アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
こー wrote:
>初めまして。私は社会に出てから初めて自分では選択不可能な対人関係で
>人と衝突し、人に嫌われまくり、今ではひどい抑うつ感に悩まされています。
>会社では部署の人間全てに変人で嫌なやつ、という見方をされていたらしく
>私がやめるときはみんなで祝賀回をしたことを聞いて本当にショックでした。
ひどいやつらだ!
>自分では仕事は一生懸命やってるつもりだったし、人と仕事以外で話すのが
>苦痛だったので、それを態度にもろに出したり仕事が終わったら
>機械的にいつも家に帰るという毎日で、今から思えば普通の神経ではこういう
>ことをしないのだ。とやっと分かりました。
>それでも仲がよかった人はいたのですが、その人たちも私をよく思ってない人と
>最後は徒党を組んで孤立状態になりました。
>やはり何でも新しい環境がすごく苦手でおびえさえしていたこと、シュミレーションとおりに動いていると(人から何かをしてもらったらすぐに有難うと言うなど)
>普段融通のきく態度をとってないくせに変に計算高いところがあると
>はっきり指摘されたこともあります。
>最後には誰も私を相手にしてくれず、後輩からもひどい態度をとられ自信喪失、
>今ではそのことが尾をひいて早く死んでしまいたいと自虐的なことばかり考えるようになってしまいました。
これは悪質ないじめです。辞めて正解だったかもしれません。
>ちょっと前まで自分なりに必死で調べて、人格障害かもしれないと思いつつ
>アスペの方もかなり思い当たる節があってここにたどり着きました。
>宜しくお願いします。
かなりその可能性は高いと言えます。ただASかどうかということは、専門家(児童青年精神科医)の先生でないと判断できません。
知能には『結晶性知能』と『流動性知能』の2種類があるようです!
『結晶性知能』というのは、言葉や経験を通して蓄積されていく知能であり、「富士山の高さは3776m」「うらぶれた=落ちぶれた」「1+2=3」というように、『AはBである』的なことをどれだけ理解しているかということを指すようです。仕事にはあまり必要ありません。
これに対し『流動性知能』は、新しい状況に適応していくための知能で、「間違え探し」や「図形にまつわる計算」「文章題を解く」「物事のパターンの検出」「設計図の読解」「人の動作を模倣する」といった、『想像力』を要求される作業的な能力で、仕事をできたり・スポーツが優秀な人は、これが優れているようです。
WAIS−R知能テストの『積み木模様』課題は、流動性知能の検査の一例で、これからやる人もいると思いますので詳細はお伝えしませんが、パズルの問題です。ある有名サッカー選手は、この得点が人並みを外れてよかったそうです。
ASや非言語性LDの人の中には、『結晶性』のほうは良いけど『流動性』のほうはボロボロという人が多いような気がします。私もその中の1人で、30になっても無職のままでいる一因です。とにかくめちゃくちゃな『不器用』で、融通が利かないほうです。センター試験の数学で2回も惨憺たる得点で、行きたかった国公立の大学には進めませんでした。
AS(or非言語性LD)=流動性知能発現不全症候群
なのかな(〜_〜)?
I wrote:
> 「わかる」ことは、「おもしろい」。「できる」ことは、「たのしい」。
あさかぜさん wrote:
> そう、これなんですよ。学校の先生に、ここを考えて欲しいと思うのね。
あたしが育った家には和室があって、ガラスのサッシに飾り格子があしらってありました。で、それが4×7の格子になってたのね。
で、ある角からつーっと斜めに小さな四角の対角線をたどって、どこかの辺につきあたったらそこで“反射”して、それを繰返してまた角につくまでたどってゆくと、すべての小さな四角を一回づつたどることができるのね。
それができるのは、縦と横の四角の数が素になっている場合(最大公約数が1の場合)であることに気づくまで、十年以上かかったかなぁ。とにかく、コンピュータのプログラムを書くようになってから、あらためて分析してみて、「ああ、そうか」と思いました。
「わからない」ことに魅かれ、「できない」ことに“きゅうっ”となる。「わかるはずだ」「できるはずだ」という信念を大事にしたい。ついつい手をだしてしまったり、「ほら、これはこうするのよ」みたいに答えを教えてしまうのは、子供に対してとても失礼なことだとあたしは思います。
だから、あたしは「同じレベルの仲間」の間で「わからないヤツ」「できないヤツ」を差別するのはいいことだと思ってます。「わかった」人間と「わかってない」人間、「解けた」人間と「解けない」人間は、別の世界にいるんです。
パズルは、自分で解くからおもしろい。その楽しみを奪っちゃいけません。それは推理小説を読んでいる人に、「犯人はこいつだよ」と囁くようなものです。
パズルの「解き味」というのがあります。「ああ、そうだったのか」という爽快感と、「おお、よくできている」という感動。
大人は、子供がつまらないことに昂奮している、と呆れたりします。わかってないなぁ、と思うんだよね。プログラマーも十年やってるとすれっからしになっちゃってさ、「番兵(センチネル)」とか「いけにえ」とかいった技法だともう昂奮できなくなっちゃうのよね。新人プログラマーが、「こっ……こんなテクニックがあったんですか!」とかいって驚いてると、「ああ、あたしもこういう時期があったわね」としみじみしてしまう。バブルソートとセレクションソートとクイックソートの効率を比較して「ほー」とか感心してた時代にはもう戻れないのね、とかいって涙してしまいます。
子供の感動を共有できないっていうのは、子供の頃のそうした体験を忘れてしまっているということであり、ものごころついてからそういう体験を積みかさねてないってことなんですよ。
だから、親や教師は、「学ぶこと」「発見すること」の楽しさを、失っちゃいけないんです。べつに、机にむかって勉強しろ、とかいうんじゃありません。目を曇らせるな、日常をいきいきと見つめろ、ということなんです。
ファイナルステージを考える会・編『末期がん情報 余命6カ月から読む本』海鳥社、という本が、いま手元にあります。その中に、『余命6カ月からの楽しみ おいしい粥…コトコトコトコト気長に炊いて』という一文があります。
うちの所長のJoshyaさんが、突発性拡張型心筋症と診断され、「平均余命が五年とちょっと」ということを知ってから、この本に出会いました。当時は、平均余命を超えて生きるのがなんだか申し訳ないみたいな気持がしてたそうです。自分が余計に生きると、他の人の余命が減っちゃうんじゃないか、と。で、そんななかで、この本を読んで「お粥のおいしさ」というものに出会ったのですね。それ以降、昆布出汁とか、梅干とか、かつおぶしとか、お茶とか、いりこ出汁とか、そういった「日常の中にあたりまえにありすぎて、ちゃんと味わっていなかったもの」を掘り下げるようになりました。
あたしたちの日常というのは、ほんとうはこんなに豊かだったんだ。そういう気持を、病気するまで持つことができなかったことが、寂しいと思います。まあ、当時はバブルまっさかりだったしな。小市民的な幸せ、というものが、大事にされない時代だったし。
都会を離れたどこか田舎で、自分で作ったお米や野菜やお味噌やお茶の味をしっかりと確かめ、「そうか、こういうことなんだな」と納得する人生とかいうのも、あるはずなんです。それを「隠遁」「逃げ」と見るのは間違いなのね。ただ、それを「伝える」努力はしてくれなきゃ困る。そう思うから、あたしは書きます。
子育てって、こういうことだと思うんですよ。べつに、毎日じゃなくていいんです。「そうだ、ちゃんとした朝ごはんをつくろう」という日が、月に一度でもあればいいとおもう。なんだったら年に一度、ちゃんとしたお雑煮を作ろうとか、それでもいい。
子供の中に、ぶれない芯を作ってやる。それが教育、それが躾、という気がします。
子供のいないあたしが言うのも、口はばったいけど。
(Maria)
初めまして。私は社会に出てから初めて自分では選択不可能な対人関係で
人と衝突し、人に嫌われまくり、今ではひどい抑うつ感に悩まされています。
会社では部署の人間全てに変人で嫌なやつ、という見方をされていたらしく
私がやめるときはみんなで祝賀回をしたことを聞いて本当にショックでした。
自分では仕事は一生懸命やってるつもりだったし、人と仕事以外で話すのが
苦痛だったので、それを態度にもろに出したり仕事が終わったら
機械的にいつも家に帰るという毎日で、今から思えば普通の神経ではこういう
ことをしないのだ。とやっと分かりました。
それでも仲がよかった人はいたのですが、その人たちも私をよく思ってない人と
最後は徒党を組んで孤立状態になりました。
やはり何でも新しい環境がすごく苦手でおびえさえしていたこと、シュミレーションとおりに動いていると(人から何かをしてもらったらすぐに有難うと言うなど)
普段融通のきく態度をとってないくせに変に計算高いところがあると
はっきり指摘されたこともあります。
最後には誰も私を相手にしてくれず、後輩からもひどい態度をとられ自信喪失、
今ではそのことが尾をひいて早く死んでしまいたいと自虐的なことばかり考えるようになってしまいました。
ちょっと前まで自分なりに必死で調べて、人格障害かもしれないと思いつつ
アスペの方もかなり思い当たる節があってここにたどり着きました。
宜しくお願いします。
Mariaさん wrote:
> 「わかる」ことは、「おもしろい」。「できる」ことは、「たのしい」。
そう、これなんですよ。学校の先生に、ここを考えて欲しいと思うのね。
困難がたくさんあっても、子どもに「学習の機会」を与えてやりたいと願わない親はいないと思うんです。でも、「まず学校へ来ること、教室へ入ること」が前提なんです。学校へ行っても教室に入れない生徒は、不登校とは呼ばれないけど「学習の機会」を与えてはもらえません。遊んではいますよ。出席扱いにもなります。で、それだけなのね。
娘は通常学級は無理だから、特殊学級をお願いしました。いい先生で、心配はしてくださいます。でも、とにかく「学校へ連れて来ること、教室へはいること」ができないうちは、学校と連携して自宅学習を行いたいとお願いしても、受けてはもらえないのです。学校へ顔だけ出せれば「出席」ですが、本当にそれでいいのか?と思ってしまいます。
わたしだって税金を納めている日本国民のひとりなのよ。子どもの「学ぶ権利」を保障してやれない情けなさを、どうすればいいんでしょう。(タメ息)
> 「学校の勉強なんか役に立たない」なんていうことを、平気でいう人がいます。それはとても怖いことだと思います。自分のしていることの「意味」や「位置づけ」が失われているのに、平然としていられる。あんたそれじゃロボットだってば、と言いたくなります。
怖いですよ、確かに。何のために学校教育制度があるんでしょうか。
発達障害を理由に“学校をさぼっている”とか、免罪符のように使って“ずるい”とか言われたくないです。こっちだって必死でやっているんですよ。「学ぶことは楽しいこと」だって、教えてやりたい。基礎学習くらいは、きちんと受けさせてやりたい。その方法を模索しているのに、肝心の教育の専門家が役に立ってくれないのでは……。
「あとは、お母さんががんばって学校へ連れてくるだけです」って、学校へ連れて行きさえすれば、ちゃんと教育を受けられるってことなの? 本当にそうなの?
とてもそんな感じはしないんですけど。
Mariaさん、いろいろとアドバイスをありがとうございました。
> 文章を書くこと、計算をすることが、自分の生活にどうかかわってくるのか、ということを、ちゃんと子供に伝えなきゃいけない。
> いろいろと手を動かし頭を使って試行錯誤してみることで、イメージをつかんでゆく。こういう行為と、ただただ計算練習を繰返すのでは、意味が違うんです。
> 道具だとかテクノロジーだとかテクニックだとかいった、目先のことに惑わされないほうがいいと思います。子供の頃に、「概念」「イメージ」をいっぱい貯えておくというのは、だいじです。とくに、「ものを作る」ことをいっぱい体験させておくと、大人になってから、いろんな意味で役に立ちます。
日常生活のなかでできることは、常に探して一緒にやっていくつもりです。
> でまあ、そんなこんなですったもんだしてるうちに、「量の感覚」と「数の感覚」が統合されていって、計算も要領よくできるようになったりするんですよ。そうなるのはたぶんずっと先、高校生とかになってからです。
> 焦ることはないと思うぞ。
はい。ありがとう。元気が出てきました。
> 伝統工芸や特種技能に類するような、高度に訓練された人間でなければ作れないものを作り、高度な教育を受けた人間でなければできない仕事をすることでしか、日本人は生きてゆけなくなっちゃった、と思ったほうがいい。
これからの時代はそういう方向へ行きそうですね。「個」の能力をつぶされることなく生かせる方向へ、少しずつでも変わってゆくことを願います。また、わたしたちが変えていけるかもしれないこと、ひとつずつでも変えてゆくための働きかけは何ができるかを考えながら、娘と共に育ちたいと思います。
>Mariaさんwrote
>> 「学習指導士」みたいな人って、いないのかな。(←「あんたがやんなさい」とか言われそうだな(-_-;))
ピーブーさん wrote:
>もっとASについての認識が広がって,「学習指導士」みたいな人の必要性がはっきりすれば,きっと増えていくのでは・・・と,思ったりしています。
「学習指導士」…こういう人は、大いにほしいですね。でも、まずはAS等の発達障害を知り、理解してもらうことから始まるのかな?
(「してもらう」というのも、なんか違う表現という気がしますが…。)
私もへたくそな字を書くので、きれいな出来上がりは書類関係では、大体あきらめています。
パソコンではがきサイズで色々なことを書いて、印刷したあとで、はさみで切り取ってのりで貼り付けるという苦肉の策で切り抜けたことよくあります。この手はすべての書類には使えないのですが、学校関係なら先生にお話して了解を得ておけば、案外やれると思います。
I wrote:
> 当時東海クリエイトという会社から出ていた初期のワープロ・ソフト
たしか『ユーカラ』です。言語工学研究所の『松』やジャストシステムの『JWord太郎』(現在の『一太郎』)が八万円代だったころに、ほぼ半額だったような気がします。
当時、ワープロというと「清書に使うもの」という通念があって、「べつにわざわざワープロを使わなくても、手書きでもいいのに」と言われました。プリントアウトを持っていって、「これに赤を入れてください」というと「もったいない……」と言われました。
ビジネス文書なんて、ほとんどは場所・日時・品名・単価・個数あたりがちょこちょこ違うだけなので、そういう書式の文書を一度作ってしまえば、あとは文書ファイルをコピーしてちょっとだけ変えればできあがり。ビジネス文書だから「ワープロの文字には心がこもってない」とか言われなかったし。
世間ではオフィス・オートメーション(OA)化がどうのITがこうのとか言ってるけど、実際のビジネスはなぁーんにも変わっていない気がします。ビジネスの「形」、モノ・カネ・情報の「流れ」というものが見えてないと、けっきょく何もできない。ただ、与えられた仕事をこなすだけになってしまう。
日本の高度成長期、中卒が「金の卵」と云われ、地方からの集団就職が盛んに行なわれて、それが上野駅の風物詩みたいになっていた時期があります。「標準語」がやかましく言われたのもその頃です。質の揃った使いやすい単純労働者を生産するのが、当時の義務教育の目的でした。
だけど、いまやそういう「質の揃った使いやすい単純労働者」は、中国にもベトナムにも大量にいます。「いわれた仕事を、着実にこなす」だけでは、もう対抗できない時代になってしまいました。むしろ、そういう作業は機械にやらせたほうがいい。伝統工芸や特種技能に類するような、高度に訓練された人間でなければ作れないものを作り、高度な教育を受けた人間でなければできない仕事をすることでしか、日本人は生きてゆけなくなっちゃった、と思ったほうがいい。
あさかぜさん wrote:
> 学校の担任に「ええ、ええ、今は計算するにも電卓がありますし、字を書けなくてもワープロがありますからね」と突っぱねるように言われたことが、心のどこかにこびりついていて……
人間が電卓やワープロの代わりをしても、いいことはなんにもないのね。もちろん、「コンピュータなんか理解しなくていい。コンピュータが使えればいいのだ」みたいな「ブラックボックス」的な考え方もどうかと思うけど、それはそれで一つの見識ではあると思います。
「学校の勉強なんか役に立たない」なんていうことを、平気でいう人がいます。それはとても怖いことだと思います。自分のしていることの「意味」や「位置づけ」が失われているのに、平然としていられる。あんたそれじゃロボットだってば、と言いたくなります。
文章を書くこと、計算をすることが、自分の生活にどうかかわってくるのか、ということを、ちゃんと子供に伝えなきゃいけない。
昔の寺子屋の読み書きの教材は、「往来物」といって、現代のビジネス文書や手紙の例文集みたいなものでした。で、そろばんの教材は、「××の売り買い」ばっかりで、「米の値段が銀レートでこれこれ、金と銀の交換レートがこれこれだとすると、金一分で米がどれだけ買えるか。あるいは米をいくらいくら買って、その釣り銭を銀でもらうといくらになるか」みたいなことを題材に計算をするわけです。宮沢賢治は「数学がなんの役に立つのか」と質問されると、「連立方程式を知らなければ肥料の計算ができません」と答えるのが常だったとか。「田んぼの形がこれこれだと、面積はこれこれ。そこに反当たり××キログラムの肥料を施すとすれば、全体で○○キログラムの肥料が必要」とかいう話は、非常にわかりやすい。「米1合(180ml)が150グラムだとして、五キログラムの米は何升何合か」なんていうのでも、いい。
で、こうした枠組の中でなら、いろんな計算をしても意味があったりするんです。「一合が百五十グラムだと、三合で四百五十グラムだから、三升で4.5キロで、三升三合で五十グラム余る。だから三升三合+1/3合」みたいなやり方もあれば、5000÷150で計算する方法もある。「割合」「比率」「量」「単位」といった考え方や、いろんな計算のテクニックみたいなものまで、いろいろと手を動かし頭を使って試行錯誤してみることで、イメージをつかんでゆく。こういう行為と、ただただ計算練習を繰返すのでは、意味が違うんです。
もちろん、純粋な計算練習には計算練習で「数構造の美」みたいなものもあるんですが、それはそれでまた別の話。これだって、「構造」という全体イメージがあって、その中にひとつひとつの問題があてはまってゆく。
道具だとかテクノロジーだとかテクニックだとかいった、目先のことに惑わされないほうがいいと思います。子供の頃に、「概念」「イメージ」をいっぱい貯えておくというのは、だいじです。とくに、「ものを作る」ことをいっぱい体験させておくと、大人になってから、いろんな意味で役に立ちます。
「大匙十二杯は、何ミリリットルですか?」みたいなケースもあるでしょう。十五×十二=百八十、みたいな計算が、できないことだってあります。そういうときは、「大匙で十二杯計って、何ミリリットルになったかをカップに入れて計る」ことだってできるんだから。「百七十五ミリリットル」だったら「ほぼ合っている」わけで、精度は二桁近く出てます。「量が多いと煮詰まり加減が少ないから、調味料の量は同じでも水は少なめ」みたいな話もあるわけで、「実際にやってみると、必ずしも計算通りにはいかない」こともわかってきます。十八リットル(一斗)の塗料を二十五ミリリットルの容器に小分けしてぴったり六ダースの製品ができるかというと、できません。だいたい足りんなかったり余分にできちゃったりするのね。
でまあ、そんなこんなですったもんだしてるうちに、「量の感覚」と「数の感覚」が統合されていって、計算も要領よくできるようになったりするんですよ。そうなるのはたぶんずっと先、高校生とかになってからです。
焦ることはないと思うぞ。
(Maria)
はじめまして。
ちょっと前に友達の子のことで,カキコしたピーブーといいます。
前回,相談した子とは別に,やはり友達の子がASの可能性があると言うことで,病院の児童心理カウンセリングに通っていて,初めてASを知った者です。
ところで,私は「不安神経症」「自律神経失調症」で心療内科に通っています。広場恐怖などがあり,人混み,人前,公共の乗り物が苦手なのです。
で,今は主婦ですが,近所の人に頼まれて,家で小学生に学習の仕方を教えています(外に出かける必要がないので私にとってもよかったです。)。
5名のうち,2名が不登校で,フリースクールにいってますが,そこでは自習時間が50分近くあるもののあくまでも自習で,子どもも新しい知識は得られないままだそうです。そういうことで,うちに来てくれるようになりました。(不登校の子は,教科書に沿って教え,学校に行ってる子は自分で復習を中心に,それぞれのペースでやっています。)
私の友人で小学校の教師を辞めた人も,学習塾ではない,学習の手助けをする仕事がしたいと言ってる人もいます。
Mariaさんwrote
> 「学習指導士」みたいな人って、いないのかな。(←「あんたがやんなさい」とか言われそうだな(-_-;))
私はASについてはまだまだ勉強不足で,言うことが的はずれかもしれませんが,
もっとASについての認識が広がって,「学習指導士」みたいな人の必要性がはっきりすれば,きっと増えていくのでは・・・と,思ったりしています。
Maria wrote:
> ある人に「協調運動の困難というのは、文字を書くのにも関係がありますか?」と質問された。
>
> あたしは字をきれいに書こうとすると、文章をまちがえる。
> 文章をまちがえずに書こうと思うと、字が汚くなる。
> ちゃんと下書きをし、両方に気を配っていると、ときどきなぜか違う字(それも、大抵ひらがなだったりする)を書いている……(T_T)。
>
> (Maria)
私も醜筆である上に、写生がまるで苦手です。
その上分かっているのに、なぜか同じ書き間違いを繰り返してしまうことがよくあります。
あと『原因』とキーボードで入力しようとすると、『鯨飲』と出てくるように、普通の人と比較すると微妙なところで、言葉の音韻の捉え方が異なっているみたいです。
I wrote:
> あたしは字をきれいに書こうとすると、文章をまちがえる。
> 文章をまちがえずに書こうと思うと、字が汚くなる。
> ちゃんと下書きをし、両方に気を配っていると、ときどきなぜか違う字(それも、大抵ひらがなだったりする)を書いている……(T_T)。
あさかぜさん wrote:
> な〜んだ、わたしとソックリ同じじゃん。
> で、これって「協調運動の困難」になるわけっすか?
えー、漢字ではなくひらがなを間違えるあたりが、それっぽいです。
漢字というのは、よほど慣れた字でないかぎり、一画一画書くんですね。ところが、ひらがなの場合、「ひらがな一字を書く」というのは、それ自体が無意識なプログラムなんです。で、文章を読むなり考えるなりするというのも、それ自体が無意識なプログラムなんですね。「文章を読むなり考えるなりするというのも」という文も、「[文][章][を][読][む][な][り]…」といった形で処理されるのではなく、「[文章を][読む][なり][考える][なり][する][と][いうのも]」といった形で処理される。だから、「文章を読むなり考えるなりるというのも」とか「文章を読むなり考えるなりするいうのも」とかいった書き間違いをする可能性が非常に高かったりするのね(T_T)。つまり、「無意識なプログラム」同士が競合しちゃうから。
> 例えばの話。娘は字を書くことが苦手で、ものすごく緊張します。わたしも一緒になって緊張してしまうくらい、すさまじい。ひと文字ひと文字を書くのに、それこそ“命がけ”なのではなかろうかと思うくらい全身が緊張しています。見守るこっちも息をつめていて……耐えられなくなって“笑いの発作”が起きたりします。
これは、ともすれば発動してしまいそうになる「無意識なプログラム」をぐっと押さえ込んで、意識のレベルで解決しようとするもんだから力が入っちゃうんですよ。ともすれば「[文章を][読む][なり][考える][なり][する][と][いうのも]」となっちゃいそうな頭を、「[文][章][を][読][む][な][り][考][え][る][な][り][す][る][と][い][う][の][も]」というモードに固定しようとするから力が入ってしまう。
「くすくす」「ひひひひひひひ」タイプの“笑いの発作”は、しょっちゅう起こしています。これは抑圧が弱くて、同時にコントロールが効いているからです。で、こういうのはたいてい「泣き笑い」なので、それほど面喰らいません。
ところが、女性の場合、もともと抑圧に対する耐性が低いというのがあって、そこに無理矢理ぎっちぎちに押え込んでた奴が弾けてしまうと、「げらげらげら」「あーっはっはっはっはっは」になってしまうこともあります。
ときどき馬鹿にされたと思って怒る人がいます。そうじゃないんだけどな。
> そんなこんなで、「課題の提出」というのは親子して恐怖の対象となり……何かを書かなくてはならないとなると、“どうやって逃げるか”“適当にごまかすにはどうするか”をまず頭に思いうかべてしまうという、まことにもって“正しくない”対応をとっているのでありました……。
うちのJoshyaさんが就職したのは昭和五十八年、一九八三年です。
当時の『サイエンス』(現・『日経サイエンス』)の表4(出版用語で裏表紙のこと)にはパーソナル・コンピュータの広告(「強力16ビット・マイコン」だそうです。わはははは)が出ていて、CPUは8086(ペンティアムは80586だから四世代古い)、メモリーはRAM512KB、ハードディスク容量7.8MB、そんでもって価格は百六十五万円です。当時の大卒の初任給が十四万円くらいだったのかなぁ。職場は六十人くらいの部署だったけど、Wangの英文ワープロが一台あってオペレーターさんがそれを使っていて、それ以外にPC98が一台ありました。当時ハードディスク無しで八十万円くらいはしたのかなぁ。IBM5550が九十九万円とかいってたし。
で、Joshyaさんは初任給の半分くらいをはたいて、当時東海クリエイトという会社から出ていた初期のワープロ・ソフトと自分用のフロッピー(8インチで、一枚千四百円のやつを十枚で一万四千円)を買い、休日出勤の届けを出して、休日に会社にやってきてはタイムカードを押さずに仕事で使う文書のフォーム(例文集みたいなもの)をコツコツ入力していました。で、出す文書出す文書、ぜんぶそのPC98で作ってたのね。
まあ、中にはどうしても手書きしなきゃいけないものもあったけど、そんなものは鉛筆で書いてコピーを取ればボールペンで書いたのと同じです。当時の非力なワープロ・ソフトではできない複雑なレイアウトは、3Mの55(貼って剥がせるスプレー糊)を使って切り貼りしてコピーして作りました。
「用兵は拙速を尊ぶんだよ」と上司に苦言を呈されたこともあるけれど、「修正・改訂まで入れるとこっちの方が早いんです」と説明して、実際早かったのでなんにも言われなくなりました。じつは、手書きでやるとそもそもミスが多くて完成しないし、完成しても汚くて読めなかったら完成したことにならないんですよ(T_T)。
結果が同じなら「逃げ」でも「ごまかし」でもありません。「効率化」です。
> これじゃいけないんだよなぁ。なにかトレーニングの方法があるはずなのに……。
○文章を音読させる。
○ローマ字+わかち書きの指導をする。
○キーボードを打てるように訓練する。
○校正記号を教える。
とかいった方面に向かうのも、悪くないと思います。
> 学校の担任に「ええ、ええ、今は計算するにも電卓がありますし、字を書けなくてもワープロがありますからね」と突っぱねるように言われたことが、心のどこかにこびりついていて……わたしはただ、娘に学習させるにはどうしたらいいのかを相談にいったはずなのに、なんでこうなるのだ?と複雑で混乱したままの状態を、あの時からずっと引きずっているような気がします。
ディメンジョン(次元)だとかオーダー(概数)だとか有効数字だと誤差かいった概念をちゃんと身につけていないと、電卓を使っても訳のわからない答えを出して平気でいられるようになっちゃいます。漢字が読めなきゃかな漢字変換はできないし、高いワープロソフトを買えばわかりやすい文章が書けるかというとさにあらず、です。
100と100を足したものと、10と10を足したものと、100と10を足したものの間には、
100+100 > 100+10 > 10+10
という関係が成立つとか、
100+10 = 10+100
だとかいったことが、頭に入っているかどうか。こういうことを理解させるのに、「計算する」というのは大事なことです。だけど、計算能力自体は、電卓が肩代わりしてくれます。そこのところの重要性の差が見えなくて、ただただ「課題」にこだわるというのは、いかがなものかと。
しょっちゅう足し算を間違える数学者もいれば、悪筆+誤字脱字で読めないような原稿を書く印刷所泣かせの作家もいます。
「教育=苦行」とかいった精神主義を振り回す時代遅れの教師がまだいるのが考えものです。
数学者の遠山啓さんが、数学の授業をしたあとに、子供たちに「これは勉強か、遊びか」と質問したら、「面白かったから、遊びだ」と答えた、というのは、遠山先生がお気に入りのエピソードです。
「わかる」ことは、「おもしろい」。「できる」ことは、「たのしい」。
実験心理学者のスキナーは、「子供というのは最高の実験動物だ。電気ショックで脅す必要もなければ、餌を与えて条件づけする必要もない。『正答すればランプがつく』といった報酬だけで、嬉々として課題をこなし続ける」と言っています。
子供をネズミ未満の存在だと思っている馬鹿教師がいるのが、困ったもんです。
> 「大人は逃げちゃいけない」って言ったのはたしかMariaさんでしたよね?
> やらなきゃいけないことは頭ではわかっているのに、現実の行動とは結びついていかない……。
> 「協調運動の困難」ということばを何度も目にしているのに、現実に目の前で起こっていることがらと結びつけて考えることもできていない……。
具体的に「何をしたらいいか」を提示するのは教師の仕事です。お母さんの仕事じゃありません。で、とてもじゃないけどできそうにないことを、完全にはできないことを承知で「完全にやれ」というのはプロとして無責任です。「これだったらなんとかできる」ことを、「徹底的にやる」ことを教えるのが指導者の仕事なのね。
走り高跳びだってそうでしょう? 最初っから世界記録のところにバーを置いて、「あれが跳べるように努力しろ」とは誰もいいません。跳べる高さにバーを置いて、確実に跳べるようになったら、ちょっとだけバーを上げる。この繰返しです。
> だれか、わしに、トレーニングしてくれぇ!! “おかあさん”だけやっていていいよって、言ってくれぇ!! 一度にたくさんのことを考えて実行するなんて、わたしには無理っすよぉ……。
ホントにそうだよな(T_T)。だけど、学校の先生には指導能力がなく、塾では発達障害児は相手にしてくれない。発達障害児向けの塾かなんかがあって、国で補助とか出してくれれば……って、特殊学級って、そういう主旨でできてんじゃないの?
「学習指導士」みたいな人って、いないのかな。(←「あんたがやんなさい」とか言われそうだな(-_-;))
(Maria)
Milkywayさん wrote:
>最近読んだ本の中にも、似たような意味の記述があったなぁ。
>(中略)
> (『平行線』p.122より)
ああ、わたしも読みました。
読書中はまさに“火花散る”といった感じで、フラッシュバックの連続となり、ガス抜きが苦手でちゃんとしてこなかったわたしは、溜め込んでいたガスに引火してしまったみたいで……連続噴火中といったところです(苦笑)
森口さんよりは8年も年上なのになぁ。昔の良さに助けられた面もあり、昔の無知に傷つけられた面も否定できず、感情爆発が起こってしまいましたのさ。
今は『可能性ある子どもたちの医学と心理学』を読んでいます。(うう、金がないのに(T_T)) これは学校に働きかけて、ぜひ予算で購入してもらいたいと思っています。通常学級の先生が読むとはとても思えないけど、せめて特殊学級や保健室の先生と校長と教頭くらいは……できれば多くの先生方に読んでもらえる方法を考えたいですけどね。
選択性緘黙のある夫にも読んでほしいけど……それは別の問題になるので、いまはやめておきます。
武田好史 wrote:
>ケネス君というイギリスの北アイルランド地方に地方に住んでいる12歳のASの少年が、10歳のときに書いた手記が、最近『東京書籍』から、『ぼくのアスペルガー症候群 もっと知ってよ ぼくらのことを』というタイトルで出版されました。
書名 ぼくのアスペルガー症候群
− もっと知ってよぼくらのことを
著者 ケネス・ホール(十歳[当時])
訳者 野坂悦子
出版社 東京書籍
A5判並製 128頁 写真10点 イラスト40点
定価: 本体1300円(税別)
発行日 2001年12月15日
内容 北アイルランドに住むアスペルガー症候群の十歳の男
の子による初の著書。自分が経験したこと、診断を受
けてからどのように支えられてきたか、自分について、
あるいは世の中についての見方や考え方などを率直に
語っており、家族や本人にとって貴重なアドバイスが
たくさんある。
目次
第一章 ぼくのこと
はじめに/ぼくとアスペルガー症候群/
ぼくの生活について/ぼくの大好きなもの
第二章 ぼくがちがっているところ
ぼくにはむずかしいこと/ぼくがどう感じているか/
ひとりでいるのが好き/学校には行かない/
ちがっていることを、ぼくがどう感じているか
第三章 ぼくの長所
正直さ/ぼくの課題と役にたったこと
第四章 ぼくが信じていること
贈り物/自然/動物/教会と戦い/メディア/ニュース/
引力と次元/ASの人たちを理解すること/
ASの子どもたちを助けること/タイタニック号/
ルール/ASと自閉症/ぼくの将来
本書を読んで 鈴木正子/高橋和子/ニキ・リンコ
アスペルガー症候群関連ウェブサイト
今回は“無意識の逃げ”という方向へ行ってしまいそうな感じがしています。
Mariaさん wrote:
> あたしは字をきれいに書こうとすると、文章をまちがえる。
> 文章をまちがえずに書こうと思うと、字が汚くなる。
> ちゃんと下書きをし、両方に気を配っていると、ときどきなぜか違う字(それも、大抵ひらがなだったりする)を書いている……(T_T)。
な〜んだ、わたしとソックリ同じじゃん。
で、これって「協調運動の困難」になるわけっすか?
例えばの話。娘は字を書くことが苦手で、ものすごく緊張します。わたしも一緒になって緊張してしまうくらい、すさまじい。ひと文字ひと文字を書くのに、それこそ“命がけ”なのではなかろうかと思うくらい全身が緊張しています。見守るこっちも息をつめていて……耐えられなくなって“笑いの発作”が起きたりします。それはそれで娘をビックリさせてしまうので、申し訳ないなぁと思うのだけれど、どうにも止まらない(ToT)
そんなこんなで、「課題の提出」というのは親子して恐怖の対象となり……何かをを書かなくてはならないとなると、“どうやって逃げるか”“適当にごまかすにはどうするか”をまず頭に思いうかべてしまうという、まことにもって“正しくない”対応をとっているのでありました……。
これじゃいけないんだよなぁ。なにかトレーニングの方法があるはずなのに……。
学校の担任に「ええ、ええ、今は計算するにも電卓がありますし、字を書けなくてもワープロがありますからね」と突っぱねるように言われたことが、心のどこかにこびりついていて……わたしはただ、娘に学習させるにはどうしたらいいのかを相談にいったはずなのに、なんでこうなるのだ?と複雑で混乱したままの状態を、あの時からずっと引きずっているような気がします。
「大人は逃げちゃいけない」って言ったのはたしかMariaさんでしたよね?
やらなきゃいけないことは頭ではわかっているのに、現実の行動とは結びついていかない……。
「協調運動の困難」ということばを何度も目にしているのに、現実に目の前で起こっていることがらと結びつけて考えることもできていない……。
だれか、わしに、トレーニングしてくれぇ!! “おかあさん”だけやっていていいよって、言ってくれぇ!! 一度にたくさんのことを考えて実行するなんて、わたしには無理っすよぉ……。
(大変失礼致しました>みなさん)
武田好史さん wrote:
> 知能=頭の働き。頭のよさ。
> 知恵=物事の筋道がわかり、うまく処理して行ける能力。
> 知識=ある事柄について、いろいろ知ること。またその内容。
知能:ハードウェア性能(プロセッサの能力とメモリの容量)
知恵:プログラム
知識:データ
と考える人が、どうやら多いようです。
知能→知能テスト
知恵→試験
知識→クイズ
によって測れる、と考えているようですから。
知能:(ヒューリスッティックなものを含む)問題解決能力
知恵:環境適応能力
知識:(データ+アルゴリズムとしての)問題解決法
という考え方もあります。問題解決能力が高くても、環境に対する適応度の低い人もいるし(「器用貧乏」「狡兎死して走狗煮らる」「出る杭は打たれる」「夏炉冬扇」)、その逆もいます(「憎まれっ子世にはばかる」とか「非情の人、老いを養う」とかいうのは、違うか)。「知識ばかりで行動が伴わない」というのは、問題解決の方法を知っていても、実行力がないと意味がない、ということでもあります。
個人的には、
知能:(ヒューリスッティックなものを含む)問題解決法+理解+創造性
知恵:環境適応能力
知識:(データ+アルゴリズムとしての)問題解決法
と考えていて、さらに、
知恵:(種としての)環境適応能力
悪知恵:同種の他の個体を搾取することで個体として環境に適応する能力
と考えています。
にゃー。(←特に意味はない)
(Maria)
上野のオフ会に参加した人には既にご紹介しましたが、ケネス君というイギリスの北アイルランド地方に地方に住んでいる12歳のASの少年が、10歳のときに書いた手記が、最近『東京書籍』から、『ぼくのアスペルガー症候群 もっと知ってよ ぼくらのことを』というタイトルで出版されました。
ケネス君は掃除機の音や字を書くことが苦手だったりするそうですが、数学の才能はぴか一でなんとMensa(高知能指数協会)の会員だそうです。ASだと診断されたのは8歳のときで、苦手なスキルの習得にはABA(応用行動分析)が功をそうしたそうです。
好物はレッド・レスターチーズで、愛用のチーズおろしでおろして食べるのが格別のようです。趣味は読書で、学校の図書館にある本を全て読破し、先生が掲示板に貼り出す生徒の読書リストには、『名前=ケネス、読んだ本=全ての本』と書いてあるとか…愛読書はハリー・ポッタシリーズだそうです。
驚いたことにこの本を書くこと北アイルランドの教育庁の人から勧められた時、彼は「ぼくの使命です!」といって、快く引き受けたそうです。周囲の人がテープレコーダに録音された彼の言葉をタイプしたり、どのような感じで書きたいことをまとめるのかを指南したりして、彼をバックアップし、本を作り上げていったそうです。
この本には、自分のハンディのこと・自然環境のこと・音楽のこと・家族のこと…など彼が感じていることが、克明にまとめられていて、それだけでも『AS人は何も感じてない!』という某人類学者の見解は大間違いで、環境を変えればその根拠となったようなかんしゃくやパニックなどの問題行動が確実に減り、ASの子に才能が花開いてくるということを世間に訴えるのに十分な迫力が感じられます。
ぜひ読んでみてください(^o^)
Mariaさん wrote:
> ある人に「協調運動の困難というのは、文字を書くのにも関係がありますか?」と質問された。
>
> あたしは字をきれいに書こうとすると、文章をまちがえる。
> 文章をまちがえずに書こうと思うと、字が汚くなる。
> ちゃんと下書きをし、両方に気を配っていると、ときどきなぜか違う字(それも、大抵ひらがなだったりする)を書いている……(T_T)。
最近読んだ本の中にも、似たような意味の記述があったなぁ。
#「書く」というのはとても緻密な作業で、文案を練るのと、字を図形的に描く行為とを、同時にこなさなくてはいけない。というのも「二つ以上の事を平行して同時に考える」事が私はとても苦手だったからだ。「線」が一本でも多くても少なくても誤字になってしまうから、画数の多い漢字を自分の手で一つ一つ正確に書き出す必要があったし、何か考えながら文字を書くと、今度は字がくしゃくしゃになってしまう。
(『平行線』p.122より)
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