アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
以下は、『コンピュータと数学教育』(別冊・数学セミナー、[コンピュータと数学]6、日本評論社、1985)の「LOGOと子供たち」(戸塚滝登(とつか・たきと)/氷見市立湘南小学校)よりの抜粋。
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YY君は小学校2年生だが、算数の力がごく弱い、IQの面で境界線児童だと思われていたこともある。授業中にも落ち着かず、10分と机にじっとしておれない子だと言われていた。
YY君はLOGOを先生と一対一で習いはじめた。床の上に形を書き、その上を歩き回っては身体でプログラムを考えていくのである。歩きながら、「えーと、まえ4ぽだったよ。」とつぶやき、忘れないようにチョークで床にそのまま書き留めていく。授業中もそうだが、あまり物もしゃべらず、初めのうちはしぶしぶLOGOと関わっているという感じだった。
ところが、授業を始めて5日目、ついにこんな事が起こったのである。以下はそのときの記録からの抜粋である。
『(YYは5日目にしてようやく正方形をLOGOで作り出すことに成功した。)YY児は手をたたきながら画面を見つめている。と、「今度、三角、書いてみる」と大声で言い出した。自分でチョークをつかむと、あっという間に床に三角形を描いた。すぐ計り出す。頂点の曲がり角に来ると、「先生、早く分度器かして。」とさいそくする。足もとにかがみ込むと一身に向きを測っている。……(中略)ついに独力で三角のプログラムを作り上げてしまった。彼はこれに「さんかく」と名前を付け、メモリーにしまいこんだ。この時点で教師は「もっとたくさん三角形を描くやり方もあるんだよ。」とくり返し命令を教える。YYはこのプログラムを実行させてみる。(すると図7のような絵があらわれた)(註:原書ではここに図。いわゆる「三つ鱗」の形)
「うわぁーっ、これっ、先生、これえ、三つ山だよ。三つ山だよっ!」と大喜びする。
このあたりから、YYの「かめ」に対する態度が一変し始めた。急にとりつかれたような雰囲気になってしまった。たいへん親しみをこめた言い方で、(教師にではなく)コンピュータに<向かって>(原文傍点)こう言った。「今度、四角を3つ書いてみるからね。」そしてうまく四角を3つ描いて見せた。
この結果を見つめながら、YYはふいに気がついたようだ。息をはずませながら、「あ、4つえがけば田んぼになるよ。」と言うが早いか、たちまちプログラムを考え出し、田んぼの形を見事に作り出してしまった(原文ではここに図)。画面を指さしながら、「これ、田んぼという名にしてやろうよ。ねえ先生、(と、真ん中の部分を指さし)ここに、「‖」形のイネ植えたら田んぼになるよ。」としきりにつぶやく。「先生、もっと書ける、ぼく、もっと書ける!」と、座ったまま、椅子ごと身体をゆすって興奮している。(いろんなものが描きたくって頭が一杯なのだろうか、あまりに素晴らしい笑顔なのでえ、筆者はここで一時、記録を採る手を忘れてしまったほどだった。)』
この時点で授業開始後1時間半近く経過していたのだが、その間に教師の介入は合計で10分にも満たないほどであった。あとはすべてYYが自分だけで学習を進めたのである。10分と机にじっとしておれない、と言われたYYを知る大人たちにとって、彼がまさかこれだけの長時間にわたって一つの事に熱中し続けたとは信じ難いことだった。
結局、YY児はLOGOのカリキュラムの第1段階を終える7日間に、角度の初歩概念を理解し、基本図形の初頭的性質のいくつかを独力で発見さえしてしまうのである。(ちなみに、角度や図形の性質は現行の指導要領では小学4年生にならないと出てこない教材であることにも注意されたい。)
PHOO wrote:
>不登校気味の小4男子(医療機関でADHDと診断されています)の
>母です。
>この掲示板はよく読ませて頂いています。
>環境の変化に弱い彼は新学期は落ち込みます。
>医師から抗不安薬(薬の名前は解かりません)を頂いています。
>朝飲ませても、夜飲ませてもいい。と言われているのですが、
>朝立ち上がりの悪い彼には、いつ飲ませたらよいのでしょう?
こんにちは、ななはと言います。
まず、お子さんがまだそんなに大きくないので、いわば先生との橋渡し役
はお母さんである PHOOさんじゃないですか、それなのに薬の名前が分からない
とかおっしゃるのが信じられません。ネットでもなんでも記号だけでも
薬を調べることが出来るじゃないですか?ネットもされてるんだし。
分からない薬を飲ませて不安じゃないんですか?
飲ませるのも、体調や個人差があるので、やっぱり先生とお母さんとお子さんが
よく話し合われて検討されてはどうでしょう?
あまりにも無防備・無知な感じがします。きつく聞こえたらごめんなさいね。
でも、一番お子さんを守れるのがPHOOさんだと思いますから...。
武田好史さん wrote:
> 今日文部科学省から、小中学校で使用する教科書検定の内容が発表されました。
ぜんぜん関係のない話だけれど、私は武田好史さんをずっとタケダコウジさんだと思っていた。「よしふみ」さんなんですね。失礼しました。たしかに「史」に「ジ」の読みはない。
で、教科諸問題である。
じつのところ私は小学校の理科の「教科書」に関してはそれほど心配していない。むしろ教師の側の資質や教材の選び方のほうを問題にしたかったりする。トノサマガエルとトウキョウダルマガエル、モンシロチョウとスジグロチョウの区別もつかん奴に理科を教えられても困るのである。トノサマとダルマは確かに見分けがつきにくいが、「紋白蝶」と「筋黒蝶」はそのまんまなんだから。
植物の数が三種に減ったというけれど、イネとダイズを題材に単子葉植物とマメ科植物くらい真面目にやっときゃ後はどうとでもなりそうな気がする。
「月の満ち欠けの写真は2枚まで」とか言うけれど、ただ写真を並べておけばいい、みたいな安易な姿勢を批判する意味で、悪くない判断だと思う。私だったら実際の月の写真は一切載せずに浮世絵から夕方の月と朝方の月を持ってきて解説する。「十五夜お月さん」とか「立待月」「居待月」「寝待月」「十六夜(いざよい)」「上弦の月」「下弦の月」なんていう言葉の意味や、「晦日(みそか)」「望月(もちづき)」の「晦」「望」にどんな意味があるか、みたいな話は「理科」ではない、みたいに思っている固定観念はブッ壊したほうがいい。
> 算数では、「円周率は3」ということになるようです。こんなの「π」でよいと私は
>思います。普段はπで計算して必要に応じて3.14を代入してやればよいのです。
あいにく「記号」という概念は小学生向きではないんですね。「円周率」は「円周率」で教え、手計算のときは3を使い、電卓を使うときは3.14を使う、という指導法になるようです。高校時代の天文部の顧問だった冨田先生は、授業中に円周率を3で計算し、「おかしい。教科書の数値と合わん。」とか言っておられたので、実害はなさそうに思います(^_^;)。ちなみに私は概算のときは「三を掛けてから二十分の一だけ増量(三・一五)」を基本にしています。ついでながら、「産医師異国に向こう、産後厄なく、産婦御社(みやしろ)に、虫散々闇に鳴く、お礼には早よ行くな」で小数点以下三十九桁(^_^)。ロサンゼルスに行ったときに向こうの航空エンジニア(女性)の前でスラスラッと書いてみせたら、「サンタ・マリーア!」と叫んでおりました。日本人おそるべし(^_^)。
それより問題は小学校の算数のカリキュラムなんですね。遠山啓さんの「水道方式」による「二・五進法による加法の指導」「ゼロおよび繰り上がりのある・なしによる三桁+三桁の加算問題の分類」「一般から特殊へ/特殊から一般へ」「数え主義の追放/量による指導」とかいった指導理論が、いわゆる文教族との派閥争いによって教科書から退けられていて、その結果算数の学力が「押えこまれた」形になっており、それを解消する形で「公文式」が勢力を伸ばしてきた、という現状があったりするわけで……この「水道方式」による算数の教科書である『わかるさんすう』の採択問題については調べてみると面白いと思います。
ついでながら人工知能の分野では、「子供はいかにして足し算を間違えるか」をコンピュータでシミュレートする「バギー」というプログラムがありまして、問題と計算結果から、「この子は足し算アルゴリズムのこの部分が理解できていない」みたいな原因を突き止めることができたりします。
ほかにもシーモア・パパート教授が開発したLOGO言語によるコンピュータ指導が発達障害児教育に効果を発揮し、ADHDでとにかく五分と机に向かっていられなかった子供が一時間以上もコンピュータにかじりついていたとかいった話もあり、安野光雅さんの『はじめてであう すうがくのえほん』やらピアジェの『発生的認識論序説』やら……くそぉっ! とにかく山ほどの歴史資産が小学校の算数教育に関してはあるというのに、文部科学省(旧・文部省)および文教族の縄張り意識のためにそれらが活用されとらん、という現状があるのをマスコミはなぜ黙っとるんだぁぁぁあ!と、私は十数年来怒っておるのですね。
ところが障碍者向けのユーティリティ・ソフトウェアや発達障害児向けの教育ソフトウェアを開発したいと言えば「儲からん」と邪魔をされ、水道方式に基づく算数教育用のソフトウェアを開発しようとすれば「お上のすることに逆らうな」と足を引っ張られ、「ええい、いつか見ていろ俺が福祉と教育ソフトの世界に革命を起こしてやるうっ!」と拳を握っとったんですが……まだ夢は捨てとらんぞ(-_-メ)。
この件についてはフォローの書込みが必要かもしれない。続報を待て 所長
みどりちゃん wrote:
>私自身はこのままでいいけど、
>世の中がもうちょっと変わってて、ASなど少数派へ
>の配慮がなされているといいなぁと思います。
>
>・・・ってことで、全く別の人生は望まないけど、
>今よりちょっと楽に生きられる世の中であって欲し
>いです。
>むしが良すぎるかしら?
なるほど、自分が変わるのではなく、世界が変わっ
てほしいということですね。確かに少数派が多数派
に一方的に合わせていかなければならない世界は疲
れますよね。
いわゆる「普通の人」との同化にえらい時間をか
けてしまったわたしも同感です。
ゆーりさんへ
成人LDのくるとです。今日たまたま仕事が非番になったので
コメントします。
ゆーり wrote:
>私がもし生まれ変わるとしたら、亀になりたいです。
>大きな海をぷかぷか泳いでみたい。
>でも、そこまで大きくなるのは大変かな。
>ほとんどの子ガメは、小さいうちに死んじゃうもんな。
むむ…。夢を語っているようで、現実をよく把握しています
な。でもなんか素敵な夢ですね。
>だから、浜辺の石になりたいです。
>いつも海の音に耳を澄ませて、ゆったり沈んでいたいですね。
>人間になるのだけは、金輪際ごめんです。
ゆーりさんは海が好きなんですか?この夢かなうといいです
ね。
武田好史 wrote:
理科はは学ぶ内容を削減するのではなく「体系立てて」「判りやすく」に力点を置き、「歴史」「国際関係」においては「中立的な視点」を十分に配慮すべきです。
例えばです、今は生物・天文・気象にまつわる知識は、学年毎にバラバラの感じで教えていますが、低学年では観察を重視して、季節毎にどんな変化が起こるのかを総合的に学ばせ、基礎的な自然の見方を養い、高学年ではその中にはどんなからくりがあるのかを学ぶというほうがよく理解できると思います。「まんげつはは冬は空高く見えるけど夏は低い」「たいていの草は冬枯れてしまうけども、種や球根の形で眠っていてて、春になると新しくよみがえる」「春の空は大気中のちりが多いため白っぽく見える」「秋に木々から落ちた落ち葉は、土の中の小さな生き物が分解して、森を生かす栄養になる」といったことは、このようなことによってよりよく、環境・自然を重視しなくてはならない時代の子供たちの脳裏に焼き付いていくと思います。
戦時中の日本の歴史で重視しなくてならないのは、「どちらが悪い」ということではなく、「戦争とはいかなることなのか?」ということです。中国・東南アジアの国々でもそして日本でも、多くの人たちが命を落としました。50年たっても、これらの国々の人たちの間では、お互いの国の対する恨みが吹き出しています。
「戦争とはお互いの国が、国の利益をかけて争うことであり、双方の国に多くのダメージがふりかかるからこそ避けなければならない」という本質的なことの理解が重要であり、それには「日本が悪い」「いや中国だ」といったどちらかの側に偏った視点よりも、中立的な見方で当時の状況を捉えていくということが大切だと私は思います。それが真の平和に結びついていくでしょう。
>> 私が一番腹が立ったのは、小学4年生の理科でで学ぶ「植物」の数が42種から3種に減るということです。これは子供たちの自然に対する好奇心を著しくそぐものであり、また、いずれこの国の第一次産業を存亡の縁にたたせるでしょう。また、「月の満ち欠けの写真は2枚まで」ということになることもそうです。詳しいからくりはともかくとして、「昔の人は月のみちかけをを見て時の経過を感じ、日々の生活を営んでいた」ということを聞いても、きっとこの教科書で学んだ子たちは信じないでしょう。
これは悲しいですね。私は理科を勉強するのが生き甲斐(本当に命を救ってくれるほど)だったので。自分が新しい知識に出会うたびに、夢の世界に旅行に行くようにときめいたものです。
>現に存在しているものを、なぜ教えようとしないのだろう。
>好奇心の旺盛な子は、教科書で教わらなくても、月の満ち欠けに興味を持ち、
>草花にも興味をもつと思うのですが、そういう子どもに質問されたとき、
>先生は何と言って答えるのだろうか。
>「それはまだ知らなくてもいい」と言うのだろうか。
この解答を教師にされたら、当時の私は「貴方は馬鹿で尊敬できないので先生と呼ぶのをやめます。」などと答えてしまい叱られるハメになりそうです。いや、、、似たようなことを口走るイヤな子供だったので目の仇にされてましたが、、、。
武田好史 wrote:
>あなたが見た夢で、奇妙だったものには、どんなものがありますか??
自分でとても奇妙と思ってもなかなか人にその奇妙さを伝えるのは難しいですね。
私は幼児期から定番の夢が何パターンかあります。
その内の一つです。
曇天の下、温泉のように水蒸気が煙った沼があって、水面から無数の木の杭がつきだしています。その木の杭にはテントウムシがビッシリと並んでくっついています。
ただただ、そんな風景が続くだけの夢です。
不登校気味の小4男子(医療機関でADHDと診断されています)の
母です。
この掲示板はよく読ませて頂いています。
環境の変化に弱い彼は新学期は落ち込みます。
医師から抗不安薬(薬の名前は解かりません)を頂いています。
朝飲ませても、夜飲ませてもいい。と言われているのですが、
朝立ち上がりの悪い彼には、いつ飲ませたらよいのでしょう?
ここに書き込むのが、不適切な内容だったらごめんなさい。
チイママ さんwrote:
>もしよかったら、皆さんの最近ハマってることを教えて下さい。
最近、大河ドラマの「北条時宗」を見ていまして、
鎌倉時代について書かれたものに興味を持っています。
(はまっているとまでは言えないかもしれない)
ドラマやマンガを読みながら、
果たして鎌倉時代の人がこんなことを考えるだろうか、
こんな行動とるだろうか
と疑問に思うことも多い今日このごろ。
歴史に登場する人たちがどんなことを考えていたのかなどを
考えるのが好きです。現在私たちが目にしている歴史は
誰かが編纂したものであり、編纂者の価値観や好みが入っています。
なのであらかじめそれは偏っていると考え、
別の角度から考えてみたり。
武田好史 wrote:
> 今日文部科学省から、小中学校で使用する教科書検定の内容が発表されました。
>すでにみなさんニュースでごらんになったと思いますが、教える内容が理科では「骨抜き」といってよいほどに削減されたり、相変わらず歴史の「日本の戦時中の状況」ではもめているようです。
歴史の教科書のことばかり話題になっているように思ってましたが、
他の科目もさんざんなのですね。
>
> 私が一番腹が立ったのは、小学4年生の理科でで学ぶ「植物」の数が42種から3種に減るということです。これは子供たちの自然に対する好奇心を著しくそぐものであり、また、いずれこの国の第一次産業を存亡の縁にたたせるでしょう。また、「月の満ち欠けの写真は2枚まで」ということになることもそうです。詳しいからくりはともかくとして、「昔の人は月のみちかけをを見て時の経過を感じ、日々の生活を営んでいた」ということを聞いても、きっとこの教科書で学んだ子たちは信じないでしょう。
> 算数では、「円周率は3」ということになるようです。こんなの「π」でよいと私は思います。普段はπで計算して必要に応じて3.14を代入してやればよいのです。
現に存在しているものを、なぜ教えようとしないのだろう。
好奇心の旺盛な子は、教科書で教わらなくても、月の満ち欠けに興味を持ち、
草花にも興味をもつと思うのですが、そういう子どもに質問されたとき、
先生は何と言って答えるのだろうか。
「それはまだ知らなくてもいい」と言うのだろうか。
ゆーり さんwrote:
>それから、障害が個性の1つという言葉にもひっかかる。
>障害によって、日々苦しんでいる人が現にいるのだ。
>障害があったって、人間としての尊厳や誇りが失われるわけではないけれど
>それを「個性」という言葉で片付けるのは
>あんまりにも簡単すぎやしないだろか。
「個性」といえば「個性」だけど、
それを「障害者」の側が自分を肯定するためにあえて言うのと、
「健常者」の側が言うのとでは意味するところが違ってくるように思います。
「健常者」や「多数派」が「それも個性」と言う場合、
当事者の抱える問題を、(例えば)背の高さとか性格の違いと同じレベルの
ことにして、軽く考えようとする意図を感じます。
さらに言うなら、なんでも「個性」で片づけることは
「できないのも個性(なんだからいいじゃないか)」という風な考え方にもなってゆき、
できないで苦しんでいる当人に対して「気にするな」とか
安易なことを言うことにもなっていきそう。
すいません。くるとです。
気がついたら、「生まれ変わる?」に対するレスが
たくさんたまっていて、十分な返事ができない状態に
なってしまいました。この場を借りてお詫びします。
この件についてのコメントは全部熟読しました。自
分の気がつかなかったことに気がつかせてくれるコメ
ントが多くて大感激です。
また、生活していくうえでひっかかった事があった
らコメントしてみます。その時はよろしくです。
成人LDのくるとです。時間が少ないので、手短に
武田好史さん wrote:
> 「悩む・考える・工夫する・共有する」は、よ
>りよい世の中を創る第一歩です。今の日本がダメ
>になったのは、きっと目先の利益の追求のために、
>「哲学すること」をおろそかにしてきたつけが回
>ってきたのだと思います。
> 私は、ASの人は「哲学をする」ために、この
>世に生きているのだと思います。ですから大いに
>悩んで、考えがたまったらこのページで良いです
>から、みんなに話してみましょう!
そう言っていただけると助かります。ありがとう
ございました。時間ができたら、またコメントして
みます。
『いく』/救世義也
思うに、「死ぬ」という動詞はふしぎな単語である。
<死>を<シ>と読むのは音読みである。訓読みはない。だから、「死ぬ」という言葉は、「ダブる」とか「バグる」なんかと同じで、外来語がそのまんま日本語の動詞になっちゃったという、けっこうめずらしい例なのである。
ふつう、こういうふうに外来語が日本語の動詞化する場合は、漢語の場合は『〜する』とか『〜ずる』とかいったふうにサ行変格活用動詞になり、英語などのヨーロッパ系の語の場合は五段活用ラ行の動詞になる場合がほとんどだ。じじつ、「死ぬ」にも「死する」という形がある。中には「愛す」(五段サ行)なんていう例外はあるけれど、サ変動詞とごっちゃにされて「愛する」(誤用あるいは慣用である)みたいに使われていたりするところをみると、「愛する」はまだ完全には「やまとことば」になりきっていないと言えると思う。
「『死ぬ』以外に、こういう例ってあるんでしょうかね?」
「ないでしょうね」。納屋さんがあっさりと言う。
「断言しますね。なんでですか?」
「文法に乗らない例というのは、だいたいにおいて使用頻度が高いんですよ。逆にいうと、しょっちゅう使っているうちに表現が磨り減って、文法から外れてしまうとも言えるんです。不規則活用動詞の『来る』『する』『言う』『行く』がまずそうだし、『呉れる』の命令形『呉れ』というのもそうだし。それ以外だと、『乞う』『問う』なんていう不規則活用動詞があるけど、あれも言文一致体が普及したのに文語体のまま使われることが多かったという例だし。めったに使われない単語というのはいちいち覚えていられないから、一般的規則に当てはめて使われるというのが合理的でしょう。したがって、そういった特種な例があったら、必ずチェックに引っかかってるはずです。以前、仕事で日本語の文章から動詞を活用別に抜き出すプログラム(註1)を書いたことがあるんですが、それらしい単語は見つかりませんでした」
「そんな仕事もしてたんですか?」
「私が日本語処理の仕事をするようになったのは、それがきっかけです。当時はまだ仕事としての引合いがあったわけじゃないから、仕事というより社会奉仕活動の一環でしたけど。そのときは、視覚障害者や外国人のために漢字かな混じり文の読みを推定するシステムを作ったんですよ。いちいち漢和辞典を引くのも面倒ですからね。『冷たい』『冷える』『冷める』はばっちり区別できたけど、『いれない』と『はいれない』や『いった』と『おこなった』の区別とか、『あしあと』と『そくせき』、『ぶんしょ』と『もんじょ』の区別とかはできないといった問題点はありましたけど、けっこう好評でした」
やっぱり、このひと天才だと思う。
「で、さっきの話から言えることは、『外国語を習得しようと思ったら、文法から外れた表現を丸暗記することから始めると効率がいい』というです。そうすれば、日常会話はほとんどそれだけで間に合ってしまう。それ以外の、文法規則に当てはまるものは日常生活における使用頻度としては低いし、文法を覚えることで機械的に類推できると」
「なるほど」
「で、『死ぬ』という動詞は、おそらく偶発的に生まれた、極めて稀な例だと思うんですよ。『死ぬ』は五段活用ナ行という、珍しい活用をするでしょう? 同じ活用をする動詞は、『立ち去る』という意味の『去ぬ』しかない。したがって、『死する』と『去ぬ』が併用されていた時代に『去ぬ』の慣用形『去ぬる』からの類推で『死ぬる』という慣用形ができた。そこから逆に類推して、『死ぬ』という動詞ができた」
「そういうのって、ちゃんと論文にまとめたものとかって、あるんですか?」
「私は研究者というより技術屋だから、結論が見えちゃうと飽きちゃうんですよ。本当はこういうのっていけないんだろうけど。データは提供するから、お嬢さんの考察をプラスして論文に仕上げてみませんか? けっこうウケると思うけど」
「ウケるかなぁ……」。馬鹿にされそうな気がする。
「ウケますって。俺みたいに国文法のど素人で、しかもコンピュータが使える可愛げのない三十男がしゃしゃり出たら反撥食うだけだろうけどさ、お嬢さんだったら間違いなくウケる。国文法を研究してる若い女の子がそうそうおるとは思わんでしょう? コンピュータ使ってその手の研究したという話もあんまりないしさ、おじいちゃま連にはモテると思うぞ。共同研究のお声くらいは掛かるんじゃないの?」
「じゃあ、国語学会のアイドル・スターを目指しちゃいましょうかね?」
「そのうち『蘇好美・写真集』とか出したりして」
「出さない出さない」
ニコニコマークのような緊張感に欠けた顔立ちに、めりはりのない幼児体型。色の白いのが唯一の取柄というあたしは、<ウーパールーパー>と一部で呼ばれている。
「だけど、そうすると『立ち去る』と『死ぬ』は、意味的に近いということですか」
「よく分からんけど、『いく』と『死ぬ』は似たような意味で使われますね」
「あのときの、ですか?」
「そうではなくて、『ご逝去』という言いかたがあるでしょう。そっちです」
思わず赤面。
「すいません、あのときの『いく』っていうのは、どこへ『いく』のかなって、ずっと考えてたもんだから」
納屋さんが、がっくりとうなだれてしまった。
「……呆れてますね」
「そうじゃないんですよ」。納屋さんがかぶりを振る。「私の場合、それについて真面目に考えて、あまつさえ論文までものしてしまったことがあるわけでね、そういう質問を受けてしまう自分が情けないだけです。で、あのときの『いく』は、たぶん移動の『行く』じゃないんじゃないかと思ってるわけですよ、私は」
ありそうな話では、ある。そもそも『いく』に関する疑問は今回の仕事、かな漢字変換システムの開発にからんで出てきたものなのである。動詞の係り受けに関していうなら、『行く』・『往く』、それに『逝く』とあのときの『いく』は、『どこから』『どこまで』という格を要求するしないによって、それぞれ別のグループに属す。あるいは『いく』の変換候補として『イく』を用意しておくのはいいとしても、連体形過去完了時制を『イった』と『イッた』のどちらで表記するかにはユーザの好みが強く出るうえに、不規則活用動詞だから処理が難しい。
「やっぱり日本語処理の仕事ですか?」
「日本語処理が軌道に乗ってきた頃に、逐語訳の翻訳支援システム(註2)の開発依頼が来たんですよ。で、その時に『行く』と『来る』の訳語について検討して論文書いたんです。 “come” は『来る』と『行く』の両方に訳せるから、すべて『する型動名詞』として “comeする” とかそのまま表示することにしたら、発注側とは合意がとれたんですが会社のほうから文句がついたんです。それで弁明ないし説明のために論文を書いたと。発注側の担当者の名前で発表されたから、私の名前は出ませんでしたが」
「結構ひどい話じゃないですか? それって」
「仕様決定は顧客との話合いの結果ですから、ある面しかたがないと思います。だけど具体的な処理技法については別立てで論文書いて、それは私の名前で出てるから、納得してますよ。今回のかな漢字変換システムに使った『不規則活用動詞はメモリ上に用意したパターン・マッチング・テーブルで処理する』とかいった技法も、そのとき思いついたネタだし。たとえば “Good morning” は何も考えずに『おはよう』に置換えるし、 “I’m coming” は『いく』で置換する。この場合、末尾の句点を含めないのと、 “Good morning” は先頭の G が大文字のものと小文字のものの両方を登録しておくのがポイント」
「今回でいうと、『あけましておめでとう』ですか」
『あけましておめでとう』の『あけまして』が、『開けまして』や『空けまして』に変換されてしまったら、やっぱりまずい。そこでこういった定型パターンをファイルに登録しておいて、起動時に検索に適した形式に変換しながらメモリ上に吸い上げるのである。あたしは今回、その登録とか検索とかのデータベース部分を担当した。
「そうそう。で、どうしてこういうことをする必要があるかというと、たとえば “come” の場合でいうなら、電話で『そっちへ行く』って言うときは、英語では “come” を使うわけです。英語の “come” は『話相手のいる場所への接近』なのに対して、日本語の『来る』は『話し手のいる場所への接近』なんだよね。だから、話し手と話相手が同じ場所にいる場合は “come” と『来る』は区別する必要がないんだけど、電話で話してるときみたいに別々の場所にいる場合は、区別しなきゃいけない」
「そうすると、『いく』っていうのは、自分が相手の方に移動しているわけですか」
「そこがまさに問題なんです。私は “I’m coming!” の “come” が、『いく』と同義だとは限らないと思うんですよ。たとえば “You’ll kill me!” が『死んじゃう!』と訳せたとしても、英語の “kill” の主体が男性だとすれば、日本語の『死ぬ』の主体は女性なんですよ。だから、動詞としては区別しないといけない。結果的に、そこに状況とか、文脈とか、文化というものが入りこんでくるわけです。だもんだから、『翻訳システム』から百歩も二百歩も退いた、『翻訳支援システム』なわけ。私は<翻訳>そのものが厳密にいえば不可能だと思ってるから。私は、我々日本人が『翻訳』と呼んでいるのはむしろ<翻案>だという立場です」
「それも以前に言ってましたね。日本語だと『五本指』だけど、英語だと四本の “finger” と “thumb” だって」
「なんか、面白そうな話、してるわね」。見上げれば濁り酒の一升瓶と背の低いタンブラーをふたつ持ったおきんさんがいた。なぜか夜なのにサングラス。
「あっちはいいんですか?」。納屋さんが背中越しに親指で喧騒を指差す。
「このところの激務で疲れてるらしくて、みんな潰れちゃったのよ」。とはいえ手にした一升瓶の中身はほとんど減っていなそうに見える。
「あっちって、そんなに酒に弱い奴ばっかりだったかね」
「これ、三本目だから。お座敷のほうは死屍累々。七人くらい潰れてるわ」
おきんさんの本業は耽美系小説家。プログラマーとしての仕事は同人誌出版の資金稼ぎの一部であくまで副業だそうだけど、腕前はそのへんのプロはだしである。そしてプログラマーより夜のご商売のほうが似合いそうな(もの書きやプログラマーも<夜の御商売>だという意見は置いておくとして)、<妖艶>という表現がまさにそのまんま当てはまる、妖しい雰囲気の美女だったりするのである。
おきんさんはあたしを通路に出し、納屋さんをあたしの正面からあたしが坐っていた席に移動させ、その隣にあたしを坐らせると、納屋さんの坐っていた場所にどさりと腰を下ろした。仕切る仕切る。
「英語と米語の間ですら、そういう対応関係が張れない場合があるでしょう。英語だと “green fingers” で、米語だと “green thumb” だとか」
ぼん、と一升瓶の栓を口でくわえて抜くと、きれいな方のタンブラーを納屋さんに押しやってから目で訊ねる。納屋さんに一杯そっと注いでから、自分のぶんをどぶどぶっと注ぐ。くいっと空けてすぐ二杯目。後ろの席のサラリーマン風四人組がおきんさんをこわごわと盗み見るのが見えた。おきんさんはわざわざサングラスを外して(たぶん)にっこりと微笑んだ。四人組が(おそらくだけど)おきんさんの美貌にびびって後退するのがわかった。
「ところで、この位置関係にはどういう意味があるんですか」
「あたしが納屋さんの隣じゃ厭でしょう? 女ふたりで並んでも不毛だし。後ろが壁だと落着かないだろうし―」。けっこう気をつかってくれているらしい。「―あと、並んで坐るときは、男は女の左、女は男の右。そうすると女性は安心するんだって」
「なんでですかね?」
「利き手の右が自由になるからじゃないかな。よくわかんないけど。で、さっきの話だけど、次の仕事は翻訳システム?」
「そうじゃなくて、動詞『いく』が要求する格の話」。納屋さんがしごくあっさりと説明する。
「到達格、目的格、具格、向きの格、場所は格じゃなくて相―じゃないか、『で』じゃなくて『を』だから―そのぐらいかしら」
「そういう意味ではなくて、例の『いく』っていうのは、どこへ『いく』のかと」
「ペトロが日和っちゃったもんだから、代りにローマへ行って宣教するんじゃないの?」
「……『クオ・ワデス』(『何処へ行かれるのですか』)じゃないんですってば」。ご丁寧にもツッコミを入れてしまうあたし。ちなみにラテン語のVの字の発音はワ行なのである。だから、『アヴェ・マリア』も正確には『アウェ・マリア』だ。
「だけど、あの『いく』って、現代語じゃなさそうな気がする」
おきんさんが、ちょっと考えて言う。
「江戸時代の文献を見ると、女性のオーガズムを描写するのに『精(き)をやる』っていう表現以外に『気をいく』とかいった形で使われてるのよ。だけど、移動の『行く』だと、『砂漠を行くとか』『シルクロードを行く』とかいうふうに、助詞の『を』は場所ないし経路の格を取るはずじゃない。そういう意味だと、『気を』っていうのはなんか変だと思うわけ」
ここにも珍しいひとがいる。
「そういうの、おきんさんもやっぱり考えましたか」
「『やっぱり』っていうのが、引っかかるわね」。あたしは睨まれているらしい。サングラス越しでわかんないけど。「だって、今回の仕事で検討したじゃない。『動詞ごとに要求する格と名詞の属性のリスト作っといて、係り受けの関係を推定する』っていうの。結局没になって、あたしの何週間ぶんかの作業がパーになったでしょう」
「そういえば、ありましたね。あれって何で没になったんでしたっけ」
「そもそも技術的検討が不足してたというか、けっきょくアイディア倒れなのよ。『回線が死んでる』とか『タスクを殺す』とかいう表現があるなら<生物>のリストの中に『回線』や『タスク』を入れなきゃいけないのかとか、あとは『目が死んでる』とは言うけど『耳が死んでる』とは言わないんなら目は生物で耳は無生物なのかとか、そんなことが問題になるたんびに名詞の属性が変更になるじゃない。そうすると、その都度作業が元に戻っちゃうのよ。それで人手が足りなくてイライラしてた納屋さんが、『メインの処理で対応するから、チーム解散してこっちに人を寄越せ』って言ってくれて、そっちと合流したわけ」
「大変でしたね、それ」
「作業自体はそれほど苦にならなかったんだけど、あたしたちは一時間あたりの処理語数から割出した単価で、単語一個あたりいくらの契約だったでしょう? 例の次長が『結果的に成果が上がってないんだから支払はできない』とかいって、無駄になった作業工数分の支払を拒否したわけ。それでこっちはツール・プログラム作って実工数を浮かせてしのごうとしたんだけど、ツールの開発にかかった工数分は作業工数に入れないとか、結果的にそれで単語あたりの工数が減ったんだからそれに合わせて見積も見直すとか、めちゃくちゃ言い出してね。結果的には納屋さんが雷落として話つけてくれたから、損はしなかったけど」
「じゃあ、前にうちの会社が撤退するのしないのっていうのは、その話だったんですか?」
「そう。だから納屋さんには脚を広げて寝てしまうというくらい感謝してます」
がちゃん、と音がした。おきんさんの背後のサラリーマンの誰かが、グラスを倒したらしい。
「『足を向けて寝られない』でしょう。おきんさん、おやぢ入ってます」
「だから今度のシステムだと一部の定型的な係り受けを辞書登録で処理してて、動詞のリストに『目が死』とか、『鼻が馬鹿にな』とかいった動詞が登録されてたりするの」
あっさり聞きながされてしまった。
「正確にいうと『目が死』じゃなくて、『目が死んで』と『目が死んでい』が、『居る』と横並びで登録してあるんだけどね」。納屋さんがぼそりとコメントする。日本語処理の鬼を見る思いだったりする。
「そうすると、あの『いく』は、やっぱり『目がイッちゃってる』みたいな『イく』なんですかね? 要するに、別の状態になっちゃってるというか……」
「それだったら『気を』じゃなく『気が』でしょう?」
「厳密にいうと、仮に『気が』だったとしても、『目が』とは区別するべきなんだろうな」。納屋さんがぽつりと言う。「『気がイッちゃってる』の場合は『イッちゃってる』のは『気』だけど、『目がイッちゃってる』の場合は『気がイッちゃってるのが目で分かる』という意味でしょう。さっきの『目が死んでる』も、『死んでるのが目で分かる』だし」
「なんか、さっきから<目>にこだわってない?」。おきんさんがサングラスを軽く押さえる。
「そういえば、さっきから気になってたんですけど……そのサングラス、何なんです?」
「左目が軽い内斜視なのよ。気が張ってるときはいいんだけど、寝不足とか、お酒飲んだりすると出ちゃうの。中学校上がってから学校の先生に『手術で治るから治したほうがいい』って言われたんだけど、母親が反対したのよね。ほら、うちの母親って、お妾さんでしょう。うちの母もあたしと同じで、普段はわかんないけど内斜視だったの」
「おきんさん、酔ってます。話に脈絡がなくなってますよ」
「『公序良俗に反しないように、適宜婉曲な表現を用いてる』だけのつもりなんだけどな。つまり、女性の場合、イッた瞬間に片目だけ寄る(註3)のが色っぽいって―」
おきんさんの背後の席のサラリーマン四人組が、ずがしゃ、と音を立ててつんのめった。さっきから聞き耳を立てていたらしい。
「―喜ぶ男性が多いのよ。」
おきんさんは振り返って、ひょい、とサングラスを下ろした。とたんに四人組がのけぞり、ずどがしゃがしゃん、と盛大な音を立ててずっこけた。
「な、何やったの」
「これ」。サングラスを下ろすと、左目がみごとに寄っている。「これは、わざとやってるんだけど」
「おれもできるぞ」。納屋さんが真似をする。せんでええっちゅうに。
「それよりさ、お酒飲むと蕁麻疹みたいなの出ない? 薔薇色っていうか、ほんとに赤いまだらがバラバラっと出ちゃうとか」
「あるある。あれはさすがに気持悪いですよね。あたしも体調が悪いときなんかは出るんです。あれって肝臓が悪いんでしょ?」
「それがさ、あれも逆にいいっていう人がいるのよ。エッチの絶頂期に同じようなのが出るのよね。セックス・フラッシュっていって―」
がちゃちゃん、とまた音がした。どうやら今度はビール壜を倒したらしく、サラリーマン四人組はほとんど泡ばっかりのビア・グラスをせわしなく干している。おでん屋の店員が布巾を持って駆けつけてきたが、足りずに腰に提げていたタオルで拭いている。
「―日本語では性的紅潮っていうんだけど」
「……話題を本題に戻そう」。納屋さんがやや疲れ気味にいう。
「で、女性の場合は『気をいく』だけど、男性の場合は『気を遣る』が普通みたい」
「なんか、それって女性に対して失礼な表現みたいな気がしますけど」
「それはつまり、この表現が射精と受精がセックスの目的であるという思想を背景にしてて、男性には射精の快感があるけど女性には受精の快感というものがないから、反フェミニズム的な表現であるという意見なわけ?」
「いえ、そういうのではないんですけど……」
「じゃあ、『ちゃんとイかせてくれなきゃやだ』とか、そういうことを言ってるわけ?」
どしゃんがらがらがちゃん、と背後の四人組が潰滅した。やっとという感じで立ちなおったけれど、ついに逃げ仕度をはじめてしまった。哀れなものである。
「……だから、話を本題に戻そうじゃないか」。納屋さんがまたぼそりと言う。だけど、それってぜんぜん状況の改善に結びついてないと思うぞ。「ともあれ、<受精>っていう言葉が適切ではないとはおれも思う」
「じゃあ、『精を受ける』くらいにしておきましょうか」
「了解しました」
納屋さんは語法にこだわることでディスカッションから消極的に逃げている気がする。
「ですけど、あたしが読んだ感じだと、江戸時代は『気をいく』が『オーガズムを得る』の同義語として使用されてる感じなのよ」
「だけど、それもなんとなく男性中心な話ですよね?」
「それはつまり、この表現に男性にとっての神話というか、男性の願望を含んだ幻想が投影されているという意見なわけ? つまりは男根崇拝思想の現れだとか」
「あんまり絞らんでやってくれ、編集長」。納屋さんがおきんさんを宥めにかかる。「こいつは別に変なフェミニズムにかぶれてる訳じゃないから」
「そこを問題にしてるつもりはないんだけどな。そうじゃなくて、無自覚で言語化されてない……じゃないわね。『自覚しない』あるいは『言語化しない』っていうところに逃げこんじゃう狡猾さ、みたいなものに、今は神経質になってるところがあるわけ。今度の仕事でいろいろあったでしょう」
なるほど。それでこっちのテーブルに逃げてきたのか。
「『そんなふうに突っ張ってると男に相手にされないぞ』とか平気で言っちゃうオヤジも、ニコニコ笑いながらそのオヤジの酒の相手をしてる女連中も、けっきょく同じ穴の貉だっていう思いがあるわけなのよ。女は女で『えー、わかんないですぅ』とかいって笑って済ませちゃうところがあるでしょう?」
「そうやってお互いに利用しあう態度を、おれは否定せんけどね。確かにおれの趣味には合わないけど」
「あたしが言いたいのは、そういうこととはまたちょっと別なの。『自分に問いかける』とか、『自分の暗黒面と向きあう』っていう態度があるでしょう? 言語化っていうのはその手段だし、自覚っていうのはその結果なわけ。あたしがいわゆる先鋭的なフェミニストの女性を嫌っているっていうのは、彼女らはちゃんと自分と向きあってなくって、言葉が上滑りしちゃってるからなのね。そういう態度が『文学としてのポルノグラフィ』を衰退させちゃったと思うのよ。典型的なフェミニストってさ、ポルノグラフィは単なる『男性にとって都合のいい性幻想をでっちあげるための手段』だとかって主張してるじゃない? あたしはすべての文学は幻想文学であって、性幻想を描いたのがポルノグラフィだって考えてるわけ。文学で表現された幻想というのは文学論の中で議論されなきゃいけなくてさ、主義主張の問題とは別枠なのよ」
「反コンピュータ主義みたいなもんだな。コンピュータもポルノも単なる手段であって、動機や行為とはとりあえず別枠だと言いたいわけだ」
「そうそう。たとえば、青少年向けの、教育的で道徳的なポルノグラフィだって、あるはずなのよ」
面白いかどうかは別にして、ちょっと読んでみたい気がする。
「『すべての文学は幻想文学だ』っていうなら、本格推理小説なんかも幻想文学ですか?」と、あたし。
「理性信仰という意味ではね。純粋な論理操作で犯人を指摘しうる犯罪なんて、現実には存在しないか、でなかったら犯人が自明な場合だけだもの」
「そもそも現実においては、わからんまま放っておいたほうがよさそうなことというのが少なからず存在するからな」と、納屋さん。「探偵の余計なお節介を正当化する意味でも、理性信仰というのは必要だよな」
「なんか、どさくさに紛れて話題を逸らされてるような気がするわね」。そうではありません。結果的にそうかも知んないけど。「で、納屋さん自身は『いく』っていう動詞の意味についてどういう意見を持ってるの?」
「特に意見というものはない。私は “I’m coming!” との比較で考察したことがあるだけであって、 “come” と『いく』がともに移動を表わすとしても、単純な置換えでは翻訳できないということを示しただけ。それに、 “I’m coming!” が『いま、 come しつつある』という<接近>の意味なのか、『いま、まさに come した』という<到達>の意味なのか、それとも、『既に come して、現在そうなっている』という<完了>の意味なのかだって不明だしね」
「それ、似たようなこと、前にも言ってたわね。『悔い改めよ。天の国は近づけり』」
この洗礼者ヨハネの言葉は、「『神の国はもう来ているのだ』というふうに、考えを改めなさい」という<過去完了>の形で翻訳するのが正解らしい。つまり、「今、我々が住んでいるこの世界も神が創造されたものなのだから、その意味で『神の国』であり、ここ以外に極楽浄土のような『神の国』が存在するわけではない」ということだ。
「確かに、その瞬間に『いく!』って申告する人も、あんまりいないでしょうし。『いっちゃう』とか『いっちゃった』とかいうんなら、まだ分かるけど。それとも『しかるべき状態が近づきつつある』っていうことを、相手の男性に伝えたいっていうことなのかな」
「『一人で行っちゃわないで、あたしも連れてってほしい』みたいな意味っていうのは?」
「納屋さんって、そういう身勝手なタイプだっけ?」
「そういう個人的な問題じゃないんですぅ……」
「ともあれ、私としてはむしろ『気』という言葉の解釈について再検討したい」
どん、とかテーブルを叩いている。
「つまり?」
「『気』というと、普通は漢語の『気』を考えるでしょう。精気としての『気』。つまり『気が重い』とか、『気が晴れる』とかの『気』だよね? だけど、私は『気を遣る』の『気』の場合、『お神酒』の<キ>ではないかと想像するわけ。漢語の『気』は生命活動に必要なある種の保存量としての概念だけど、やまとことばのほうの<キ>は、生命自身なわけ。つまり生命を担った液体というか、『生きた液体』の『生命』が、<キ>なんだよね。濁り酒っていうのは、普通に栓して放っといたら栓が飛んで溢れかえっちゃう。ところが火入れをすると『死んじゃう』わけで、それ以上醗酵は進まなくなる。そのかわり腐るけどね。あるいはこういう市販の濁り酒みたいに、アルコールを足して醗酵を止めないといけない」
「つまり、イエス・キリストのいう『命のパン種』だ」
パン種と酒種は、基本的に同じものである。有名な木村屋綜本店のあんパンは、パン種の入手が困難だった時代に、酒種で作られていたという話が残っている。
「そういうことです。ウェスーウィオスの噴火で埋没しちゃったポンペイやフルクラネウムの遺物から、古代ローマの時代には、パンの醗酵室に男性器の形をした呪具が置かれていたっていうのが分かってる(註4)。つまりパン種と精液っていうのは、少なくとも過去二千年来、ヨーロッパでは象徴的として同一視されてたっていうのがあるわけだよ。あるいは<キンタマ>っていう言葉があるでしょう。あれは<金の玉>ではなくて、<キの玉>だということです。だから、やまとことばの<キ>は、『空気』の『気』じゃなくて、『粋』という字を使うべきだと思ってるわけ。『生粋』の『粋』。『精粋』の『粋』。昔のお酒というのは、基本的に濁り酒だったわけですよ。しかも火入れもしてなければ、アルコールも添加されてない。だから蒸し米と水を加えれば増殖する。まさに『生きた液体』であり、人間に活力をもたらす『神の精液』だったんですよね。そこで神聖視されて、『お神酒』になったという。『お』も『み』も、丁寧語の接頭辞『御』だと見るわけです。『おみおつけ』みたいなもんですね」
「納得できなぁい」。あたしとしては、『どこか変だ』という感覚がまだ残っている。「男性だけが神聖視されてるみたいで、なんか不平等な気がする」
「あたしの場合は意見が違うけど、納得できないという点では同感だわ」。おきんさんがきっぱりと言う。「その<キ>だって、精液そのものっていう点では、さっきの『気を遣る』の『気』と同じことになっちゃうでしょう? 実際にはさっきも言ったとおり、『気を遣る』と『気をいく』は同じことを男女それぞれの視点で見てるわけじゃなくって、男女それぞれのオーガズムを指してる感じなの。たとえば『気をいかせる』とかいう表現があるし。つまり、『いく』っていうのは、男性の射精とは無関係に存在しうる独立した概念なのよ」
つまんないことを、思いついてしまった。
「あのぉ……ひとりでするときとかは、どうなんでしょうか。その場合は、『いく』っていうのかどうか」
「そうか。そういう視点もあるわね……あ、なるほど」
「なんです?」。あたしは何か変なことを言っただろうか。
「『いく』っていうのは、『一杯いく』の『いく』なんだ。つまり、『いける口』の『いく』」
「つまり、『飲む』っていうことでしょう?」。なんか、<精液>とか<射精>とかいった言葉より、かえってこういう日常語のほうが具体的なイメージを呼びおこすぶんなまなましく感じられるようになってしまった。理科系の感性ってコワイ。
「ただ『飲む』じゃないのよ。お酒飲めない人ってさ、口には入れられても喉を下りてかないでしょう。飲み下せないっていうか。でなかったら、むせて吹いちゃったりとか。だけど、飲める人っていうのは、『ぐびぐび』いけちゃうでしょう。その、身体の底から湧きおこってくる『ぐびぐび感』というのが、『イケてる感じ』なわけ」
「……つまり、『いく』っていうのはポンポワールか?」。納屋さんが不意に口を開く。
「なんです?」
「えーと―」。おきんさんは頭の中で言葉を整理しているらしい。「―『ポンポワール』っていうのは、『性反応の一部としての、性的絶頂期に生起する、子宮筋および膣括約筋の、不随意かつ律動的な収縮運動』です」
「……了解しました」。あたしだってそれくらいは分かる。
「なるほど。それなら私の<キ>説とも整合するな」
「じゃ、乾杯」。おきんさんが一升瓶の首根っこをつかむ。「好美ちゃんもどう?」
「あたしは……強いのは、どうも」。いま飲んでいるのも、烏龍茶だったりするのである。
「こんなの白酒と変わんないって。だったらお猪口に一杯くらい」
「じゃ、いただきます」
「……そういえば、雛祭りにはどうして白酒なんだろうね。直会かなんかと関係があるのかな?」。納屋さんがまた薮をつついている。
「あれは男子の元服に相当する、女子の成人式なんじゃない? もともとは結婚できる年齢になったときの通過儀礼だったのが、結婚年齢が上がった結果、『子供の祭り』だと思われるようになっちゃったとか。お雛様を出しっぱなしにしとくと嫁き遅れるとかっていうじゃないですか。それってつまり、結婚と結びついてるっていうことでしょう? だから『白酒を飲む』っていうのは擬似性交であるとかさ」
「するってぇと、菱餅というのは女性の肉体の象徴か?」
「……また長くなりそうだわね。とにかく、乾杯」
「かんぱーい」
「やあやあやあやあやあやあ、やってますね」
能天気な声。今度の仕事の派遣先の次長だ。「鋼の無神経」というシュールな仇名を本人は知っているのだろうか。
「いやいや、こっちで飲んでたんですか。いやいやいや、納屋さん、今回はご苦労さまでした。加賀美さんも。本当に。おやおやおや。濁り酒。これって結構きついんですよね。加賀美さんがそんなにいける口だとは思わなかった。お好きなんですか。濁り酒。え。何ですか。どうしたんですか。みなさん黙っちゃって。ねえ。え?えっ?」
途中からあたしたちが真顔になってお互いを見返しながら頷くのに、場の空気というものがほとんど読めない次長もさすがに不穏なものを感じとったらしい。
あたしたち三人は一斉に次長を指差して叫んだ。
「セクシャル・ハラスメント!」
(了)
註1)日本語の文章から動詞を活用別に抜き出すプログラム
正確には「汎用の日本語解析システム」。詳しくは以下を参照のこと。
島田正雄、『汎用日本語解析系の試作 ―形態素解析コンパイラ・コンパイラの実現をめぐって』、『bit』、1992年12月号、共立出版
註2)逐語訳の翻訳支援システム
実際には『やちまた』という古典的翻訳システムのリメイクだった。オリジナルの『やちまた』は科学技術系の辞書を使用していたため、 “He is a boy.” を訳させると「ヘリウムは少年である。」になったという。
註3)イッた瞬間に片目だけ寄る
人間の視野はそれぞれの眼について外側に広いため、視線は眼球の筋肉に力が入っていない状態では視野のほぼ真ん中、つまり外側やや下方に向かう。したがって意識が朦朧としてくると、普通は外に開く。
ついでながら、人間はものを注視するときは顔の真正面に近づけて見るのが普通なので多少余計に目が寄るようになっていても不都合がなく、したがって『隠れ内斜視』の人が意外に大勢存在するらしい(たとえばタレントの優香さんがそうだ)。感電や癲癇の小発作でもなければ瞬間的に意識が消失または混濁することはないので、エッチの相手くらいしか「片目だけ寄っちゃう瞬間」は見ることができない。
註4)パンの醗酵室に男性器の形をした呪具が置かれていた
紀元七九年のウェスーウィオス(ベスビオス火山)で埋もれたフルクラネウムのセクツス・パトルクス・フェリクスという菓子専門のパン屋のオーブンや作業室から、陶製のペニス形の護符が発見されているという。
根田春子著、『パンの話』、技報堂出版、1989、ISBN4−7655−4350−1
(この文章、自由に転載可。大森総合研究所)
今日文部科学省から、小中学校で使用する教科書検定の内容が発表されました。
すでにみなさんニュースでごらんになったと思いますが、教える内容が理科では「骨抜き」といってよいほどに削減されたり、相変わらず歴史の「日本の戦時中の状況」ではもめているようです。
私が一番腹が立ったのは、小学4年生の理科でで学ぶ「植物」の数が42種から3種に減るということです。これは子供たちの自然に対する好奇心を著しくそぐものであり、また、いずれこの国の第一次産業を存亡の縁にたたせるでしょう。また、「月の満ち欠けの写真は2枚まで」ということになることもそうです。詳しいからくりはともかくとして、「昔の人は月のみちかけをを見て時の経過を感じ、日々の生活を営んでいた」ということを聞いても、きっとこの教科書で学んだ子たちは信じないでしょう。
算数では、「円周率は3」ということになるようです。こんなの「π」でよいと私は思います。普段はπで計算して必要に応じて3.14を代入してやればよいのです。
KILROY wrote
> 「空気」と「多数決」に「論理」と「レトリック」と「情報操作」で対抗する
>という「マキャベリストのゲーム」に熟達しておくというのは、AS傾向の人間が
>世渡りをしてゆく際には有効なことだと思います。
ひろたくんwrote:
>僕はここにもっていくのはけっこう至難の技な気がするのですよ。KILROY
>さんはこれは「自明性」に疑いを持っている人(この前のロゴシズムだね)に、
>お勧めしたい方法と本当に考えていますか?
べつにお勧めはしたくないが、私は誠意の通じない相手に暴力以外の対抗で有効に対抗しうる手段を他に見つけることができなかった。他にもうちょいマシな手段があるというなら教えてくれ。
>もしそうなら、もうちょっとその際の成功の為のポイントや、シチュエーション
>などを語ってくれると助かります。
成功のポイントのうち代表的なものは以下の通り。
1)相手をとことん理解すること。できれば相手を相手以上に理解すること。同時に状況を正確に把握すること。
2)相手は自分の利益のために都合のいい理屈を持ってきているのだから、その理屈にとことん忠実な論理でもって相手に最大の不利益を与えることを考えること。
3)真摯かつ上機嫌であること。
4)常に相手側にイニシアティブを持たせておくこと。
たとえばの話、台湾の李登輝さんに対してビザを発行するな、という圧力を中国側がかけている、という現状があるとします。この場合、日本政府は大いに反省し、中国に対して公式に謝罪の意を表してやるわけです。で、返す刀で李登輝さんに対して「日本国籍」を認めてしまうんです。彼は二十二歳まで確かに「日本人」であり、「日本人」として従軍までしているのですから、法的には特に問題はないはずです。で、これでも中国が「李登輝を日本に入国させるな」と頑張ったら、「承知した」とまた了承します。で、李登輝さんが日本の土を踏んだあとで、「なぜ入国させた!」と中国が抗議をしてきたら、「『入国』はさせなかった。『帰国』したのだ」と返答します。「じゃあ、なぜ『帰国』させたのだ!」と言ってきたら、「中国は、『李登輝は日本人である』ということを認めた」ことになります。
この場合、「決して日本側がイニシアティブを握らない」というのが重要になります。相手は自分が行なおうとしていることの「意味」を考えれば考えるほど混乱し、ついには支離滅裂なことを言いはじめます。そうしたらじっくりと料理してやればよろしい。
ひろたくんがこの手段をうまく使えない理由としては、以下のようなことが考えられます。
1)相手に対する理解の低さ。
相手の発言は隅々までチェックしようね。たとえば、「ロゴシズム」なる用語を私はすでに使っていないわけですよ。それは、No.3606において
>唐突ですが、以前発表した自説を撤回させていただきます。
>
>我々は以前、「高機能広汎性発達障害は、『ロゴスに対する希求あるいは固執』
>である」という説を、この掲示板において発表いたしました。ですが、
(中略)
> 「自明性の崩壊に対する不安ないし嫌悪」
>なんです。
という形で述べられています。
2)態度が誠実そうに見えない
ASの身上は「真摯さ」「真面目さ」なのである。「あんたは人の話を真面目に聞く気があるのかっ!」みたいな形で相手が切れてしまってはどうしようもない。相手が「しまったぁ! 蛸釣っちまったぁっ!」と青くなるようでないといかんのである(ひっぺがして距離を取ろうとするとますます事態が悪化する)。あくまで誠実そのもの、真摯そのもの、という態度を維持できなければこの手は使えない。
3)掘り下げが浅い
「自明であること」に対する徹底的な掘り下げをしていない。
4)読みが浅い
相手にイニシアティブを渡してしまう以上、相手の反論はすべて予想しておかねばならない。しかし、それだけでは足りないのである。「相手に墓穴を掘らせる」のがこのテクニックの眼目なのだ。相手は踏み込んではいけない場所、すなわち地雷原のまっただなかに自分がいることに気づき、ついにその緊張感に堪え切れず叫び声をあげて走り出したあげく、いちばん大きな地雷を踏んづけて木っ端微塵となるのである。
ぺりこさんに伝授した「ハードよいしょ」が使いこなせるようでなければ、こうした真似はできないのである。
>所でちょっと話は変わりますが最近思ったのは議論(ディベート)と論理的
>話し合いは別という事。論理的話し合いではおたがいにインスピレーションを
>わかしあいながら前に進んで行く事が重要なので、ディベートのように相手と
>の論理の違いに注目して議論の進行の明確化をするとかえってよくない。ディ
>ベートのようにやってしまうと、結局結論が、論理的枠組みは違うけどいって
>る事は結局いっしょだよねってことになってしまいかねないと思う
ひろたくんの言う「論理的話し合い」なるものを研究者は「ディスカッション」と云う。ところがひろたくんが言うような形でディスカッションを進めてゆくと、けっきょくわかりきった概念を掌の上でコロがしているだけの矮小な結果に終わらざるを得なくなる。そうではなくて、論理的枠組みをどんどん拡張してゆくことで、訳のわからんほうへ、訳のわからんほうへと展開してゆくのだ。そうすると、「これではいかん。このままでは収拾がつかなくなる」という不安が生まれる。この不安にまみれてのたうちまわるのがディスカッションの醍醐味なのだ。こうしてディスカッションを繰返すことで、「知の枠組み」の再構成が行われる。
「マキャベリストのゲーム」は、相手をこっち側の「知の枠組み」の中に引きずりこみ、そこに組込んでしまうというゲームなのだ。
この掲示板にも大森総研メンバーの発言によって人生感変わっちゃった、みたいな人が何人かいらっしゃるらしい。つまり、「あたりまえのこと」……というか、世間から「『あたりまえのこと』として押しつけられてきたこと」を否定され、その結果として「枠組み」をゆさぶられ、そのために「認識の枠組み」の「組み換え」「再構成」が起きているのである。
Mr.Motoの毒舌は、「受入れたくはないんだけど、世間からむりやり受け入れさせられた『自明性』」をぶっ壊すためのものなのである。もちろんそれはその人の認識の枠組みの一部になっているから、それをぶっ壊されることに対しては怖れがある。だから、それに対して死にもの狂いで抵抗する。そしてついには力尽きて膝を折る、というのが、「世間からむりやり『自明性』を押しつけられてしまったことで『死んで』しまった『真の自分』」に対する「喪の仕事」になっているのである。
この過程はSMプレイそのものであるが、これは決してサディスト対マゾヒストの関係ではない。「マゾヒストの望むサディストを演じるマゾヒスト」と マゾヒストの関係なのである。私は自分で自分の枠組みを再構築するという「痛み」を背負っているから、ツボを心得ているという気がする。
ひろたくんの弱点はやはり相手に対する没入の不足にあるように思う。叩かれる痛みを知らぬ者は、人を叩いてはならない。
所長ほか所員一同
風鈴 wrote:
>来週には息子を北海道に送り出す為、ここ数日その準備に追われながら・・・
風鈴 さん以前の書き込みを見ましたが
安くて良い電化製品やら家具などは買えましたか??
ずっと心配していました。ははははです。。。しんいりのときは、、ものすごい出費になりますから。。
>ひらがなに変えたって、使ってるもとの言葉がおんなじなんだから
>意味がないのでは?と思ってしまう。
「障碍者」の「碍」が常用漢字でないから。
というのが、ひらがなにした理由だと思っています。
参考資料を紹介します。
「障碍と障害について」
http://www2.nport.ne.jp/we/top/syougai.htm
「障害」という言葉について
http://www.neting.or.jp/welfare/chime/#challenged
「同音の漢字による書きかえ」
http://133.7.17.209/hyoki/kakikae.txt
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