アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
Mr.Motoさん wrote:
>ひま人さん wrote:
> 塾は税金で運営されているわけではない。コスト/パフォーマンスを考えれば、学校はもうちょい努力をするべきなんじゃないんだろうか。
そう思います。
> 現在、学問として体系化されたものは、「役に立つ以前に面白かったのだ」とおれは考えている。人間は功利によるよりも興味によって動くものだとおれは考えている。
私も、そうであろうと考えていますが。どうも、「功利そのもの」を興味の対象として、追及していく人たちがいて、じゃあ、その場合の「功利」というのが何であるのか(?)というなら、それは周りからの具体的な有形無形の評価だったりする。
(つまり、『名声(注目度)』『昇進(支配欲)』『お金(数字として読み取れる)』を、よりたくさん、得られる事かな?)
本当は、社会システムのひとつである「教育の効率性」を、追求して欲しいんですけどね。
あさかぜさん、すごいですね、エネルギッシュ。ちゃんと、そういう動きをしておられる人たちがいる事は、とても、心強いです。Dルームと言う入れ物を、機能させるのは、結局は「人間」。エネルギーぎれにならないように、上手に、長く続けて、繋げていってくださいね。
(何もできない、タレイヌ)
こんにちは。突然ですが、
私は、脳みそに興味があるのです。
そして、日々、肩凝り解消し、自由で楽しい生活を送ることを夢みている
しょうもない人間かもしれません。
先日、スパスパ人間学で、催眠術の特集をしていました。
あいにく、見逃してしまったので、HPからの情報しか得ることは
できませんでしたが、、、
ふと、思い出しました。
私は、催眠術のCDを持っているのです。
数ヶ月前に、1度聞いたきりのもので、少しのうさんくささを感じたので、
そのままになっていたのですが、また聞いてみることにしました。
今回は、真面目に、、、
それが、おもしろいのです。
起きているけれども、眠っている体といえば、的確なのでしょうか。
術師の言葉通りに、背中が引っ張られる、、顔が笑ったり、、
うそ発見器にかけられるよりも、正直になる。
ナニ、笑ってんの? って感じ。
絶対、誰にも見られたくない。
うちの猫ちゃんなら、見てもいいケド。。。
ハイ。結論。
・・・・・・・・・驚くべき、リラクゼーション。
私の推測。
・・・・・・・・・もんでも、さしても、また固なる。
ありがちな対処法。
・・・・・・・・・運動したら?、、1日6時間以上、1年以上、運動経験アリ、
ハイ。ムリだった。
なんと、肩凝りの隠された原因は、脳みそにあったのだ!!(あくまで推測)
それは、催眠CDを聞いた後の私の肩が証明している。
スパスパによると、体内血流が良くなると書いてあったが、
それだけでは、ないように思ってしまう。
体内血流が良くなる、所謂新陳代謝が良くなることで、肩凝り直るのならば、
サウナに入れば、直ることになる。
どうも、肩凝り脳みそというのが存在していて、脳のどっかに血が通ってなくて、
肩が凝るとしか思えない。
左利きなのに、右ばかり使っていたら使えなくなった。
これは、退化というのか?
聞いた直後、頭痛に苦しめられた。
これは、退化した脳みそが動いているのか?ならば、もっと動くのだ。
私は、訓練と感じた。
その訓練が、肩を柔らかくするのだ。
ダイコンかじらされる訳でもなければ、サルにされる訳でもない。
自己流だから、いいのだ。。。安心。
追伸
興味を持たれた方、紀伊国屋書店に置いてあります。
分からなければ、川上たけしさんの、癒し催眠でお問い合わせをどうぞ。
(注)実験データは、対象者1人となっています。
・・・あくまでも参考です。 ちゃんちゃん
「くるう」というと、この国の人は「罪人」「ばか者」「変質者」ということをどうしてもかんがえてしまうようだが、これは実にしんがいな話だ。東京の山間部にあるとある精神病院に通ずる道路には、「変質者に注意!」などという看板があったりする。病院を脱走した患者さんが、危害を加えないだろうかという地元民の懸念の現われと思える。
「くるうこと」の本質は、自分が信じている世界が揺らいで、恐ろしい・助けて欲しい・苦境を理解して欲しいということではないだろうか?
しかしながら多くの人は、彼らのたどたどしいうめきや果てしなく続く孤独、そして楽しさを共有できないもどかしさに無頓着であり、「ろくでなし!」「でくのぼう!」「ごくつぶし!」といって、世の中の片隅へほっぽって助けようとしない。
僕は何を隠そう今、精神科のディケアに通っている。通ってくる人は分裂病者が多い。みんな親切な人たちだ。今日は公園でのバザーがあったが、ハイパーレキシアで、自動車部品の組み立ての仕事中も本を読んでいて指導員さんに注意されたrさんが、子供たちにおもちゃを売る名店員さんぶりを発揮した。jさんは、ディケアの場となっている民家の周りの掃除の合間に、通りすがりおばあさんとそれはそれは楽しそうにおしゃべりしていた。E氏は調理師になる夢を病気のためにあきらめたようであるが、私たちにとってもおいしいうどんを食べさせてくれた。
この前指導員のLさんから、「『幻視』って見たことある?」と聞かれた。Lさんは幼い時、高い熱を出した際に、自分の上にある神棚が崩れてくるという幻視を見たのだと教えてくれた。Lさんの話では、幻視というのは意識が低下すれば誰にでも起こりうる現象であり、なんであるかを容易に語れるものではないということだ。何かわからないけど、とにかく何か恐ろしいものが見える、それでおびえるというものらしい。ディケアへ通ってくる人の中にも、何かにおのいのいて、色をなくしたり・がたがたと震えたり、空笑いということが見られたが、もしかしたらそんなときに幻視というものを見ているのかもしれない。
思うに「くるう」というのは、一瞬の現象であって、その人の全てを表すものではないのではなかろうか?「くるう」ということにこだわりすぎると、その人のすばらしい長所を見落としてしまうのではないだろうか?
こんばんわです、シンタロウくん。
シンタロウ( ~w~)くん wrote:
> 僕が考えるには、自分の特異性を認めたくない(自分は普通だと
>思い込んでる)ADHDはジャイアン症候群ではないかと思うかも
>しれません(これはあくまでも僕の独断と偏見ですけど、もし間違
>ってたらすみませんm(__)m)そうゆう人が自分より自閉性が強
>く、社会性が劣ってるAタイプの人を虐めたりしているのでしょう。
>それが、こうもりさんが言っている嗜虐性があって病的な自称「健
>常者」の正体ではないかと思います。(これも僕の独断と偏見です
>けど、もし間違ってたらすみませんm(__)m)
話をADHDに限定してしまうことはできないのですが、自分の障害
を認められない障害者がいじめに走ってしまうケースは多いように思わ
れます。わたしが小学生だった頃、いじめられた事もあったし、いじめ
に加担してしまったことがあったことは以前にも話した通りです。とこ
ろが、今から考えると、わたしをいじめたいじめっ子というのは、わた
したちとは全く異質な人間だったのではなく、むしろわたしに近い存在
だったように思えるのです。彼らは診断されていないのではっきりした
ことは分からないのですが、極端な学習不振に陥っている者,他の同級
生の保護者たちが自分の子に「あの子とは関わってはいけません」と言
っているような鼻つまみ者の生徒が多かったと記憶しています。そして
、いじめっ子としてのわたしも極度な学習不振に陥り、他の生徒の保護
者から「なんであいつ(=こうもり)をうちの子供と一緒のクラスにす
るんだ」とか「あいつは障害児学級に入れるべきだ」と言われるような
生徒でした。
そういう意味で、大人でも自分自身が発達障害者であるのに、それを
認めることができなくて、他の発達障害児を徹底的にいたぶるようなタ
イプの人というのはけっこういるのではないか、と思っています。
ひま人さん wrote:
>> 「学校に行きたがらない子どもをむりやりにでも学校に通わせる」ための法律はなく、「学校に行きたがる子どもをむりやりにでも学校に通わせないことを禁じる」法律がある。子どもがどっちを欲しているかは明らかである。
> それは個人個人の子どもによってさまざまでしょう。
ひま人さんは「制度としての学校」と、「“学校”に代表される子どもの知的欲求を満たす場」をごっちゃにしておられる。確かに「学校よりも塾がいい」とか「学校よりもフリースクールがいい」とかいった子どももいるし、「おれは将来熊撃ち猟師になるのだから、山にいるのがいちばんいい」という子どもだっているかもしれん。だが、こういう子どもは「知的欲求がない」から「学校に行きたがらない」わけではあるまい。
子どもの「知りたい」あるいは「(自分が理想とする人間に)なりたい」という知的好奇心や達成欲求は恐るべきものであり、それが欠落した子どもというのはすでにしておれの「子ども」のイメージの外にある。
そんなわけで、「“わかる”ことが嫌いな子どもはいない」というのは教育の大前提であるとおれは思う。
>> これは因果関係が逆だとおれは思っている。教育側が子どものニーズをはき違えているから、子どもは勉強が嫌いになるのだ。
>
> なるほど、としたら、どのような教材を使ってどう指導すれば子どもが勉強に興味をもつようになるのか提案されてはいかがでしょうか。先生たちから感謝されるでしょう。
今から四十年ほど前に遠山啓さんという人が「水道方式」という算数指導のメソッド(べつに国語だろうが理科だろうが応用可能なのだが)を引っさげて登場し、その水道方式に基づいて作られた教科書(『わかるさんすう』)は現場教師に諸手を挙げて歓迎されたのだが、教科書会社と文教族議員によって検定で潰され採択で潰されてとうとう姿を消し、現在では検定を受けない教科書(『みんなのさんすう』)として細々と出版されている。
当時、地域ごとの採択数が一定数を超えなければ採択そのものが行なえない、という制度ができて、「採択数が少数の教科書の排除」が狙い撃ち的に行なわれた。それでも水道方式に基づいた授業をやる教師は少なからずいたのだが、教科書会社からの圧力を受けた学校側に潰された。
ついでながら、義務教育の質は一定でなければならない、といった「信仰」というか「慣例」というかそういうものがあり、コンピュータを導入するにしても全国一斉横ならびでないといけないことになっている。だから、生徒一人一人にコンピュータを使わせてプログラム学習とかさせようと思っても、そういうことは私立の小学校の、それも正規の授業の外でないとできない。
そんなわけで、おれはコンピュータを使ったプログラム学習で算数の教育効率を五倍に上げることを考えている。そうすると、授業の三分の一をサボって家で勉強すれば、算数の授業の時間にずっと内職をしていても(あるいは寝ていても)まっとうな成績で卒業できる。
> そうです。そして授業を「いかにわかりやすく」するかで、教育関係者はみな悩んでいるのではないでしょうか。
おれも「せめてそうあってほしい」と思っているのだが、現実はそうではないらしい。「階級闘争の場」だと思っておるらしい新左翼系教師とかも多いそうだ。
> 学校の成績が良くてもどうしようもない子どももいる。が同時に、学校の成績が悪くてどうしようもない子どももいますが。
「学校の成績が悪いから、どうしようもないのだ」という目で見られるからぐれる子どももいる。同時に、学校の成績が良かったからぐれずに済んだおれのような子どももいる。
> 特有かどうかはともかく、通常学級が完全に適するとは思えませんが(これはいろんなケースがあるのでしょうが)
遠山先生は、「健常児では問題として浮かびあがってきにくいような問題が、障害児には如実に現れてくる。その意味で、障害児はリトマス試験紙のような役割を果たしている」と言っていた。「リトマス試験紙」というたとえはあまり適切とは思えないが、発達障害児が「炭坑のカナリア」の役目を果たしうることは確かなように思う。
>> そもそも学校は子どもに対して「わかる」という楽しみをきちんと提供しているのか? 「学校に行くより塾に行ったほうが楽しい」という子どもが少なからずいることをどう説明するのか?
>
> いろいろあるでしょうが、塾のほうがたいてい少人数制で、学力別の指導がやりやすいということもあるのではないでしょうか。
塾は税金で運営されているわけではない。コスト/パフォーマンスを考えれば、学校はもうちょい努力をするべきなんじゃないんだろうか。
>> 「楽しいこと/気持いいこと」=「悪」ではない。
> それは誤解ですよ。「楽しいこと=悪」などということを書いたつもりはありません。
> この場合は、ASのスペシャルインターレストやこだわり世界を、たんにそれが教育的視点からのみ評定され、これを能力や社会性を伸ばすための材料として利用しようなどと誰かが考えて、本来の楽しみやくつろぎ、カタルシスといったものが壊されることがないようにという意味です。
> ただですねえ、楽しいことばかりしているわけにはいかないでしょう。例えば体力や筋力を強化しようと思えば、腹筋・腕立て伏せ・スクワット・マラソンといったトレーニングをしなければならないように、
> だから楽しんだり遊んだりすること自体はいっこうにかまいませんが、それだけだとつけが回ってくるでしょう。
ソフトウェアの世界では、整列(ソート)・検索(サーチ)・併合(マージ)は腹筋・腕立て伏せ・スクワットに相当すると云われており、確かに嫌われておるのだが、おれには面白くてしょうがなかった。ついでに言うと、腹筋はともかく腕立て伏せとスクワットに関しては中学・高校時代には熱中したもんだ。
>> ジュースがうまくて青汁がマズいという決めつけだって相当に貧困な発想である。渋茶が好きな子どもやジュースより(砂糖の入っていない)麦茶が好きな子どもは珍しくないし、胡瓜やトマトを丸齧りするのが好きな子どもも大勢いる。畑から抜いた大根を水で洗ってバリバリ食うのもなかなかのもので、小学生が喜んでやっておった。
> それはもののたとえですよ。
> そういう人もいるでしょう。たとえばケーキよりも納豆のほうが好きとかいうひとが、、ただそれは変わり者に近いのではないでしょうか(変人が悪いとか劣るという意味ではありません)
確かに麻薬のように身体に悪いモノが心地よいケースは多々あるが、基本的に身体にいいモノは心地よいという経験則がある。納豆なんていうものも、それが食品として定着したということは、なにがしか人間の感性に訴えるものがあったということで、最初っから「これは身体にいいのだ」と思って喰っていたわけではあるまい。
現在、学問として体系化されたものは、「役に立つ以前に面白かったのだ」とおれは考えている。人間は功利によるよりも興味によって動くものだとおれは考えている。
> 最初は熱心に取り組んでいても、なかなか効果が現われないと次第に面倒になってきてしまいには嫌になってくるのが普通ではないでしょうか(これは健常児障害児大人子ども関係なく)
> ここから先は、嫌気がさしてやめてしまうか、辛抱強く訓練を続けるかに分かれてしまいますが、かりにがまんして続けていくにしても、それは生理的に欲しないことを、意識的に(強制的に、鞭打って)自分にやらせるということでしょう(おおげさに言うなら、自分で自分の体に注射をしなければならなくなった糖尿病患者のようなものではないか)。これはつまり、親とか教師といった外部の人間ではなく、自分自身が自分に対する執行官になったということで、いやなことを強制することでは変わりないでしょう。
> さっきの体力強化の例で言えば、たとえば頭を適度に使うのはリラックスしていいことだといったような言い方ができるでしょうが、さらに高度なレベルを目指すのなら、よほど頭脳が優秀な人はともかく、かなりの猛勉強をしないといけないでしょう。そうすると、最初は興味があっておもしろかったものがだんだんと・・・・
> 運動も適度にやるのは、心地よいでしょうが、体力強化のトレーニングになるとどうでしょうか?(僕は腹筋やスクワット・マラソンなどは楽しいと思いませんが)
> それは教材や指導方法がまずいからというなら、楽しく適応能力が向上する教育法というものを提案してほしいものです。
宇宙飛行士のように、人類にとってまったく未知の分野に挑戦するならともかく、学問を含めて文化・文明というのは「そこに人間を駆りたてるモチベーション」があったからこそ文化・文明として(少なくともある程度以上は)存続しているのである。たかだか義務教育レベルの話に、「人間の生理では捉えられないような高度な目的意識がなければ達成不可能なほど高度の純粋精神的努力を要するもの」が含まれているようにはおれには思えん。
はっきり言っていまの学校の教師どもは自分が「勉強」が嫌いなくせに生徒に「勉強」を教えて(あるいは押しつけて)いるのだ。おれは学問が面白いし、その面白さを伝えるのに学校という制度は制約が多すぎる。
おれはキャンプリーダー講習だのなんだのを通じてガキどもとつきあってきたが、その延長で現在の学習指導要領の内容をこなすことに困難を感じない。しかしながら、そのやりかたについて言えば、学習指導要領では規定していない、指導法のレベルで対立がある。とはいえ現場の教師の自由裁量に任せてしまうと、連中は何を教えるか分かったものではないのは広島市だとか国立市だとかの事例を見ればよくわかる。
子どもは大人のオモチャではない。子どもの「わかる」に素直に応える教育をちゃんとやれ、と言いたい。
(Mr.Moto)
武田好史 wrote:
> それともう一つ注意しなければならないのは、「『自閉症』と言う障害を彼自身または親御さんがどのように捉えるのか」ということです。もし彼・あるいは親御さんがが現在深刻なうつ状態であるなら、「そうじゃないかしら」といってしまうことは、ひょっとすると著しいストレスを与えて自殺や無理心中などの深刻な結果を招く可能性もありますので、控えるべきです。
・・・(言葉を失うまるる)
私の母にも「余計なことはするな」と止められているんですよね。
でも何とか様子をみながらコンタクトとれるよう努めてみたいと思います。
武田さん、本当にどうもありがとうございました。
シンタロウ( ~w~) wrote:
>こうもり wrote:
> 僕はずっと前、2ちゃんねるを見てて、「ADHDは健常者だ」というカキコを見つけた事があります。カキコした当人はADHDなのか健常者なのかわからないけど、もし書いた当人が本物のADHDだとしたら、きっと自分の特異性を認めたくないのだろうと思いました。
> 僕が考えるには、自分の特異性を認めたくない(自分は普通だと思い込んでる)ADHDはジャイアン症候群ではないかと思うかもしれません(これはあくまでも僕の独断と偏見ですけど、もし間違ってたらすみませんm(__)m)そうゆう人が自分より自閉性が強く、社会性が劣ってるAタイプの人を虐めたりしているのでしょう。それが、こうもりさんが言っている嗜虐性があって病的な自称「健常者」の正体ではないかと思います。(これも僕の独断と偏見ですけど、もし間違ってたらすみませんm(__)m)
まあこういうケースは、案外多いのではないでしょうか。
私自身前のハンドルネームでは、ときにはかなりの酷評をしましたから、それがきっかけで病状を悪化させてしまった人がいないか、とても気がかりなのですが…
アスペン wrote:
>改名披露後、初めての質問です。
>
>あなたが思うところ、軽度発達障害(AS・LD・AD{H}D)者が、生活しやすい環境とは、どんなものですか?
>またそれを実現させるためには、どのように我々は世の中に働きかけていけば良いと思いますか??
こうもり wrote:
>(2)健常者はわたしたちを人間として扱っていない
>
> 健常者が自閉人と敵対するためにはASなどの自閉スペクトルの存在を
>名前だけでも知っているという前提が不可欠です。しかし、多くの健常者
>は自閉スペクトルの存在を知らないのですから、自閉人と敵対することは
>できないのです。(ただし無関心層が多いというのはそれはそれで問題の
>原因になりやすい)ついでに言えば、自閉スペクトルの存在を知っていて、
>なおかつ自閉人を人間として扱っていない人がいたとすれば、その人が本
>当に「健常者」であるのかどうかはすごく疑問です。むしろ嗜虐性があっ
>て病的な自称「健常者」と考えた方がよくはないでしょうか?
>
僕はずっと前、2ちゃんねるを見てて、「ADHDは健常者だ」というカキコを見つけた事があります。カキコした当人はADHDなのか健常者なのかわからないけど、もし書いた当人が本物のADHDだとしたら、きっと自分の特異性を認めたくないのだろうと思いました。
僕が考えるには、自分の特異性を認めたくない(自分は普通だと思い込んでる)ADHDはジャイアン症候群ではないかと思うかもしれません(これはあくまでも僕の独断と偏見ですけど、もし間違ってたらすみませんm(__)m)そうゆう人が自分より自閉性が強く、社会性が劣ってるAタイプの人を虐めたりしているのでしょう。それが、こうもりさんが言っている嗜虐性があって病的な自称「健常者」の正体ではないかと思います。(これも僕の独断と偏見ですけど、もし間違ってたらすみませんm(__)m)
以前からで投稿させてもらっているものですが、「プライバシー侵害」の防止のため今宵より、このページでは『アスペン』と名のることにします。
「アスペン」は、またの名を「ヨーロッパ・ヤマナラシ」という植物で、パッチのフラワー療法では、「強い恐怖感に効果がある」と説いています。
今後ともよろしく(^。^)!
ひま人 wrote:>
>ここから先は、嫌気がさしてやめてしまうか、辛抱強く訓練を続けるかに分かれてしまいますが、かりにがまんして続けていくにしても、それは生理的に欲しないことを、意識的に(強制的に、鞭打って)自分にやらせるということでしょう(おおげさに言うなら、自分で自分の体に注射をしなければならなくなった糖尿病患者のようなものではないか)。これはつまり、親とか教師といった外部の人間ではなく、自分自身が自分に対する執行官になったということで、いやなことを強制することでは変わりないでしょう。
>さっきの体力強化の例で言えば、たとえば頭を適度に使うのはリラックスしていいことだといったような言い方ができるでしょうが、さらに高度なレベルを目指すのなら、よほど頭脳が優秀な人はともかく、かなりの猛勉強をしないといけないでしょう。そうすると、最初は興味があっておもしろかったものがだんだんと・・・・
>運動も適度にやるのは、心地よいでしょうが、体力強化のトレーニングになるとどうでしょうか?(僕は腹筋やスクワット・マラソンなどは楽しいと思いませんが)
>それは教材や指導方法がまずいからというなら、楽しく適応能力が向上する教育法というものを提案してほしいものです。
「『学校』という場で培わなくてはならない能力は何であるか?」と、人に問われたら私はこう答えます。
1.世の中の現象を理解する能力
2.自らが感じたことを表現する能力
3.物を生産したり、大切に維持していく能力
4.自他を尊重し、いたわっていく能力
5.責任を持って与えられた課題に対処していく能力
これらの習得に対して子供が、多かれ少なかれ、苦悩したり・疲れ果てたり・いらだったたりするするのは、至極当然のことでしょう。楽しいと思うのは、きっと限りなく0%に近いでしょう。
「先生」という人の一番重要な任務は、子供がやっていることを暖かく見守ってやること(叱ることも含めて)であろうと思いますが、実際のところ「本校の成績アップだ!」「太陽光発電の見積もりを作って…」「***という事が発生したので緊急の職員会議だ!」という、くだらないけどやらなければならない仕事に忙殺されて、「子供たちの気持ちをどのようにつかめばよいか…」を吟味する時間・学校を離れて活動エネルギーをためる時間がとれず、疲れてしまって、どうしても「ちゃんと!」「どうしてわからないの!」と声をあららげてしまいやすくなってしまうようです。そのせいか、最近では先生の間でも、極度のうつ状態になって自殺したという例があるようです。
これまでは学校というと、「閉鎖的な場所」というイメージが強かったのですが、最近ではかなりOPENになってきたようです。民間から校長を公募するとか、地域のお年寄りがボランティアで竹とんぼ作りを教えたり、聞こえない人が経済高校の生徒さんからパソコンを習うといった、様々な市民との交流がもたれるようになっています。
『自閉症』という障害の特性をよく理解しているのは、専門家ではなく、子供のときから様々な困難を乗り越えてきた私達『自閉連邦市民』の他ならないのです。
だからAS児のの教育について、「何もできない(〜_〜)」と萎縮するよりは、「何かできる(^〜^)」ときぜんと構えたほうが良いと思います。恐らくはそれが有効的な教育法に、つるが絡みつくきっかけになるでしょう。
ついでの意見。よく会話をしている時に、「意見を聞く」と「批判す
る」という言葉がゆがめられて使用されている場合があるので、それに
ついて検討します。
(1)意見を聞く
これは「人の意見を聞け」という言葉は「自分の意見に従え」という
意味で度々使用されます。しかし、本来の意味は「相手の考えを尊重せ
よ」とか「相手の意見も考慮に入れよ」という意味であり、他人の意見
に盲従することではありません。わたしは自分が納得できない意見に対
してかなり食らいつくことがありますが、これはむしろ相手の意見を徹
底的に吟味しようと考えているからです。和気あいあいと意見を交換す
るだけでなく、ぶたかりあいながら意見を交換するのも、「人の意見を
聞いている」ことに含まれます。少なくともぶつかりあいながら「人の
意見を聞いている」人は、単に他人の意見に盲従するだけの人よりも、
相手の意見を深刻に受け止めていると言うことができます。
(2)批判する
これはよく「非難する」という言葉と勘違いされることがあります。
「相手の意見を批判する」というのは本来、意見を言っている相手が気
がつかなかったポイントを指摘することです。相手の意見を真っ向から
退けたり、攻撃するのは「非難する」に含まれます。よく「健常者を批
判するのはおかしい」という意見が出されますが、もし障害者本人が障
害を持たない人たちとは異なる観点を持っていて、その観点を提示する
という意味であれば、「批判する」のはありだと思っています。これに
対しては、逆に医学的な意味での健常者が障害者本人が気がついていな
いポイントを指摘してやればいいだけの話ですから。問題なのは健常者
を「非難すること」にあります。
こうもりです。ここの掲示板で時々トラブルの原因となる言い回しを集
約しつつ、検討してみたいと思います。
(1)ここの人たちはみんなこうなのですか?
ある特定の発言を見て腹を立てた場合に出される発言。しかし、わたし
は館の掲示板で全く同じ意見や立場や生き方をしている人は見たことがあ
りません。たまたま似たような意見や立場や生き方をしている人が巡り合
ったとしても、それは単なる偶然であって、別に示し合わせて同じ意見を
主張している訳ではありません。「ここの人たちはみんなこうなんですか
?」と言った人の意見には傾聴に値すべきものもたくさんあります。しか
し、問題のある発言があるからと言って、掲示板に来ている人たち全体を
非難するという乱暴な議論がせずに、問題のある発言をした人だけを非難
すべきです。
(2)健常者はわたしたちを人間として扱っていない
健常者が自閉人と敵対するためにはASなどの自閉スペクトルの存在を
名前だけでも知っているという前提が不可欠です。しかし、多くの健常者
は自閉スペクトルの存在を知らないのですから、自閉人と敵対することは
できないのです。(ただし無関心層が多いというのはそれはそれで問題の
原因になりやすい)ついでに言えば、自閉スペクトルの存在を知っていて、
なおかつ自閉人を人間として扱っていない人がいたとすれば、その人が本
当に「健常者」であるのかどうかはすごく疑問です。むしろ嗜虐性があっ
て病的な自称「健常者」と考えた方がよくはないでしょうか?
(3)障害者の人は健常者に理解されたいとは思わないのですか?
理解されたいと思っておらず、できれば隠しておきたいと考えている人
も多いことに留意しておく必要があります。そして、(1)で述べたよう
に障害者だからと言って、みんな同じ意見や立場や生き方をしている訳で
はないのです。それは医学的に健常者と呼ばれる人たちがみんな同じ意見
や立場や生き方をしている訳ではないのと同じことです。なお、(1)の
「ここの人」と「障害者」はよく混同されているように思えます。この掲
示板に来ている人のなかには障害者も健常者もいるのであって、これを混
同すると非難する対象を誤まることになります。
意見そのものが納得できるものであっても、架空の敵を作ってしまえば
話し合いは成り立たなくなることがあります。この世界に完璧に正しい意
見というものは存在せず、「どこまで考え抜いた末に出した意見なのか?
」とか「どこまで他者の意見を考慮した上で出された意見なのか?(考慮
するというのは相手の意見に盲従することではない)」が、その意見の価
値を決定します。
上記の自分の意見が正しいかどうかはまだ吟味が必要ですが、今は「架
空の敵を作リ出す誤謬」がなくなることを願っています。
(補足)
一見逆に見えるかもしれませんが、「わたしたち障害者(自閉人)は」
とか「わたしたち健常者は」という前提の議論も同じ誤まりです。「架空
の支持者を作り出す誤謬」と呼ぶべきでしょうか。わたし自身は発達障害
者の一員という立場で発言をしていますが、障害者(自閉人)の意見や立
場を集約して説明することはできないし、他の障害者(自閉人)の意識調
査をしてコメントをしている訳ではありません。わたしが述べているのは
あくまで個人の意見です。
ハルキ wrote:
> 皆さんはじめまして。僕はハルキといいます。18歳の大学一年生です。
>
> 大学の授業の課題で、注意欠陥他動性症候群(ADHD)と、アスペルガー症候群に
>関して、レポートを書くことになったんです。
>
> そこで皆さんにお願いがあるのですが、この二つの症候群の特徴というか、
>具体的な症例と、その治療法について書いてあるホームページをご存知でしたら、
>教えていただきたいと思っています。
> なにしろ膨大な量のホームページがあるので、ぜひとも皆さんのお力を借してください。よろしくお願いします。
> なお、メールでその旨を送ってくださると嬉しいです。
>
> 勝手なお願いですみません。 それでは、よろしくお願いします。
ホームページについては私自身まだほんの一部しか見ていないので、どれが良いということは、ちょっとわかりません。
ASの症例ならば、次の本が良い参考文献になると思います。
ケネス・ホール著・野坂悦子訳、「ぼくのアスペルガー症候群 もっと知ってよぼくらのことを」、東京書籍
ドナ・ウィリアムズ著・河野万里子訳、「自閉症だった私へ」「こころという名の贈り物」「ドナの結婚」、新潮社
パトリシア・ハウイン著・久保紘章*谷口政隆*鈴木正子監訳、「自閉症成人期にむけての準備 能力の高い人を中心に」、ぶどう社
まるる wrote:
>武田さん、早速のレスをありがとうございます。
>私も専門医に診てもらった方がよいとは思うのですが、とにかく普段彼とコンタクトをとることが出来ないのです。
>叔母は周囲の無理解に長い間苦しみ続け、そのことに触れられることにとても敏感になっています。でも本当はに苦しいのは、もしも彼がASだとしたら突然の解雇や対人関係に悩み続けた彼本人じゃないかと思うのです。
>実は協会にも相談したのですがとにかく連れていってみて、とのことで困り果てています。叔母に「パソコンでも買ったら?」と云ってみたのですが今度は叔父が反対している様子です。働いてもいないのに何事だ、というようなことだと思います。
>自分だけじゃないんだ、今まで本当に頑張ってたよね、って教えてあげたい。
>(何だかもうASって決めてる?私?すいません・・・)
>ちなみにうちには発達障害の本や本人の自伝やらが山ほどあるのですが(息子の為)こういったものをいきなり渡されたら気分を害するものでしょうか?
>本当に不躾な質問でごめんなさい、武田さんの場合で結構ですので感想お聞かせ願えますか?
これは困ったことなのですが、日本ではとかく精神病や自閉症・知的障害を「恥」とか「最も干渉されたくないこと」と考えて隠蔽しようという風潮が極めて強いです。結果的にそれが、錯乱などを起こして病院に入院してしまった人を、病院任せにして何年間もほっぽってしまったり、本当は適切な支援を受ける権利ががあるのに、なかなか受けるということに対して直ぐに積極的なアプローチをとりにくいということにつながっているのではないかと思います。
それともう一つ注意しなければならないのは、「『自閉症』と言う障害を彼自身または親御さんがどのように捉えるのか」ということです。もし彼・あるいは親御さんがが現在深刻なうつ状態であるなら、「そうじゃないかしら」といってしまうことは、ひょっとすると著しいストレスを与えて自殺や無理心中などの深刻な結果を招く可能性もありますので、控えるべきです。
「自閉症はもはや特殊な障害ではありません。100万人の人口を持つ町があったら、そのうちの5000人すなわち1/200は、自閉症スペクトラム障害なのです。それだけの人が、社会からの暖かい支援を待っていて、あなたがたもそのうちにもちろん入っています。」とでも、まずは言ってやってください。
Mr.Moto wrote:
>ひま人さん wrote:
>> 結局教育というものは、医療行為のようなものにすぎないのである。それ自体おもしろくも楽しくもないが、やらないよりかはやったほうがましだから、やむをえず我慢して消化していくものなのである。
>
> 欧米では子どもというのは野獣のようなもので、教育し秩序を叩きこむことで文明人となるという考え方が支配的だった。
これはこれで極端すぎる(ただ残虐性だけはすでに内在しているように思える)。
> 日本では子どもは人間本来のありかたに近いものだと考える自然主義的な考え方が主流である。
> どっちも極端に走るとまずいが、総じて後者のほうが正しい見解のように思う。創造的な人間は(もちろんいい意味でだが)子どもっぽく見える。
>
>> すでに述べたように、学校を子どもにとって楽しめる場所にしようというのは、病院や医療行為を、患者にとって楽しくおもしろく快いものにしようというようなもので、しょせん無理があります。しかしこのことは、AS児が楽しみを見つけたり人生をより楽に過ごし、感動のあるものにしようとすることを否定するものではないでしょう。
>
> 毎度毎度同じことばっか言うとって申し訳ないのだが、マズローの「欲求の段階説」つーものがあって、人間は基本的(動物的)欲求が満たされると“よりよく”生きようとするものなのである。子どもなんていうのは放っといてもなんとか生きてゆける程度の智恵はつくのだが、もっと「よい」生き方を求めて学校にやってくるのである。戦禍のカンボジアや飢餓のインドや疫病のアフリカでも、子どもは「学校に行って勉強をする」ことを求めていた。
> これに対して昔の親(あるいは苛酷な生活のなかにあった親)は「普通の」生き方で十分、と考えていたので、「××に学問はいらない」とか言って子どもを学校に通わせるより仕事をさせようとした。義務教育はこれを禁じたものである。
百姓一揆が起きたらしい。
> 「学校に行きたがらない子どもをむりやりにでも学校に通わせる」ための法律はなく、「学校に行きたがる子どもをむりやりにでも学校に通わせないことを禁じる」法律がある。子どもがどっちを欲しているかは明らかである。
それは個人個人の子どもによってさまざまでしょう。
>> とくに最近、こういった「子どもの好きなようにさせる」とか「子どもの立場を尊重する」といった考えで教育しようとする親御さんが増えているように感じる。だがこれは無責任ではないか。たとえば、すべて子どもの好みに合わせてカリキュラムを組むのなら、毎日毎日来る日も来る日も朝から晩までゲームや遊び、おしゃべりなどをするのがたいていの子どもにとって一番楽しいことになるだろう。それはそれで結構かもしれないが、もしもこうした方針で幼児期から育てていけば、文字も読めず、計算もできず九九も分からず、といった子どもが大量に出現するようになるのではないか。自分で自主的に勉強に取り組む子どもなど、小数の例外を除いているものではない。
>
> これは因果関係が逆だとおれは思っている。教育側が子どものニーズをはき違えているから、子どもは勉強が嫌いになるのだ。
なるほど、としたら、どのような教材を使ってどう指導すれば子どもが勉強に興味をもつようになるのか提案されてはいかがでしょうか。先生たちから感謝されるでしょう。
子どもは学校に、「学校にあって学校以外にはないもの」を求めてやって来ているのである。ゲームをしたいならゲームセンターに行くのだ。学校はゲームセンターでもなければ遊園地でもない。学校はあえて言うなら「学問のテーマパーク」なのだ。
> 勉強においてなにがいちばん面白いかというと、それは「わかる」ということなのだ。「とことんわかりやすい」授業は間違いなく面白い。反面、鬱陶しい背景に小煩いキャラクターがちょろちょろするような教育ソフトなんぞは何を考えているかさっぱりわからん。
そうです。そして授業を「いかにわかりやすく」するかで、教育関係者はみな悩んでいるのではないでしょうか。
>> これは障害児をもつ親御さんに共通するように感じる。のみならず、障害児本人も、普通学級へ通うことを望むことが多いらしい。友達がたくさん欲しいからでしょうか?
>> これは、親御さんにとってみればそういう心情が出てくるのはある程度やむを得ないのではないでしょうか。「あそこのお子さんは、特殊学級へ通っているらしいよ」などと陰口をたたかれるのは、あまり嬉しくはないでしょう。
>
> おれの立場は「英才教育は特殊教育の一種である」だ。オーダーメイドあるいはカスタムメイドの教育が不可能であるならば、どうしたってマスプロダクション的な画一教育にならざるを得ない。これは確かに教育の質の均質化には貢献したが、教育を受ける側の資質にばらつきがある以上、取りこぼしが出るのは当然なのである。そこを補うのが「特殊教育」だ、とおれは考えている。どっちがいいとか悪いとかいったものではあるまい。
> じっさい、女子体操選手やバイオリニストというのは、あれはあれで可哀相な気がするので、能力というのはあるにせよないにせよ苦労の多いものだなぁ、と思う。
>
>>> Dルームのような存在は、これから重要になってくるだろうと思われる。人数割りで教師数が決められる特殊学級とは、またちがうのである。「学校へ行ったら、勉強でしょ!」と思っている親御さんには、物足りないかもしれない。が、「教育に特別なニーズを必要とする子どもたち」にとっては、ありがたい場所だと、わたしは思う。
>>> 教科学習だけが勉強のすべてだとは、思わないからである。
>>↑
>> その言い回しは、事実性としては間違っていないが、じっさいにはその背後に現実逃避の心情が紛れ込んではいないだろうか?
>
> ↑「とりあえず学校の成績が良ければ」「とりあえず素行が良ければ」とかいって「普通の子ども」像を子どもに押しつけ、その結果子どもの才能を潰してしまう親というのも多分に現実逃避をしていたりするのだ。
学校の成績が良くてもどうしようもない子どももいる。が同時に、学校の成績が悪くてどうしようもない子どももいますが。
> たしかマイケル・ファラデーがサロンで電磁気の実験をしてみせたときに、あるご婦人が「それは大変に興味ぶこうございましたが、いったい何の役に立つのですか?」と質問されたそうだ。ファラデーは「歩き始めたばかりの赤ん坊に仕事をさせようとする人間がおりましょうか?」と答えたそうである。
この言い回しはおもしろい。
> 才能なんぞというものは、とりあえず伸ばしてみなけりゃ何の役に立つかはわからんのである。才能に対するニーズが後から追いかけるように出てくる場合もある。おれなんぞもマイクロプロセッサの発明とパーソナルコンピュータの急速な普及というのがあったからまっとうに社会人していられたので、それがなければ社会不適格者だ。
ワタクシも、科学の進歩には賛成です。
>> そのうち、おやつを買ってきてほしいなどと言うようになるのではないか。
>
> 綿菓子やカルメラ焼は作ってみると面白いぞ。パンや煎餅なんかも自分で作ってみるといろいろ発見がある。
>
>> ただ、AS向けの指導の専門家が、本人がいやがることも強制的にやらせるというシステムのなかで指導していくというものが本当は望ましい。
>
> ASの人間は他人には無意味に見える作業に没頭し、受容よりも理解が先行し、苦痛に対して鈍感に見えると云われておるらしい。
> 行為の先にある結果をはっきり理解している人間は、努力を努力と思わん。「強制」に頼る教育は、それ自体反・教育的である。
>
>> もしも本人がやりたくて楽しいと思うことだけを自由にやらせる学校というのがあるとしたら、それは教育機関ではなくてレジャーランドに近い。それでもかまわないと考える親御さんもいるのかもしれないし、それもひとつの立場ではある。しかしそれは同時に、本人の能力学力、現実適応能力、対人能力、社会的能力等の向上の可能性を放棄(あるいは断念)しているに等しいということを肝に命じるべきであろう。
>
> すでに述べたが、おれは教育機関というものを「学問のテーマパーク」だと思っている。で、学問というのは基本的に「一度だけの楽しみ」なのだ。同じことを二度学ぶということはない。そこに発見がないからだ(海馬かなんかが壊れてて記憶障害でもあれば別だが)。そんなわけで、新しいもの、より高度なものを求めるのである。
> テーマパークの中で、「順番を守って並ぶ」とかいった対人能力・社会的能力が身につくという部分もある。悪いことではあるまい。
>
>> 論点を整理しましょう。AS児が学校や普通学級がおもしろくないということの背後には、ふたつの問題が潜んでいると解釈するのです。ひとつはすでに述べたように、AS児の能力向上のためには、普通学級のシステムは適していないということ。もうひとつは、AS児が本当に楽しめる時空間が存在しないということ。これは学校教育の問題を超えた問題でしょう。
>
> ↑これってAS児特有の問題なのか?
特有かどうかはともかく、通常学級が完全に適するとは思えませんが(これはいろんなケースがあるのでしょうが)
普通学級のシステムというのは健常児にとっての理想的学習環境なのか?
ではおそらくないでしょう。すでにいろんな人たちが指摘しているように、学力の高い生徒も低い生徒も一緒に指導するわけですし、収容人数が多すぎます。(これは財政的な問題でしょう)
そもそも学校は子どもに対して「わかる」という楽しみをきちんと提供しているのか? 「学校に行くより塾に行ったほうが楽しい」という子どもが少なからずいることをどう説明するのか?
いろいろあるでしょうが、塾のほうがたいてい少人数制で、学力別の指導がやりやすいということもあるのではないでしょうか。
>> とりあえずここでは、両者を二元化して考えましょう。そもそも子どもは教育されるためだけに生きているわけではありません。いちばん大切な、本人にとって楽しいと感じる場所、状況に、教育的観点を介入させないこと。いわば、ジュースに青汁を混ぜるようなことをしないこと。
>> そしてそのようなたいせつな領域は、学校教育とは別の時空間に作るべきでしょう。
なぜこのようなことを書いたかというと、あの本に書いてあったように、「友達がたくさんいるのはいいこと」という価値観が強迫観念化し、社会性の劣るAS児がそのために劣等感に苛まれたり、自己抑圧に陥ったりするのは、精神衛生上よくないでしょう。そうした落とし穴にひっかからないためにも、学校を理想郷にしようなどとは考えずに、必要悪と割り切ったほうがいいのではないかと・・・
> 「楽しいこと/気持いいこと」=「悪」ではない。
それは誤解ですよ。「楽しいこと=悪」などということを書いたつもりはありません。
この場合は、ASのスペシャルインターレストやこだわり世界を、たんにそれが教育的視点からのみ評定され、これを能力や社会性を伸ばすための材料として利用しようなどと誰かが考えて、本来の楽しみやくつろぎ、カタルシスといったものが壊されることがないようにという意味です。
だだですねえ、楽しいことばかりしているわけにはいかないでしょう。例えば体力や筋力を強化しようと思えば、腹筋・腕立て伏せ・スクワット・マラソンといったトレーニングをしなければならないように、
だから楽しんだり遊んだりすること自体はいっこうにかまいませんが、それだけだとつけが回ってくるでしょう。
ジュースがうまくて青汁がマズいという決めつけだって相当に貧困な発想である。渋茶が好きな子どもやジュースより(砂糖の入っていない)麦茶が好きな子どもは珍しくないし、胡瓜やトマトを丸齧りするのが好きな子どもも大勢いる。畑から抜いた大根を水で洗ってバリバリ食うのもなかなかのもので、小学生が喜んでやっておった。
それはもののたとえですよ。
そういう人もいるでしょう。たとえばケーキよりも納豆のほうが好きとかいうひとが、、ただそれは変わり者に近いのではないでしょうか(変人が悪いとか劣るという意味ではありません)
> 「わかる神様」「授業の達人」である遠山啓さんのことだから割引いて考えなければならないが、授業のあとで遠山さんが「これは勉強か、遊びか」と子どもに質問したら、「面白かったから遊びだ」と答えたという有名なエピソードがある。「できる」ということは楽しく、「わかる」ということは面白いのだ。
> おれは「わかる」ことにこだわりたい。
なるほど、ここに書き込まれていることは、僕が書いたことと矛盾しません。
指導者は、できるだけ本人の負担を少なくし、最大限の能力向上という成果を上げることに勤めるべきである。と書きました。どうせ学習するなら、たいくつでつまらないものよりもおもしろくて興味を引き、やる気の出るもののほうがいいに決まっています。(そんな方法があるなら、最上級でしょう)
だが、、自分の得意分野であればこれも実現可能かもしれませんが、成績が良く頭脳優秀で学問や科学に興味を持っている人でも、スポーツが苦手とか、不器用とか、社会性が乏しいとか、表情や表現能力が乏しいとか、社会常識が身につかないとか、かたづけが苦手とか、体力筋力が弱いとか、反射神経が鈍いとかいったように、何か不得手な分野があるでしょう(教科学習だけが勉強ではない)。えてして自分の苦手な分野というのは、得意なことと比べて練習するわりにはあまり向上しないものです。最初は熱心に取り組んでいても、なかなか効果が現われないと次第に面倒になってきてしまいには嫌になってくるのが普通ではないでしょうか(これは健常児障害児大人子ども関係なく)
ここから先は、嫌気がさしてやめてしまうか、辛抱強く訓練を続けるかに分かれてしまいますが、かりにがまんして続けていくにしても、それは生理的に欲しないことを、意識的に(強制的に、鞭打って)自分にやらせるということでしょう(おおげさに言うなら、自分で自分の体に注射をしなければならなくなった糖尿病患者のようなものではないか)。これはつまり、親とか教師といった外部の人間ではなく、自分自身が自分に対する執行官になったということで、いやなことを強制することでは変わりないでしょう。
さっきの体力強化の例で言えば、たとえば頭を適度に使うのはリラックスしていいことだといったような言い方ができるでしょうが、さらに高度なレベルを目指すのなら、よほど頭脳が優秀な人はともかく、かなりの猛勉強をしないといけないでしょう。そうすると、最初は興味があっておもしろかったものがだんだんと・・・・
運動も適度にやるのは、心地よいでしょうが、体力強化のトレーニングになるとどうでしょうか?(僕は腹筋やスクワット・マラソンなどは楽しいと思いませんが)
それは教材や指導方法がまずいからというなら、楽しく適応能力が向上する教育法というものを提案してほしいものです。
ひま人さん、武田さん、Moto氏、こうもりさん、くじら雲さん、ぶちさん、拙文にレスをありがとうございました。本当ならおひとりおひとりにレスを書きたいのですが、体調不良に風邪が重なってしまったので思うにまかせず、まとめレスという形をとらせていただきます。すみません。
自分でもまとまっていなかったけれど、Dルームの存在意義に一番近いのは、こうもりさんのおっしゃた「不適応をおこしているAS児に、本人が発達しやすい環境を調整すること」だと思います。学校が提供できる居場所のひとつだからです。
武田さん wrote:
> Dルームに子供をほっぽってしまうことも、かといって強制的に勉強をやらせることも、根本的な解決にはなりません。
これはまさに、その通りです。“興味を学習へとつなげていく”発想がなければ、Dルームはただの避難場所どまりです。学習というと教科学習を思い浮かべてしまいがちですが、もちろん物作りでもなんでもいいと思います。
一時的にはゲームばっかりやっていたり、ただ遊んでいるかのように見えますが、安定してきた子どもたちは、「できないかもしれないけど、やってみる」力や、「大人や友達に手伝ってもらいながら、自分でもやってみる」力を発揮しはじめるように思います。そのタイミングを逃さずにどれだけのことができるかは、普段から保護者が先生方と連携していないと把握できません。“Dルームにほったらかし”の親御さんもいらっしゃいますが、もったいないことだとわたしは思います。「とりあえず学校へ行ってさえいればいい」という、親の自己満足が優先しているように見えます。
ひま人さんのおっしゃるように、「陰口」「偏見」を心配する親御さんは確かに多いですね。現実に「偏見」は存在しています。特殊学級がなぜ存在するのかをご存じない(考えたことすらない)人が、多数だからでしょう。
自分のことで恐縮ですが、娘は情緒障害児学級に「在籍」です。「通級」ではありません。3年時から編入をお願いしました。IQは110ちょっとなので、知能は正常範囲です。「勉強はやればできるでしょうに、なぜ特殊へ? もったいない」と、クラスのお母さんから言われたことがありました。わたしとは“考え方の違う人”なのだなと思いました。年度途中で特殊学級への編入ができないことで、あせりと怒りを覚えたくらいの人間ですから。
お子さんが特殊学級へ通っている(あるいは在籍している)ことを、周り(普通学級)の親御さんに知られたくないと望む方もいます。お母さんご本人であったり、同居しているお年寄りからの圧力だったりと、理由はさまざまですが、先生方もそういうことには大変気を使っていらっしゃいます。それが現状です。
ひま人さん wrote:
> いじわるで非情で冷たい人間なのだろう」と感じたかもしれません。
いえいえ、そんなことはありません。まとまりのない文章を書いたのに、ご意見をいただけただけでも感謝しています。感想や意見をもらえるだけの出来だったろうか?と、自分では思っていましたので。
おやつ……といえば、昨日はプリンを作って食べていましたね。特殊の先生や保健室の先生が、お相伴にあずかったようです。校長先生と教頭先生は所用があって、来られなかったとか。子どもたちは、自分の取り分が増えてうれしかったことでしょう(苦笑)
なにかを「作りたい」と希望してから、実際に作るまで間があくことも多いですが、粘り強く交渉(?)し続け、待ち続けるお子さんは、さて、何を学べたでしょうか?(プリンは昨年12月頃の希望でした、たしか)
Moto氏のおっしゃる「学問のテーマパーク」という言葉、言い得ていると思います。「楽しく学べる」「ゆっくり学べる」、その子なりの学びを保障できてこその学校だという気がします。
くじら雲さんには申し訳ないのですが、Dルームのような存在が増えているかどうかは、わたしは知りません。「特別支援教育」のなかに、学校内の居場所として増えていってくれることを、願うのみです。そして、教師と保護者の連携のみならず、専門家の介入に否定的でないことを望みます。そのための努力も惜しみません。
わたしはTEACCHプログラムの概念くらいしか理解していませんが、制度ができるのを待っているより、現場から声をあげて訴えていくことで改善できると思われることは、できる限りやってみようと思っています。
とりあえず、精神保健福祉センターの方にDルームを見学してもらうという方向で、学校の先生の許可は得ました。思いつきにすぎませんが、重要性を訴えるにはいい機会だと思いましたので。
ぶちさんも、ありがとうっす! 娘が「学校へ行くのが楽しい」って笑顔で語る姿なんぞ、想像もつかなかったのです。昨年は、学校という怪物にこのまま押しつぶされてしまうのか?と、気が気ではなかったから。“待つ”時期のしんどさは、子どもが抱えている辛さの重みそのものだったのだと、今は理解しています。
でも、大人はテキトーにやれるじゃんね〜。逃げ道すら知らない子どもを、ほっといちゃいけないよな〜、と思います。
娘は元気が出てくると、工作の合間にさんすうの勉強なんかも、すすんでやるようになっていたりして……子どもには「自ら発達する力」が、ちゃんとあるんだなと実感しました。
Dルームその後についても、また書く機会があったら、書きたいと思います。皆さん、ありがとうございました。
こんにちは、あさかぜさん。ぶちっす。
あさかぜ wrote:
> 「あたし、なんだか学校へ行くのが楽しくなっちゃった」と言って、娘は毎日登校するようになった……。なにやら絶好調。
「学校に行かなきゃいかん!行くべきだっ!」って言う気はないけど、お嬢さんが学校に行こう!って思ってよかったと感じました。色々意見はあるだろうけど、今までと違う世界に出て行こうって思えるのは、本人に何か力が湧いて来たからだと思うし、新しい世界には何か良い物があるかもしれないから・・・(こう思う私は変かな?)
色々意見は出ていますが、Dルームの存在が、お嬢さんが学校に行ってみようって思うきっかけになったんだったら、それはそれでいいじゃん、って私は思いました。ゆっくりやればいいんだから・・・
> 親の自助努力も必要である。安心して子どもをまかせておけるだけの配慮を、すべての学校がしてくれるとは思えない。が、けんか腰ではなく、学校に働きかけることも大切なのである。自分から声を上げて、地道に働きかけていくしかないと思う。批判ばかりしていたって、ちっとも良くはならないのだ。
これはつくづくそう思います。学校に子供を預けっぱなしで裏で文句ばっか言ってるのって変だと思う。
特別なサポートが必要な子だけじゃなくて、普通の子供にとっても(もしかすると先生にとっても)今の状況って辛いんじゃないかしら?と最近思いはじめてます。
普通の子にとってもDルーム的な授業って楽しいですよね。この世の中は楽しい事ばかりじゃないけど、楽しい事もなければやってけないです。
(ぶち)
こんにちは。
[ADHDパートナーのためのスペース]管理人のヤモリです。
よし(陽疾)さん:
> じつは、そういうレスを期待していたのですよ。
えーっ、そうなんですかー。それは…なんというか…「わたし、は
められたのねっ!]って感じで、なんか、いやん♪(…さぶ)
まあ、メールは歓迎しておりますです。
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