アスペルガーの館の掲示板(旧)
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まろんすさん wrote:
> 普通の人はそれを「別れた」とか言いますよね?
完全に分かれてしまう訳ではないのです。今後も発達障害者の
自主活動などで、協力することはあると思われます。
>> すばらしきかな、人生。
> で、普通の人は落ち込むよね。
わたしはあまりそういう配慮をしたことがなかったんですけど
、多くの場合、恋人のいる人間には周囲の人間は遠慮をして接す
るみたいです。で、今回の恋愛解消によって、ひとまずそういう
配慮をしなくてもよくなりましたよ、ということを告知するのが
今回のコメントの目的だったのです。説明不足ですみません。
こんにちは、はじめて書き込みさせて頂きます。宜しくお願いします。
実は現在20代後半の私の従兄弟のことなのですが、ASではないかと思うのです。
専門家ではないのではっきりとは云えませんが、おこがましいとは思いながら何とか力になれないものかと思っています。
ちなみに私の息子(7歳)はPDDなのですが、言語性IQ<非言語性IQという自閉症児の典型で非常にお喋りですがASではありません(多分)。
その息子と彼が非常によく似ているのです。
彼は普通高校に入学し、留学も経験し、普通に就職もしたそうですが、何故か数ヶ月後に解雇されてしまいました。それから現在に至るわけですが、何年間も毎日ただ自分の部屋で過ごしているようです。ネット環境でもあれば気晴らしにもなるかと思うのですが・・・
彼がASだと思う理由です。
●叔母の話では幼児期はとてもおとなしい子だったとのこと
●学童期には駅の名前を全て暗記していた
●5時に雨戸を閉めることを教えると、夏の明るい時であろうが毎日欠かさず実行した
●「おかあさんいる?」と電話をかけると「いません」と言って電話をきってしまう
●街中で親戚に会っても視界にはいっていないのか無視して通り過ぎてしまう
●高校時代の同級生によると、とにかくかわっていたとのこと
●現在は親戚中の生年月日を記憶している
●子供の声(高い声?)を聞くと耳をふさいで違う場所へ行ってしまう
そして先日祖母の葬式の時、何年ぶりかで彼に会いました。
一所懸命会話をしてくれようとするのですが、とにかくかみ合わないんです。
視線はあわないし、笑いのツボがはずれているんです。
叔母も彼が小さい時に色々な病院を回ったそうです。
でもどこも悪くなかったのよ、と云っています。
こちらは当事者の方がたくさんおられるようなので、失礼かとは思いましたがお知恵がありましたら拝借させてください。
それともそっとしておいてあげる方がよいのでしょうか?
武田好史 wrote:
>ひま人 wrote:
>>>ただ、AS向けの指導の専門家が、本人がいやがることも強制的にやらせるというシステムのなかで指導していくというものが本当は望ましい。普通学級がASに適さないからDルームに移籍するというのも、それが現実逃避になってはならず、ちょうど医療行為というものが、いかに患者に苦痛と負担を与えずに治療成績を上げるかということが重要であるように、AS児への負担をどこまで少なくして、かつどれだけ能力を向上させることができるかというのが、専門家の力量である。つまりポイントは、どうせ通わせるなら、本人の負担と能力向上との比率で比較した場合、そのDルームのほうがましだと判断できるならそちらに通わせるべきであるる。本人にとってどちらに通うほうが楽しいのかということだけを判断材料にするのは無責任である。(いじめられていてやむを得ず不登校にさせるというのなら別
>であるが)
>
>いえDルームに子供をほっぽってしまうことも、かといって強制的に勉強をやらせることも、根本的な解決にはなりません。
> AS児には通常の子供に比べると、何十倍ものやらなくてはならないことがあります。例えば『感情の処理法』『思考力の強化』『ソーシャル・スキルの訓練』・『先駆的な作業指導』など、今日は学校では教わる機会のないものも、その中には含まれています。しかし強制的に覚えさせようとしても、かえって塞ぎこみなど望ましくない結果がでる恐れがあります。
こうした課題に、AS児が興味を示し、自主的に学習するようになるでしょうか?
そのためには、『満遍なく』と『無理なく』という相反する概念の両立が不可欠なのです。AS児の教育、これはもはや専門家のみ・教師のみが個別にやっていては、らちがあかないものなのです。
> 今一番求められているのは、TEACCHに見られるような子供・保護者⇒専門家⇒教師というようなネットワークであろうと思います。私たちは最適なこの活動のオブザーバーであるといえます。なぜなら最も客観的な視点から、事の推移を見ることが可能だからです。既存の教育方法を無理矢理子供に押し付けるのではなく、このネットワークを利用して得られた、様々な知見をもとに建設的な方向へ刷新すれば良いのです。
僕はTEACCHというのがどんなものなのか知りません。これについては言及しません。
関係者のネットワーク云々や、その続きの説明も抽象的でイメージが沸きませんが。
強制的ではない方法で教育できるのなら、それも良いでしょう。本人が退屈さだるさ不快感を感じずに能力が向上できるのなら、これも言うことなしでしょう。
が、、そんなにうまく事が運ぶでしょうか?
ひま人さん wrote:
> 結局教育というものは、医療行為のようなものにすぎないのである。それ自体おもしろくも楽しくもないが、やらないよりかはやったほうがましだから、やむをえず我慢して消化していくものなのである。
欧米では子どもというのは野獣のようなもので、教育し秩序を叩きこむことで文明人となるという考え方が支配的だった。
日本では子どもは人間本来のありかたに近いものだと考える自然主義的な考え方が主流である。
どっちも極端に走るとまずいが、総じて後者のほうが正しい見解のように思う。創造的な人間は(もちろんいい意味でだが)子どもっぽく見える。
> すでに述べたように、学校を子どもにとって楽しめる場所にしようというのは、病院や医療行為を、患者にとって楽しくおもしろく快いものにしようというようなもので、しょせん無理があります。しかしこのことは、AS児が楽しみを見つけたり人生をより楽に過ごし、感動のあるものにしようとすることを否定するものではないでしょう。
毎度毎度同じことばっか言うとって申し訳ないのだが、マズローの「欲求の段階説」つーものがあって、人間は基本的(動物的)欲求が満たされると“よりよく”生きようとするものなのである。子どもなんていうのは放っといてもなんとか生きてゆける程度の智恵はつくのだが、もっと「よい」生き方を求めて学校にやってくるのである。戦禍のカンボジアや飢餓のインドや疫病のアフリカでも、子どもは「学校に行って勉強をする」ことを求めていた。
これに対して昔の親(あるいは苛酷な生活のなかにあった親)は「普通の」生き方で十分、と考えていたので、「××に学問はいらない」とか言って子どもを学校に通わせるより仕事をさせようとした。義務教育はこれを禁じたものである。
「学校に行きたがらない子どもをむりやりにでも学校に通わせる」ための法律はなく、「学校に行きたがる子どもをむりやりにでも学校に通わせないことを禁じる」法律がある。子どもがどっちを欲しているかは明らかである。
> とくに最近、こういった「子どもの好きなようにさせる」とか「子どもの立場を尊重する」といった考えで教育しようとする親御さんが増えているように感じる。だがこれは無責任ではないか。たとえば、すべて子どもの好みに合わせてカリキュラムを組むのなら、毎日毎日来る日も来る日も朝から晩までゲームや遊び、おしゃべりなどをするのがたいていの子どもにとって一番楽しいことになるだろう。それはそれで結構かもしれないが、もしもこうした方針で幼児期から育てていけば、文字も読めず、計算もできず九九も分からず、といった子どもが大量に出現するようになるのではないか。自分で自主的に勉強に取り組む子どもなど、小数の例外を除いているものではない。
これは因果関係が逆だとおれは思っている。教育側が子どものニーズをはき違えているから、子どもは勉強が嫌いになるのだ。子どもは学校に、「学校にあって学校以外にはないもの」を求めてやって来ているのである。ゲームをしたいならゲームセンターに行くのだ。学校はゲームセンターでもなければ遊園地でもない。学校はあえて言うなら「学問のテーマパーク」なのだ。
勉強においてなにがいちばん面白いかというと、それは「わかる」ということなのだ。「とことんわかりやすい」授業は間違いなく面白い。反面、鬱陶しい背景に小煩いキャラクターがちょろちょろするような教育ソフトなんぞは何を考えているかさっぱりわからん。
> これは障害児をもつ親御さんに共通するように感じる。のみならず、障害児本人も、普通学級へ通うことを望むことが多いらしい。友達がたくさん欲しいからでしょうか?
> これは、親御さんにとってみればそういう心情が出てくるのはある程度やむを得ないのではないでしょうか。「あそこのお子さんは、特殊学級へ通っているらしいよ」などと陰口をたたかれるのは、あまり嬉しくはないでしょう。
おれの立場は「英才教育は特殊教育の一種である」だ。オーダーメイドあるいはカスタムメイドの教育が不可能であるならば、どうしたってマスプロダクション的な画一教育にならざるを得ない。これは確かに教育の質の均質化には貢献したが、教育を受ける側の資質にばらつきがある以上、取りこぼしが出るのは当然なのである。そこを補うのが「特殊教育」だ、とおれは考えている。どっちがいいとか悪いとかいったものではあるまい。
じっさい、女子体操選手やバイオリニストというのは、あれはあれで可哀相な気がするので、能力というのはあるにせよないにせよ苦労の多いものだなぁ、と思う。
>> Dルームのような存在は、これから重要になってくるだろうと思われる。人数割りで教師数が決められる特殊学級とは、またちがうのである。「学校へ行ったら、勉強でしょ!」と思っている親御さんには、物足りないかもしれない。が、「教育に特別なニーズを必要とする子どもたち」にとっては、ありがたい場所だと、わたしは思う。
>> 教科学習だけが勉強のすべてだとは、思わないからである。
>↑
> その言い回しは、事実性としては間違っていないが、じっさいにはその背後に現実逃避の心情が紛れ込んではいないだろうか?
↑「とりあえず学校の成績が良ければ」「とりあえず素行が良ければ」とかいって「普通の子ども」像を子どもに押しつけ、その結果子どもの才能を潰してしまう親というのも多分に現実逃避をしていたりするのだ。
たしかマイケル・ファラデーがサロンで電磁気の実験をしてみせたときに、あるご婦人が「それは大変に興味ぶこうございましたが、いったい何の役に立つのですか?」と質問されたそうだ。ファラデーは「歩き始めたばかりの赤ん坊に仕事をさせようとする人間がおりましょうか?」と答えたそうである。
才能なんぞというものは、とりあえず伸ばしてみなけりゃ何の役に立つかはわからんのである。才能に対するニーズが後から追いかけるように出てくる場合もある。おれなんぞもマイクロプロセッサの発明とパーソナルコンピュータの急速な普及というのがあったからまっとうに社会人していられたので、それがなければ社会不適格者だ。
> そのうち、おやつを買ってきてほしいなどと言うようになるのではないか。
綿菓子やカルメラ焼は作ってみると面白いぞ。パンや煎餅なんかも自分で作ってみるといろいろ発見がある。
> ただ、AS向けの指導の専門家が、本人がいやがることも強制的にやらせるというシステムのなかで指導していくというものが本当は望ましい。
ASの人間は他人には無意味に見える作業に没頭し、受容よりも理解が先行し、苦痛に対して鈍感に見えると云われておるらしい。
行為の先にある結果をはっきり理解している人間は、努力を努力と思わん。「強制」に頼る教育は、それ自体反・教育的である。
> もしも本人がやりたくて楽しいと思うことだけを自由にやらせる学校というのがあるとしたら、それは教育機関ではなくてレジャーランドに近い。それでもかまわないと考える親御さんもいるのかもしれないし、それもひとつの立場ではある。しかしそれは同時に、本人の能力学力、現実適応能力、対人能力、社会的能力等の向上の可能性を放棄(あるいは断念)しているに等しいということを肝に命じるべきであろう。
すでに述べたが、おれは教育機関というものを「学問のテーマパーク」だと思っている。で、学問というのは基本的に「一度だけの楽しみ」なのだ。同じことを二度学ぶということはない。そこに発見がないからだ(海馬かなんかが壊れてて記憶障害でもあれば別だが)。そんなわけで、新しいもの、より高度なものを求めるのである。
テーマパークの中で、「順番を守って並ぶ」とかいった対人能力・社会的能力が身につくという部分もある。悪いことではあるまい。
> 論点を整理しましょう。AS児が学校や普通学級がおもしろくないということの背後には、ふたつの問題が潜んでいると解釈するのです。ひとつはすでに述べたように、AS児の能力向上のためには、普通学級のシステムは適していないということ。もうひとつは、AS児が本当に楽しめる時空間が存在しないということ。これは学校教育の問題を超えた問題でしょう。
↑これってAS児特有の問題なのか? 普通学級のシステムというのは健常児にとっての理想的学習環境なのか? そもそも学校は子どもに対して「わかる」という楽しみをきちんと提供しているのか? 「学校に行くより塾に行ったほうが楽しい」という子どもが少なからずいることをどう説明するのか?
> とりあえずここでは、両者を二元化して考えましょう。そもそも子どもは教育されるためだけに生きているわけではありません。いちばん大切な、本人にとって楽しいと感じる場所、状況に、教育的観点を介入させないこと。いわば、ジュースに青汁を混ぜるようなことをしないこと。
> そしてそのようなたいせつな領域は、学校教育とは別の時空間に作るべきでしょう。
「楽しいこと/気持いいこと」=「悪」ではない。ジュースがうまくて青汁がマズいという決めつけだって相当に貧困な発想である。渋茶が好きな子どもやジュースより(砂糖の入っていない)麦茶が好きな子どもは珍しくないし、胡瓜やトマトを丸齧りするのが好きな子どもも大勢いる。畑から抜いた大根を水で洗ってバリバリ食うのもなかなかのもので、小学生が喜んでやっておった。
「わかる神様」「授業の達人」である遠山啓さんのことだから割引いて考えなければならないが、授業のあとで遠山さんが「これは勉強か、遊びか」と子どもに質問したら、「面白かったから遊びだ」と答えたという有名なエピソードがある。「できる」ということは楽しく、「わかる」ということは面白いのだ。
おれは「わかる」ことにこだわりたい。
(Mr.Moto)
まろんす wrote:
>こうもり さんへ
>
>>恋愛関係解消という運び
>>になりました。
> 普通の人はそれを「別れた」とか言いますよね?
私は終わっちゃいました」又は「やっちゃいました」と言うんだけどね。
>> すばらしきかな、人生。
> で、普通の人は落ち込むよね。
私の場合は落ち込むんだけど、落ち込む理由は「やはり私は“普通”になれなかった、“普通”の人ではなかったんだ」と言う理由です。
恋愛したら“普通”の人でいられる発想自体変わっているのだと言われています。
> やはりAS系は感じ方が違うのね。
私も感じ方については他の人とは相当違います。親も「嫁に行け」とは一切言わないんです。
私より先に「娘は相当変わっているから余程の物好きでないと絶対嫁には行けない」と言ってるのだから。
私は究極のエミューだと思っていますから。
こうもり さんへ
>恋愛関係解消という運び
>になりました。
普通の人はそれを「別れた」とか言いますよね?
> すばらしきかな、人生。
で、普通の人は落ち込むよね。
やはりAS系は感じ方が違うのね。
でも、恋愛が終わっても落ちこむよりは
前向きでいいですね。
今日、つきあっていた女性と話し合って、恋愛関係解消という運び
になりました。どちらに非がある訳でもないし、お互い好意を持った
ままなのですが、こういう事ってあるんですね。ふう…
でも短い間だったけど、素敵な経験ができてうれしかったです。そ
の女性に心から感謝したいと思います。
すばらしきかな、人生。
ひま人 wrote:
>>ただ、AS向けの指導の専門家が、本人がいやがることも強制的にやらせるというシステムのなかで指導していくというものが本当は望ましい。普通学級がASに適さないからDルームに移籍するというのも、それが現実逃避になってはならず、ちょうど医療行為というものが、いかに患者に苦痛と負担を与えずに治療成績を上げるかということが重要であるように、AS児への負担をどこまで少なくして、かつどれだけ能力を向上させることができるかというのが、専門家の力量である。つまりポイントは、どうせ通わせるなら、本人の負担と能力向上との比率で比較した場合、そのDルームのほうがましだと判断できるならそちらに通わせるべきであるる。本人にとってどちらに通うほうが楽しいのかということだけを判断材料にするのは無責任である。(いじめられていてやむを得ず不登校にさせるというのなら別
であるが)
いえDルームに子供をほっぽってしまうことも、かといって強制的に勉強をやらせることも、根本的な解決にはなりません。
AS児には通常の子供に比べると、何十倍ものやらなくてはならないことがあります。例えば『感情の処理法』『思考力の強化』『ソーシャル・スキルの訓練』・『先駆的な作業指導』など、今日は学校では教わる機会のないものも、その中には含まれています。しかし強制的に覚えさせようとしても、かえって塞ぎこみなど望ましくない結果がでる恐れがあります。そのためには、『満遍なく』と『無理なく』という相反する概念の両立が不可欠なのです。AS児の教育、これはもはや専門家のみ・教師のみが個別にやっていては、らちがあかないものなのです。
今一番求められているのは、TEACCHに見られるような子供・保護者⇒専門家⇒教師というようなネットワークであろうと思います。私たちは最適なこの活動のオブザーバーであるといえます。なぜなら最も客観的な視点から、事の推移を見ることが可能だからです。既存の教育方法を無理矢理子供に押し付けるのではなく、このネットワークを利用して得られた、様々な知見をもとに建設的な方向へ刷新すれば良いのです。
診断的にはLD,で特に聴覚過敏をもっている学生という立場のものです。
学校での私の話なのですが、今日、感情を「強制」されるという体験をしました。
こんなにはっきりと「ふつう」の概念にあわせることを強制されたのは初めてでした。私に落ち度があったのかもしれませんが、聞いてください。
「そう言われて、うれしいよね?」
と言われたのです。そう言われて、というのは「相手は○○さん(私)のことは嫌ってないと言っていたこと」なのです。
私にとって、相手から好意を受けるということは、ただ好意を受けるという段階でしかないんです。それで「うれしい」という感情につながるわけではないんです。
で、それなのに、「うれしいよね?」と言われて、(厳密に言えばイントネーションによって押し付けになったり、ならなかったりするんだけど、)その押し付けがましい発言によって、「うん」と言うことを余儀なくされたのです。
でも、私にとっては、
相手から好意を受ける、ということと
それでうれしいという感情を持つ、
ということは別のことなのです。
それで、「同じ規範」を押し付けられ、
嬉しいという感情を持ったわけではないのに、
「うん」と言わざるを得ない。
私はその場では「うん」と言わざるを得なかったけど、
本心は「うーん?」という感じ。相手から好意を受けてそれを嬉しいという感情に転化させるにはもう一段階も二段階も必要とするわけです。
でも、自分が本当に思ったことを発言すると、
「それは相手に対して失礼だ。」とか、「その言い方はひどい」となる。
無論、私は相手に対して何か悪い感情を持ったわけではないのに、そのまんまの自分では生きていけないわけです。
で、そのために仮面をかぶる。ふつうらしく振舞う。規範にのっとって振舞う。かなり居心地が悪いけど、そうやって、自分が本当に思っていることは押しつぶして生きて行かなければならない。
こんなに居心地が悪いのは、初めてだった。
外にいて社会に関わっていなければならない時間が多いほど、
必然的に<つくられた、つくられてゆく>、「ふつうの人の姿」「あるべきとされている姿」にあわせる必要が出てくる。
本当の姿を出せば出すほど、「社会の規範(これもつくられたもの、つくられてゆくもの)」からはずれているとされてしまうんですね。
で、何とか生きてゆくためにはスキルとしてみにつけたことでカバーしようとする。でも、本当にそれでいいのか?
私は今日、秘密結社の人たちが気付いているよりも、もっと遅くに自分のことをよくわかったのです。
今の私は、とにかく折り合いをつけて生きてゆくことが必要だということはわかったけど、どこまで折り合いをつけて行くのか、問題です。
本当の自分で生きてゆくことの難しさ。
そして、他の人はふつうに学習している、でも私は何気ない行動を学習してゆく必要があるということが見えてきたのです。どのくらいまで深く、スキルを学習してゆくことになるんだろう。
LDと診断されて、6,7年経つけど、それでわかってきたことって思ってたより少ない。他者に言語化してもらう、っていうのが必要になってくる。そうしてもらわないと、私の場合そのまんまで生きて来て、これからあいさつのスキルを学習しようとしているもんだから。
長々と書いて、結局まとまりがつかなくなってしまってすみません。
皆さんの意見を拝聴したいです。
遅れたレスですみません。こうもりです。
yamoriさん wrote:
>ひょっとしたら、当サイトは「存在意義ゼロ」かもしれません。
>立ち上げ時から今日にいたるまで、私は当サイトの「存在意義」に
>ついてはずーっと悩んできました。
>(本当は何らかの専門家に助言を得たいと心底思っています)
一介の発達障害者の発言ですが、家族,パートナー,友人など、
ADHD本人の周りに障害を理解しようとしている人がいることは
けっこう大きな意義があるのです。
現在、普通学級に通う発達障害児の支援では本人の療育や治療だ
けではなく、環境調整が大きなウエイトを占めています。例えば社
会性に困難があって、いじめを受けている発達障害児がいたとしま
す。この場合、いじめを受けている障害児の社会性の獲得を支援す
ることは確かに必要かもしれませんが、いじめが続いていれば発達
がゆがめられる危険性は大いにあります。この場合、カウンセラー
などが学校に行って、学校関係者と会って協力者を探したり、配慮
を求めるのがここで言う環境調整です。
また、発達障害児の家族の中に発達障害を認めない人がいて誤ま
った対応が行なわれそうな場合、カウンセラーがその家族と会って
障害の説明や説得を行なうことがありますが、これも環境調整の一
種です。
なぜこのような話をしたかと言うと、環境調整というのは障害者
本人の周囲に障害を理解しようとしている人がいる場合、環境調整
は極めてスムーズに行なうことができるからです。ADHDパート
ナーのスペースに来ている人たちはひとまずパートナーがADHD
であることを認めることができている訳ですから、環境調整への協
力が極めてしやすい立場にいると思われます。
では、環境調整はどのようにして行なえばいいかと言うと、AD
HD本人とパートナーで話し合って解決できることならば、当事者
同士で話し合うのが1番です。しかし、それがうまくいかない場合
はADHD本人とパートナーが一緒にカウンセリングを受けて、カ
ウンセラーのアドバイスを受けながら環境調整を行なっていくとい
う方法をとります。(ADHDのことを視野に入れた家族療法の専
門家がいてくれると1番いいのですが)この時注意しなければなら
ないのは、パートナーがADHD本人に一方的に配慮をするような
環境調整を行なうのではなく、逆にADHD本人が周囲に配慮すべ
き点も話し合っておくことが重要です。パートナーの負担が重くな
らないようにする配慮であると共に、ADHD本人の自尊心を傷つ
けないための配慮でもあります。かつてえじそんくらぶの代表の方
が言っておられた「完璧にサポートされている障害者は逆に自己評
価が下がってしまう」という言葉はどこまでも真実だと思っていま
す。
私見ではADHD本人が薬物治療などをしながら、自分の力だけ
で困難を克服していくというやり方にはどこか無理があるように感
じます。成人のADHDや発達障害者においても、環境調整の視点
が取り入れられることを願わずにはいられません。
以上、役に立たないかもしれないし、既に実践されている人もい
るかもしれませんが、コメントをしておきました。では
あさかぜ wrote:
(中略)
> 「あたし、なんだか学校へ行くのが楽しくなっちゃった」と言って、娘は毎日登校するようになった……。なにやら絶好調。
> なんだなんだ、いったい何が起こったんだ? どういう風の吹き回しだ? と思ってしまうわたしは、絶不調……。
> 「お弁当作って持っていく」と言い、今朝なんぞは二人で卵焼きを焼いた。9才小4である。給食もあるのだから、ご飯と卵焼きしか入れなかったが……本当にいいのか? 学校でおそるおそる先生にお伺いを立てようと思ったが、講堂へ行っていて留守だった。
> 「あたし、講堂へ行ってみるね」ときた。へ? あれほど大人数のいる場所を嫌っていた娘が……どうなってしまったのだ〜???
>
> わからん。わからんが、うれしい。……と思う。たぶん。
> 前置きはそのくらいにして……。
> 学校適応とか、集団適応とかに心をくだいている親御さん方も多いと思う。アスペっ子は環境によっても変化するからだ。できれば養護学校ではなく地元の小学校へ、できれば特殊学級ではなく普通学級へ……と考える親御さんも多いのだろう。
これは障害児をもつ親御さんに共通するように感じる。のみならず、障害児本人も、普通学級へ通うことを望むことが多いらしい。友達がたくさん欲しいからでしょうか?
これは、親御さんにとってみればそういう心情が出てくるのはある程度やむを得ないのではないでしょうか。「あそこのお子さんは、特殊学級へ通っているらしいよ」などと陰口をたたかれるのは、あまり嬉しくはないでしょう。
> しかしね、今あるシステムに子どもを合わせようとして、努力しすぎていないだろうか? 現実に身近にそういう人がいるので、ちょいと心配してしまうのだ、わたしは。なんてったってアスペっ子は我らの小さき仲間、これからの世界を背負っていく世代なんだから。余分な負担をかけて壊したくないんだよ。
> 娘の例が一般化できるとは思わないが、ひとつの実例として「この手もある」と思っていただければ、幸いだ。
>
> 娘はDルーム(仮称)に行っている。原級(普通学級)でもなく、特殊学級(情緒障害児学級)でもなく、保健室でもない。そういうものが存在している学校があるのだ。専任の先生もいる。ありがたいことに、前年度から引き続き同じ先生だ。優しくて面倒見のいい、おかあさんみたいな感じの人である。
これは初耳だ。
> Dルームのような存在は、これから重要になってくるだろうと思われる。人数割りで教師数が決められる特殊学級とは、またちがうのである。「学校へ行ったら、勉強でしょ!」と思っている親御さんには、物足りないかもしれない。が、「教育に特別なニーズを必要とする子どもたち」にとっては、ありがたい場所だと、わたしは思う。
教科学習だけが勉強のすべてだとは、思わないからである。
↑
その言い回しは、事実性としては間違っていないが、じっさいにはその背後に現実逃避の心情が紛れ込んではいないだろうか?
> ちなみに娘は、Dルームをお化け屋敷にするのだそうで、なにやらお化け作りにいそしんでいる。合間に折り紙をしたり、ビーズ工作をしたり、体育館が空いていれば跳び箱やフラフープをしたりもする。天気がよければ、校外へ散歩にも行く。それらのすべてを、時間の制約をあまり受けずに、ほぼ自由に行うことができるのである。
これはいわゆる「フリースクール」などというものに近いように感じるが・・・
> 先日は教頭先生がやってきて、Dルームの予算がとってあるので、生徒が希望する本(マンガでも可)を買ってもいい、と話していたのを目撃してしまった。
そのうち、おやつを買ってきてほしいなどと言うようになるのではないか。
(中略)
> わたしは運がよかっただけかもしれない。けれど、これからアスペっ子の学校教育をどうするかと悩んでおられる方は、県の教育委員会に問い合わせて、Dルーム(呼び方はさまざまだと思う)のような存在があるかないかを、探ってみるのもいいかもしれないと思うのだ。
> Dルームが存在していて、有効に利用できているわたしなどは、存続を願って校長に相談に行ったりもする。就学を控えた自閉症児のお母さん方も、一緒である。あとに続く人々が、どんどん増えているのだ。
> 選択肢は多いほうがありがたい。既存のシステムに子どもを押し込んで、裏問題児にしてしまったらつまらない。学校に適応している(ように見える)からといって、本当にその子のためになっているとは限らないと思う。
> 親の自助努力も必要である。安心して子どもをまかせておけるだけの配慮を、すべての学校がしてくれるとは思えない。が、けんか腰ではなく、学校に働きかけることも大切なのである。自分から声を上げて、地道に働きかけていくしかないと思う。批判ばかりしていたって、ちっとも良くはならないのだ。
なるほど、一見いかにもおめでたい話ではあるが、腑に落ちない点がある。
とくに最近、こういった「子どもの好きなようにさせる」とか「子どもの立場を尊重する」といった考えで教育しようとする親御さんが増えているように感じる。たがこれは無責任ではないか。たとえば、すべて子どもの好みに合わせてカリキュラムを組むのなら、毎日毎日来る日も来る日も朝から晩までゲームや遊び、おしゃべりなどをするのがたいていの子どもにとって一番楽しいことになるだろう。それはそれで結構かもしれないが、もしもこうした方針で幼児期から育てていけば、文字も読めず、計算もできず九九も分からず、といった子どもが大量に出現するようになるのではないか。自分で自主的に勉強に取り組む子どもなど、小数の例外を除いているものではない。
結局教育というものは、医療行為のようなものにすぎないのである。それ自体おもしろくも楽しくもないが、やらないよりかはやったほうがましだから、やむをえず我慢して消化していくものなのである。
前にも書いたように、大人数に放り込めば社会性が身につくとは思えない。だからDルームなるものに通わせること自体は間違ってはいないと思う。それに、普通学級至上主義的感覚に金縛りになっている親御さんよりも、おおらかに突き放した視点で眺めているというところも好感が持てる。そのうえ、ASの指導の専門家がほとんどいない現状では、ある程度放任主義的なものになるのもやむを得ないかもしれない。
ただ、AS向けの指導の専門家が、本人がいやがることも強制的にやらせるというシステムのなかで指導していくというものが本当は望ましい。普通学級がASに適さないからDルームに移籍するというのも、それが現実逃避になってはならず、ちょうど医療行為というものが、いかに患者に苦痛と負担を与えずに治療成績を上げるかということが重要であるように、AS児への負担をどこまで少なくして、かつどれだけ能力を向上させることができるかというのが、専門家の力量である。つまりポイントは、どうせ通わせるなら、本人の負担と能力向上との比率で比較した場合、そのDルームのほうがましだと判断できるならそちらに通わせるべきであるる。本人にとってどちらに通うほうが楽しいのかということだけを判断材料にするのは無責任である。(いじめられていてやむを得ず不登校にさせるというのなら別であるが)
もしも本人がやりたくて楽しいと思うことだけを自由にやらせる学校というのがあるとしたら、それは教育機関ではなくてレジャーランドに近い。それでもかまわないと考える親御さんもいるのかもしれないし、それもひとつの立場ではある。しかしそれは同時に、本人の能力学力、現実適応能力、対人能力、社会的能力等の向上の可能性を放棄(あるいは断念)しているに等しいということを肝に命じるべきであろう。
> ここまで読んでくれた方、ありがとう。お目汚しの文章だったと思うが、ひとりでもふたりでも、行動に結びつく勇気を持つようになってもらえたら、と思う。
いつもながら、生意気でしかも水をさすようなことばかり書いて恐縮している。
(最後に・・・)
この文章を読んで、「せっかく娘が学校に行くのが楽しみになって、お化け屋敷作りに夢中になっているのに、本人の楽しみや喜びを否定するような事を書くとは、なんといじわるで非情で冷たい人間なのだろう」と感じたかもしれません。
論点を整理しましょう。AS児が学校や普通学級がおもしろくないということの背後には、ふたつの問題が潜んでいると解釈するのです。ひとつはすでに述べたように、AS児の能力向上のためには、普通学級のシステムは適していないということ。もうひとつは、AS児が本当に楽しめる時空間が存在しないということ。これは学校教育の問題を超えた問題でしょう。
すでに述べたように、学校を子どもにとって楽しめる場所にしようというのは、病院や医療行為を、患者にとって楽しくおもしろく快いものにしようというようなもので、しょせん無理があります。しかしこのことは、AS児が楽しみを見つけたり人生をより楽に過ごし、感動のあるものにしようとすることを否定するものではないでしょう。
とりあえずここでは、両者を二元化して考えましょう。そもそも子どもは教育されるためだけに生きているわけではありません。いちばん大切な、本人にとって楽しいと感じる場所、状況に、教育的観点を介入させないこと。いわば、ジュースに青汁を混ぜるようなことをしないこと。
そしてそのようなたいせつな領域は、学校教育とは別の時空間に作るべきでしょう。
(終)
僕の手に
君の息
小さな世界の
小さな風
白い雪の中に
赤い唇
白い息
赤い指先
声のない
息遣いと
瞳に映る息
乾いた空に
溶けて行っても
忘れない
Mariaさーん、ありがとー!
Mariaさん wrote:
> そんなわけで、“物価の優等生”でもある玉子に敬意をこめて、「玉子焼き」と書いてあげてください。
はーい。
というわけで、訂正します。 卵焼き→玉子焼き よろしくお願いしまーす。
久しぶりに長い文(どこが〜?)を書いたけど、頭は痛くならなかった。肩は凝ったが……あいかわらずキーボード入力に慣れてないから、しゃーないな。
実はおととい、「このまま文章が書けなくなってしまうのでは?」という恐怖に襲われて、リハビリじゃー!!と吠えながら、昨日は書いてみたのでした。
Dルームみたいな存在って、“クラスからはみ出した子が行くところでしょ”くらいに思っている親御さんが、ほとんどだろうな……。“今そこにあるものは変えられない”って、なんで思い込むのかな? 子どもを変えようとするより、環境に配慮を加えたほうがいいじゃん。
ま、考え方は人それぞれなんで、わたしは自分にできることしかしないけど。精神保健福祉センターの先生に、Dルームも見てもらおうと企んでいるのだった。6月には実現できるだろう。ふふふ。
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