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Re: 生まれ変わる? 3774へのコメント
No.3808  Tue, 3 Apr 2001 20:22:18 +0900  みどりちゃん [この発言にコメントする]

くると wrote:
> もし、みなさんが生まれ変わることができるとしたら、今の人生を繰り返し生きたいと思いますか?
>それとも、全く別の人生を生きたいと思いますか?

私自身はこのままでいいけど、
世の中がもうちょっと変わってて、ASなど少数派への配慮がなされているといいなぁと思います。

・・・ってことで、全く別の人生は望まないけど、今よりちょっと楽に生きられる世の中であって欲しいです。
むしが良すぎるかしら?

さくらかのえ wrote:
>性格や感性や知識など今のままがいいと思う。気に入ってるから。
>若い頃は、いろいろと今考えるとしょうもないことで悩んでいたので、できたらもっと早くから いろんなことがわかって悩まないですみ
>自分を肯定できる人生を歩みたい。
私もそう思うですよ。はい。


Re: どなたか教えて下さい! 3777へのコメント
No.3807  Tue, 3 Apr 2001 20:18:35 +0900  みどりちゃん [この発言にコメントする]

武田好史 wrote:
>1.保健所に連絡して、「精神障害者通院医療費公費負担」について問い合わせる。
問い合わせをしてもしなくても、保健所へ行き「精神保健法32条の申請書をください」って言えば 申請に必要な書類をもらえます。
私の時は、申請する頃に具合が悪かったので、保健所に電話して「具合が悪くて取りにいけない」と事情を話してお願いしたら
保健所の人が申請書を自宅に郵送してくれました。

>2.精神科のお医者さんにかかるときに、「医療費の公費負担の制度の32条の適用をお願いします!」と言う。
うん。そう言いましょう。

>3.お医者さんが出してくれた書類にサイン・捺印する。
正しくは、
 1.お医者さんが(保健所でくれた用紙に)診断書を書いてくれる
 2.自分は保健所でくれたもう一枚の用紙(こっちがホントの申請書)にサインする
 3.2.に1.を添えて保健所に提出する
です。
保健所が診断書を受理したその日から適用されるので、その日から医療費の自己負担額が安くなります。

> どれぐらい安くなるかといえば、3割の医療費の自己負担分が 0.5割になるので2970円の薬代が360円になるようです。
国民健康保険に加入している場合は、3割の自己負担分の全額を公費で負担してくれるので自己負担は 0割になります。
社会保険(会社の保険等)に加入している場合は、2割又は3割の自己負担分のうち、1.5割 又は 2.5割を公費で負担してくれるので
自己負担は 0.5割になります。

>この「32条」とはどの法律に属する条項なのでしょうか?
精神保健法という法律だそうです。

>またみなさんのなかに 、これを利用した経験のある人はいますか?
はーい。 今使ってます。
これは、どんな人でも経済的な心配をしないで安心して精神疾患等を治療できるように設けられている措置で、
精神科、神経科、精神神経科、等のいずれの科でもOKですが、それらの診療科を受診している人なら誰にでも適用される法律です。
医師の意見で、この人には適用される、この人には適用されない、などと振り分けられるような性格の法律ではありません。
病院で32条の申請をしたいと申し出たときに、もし お医者さんが渋るようだったら、
そのお医者さんは患者のことを本当に思ってくれているとは言い難いのではないでしょうか。
私だったら転院を考えます。

みる wrote:
>ただ、お役所に書類を提出してからそれが受理されるまで、1ヶ月くらい時間がかかるので、
ぇ?、役所の仕事っていうのは、申請された書類は不備がない限りその場で受理しなきゃいけない決まりになっているはずだけど
何か間違ってません?

ぽよ子 wrote:
>サインと捺印をして、登録料だか手数料?を\2000位その場で払ったら、次回の診察(二週間後だったかな?)から適用されました。
たぶんそれは、診断書の代金だったんじゃないかしら?

みる wrote:
>メリット・デメリットなど、経験ある人がいたら私も教えて欲しいです。
私もデメリットは感じたことありませんし、何かデメリットがあるという話も聞いたことないです。


明日のにんげんゆうゆう
No.3806  Tue, 3 Apr 2001 20:03:46 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

 明日のNHK教育テレビ「にんげんゆうゆう」(19:30)は、ASの子供たちのことを特集するようです。親御さんはぜひ見てみて下さい。


Re:Re: 生まれ変わる? 3801へのコメント
No.3805  Tue, 3 Apr 2001 19:58:47 +0900  ひろた [この発言にコメントする]

こんにちは ひろたです 
またきてもいいよといわれたので来てしまいました (^^;>KILROYさま
#ところでひろたとKILROYのやおい本を出そうとしている皆様へ
#恋愛の前に、はじめにKILROYさんにであって、すぐ一通り発言をよんだときから今にいたるまでずっとKILROYさんは結構僕にとっては恐い存在だったのだ。信長とか曹操みたいな感じか!?正しい(と芯から受け入れてしまう)存在というのは、目の前にあると、実はすごく恐い。でもだからこそ、そこから目をそむけたりしたくないんだな。この前、ある人(団体)から逃げて結局運命からもしばらく逃げることになった気がするから。まあそいでこことかその頃見つけたわけだがね。まあ、そこんとこはしっかり押さえてくれるよーに  
 
KILROYさん、いつもテーマが自分の興味ある事も多く楽しく読ませて頂いてます でもちょっと今回は聞いてみたくなった事がったのですよ
> 「空気」と「多数決」に「論理」と「レトリック」と「情報操作」で対抗するという「マキャベリストのゲーム」に熟達しておくというのは、AS傾向の人間が世渡りをしてゆく際には有効なことだと思います。
>
> こうなると、立場は逆転します。「あの人は自分に都合が悪くなるとすぐ逆ギレしちゃうんだよな。」「暴力的な傾向を抑えられない人間って、いるんだよね。」「あいつ異常なんじゃないの?」みたいに指差される立場に立たされてしまうわけです。
>

僕はここにもっていくのはけっこう至難の技な気がするのですよ。KILROYさんはこれは「自明性」に疑いを持っている人(この前のロゴシズムだね)に、お勧めしたい方法と本当に考えていますか?
もしそうなら、もうちょっとその際の成功の為のポイントや、シチュエーションなどを語ってくれると助かります。
この前、いつも“あの先生のコネはどうで、あの人は何派だ”とか、権力の話ばかりしている学校の計算機室の元ボス(最近卒業しちゃったけれど)の論理があまりにおかしかったので(他の人みたいにあとで陰口言うのも誠実でない気がふとしてしまったので)結構しつこく食い下がって詰問したら、後で違う話題でえらい目にあったばかりです。

(ただそれが何の為に有効なのかという視点まで考えると、やっぱり僕なんかは、まず、やらないほうが良いのでしょうな。きっと。いままで自然にKILROYさんのやったような事をして上手くいかなかったって事はやれば必ず無理がでる。KILROYさんのいうとおり、一本筋がとおって、小悪人的不誠実や嘘や虚栄のない善人が一番強いのですよね。そうおもう。僕みたいな弱い人間だと特に大義名分のない虚栄はやっぱり目に見えて心と気と消耗する。)

数年前、学生のわるふざけで、親友
#(僕の意味不明の文章の校正をしていっしょに小説を完成させてくれた人で、知識や物事をきちんと整理する力に長けていたので彼と組めば僕もそれなりに力を発揮できた)
と組んで、ある、あまりに「自明性に疑いを持っていない」ようにみえる友人を下宿部屋に連れ込み、酒飲みながら、二人で囲んで詰問した事があったがやっぱり上手くはいかなかった。(「自明性に疑いを持っていない」通常の人の倫理観ははたして「ずるいだろ」という感情にもとずいているのだろうかという事を彼を例として検証してみるのが悪ふざけの悪い目的だった)うーんと、たしかお題は「なんで空き缶のぽいすてがいけないのか」だった気がするな。刑罰ではないし、地球環境もそこまで関係ないはずだろとかいって突っ込んだわけですな。(実際はひろたは缶ジュース自体そんなに飲まないけれど)
「なんかわからないけど、やっぱりなんかだまされている気がする」「あーやめやま。なんかむかつくからおめえとはもうはなしたくねえ」とは数時間後こっちののどか枯れるまでそれをやった後の彼の「意見」。いやはや大学はいりたての学生だから許される若さあふれる所業ですな。



うーん、でも話がいつもわかわかんないといわれてばかりだから、ちゃんとしたお話も、気を使えば出来るのなら、たまにでいいから、やってみたいなあ


ここのみなさまに聞いて考えて欲しいなと思って書いた事という点では内容は以上のみです
以下はこの件に関連して感じてきた事をだらしなくいろいろかいてみました





まずひろたの自分史(当然、主観入りの「わかりやすい」「物語」)から

> われわれAS傾向の人間は、「自明性」に疑いを持っています。ところが「普通の人」というのは、自分たちの「自明性」をまったく疑っておらず、それをわれわれに押しつけてきます。だから、われわれは「普通の人」に「『自明性』を疑え!」と主張するんですが、彼ら(あるいは彼女ら)にとっては、『自分たちの「自明性」を数にものを言わせてマイノリティに押しつける』という方法は、じつに都合がいいんです。ですから、われわれの抗議は「あいつらはなんで当たり前のことに疑問を持つんだ?」といった形で、その中身を検討されることなく「迷惑なこと」に分類されてしまいます。
>
ひろたがこの「自明性を疑え!」をはっきりと主張し始めたのは大学に入る半年ほど前からです。科学的精神というのが、ここから始まるというような事を書いてある本にたくさんこの頃遭遇し、「僕はこれが出来る、してきたんだ」なんて勝手におもって、真似してただけです。

そのうち、徹底的に話し合う機会が来ました。大学一年の秋の事です。僕は募集を見つけて、一種公務員(建築の設計や理論を屋ってたらしい)を早々と引退して、自適生活をしているおじい様の所に、住み込みをする事になったのですが、そのおじい様が、「インテリ」で、おはなし好きだったものなので、いろいろ話すことになりました。竜馬が行くなど司馬さんの本は全てもっている方で、時事問題を「いい天気だ」という感覚で話し、まず、僕へアドバイスした事は、「朝日新聞の社説は常識なのでちゃんと良く読む事」「字は人格をあらわすのでちゃんと綺麗に書きましょう。私なんか社員研修担当だったが字がきたない奴はそれだけで大マイナス」。などという泣けてくるほどの正統的教養派の人間でした。
それで良く議論しましたが、たとえば、国歌の問題とかKILROYさんが書いたような事とかいうとどうも話がかみ合わなくなってくるわけで。もちろん最後は怒る訳ですが、そこにいたるまで、相手の認識は、どうもこいつはレベルの違うことを比喩にだして議論をしているのではないか。とか、そういう認識をするようで。
そして、その自明性の揺さぶりに関しては、何もわかってないくせにそんな事簡単に言ってというたぐいの怒りになる様で。後はなぜかいつも自分の事(とか日本の事)しか考えてない(僕的には??だったが)等などのお決まりの朝日新聞的嘆きにいつも終着するのが不思議でした
その頃しばらくして、思ったのは、ああ人間を説得するのは理論ではなくて感情なのかという事。ふれて欲しくない自明性をかき回される事はレイプされる事のような事なのかなあと想像したりとか。(僕は議論でキレませんが、失敗して落ち込んでるときに、考え方や生き方が全く違う人に、上の立場から、したり顔で説教食らうとやっぱり心にずんと来るものもある訳で)

> われわれはもっと、「底意地の悪さ」を身につけたほうがいいんじゃないだろうか、と思います。われわれには「普通の人」の「自明性」の矛盾を見破る目があります。だから、その矛盾を増幅して彼らに帰し、彼らの「自明性」を揺るがせてやるのです。かれらは「自明性」に盲目的な信頼を置いているがゆえに、こうした攻撃には非常に脆かったりします。
>

それでも、自分の考えを断固として主張しなければいけないようにおもう時はあるのですよね。僕の場合始めの彼女と付き合ってた頃、おたがい共依存でかつ、生き方が違ってきたので、相当いろいろ話しました。彼女はキレましたが、かといって、自明性を揺さぶられはしなかったように思う。ここでも言われる事は同じ、話のすじが読めない。なぜ、そんな関係のない話をここでするのか。そんな話をたとえばなしに使われて、わからない。屁理屈に聞こえる。
##
今思うと反省するのは、僕は相手の言いたい事(論理や彼女の感情が行き着く先の予測ではなくて)を理解しようとしただろうか、僕は相手のはなしを聞こうとしただろうか。どのような感情で話ただろうか。 と言う点で、これは特に相手の性質に対して媚びる必要も、議論をするべき相手かどうか、相手を選別したり切り捨てたりしてはいけない理由もちゃんと存在するパートナーとのコミュニケーションではとても大事な事ですが、それは今のお話の筋と違うので省略
##
いままでつきあった女性というのは僕にとっては、友達からはいるというより、どっちかというと、友人期間は二か月程で、いきなり恋人になった人だったのでいろいろと違う視点を学びました。今の彼女と会って、自分の親などの事も思って感じた認識は、 ああ、普通の人って、たしなみ(悪く言えば出来る奴とおもわれたいって事)から、一見議論好きに見えるだけであって、本当は議論をした時のあの妙な興奮感が嫌いな人も多いのねって事。

やっぱり友人は議論の理屈が自分と合う人が多いわけで、そうでない人とそれなりに徹底的に話したのはこの彼女二人とおじいさまかもしれない。

> 「空気」と「多数決」に「論理」と「レトリック」と「情報操作」で対抗するという「マキャベリストのゲーム」に熟達しておくというのは、AS傾向の人間が世渡りをしてゆく際には有効なことだと思います。
>

それでです。僕にはこのKILROYさんの戦略がいまいちリアリティを帯びないのはなぜなのか。ただこれを読んでると興奮するくらい本当は格闘好きなんだけれども(なんて書くとまた嫌われそうだ。まあ、いい感じに最近は発散してるので、別に悩んだりしたないです。)

どうしてか 自分なりに分析してみると、

1 キャラの違いか

僕はどっちかというとひょうひょうして、バカでーすという感じの温和タイプのキャラなので、(かといって自分が思ってる以上に馬鹿ですとアピールしてるわけでもないから欺いてもいないのだが)いきなり議論をしだすと、こいつ何言ってるんだっていう先入観がはいる。これが大きすぎるとさすがに、上手くいくはずもない。(そこをはねのけてやるくらいが理想ですが)

2 知識量(単語量、データ量)の違いか

これも1と重なりますが普段からの信用と議論のときに正確な言葉使いが出来るかです。忘れやすいひろたでした。(多分もうそろそろアスペに関しても語れなくなる頃だ。この前久々に半年前の自分の日記を見たら、わけがわからなかった)

3 段取りのちがいか

いかに戦略的に前もって準備しているか。 「気」(つまり相手に対しての姿勢)にちゃんと気を使っているか。 さらにアドリブの上手さのちがいなど

自分がリアリティを持てなかった理由を自分なりに分析するといまのようになるのかな
””””
自分は前に僕はインテリよりイタコに近かった、といったのはここにリンクするかもしれません。相手がわからなくても良いからボソッと布石を打っておく。だから、相手の頭の中でつながってくれるのを待つだけです。最後の抵抗だけれど、それで満足としていいかなと。相手に対して誠実であれば、これだけでも、自分がその時その時で調子のいい事を言って合わせているのではなくて、前々から考えてた事なのだとかそういう事を感じてもらえる事はあります。そのうち好意的にじぶんのことばに耳を傾けてくれる人も存在してくるかもしれない。



#####
所でちょっと話は変わりますが最近思ったのは議論(ディベート)と論理的話し合いは別という事。論理的話し合いではおたがいにインスピレーションをわかしあいながら前に進んで行く事が重要なので、ディベートのように相手との論理の違いに注目して議論の進行の明確化をするとかえってよくない。ディベートのようにやってしまうと、結局結論が、論理的枠組みは違うけどいってる事は結局いっしょだよねってことになってしまいかねないと思う だから友達と話すときは僕のスタンスは議論でなくてブレインストーミングだといったりしている。 どうでしょう  
#####



> べつに喧嘩を売ろうとかそういった意図はまったくないのだが、ここ数日の私は武田好史さんに無性にツッコミを入れたい気分になっていたりする。
>
そう言えば僕もそんな事あったな でもなんか僕にはやっぱり誠実さがかけてたので今は反省です(あ、もうゆるしてくれてるのかな、武田さん!?)

 

相変わらずのわかりにくさでよんでくれた皆さんすみません これからも、話題によっては極稀に召還されます ひろた


Re: 最近、何にハマってますか? 3800へのコメント
No.3802  Tue, 3 Apr 2001 16:31:53 +0900  KILROY [この発言にコメントする]

チイママさんwrote:
>もしよかったら、皆さんの最近ハマってることを教えて下さい。
 以前は腐るほどいろんなものにハマりまくっていたのだが、心臓を壊し職を失ってからは「金と体力を使わずにすむ趣味」ということになって非常に限定されることになった。「ボトルシップはいいぞ」という話もあるのだが、私はああいう非生産的なものはどうも弱い。カワニナ(つまりはホタルの餌だ)とメダカの養殖ノウハウの蓄積、というのもあったのだが、最近ほぼ完成しちゃったので卒業である。ハーブ栽培も使いきれないものでこのところ熱気が失せ、ジャム作りと漬け物作りもこのところご無沙汰である。以前は「シャンパン風どぶろく」なんていうのも作ったが、爆発事故を起こして以来ちょっと遠ざかっている。餃子とカレーは一応「極めた」という自信がついたのでこれも卒業。

 で、結局のところ私の一番長続きしている趣味といえば、「スカベンジング」である。日本語で「落ち穂拾い」。かの寺田寅彦大先生が「小屋掛けの落ち穂拾い」と呼ばれたというところから頂戴した。

 つまるところ、「どうでもいいこと」に疑問を持ち、それについて徹底的に調べる、というのが趣味なのである。インターネット使いのAS者にとってこれほど適した趣味があるだろうか(いやない。反語表現)。日本という国は恐ろしいところで、「これは」という文献はほとんど日本語に訳されている。図書館に行けば金もかからないし、学術書の類はリクエストすれば(時間はかかるものの)取り寄せてもらえる(ついでながら、最寄りの図書館で『ふたりで聖書を』をリクエストしてくれると嬉しかったりする)。

 魔女はなぜ箒の柄に跨がって空を飛ぶのか(これはドイツ語に起源があるのが分かった)。プログラムの間違いのことをなぜ「バグ(bug)」というのか(これは誤用だというのが分かった)。バニー・ガールというのはなぜバニー・ガールなのか(これにはけっこういろんな由来があったりする)。「銀杏」と書いてイチョウと読むのはなぜか(「鴨脚(ヤーチャオ)」が語源。葉っぱの形から)。九官鳥に「オタケサン」と喋らせるのは何故か(これは正確には「オタキサン」のはずだったのだが、「オタケサン」になってしまったのには理由があったりする)。「女性が性的な絶頂感を得ること」を「いく」と表現するのはなぜか(これには古代史の謎まで絡んでくるから面白いのである)。「赤ずきん」はなぜ赤いカプチンをまとっているのか(この疑問を解くために、ルネッサンス史から中世ヨーロッパ史からキリスト教史、はては古代ギリシャ史まで追いかける羽目になった)。コンピュータを起動することをなぜ「長靴(boot)」というのか(これは意外につまんなかった)。幻といわれたダマスカス鋼の正体はなんだったのか(これは最近『日経サイエンス』に正解が出た)。「関東風のお節料理」の定番は何なのか(重箱は五段重が正式、というのを私はこれで知った。昔の人はホンダワラを食用にしていた、というのもこれで知った。で、よく見ればお正月の玄関飾りには、このホンダワラが使われているのである!)。「春の七草」のうちの「スズシロ」の正体は、じつは大根ではなくてスズシロナという別の植物ではないのか(これはいまだに結論が出ない)。
 こうした「はっきり言って『普通の人』にとってはどうでもいい」ことを徹底的に調査する、というのが面白いのである。プロの研究者はこういう「業績になりそうにない」研究に首を突っ込むような真似はしない。これらは完全にアマチュアの仕事である。それなりの成果が出たら、何らかの形で発表してみるといい。また、この趣味の強みは(文章が書けないとちょっと辛いものがあるが)、仮にベッドから一歩も動けず、人と会うことが苦痛であってもなんとかなっちゃうという点にある。ASである、ということが比較的ハンディになりにくい、という利点もある。

 こういう趣味は、いかがなものか。 所長


Re:Re: 生まれ変わる? 3797へのコメント
No.3801  Tue, 3 Apr 2001 14:06:38 +0900  KILROY [この発言にコメントする]

 べつに喧嘩を売ろうとかそういった意図はまったくないのだが、ここ数日の私は武田好史さんに無性にツッコミを入れたい気分になっていたりする。

武田好史さんwrote:
> 人間は、この営みすなわち「哲学」を駆使して、200万年以上地球で生活し、
>今や宇宙へと飛躍しようとしています。
 「哲学」、フィロソフィ、すなわち「知を愛すること」は、むしろ「内的な価値」に迫るものであって、そういった物質文明とは別次元のものなんじゃないでしょうか。ですから、
> 環境問題・食糧問題・平和の維持・真の人間らしいライフスタイルなど、私た
>ちの周りには探求を要することが山積みです。
というのも、どこか論点から外れているように思うんですね。これらの問題は、すでにテクノロジーの枠を越えて、「我々は何を選びとってゆくか」という「価値観」の問題に帰しつつあるように思います。
 また、
> 「悩む・考える・工夫する・共有する」は、よりよい世の中を創る第一歩です。
とはいうものの、どんな世の中が「よい世の中」なのかというのが、哲学における問題なんだと思います。
 ですから、私は
>今の日本がダメになったのは、きっと目先の利益の追求のために、「哲学するこ
>と」をおろそかにしてきたつけが回ってきたのだと思います。
という視点にも疑問を持っています。今の日本は、「とりあえず豊かになる」ことが良いことである、という「哲学」に基づいて努力してきた結果、その「豊かさ」に裏切られた結果として、そうした「哲学」に対する反省が生まれた、と見るべきでしょう。

> 私は、ASの人は「哲学をする」ために、この世に生きているのだと思います。
という意見は、前向きではありますが、正直言って疲れる考え方だと思います。ASの人間は「普通の人」にとっての「自明性」というものに疑いの目を向けざるを得ず、結果的に「哲学させられちゃう」面は確かにありますが。
 たとえば、「君が代」「日の丸」がダメだという人の多くは、「なぜダメか」と質問されても「ダメなものはダメ」「そんなの当たり前でしょう?」程度の認識しか持っていないわけですよ。で、反対派の「君が代」「日の丸」肯定派にしたって、やっぱり「自明のこと」以上の理屈を持出すことのできる人はごく少数なんです。で、少数の「哲学」してるヒトたちさえもが、この「自明性」というところに逃げ込んでしまっているんですね。「国を愛する」ということがいいことなのか悪いことなのか。「いいに決まってるだろう! でなきゃ国が滅んじゃうじゃないか!」「悪いに決まってるだろう! だから戦争なんかが起きるんじゃないか!」といったところで、話は終わってしまうのですね。
 たとえばの話、日本では公の場で『軍艦マーチ』を演奏することに差し障りがあるとされています。ところが世界中の軍隊の軍楽隊は、必ずといっていいほど『軍艦マーチ』をレパートリーに入れています。なのになぜ日本だけがダメなのか?
 「軍国主義につながるから」「過去の忌わしい侵略戦争の歴史を(アジア近隣諸国の人々が/日本人が)思い出すから」「軍事力を持つこと自体が悪いことだから」「皇国史観につながるから」。いろんな解釈は成立つんですが、じゃあ日本は軍事力を持たなくていいのか、あの戦争を単なる「侵略戦争」と片付けてしまっていいのか(あるいは日本が侵略されちゃってもよかったのか)、だったら天皇制というのはいけないことなのか、自衛隊の存在をどう考えるのか、そういったことをなぁーんにも考えずに、ただ「『軍艦マーチ』はいけません」じゃどうしようもないんですよね。

 われわれAS傾向の人間は、「自明性」に疑いを持っています。ところが「普通の人」というのは、自分たちの「自明性」をまったく疑っておらず、それをわれわれに押しつけてきます。だから、われわれは「普通の人」に「『自明性』を疑え!」と主張するんですが、彼ら(あるいは彼女ら)にとっては、『自分たちの「自明性」を数にものを言わせてマイノリティに押しつける』という方法は、じつに都合がいいんです。ですから、われわれの抗議は「あいつらはなんで当たり前のことに疑問を持つんだ?」といった形で、その中身を検討されることなく「迷惑なこと」に分類されてしまいます。

 われわれはもっと、「底意地の悪さ」を身につけたほうがいいんじゃないだろうか、と思います。われわれには「普通の人」の「自明性」の矛盾を見破る目があります。だから、その矛盾を増幅して彼らに帰し、彼らの「自明性」を揺るがせてやるのです。かれらは「自明性」に盲目的な信頼を置いているがゆえに、こうした攻撃には非常に脆かったりします。

 たとえば、私は「『軍艦マーチ』は反戦歌である。だから小学校で教えよう」とか言いだしちゃうんですね。
 「守るも攻めるも鉄の 浮かべる城ぞ頼みなる」というのは、林子平の『海国兵談』を持出すまでもなく当然の話で、実際に攻めるかどうかは別問題です。「浮かべるその城日の本の 御国の四方を守るなり」というのも、海上保安庁の船が日本の海を守っている以上、当たり前のことです。「真鉄のその城 日の本に 仇為す敵を攻めよかし」というのも、相手が「日の本に 仇為す敵」である以上、「集団的自衛権」の行使に当りますからなんら問題はありません。
 つまり『軍艦マーチ』は、「日本はあくまで日本という国を守るために軍事力を保持しているのですよ。どこかの他の国のように、侵略意図を持って軍事力を保持しているのではありませんよ」というアピールなのです。
 こういうことを真面目に主張すると、「普通の人」は「そんな事があるものか!」と逆上してしまいます。「ダメなものはダメなんだ!」と。ですが、法治国家日本では、公式の論争のルールは「キレたら負け」なんですね。で、「じゃあ、なぜダメか」ということになると、そこで自分が足場にしていた「自明性」なるものがガラガラと音を立てて崩れてゆくのに気づき、パニックを起こしてしまうんです。
 こうなると、立場は逆転します。「あの人は自分に都合が悪くなるとすぐ逆ギレしちゃうんだよな。」「暴力的な傾向を抑えられない人間って、いるんだよね。」「あいつ異常なんじゃないの?」みたいに指差される立場に立たされてしまうわけです。

 「空気」と「多数決」に「論理」と「レトリック」と「情報操作」で対抗するという「マキャベリストのゲーム」に熟達しておくというのは、AS傾向の人間が世渡りをしてゆく際には有効なことだと思います。

 私が練習台になろう。かかってらっしゃい。 (Mr.Moto)


Re: 最近、何にハマってますか? 3798へのコメント
No.3800  Tue, 3 Apr 2001 12:47:43 +0900  ななは [この発言にコメントする]

チイママ wrote:
>私の情熱(?)は長続きしません。
>最近、読書・音楽鑑賞・絵を書いたり・陶芸をしてみたり・いろんな物を観に行っ>たりしましたが、どれもその時にはとても感動している自分ですが、その感動が長>続きしないので趣味にまで達しません。
>もしよかったら、皆さんの最近ハマってることを教えて下さい。

こんにちは、チイママさん。
今はまっていることは、吉本ばななの小説「アムリタ」。
香水で、SAMUSARA LIGHT と YSLの BABY DOLLです。
身に付ける香水も精神状態等で、かなり左右されるので、自分の香水履歴を
考えると面白いですよ!

ずっと続いている趣味(習慣?)はピアスです。4個ぐらいはかかさず付けています。逆に付けていないと自分が不安なのか←ASの習慣行動かな?とも思いますが。

おそまつさまで...。


Re: 生まれ変わる? 3797へのコメント
No.3799  Tue, 3 Apr 2001 12:29:13 +0900  KILROY [この発言にコメントする]

 いきなり横レスをかまして申し訳ない。Mr.Motoは「余計なちょっかいを出すのはやめれ」と言うのだが、去年のログ(前世紀の遺物だ)などを追いかけていていろいろと思うところがあったので、ちょいと口を挟むことにする。

お題はくるとさんの提起した「生まれ変わる?」である。
くるとさんwrote in No3774
> …なんか意味のない質問ですみません。
 いえいえ、こういう自己確認のための猫会議的なセッションというのは、掲示板の賑やかしも含めていろいろと効用があります。だいいち、それを言うたら武田好史さんの立場がなかろう(^_^;)。

> 成人LDのくるとです。ASのみなさんに質問です。
 くどいようだが私は残念ながらASと診断されたことがない。発言権があるのかないのか分からないが、お許し願いたい。

> もし、みなさんが生まれ変わることができるとし
>たら、今の人生を繰り返し生きたいと思いますか?
>それとも、全く別の人生を生きたいと思いますか?
 じつはこの質問の意図がよくわからなかった。私の人生のどっかにバグが入っていて、同じ人生をぐるぐるぐるぐる永久ループしているのかもしれないとは考えたことがある。これから先になにかいいことがあって、トータルではけっこう満足のゆく人生なのかもしれないので、「人生」ということだとよくわからない。
 「今の自分に生まれてよかったか」という点では、AS傾向も含めて気にいっている。ただし、次は女に生まれてみてもいいかな、みたいな気はある。で、次もできるなら日本人。
 時代とか世の中とかいうのなら、私はいい時代に生まれたと思っている。パーソナルコンピュータの黎明期と少年時代がばっちり重なっているというのはラッキーだった。ただし、問題は同じ時代にバカが大勢いて、時流がそのバカに味方したというのが残念だったと思っている。あのバブル景気とバブル崩壊がなければ、私もこんなにしんどい人生を送らずに済んだかと思うと無念である。

ななはさんwrote:
>普通の人として生きたいです。人の言うこと(注意等)が分からなかったり、
>注意力散漫で怒られ続けたり、コミニュケーションが取れずに
>1人で考え続ける人生&親に心配ばかりかけ続ける人生は、正直言って
>はやく終わらないかなと時々思います。真剣に、親より先に死んだほうが
>親孝行と考えている私です。
 そう、私が気になったのはこのななはさんの発言なんですよ。私は子供の頃から「ヘンな子供」であり、「一人で考え続ける」ことで人生を歩んできたのですが、それ自体が他人と比べて「辛い」「苦しい」ことだとは思っていませんでした。自分は自分だし。ですが、周りの人が「心配」し、私を「普通の人」にしようとするのが苦痛でした。幸いうちのお祖父ちゃんや学校の先生が私のことを「面白がって」くれて、うちの親たちはそういう「偉い人」の言うことに弱かったので、だいぶん楽になりました。でも一部の教師や他の生徒にはめちゃくちゃいじめられましたが。
 だから、問題はASだから、ということではないんじゃないか、という気がします。「あいのこ」(差別語です)だったり、「帰国子女」(差別語として使ってます)だったり、あるいは優等生だったり美人だった「いい家の子供」だったりしても、同じなんじゃないでしょうか。

ぺりこさんwrote:
>ただ、箸にも棒にも引っかからないような事を、あーでもない、こーでもないと
>考えてしまう癖はいりません。
>それと、誰に聞かなくても自然に身に付いていく常識と、何かあった時自分を責
>めないようにする心の働きがほしいです。
>とにかく、いつも心の中に渦巻いているもやもやをどうにかしたい・・・。
 しんどそうだなぁ、と思います。ですが、私はさんざん悩んだあげく、なんとなく人生の答えのようなものが見えてきて、モヤモヤが晴れてきたように思ってます。まあ、そのモヤモヤが晴れることによって見えてきた現実というのは確かにロクでもないものだったりするんですが、それでも対処する方法が見えてきただけマシ、という気がします。

くるとさんwrote:
>自分なりの苦しみと格闘しながら、共に生きていきましょう。
 まあ、言いたいことは分かるんだけどさ(^_^;)。疲れてる人間にはしんどい発言だと思うぞ。

さくらかのえさんwrote:
>性格や感性や知識など今のままがいいと思う。気に入ってるから。
>若い頃は、いろいろと今考えるとしょうもないことで悩んでいたので、
>できたらもっと早くから、いろんなことがわかって悩まないですみ、
>自分を肯定できる人生を歩みたい。
 うん。私のポジションもこれだな。

くるとさんwrote:
>「悩まない人生」と「自分を肯定できる人生」ですか。わたしはこの2
>つが両立できないです。悩みに没頭しながら生きていくのが、自分の自
>然体のようになっています。(ただし、悩んだり考え事をするのは昔か
>ら好きだった。)

> 「悩まないですむ人生」ってどういう人生なんでしょうね?今のわた
>しには想像もできません。
 Mr.Motoだったら、「それはあんたがバカだからじゃないの?」くらいのことは言いそうだな(^_^;)。
 たとえば今日の昼飯はラーメンにしようかカレーにしようか親子丼にしようか、みたいなことは「自分の心」に答えを求めなければならない問題です。「私は本当は何をしたいんだ?」みたいな「人生の悩み」みたいなものも同じですね。これが「悩み」です。
 ですが、「自分」を離れて、「私はどうすべきか」を、その問題に身を投じ、全身全霊をかけて答えを出してゆく、というアプローチもあるんです。これを電算業界では「脳む」といいます。ココロではなくカラダで考える。
 「いじめられるのが辛い」「だけど親や教師は何もしてくれない」。そこで内に向かって「悩む」というアプローチもあるんですが、「とりあえずヒンズー・スクワットを一日五百回」「相手のパンチから目を離さない」「相手が背中を向けた瞬間を狙って椅子で一撃」「騒動を起こせば学校やPTAも黙っちゃおるまい」。こう居直ったとたん、暴力的ないじめは消えました(その代わり陰湿化したけどね)。

 儒教の一派に陽明学、というのがありまして、「知行合一」というのがモットーになっております。あの大塩平八郎さんが日本における陽明学の体現者、みたいになっております。「ぐちゃぐちゃ考えんと、『正しい』思うたら、やってもうたらえぇんじゃぁっ!」。
 結果的にムダな抵抗に終わるかもしれません。だけど、九十九のムダが百番目の成功のための捨て石になることだって、あるんです。
 麦は蒔かなければ全部食べられます。畑に蒔いてしまった麦を「芽が出なかったから食べる」という訳にはいきません。もちろん鳥や虫に食べられてしまって、ひと粒も芽を出さないことだってあるかもしれません。ですが、麦を蒔かなければ次の収穫はありません。
 新素材の開発、とかいうと、九十九・九%は「失敗」です。ですが、「千にひとつの成功」を生み出すのは、残りの九十九・九%なんです。
 「基本的なアプローチは間違ってない」とかいう頑固な生き方も、悪くないように思います。他人に奨める気は毛頭ありませんが。

 「作戦の要諦は、『必勝の信念』と『投入量』と『賽の目』である」
  − 鈴木銀一郎

 (KILROY)


最近、何にハマってますか?
No.3798  Tue, 3 Apr 2001 10:53:30 +0900  チイママ [この発言にコメントする]

私の情熱(?)は長続きしません。
最近、読書・音楽鑑賞・絵を書いたり・陶芸をしてみたり・いろんな物を観に行ったりしましたが、どれもその時にはとても感動している自分ですが、その感動が長続きしないので趣味にまで達しません。
もしよかったら、皆さんの最近ハマってることを教えて下さい。


Re: 生まれ変わる? 3795へのコメント
No.3797  Tue, 3 Apr 2001 09:58:38 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

くると wrote:
> こんばんわ、さくらかのえさん。
>
> 「悩まないですむ人生」ってどういう人生なんでしょうね?今のわた
>しには想像もできません。
>
> 
 人間は今のところ、このとても広い宇宙空間で「悩む・考える・言葉を話す*書く・分かち合える」ことができる、唯一の生き物です。
 人間は、この営みすなわち「哲学」を駆使して、200万年以上地球で生活し、今や宇宙へと飛躍しようとしています。
 環境問題・食糧問題・平和の維持・真の人間らしいライフスタイルなど、私たちの周りには探求を要することが山積みです。
 「悩む・考える・工夫する・共有する」は、よりよい世の中を創る第一歩です。今の日本がダメになったのは、きっと目先の利益の追求のために、「哲学すること」をおろそかにしてきたつけが回ってきたのだと思います。
 私は、ASの人は「哲学をする」ために、この世に生きているのだと思います。
ですから大いに悩んで、考えがたまったらこのページで良いですから、みんなに話してみましょう!

人間は考える葦(あし)である:パスカル
吾考える、故に吾あり!:デカルト


Re: 生まれ変わる? 3793へのコメント
No.3796  Tue, 3 Apr 2001 02:28:09 +0900  くると [この発言にコメントする]


ぺりこ wrote:
>ただ、箸にも棒にも引っかからないような事を、あーでも
>ない、こーでもないと考えてしまう癖はいりません。

 わたしはよく「深く考えるな」「気にするな」「深刻にな
るな」と責めたてられます。でも、「呼吸をするな」「心臓
を動かすな」と言われているようなものでかえって息苦しく
なってしまいます。

>それと、誰に聞かなくても自然に身に付いていく常識と、
>何かあった時自分を責めないようにする心の働きがほしい
>です。

 うーん。でも、今の状態のぺりこさんは、わたしから見る
と、とても尊敬ができる人柄ですよ。


Re: 生まれ変わる? 3792へのコメント
No.3795  Tue, 3 Apr 2001 02:11:42 +0900  くると [この発言にコメントする]

 こんばんわ、さくらかのえさん。

さくらかのえさん wrote:
>性格や感性や知識など今のままがいいと思う。気に入ってるから。
>若い頃は、いろいろと今考えるとしょうもないことで悩んでいたので、
>できたらもっと早くから、いろんなことがわかって悩まないですみ、
>自分を肯定できる人生を歩みたい。

「悩まない人生」と「自分を肯定できる人生」ですか。わたしはこの2
つが両立できないです。悩みに没頭しながら生きていくのが、自分の自
然体のようになっています。(ただし、悩んだり考え事をするのは昔か
ら好きだった。)

 「悩まないですむ人生」ってどういう人生なんでしょうね?今のわた
しには想像もできません。



 


Re: 生まれ変わる? 3790へのコメント
No.3794  Tue, 3 Apr 2001 02:02:43 +0900  くると [この発言にコメントする]

こんばんわ、ななはさん

ななはさん wrote:

>私がもし生まれ変わってまた人間として生きるとしたら、
>もう今の人生は生きたくありません。絶対に。
>普通の人として生きたいです。

 わたしは逆に普通の人になろうと努力することに疲れてしまっているよ
うな状態です。だから、逆の意味で今の人生を繰り返したくないです。わ
たしの悲劇は中途半端に社会適応できてしまうこと。もう少し社会適応が
困難な奴なら自分の能力開発に専念できるのに、と残念に思うことがあり
ます。

>人の言うこと(注意等)が分からなかったり、注意力散漫で怒られ続けた
>り、コミニュケーションが取れずに1人で考え続ける人生&親に心配ばか
>りかけ続ける人生は、正直言ってはやく終わらないかなと時々思います。

 「注意力散漫」と「1人で考え続ける人生」というのはわたしも同じで
す。でも、「親に心配ばかりかける人生」というのは、わたしには想像す
らできなかったことです。ななはさんは他人のことを考えながら生きてお
られるのですね。

 人生はできれば終わらせないでくださいね。「きっといつかいいことが
あるさ」なんてウソっぽいことは言いません。自分なりの苦しみと格闘し
ながら、共に生きていきましょう。


 


Re: 生まれ変わる? 3774へのコメント
No.3793  Tue, 3 Apr 2001 00:47:14 +0900  ぺりこ [この発言にコメントする]

くるとさん wrote:

> もし、みなさんが生まれ変わることができるとし
>たら、今の人生を繰り返し生きたいと思いますか?
>それとも、全く別の人生を生きたいと思いますか?

もう一度生まれ変わって今の人生を繰り返すことになろうと、別の人生を生きることになろうと、どちらでも良いです。
ただ、箸にも棒にも引っかからないような事を、あーでもない、こーでもないと考えてしまう癖はいりません。
それと、誰に聞かなくても自然に身に付いていく常識と、何かあった時自分を責めないようにする心の働きがほしいです。
とにかく、いつも心の中に渦巻いているもやもやをどうにかしたい・・・。


Re: 生まれ変わる? 3774へのコメント
No.3792  Mon, 2 Apr 2001 23:41:01 +0900  さくらかのえ [この発言にコメントする]

くると wrote:

> もし、みなさんが生まれ変わることができるとし
>たら、今の人生を繰り返し生きたいと思いますか?
>それとも、全く別の人生を生きたいと思いますか?

性格や感性や知識など今のままがいいと思う。気に入ってるから。
若い頃は、いろいろと今考えるとしょうもないことで悩んでいたので、
できたらもっと早くから、いろんなことがわかって悩まないですみ、
自分を肯定できる人生を歩みたい。


Re: 質問(夢について) 3789へのコメント
No.3791  Mon, 2 Apr 2001 22:38:34 +0900  KILROY [この発言にコメントする]

 相州大山・雨降山大山寺は、東大寺の別当・良辮の開山といわれる古刹である。

 江戸幕府開府の際には大山は「黒衣の宰相」と呼ばれた天海僧正の進言により徳川家の祈祷所とされて比叡山・高野山と並ぶ密教の中心となり、主に関東在住の庶民の信仰を集めて多数の参拝者で賑わったと記録にある。鉄道ができてからは日帰りをする人が多くなったけれど、大山の名物である豆腐料理を堪能しようと思ったら、やっぱり泊まりである。
 なお、電算業や文筆業のひとたちには、「近場の隠れ家として手頃」という意見もあったりする。

 風呂上がりの浴衣がけ、胡座をかいて腕まくり、ビール片手に烏鷺の争い。
 「いい風ですねぇ」
 加藤さんが、ぴしり、と黒石を打つ。
 「さっきの夕立が―」。納屋さんが白石を持ったまま、ちょっと迷う。「―効いたな」
 ぱち、と白石が置かれると、「ふぅーむ……」と加藤さんが唸る。
 「あたし、碁ってぜんぜん分かんないんですけど、納屋さんって強いんですか」
 「強くはないでしょうね」と、加藤さん。「私もちゃんと勉強したことないし」
 ぱちり。
 「布石だの定跡だのは、お互いぜんぜん知らんもんな」
 ぱちり。
 「コンピュータ相手に、詰め碁をちょっとやるぐらいですかね」
 「不思議なのは、『相手がいちばん打ちたそうな場所に打つ』というそれだけの戦術で、けっこう勝負になるというところだな。ただし、大局観なんてものはまったくない。いわゆる喧嘩碁。目先の石の奪い合い」
 「典型的なザル碁ですしね。ほとんど潮干狩り」
 「地が眼中になくって、アゲハマ拾って喜んでるという。品格というものに欠けてんだよな、要するに」
 なんとなく、分かる気はする。
 「ですが、碁は感情で打つもんですからね。気持ちよくなきゃ」
 「そうそう。理性で打つんならコンピュータ相手にチェスでも指してたほうがなんぼか―」
 また白石を持った納屋さんの手がうろうろしている。
 「―いかんな。今日は調子が出ん」。納屋さんが石を放り出した。「晩飯食ったらまた風呂でも入ってくるか」
 加藤さんががしゃがしゃと盤面を崩す。
 「やっぱり脳が休まってないんでしょう。いつ呼出されるかわからんという頭があるから」
 せめて近くのホテルに待機していてくれとプロジェクト・リーダーが泣いて頼むのを、「単体テストにまで付合ってられるか。結合試験には立会うから休みくらい取らせろ」と、臨時の休みを取ったのである。なのに今日の昼過ぎに会社を出て四時ちょっと前にこの宿に着いたら、宿の人が納屋さんの顔を見るなり「会社からお電話が入ってますが」。納屋さんが電話口で怒鳴り散らしていたのが、二階のこの部屋まで聞こえていた。
 「そういえば、家康が碁が強かったという話は聞かないな。なぜだろう」。納屋さんがあまり脈絡のなさそうなことを言う。
 「あの人は『智将』という感じじゃないでしょう。信長と光秀は強かったようですが」
 「『ここでついでに、手がこんでいるわりにつまらないチェスなどよりは、地味な碁(ドラフツ)のほうがもっと確実に、もっと有効に、思索的知性の高い力を働かせるものだと断言しよう』」と、あたし。
 「ポォの『ル・モルグ』だな。強い弱いより、好き嫌いが性格で決まるような気がする」
 「やっぱり直情径行タイプは碁好きには少ないでしょう。ふだん感情を理性で押さえこんでるようなタイプが、感情を解放するために碁を打つというのはありそうな気がする」と、加藤さん。「チェスなんかは感情を出す余地がないじゃないですか。一手ポカすりゃそこで終わりだし」
 「信長という人は、世間でいうような感情的なひとじゃなくって、むしろ理科系オタクだったんじゃないかな? 地球儀だの石鹸だの、いろんなものに興味を持ってるし」
 「とことん新しモノ好きな人でしたからね。堺を押さえたっていうのも、日本に入ってきた面白いモノを一番先に手にいれたいという、そういうオタク的な感情からだったんじゃないかという気がします。軍事的な意味合いっていうのは、むしろ後からつけた理屈でしょう」
 「ヒトラーなんかも新兵器開発には熱心だったけど、技術的素養の裏付けがないもんだから効果的な運用ができなかった。あのあたりは文科系の限界だろうな。なにしろ元が画家だし」
 「画家だから悪いってことはないでしょう。芸術家としても軍事技術者としても有能だったレオナルド・ダ・ヴィンチの例もあるわけですし、遠近法なんかは幾何学の素養がないとダメでしょう。ナポレオンだって砲兵上がりだから理系でしょう」
 「なるほどね、それでナポレオンは大砲だとか騎兵だとかいった新しいオモチャも効果的に運用できたと」
 「兵器が玩具っていうのは、なんか不謹慎じゃないですか?」と、あたしは思う。
 「オトコノコというものは、みんな危ないオモチャが好きなんだよ。戦車とか、戦闘機とか、軍艦とか。独裁者が軍事パレードをやりたがるのも同じこと」
 「そういうのって、なんか、厭です」
 「女性はたいていそうじゃないかな。男の場合、戦争っていうと自分が武器をとって戦うことを考えるし、相手も同じ立場だと考えるでしょう。だから戦争のイメージっていうと、基本的に戦闘であり決戦なんだよね。だけど女性の場合、『戦う』っていうイメージが湧かないから、一方的に攻撃されて逃げまどうイメージがどうしても先に立つ」
 「それって、太平洋戦争中の米軍の影響なんかもあるんじゃないですか?」と、加藤さん。「当時は米軍の艦載機が女子供まで追い回して機銃掃射を食わせたなんていう話がいくらもあったでしょう。日本の戦闘機乗りといえばエリートだから、そういう卑怯な真似はちょっと考えられない」
 「連中としちゃあ、害獣駆除くらいの感覚だったんじゃないか? だいいち、近代戦に『戦場の美学』とかいったものを期待するほうが間違いという気もするし」
 「厭な世の中ですねぇ……」
 「まったくだ。昔の戦争にはある程度の美学が成立する余地があった」
 「そうですかね。戦争なんて、どれも同じという気がしますが」
 「そうでもなかろう。まず、基本的に国内戦、しかも地方領主同士の勢力争いだろう。で、天下統一以前だから、絶対的な権力というのが存在しない。おのずと大義名分というのが必要になるだろう。戦争ばっかりやってたら、国が疲弊しちゃって戦争の意味自体が消滅しちゃう。当時の戦争は、農閑期だけの期間限定戦争だったし」
 「あまりみっともない勝ちかたはできない、というわけですか」
 「そういうことだ。相手の面子も立てて、なるべく無傷で帰順させるのが効率のいい戦争のやりかただろ? 彼我の戦力の差があまりにも大きすぎる場合は、戦闘を避けて相手に降伏させる。その意味では、『本能寺の変』は洒落じゃないけどかなり変なんだよ。光秀の行動に、あまりにも余裕がなさすぎる。ああいう勝ちかたじゃ、いかにも後味が悪すぎるだろ? 戦国時代の締めくくりにならんのだよ。下手すりゃまたぞろ下剋上の世界に逆戻りだ。全国を統一するような安定政権なんか、築きようがない」
 「だけど、それは……ご主君を討っちゃうんだから、どうしてもそうなるんじゃないですか?」。あたしとしては、余裕がないほうが自然のような気がする。
 「だけど、考えてみたらそれがそもそも変なんですよね。信長は事実上、天下統一を成し遂げてたわけでしょう? じっさい、信長の死後まもなく戦国時代は終わっちゃったわけだから、信長の役割はすでに終わってたと。そこで治まりかけてた天下をですね、光秀はなぜ引っくり返すような馬鹿な真似をしたのか。しかもその結果、自分は逆賊になっちゃうわけでしょう。いまさっき納屋さんも言ってたけど、下手したらまたしても下剋上の世界に逆戻りじゃないですか。これじゃあ、外国からの侵略を防ぐために天下統一を目指した信長のビジョンっていうものが、根底から崩れちゃう」
 「よりにもよってなぜ光秀が、というのが『本能寺の変』の第一の謎だもんな」。納屋さんが頷く。「信長は後継者として光秀を考えてたというのは歴史家の間じゃ常識とされてるし。放っときゃ自分の手の中に落ちてくるものを、なんで自分が破滅しちゃうのも承知で獲りにいったのか」
 「そういう形での決着を光秀が望まなかったというのは、ありませんか。『死なれる』のは困ると。自分の手で信長を『殺して』こそ、光秀の中で完結するという」
 「小説やマンガにありがちな解釈だけど、それだったら不意打ちじゃなくって、正々堂々と決戦を挑むだろう。その理屈だと、光秀に『勝ちにいく』必然性はないわけだから。あるいは自分自身が刺客になって信長と刺し違えたっていいし、信長を殺してその場で腹かっさばいて果ててもいい。それなら形の上では一対一の勝負だから、面目は立つだろう。光秀は信長の腹心の部下なんだから、信長に近づくのはそれほど難しくはないだろ?」
 「シーザーとブルータスみたいなもんですね。ごもっともです」
 「それに、圧倒的な戦力差で不意打ちしたにしてもだな、戦闘の記録が一切残ってないというのはあんまりな気がする。光秀が本能寺に踏込んだときに、本当に信長はそこにいたのかね? 明智軍の一人が残した本能寺の変の記録が最近発見されたんだが、明智軍の先鋒が本能寺に乗込んだとき、本能寺は文字通り蛻の殻だったらしい。夜具に人の形が残っているにもかかわらず、人っ子一人いない無人の館だったそうだ。しかも軍勢は敵が信長だということも知らされてなかった。『敵は本能寺にあり』というのは、創作だったんだそうだ」
 「光秀は朝廷に命ぜられて信長を討ったっていう説があるでしょう? たしか暦の問題とかで」。あたしはそんなことを聞いたことがある。
 「つまり、朝廷が採用してた暦を改めるように信長が進言して、それを朝廷の権威を脅かすものと考えた朝廷側が、信長を排除するために光秀に信長を討たせたという話だな?」
 「そうです」
 「それは天文学の素養に欠けてる奴が言いだしたことだろう。あれは十二月と一月のどっちに閏月を設けるかという話だろ? 春分がどっちに入るかっていう単純な話でさ、改暦につながるような御大層な話じゃない。信長としては朝廷を支配の中心に置くことで幕府の正当性を天下に示したかったわけで、むしろ朝廷の権威を補強しようという意図があった。だからこそ、理科系オタクの信長としては、権威の象徴たる暦の問題をちゃんとしておきたかったんだろう。朝廷側が望めば、信長は本格的な改暦のための資金やら人材やら資料やらだって提供したと思うんだ。信長は宣教師連中を通じてヨーロッパの最先端の天文学の知識を仕入れてたはずだしさ。それを考えたら、光秀は朝廷と信長の仲介をする立場だからバランス感覚はあったろうしさ、暦の件に朝廷側がこだわったとすれば、むしろ朝廷側を宥める側に回ったはずだぜ?」
 「じゃあ、そもそも光秀に信長を討つ動機はないわけですよね?」
 「そう。だからこそ『本能寺の変』は歴史上の謎とされてるわけです。確かに信長の役割は終わったんだけど、それは信長自身がいちばんよく分かってたわけで……信長の時代になるとさ、それ以前の地方領主の小競り合い的局地戦じゃなくて、経済・外交・兵站・軍事技術までひっくるめた総合戦争でしょう。だから、天下統一を成し遂げた信長が為政者として無能だったわけがない。だけどあれだけ殺しまくった奴が支配者になったら、納得いかんという奴が必ず出てくるだろうから、信長は為政者としては前面に出てこなかった。信長としては、そのあたり丸く納まる筋書を考えて、後継者に道を譲るというのが順当だと思うんだよね。で、その後継者としては光秀を考えてた」
 「そこで『本能寺の変:信長・光秀共謀説』が出てくるわけですね」。加藤さん復活。「信長が命じて光秀に自分を討たせたのだと。そのための布石として、他の重臣の面前で光秀の髷をつかんで引きずり回すような真似をしたんだと」
 「あの話はたぶん史実じゃないでしょう。他の重臣の前でそれをやって何の意味があるというのよ。信長がもし伝えられるような狂的な人物だったら、まず部下がついてこない。あるいはそうやって狼藉を働いたとしても、長年信長に仕えてきた部下連中は『ああ、また御主君が。明智殿も苦労なされるのう』と思うだけだろうから、光秀がそれで信長を恨むとも思えない。信長はやんちゃな性格をしてるから、『やりそうだな』と思わせる何かを持ってはいただろうけど、『大うつけ』と呼ばれてた若い頃の斎藤道三とのエピソードなんか見てると、どこまで本気でどこまでが演技なのか分かったもんじゃない。それに、御主君が御乱心遊ばされた場合、むしろ家臣が寄ってたかって押込とか、なんなら毒殺とか、そういった手段に向かいそうな気がする」
 「御主君におかれては平穏のうちに引退していただくわけですね?」
 「そう。だから、実際には『織田殿御乱心』の噂を第三者に対して流して、自分の退陣と、あとは間接的に『後継者・光秀』をアピールするのが目的だったんではないかと」
 「だったら、光秀が信長を討つのは筋が通ってるじゃないですか。はっきりした形で世代交代が行なわれるわけだから」
 「それは逆だろう。まず病死はまずい。毒殺を疑われて、光秀の経歴に疵がつく。いちばん望ましいのは、光秀以外の誰かに自分を討たせて、そいつをまた光秀が討つということなわけだ。ところが、『自分を討たせる』適当な相手というのが見つからない。信長を討つことになれば逆賊で、天下が治まったら子々孫々まで浮かばれない。だったら敵に討たれればいいかといえば、そうもいかない。そのとき光秀が近くにいれば、『御主君をお守りできなかったとはなんたる失態』ということにもなるし、『ひょっとして天下を狙ってわざと御主君を討たせたのではないか』ということになる。逆に光秀が遠くにいれば、信長の仇の首を取りそこなうことだってありうる。これはジレンマだよな。で、結果的にその役を、後継者の本命である光秀が務めるというのがわからない。『本能寺の変』で光秀が逆賊になったからこそ『光秀を討った秀吉が信長の遺志を継いで天下を治める』っていう名目が立ったわけだし、光秀がうまく信長の地盤を継いだら、誰にも手は出せなかっただろうな。天下統一は十五年は早まってたろう。もちろん関が原の合戦も、大阪夏の陣もありえなかった」
 「そこまで言えるかどうかはかなり疑問ですけどね、結果的に大阪城落城や関が原の合戦といった騒動があったということは、まだ火種がくすぶってたということだから」
 「確かにあれで歴史にめりはりがついたという点は認める。ただ、それも結果論でさ、政権交代に明確な区切りなんかつけられないと思うんだよ。後世の人間から見てさ、『あれが歴史の転回点だった』とは思うだろうけど、実際にその時代に身を置いていた人間にとっちゃ、そういう変化を実感として感じとれたかどうかは怪しいと思う。それが見えていた人間が一人でもあの時代にいたとすれば、信長自身を除いては考えられないと思うんだよなぁ」
 「じゃあ、光秀としては信長を討つ必然性は、なかったわけですね?」
 「何度も言うけどさ、だからこそ『本能寺の変』は歴史上の謎とされてるわけ。どういうケースを考えても、光秀が信長を殺す必然性が見当たらない。戦国時代がだらしなく続くだけの結果しかもたらさないと思うんだよ。強いて挙げれば信長が家康を後継者に選んで、信長は光秀に討たれ、光秀が家康に討たれる予定だったのが、間に秀吉が割込んできたケースだな。これなら説明はつく」
 「だけど、『信長が家康を後継者に選んだ』というのには、無理があるだろうと。確かに家康は天下統一というタマじゃないですしね。むしろ秀吉とは内々に話を通してあったと考えるべきじゃないでしょうか。そうすると秀吉の『中国大返し』の手際のよさも納得がいく」
 「消去法による苦渋の選択という可能性はあるぞ? 光秀が強硬に殉死を望んだもんだから、しかたなく、と。晩年の秀吉の乱れようを考えると、信長が後継者に選ぶような大人物だとは思えないんだよね。あれは小物でしょう」
 「それって因果関係、逆じゃないですか? 『信長の後継者』っていうプレッシャーに堪えかねて、晩年になって潰れたと。信長亡きあと、もはや頼れる相手は誰もいない。世間を『あっ!』と言わせてやろうと思っていろんなパフォーマンスをやってみちゃあ空振りを続けて、信長の後継者だからということで従ってくれてた連中からも冷たい視線が送られてくるようになった。自分が死んだら豊臣家はどうなっちゃうかわからない。こうなると乱れざるをえないでしょう」
 「だけど加藤さん、あたしの印象だと、信長・秀吉・家康って並べてみると、家康がいちばん為政者としては有能っていう感じがするんです。信長も光秀も武将でしょう? だからこそ戦国時代の人間としてしか生きられなかったっていうのが、世間の常識みたいになってるっていう」
 「『家康が為政者として有能だった』っていう話に関しては、確かに因果関係の逆転があっただろうと私は思ってるんだよ」と、納屋さん。「結果的にうまくいったから、たぶん有能だったんだろうと判断されただけでね。だけど、家康の政策のほとんどは、信長の路線の延長でしかないんだよ」
 「信長と家康って、なんか正反対の感じがしますけど?」
 「信長の統治能力っていうのは相当なもんだよ。将来敵対勢力としてのし上がってきそうな奴に早々に目をつけて、自分の管理下に置いて統制するというのが本来の信長のスタイルなの。信長というとやたら殺しまわってる感じがするけどさ、『こりゃあ帰順させるのは無理だ』と判断した相手は将来に禍根を残さないためにも徹底的にやっつけるという、裏返しの態度なんだ。斎藤道三がまさに同じタイプだし、かのローマ帝国やオスマン・トルコの手法も同じです。信長と同じようにやたら殺しまくってた印象のあるチンギス・ハーンだって、基本的には貿易振興を通じて国家の基礎を築いてる。元帝国の軍事力というのは、基本的に通商破壊をする連中に対して向けられてます。世間でいうような『侵略者』じゃないんだよ」
 「基本的に共存共栄思想なわけですね?」
 「そう。『飴と鞭』じゃなくて、『保護と見返り』が信長の基本戦術なの。つまりは市場経済の原理を敷衍してるわけですよ。で、家康の政策もその延長でしかない。朝廷と幕府の関係しかり、仏教勢力との関係しかり。信長は朝廷と仏教勢力の両方を自分の統制下に置きたかったわけです。ただ朝廷とは直接的な対立関係はなかったけど、仏教勢力とは徹底的に対立してたから、とてもじゃないけど自分に帰順させるのは無理だと思った。かといって宗教自体を根絶やしにするのは不可能だから、自分が天下を治めてる限りは、つねに一向一揆みたいな叛乱が起きる可能性が残るだろうと。家康の場合はそういうしがらみがあんまりなかったから、この大山を江戸幕府直轄の宗教の中心として、全国の仏教勢力を統括するということができたわけ。天皇を中心とした神社のチェーンストア化は『大宝律令』の時代にすでに行われてたから、同じことを仏教について行なったと」
 「日光東照宮の造営なんかは、ちょっと違う路線ですよね?」
 「あっちは自分自身が神になることで宗教勢力を押えこもうという、いわば保険だな。で、その徳川幕府の宗教的支配のブレーンになったのが、『黒衣の宰相』として知られる天海僧正。だから、天海僧正は信長の隠し玉だったという可能性は高いよね。じっさい天海僧正の前半生っていうのは、風説ばっかりでほとんど記録というものが残ってない。それで『三百年生きた』なんていう伝説もできたし」
 「あ、知ってます。じつは明智光秀だったとか、そういう伝説のある」
 「そうそう、よく知ってるな」
 「日光東照宮のあっちこっちに明智の桔梗紋が使われてるとか、天界が名づけた明智平っていう地名があるとか、春日局が明智家の縁者だとか、いろいろ接点があるっていう。三百年生きたっていうのは嘘だとしても、正体が明智光秀だっていう話はあるんじゃないんですか?」
 「確かに江戸幕府成立後にあれだけ活躍した人が、それ以前にずっと無名だったというのは考えにくいんだよね。したがって、信長の周辺にいた誰か有能な人物が後の天海に化けたという説は説得力があると思う。だけど、光秀はあんまり宗教に興味を持っていなかったらしいんだよね」
 「そんなことないです。光秀が開いたお寺とか、光秀がお寺に寄進した石灯籠だとか、そういうのがあるって聞いたことあります」
 「それは私も知ってる。だけど、不思議なことにその記録がことごとく本能寺の変より十年も二十年も後のものなんだよね。それに光秀の場合は戦場で死んだというのがかなりはっきりしてるし、年齢的にも天海よりだいぶ上だというのもある。天海イコール光秀という説は、俗説の域を出ないというのが専門家の結論です。筆跡鑑定の結果書体がよく似てたという話もあるけど、戦国武将の自筆文書なんか残ってるわけがない。あれは、全部祐筆が書いてるでしょう」
 「すると、天海僧正の正体は織田信長」。加藤さんがずばりと言う。
 「かなり、ありそうな気はする。信長は光秀と違って仏教にかなり関心があったからこそ、自ら『第六天の魔王』、つまり仏敵を名のってみたりとか、そういうことをやってるでしょう。それ以外にもイエズス会派の宣教師フロイスと修道士ロレンソの二人と仏教僧の日乗に宗教論争をさせておいて、横からちょっかいを出して遊んでみたりしてる。この宗教論争っていうのが、家康の謚号論争、つまり大明神とするか大権現とするかでモメたときに、天海が山王一実神道の立場から『東照大権現』を押すべく論陣を張った件と、印象としてかなり重なるんだよね。そういう筋論というか、議論の上でのしたたかさという点で、信長と天海はかなり似通ってると思う。それに、さっきの『天海=光秀説』の証拠にしたってさ、信長が光秀の菩提を弔う意味で、光秀の名前で寺社にいろんな寄進をしたとか、桔梗紋を東照宮に使ったとかとかいったことがあったかもしれない。仮に天海が光秀だとしても、自分で自分の供養はせんでしょう。そもそも自分は正体を隠してるんだから、正体がバレるような真似はしたくない」
 「そうすると、問題はどうやって信長が本能寺から逃げたかということですか」
 「信長と光秀がもともと示し合わせてたとしたら、問題にもならんだろ。明智側の軍勢は、実際にはどうだか知らんけど、とりあえず一万三千人いたという話だろう。それだけの人数が本能寺に突入できるわけがないから、大半は本能寺を包囲してたわけで、中で何が起きてんのか分かんなかった。光秀は兵に『首は取捨てにせよ』って命令してたから、証拠になりそうな首が持出されたりすることもない。じっさい信長の遺体は見つかってないしね。さらに現場である本能寺は焼けてしまった。ただ、本能寺は完全に囲まれてたから、信長が脱出できたはずがない。そしてその後、信長は歴史に再登場することはない……それで、信長は死んだという結論になった」
 「ところが……光秀が攻めこんだ時点で、すでに信長は脱出してたと」
 「そう。問題があるとすれば、逃げるところを目撃される危険をどう避けたかだな」
 「『水滸伝』の魯達ばりに、頭を丸めて坊主に化けるとかいうのはどうです? プライドの高い信長がそんな真似をするわけがない、というのが盲点。あの日は御前碁が終わったあと、本因坊算砂が本能寺を辞去してるでしょう。その従者に紛れて抜けだした。『本因坊』というくらいだから、どっかの坊主でしょう」
 「……だけど、本能寺の変以降、信長と家康との接点がなくなっちゃうのが難だな。自分の正体を隠した上で、天台僧・南光坊天海として家康に接近しなきゃいけない。それも自分が信長だった頃を知ってる人間を避けた上でだ。そうすると家康のごく近くにいた僧侶ということになるんだろうけど……ところが家康という人は、まるっきり仏教に疎かったらしいんだよね。晩年写経に勤しんでたっていう話こそあるけど、それだって正確には写経とか呼べたもんじゃなくて、『南無阿弥陀仏』一辺倒だったっていう話だし」
 「当然、仲介した人間はいるでしょうけどね。さて……誰なんだか。私、歴史はあんまり詳しくないもんですから」
 「私も武将の名前なんかは割と知ってるんだが、それ以外となるとな。信長の周辺にはべってた人物で、徳川幕府成立前後に家康に対して影響力のあった人物。おそらく僧侶だろうけど、家康とも接点のある人物。ただし、家康は仏教とは縁がないと。それとも家康の腹心の部下に、仏教に関心のある奴がいたのかね?」
 「つまり熊谷直実みたいにもと武将で出家した人だとか、その逆に坊主だったのが後に武将として名を成したか。石田三成が、たしかそのパターンでしょう」
 「だったら女という可能性もある。武将の妻で尼になった女性とか。春日局なんか、どうなんだろう」
 「わからんですね……そういえば、飯、そろそろじゃないですか?」
 あとは雑談になった。とはいえ電算関係の話題ばっかりだったけど。


 「お邪魔します」。浴衣姿で入ってきたのは仕事仲間の内海さんである。「へぇ、納屋さんも碁とかなさるんですか」
 「あれ? 内海さんも来てたんですか」。実家に帰る、とか言ってたように思うけど。
 「ここ、一応私んちです。兄が継いでるけど」
 「そういえば、内海さんは大山の歴史に詳しかったですよね」と、納屋さん。
 「ええ。少しは勉強しとこうと思いまして」
 「家康と天海僧正って、どういう経緯で知りあったかご存知ですか?」
 「だから、碁ですよ」と、碁盤を顎でしゃくって示す。「日海が家康のところに連れてきたんだそうです」
 「あいにく碁には詳しくないもんで……日海というひとは、碁のほうでは有名な人なんですか?」
 「有名も何も、初代名人、本因坊算砂その人ですよ。信長の碁の師匠で、『本能寺の変』の晩に御前碁を打ってた、あの本因坊です」

 (了)


Re: 生まれ変わる? 3774へのコメント
No.3790  Mon, 2 Apr 2001 22:03:04 +0900  ななは [この発言にコメントする]

くると wrote:
> 成人LDのくるとです。ASのみなさんに質問です。
>もし、みなさんが生まれ変わることができるとし
>たら、今の人生を繰り返し生きたいと思いますか?
>それとも、全く別の人生を生きたいと思いますか?

こんばんは、くるとさん。
私がもし生まれ変わってまた人間として生きるとしたら、
もう今の人生は生きたくありません。絶対に。
普通の人として生きたいです。人の言うこと(注意等)が分からなかったり、
注意力散漫で怒られ続けたり、コミニュケーションが取れずに
1人で考え続ける人生&親に心配ばかりかけ続ける人生は、正直言って
はやく終わらないかなと時々思います。真剣に、親より先に死んだほうが
親孝行と考えている私です。


Re: 質問(夢について) 3785へのコメント
No.3789  Mon, 2 Apr 2001 18:46:09 +0900  KILROY [この発言にコメントする]

武田好史さんwrote:
>あなたが見た夢で、奇妙だったものには、どんなものがありますか??
 単にヘンな夢、という意味の「奇妙な夢」というのは他の人にお任せすることにします。いわゆる心霊現象も、このさいパス。プログラムその他の問題が夢の中で解けた、なんていう体験は十回以上あるからこれもパス。

 というわけで、「本に関する三つの予知夢」について書こうと思います。

 私には、なにげなく文献をあさっているうちにある記述が目に止まり、それを見たとたんに自分の見た夢の意味がわかる、という妙な体験が三度ばかりあります。

 ひとつは『ふたりで聖書を』の執筆時のこと。夢の中にチャールトン・ヘストン演じるところの『十戒』のモーゼみたいな恰好をした白髪のお爺さんが出てきて(これがまた化物のように元気なんだ)、演説をするような、怒鳴りつけるような叱りつけるような口調で私に呼びかけている、という夢を見ました。
 後に、『ヨハネによる黙示録』を読んだら、その爺さんの正体が分かりました。イエス・キリストなのね、これが。イエス・キリストというと若者、というイメージがあるので、『黙示録』に老人の姿のイエスが登場しているなんていうのはまったく予想外で、なんであんな夢を見たのかよくわかりません。ここから、「ローマ帝国のユダヤ総督ポンティウス・ピラトゥスとユダヤ王ヘロデ・アンティパスが組んでイエス・キリストの影武者を立て、教会の権威を失墜させてローマ風の市民国家をユダヤにぶっ立てようとした」という仮説にたどり着いたわけです。

 もう一つは、徳川家康が碁盤を挟んで僧侶に対して平伏している夢。徳川家康が碁をたしなむという印象もなければ佛教に熱心だったという印象もなかったので、やっぱり奇妙に思いました。その後、織田信長がじつは宗論に非常に熱心で、自ら審判役をかって出て、何度も宗派どうしの争いの調停役をしていたという事実と、信長の花押が勝海舟と同じく「麟」の字だったというのを知りました。「麒麟」というのは世の中が太平に治まっているときに出現するめでたい動物であり、信長が意外にも平和主義者だったことが窺い知れます。また、信長が自ら「第六天の魔王」を名のったというのも、佛教に造詣が深いというひとつの証拠です。そこから「慈眼大師天海=織田信長説」というのを思いつきました。

 三番目。『赤ずきん』の歴史を追っていたときに、真夜中の山道で、羊飼いの杖をついた赤ずきんの後ろを、狼の恰好をした男がついてゆく、というヘンな夢を見ました。「羊飼いの杖をついた赤ずきん」というイメージがどこから出てきたかは不明ですし、『赤ずきん』といえば昼間のお話、というイメージがあります。
 ところがその後『サンタクロースとクリスマス』という本にぶちあたり、それが十七世紀初頭のアルザス地方のクリスマスの風景として存在しておかしくない、ということが分かってしまいました。羊飼いの杖をついた赤ずきんは「幼子キリスト(クリストキント)」といって、赤い衣(カプチンといいます)はイエス・キリストが処刑の時に着せられた赤い衣。狼のほうはクロックミテーヌといって、悪い子供を食べてしまう「なまはげ」のような怪物です。で、『赤ずきん』というお話は、
1)十六世紀末から十七世紀初頭にかけて、カトリックとプロテスタントの対立が激化して、フランスとドイツの間に位置し、「ヨーロッパの十字路」といわれたアルザス地方では、サンタクロースの排斥運動が行なわれた。
2)一六〇四年、火星・木星・土星がへびつかい座で会合し、そこに新星が出現した(現在では「ケプラー新星」と呼ばれています)ために、「ベツレヘムの星」との類似から「イエス・キリストの再臨」が期待され、クリストキントとクロックミテーヌがクリスマスの主役となった。
3)三十年戦争によって、アルザス地方の領有権がドイツからフランスに移った。
4)アルザスにおいてドイツ文化の破壊とフランス文化の流入がおこり、フランス民話「人狼と少女」がドイツ時代のクリスマスの習俗と一緒になって『赤ずきん』の原形になった物語が生まれた。
という経緯で誕生したのではないか、という仮説に辿りついたわけです。さらに最近になって、クリスマスに樅の木を飾る風習は、アルザスの首都ストラスブールの聖堂におけるクリスマスのミサが起源だという話まで転がりこんできました。ううううう、荷が重いよう、書けないよう、と私は苦悩しております。

 二〇〇四年十二月十四日は『赤ずきん』誕生四百年 所長

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