アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
I wrote:
> ひ、ふ、み、よ、い、む、なな、や、ここの、とお
……そうじゃないだろ(-_-;)。
ひと・ふた・み・よ・い・む・なな・や・ここの・とお
が正解。
hito:huta
mi:mu
yo:ya
といった具合に、倍数関係にあたる数詞には
i:u
o:a
という、母音の音韻調和の関係があります。
ついでながら、「シ」が「死」に通じるというので、「シ」→「よ(よん)」と呼びかえることがあります。「三四人」は「さんしにん」ではなく「さんよにん」。
また、「ニ」と「シ」、「イチ」と「シチ」が区別しにくく、「ク」が聴き取りにくいので、軍隊などでは
イチ、ふた、サン、よん、ゴ、ロク、なな、ハチ、キュウ、ジュウ
が使われます。
武田好史さん wrote:
> 本は1冊、青菜は1把、ビー玉は1個、猫は1匹、Tシャツは1着、丸太は1本…
兎は一羽、羊羹一竿、刀は一振、鉋は一丁、烏賊や蛸は一杯、屏風は一曲……
さて、ここで問題です。「ここで講釈をひとくさり」「〜くさり」というのは、何を数える単位でしょう?(syakuさんは知ってると思う)
(Maria)
Maria wrote:
> ○「サンホン」「ハチホン」
> △「サンボン」「ハッポン」
>
>として、△を「慣用」「口語的に崩れた形」と教えるのが適切だ、くらいに思っています。
>
もう一つあった!
日本語には、いろいろな個数の単位があること。
本は1冊、青菜は1把、ビー玉は1個、猫は1匹、Tシャツは1着、丸太は1本…
小学校の「算数」の時間では、
A.数と計算
B.量と測定
C.図形
D.数量関係
の四つの領域について教えることになっており、一年生の「数と計算」の授業では、
数:100までの数
計算:一位数と一位数の加法と、その逆としての減法
を教えることになっています。
おそらくは、この授業の中で「1から100までの数えあげ」というのが教えられ、ご家庭でも「100までの数が数えられるように」と思って訓練をしていると思うのね。
だけど、「ちょっと待ってください」とあたしは言いたかったりします。ひらひら。(←舞っている)
仮に1から100までの数を数えられたとしても、それは必ずしも数を理解したことにはならないのね。それよりは、
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とお
ひ、ふ、み、よ、い、む、なな、や、ここの、とお
というやまとことばの系列と、
イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、ク、ジュウ
という漢語の系列の二つがあって、「算数」では漢語系の表現が使われる、といったことをしっかり教えておくことのほうが重要なわけです。
このとき、「211」を「ニヒャクジュウイチ」ではなく「ニヒャクイチジュウイチ」と読むのは間違いかどうか、とかいったことをちゃんと考えておく必要はあります。あるいは、「三本」を、「サンボン」ではなく「サンホン」、「八本」を「ハッポン」ではなく「ハチホン」と読むのは正しいのかどうか、とかいったことをね。
個人的には、
○「ニヒャクイチジュウイチ」
△「ニヒャクジュウイチ」
○「サンホン」「ハチホン」
△「サンボン」「ハッポン」
として、△を「慣用」「口語的に崩れた形」と教えるのが適切だ、くらいに思っています。
ただ、こうしたことを現行教科書に盛り込め、といってもおそらく無理なのね。で、自分たちが教えるために使うのならば検定を受けた教科書である必要はまったくなくて、あたしたち独自の教科書を作ってもまったく問題はない……というより、作んなきゃしょうがない、という気はしています。
どんなもんでしょうか。
(Maria)
こんにちわ。
砂川さん wrote:
>>2.現行の特殊学級が良い!
> 特殊学校の知識が無いので書けません。
特殊学級について、私自身が特殊学級の生徒と触れあって体験をもとに
補足したいと思います。
●1980年代のケースですので、現在では少し違うかもしれません。
前置きが長くなりますが、私には知的障害の妹がいまして、私が通っていた
小学校(B小学校)に特殊学級がなかったため、妹は特殊学級のある
小学校(A小学校)へ通っていました。
私が中学生になった時、A小学校の特殊学校で妹より年長だった女の子
から「○子のお姉ちゃん?」と声かけられ、仲良くなりました。
普通学級で浮いていた私に、特殊学級の女の子たちはなついて
くれました。心のすさんだ普通学級の子より、特殊学級の子は
優しくて思いやりのある子が多かったです。
中学の特殊学級は、3学年合わせて10名前後、普通学級で生徒から
も教師からも受け入れない発達障害の子にも、特殊学級の子は普通に
優しく接してくれます。こういう環境を考えますと、普通学級、
特殊学級という区分しかない現代の義務教育制度において、
発達障害児の精神面では、特殊学級は理想的な環境に近いと言えます。
ですが、周知のように、中学の特殊学級では、高校受験に必要な
国語、数学、理科、社会、英語の5教科を教えません。私の出身
中学の特殊学級の思いやりのある子たちは、5教科は小学校の教科書
で学び、体育、音楽、美術、家庭科の授業の時のみ、普通学級
(親学級)で学んでいました。以上のことから、特殊学級は、
発達障害児の心のケアという面では(特殊学級の担任に障害児教育
への理解がない限り)比較的理想に近い環境ですが、高校進学へ
の道は閉ざされてしまいます。
以上のことを踏まえて、武田さんの質問に、こう回答致します。
-------------------------------回答-------------------------------------------
ケース(1) 発達障害児に高校進学の意志がない場合。
>2.現行の特殊学級が良い!
ケース(2) 発達障害児に高校進学の意志と学力がある場合。
>>4.平日(月〜金曜日)は普通学級に通わせ、土曜日にこういった子が苦手としている分野を丁寧に指導してくれるようなサブ・スクールに通えるようにする。
--------------------------------------------------------------------------------
>5.その他。
>「3.こういった子が通うための専門の学校を創るべきだ!」
については、砂川さんと同じく、現状ではまだまだ実現が遠い気がします。
個人的な意見ですが、特殊学級のマイナスイメージを変えることが大事
だと思います。特殊学級の子は、普通学級の子より、優しくて思いやり
のある生徒が多いのに、自分の子を特殊学級へ通わせることを反対する
親御さんが多いのは、悲しいです。
反対する気持ちはわかります。現状では高校進学への道がほとんどない
と言っていいですから。
そのため、その他の案として、こういう道が是非あって欲しいと提案します。
#発達障害児を、精神面で安心できる特殊学級に入れ、普通学級の授業に
#ついていける生徒は、その授業だけ普通学級で受けさせる。
このことが実現すれば、将来、中学の特殊学級出身の児童が、理工系の
有名大学へ進学し、能力を発揮することも遠い未来のことではない気が
します。
こうもり wrote:
> あと、思いっきり脱線した団体名としては「斜めから見る会」(これが
>団体名)というのを考えてみました。つまり、大人になった軽度発達障害
>者(未診断の人も含む)が子供の頃の体験を踏まえながら支援関係者とは
>別の角度(斜め)から軽度発達障害児の問題を考えていくというイメージ
>のグループ名です。
大人も子供もいるから、
「アスペ・ファミリー」ASPE FAMILY
というのはどうでしょうか?
私たちはどんなに離れていても『家族』だということで!
えー、活動というものは内輪でゴソゴソやっててもなかなか発展しません。実体はなくてもヒト・モノ・カネが動けばそこに何かしら生まれるものがある、という本末転倒な意見にもいささかの説得力というのはあるわけです。
そんなわけで、活動の主体たる自閉症方面の人間およびその関係者に、あたしたちの存在を認知してもらい、情報伝達のルートを確保するということがます最初のテーマとなります。
そんなわけで、「アジビラ書かせりゃ天下一品」といううちの所長(日本ソフトウェア科学会のニューズレターにアジビラを載せたこともあります)の指導のもと、こんなものを作ってみました。こういうのを公共施設に置かせてもらうなり、どこかで配布するなりというのは、いかがなものでしょうか。
内容についての、ご意見・ご批判をお待ちしております。
---
「自閉症」をなくそう
○「自閉症」が増えている
「自閉症」と診断される子どもが増えてきています。かつては「二千人に一人」とか「千人に一人」云われていたものが、最近では「五百人に一人」と云われるようになり、現在では「百人に一人」という数字が定着しつつあります。
「以前は単に『知的障害児童』とされていた子どもの中に、精神分裂症(現在でいう「統合失調症」)によく似た一群の子どもがいる」。二十世紀の前半に、そう報告した研究者がいました。以来、この一群の子どもを「自閉症(autism)」と呼ぶようになりました。
それ以後、診断技術の向上や規準の見直しにより、「自閉症」の子どもは当初予想されたよりもずいぶん多い、ということがわかりました。
現在、「知的障害」は「自閉症(自閉症スペクトラム)」の診断規準には入れられていません。自閉症スペクトラムと診断される子どものうち、「知的障害」と見なされる子どもの比率は約二割でしかなく、残りの約八割は、「知能は正常」あるいは「知能的には優秀」とされる子どもたちだったりします。
自閉症スペクトラム、すなわち自閉症・高機能自閉症・アスペルガー症候群・高機能広汎性発達障害といったものは、現在では「珍しい病気」でもなんでもない、ということになっています。
「自閉症スペクトラム」と診断されるというのは、「なんでもかんでも世間の規準に合わせようとしないで、自分に合った生き方をしないと、生きてゆくのがしんどいですよ」というお墨付みたいなものだと思っていいでしょう。
○「自閉症」は必ずしも“障害”ではない
「自閉症」は先天的な脳の機能障害であり、育て方が悪いから「自閉症」になるわけではありません。
その反面、はっきり「自閉症」でありながら、うまく育ったか育てられたかして、一見フツーに育っちゃう子どもというのがけっこう多いのですね。で、大人になってから、「私はどこか普通の人間とは違うのではないだろうか」と思い悩み、「自閉症」の診断を受けて「おお、そうだったのか」と納得するヒトも少なくありません。
また、「『自閉症』は治らない」とも云われています。
とはいえ、子どものときに「自閉症スペクトラム」と診断されながら、大人になったら子どもの頃の「自閉症らしさ」が陰も形もなくなっちゃったというヒトも多かったりします。「自閉症」は、「“治らない”けれど“消える”ことがある」という、謎の病気でもあったりするわけです。
じつのところ、「自閉者(「じへいしゃ」ではありません。「ジヘイモノ」と読んでください)」同士では、発達歴の分析や知能・運動能力テストや各種の脳機能検査に頼らなくても、「あのひと自閉だよね?」「ほぼ間違いなく自閉でしょうねぇ」と分かってしまうものなのですよ。だけど、周囲の人はその人が「自閉症」だなんてまったく思っていなくて、「ちょっと変わった人」「癖のある人」くらいに思っている。そういう人が、世間には少なからずいます。コンピュータのプログラマーには珍しくない、というのは、自閉者の間ではほぼ定説になっています。
「自閉症」は、必ずしも「障害」ではありません。それは一つの「特性」であり「特徴」です。そして、時には「特長」だったり「個性」だったりもします。
○「自閉症」から「自閉」へ
「『自閉症』は果たして病気か」という議論が、最近ではあります。
自閉者と非・自閉者はタコとイカのように異なっているのではないか。タコは決して「奇形のイカ」ではありません。タコとイカは別の環境に適応し、別の生き方をする、それぞれ別の個性を持った、別の生き物なのです。
ただ、ときどきタコからイカが生まれたりイカからタコが生まれたりするから話がややこしくなるのではないだろうか、といったことが、自閉者の間では云われています。魚類などでは、一つの種の中に、外見や生態の上でほとんど別種のように違う複数のタイプの個体が存在する場合があります。
人間には、大多数のイカ型人間(非・自閉型)と少数のタコ型人間(自閉型)が一定の比率で生まれ、それぞれ別の役割、別の生き方で生きてゆくようにできているのかもしれない、とマジメに考えている人もいたりします。職業の中には、自閉者にはかなり向いていそうだけれど、非・自閉者にはちょっと耐えられないんじゃないだろうか、みたいな職業はけっこうあります。数学でいえば数学基礎論、コンピュータのプログラミングでいえば自動販売機の制禦プログラムなんていうのは、「まともな神経の人間にはちょっとムリ」だけど「そういうのに絶対的に強い奴が確かにいる」というのは、事実です。
イカが社会の大多数である社会で、タコがイカのように育てられたとしたら、うまく育つわけがありません。ですが、そのイカ社会の中に、なぜか代々タコの家系(自閉症は遺伝するのではないか、と云われています)があって、タコがタコとして育てられ、タコとして社会で生活してなんの不自由も不都合も違和感もない、ということがあったりするわけです。
「いまにして思えば、うちの母方の祖父はあからさまに自閉症だった」「そういえば、父方の叔父さんも自閉症のような気がする」「従姉の子供がやっぱり自閉症スペクトラムと診断された」みたいな「自閉症一族」みたいな家系は珍しくないのね。で、「あそこの家はちょっと変わっている」くらいで通っていたりします。
そんな家系で生まれた子供が「自閉症スペクトラム」と診断され、「普通に育てよう」みたいな話になるとかえって妙なことになったりします。
逆に、順調に育っている自閉くん自閉ちゃんのお母さんに「どうやって育てたんですか?」と訊くと、「普通に育てただけ」と答えられることがとても多いのね。だけど話を聞いてみるとあんまり一般的な「普通」ではなく、自閉系の「ふつう」だったりします。で、よく考えてみるとお母さん自身が自閉系(-_-:)。あたしたちにとっては、「自閉症」なんていうのはその程度のものなのね。
こうなると、「自閉症」の“症”の字がけっこうジャマという気がします。いいとか悪いとかいった問題ではなくて、ただ“違う”だけなのだ、ということであれば、「自閉症」ではなく「自閉」でいいのではないか。あたしたちは、そう考えています。
○「自閉」という自由。「自閉」という自然。
「自閉症」という言葉は、「精神的な孤立」というところから名付けられました。
ところが、「自閉症スペクトル」と診断された人同士が集まってみると、「自閉者には共通する感性がある」というのがわかってきました。インターネットのおかげで自閉者同士が知りあう機会が増えた現在では、「自閉は異文化である」というところまで来ちゃってます。だけど盛り上がりには欠けているぞ。なにしろ「職人」「技術屋」「研究者」といったメンタリティと共通部分が高いので、集まっても「学会」みたいなノリになってしまいます。この地味さ加減・マトモさ加減については反省の余地があります。あたしたち「社会にうまく適応している自閉者」だけでまとまっちゃって外に広がってゆかないから、社会的に孤立し苦しんでいる人たちがあたしたちの存在に気がつかないわけだから。
たとえばの話、「自由」というのは、単に「あらゆる行ないが許される」ということではありません。そこには、「人間本来の自然な欲求に基づいた行い」という規範が、おのずと組みこまれています。
「自閉」というのは、単に「異なっている」のではなく、「人間という種そのものの本質に根ざした、非・自閉とは別のありかた」です。その意味で、人間には「“自閉”である自由」があり、あたしたちにとって「“自閉”であること」は「自然なこと」だったりもします。
あたしたちは、「自閉」という自分たちの文化の中で安穏としていてはいけないと思うようになりました。世の中には、「自閉症」に苦しんでいる人がまだ大勢いるからです。
この世から「自閉症」をなくそう。「自閉」という文化をこの社会に定着させよう。そう思ってあたしたちは活動を始めました。
「自分は“自閉症”ではないか?」と悩み苦しんでいる人。お子さんが「自閉症スペクトラム」と診断され、どうしたらいいか、誰に相談したらいいか分からなくて困っている人。そういう人は、どうか、あたしたちに連絡してください。
お役に立てると思っています。
発達障害児(者)就学(就労)相互支援ネットワーク
大森支部 蘇好美(Maria)<cfb47300@syd.odn.ne.jp>
(Maria)
こうもりさん wrote:
> 掲示板への報告を任せっきりで申し訳ありませぬ。Mariaさん。
いえいえ、あたしの仕事と心得ておりまする。実務の所長に口しか出さないMaria。
I wrote:
> とりあえずの叩き台としては、「学習障害児就学支援ネットワーク」なんていうのはどうでしょう。
> 1番、非難が出にくい名称としては「軽度発達障害児支援ネットワーク」という名前がお薦めです。学習障害のように特定な障害名をつけると、診断上の不毛の争いにまきこまれてしまう危険性があります。また、どんなに診断基準が変わっても知的障害を伴なわない発達障害児をいかに支援していくかという問題だけは消えることがないでしょう。普遍性があるという意味でわたしは軽度発達障害という言葉が1番お気に入りです。
あたし自身としては、
1)「軽度」を外したい。
2)「就学(就労)」あるいは「自立」「学習」あたりを入れたい。
3)「支援」よりは、なるべく「応援」「互助」としたい。
という希望があります。
1)「軽度」を外したい。
何をもって「軽度」とするかといえば、「重度でない」ということなのだと思います。だったら、「普通の発達障害者と違うのよ、私たちは仕事ができるくらい“軽度”なのよ」みたいなイメージを持たれたくはない、ということを考えると、取っちゃっていいんじゃないかと。かつて「高機能」という言葉がそういうふうに受けとられた経緯がありますから。
2)「就学(就労)」あるいは「自立」「学習」あたりを入れたい。
生活支援(特に直接的な経済的支援)はあたしたちの手に余り、国や地方公共団体でなんとかしてもらわないと困ります。で、学校や企業に発達障害者を受け入れる体制を作るように働きかけ、国に対しても法制度を整備するよう働きかける、といったことはやっても、基本的にあたしたちが考えているのは「自助努力」です。
そんなわけで、明確な当面の目標を前面に押し出す、というのがよろしいのではないかと。
3)「支援」よりも「応援」「幇助」「互助」としたい。
「何かをしてもらう」ことを期待して入ってこられても、もともと金も力もない人間が寄りあつまってなんとかしようという団体なのですから、潰れてしまいます。
そんなわけで、
「発達障害児(者)就学(就労)相互支援ネットワーク」
あたりが順当かと(ああ長い(-_-;))。
> あと、思いっきり脱線した団体名としては「斜めから見る会」(これが団体名)というのを考えてみました。つまり、大人になった軽度発達障害者(未診断の人も含む)が子供の頃の体験を踏まえながら支援関係者とは別の角度(斜め)から軽度発達障害児の問題を考えていくというイメージのグループ名です。
「分科会」として立てるのはいかがでしょうか。「成人発達障害者懇話会(「斜めから見る会」)」とか。「出版部(「かえる屋」)」「研究会(大森総合研究所・知識処理ディビジョン内)」みたいなもんで。
(Maria)
こうもりさん、おひさしぶりです。
毎回「おひさしぶりです。」で、書き出しが始まっている気がします。
この時間帯に終わる仕事を始めたので、
少々お疲れ気味の、るかです。
私は良く本屋さんに行って、ASの本を見るのですが
4月に入ってASの本が
すごく売れていっているのが気になりました。
彼との距離は近いのですが、
やはりうまくやって行くのは難しい。
バランスってものを保つのが、ホント難しくて
私が彼を掴めなかったりすることが多いので、怒らせてしまうことが
よくあります。
最近ではよく「殺す」「刺すなら刺せ」とか、
命関係の言葉を口にしてますねぇ。。。
でも、この間は「お前はマリア様だ」とか言うし・・・
ちょっと会っていないので、少し寂しくて
前にカウンセラーの先生に
「私が苦しんでいる時は、彼も苦しんでいる」
と言われたことがあって。
私が寂しい時も
彼は寂しいのだろうか・・・
ガ―ッてパニック状態で怒らせてから
声を聞いていないから、
ホント寂しくて。
ASゆえの特有の寂しさってあったりするんですか?
グルンサ wrote:
久しぶりです。砂川です。
>
> とある日の会話。上司から「あんたたち(私の他に同僚がいた)何年目?」と聞かれ、「11年目です」と答えた。
>それを聞いた上司と部下、
> 上司「えっ、もう11年目なの!」
> 部下「10年もやってきたんですか!」
>と両方に驚かれた。
10年も同じ職場に在職しているのでですか?
自分には決して真似できませんでした。
長くても3年だったのですごいと思いました。
> …が、一番驚いたのが、当の本人である私。
>言ってから気がついたのだが、まさか10年もいたとは思わなかったのである
>(別の上司からも「おまえが10年いるとは思わなかったよ!」と言われたが)。
> 自分で言ってから、10年という時間の長さを改めてかみしめた。
自分は高校を卒業して11年すぐに働きましたがいまのアルバイトを含め15回ほど
転職を繰り返し。今では周りの人はあきれています。
ただ働いていただけ生活でした。つかの間の10年でした。
> 自分のことを知らないまま過ぎた10年間だったが、診断が下ったこともあり、今年はそんな状況を変えていけたらいいな…と思っている。
>
>期待しています。無理を重ねず健康を大切に
>
武田好史 wrote:
> あなたの経験から言って、軽度発達障害児(7〜15歳・義務教育年齢層)の教育は次の選択肢のうちのどの形式にすると良いと思いますか?
>
>1.普通学級に通わせる!
孤立し、いじめなどの行為が行われないよう注意し
本人がついていける学習を取り入れるようにしていくべきだ。
>2.現行の特殊学級が良い!
特殊学校の知識が無いので書けません。
>3.こういった子が通うための専門の学校を創るべきだ!
ぜひこのような学校があれば進んで入校したかった。
将来、創立して欲しいと希望します。
>4.平日(月〜金曜日)は普通学級に通わせ、土曜日にこういった子が苦手としている分野を丁寧に指導してくれるようなサブ・スクールに通えるようにする。
今、現在実現が可能だと感じています。
>5.その他。
自分の考えでは、1、は個人の精神的苦痛があります。
3、はまだまだ先のような気がします。
4、については、いますぐにでもできそうに感じました。
もう少し教育者に発達障害の知識や配慮があれば良いと感じています。
掲示板への報告を任せっきりで申し訳ありませぬ。mariaさん。
Mariaさん wrote:
> とりあえずの叩き台としては、「学習障害児就学支援ネットワーク」な
>んていうのはどうでしょう。
1番、非難が出にくい名称としては「軽度発達障害児支援ネットワーク
」という名前がお薦めです。学習障害のように特定な障害名をつけると、
診断上の不毛の争いにまきこまれてしまう危険性があります。また、どん
なに診断基準が変わっても知的障害を伴なわない発達障害児をいかに支援
していくかという問題だけは消えることがないでしょう。普遍性があると
いう意味でわたしは軽度発達障害という言葉が1番お気に入りです。
あと、思いっきり脱線した団体名としては「斜めから見る会」(これが
団体名)というのを考えてみました。つまり、大人になった軽度発達障害
者(未診断の人も含む)が子供の頃の体験を踏まえながら支援関係者とは
別の角度(斜め)から軽度発達障害児の問題を考えていくというイメージ
のグループ名です。
Lingkoさん wrote:
>何というかハイ、関係ない身分のくせに(生意気にも)、心配で、緊張して、
>一晩寝られなかった(←何ヤッテンダカ……)。寝返り打ってる間に朝になっ
>ちゃった。
>
>皆さんにとって、実りある、そして納得いく集まりになりますように祈ってま
>す。
激励ありがとうございました。オフ会は無事終了し、ついに結社化の見通し
が立ってまいりました。「自閉者にとってよりよい生き方は何か?」というこ
とを試行錯誤していく絶好の機会となりそうな予感がしております。
今後とも心理的なご支援、よろしくお願いします。では
てらば wrote:
>今日ブルーレットのふたを入れる時に向きを裏側に入れたり、うっかり
>機械の中に落としてしまったため、ふたなし液体入り容器がそのまま進んでしまい、
>一番後ろまで行ってしまったんです。後ろでの箱入れの際にも、液体がこぼれてしまい、
>濡れたダンボール箱をそのままつんでいってしまいました。私は箱が濡れいているのには
>気づいたのにも関わらず「まあ、いいか」と思って作業を続行、他の人が箱濡れに気づいて
>最初から全部検品しなおしになってしまいました。
ASの人が結構困るのが、自分に合った仕事のルーチンを作り出すのに人一倍時間がかかることです。こんなときは、次のような『条件作り』をすると良いかもしれません。例えば_本体、●ふたとすると、
_ _ ●●
_ _ _ ●●●●
本体の山 ふたの山
\ /
_+● →_● _● _●
製品の組み立て場所 製品の山
という具合に、机に置く部品・製品の位置を決定してしまうのです。
またその日一番最初に作成に成功した製品は、見本として置いておき、最後に出荷すれば、「あれ、どうだっけ(・?・)」という事態は、防げると思います。
I wrote:
> そんなわけで、こうした活動に向いた名前を考えること。(→ちょっと考えておいてください>こうもりさん他メンバー各位)
とりあえずの叩き台としては、「学習障害児就学支援ネットワーク」なんていうのはどうでしょう。
本当は「『学習障害児童』に代表される、自閉症方面の障害やADHD等が原因で就学・就労に困難を抱えた、本来的に学習や労働の能力を持ちながら適切な就学・就労の機会を与えられていない人々に、就学・就労の機会を与えるためのサポートを行ないたい/受けたい人々の相互扶助ネットワーク」なのですけれどね。
「自閉スペクトラム社会参加支援互助連絡会」とかいうのが本当は実情に合っているのだろうけれど、「自閉症方面の子どもとそのお母さん(←なぜかお父さんって陰が薄い)を支援する」みたいな部分をないがしろにしてはいけない、というのと、そっちのほうを全面に出したほうがウケがいい、というのがあるので(←書いちゃっていいのかコラ(-_-;))、「学習障害児を、就学を足掛かりとして社会に送り出す」というのを柱とするのはいいんじゃないかと思います。
(Maria)
今日ブルーレットのふたを入れる時に向きを裏側に入れたり、うっかり
機械の中に落としてしまったため、ふたなし液体入り容器がそのまま進んでしまい、
一番後ろまで行ってしまったんです。後ろでの箱入れの際にも、液体がこぼれてしまい、
濡れたダンボール箱をそのままつんでいってしまいました。私は箱が濡れいているのには
気づいたのにも関わらず「まあ、いいか」と思って作業を続行、他の人が箱濡れに気づいて
最初から全部検品しなおしになってしまいました。
私はもちろん、他の人も検品しなおし、箱入れなおし、御昼には他のラインに入ってた
社員さんまでも巻き添えになる自体でした。
社員さんからは「濡れていたらすぐうちらに言わなきゃだめだよ!」と言われてしまいました。
午後からは他の人がローテーションでやる中で1つの役割に固定されてました。
私はみんなで一緒でなきゃ気が済まない性格だから、ラインの仕事は多分続かないなぁとは思ってます.
しかし、障害者職業センターの人からは「4月いっぱいは頑張りなさい」とは言われてます。
職業センターでは自閉症者にどんな仕事が向いてるのかなんて全然アドバイスもしてくれないし、
仕事も紹介してくれません。富山のセンターは本当に役に立たないところです。
大阪や横浜の施設に入所して、きちんとした就労支援を、自立支援を受けたい。
あと、横浜の「やまびこの里」では高機能の人も支援を受けているらしい。
メールでコンタクトを取ったけど、本格的にコンタクトをとって見ようかなぁ....
Lingkoさん wrote:
> 私、かなりあより、かなりやの方が好き。
>
> って、また意味のないことを……(笑)。
宗教学者の田川建三さんは、「ギリシア」は「ぎ・り・し・あ」と発音せんのだから「ギリシャ」と書け、と『書物としての新約聖書』(勁草書房、P.699-700)と言っております。とはいえ日本語の「ギリシャ」の語源はラテン語のグラエキア(Graciea)だし、「ギリシア」という表記を流行らせた責任者の一人ともいえる呉茂一先生は「ぎ・り・し・あ」と発音していたのだから筋が通っている、とも言っておられますが。
あたし自身は「か・な・り・あ」と発音しているのですが、結果的に「かなりや」と聴こえるので、他の人が「カナリヤ」と表記しても、それほど気にはなりません。「可也屋」みたいで面白いし。
「カナリア」というのは、意味からいうと「犬の土地」ということなので、「オーストリア」「オーストラリア」「メラネシア」「ミクロネシア」「ポリネシア」と横並びで「カナリア」としています。
ただ、あたしが所属していた日比谷高校図書委員会の会誌の名前が『リブラリア』だったので、ちょっと思い入れはあったりしますが。
なお、“ja”は「ジャ」以外に「ヤ」「ハ」と発音することがあります。ですから、“Japan”は「ジャパン」以外にもハポンとかヤパンとか呼ばれるのね。うちのJoshyaさんは「ジョシュア」さんではなく「ヨシュア」さんですが、Joshyaさんが開発した汎用の日本語処理システム「JAI-Parser」は「やいぱーざー」ではなく「はいぱーざ」です。
まるで自閉症の人間のようなこだわり屋(←そうなんだってば(-_-;))であるあたしとしては、個人的なこだわりに結びつきそうなネーミングというのはちょっと重っ苦しくてイヤかも、というのはあるので、「かえる書房」(「かえる屋」っていうのもいいかもしれない)にしちゃおうかな。「かわず屋」でもいいけど。
(Maria)
川合 哲也 wrote:
>察するに、川合さんはどちらかというとせっかちで、気ぜわしい性格の持ち主なんでしょうね。スローテンポの私には羨ましいくらいです。。
早合点して失敗したり、先走りして勘違いしてしまったりするのであれば、ご両親のご指摘にも一理あるのかもしれませんね。その時は、意識的に、今よりも1秒長く考えたり、1秒長く人の話に耳を傾けてから行動してみたらどうでしょう?そうすることによって気持ちが落ち着いて、ミスが未然に防げるのであればラッキーですよね?
「急がば回れ」ということわざがあるようにネ!
でも、日常生活に特に支障がないのであれば、あまり気にしなくて良いと思いますよ!
お友達のことも、あまり心配せず、今まで通り自然体でお付き合いしてください。きっとお友達は川合さんの長所も短所も分かってくれていると思うので・・・。
最後にもう一度言いますね。「先走りする」というのは決して悪い事ではないので、あまり気にしなくて大丈夫です。そして、友人との交流を大切にして楽しい学生生活を送ってください。
Maria wrote:
> 『生活科は、特に、自分自身への気付きを大切にする。それは、例えば「ウサギのピーちゃんはニンジンを食べるからえらいです」(私もがんばって食べられるようになろう)というように、生活科のどの内容においても、児童が自分とのかかわりを深め、対象に気付くことで、そこに映し出される自分自身への気付きが生じる。』
>
> ……アホかおのれは(-_-X)。ウサギがニンジン喰って何が偉いねん!
>
全くその通りです。そんな馬鹿をやるくらいなら、おいしいニンジンを種から育てて、料理して食べたほうが、よっぽどニンジンという食べ物に対するありがたみが解ると思います。
今日の午後、所長(Joshya氏)が「ちくしょう、無駄足を踏んだぜ」とぼやきながら帰ってきた。東京は真夏日で七月上旬の陽気。暑がりの所長には堪(こた)えたらしい。「ビールぅ〜!」とか吼えていた。なんでも八重洲ブックセンターに行って新しい学習指導要領を手にいれようと思ったら、指導要領自体は平成10年に改訂されていて、今年(平成十四年度)から施行されるということだったのですね。
だいたいマスコミが施行まぎわの最近になって騒ぐからいけないんだ。そんなの騒ぐんだったら改訂作業中に騒げっつーの。そんなわけで大森総合研究所の備品学習指導要領は最新版でした。ちゃんちゃん。
で、平成10年改訂、平成十四年度から施行、というのは小学校学習指導要領には書いてありません。『小学校学習指導要領解説 生活編』のまえがきにありました。
ところがこの『小学校学習指導要領解説 生活編』には、変なことが書いてあります。
『生活科は、特に、自分自身への気付きを大切にする。それは、例えば「ウサギのピーちゃんはニンジンを食べるからえらいです」(私もがんばって食べられるようになろう)というように、生活科のどの内容においても、児童が自分とのかかわりを深め、対象に気付くことで、そこに映し出される自分自身への気付きが生じる。』
……アホかおのれは(-_-X)。ウサギがニンジン喰って何が偉いねん!
あたしはうちの猫のミーくんを見習って海老フライの尻尾とか食べるけどさ(あのカリカリした歯ごたえがいいんだ。カルシウムだって豊富だし。かりかり)、そういう問題ではまったくないぞ。蚕は桑しか食べないからいけないのか! アロワナには野菜もちゃんと食べるように仕付けなきゃいけないのか!
「『なぜ人を殺してはいけないのか』とかいった質問に、大人はちゃんと答えられない」とか訳わかんないことを言っている人がけっこういるけれど、それは自分が自信を持って答えられるほどつきつめて考えてないっていうだけなのね。それはちゃんと自分と向きあっていないっていうことなわけ。子どもは「わかりやすい答え」なんか求めていません。どっかから引っ張ってきたような答えで納得したりもしません。あたし自身は人を殺すことを絶対的な悪とは考えないけれど、少なくとも殺さずに済むなら殺したくないと考えているし、それは自分や自分の家族、自分の住んでいる世の中、そしてそういった「何が大切で、何が大切でないか」という価値観を守るためには、ときに人を殺さなければならないことがあって、そのために警察官や軍人は銃を持っているのだ、と考えています。
ところが、こういうことをたとえば学習指導要領に書くことはできないのね。いろんなところから批判を受けるのは火を見るよりも明らかだから。で、現場の教師が「学習指導要領からの逸脱」をしたら即座に処分してやろうと虎視眈々と待ちかまえている人々というのがまたいたりします。で、「盲目的な平和教育」かなんかがなされていたりするのだな。
青島幸男元都知事については批判がいろいろあったけれど、あたしは『23分間の奇跡』(ジェームズ・クラベルだったかな?)の訳者としての青島さんをけっこう評価しています。
『小学校学習指導要領解説 生活編』は50円です。みんな、読んどいたほうがいいぞ。
(Maria)
Lingko wrote:
>Mariaさん wrote:
>>
>私、かなりあより、かなりやの方が好き。
>
>って、また意味のないことを……(笑)。
>
自分も
『ケア』よりも『ケヤ』がという言い方自然な感じ
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