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恋愛関係の解消
No.12377  Fri, 10 May 2002 01:48:13 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

 今日、つきあっていた女性と話し合って、恋愛関係解消という運び
になりました。どちらに非がある訳でもないし、お互い好意を持った
ままなのですが、こういう事ってあるんですね。ふう…

 でも短い間だったけど、素敵な経験ができてうれしかったです。そ
の女性に心から感謝したいと思います。

 すばらしきかな、人生。


Re: Dルーム 12371へのコメント
No.12374  Thu, 9 May 2002 23:26:38 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

ひま人 wrote:
>>ただ、AS向けの指導の専門家が、本人がいやがることも強制的にやらせるというシステムのなかで指導していくというものが本当は望ましい。普通学級がASに適さないからDルームに移籍するというのも、それが現実逃避になってはならず、ちょうど医療行為というものが、いかに患者に苦痛と負担を与えずに治療成績を上げるかということが重要であるように、AS児への負担をどこまで少なくして、かつどれだけ能力を向上させることができるかというのが、専門家の力量である。つまりポイントは、どうせ通わせるなら、本人の負担と能力向上との比率で比較した場合、そのDルームのほうがましだと判断できるならそちらに通わせるべきであるる。本人にとってどちらに通うほうが楽しいのかということだけを判断材料にするのは無責任である。(いじめられていてやむを得ず不登校にさせるというのなら別
であるが)

いえDルームに子供をほっぽってしまうことも、かといって強制的に勉強をやらせることも、根本的な解決にはなりません。
 AS児には通常の子供に比べると、何十倍ものやらなくてはならないことがあります。例えば『感情の処理法』『思考力の強化』『ソーシャル・スキルの訓練』・『先駆的な作業指導』など、今日は学校では教わる機会のないものも、その中には含まれています。しかし強制的に覚えさせようとしても、かえって塞ぎこみなど望ましくない結果がでる恐れがあります。そのためには、『満遍なく』と『無理なく』という相反する概念の両立が不可欠なのです。AS児の教育、これはもはや専門家のみ・教師のみが個別にやっていては、らちがあかないものなのです。
 今一番求められているのは、TEACCHに見られるような子供・保護者⇒専門家⇒教師というようなネットワークであろうと思います。私たちは最適なこの活動のオブザーバーであるといえます。なぜなら最も客観的な視点から、事の推移を見ることが可能だからです。既存の教育方法を無理矢理子供に押し付けるのではなく、このネットワークを利用して得られた、様々な知見をもとに建設的な方向へ刷新すれば良いのです。


感情を押し付けられること
No.12373  Thu, 9 May 2002 22:27:51 +0900  百日紅(さるすべり) [この発言にコメントする]

診断的にはLD,で特に聴覚過敏をもっている学生という立場のものです。

学校での私の話なのですが、今日、感情を「強制」されるという体験をしました。
こんなにはっきりと「ふつう」の概念にあわせることを強制されたのは初めてでした。私に落ち度があったのかもしれませんが、聞いてください。

「そう言われて、うれしいよね?」

と言われたのです。そう言われて、というのは「相手は○○さん(私)のことは嫌ってないと言っていたこと」なのです。
私にとって、相手から好意を受けるということは、ただ好意を受けるという段階でしかないんです。それで「うれしい」という感情につながるわけではないんです。

で、それなのに、「うれしいよね?」と言われて、(厳密に言えばイントネーションによって押し付けになったり、ならなかったりするんだけど、)その押し付けがましい発言によって、「うん」と言うことを余儀なくされたのです。

でも、私にとっては、
相手から好意を受ける、ということと
それでうれしいという感情を持つ、
ということは別のことなのです。
それで、「同じ規範」を押し付けられ、
嬉しいという感情を持ったわけではないのに、
「うん」と言わざるを得ない。
私はその場では「うん」と言わざるを得なかったけど、
本心は「うーん?」という感じ。相手から好意を受けてそれを嬉しいという感情に転化させるにはもう一段階も二段階も必要とするわけです。
でも、自分が本当に思ったことを発言すると、
「それは相手に対して失礼だ。」とか、「その言い方はひどい」となる。
無論、私は相手に対して何か悪い感情を持ったわけではないのに、そのまんまの自分では生きていけないわけです。
で、そのために仮面をかぶる。ふつうらしく振舞う。規範にのっとって振舞う。かなり居心地が悪いけど、そうやって、自分が本当に思っていることは押しつぶして生きて行かなければならない。

こんなに居心地が悪いのは、初めてだった。
外にいて社会に関わっていなければならない時間が多いほど、
必然的に<つくられた、つくられてゆく>、「ふつうの人の姿」「あるべきとされている姿」にあわせる必要が出てくる。

本当の姿を出せば出すほど、「社会の規範(これもつくられたもの、つくられてゆくもの)」からはずれているとされてしまうんですね。
で、何とか生きてゆくためにはスキルとしてみにつけたことでカバーしようとする。でも、本当にそれでいいのか?

私は今日、秘密結社の人たちが気付いているよりも、もっと遅くに自分のことをよくわかったのです。

今の私は、とにかく折り合いをつけて生きてゆくことが必要だということはわかったけど、どこまで折り合いをつけて行くのか、問題です。
本当の自分で生きてゆくことの難しさ。
そして、他の人はふつうに学習している、でも私は何気ない行動を学習してゆく必要があるということが見えてきたのです。どのくらいまで深く、スキルを学習してゆくことになるんだろう。

LDと診断されて、6,7年経つけど、それでわかってきたことって思ってたより少ない。他者に言語化してもらう、っていうのが必要になってくる。そうしてもらわないと、私の場合そのまんまで生きて来て、これからあいさつのスキルを学習しようとしているもんだから。

長々と書いて、結局まとまりがつかなくなってしまってすみません。
皆さんの意見を拝聴したいです。


Re: 割り込みすいません。 12351へのコメント
No.12372  Thu, 9 May 2002 22:10:56 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

遅れたレスですみません。こうもりです。

yamoriさん wrote:

>ひょっとしたら、当サイトは「存在意義ゼロ」かもしれません。
>立ち上げ時から今日にいたるまで、私は当サイトの「存在意義」に
>ついてはずーっと悩んできました。

>(本当は何らかの専門家に助言を得たいと心底思っています)

 一介の発達障害者の発言ですが、家族,パートナー,友人など、
ADHD本人の周りに障害を理解しようとしている人がいることは
けっこう大きな意義があるのです。

 現在、普通学級に通う発達障害児の支援では本人の療育や治療だ
けではなく、環境調整が大きなウエイトを占めています。例えば社
会性に困難があって、いじめを受けている発達障害児がいたとしま
す。この場合、いじめを受けている障害児の社会性の獲得を支援す
ることは確かに必要かもしれませんが、いじめが続いていれば発達
がゆがめられる危険性は大いにあります。この場合、カウンセラー
などが学校に行って、学校関係者と会って協力者を探したり、配慮
を求めるのがここで言う環境調整です。

 また、発達障害児の家族の中に発達障害を認めない人がいて誤ま
った対応が行なわれそうな場合、カウンセラーがその家族と会って
障害の説明や説得を行なうことがありますが、これも環境調整の一
種です。

 なぜこのような話をしたかと言うと、環境調整というのは障害者
本人の周囲に障害を理解しようとしている人がいる場合、環境調整
は極めてスムーズに行なうことができるからです。ADHDパート
ナーのスペースに来ている人たちはひとまずパートナーがADHD
であることを認めることができている訳ですから、環境調整への協
力が極めてしやすい立場にいると思われます。

 では、環境調整はどのようにして行なえばいいかと言うと、AD
HD本人とパートナーで話し合って解決できることならば、当事者
同士で話し合うのが1番です。しかし、それがうまくいかない場合
はADHD本人とパートナーが一緒にカウンセリングを受けて、カ
ウンセラーのアドバイスを受けながら環境調整を行なっていくとい
う方法をとります。(ADHDのことを視野に入れた家族療法の専
門家がいてくれると1番いいのですが)この時注意しなければなら
ないのは、パートナーがADHD本人に一方的に配慮をするような
環境調整を行なうのではなく、逆にADHD本人が周囲に配慮すべ
き点も話し合っておくことが重要です。パートナーの負担が重くな
らないようにする配慮であると共に、ADHD本人の自尊心を傷つ
けないための配慮でもあります。かつてえじそんくらぶの代表の方
が言っておられた「完璧にサポートされている障害者は逆に自己評
価が下がってしまう」という言葉はどこまでも真実だと思っていま
す。

 私見ではADHD本人が薬物治療などをしながら、自分の力だけ
で困難を克服していくというやり方にはどこか無理があるように感
じます。成人のADHDや発達障害者においても、環境調整の視点
が取り入れられることを願わずにはいられません。

 以上、役に立たないかもしれないし、既に実践されている人もい
るかもしれませんが、コメントをしておきました。では


Re: Dルーム 12363へのコメント
No.12371  Thu, 9 May 2002 21:15:39 +0900  ひま人 [この発言にコメントする]

あさかぜ wrote:
(中略)
> 「あたし、なんだか学校へ行くのが楽しくなっちゃった」と言って、娘は毎日登校するようになった……。なにやら絶好調。
> なんだなんだ、いったい何が起こったんだ? どういう風の吹き回しだ? と思ってしまうわたしは、絶不調……。
> 「お弁当作って持っていく」と言い、今朝なんぞは二人で卵焼きを焼いた。9才小4である。給食もあるのだから、ご飯と卵焼きしか入れなかったが……本当にいいのか? 学校でおそるおそる先生にお伺いを立てようと思ったが、講堂へ行っていて留守だった。
> 「あたし、講堂へ行ってみるね」ときた。へ? あれほど大人数のいる場所を嫌っていた娘が……どうなってしまったのだ〜???
>
> わからん。わからんが、うれしい。……と思う。たぶん。
> 前置きはそのくらいにして……。
> 学校適応とか、集団適応とかに心をくだいている親御さん方も多いと思う。アスペっ子は環境によっても変化するからだ。できれば養護学校ではなく地元の小学校へ、できれば特殊学級ではなく普通学級へ……と考える親御さんも多いのだろう。

これは障害児をもつ親御さんに共通するように感じる。のみならず、障害児本人も、普通学級へ通うことを望むことが多いらしい。友達がたくさん欲しいからでしょうか?
これは、親御さんにとってみればそういう心情が出てくるのはある程度やむを得ないのではないでしょうか。「あそこのお子さんは、特殊学級へ通っているらしいよ」などと陰口をたたかれるのは、あまり嬉しくはないでしょう。

> しかしね、今あるシステムに子どもを合わせようとして、努力しすぎていないだろうか? 現実に身近にそういう人がいるので、ちょいと心配してしまうのだ、わたしは。なんてったってアスペっ子は我らの小さき仲間、これからの世界を背負っていく世代なんだから。余分な負担をかけて壊したくないんだよ。
> 娘の例が一般化できるとは思わないが、ひとつの実例として「この手もある」と思っていただければ、幸いだ。
>
> 娘はDルーム(仮称)に行っている。原級(普通学級)でもなく、特殊学級(情緒障害児学級)でもなく、保健室でもない。そういうものが存在している学校があるのだ。専任の先生もいる。ありがたいことに、前年度から引き続き同じ先生だ。優しくて面倒見のいい、おかあさんみたいな感じの人である。

これは初耳だ。

> Dルームのような存在は、これから重要になってくるだろうと思われる。人数割りで教師数が決められる特殊学級とは、またちがうのである。「学校へ行ったら、勉強でしょ!」と思っている親御さんには、物足りないかもしれない。が、「教育に特別なニーズを必要とする子どもたち」にとっては、ありがたい場所だと、わたしは思う。
教科学習だけが勉強のすべてだとは、思わないからである。

その言い回しは、事実性としては間違っていないが、じっさいにはその背後に現実逃避の心情が紛れ込んではいないだろうか?

> ちなみに娘は、Dルームをお化け屋敷にするのだそうで、なにやらお化け作りにいそしんでいる。合間に折り紙をしたり、ビーズ工作をしたり、体育館が空いていれば跳び箱やフラフープをしたりもする。天気がよければ、校外へ散歩にも行く。それらのすべてを、時間の制約をあまり受けずに、ほぼ自由に行うことができるのである。

これはいわゆる「フリースクール」などというものに近いように感じるが・・・

> 先日は教頭先生がやってきて、Dルームの予算がとってあるので、生徒が希望する本(マンガでも可)を買ってもいい、と話していたのを目撃してしまった。

そのうち、おやつを買ってきてほしいなどと言うようになるのではないか。

(中略)
> わたしは運がよかっただけかもしれない。けれど、これからアスペっ子の学校教育をどうするかと悩んでおられる方は、県の教育委員会に問い合わせて、Dルーム(呼び方はさまざまだと思う)のような存在があるかないかを、探ってみるのもいいかもしれないと思うのだ。
> Dルームが存在していて、有効に利用できているわたしなどは、存続を願って校長に相談に行ったりもする。就学を控えた自閉症児のお母さん方も、一緒である。あとに続く人々が、どんどん増えているのだ。
> 選択肢は多いほうがありがたい。既存のシステムに子どもを押し込んで、裏問題児にしてしまったらつまらない。学校に適応している(ように見える)からといって、本当にその子のためになっているとは限らないと思う。
> 親の自助努力も必要である。安心して子どもをまかせておけるだけの配慮を、すべての学校がしてくれるとは思えない。が、けんか腰ではなく、学校に働きかけることも大切なのである。自分から声を上げて、地道に働きかけていくしかないと思う。批判ばかりしていたって、ちっとも良くはならないのだ。

なるほど、一見いかにもおめでたい話ではあるが、腑に落ちない点がある。
とくに最近、こういった「子どもの好きなようにさせる」とか「子どもの立場を尊重する」といった考えで教育しようとする親御さんが増えているように感じる。たがこれは無責任ではないか。たとえば、すべて子どもの好みに合わせてカリキュラムを組むのなら、毎日毎日来る日も来る日も朝から晩までゲームや遊び、おしゃべりなどをするのがたいていの子どもにとって一番楽しいことになるだろう。それはそれで結構かもしれないが、もしもこうした方針で幼児期から育てていけば、文字も読めず、計算もできず九九も分からず、といった子どもが大量に出現するようになるのではないか。自分で自主的に勉強に取り組む子どもなど、小数の例外を除いているものではない。
結局教育というものは、医療行為のようなものにすぎないのである。それ自体おもしろくも楽しくもないが、やらないよりかはやったほうがましだから、やむをえず我慢して消化していくものなのである。
前にも書いたように、大人数に放り込めば社会性が身につくとは思えない。だからDルームなるものに通わせること自体は間違ってはいないと思う。それに、普通学級至上主義的感覚に金縛りになっている親御さんよりも、おおらかに突き放した視点で眺めているというところも好感が持てる。そのうえ、ASの指導の専門家がほとんどいない現状では、ある程度放任主義的なものになるのもやむを得ないかもしれない。
ただ、AS向けの指導の専門家が、本人がいやがることも強制的にやらせるというシステムのなかで指導していくというものが本当は望ましい。普通学級がASに適さないからDルームに移籍するというのも、それが現実逃避になってはならず、ちょうど医療行為というものが、いかに患者に苦痛と負担を与えずに治療成績を上げるかということが重要であるように、AS児への負担をどこまで少なくして、かつどれだけ能力を向上させることができるかというのが、専門家の力量である。つまりポイントは、どうせ通わせるなら、本人の負担と能力向上との比率で比較した場合、そのDルームのほうがましだと判断できるならそちらに通わせるべきであるる。本人にとってどちらに通うほうが楽しいのかということだけを判断材料にするのは無責任である。(いじめられていてやむを得ず不登校にさせるというのなら別であるが)
もしも本人がやりたくて楽しいと思うことだけを自由にやらせる学校というのがあるとしたら、それは教育機関ではなくてレジャーランドに近い。それでもかまわないと考える親御さんもいるのかもしれないし、それもひとつの立場ではある。しかしそれは同時に、本人の能力学力、現実適応能力、対人能力、社会的能力等の向上の可能性を放棄(あるいは断念)しているに等しいということを肝に命じるべきであろう。

> ここまで読んでくれた方、ありがとう。お目汚しの文章だったと思うが、ひとりでもふたりでも、行動に結びつく勇気を持つようになってもらえたら、と思う。

いつもながら、生意気でしかも水をさすようなことばかり書いて恐縮している。
(最後に・・・)
この文章を読んで、「せっかく娘が学校に行くのが楽しみになって、お化け屋敷作りに夢中になっているのに、本人の楽しみや喜びを否定するような事を書くとは、なんといじわるで非情で冷たい人間なのだろう」と感じたかもしれません。
論点を整理しましょう。AS児が学校や普通学級がおもしろくないということの背後には、ふたつの問題が潜んでいると解釈するのです。ひとつはすでに述べたように、AS児の能力向上のためには、普通学級のシステムは適していないということ。もうひとつは、AS児が本当に楽しめる時空間が存在しないということ。これは学校教育の問題を超えた問題でしょう。
すでに述べたように、学校を子どもにとって楽しめる場所にしようというのは、病院や医療行為を、患者にとって楽しくおもしろく快いものにしようというようなもので、しょせん無理があります。しかしこのことは、AS児が楽しみを見つけたり人生をより楽に過ごし、感動のあるものにしようとすることを否定するものではないでしょう。
とりあえずここでは、両者を二元化して考えましょう。そもそも子どもは教育されるためだけに生きているわけではありません。いちばん大切な、本人にとって楽しいと感じる場所、状況に、教育的観点を介入させないこと。いわば、ジュースに青汁を混ぜるようなことをしないこと。
そしてそのようなたいせつな領域は、学校教育とは別の時空間に作るべきでしょう。
(終)


白い息(ソネット39)
No.12370  Thu, 9 May 2002 08:44:29 +0900  吟遊詩人 [この発言にコメントする]

僕の手に
君の息
小さな世界の
小さな風

白い雪の中に
赤い唇
白い息
赤い指先

声のない
息遣いと
瞳に映る息

乾いた空に
溶けて行っても
忘れない


Re: Dルームと、同追加 訂正 12367へのコメント
No.12369  Thu, 9 May 2002 07:49:26 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

 Mariaさーん、ありがとー!

Mariaさん wrote:
> そんなわけで、“物価の優等生”でもある玉子に敬意をこめて、「玉子焼き」と書いてあげてください。

 はーい。
 というわけで、訂正します。 卵焼き→玉子焼き よろしくお願いしまーす。

 久しぶりに長い文(どこが〜?)を書いたけど、頭は痛くならなかった。肩は凝ったが……あいかわらずキーボード入力に慣れてないから、しゃーないな。
 実はおととい、「このまま文章が書けなくなってしまうのでは?」という恐怖に襲われて、リハビリじゃー!!と吠えながら、昨日は書いてみたのでした。

 Dルームみたいな存在って、“クラスからはみ出した子が行くところでしょ”くらいに思っている親御さんが、ほとんどだろうな……。“今そこにあるものは変えられない”って、なんで思い込むのかな? 子どもを変えようとするより、環境に配慮を加えたほうがいいじゃん。
 ま、考え方は人それぞれなんで、わたしは自分にできることしかしないけど。精神保健福祉センターの先生に、Dルームも見てもらおうと企んでいるのだった。6月には実現できるだろう。ふふふ。


Re: 割り込みすいません。 12366へのコメント
No.12368  Wed, 8 May 2002 21:06:28 +0900  yamori [この発言にコメントする]
こんにちは。
[ADHDパートナーのためのスペース]管理人のヤモリです。

よし(陽疾)さん:
> 一生懸命やってくださってる、ヤモリさん、に対して
> あまりにも失礼な内容の文章でしたね。
> 済みませんでした。当然、存在意義ゼロなんてわけもないです。
> 申し訳ございませんでした。
> これからも、皆さんのために力になってください。

よし(陽疾)さんの真意はちょっとよくわからないのですが、とに
かく謝らないでください。
私としては、「過大な期待には応えられません」ということが言い
たかっただけで、それ以上の意味合いはありません。
# 謝られるとなんだか申し訳ないです。
それに「一生懸命」とか「皆さんのために」とかいうつもりも毛頭
ないです。私は私がやりたいことだけをやってます。

お蔭様で様々な方からお問い合わせのメールをいただきますが、そ
の内容が深刻であればあるほど、ご要望に応えられそうもないな、
と残念な思いをしている不甲斐ない管理人でございます。

(以下余談)
よし(陽疾)さん:
> ただ・・・
> いろんな、意味で、非常にショックでした・・・・。
どんな意味でなのかすこーし気になります(ははは)。
気が向いたら教えて下さい(メールでこっそーりでもいいです)。
-----
ヤモリ:aps@estyle.ne.jp
「ADHDパートナーのためのスペース」
http://www.estyle.ne.jp/aps/

Re: Dルーム 追加 12365へのコメント
No.12367  Wed, 8 May 2002 20:59:04 +0900  Maria [この発言にコメントする]

あさかぜさん wrote:
>  ところで、卵焼きと玉子焼きでは、どちらがより正しいの?

 はーい、お答えしまーす。

 「卵」は、殻のないたまご。魚のたまご(いくらなど)がそう。
 これに対して、「殻のあるたまご」を「蛋」といいます。
 「皮蛋(ピータン)」なんかがその例です。

 「たまごの白身」のことを「卵白」といいますが、本当は「蛋白」。「蛋白質」というのはここから来ています。

 「玉」というのは、「丸いもの」という意味ですが、「宝玉」を連想させ、「貴重なもの」「高価なもの」という意味もあります。そんなわけで、「玉(ぎょく)つき」というと「豪華な」というイメージがありました。浅草の老舗の牛鍋屋・『今半(いまはん)』の「玉(ぎょく)つき牛飯(ぎゅうめし)弁当」なんていうのもあります。うちの近くの立食い蕎麦屋さんでは、「玉子入り」のことを「デラックス」と呼んでいたりもします(とはいえ「月見そば(あるいは、うどん)」は「かけデラックス・そば(うどん)」ではありません。「月見そば(うどん)」です)。

 昔は「玉子焼き(「厚焼き玉子」、あるいは「出汁(だし)巻き玉子」)」というと、病人のお見舞いにしたくらい滋養があって精がつくもの、とされていました。

 そんなわけで、“物価の優等生”でもある玉子に敬意をこめて、「玉子焼き」と書いてあげてください。

 (Maria)


Re: 割り込みすいません。 12351へのコメント
No.12366  Wed, 8 May 2002 20:44:48 +0900  よし(陽疾) [この発言にコメントする]

yamori wrote:
>こんにちは。
>[ADHDパートナーのためのスペース]管理人のヤモリです。
>
>よし(陽疾)さん:
>> すもも、さん紹介のHPの中身はあまり知りませんが、「ADHD」
>> と「ADHDパートナー」とのあいだの「共依存」は、絶対テーマに
>> なっているはずです。もし、このテーマが、過去そのHPで討議
>> されたことないなら、そのHPには存在意義ゼロです。絶対、テ
>> ーマになってるはずです。
>
>ひょっとしたら、当サイトは「存在意義ゼロ」かもしれません。
>立ち上げ時から今日にいたるまで、私は当サイトの「存在意義」に
>ついてはずーっと悩んできました。
>何の役にも立たないならまだしも、なにか「害」になることをやっ
>ているのではないか、とも思うと、恐くもあります。
>
う〜ん、そうでしたか・・・。
まさか、・・・
言葉が過ぎました。
一生懸命やってくださってる、ヤモリさん、に対して
あまりにも失礼な内容の文章でしたね。
済みませんでした。当然、存在意義ゼロなんてわけもないです。
申し訳ございませんでした。
これからも、皆さんのために力になってください。
ただ・・・
いろんな、意味で、非常にショックでした・・・・。


Dルーム 追加
No.12365  Wed, 8 May 2002 18:11:51 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

 ところで、卵焼きと玉子焼きでは、どちらがより正しいの?

 Dルームでは、学習の自由も保障されている。教科によっては学級へ戻って学んでもいいし、ルーム内で一人で勉強してもいい。時間割にとらわれないで、好きなだけ、納得するまでやっていていいのだ。他の子が散歩に出るからといって、一緒に行動するようには強要されない。「わたしはここに残って、続きをする」と言っても、許される。

 「規律」は学べないかもしれない。が、「学ぶ力」のある子だったら、なんでも学びの対象になると思う。
 「お化け屋敷」を例にとると、頭を使ってアイデアをひねり出し、手を使ってアイデアを形にする。どんな材料が用意できて、どんな道具が使えるのかで、現実との対応が可能になる。予算は多いとは言えないが、「これがどうしても欲しい」と交渉することで、学校外へ買い物にも行けたりする。
 アイデアは稚拙で、作品は幼稚かもしれない。けれど、主体は子どもたちなのだ。自分たちのアイデアを形にし、観客を招いて披露する。観客に喜んでもらえることで、本人には何かが残るだろうと思う。

 先生方のご好意で、広義の運用が可能になるのが、Dルームなのである。先日はクレープを焼いて食べていた。料理が好きな子は、本領発揮である。燻製作りをしたときは、部屋中が燻製臭くて、三日ほど匂っていた。娘は黙々とチップにする木を削り、火の番をしていたそうだ。飽きてしまった他の子は、飛び跳ねて遊んでいたりした。が、火の番をした娘には、感謝してくれたという。

 学校を苦行の場にしない工夫は、いくらでもできると思う。カリキュラムに沿って、チャイムが鳴ったら「はい、次の教科です」とぶち切られたらついていけない子も、時間にとらわれなかったら、教科学習が好きになるかもしれないのだ。
 Dルームで時間内に終わらなかったものは、一応かたづけて「また明日つづきを作ろうね」と、続けることが可能である。やりたい子が納得するまで続けられる。

 学校週五日制になって、「学力低下」ばかりを心配する親御さんたちには、関係のない話かもしれない。しかし……
 子どもが生き生きと、楽しそうに輝いているほうが、健全だという気がする。

 「学校で教わったこと」が何に生かせるかは、子ども次第なのだから。
 アスペっ子は、可能性のかたまりなのだから。

 余談だが、本日の卵焼きの一切れは、校長先生の胃におさまったそうな。「甘さがぴったんこ」と、おっしゃってくださった。お化け屋敷にも来てくれるという。娘はお化けを吊るす紐をかけるために、Dルームの壁に釘を打ったそうだ。許可してくれた先生に感謝、だ。

 学校って何するところ? と言われてしまいそうなことばかり書いたが、「これもあり」だろうさと、わたしは思う。「もっと、こうしたら?」というご意見も歓迎するし、批判も受け付ける。なにか思うところある方は、書いてほしい。よろしくね(^_^)


熱の粒子(ソネット38)
No.12364  Wed, 8 May 2002 14:43:27 +0900  吟遊詩人 [この発言にコメントする]

吹雪に巻かれて
凍り付くくらいなら
炎に包んで
焼き尽くして欲しい

動けないまま
砕け散るより
暴れまわって
燃え付きたい

限りある熱の粒子
人は何故避けるの
何故要らないなんて言うの

あなたが熱を捨て去るのなら
私が全てを引き受けてあげる
破裂するまで


Dルーム
No.12363  Wed, 8 May 2002 12:20:58 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

 あまり状態が良くないので、乱文を連ねることになる。「きたない言葉使いは嫌い」という方は、読まないでいただければありがたい。とりあえず、小学生もしくは就学前のお子さんをお持ちの、親御さん方向け。(ROMの方もいらっしゃるだろうと想定して書く)

 「あたし、なんだか学校へ行くのが楽しくなっちゃった」と言って、娘は毎日登校するようになった……。なにやら絶好調。
 なんだなんだ、いったい何が起こったんだ? どういう風の吹き回しだ? と思ってしまうわたしは、絶不調……。
 「お弁当作って持っていく」と言い、今朝なんぞは二人で卵焼きを焼いた。9才小4である。給食もあるのだから、ご飯と卵焼きしか入れなかったが……本当にいいのか? 学校でおそるおそる先生にお伺いを立てようと思ったが、講堂へ行っていて留守だった。
 「あたし、講堂へ行ってみるね」ときた。へ? あれほど大人数のいる場所を嫌っていた娘が……どうなってしまったのだ〜???

 わからん。わからんが、うれしい。……と思う。たぶん。

 前置きはそのくらいにして……。

 学校適応とか、集団適応とかに心をくだいている親御さん方も多いと思う。アスペっ子は環境によっても変化するからだ。できれば養護学校ではなく地元の小学校へ、できれば特殊学級ではなく普通学級へ……と考える親御さんも多いのだろう。
 しかしね、今あるシステムに子どもを合わせようとして、努力しすぎていないだろうか? 現実に身近にそういう人がいるので、ちょいと心配してしまうのだ、わたしは。なんてったってアスペっ子は我らの小さき仲間、これからの世界を背負っていく世代なんだから。余分な負担をかけて壊したくないんだよ。
 娘の例が一般化できるとは思わないが、ひとつの実例として「この手もある」と思っていただければ、幸いだ。

 娘はDルーム(仮称)に行っている。原級(普通学級)でもなく、特殊学級(情緒障害児学級)でもなく、保健室でもない。そういうものが存在している学校があるのだ。専任の先生もいる。ありがたいことに、前年度から引き続き同じ先生だ。優しくて面倒見のいい、おかあさんみたいな感じの人である。
 Dルームのような存在は、これから重要になってくるだろうと思われる。人数割りで教師数が決められる特殊学級とは、またちがうのである。「学校へ行ったら、勉強でしょ!」と思っている親御さんには、物足りないかもしれない。が、「教育に特別なニーズを必要とする子どもたち」にとっては、ありがたい場所だと、わたしは思う。教科学習だけが勉強のすべてだとは、思わないからである。
 ちなみに娘は、Dルームをお化け屋敷にするのだそうで、なにやらお化け作りにいそしんでいる。合間に折り紙をしたり、ビーズ工作をしたり、体育館が空いていれば跳び箱やフラフープをしたりもする。天気がよければ、校外へ散歩にも行く。それらのすべてを、時間の制約をあまり受けずに、ほぼ自由に行うことができるのである。
 先日は教頭先生がやってきて、Dルームの予算がとってあるので、生徒が希望する本(マンガでも可)を買ってもいい、と話していたのを目撃してしまった。

 「校外学級」「中間教室」と呼ばれたりする、学校と家庭の中間にある教室というのも存在する。主に不登校児が対象だが、アスペっ子でも受け入れるだろうと思う。が、学習が中心である。
 校内にあるDルームは、自由行動が主体となる。その内容に関しては、先生にお任せもできるが、親の希望もある程度伝えられる。原級の先生、特殊の先生も、あるいは英語の先生やら教頭やら校長やら、図書館の先生に保健室の先生に事務の先生方まで、顔を出してくれる。けっこう“知り合い”が増えてしまう場所でもある。Dルームでは、学年を超えたお友達ができる。
 部屋は狭いし、人数も少ない。けれど、アスペっ子にとっては、落ち着ける場所であるらしい。広すぎるのと多すぎるのは、苦手だからだ。娘はダンボール箱に入ることもなくなったし、机の下にもぐりこむこともなくなった。お友達は、家庭どうしでの行き来もするようになった。

 学校長が市町村教委を通じて県教委に申請し、Dルームの存続は県教委が許可する。年度ごとに更新する。ない学校も多いだろうし、保健室が役割を兼ねているようなところもあるだろう。
 わたしは運がよかっただけかもしれない。けれど、これからアスペっ子の学校教育をどうするかと悩んでおられる方は、県の教育委員会に問い合わせて、Dルーム(呼び方はさまざまだと思う)のような存在があるかないかを、探ってみるのもいいかもしれないと思うのだ。
 Dルームが存在していて、有効に利用できているわたしなどは、存続を願って校長に相談に行ったりもする。就学を控えた自閉症児のお母さん方も、一緒である。あとに続く人々が、どんどん増えているのだ。

 選択肢は多いほうがありがたい。既存のシステムに子どもを押し込んで、裏問題児にしてしまったらつまらない。学校に適応している(ように見える)からといって、本当にその子のためになっているとは限らないと思う。
 親の自助努力も必要である。安心して子どもをまかせておけるだけの配慮を、すべての学校がしてくれるとは思えない。が、けんか腰ではなく、学校に働きかけることも大切なのである。自分から声を上げて、地道に働きかけていくしかないと思う。批判ばかりしていたって、ちっとも良くはならないのだ。

 ここまで読んでくれた方、ありがとう。お目汚しの文章だったと思うが、ひとりでもふたりでも、行動に結びつく勇気を持つようになってもらえたら、と思う。


Re: 働いてない人間は悪いのか? 12357へのコメント
No.12362  Wed, 8 May 2002 12:03:06 +0900  Mr.Moto [この発言にコメントする]

あさかぜの姐御 wrote:
>  「働いている」って、「働いて金が稼げる」って意味ですか?

 ソフトウェア開発、なかんずくシステム設計だとかアルゴリズム開発だとかの世界における「仕事」っちゅーのは日本昔ばなしの『三年寝太郎』みたいなもんで、「『仕事』をしている」という風情がほとんど感じられなかったりする。

 世の中には、土木作業や農作業のようなもの“だけ”を「労働」とみなす人間もいる……というか、おれがまだ駆け出しの頃で、某大手企業の系列の職場で働いていたときの上司はほぼ全員そういう連中だった。なんでかというと、当時ソフトウェア産業は成長産業であり、管理職はほぼ全員畑違いの分野から回されてきた人間でコンピュータのことなどまったく分からず、髪が長く不潔で社会不適格寸前みたいな連中が(たかだかコンピュータとかいう訳のわからんものがいじれるというだけの理由で)でかい面をしておるのが腹立たしくてしょうがなかったからだ。で、そういう時代にさんざんいじめられたコンピュータフリークの恨みが、現在のパソコン音痴オヤジいじめの源泉になっているのである。

 そんなわけで、プログラマなどという「額に汗して働く」ことをしない連中はいくら馬鹿にしてもいいし、いくらこき使ってもいいのだ、だいたい連中は“働いて”いないのだから、という時代があった。「士農工商犬プログラマー」とおれたちは言ったものだ。

 バブル景気の時代になると、優秀なプログラマは貴重な金ヅルになった。ただ、あくまで「金ヅル」であって、果実を採取したらあとは枯れるにまかされるだけで、下手すりゃ肥料すら与えられなかった。お百姓さんは牛や馬を大事にしたが、プログラマはそれ未満の扱いだった。「牛馬SE入るべからず」とおれたちは言ったものだ。

 キリスト教(ユダヤ教やイスラム教もそうだが)では、人間は「地上を支配する」権利を神から与えられ、労働し富を生み出すものとしての家畜を与えられた、と考える。そして連中は黒人を「家畜」とみなして奴隷化した。バブル景気の時代には、他人を「家畜」とみなし、自分を神に認められた人間、すなわち「皇帝」とみなす輩が腐るほどわいて出た。彼らにとって「自分の仕事」というのは「刈り取ること」と「消費すること」であり、家畜の仕事は「苦しんで働くこと」と「生みだすこと」だったのである。

 おれたちは「労働を楽しみ、しかも額に汗することのない、可愛げのない家畜」だった。そんなわけで、奴隷としてたんに馬鹿にされ生み出したものを取りあげられるだけでなく、罪人として罰せられたのである。

 「おまえは“働いて”いない」というのは、「おまえは俺の欲望に奉仕するために生きているのだ」と言っているに等しい。そんな餓鬼の言葉に耳を貸す必要はない。

 人間にはそれぞれに奉仕すべき価値があるはずである。

 (Mr.Moto)


Re: lonly girl 12360へのコメント
No.12361  Wed, 8 May 2002 11:49:52 +0900  まろんす [この発言にコメントする]

オレンジケーキ さん
RIEKO さん

>>人と関わるのが苦手です。友人と呼べる人は一人もいません。
私もそんなもんです。
 
>同性異性を問わず大切にするよう心がけています。

 私も昔は異性との出会いもなるべく大切にしていたのですが
異性の中にはそんな私を『恋愛の対象』としてみたり
『俺に気があるんじゃないのか?』とか思われたり
『女の子紹介して』とか言われたりして
困った事が何回か・・・。


Re: lonly girl 12348へのコメント
No.12360  Wed, 8 May 2002 11:22:38 +0900  オレンジケーキ [この発言にコメントする]

RIEKO wrote:
>私、無意識のうちに、(意識的に?)人を傷つけてしまうのです・・・。
>人と関わるのが苦手です。友人と呼べる人は一人もいません。
 
 私も対人関係は苦手です。でも、人を傷つけることはあまりしていないと自分では思ってます。というのは、私自身が非常に傷つきやすいので・・・。
 私の場合は、少なくていいので、信頼できる心の優しい友人が欲しいと思っているので、そういうタイプの人との出会いを、同性異性を問わず大切にするよう心がけています。
 ただ私もAS系(自称なんですけど)なので相手の気持ちが読み取りにくいんですよねー。こちらが「仲良くなりたいな」と思ってフレンドリーに接していっても、相手がなんとなく困惑している、というか引いているような感じを受けるときがたまにあります。以前はそういう時どうしていいか分からず、傷ついた心を隠してフレンドリーさを保ってましたが、(でも笑顔はひきつっている。。)最近はこちらも引くようにしました。「あ、そうか。私って嫌われてたのね。」ってな感じで。うぅ、私って鈍い〜。
 ともあれ・・、まだまだ試行錯誤の毎日です。^_^;


記録すること、電子化すること。 12341へのコメント
No.12359  Wed, 8 May 2002 11:21:45 +0900  Mr.Moto [この発言にコメントする]

 「書くこと」の意味についてはうちのスタッフが何度か書いた。そんなわけで、今回は「書いておくこと」と「電子化しておくこと」の意味について書いておくことにする。

 人間は忘れる動物である。ソフトウェア開発の仕事をしていると、「三日前の自分は他人だ」というのがよくわかる。ところがまったくの他人だったら腹も立つまいが、中途半端に他人なものだからじつに腹が立つ。プログラムを一読してなにやら妙なスタイルで書かれているのを見て、「なんじゃこりゃ」と思って書換えて、実行したとたんにエラーが出て、しばらく考えこんでから「おお、そうか」と気づき、その瞬間に三日前にも同じことをやったことを思い出したりするのである(-_-X)。そんなわけで、電算稼業を三年も続けると、「三日前の自分は他人だ」というのを骨の隋まで思い知り、執拗かつ入念にコメントを書き文書を残すようになるのである。

 とはいえ、「こんなもん書いといたって読みゃあしねーよ」という思いはつねにつきまとっている。しかし、「とりあえず書いておかねば、読むか読まんか分からんではないか」と言っておこう。実際問題として、書いてあるとけっこう読む……というか必要になることが多いことが分かるのである。なぜそれに気づかんかというと、「忘れているから」なのだな(^_^;)。同じことを何度も何度もやっていながら、前に同じことをやったことを忘れている。「そういえば、以前もこんなことが」という感覚を「既視感(デジャ・ヴ)」かと思って統合失調症を疑う前に物忘れを疑ったほうがいい。

 それにもう一つ。自分が必要なことはしばしば他人も必要なのである。そんなわけで他人に質問される。そのときに一度「書く」ことで概念を整理しておくと、説明しやすさが格段に違う。うまく説明できないと「説明がよくわからん。やって見せてくれ」とか言われて仕事を押しつけられたりもするし、顧客にうまく説明できると信頼されるというメリットもあり、「説明のうまさ」というのは鍛えておくにしくはない。
 あるいは、「説明を聞いたが忘れたのでまた教えてくれ」とか「説明を聞いたがよくわからん」とか「説明通りやったがうまくいかない」とかいって煩わされることがある。そういうとき、説明を書いた紙を渡して「あとは自分で考えろ」という手が使える。

 あとは、電子化しておく必然性である。

 まあ、おれの場合すでにして手書きよりもキーボードを打つほうが楽というのがあるのだが、それ以前に「字ヘタなので読めん」という問題がある奴がうちのスタッフにはいる(悪かったな by KILROY)。でまあ、なんといっても電子化しておけば再利用・再加工が楽というのがある。たとえば検索が楽だ。テキストの量が一定以上の量になるとこのメリットというのはかなりのもので、『アスペルガーの館の掲示板』に うちのスタッフが書いた文章だけでもけっこう調べ物の役に立ったりする。

 そんなわけで、

 すかさずメモる(とりあえず記録する)→整理してノートする(記述する。あるいは「書く」)→電子化する→蓄積する→体系化する→発表する→共有する

という一連の流れの一部として、「とりあえず記録しておくこと」「電子化し、蓄積すること」の重要性を強調しておきたい。

 (Mr.Moto)

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