていた。
かわいいひとだなあと思ったので、今日初めてそのドラマ見た。
対人関係、私も苦手です。
今、学生ですが、週に2回しか行ってない。こわいから。
卒業できるか、危ない。就職活動も全部ダメだった。これからどうするのかな。
私、喋るのも下手だけど、耳もあまりよくない。
「まゆこ」っていう名前がずっと「れいこ」に聞こえてた。
漢字見ないとわからない。
ASっていうのは私にはまだよくわからない。
でも、興味あります。
私、鬱病のひと。これも結構困ること。
親亀こけたら・・・ wrote:
> 自分自身アスぺと認識した方は何かそれまでよりも意識は変わりましたか?
私の場合は、人間関係がダメでも、そのことを悩んでいなかった(よほど気楽な人以外とのつき合いを断ちきってしまっていて、それで快適で、孤独と思っていなかった)ので、少し立場がちがっていて、あんまり参考にならないかもしれませんけど・・・。役に立ちそうなところだけ、つまみぐいして、あとは忘れてください。
私も人と話すと話の腰を折ってしまうか、みんなが飽きようが呆れようが気づかず一方的に演説してしまうか(気づいてもどうせ止められない)、何の話なのかわからなくてひたすら黙っているか、なんかやたらとちぐはぐなことをしてしまいます。
アスペと知らされてからは、「まあ、私はそういう人なんだしなー」とあきらめたので、あんまり過剰防衛にならなくなったかな。ものすごく気をつけていたって、やっぱり失敗するし、その上にさらに「気にする」が重なると、態度がよけい不自然になるらしいんですが、その「気にしてるせいで不自然」の部分だけがなくなったかな。もともとの失敗は相変わらずですね。
それと、人と会ったり話したりすると、ものすごーく疲れるのは当然なんだ、自然なことなんだと知ったので、どうしても人に会わなきゃいけない用事があるときは、それに備えて、あらかじめ休んでおいたり、ほかの用事を作らないようにしたり、準備万端、整える(正確には、整えようとする)ようになりました。それでも疲れるけど。
そうそう、「控え目で切り上げる」っていうのを、あらかじめ計算に組みこんでおくことが増えました。一応顔だけ出して、「疲れたら早めに帰るぞっ」と最初から決めておく、とか。
あと、「人にはっきり頼んでしまう」ことが増えたかな。「私は心の準備がヘタくそなんで、急に言われるとアワアワしちゃうんですよねー」なんて、前もって言ってしまうとか。「頭が混乱しやすいから、その場で急に決めるのは苦手ー。ゆっくり考えてから改めて返事することにしていーい?」とか、「すみません、後でもう一回、ファックスかメモでもらえますー?」とか。
いつも言ってると、だんだん相手が慣れてくるみたいです。「ピンチになってから言い出さないで、日ごろから小出しに言っておく」「最初から頼む」っていうところかなあ。たとえば、「顔が覚えられない」というのは、最初に紹介されたときに言ってしまうんですよ。何回か会って顔がわからなくて気まずい思いをしてから言うんじゃなくて。診断されてからは、「努力したらそのうち克服できるかも」ってハカナイ希望を持って告白を先送りにすることがなくなったので、早めに頼むことができるようになったかな。
まあ、私は子どもがいないので、生協の班の人、町内会の班の人、それに仕事関係者と、私と夫の家族くらいしか相手にしなくてすんでいるのですが。
親亀こけたら・・・ wrote:
> 幼稚園に通う我が子がアスペルガーと診断されたのはつい最近のこと。
>早速本を購入し、読んで見ること最初の章で自分がアスペルガーという事を認識しました。私はすごく物忘れが激しくて、注意力欠陥症候群だと今まで思っていました。が、一番苦手なのは対人関係なのです。雑談の場などでは波に乗れずいつも話しの腰の骨を、折ってしまいます。友達もなかなか出来ません。いつも孤独です。自分自身アスぺと認識した方は何かそれまでよりも意識は変わりましたか?
私の子ども時代の呼び名は、「スローロリス」でした。
動物園へ行って、「ほら、お前がいるよ」と親に言われて、じゃあ、自分もこの暗い水槽の中がほんとの世界なんだなーと思ったのを覚えています(笑)
それ以来、自分のことを「スローロリス!」と叫んだりしてました。
親は恥ずかしかったでしょうね。でも、知名度の低いコだったから、誰も知らなかったかも(笑)
私の場合、母親が「自閉症=脳障害」と認識していて、まぁ、つまり、医学的検査(脳波とか)で異常が見られなかったため、
産まれたときからお世話になっていた主治医に、「自閉症の可能性がありますよ」と言われても、
頑として認めなかったんで、未診断で成人してしまいましたから、かなり生きにくかったですよ。
それでも、今までそうやって生きてきて、現在の自分があるということは、
(療育が受けられなかったことは別にして)診断されようがされまいが、自分は変わらない、ということです。
実際、今から、自閉症の可能性を疑われた三歳に戻ってやり直せるならともかく、そんな夢みたいなことはあり得ないので。
自分で疑って、親と医者に確認して、認識してからしばらくは、今までできてた「我慢」ができなくて苦労しましたけど、今はまた、「我慢」できてます(と思う)。
どういうことかというと、「生きにくさ」を軽減するために身につけたはずの「社会的スキル」が、一時的に必要なくなったような感じだったんです。
急に歌ったり、叫んだり、喋りだしたりしちゃダメとか、自分でみつけだした法則に従って自分自身に禁止していたことが、「絶対悪」ではなかったんだ、と安心したことで、タガがはずれてしまったのかな、と思いますけど。
あらゆる場面で「あなたって、〜〜よね」と、よく言われます。大抵、ちょっと変わってる、ということを指摘されるんですが。
だとしたら、そのまんまの自分でいいや、と思って生きてきました。今もそれは変わりません。
その、「変わってる人」といるのがいい、って言ってくれる人も、世の中いないわけじゃないし(笑)
秘密のアッコちゃんみたいに、別の誰かに変身できるわけじゃないので、逆に、こういう自分が生きやすいように、環境を選んであげようと思います。仕事とか。
>私は今、人と会話するのがとても苦痛です。でも子供の事を考えればそんな訳にもいかず、悩んでいます。
そうですね。お子さんがいらっしゃると、大変だと思います。
でも、自分を肯定できるのは、自分しかいない、ということを忘れないでください。
そして、人になにか言われたからって、その人が自分を否定できるわけじゃないことも、忘れないでください。
Niki Lingko(マルハナバチ) wrote:
>なんか、私がファウラーさんの主張に反対する理由が全然伝わってない気がするのだけれど。
…スレッドの一番最初の書き込みを見た時は、こんな展開になると思いませんでした。
だって、私にとっては、砂に水が染み込むように、自然に感じられたから。
>なぜか。「婉曲語を導入すべき」という主張は、婉曲語で言わなかったらストレートな呼称は差別語になるということを前提にしています。
これって、放送コードとか、出版コードなどの、「差別的表現」を避けよう、という方針と同じですよね。
だから、別に、その「前提」は、私にとっては、ことさら言う必要のない、まさに「前提」だったんですけど…。
>しかも、従来の呼称、婉曲語ではないストレート語(?)を、本人が自分を指すときに使うことまで不愉快に感じているらしい(そこまで「やめろ」と言わないで自制している点は評価しますが)。
>でもファウラー氏の主張は、過剰に強調しないための手段として、婉曲語を導入しようというものでした。日本人であることを過剰に強調しないために、「日本から来た人」とソフトに言いかえるべきっていうつながりかたには、私は反対なんです。
「被差別意識」だと思うんです。
巧く言えないんですけど、自分から進んで、自分をマイナスイメージに向かっておしやらなくてもいいんじゃないかな。と思います。
これは、自分の意識の問題ですけど、逆に、それを言い立てられる側からの意見も、聞いたことがあります。
なんか、「自分を差別しろ」って言われてるような気がする、そうです(笑)
つまり、こっちには壁も境界線もなかったのに、言われたことで逆に意識して、強調されてしまうらしいんですね。
だから、婉曲語を導入しようとすることは、逆に、そのもとの呼称を意識させて、帰納式に差別意識を想起させてしまう、という皮肉な結果にならないでしょうか?
「言い換えなければならない」「言い換えるべきだ」という「背景」…つまり、その裏に「shame」の意識があることを、逆説的に強調してしまいませんか?
「あ、ADHDって言っちゃいけなかったんだっけ。差別用語になるんだから」なんて、誰だっていやじゃないですか?
ってことを、マルハナバチさんは言いたいんじゃないのかな。と思ったんですが。違ったらごめんなさい。
たま子 wrote:
>皆さんの反響のすごさにおどろいてます。
>というより、私へのコメントは無いし、
ごめんねー。無視するつもりだったわけではなかったのです。
たま子さんの、当の発言は、たま子さん個人の心境の変化であって、
それはたま子さんのものだから、口を出すべきではないって思っちゃったの。
いろんな人がそれぞれにしっくりする感覚を自分で見つけていくものだから、
よほど大感激した場合なんかを除いては、黙っていよう、って思ったのね。
>まあ、べつにみなさんが私の過去の発言なんて誰も気にしてなかった。
>気にも留めてなかったって事か、トホホ。
たま子さんの過去の発言は、読んだけど、
最初から、問題があると思わなかった。悪いと思わなかった。
だから、なんにも言わなかった。
そしたら、その後の「反省」についても、「考えかたが変わったんだなあ」「たま子さんも、いろいろ、考えているんだなあ」「みんなも、いろいろ考えているんだろうなあ」って、ふむふむして、それっきりになっちゃった。
>単にファウラーさんの
>「言葉狩り問題?」の是非をめぐっての討論会になってしまいましたね。
ごめんねー。これは私が悪いんだよ。たま子さんが引用していた、ファウラーさんの文章にばっかり反応してしまったのは、「木を見て森を見ない、視野の狭さ」の爆発でした。
全体の文脈と関係あろうがなかろうが、部分が目についたら止まらなくなってしまったのです。ガマンしたらしたで、いつまでも引きずる(切り替えの遅さ、繰り返し好き)のは、目に見えているし。
#こういう、細部にレスつけたくなるスタイルが私の自閉らしい部分なんですよね。それが今回はたまたま悪い方向に出てしまったわけです(同様に、同じ細部志向が、良い方向に出ることもありますが)。自閉が「芸風」っていうのは、そういう意味だったんですよ。今回は身をもって悪い実例を見せちゃいましたけど。
もちろん、細部志向なんだから許してくれって言って甘えるために言ってるわけではなくて、次から同じ失敗しないためには傾向を自分で知っておいた方がいいと思ってこんなこと言ってるわけですが。
#いま思うと、レスにしないで新規発言にして、スレッドを改めたらよかったんですよね。なんで思いつかなかったんだろう?
>>それを自分であえて使うと「それはよくない言葉なの、自己卑下している
>ように思われるから、自分をそういう風に呼んではダメ」と、
>ある時期は、障害者の親たちも苦労して子どもに使わせないように
>気を付かったりしたのでしょうね。
>「障害を持ってるけど私は普通なの!」って胸張っていきれるようにって。
>「模範的に」育てたりして……。それが正しい「障害者の母」っていうのも、
>相当なプレッシャーでしょう。
>なんかマルハナ・バチさんから論点がずれてる……。
いや、ずれてないです全然。私が言いたかったことそのまんまだから。
私はたま子さんの話、ずらしちゃったのに、たま子さんはずらさないでつないでくださって、ありがとうございます(おじぎ)。
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