アスペルガーの館の掲示板(旧)
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てらば wrote:
>以前「精神障害者保健福祉手帳」が高機能者に当たる県があるってことを聞いたんですけど、
>どこの県でしょうかね?
>
これはどの都道府県でももらえるようです。ASは、精神障害者保健福祉法の第5条が言うところの「精神病質その他の精神疾患」に、該当しているという解釈に基づくようですが…
クビになったんだけど、今まで仕事していた中でうまく行ってた方だから出きれば戻りたい。
>僕は精神の手帳は持っていません!
すみませんでした......
>療育手帳も先月申請したばかりで、まだもらえるかどうかも分かりません。
もらえると良いですね。
以前「精神障害者保健福祉手帳」が高機能者に当たる県があるってことを聞いたんですけど、
どこの県でしょうかね?
とにかく、高機能者が手帳をもらって様々なサポートを受けられること日が来る事を願ってなりません。
てらば wrote:
>「精神保健福祉手帳」を持ってる武田さん、あおびさんがうらやましい限りです。
>私も精神科に通っているし、パニックになるとぎゃあぎゃあ叫ぶから、
>そういう手帳があっても不思議じゃないとは思うけど....
>
>お2人さんはどちらのお住まいですか?
僕は精神の手帳は持っていません!
療育手帳も先月申請したばかりで、まだもらえるかどうかも分かりません。
Maria wrote:
>某院生さん wrote:
>> 「ノーマリゼーション」というのは、現実の捉え方の「画一化」ではなく、一人一人の現実の捉え方を「真実」として受け入れて行こうとする運動なのでしょうか?
> 人間は誰しも怪我をして手足が使えなくなったりするわけだし、妊娠したり年を取ったりして動作が不自由になったりもするわけです。で、社会のすべての人間はそうした人々と家族関係・友人関係・職場関係その他もろもろ(中にはスティービー・ワンダーやレイ・チャールズの音楽が好き、程度の関係もあったりするわけですが)の関係によって潜在的・間接的につながっており、社会に属している人間は、すべて(社会の一部としての)「障害」を抱えている、と言えるのね。
> で、その中で軋轢が起こっている。その軋轢を、双方の歩みよりによって解消してゆきましょう、というのが“normalizetion”なんです。
むしろ日本では、『バリアーフリー』とか『ユニバーサル・デザイン』といった言い方のほうが、ポピュラーだと思います。
> たとえば、水栓(水道の蛇口)やドアノブをレバー式にすることによって、握力のない人、片腕しか使えない人でも操作することができるようになります。
> ただ、混合水栓の場合は、どっちに回すとお湯が出てどっちに回すと水が出るのか、上げると水が出るのか下げると水が出るのか、とかいった操作を統一化しておかなければなりません。目が不自由な人が水栓を操作したらいきなり熱湯が出て火傷した、とかいったら困るわけです。
> そのためにも、水栓の操作方法を統一化しておくことが必要になってくるし、操作する側もそれに対応してどうしたらいいのかを身につけなければなりません。そうやって双方が歩み寄ることで、軋轢を解消してゆくのが“normalizetion”です。
>
もう一つの具体例を示します。草木を育てる園芸といえば日本ではまだまだ趣味・娯楽・道楽といったイメージが根強いのですが、米・英国などの欧米では、もう本当に生活の一部であり、庭やベランダをガーデニングするのはあたりまえというほどの幅広い市民権を得た文化です。
日本で分裂病のことを書いた本の中には『分裂病の人に農業的なことはむきません!』と書いてありましたが、アメリカでは1798にベンジャミン・ラッシュという人が『土いじりは精神病患者の治療に効果的である』ということに気が付き、そのことから園芸によって心のケアをしていこうという『園芸療法』の活動が始まりました。
第二次大戦後、戦争で心身に傷を負って帰還した兵士の社会復帰のため、園芸療法が注目を集め、療法士が個々の障害の程度に応じたユニバーサル・デザインの道具を開発し、それがきっかけで車椅子の人でも園芸が楽しめるようになりました。
1955年にはミシガン州立大学がこの分野での初めての学士号を授与しました。
1952年にデンマークで生まれたノーマライゼーションの思想が世界に広まっていくと、これまで『リハビリ』『娯楽の提供』『職業訓練』といったマイナー意味合いが強かった園芸療法に、『みんなが楽しめるような庭園の創造』という確固とした使命ができました。香りのあるハーブ類や特徴的な触感を持った植物を植えたり水の音を出すような志向を凝らした『視覚障害者のための庭園』がイギリスでできたり、車椅子の人でも楽しめる庭園も作られるようになりました。精神障害・知的障害の人たちの中には、療法プログラムで園芸に関心を持ち、それを生きがいにするようになり、園芸関連の企業に就労したという人もかなりいるようです。
「精神保健福祉手帳」を持ってる武田さん、あおびさんがうらやましい限りです。
私も精神科に通っているし、パニックになるとぎゃあぎゃあ叫ぶから、
そういう手帳があっても不思議じゃないとは思うけど....
お2人さんはどちらのお住まいですか?
あおび wrote:
>
>僕は武田さんのおっしゃったことを満たしています。僕は『精神障害者保健福祉手帳』も持っています。それに、現在でも、精神科デイケアにも通っています。その点では条件を満たしていると思いますが。
それならば万全です。安心して行ってきて下さい!
訓練が始まるのは、毎日9:20からと早いです。早起きをして散歩に出るなど、朝体を動かす習慣をつけておいたほうが良いでしょう。
某院生さん wrote:
> 「ノーマリゼーション」というのは、現実の捉え方の「画一化」ではなく、一人一人の現実の捉え方を「真実」として受け入れて行こうとする運動なのでしょうか?
> (ノーマリゼーション(仏語ではノルマリザシオン)は、フーコーの『監獄の誕生』などで「規格化」と訳されており、「人々の現実の捉え方を一元化させようとする権力」という実感が私にとっては強いのですが……。)
それは英語の“normalizetion”を念頭に置いているからどうしてもそうなってしまうのだな。
“norma”というのはもともとラテン語で「(大工が使う)物差し」という意味。これが英語に入って「標準」「規準」「規範」という意味の“norm”になりました。とはいえ“norm”をドイツ語として「ノルム」と読むと、数学用語で「測度」という意味も出てきます。で、“normal”となると「平熱の」とか「規定の」(研究社の『英和中辞典』を見たら1リットル中に1グラムの溶質を含む、と書いてあるけど、正しくは1リットル中に1モルです)とかいう意味になります。数学では「垂直の」みたいな言葉も出てるけど、「正規分布(normal distribution)」を忘れてはいけません。
でまあ、“normalizetion”には「正常化」とか「規格化」とか「正規化」とか「標準化」とかいったいろんな意味があったりするわけなんですよ。
ミシェル・フーコーの言う“normalizetion”の場合、社会あるいは文明というものを盲目的主体とみる思想がその背景にあるのね。でまあ、武田好史さんのいう「ノーマリゼーション」という場合、障害者をあくまで社会から疎外されたものとみるという意味で視点の欠落があったりなんかもするわけですよ。
人間は誰しも怪我をして手足が使えなくなったりするわけだし、妊娠したり年を取ったりして動作が不自由になったりもするわけです。で、社会のすべての人間はそうした人々と家族関係・友人関係・職場関係その他もろもろ(中にはスティービー・ワンダーやレイ・チャールズの音楽が好き、程度の関係もあったりするわけですが)の関係によって潜在的・間接的につながっており、社会に属している人間は、すべて(社会の一部としての)「障害」を抱えている、と言えるのね。
で、その中で軋轢が起こっている。その軋轢を、双方の歩みよりによって解消してゆきましょう、というのが“normalizetion”なんです。
たとえば、水栓(水道の蛇口)やドアノブをレバー式にすることによって、握力のない人、片腕しか使えない人でも操作することができるようになります。
ただ、混合水栓の場合は、どっちに回すとお湯が出てどっちに回すと水が出るのか、上げると水が出るのか下げると水が出るのか、とかいった操作を統一化しておかなければなりません。目が不自由な人が水栓を操作したらいきなり熱湯が出て火傷した、とかいったら困るわけです。
そのためにも、水栓の操作方法を統一化しておくことが必要になってくるし、操作する側もそれに対応してどうしたらいいのかを身につけなければなりません。そうやって双方が歩み寄ることで、軋轢を解消してゆくのが“normalizetion”です。
たとえば、キャッシュディスペンサーやトイレの個室が空くのを待っているときの「フォーク並び」や、エスカレーターの片側を急ぐ人のために空けておくのも“normalizetion”。“normalizetion”は、決して障害者や弱者のためにだけ行なわれるものではないのですよ。
最近、何かがあったときに子供が助けを求められるように、掲示のしてある商店を見かけます。ああいった形で、コミュニケーション等に障害のある人が助けを求められるような人が自分から進んでなにか目印になるようなものを身につける、といったボランティア活動なんかがあってもいいと思います。で、障害のある人は、困ったことがあったらそういう人に助けを求めるとか、あるいはそういう人が運営しているサポート機関に連絡を取って下さいというカードを見せるとか、そういった体制を作る。こういうのだって、“normalizetion”なんですよ。一方的にいまある「ものさし」に自分を合わせるだけが“normalizetion”ではありません。社会の側が積極的に「ものさし」を変え、間口を広げ、敷居を低くしてゆくことも含めて“normalizetion”なんです。
「東京の人間は、冷たい」とかいう人はけっこういます。韓国の人は、「日本人は“冷情”だ」といいます。だけど、日本人、その中でも東京の人間は、相手に対してづかづか踏み込んでくることをしないだけで、じつはけっこう親切な人が多い。だけど、都会で親切にしてもらおうと思ったら、はっきり「助けてほしい」と言わないとだめです。
そんなわけで「助けて」のサインを決めておいて、それを周知徹底させておく、あるいは「遠慮なく『助けて』と言ってください」というサインを決めておいて、それを普及させる。こういう“normalizetion”もあるんです。「ガーディアン・エンジェルス」なんかは、これに近い組織ですよね。
国際関係における関係「正常化」というのも、“normalizetion”です。これに近いイメージを持っていただけると、嬉しゅうございます。
(Maria)
武田好史 wrote:
>青桜 wrote:
>Aさんは「普通=ゴール」と見ているのにたいし、Bさんは「普通=出発点」という捉え方です。実際『買い物』というのは、品物の値段よりも多くのお金さえあれば誰にでもできる行為なのです。「おつりの計算ができる・できるだけ安く済ます・無駄な物は買わない」は、その上手さを表す言葉であり、買い物をしていく上で試行錯誤して子供が学び取っていくことなのです。
つまりノーマライゼーションは、障害者を強引に『普通』という山頂に引きずり上げることではなく、『社会』という名の学校の『普通』という入り口へ優しく導いてあげるということなんです。
質問があります。
太宰治の「人間失格」の最初の部分に「私は、地下鉄が何故地下を走っているのか、登りホームと下りホームをつなぐブリッジが何の為にあるのかが、よくわからなかったのです。」とか書いてあります。主人公は「単に洒落の為に電車に地下を走らせているのだと思っていた」と述懐しているのです。
武田さんのいう「普通=出発点」とは、例えば地下鉄の機能を都市の交通網の合理化という「客観的な」観点から理解するのではなくてもよいという考え方でしょうか。社会的現実の捉え方が人によって千差万別であっても、社会生活を円滑に営んでいくことが出来るという考え方なのでしょうか。
何故このようなことを聞くかというと、私自身が人と共に行動したり、研究発表を
したりする時に、「現実」なるものの捉え方のレベルで後ろ指を指されることが
多いと感じるのです。「現実」の捉え方が根本的に人と違っているが故に、誤解されることが多いことが自分の不満なので、社会的現実の捉え方が人によって多様であることを前提とした社会の仕組みを考えていくべきだと考えているのです。
「ノーマリゼーション」というのは、現実の捉え方の「画一化」ではなく、一人一人の現実の捉え方を「真実」として受け入れて行こうとする運動なのでしょうか?
(ノーマリゼーション(仏語ではノルマリザシオン)は、フーコーの『監獄の誕生』などで「規格化」と訳されており、「人々の現実の捉え方を一元化させようとする権力」という実感が私にとっては強いのですが・……。)
武田好史 wrote:
>私は千葉の幕張のセンターで訓練を受けた一人です。
> 既に診断されて入所まであと一ヶ月ということですが、出た後のためにいちおう地元の障害福祉課のほうへ出向いて、『療育手帳』か『精神障害者保健福祉手帳』の申請手続きをしておいたほうが良いと思います。なぜかというと、障害者枠で仕事を探すときには手帳を取得している方が有利だからです。というのは、障害者雇用に対する企業への助成金は、手帳を持っている障害者を雇用したときに支払われるからです。そのためASのようにもっていない人は、門前払いというところもあります。また療育手帳の場合、申請から都道府県の知的障害者判定を受けるまでには、半年ぐらい待つ場合もあるようです。
> また出た後の当面の落ち着き先として、精神障害者ののディケア施設も一応探しておいたほうが良いかもしれません。保健所で紹介してもらって、3ないし4軒ぐらいは回ってみて、自分にあったところに目星をつけておくと良いでしょう。
僕は武田さんのおっしゃったことを満たしています。僕は『精神障害者保健福祉手帳』も持っています。それに、現在でも、精神科デイケアにも通っています。その点では条件を満たしていると思いますが。
Lingko wrote:
>飛行機の音や洗濯機の音、踏切の音なども好きな私ですが、お金が稼げる稼げないとは特に関係ない気はします。人工物の音か天然の音かという規準で分かれるわけでもなさそうですよ。私も冷蔵庫の音、だめですし。インバーターじゃない蛍光灯の音もだめだし。電気毛布やホットカーペットも、音がうるさくて使えませんし。ファン式の空気清浄機も使えないし。もっとつらいのは、眼鏡の鼻当ての部分のかしゃかしゃいう音でした。
Lingkoさんのほうが繊細さは上らしい。毛布の音は聞こえなかったな。
飛行機の音や洗濯機の音、踏切の音などが好きなのは心に活気があるからで,やっぱりそれがないと仕事という能動的なことが難しいんだと思う。考え込んでるうちに,病院へ行けば傷害年金が受けられると保険所の相談で医師に言われたことがあるのを思い出してしまった。でも,病院行く費用が工面できなかった。
よくまあ,あれからがんばって僧籍とった。南無阿弥陀仏。って,これからだいぶ頑張らないとね。まだ,すぐ涙。
武田好史さん wrote:
> 小学館の英和辞典「PROGRESSIVE」には、KNOTの意味として「(船の速さを測る)測程線の単位。47フィート3インチ。」とあります。
古い話で恐縮です。
47フィート3インチというのは、0.3048×47+3×0.0254=14.40(メートル)です。で、これを28で割って3600を掛けると、1852メートル(=1ノーティカル・マイル)になります。
今日、図書館に行ったついでに思いついて調べてみたら、船の速度を計るときに使われていた砂時計が、28秒計または14秒計だったのだそうです。
そんなわけで、
長さの1ノット=速度の1ノット(1ノーティカルマイル/時間)で28秒間に航行する距離
ということだったりしました。
ちゃんちゃん。
……しかし、これを自閉症的なしつこさと言わずして、いったい何と言ったらいいんだろぉ(-_-;)。やっぱ自閉症の人間って研究者向きだと思う。
(Maria)
あおび wrote:
>僕は1ヶ月後に障害者職業センターというところの職業訓練施設で訓練することになっています。僕はASと診断されても、アルバイトの経験があるため、最初は「なんでこんなところへ行かなきゃいけないのか!!」と言って、パニックの状態に陥って、周囲(と言っても母だけ。(笑))に迷惑をかけたりしていました。でも、最近は自分でも不思議なくらい落ち着いています。でも、心の中では、ちゃんと訓練についていけるのかな、とか、その後、自分のことを考慮してくれた仕事場がちゃんと見つかるのかな、と心配です。自分がASだと分かっていてASの障害を分かってもらって配慮されて仕事に行っている人なんているんだろうか・・・。それにしてもASの社会的な認知度というのはまだ低いからこういう事を望むのなんてやっぱり甘えやいけないことなんだろうか、と日々悶々とした生活を送っています。
私は千葉の幕張のセンターで訓練を受けた一人です。
既に診断されて入所まであと一ヶ月ということですが、出た後のためにいちおう地元の障害福祉課のほうへ出向いて、『療育手帳』か『精神障害者保健福祉手帳』の申請手続きをしておいたほうが良いと思います。なぜかというと、障害者枠で仕事を探すときには手帳を取得している方が有利だからです。というのは、障害者雇用に対する企業への助成金は、手帳を持っている障害者を雇用したときに支払われるからです。そのためASのようにもっていない人は、門前払いというところもあります。また療育手帳の場合、申請から都道府県の知的障害者判定を受けるまでには、半年ぐらい待つ場合もあるようです。
また出た後の当面の落ち着き先として、精神障害者ののディケア施設も一応探しておいたほうが良いかもしれません。保健所で紹介してもらって、3ないし4軒ぐらいは回ってみて、自分にあったところに目星をつけておくと良いでしょう。
よし(陽疾)さん wrote:
>はじめまして、よし、と申します。
はじめましてです、よしさん。
>「治療法」を真剣に「研究」してくれる医師や研究者はいっぱいいる
>でしょうが、「いかにして軽度発達障害者が本人なりの社会的役割を
>果たしていくことができるのか」を「真剣に考え」てくれる人などい
>ないような気がします。
障害者支援はどうしても消極的な発想なんですよね。「いかにその
障害者を社会適応させるか?」「その障害者が自立して生きていくた
めにはどうすればいいのか?」という根源的な目標に基づいてなされ
ていく場合がほとんどです。それが障害者支援の基本的な役割なのか
もしれませんが。
でも、障害者がよりよく生きるためには、どうしても本人が「この
仕事をすることに何の意味があるのか?」というところまで考えてお
く必要があるんです。
じっさい、わたしはこの問題では少しつまづいています。今やって
いる仕事は準公務員的な短時間の仕事と学習塾の時間講師です。この
仕事を続けているおかげで生活は何とかできています。ただ、今やっ
ている仕事が自分の生きがいとか生きる目的につながっているかとい
う話になると疑問です。どうしても生計を立てるための手段にしかな
っていないというのが現状です。
何とか生きてはいけているが、ただ単に自分が生きのびるためだけ
に仕事をしていて何になるのか?普通の生活が送れるようになるため
だけに生き続けるのか?いったいその先に何があるのか?ただ仕事を
しているだけでは、この疑問に対する答えにはならないのです。
>ただ、情報を交換し合い、みんなでレベルアップしていければいい
>な・・・・という夢想もしています。
軽度発達障害者向けの派遣社員制度なんてあるとよしさんの希望も
実現できるのかもしれません。つまり、派遣会社で軽度発達障害者同
士で情報交換やレベル・アップを図りながら、派遣先で働いていくと
いうシステムです。軽度発達障害者対象ではないが、民間の派遣会社
のなかにも障害者を派遣する事業を行なっている会社はあると伺って
おります。
作るしかないのかな〜???
てらば wrote:
>最近、私は実はASではなくて、高機能自閉症ではないかと思うようになりました。
>と言うのも、ASには幼少時の言葉の遅れがないし、結構普通に仕事を持ったり結婚もしている
>人もいるじゃないですか?私の場合は幼少時に言葉の遅れがあって、小学校に上がった時は
>「ふらふらしていて落ち着きがない」と言われてました。手先も不器用で靴ひもが上手く結べなかったり
>しました。今でも臨機応変に対応できなかったり、工場の仕事でも手が遅かったりで他の人の足手まとい
>になったりしてます。
「幸せだからAS、不幸だから高機能」ということはそんなにないと思います。
現にかなり重度の心身障害者の男性で言葉が不自由でも、健常者の女性と結婚をなさって子供ができ、特別な『会話装置』を用いて、ちゃんとコミュニケーションをして父親をやっている人もおられます。また聞こえない人どうしで結婚して、子育てをしっかりやっている夫婦もいます。ようは周りの人の理解次第です。
さて自閉症と不器用の関係ですが、私は「自閉症≠不器用」であると思います。どうしても不器用というのは自閉症の本質的な障害の要素ではないと思えるのです。例えば言葉が話せないのに刺し子をきれいに縫い上げる人もいますし、パズルが得意だったり、ビーズ細工を上手に作れる人もいます。一方で我々のようにある程度話せるのに不器用で生活に支障がある群も存在していますし、不器用だし言葉も少ないという群もあるのです。要するに『不器用になってしまう障害』と『自閉症』が重なり合っていると考えるのが自然です。
また『器用』という言葉の意味の捉え方によってもまた違ってくると思います。「トータル的にきちんとした標準的な体のの動きをスムーズできる」ということであれば、やはり「自閉症=不器用」といわざろうえません。というのは、自閉症の人は、「りんごの皮は剥けるけど、自転車乗れない」とか「お皿は洗えるけど、箒でお部屋の掃除をするのは苦手」とか「ピアノはある程度弾けるけども、パソコンの文字入力はからきしダメ」というように、あることを上手にできてもあることは苦手という風に能力の発達がアンバランスだったり、類似的と思われる動作でも普通の人に比べて飲み込みが遅いということがあるのです。
「不器用になってしまう障害」には、次のようなものがあります。
1.観念運動失行
人の動作を模倣したり、耳から入った「〜しなさい!」という命令から自分の体の動きを作り出すことが困難な状態。体操のとき自分だけどうしても違う動作をしてしまっていたとか、親御さんから『はしが持てない』とよく叱責されていたということがある。また見て簡単と思っても実際やってみると「難しい!!!」と思ったり、人を真似たというよりは自分で試行錯誤して動作を覚えたほうである。
2.遂行機能障害
なるべく無駄なことをしないで、楽に効率的に行動の『段取り』『手順』を
立てるということが困難な状態。時間にルーズだといわれたり、ノートを取るとき後先を考えずに書き込んでしまうということがある。
3.目と手の強調の障害
縫い物やスケッチなど、眼球運動→手先という形の動作が困難。学校で「友達の写生をしましょう」と言われてその子とぜんぜん似てない絵をかいたり、「字が汚くてノートが読めません!」と頻繁に先生に叱られたりということがある。
てらば wrote:
>
>母も私のために苦労をしているので、楽にさせる意味でもどうしても療育手帳か精神保険手帳が欲しいです。
来月より、精神障害者保健福祉手帳・療育手帳は両方とも、各市町村の障害福祉課が申請窓口になります。
このうち療育手帳のほうは、次のような資料をそろえて持参する必要があります。
1.現在かかっているお医者さんの診断書
2.これまでの通院歴をまとめたレジメ
3.これまで発育していく過程で「自分にはどんな問題点があったか?」ということを整理したレジメ
4.簡単な履歴書(学歴・職歴)
5.小学校から高校・大学までの通知表(残っている限り全部)の写し
6.母子手帳
>できるならば、ジョブコーチ付きの就労支援をしている施設へ行きたいです。
>
Lingkoさん wrote:
> 私は子どものころ、勝手に雪柳に名前をつけていました。一重の雪柳でしたけど。「改札花」。なぜだかお分かりになりますでしょうか?
>
> 高校のとき、大川の縁で暴れてる南天満の雪柳を見て、今度は「毛糸花」とつけました。
よく調べたら、雪柳と蜆花は別種でした。近縁ですけど。
どちらも「コゴメバナ」という名前で呼ばれることもあるそうです。
思いついて匂いを嗅いでみたら、生米のような香りがしました。
武田好史さん wrote:
> あれは学生のころですが、新聞にこの時期咲く『オオイヌノフグリ』という青い小さな花の咲く草の名前に対して、あるコラムニストが「こんなきれいな花なのに、オオイヌノフグリ=犬の尻という名前はいかがなものだろうか、誰かもっといい名を考えてもらいたいものだ!」と記しておりました。
「ふぐり」というのは「陰嚢」(俗に「お稲荷さん」)のこと。「きんたま」は「睾丸」のこと。「ちゃんと区別していただきたい」と言っていたのは、たしか法医学の古畑さん。
「きんたま」で思い出すのは『親子鷹』で有名な勝小吉・海舟親子。小吉は高いところから飛び下りたときに股間をしたたかに打って、海舟は野犬に食いちぎられて、それぞれ片キンだったそうです。
……あたしはナニ書いてんだろぉ(-_-;)。
(Maria)
はじめまして、よし、と申します。
2月ごろから、ずっとROMさせてもらっていましたが今回、初めて投稿いたします。よろしくお願いします。
自分は、現在SOAAに病院紹介を頼み返事待ちの身です。
おそらく、ASの要素が少ないADDと、かってに自己判断しています。
こうもり、さんの文章をADDに読み換えて、感じたことを書きます。
こうもり wrote:
> 全体的に学力に比して仕事や対人関係の困難が重い人が多く、苦し
>い時代が続いたとは思います。
個人的には、同感です。学校時代は、友人関係などに若干の困難こそ感じていましたが、ほとんど、自分が変な人間とは感じていませんでした。ただ、人より、少し変わっている。そして、学業成績こそいいほうだったけど、要領が悪く、「自分は成績こそ、この人たちよりいいけど、この人たちがホントに勉強し出したら、自分はあっとゆう間に抜かれてしまうだろう。そしたら、自分が本当はダメ人間ということが、白日のもとに曝されてしまう」という、恐怖感に、いつもさらされていた。(高校時代は、進学校に入学したら、一瞬の間に落ちこぼれ、鬱状態に)
鬱状態を克服し、大学も無事卒業。社会人になって愕然。「オレなんで、こんなに仕事できないの。何気なくほかの人がやっていることが、全然できないなんて・・・・」
>「ASやLDやADHDのように生産労働に役に立たないかもしれな
>い人たちとも寛容に接してあげよう」という受容のされ方もあまり好
>きではありません。
同感。自分たちが、誇りを持って働けること、生きていけることこれに尽きる。
そういう意味では、文筆業なんかで生きていければ個人的にはいうことなし。
そんな、才能ないけどね。
>
> むしろ、いかにして軽度発達障害者が本人なりの社会的役割を果た
>していくことができるのかを真剣に考えることの方が重要だと思いま
>す。
>
「治療法」を真剣に「研究」してくれる医師や研究者はいっぱいいるでしょうが、
「いかにして軽度発達障害者が本人なりの社会的役割を果た
していくことができるのか」を「真剣に考え」てくれる人などいないような気がします。AS/ADD系に無縁な人はもちろん、本人たちは、自分のことでいっぱいいっぱいで・・・。自分たちが、自分たちの居場所を求めて、あがいていくしかないのかな・・・・、と少し悲観的に考えています。ただ、情報を交換し合い、みんなでレベルアップしていければいいな・・・・という夢想もしています。
> わたし自身はその学業に困難のある生徒を「寛容」に受け入れてい
>こうとしていくことよりも、学習困難を抱えていることをうまく人生
>経験として生かしていけるようになることの方が大切だと思います。
>わたし自身は小学生時代に深刻な学習困難を抱えていましたが、今か
>ら思えば、その経験はおおいに役に立ちました。
>
>(1)「本人に努力さえ要求すればなんとかなる」という幻想をいち
> 早く捨てることができたこと。
「どうして、自分は努力してもダメなのか」、「どうして、自分は、努力できないのか」こうやって、自分を責め続けて生きてきた人があまりにも多いと思います。
自己卑下、自己嫌悪、鬱状態・・・・謝り癖・・・・
>
>(2)「なんのために勉強しなければならないのか?」「なぜ知的で
> なければならないのか?」という問題意識を幼いうちから獲得
> することができた。
AS系の人は、知的世界の中ばかりにいることが問題、となることも多いように、感じないこともないです。
なんか、とりとめのない、文章になってしまいましたが、今日はこの辺で失礼します。
はじめまして、こうもり(AS)です
あおびさん wrote:
>でも、心の中では、ちゃんと訓練についていけるのかな、とか、その後、自
>分のことを考慮してくれた仕事場がちゃんと見つかるのかな、と心配です。
訓練についてはたぶん心配無用です。むしろ、障害者本人についていけな
い訓練プログラムを用意してしまったのであれば、それは半分は支援者側の
責任だと思ってしまっていいです。(キッパリ!!)
> 自分がASだと分かっていてASの障害を分かってもらって配慮されて
>仕事に行っている人なんているんだろうか・・・。
う!!これはすごく辛いところ。ちょっと支援態勢に矛盾があるんですよ
ね。自分の障害を自覚できている障害者ほど、障害が軽いと見なされ、支援
の対象になりにくくなってしまうという……。以前、「自分のことをそれだ
け話せるんだから発達障害じゃないよ」と言われて、ちょっとショックを受
けたことがあります。
>それにしてもASの社会的な認知度というのはまだ低いからこういう事を望
>むのなんてやっぱり甘えやいけないことなんだろうか、と日々悶々とした生
>活を送っています。
逆に認知度が低い障害だからこそ、支援を受ける事例が増えていくことは
歓迎すべきことです。むしろ、軽度発達障害者に対する支援の門戸を広げる
ことにつながるかもしれないので、積極的に支援を求めていった方がいいか
もしれませんよ。
ちょっと簡単に事実確認。
てらばさん wrote:
>と言うのも、ASには幼少時の言葉の遅れがないし、結構普通に仕事を持
>ったり結婚もしている人もいるじゃないですか?
ASと診断された身なんですけど、幼少時には言葉の遅れは確かに存在
していたんですよね。小学校低学年ぐらいまで、単語はよく覚えるけど、
会話にならない状態が続きました。その当時対応してくれた医療機関で受
けた田中ビネー知能検査ではIQ116という結果が出ていたのですが、
主治医が「家で練習でもしてきたんですか?」といかぶるぐらい、会話が
おかしかったそうです。でも、一般的にはASは言語性優位みたいですよ
ね。
で、仕事を持ったり結婚をしているというのはASにだけ存在して、高
機能自閉症にはいないという訳ではありません。本来の障害の重い軽いに
加えて教育環境,予後の良し悪し,二次的障害の有無などに大きく左右さ
れます。
>手先も不器用で靴ひもが上手く結べなかったりしました。今でも臨機応変
>に対応できなかったり、工場の仕事でも手が遅かったりで他の人の足手ま
>といになったりしてます。
これらは動作性の問題なのですが、むしろASの方が重い困難を抱えて
いる場合が多いようです。わたしなども現在は対人関係よりもこちらの方
が深刻で、能率やスピードを要求される仕事にはついていけません。学習
塾の仕事が比較的うまくいっているのはどちらも要求されないし、むしろ
じっくりと教えることを要求されるためです。
で、就労支援を受ける場合はどちらかというと療育手帳よりも精神保健
手帳の取得を目指した方がいいようです。というのは、療育手帳は知的障
害を伴なわない発達障害者には極めて取得が困難な手帳だからです。知り
合いの境界知能児がなかなか手帳を取得できないでいる状態を目の当たり
にしているため、どうしてもそう判断せざるを得なくなります。
また、てらばさんは障害者職業センターには相談に行かれたことはあり
ますか?公的支援は受けられなくても個別にカウンセリングをしてくれる
ところは多いようです。また、障害者職業センターの側も自分の障害を自
覚している発達障害者本人の方が対応がしやすいのだとのこと。
障害者手帳取得の件については1度、地元の福祉事務所に相談に行かれ
ることをお薦めします。では
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