アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
ゆーり wrote:
>きょうはようちえんで卒園式でした。
>わたしは、壇上で園長先生に証書をわたす役をしました。
今年の卒業式で送辞を読む役でした。
役を割り振った担任曰く「クラスで一番早く学校に来たから」ということ。
まあ、会長だから心の準備はできてましたけど・・
決め方が前々から分かっていれば、わざと遅刻していくところでした(^_^;
>とちゅうで、子どもの名前を読み上げる先生が涙で言葉につまり、
>泣き始めた女の子がいました。
>式が進むにつれて、司会の先生も泣き始め、お母さん達も
>泣き始めました。
>「ありがとうさようなら〜ともだち〜♪」の歌のころには
>ピアノの先生も泣きながら弾いていました。
卒業生担任の先生方や保護者の方々は・・泣いてましたね。
ホントに涙で言葉すら出てこない・・という感じでした。
それに比べて、生徒の方はあまり涙はありませんでした。
ただ、冷めてるって感じもなくて・・
涙はなくても、別れを惜しむ気持ちはいっぱいだったと思っています。
>わたしはそれを見ながら、「いい卒園式だなあ」とは思ったのですが
>ぜんぜん共感できませんでした。
>それよりも、会場がみな一体感に包まれて気分が高揚していく
>圧迫感を感じました。「のみこまれるのが恐い」という感覚です。
>こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
>やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
>理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
>やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
>お世話になった大好きなうちのクラスの担任の先生が辞めてしまうのは
>すごく悲しいのですが。。。
>ムードに酔えない、ということなんでしょうか。ふぅ。
そんな時は、その雰囲気自体をを変えてしまえばいいんです。(^_^;
かくいう自分も、「ちょっと今年は変わった送辞にしてみようかな」感覚で、
「笑顔で卒業生を送り出す」というテーマのもとに話してみました。
「これが本当の別れじゃない。いつでも会えるんだ・・だから、今は笑って送り出そう」との思いを託して。
もしかすると、生徒の涙が少なかった理由は、この送辞にあったのかもしれませんね。
そう考えれば、この作戦は成功だった・・ということになるんでしょうか(^_~;
私も、15日息子の卒業式に行って来ました。感動するべき所なのに、やはりその場の雰囲気で・・・というよりも、保護者同士の雑談に、「話するなら外でしたら?」とか、校長他スピーチにも、「本当にそんな事思ってたん?」と言う疑問ばかりが沸いてきて感動する暇もなくて・・・(笑)
おまけに、「情緒障害児や難聴学級の皆さんとの交流により、様々な事を皆さんは体験されました」なんて事言い出したもんだから、「なんやって〜!!」と心乱れてしまって・・・・健常児主体の卒業式かい!と不愉快に思ってしまって・・・
どうも”普通”社会の人は無神経で困るなぁ〜と一人怒り狂っていました。
おまけに、昼から会社に行けば、みんな口を揃えたかの様に「感動した?」ってくるから、もう「はぁ〜??」って感じなのを抑えるのに苦労しました。
歌とか感情移入しやすい傾向のある私も、さすがに今回は最低の卒業式やとつくづく思いました。
どうも、心乱れて、言葉も乱れて失礼しました。
私は小学生の頃、どういう訳か女の校長先生に、今思えば教育委員会に訴えてやろうかいと思うほど攻撃(他の人には一目置かれて愛されていると見えたかもしれないが・・・)されました。
朝登校すると、必ず校門のところで落ち葉なんか掃きながら子供たちを出迎えてる。
会うのがいやでわざと遅刻すると、私が来るまで待ってる。私より後に来た人には興味がないようでした。
直接ではなく、人を介して私のことを調べたり、全くの赤の他人に親にも言わない私の話をしたり、公私混同甚だしく、立場で接しようとする私が気になるようで、担任に”正直言って校長のああいう態度はほんとに困る。”とまで言われていました。
いろいろあって思い出すのもいや・・・
卒業式で、私が代表でお礼の言葉を言う時、校長を前にして”雨の日も風の日も、門の前で出迎えて下さった校長先生・・・ありがとうございました”と言ったとたん、思わず悔しくて涙が出てきました。(この言葉、あんたにだけは言いたくなかったヨ)
後からみんなに、あそこのところで感極まって泣いてたね。みんなもらい泣きしてたよ。卒業式が盛り上がって良かった良かった。って言われて、はあ?と思ったけど、そのままにしておきました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
涙にも、いろいろあります。
なんで、みんな泣くんでしょうね。なんか、卒業式って泣くことになっているから、つられて泣いてしまうのかなあ。
よしもとのギャグみたいな、「お約束」。
私の卒業のときはひたすら幸福感でいっぱいで、ずっと笑ってましたよ。
もっとも私には別れを惜しむトモダチもいなかったから、寂しいって感覚がわからなかったのかもしれません。
>こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
>やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
>理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
>やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
>
うーん、でもこういうのって日本独特のことみたいですよ。
笑っておめでとう!ってのもアリだと思います。
ゆーり wrote:
>わたしはそれを見ながら、「いい卒園式だなあ」とは思ったのですが
>ぜんぜん共感できませんでした。
>それよりも、会場がみな一体感に包まれて気分が高揚していく
>圧迫感を感じました。「のみこまれるのが恐い」という感覚です。
こういうのってありますね。
わたしの場合、卒業式などのセレモニーでどうだったかは
あまり覚えてないのですが(ただ歌で高揚することが多いので、
「螢の光」とか歌いながら泣いたかも)、
コンサートに行ったときに、みんながひとつの方向を向いて盛り上がってて、
それはわたしにとっては「つながり」めいたものが感じられる
楽しい時間でもあるのだけど、そこで突然、素に戻って
「ちょっとこの状況は不気味かも」と思ってしまったりもします。
そう思ったからと言って楽しさが減じるわけではないのですが。
ただ、コンサートなどの盛り上がりを表現するのによく使われる
「一体感」という感覚はわたしにはよくわかりません。
ひとの話をきくと、楽しかったコンサートの場合
「我を忘れて」夢中になっていたなどというのですが、
どうすれば「我」を忘れられるのかわたしにはわからんぞ。
常に、ステージと共に会場の「盛り上がり具合」も観察して
みんなが楽しそうにしてればわたしも楽しいというのが、わたしの楽しみ方です。
で、帰宅したらステージのことより、自分の近くにいた人が
こういうことをしてた、なんてことのほうをよく覚えている。
>
>こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
>やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
>理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
>やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
>
>お世話になった大好きなうちのクラスの担任の先生が辞めてしまうのは
>すごく悲しいのですが。。。
>ムードに酔えない、ということなんでしょうか。ふぅ。
お互いに別れを惜しんで泣いて笑ってみたくても、
そういうことをする相手がいなかった、わたし・・・(^^;)
ひとが盛り上がってると観察する側にまわってしまうのよね・・・
さっきたくさん書き込みしたのに誤って消してしまって。もう一度書く気力がなくなってしまいました。
皆さんわたしのつまんない悩みに数々の答えを書き込んでくださって、ありがとうございました。やっぱ私はASである皆さんの個性が大好きですし、うちの夫もどきのこともぐちゃぐちゃいいながら、やっぱりその並外れた個性を愛してたと思います。
でも、もう終わりです。
来週出て行きます。彼は知りません。云ったところでわかってはくれないし、予定のひとつである私がいなくなれば、彼はどんなに怒り、監禁すらしそうな人ですから・・・。
彼の子と私の子がもうだめになりました。それが大きい理由です。
彼の子も彼に似て人の気持ちを、理解できず。はっきりとものをいいすぎ、其れに対抗した私の子がすっかり自律神経をやられてしまいました。
親はわたしだけなので私は子を守らねばなりません。仕方のないことです。
しばらくはうれしいけど、あの強烈な個性の彼を知ってしまった私は、物足りなくて、寂しいとおもいます。一日に二十回は必ず電話をかけてきて、私の動向を
チェックしていた人ですから、彼も手持ちぶたさでつらいでしょ。
でもさよなら。心とからだを壊してまで一緒に居ちゃいけないと、私の奥底で叫んでるの。
家をでればパソコンも当分買えないし、投稿はしばらくできなくなります。
いろいろみなさんのはげましがあったればこそ、と感謝いたしております。
本当にありがとうございました。
でも、楽しかった。毎日ここをひらくのが楽しみだったの。
KILROYさんはほんとにかっこいいよ。大好きでした。
結婚相手に立候補したいくらいでした。
それではみなさん。さようなら。
みんなの個性を大切に・・・・。愛をこめて・・・・・・・・・・・・。
ゆーり さんwrote:
>
>子どもの名前を読み上げる先生が涙で言葉につまり、
>泣き始めた女の子がいました。
>式が進むにつれて、司会の先生も泣き始め、お母さん達も
>泣き始めました。
>ピアノの先生も泣きながら弾いていました。
>「いい卒園式だなあ」とは思ったのですが
>ぜんぜん共感できませんでした。
43歳ASっぽい男性のqwertです。
私の卒業式での経験でも(卒業生・在校生としてですが)やっぱり
共感できなかったですね。みんな泣いているので泣かないとまずい
かなあとは思いましたけど。
>それよりも、会場がみな一体感に包まれて気分が高揚していく
>圧迫感を感じました。「のみこまれるのが恐い」という感覚です。
>こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
>やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
>理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
>やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
toriさんも発言してた「世界が共有できる人達」の世界ですね。
取り残されてしまった感じですね。集団で同じ感情になってるの
は怖いッス。
私も、そういったお仕着せの儀式の時は冷静ですね。
感情が高揚することはないです。
武田好史 wrote:
>そうですよ。鬱だろうが・躁だろうが・分裂だろうが・ASだろうが・
>ADHDだろうが・LDだろうが、不幸にして脳の機能が普通の人と
>比べて弱いだけ。
躁鬱は誰でもかかるカゼみたいな病気だし、ASは「高機能」広汎性発達障害。べつに脳の機能が弱いわけでもないし、分裂やADHDやLDではない人間が必ずしも「普通」ではないのは、犯罪者が必ずしも心の病気とは限らないことから明らか。
>後はなんら変わりなし!
人間というのは総体として人間なのであって部分の集合ではない。つまり全体性というのがあるのである。私からASの部分を取り去って、ASでないものをくっつけたら、私は私ではなくなる。
>町の中で錯乱状態になった人は、警察の手で病院に運ばれます。
そりゃまあ、薬物中毒患者と見分けがつかんからな。
>「ポンと肩をたたいて、ようと声をかけてくれるような、そんな人間関係
>が欲しい」というその人の言葉が印象に残っています。
ニコポン(ニコッと笑ってポンと肩を叩く)・キンメシ(「近いうちに食事でも一緒にどうかね?」と声をかける)なんていうのは、toriがいちばん厭がりそうな行為のような気がするが。
KILROY
ゆーりさん wrote:
>わたしはそれを見ながら、「いい卒園式だなあ」とは思ったのですが
>ぜんぜん共感できませんでした。
>それよりも、会場がみな一体感に包まれて気分が高揚していく
>圧迫感を感じました。「のみこまれるのが恐い」という感覚です。
>こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
>やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
>理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
>やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
泣いたり笑ったりするのはストレスの解消になるので、人は何かにつけてそのためのセレモニーを行ないます。ノれる人とノれない人がいるのは、いたしかたないんじゃないでしょうか。だいいち、「私そういうの苦手だから」と断れるものでもありませんし。
大学だとこのあたりの対処はもっとずっとクールでして、セレモニーとしての「卒業式」と、卒業証書ならぬ「学士証書」を渡す「伝達式」に別れており、卒業式の雰囲気にノれない私は伝達式にしか出ませんでした。ところが証書を渡す役の内藤先生が、私の一人前の学生が読みの難しい名前の持ち主だったので、ホッとして油断が出たらしく私の名前を読みとばし、「うぉおー!」と悲鳴をあげてしまいました(^_^;)。その後の懇談会で、内藤先生は「ごめんな」と謝りにきてくれました。
>それよりも、会場がみな一体感に包まれて気分が高揚していく
>圧迫感を感じました。「のみこまれるのが恐い」という感覚です。
というのはごく普通の感覚で、その「怒濤の一体感」を演出するために式次第というのは設計してあるわけです。体質が合わなくてノりそこない、バッド・トリップしちゃう奴は、どんなセレモニーにも必ずいます。
これに対して「お花見」なんていうのは自主的に参加しているわけですから、参加しといてシラけてしまったりしたら社会人としての常識を疑われます。逆にいうと、企業なんかの「全員参加のお花見」なんていう邪道は許せん、と思います。
世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
toriが卒業しちゃったんで虚脱状態 KILROY
きょうはようちえんで卒園式でした。
わたしは、壇上で園長先生に証書をわたす役をしました。
とちゅうで、子どもの名前を読み上げる先生が涙で言葉につまり、
泣き始めた女の子がいました。
式が進むにつれて、司会の先生も泣き始め、お母さん達も
泣き始めました。
「ありがとうさようなら〜ともだち〜♪」の歌のころには
ピアノの先生も泣きながら弾いていました。
わたしはそれを見ながら、「いい卒園式だなあ」とは思ったのですが
ぜんぜん共感できませんでした。
それよりも、会場がみな一体感に包まれて気分が高揚していく
圧迫感を感じました。「のみこまれるのが恐い」という感覚です。
こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
お世話になった大好きなうちのクラスの担任の先生が辞めてしまうのは
すごく悲しいのですが。。。
ムードに酔えない、ということなんでしょうか。ふぅ。
tori wrote:
>アホだと知りつつ、わかってもらえないと知りつつ書きます。
>
>人間は1個ずつ脳を持っている。
>それを使って自分の世界観を構築する。
>その世界観は一人一人違う。
>
>同じ世界観を他の人間と共有すれば、生きやすくなる。
>脳には生まれつきの違いがあるが、可塑性がある。
>可塑性があるが故に、それぞれの世界観を類似させることができる。
>
>ただし生まれつきの違いのために、限界が出てくる。
>中には世界観をまったく他の人間と共有できない者も出てくる。
>だが、それが即、死を意味するわけではない。
>
そうですよ。鬱だろうが・躁だろうが・分裂だろうが・ASだろうが・ADHDだろうが・LDだろうが、不幸にして脳の機能が普通の人と比べて弱いだけ。
後はなんら変わりなし!
今の社会は、許容力を失ってしまって、そういう人たちが生きていく隙間がないんです。
町の中で錯乱状態になった人は、警察の手で病院に運ばれます。何ら悪いことをしていないのにです。これって変だと思いませんか!本人にもその家族にも強い精神的なダメージを与えていると思います。本来なら収容の要請を受けた医療機関からお医者さんがきて、初期措置をしてくれるべきだと思います。
また精神疾患がいかなるものかという、啓蒙も不可欠です。ことに日本は「精神疾患=悪」というイメージが強いようです。そのためか、もう10年以上も病院に缶詰状態という人もいるみたいです。2年ほど前、私は大宮で行われた福祉系就職セミナーで、ある分裂病患者の講演を聴いたのですが、「ポンと肩をたたいて、ようと声をかけてくれるような、そんな人間関係が欲しい」というその人の言葉が印象に残っています。
てっ……照れるぜ(^_^;)。
toriへ。
たぶん俺のいいたいことは全部解ってると思う。だけどコトの成り行きに注目してる連中もいるかも知れんし、俺もはっきり言っといたほうがいいと思うのであえて書く。
俺はいま晴れがましい気持ちと喜びと照れくささで一杯になっている。
同時に俺がtoriの人生における一つの役割を終えた、という一抹の寂しさもある。
娘の結婚式に出ている父親の気持っつーのはたぶんこんなんだろうな。
俺が始めてこの『アスペルガーの館』を覗いたのが三月の八日の夜。で、今日がたかだか三月の十七日だ。たった九日間しか経ってねーでやんの。だけど俺は大恋愛をした後のような充実感?そんなものを感じている。
ただ、あんたに言っておくことがある。
相手の顔色を伺いながら、相手の気に入りそうなことを言うことだけが「人とのコミュニケーション」だと思ってはならんぞ。「相手に自分のことを伝えることで、相手を変える」のがコミュニケーションの本質だ。たぶんあんたが想像するよりも、おれは大きく変化させられた。あんたにだ。それについては口では言えんくらい感謝している。ありがとう。
あんたはたぶん気づいてないだろうが、俺たちが対話を始めた三月八日以来、この掲示板への書込みは倍に増えている。あんたが「話す」ことで、それだけ多くの人を動かした、ということは憶えておいていいと思う。この成果はあんたと俺で半々、といったようなことではない。この掲示板に書込みをしたすべてのメンバーの共同作業が、この成果を生んだんだと思う。もちろん書込みをしなかった奴だってその何倍だか何十倍だかおるんだろうけどさ、でも、そういう人たちにも「話すこと」の大切さ、っていうのが伝わったと思う。あんたはそのことを誇っていい。あんたは「本当のコミュニケーション」って奴に成功した。それは確かだ。
じつは、toriが自分のメールアドレスを公開したときに、「こいつ、変わるな」と思った。俺はちょいと背中をつついただけの役割しかしていない。だけどあんたが感謝してくれるっていうんなら、ありがたくその気持を受取ろうと思う。まあ、メールアドレスが分かったからって「こんど自分で掲示板を立ち上げたから」とか、「こんど新刊が出るから」とか、そういった事務連絡くらいしかしないだろうけどさ、とにかく世間の風に向かって「どんっ!」と立ってるあんたはカッコイイと思う。
世間にゃバカな女も多くてさ、「あんた恋愛なんかしたことあるのぉ?」みたいな態度を取られることが、この先あるかもしれん。だけど、そういうバカ女はひとの人生を変えるような、そういうずっしりと重い「関係」なんていうものを他人と持ったことなどないのである。「あたしはたった九日間だけど、人生変わっちゃうような大恋愛を、したことがあるのよっ!」と思いながら見返してやるといい。本気の人間の思いは表情だけで伝わる。相手がびびるのは間違いない。
とはいえ「なんにもなかった」って思うのもあんたの勝手。「大恋愛だった」って思うのもあんたの勝手。おれとしては後者であるとうれしい。どこかで誰かに「toriさんって人が、KILROYさんと大恋愛したことがあるって言ってたけど本当ですか?」って訊かれたら、「ああ、いい女だったぜ」と笑って答えよう。俺にとってあんたは気持の上ではそのくらい重い。ああ、なんかもういつ死んでもいいや、みたいな気分になっている。かといってあんたが気にする必要もないし、負担になるようなら忘れてくれ。世界のどこか隅っこに、恋に浮かれているバカがいる、ってだけだ。
想いは尽きないがこのあたりで終わりにしよう。「がんばれ」とは言わないし、「さよなら」とも言わない。あんたはあんたの人生をあんたなりに生きて、できればいっぱいいっぱい幸せになってほしい。ただし俺が役に立つようなことがあればいつでも声をかけてくれ。迷惑だと思うな。俺はあんたにだったら「迷惑」をかけられたい。
あんたの前途に祝福あれ。(←カッコつけすぎ、とtoriに代わってお約束のセルフつっこみ)
「俺に用があるときは口笛を吹くんだぜ。口笛の吹きかたは知ってるな? 通信ソフトを立ち上げてATコマンドを打つんだ」というのはかれこれ二十年前のネタ。今はブラウザが勝手にやってくれる。便利な時代になったもんだ。回線上で恋だってできるんだから(^_^)。
(こういう照れくさい話は今回で終わり) KILROY
tori wrote:
>アホだと知りつつ、わかってもらえないと知りつつ書きます。
わかります。
というより、toriさんの書かれていることが普通のことだと思っていました。
(それともやっぱり、toriさんが書きたかったことを私はわかってないのかな)
自分の生きにくさが、まわりの人たちとの世界観の大きなギャップによるものだと気付いた中学生の頃、
私の脳が見ている世界を理解してもらおうと、あるいは仲間を見つけようと、
多くの本を読みあさり、文や絵で自分の世界観を表現したのですが、
むしろますます変わり者扱いされただけで、
生きていくことが苦痛で、生を受けてわずか十数年目にして自分の人生に絶望していました。
でも、
私が口にしたことばから同じものを想像してもらえて、
同じ感覚や感動を分かち合える、
私と近い世界観を持つ仲間達が生きている世界がどこかにあるんだと空想して、
その世界に名前をつけ、そこでの日々や仲間たちとの会話を空想することで
救いにしていました。
シュッツさんへ
成人LDのくるとです。
シュッツ wrote:
>リンコさん訳の
>「片づけられない女たち」
>「片付かない、見つからない、間に合わない」
>など、ADD(ADHD)の一般向けの簡単な解説書はあるのですが、同じ
ようにASについての簡単な本はないでしょうか。
1番のお薦めは
トニー・アトウッド『ガイドブック アスペルガー症候群 親と専門家のため
に』(富田真紀,内山登紀夫,鈴木正子訳 東京書籍
1999年刊)
という本です。実際には親や専門家だけでなく本人にも有益な情報が記され
ています。翻訳ですが、かなりわかりやすかった気がします。これだけはシュ
ッツさんのホームページから抜けていました。
ところで、ホームページを見てびっくりしました。ずいぶん色々な本を読ま
れていたのですね。時々参考にさせてもらうかもしれないので、その時はよろ
しくです。
tori wrote:
>アホだと知りつつ、わかってもらえないと知りつつ書きます。
>
>人間は1個ずつ脳を持っている。
>それを使って自分の世界観を構築する。
>その世界観は一人一人違う。
>
>同じ世界観を他の人間と共有すれば、生きやすくなる。
>脳には生まれつきの違いがあるが、可塑性がある。
>可塑性があるが故に、それぞれの世界観を類似させることができる。
>
>ただし生まれつきの違いのために、限界が出てくる。
>中には世界観をまったく他の人間と共有できない者も出てくる。
>だが、それが即、死を意味するわけではない。
>
>世界観の共有は生きるために不可欠な要素ではない。
>生きやすいか、生きにくいかの違いである。
toriさん。本当の哲学を勉強してみたら?わかってくれる人がたく
さんいると思いますよ。(成人LDのくると)
アホだと知りつつ、わかってもらえないと知りつつ書きます。
人間は1個ずつ脳を持っている。
それを使って自分の世界観を構築する。
その世界観は一人一人違う。
同じ世界観を他の人間と共有すれば、生きやすくなる。
脳には生まれつきの違いがあるが、可塑性がある。
可塑性があるが故に、それぞれの世界観を類似させることができる。
ただし生まれつきの違いのために、限界が出てくる。
中には世界観をまったく他の人間と共有できない者も出てくる。
だが、それが即、死を意味するわけではない。
世界観の共有は生きるために不可欠な要素ではない。
生きやすいか、生きにくいかの違いである。
ねこめ4 さん と 武田さんへ
ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。
ちょっとぐったりしてますが、もう平気です。
ねこめ4 さん、一番初めにレスを頂きありがとうございました。
武田さん、カモマイルティは飲みませんでしたが、ほうじ茶を飲みました。(笑)
その他、陰で心配してくださった皆様、お騒がせしまして申し訳ありませんでした。
「こんなこと書き込むなよ」と思った方、大変ご迷惑をおかけしました。どうかお許しください。
まず、言っておかなければならないのは、
私はこれだけペラペラ書いておきながら、視覚優位の人間だということです。
私の思考は言葉では出来上がっていない。
それを言葉に翻訳して書いたり、話したりする。
言葉で考えていると、そのうち自分が何を言いたいのかわからなくなってくる。
それで、言葉でのコミュニケーションは非常に苦手なのです。
常に自分の伝えたいことと、実際に書いた(話した)言葉とのギャップに苦しんでいます。
それともう一つ言っておかなければならないのは、著しく共感性に欠けるということです。
おそらく私は、「死」を感情的には理解していません。
それと、他人の感情を理解する行為が非常に苦手です。
私が人とコミュニケーションを取る際に一番恐れているのは、相手が怒ることです。
もっと突っ込んで言えば、相手が怒って暴力をふるうことを恐れています。
これが人とコミュニケーションを取るときの妨げになります。人と接する時は異様に緊張します。
アホかとお思いでしょうが、掲示板上でも同様です。
これに加えて、何か一つのことに集中すると、それだけしか出来なくなるという癖があります。
これが私には苦痛です。とても人には言えないようなことに拘って、ひとしきりそれが済んだ途端、
「何じゃ、こりゃ。こんなことに時間を費やしてアホと違うか」という自己嫌悪で一杯になる。
たとえ人がそれを見て素晴らしいと言おうが、私の中では「くだらん」の一言でしまいです。
何の意味もないと思ってしまう。完成したものは即、壊したくなる質です。
何でも突き詰めれば新たな発見がある、ということはよくわかっています。ごく小さな部分を極めることで、
全体の構造がたちどころにわかってしまった、こういう経験は何度もあります。
しかし私の場合は、それが興味の終わりなのです。構造が掴めればもう終わり。
でも、KILROY さんの書き込みを読んでいて考えが変わりました。
確か、この掲示板に初めて書き込んだのは2月の前半だったと思います。
その時が、私の掲示板初体験でした。それまで私は、個人的に人とメールをやり取りしたこともなければ、
掲示板に書き込んだこともありませんでした。(今でもメールの方はありません)
なぜ書き込んだかというと、これまで一度も自分と似た人間というのを知らなかった私は、
生まれて初めて、自分と少し似ているのではないかと思える人たちを、この掲示板上に発見しました。
でもやっぱり違うのですね。私は基本的に人とのコミュニケーションを望んでいるわけではなくて、
自分の意見を述べたかっただけなのです。
もしかすると、この人たちはわかってくれるのではないだろうか、という期待がありました。
でも、やはり本当のことは書けませんでした。
キチガイ扱いされるのではないかと、過去の苦い経験が思い出されます。
ちなみに、私はこの文章を書くのに全力を傾けています。
書き始めてから、現在で4時間20分が経過しています。
私は一度に一つのことしか出来ません。
私にとって、人とのコミュニケーションは、その「一つ」に当たります。
自分にとっての「芸術作品」と、「人とのコミュニケーション」のどちらを取るか、
もうおわかり頂けたと思いますが、私は前者を取ることに決めました。
KILROY さんにとって、掲示板上で人とのコミュニケーションに全力を傾ける私は必要ないでしょう。
私はこのまま無職で終わるつもりはありません。でも生きていれば、どこかで実際に会えると思う。
類は友を呼ぶと言いますから。まあその時は、私が tori だとはわからないわけですが。
KILROY さんが私の何を気に入ってくれたのか、全然わからないけれど、
もし私に似たような奴が周りにいたら、遠巻きに眺めていてやってください。(笑)
という訳で、掲示板への書き込みはこれで一旦終わりにします。たまに覗くと思います。
KILROY さんの仕事が上手く行きますように。(←これは本心)
KILROY さんが長生きしますように。(←これはちょっと嘘っぽい(笑))
短い間だったけど、楽しかったです。ありがとうございました。
KILROY さんが私のことを友達ではなく、「友人」と書いてくれて嬉しかった。
「俺はあんたを失いたくない」と言ってくれたことも忘れません。
ちょっと、生きていてよかったなと思いました。(「ちょっと」、というのが味噌だったりするが(笑))
追記: No.3477 『panic』 で書いた発作は、これまでにもあったことです。頼れるところがあったので頼っ
てしまったというのが真相です。それだけこの掲示板のウェートは私の中では大きかった。
ご心配をおかけしてすみませんでした。KILROY さんの記述、とても参考になりました。
次回、おかしくなる前に、病院に一度行っておこうと思います。
>とはいえ元気んなって帰ってきたら、また容赦なく議論吹っかけるから覚悟しとけ。
その時は、どうぞよろしく。
おーい、toriよぉ、俺はお前が元気ねぇと寂しいよ。心配だよ。
そりゃあもちろんヒトゴトだよ。お前がどんな人間でどんな生活してっか俺はぜんぜん知らねぇよ。お前がどんなに苦しんでようが、俺自身は(肉体的には)痛くも痒くもねぇよ。だけどそのこと自体が哀しいよ。
「早く良くなって帰ってこい」なんてことも言えねぇよ。「がんばれ」とも言えねぇよ。人それぞれ自分のペースってもんがあるしさ、自分の納得のゆくペースで養生するっきゃねぇわけだし。
だけど……だけど言わせてもらえば、俺はあんたを失いたくない。それは事実だ。赤の他人でなんにも知らねぇ相手だけど、それでも「失いたくない」っていう気持だけははっきり断言できる。で、その事実を頭のどっか隅っこの、あんまり負担にならないところに置いておいて、それがもしかして何かの役に立つなら役立ててもらいたい。そう思ってる。
「心配をかけるな」みたいなことも言わない。「心配かけたくない」とかいって遠慮されるのは嫌だからだ。あんたが苦しんでんなら、俺にも苦しませてほしいと思う。「そんなの何の役にも立たないじゃん」と言われるかもしれない。確かに回線のあっちとこっちでいくら気に病んだからって、なぁーんの効果もありゃしねぇ。だけど、と俺は言いたい。とはいえ「だから何だ」と言われたら、何を言っていいのかはわからんが。
こういうことを大勢の人間の目に触れるような場所に書くなんてぇのは、「どっかおかしい」と思うかもしれない。だけど、こうやって後戻りできないところに身をおかなきゃ、気持ちってぇのは伝わんない、っていうのは、いままで議論してきたことからいって、理解してもらえると思う。伊達や酔狂、冗談やからかいじゃないっていうのを理解してもらうには、こうするのがいちばん手っとりばやいと俺は思った。
「こんなこと書かれちゃ迷惑だ」っていうんなら謝る。もちろんこのメッセージも削除する。だけど、あんたが苦しんでんなら俺は言ったほうがいいと思ってこう書いた。
こういう勝手な思い込みみたいなものが迷惑だと思われるかも知れないから、あらかじめ謝っとく。ごめんなさい。
とはいえ元気んなって帰ってきたら、また容赦なく議論吹っかけるから覚悟しとけ。
KILROY
>
>あなたが、今日本の世の中で、危機的だと思うことは何ですか?
私が危機的に感じていることは、世の中の画一化です。画一化というのは、生活の豊かさということは確かにもたらしてくれます。しかしながら心というものは、それによって柔軟性や耐久性を失ってしまい、人間は生きていく力をそがれてしまいます。
ミヒャエル・エンデが書いた童話「モモ」には、次のような一節があります。
#大都会の北部には、広大な新住宅街ができあがりました。そこには、まるっきり見分けのつかない、おなじ形の高層住宅が見渡すかぎり延々と連なっています。
#建物も同じ形に見えるのですから、道路もやはり同じに見えます。
#そしてこの同じ外見の道路がどこまでもまっすぐにのびて、地平線の果てまでつづいています−−−−整然と直線の連なる砂漠です!
#ここに住む人の生活もまた、これと同じになりました。
#地平線まで一直線にのびる生活!
#ここでは何もかも正確に計算され、計画されていて、1センチのむだも1秒のむだもないからです。
今の日本も次第にこのような状態になりつつあります。我々AS族は、もちまえの良心と独創性そして冷静な分析力を活用して、このような状況が進むことを阻止しなくてはなりません。
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