アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
管理人さんが、「ふう」というタイトルをつけていたので、即、頭の中の発音鑑賞回路にスイッチが入ってしまいました。
はい、毎度おなじみ「細部志向」でゴザイマス。診断前は、こういう反応を「不謹慎」と思って矯正しようとしていた。
そこで、「ふぃい」とか「ふぇえ」とか言いたくなってしまったので、自分の言いたいことを、四つに分けて、心の準備をしました。「ふぃい」「ふぇえ」「ふぁあ」「ふぉお」とするつもりだったのです。
でも、「ふぃい」と「ふぇえ」を書いたところで、何か自分が馬鹿みたいに思えて恥ずかしくなってしまった。いや、発音に反応したタイトルが恥ずかしくなったのではなく、内容自体が。どこまでを「当たり前すぎるから省略しないと恥ずかしい」のか、どこからは「省略するとその部分に突っ込まれてしまう」のか、それが区別つかないので、身動きとれなくなっちゃった(笑)。
そして最後に、大量の文章を書くこと自体が、偶然とはいえ、ナルシシズム的な執着と結果が似ているので、それも誰かに笑われそうだし。私にとっては、文章の分量と執着の激しさには少しも相関がないのだけれど、相関があると思われてしまうことが多いらしいということを、最近知ったし。執着の激しさも、単にこだわりのスイッチが入っただけであってナルシシズムの発露ではないことが多いのだけれど、ナルシシズムの発露だという前提で笑われることが多いらしいってことも最近発見して「ひょえー状態」なのです。
とにかく、長い文章をたくさん書くことは、外の世界では「恥ずかしいこと」とされているらしいことを知ったので、しばらくその規準の研究に没頭しようかな。
翻訳家になって良かったと思うことの一つは、文章を大量に書いても笑われないってことです。なんてったって他人(原著者)の文章なのですから、いくら書いても、私自身の執着とかナルシシズムとかと見間違えられる心配がない。それでいて、作文はできるんだから。
館の管理人 wrote:
>いろいろな考えや感覚の人がいていいです。マルハナバチさんと私ともしも同じだったら、もう私のHPなどあまり価値ないし閉じていいかなあと思うけど、ぜんぜんそんなことないですし。
いつもお世話になっています。
この話題(レッテル話)とは関係ないですが
私はこの掲示板でいつも勝手なことを書かせてもらったり
(消させてもらったり)しています。
この場をおかりして、ありがとうございます。
ところで、私は先日、「アスペルガーは私の人格の重要な部分であり、自分のアイデンティティの中心部分にかかわる」というような趣旨の発言をしました(細かい表現はちがってるかもしれないけど)。
これは別に、アスペという診断名が、ってことじゃありません。
診断されてなかったころからずっとあった、私の嗜好、志向性、芸風、といったものが、私という人間を作っているという意味です。
あんまり何度も書いてるから、みんなもうとっくにうんざりしているかもしれないけど、「細部志向」「視野の狭さ」「意識の切り替えのしんどさ」「繰り返し好き」「『なんとなく雰囲気はわかるんだけど』という状態が嫌いで、はっきり言語化された規則に飛びつく」といった嗜好、志向。これらはすべて、自閉によってもたらされたものだと思っています。それは、生まれたころからずっとあった。
このことに関して、診断が果たした役割は、どちらも一時的なものですが二つ。
一つは、これまで、こういう嗜好や志向や芸風に逆らっていたのを、やめようという決心の後押しをしてくれたこと。それまではダサいと思っていたのを、「こういう作風も、アリかあ」と思えたわけです。
もう一つは、それまで20も30もあると思っていた「特徴」を、数個にまとめて把握できるようになったことです。たとえば、CDの一曲リピート聴きが好きなのと、一つのギャグに一度受けたら、いつまでも思い出し笑いができて、ネタがやたら長持ちするのとは、以前は別々のことだと思っていました。でも、診断後、それがどちらも、同じ「繰り返し好き」という性質の表れにすぎないことに気づきました。もっとも、こんなこと、診断されなくたって、観察力の鋭い人なら、勝手に気がつくんでしょうけどね。そういう意味では、診断は、「てっとり早く攻略本を見た」という感じでもあります。
そういうわけで、診断は、自分の性質が異常ではないから直さなくていいと知るのに使えましたし、とりとめのなかった自分の特徴を「いくつかに分けて束ねる」のに使えた(持ち易くなった)。その意味では、レッテルって言ってもいいのかも?
ただ、私は、自分の「繰り返し好き」や「視野の狭さ」といった性質に「自閉っぽい」というレッテルを貼ったからといって、ほかの性質が剥ぎ取られるって気がしないんですよ。最初からあったものに、名前がついた。すると呼びやすくなった。それだけ。この嗜好、志向、芸風、作風は、名前がついていなかったころから、常にあったわけだし。
それに、芸風に名前をつけたからといって、扱う素材とは関係がない話なので、芸風にすべてを支配されているという感じはしない。個人のバリエーションは素材で出るんだから。
私にとっては、アスペとか自閉とかいうのは、「昔から私の中にあった『芸風』につけた略称」みたいな感じです。だからアイデンティティの中核部分なの。扱う素材は入れ替え可能ですが、芸風は入れ替え不可能だから!
で、芸風につけた略称であるので、これが障害になっていてもいなくても、同じ芸風を共有してさえいれば親しみを感じるので、「障害」か「健常」かという視点は二の次、三の次でしかないんです。この「芸風」が、適応不全の原因になっていたら障害。適応不全を起こしていなければ「障害ではない」。でもどっちにしても「芸風」は共通。
そんな感じに思っているのです。
私はねえ、自称用の用語は、行く先々で、考えて考えて使い分けているんですよ。その場の顔ぶれ(バンドのライブにたとえれば、「対バン」っていうやつね)、その日の発言の趣旨、その他モロモロによって。純粋に実用的な判断です。
たとえば、頚椎損傷の人と盲の人と弱視の人と4人で壇上でお話ししたときは、アスペルガーであろうとカナータイプであろうとそんなことは関係ないんであって、「自閉者です」って名乗ったし。
もしも仮にカナー型の人と対談するとかいう機会があったら、アスペルガーだと挨拶するかもしれない。
ADHDの人ばかりが集まって、家の散らかし具合や、これまでの大遅刻の経験を自慢(?)し合う場所でだったら、「私もADD族だしさああ」なんて言うかもしれない。いくらDSMの規準ではPDDの人はADHDと診断しないと決められているからって言って、私の中からADDが消えてなくなるわけではないんだから(オフィシャルな場で私がADHDだと言ったりしたら、厳密な人に叱られるから言わないけど)。
ところが、同じADHDでも、男性と女性では社会の要求が違うことが多いから、精神的な苦労の種類が違う、というような文脈のことを話すときは、「ADD女性」と言うと思う。
そして、国際自閉ネットワークの集まりで、何かのトピックについて、仲間の自閉者に「日本だったら現状はどう?」って聞かれたら、日本在住者として答えるでしょう(日本国籍に精神的な執着があるというのとは関係なく、日本に住んで日本の現状を少しは見ている、という意味で)。
メディアや情報へのアクセシビリティと著作権の関係を考えるような場であれば、アスペであることよりもNLD的な側面の方が影響が大きくなるだろうから、LDの立場から参考意見を出すこともあるでしょう。
「自閉連邦市民」なんていうふざけた名称を考え出したのは、自閉っぽい嗜好や感性、情報処理スタイル(繰り返し好きや細部志向、意識の切り替えの遅さなど)は共有しているけど、機能レベルが高すぎて「健常」の領域に入る人たちを排除しないためでした。あれは文化的タームです(英語だとAutistic and Cousinの略でACっていうんだけど、日本では「アダルトチャイルド」の略語として先にACが取られちゃってたので、使えなかったんです)。
私は、めんどくせーなーもーと思いながらも(必要以上に楽しんでいるわけではありませんが)、こういった使い分けを続けています。だから、私が使える用語の候補は、多ければ多いほど自由になれる気がする(もちろん、一度も使わない用語がほとんどですけど)。
どれを使っていようと、私の中にある自分観は少しも変わらない。ただ、(仕事も含めて)公的な場では、その場その場での役目を果たしたり、対バンの人とキャラがかぶらないようにしてるだけ。私的な場では、その場の人と、何を仲立ちにつながるか、どの(共通の)性質をさらけ出す場なのか、それを考えて選んでいるだけ。どの名称も、決してフルタイムにはならない。
どっちにしても、「障害」の名称を人に冠するのは、障害と関係のある文脈の場に出たときのことですよね? ファウラーさんが「耳にした」というのだって、おそらくADHD関係の権利擁護運動や、対政府交渉の場だったのでしょう。なにも、子どもの誕生パーティーやスイミングスクールで「うちのADHD児は」と言ってたわけではないと思うんですけどね。
ある用語を、状況に応じてときどき使うことで、レッテルになってしまうかどうかっていうのは、人にもよるでしょうから難しい問題ですが、少なくとも私にはそれはありませんね。
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ファウラーさんがあの前書きを書いたのと同じころに、「ADHD児」「ADHD者」「ADHD女性」という用語を排除しようという動きは、一部で流行っていました。
そういう流行を知らない初心者が、地方の集まりなどで、挨拶のときに、自分で自分のことを「ADHD者」と名乗ってしまい、撤回を迫られるなんてこともありました(ファウラーさんがそこまでしたという話は聞きません。彼女はそこまで過激ではなかったと思われます)。
サリ・ソルデンの本(「片づけられない」の原書)や、ハロウェル、レイティー両博士の本(「へんてこな贈り物」の原書)などには、平気で「ADD女性」とか「ADD族」とか「ADD仲間」といった言い回しが出てくるため、それを不愉快に思う人もいたようです。私自身も、「片づけられない」を訳したと言って、少なくとも一人から、「あの本は、差別用語を平気で使っている本なのに」と言われる経験をしました。
また、ある場所で発表をしたときに、"As an Autistic....."と語った(つまり、自分を「自閉のある人」ではなく「自閉者」と名乗った)ところ、翌日の休憩時間にカフェテリアでいきなり近づいてきた人に、「あれは意図的な選択なのか」と質問されたこともありました。「そうだ。ろう者が大文字でDeafと書くのと同様、下位文化の名前だから固有名詞として使っている」と答えたら、「それなら話は別だ」と納得してくれましたが。
館の管理人です。
行の先頭の > の記号は、引用文であることのしるしです。自分の言葉を書くときは
>あいうえお
のようにはしないでください。まぎらわしくなります。
何か補足的な注釈など書きたいときは次のように # を使ってください。
# このように行の先頭に # を入力すると色が変わって表示されます。これは補足的な注釈などを書くときに使います。
あと、まえにちょっと気になったのは、長いもとの文章がすべて引用されているというのがありました。これもなるべく避けてください。
以上、よろしくお願いします。
どうも。館の管理人です。
わたしが余計な反応をしたのは、たま子さんの「レッテルをつけていた(反省)」という文脈で引用されていたものについて、自分もそんな感覚をもっているというようなことを言いたかっただけです。マルハナバチさんがまとめてくれたように、「レッテルを貼らない」という趣旨についてです。
たま子 wrote:
> それでもどうしてもそのことに言及して、説明をしなければならない
> 立場になったら、ファウラーさんのように婉曲な表現がときには必要
> なのかもしれません。彼女自身もそうやって理論武装をして生きてきた
> 人生の重みというものがあるのでしょう。
> 一つのテクニックとして覚えていても損はないかもって思いました。
私もそんな感じに思います。閉じたコミュニティの中だけならストレートな表現で通じ合えても、障害について特別理解があるわけでもない人々に対して表現するときは、なかなかそうもいきません。語順を変えるだけで伝わりやすくなるというのならそうしたっていいと思います。
「婉曲語を普及させたい人たち」といわれるのには違和感がありました。
ファウラーさんが言っていることは、あるレッテルをつけてものを見るとその個性の多様性を見失いがちになるから気をつけましょう。言葉と意識というのは連動するから、レッテルの言葉はむやみに使わないほうがいいじゃない。というようなことだと思います。
いろいろな考えや感覚の人がいていいです。マルハナバチさんと私ともしも同じだったら、もう私のHPなどあまり価値ないし閉じていいかなあと思うけど、ぜんぜんそんなことないですし。
合同太郎 wrote:
アスペルガーであるかないかの判断を下す事が出来るのは医師だけです。
普通の人では判断できません。
と言う事で、もしどうしてもアスペルガーであるかどうか知りたいので
あれば自閉症を診断している所(小児科が多いですけど)を探し出して
たずねてみて下さい。
ちなみに就職している場合はアスペルガーと診断されません。
これはアスペルガーの診断基準書にそう言う前提があるそうです。
みなさんに質問があります。
今の日本のアスぺびとに、必要なものは何ですか?
なお、回答は下記のメールアドレスにお願いします。
yoshifumitakeda@hotmail.com
僕は幼い頃からアトピー性皮膚炎だったので、人との付き合いが苦手なのは
そのせいだと思っていました。
が、しかし、たまたまアースペルガー症候群というやつを知って、自分と
似てるなと思ったのですが、いまいち気のせいに思えてしまうのです。
あと、僕はどちらかというとというか、それなりに俗っぽい人間なので、
僕の好きなゴッホやアインシュタイン、ビルゲイツなども同じ症状だと
知り、ラッキーだとも思ってしまいます。
あと、知ってる人が死んだときも面白いことが起こるとか思ったので
「駄目だなあ僕」とか思って無理矢理涙を流したり、「親戚に会うのめんどくさいなあ」とか思ったりもします。49日には、「まだそんなに経ってない」と言い
行きませんでした。
なんだか支離滅裂な文章になってすみません。
何が言いたいかというと、アスペルガーだと思って「ラッキー、レアな症状だ」
とか思ってしまうのは、本当はアスペルガーじゃないんじゃないか、
ということです。
どなたか、アドバイスを下さい、よろしくお願いします
追伸
アスペルガーってなんか他の病気を引き起こしますか?
YAHOOで検索して立ち寄りました。
健康を考えるホームページをご案内させていただきます。
http://www.tokyo-reimei.or.jp/
この書き込みを削除する場合はできたら御一報下さい。
あむ wrote:
>親亀こけたら・・・ wrote:
>>私は今、人と会話するのがとても苦痛です。でも子供の事を考えればそんな訳にもいかず、悩んでいます。
>はじめまして、親亀こけたら・・・さん・みなさん
>1.ご主人がもし可能であれば、ご主人に応援してもらいましょう。うちの場合、町内会もPTAも井戸端会議まで主人の担当でした。
>
>3.からだが弱いとさりげなく言っておくのも(それほど親しくない人の場合は)使えます。先に席をはずす理由になります。その際ご自分を責めない事。体の病気と対人関係ですぐ疲れてしまう事は、同じレベルと思いましょう。
なるほどー、やはりちゃんと子育て経験のある方の(しかもうまく行った方の)お話は具体的だし、何といっても希望が持てますね。私は子どもがいないけど、町内会なんかで参考にしますね。
こういう技術的な面に関しては、実は、ASではなくてADHDの本ですが、「片づけられない女たち」の後半に詳しく解説されています。(自分が関わった本だけに、何だか商業宣伝みたいになりそうで気が引けて、迷っていたのですが、やはりあまりにも関係ある話なので・・・)
親亀こけたら・・・ wrote:
> 幼稚園に通う我が子がアスペルガーと診断されたのはつい最近のこと。
>早速本を購入し、読んで見ること最初の章で自分がアスペルガーという事を認識しました。私はすごく物忘れが激しくて、注意力欠陥症候群だと今まで思っていました。が、一番苦手なのは対人関係なのです。雑談の場などでは波に乗れずいつも話しの腰の骨を、折ってしまいます。友達もなかなか出来ません。いつも孤独です。自分自身アスぺと認識した方は何かそれまでよりも意識は変わりましたか?
>私は今、人と会話するのがとても苦痛です。でも子供の事を考えればそんな訳にもいかず、悩んでいます。
はじめまして、親亀こけたら・・・さん・みなさん
こちらの掲示板の1年余りの愛読者です。子育てほぼ終了者として(長男17歳 次男15歳)技術的?なことをいくつか。
1.ご主人がもし可能であれば、ご主人に応援してもらいましょう。うちの場合、町内会もPTAも井戸端会議まで主人の担当でした。もちろん運動会も学芸会も主人と一緒にでかけて、お母さん方の名前を教えてもらったりしました。第一主人と一緒にいれば雑談に参加しなくてもよいというメリットもあります。(「夫婦仲が良くていいわねえ」という評判も得られます。)
2.お子さんのために1人は味方を作りましょう。できたら情報通で、世話好き、ひとりでしゃべりまくって下さる方がベストです。その際、「私は人付き合いがへたで。」とか「お顔を覚えるのが苦手で」とかなんども強調しましょう。(ついでに「あなたがたよりなの」ということも)
3.からだが弱いとさりげなく言っておくのも(それほど親しくない人の場合は)使えます。先に席をはずす理由になります。その際ご自分を責めない事。体の病気と対人関係ですぐ疲れてしまう事は、同じレベルと思いましょう。
私の場合「自分がASかも」とも思わず、子育てをしてきてしまったのですが、
なんとかなったなあというのが最近の感想です。
長男はA傾向はありませんが、母親が他のお母さんとちょっと違うということをそのまま受け入れて育ってくれました。むこうから歩いてくる人をさりげなく「お母さん、○○くんのお母さんだよ」と教えてくれるようになったりします。
親亀こけたら・・・さん 参考になればと思い長々と書いてしまいました。人間関係のコツは、非Aの主人にいわせると「相手の感情まで気にしないこと」だそうです。人間関係から逃避中なのであまり自信を持って言えないのですが。
nana wrote:
>しかし、自分は自閉の世界のどっかにいることを知ったおかげで自分は変わってい>るのが普通なんだと分かり、下手な我慢をするより、自分にあった環境を自分で作>ろうと思えるようになりました。
>
>最近ここで話題になっているレッテルを自分で見つけた訳ですが、今のところそれ>を周りに言う気はありません。言わなくても私を知っている人なら私が変わってい>るということは分かってますし、幸いそれを肯定的に捉えてくれている人達ばかり>なので、特に困っていることはありません。
全く同感です。でも両親が否定的にしか捉えてくれないのが残念。
私はADHDらしいです。目の前にレッテルがぶら下がってて、
それを自分の体ににぺたっと貼っても、つかわないでぶらさげたままでも
どっちでも平気だよねー。いつでもつかめるところにレッテルはあるからね。
って感じになりました。いろんな本読んそう思いました。今のところ。
自分は大事にしたいものです。上手に生きていきたいものです。
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