アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
Ichiho(o^w^o)さん wrote:
> ・・・うちの実家の庭には多分まだかえるやらなんやらおりそう。
> ああ、自然にふれたい、かえるに会いたい。
> そんな気持ちになってしまった。
『カタロニア讃歌』『動物農場』『1984年』などの作品で知られるイギリスの作家ジョージ・オーウェルに『ヒキガエル頌(しょう)』という作品があります(『一杯のおいしいお茶』朔北社・所収)。
ビジネスの世界に長いあいだ身を置いていたあたしは、ソフトウェア開発の仕事をしながら、ハーブを育てたり(無精者なのでミントばっかり)、ジャムを煮たり(そろそろ苺の安いのが出回る季節です)する生活を楽しんでいたのですが、バブル景気やその後の平成大不況のなか、こういうのほほんとした生活態度を責められ、仕事に追い立てられたあげく身体を壊してしまいました。
オーウェルは、『ヒキガエル頌』の中で、こんなふうに書いています。
『春をはじめとして、季節の移ろいを楽しむのは悪いことだろうか。もっと正確にいえば、政治的に非難すべきことだろうか。だれもが資本主義の桎梏(しっこく)の下であえいでいる、あるいはあえいでいるべきときに、クロウタドリの声や十月の楡の黄葉のように金のかからない、左翼新聞の編集長が階級的視点と呼ぶものとは無関係ないろいろの自然現象のおかげで人生が楽しくなることもあると言ったのでは、いけないのだろうか。こういう考え方の人間が大勢いることはたしかである。わたしの経験でも、どこかで「自然」をほめるようなことを書いたりするとたちまち罵倒の手紙がまいこんで、きまって「センチメンタル」という言葉にぶつかるのだが、これには二つの思想もからんでいるらしい。一つは、人生の現実の流れを楽しむのは一種の政治的静観主義を助長するという思想である。この思想はさらに、人民は不満を抱くべきであり、欲望を増幅させるのがわれわれの務めであって、すでに所有しているものをいっそう楽しむだけではいけない、という風に発展する。(中略)この思想には、往々にして、自然を愛するのは自然のほんとうの姿がまるでわかっていない都会人の短所だと唱える応援団がつく。そしてさらに、ほんとうに土と格闘しなければならない人は土など愛していないし、厳密な利益という観点以外から鳥や花に関心を持つことはありえない、ということになる。田舎が好きになるには、町に住んでいて、温かい季節の週末にでもぶらぶら出かけるのでなければだめなのだ、と。
(中略)わたしはかねがね、ついに政治的経済的諸問題が解決したときには、生活は複雑になるより単純になり、ウルリッツァ・オルガンを聞きながらアイスクリームを食べる楽しみよりや、むしろ春にはじめて咲いた桜草を見つけた喜びのほうが大きくなるのではないかと考えている。木とか魚、蝶、そして初めに出したヒキガエルなどに、子供のころにいだいた愛情を持ちつづけているなら、やがて平和で幸せな未来が訪れる可能性もすこしは高くなるだろうが、鉄とコンクリート以外のものを讃美してはならないと説教していたのでは、未来は憎悪と指導者礼讃以外あまったエネルギーの捌け口のないものになりかねない。
それでも、このロンドン北第一区にも春は訪れて、これを楽しむのを禁止することは彼らにもできないのだ。そう思うと、嬉しくなる。』(小野寺健・訳)
『病気にならず、食べるものに困らず、怯えてもいず、刑務所や休暇村に監禁でもされていないかぎり、春はいまだに春なのである。』と、オーウェルは書きました。
一九九八年のいまごろ、あたしは病院のベッドで死にかけていました。食事も水分も制限され、一日に六百ミリリットルの水分しか摂ってはいけなかったので、雛祭りのときに病院で出されたひなあられは、噛んでも噛んでも口の中で粉になるだけでした。点滴のチューブと心電図のワイヤーと導尿カテーテルでベッドに縛りつけられ、ベッドからほとんど下りることがなかったので、ふくらはぎの筋肉が痩せて立つこともおぼつきませんでした。仕事をなくし、健康も失い、将来への希望も持てませんでした。
だけど春になれば、東京にも桜は咲くのね。きれいだったなぁ。
生きること、生活すること、お金を稼ぐことは大変なことなのだ、と声高に言う人がいます。世の中は喰うか喰われるかだ。きれいごとを言っていては生きてゆけないのだ。そう主張する人がいます。
だけど、善意と信頼に支えられた、「古い」経済システムのなかで、日本人はけっこううまくやってきていて、そこそこ働いて、そこそこおいしいものを食べて、そこいらにあるフツーの自然を楽しんで、そこそこ幸せに暮してきたんじゃないだろうか、と思うのね。退嬰的と言われそうだけど、むしろ、暴走した経済システムが、日本人をかえって貧しくしているように思います。
とはいえ、あたしは経済活動に背を向けようとは思わないのね。むしろ、古くて新しい、永続的な利用が可能な、善意と信頼に基づく循環型・相互扶助型の経済システムの構築、みたいなことを、マジメに考えてかないといけないと思います。
それは不可能じゃない気がします。高度情報社会の中で、情報通信技術を利用して、こういう田舎臭い会話をしているあたしたちが、いるわけだから。
(Maria)
青桜 wrote:
>アスペ疑いの青桜と申します。
>武田好史さん wrote:
>
>>発達障害⊃知的障害・LD・AS・自閉症・骨形成不全…
>
>⊃←この記号の意味を教えてください。
AはBを含む。数学の記号の一種です。
>>ノーマリゼーション≠『普通』の無理強い
>↑これは、ノーマリゼーションが、『普通』の無理強いではあっては
>いけないという意味でしょうか?良く意味が取れませんでした。
>教えて頂ければ幸いです。
>
ノーマライゼーション(こっちのほうが正確)は、北欧で生まれた概念で、「知的障害者にできるだけノーマル(普通に)近い生活を提供しよう!」ということです。現在では全ての障害者に対する福祉の基本概念になっています。
ここで大切なのは『普通』の捉え方です。例えば『買い物をさせよう!』ということに関して、知的障害の子供を抱えた親御さんのAさんとBさんがそれそれ次のような考えをもっているとします。
A:1円が10個で10円、10円が10個で100円という具合に数を教えて…
数が数えられるようになったら買い物ができる。
B:お金の計算ができなくっても、500円玉一個持っていけばハンバーガーは買えるよ!
さてどちらが『ノーマライゼーション』的な見方でしょうか?
答えはBさんのほうです。Aさんは「普通=ゴール」と見ているのにたいし、Bさんは「普通=出発点」という捉え方です。実際『買い物』というのは、品物の値段よりも多くのお金さえあれば誰にでもできる行為なのです。「おつりの計算ができる・できるだけ安く済ます・無駄な物は買わない」は、その上手さを表す言葉であり、買い物をしていく上で試行錯誤して子供が学び取っていくことなのです。
つまりノーマライゼーションは、障害者を強引に『普通』という山頂に引きずり上げることではなく、『社会』という名の学校の『普通』という入り口へ優しく導いてあげるということなんです。
こうもりさん wrote:
>グルンサさん wrote:
>
>> この「南米の笛」というのは、ケーナかサンポーニャでしょうか?
>>(見ていたら、つい聞いてみたくなりました。ただし、わたしはどちらも演奏した>ことはありませんでしたが…。)
>
> 楽器には詳しくないので、何とも…。とりあえず、サイモンとガーファンクルの『コンドルが飛んでいく』の前奏で吹かれている笛なんですけど、なんて言うのか
>忘れてしまいました。
それがケーナです。
私もあの音好きです。
私はあの音に、標高の高いところの音(?)というイメージがあります。なんでだろう。
遠くて高い場所、なつかしい場所ってゆうイメージがある。
そして、"コンドルは飛んでいく"なのになぜか私の頭のなかに飛ぶのは鳶なんですよね・・・
(^-^;
>Ichihowrote:
>> かえるの声は、なんてきれいなんでしょう。
>> ゲロゲロと表現されるのは何蛙なんでしょうか。
>
Mariaさん wrote:
> たぶん、ひきがえるです。
> うちの庭にもいて、雨が降るとげろげろ鳴いてました。
> ときどきご近所さんから、「おたくのひきがえるが、うちの前に>いますよ」という電話があって、箒とちりとりを持ってむかえに行>きました。だけど、庭に放そうとしたら、うちのひきがえるがちゃ>んといました。うーん。
>
> 最近は宅地化が進んでひきがえるも見かけなくなりました。とても残念です。
ゲロゲロ鳴くのはひきがえるですか。
お庭に住んでいたとは(*^-^*)
なんだか、かえるってユーモラスな存在ですよね。
手をついてしゃがんでいるようなポーズもかわいい。
雨が降り出すといっせいに歌い出すところも、なんだか陽気なかんじがします。
・・・うちの実家の庭には多分まだかえるやらなんやらおりそう。
ああ、自然にふれたい、かえるに会いたい。
そんな気持ちになってしまった。
(でも去年実家の庭に雀蜂が巣を作ったらしいのでちょっとこわいかも(^-^;)
ruo u wrote:
>satie wrote:
>>>音のない世界
>
>私は、無音の音楽が好きです。
無音の音楽?
瞑想の世界?
??
(トンチンカンでごめんなさい。)
テレビで深夜にやってる通信販売の番組で
ヘッドホンの形で、耳にあてると無音の世界になるってゆう商品を紹介してました。
それを耳にあてると、街の雑音が全て消えてシーンとしずまりかえるんだそうです。
詳しいことはわかりませんが音と音をぶつけて消す仕組みになってるんだそうです。
結構高かったけど、欲しいなぁ〜と思っちゃった。
アスペ疑いの青桜と申します。
武田好史さん wrote:
>発達障害⊃知的障害・LD・AS・自閉症・骨形成不全…
⊃←この記号の意味を教えてください。
>LD・AS・ADHD・高次脳機能障害≠支援不要
↑こちらはよーくわかります。
>ノーマリゼーション≠『普通』の無理強い
↑これは、ノーマリゼーションが、『普通』の無理強いではあっては
いけないという意味でしょうか?良く意味が取れませんでした。
教えて頂ければ幸いです。
青桜@一応女
satie wrote:
>>音のない世界
私は、無音の音楽が好きです。
satieです。こんばんわ。
武田好史さんwrote:
> そこでみなさんに質問です。
>あなたの好きな(=心地よいと感じる{^;^})音は、どんな音ですか?
鳥のさえずり
井戸水もしくは水田に流れていく水流の音
衝動を掻き立てる音
ネコの甘えた泣き声
ネコがゴロゴロ喉を鳴らしている音
森の中で風に揺れる葉が擦れ合う音
インドの曲
ホーミー
高原の風の音
パソコンのキーボードを叩く音
昔のエレクトーンの音色
音のない世界
です。
もっとあるはずなのですが、今思いつく事を書いてみました。
発達障害⊃知的障害・LD・AS・自閉症・骨形成不全…
脳の機能障害⊃知的障害・精神障害・ADHD・ポリオ・脳卒中・自閉症・LD・AS・高次脳機能障害・脳性まひ・痴呆症…
脳の機能障害≠馬鹿
LD・AS・ADHD・高次脳機能障害≠支援不要
ノーマリゼーション≠『普通』の無理強い
Ichiho(o^w^o)さん wrote:
> 水の音は大好きです。
> 雫の音、せせらぎの音。
あたしも好きですが、河原にテントを張っていてその中で寝ていたら、近くでいきなりちょろちょろと水音が聴こえて、慌ててテントを飛び出したことがあります。これが本当の“寝耳に水”。
近くの家の生活排水でした。とほほほほ(^_^;)。
> それから
> トレーシングペーパーのような薄い紙(たしか硫酸紙というのだったかな)に唇をあてて"ウー"って言うと、
> 薄い紙が細かくビリビリと振動して、"ヴー"と聞こえるんです。
> その、ふるえる音。
> そのビリビリ振動する感触も楽しいので
> 子供のころは、薄い紙を見つけると必ずやりました。
あたしもです。煙草のパッケージのセロファンもよいです。袋状のやつに薬指・中指・人指し指を突っ込んで、口に当てます。ちょうど、無線で会話してるような感じになります。「警察無線ごっこ」というのはわりと一般的なネタ。
「カズー」という楽器があって、それもいいです。
> あと、建物に反響する音。
> 子供の頃住んでいた社宅は4階建てで、作りは公団住宅みたいで、
> コンクリートの階段はすごく音が響くんです。
> わっはっはっはっはーと言うと何人分ものわっはっはっはーが返ってくる。
> 一人でずっとわっはっはっはーって言ってたら
> 親に気持ちわるがられ、叱られました。
高校が古い建物だったので、合唱部やオーケストラ部の練習場所になっていました。
> かえるの声は、なんてきれいなんでしょう。
> ゲロゲロと表現されるのは何蛙なんでしょうか。
たぶん、ひきがえるです。
うちの庭にもいて、雨が降るとげろげろ鳴いてました。
ときどきご近所さんから、「おたくのひきがえるが、うちの前にいますよ」という電話があって、箒とちりとりを持ってむかえに行きました。だけど、庭に放そうとしたら、うちのひきがえるがちゃんといました。うーん。
最近は宅地化が進んでひきがえるも見かけなくなりました。とても残念です。
(Maria)
>あなたの好きな音は、どんな音ですか?
うららかな日に、広い河原みたいなところに寝っころがって聴く、揚雲雀(あげひばり)。けけきょけきょけきょけきょけきょきょけきょけきょけきょけきょけきょきょけきょけきょけけきょけきょけきょ……と、いう声を聴いていると、眠くなるのはちょっと珍しいかも、と思う。仕事場が府中NECだったころの、なぜか徹夜明けの記憶と結びついている。多摩川の河川敷が近かったからな。つくしが生えていて、おおいぬのふぐりの青い花が咲いていて……みたいな風情がいい。
くまぜみの鳴き声。東京でも、何年に一度くらいの割合で聴ける。しゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわ、とも聴こえるし、ぅわしわしわしわしわしわしわしわしわし、とも聴こえる。あんまり暑苦しい感じがしないところがいい。
全体としては、水があって深い森のある山の音が好き。
くけけけけけけけけけっけっけっ…けっ…けっ……け、という、ひぐらしの鳴き声。
ひょひょひょひょひょひょひょひょひょ……という、かじかがえるの鳴き声。
ばりぱりばり、という乾いた雷の音。ツバキの葉のような固い葉の樹の森に、大粒の雨が、いきなり「ざぁっ!」と降りはじめたときの、包みこまれるような雨の音。
最後の音は、飽きるほど登った奥多摩の山の中(御嵩から日ノ出山にかけて)で、一度だけ聴いたことがあると思う。
ただ、あのあたりはたいてい針葉樹か広葉樹林なので、記憶違いかもしれない。そもそも、薄暗い照葉樹林の中に小屋を建てる人もいなかろうと思うので、お社(時代劇に出てくるようなやつ)にお籠りでもさせてもらわないと、落ちついて聴けない。
神奈川県伊勢原市の大山(おおやま)という山の、下社からちょっと歩いたところに「二重滝」という滝があって、そこの脇にあるお堂がとてもいい風情だったりする。ちょっと籠ってみたい。
鵺(ぬえ。とらつぐみのこと)の番(つがい)が「ひぃー」「きょー」と鳴き交わすのも好きなのだけど、生では聴いたことがない。残念。
ぶっぽうそう(正しくは、このはずく)は、うんと子供のころに、どこかで聴いたことがある。「きょっきょっきょー」「きょっきょっきょー」という感じで、あんまり「ぶっぽうそう」という感じはしなかった。
星を観に御嵩山の長尾平(ながおだいら)というところへ出かけたら、夜だというのにぞろぞろやってくる人たちがいた。「おたくさんがたも、むささびですか?」「うちらは星です(^_^;)」。そのうちに「ブッポウソウの声を録音したいので、静かにしてください」という人まで出た。高校生の頃は月イチで観測に通ってたけど、あんなとこでぶっぽうそうが鳴いてんの聴いたことないぞ。
御嵩山では「カンタンを聴く会」というのがあったりするけれど、やっぱり聴いたことがない。気がつかないだけかもしれないけれど。
こおろぎの鳴き声は、うらぶれた気分で聴くとせつなくてしんどい。荒んだ気分のときに聴くつくつくほうしやあぶらぜみやみんみんぜみの声は、頭にくる。
ここ数年、あんまりおだやかな気持で聴いた記憶がない。今年はいくらか楽しんで聴けそうな気がする。っていうか、聴きたい。
(Maria)
>あなたの好きな(=心地よいと感じる{^;^})音は、どんな音ですか?
嫌いな音や物や環境なら際限なく出てくるんだけど
反対に「好きな物を言え」と言われるとけっこう困ります。
やはり「どうでも良いことが決められない」という事なのかなぁ。
好きな音と心地よい音というのも私的には微妙にちがうし。
その上であえて列記してみるとするなら。
自然界の音〜川の流れ
鳥のさえずり
人工の音〜アナログシンセの音(組み合わせによって無茶苦茶一杯あるが)
チェロやダブルベースの重低音
なんだか脈絡ないですな。
武田好史さんwrote:
> これくらいの子って、はしっこくてどこへでも危険を顧みず入り込むし・何でもかんでもかじっちゃうんで、目が離せないでしょ…大変ですね。
武田さんありがとうね。今の私はそんなに大変じゃないの。病気の看病は辛かったけど,今の健康を私が造ったと思えばささやかな自信になるし。まだ若い人にはわからないかも知れないけれど,この年では愛するものの世話ができるのが,何より幸福な生活です。十分なことができてないのは問題だけど。先は何とかなると思えずに焦ると大変になるけど,南無阿弥陀仏の心境になればいいのです。たしかに大事なものが居ると心配が大きいけれど,それ以下のものへの執着がかすんでく。なけなしの衣類とか自尊心とか,破れかぶれでけっこう,けっこう。猫さえ居ればあったかいもの。何を食べられてしまっても,毎日猫を拝んでます。
真宗のお経は祈願請求しません。真宗が仏を「たのむ」は,許諾の意です。「まかせる」に近い。過剰防衛で余計な不幸を造るのが避けられますね。
仏の苦を救う意志は人の心より大きい。仏の手に余る苦は無いと信じきれば,何事も成長の契機に過ぎません。
つい成長を恐れます。手におえなくなりはしないかと。成長にともなう扉の開き加減が難しい。吹き付ける風を恐れて閉じこもり過ぎたり,開けすぎて風に吹かれて収拾がつけられなくなったり。私はどちらかというと破笠裏に青嵐が好きだけど,猫は閉じ込め派。封建時代は人の身分によって窓のサイズ゛が決まっていて,扉なんか無かった。そんな安定を懐かしむのは時代錯誤。自分の成長に合わせて,外の基準からは自由になる時代。
私はLingko さんが好きだけれど,仕事のできる人と1銭も稼げてない人では,好きな音と嫌いな音がほとんど逆みたいだ。一文無しは人工的な音のほとんどが神経に障る。子供の頃は元気付けられた白鳥神社の祭りの音が,近寄ると心臓が破れそうになった。この頃はそんなものまで物騒な勢いばかりで,情緒がなくなっている。ガムランなら生で聞いてみたいけど,観光で本物は聞けないだろうし。
うちは冷蔵庫(屋外)は夜コンセントを抜くし,交通機関の物音が嫌いだ。子供の頃一度だけ聞いた,森の奥の夜の主のような鳥の深い声に魅せられて,野生動物のヒトへの怒りに同化してしまった。 心を洗う美しさの,トラツグミの声がまた聞ける所に住みたいと思う。海の底のたぶんスナメリ(イルカ)の声がもう一度聞きたい。息が切れて浮上したら,流れのせいでどうしてもそれ以上は聞くことができなかった癒しの声。
グルンサさん wrote:
> この「南米の笛」というのは、ケーナかサンポーニャでしょうか?
>(見ていたら、つい聞いてみたくなりました。ただし、わたしはどちらも演奏した>ことはありませんでしたが…。)
楽器には詳しくないので、何とも…。とりあえず、サイモンとガーファンクルの『コンドルが飛んでいく』の前奏で吹かれている笛なんですけど、なんて言うのか
忘れてしまいました。
トクメイさん wrote:
> 私は、アスペルガーの人の持つ独特のイライラ感とトゲトゲしさに、いい加減、嫌になっているのですが。(人によるのかもしれないケド)
> まあ、私の知っている限り、アスペルガーの人は喧嘩が好きな人が多いみたいだから、 私も彼等のやり方をマネて、喧嘩を売ってみれば、お友達になれるのかなぁ、とは思います。
アスペルガー症候群にあてはまる人間が、ある種の人々をして独特のイライラ感とトゲトゲしさを感じせしめ、同時に喧嘩が好きな人間であると判断せしめるというのをとりあえず事実と認めたうえで、その理由を考えてみようと思う。
まあ、前回の書込みでは「ある種の人々」に相当するのがいかなる人々か、みたいな話に終始しちゃったのだが、確かに「ある種の人々」を「(前回の書込みで想定しているようなタイプの人々とは異なる)かなり広範囲の人々」と置きかえても、この言説がかなりの程度説得力を持つことを認めるのは、おれとしても吝(やぶさ)かではないのである。
さて、分析にあたっては、「アスペルガーの人」「独特のイライラ感とトゲトゲしさ」「喧嘩」といった言葉をなるべく精密に定義しておきたい。そこで、この三つが何を指すか、について考えてみることにする。
「アスペルガーの人」というのは、とりあえず「知的障害・コミュニケーション障害の程度が軽い、社会にかなりの程度適応した自閉症方面の人間」、すなわちおれみたいな人間のことを指す、と考えよう。社会にうまく適応できな人間がイライラカリカリして世間全般に当たりたくなるのは当然であり、それを「アスペルガーの人間」に限ってどうこう言うのは不自然だからだ。
さらに、「自閉症方面の人間のみならず、障害者、ひいては被差別者人間にとって不快だが、本人にその自覚のない人間に対するイライラ感やトゲトゲしさ」も除外する。なんでもかんでも自閉のせい、では堪(たま)ったもんではない。
そう、はっきり言って、アスペの人間は人をしてイライラせしめるのである。(←なお、この表現は文法的にいえば「アスペの人間はイライラする」と表記可能である、はずである。なぜなら「あいつは恥ずかしい」が、「あいつは人をして恥ずかしいと感じせしめる」と同義であるからだ)
「おーい、テレビ消してくれ。」
「♪ちゃらりらりら〜」(←ポール・モーリアの『オリーブの首飾り』を口ずさみながら、手近にあったタオルを手に踊りながらテレビに近づく)
「そうではない、テレビ番組を消せと言っているのだ」
「スポンサーに電話する。」
「映像と音声を消せっちゅーとるんじゃ!」
「念〜力ぃ〜」(←念を送っている)
「電源スイッチを操作して回路への電力の供給を切れっ!」
「最初っからそう言えよ」
……まあ、イライラするわな(^_^;)。
そもそもアスペの人間にとっては、「普通の人間」の喋る言葉というのは、暗黙の前提だのなんだのといった曖昧あやふやなものに支えられた、じつに信用ならんものなのである。
たとえば、仕事を納めた会社がさっぱり支払いをしてくれないので、「金を払え」と要求したら「月末まで待ってくれ」という。で、翌月まで待ったが入金がないので、「なぜ払わん!」と抗議したら、「『月末まで待ってくれ』とは言ったが、『月末になったら払う』とは言ってない」とか言われたりするのが「普通の人間」の世の中なのである。
そうすると、はたして「月末まで待ってくれ」とかいった言葉に何かの「意味」があるかという話になるのだが、「普通の人間」にとっては「ある」し、アスペの人間にとっては「ない」場合がしばしばある。「普通の人間」は、「とりあえず目先の感情的対立を回避するために、何かを言う」ことがけっこうある。これに対して、アスペの人間は実効性を期待する。
つまり、「普通の人間」にとっては「実施に向けて前向きに検討したいと強く思っている」みたいな言葉も「意味がある」のだけれど、アスペの人間にとっちゃ「やるのかやらんのか、やるとすればいつまでに何をどのような形でやるのか、はっきり言ってくれ」みたいなツッコミを入れたくなるのである。「検討中」で一年も二年も待たされた挙句「時期尚早」とか言われて廃案にされた日にゃ目も当てられん。
じゃあ、「普通の人間」は相手の言ったことに実効性を求めないかというと、そうではない。自分の言ったことには責任を持たないくせに他人の発言には実効性を求め、「人間というのはそういうものだ」「そうでないと世の中は渡っていけないんだ。世間は甘くないんだ」「あんたは人が好すぎるんだ」とか言っておるのである。
逆に、アスペの人間にとっては、自分の発言には実効性が伴うと考えるから、どうしても言葉が重くなる。「好きやねん」や“I love you.”と「愛してるよ」みたいなもんで、言葉に実効性を期待しない文化と期待する文化があるのだ。で、中島義道さんが『うるさい日本の私』を代表とする多くの著書で指摘するように、「普通の人間」の社会には「実効性を期待しない空疎な言葉」が満ちあふれているのである。
でまあ、こうした「『普通の人間』社会における言葉の軽さ」にいいかげん飽き飽きしたアスペの人間の中から、「言葉の重さ」を尊重しつつも「言葉の軽さ・あやうさ」をオモチャにするという二面性を発達させてゆく人間が出てきたりするのである。
「なあ、封筒どこにある?」
「抽斗(ひきだし)を開けると、そこに入っている」
「抽斗を開けなければ、そこには入っていない」
「シュレディンガーの封筒」(←読み筋は量子力学における「シュレディンガーの猫」)
「違うだろう」
「謎の宇宙生物が封筒に化けている」
「うーむ、怖いな」
こういうのは、アスペ同士の会話としては、ありがちな気がする。
しかし、「こいつはおれに喧嘩を売っとんのか?」と勘違いする奴は、おるだろうと思う。「人の言うことは、変に勘ぐらず、素直に受けとる」のが世間では美徳とされているからだ。とはいえそれでは世知辛い昨今の世相では騙された挙句「まったく人が好いんだから」と馬鹿にされるので、だんだん陰湿で言うこととやることが裏腹な人間ができあがる。「正常な人間」はそれでもそういう自分の醜い部分を見ぬふり知らぬふりができるだろうが、自閉症方面の人間はそれほど器用ではないし、いろいろ痛い目も見ているので他人の穢い部分もよく見えてしまう。で、相手に自分の穢い部分が見えていると思うと人間は攻撃的になり、なおかつそれを「自己防衛」として正当化できるのである。
自民党の某議員が「私は議員になってから、『いくらいくら寄越せ』とかいったことを言ったことは一度もない」とか言っているが、「こういう場合はこのくらい払うのが通り相場でしょう」とかいった形で因果を含めるのは秘書の仕事、とかいった話であれば、これは嘘ではない。「私は具体的に会社名を挙げたことはない」というのは嘘ではないかも知れないが、「根室・釧路管内での施工実績のある会社」が一社しかないときに「根室・釧路管内での十分な施工実績のある会社」を条件として指定したならそれは「具体的に会社名を挙げた」のと“実効的に”同じである。
でまあ、こういうのを「嘘ではない」と信じられる人間が「普通の人間」の中にはけっこういる。こういうのはサイコパスとかソシオパスとか性格異常とかいうと思うのだが、人間は組織とか集団に帰属しちゃうとあっさり責任感を麻痺させちゃうことができるので、こういうのが「普通の人間」だったりもするのである。
そんなわけで、自閉症方面の人間だからこそ見えるものや、自閉症方面の人間だからこそこだわってしまうものというものが、たぶんあるのだ。それは「普通の人間」にとって「どうでもいいこと」だったり「鬱陶しいこと」だったり「重っ苦しいもの」だったりもするかもしれない。けれど、それは自閉症方面の人間にとって重要なことであり、それを尊重しない人間を信用する気にはなれない性質のものでもある。
自閉症方面の人間にとって言葉は遊びではあるが、遊びであるからといって重要でないわけではない。そこんところが「普通の人間」との差なのではないかとおれは思う。
(Mr.Moto)
武田好史さん wrote:
>鷲羽丸さん wrote:
>> フジテレビ殿。
>> いっそ、罪滅ぼしの意味も込めて、『金曜エンタテイメント』の枠を使って、自閉症の人たちのドキュメンタリーでも制作してみてはどうですか?
> だからマスコミももっとこういった人たちについて、幅広く情報収集し、『真実の姿はいかなるものか?』ということを浮き彫りにしていって欲しい。それが我々の願いです!
>こんにちは。番組への投稿を読みました。
しかし所詮、あんな程度にしか認識してないのか(テロップを流して終わりということ)…と腹立たしくなりましたね(番組への意見の書き込みを読んだ限りで、ではありますが)。
わたしは、残念ながら番組を見られませんでしたが、本来ならば、出演者か司会者がきちんと説明と謝罪をするのが筋ではないだろうか?と思います。
メディアの持つ影響(とくに映像)がわからない人には、そういう仕事に関わってほしくありません。
武田好史 wrote:
> だからマスコミももっとこういった人たちについて、幅広く情報収集し、『真実の姿はいかなるものか?』ということを浮き彫りにしていって欲しい。それが我々の願いです!
>
こんにちは。私の知り合いでお子さんが高機能自閉症で,小学校では普通学級なのですが,今度中学生になるのに,中学校側では普通学級には入れられないと言われたと言うことで悩んでいます。「自閉症」と名前は知っていてもどのような症状か,どうしたらいいのか・・本当に正しい姿を知って欲しいです。
鷲羽丸 wrote:
> フジテレビ殿。
> いっそ、罪滅ぼしの意味も込めて、『金曜エンタテイメント』の枠を使って、自閉症の人たちのドキュメンタリーでも制作してみてはどうですか?
>
> もし放送されたら、わしは見ますよ 鷲羽丸
かつてどこかの新聞が、社説で現代も続く当時の日本の閉塞的な社会情勢を、『自閉症』をもじって、『社閉症』『国閉症』と言ったことが、物議を醸したことがありました。
何かこの国では、自閉症というと『暴れてばかりで手の着けられない子ども』『自己ちゅー』『キチガイ』『根暗』『犯罪予備軍』というイメージが強いような感じが、まだまだぬぐい去れていないような気がします。いや知的障害・精神障害全体がそんな感じでしょう。
昨年ですが、私が住んでいるアパートからさほど離れていない河原で、子供が普通学級に入れないことを苦にして、知恵遅れの女の子のお母さんが子供を道連れに車に火を放って無理心中をして、子供が焼け死に、そのお母さんも大やけどをおうという痛ましい事件がありました。
マイナーなイメージというのは、TEACCHのような「その人が暮らしやすい環境は…」という発想で確実に潰していくことができるのに、この国では未だに知的障害者・精神障害者を健常者から隔離していこうという意識が強い。
だからマスコミももっとこういった人たちについて、幅広く情報収集し、『真実の姿はいかなるものか?』ということを浮き彫りにしていって欲しい。それが我々の願いです!
水の音は大好きです。
雫の音、せせらぎの音。
それから
トレーシングペーパーのような薄い紙(たしか硫酸紙というのだったかな)に唇をあてて"ウー"って言うと、
薄い紙が細かくビリビリと振動して、"ヴー"と聞こえるんです。
その、ふるえる音。
そのビリビリ振動する感触も楽しいので
子供のころは、薄い紙を見つけると必ずやりました。
あと、建物に反響する音。
子供の頃住んでいた社宅は4階建てで、作りは公団住宅みたいで、
コンクリートの階段はすごく音が響くんです。
わっはっはっはっはーと言うと何人分ものわっはっはっはーが返ってくる。
一人でずっとわっはっはっはーって言ってたら
親に気持ちわるがられ、叱られました。
・・・
かえるの声は、なんてきれいなんでしょう。
ゲロゲロと表現されるのは何蛙なんでしょうか。
わたしの好きなかえるの声はゲロゲロじゃなくて
天国から聞こえてくる鈴の音のようです。
しかもさざ波のように耳に届くのです。
うっとりしちゃう。
虫の声も好き。
・・・
楽器では、民族音楽の楽器に好きな音が多いです。
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