アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
ん〜難しいね。なぜ、現実はバーチャルなのか?現実を現実と思わないことが潜在能力を発揮させるという訳ですか?つまり、ひとつの映像あるいは物体をバーチャルで見ることにより、無限の発想を生み出し、追及する。やはり、凡人には出来ない神業だな。
ご無沙汰してました。べつの館の館長です。まだ、読んでないのが山ほどあります。
さて。「ダメですか」がショッキングだったんで、出てきてしまいました。
「悲しいですね」というのが第一印象です。いや、「ダメですか」という発言がではなくて、「ダメですか」という表現がぴったり当てはまってしまう、周囲の状況がね。
私はあまり裾野の方じゃないというか、かなりはっきりした困難もある方で、それもあって、いきなりすんなりと診断されてしまったくらいなのですが、それでも、言葉が流暢に話せるとか、知的な遅れがないとかいうことから、知的な遅れの重複している子どもたちの保護者からは、「裾野」と見られることもあります。「外野がナニ言ってる」みたいな感じだと思うんですけどね。
そのたびに思うんですが、「すそ野」とか「軽度」とかいうのって、統計的にたくさんの人をマッピングして初めて出てくる概念、きわめて「鳥瞰的」な概念でしょう? でも、その人その人にとって、「自分」ってのは必ず「中心」ですからね。
当たり前の話だけども、軽度の発達障害を持って生まれてくるってことは、何も最初から、「よっしゃ障害者に生まれてみよう、でも重度はシンドそうだから軽度にしておこう」と思って生まれてくるわけじゃない。何も知らずに生まれてきて、何も知らずに育って、そのことが後になって何らかの障害であることを知って、さらに、【自分の困難の延長線上には、もっと重度の人たちがいる】ことを知るだけなんですよね。それから改めて鳥瞰図を見せてもらうと、自分の近くに山があり、自分が裾野の位置にいることがわかったりする。障害とはいえないくらい裾野の周辺にいる人だって、きっとそれと同じだと思うんです。個人は必ず、虫瞰図から出発するのが当然でしょ。
ところが、いきなり話を聞く人には、最初から鳥瞰図が見えますからね。その辺を勘違いしやすいんでしょうね。
統計的にいって、何かの山の裾野に位置することは、情報として(事実として)知っておいて損にはなりませんが、その人のことを(あるいは自分のことを)、裾野の人間だって思うのは間違いだと私は思ってます。その人にとっては、そこが中心なんだから。「裾野にマッピングできる人」≠「裾野な人」。裾野ってのはあくまで、自閉っていう尺度でマッピングしたものですからね。人を並べる尺度は無限にあるわけで、別の尺度ではその人だって頂点にくるわけですから(少なくとも一つはね。「その人度」っていうか、「自分と趣味が一致する度」って尺度では、本人が頂点だもの)。
ところで、「すそ野問題」については、丸々1冊「すそ野」を扱ったいい本があります(とっくにご存じだったらごめんなさい。でも、ここは他の人も読んでるから)。レイティー、ジョンソン共著「シャドー・シンドローム」(河出書房新社)。軽度の人の苦しみを軽視する専門家は全員、これを読むべきだと思うな(まあ、専門家の人数が少なすぎ、時間が足りなすぎるっていう物理的な問題は、向こうの責任じゃないのですが)。
さくらかのえ wrote:
>「違っている」ことを理由にいじめたりするのは差別だが、「違って」いるのに「同じでしょ」と強引に仲間にするのも、その人の独自性を認めないという点では差別ではないだろうか。
私はこの状況を、よく「創氏改名」や「方言札」になぞらえて表現するんですが。この表現が通じそうなバックグラウンドを持ってる人に対してはね。
アメリカやカナダなどの方が、この種の比喩表現は通じやすいのかもしれません。「おれはイタリア系だ」とかいう言いかたを耳にする機会が、ふだんから日本人よりは多いでしょうから。
スタートレックを比喩に使うようになったのも、その辺の戦略なんです。「ウォーフやトゥヴォックに『地球人流』を押しつけたら絶対反発されるでしょ。それとおんなじだよ」って言えば、通じることも。まあ、スタートレック自体がマイナーなんで、そこが難ですが。
で、さくらかのえさんのおっしゃる通り、私ははっきり、これは「差別」だと思ってます。それも、言い出したその人個人に対する差別というだけでなく、グループ全体に対する差別を土台にした差別。あくまで非自閉者が上で、自閉者は下。その中でもASは自分たちに近いから上。だから名誉白人にしてあげる。嬉しいでしょう、って論法。いや、言ってる本人たちはそう思ってないだろうけど。
この辺は、在日の二世の人たちから学んだことも多かったですが(私自身は、年齢的には三世の人たちと近いんですが、三世の人たちは多分良い意味でもう一段複雑になってますから、あくまでもこの件に関しては、二世の人たちからが多かった)、ろう社会を外から見て(というか、ながめて)学んだことも多かったです。斉藤道雄「もうひとつの手話」やオリバー・サックス「手話の世界へ」(ともに晶文社)の後半などを読めば、何となく意味がわかってもらえるんじゃないかと思うんですが。
>診断を受けたら違うことを言われるかもしれないし、単なる勘違いで「自分をマイノリティになぞらえたい症候群」の健常者かもしれません。
まあ、たとえ勘違いだったとしても、そこには何か、勘違いするだけの根拠があるはずでしょう? 表面的にすごく良く似た状態像で苦労してきたとか。それを区別できないのは専門家じゃない以上、当たり前なんで、勘違いするのが「恥ずかしいこと」っていう周囲の価値観が間違ってると思うんですよね。
勘違いした人を笑い物にする人たちは、「勘違いする前からあった、最初からあった大変さ」っていうものを経験していないわけだから。
あるいは、中には「何でも簡単に勘違いしやすい人」というのもいるのでしょう。でも、そのことは、それ自体が非常に不利な性質であって、そういう不利な性質をかかえて生きているのは、ずいぶん大変なコトなんじゃないかと思うのです。勘違いしてそのたびに舞い上がったり沈みこんだりするのって、大変なエネルギーを消耗しそうなものでしょう? だとすれば、「勘違いしやすいこと」そのものが、既に一つの苦労であるわけで、(その上さらに、勘違いせざるを得なくなった「最初からある大変さ」が重なってるわけですからね。いくら勘違いしやすいタイプの人だって、順風満帆であれば、その性質が花開く機会も必要性もないはずですから。その段階でもう、十分な負荷がかかっていると推測するのが妥当でしょう)外野が笑い物にしていい性質のモノじゃないと思うんですけどね。(この点に関しては、M・フェルドマン、C・フォード共著「病気志願者」原書房 が、とても参考になりました。これは仮病を使ったり、仮病を目的とした自傷を行なう、「虚偽性障害」っていう病気の人たちについての本ですが、患者の多くは、鬱病とか人格障害とか不安障害とかが先にあって、それに対するその人なりの適応として、この病気が出てくるみたいな感じだったし。心気症や、単なる心配性の人たちだって、そこまで極端じゃないけど、共通する所があるんじゃないかな? 著者たちも、患者たちのことを決して笑ったり責めたりしてない所が好感持てます。また、詐病と区別すべき状態として、本当に軽度の障害がある人が、『この程度では信じてもらえないのではないか』という不安から病気を誇張するケースも挙げられていたことが印象的でした)
外野の無関係な人たちが、たとえば勘違いしてる人のことを「カブレやすい人」とか「イタい人」なんて言って笑い物にするのは、おそらくは、自分の中にもうっすらとそれに似た性質を自覚しているからじゃないかと思ったりもするんですが。自分が「気をつけよう」と思ってる性質に、表面的によく似たものを、凝縮された形で見せられたりすると、その「気をつけよう」が外部(対象)に投影されて、「イタい人」っていう表現になったりするのかもしれない(でも、その「似ている」っていうのが、実は大ハズレだったりすることも、良くあるんですよね。結果的な行動だけ共通だけども、理由が違ったりとかさ)。
つまり、人をわざわざ笑い物にしたりする人たちには、その人なりの事情があり、動機があることが多いんじゃないかな。それなのに、「その人なりの事情に影響された批判」をあたかも中立のものででもあるかのように勘違いした上で、さらに、それを内面化してしまう、自分で自分を縛ってしまうっていうのは、なるべくヤメにしたいと、私などは自分で自分に言い聞かせているのですが、なかなかうまく行きません。
いや、長年、「分かっていないのは自分だけ」という状況を経験することが多かったため、自分以外の人の言うことは何でもマトモなのかと思って、やみくもに暗記してきた蓄積があるものだから。ついねー。
さて、もしかしたら勘違いかもしれない「イタい人」という評価の出どころっていうかルーツの話ですが、どうも「AS」なり「自閉症」なりが、たまたま障害「でもある」ために、そして、障害として「しか」知られていないために、こっちが自閉的性質一般(有利なこと、不利なこと、有利でも不利でもないこと、有利でも不利でもあること、全部ひっくるめて、質的な違い)の話をしているのに、先方には、「病人ぶっている」「弱者ぶっている」「悲劇のヒロインを決め込んでいる」「特別な人間だと言いたがっている(いわゆる『不思議少女』系ね)」と見られてしまうっていう形があるんじゃないかと思います。
まず、自閉ってもんが、有利なこと、不利なこと、有利でも不利でもないこと、有利でも不利でもあること、全部ひっくるめた質的な違いであること自体が、あまりにも知られていない。その性質の質的な違いのうち、不利な部分を切りとって「症状」と呼んでいるのだってことが知られていない。専門家は知ってるんでしょうが、知っていても、いかんせん、不利な部分をフォローするのが本業であるだけに、どうしても緊急度から言えば不利な部分を語るのが最優先になってしまうのはしかたがない。
>それでも自分のことについてはそのときどき自分の納得行く形で理解したいと思う。
っていう願望(というより、その基盤かな)が存在することが、知られてないってわけです。「裾野」だろうが何だろうが、その人にとっては中心であることにさえ気づいてない人は多いし。
その上さらに、世間一般に、「病人ぶる」「弱者ぶる」「悲劇のヒロインを決め込む」「特別な人間だと言いたがる」人たちに対する蔑視というか冷笑というか反感のようなものが、たまたま、ある(小浜逸郎「『弱者』とはだれか」とか、春日武彦「不幸になりたがる人たち」とか、香山リカの「〈じぶん〉を愛するということ」や「インターネット・マザー」などは、著者がそう意図していたかどうかはとりあえず別にして、そういう人たちの需要にもたまたま応えるものだったせいもあって受け入れられているんじゃないだろうか)。
で、「質的な特徴のことを言ってるんだ」ってことがわからない人の耳には、「私ってASっぽいんだけど」という発言が、あたかも「仮病発言」「大げさ発言」であるかのように聞こえてしまう。でも、もしかしたらそれって、その人たちの中にも、ほんのうっすらと「仮病願望」みたいなものがあるせいかもしれないんですけどね。
>ひとにもその形で受け入れてほしい。
>それだけのことが、なぜかすごく難しいんですよね・・・・
>
>もともと「自分はこうだ」という話をするのが好きなわたしにとって「わたしのパーソナリティの一部はASに基づくものかもしれない」と説明しても受け入れてもらえないのはフラストレーションが溜まります。
星占いとか、血液型とかだったら、受け入れてもらえ易いのに、なんででしょうねー。星占いとかの方が、「偶然だよ」っていう大前提がはっきりしているから、「カブレ易い人に対する蔑視のとばっちり」みたいなのがまぎれ込む余地がなくて、普通の人たちにとっても安心なのかな、とも思いますが。
あるいは、星占いや血液型にはあまり優劣のイメージがないため(血液型を根拠に人を差別する人もいるみたいですけど、それとて「AS」ほどではないでしょう)、「悲劇のヒロインぶっている」とか「特別な人ぶっている」とかいう評価と結びつけられにくいこともありそうです。
でも私、将来的には、健常者もひっくるめて、自分の認知スタイル、学習スタイルを誰もが客観的な情報として知ることができ、しかもそれに余計な価値観や意味を持たせずにニュートラルに語れるような状況になったらいいなあと思ってるんですが。
健常者だって、自分に向いたスタイルで勉強できて、仕事を選べて、仕事ができたら、ずっとストレスも少ないし、効率もいいと思うんですよね。無用な摩擦も避けられるかもしれないんだし。
たぶん、それに似たことは、スポーツの最先端の分野(たとえばオリンピックを目ざすような人たち)では、既に行なわれていることなんじゃないかと思うんです。トレーニングのメニューを組むためにね。
あるいは、そのうち、ビジネスマンなんかを対象とした、技能習得のための講習会なんかでは、認知スタイルの個性を考慮したコース別編成みたいなものが、生まれてくるかもしれない(第一線で稼ぎまくっている人たちにとっては、時間が高価だからです)。
一方は障害児の療育から、もう一方はエリート向け再教育からの「はさみ撃ち作戦」で、「脳みその個性をもっと客観的な事実として語れる雰囲気づくり、基礎知識の普及」ってのが進んで行けばいいんですが(ちょっと壮大すぎました?)。
その一方、私にできることとしては、「自閉(ASも含めて)とは、有利なこと、不利なこと、有利でも不利でもないこと、有利でも不利でもあること、全部ひっくるめて、質的な違いであり、そのうちの不利な部分を切りとって『症状』とよんでいるのだ」「自閉はある程度以上濃ければ障害にもなるが、それがすべてではない」ということを、声を大にして言い続けていくこと、くらいでしょうか。
それが結局は、裾野に位置する人にも、もっと上の方に位置する人にも、裾野かもしれないけど違うかもしれない人にも、全員に役に立つんじゃないかなと思っているのです。えらい遠回りな話ですけどね。
最近 息子がアスペルガーだと氣がつきました それから毎日インターネットでしらべたり 京都での講演にいきまして私はこれだと思いましたが まだ診断はうけていませんしうけるきもありません ただこれからどうなるのかと心配と不安でいてもたってもいられません 本人は知りませんが知らせることは今のところ考えていません 皆さんのメールから手にとるように気持ちやまたいろんな困難なことがわかります 現在一番の問題は仕事です 何の仕事も人とかかわるのですからできない仕事ばかりです このことを相談したいのですがどこでしたらいいのでしょう
なんでも どんなことでも情報がありましたらおしえてください
さくらかのえ wrote:
さくらかのえさんのように、自分の思っていること、感じたことを文章で表してくれると、ASの方を私の気持ちに沿ったやり方で理解できるのでうれしいです。
ただやはり実際接してみたときには、そうはいかないんですよね。
心の中の翻訳機が、変換間違いまたは変換不可能になってしまう。
これは、私がASの方と接していて、どういうことなのだろう?よく分からないな。と感じていたのでそう思うのですが・・・
その人とは突然親しくなりました。(私もそのまま受け入れたのでよっぽどこの人とは気が合うんだろうと思いました。)
”かわいいってどういうこと?まじめってどんなふうなの?”といろいろなことを長い時間かけて質問されました。
彼はとにかく楽しそうで、私の時間が許す限り一緒にいようとしていました。(私も楽しかったので、お互いを受け入れられるんだろうと思いました)
ただ気になったのは、彼からの要求に私は応えるんだけれども、私からの要求に彼は応じない、または応じたくなさそうだと言うこと・・・(自分勝手なのかな?それとも私は変なこと言ってるのかな?)
会う回数が増えるほど、私は彼に対して親しい気持ちが増え、うち解けていくのですが、彼はどんどん馬鹿丁寧になっていく。(私のこといやになってきたのかな?)
でも又、彼は一緒の時間を持ちたがる。(いやな訳じゃなさそうだな。じゃあちょっと私の気持ちを話したらわかってもらえるかな?甘えても良いのかな?)
そして、話しをし、彼から最初から最後まで友達じゃなかった。時間つぶしだった。と言われました。(私は友達じゃない人とあんなに仲良くできない。そんなひどいこと言わなくても・・・)
自分を否定され、傷ついてしまって、元の自分を取り戻すためここの掲示板にいるような気がします。
今は、そういうことだったのね。とただ単純に分かった気になっています。
>非ASの「言葉の表面よりも、その奥にあるはずの気持ちを考え、それに沿った反応を返す」という習性にはいまだに慣れません。
すべてが、その言葉の中に集約されていると思います。でもそれはお互い様じゃないのかな?私も、彼のこと分からなかったし・・・ただ自分の中の翻訳機でしか、翻訳できなかったから・・・
いつも自分の話ばっかりでごめんね。
なんか自分の事しか書いてなくて申し訳無いです。
脊髄反射で書いたような文章で。
これはいかんと書きなおしたのですが、
ちょっとましなだけで、なんか支離滅裂のれろれろになってしまいました。
なので、もう諦めて最初のままにしておきます。
と、とりあえず、
ASを説明するときの「自閉症」という言葉に
誰でも何かしら先入観があるのも大きいと思います。
私はうまく言えないから、言いかたを思いつくまで
もう言う気は無いです。
みなさんこんにちは。
前々から気になってたのですが、
アスぺなどの人達は何処でオフ会の情報を仕入れているのでしょうか?
これからクリスマスや忘年会シーズンですが、
どこかでアスぺ達のオフをやる予定とかあるのかな?
ぺりこさん、かやさん、レスポンスありがとうございます。
自分のことを自分の表現したい言葉で説明して肯定的に受け入れてもらいたい、という気持ちと、そういう気持ちを持つのはともかく実際に他人に対して求めることは高望みである、という気持ちと両方あります。
他人をほんとうに理解するなんて無理だし、向こうにもわたしのことを受け入れる義務なんてないわけだし、都合もあるし。
そもそもわたしのほうでも相手のことを理解しようとつとめているかといえば、わたしの場合は、ただ見たまま+その人からきいたこと+そこから受けた印象を、そのまま受け入れ(それに対する好き嫌いや感想はあるけど)、何か新たな要素があれば次々と付け加えてゆくというやり方でしか接していない。
普段の態度にしても、かまってほしいがためのどうでもいい発言や、「否定してほしくてわざと言う」発言などもある。
(こういう発言にたまに真面目に反応してくれる人がいて、逆にこちらがびっくりします)
自分のほうから「真面目に取り合ってもらえない要素」を作っているようなものです。
非ASの「言葉の表面よりも、その奥にあるはずの気持ちを考え、それに沿った反応を返す」という習性にはいまだに慣れません。
うずうず wrote:
>私の言葉が足りなくて申し訳ないです。
こちらこそ、言葉の表面だけに反応してしまって申し訳ないです。
たあ wrote:
> 「ありがとう」「ごめんなさい」というような簡単で基本的な言葉さえ、実際に生活の中で使い始めたのは、中学生になった頃からでした。それまでは、他人とコミュニケーションをとろうという努力は特にしていなかったように思います。
私も(笑) 「なにかしゃべって!!!」って怒られた。
> 他人から、「おとなしいね」とか「何があっても動じないね」と言われたことがあるけれど、それはただ、周りの状況が把握出来ていないから反応しきれていないだけじゃないかと、自分では思います。
同じこと言われてる(笑)。 言う人は誉めているつもりかもしれないけど、
私はよい気分ではなかった(悲しい気分ともいう)。
だって、ただ、私が状況が判断できてないだけなんだから。(あ、同じこと言ってしまった。たあさんの言葉を借りてしまった。)
その場にいても皆の話しが分からなくて、我慢してるだけだったりして。それをいつも、「おとなしいね」って言われる。
>私自身、高校時代、クラスの人達が何人か集まって、私のことを「心を開いてくれ>ない」と困ったように>話しているのを聞いてしまったことがあります。私として >は、普通につきあってい>るつもりだったから、そう言われているのを聞いてびっく>りしました。
普通に付き合っているだけでは、よそよそしいと見られる。何も話してくれないと言われ、長いすに並んで座る距離が、(どうも私は離れているらしく、)友人は気になるらしく、「もうちょっと、こっちにおいて」って言われ、寄って座ると、なぜか喜んでくれる。
さくらかのえ wrote:
>「目に見える不都合」がない限り「違っている」とは認めない「普通」の人たち。
非ASの人は、人と話をするときに、その人が何を望んでいるか?をまず考える人が多いと思います。
私の周りでは、その事実を認めたくなくて話を聞いてもらう事がよくあります。
だから、話をしている人が、私は普通とは違うのよとまじめに訴えれば訴えるほど、きっと心の中の不安を振り払いたいのだろうと読んで、一生懸命に否定してあげる事になります。
どうしてそうなってしまうかというと、非AS人は普通でないことを恐れている人が多いから・・・日本では、普通が一番生活しやすいし、子供を育てる親や先生たちもそれを望む人が多いから・・・
もしかしたら、心の中ではあの人は違うのかな?と思っても、それを言葉や態度に現すと失礼になると思うはずです。
そこら辺に、非AS人の”普通”にこだわる傲慢さがあるのかもしれません。
>「違っている」ことを理由にいじめたりするのは差別だが、「違って」いるのに「同じでしょ」と強引に仲間にするのも、その人の独自性を認めないという点では差別ではないだろうか。
具体的にどこがどう違うのかよく分からないのだと思います。
非AS人は、誰もがみんな違っている事にある時気づきます。だからその範囲内でみんな同じように違っているのだから、そこの部分では”同じでしょ”と言われるのかもしれない。
>ひとにもその形で受け入れてほしい。
>それだけのことが、なぜかすごく難しいんですよね・・・・
受け入れられているか、それともいないのかは本当のところは分からないんじゃないかな?
ただ、”受け入れられていないと感じる”自分がいる事実があるわけですよね。
実際の所、頭の中ではああそうなんだと分かっていても、あなたのそういう部分を認めています、と相手に分かるように言葉とか態度という形に表すことはとても難しいです。
>もともと「自分はこうだ」という話をするのが好きなわたしにとって「わたしのパーソナリティの一部はASに基づくものかもしれない」と説明しても受け入れてもらえないのはフラストレーションが溜まります。
確かに、普通の人に病気とか障害に関することを言ってもなかなか受け入れてもらえないかもしれません。
でもそれは、その人の思いやり(非ASの人には気づかない偽善や傲慢からくる)なのかもしれません。
”私は、こういうたちなの”と言う方が通りはいいと思いますが・・・
非AS人に合わせた時だけ受け入れられる、本当の自分を出したときは分かってもらえない、とどなたかカキコされていましたが、ASに関する情報は少ないし、少数派なので最初はそうなってしまうでしょう。
けれど、そのまま何度も接していけば、徐々にお互いのことがただ単純に分かる(心ではなく)ようになると思うのです。
その時お互いに足りない何かを埋め合わせするのではなく、ただ分からないのは分からないまま、ある意味我慢して、一緒にいることが必要なんじゃないかな?
ただこれはあくまで私だったら・・・の話であって、一般の人たちみんなはどうかというと分かりません。
私の友達も、物事を深く掘り下げて考えてないみたいだし、自分がつらくなるから考えないようにしているという話をよく聞きます。
AS、非ASに係わらず、自分に合う人を見つけるのが大事だと思います。
そう思う私はやはり傲慢でしょうか?
mainami さんへ
こんにちは。
近くの大学病院に電話で問いあわせてみたら?
「そちらは自閉症の診断はやってますか?」って・・。
こんにちは。
私も「キョロキョロするな」と言われた事が度々あるので、そうかもしれません。
mainami wrote:
> 再度書き込みます。。
>どうか、私に良い専門家を紹介してください。
>岡山在住です。医者は兵庫、大阪でもかまいません。。どうか宜しくお願いします。
岡山の近辺では倉敷の川崎医療福祉大学に、佐々木正美さんという著名な自閉症の専門家がおられます。アメリカのノースカロライナ州で実施されいる自閉症のケヤであるTEACCHを、日本で普及させた方です。
ああ、なんか分かる…ような気もするでも無し。
「同じでしょ」というのは、結局利便性から来てるんではないかと思います。
皆一緒なら、それだけ手間が省ける。
群れからはぐれた奴にまでいちいち手をかけてる暇はないのです。
気持ちは分かるけど寂しいと同時に憤り。
>ひとにもその形で受け入れてほしい。
>それだけのことが、なぜかすごく難しいんですよね・・・・
すごく難しいですね。
そして他人を受け入れるのも難しいです。
ずっと、誰にでもいい面がある、そう思ってきて行動した挙句
結局振り回されてぼろぼろになりました。
一度そういう経験をすると、自己防衛で同じ事ができなくなる。
意に添わない意見、というのがどうしても見過ごせないけど
ここで何か言うとやばい…と黙ってしまう。
そういうのが染み付いてしまって。
結局フラストレーションが溜まるばっかり。
そして、ひとつひとつをまた覚えているんですよね。
もう人間関係を築く気力を無くしています。
ASかもしれない、と他人に言う気力も無いです。
一度言ってみてわかりました。
カミングアウトの覚悟が要ります。
再度書き込みます。。
どうか、私に良い専門家を紹介してください。
岡山在住です。医者は兵庫、大阪でもかまいません。。どうか宜しくお願いします。
「目に見える不都合」がない限り「違っている」とは認めない「普通」の人たち。
「わたしは「違って」いるんです」と言う人に対して「マジョリティの仲間」だと言ってあげれば相手は喜んだり励まされたりすると思いこんでいるマジョリティの傲慢さ。
「違っている」ことを理由にいじめたりするのは差別だが、「違って」いるのに「同じでしょ」と強引に仲間にするのも、その人の独自性を認めないという点では差別ではないだろうか。
わたしは自分を「自閉症スペクトルが富士山だとするとそのすそ野の端っこ」あたりに位置する者だろうと思っていますが、もしかしたら違うかもしれない。
診断を受けたら違うことを言われるかもしれないし、単なる勘違いで「自分をマイノリティになぞらえたい症候群」の健常者かもしれません。
それでも自分のことについてはそのときどき自分の納得行く形で理解したいと思う。
ひとにもその形で受け入れてほしい。
それだけのことが、なぜかすごく難しいんですよね・・・・
もともと「自分はこうだ」という話をするのが好きなわたしにとって「わたしのパーソナリティの一部はASに基づくものかもしれない」と説明しても受け入れてもらえないのはフラストレーションが溜まります。
>いいえ、率直なご意見ありがとうございます。当たり障りのないお返事より、励みにも参考にもなります。レスありがとう。
うずうずさん,こちらこそありがとうございます!!
私は成人になってから心療内科に行きました。
多分ACと判定されたのではないかと思います。
軽いお薬をいただいていたのですが
仕事が忙しくそれっきりになっています。
それでも大騒ぎしながら
毎日が何とか過ぎて行くのでいいといえばいいのでしょうか。
ただ・・・
周りの人に迷惑をかけない人になりたいなあ・・・と
常に思っています。
Mebius wrote:
>“症”にまつわる私のこだわりと緊張感が、一瞬にしてぶっ飛んでしまいました。(^^;) なんだか勇気が沸いてきそうな字面ですね。“閉じた者勝ち”という意味なのでしょうか? 楽しませていただきました。
そう言っていただけて、私の方こそ勇気が湧きました。ありがとうございます。この性格で職を一つ失いましたが、今は別な場所で重宝されています。人に心を開く機能も大切ですが、心を閉じているからこそ出来る事もあると思いました。
pan wrote:
>でも,客観的に取れば危険な理論であると思います。
閉じていることを肯定したからでしょうか。私としては、開く機能と同じくらい、閉じる機能も重要だと思ったのです。
>うずうずさんって,ASなんですか?
診断は受けていませんがASだと思っています。
>「悪いと分かってて悪いことする子だ」と,昔小学校の担任の先生が言っていたそうです。そんな私って・・・ただのわがまま人?甘すぎ人間??
本当に悪いと判っていたら、しないと思いますよ。ASや高機能自閉の子供は行動とテストの成績が一致しないので誤解を受けるのかもしれません。私も小学校の担任より「あなたみたいに判らない子は初めてだ」と言われましたから。きっとpanさんや私の担任の先生はASの子を受け持つのが初めてだったのでしょう。
>人の話に上手にコメントすることができないので自分の言いたいこといってしまいました。。。ごめんなさい。。。
いいえ、率直なご意見ありがとうございます。当たり障りのないお返事より、励みにも参考にもなります。レスありがとう。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami