アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
あおび wrote:
>僕もそう思います。学力の問題は「何をもって学力とみなすのか」というのが大前提だと思います。今の学力は商品化されてしまっていますから(それを声高に言う人がいないのが情けない)。
>僕は大学は史学科でしたけども、同じ史学科の学生が話していることとか(例えば、学校の教科書が絶対に教えてくれない各地方の歴史のことなど)、全然知りませんでした。受験勉強ばかりしていたツケなんだろうなと思っていますが。
>現在でいうところの学力を身につけるんなら学校へ行くよりも、塾へ行ったほうが10倍いいと皆は思っているんじゃないでしょうか。彼らは講師というよりもただのサラリーマンに過ぎませんもんね。塾の授業というのはもう営業なんですよ。
>僕が驚いたと言うか、情けないというか、泣かせる話は、僕が塾で採点のアルバイトに行ってたことなんですが、理科の実験道具なんて塾にはなかったことなんですね。要するに、実験をしてどうしてどうなるかということより、どうなったかと言うこと自体を問うていないという証拠なんですね。
>要は入学試験で何を問うかということを真剣に考え直さないと学校を週5日にしても意味は出てこないと考えます。
それと現在の教育では、終わったところで、ものに対しての認識がひずんでしまう可能性があります。例えば多くの人は、原子の周りの電子というものは同一平面に原子核の周りを回っていると思っていますが、これはモデルにすぎず、本当は原子核の周りをすっぽりおおいかくすような軌道で高速で回っていて、雲のような感じをしているのです。
また工作・技術といった類のことも、いきなり「さあ作りましょう!」というのではなくって、はんだ付けやねじ締め・釘うちなどの基本動作から教えるのが筋だと思います。身の回りのもの(棚・いす・自転車など)がどのようにできているのか、観察することも大切でしょう。
>そうした意味で、これからはASの人のように何かにすごく詳しい、つまりマニアックな生き方をしていく方がいいと僕は考えます。今の学生の就職難は事務職ばっかりで、その道に長けた人、マニアックな人が少ないからです。これからの学力はこの点を十分考慮する必要があると思います。でも、学習指導要領なんかを審議する人はそんな教育受けてないからそんな考え方をするのは難しいと思うけど。
見えますか?
あなたから
私の影に
触れますか?
輝いて
あなたはそれでいいの
変わらずに
暖めて
あなたの反対側に
私の影
知らなくていいの
私を照らし
私を見ている
あなたは影を知らない人
Mariaさん wrote:
> で、これを読んでみると、学習指導要綱というのはけっこうよくできています。あたしが思うに問題は教科書の審査をする人々・教科書会社・教科書の採択にかかわる人々・現場教師あたりにありそうにおもいます。
あえてもうひとつ加えさせてもらえば、学校のあり方に何の疑問も抱かなければ、文句も言っていかない親御さんたち、もしくは、文句だけは言うけど自分は何もしない親御さん(多いぞ)にも、問題の一端くらいはあると思います。
> あたしたちは、大気というものをつい一様なものと考えてしまいますが、じつは大気というのは湿った空気乾いた空気温かい空気冷たい空気が層になり塊になりしてあっちへ行ったりこっちへ行ったりといった、けっこう構造やむらのあるややこしいものなのですよ。そういうイメージを教師はちゃんと持っているんでしょうか?
わー、わー、これ、これ!
「風ってどうしてできるの?」と娘にたずねられて、公園のベンチであさかぜは頭をかかえたのでした。
「えーと、空気というか大気には気圧というものがあって……それが低いところと高いところがあったりして、ほら、天気予報で低気圧とか言うでしょ? それで、冷たい空気とか暖かい空気とかあって、暖かいのは上へ行くでしょ? そしたら冷たいのが下へ流れ込んできて、そんなふうに気圧の低いところへは高いところから空気が流れ込むから、空気の流れができて……そういうのが風になるんだよ、たぶん。風は空気の流れだもんね」などといい加減な返答をしながら、必死になって“正しい答え”を探して、頭の中でダンス(わっかんね〜、どうしよう踊り)を踊っていましたとさ。
学校で、娘の問いにきちんと答えてくれる先生って……いるかなあ……?
> 自然というものは、あたしたちの目の前にあるものであって、教科書の中にあるものではないのね。で、「学問」っていうのはパズルやクイズではないのですよ。目の前にある自然というものを、イメージとして捉まえるものなわけです。
そぉおーーなんですよっ!(←自分がちゃんとできないくせに、こういうときだけ大声……)
> あたしには子どもたちに教えてあげたいことがいっぱいあります。役に立つこと、面白いこと、生きてゆくうえで大事なこと。
いっぱい、いっぱい、教えて欲しいっ!!
子どもたちはもっと疑問を持っていいし、たくさん考えていいんだと思うから。
こだまさん wrote:
>「秘密結社A計画」については当日くわしく説明が聞けますよね?
>この世界の今後を左右するような活動!?でしたら是非お話聞きたいです。
>私自身そういたものを望んでいます。
ちょっと前にこの掲示版に掲載していたメル・アドに送信しておきま
したが、無事送信されましたでしょうか?(孤人さんにも送信してあり
ます。)
当日、お会いできることを楽しみにしておりますよん。
(相変わらず、堂々と公表している秘密結社A計画? こうもり)
こうもりさん wrote:
>*こだま* さんwrote:
> ええと、今回の臨時オフは誰が参加してはならないというこ
>とはありません。ただし、関東在住のこの世界の住人(どんな
>世界だ???)たちの今後を左右する話し合いとなりますので
>、出席にはある程度の覚悟が必要であります。
「秘密結社A計画」については当日くわしく説明が聞けますよね?
この世界の今後を左右するような活動!?でしたら是非お話聞きたいです。
私自身そういたものを望んでいます。
え!?なんで私がここにいるかって?
・・・結局他のソフトを使ってドリームキャストでアクセスできるようにな
りました。ぱちぱち
あおびさん wrote:
> 要は入学試験で何を問うかということを真剣に考え直さないと学校を週5日にしても意味は出てこないと考えます。
> そうした意味で、これからはASの人のように何かにすごく詳しい、つまりマニアックな生き方をしていく方がいいと僕は考えます。今の学生の就職難は事務職ばっかりで、その道に長けた人、マニアックな人が少ないからです。これからの学力はこの点を十分考慮する必要があると思います。でも、学習指導要領なんかを審議する人はそんな教育受けてないからそんな考え方をするのは難しいと思うけど。
文部科学省が告知する小学校・中学校の学習指導要綱は、なぜか財務省印刷局(お札を刷るところ)で印刷されます。そのせいかなんか知らないけど、薄いわりに値段が高いのね。といっても三百円しないんだけど。これに対して「解説」のほうは民間の出版社(教科書会社)が出してます。こっちは値段が「要綱」の半分くらい。小学校と中学校の指導要綱、小学校の解説の国語編・算数編・理科編、それに中学校の国語編くらいは読んでおいて損はないと思うぞ。あたしは八重洲ブックセンターで買いました。
で、これを読んでみると、学習指導要綱というのはけっこうよくできています。あたしが思うに問題は教科書の審査をする人々・教科書会社・教科書の採択にかかわる人々・現場教師あたりにありそうにおもいます。
小学校四年生の理科では、水の三態と水の循環を学びます。あたしにはここんとこだけでも現行の教科書の三倍くらい書くことがあるぞ。だけど、現在の小学校の教師のレベルでこれだけのものを教えきることができるかどうかは疑問です。
水蒸気は空気よりも軽い。だったら水蒸気は上に上がる……と単純に考えていいかというと、そうではありません。だったらどうして海水の中の塩は海底に沈んで溜まらないのか? 空気の中に水蒸気が混じっているのと、海水の中に塩が混じっているのはどう違うのか? こういうの、まじめに考えたら相当にややこしいぞ。で、それを小学校の四年生にどうやって教えたらいいのかというと、これはもう大変なことになります。
あたしたちは、大気というものをつい一様なものと考えてしまいますが、じつは大気というのは湿った空気乾いた空気温かい空気冷たい空気が層になり塊になりしてあっちへ行ったりこっちへ行ったりといった、けっこう構造やむらのあるややこしいものなのですよ。そういうイメージを教師はちゃんと持っているんでしょうか?
あたしたちは湖の上に張った氷の上で、スケートやワカサギ釣りを楽しむことができます。つまりは氷というのは水に浮き、水は上から凍るということです。とはいえ温度の低い水は下に沈むはずで、中はいったいどうなっているんだろう?みたいなことにもなるんですよ。
寒くなってくると、冷たい水は湖の底に沈みます。そのうちに、湖の底に摂氏四度の「水たまり」ができるのね。その水たまりの水量はどんどん増えて、ついには湖全体の水が四度になります。湖面が凍りはじめるのはその後。
こういったことを、実験やコンピュータ・グラフィクスを使って子供に見せることはできないでしょうか。あるいは、触って感じさせることはできないでしょうか。
自然というものは、あたしたちの目の前にあるものであって、教科書の中にあるものではないのね。で、「学問」っていうのはパズルやクイズではないのですよ。目の前にある自然というものを、イメージとして捉まえるものなわけです。
あたしたちが現実に生きているこの世界から遠く離れた場所にある「お勉強」について論じるのが「教育」じゃないんだぞ。あたしたちがどういうふうに世の中を捉え、どう理解し、どう生きてゆくかを教えるのが教育なんだ。
あたしには子どもたちに教えてあげたいことがいっぱいあります。役に立つこと、面白いこと、生きてゆくうえで大事なこと。そこんとこを抜きにして、教育についてあーだこーだ言ったって、ナンセンスな気がするのだけど、違います?
(Maria)
Maria wrote:
> 日本の戦後教育というのは、リテラシー(literacy)の育成でした。このリテラシーというのは「読み書きの能力」ということではなくて、「その意味するところを理解するための、素養や判断力を含めた、読解と表現の能力」だったりします。
>
>
>
> とはいえ、こうした教育が、理念にこり固まっていて、頭でっかちで役に立たない、権利ばかりを主張する人間を確実に生み出してきたのもまた確かなのね。で、その典型みたいに言われているのが「戦後の若者」の代表みたいに言われる「全共闘世代」「団塊の世代」だったりするわけです。現代におけるステレオタイプな「自由奔放で無軌道な若者」像というのは、これが原点なのですよ。あたしのようなむしろ古臭いタイプの人間は、こうしたイメージを貼りつけられてどれだけ迷惑したかわかりません。で、もって、こうした「戦後の若者」の典型が、現東京都知事の石原慎太郎であり、そうした若者を描いた代表的な作品が、その著書『太陽の季節』だったりするわけです。あーあ。
>
オレはそれだから石原慎太郎は大嫌いだ!!!!
> 戦前の日本の教育の原点は、「メンタリティ(心性)の育成」と「生産のための能力の育成」にあります。メンタリティの育成にあたるのが、四書五経といった素養・教養。いわゆる「武士の師弟の教育」です。
> で、これと対をなしているのが、「寺子屋」「手習い」の教育、すなわち「読み・書き・十露盤(そろばん)」です。読み書きは「往来物」といわれた商用の手紙文、そろばんは『塵劫記』のような、「金・銀・銅のレート交換」「米の売買」「測量」といった実用計算が基本です。
>
> ところが、戦後教育はこの両方を否定するところから出発しました。「生活単元学習」を押し進め、「アメリカ型消費生活を営む単純労働者」を作ることを目標とした教育が行なわれました。>
そうなんですよね。要するに戦後の教育は生産者、ひいては消費者という駒を生産することに躍起だったんですよね。そして、その駒がより強く、より強く、ということで出てきたのが学歴社会であり、受験戦争、競争社会なんですよね。そして、僕達のようなASや自閉症を含めた知的な障害者、LDなんかの障害者、その競争社会のストレスで心の病気になった人を外国ではどうか知りませんが、少なくとも日本では全て捨ててかかる。
>> アメリカなどでは、子供に会社を見学させるということはありふれたことですが、日本ではまだまだで、「どんなとこに飛び込んでいくのか分からない」というプレッシャーがかかることが、引きこもりを80万人まで膨らました原因のような気がします。
引きこもりの原因はそれだけではないと思います。僕は同じASの人がいないので、引きこもりの経験者のサークルに入っていますが、引きこもりの原因はそれだけではないと考えます。実際、彼らと接していてそう感じます。
> スパゲッティが食べたければ、レストランに行くか、デリカテッセンに買いにゆくか、TVディナー(一食まるごとの冷凍食品)を買い置きしておいてレンジで温めればいい、と考えるのがアメリカです。「家庭料理なんていう面倒臭いことをどうしてしなきゃいけないんだ? 金を払って買えばいいじゃないか!」。それが、かつての「アメリカ型消費生活を営む単純労働者」のスタイルだったんですよ。
>今の日本はまさにそれです。おにぎりも自分で作らずコンビニで済ませるといったように。
話は変わりますが、今の不況は物があふれすぎていると考えます。だって、街中を見たら、10年位前に新車だったカローラがまだ走っているもん。つまり、日本でものを買うことが限界に近づきつつあると考えます。
> こうした戦後教育の弊害をなくそうと思うと、どうしても戦前の日本の教育のスタイルに回帰してしまいます。ところが、現場の教師の間には、それに対する猛烈な抵抗があります。
>
> あたしたちは、アメリカ的な自由というものをもう一度考え直してみないといけないと思うんですよ。「政府・学校・企業がライフスタイルを強制してはいけない」というのは確かに正しくはあるのだけれど、だからといって「日本の伝統的ライフスタイル」というものを否定しなきゃいけないとは限らないし、そういうものを「望ましいもの」として教えることもしてはいけない、というのはちょっとおかしいんじゃないか。愛国心を教えてはいけないんですか?という話にもなるわけです。
>
愛国心を教えるのは自分を信じる力がある人でないと、危険だと思いますが・・・。
> この部分で、戦後の日本の教育……というか、アメリカの教育には、大きなごまかしがあります。
>
> 自由主義・平等主義といった「アメリカ的なやりかた(アメリカン・ウェイ)」というのは、「アメリカ固有の文化」ではなく、「唯一絶対の真理」であり、それは「アメリカ文化の押しつけ」ではない、という考え方です。アメリカという国家に対する忠誠を求めているのではなく、自由主義・平等主義という、世界で唯一アメリカが体現しているところの理想に対する忠誠が、そのままアメリカに対する忠誠である、という考え方。ですから、アフガニスタンのタリバンは「アメリカの敵」ではなく、「自由主義・平等主義の敵」であり、アメリカと共に戦わない者はすなわち自由主義・平等主義の敵である、みたいなことが平気で言えてしまうのね。
>
そういった意味ではアメリカ合衆国というのは地球の警察みたいに感じるのは僕だけでしょうか・・・。
> あたしには、なにか別のやりかたがあるように思えます。で、それは、日本人がおそらくは千数百年以上のあいだ、育ててきたものにけっこう近いような気がしています。
僕もそう思います。ヨーロッパ的な思想と江戸時代までに培ってきた思想を合わせていいものは取り入れて悪いものは捨てていくという選択と21世紀的なビジョンを取り込んで新しい日本の教育体制、社会体制を気づくべきだと思います。だから、一日一日無駄にしてはいけないということですよ。
かいつまんでカキコしてゴメンナサイ。
(あおび)
Maria wrote:
> 世の中のきまりごとというのは、無意味な制約の押しつけではなく、そこに合理性というのがかならず存在するはずだ、いや、存在しなくてはならない、といった信念というのは、重要だと思います。で、そこに嘘やごまかしがあってはならない。だからこそ、すでにあるものを尊重すると同時に徹底的に疑い、新しいものを求めつつも軽々しく飛びつかないといったことのために、「考える」「学ぶ」という意欲が生まれる。
>
最近、勉強しないという子どもが多いと言います。それは受験、ひいては学歴社会という無意味(と自分は思う)な制約の押し付けがあるから。
> ただ、こうした態度を改めるのは、文部科学省の一通の通達でなんとかなるものではありません。現場教師の意識改革というものが、必要です。
>
> そこんところを無理やりにでも変えていかないと、だめだと思うぞ。
>
そんなことは難しいと考えます。押し付けてやらないと、自分(教師を指す)のアイデンティティがかき乱されるのが怖いから。そうしてみると、学校の教師や塾の講師のなんと弱腰なことか。
武田好史 wrote:
> 今週・来週あたりから、小学校の始業式・入学式があり、子供たちが新しい一年を迎えていきます。今年度から「学校でどんなことを教えるべきか」ということを定めた要綱である『学習指導要綱』が改正され、総合教育が行われるぶん、通常の授業の時間が減り、また土曜日がお休みになってしまうということで、『学力低下』を懸念する親御さんが多いと聞きます。
> ということもあるので、今日はこの『学力』という言葉について、私なりに考察してみたいと思います。
> 『学力』と聞いて、みなさんは何を連想するでしょうか?難しい算数の問題が解けることでしょうか…10歳の子供が憲法の条文の意味を理解していることでしょうか…化学の反応式をいっぱい理解しているということでしょうか…論語の一説を5才の子が暗唱しているということでしょうか…パソコンを大人なみに使いこなせるということでしょうか?
僕もそう思います。学力の問題は「何をもって学力とみなすのか」というのが大前提だと思います。今の学力は商品化されてしまっていますから(それを声高に言う人がいないのが情けない)。
僕は大学は史学科でしたけども、同じ史学科の学生が話していることとか(例えば、学校の教科書が絶対に教えてくれない各地方の歴史のことなど)、全然知りませんでした。受験勉強ばかりしていたツケなんだろうなと思っていますが。
現在でいうところの学力を身につけるんなら学校へ行くよりも、塾へ行ったほうが10倍いいと皆は思っているんじゃないでしょうか。彼らは講師というよりもただのサラリーマンに過ぎませんもんね。塾の授業というのはもう営業なんですよ。
僕が驚いたと言うか、情けないというか、泣かせる話は、僕が塾で採点のアルバイトに行ってたことなんですが、理科の実験道具なんて塾にはなかったことなんですね。要するに、実験をしてどうしてどうなるかということより、どうなったかと言うこと自体を問うていないという証拠なんですね。
要は入学試験で何を問うかということを真剣に考え直さないと学校を週5日にしても意味は出てこないと考えます。
そうした意味で、これからはASの人のように何かにすごく詳しい、つまりマニアックな生き方をしていく方がいいと僕は考えます。今の学生の就職難は事務職ばっかりで、その道に長けた人、マニアックな人が少ないからです。これからの学力はこの点を十分考慮する必要があると思います。でも、学習指導要領なんかを審議する人はそんな教育受けてないからそんな考え方をするのは難しいと思うけど。
シンタロウさん wrote:
> IQテスト
> http://www.unnmei.com/iqtest/iqtest.html
> EQテスト
> http://www.unnmei.com/eqtest/eqtest.html
やってみたところ
IQ: 115
EQ; 自己認知力・自己統制力: 3, 共感性・コミュニケーション力: 3, 柔軟性・楽観性: 5, 総合値: 11
となりました。
「常識の教科書」あるいは「日常生活のマニュアル」というものを、書こうと思っている。まあ、一年二年でできるもんじゃないけどね。とりあえず、書きつづけようと思っている。理由についてはいろいろあるんだけど、それについてはそのうち書きます。
そもそもは料理のマニュアルを書こうと思ったのがきっかけなのね。よくある「料理入門」みたいな本というのは、「どんな調理器具を揃えたらいいか」とか「野菜の切り方」みたいなのから始まっていたりするわけです。つまり、カップ麺にお湯を注ぐのは、どうやら「料理」のうちには入らないらしいのですね。
とはいえ、これはよく考えたらおかしい。カップに注ぐそのお湯はどこから手に入れればいいのか。水道水をやかんに入れてガスコンロにかける? それとも電気湯沸かしポットの「再沸騰」ボタンを押す? じゃあ、ポットが空だったら?
そもそも、“やかん”というものはなぜ存在するのでしょうか。鍋でお湯を沸かすのと、やかんでお湯を沸かすのではそんなに効率や時間が違うんだろうか。単に鍋には注ぎ口がついていなくて注ぎにくいという、ただそれだけの理由なんだろうか。その一方でソースパンやゆきひら鍋のように、注ぎ口のついている鍋があるのはなぜなんだろうか。
実際にやってみると、ガス火を使ってやかんで沸かしたお湯、電気を使って電気湯沸かしポットで沸かしたお湯では、お茶を淹れたとき歴然と味が違います。おいしいのは前者。そんなわけであたしはお茶を淹れるときはいちいちやかんで沸かしていました。ただし、そのお湯は捨てるわけではなくて、ポットに入れておくわけです。
ところが、朝飲むお茶の味が、なんだかときどき違うのですね。で、いろいろ調べてみたところ、前の晩にやかんで沸かしたお湯をポットに入れておいて、そのお湯で朝お茶を淹れてもやっぱりおいしい。おかしいなぁ。ずっと温めておくと酸素が抜けちゃっておいしくないとか云うんだけどなぁ。
で、またまた調べてみると、やかんというのは非常に速くお湯が沸くのですね。とはいえ、その「速さ」というのは「沸騰するまでの時間」とはまた別の「速さ」だったりします。
やかんは、底のほうで常温から一気に沸点近くまで加熱された水が、その温度を保ったまま水面までなめらかに移動できるよう、形が工夫されているんです。で、沸点に近い水(熱湯)が表面のほうから徐々に溜まっていって、底まで熱湯になったとたんに一気に沸騰する、というふうになっているのですよ。
こういうことを考えると、「やかん」というものには、一つの「型」というものが存在するということがわかります。底が一様に熱せられるような熱源の場合、昔風の丸っこいやかんが合理的。ガス火のような、中央に炎が当たらないような熱源の場合、底が平らなやかんが合理的。で、世にある珍妙なデザインのやかん(中が洗いにくかったり、注ぎ口が熱くなりやすくて注ごうとしたとたんに沸騰したお湯が噴出するようなやかん)というのが、いかに愚にもつかないものかがわかる。
世の中のきまりごとというのは、無意味な制約の押しつけではなく、そこに合理性というのがかならず存在するはずだ、いや、存在しなくてはならない、といった信念というのは、重要だと思います。で、そこに嘘やごまかしがあってはならない。だからこそ、すでにあるものを尊重すると同時に徹底的に疑い、新しいものを求めつつも軽々しく飛びつかないといったことのために、「考える」「学ぶ」という意欲が生まれる。
あたしは「押しつけ」「詰めこみ」を認めます。ただし、そこに「自分で考え、判断する」というプロセスが加わらなければいけないのね。で、考える力をつけるために学ぶのだ、ということを、徹底的に教えなければならない。教師は生徒の疑問を怖れても避けてもいけません。徹底的に向かい合う義務があります。だってそれで給料貰ってんだもん。電算業界じゃユーザが納得しなかったらお金払ってもらえないんだよ? で、システムが納まんなかったらお金払ってもらえないんだよ?
「誰もお前みたいなことを考えたりしない」「みんながこれで納得してるんだからお前も納得しろ」。そんなふうにあたしは学校で言われてきました。で、それに対する異議申し立て、みたいなものとして現在のあたしの教養というのはあるのですよ。現代の学校教育におけるそうした態度は、「反教育的」「反教養的」態度です。
ただ、こうした態度を改めるのは、文部科学省の一通の通達でなんとかなるものではありません。現場教師の意識改革というものが、必要です。
そこんところを無理やりにでも変えていかないと、だめだと思うぞ。
(Maria)
鷲羽丸 wrote:
>> 番組では、彼らを山間の村で一泊させ、共同生活を体験させることで、「脳をきたえる」様子が放送されました。
まろんすさん wrote:
>結局鍛えた結果彼らはどうなったんでしょうか?
はじめは4人の行動・考えがバラバラで、まとまりがない状態でした。
その後の展開はと言うと、次第に話し合うこと、協力することを4人は知る。それで脳がきたえられて、ハイめでたしめでたし。
わしはこの番組の展開に懐疑的です。たった二日で、見ず知らずの彼らが、あのように簡単に都合よい方向に行くものでしょうか?
制作している局が、“ヤラセの王者”「ガチンコ!」を擁しているだけに、余計にそう思ってしまうんですよねえ……。
わしっていぢわるなヤツ!? 鷲羽丸
武田好史さん wrote:
> 例えばある人が「日本の大学生は分数の計算ができない…」と嘆いておりましたが、みなさんは日常生活で通分をするような分数の足し算・引き算をしなければならない場面がありますか?おそらく大学で積分の問題を解くとか、エンジニアで機械の設計をするとかでない限りないと思います。またことわざを知らなくっても、コミュニケーションをすることができます。
かつてアメリカには「生活上必要な能力」というものを重視した「生活単元学習」というものがありました。ところが、こうした教育は「アメリカ的消費生活」を営むためのものではあっても、科学技術のような「生産のための能力」に結びつかなかったのですよ。そんなわけで、アメリカは科学技術の面でソビエト連邦に遅れをとり、いわゆる「スプートニク・ショック」が起きて一大方針転換が行なわれました。
日本の戦後教育というのは、リテラシー(literacy)の育成でした。このリテラシーというのは「読み書きの能力」ということではなくて、「その意味するところを理解するための、素養や判断力を含めた、読解と表現の能力」だったりします。
これは、「戦前のような独裁的国家を生み出してはいけない」みたいな、戦前の教育の否定、というところから発しています。国家はもっともらしい嘘をついて大衆を支配し抑圧し搾取しようとしている、みたいな発想がそこにはあるわけ。ですから、そのリテラシーというのも、「国家あるいは為政者のもっともらしい嘘を見破る能力」だったりするわけです。リテラシーのない人間というのは、感情論に流されプロパガンダに踊らされやすい。で、衆愚政治に陥りやすく独裁政治に移行しやすい。こういう考え方が、左翼的なリベラリストに大受けして、日教組の主導の下、自由と平等の礼讃だとか、日の丸君が代反対だとか、そっちの方面に向かったわけですね。とはいえそうしたリテラシーが、逆に左翼的リベラリストの批判といった方面に向けられたりもするわけです。
たとえば、「鯨を殺すな」なんていう主張には、「鯨は絶滅しかかっている」とか「鯨は知能が高い」とかいった理由がくっついているのだけれど、ミンククジラはむしろ魚介類資源を食い荒らす害獣と呼べるほどに増えているし、牛や豚だって知能が高いということを「家畜は神が人間に与えたもうたものだから」というユダヤ・キリスト教的宗教観にもとづいて意図的に無視しているし、そもそも鯨が絶滅の危機に瀕したのはアメリカが燃料用の鯨油を採るために鯨を乱獲したせいであって、むしろ日本人のほうがよっぽど鯨資源の管理については熱心だったし、みたいなことは意図的に隠されていたりするのですよ。
とはいえ、こうした教育が、理念にこり固まっていて、頭でっかちで役に立たない、権利ばかりを主張する人間を確実に生み出してきたのもまた確かなのね。で、その典型みたいに言われているのが「戦後の若者」の代表みたいに言われる「全共闘世代」「団塊の世代」だったりするわけです。現代におけるステレオタイプな「自由奔放で無軌道な若者」像というのは、これが原点なのですよ。あたしのようなむしろ古臭いタイプの人間は、こうしたイメージを貼りつけられてどれだけ迷惑したかわかりません。で、もって、こうした「戦後の若者」の典型が、現東京都知事の石原慎太郎であり、そうした若者を描いた代表的な作品が、その著書『太陽の季節』だったりするわけです。あーあ。
戦前の日本の教育の原点は、「メンタリティ(心性)の育成」と「生産のための能力の育成」にあります。メンタリティの育成にあたるのが、四書五経といった素養・教養。いわゆる「武士の師弟の教育」です。
で、これと対をなしているのが、「寺子屋」「手習い」の教育、すなわち「読み・書き・十露盤(そろばん)」です。読み書きは「往来物」といわれた商用の手紙文、そろばんは『塵劫記』のような、「金・銀・銅のレート交換」「米の売買」「測量」といった実用計算が基本です。
ところが、戦後教育はこの両方を否定するところから出発しました。「生活単元学習」を押し進め、「アメリカ型消費生活を営む単純労働者」を作ることを目標とした教育が行なわれました。ところがアメリカ型消費生活はすでに限界に近づきつつあり、産業用ロボットの進歩と普及によって単純労働者の必要性は大幅に減少しました。
> アメリカなどでは、子供に会社を見学させるということはありふれたことですが、日本ではまだまだで、「どんなとこに飛び込んでいくのか分からない」というプレッシャーがかかることが、引きこもりを80万人まで膨らました原因のような気がします。この前テレビを見ていてびっくりしてしまったのですが、スパゲッティを作るのに麺をゆでずにお湯をかけた二十歳すぎのお姉さんがいました。
アメリカの場合、単に企業が単純労働者から労働力を買う、という単純な関係が現在も基本です。仕事と生きがいは別。いわゆるプロフェッショナリズムというのは、弁護士や医者のような、いわゆるエリートにしか期待できません(それすらも最近は危なくなっていますが)。「そんなことは教わっていない」「そんなことはマニュアルに書いてない」で済んじゃいます。「どんなとこに飛び込んでいくのか分からない」なんていう不安はありません。企業と労働条件が折合わなかったらユニオン(労働組合)が保護してくれます。
スパゲッティが食べたければ、レストランに行くか、デリカテッセンに買いにゆくか、TVディナー(一食まるごとの冷凍食品)を買い置きしておいてレンジで温めればいい、と考えるのがアメリカです。「家庭料理なんていう面倒臭いことをどうしてしなきゃいけないんだ? 金を払って買えばいいじゃないか!」。それが、かつての「アメリカ型消費生活を営む単純労働者」のスタイルだったんですよ。
こうした戦後教育の弊害をなくそうと思うと、どうしても戦前の日本の教育のスタイルに回帰してしまいます。ところが、現場の教師の間には、それに対する猛烈な抵抗があります。
あたしたちは、アメリカ的な自由というものをもう一度考え直してみないといけないと思うんですよ。「政府・学校・企業がライフスタイルを強制してはいけない」というのは確かに正しくはあるのだけれど、だからといって「日本の伝統的ライフスタイル」というものを否定しなきゃいけないとは限らないし、そういうものを「望ましいもの」として教えることもしてはいけない、というのはちょっとおかしいんじゃないか。愛国心を教えてはいけないんですか?という話にもなるわけです。
この部分で、戦後の日本の教育……というか、アメリカの教育には、大きなごまかしがあります。
自由主義・平等主義といった「アメリカ的なやりかた(アメリカン・ウェイ)」というのは、「アメリカ固有の文化」ではなく、「唯一絶対の真理」であり、それは「アメリカ文化の押しつけ」ではない、という考え方です。アメリカという国家に対する忠誠を求めているのではなく、自由主義・平等主義という、世界で唯一アメリカが体現しているところの理想に対する忠誠が、そのままアメリカに対する忠誠である、という考え方。ですから、アフガニスタンのタリバンは「アメリカの敵」ではなく、「自由主義・平等主義の敵」であり、アメリカと共に戦わない者はすなわち自由主義・平等主義の敵である、みたいなことが平気で言えてしまうのね。
あたしには、なにか別のやりかたがあるように思えます。で、それは、日本人がおそらくは千数百年以上のあいだ、育ててきたものにけっこう近いような気がしています。
(Maria)
武田好史さん wrote:
> 『学力』と聞いて、みなさんは何を連想するでしょうか?
文字通り「学ぶ力」、誰でも持っているものだと思います。連想とは言い難いですが……。思い浮かばないので、ごめんなさい。
> 今年度から「学校でどんなことを教えるべきか」ということを定めた要綱である『学習指導要綱』が改正され、総合教育が行われるぶん、通常の授業の時間が減り、また土曜日がお休みになってしまうということで、『学力低下』を懸念する親御さんが多いと聞きます。
多いです。たくさんの方々が心配していらっしゃいます。わけのわからんものを心配するんだな〜と、わたしにはひとごとのように感じられます。
> もう少しこういったことを、次回の指導要領では考えてもらいたいものです。
現行の学校教育システムでは、無理のような気がします。トップダウン方式ですから……。もっとボトムアップ体制になっていかなくては、指導要領の改正だけでは追いつかないのではないでしょうか。それには、親が変わるほうが手っ取り早いと思っています。
小学3年生でも、クラスメイトが2階のベランダから下をのぞいただけで「自殺する〜!」と叫んで大騒ぎになったりします。わたしが子どもの頃には、そんな連想をすることなどありませんでした。子どもたちは今どきの社会を良く知っていますね〜。
情報収集能力は、大人が考えているより高いです。情報を選択する力と、自己決定できる力をつけるための教育が、ぜひとも欲しいところです。あ、思考力を伸ばすことも必要ですね。←やっぱ、親がやんなきゃダメでしょうか……。ヘタに学校を信じると“思考力を削り取られる”結果になりかねないですからねぇ。(用心、用心)
これって、武田さんへのレスになっているんでしょうか? ううう、わかんなくなってしまった……。(←だ〜か〜ら〜、こういうのを思考力欠如と言うんだってばさ。恥)
幼い頃にはダンボール箱や衣装ケースにはまりこんで、「極楽、極楽♪」と言っていた娘が、押入れの上段に居場所を作って、懐中電灯をぶら下げて本を読んでいたりするのを、“進歩!”と喜んでいるような親なんで……「学力」は加齢と共に向上すると信じていたりするのです。もちろん、適切な支援があればの話ですが。
シンタロウさん wrote:
> IQテスト
> http://www.unnmei.com/iqtest/iqtest.html
> EQテスト
> http://www.unnmei.com/eqtest/eqtest.html
> 皆さんもやってみませんか?
面白そうだったんで、やってみました。
自己認知力・自己統制力(最高値15)は1
共感性・コミュニケーション力(最高値15)は4
柔軟性・楽観性(最高値15)は2
総合値(最高値45)は7
ひょっとして、総合で最低値…??
思い当たることがあるような、ないような…。(泣)
IQテストは恐れをなして、パスしました。(だから、ゼロ)
最近ご無沙汰をしておりますが、5月25日(土曜)には、東京方面の定例オフ会をやらせて頂こうと思っております。
ま、その話は、秘密結社のあとですので、追々。
(鯨夢ミグ)
みどり wrote:
>>シンタロウさん wrote:
>>> IQテスト
>>> http://www.unnmei.com/iqtest/iqtest.html
>>>
>>> EQテスト
>>> http://www.unnmei.com/eqtest/eqtest.html
>
>IQ は立派な点を取れましたが、EQ は 2だの 3 だの……
>ま、いつものことなんだけどさ。
あ、EQにも総合ってのがあったのね。
IQ / EQ > 14
になってしまったよ(涙)。
# ここに来てる人はみんな同じようなもんかと思ってたら、そうでもないのね…
鷲羽丸 さんへ
私もそのテレビ少しだけ見ました。
> 「アレキシサイミア」とは、「他人ばかりか自分の心さえも理解できず、他人の気持ちが想像できず、衝動的になりやすい誤った感情をあらわにしてしまう心理上の特徴」のことで、前頭葉の機能低下によるもので、都会の核家族の子供に発生しやすいとのことです。
私それってちょっとアスぺの症状に似ているなと思いました。
> 番組では、彼らを山間の村で一泊させ、共同生活を体験させることで、「脳をきたえる」様子が放送されました。
結局鍛えた結果彼らはどうなったんでしょうか?
まろんす
今週・来週あたりから、小学校の始業式・入学式があり、子供たちが新しい一年を迎えていきます。今年度から「学校でどんなことを教えるべきか」ということを定めた要綱である『学習指導要綱』が改正され、総合教育が行われるぶん、通常の授業の時間が減り、また土曜日がお休みになってしまうということで、『学力低下』を懸念する親御さんが多いと聞きます。
ということもあるので、今日はこの『学力』という言葉について、私なりに考察してみたいと思います。
『学力』と聞いて、みなさんは何を連想するでしょうか?難しい算数の問題が解けることでしょうか…10歳の子供が憲法の条文の意味を理解していることでしょうか…化学の反応式をいっぱい理解しているということでしょうか…論語の一説を5才の子が暗唱しているということでしょうか…パソコンを大人なみに使いこなせるということでしょうか?
世間一般の人はそのようなことを『学力』といっているようですが、私は何か違うような気がします。『学力』というのは、そのような頭のよさを指すのではなく、むしろ「社会的な生活を営んでいくために、最低限必要な能力」ではなかろうかと思えるのです。
例えばある人が「日本の大学生は分数の計算ができない…」と嘆いておりましたが、みなさんは日常生活で通分をするような分数の足し算・引き算をしなければならない場面がありますか?おそらく大学で積分の問題を解くとか、エンジニアで機械の設計をするとかでない限りないと思います。またことわざを知らなくっても、コミュニケーションをすることができます。
アメリカなどでは、子供に会社を見学させるということはありふれたことですが、日本ではまだまだで、「どんなとこに飛び込んでいくのか分からない」というプレッシャーがかかることが、引きこもりを80万人まで膨らました原因のような気がします。この前テレビを見ていてびっくりしてしまったのですが、スパゲッティを作るのに麺をゆでずにお湯をかけた二十歳すぎのお姉さんがいました。
何かこの国では、「学力」というと理数系ができるとか難しい漢字が書ける・ことわざの意味がいえる・英文法に精通しているということがが突出して重視されていて、手先の器用さ・自分の意見をまとめられる・人とコミュニケーションできる・実際から学ぶ・自分や他人を大切にするという、本質的に社会にでてから必要とされる面が欠落してしまっているような気がしてなりません。
もう少しこういったことを、次回の指導要領では考えてもらいたいものです。
川合哲也さん wrote:
> 高校1年になりました。実は3歳の時に発達障害と言われ、脳波の検査やリハビリをやってきました。脳波の検査が異常なしと言われ、もう発達障害は治ったのかと思いました。しかし、先日心理テストのような検査をやり、結果を聞いたら、高機能公汎性発達障害もしくはアスペルガー症候群と言われてしまいました。もう一生治らないと言われてしまいショックでした。もう治らないけど、症状を和らげる方法ありませんか?何かあったら教えてください。お願いします。
……うーむ(-_-;)。キミはなにか勘違いをしているぞ。べつに高機能広汎性発達障害なりアスペルガー症候群なり(あたしたちは公式には「関係性発達障害」という呼称を採用しているのですが、日常会話ではもっぱら「自閉(症)」「AS」を使ってます)が“わかった”あるいは“診断がついた”からといって、悩む必要はない……というか、悩まないヒトがあたしの周囲では多数派なのね。むしろ、「わからなかった」から悩んでいた(あたしの場合、「普通の人と、どこか違う」というのははっきり分かっていたけれど、それ自体に対する悩みというものはまったくなかった)ヒトが多いし、「診断がついてすっきりした」というヒトのほうが多いです。あげく、あたしのように「検査を受けて『あなたは正常です。自閉症の傾向はまったく見られません』とか言われたらどうしよう(-_-;)」とかいって悩んでいる人間がいたりするし。
産業界での労働における単純労働の比率が高い労働集約型の社会では、「均質な労働力」としての人間が求められます。そういう社会の中では「人と違っていること」自体が悪だったりするのね。
ところが、変革期の「問題解決型社会」や、産業界において単純労働力が十分に機械化された「創造(イノベーション)型社会」では、「人と違っていること」そのものに価値が置かれるようになります。で、かつての日本の農村のメンタリティをひきずっている社会においては、自閉症の人間は生きにくいけれど、そうではない都市型産業(出版やソフトウェア開発や技術開発)の世界ではそんなに生きにくくはありません。
そんなわけで、「症状」に相当するものがあるとすれば、「みんなとは違う人間として生きる」ことが苦痛であるか苦痛でないか、というこの一点にかかわってくるのね。で、あたしの場合は「みんなと違う人間である」こと自体にはまったく苦痛はなくて、「みんなと違う人間として生きる」ことのしんどさに悩まされていた、ということだったりします。
だから、あたしは「自閉症」であることに対する帰属意識ってあんまりないのね。「自閉症」であること以前に、あたしはあたし。『アスペルガーの館の掲示板』の常連カキコメンバーや、あたしが個人的に知っている自閉症方面の人たちに対する帰属意識はもちろんあるんだけど、「あたしと同じ自閉症の仲間ができて嬉しいわ」とかいった、「同病相哀れむ」的感慨はまったくありません。あくまで「類は友を呼ぶ」です。
そんなわけで、「みんなと違う人間として生きる」ことが苦痛な場合、「自分の特性を有効利用できる立場を確保し、世間に認められること」がもっとも効果的です。
あたしは人に「がんばれ」とは言わないのをモットーとしているのですが、今回は言うことにします。がんばってね。
(Maria)
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