アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
Maria wrote:
> 「メートル」には、「単位長さとしての1メートル」と、「単位系としてのメートル系」というものがあります。上の話は「単位長さとしての1メートル」を元にした議論なのね。
なるほど、どこに違和感を感じたかが分かりました。
それともう一つ気付いたのは、
> 『われわれが‘メートル’というのは、メートル原器の長さである。ふつうはこれを m で表わす。
ふつう m では表さないんじゃないかな、ということです。
数字と組み合わせずに m 一文字でという意味ですが。
さきほどの自分の書込みを見ていて、「ちょっと失敗したかも」と思っています。
> メートルの2倍は−いま述べた記法によれば−
> 2m または m×2
> と書かれる。しかし、小学校では、あとの書き方を許さない。
> この長さの3倍は、
> 3(2m) または (m×2)×3
> と書くことができる。しかし小学生たちは、
> 2m×3
> と書くことを強制されている。この書き方は‘混合式’である;2は左から掛け、3は右から掛けている。
田村二郎『量と数の理論』(日本評論社)
「メートル」には、「単位長さとしての1メートル」と、「単位系としてのメートル系」というものがあります。上の話は「単位長さとしての1メートル」を元にした議論なのね。
ところが、「単位系としてのメートル系」という観点からいうと、メートルの2倍は
1+1(m)
の言い換えとしてしか、
1×2(m)
と書くことができないように思います。したがってこの長さの3倍は、
2+2+2(m)
と書く以外になさそうに思います。
こうした「掛け算」というのは、「測定」、つまり、「ある長さを元に、他の長さがその何倍であるかを調べる」という手続きを教えてからでないと、教えることができません。
これとは別に、「個数×1あたり量=量」とか、「長さ×長さ=面積」といった種類の、「量と量の掛け算」というものがあります。ここのところをちゃんと教なければならないと思います。数と数との掛け算は、電卓でできるのですから。
ガウスやフォン・ノイマンのように、コンピュータのような暗算能力を持った人もいれば、ヤコビやアインシュタインのように、三桁どうしの足し算とかいうとそろそろヤバいかも、という人もいます。
そんなわけで、小学校の指導要領について、いろいろ考えているあたしでありました。まる。
(Maria)
Maria wrote:
>
> 「休むべきときに休む」というのは仕事のうちです。だけど、それが分かっていない人が多い。
> ビジネス関係の雑誌とか新聞記事とか読んでいると、「戦い」だとか「生き残り」だとか「戦略」だとかいった勇ましい単語が並んでいます。
あーそれ、すごく心に響いた。
そうだよね、「休むのも仕事のうち」なんだよね。
ただ、他の人よりも休む時間がとっても長いから、怠け者と誤解されるんだよね。
他人の言うとおり、もしわたしが働き続ければ、いい仕事が提供できない。
仕事の質が下がってもいいのか、それとも量より質か、って相手をみて必要なほうを提供するけれど、質より量を求める相手とは余り合いません。
それにそもそも仕事のために生きるっていうのが、私の価値観と合わないの。
個人旅行でタイに行ったとき見た人たちは、「生きている」という実感を得て楽しんでいたように見えた。例えば、「子供が言葉を覚えた」とか「外国人と言葉を越えて交流した」とか、「仕事と遊びを両方大事にしている」とかの喜びを味わうことに生きる意味を見出している。
大きな大人たちが、道で子供に帰ってじゃれあってる。日本人はお酒が入らないと自由になれない。勿論、タイの社会は長所だけじゃないんだけど、先進国の国の人たちとは目の輝きが違うんだ。
皆が好きなことをやってもいい。あつけりゃ、寝よう。涼しくなったら、仕事すりゃいいさ。・・オカマになったっていい。どんなファッションもたぶん・・。「あいつは、あーいうクレイジーなやつだからさ、相変わらずだなぁーあはははは・・」と日本では眉をひそめられるようなクレイジーが好感を持ってみんなに楽しまれている。
日本はそういう点では、許容範囲の狭いところがあるのかなぁ・・だから、人のちょっとした違いに目が行くのかなぁ。
話が飛びすぎかもしれないんだけど、「制服検査」のような社会みたいな気もするんだ。
たとえばスカートの丈が二十センチ皆より長い。ただそれだけで、眉をひそめられる。同じ長さにさせられる。もしかしたら、その子がやけどの跡を隠したいためにやっていたことかもしれない。もしくは、貧乏で誰かのお下がりをもらうしかなかったとか。それぞれが抱えている個人的な状況を察することもなく、形だけ皆と同じであれば満足・安心する。
そういう教師に私はいつも反発してた。
でもそいつらが看板としてあげているのは、「ひとりひとりの個性に合わせた教育を実践している名門校」なのね。
「皆が同じ枠の中にいながら、個性を発揮する」って考えだっていうんだけど、それが私はどうしても納得いかないんだよ。
それって皆が同じ枠に入ることがまず求められるじゃない。
その枠に入れない私たちはどうなるのって思ったの。
わたしは入りたくて頑張っても、入れない。皆が当たり前と思っているものが受け入れられない。理由が納得できない。先生にはそれが反抗的ととられる。
わたしね、外国に行くとちょっとほっとするの。
だって、奇妙なことを言っちゃっても、やっちゃっても、「外国人だから」って理由で許されそうな気がするんだよね。
そして、自分たちのやり方を周りが教えてくれる。逆パターンもあるかもしれないけどさ。
Mariaさんは、どうしたら、本当の意味で「制服検査」な社会を大きく変えられると思う。
お医者さんは私に、そういう活動を勧めてくれた。
イギリス人の英語の先生は、「君にしかできないような社会に認められる仕事をするんだ。そしてそれから自分のことを皆に伝えていけばいい。海外では、自分が何かハンディを抱えていて、それを社会に認知して貰うためにそういう方法をとっているよ」って教えてくれた。
一体私に何ができるだろう・・。
> 女性というのは権威に弱いところがあります。
「だって、『すぐに連絡してほしい』って言われたんだもの」「『いま、大変なことになってる』って言うんだもの」とかいって、自分が問題を抱え込むことを怖れてしまう。
> 会社のほうもそれを知っているものだから、母親とか奥さんとかにガンガン言って圧力をかけるのね。
たぶんね、権威に弱い、じゃなくて、「感情的なプレッシャーに弱い」だとおもうよ。このケースもお母さんは「相手がかわいそうっ」と思って冷静な判断を欠いたんじゃないかとおもうよ・・。大方の女性は、相手に共感しやすい。
だからこそ、子育てが向いていたり、看護婦が向いていたり、といういいところもある。男には先を見通すことを優先する特徴があるけれど、女性には目の前の相手の感情を優先するという特徴がわりとある。(だから、女性の口コミの力はすごい。テレビの情報・権威、より近所のおばちゃんネットワークの情報の方が重要視される。)どっちがいいかは、ケースバイケース。だから男と女は結婚し、助け合う。
・・一般的には、女性に対して、みんなこんな風に考えているよ。
私たちは、一般的な性別というものにとらわれていないから、分かりにくいかもしれないかもしれないんだけど・・。
> 安息を奪われた人間は、脆いです。簡単に自殺します。
> 死ぬほど追いつめられそうになったら、早めに逃げましょう。
そうなの・・。お母さんやお父さんが家にいると、寝れなくて、薬の量をふやしているんだ。お医者さんは生活保護使って逃げなさい、というけれど、たぶん私がここまで追い詰められてることが、理解できなくて、問題が大げさになると思うの・・。だって普通のひとの常識的な感覚では、部屋に一歩入りこまれることがこんなに屈辱を与えるほどのことだろうか・・と思うだろうから。
人は自分が経験したことのないことは、察することができないし、あえて相手を理解し様なんて、思わないものだよ・・。
> うちの Joshyaさんが会社勤めをしていた頃に、「現場の人間がどれだけ悲惨な状況に置かれているか」を上司に訴えたら、その上司は本当におかしそうにげらげら笑っていました。
> テレビ番組の中でお笑い芸人がいたぶられているのを見てげらげら笑っている人がいます。つまり、「自分には関係のないこと」と思えるならば、他人の不幸というのはとても滑稽なものだったりするわけです。
> 「笑い」は、「相手の苦しみを自分のものとして引き受けることの拒絶」である場合があります。
そうね・・私も同感だわ。わたしも前の仕事で上司におなじことを訴えて社長とトラぶった。わたしは松下幸之助さんを尊敬していて、会社は何らかの形で社会に奉仕することでその存在を必要とされるって思っているのね。だから、自分でごみみたいな商品、と分かっているものを福袋に入れて、笑顔で全員に売れっていう社長の考えが理解できなかった。「企業利益」の前に「人間の尊厳」を無視して、それでどうして良いものを社会に提供できるっていうのかしら・・。
> ひょっとしたら、それは「発達障害」なのではなく、人間としての弱さなのかもしれません。
「発達障害」の上に、感情や常識を「理屈だけでも」理解するような環境に育っていなかったことも一因かも・・。お母さんは、「家族は自分の奴隷」「自分のために奉仕するもの」という固まったルールを守っているんだよね。自分のお父さんがそういう風に教えた見たい。それにこだわって・・・ちょっとずつ説明してわかるときもあるけれど、一旦教え込まれたものはなかなか修正きかないから、大変。
ときどき、家族に向かって「頭を下げてお礼をいえ」とか「絶対に服従しろ。反抗するな。」とか怒鳴っているよ。
お姉ちゃんは、だから「反抗」したことがない。額面通り、言われたとおり従う。だから、めちゃめちゃ怖い。
私がお姉ちゃんへの仕打ちに対して、お母さんやお父さんに怒鳴りつけて、お姉ちゃんは初めて「こういう手もあったのか・・」と学ぶみたい。
> それって、「乖離」かもしれません。
お姉ちゃんは記憶がぶつぶつ切れているから、自分のクラスメイトや子供の頃の思いでもあまり無い見たいなんだ。それを隠すために、「自分に記憶があるかのように」一生懸命はなしているんだけど、どうもほんとに無い見たい。
あるとき「向き合ったら、私はもう二度とこっちの世界に戻れないっ」ていうようなこと叫んだことがあった。お姉ちゃんのことを思うと、苦しくて、涙が出るよ。
> 乖離性障害(「ヒステリー」と昔は呼ばれていました。精神的な問題が肉体的な症状として出るものです)とか、自己同一性障害(多重人格など)を起こしている可能性があります。
そのこと、もっと詳しく知りたい。教えて。
実は私自身も全部で五人くらいいる気がするの。でも演じているんじゃない。
そのときは、自分そのものなの。違和感が無いんだ。
全員価値観が違っていて、問題の対処の仕方も違う。
書く文字まで変わる。でも全部自分なの。記憶があるから。
この間、五人で交代しあって、紙とペンを使ってロールプレイングみたいに話し合った。
そしたら、みんな「傷つきたくない」し、五人が協力して「家族で支えあう」必要があったって、それぞれが言っていた。
でも、ビリー・ミリガンのようなのとは、ちがう気がする。スポットに出るという感覚はないし、記憶もなくしたりしない。暴走することもない。
もしもそうだとしたら、今の五人のままじゃ、まずいのかなぁ。いつか問題が起きるかなぁ・・ でも全部が自分なの。そして私の家族なの。誰も消したくない。
でも問題なら、そうするしかないよね。
> どんな仕事にも「全人的な素質」が要求されるわけではありません。機械で置きかえることのできない単純作業なんていうのもけっこうありますし。
> ただ、そういう仕事を得ることの難しさは確かにあります。そういう仕事を提供するシステムは必要だと思っています。
このコメントはなんだかビル・ゲイツの志向に似ている気がした。
うわさには聞くけど、やっぱり彼もMariaさんの仲間だね。
私は感情交流ができるので「分担的単純作業」ではなく、それぞれが「生き甲斐」を感じられる職業選択の自由が欲しいと思うわ。人を部品のようにすぐには取り替えられない、というような人間性の尊重や思いやり、共感の輪が広がる社会のほうがいいな。
例えば、販売でも「この説明書を読んだからこの商品を買います。あなたはレジを打ってくれればいい。」じゃなくて、「いつも私にベストを考えて、良くしてくれるあなたの勧めるものだから、信頼して買います。ありがとう」と思わしめるような社会。
私はひとと思いやりでつながっていたい。
「利益・不利益の必要性」ではなく、「感情的な必要性」や「愛」(隣人愛)でつながっていたいよ。もちろん半分くらいは損得も、考えなきゃいけないけどね。
数と量の間には、
数×単位=量
という関係があります。
で、やまとことばには、数を表わす言葉が基本的に欠けています。
ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、い、む、な、や、この、とを……
なんていう、あんまり使われない形があるきりなのね。大抵は、
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ……
とか、
ひとり、ふたり……
とか、
(朔日(ついたち)、)ふつか、みっか、よっか……
とかだったりするわけです。
そんなわけで、日本語の中で“数”といえば、
イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク……
という、「漢語」です。
小学校の第1学年では、この「数と量(と単位)」「やまとことばと漢語」について、しっかり教えてほしいのですが、現行の小学校学習指導要領には、この部分がずっぽり欠けています。なぜか。
それは、日露戦争以降、国定教科書である「黒表紙」「緑表紙」といわれる算数の教科書が、一貫して「算数教育からの追放」をめざしていたからだったりします。
そんなわけで、あたしたちは独自に、小学校学習指導要領に欠けている、「量の教育の教科書(あるいは副読本)」を作っておく必要がありそうに思います。
で、たとえば、
1.‘大小’に関する公理
二つの量A・Bがあった場合、
A<B,A=B,A>B
の三つの関係のうち、どれか一つだけが成立つ。
2.‘加法’に関する公理
(A>0,B>0)のとき、
A+B=B+A (交換法則)
(A+B)+C=A+(B+C) (結合法則)
A+B>A
が成立ち、
A<Bならば、A+X=BなるXが、ただ唯一存在する。
とかいったことを理解させておく必要があると思います。
数学者の田村二郎さんは、『量と数の理論』(日本評論社)の中で、こんなことを書いています。
『われわれが‘メートル’というのは、メートル原器の長さである。ふつうはこれを m で表わす。
メートルの2倍は−いま述べた記法によれば−
2m または m×2
と書かれる。しかし、小学校では、あとの書き方を許さない。
この長さの2倍は、
3(2m) または (m×2)×3
と書くことができる。しかし小学生たちは、
2m×3
と書くことを強制されている。この書き方は‘混合式’である;2は左から掛け、3は右から掛けている。この不統一にだれも気がつかないのはふしぎである。−』
こういうのを、文部科学省や教科書会社に「改めろ」と言ってもいつになるか分からないし、教育産業にここまでのフォローを期待するのもたぶん無駄です。
やることがいっぱいあって楽しいな。(←ちょっと自暴自棄かも)
(Maria)
風呂糸 wrote
>自分を許容し、自分自身を受け入れて許してあげるだけでも、
>随分と肩の荷が降りるのではないでしょうか?
うーん・・普通って言うのは、わたしにとっては、「常識」なのね。
その常識を守らない人は、社会から孤立してしまうよ。
常識っていうのは、ひとと人がお互いの気持ちや立場を尊重しあうために自然と出来たものなんだから。
「私はそー言うの障害だからどーにもならないわ。」って言うのは、自分を受け入れるとは、別次元の話だと思うわ。
「私はこういう点でみんなにめいわくかけたり、傷つけたりする特徴があるから、他の人以上に気を使わなければならないんだ」って思うよ。
実際私たちの行動は、よく人を深く傷つけたり困らせたりしているんだから。気がつかないのは大抵、本人だけなんだよ。自分は両方の気持ちがわかる。だからこそ、「普通」になりきれないときに、自分のふがいなさがやりきれなくなるんだ。
でもフロイトさん、自分なりの考えを書いてくれて有難うね。
おこんばんわぁ。皆々様もおひさしぶりです。
知らない名前もたくさん増えてて、ここの盛況ぶりがうれしいです。
こうもりさん wrote:
> ボ〜と考えごとをしている時間もほしいよう…。
ぼ〜っとすることにかけては天下一品の技を持ってる私ですが、
その時間がとれないなんて、ほんとうにお気の毒です。
皆さんもいろいろお忙しいのかしら?ま、年度始めだしねえ。
私の方も、死ぬ程とまではいってませんが、
死なない程度には忙しくやってます。
1時間とかまとまったぼ〜っとする時間はとれなくても、
5分だけでも、意識を解放してあげてね、こうもりさん。
私達の脳みそは普通の労働を強いると壊れてしまいますからね。
うふ。るうでした。
こんばんはです〜、こうもりさん&あさかぜさん。(←すでにフヌケのわたし)
こうもりさん wrote:
>> ボ〜と考えごとをしている時間もほしいよう…。
あさかぜさん wrote:
> わたしも、ほしいよう。ボ〜っとしてなにもしないでいたい。
> こうもりさん、お互い身体を大切にしましょうや……。今日は、寝るぞ! なにがなんでも、寝るんだあぁぁぁぁぁ!!
お2人ともある意味、気力で体を持たせているのが、やっとのようにお見受けします。
「休みたい時に休め!」と言いたいところですが、それが叶わぬ現状とあれば、とにかく休める時に休み、悲鳴を上げられる時に上げる!!これにつきます。
(今さら、わたしが言うことではないことは、百も承知しているのですが。)
こんなことしか言えないやつで、ごめんなさいです。では…(TT)。
私もなにもせずにボーとしているとよく言われます。
その、なにもしないでぼんやり物事を考えてるときが一番好きです。
仕事中でも雑念が沸いてくるのもちょっと困りますが....
> ところが、多忙な状態になるとなぜか「別にいつ死んだっていいや。
>」という気分になってどんどんハマッていってしまうのですから、困っ
>たものです。
私はそれはないなぁ。でも、多忙だったり、仕事になかなかなれずにストレスがたまるときは
よくここの掲示板で愚痴ったりしますけど。
派遣先から「1週間休んでくれ」と連絡が入りました。事実上の"クビ"宣告です。
郵便局にはもう戻れないし、これからバイトしながら作業所通いでしょうね。
初めましてスマイリーさん。
AS+AD(H)Dの
ふろいと、と言います。
とりあえず、”普通”であること
”普通”で居続けようとする事を止めてみたらどうですか?
”普通”という明確な基準なんてないわけだし、
自分が”普通”では無い、”異常”だと思いそれを許せなくなるから苦しくなる事も有るかと思いますので。
”普通”ではない自分、”異常”かもしれない自分を受け入れるのは、
恐いこともあるかもしれないけど、
自分を許容し、自分自身を受け入れて許してあげるだけでも、
随分と肩の荷が降りるのではないでしょうか?
武田好史 wrote:
>あなたが、「福祉家(ソーシャルワーカー・ケースワーカーなど)の人に求めたい!」と思う人物像は、どんな感じのものですか??
いろいろと想像を巡らせてみました。その結果たどり着いた理想の人物像は、「金八先生」です。
とても聡明で常識的で、正義感が強くて、統率力も人一倍。それでいて、一人一人に接する態度が温かくて、思いやりが深くて、わけへだてが無い。そして、とっても強い意志を持っている先生・・、じゃなくて福祉家のかたがいらっしゃったら、ものすごく心強いと思います。
こうもり wrote:
> わたし自身も気になっているのは、その分類によって何か治療方法や教
>育方法に違いがあるのかという点です。ADHDならば薬物治療の必要が
>ある場合もあるので、他の発達障害との弁別は確実に必要でしょう。しか
>し、自閉スペクトル同士の場合はどうなのか?弁別することによって何か
>有意義なことがあるのだろうか?疑問です。
私も同感です。あれやこれやと線引きしてしまうと、かえって障害間での交流が妨げられたり、診断によって受けられる福祉サービスにひずみが生ずるといった危険性が十分にありうると思います。それよりも、これらの障害に関する「共通点」というものを洗い出して、それをもとに治療・教育を考えたほうが、より効果的で・柔軟な対処ができるような気がします。
それには、これらの障害に普遍的に存在している、要素をもう一度吟味する必要があるでしょう。例えば、LDと診断された群とASと診断された群では、言語性IQと動作性IQの散布図での分布に有意な開きがあるのでしょうか?積み木模様課題の評点と算数の評点ではどうでしょうか?こういった統計的な処理をすることで真実の障害像が浮き彫りになって、真の有効的な対処が浮かび上がってくると思います。
スマイリーさん wrote:
> そうか……みんな、疲れて動けない日があるんだね……
「休むべきときに休む」というのは仕事のうちです。だけど、それが分かっていない人が多い。あるいは本人はそれを分かっていて必要な休みを取ろうとしているのに、「人間は休めと言われなくても勝手に休む」「寝なくて死んだ奴はいない」とか言って邪魔をする人がいる。
ビジネス関係の雑誌とか新聞記事とか読んでいると、「戦い」だとか「生き残り」だとか「戦略」だとかいった勇ましい単語が並んでいます。「馬鹿」としか言いようがありません。ビジネスってもっとクールなもんだぞ。
> 私はね、子供のころ、疲れてうごけなくなってたとき、いつもお母さんに蹴られていたの。病気による学校の休みも、私立の中学に行ってたから、学費がもったいないって、寝ているところに物を投げつけられてたよ。「なまけ病」って名前を付けられてね。いまでもばれないように、夜遅くの仕事してるからっていう理由で起こさないでもらって、お母さんが仕事に行っている時間たっぷり十時間睡眠をとってる。
女性というのは権威に弱いところがあります。過労死自殺した人の話を聞くと、会社の上司から電話があると、お母さんなり奥さんなりが、徹夜明けで死んだように眠っている人を起こして電話を取次いでしまうのね。そういうときに、「本人は具合が悪いので、電話に出られません」とか、「『職場の近くのビジネスホテルで仮眠を取ってから帰る』としか聞いてなくて、連絡が取れません」とかいって、適当にごまかして休ませてあげることができない。で、本人が「そんなの放っときゃいいんだよ」「適当にごまかしとけばいいんだよ」とか言っても、「だって、『すぐに連絡してほしい』って言われたんだもの」「『いま、大変なことになってる』って言うんだもの」とかいって、自分が問題を抱え込むことを怖れてしまう。
会社のほうもそれを知っているものだから、母親とか奥さんとかにガンガン言って圧力をかけるのね。
それで死んだ……というか、殺されたエンジニアはいっぱいいます。
安息を奪われた人間は、脆いです。簡単に自殺します。
死ぬほど追いつめられそうになったら、早めに逃げましょう。
> みんなが皆。親は子どもも、単なる物体としてしか見ていない。小学生の私が急に家出しても、お母さんは何も感じないから、一生捜さない。それに人が苦しんだり泣いたりするのが、おもしろい反応として映るらしく、何がおかしいのか、笑い出したり、もっと強い反応を見るために言動を強くして見たり、実験してるみたい。妹以外の家族全員そんなだから、はっきりいって怖いよ。
うちの Joshyaさんが会社勤めをしていた頃に、「現場の人間がどれだけ悲惨な状況に置かれているか」を上司に訴えたら、その上司は本当におかしそうにげらげら笑っていました。
テレビ番組の中でお笑い芸人がいたぶられているのを見てげらげら笑っている人がいます。つまり、「自分には関係のないこと」と思えるならば、他人の不幸というのはとても滑稽なものだったりするわけです。
「笑い」は、「相手の苦しみを自分のものとして引き受けることの拒絶」である場合があります。
ひょっとしたら、それは「発達障害」なのではなく、人間としての弱さなのかもしれません。
> お姉ちゃんは、私よりももっと暴力を受けてきた。だけど、何にも感じないんだって。だから愕然とすることがあるし、サイボーグのターミネーターみたいな姉とは心が通じたと思ったことが無い。
> でも感情がないことも他人が自分をどう評価しているか気がつかなくてすむ意味で本人にとって幸せかなとも思う。
それって、「乖離」かもしれません。
乖離性障害(「ヒステリー」と昔は呼ばれていました。精神的な問題が肉体的な症状として出るものです)とか、自己同一性障害(多重人格など)を起こしている可能性があります。
> 広汎性発達障害のひと全員に特殊な才能があるわけじゃない。誰もがよい環境に生まれるわけじゃない。他の人たちと同じスタートラインに立って人生走り抜くのには、とっても不利だってやっぱり私、思うの。それでも特徴、として自分自身の診断を受け入れられるのかなぁって・・。
どんな仕事にも「全人的な素質」が要求されるわけではありません。機械で置きかえることのできない単純作業なんていうのもけっこうありますし。
ただ、そういう仕事を得ることの難しさは確かにあります。そういう仕事を提供するシステムは必要だと思っています。
(Maria)
武田好史 wrote:
>Rosamonde wrote:
>>どうも私は“普通”の世間様の世界にはとても疲れるみたいで、仮面を被ってないと普通を装う事が出来ない。
>>顔は日本人なのに、感覚は外国人そっくり。
>>人から言われるのは『宇宙人』、『日本人の顔をしているんだから、分からないのはおかしい』、『日本人なのに分からないのは頭が変だ』などなど。
>>
僕は生まれつき縮毛で、しぐさも何か『コイサンマン』のカイちゃん・キリちゃんにそっくりだったようで、小学生の頃はよく『アフリカ人』って呼ばれていました。
こうもりさん wrote:
> ところが、多忙な状態になるとなぜか「別にいつ死んだっていいや。
>」という気分になってどんどんハマッていってしまうのですから、困っ
>たものです。別に自殺願望を持っている訳ではないのですが。
同じみたいです。もう、だめかも……なんて思いながら、どんどんハマる。けっきょく身体がいうことをきかなくなって、ダウンしましたが。
めまいが日に日にひどくなります。肩が首が頭が、がちがち……。でも、やることは山ほどあるから、止まれない。誰かかわってくれ〜と叫んでも、ムダだしね〜。
> ボ〜と考えごとをしている時間もほしいよう…。
わたしも、ほしいよう。ボ〜っとしてなにもしないでいたい。
こうもりさん、お互い身体を大切にしましょうや……。今日は、寝るぞ! なにがなんでも、寝るんだあぁぁぁぁぁ!!
星子さん wrote:
>こんばんわ。
>「オレンジブルー」と名乗っていたのですが、「星子」にネームを変更い
>たします。どうぞこれからもみなさん時々顔だすので、宜しくお願いしま
>す>m(__)m
こんばんわです、星子さん。
>私、専門家(と言っても自信なさそうな経験不足者のようですが)とのメー
>ルだけのアンケートややり取り、そして自閉症の診察診断経験の無い精神
>科医に「特定不能」と診断されましたが、今だに納得できていません。
単に今の診断基準に合わない部分があるから「特定不能」と診断された
というだけなら問題ないのですが、特定障害者の支援団体とかでは現実に
不利益を蒙ってしまうことがあるのが、痛いところです。
ほんと、わたしだってとある医療関係者から「勉強ができるのにどこが
LDなんだ?」という誤解に満ちた侮辱(?)を受けることがなければ、
教育学的な包括性LDというだけで十分だったと思うんですよ。シクシク
>なんでこんなに境遇によってASとか高機能・とか特定不能とか自閉症ス
>ペクラム障害者の診断が違うのか、本当に納得できない。
>何故、「違う」のか??
わたし自身も気になっているのは、その分類によって何か治療方法や教
育方法に違いがあるのかという点です。ADHDならば薬物治療の必要が
ある場合もあるので、他の発達障害との弁別は確実に必要でしょう。しか
し、自閉スペクトル同士の場合はどうなのか?弁別することによって何か
有意義なことがあるのだろうか?疑問です。
三月下旬、僕は東京に行く為荷物を整理してたら、あるノートを見つけた。それは、連絡ノートといって担任の先生と親が連絡を取り合うノートで、僕が小学一年から五年までの間僕の事が書いてあった。その中に、僕が県立の子供病院での事が書いてあった。
その書かれてた事を僕なりにまとめて見ました
1994年10月にASと診断される(言語性LDの疑いもあり)
1995年5月のドック入院で言語性LDと診断される
僕はこのノートを見て、「僕はAS+LDタイプなんだ!!」と思いました。母からは「あなたはLDだ」と聞かされてたけど、「おいおい、ASもでしょ!!」と言いたい気分になりました。
こうもりさんや他のAS+LDタイプ(と思ってる人)はどう思いますか?
こうもり wrote:
> こうもりです。4月は雑多なことが多すぎて、ちょっとヘロヘロ状態
>です。周囲の人間からは「何もせずにボーとしていることが多い」と言
>われるわたしですが、わたしにはボーと考え事をしている時間がとても
>大切なのだということをすごく実感しています。最近はあまりよく練っ
>た文章をコメントすることができないし…
それ、凄く解ります。なんだろう・・とにかく自分の世界に入り込む時間が無いとダメなんです。
忙しければ忙しいほど「自分の世界」に一時避難しなければパンクしそうで呼吸さえ苦しくなる・・
現実は「そんな事してる場合じゃね〜だろ〜?」って時ほど必要なんです(−−;)
それこそカンシャクが爆発しそうになって何もかもぶち壊したい衝動に駆られて大変です・・
そういう時の動揺ぶりがハンパじゃ無いので「オオゲサ」だと言われますけど・・
その時x2、本気で必死なだけなんだけど・・
は、勝手にレスしてますけど初めましてですm(−−)m チョコx2ロムはしてたんですけど(^^;)
文章力が無いんで勇気が出なくて・・まだ診断、受けたばっかりなので色々な意味で暗中模索です。
こうもりさんのHN?は気に入ってます♪(笑)自分自身ずっと私はこうもりみたいだと思ってたから・・
動物でも無い、鳥でも無い・・どこにも居場所が無くて、さ迷う生き物・・
こんばんわ。
「オレンジブルー」と名乗っていたのですが、「星子」にネームを変更いたします。どうぞこれからもみなさん時々顔だすので、宜しくお願いします>m(__)m
>>ADDと診断されても奇妙な“レプリカント”感覚のままです。
>>本当の私の位置って何でしょうね?
> じっさい、診断によって発達障害者本人は居場所が変わってしまう
>ことがあるので、困った問題です。
私、専門家(と言っても自信なさそうな経験不足者のようですが)とのメールだけのアンケートややり取り、そして自閉症の診察診断経験の無い精神科医に「特定不能」と診断されましたが、今だに納得できていません。
「あなたはアスペルガーでも無い微妙な・・・」と言っておきながら、
「分裂病圏に入っていて精神的に乱れているかもしれないから責任負えない」
とか。言っていることが本当に納得できません。
一回の面会で昔からの話しをしたものの、
私はふつうになる為の演技の部分によって、AS(私は非常に大人しくてほとんど喋
らない子どもだったようなので高機能者かもしれないですが)が一見ふつう者にみえ
るから「特定不能型」になっているだけの話しだとしか感じられない。
面会進める度に、ボロボロボロボロボロボロとエピソードが出て来てるんですよ
ね。なんでこんなに境遇によってASとか高機能・とか特定不能とか自閉症スペク
トラム障害者の診断が違うのか、本当に納得できない。何故、「違う」のか??
突っ込んだ話し全然しなかったんですよね。
私の撮る写真は全部変な視点のモノだったり、
一日中動きっぱなしで整理整頓していたり。
私、今ダニ納得できない。
どうして主治医が考えていた杉山登志郎先生の面会が無くなってしまったのか?
未だに納得できないことばかり。
向こう側が全然地盤がゆるゆるだから、こっちだってますますフラフラじゃないか!
・・・・・・ということで、「本当に何でもって特定不能なのか?」を次回の面談で
きちんと聞いてこようと思っています。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami