アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
こうもり wrote:
> もちろん、ドラマの文脈と自閉研究の文脈は違っていると思っています。
>むしろ、ここで問題にしようかと思っていたのは「相手と同じ経験をしなけ
>れば…」という思考でした。F・ハッペ女史はテンプル・グランディンの手
>記の検討の中で、グランディン氏が「同じことを感じるには同じ経験をする
>必要があると思っている」と述べております。
先日のテンプル・グランディンさんのセミナーでの話です。
特殊教室か療養施設か何かの教師(正確には忘れました)から、「ある子が、他の子供に対して首を絞めたり殴ったり、暴力的な行動をとる、乱暴な性格ではないらしい」といった主旨の質問がありました。
それに対してグランディンさんは「私が他の子の首を絞めたときに、母親が私の首を絞めて、どのような感覚かを教えてくれたので、それから絞めなくなった」と答えていました。
それに補足して、佐々木正美さんが、「グランディンさんは知能が高いので、そのやりかたで覚えることが出来たが、子供によっては逆効果で行動がエスカレートすることもある」と言っていました。
ハッペ氏の文章全体の内容は分かりませんが、グランディンさんの言う「同じ経験」は、物理的な経験であって、感情や感覚などの心理的経験ではないのかも知れません。
こうもりさん、こんにちは。
こうもりさん wrote:
> もちろん、ドラマの文脈と自閉研究の文脈は違っていると思っています。
>むしろ、ここで問題にしようかと思っていたのは「相手と同じ経験をしなけ
>れば…」という思考でした。F・ハッペ女史はテンプル・グランディンの手
>記の検討の中で、グランディン氏が「同じことを感じるには同じ経験をする
>必要があると思っている」と述べております。
私も20代の初め頃までは、そう信じていました。
というか逆に、「同じ経験をすれば同じことを感じる」と信じていました。
そのため、本や音楽に感銘を受けると、同じ感動を分かち合いたいと思って、コメント抜きで他人にその本などを渡したりしたものですが、程なく、同じ物を読んだり聞いたりしても、受け取りかたは個々人によって違う、ということがわかりました。
そこから類推して、「経験」から得るもの(感情?感銘?)というものは、まったくプライベートな、個々人にユニークなものではないか、と考えるようになりました。
#そこではじめて、「評論」というものの価値を知ったわけです。
> ただ、私見を述べるならば、「自閉・非自閉を問わず、類似した経験を持
>たない人を理解したり、同じ感情を持つことは難しい」と考えます。じっさ
>いのところ、国際交流とか障害者・健常者間の異文化交流の難しさは、お互
>いが共通の前提とか経験,生活様式を持たないことにある訳ですから。
「自閉・非自閉を問わず、類似した経験を持たない人を理解したり、同じ感情を持つことは難しい」、これには同意します。
しかし、「自閉・非自閉を問わず、同じ経験をしたからといって、同じことを感じるとは限らない」と思っています。
そもそも、「異なる人が、同じ経験をする」ということが可能かどうかがアヤシイと思っていますが、この点については保留しておきます。
ではなぜ、自閉・非自閉を問わず、「類似した経験を持つ人であれば、互いに理解したり、同じ感情を持つことができる」と、多くの人が考えているのでしょう?
仮にAさんとBさんが同じ経験をしたとして、Aさんは「a」、Bさんは「b」という感情?感銘?を受けたとします。「a」と「b」は、とても似ているかもしれないし、まったく違うものかもしれません。
#デジタル署名について、ちょっとかじったことのあるかたは、次の例がわかりやすいかもしれません。
#「数列AとBをハッシュすると、結果は必ずA'とB'になる。A'=B'となる可能性は極めて低い。」
#数列AとBにとって、「ハッシュ」は「同じ経験」になるはずです。
#え?機械と人間をいっしょにするなって?(^^;)
ですが、ここで大事なのは、AさんとBさんが「同じ経験をした」ということを知ると、互いに相手も「同じ感情?感銘?」を受けた、と思い込むことです。
実際に、「a」と「b」は良く似ていることが多いのかもしれません。
が、そうでなくとも、「同じである」という幻想(?)を抱くことで、互いに親近感が生まれ、そうすると相手の言うことにも耳を傾けやすくなるし、語りを入れたい気分にもなるでしょうし、その結果、相互理解をしやすくなるのではないでしょうか。
また、「経験」から得るものとして、感情?感銘?とは別に、「具体的な事実」に関する「知識」というのがあると思います。
これに関しては、「同じ経験をした」=「同じ知識を持つ」ということは、かなりの確率で言えるのではないかと思います。
「同じ知識を持つ」ということがわかっていれば、話の前提条件がわかっているわけで、共通部分についての説明が省けるので、「話が早い」→「理解しやすい」となるのかもしれません。
> で、昨日の推理ドラマで、孫をひき逃げ事故で失った遺族である犯人役の
>初老の男性が
>
> 「わたしたち被害者の気持ちがあなたに分かってたまるものですか!!」
ここで、
「分からないこともない…いや、やはり分かりません。
実は、私も孫をひき逃げ事故で失っているのです。(ジャカジャン!!)
しかし、だからといって私は、孫を殺めた者の命を奪おうとは思いませんでした。
そんなことをしても、孫は喜ばないでしょう。」
とか相手に言われたら、どうなるんでしょうね。←いぢわる(^^;)
こうもりさん wrote:
> 健常キラー氏の発言が不適切だったという点については、本人以外
> で投稿している人のほとんどが同意しています。現時点では「いや、
> やっぱり健常キラー氏の言っていることは正しかった」という意見も
> 出されていないので、これを問題にする必要はないでしょう。
「悪魔の代弁者」を認じておるおれとしては,健常キラー氏の擁護くらいはしとかんといかんなぁ,と思う.
黒人ラッパーが「白人どもを殺せ!」と喚くように,健常キラー氏がああいう声を挙げることにはいささかの意味があるのだ.黒人の場合,白人がいなくとも十分にやっていけるという意味で障害者とは違うのだが,それでも現在のアフロ・アメリカンは欧米文化にどっぷり浸かって生きており,彼等のルーツたるアフリカ文化はすでにして稀薄である.そんなわけで,彼らのアイデンティティの中には,やはり白人優位の価値観というものが,その文化とともに刷りこまれている.
そんなわけで,「自らの内なる白人」を殺すためには,いちど「現実における白人を抹殺することを想像する」,あるいは「想像のなかで,実際に現実における白人を抹殺する」という非常に危ういことをしなければならないのである.
「韓国人が反日感情を捨てるためには,日本と戦争をして勝たねばならない」ということを言う人がいる.韓国の近代化は日本を抜きには考えられないし,韓国経済は日本経済があってこそ現在のように成長した.近代人としての韓国人のアイデンティティの中には日本という存在があり,それは抜くことのできない棘のように,韓国人の自尊心を傷つけ続けているのである.それが分かっているからこそ,韓国は人は「反日」から抜けだせない.韓国人の「日本に勝て!」の大合唱は,底流のところで健常キラー氏の「健常者を殺せ!」につながっているのではないか.
障害者の立場というのは,絶滅寸前の少数民族みたいなもんである.社会の大多数である健常者は,障害者の存在を「必要不可欠な存在として」は「必要としていない」.こういう言い方はしたくもないしされたくもないのだが,障害者はあえていえば邪魔者であり,社会のお荷物である.そのうえ「障害者としてのアイデンティティ」というものは,結局のところ「健常者ではない」というところに多くの部分を依存している.この“屈辱”を抱えていきるつらさ・しんどさは,ややもすれば健常キラー氏の「健常者を殺せ!」みたいなところにつながりかねないのである.
それを考えると,健常キラー氏が「健常者を殺せ!」と苦痛の叫びをあげる場所として『アスペルガーの館の掲示板』を選んでくれたことには感謝したい.それはわれわれ自身をも痛みに堪えやすくしてくれるから.
(Mr.Moto)
みなさんの活発なご意見を読ませていただき、話の腰を折るかも、と思いながらちょっと、お邪魔させてもらいました。
夫がアスペルガーに近い(スペクトラム)ということが気になり、もっと知りたいと思ってここに着きました。
結婚21年目。子どもがふたり。夫は研究者なので家でも家族と一緒に過ごすことはなく、私もずっと悩みながらも夫から干渉されることがないのは楽でもありました。非難しても家出をしても、泣いてもわめいても、夫には届かない。あほらしくなって、子どもと3人、幸せに過ごしてきましたが、息子が思春期になり、ふとしたことから不登校となりました。夫ははじめて、学校などから父親のかかわりが大事だといわれて、パニックでした。もともと自分の部屋でこだわりのあることをしていたようでしたが、小銭を磨きだし、部屋に入ろうとしただけで「でていけ!ほっといてくれ」それは自分を守っていたのかもしれない・・・・・
ただ夫を「宇宙人」と思っていたのが、アスペルガーと考えると、なんだか霧が晴れたようにクリヤーに見えてきました。もう、52歳ですから、今更診断でもないと思います。小学校では教室に入れなかった、でも知能は高かった、視覚的記憶力が抜群。突飛なことをする。相手を思いやることができず、不適切な言葉を発する。
チックも子どもの時から続いている。話を聴かず、一方的で、会話にならない。
(落語?の無理問答をしているみたい)
家族、ということも苦手。食事も別。仕事以外は一日中いつでも寝ているか部屋にこもっている。心配ということがわからないように見える。「お前とは価値観が違う」けれども、被害妄想的にいじけてしまう。
なぜ、相手が怒るのかが、わからない。家族に対しての怒りは爆発的です。
けれどもとても傷つきやすくてプライドがすごく高い。
悪意はないのになぜ、共感できないのかと私は苦しんできましたが、冷たいのとも違うような・・・・。判断するということも苦手のようでした。
夫もいろいろ、辛かったのだろうと思って接する時と、夫に何か頼ろうとする時とでは、夫の人格が替わる様に感じます。頼ろうとすると「俺をいじめるな」というので変だとは思っていたのです。
夫の母も、人に対してすごく警戒しています。付き合い、ということが下らないと思っているようです。
対応を変えて、相手に変わることを期待するのを止める、それが私も楽であると気づきました。子どものことも眼中にない、と言う感じですが、愛情は彼なりに持っているのかも知れない、と言う気がしてきました。
悪い人ではない、ということはずっと感じていました。純粋だと思います。
夫が壊れそうに見えたときに、私は「壊してはいけない」と感じました。
ふと、普通に見える瞬間があるのです。2面性なのかどうか、わかりませんが。
それでも、いつか、共有できる時間を作れたらうれしいなぁ、と思います。
ときどき、またお邪魔させてくださいね。
Helixさん、こんにちは。映画話にお邪魔します。
Helixさん wrote:
>ディカプリオが自閉の少年として脇役で出ていた映画もありましたね。
>題名忘れましたが。
↑「ギルバート・グレイプ」ですね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005V2N5/qid=1024882026/sr=1-3/ref=sr_1_2_3/249-6059867-4925940
レンタルビデオで見ましたが、映像がとても美しい映画でした。
#映画館で見たら、もっとキレイだったろうなー(T_T)
「ギルバート・グレイプ」のディカプリオくん、名演です。
(「タイタニック」だけでディカちゃんを評価している人は、びっくりするかも(^^;))
「アイ・アム・サム」、すごく見に行きたいけど、当方子育て中にて、映画館など夢のまた夢…(T_T)
レンタルに出てくるのを期待して待つのみです。
helixさん、レスをどうもありがとう!! とってもうれしいです。今日思いきって、映画を見てきます。私も、ぐずぐずしているうちに、映画の公開を見逃してしまいがちなのでした。映画の感想も、お聞かせ下さい。
こうもり wrote:
>「障害者は健常者に一方的に依存しなければならない存在」
>健常者・障害者を問わず、人は誰しも他人との協力なしには生きてい
>くことはできない。
これは、今後の日本の障害者福祉を考える上で、重大な意味を持っている言葉です。
本当は後者が正しいのですが、どうも巷では、『一方的に依存しなければならない!』という前者の人が、まだまだ多いです。
ある意味では、彼の怒りの矛先は、その過ちに気づかない人に向けられているのでしょう。
みどり wrote:
>>>またこれだ……
>>>なんであなたはどうしてそういう上下関係の発想から抜けられないの?>
>くりかえします。「健常者が必要」という発想は、「健常者なんていらない」のと根は同じです。
言っていることの意味が分かりません。
確かに『必要』ということの度が過ぎて、なんでもかんでも『依存』ということになってはいけません。逆に本当は支援が欲しいのに、『いらない』と我を通すのも良くないでしょう。
人間は直接的にせよ間接的にせよ、支えあって生きています。もちろん障害だからといって、何も世の中に役に立たないわけでなく、健常者へかなりの見返りを返しています。しかしどうしても、やれる限界はあります。だから助けを求めなくてはなりません。もちろん健常者にも、支援の限界というものはあります。
この限界を見極めていくには、お互いが歩み寄って、冷静に見つめあって、妥協点を見つけていくことが必要です。『健常者を抹殺せよ!』という言動は、明らかにこの営みに水をさすタブーです。
もちろんそういった発言を残した彼の怒りも、受け止めてあげなくてはなりません。この点はお詫びしておきます。
本当は第三者面してコメントするのは卑怯なのですが、まず論点の
整理をば。
例によって、結論部分と考察課程を分けるならば
(結論)
健常キラー氏の発言が不適切だったという点については、本人以外
で投稿している人のほとんどが同意しています。現時点では「いや、
やっぱり健常キラー氏の言っていることは正しかった」という意見も
出されていないので、これを問題にする必要はないでしょう。
(考察課程)
新たな争点になっているのは、シペラスさんの下記のコメントです。
>>>>あなたを含めて我々は、『健常者』の協力なしには、ぜんぜん生
>>>>活できないことが、よく分かると思います。
この場合、「あなたを含めて我々」というのは健常者の対になる障
害者を指していると推測されます。しかし、この表現は見方によって
は「障害者は健常者に依存しなければ生きていけない」と解釈できる
ため、みどりさんの
>>>またこれだ……
>>>なんであなたはどうしてそういう上下関係の発想から抜けられな
>>>いの?
という反論につながっている訳です。
(私見)
わたしがシペラスさんの上記のコメントを見た時も、「障害者を健
常者に一方的に依存しなければならない存在」と捉えているのかと思
い、ちょっとショックを受けたということは正直に話しておきます。
健常者・障害者を問わず、人は誰しも他人との協力なしには生きてい
くことはできないというのでしたら、十分に納得できるのですが。
健常キラー氏のコメントについては置いておくとして、この件につ
いてのみコメントしていただけないでしょうか?
3ヶ月前に、「アスペルガーでは?」と会社のメンタルヘルス担当医に言われてから、勧めもあって以前通っていた精神科に5年ぶりに通院を始めました。カルテはかろうじて残っていたようですが、以前と同じく、私の今の状況はいったいどういうものなのか全く説明がなされないまま、あっさりと抗不安剤を2種類(ミラドール、レキソタン)を処方されて現在に至っています。カウンセリングも以前に3年ほど続けてやっていましたが、特に状況が改善されず、止めてしまっています。担当医にも、アスペルガーの疑いありと言われたことは言ってあるのですが、それについては全く触れる様子もありません。もちろん検査なども行われませんでした。担当医にしてみれば、とりあえず毎日会社に行けてて(それがどんなに歯をくいしばったギリギリのことで、職場では絶えず不安にさいなまれて仕事が手についてない状態であっても)合間に遊んでるようなら異常なしと判断しているような気がしてなりません。しかし私のキャパとしては今かなりいっぱいいっぱいの状況なのでかなりつらいです。肩の力を抜いたら二度と会社に行けなくなりそうです。挙句の果てに「あまり考えすぎないほうがいいですよ」などと言う始末!不安でつぶれそうになって精神科に来る人間にそんなことを言っても、できることならとっくにそうしてます。自分の状況がアスペルガーからくるものなのか、それともただの嫌われ者の変人なのか分からず、毎日鬱々としています。病院を変えようかとも思っています。
こうもりさん rote:
> 障害者手帳を取って福祉作業所で働くようになってからは、やたらとわた
>しに対していばりはじめ、こちらから意見をすると「俺は障害者なんだから
>仕方がない」とか「配慮を受けるのは障害者の特権だ」と言って意見を封じ
>てくるようになりました。さらに「俺は障害者なんだからああしてほしい、
>こうしてほしい」という要求があまりにも多くなってきたため、けっきょく
>関係が維持できなくなってしまいました。
なるほど,病人だからではない話ですね。No.12934 の
>「弱者」観念の「特権」に立てこもる現象も起きてくるのである。
の見本ですね。そこまで屈折してしまった元ご友人が哀れですが,
こうもりさんの謙虚で磨かれた人格の,成立過程がわかるエピソードでした。
シペラス wrote:
>『健常者』の協力
私もこの表現はちょっと気になります。私達の障害の程度はいろいろですが、たとえば、私は人間関係は苦手ですが、ゆっくりしたテンポの仕事なら、できると思っています。私達の障害は、主に、協調できないことにあり、生きることに他の人の協力が必要な程度は他の健康な人と、同程度と思っています。あまり、自分を障害者という枠にはめない方が、いいかもしれませんね。私にとって、障害を自覚することは自分を理解することでした。
シペラス wrote:
>みどり wrote:
>>シペラス wrote:
>>>あなたを含めて我々は、『健常者』の協力なしには、ぜんぜん生活できないことが、よく分かると思います。
>>
>>またこれだ……
>>なんであなたはどうしてそういう上下関係の発想から抜けられないの?
>>
>>健常者を毛嫌いするのと、根はまったく同じ。諭したつもりかもしれないけど、油を注いでるだけ。
>
>はっきりいっておきますがね、僕は上下関係のことを言っているのではありません。
あなたに自覚がないだけです。
> 例えば電車やバスは、健康な視力・注意力・運動能力がある人でなければ運転できませんし、銀行業や飛行機の設計には、高度な計算力が必要です。
銀行業や飛行機の設計者にはASも多そうですね。そしてもちろん健常者もいます。
くりかえします。「健常者が必要」という発想は、「健常者なんていらない」のと根は同じです。
みどり wrote:
>シペラス wrote:
>>あなたを含めて我々は、『健常者』の協力なしには、ぜんぜん生活できないことが、よく分かると思います。
>
>またこれだ……
>なんであなたはどうしてそういう上下関係の発想から抜けられないの?
>
>健常者を毛嫌いするのと、根はまったく同じ。諭したつもりかもしれないけど、油を注いでるだけ。
はっきりいっておきますがね、僕は上下関係のことを言っているのではありません。
この世の中の人は、どんなに1人で生きているという人でも、必ず誰かとつながっている。ASだろうと他の障害だろうと健常だろうとみんな『人間』という一つの仲間です。
敵だと思っている人の中には、十分に話し合えば、みかたに変わってくれる人もいるでしょう。だから、はなっから抹殺しようという考えは、間違っています
『我々が健常者の協力なしには生きられない』というのは、確かにいささか行き過ぎた表現ですが、現実的に考えれば確かにそうで、例えば電車やバスは、健康な視力・注意力・運動能力がある人でなければ運転できませんし、銀行業や飛行機の設計には、高度な計算力が必要です。我が国は世界でも指折りの石油輸入国で、長期の航海に絶えられるような、屈強な海の男たちががんばっているおかげで、私たちは、冬暖かい石油ストーブで暖を取れるのです。健常・障害にかかわらず人間というものは一人一人、世の中の連鎖の中で生きている生き物で、その連鎖から切られれば、生活できないのです。あのロビンソン・クルーソですら、故郷の人から・彼よりも以前の人が残した書物から学んだ知識と、難破した彼の乗っていた船の中に残されていた荷物の一袋の小麦があったから、28年間の長きにわたって無人島での一人暮らしを続けられたのです。
もちろん彼が『恨んでいるヤツ』を恨むのはかまいませんが、『絶対に分かり合えない』と、はなっから全ての『健常者』の抹殺を唱えるのはどうかと思います。今は無理かと思うけど、そのうち『どんなに1人で生きているという人でも、必ず誰かとつながっている』ということが、分かることを僕は期待します。
シュッツ wrote:
>分からないのが当たり前と思ってきた私です。
私も、体験を分かち合うことはできなくても、排除されなければ十分と思っています。それだけでも結構難しいです。
釈さん wrote:
> >大学時代に友人だった統合失調症患者と関係が悪化したことがあります。
>際限もなく弱者としての配慮を要求されたために。 ( No.12944 )
> ご友人は,要求しようと思ってそうしたんじゃないと思います。統合失調
>症という病気が力をなくす病気なので,どうしようもなくそうなってしまっ
>たと思います。分け与えるほどの力のない人にすれば避けて通るしかないと
>しても,悪くは思わないであげてほしいです。きちんと自分を守ることが正
>気なので,病人を助けられるほどの超正気は誰にでもは持てないものですか
>ら,文句をつけてるわけじゃありません。
この話があったのは学部生になった頃。ASという言葉すら知らないし、
教育学的LDとも判断されていない時期のことでした。(ちなみに判断され
たのは21才の頃)周りから奇異な目で見られることが多い奴だったので、
自分の子供の頃によく似ていると思って、それとなく配慮していました。あ
る程度、親しくなってから、統合失調症(当時の言葉では精神分裂病)であ
ることをカミング・アウトされました。
自殺未遂や自傷行為をしたり、そう状態になって周囲の人間と衝突を繰り
返したり、毎晩のように2〜3時間電話をしてきて同じ悩み事や説教を繰り
返ししてきたりの連続で統合失調症には全く免疫のなかったわたしには混乱
の連続でした。もっともこれらの行動自体はわたしには許容範囲だったので
すが。
障害者手帳を取って福祉作業所で働くようになってからは、やたらとわた
しに対していばりはじめ、こちらから意見をすると「俺は障害者なんだから
仕方がない」とか「配慮を受けるのは障害者の特権だ」と言って意見を封じ
てくるようになりました。さらに「俺は障害者なんだからああしてほしい、
こうしてほしい」という要求があまりにも多くなってきたため、けっきょく
関係が維持できなくなってしまいました。今だったら距離をおきながらもう
少しうまく関係を維持できたようには思いますが。
統合失調症患者全体には敵意を持ってはいません。ただ、「自分の障害は
重いんだから」とか「お前は恵まれている」という言葉をわたし以外の障害
者から浴びせられると、その相手に支援者のような立場で接していかなけれ
ばならなくなり、気が重くなります。(仕事なら話は別だが)
子供の頃の知的障害児との関係もそうでしたが、逆に深く関わってきたた
めに、却って不幸な関係に終わってしまったことがよくあります。今は「失
敗をしたということがいつか大きな財産につながる」ことを信じて、他の障
害者との異文化交流を続けていくしかないのですが。
ともあれ、ご指摘ありがとうございました。
こうもり さんwrote:
> 絶望していると受け取られても仕方がない部分もありますね。シクシク
泣かないでくださいな。別にこうもりさんにからむつもりじゃなくて,自分の焦点のいい加減さのいいわけがしたかったんです。私の文章は不特定多数へ向けた抽象的なのが多くて,厄介ものです。それより,
>大学時代に友人だった統合失調症患者と関係が悪化したことがあります。際限もなく弱者としての配慮を要求されたために。 ( No.12944 )
ご友人は,要求しようと思ってそうしたんじゃないと思います。 統合失調症という病気が力をなくす病気なので,どうしようもなくそうなってしまったと思います。分け与えるほどの力のない人にすれば避けて通るしかないとしても,悪くは思わないであげてほしいです。きちんと自分を守ることが正気なので,病人を助けられるほどの超正気は誰にでもは持てないものですから,文句をつけてるわけじゃありません。
らららさん wrote:
>今、公開中の映画、「アイ・アム・サム」 ごらんになった方はいますか?
らららさん、はじめまして。
私はまだ見てないですが、前売りだけは買ってあります。
(買っておかないと、行く気力が萎えていつのまにか終わってるんですよね。)
レビューなどで知的障害ということだけは知っていましたが、アスペ的となるとますます楽しみです。
>アメリカの映画を見ていると、しばしばアスペ的な人間が登場します。主役ではありません。世の中の片隅で掃除の仕事などをしながら、ひっそりと生きる人間として、登場します。けれど、彼らがそれなりに周囲から、受け入れられている様子が伝わります。
ディカプリオが自閉の少年として脇役で出ていた映画もありましたね。
題名忘れましたが。
>私の子どもはアスペ的、ADD的です。時々、子どもを持ったのは間違いだったかと思うことがあります。私の苦労ではなく、子どもがこの社会で、幸せになることができるだろうかと思うからです。
日本では「人と違う」事を認める努力がまだまだ足りないと思います。
画一的な扱い方に不満ばかりたまる私ですが、それでもさがせば居心地のいいところはありました。まあ幸せということになると私もよくわかりませんが。
>映画を見に行こうかと思っています。映画では主人公の好きなビートルズナンバーがたくさん使われているそうです。本を読んで、あらすじを知ることはできても、音楽を聴くことはできません。音楽を聴きに行ってきます。
サントラ買いました。うまく言えないんですが、原曲をとても大切にしているコピーが多かったです。
シペラス wrote:
>あなたを含めて我々は、『健常者』の協力なしには、ぜんぜん生活できないことが、よく分かると思います。
またこれだ……
なんであなたはどうしてそういう上下関係の発想から抜けられないの?
健常者を毛嫌いするのと、根はまったく同じ。諭したつもりかもしれないけど、油を注いでるだけ。
ちょっと話に矛盾が発生していた部分があったので…。
(12948のコメント)
> ひとまず、「限界を示す=後ろ向きになる」ということではない点だけは
>ご理解ください。
(12945のコメント)
> もっとも、他人の悲しみを「我がこととして悲しむ」ことができる人がい
>たとしたら、自他の区別がはっきりしていないということになり、それはそ
>れで問題のような気がします。
確かに12945のコメントを見たら、絶望していると受け取られても仕
方がない部分もありますね。シクシク
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