アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
KILROYである。
やはり何か論点がズレている、と感じたので横レス、というか「斜めレス」である。
Moto wrote:
> 私も『にんげんゆうゆう』は見たのだが、確かに両親の「顔
>を覚えている子はいるけれど、名前を覚えている子がいない。
>友達ができるといいと思う」みたいな配慮は単なる「おせっか
>い」にしか思えなかった。
くるとさんwrote:
> なんか、自分で生活さえできれば、友達がいなくても生きてい
>ける人もいるような気がします。
Moto wrote:
> けっきょく、あのご両親というのは、「年相応のお友達」を求め
>ているだけなのだと思う。「それが悪いとはいわない」と書こうと
>して思いとどまった。そういう「普通」にしがみつくことが、かえ
>って彼女を苦しめているんじゃないだろうか。
くるとさんwrote:
> この点がわたしが1番ひっかかっていた点です。LDでもそうなんで
>すが、「どこまでは普通の人と同じになった方がよくて、どこまでは
>ありのままの自分でいてもよいのか?」という枠組みが必要となって
>きます。
> わたし自身は他人に危害を加えてない限りは、ASやLDのこどもは「
>ありのままの自分」でいていいと考えています。多少変わった奴だと
>思われていても、そのことで誰も困っている人はいないのですから。
> ここで、『にんげんゆうゆう』の内容に悩んでしまいます。
>「いったいASの女の子が友達を持っていなかったからと言って、誰か
>困る人間がいるのだろうか?」と。
私には本来あるまじきことだが長々と引用をしてしまった。許せ。しかしこの会話が妙にちぐはぐである、ということを問題にしたかったのである。
Mr.Motoが「友人」をごく狭い意味で使っているのに対し、くるとさんは「世間」との接点としての「友達」を考えているように読みとれる。で、そういう世間との接点としての友人は多いに越したことはないし、社会生活を円滑に送るためにはある程度「世間並のおつきあいのテクニック」を覚えておく必要がある。その意味で彼女が「友達」を持っていなかった場合、不自由するのは彼女自身である。
で、そういった生活上の利便性を超えて、心理的・精神的に必要な「同世代の友達」というのが確かにいると私は考える。つまり、「発達時に必要な、等身大の物差としての友達」である。いわゆるオトモダチではなく、「意識する相手」「気になる奴」としての相手。これは別に「友達づきあい」をしているとか「仲がいい」とか、そういう意味での「友達」である必要はない。言ってみれば、自分を「社会」の目で客観的に判断するための物差であり、自分の「社会的なサイズ」を測るための物差である。
実際問題として、子供の立場からいっていちばん困るのが、社会から押しつけられる枠の形やらサイズやらがぜんぜん身体に合ってない、ということなのである。「なんで普通の子と同じにできないの?」とか言われたって、そもそも自分は「普通の子」と身体の「でき」が違ってるんだからしょうがない。帽子やズボンや靴のように、それぞれのサイズによってあてがわれる枠組み、というものがあるはずだ。ところが親や教師にはそのサイズがわからない。頭の寸法や腰回りや脚の長さや足の大きさのように、画一的な物差で測ることができないからである。
で、子供の側と教師や親といった社会の側がいろいろと探りあった結果、「高機能広汎性発達障害」という物差をなんとかでっち上げた、というのが現状の教育制度だと思う。その意味で、社会の側はまだまだ学ばなければならない。帽子屋や洋服屋や靴屋だって、客の身体に合ったものを作ろうと努力しているのだから。現状、「高機能広汎性発達障害」という物差で作れる枠組というのは、ファッションどころか作業服にもならない程度のものでしかない。
この掲示板にはけっこう「アスペルガー症候群」とはなんの関係もないようなメッセージが上がってくる(←おまえが一番書いとるんじゃ by Mr.Moto)。けれど、それはわれわれがお互いにどういう形で社会とうまくつきあっているか、あるいはうまくつきあえずに困っているかを見ることで、自分と社会とのありかたを調整するために必要なものだと思う。その意味でASやLDの子供を何人か一緒にし、ときには集団として「普通の子供」と向き合わせ、あるいはASやLDの子供同士、あるいはそうした子供たちと「普通の子」との間でお互いの関係について話しあう、というのは有意義なことだと思う。
>多くのボランティアスタッフは「友達がいることはいいことだ」という前提を
>疑っていません。
というのは、単に「そこまで踏みこんだ考えを持っていない」ということなのではないかと私は思う。
あまりにも「あたりまえ」であるがゆえに世間の人間には見えないものを見る力が私にはある。それはシステムエンジニアという職業にとって最大の武器だ。おそらくそれは教師にとっても同じだろう。しかし、この能力は私がAS傾向を持つがゆえの「特権」ではなかった。自分が生きてゆくのにどうしようもなく必要だったものとして、死ぬような思いで掴みとってきたものなのである。そして多くのASの子供たちは、この力を与えられることなく、ただ苦しみの中にいる。
くるとさんにはこの「世間の人間には見えないものを見る力」を子供らに授ける能力と機会が与えられている。それは非常にしんどいことだろうけれど、喜ばしいことではないだろうか?
無上深尽微妙の法は、
百千萬劫よりも遭い遇うこと難し。
我、今、見聞し授持することを得たり。
願わくば如来の真実儀を解し給わんことを。
願わくばこの功徳を以て遍く一切に及ぼし、
我らと衆生と皆倶に佛道を成ぜんことを。
『構造の光』教団・教主 KILROY
もし、アスペルガー共和国ができたら、どんな国になるでしょう。
私は、こんなイメージを持っています。
国旗、国歌は、これを定めません。
公用語も、これを定めません。
いちおう、憲法はありますが、拘束力を持ちません。
憲法は、下記の一条からなります。
第一条 あなたの良心のままに、行動をしましょう。
くると wrote:
>みどりちゃん wrote:
>
>>武田好史 wrote:
>>> 私は「友達欲しい派」です。
>>わたしもこっち。
>
> うーむ。大人になると、なんか心境の変化があるんですか
>ね。ちなみにこどもの頃はどうでしたか?(くると)
子供の時からそうでした。
きっとその女の子も、本当は「欲しい派」だろうと思います。
おそらく、その子なりの「ポリシー」に適合する相手がいないので、失望のあまり「友達なんかいらない!」といってしまったんだと思いますが・・・・・・・・・
人間は、「つながりたい!」「仲間が欲しい」「喜びを分かち合いたい」という願望を持っていて、それが積み重なって友情が構築されていくんだと思います。私自身、ボランティアをしているときに、言葉をほとんど話さない重度の知的障害の人が、私の弾くピアノに合わせて体を揺すったり・握手をしてやるとにっこりしてくれたとき、初めてそのことを悟りました。
ただASの場合、<「何かを継続していく」「求めにに対して適切な対処をする」「周りの状況に対して行動を調節していく」という機構がうまく働かない→「社会性がない」などといじめられる・「つきあいが悪い人だ」と敬遠される→ストレスがたまり社会から脱落する→独り身が気楽だと感じだす>といった感じで、「友達が欲しい」といった、本来人間がもっているはずの本能的な願望が抑制されてしまうのだと私は思います。
時間がなくて、一番最近の発言のこの発言しか見ていないので、重なってしまったりしていたらごめんなさい。
くると wrote:
> なんか、自分で生活さえできれば、友達がいなくても生きてい
>ける人もいるような気がします。
無理に友人をつくる必要はないと思うけど、私にとって友人は必要かな。大学に行っていて感じることは、一人では、情報が抜けてしまっているところもあるから、友人の話で補える。あと、普段のかかわりの中から、いろんな「常識」をまなばせてもらっている。
> この点がわたしが1番ひっかかっていた点です。LDでもそうなんで
>すが、「どこまでは普通の人と同じになった方がよくて、どこまでは
>ありのままの自分でいてもよいのか?」という枠組みが必要となって
>きます。
「枠組み」って言うか、私は最近こんな風に感じています。モード切替をして調整する。ここは割と「ふつう」に振舞ったほうがいいとか、ここは自分そのものでいいとか。気持ち的には、ふつうモードのときも、「これは本当の自分でなく、生き残りのためだ」と割り切っているから問題なし。私は。
実はにんげんゆうゆうはまだ見ていません。ビデオにとったのを近いうちに暇ができれば見ます。
KILROYさん wrote:
> 何かこう論点がズレてきているような気がするぞ?
はい。ぴよさんとのコメントのやりとりはなんかえらいこと
になっていますね。(笑)
> 私も『にんげんゆうゆう』は見たのだが、確かに両親の「顔
>を覚えている子はいるけれど、名前を覚えている子がいない。
>友達ができるといいと思う」みたいな配慮は単なる「おせっか
>い」にしか思えなかった。
なんか、自分で生活さえできれば、友達がいなくても生きてい
ける人もいるような気がします。
> 中学時代はいろいろと複雑だったらしいが、高校に上がってか
>らはいずれ劣らぬ個性的な連中……というか一癖も二癖もある連
>中がゴロゴロしていたせいで、初めて「同年代の人間を尊敬し、
>何かを学ぶ」という体験をしたという。所長にとってはそういう
>相手こそが「友人」なのである。
わたしも友人は選ぶべきものだと思いますよ。
> けっきょく、あのご両親というのは、「年相応のお友達」を求め
>ているだけなのだと思う。「それが悪いとはいわない」と書こうと
>して思いとどまった。そういう「普通」にしがみつくことが、かえ
>って彼女を苦しめているんじゃないだろうか。
この点がわたしが1番ひっかかっていた点です。LDでもそうなんで
すが、「どこまでは普通の人と同じになった方がよくて、どこまでは
ありのままの自分でいてもよいのか?」という枠組みが必要となって
きます。
わたし自身は他人に危害を加えてない限りは、ASやLDのこどもは「
ありのままの自分」でいていいと考えています。多少変わった奴だと
思われていても、そのことで誰も困っている人はいないのですから。
ここで、『にんげんゆうゆう』の内容に悩んでしまいます。
「いったいASの女の子が友達を持っていなかったからと言って、誰か
困る人間がいるのだろうか?」と。
(このコメントを読んでいるみなさまへ)
実は今月からボランティア先でASの中学生と関わることになりそう
です。文字通り、ASやLDの診断を受けた青少年が友達を作れるように
なるための企画です。わたしの心の中では、ひどく迷いが発生してい
ます。多くのボランティアスタッフは「友達がいることはいいことだ」
という前提を疑っていません。時々相談のためにコメントすることが
あるので、その時はどうぞよろしくです。
コメントをくださったみなさん。どうもありがとうございました。
さくらかのえさん wrote:
>友だちはいらないが、こちらが話したいときに相手をしてくれて、
>面倒なことを手伝ってくれたりやってくれたりする人がいると便利だと思う。
>(使用人がほしいのかも・・・)
なんか正直ですね。(笑)でも、わたしも究極のぐーたら生活を送るのを手
伝ってくれる人はほしいかな?(冗談でーす)
ななはさんwrote:
>確かに1人が楽です。でもやっぱり、たとえ同じ価値観でなくても
>リラックスできる間柄なら、友達は欲しい。
なるほど。友達が必要か不要かなんて単純に割り切れるもんじゃな
いですね。質問の仕方に問題がありました。
>でも、好きな人と話したりするとやっぱりほっとするし、生活がオレ
>ンジやピンク色やペパーミントグリーンで彩られ、嬉しいです。
>昔もそうだったんですが、最近特に周りの雰囲気や気持ちが色彩で感
>覚的に自分の中に現れるようになりました。そういうケースもあるの
>でしょうか?
わたしが経験するのは風です。
(1)嫌な奴と話し合っている時→冷たい風が吹くような感じ
(2)うまの合う奴と話し合っている時→突風が吹くような感じ
(3)異性と話している時→そよ風が吹くような感じ
こんな感じです。
みどりちゃん wrote:
>武田好史 wrote:
>> 私は「友達欲しい派」です。
>わたしもこっち。
うーむ。大人になると、なんか心境の変化があるんですか
ね。ちなみにこどもの頃はどうでしたか?(くると)
武田好史さん wrote:
> 私は「友達欲しい派」です。将来は、願わくばASの人たちが支え合い・周りの>人と協力し合って生活できるような、例えば「グループホーム」みたいな場所で生>きていきたいという、「独り身派」がウニになりそうな願望を持っています。
わたしもグループホームでなくてもいいから、LD同士の仲間がほしいです。特に
非言語LD同士の仲間がほしいかな。(くると)
Moto氏 wrote:
> 日常と非日常をごっちゃにしてはいかんぞ。
あうっ。
私は、非日常の中で生きているのかも。
自分の周りの友人って、ほとんど全員アスペだったりするから。。
> 酔った勢いで「あんな会社、いつだって辞めてやるぅ〜!」とか言った次の日に、希望退職者リストに載せられたりしたら堪るまい? そこにはおのずと非日常と日常との間の線引きというものがある。友人との会話が公になっても別に困らんが、寝室における夫婦の会話が表に出てしまったらそれは非常に不都合なのである。それは掲示板にアップしたメッセージが他の場所で引用されるのと、個人宛のメールが無断で公開されてしまったのと同じくらいの差がある。
友人と、いつも、かなりすごい会話してたりするからなぁ。
たとえば、
>>>私ってば、男なんですけど、
>>>>やたら、声が出ちゃうんです。(爆)
>>>ちょっとした、悩みです。
>> 悩むなバカモノが。
>
>きゃあ。
>でも、なんで、「悩むなバカモノが。」っていわれて、
>こんなに気持ちいいんだ?
>もしかして、私って、Mっ気がある?
>
>>「どうして男のひとって、あの時に声出してくれないの?」とかいって迫られたことがあるぞ。
>> 女性をイカすばかりが男ではない。不覚にもイッちゃったら耳元で「か・わ・い・い・ぞ」と囁かれ、耳まで真っ赤になったらくしゃくしゃに可愛がられてしまった。
ここらへんは、もはや、日常の会話じゃないです。(笑)
> オフィシャルとパーソナル、パブリックとプライベートの区別はつけるべきだと思う。
てなわけで、自分のアクセスレベルのデフォルトがパブリックで、
実際、ほとんどそうだったり。
と思っている今日この頃です。
Moto wrote:
> 男にとって友人というのは、つまるところライバルである。
ぴよさん wrote:
>ここなんですけど、Joshyaさんが、こんなことを言っていました。
Joshya wrote
>そんなわけで、お互い「かくあるべし」みたいな感覚からは自由になったほうが
>いいと私は思う。
ぴよさん wrote:
>友人についても、似たようなことがいえるかもしれない。
>なんて思ったりします。
Mr.Moto>日常と非日常をごっちゃにしてはいかんぞ。
セックスの最中に日常のコード(規範)を踏みはずすのはある意味で当然のことだが、日常のレベルでつきあっている友人に対してそれをやってはいかんのである。私にとってそれは不倫と同じ類の話なのだ。
だから、「よし、今夜は痛飲しよう」ということになって泣き・愚痴・ゲロの三拍子、みたいな「非日常」の世界においてならばそれは許されるのであるが、日常に戻ったらそれはすべて忘れねばならんのである。
酔った勢いで「あんな会社、いつだって辞めてやるぅ〜!」とか言った次の日に、希望退職者リストに載せられたりしたら堪るまい? そこにはおのずと非日常と日常との間の線引きというものがある。友人との会話が公になっても別に困らんが、寝室における夫婦の会話が表に出てしまったらそれは非常に不都合なのである。それは掲示板にアップしたメッセージが他の場所で引用されるのと、個人宛のメールが無断で公開されてしまったのと同じくらいの差がある。
すなわち友人というのは日常を共有する相手であり、妻というのは非日常を共有する相手なのである。
オフィシャルとパーソナル、パブリックとプライベートの区別はつけるべきだと思う。
Moto氏 wrote:
> 男にとって友人というのは、つまるところライバルである。自分を認め、尊重し、あるいは尊敬し軽蔑し、あるいは憧れあるいは憎み、競い合う友人である。けれど女性にとっての友人は、もちろんライバルとしての相手はいるにせよ、基本的には自分の弱い部分、情けない部分を受け止めてくれる相手であるように思う(男の場合は、それは妻ということになる)。
ここなんですけど、Joshyaさんが、こんなことを言っていました。
> 女性諸氏に言っておく。男だって「イッたふり」くらいすることがあるのだぞ。そんなわけで、お互い「かくあるべし」みたいな感覚からは自由にな
ったほうがいいと私は思う。
友人についても、似たようなことがいえるかもしれない。
なんて思ったりします。
Mr.Motoだっ!
何かこう論点がズレてきているような気がするぞ?
くるとさんwrote:
> ASと診断された小学6年生の女の子が登場した。彼女
>は小学校で友達と遊ぶことができず、1人で遊んでいる
>ことが多いそうだ。両親は心配しているのだが、本人は
>「1人で遊んでいる方がいい」と言ってあまり気にして
>いない。
私も『にんげんゆうゆう』は見たのだが、確かに両親の「顔を覚えている子はいるけれど、名前を覚えている子がいない。友達ができるといいと思う」みたいな配慮は単なる「おせっかい」にしか思えなかった。
所長はIQ百五十以上とかいう奴だったから、学校の同学年の連中は馬鹿でガキとしか思えなかったと言っている。それに、いちいち気を使ってつき合ってやってメリットがある相手とも思えなかったというし、そもそもクラスのその他大勢はガキ大将にけしかけられて所長を虐めてた連中だったそうだから、そういう連中にわざわざ頭を下げて「お友達」になってもらって何かいいことがあるとも思えない。
中学時代はいろいろと複雑だったらしいが、高校に上がってからはいずれ劣らぬ個性的な連中……というか一癖も二癖もある連中がゴロゴロしていたせいで、初めて「同年代の人間を尊敬し、何かを学ぶ」という体験をしたという。所長にとってはそういう相手こそが「友人」なのである。
その意味でこの掲示板にはtoriちゃんやらななはさんやらXanadiiやらみどりちゃんやらぺりこさんやらさくらかのえさんやBISがいる(そうそう、るnoつくひとさんも忘れてはならない)。こうして並べてみてやたら女性が多いのは偶然ではないように思う。男は上下関係で人間関係を測るのに対し、女は遠近関係で人間関係を測る。所長にしろKILROYにしろJoshyaにしろ、立場としては参謀役ないし女房役である。相手が女だったら多少ブスだろうが年増だろうが子連れのバツイチだろうがガキだろうが、嬉々として尻に敷かれているのがあの連中である。けれど相手が男だったらこうはいかない。いかにNo.2に徹しようとも、力のありすぎる奴は警戒され、殺されるのである。もちろんそうでない友人もいる。けれどもそういう友人に自分の弱いところは見せたくないのである。
男にとって友人というのは、つまるところライバルである。自分を認め、尊重し、あるいは尊敬し軽蔑し、あるいは憧れあるいは憎み、競い合う友人である。けれど女性にとっての友人は、もちろんライバルとしての相手はいるにせよ、基本的には自分の弱い部分、情けない部分を受け止めてくれる相手であるように思う(男の場合は、それは妻ということになる)。
で、彼女が必要としているのは、あるいは彼女にとって必要なのは何なんだ?
たぶん両親が求めているのは、「彼女を思いやってくれる相手」なのだと思う。けれど、たかだか小学校六年生にそれを期待してしまうというのはどっかおかしくないか。それよりも、ご近所に住んでいるちょっと変わり者だけどオピニオン・リーダーであるじーちゃんばーちゃんのほうがなんぼかマシなんではないか。そういう人たちは「友達」ではないのか。私はそう問うてしまうんだよね。
けっきょく、あのご両親というのは、「年相応のお友達」を求めているだけなのだと思う。「それが悪いとはいわない」と書こうとして思いとどまった。そういう「普通」にしがみつくことが、かえって彼女を苦しめているんじゃないだろうか。
人を指さしてはいけない、というのは「常識」である。だけど「常識」であるがゆえに誰も疑わない。しかし、しかしである。その「自明性」に疑問を持つのがASではないのか。
彼女が「あの人デブ!」と指差すから困る、と彼女の母親は言っていた。けれど「デブをデブと言ってはいけない」というのは、逆にいえば「あたしはデブじゃないと駄目なの! ああ、なんて愛らしいデブなの!」みたいなデブ専の女性を抑圧することでもある。中世ヨーロッパにおいて「デブ」は美だった。美女は三段腹でなければいけなかった。
「ねーねー、あのお姉さん綺麗だね」と子供が言ったからって、責める奴はめったにいない。なのに「デブ」はだめだというのは何かおかしくないか。「おい、あの女すげぇ胸だな」と言われて、自慢に思う女性と「バカだと思われるからヤだ」という女性がいるはずなのだが、何がなんでも「巨乳は美点である」と思わなきゃいけない、というのはどっかおかしくないか。「真面目」や「優等生」が侮蔑の対象でしかない今の世の中の現状を、どう説明するのか。妊産婦が「立派なお腹ですね」と言われるのは、ほんの二十年くらい前までは褒め言葉だったような記憶がある。けれど現在は「意外に目立たない」というのが褒め言葉であるらしい。
それを考えると、私はあの女の子を責める気にはまったくならない。それより、彼女のところに行って「私をあなたの友人として認めていただけないだろうか」と彼女の前にかしずいた方がなんぼかマシ、という気がする。
所長に「友達というのは必要なもんだろうか?」と質問したところ、「尊敬し学ぶ相手としての友人はとりあえず間にあっている。けれど自分を預けられるような相手はおらず、しかもかつてそういう相手に、最悪の状況で見捨てられた体験があるので、どうしても臆病になってしまう」ということだった。
たぶん彼女は味方であるはずの親や教師や同級生に裏切られるという体験を重ねてきたのだろうと思う。「みんな『いい子』になりたいんだ」と醒めた目で世の中を見ているのかも知れない。
「俺はあんたを裏切るくらいなら死んだほうがマシだ!」という相手が一人いれば、女は幸せになれるとオレは思っている。だけど小学校六年生、で、たかだか同じ学校のオトモダチである。期待するほうが馬鹿なんじゃないの?
「友人」というのはそんなお手軽なものではない。
『本当の意味での友人というものは、その体重と同じだけのダイアモンドと同じ価値がある。』
− ウォルフガング・ロッツ (イスラエルの諜報部員)
(Mr.Moto)
> 「学問」というとやたらにお高く止まった印象があり、プロ以外の人間は手を出してはいけないような印象があります。ですが、民俗学の南方熊楠や折口信夫、菌類学の今関六也ほか、アマチュアの貢献には多大なものがあります。現在でも日本菌類学会、日本蛾学会、日本天文学会など、アマチュアによって支えられ、世界的な権威として認められている研究集団が存在するわけです。
>
> 「財団」として認められようと思うと大変ですが、「学会」の旗揚げ自体はとにかく会則を作って「学会」を名のって学会誌を発行すればそれで済んじゃいます。「日本ラーメン学会」だろうが「日本カレー学会」だろうが「日本豆腐学会」だろうが「日本アスペルガー学会」だろうが、作っちゃえばいいのです!(ラーメンとカレーと豆腐はすでに存在する可能性があるからまずいかも)
「日本泥だんご科学協会(Association of Nippon Doroーdango Science、略称ANDS、日本語呼称:アンズ)」とか。
http://www2.ocn.ne.jp/~tutimizu/
くるとさん wrote:
> もし社会的評価の観点を無視した場合、みなさんは本
>当に友達を必要としていますか?それとも、1人で生き
>ていくことを望んでいますか?
友だちはいらないが、こちらが話したいときに相手をしてくれて、
面倒なことを手伝ってくれたりやってくれたりする人がいると便利だと思う。
(使用人がほしいのかも・・・)
@武田好史さんへ。
以前、ご質問の「障害者手帳をお持ちの方に、お尋ねいたします」の件について、再びカキコいたします。
ようするに「社会参加に失敗し、いわば万策尽きたような人達」は、このようなネットワーク環境にあることじたい、とても稀なことだと思います。そのほとんどは、能力に見合う適切な教育を受けられなかった人達で、年齢的にも、経済的にも、デジタル・デバイドの向こう側にあるからです。たとえばグループホームには高機能の自閉症の方が多数、いらっしゃいますが、今のところ、個人がネットを使えるようなグルホは恐らくないと思います。もしあったとしても、手帳を持つ方は障害が重いので、自閉症の場合だと、ここに書き込むことも無理っぽいかもしれません。
ですからそ質問の件は、むしろオフラインで当たってみられることをお勧めしたいと思います。
わが国の自閉者の手記の一つ「変光星」(当ハンドルとは無関係)の巻末の解説の情報は非常に不正確で当てにはなりません。(森口さん、河野さん、ご覧でいらしたらごめんなさいね。)
くるとさん、こんばんは。
>成人LDのくるとです。
>もし社会的評価の観点を無視した場合、みなさんは本
>当に友達を必要としていますか?それとも、1人で生き
>ていくことを望んでいますか?
確かに1人が楽です。でもやっぱり、たとえ同じ価値観でなくても
リラックスできる間柄なら、友達は欲しい。
今は一応こんな私でも付き合ってくれる複数の友達が少し居てくれます。
1人で生きて、生き抜く力を持った方が良いのかもしれません。
でも、好きな人と話したりするとやっぱりほっとするし、生活がオレンジやピンク色やペパーミントグリーンで彩られ、嬉しいです。
昔もそうだったんですが、最近特に周りの雰囲気や気持ちが色彩で感覚的に
自分の中に現れるようになりました。そういうケースもあるのでしょうか?
Joshya>ちなみに、こんな感じです。
『醫心方』 巻第二十八 房内 (抜粋)
五徴第七
玉房秘決云。黄帝曰、何以知女之快也。素女曰、有五徴五欲又十動。以觀其變。而知其故。
〔玉房秘決に云ふ。黄帝曰く、何を以て女の快を知るや。素女曰く、五徴、五欲、また十動有り。以て其の變を觀、其の故を知る。〕
夫五徴之候、一曰、面赤即徐徐合之。二曰、乳堅鼻汗、即徐徐内之。三曰、喉乾咽唾、即徐徐揺之。四曰、陰滑、即深之。五曰、尻傳液、徐徐退之。
〔夫れ五徴の候(あらわれ)は、一に曰く、面(かお)赤くば即ち徐徐に之を合わす。二に曰く、乳堅く鼻に汗すれば、即ち徐々に之に内(い)れる。三に曰く、喉乾き唾を咽(の)めば、即ち徐々に之を揺(うごか)す。四に曰く、陰滑らかなれば、即ち之を深くす。五に曰く、尻に液傳われば、徐々に之を退く。〕
五欲第八
素女曰、五欲者以知其應。一曰、意欲得之、則屏息屏氣。二曰、陰欲得之、即鼻口兩張。三曰、精欲煩者、振掉而抱男。四曰、心欲滿者、即汗流濡衣裳。五曰、其快、欲之甚者、身直目眠。
〔素女曰く、五欲は以て其の應を知る。一に曰く、意之を得んと欲すれば、則ち息を屏め氣を屏む。二に曰く、陰、之を得んと欲すれば、即ち鼻口兩(とも)に張る。三に曰く、精煩わんと欲すれば、振掉(しんたく)して男を抱く。四に曰く、心滿たんと欲すれば、即ち汗流れ、衣裳を濡らす。五曰、其の快、甚しからんと欲すれば、身は直にして目は眠(つむ)る。〕
十動第九
素女曰、十動之効、一曰、兩手抱人者、欲體相薄陰相當也。二曰、伸云其兩腿者、切摩其上方也。三曰、張腹者欲其洩也。四曰、尻動者快善也。五曰、擧兩脚拘人者、欲其深也。六曰、交其兩股者、内痒淫々也。七曰、側揺者欲深切左右也。八曰、擧身迫人淫樂甚也。九曰、身布縦者肢體快也。十曰、陰液滑者精已洩也。見其効以知女之快也。
〔素女曰く、十動の効(しるし)は、一に曰ふ、兩手で人を抱く者は、體の相(たがい)に薄(つ)き、陰の相(たがい)に當るを欲するなり。二に曰く、其の兩股を伸云(のば)すは、其の上方を切摩せんとするなり。三に曰く、腹を張る者は、其の洩らさんと欲するなり。四に曰く、尻の動く者は快善なり。五に曰く、兩脚を擧げて人に拘(から)む者は、其の深きを欲するなり。六に曰く、其の兩股を交ふる者は、内痒く淫々たり。七に曰く、側(よこ)に揺する者は、深く左右に切するを欲するなり。八に曰く、身を擧げて人に迫るは、淫樂甚(はなはだ)しきなり。九に曰く、身を縦に布(のば)す者は、肢體快なり。十に曰く、陰液滑かなる者は精已(すで)に洩らすなり。其の効(しるし)を見、以て女の快を知るなり。〕
九氣第十一
玄女經曰。黄帝曰、善哉。女之九氣何以知之。玄女曰、伺其九氣以知之、女人大息而咽唾者、肺氣來至。鳴而吮人者、心氣來至。抱而持人者、脾氣來至。陰門滑澤者、腎氣來至。慇懃人咋者、骨氣來至。足拘人者、筋氣來至。撫弄玉莖者、血氣來至。持弄男乳者、肉氣來至。久與交接□、其實以其意感其意、九氣皆至。有不至者、即容傷。故不至、可行其數、以治之。
〔玄女經に曰く。黄帝曰く、善哉(よきかな)。女の九氣を何を以て之を知らん。玄女曰く、其の九氣を伺い、以て之を知る。女人大息して唾を咽(の)むは、肺氣の來至(いた)るなり。鳴らして人を吮(す)ふは、心氣の來至(いた)るなり。抱きて人を持すは、脾氣來至(いた)るなり。陰門滑澤なるは、腎氣の來至(いたる)なり。慇懃(ねんごろ)に人を咋(くら)ふは、骨氣の來至(いた)るなり。足にて人に拘(から)むは、筋氣の來至(いた)るなり。玉莖を撫弄するは、血氣の來至(いた)るなり。男の乳を持弄するは、肉氣の來至(いた)るなり。久しく與(とも)に交接し、其の實(じつ)を以て其の意に感ずれば、九氣皆至る。至らざる有れば、即ち傷(しょう)を容(う)く。故に至らざれば、其の數を行ひ、以て之を治(ち)すべし。〕
*原典で用いられている異体字は、これを尊重する。
*JIS第一水準・第二水準に複数の字体(正字・旧字)が含まれている場合、字義の推定しやすさを考慮し、正字または旧字を用い、別に説明を記す。
例)万→萬、応→應
Joshyaである。
チ○○マさんwrote:(本人の名誉のために一部名を秘す……ってムダか(^_^;))
>女だって「イッたふり」くらいすることがあるのだぞ(笑)。
わはははははははは、そんなものが私に通用すると思ったかぁっ!(←何を威張っとるのかなこの男は by 所長)
平安時代の医学書で、『医心方』という本があります。遣随使・遣唐使が持ちかえった医学書の内容を科目別に分類・整理したもので、その中でも特に第二十八巻の『房内』編は、「最古にして最強のセックス・マニュアル」として有名だったりします。ちなみに「世界で一番売れたセックス・マニュアル」は、アレックス・コンフォートの"The Joy of Sex, A Gourmet Guide to Love Making"、1972で、1972-1973に『かもめのジョナサン』と並んでアメリカの大ベストセラーになりました。
本屋に行けば、セックス・マニュアルの類は何冊も並んでいます。ところがその内容たるや、古典中の古典である『医心方』を超えるどころかはるかに後退していると言わざるを得ません。まったくもって情けないの一語に尽きます。
で、その『医心方・房内』には、女性の状態をどこで知るか、みたいなことがことこまかに書いてあったりするわけです。平安時代と違って現代にはアダルトビデオというものが存在するわけで、おかげさまで女性がイッてるかイッてないかはほぼ確実に分かってしまう、ということになり、現在では「アダルト・ビデオはレズ物に限る!」と断言するようになりました。
『医心方』の凄いところは、セックスにおける最大の要点は、「男女の信頼関係」であると断言しているところです。これは心理学におけるラポールに相当するんですが、これを『医心方』では「和志」と呼んでいます。で、面白いのはこの『医心方・房内』には「和を以て尊しと為す」という言葉が出てくることなんですね。聖徳太子の十七条の憲法には全く同じ言葉が出てきますが、なぜ「和を尊ぶべし」ではなくて「和を以て尊しと為す」なのかといえば、聖徳太子がこの『医心方』の原典にあたる随・唐の文献を呼んでいて、そこから文章を採った、ということではないかという説があったりします。「英語の勉強をするのに、英文のポルノを読む」というのと同じですね。
ちなみのこの『医心方・房内』は「皇家御用達の医学書」ということで、江戸時代の禁書令に引っ掛かることはありませんでした。したがって江戸庶民にとっては、ある意味「教養」だったということが分かっています。
現在、「仲間はずれ」の意味で使われている「蚊帳の外」という言葉は、江戸時代の都々逸である「入れておくれよ 痒くてならぬ 私一人が 蚊帳の外」が語源なのですが、この句がなんでそんなに有名かというと、「入れておくれよ 痒くてならぬ」というのにエッチな意味がある、というのが理由になっているんですね。
ところが女性が欲情した状態を表現する言葉というのは、ほぼ全世界的に「熱い」なんです。なのに、この都々逸では「痒い」と表現していて、なおかつそれがエッチな意味である、というのが一般常識として通用していた、ということが分かります。これは何故なんでしょうか?
じつは、『医心方・房内』において、この部分は「素女」という女仙人が語り手として登場している部分なんです。すなわち、「熱い」というのは男性の側からの感覚、「痒い」というのは女性の側からの感覚なんです。で、女性の立場からこういうことを説いている、という文献で、しかも有名どころといえば『医心方・房内』をおいて他にないわけです。
「学問」というとやたらにお高く止まった印象があり、プロ以外の人間は手を出してはいけないような印象があります。ですが、民俗学の南方熊楠や折口信夫、菌類学の今関六也ほか、アマチュアの貢献には多大なものがあります。現在でも日本菌類学会、日本蛾学会、日本天文学会など、アマチュアによって支えられ、世界的な権威として認められている研究集団が存在するわけです。
「財団」として認められようと思うと大変ですが、「学会」の旗揚げ自体はとにかく会則を作って「学会」を名のって学会誌を発行すればそれで済んじゃいます。「日本ラーメン学会」だろうが「日本カレー学会」だろうが「日本豆腐学会」だろうが「日本アスペルガー学会」だろうが、作っちゃえばいいのです!(ラーメンとカレーと豆腐はすでに存在する可能性があるからまずいかも)
この際だから「日本性文化学会」かなんか旗揚げしちゃおうかな (Joshya)
くると wrote:
> もし社会的評価の観点を無視した場合、みなさんは本当に友達を必要としていますか?それとも、1人で生きていくことを望んでいますか?
武田好史 wrote:
> 私は「友達欲しい派」です。
わたしもこっち。
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