アスペルガーの館の掲示板(旧)

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Re: 名前について 11413へのコメント
No.11414  Thu, 7 Mar 2002 14:23:37 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

Maria wrote:
> えー、ちょっと古い話。
>
>>
> 「高機能自閉症」と「アスペルガー症候群」は、ときどき使い分けられていますが、「コミュニケーションの障害」と「言語の遅れ」が同一のものを指しているとすれば、言語の遅れのあるなし(あるいは、言語的コミュニケーション障害の程度の差)が「高機能自閉症」と「アスペルガー症候群」を分けるものであり、「アスペルガー症候群」は「高機能広汎性発達障害の一種である」ということになります。
 『高機能』という言葉のニアンスが私には良く理解できません。ともすれば、無用な誤解を招く恐れがあると思います。現に以前この掲示板にカキコしてきた人のなかにも、この用語のせいか「自分はお前と同じような馬鹿じゃない!お前のようなやつは死ね!」と、精神障害者の人を罵倒するようなレスを書いた者がおりました。さらには、この言葉の対極におかれた『低機能』の人やその家族が、いわれのない偏見さらされる恐れだってあります。
 『高機能』だからといって、100%いわゆる『普通』に社会生活を円滑におくれている人は極めて少ないわけですし、そのため適切なサポートを求めている人が多いわけですから…
 

> 「アスペっ子」と言ったときに、この「アスペ」は単純に「アスペルガー症候群」の略ではないように思います。明確な「病像」というか「症候群」というか、「アスペらしさ」という積極的な意味があるように思うんですよ。「まだ飼い馴らされていない野生の思考が、“ことば”として溢れてきている」みたいな感じがするんです。
> この『アスペルガーの館の掲示板』では、「アスペ」あるいは「AS」という言葉に、わりと積極的な意味を持たせて使ってるひとが多いような気がします。
> どうなんでしょう。あなたは「AS」「アスペ」「アスペっ子」という言葉に、どんなイメージを持っていますか?
 私は、ハンディに負けずにおおらかなに育っていって欲しいという意味をこめて、「アスペっ子」という表現を使っています。

がんばれ、アスペッこ!
YOU 'LL SHINE BRIGHTLY,SOMEDAY!(^ O ^)


名前について
No.11413  Thu, 7 Mar 2002 12:17:35 +0900  Maria [この発言にコメントする]

 えー、ちょっと古い話。

 雑誌『日経サイエンス』2000年5月号(SCIENTIFIC AMERICAN Feb. 2000)に掲載された、P.M.ロディエ(Patricia M. Rodier)『妊娠初期に決まる自閉症(The Early Origins of Autism)』というあんまり評判は芳しくないけれど有名な論文があります。

 で、その中の囲み記事によると、自閉症(Autisum)の診断規準というのは三つあって、

●社会的関係の障害
 他人とのつきあいに必要なアイコンタクトや表情、ジェスチャーを示すことができない。気楽に過ごせない。同年代の仲間との関係を築くことができない。

●コミュニケーションの障害
 言葉で表現できず、それを身ぶりで補うこともできない。十分な発語能力を持っているにもかかわらず、会話を開始したり、続けることが困難。言語に異常がある(例:答える代わりに相手の質問をそのまま繰返すなど)。

●興味と行動の制限と反復
 1つの事柄や行動に異常な執着を示す。変化を嫌う。意味もなく日常行動や儀式を繰返し行なう。手をばたばたさせるなどの反復動作。

ということになっているのだそうです。

 で、「広汎性発達障害(PDD−NOS)」は「自閉症の診断規準の一つでも満たさないもの」を表わし、「アスペルガー症候群」は「IQが正常で言語の遅れがない患者」を示すのだそうです。ですが、この囲み記事からは、「アスペルガー症候群」が「IQが正常で言語の遅れがない(自閉症の)患者」なのか、それとも「(広汎性発達障害の)患者」なのかは読み取れません。

 「高機能自閉症」と「アスペルガー症候群」は、ときどき使い分けられていますが、「コミュニケーションの障害」と「言語の遅れ」が同一のものを指しているとすれば、言語の遅れのあるなし(あるいは、言語的コミュニケーション障害の程度の差)が「高機能自閉症」と「アスペルガー症候群」を分けるものであり、「アスペルガー症候群」は「高機能広汎性発達障害の一種である」ということになります。

 さて……ここでちょっとイヤな話をむし返そうと思います。

 「コミュニケーションの障害」と「言語の遅れ」が、あたしたちが知っているAS、あるいはアスペでは、同一の意味を持たないんですよ。
 アスペっ子の場合、その会話の内容が、なんというか、多くの人が「宇宙人と話しているような」「ほとんど異次元」と表現するような、そうした、“多くの人にとって”「意味不明な」ものだったりするわけです。
 これ、いわゆる「破瓜型精神分裂症」、すなわち現実と意味の乖離が起きている人の会話(吉田戦車の『感染(うつ)るんです』の世界)とごっちゃにされてたりするのですが、そうではなかったりします。むしろ、極端に論理的なんだけど、大人のようにその論理が統制されていないので、意味がつかめない。だから、あたしのような日本語について研究している人間にとっては、なんだかとてもよくわかってしまうし、興味も引かれてしまう。その意味では、あたしはかなり典型的な、“統制された”アスペルガー症候群だと言えると思います。ここで問題にしているのは、あくまで“統制された”ね。“社会化した”ではなくて。

 とはいえ、「アスペルガー症候群」の子供が、全部が全部「宇宙人」ではないわけです。そういう「わけのわからなさ」に理解のない親や教師というのもいるわけだし、日本のほとんどの家庭には「親子間の論理的な対話」という習慣がありません。そこには権威とか感情とかに基づく会話だけがあって、「内なる言語」が「統制された言語」として「外なる言語」に成長してゆくことを阻んでいるかもしれません。

 「アスペっ子」と言ったときに、この「アスペ」は単純に「アスペルガー症候群」の略ではないように思います。明確な「病像」というか「症候群」というか、「アスペらしさ」という積極的な意味があるように思うんですよ。「まだ飼い馴らされていない野生の思考が、“ことば”として溢れてきている」みたいな感じがするんです。

 この『アスペルガーの館の掲示板』では、「アスペ」あるいは「AS」という言葉に、わりと積極的な意味を持たせて使ってるひとが多いような気がします。

 どうなんでしょう。あなたは「AS」「アスペ」「アスペっ子」という言葉に、どんなイメージを持っていますか?

 (Maria)


Re: 質問(知能・知恵って何だろう?) 11387へのコメント
No.11412  Thu, 7 Mar 2002 11:52:54 +0900  釈 [この発言にコメントする]

ふれ さんwrote:
>聖書では、悪知恵を次のように戒めています。
>   ☆ヤコブ3:15
>    「それは上から下る知恵ではなく、地的、動物的、悪霊的なものです。」

 私は長いこと「動物的」な母性愛に飢えてました。そしたら出産前の猫が,予行演習に私を抱いて寝てくれました。マザーリング療法です。上等でした。この世から逃げたい気がなくなりました。ヒトの性格を非難しても,誰も救われません。
 神という概念は,本能旺盛な人には薬になるのかもしれませんが,傷ある心には毒です。神経症を養成します。知的な善で健康は作れません。「地的」な底力なしには,生活を続けられません。
 仏は不足を責めません。不足あればこそ,苦を救おうという主体が阿弥陀仏です。


Re: 協調運動の困難 11399へのコメント
No.11411  Thu, 7 Mar 2002 11:49:36 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

>Mariaさんwrote
>> 「学習指導士」みたいな人って、いないのかな。(←「あんたがやんなさい」とか言われそうだな(-_-;))
>私はASについてはまだまだ勉強不足で,言うことが的はずれかもしれませんが,
>もっとASについての認識が広がって,「学習指導士」みたいな人の必要性がはっきりすれば,きっと増えていくのでは・・・と,思ったりしています。

軽度発達障害児の教育には、その子の特性を吟味して教え方を工夫することができる専門家の協力が不可欠だと思います。
 こういうと奇妙に思う人がいるかもしれませんが、その専門家というのは、他ならぬ私たち『青年期の軽度発達障害者』なのかもしれません。
 現に『自閉症だった私へ』の著者ドナ・ウィリアムズさんは、発達障害児の学習の手助けをする仕事をしています。
 我が国でも、どこかの自閉症の専門家が我々のような者に研修を施して、お膳立てをして下さればの話ですが、優れた『学習指導師』が誕生する可能性があります。


Re: 協調運動の困難 11406へのコメント
No.11410  Thu, 7 Mar 2002 10:41:32 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

Mariaさん wrote:
> 「わからない」ことに魅かれ、「できない」ことに“きゅうっ”となる。「わかるはずだ」「できるはずだ」という信念を大事にしたい。

 失敗をおそれずに挑戦していく意志を育てたいと思っています。現在はむずかしい状態ですけど、励ましは続けています。

> ついつい手をだしてしまったり、「ほら、これはこうするのよ」みたいに答えを教えてしまうのは、子供に対してとても失礼なことだとあたしは思います。

 日常が忙しすぎるのも、ひとつの理由でしょう。病を得てのんびりしてみると、いかに今の社会が突っ走っているかに気づかされます。両親共に働いていないと食えない人も多い時代だから……せっかちになるんだよねぇ。(←人のことは言えないけど)
 娘は小2の夏までおねしょしとったぞ。夜パンツ(大人用の紙オムツ)を履かないと安心できず、眠れなかった。思えば三才半でトイレット・トレーニングを始めてから途中で挫折し、周りじゅうにやいのやいの言われても無視して待っていたら、ある日突然しなくなったんだよ。
 学びとは違う話になったけど、「待つ」ことって大切です。

> 親や教師は、「学ぶこと」「発見すること」の楽しさを、失っちゃいけないんです。べつに、机にむかって勉強しろ、とかいうんじゃありません。目を曇らせるな、日常をいきいきと見つめろ、ということなんです。

 心が曇りの日もありますけど、元気があるときは一緒にはしゃいじゃいたいですね。楽しいことはおとなも子どもも共に楽しめるものです。(わたしの場合は子どもを差し置いてはしゃいでしまうのが、ちと難点)

> 都会を離れたどこか田舎で、自分で作ったお米や野菜やお味噌やお茶の味をしっかりと確かめ、「そうか、こういうことなんだな」と納得する人生とかいうのも、あるはずなんです。それを「隠遁」「逃げ」と見るのは間違いなのね。ただ、それを「伝える」努力はしてくれなきゃ困る。そう思うから、あたしは書きます。

 とーちゃんと虫採りにいくとか、かーちゃんと花摘みにいくとかから始まって、いつの間にか一人であるいは友達と、川へ山へ海へ出かけていく子どもというのも少なくなりました。でも、いなくなったわけじゃないのね。「大工さん」や「農家」になりたいと言う子どももいます。
 まだ希望を失いたくないなぁ。おとなだって、やればできるよね、きっと。

> 子育てって、こういうことだと思うんですよ。べつに、毎日じゃなくていいんです。「そうだ、ちゃんとした朝ごはんをつくろう」という日が、月に一度でもあればいいとおもう。なんだったら年に一度、ちゃんとしたお雑煮を作ろうとか、それでもいい。
> 子供の中に、ぶれない芯を作ってやる。それが教育、それが躾、という気がします。

 いつかは何かになるんだものね。どれだけ「楽しい」を積み上げてやれるかが、大事なんですね……。

> 子供のいないあたしが言うのも、口はばったいけど。

 いえいえ、いずれは子育てするでしょ? そんときゃ仲間よ、楽しんじゃいましょ。たくさん、ありがとうございました(^o^)


Re: とても苦しい。 11405へのコメント
No.11409  Thu, 7 Mar 2002 00:52:31 +0900  Maria [この発言にコメントする]

こーさん wrote:
> ちょっと前まで自分なりに必死で調べて、人格障害かもしれないと思いつつ
> アスペの方もかなり思い当たる節があってここにたどり着きました。
> 宜しくお願いします。

 こちらこそ。m(_ _)m

 最近いろいろあってボーダーライン性格(境界症例とは違います。念のため)の人には冷淡というより攻撃的なあたしではありますが、このサイト、人を甘やかさない(所詮は他人事だし。基本的に他人に入れこまないのが自閉症方面の人間)反面、「自分でなんとかしたい」と思ってるひとに客観的な助言をするという点ではけっこう定評があるようです。

> 会社では部署の人間全てに変人で嫌なやつ、という見方をされていたらしく
> 私がやめるときはみんなで祝賀会をしたことを聞いて本当にショックでした。
> 自分では仕事は一生懸命やってるつもりだったし、人と仕事以外で話すのが
> 苦痛だったので、それを態度にもろに出したり仕事が終わったら
> 機械的にいつも家に帰るという毎日で、今から思えば普通の神経ではこういう
> ことをしないのだ。とやっと分かりました。

 えー、こーさんは男性のようですが、社会性や能力はあるのに自己認識に自信がないという、「自分は普通ではない」という違和感をお持ちであるようにお見受けいたします。

 なんでかっていうと、「部署の人間全て」「みんなで」「いつも」とかいった誇張がある反面、「されていたらしく」「聞いて」「普通の神経では」といった、ちゃんとそれに対するバランスを取ろうとする配慮をしてらっしゃるからです。

 たぶん世の中にはこーさんより傍迷惑な存在は厭んなるくらい存在するし、そういう連中のほうがこーさんよりよっぽどでかい面をしています。だから他人に迷惑をかけていいっていうものでもないのですが、とりあえず、それほど迷惑にならない範囲で人に甘えることを覚えるのもいいかもしれません。

> それでも仲がよかった人はいたのですが、その人たちも私をよく思ってない人と
> 最後は徒党を組んで孤立状態になりました。
> やはり何でも新しい環境がすごく苦手でおびえさえしていたこと、シミュレーションとおりに動いていると(人から何かをしてもらったらすぐに有難うと言うなど)
> 普段融通のきく態度をとってないくせに変に計算高いところがあると
> はっきり指摘されたこともあります。

 役に立ってないクズがどう立ち回ろうと冷笑されるだけです。女性で有能だったらまたそれなりの軋轢もあるので、あたしはこーさんが男性で有能な人だと判断しました。

 嫉妬には対処する方法がありません。有能な人を仕事上のパートナーとして選んだほうがいいと思います。

> 最後には誰も私を相手にしてくれず、後輩からもひどい態度をとられ自信喪失、
> 今ではそのことが尾をひいて早く死んでしまいたいと自虐的なことばかり考えるようになってしまいました。

 あたしにはあたしを認めてくれる大勢のひとがいます。こーさんにもおそらく一人くらいはいるはずです。誰か大事なひと一人に認めてもらえれば、わりと簡単に立ち直っちゃうと思います。

 あたしのよく知っているひとで、結婚したとたんにいきなり若返ってしまい、ご近所で「何があったんだ」みたいに噂になってしまったひとがいます。「どうやらひと回り以上も年下の女性と結婚したらしい」「やっぱり」。何が「やっぱり」なのかわかんないけど、「誰かに愛されている」というのは、絶大な自信になります。

 それ以外にも、「あの人は、何かやる人だ」みたいに才能を信じてくれているひとがいるというのは、やっぱり自信になります。仕事を通じて知り合ったひとが、励ましてくれるかもしれません。「ずっとご無沙汰してていまさら連絡をつけるのもなんだし、ひょっとしたら私のことなんか忘れてるかもしれない」みたいなことを考えずに、連絡を取ってみるのはどうでしょう。忘れられてたら忘れられてたでいいじゃないですか。まあ、恨まれてたら厭だけど、それはそれで反省材料にはなるし。(←あたしもあっちこっちご無沙汰してるなぁ……人に言うまえに自分でしろっていうのよね、まったく)

 そんなわけで……無理せずぼちぼちいってください。

 結果がよければいいですね。あたしも人が不幸になるより幸せになってくれたほうが嬉しいし、それに自分が寄与できたと思うと、嬉しいですし。

 (Maria)


Re: とても苦しい。 11405へのコメント
No.11408  Thu, 7 Mar 2002 00:44:40 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

こー wrote:
>初めまして。私は社会に出てから初めて自分では選択不可能な対人関係で
>人と衝突し、人に嫌われまくり、今ではひどい抑うつ感に悩まされています。
>会社では部署の人間全てに変人で嫌なやつ、という見方をされていたらしく
>私がやめるときはみんなで祝賀回をしたことを聞いて本当にショックでした。
 ひどいやつらだ!
>自分では仕事は一生懸命やってるつもりだったし、人と仕事以外で話すのが
>苦痛だったので、それを態度にもろに出したり仕事が終わったら
>機械的にいつも家に帰るという毎日で、今から思えば普通の神経ではこういう
>ことをしないのだ。とやっと分かりました。
>それでも仲がよかった人はいたのですが、その人たちも私をよく思ってない人と
>最後は徒党を組んで孤立状態になりました。
>やはり何でも新しい環境がすごく苦手でおびえさえしていたこと、シュミレーションとおりに動いていると(人から何かをしてもらったらすぐに有難うと言うなど)
>普段融通のきく態度をとってないくせに変に計算高いところがあると
>はっきり指摘されたこともあります。
>最後には誰も私を相手にしてくれず、後輩からもひどい態度をとられ自信喪失、
>今ではそのことが尾をひいて早く死んでしまいたいと自虐的なことばかり考えるようになってしまいました。
 これは悪質ないじめです。辞めて正解だったかもしれません。
>ちょっと前まで自分なりに必死で調べて、人格障害かもしれないと思いつつ
>アスペの方もかなり思い当たる節があってここにたどり着きました。
>宜しくお願いします。
 かなりその可能性は高いと言えます。ただASかどうかということは、専門家(児童青年精神科医)の先生でないと判断できません。


流動性知能発現不全症候群??
No.11407  Thu, 7 Mar 2002 00:28:31 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

知能には『結晶性知能』と『流動性知能』の2種類があるようです!
 『結晶性知能』というのは、言葉や経験を通して蓄積されていく知能であり、「富士山の高さは3776m」「うらぶれた=落ちぶれた」「1+2=3」というように、『AはBである』的なことをどれだけ理解しているかということを指すようです。仕事にはあまり必要ありません。
 これに対し『流動性知能』は、新しい状況に適応していくための知能で、「間違え探し」や「図形にまつわる計算」「文章題を解く」「物事のパターンの検出」「設計図の読解」「人の動作を模倣する」といった、『想像力』を要求される作業的な能力で、仕事をできたり・スポーツが優秀な人は、これが優れているようです。
 WAIS−R知能テストの『積み木模様』課題は、流動性知能の検査の一例で、これからやる人もいると思いますので詳細はお伝えしませんが、パズルの問題です。ある有名サッカー選手は、この得点が人並みを外れてよかったそうです。
 ASや非言語性LDの人の中には、『結晶性』のほうは良いけど『流動性』のほうはボロボロという人が多いような気がします。私もその中の1人で、30になっても無職のままでいる一因です。とにかくめちゃくちゃな『不器用』で、融通が利かないほうです。センター試験の数学で2回も惨憺たる得点で、行きたかった国公立の大学には進めませんでした。

AS(or非言語性LD)=流動性知能発現不全症候群

なのかな(〜_〜)?





  


Re: 協調運動の困難 11403へのコメント
No.11406  Thu, 7 Mar 2002 00:03:35 +0900  Maria [この発言にコメントする]

I wrote:
> 「わかる」ことは、「おもしろい」。「できる」ことは、「たのしい」。

あさかぜさん wrote:
>  そう、これなんですよ。学校の先生に、ここを考えて欲しいと思うのね。

 あたしが育った家には和室があって、ガラスのサッシに飾り格子があしらってありました。で、それが4×7の格子になってたのね。

 で、ある角からつーっと斜めに小さな四角の対角線をたどって、どこかの辺につきあたったらそこで“反射”して、それを繰返してまた角につくまでたどってゆくと、すべての小さな四角を一回づつたどることができるのね。

 それができるのは、縦と横の四角の数が素になっている場合(最大公約数が1の場合)であることに気づくまで、十年以上かかったかなぁ。とにかく、コンピュータのプログラムを書くようになってから、あらためて分析してみて、「ああ、そうか」と思いました。

 「わからない」ことに魅かれ、「できない」ことに“きゅうっ”となる。「わかるはずだ」「できるはずだ」という信念を大事にしたい。ついつい手をだしてしまったり、「ほら、これはこうするのよ」みたいに答えを教えてしまうのは、子供に対してとても失礼なことだとあたしは思います。

 だから、あたしは「同じレベルの仲間」の間で「わからないヤツ」「できないヤツ」を差別するのはいいことだと思ってます。「わかった」人間と「わかってない」人間、「解けた」人間と「解けない」人間は、別の世界にいるんです。
 パズルは、自分で解くからおもしろい。その楽しみを奪っちゃいけません。それは推理小説を読んでいる人に、「犯人はこいつだよ」と囁くようなものです。

 パズルの「解き味」というのがあります。「ああ、そうだったのか」という爽快感と、「おお、よくできている」という感動。

 大人は、子供がつまらないことに昂奮している、と呆れたりします。わかってないなぁ、と思うんだよね。プログラマーも十年やってるとすれっからしになっちゃってさ、「番兵(センチネル)」とか「いけにえ」とかいった技法だともう昂奮できなくなっちゃうのよね。新人プログラマーが、「こっ……こんなテクニックがあったんですか!」とかいって驚いてると、「ああ、あたしもこういう時期があったわね」としみじみしてしまう。バブルソートとセレクションソートとクイックソートの効率を比較して「ほー」とか感心してた時代にはもう戻れないのね、とかいって涙してしまいます。

 子供の感動を共有できないっていうのは、子供の頃のそうした体験を忘れてしまっているということであり、ものごころついてからそういう体験を積みかさねてないってことなんですよ。

 だから、親や教師は、「学ぶこと」「発見すること」の楽しさを、失っちゃいけないんです。べつに、机にむかって勉強しろ、とかいうんじゃありません。目を曇らせるな、日常をいきいきと見つめろ、ということなんです。

 ファイナルステージを考える会・編『末期がん情報 余命6カ月から読む本』海鳥社、という本が、いま手元にあります。その中に、『余命6カ月からの楽しみ おいしい粥…コトコトコトコト気長に炊いて』という一文があります。

 うちの所長のJoshyaさんが、突発性拡張型心筋症と診断され、「平均余命が五年とちょっと」ということを知ってから、この本に出会いました。当時は、平均余命を超えて生きるのがなんだか申し訳ないみたいな気持がしてたそうです。自分が余計に生きると、他の人の余命が減っちゃうんじゃないか、と。で、そんななかで、この本を読んで「お粥のおいしさ」というものに出会ったのですね。それ以降、昆布出汁とか、梅干とか、かつおぶしとか、お茶とか、いりこ出汁とか、そういった「日常の中にあたりまえにありすぎて、ちゃんと味わっていなかったもの」を掘り下げるようになりました。

 あたしたちの日常というのは、ほんとうはこんなに豊かだったんだ。そういう気持を、病気するまで持つことができなかったことが、寂しいと思います。まあ、当時はバブルまっさかりだったしな。小市民的な幸せ、というものが、大事にされない時代だったし。

 都会を離れたどこか田舎で、自分で作ったお米や野菜やお味噌やお茶の味をしっかりと確かめ、「そうか、こういうことなんだな」と納得する人生とかいうのも、あるはずなんです。それを「隠遁」「逃げ」と見るのは間違いなのね。ただ、それを「伝える」努力はしてくれなきゃ困る。そう思うから、あたしは書きます。

 子育てって、こういうことだと思うんですよ。べつに、毎日じゃなくていいんです。「そうだ、ちゃんとした朝ごはんをつくろう」という日が、月に一度でもあればいいとおもう。なんだったら年に一度、ちゃんとしたお雑煮を作ろうとか、それでもいい。

 子供の中に、ぶれない芯を作ってやる。それが教育、それが躾、という気がします。

 子供のいないあたしが言うのも、口はばったいけど。

 (Maria)


とても苦しい。
No.11405  Wed, 6 Mar 2002 23:54:21 +0900  こー [この発言にコメントする]

初めまして。私は社会に出てから初めて自分では選択不可能な対人関係で
人と衝突し、人に嫌われまくり、今ではひどい抑うつ感に悩まされています。
会社では部署の人間全てに変人で嫌なやつ、という見方をされていたらしく
私がやめるときはみんなで祝賀回をしたことを聞いて本当にショックでした。
自分では仕事は一生懸命やってるつもりだったし、人と仕事以外で話すのが
苦痛だったので、それを態度にもろに出したり仕事が終わったら
機械的にいつも家に帰るという毎日で、今から思えば普通の神経ではこういう
ことをしないのだ。とやっと分かりました。
それでも仲がよかった人はいたのですが、その人たちも私をよく思ってない人と
最後は徒党を組んで孤立状態になりました。
やはり何でも新しい環境がすごく苦手でおびえさえしていたこと、シュミレーションとおりに動いていると(人から何かをしてもらったらすぐに有難うと言うなど)
普段融通のきく態度をとってないくせに変に計算高いところがあると
はっきり指摘されたこともあります。
最後には誰も私を相手にしてくれず、後輩からもひどい態度をとられ自信喪失、
今ではそのことが尾をひいて早く死んでしまいたいと自虐的なことばかり考えるようになってしまいました。
ちょっと前まで自分なりに必死で調べて、人格障害かもしれないと思いつつ
アスペの方もかなり思い当たる節があってここにたどり着きました。
宜しくお願いします。


Re: 協調運動の困難 11400へのコメント
No.11403  Wed, 6 Mar 2002 20:25:49 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

Mariaさん wrote:
> 「わかる」ことは、「おもしろい」。「できる」ことは、「たのしい」。

 そう、これなんですよ。学校の先生に、ここを考えて欲しいと思うのね。
 困難がたくさんあっても、子どもに「学習の機会」を与えてやりたいと願わない親はいないと思うんです。でも、「まず学校へ来ること、教室へ入ること」が前提なんです。学校へ行っても教室に入れない生徒は、不登校とは呼ばれないけど「学習の機会」を与えてはもらえません。遊んではいますよ。出席扱いにもなります。で、それだけなのね。

 娘は通常学級は無理だから、特殊学級をお願いしました。いい先生で、心配はしてくださいます。でも、とにかく「学校へ連れて来ること、教室へはいること」ができないうちは、学校と連携して自宅学習を行いたいとお願いしても、受けてはもらえないのです。学校へ顔だけ出せれば「出席」ですが、本当にそれでいいのか?と思ってしまいます。
 わたしだって税金を納めている日本国民のひとりなのよ。子どもの「学ぶ権利」を保障してやれない情けなさを、どうすればいいんでしょう。(タメ息)

> 「学校の勉強なんか役に立たない」なんていうことを、平気でいう人がいます。それはとても怖いことだと思います。自分のしていることの「意味」や「位置づけ」が失われているのに、平然としていられる。あんたそれじゃロボットだってば、と言いたくなります。

 怖いですよ、確かに。何のために学校教育制度があるんでしょうか。
 発達障害を理由に“学校をさぼっている”とか、免罪符のように使って“ずるい”とか言われたくないです。こっちだって必死でやっているんですよ。「学ぶことは楽しいこと」だって、教えてやりたい。基礎学習くらいは、きちんと受けさせてやりたい。その方法を模索しているのに、肝心の教育の専門家が役に立ってくれないのでは……。
 「あとは、お母さんががんばって学校へ連れてくるだけです」って、学校へ連れて行きさえすれば、ちゃんと教育を受けられるってことなの? 本当にそうなの?
 とてもそんな感じはしないんですけど。

 Mariaさん、いろいろとアドバイスをありがとうございました。

> 文章を書くこと、計算をすることが、自分の生活にどうかかわってくるのか、ということを、ちゃんと子供に伝えなきゃいけない。

> いろいろと手を動かし頭を使って試行錯誤してみることで、イメージをつかんでゆく。こういう行為と、ただただ計算練習を繰返すのでは、意味が違うんです。

> 道具だとかテクノロジーだとかテクニックだとかいった、目先のことに惑わされないほうがいいと思います。子供の頃に、「概念」「イメージ」をいっぱい貯えておくというのは、だいじです。とくに、「ものを作る」ことをいっぱい体験させておくと、大人になってから、いろんな意味で役に立ちます。

 日常生活のなかでできることは、常に探して一緒にやっていくつもりです。

> でまあ、そんなこんなですったもんだしてるうちに、「量の感覚」と「数の感覚」が統合されていって、計算も要領よくできるようになったりするんですよ。そうなるのはたぶんずっと先、高校生とかになってからです。

> 焦ることはないと思うぞ。

 はい。ありがとう。元気が出てきました。

> 伝統工芸や特種技能に類するような、高度に訓練された人間でなければ作れないものを作り、高度な教育を受けた人間でなければできない仕事をすることでしか、日本人は生きてゆけなくなっちゃった、と思ったほうがいい。

 これからの時代はそういう方向へ行きそうですね。「個」の能力をつぶされることなく生かせる方向へ、少しずつでも変わってゆくことを願います。また、わたしたちが変えていけるかもしれないこと、ひとつずつでも変えてゆくための働きかけは何ができるかを考えながら、娘と共に育ちたいと思います。


Re: 協調運動の困難 11399へのコメント
No.11402  Wed, 6 Mar 2002 19:28:25 +0900  グルンサ [この発言にコメントする]

>Mariaさんwrote
>> 「学習指導士」みたいな人って、いないのかな。(←「あんたがやんなさい」とか言われそうだな(-_-;))

ピーブーさん wrote:
>もっとASについての認識が広がって,「学習指導士」みたいな人の必要性がはっきりすれば,きっと増えていくのでは・・・と,思ったりしています。

 「学習指導士」…こういう人は、大いにほしいですね。でも、まずはAS等の発達障害を知り、理解してもらうことから始まるのかな?
(「してもらう」というのも、なんか違う表現という気がしますが…。)


Re: 協調運動の困難 11393へのコメント
No.11401  Wed, 6 Mar 2002 17:14:05 +0900  ふれ [この発言にコメントする]

私もへたくそな字を書くので、きれいな出来上がりは書類関係では、大体あきらめています。

パソコンではがきサイズで色々なことを書いて、印刷したあとで、はさみで切り取ってのりで貼り付けるという苦肉の策で切り抜けたことよくあります。この手はすべての書類には使えないのですが、学校関係なら先生にお話して了解を得ておけば、案外やれると思います。


Re: 協調運動の困難 11396へのコメント
No.11400  Wed, 6 Mar 2002 14:52:35 +0900  Maria [この発言にコメントする]

I wrote:
> 当時東海クリエイトという会社から出ていた初期のワープロ・ソフト

 たしか『ユーカラ』です。言語工学研究所の『松』やジャストシステムの『JWord太郎』(現在の『一太郎』)が八万円代だったころに、ほぼ半額だったような気がします。

 当時、ワープロというと「清書に使うもの」という通念があって、「べつにわざわざワープロを使わなくても、手書きでもいいのに」と言われました。プリントアウトを持っていって、「これに赤を入れてください」というと「もったいない……」と言われました。

 ビジネス文書なんて、ほとんどは場所・日時・品名・単価・個数あたりがちょこちょこ違うだけなので、そういう書式の文書を一度作ってしまえば、あとは文書ファイルをコピーしてちょっとだけ変えればできあがり。ビジネス文書だから「ワープロの文字には心がこもってない」とか言われなかったし。

 世間ではオフィス・オートメーション(OA)化がどうのITがこうのとか言ってるけど、実際のビジネスはなぁーんにも変わっていない気がします。ビジネスの「形」、モノ・カネ・情報の「流れ」というものが見えてないと、けっきょく何もできない。ただ、与えられた仕事をこなすだけになってしまう。

 日本の高度成長期、中卒が「金の卵」と云われ、地方からの集団就職が盛んに行なわれて、それが上野駅の風物詩みたいになっていた時期があります。「標準語」がやかましく言われたのもその頃です。質の揃った使いやすい単純労働者を生産するのが、当時の義務教育の目的でした。

 だけど、いまやそういう「質の揃った使いやすい単純労働者」は、中国にもベトナムにも大量にいます。「いわれた仕事を、着実にこなす」だけでは、もう対抗できない時代になってしまいました。むしろ、そういう作業は機械にやらせたほうがいい。伝統工芸や特種技能に類するような、高度に訓練された人間でなければ作れないものを作り、高度な教育を受けた人間でなければできない仕事をすることでしか、日本人は生きてゆけなくなっちゃった、と思ったほうがいい。

あさかぜさん wrote:
>  学校の担任に「ええ、ええ、今は計算するにも電卓がありますし、字を書けなくてもワープロがありますからね」と突っぱねるように言われたことが、心のどこかにこびりついていて……

 人間が電卓やワープロの代わりをしても、いいことはなんにもないのね。もちろん、「コンピュータなんか理解しなくていい。コンピュータが使えればいいのだ」みたいな「ブラックボックス」的な考え方もどうかと思うけど、それはそれで一つの見識ではあると思います。

 「学校の勉強なんか役に立たない」なんていうことを、平気でいう人がいます。それはとても怖いことだと思います。自分のしていることの「意味」や「位置づけ」が失われているのに、平然としていられる。あんたそれじゃロボットだってば、と言いたくなります。

 文章を書くこと、計算をすることが、自分の生活にどうかかわってくるのか、ということを、ちゃんと子供に伝えなきゃいけない。

 昔の寺子屋の読み書きの教材は、「往来物」といって、現代のビジネス文書や手紙の例文集みたいなものでした。で、そろばんの教材は、「××の売り買い」ばっかりで、「米の値段が銀レートでこれこれ、金と銀の交換レートがこれこれだとすると、金一分で米がどれだけ買えるか。あるいは米をいくらいくら買って、その釣り銭を銀でもらうといくらになるか」みたいなことを題材に計算をするわけです。宮沢賢治は「数学がなんの役に立つのか」と質問されると、「連立方程式を知らなければ肥料の計算ができません」と答えるのが常だったとか。「田んぼの形がこれこれだと、面積はこれこれ。そこに反当たり××キログラムの肥料を施すとすれば、全体で○○キログラムの肥料が必要」とかいう話は、非常にわかりやすい。「米1合(180ml)が150グラムだとして、五キログラムの米は何升何合か」なんていうのでも、いい。

 で、こうした枠組の中でなら、いろんな計算をしても意味があったりするんです。「一合が百五十グラムだと、三合で四百五十グラムだから、三升で4.5キロで、三升三合で五十グラム余る。だから三升三合+1/3合」みたいなやり方もあれば、5000÷150で計算する方法もある。「割合」「比率」「量」「単位」といった考え方や、いろんな計算のテクニックみたいなものまで、いろいろと手を動かし頭を使って試行錯誤してみることで、イメージをつかんでゆく。こういう行為と、ただただ計算練習を繰返すのでは、意味が違うんです。

 もちろん、純粋な計算練習には計算練習で「数構造の美」みたいなものもあるんですが、それはそれでまた別の話。これだって、「構造」という全体イメージがあって、その中にひとつひとつの問題があてはまってゆく。

 道具だとかテクノロジーだとかテクニックだとかいった、目先のことに惑わされないほうがいいと思います。子供の頃に、「概念」「イメージ」をいっぱい貯えておくというのは、だいじです。とくに、「ものを作る」ことをいっぱい体験させておくと、大人になってから、いろんな意味で役に立ちます。

 「大匙十二杯は、何ミリリットルですか?」みたいなケースもあるでしょう。十五×十二=百八十、みたいな計算が、できないことだってあります。そういうときは、「大匙で十二杯計って、何ミリリットルになったかをカップに入れて計る」ことだってできるんだから。「百七十五ミリリットル」だったら「ほぼ合っている」わけで、精度は二桁近く出てます。「量が多いと煮詰まり加減が少ないから、調味料の量は同じでも水は少なめ」みたいな話もあるわけで、「実際にやってみると、必ずしも計算通りにはいかない」こともわかってきます。十八リットル(一斗)の塗料を二十五ミリリットルの容器に小分けしてぴったり六ダースの製品ができるかというと、できません。だいたい足りんなかったり余分にできちゃったりするのね。

 でまあ、そんなこんなですったもんだしてるうちに、「量の感覚」と「数の感覚」が統合されていって、計算も要領よくできるようになったりするんですよ。そうなるのはたぶんずっと先、高校生とかになってからです。

 焦ることはないと思うぞ。

 (Maria)


Re: 協調運動の困難 11396へのコメント
No.11399  Wed, 6 Mar 2002 14:34:42 +0900  ピーブー [この発言にコメントする]

はじめまして。
ちょっと前に友達の子のことで,カキコしたピーブーといいます。
前回,相談した子とは別に,やはり友達の子がASの可能性があると言うことで,病院の児童心理カウンセリングに通っていて,初めてASを知った者です。
ところで,私は「不安神経症」「自律神経失調症」で心療内科に通っています。広場恐怖などがあり,人混み,人前,公共の乗り物が苦手なのです。
で,今は主婦ですが,近所の人に頼まれて,家で小学生に学習の仕方を教えています(外に出かける必要がないので私にとってもよかったです。)。
5名のうち,2名が不登校で,フリースクールにいってますが,そこでは自習時間が50分近くあるもののあくまでも自習で,子どもも新しい知識は得られないままだそうです。そういうことで,うちに来てくれるようになりました。(不登校の子は,教科書に沿って教え,学校に行ってる子は自分で復習を中心に,それぞれのペースでやっています。)
私の友人で小学校の教師を辞めた人も,学習塾ではない,学習の手助けをする仕事がしたいと言ってる人もいます。

Mariaさんwrote
> 「学習指導士」みたいな人って、いないのかな。(←「あんたがやんなさい」とか言われそうだな(-_-;))

私はASについてはまだまだ勉強不足で,言うことが的はずれかもしれませんが,
もっとASについての認識が広がって,「学習指導士」みたいな人の必要性がはっきりすれば,きっと増えていくのでは・・・と,思ったりしています。


Re: 協調運動の困難 11385へのコメント
No.11398  Wed, 6 Mar 2002 14:01:26 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

Maria wrote:
> ある人に「協調運動の困難というのは、文字を書くのにも関係がありますか?」と質問された。
>
> あたしは字をきれいに書こうとすると、文章をまちがえる。
> 文章をまちがえずに書こうと思うと、字が汚くなる。
> ちゃんと下書きをし、両方に気を配っていると、ときどきなぜか違う字(それも、大抵ひらがなだったりする)を書いている……(T_T)。
>
> (Maria)

私も醜筆である上に、写生がまるで苦手です。
 その上分かっているのに、なぜか同じ書き間違いを繰り返してしまうことがよくあります。
 あと『原因』とキーボードで入力しようとすると、『鯨飲』と出てくるように、普通の人と比較すると微妙なところで、言葉の音韻の捉え方が異なっているみたいです。


Re: 協調運動の困難 11393へのコメント
No.11396  Wed, 6 Mar 2002 12:41:01 +0900  Maria [この発言にコメントする]

I wrote:
> あたしは字をきれいに書こうとすると、文章をまちがえる。
> 文章をまちがえずに書こうと思うと、字が汚くなる。
> ちゃんと下書きをし、両方に気を配っていると、ときどきなぜか違う字(それも、大抵ひらがなだったりする)を書いている……(T_T)。

あさかぜさん wrote:
>  な〜んだ、わたしとソックリ同じじゃん。
>  で、これって「協調運動の困難」になるわけっすか?

 えー、漢字ではなくひらがなを間違えるあたりが、それっぽいです。

 漢字というのは、よほど慣れた字でないかぎり、一画一画書くんですね。ところが、ひらがなの場合、「ひらがな一字を書く」というのは、それ自体が無意識なプログラムなんです。で、文章を読むなり考えるなりするというのも、それ自体が無意識なプログラムなんですね。「文章を読むなり考えるなりするというのも」という文も、「[文][章][を][読][む][な][り]…」といった形で処理されるのではなく、「[文章を][読む][なり][考える][なり][する][と][いうのも]」といった形で処理される。だから、「文章を読むなり考えるなりるというのも」とか「文章を読むなり考えるなりするいうのも」とかいった書き間違いをする可能性が非常に高かったりするのね(T_T)。つまり、「無意識なプログラム」同士が競合しちゃうから。

>  例えばの話。娘は字を書くことが苦手で、ものすごく緊張します。わたしも一緒になって緊張してしまうくらい、すさまじい。ひと文字ひと文字を書くのに、それこそ“命がけ”なのではなかろうかと思うくらい全身が緊張しています。見守るこっちも息をつめていて……耐えられなくなって“笑いの発作”が起きたりします。

 これは、ともすれば発動してしまいそうになる「無意識なプログラム」をぐっと押さえ込んで、意識のレベルで解決しようとするもんだから力が入っちゃうんですよ。ともすれば「[文章を][読む][なり][考える][なり][する][と][いうのも]」となっちゃいそうな頭を、「[文][章][を][読][む][な][り][考][え][る][な][り][す][る][と][い][う][の][も]」というモードに固定しようとするから力が入ってしまう。

 「くすくす」「ひひひひひひひ」タイプの“笑いの発作”は、しょっちゅう起こしています。これは抑圧が弱くて、同時にコントロールが効いているからです。で、こういうのはたいてい「泣き笑い」なので、それほど面喰らいません。
 ところが、女性の場合、もともと抑圧に対する耐性が低いというのがあって、そこに無理矢理ぎっちぎちに押え込んでた奴が弾けてしまうと、「げらげらげら」「あーっはっはっはっはっは」になってしまうこともあります。

 ときどき馬鹿にされたと思って怒る人がいます。そうじゃないんだけどな。

> そんなこんなで、「課題の提出」というのは親子して恐怖の対象となり……何かを書かなくてはならないとなると、“どうやって逃げるか”“適当にごまかすにはどうするか”をまず頭に思いうかべてしまうという、まことにもって“正しくない”対応をとっているのでありました……。

 うちのJoshyaさんが就職したのは昭和五十八年、一九八三年です。

 当時の『サイエンス』(現・『日経サイエンス』)の表4(出版用語で裏表紙のこと)にはパーソナル・コンピュータの広告(「強力16ビット・マイコン」だそうです。わはははは)が出ていて、CPUは8086(ペンティアムは80586だから四世代古い)、メモリーはRAM512KB、ハードディスク容量7.8MB、そんでもって価格は百六十五万円です。当時の大卒の初任給が十四万円くらいだったのかなぁ。職場は六十人くらいの部署だったけど、Wangの英文ワープロが一台あってオペレーターさんがそれを使っていて、それ以外にPC98が一台ありました。当時ハードディスク無しで八十万円くらいはしたのかなぁ。IBM5550が九十九万円とかいってたし。

 で、Joshyaさんは初任給の半分くらいをはたいて、当時東海クリエイトという会社から出ていた初期のワープロ・ソフトと自分用のフロッピー(8インチで、一枚千四百円のやつを十枚で一万四千円)を買い、休日出勤の届けを出して、休日に会社にやってきてはタイムカードを押さずに仕事で使う文書のフォーム(例文集みたいなもの)をコツコツ入力していました。で、出す文書出す文書、ぜんぶそのPC98で作ってたのね。

 まあ、中にはどうしても手書きしなきゃいけないものもあったけど、そんなものは鉛筆で書いてコピーを取ればボールペンで書いたのと同じです。当時の非力なワープロ・ソフトではできない複雑なレイアウトは、3Mの55(貼って剥がせるスプレー糊)を使って切り貼りしてコピーして作りました。
 「用兵は拙速を尊ぶんだよ」と上司に苦言を呈されたこともあるけれど、「修正・改訂まで入れるとこっちの方が早いんです」と説明して、実際早かったのでなんにも言われなくなりました。じつは、手書きでやるとそもそもミスが多くて完成しないし、完成しても汚くて読めなかったら完成したことにならないんですよ(T_T)。

 結果が同じなら「逃げ」でも「ごまかし」でもありません。「効率化」です。

>  これじゃいけないんだよなぁ。なにかトレーニングの方法があるはずなのに……。

 ○文章を音読させる。
 ○ローマ字+わかち書きの指導をする。
 ○キーボードを打てるように訓練する。
 ○校正記号を教える。

とかいった方面に向かうのも、悪くないと思います。

>  学校の担任に「ええ、ええ、今は計算するにも電卓がありますし、字を書けなくてもワープロがありますからね」と突っぱねるように言われたことが、心のどこかにこびりついていて……わたしはただ、娘に学習させるにはどうしたらいいのかを相談にいったはずなのに、なんでこうなるのだ?と複雑で混乱したままの状態を、あの時からずっと引きずっているような気がします。

 ディメンジョン(次元)だとかオーダー(概数)だとか有効数字だと誤差かいった概念をちゃんと身につけていないと、電卓を使っても訳のわからない答えを出して平気でいられるようになっちゃいます。漢字が読めなきゃかな漢字変換はできないし、高いワープロソフトを買えばわかりやすい文章が書けるかというとさにあらず、です。

 100と100を足したものと、10と10を足したものと、100と10を足したものの間には、

 100+100 > 100+10 > 10+10

という関係が成立つとか、

 100+10 = 10+100

だとかいったことが、頭に入っているかどうか。こういうことを理解させるのに、「計算する」というのは大事なことです。だけど、計算能力自体は、電卓が肩代わりしてくれます。そこのところの重要性の差が見えなくて、ただただ「課題」にこだわるというのは、いかがなものかと。
 しょっちゅう足し算を間違える数学者もいれば、悪筆+誤字脱字で読めないような原稿を書く印刷所泣かせの作家もいます。

 「教育=苦行」とかいった精神主義を振り回す時代遅れの教師がまだいるのが考えものです。
 数学者の遠山啓さんが、数学の授業をしたあとに、子供たちに「これは勉強か、遊びか」と質問したら、「面白かったから、遊びだ」と答えた、というのは、遠山先生がお気に入りのエピソードです。

 「わかる」ことは、「おもしろい」。「できる」ことは、「たのしい」。
 実験心理学者のスキナーは、「子供というのは最高の実験動物だ。電気ショックで脅す必要もなければ、餌を与えて条件づけする必要もない。『正答すればランプがつく』といった報酬だけで、嬉々として課題をこなし続ける」と言っています。

 子供をネズミ未満の存在だと思っている馬鹿教師がいるのが、困ったもんです。

>  「大人は逃げちゃいけない」って言ったのはたしかMariaさんでしたよね?
>  やらなきゃいけないことは頭ではわかっているのに、現実の行動とは結びついていかない……。
>  「協調運動の困難」ということばを何度も目にしているのに、現実に目の前で起こっていることがらと結びつけて考えることもできていない……。

 具体的に「何をしたらいいか」を提示するのは教師の仕事です。お母さんの仕事じゃありません。で、とてもじゃないけどできそうにないことを、完全にはできないことを承知で「完全にやれ」というのはプロとして無責任です。「これだったらなんとかできる」ことを、「徹底的にやる」ことを教えるのが指導者の仕事なのね。

 走り高跳びだってそうでしょう? 最初っから世界記録のところにバーを置いて、「あれが跳べるように努力しろ」とは誰もいいません。跳べる高さにバーを置いて、確実に跳べるようになったら、ちょっとだけバーを上げる。この繰返しです。

>  だれか、わしに、トレーニングしてくれぇ!! “おかあさん”だけやっていていいよって、言ってくれぇ!! 一度にたくさんのことを考えて実行するなんて、わたしには無理っすよぉ……。

 ホントにそうだよな(T_T)。だけど、学校の先生には指導能力がなく、塾では発達障害児は相手にしてくれない。発達障害児向けの塾かなんかがあって、国で補助とか出してくれれば……って、特殊学級って、そういう主旨でできてんじゃないの?

 「学習指導士」みたいな人って、いないのかな。(←「あんたがやんなさい」とか言われそうだな(-_-;))

 (Maria)

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