アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
You are welcome to "HOUSE OF ASPERGER'S SYNDROME", Mrs.supring.
I suppose you are not native speaker of Japanese language, aren't you ?
supring さん、『アスペルガーの館』へようこそ。
ひょっとしたら、supring さんは日本語で育っておられないのでは?
私は、過去十五年間、外国語で話していないので、英語をうまく使うことができません。ですから、日本語で話すことにします。
私の推測は、違っているかもしれません。もしもそうなら謝罪します。
小学校六年生の息子さんをお持ちで、知性を感じることのできる文章を書き、なおかつ日本語があまりお上手ではないので、そう判断しました。また、日本人は、「天才(genius)」という言葉をあまり科学について使いません(「数学がとてもよくできます」が普通です)。また、子供に対して「彼」もあまり使わず、「甥」「息子」をそのまま代名詞として使います。
アスペルガー症候群は、現在において、正確に理解された障害ではありません。したがって、日本語の習得の不完全さが、息子さんをLDと、甥御さんをアスペルガー症候群と、診断させた可能性を、考える必要があります。もしそれが正しいなら、成長し、日本の文化および習慣に順応することで、徐々に解決すると、私は判断します。
あなたがたに平安がありますように。 − Maria of Bethany −
Mariaさん wrote:
>
> 「この掲示板に書込みをしている『あなた』は、どんな『あなた』ですか?」
自分で「次回の来館は20日以降」とか書いておきながら、ふたたび舞い戻って来てしまった。
キーボードで打ち出される「わたくしザナディ(Xanadiiは『ザナディ』」と読む...ことにしといて。元ネタは元の皇帝フビライの構想した理想郷「ザナドゥ」を、女名前っぽくもじっってみた。深い意味はないのよ)」と、実際の、生身の人間であるところの私との間に、自分では「相違はない」というふうに了解しております。私は自分が「こういう人間に見てもらいたい」という主体的な欲求はないの。もともと現実空間じゃ絶望的なばかりに無口で、「喋りによる意思伝達」という手段を持たなさすぎる人間なのね。画面上じゃそこそこ喋れているように見えるだろうけど、1つの文章組み立てるのに、数時間はかかっているの。でもそんなのここでは結局関係なくなっちまうじゃない?文章でその人の人間像を復元することなどできない、というのが私の持論です。たとえば今までの文章読んだだけでは、私がモヒカン頭でスミ入りだなんてこと、私が書かなきゃ一生判明しないでしょ?文章にした瞬間から、私のイメージは刻々と変化してゆくし、それがまた文章を生成することの快楽でもあるんじゃないかな。
私がしゃべらない、ということに関しては、多くの人が、なんとか私の口をこじ開けよう、何かしら引き出そうという努力を重ねてきました。小学生のころ、学校の帰り道、数人のいじめっ子のグループにしつこくからまれたことがあったっけな。私の方では彼らの顔も名前も知らなかったし、ある日突然降ってわいたようにしか認識できていなかったけれど、今思えば、彼らの方では帰り道がいっしょだったとかなんとかいう事由で、私を認識し、私を―私の「異質性」を嗅ぎつけていたんだろうな。彼らは、私には想像もつかない方法で、私が「無口」だということを知っていた。彼らは私の口を割ろうと、小突き回したり、持ち物を取り上げたり、その他さまざまな嫌がらせをしては、「おいなんかしゃべれ」と強要した。ある日ついに耐え切れなくなった私は、一言「やめてよ」と弱弱しい音声を発した。そのとたん、グループのリーダー格の少年は、「よーし、しゃべったな。じゃあ許してやるよ」と囲いを解き去っていった。
> それに対して「私」にいちばん近い所長さんは、仕事上のトラブルに絡んで延々といろんなひととやりあった結果、かなり痛めつけられちゃったという経緯があります。ビジネス文書みたいな定型文書や技術文書の類はKILROYさんが書いているのでそれほど問題はないんですが、「自分の意志」というか、「自分の意見」というか、そういったものを書く立場である所長さんは、ここ数年かなり文章を書くのに苦労しています。
私はしゃべれないから、自分の場合たとえば文章を書くとか、音楽(クラシック)をやるとかいった行為に代替させているんだけれど、しゃべれるというのはそれだけで私にとってはうらやましいことなんだよね。それでもしゃべればしゃべるほど溝が深まるという事実だってあることは私にも分かるような気がする。私いまかなり自虐的に、自分のだいきらいな「しゃべる」という語を多用しているんだけれど(しゃべ?この語幹だけでも子供ごころに不快だったもんね)、さいきんは「お前なんでそんな無口なんだ」という突込みには「よく言われますよ」という切り返しで切り抜けることにしている。
> この掲示板に書込みをされているメンバーの中には、ほとんど素のままで出ていらしている方と、明らかに普段の自分とは別、あるいはふだん「自分」として手紙なんか(メールもそうです)を書いているときと、この掲示板に匿名で書込みをしている時ではかなり違うという方がおられるようです。
>
> そこでお聞きしたいんですが、この掲示板に書込んでいる「あなた」は、あなたにとってどんな人ですか? もしもそれが普段感じているあなたとは別の「あなた」だとすると、あなたと「あなた」が対話したときに、どんな感じがしますか?
しいて言えば「饒舌な自分」を演出しているという部分はあるのかも知れない。 私の頭の中は常にさわがしい。頭の回転の速さとは関係ないみたい。壊れたラジオみたいに、チャンネルが勝手に飛び回っているようなもので、自分でコントロールできているという確信はない。自分について、確固たる自己イメージというものはない(自分に自信がないということを、自信たっぷりに言い切っている)。それらはけっきょく他者が決めてることなんじゃないかと漠然と感じてる。思考体力減退中につき、なんだか覇気のない長駄文で失礼いたします。
大槻いつき wrote:
>アスペルガーという病名を知ってから、
>疑問に思ってること。
>
>私は人とことなっている。
>そして、私は自分とことなるものへの理解
>(不必要なまでの恐怖感をおぼえないこと、
>ことなるものに歩み寄ろうとする姿勢)は
>「普通の人」よりはるかに優れている(つもり)。
>
>これは、自分のアスペルガー的特性等の力なんだろうか?
>「相違」への偏見を持たないということは。
>
>それとも単純に、いつも「自分とことなるもの」
>にさらされているマイノリティであるがゆえに、
>ことなるものに接すること、理解することになれているのか。
>
>同じ疑問の言いかえかもしれないけれど、
>「自明性を疑う」というのは、
>アスペルガー者の本質的な特長(ええ、長所ですとも)なのか。
>ただ自分の価値観にとって「自明なもの」が周囲に存在していないだけなのか。
>
>もしアスペルガーがマジョリティ、非アスペルガーがマイノリティであれば、
>あなたは現在の「健常者」のような偏見にとらわれないといえますか?
私は、以前から
或る種の芸術を必要とする人(ディレッタントとしてでなく)と 必要としない人
強い人(他人を憎む事が難しい人) と 弱い人
やさしい人 と ずるい人
他者のために偽る人(根本的には自分のために) と 自分のために偽る人
はじかれてしまっているという根本的な感覚を持つ人 と 持たない人
といった、自分のためにつくったいくつかの判断基準から人を観察していました。
そして、いま「アスペルガー的」という便利な言葉を得てからも、それは変わり
ません。それは、私が「アスペルガー的」という言葉をはっきりと掴みきれない、
説明しきれないからです。
私にとってはマジョリティ、マイノリティについての議論は意味がありません。
(芸術が生まれるための強い原動力になるとは思います。)
私にとって重要なのは、大槻さんが言われる「違うもの同士がお互いを認め合う」ことです。そして確かに数の少ない側は認められにくいと思います。
他者に「それでいい」と言われることは実に稀で、「それでいい」と他者に
言えるという事は、幸せな事です。
私は他者の感性を生きることは出来ません。それは、しんどすぎます。
でも行動や能力ひいては人となりを認めることはある程度出来るように思います。
KILROY wrote:
>リーゼ、5mg錠(Y-RZ 5)。十年来愛用してます。
>あとは、「せんぶり」。10センチくらいのを一本、五ミリくらいにちぎって、茶碗>二杯ぶんくらいの水で煎じて半分まで煮つめ、濾してから熱いうちに。これも二十>年来愛用。
レスありがとうございました。遅くなって済みません。
参考になりました。
えっと掲示が多くて混乱していますが、私の場合、ここに書き込む自分は
至って日常の私です。意外と自分で自分は分からなくて、他人の方が
客観的に端的に捉えているのではないか、と思います。
なるべーく目立たないようにするコツってないでしょうかね?
目線がきつく見られるので、真剣に悩むときがあります...。
おそまつさまでした。
Mariaさん wrote:
>ぴよ wrote:
>>「Mariaさんはこう思っているけど、私はこう思う」
>>というのは、はっきり言います。でも、強要はできません。
>>だから、「これがいい」って言えないんですわ。
> なぁるほど。(とかいって、なにが「なぁるほど」なのかは説明するとけっこう複雑な話なんですけど)
> あたしもじつは以前はそう思ってました。ただし、現在は「これがいい」「これだ!」と言っちゃってかまわない、あるいははっきり言うべきだ、と思っています(主に実践しているのはMotoさんですが)。ですから、あたしの「〜思っています」は口癖、あるいは自己演出の一部でしか<ありません>(^_^)。
>
> こう考えるようになったのには、二つの理由があります。
(中略)
> 「目の前に広がっている世界の中から、いま着目したいものを切り取る」機能を持っています。だけど、そのときどきによって目の前の「世界」は違いますし、「切り取る」側の自分というものの存在を抜きにしては、この「切り取る」という行為は語れません。
>
> 戦争だの紛争だのとかいうのは、つまるところ「正しいこと」と「正しいこと」のぶつかり合いです。だったら「自分の正しさ」に基づいて行動する以外にないんじゃないだろうか、とあたしは思うようになりました。それが間違っているなら法律なり世の中なり神様なりが裁いてくれます。
>
> そんなわけで私は言います。ヤなもんはヤだしいいものはいい。そして正しいことは正しいし、間違ってることは間違ってる。
にゃるほど。
それをふまえての、
「ヤなもんはヤだしいいものはいい。そして正しいことは正しいし、間違ってることは間違ってる。」
ですね。了解です。
でも、これって、「二つの理由」の説明なしに言われて、
聞く側が、そう受け取ることができるかなぁ。
自分は、そこまで踏み切れませんでした。
というわけで、私は、いらない「誤解」をさける表現をしているだけで、
その心はMariaさんと同じです。
「真実は、「ひと」の数だけある。」
って感じでしょうか。
ぴよさんwrote:
>「Mariaさんはこう思っているけど、私はこう思う」
>というのは、はっきり言います。でも、強要はできません。
>だから、「これがいい」って言えないんですわ。
なぁるほど。(とかいって、なにが「なぁるほど」なのかは説明するとけっこう複雑な話なんですけど)
あたしもじつは以前はそう思ってました。ただし、現在は「これがいい」「これだ!」と言っちゃってかまわない、あるいははっきり言うべきだ、と思っています(主に実践しているのはMotoさんですが)。ですから、あたしの「〜思っています」は口癖、あるいは自己演出の一部でしか<ありません>(^_^)。
こう考えるようになったのには、二つの理由があります。
ひとつは、所長さんが「コンピュータの中で、言葉の意味をどう表現するか」について研究するようになってからのことです(同じ分野の研究者には、オウム真理教に関連して国松長官狙撃事件で有名になった自称・脳機能学者の苫米地氏がいます。あのひと、はっきり言って研究者としては頭悪いです)。このことについては以前も書いたことがあると思いますが、もう一度くり返しましょう。
「いい」とか「赤い」とか「巨大な」とか「確固たる」とか「はっきりした」とかいった、「体言を修飾する言葉」は、「目の前に広がっている世界の中から、いま着目したいものを切り取る」機能を持っています。だけど、そのときどきによって目の前の「世界」は違いますし、「切り取る」側の自分というものの存在を抜きにしては、この「切り取る」という行為は語れません。
「彼女は美人だ」というひとつの言明でも、それは映画スターやグラビアモデルやアイドルタレントを含めたうえで、「際立って」というの話なのか、それとも女性やニューハーフや果ては犬猫やマンガの登場人物まで含めて、自分に対して「美人である」という感覚によって迫ってくる対象のことを言っているのか分かったもんじゃないんですね。ですから、「これがいい」の「いい」には、「客観性」なんていうものはないんです。逆にいえば、あたしが「いい」と言明することによって、あたしがいまこのときここで「いい」と言明することで、「あたし」というものが問われる(判断される)、ということなんです。
もうひとつは、「なんでもかんでも相対主義」っていうんじゃダメだ、とあたしが思うようになったという理由があります。「ヤなもんは、ヤだ!」「間違ってるものは、間違ってる!」と、もう身体の底から湧きおこってくる感覚というのは、もう絶対的に「正しい」んです(もし間違っているとすれば、それはあたし自身が間違った状態にある、ということです)。
所長さんの知合いに、法律事務所に務めている人(O君としましょう)がいました。で、取引相手が品物を納めたにもかかわらずお金(仮に五十万円としましょう)を払ってくれないので、なんとかならないか、と相談したところ、「裁判を起こせば勝てる」という返事でした。で、その裁判費用として七十五万円くらいかかるだろう、ということでした。「で、それで勝ったとして、お金は払ってもらえるの?」「裁判所から支払命令は出ますけれど、相手が払わない、あるいは払えない場合は、無理です」ということでした(実際問題として十万円くらい払って「あとは分割で」とかいって知らんぷり、というケースが大半のようです)。
「そうすると私は百二十五万円の損になるんじゃないの?」「でも、『相手に五十万円を支払う義務がある』ということが法的に認められることで、名誉が守られるんですよ?」「……そうするとさ、弁護士の仕事っていうのは何なわけ?」「だから、弁護士っていうのは、社会正義を守るために存在するんですよ。お金儲けじゃないんです。」「だったら、私が裁判を起こすことにどういう意味があるの?」「だって、泣き寝入りしちゃったら、『相手が間違っている』っていうことは、法的に確認されないんですよ? そうしたら社会正義の実現、っていう理念が崩れちゃうじゃないですか。だから、断固として訴訟に踏みきるべきなんです。」「……。」
確かにO君の言ってることは正しいんです。正しいんだけど、「どっか間違っとーる!」というのは、所長さんにとって真実なんです。「だったら、いっそ右翼に金払って『金払え』っていう垂れ幕下げた街宣車で乗りつけて『金払えー!』って連呼して警察に捕まってブタバコで一晩過ごしたほうがなんぼか気が晴れるし、そこまでやれば向こうだって考えを変える気にもなるだろう」とか所長さんは言ってました。
戦争だの紛争だのとかいうのは、つまるところ「正しいこと」と「正しいこと」のぶつかり合いです。だったら「自分の正しさ」に基づいて行動する以外にないんじゃないだろうか、とあたしは思うようになりました。それが間違っているなら法律なり世の中なり神様なりが裁いてくれます。
そんなわけで私は言います。ヤなもんはヤだしいいものはいい。そして正しいことは正しいし、間違ってることは間違ってる。
大声で言ってみると、すっきりしますよ? Maria
Mariaさん wrote:
>ぴよwrote:
>>つい最近まで、3年間ぐらい鬱状態が続いてたんですよ。実は。
これなんですけど、仕事のせいでした。
気がのらない仕事を、無理してがんばっちゃったせいなんです。
「休みたいんだけど、でも、会社にでないと仕事が進まないし。」
で、会社にきても仕事が進まないから、
どうしても長時間労働になってたんですね。
で、立ち直ったきっかけなんですけど、
自分がアスペだということがわかって、やりたい仕事が見つかった。
ということだったりします。
> あたしは鬱状態っていうのは、「病気」っていう以前に、なにか機能があるのだと思ってます。で、鬱には「がんばれ」が禁句だというのがありますから、たぶん「がんばっちゃうと危ない」ときに、本能が鬱状態を引き起こすんじゃないかと思うんですよ。もちろん病的な鬱を治療するのまで否定はしませんけれど、「鬱状態」と「鬱病」は本来分けて考えるべきなんじゃないか、と思います。
これは同感です。
> ぴよさんのコメントを読んで、ちょっと無理してるかな、とか思っちゃいました。引用多いし、具体的に「これがいい」っていうんじゃなくて、ただ肯定的な褒め言葉が多いし。
まじで、無理してないです。
Mariaさんたちとは、本心から話せるので、
「ただ肯定的な褒め言葉」の場合は、その通りです。
逆に、ほめたくないことをほめることは、したくないです。
> 具体的に「これがいい」っていうんじゃなくて、
「これが好き」というのは、言っていたりします。
「Mariaさんはこう思っているけど、私はこう思う」
というのは、はっきり言います。でも、強要はできません。
だから、「これがいい」って言えないんですわ。
> あたしやMotoさんのことを嫌ってくれてもいいんですよ? あたしたちはぴよさんのことを愛しています(ちょっとクサいか。みるさんに笑われちゃうな)。ですが、あたしたちを嫌う部分も含めて(とくにMotoさんなんかは嫌われる理由は山ほどありますし、あたしだって自分が嫌いな欠点はいっぱいあります)、ぴよさんを好きだし、尊敬しています。
おお、相思相愛じゃないですか。
っていうか、私って、博愛主義者だからなぁ。
純真な人や動物や「もの」だったら、誰でも愛しちゃうんだけど。。
> あたしたちはぴよさんのことを愛しています(ちょっとクサいか。みるさんに笑われちゃうな)
っていうか、アスペのひとって、すごいよね。
「50年後の君を、今と変わらず愛してる」
とか本心でいってのけて、それを実行できて、
あまつさえ、それと並行して他の人と友達づきあいできたりするでしょ。
というわけで、私の負担にはなっていないし、
(「時間が食われちゃう」ってことは負担かもしれんが。)
大丈夫ですよ。
ぴよさんwrote:
>つい最近まで、3年間ぐらい鬱状態が続いてたんですよ。実は。
あたしは周囲に気を使ってムリしてオトモダチを作っちゃったせいで、すごい鬱状態になっちゃったことがあります。もう、おつきあいの場を離れると、ずっどぉーん、と落ちこんじゃって何にもできないの。
で、そういうオトモダチって、もう平然とというか、まったく疑いっていうのを持たないで、善意っていうか好意っていうか、そういうのを要求してくるんですよね。で、こっちが拒絶すると、「なんてひどい人なの!」「あなたには失望したわ」みたいな感じで、いきなり悪者にされちゃったりして……
あたしは鬱状態っていうのは、「病気」っていう以前に、なにか機能があるのだと思ってます。で、鬱には「がんばれ」が禁句だというのがありますから、たぶん「がんばっちゃうと危ない」ときに、本能が鬱状態を引き起こすんじゃないかと思うんですよ。もちろん病的な鬱を治療するのまで否定はしませんけれど、「鬱状態」と「鬱病」は本来分けて考えるべきなんじゃないか、と思います。
ですから、「人と仲良くする」「人を嫌ってはいけない」というのを強要する世の中というのは、どこか違うんじゃないか、と思います。中島義道さんの『ひとを<嫌う>ということ』(角川書店)を読んで、「正しく鬱になる」ことも大切なんじゃないか、と思います。(そういえば、ぴよさんに「ヤなもんはヤだ。」とか言っちゃったこともありましたね)
ぴよさんのコメントを読んで、ちょっと無理してるかな、とか思っちゃいました。引用多いし、具体的に「これがいい」っていうんじゃなくて、ただ肯定的な褒め言葉が多いし。
あたしやMotoさんのことを嫌ってくれてもいいんですよ? あたしたちはぴよさんのことを愛しています(ちょっとクサいか。みるさんに笑われちゃうな)。ですが、あたしたちを嫌う部分も含めて(とくにMotoさんなんかは嫌われる理由は山ほどありますし、あたしだって自分が嫌いな欠点はいっぱいあります)、ぴよさんを好きだし、尊敬しています。
見当はずれだったらごめんなさい。あたしは基本的に「どーでもいー系」のキャラです。あたしの言うことはあんまり気にしないでください。気持ちの上で負担になっても申し訳ないから。
というわけで、お騒がせしました。どもども。 (Maria)
二〇〇〇年四月一日・二日に行なわれた主要8ヶ国の教育大臣会合では、今後、きちんとした学力を身につけないと「社会的・文化的生産活動に必要な収入を得る見通しも立たない状態で、かつてない疎外の危機に直面している」という報告がなされました。
同時にこの会合では、国際的に比較可能な学力を開発することも合意されました。つまり、英語におけるTOEICのような国際的な学力テストが準備段階に入ったということです。
一方、一九八九年の学習指導要領の改訂によって、「新学力観」というものが導入されました。これは、各科目の評価を、定期試験などの結果ではなく、生徒の「関心・意欲・態度」や、「技能・表現」などのいろいろな観点からみた総合点でつけようというものです。で、さらに二〇〇二年の改訂では、これをさらに徹底して、生徒同士の相互評価も活用するということになりました。
したがって、あたしたちのようなASの子供やLD・ADHDの子供は、公立学校に通っているかぎり、まず間違いなく落ちこぼされる(ふるい落とされる?)ことになり、「社会的・文化的生産活動に必要な収入を得る見通しも立たない状態で、かつてない疎外の危機に直面する」ことになるということになるわけです。したがって、いわゆる発達障害児童は、公立校に通うより、国際的な規準による学力テストによる評価を目指したほうがまだしもである、ということになります。
つまり、教習所に通うよりも試験場での一発検定を狙ったほうがまだしもマシ、ということになります(もちろん公立学校における修了規準と国際的な規準による学力テストの間に不平等があってはなりません。ですから、レディネス・テストによる公立学校と予備校にあたるフリースクールとの役割分担というものを強化せねばなりません)。
そぉーんなわけで、コンピュータを活用したプログラム学習による個別学習システムというのは、ますます重要になってくるわけですね。
『同様の意味で集中力も大切である。低学力生徒の集中力のなさは相当なもので、あまり集中して問題を解くという訓練が行なわれていないと思われた。この点に関し、CAI学習は集中力の養成にも向いていることを確認した。生徒の能力に適した問題を1問題づつ出題するので、ある程度の集中力がつくと加速的に勉強時間を長くしようとする傾向が見られた。試してみたところ、ある生徒は5時間の学習を行なって、なお、やめようとしなかった。実験当初は三十分程度の学習でも消極的であったのが学習内容の理解が進むとともに、難易度が高くなるにもかかわらず長時間の学習に意欲を示しだすのはCAI学習と低学力生徒の合性の良さを推察させる。
長年にわたって授業のときはポカンと他のことを考えて過ごす習慣のついた者に、急に「学習するときは集中しなさい」といってもどうにもならない。1つづつ問題を解かせることを通じて集中力を養成するしか方法はない。その意味でもCAI学習は効果的であろう。』
『私はCAI学習によって人類の知的レベル、学習能力が飛躍的に向上するものとみている。低学力生徒の実験に入る前に自分の長男(当時幼稚園児)に予備実験のためにCAI学習をさせてみたことがある。毎日、二三十分問題を解かせることを続けたら、1年も経たないうちに小学校の算数を全部終わってしまった。彼はいま小学1年生(1984年12月31日現在)であるが、すでに連立方程式なら三十秒以内で解けるくらいになっている。今年に入ってからは学習をやめさせているが、もしその気になればあと1年もあれば高校生の数学をマスターさせるのも難しくないと思う。
このような話をすると、人によっては大学の先生の息子だから特別に頭がいいのではないかと疑問視する方も少なくないが、程度の差こそあれほとんどの生徒は順序だてた適当な教材とわずかな助言があれば高校程度の数学なら短期間でマスターできるようになるのではないだろうか。』
大下眞二郎・信州大学工学部、『算数・数学教育とCAI』/数学セミナー[コンピュータと数学]6、コンピュータと数学教育、1985
やってみる価値って、あると思う Maria
私の甥が、アスペルガーと、診断されました。
私の息子は、LDと、言われています。甥が、どうもLD周辺児では、ないかと私が、思って検査を進めました。
甥は、今 中1です。アスペルガーと診断されたのは、1年前です。この時私は、まだアスペルガーを知りませんでした。
息子は、小6です。生まれた時のトラブルで早くから、訓練をしていたので算数以外は、ずいぶん成長しました。
甥が、アスペルガーとわかった時から 彼の母親は、ずいぶんいろいろと、勉強して、彼を、理解しようとしています。しかし、次から次と問題が起こると言います。ちなみに彼は、数学の天才です(おばちゃんばか?)また、鉄道マニアでどこか行くときは、彼に聞きます。
どうにか、義姉(甥の母親)を 元気づけたいと、思います。
いろいろ教えて下さい。
Maria wrote:
>で、似たような経験が何度もあって、所長さんは「有能であること」「真面目
>であること」「信義を守ること」「誠実であること」「社会の秩序を守ること」
>「法律を守ること」といったことに対する、実存的な疑問を感じちゃったんで
>すね。
『陛下ノ御性質上、組織ガ動イテヰルトキハ邪ナコトガオ嫌ヒナレバ筋ヲ通スト云フ潔癖ハ長所デイラツシヤルガ、組織ガソノ本当ノ作用ヲシナクナツダトキハ、ドウニモナラヌ短所トナツテシマフ。』
高松宮日記、昭和十九年七月八日
高校時代、所長さんは石打丸山スキー場で行なわれていたスキーの大会のお手伝いをしていて掲示板に選手の滑走タイムを張っているときに、友達に「高松宮って誰?」と訊かれて「今の天皇陛下の弟だよ」と答えたら、どっかで見たような顔のひとが掲示板の裏っかわからひょいっと顔を出してこっちを見た、という経験をしています。
昼食に出されたステーキをお召し上がりにならなかったもんだからアルバイト君にお下げ渡しになって、ありがたく頂戴したそうです。
天皇だってある意味ワルでないと勤まらないんですもんねぇ……あたしたちプロレタリアートは狡猾でなくっちゃ。
Maria
さくらかのえさんへ。お返事ありがとうございます。
まあ……さくらさんみたいなタイプがふつうなんでしょう、たぶん。
べつに、「掲示板だから」「ネットだから」とかいった感じではないようにお見受けいたしました。
それはそうと、
>なんとなく、さくらかのえさんの「笑いのツボ」のようなものが分かって
>しまったような気がします。
>ひょっとして、(中略)「なべつかみ」という語感にハマッてしまったの
>ではありませんか?
……とか書いておきながら、ハズしてしまいましたか。残念。
「祈るこころ・岩手のなべつかみ信仰」
「あなた許して・なべつかみに濡れる新妻」
「夏本番! 男のなべつかみ」
「今夜は朝まで水着でなべつかみ」
「古代オリエント世界におけるなべつかみの伝播」
「人類最後の秘境・深海に巨大なべつかみを見た!」
「しのびよる恐怖・若者を汚染するなべつかみの実態とは」
「本番直前・『ここが出る!』 なべつかみ学習のここがポイント」
とか、いろいろ考えたのに……
分裂傾向と関連して、「こういう無意味なジョークがやたらウケる人と全然ウケない人の差はどこにあるのか」というのは考察してみる価値があると思っていたのでちょっと残念。あ、べつにRESとか要求してませんから。忘れてください。
そういうわけで、重ねてありがとうございました。まる。 Maria
武田好史さんへ。あたしの「私」である所長さんも、現在ひきこもり真っ最中なので、一般論ということでなく、所長さんについてお知らせすることにしました。
1)「引きこもり」は悪か
日本では「悪」だということになっています。日本国憲法では「労働は国民の義務であり権利である」と規定されていますから、働きたいのに働けないなら「働く場所や仕事がない」という社会の側に悪が存在することになり、働けるのに働かないなら「国民としての義務を果たしていない」ので、個人の側に悪が存在することになります。
じっさいのところ、単一の理由で善悪をうんぬんできるような単純なものではないと思います。働こうにも受入れてくれる職場がない」とか「働くための精神的エネルギーが出てこない」とか「働くことに対する意義が見出せない」とかいった事情がいろいろ組み合わさって、「引きこもり」という結果になっているわけですから。
2)原因
所長さんの引きこもりの原因のうち、大きなものは二つ、つまり発達過程とPTSDです。
二〇〇一年四月四日に、最高裁の研究会は「凶悪少年犯罪を起こす少年には三つのタイプがある」という研究結果を発表しました。
その1)幼少期から問題行動を起こし、親から体罰や叱責を受けることで行動がエスカレートした。LD・ADHDの人にはこのタイプが多そうですが、ASだとこうしたタイプは少なそうです。
その2)燃え尽き型。親の期待が強く、子供のほうが親の期待を率先して行動し、子供らしい感情を抑えこんできたものの、ついに堪えきれなくなって破綻してしまうタイプ。このタイプは両親も同様に表面的には社会に適応しているが、嫁姑問題など深刻な葛藤た潜在的にある。夫婦の絆が弱いが、表面的な夫婦関係は維持されているため、事件を起こすまでは自分たちの問題に気づかないことが多い。
その3)学業や運動で思春期になって大きな挫折を体験、プライドを傷つけられ、衝動的な犯行に走った。両親が地域の活動に積極的に参加するなど表面的には大きな問題はないが、子供のよい面だけ見てネガティヴな他の面をまったく見ようとしない。子供を過大評価する(あるいは過剰な期待をして子供の実像を見ない)ため、子供が挫折して期待に応えられなくなると、手のひらを返したように子供を無視したり怒りをぶつけたりします。怒りや嫉妬などなどのネガティヴな感情をもった自分を親が丸ごと受入れてくれないため、子供は心の中に闇を育てるようになります。
ですから、子供のタイプとしては(1)と(2)・(3)に分かれ、後者の子供が問題を起こすパターンに(2)と(3)がある、と考えていいと思います。
で、所長さんは後者のタイプで、引きこもりに至ったのは(2)と(3)の複合型、ということのようです。
まず、所長さんの労働環境がめちゃくちゃだったことが原因としてあります。レトリックではなく過労死一歩手前の状態まで追いこまれていました。ですから、所長さんは残業拒否・休日出勤拒否・出社拒否など(ぜんぶ正当な労働者の権利内での話なんですが)を行なったんですが、会社からガンガン抗議の電話が掛かってくるのに堪えかねた両親が、むりやり会社に追い立てる、ということをしちゃったわけです。居留守を使うとかいったことは考えられませんでした。なにしろ所長さんは、「有能で真面目で職場で頼りにされている立派な社会人」だったわけで、それが会社の期待に反してうちで「引きこもっている」(普通に休んでいただけなんですが)なんていうことは考えられませんでした。で、その結果、所長さんは突発性拡張型心筋症という病気で倒れてしまい、そうなると会社は「会社の側が管理責任を怠った」ということを否定するために所長さんを攻撃するようになり、親のほうもそれに同調しちゃったんですね。ここまでが「発達過程」に属する部分です。
で、PTSDの部分にはひとつ、象徴的ともいえるエピソードがあります。
病気のために再就職もままならず仕事も入ってこない所長さんを見かねて、友人の「小豚のキティ(Kitty the Piggy)」さんが、仕事を紹介してくれました。それは大手総合電機メーカーH社(仮名の体を成してないな)が某大手損害保険会社TK社(だから仮名になってないってば)の損保契約データ管理システムの入換の仕事です。KittyさんはH社の子会社でソフトウェア開発会社のHC社の社員でした。
TK社はすでにH社のユーザだったのですが、ハードの老朽化もあってF社あたりのシステム導入も検討していたようです。そこで、2000万円(仮に、です。このあたりの数字は正確ではありません)程度の予算でソフトウェアを開発してもらいたい、とH社に打診してきました。ところがH社の見積では、開発費は軽く3000万円を超えることがわかり、その仕事を1800万円で子会社であるHC社に丸投げしてきたわけです。それで困ってしまったHC社の担当SEであったKittyさんが、「じつは私の友人にKILROYという『化け物』がおるんですが」と所長さんを引っ張ってきたんです。
所長さんは元・防衛関係のSEだったんですが、その損保契約データ管理システムが、H社の見積が不動産情報システム「RAINS」とほぼ同様の設計を想定して行なわれており、これは新バッジシステムの中央指揮所の統制データ管理システムとまったく同じシステムによって実現できることを、資料をちょこちょこっと見ただけで見破ってしまいました。
ほんでもって設計を見直し、新たにそれに合わせた見積を立ててみたら、だいたい開発費は1000万円強、という数字が出てきました。
TK社ではコンペ形式を取ってその中から選ぶということでしたので、所長さんは仕様書・基本設計書・詳細設計書・開発計画書を作成し、万全の体勢でコンペに臨みました。ただし、受注の窓口はH社本社なので、HC社は結果待ちです。ところが、H社本社はそうやって受注した仕事を、H社単独で請けることにしちゃったんですね。つまり、利益が出るとなったらつまんで持ってっちゃったわけです。
HC社の担当者およびKittyさんの面目は丸つぶれです。要するに、結果的に所長さんの仕事をパクるために利用されたわけですから。所長さんは「せめて調査費とかいった名目で金は出ないんですか?」と粘ってみたんですが、受注を前提にして予算が組んであるものだから、仕事が入ってこなければお金が払えない、ということでした。で、親会社から天下ってきた取締役が睨みをきかせているので、本社の恥になるような事実は認めるわけにはいかない、ということでした。「じゃあ、せめて課長クラスの人間がポケットマネーで一席設けて、Kittyと私に詫びを入れろ」とゴネてみたんですが、それも取締役との関係があるからダメ、ということになり、Kittyさんが所長さんい一杯おごる、ということになりました。だけど被害者が被害者に謝罪したって、落込むだけですよねぇ? 所長さんは日立本社にねじ込んで対処してもらうことも考えたんですが、そうするとHC社の担当者に迷惑がかかってしまいます。それでしかたなく泣き寝入りすることになりました。以来Kittyさんとの関係も気まずくなっちゃってます。
で、似たような経験が何度もあって、所長さんは「有能であること」「真面目であること」「信義を守ること」「誠実であること」「社会の秩序を守ること」「法律を守ること」といったことに対する、実存的な疑問を感じちゃったんですね。で、PTSDと実存神経症を併発してしまいまして、「仕事」というのができなくなっちゃいました。より正確にいうと、「仕事」自体はできるていんです。ところが、納品が終わったとたんに向こうの会社がゴネだして、担当者が「私自身はお支払いしたいんだけど、会社の方針としてはお支払いできない」みたいなことを言いだすと、もはやアクションを起こす気になれなくなってそのまんま鬱状態にずどぉんと落込んでしまって、一ヶ月二ヶ月そこから抜けだせなくなる、ということが続いたものだから、仕事を探す気力が湧いてこないまま、アルゴリズムの開発やら基礎データの収集やらを続けている、という状態にいます(そんな訳ですから、どなたか「確実にお金が落ちる」という仕事があったら所長さんに紹介してあげてください。「『勝ったも同然』男」「納期に足がかかったら二十人力」と言われた鬼のようなシステムエンジニアです)。
所長さんがつくづく感じているのは、誠実な人間でも組織の一部になっちゃうとその「誠意」というものが結果的に悪いほうにしか作用しない、ということです。で、ごく最近になって雪印乳業・三菱自動車・JOC・新潟県警などで同じメカニズムによる不祥事が起きており、そういった「無責任の体質」について系統的な研究が行なわれていることを知りました。
で、それが次の「対策」につながってゆくわけです。
3)「引きこもり」対策
個人は組織に対抗できません。つまり、個人はどうしても「誠意」に縛られるのに対し、「組織」は「誠意」と「常識」を場合によって使いわけることができます。
いままで引きこもっていた人が社会に出る、ということは、「個人」として「組織」に向きあわなければならない、ということです。学校から会社、会社から会社という形で組織から組織へ渡り歩いてきた人たちとは、我々は始めからポジションが違います。
ですから、「引きこもっていた人々」に対して開かれている組織、というものをまず作り、「組織対組織」という形で社会と向きあう必要があります。
リクルーターありマーケッターあり営業あり顧問弁護士ありカウンセラーあり医師あり組合活動家ありといった、ほとんどひとつの「自治体」に近い形での「組織」として、「引きこもり」の人々を受け入れる「場」が必要なんです。
『アスペルガー共和国』のNGO化、企業化、そして労働組合化を、所長さんとKILROYさんが真剣に考えているのには、そういう理由があります。
またしても長大なレスになってしまいました。もう呆れて声もないでしょうが、お許しください。
Maria
Mariaさん wrote:
> 「この掲示板に書込みをしている『あなた』は、どんな『あなた』ですか?」
ふだん職場にいるときに較べたら「素」に近い
(同僚には話せないようなことも話せる)
けど、完全な「素」ではなくて、ちょっとカッコつけてたり、
自分の中にある感情の一部(ネガティヴな考え方だったり堅苦しいところだったり)
を増幅して語ってるような気がします。実際はもっと複雑。
Mariaさん wrote:
お返事ありがとうございます。
>ぴよさんwrote:
>>私の場合は、ほぼ素のままの「自分」です。
>>ここの掲示板では、もう100%といっていいかも。
> 勝手な想像ですけど、ひょっとしたら「小学校・中学校時代の友達と喋っているときの自分」に近いんじゃないですか? 最初に見につけたペルソナをそのまま持ってきたような。わりとやんちゃでカルいタイプのひとに、そういうひとって多いような気がします。きっとムードメーカーで明るいひとなんだろうな、と想像します。あたしはめちゃめちゃクラいぞ。
じつは、小学校・中学校時代には、
気の合うというか、話の合う友達があまりいなかったんです。
どっちかいうと、高校・大学時代の友達としゃべっている。
って感じかな?
でもね、、、
つい最近まで、3年間ぐらい鬱状態が続いてたんですよ。実は。
> リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』説というのは、日本ではヘンな紹介のされかたをしたものだから誤解されている部分が多く、ぴよさんも誤解されているのではないかと心配しています。
> 「個体は遺伝子に操られているのだ」と考える人がけっこう多いのですが、逆に遺伝子のほうが「生命の乗り物」であって、本質というのは生きている個体のほうにあります。なぜかといえば、遺伝子というのは単なる「二次記憶媒体」であって、本来存在したのは細胞内で活動しているRNAと酵素なんですね。コンピュータでいえば、メモリ中で動いているプロセスのほうが主体で、二次記憶媒体の中に存在するプログラムは、それだけでは単にデータでしかないからです。
> 生物はもともとRNA世界の中で活動していたんですが、「逆転写酵素によってRNAの内容をDNAに書きこむ」「転写酵素によってDNAの内容をRNAとして読み出す」ということができるようになって、二次記憶媒体としてのDNAが実用化された、ということが分かっています。いわゆる「DNA→RNA→酵素」という「生物学におけるセントラル・ドグマ」の崩壊、というやつです。
> 今西進化論とか、木村資生先生の「遺伝子進化の中立説」なんかは勉強してみると面白いですよ。いわゆる「先カンブリア爆発」(『ワンダフル・ライフ』という、バージェス頁岩(けつがん)化石に関する面白い本があります)なんかの原因とかも、考えてみると面白いし。
っていうか、個人的には、二元論があんまし好きじゃないので、
遺伝子と個体を同一視しちゃってます。
あとで考えたんだけど、どっちかというと、ガイア仮説のほうが、しっくりくるかな。
> えー、最後にひとつ。できればマリア「さま」ではなく「さん」とか、でなかったら呼び捨てにしてくださると、わりと気が楽です。「マリア様」とかいうとうちの鬼姑(クロパの妻マリア)とかうちの旦那をストーキングしていた女性(マグダラのマリア)のことになっちゃいますから。あたしは「ベタニアのマリア」です。
了解です。
ではまた。
お返事ありがとうございます。
ぴよさんwrote:
>私の場合は、ほぼ素のままの「自分」です。
>ここの掲示板では、もう100%といっていいかも。
勝手な想像ですけど、ひょっとしたら「小学校・中学校時代の友達と喋っているときの自分」に近いんじゃないですか? 最初に見につけたペルソナをそのまま持ってきたような。わりとやんちゃでカルいタイプのひとに、そういうひとって多いような気がします。きっとムードメーカーで明るいひとなんだろうな、と想像します。あたしはめちゃめちゃクラいぞ。
リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』説というのは、日本ではヘンな紹介のされかたをしたものだから誤解されている部分が多く、ぴよさんも誤解されているのではないかと心配しています。
「個体は遺伝子に操られているのだ」と考える人がけっこう多いのですが、逆に遺伝子のほうが「生命の乗り物」であって、本質というのは生きている個体のほうにあります。なぜかといえば、遺伝子というのは単なる「二次記憶媒体」であって、本来存在したのは細胞内で活動しているRNAと酵素なんですね。コンピュータでいえば、メモリ中で動いているプロセスのほうが主体で、二次記憶媒体の中に存在するプログラムは、それだけでは単にデータでしかないからです。
生物はもともとRNA世界の中で活動していたんですが、「逆転写酵素によってRNAの内容をDNAに書きこむ」「転写酵素によってDNAの内容をRNAとして読み出す」ということができるようになって、二次記憶媒体としてのDNAが実用化された、ということが分かっています。いわゆる「DNA→RNA→酵素」という「生物学におけるセントラル・ドグマ」の崩壊、というやつです。
今西進化論とか、木村資生先生の「遺伝子進化の中立説」なんかは勉強してみると面白いですよ。いわゆる「先カンブリア爆発」(『ワンダフル・ライフ』という、バージェス頁岩(けつがん)化石に関する面白い本があります)なんかの原因とかも、考えてみると面白いし。
えー、最後にひとつ。できればマリア「さま」ではなく「さん」とか、でなかったら呼び捨てにしてくださると、わりと気が楽です。「マリア様」とかいうとうちの鬼姑(クロパの妻マリア)とかうちの旦那をストーキングしていた女性(マグダラのマリア)のことになっちゃいますから。あたしは「ベタニアのマリア」です。
どもども。 家事が嫌いで有名な Maria
武田好史 wrote:
> みなさんこんにちは。
> このページの読者の人には、社会の中でそこそこがんばって仕事をしている人もいれば、心身共に疲れ果てて・世の中でどう生きていったらよいか迷い、引きこもり状態という人もいると思います。
> そこでみなさんに質問です!
>
>1.「引きこもり」をすることは、悪なのでしょうか?
私自身も29才で世間の「常識」では「働いている」年齢に達していますが、「何となく今の世の中では、自分を生かせる場がない・・・」ということで、引きこもり中です。引きこもりというよりは、「就労拒否」といったほうが正確かもしれません。
私は、善悪論はさておいて、「引きこもりとは、生きていくためのエネルギのー欠乏状態の一つの形態である」と考えています。
>2.原因は何なのでしょうか?
いろいろあると思いますが、私が思い当たるところでは、次のようなことがあると思います。
A.「知識偏重」の教育を盲目的にしてしまったため、子供の自尊心・博愛心・想像力・創意工夫など、本当の意味での「生きていくための力」が十分に育まれなかった。
B.ASやLD・ADHDなど、「感受性が高い」「認知能力・情緒に問題がある」「コミュニケーションが上手でない」子供が、障害に対する理解が不十分なために、「ダメな子」扱いされ続けた。
C.仕事というものは本来、「世の中が良い方向へ向かうためにがんばること」であるのに、いつの間にか「お金を稼ぎ続けること」になってしまい、働いている人が「ゆとり」失った。そんな親御さんを見ていた子供たちが、働くことを「怖い」
と思うようになってしまった。
>3.「引きこもり」をしている人が幸せに暮らしていけるためには、どのような支援をしてあげるのが望ましいのでしょうか?(何が癒しにつながるのでしょうか?)
とにかく一番重要なことは、引きこもりの人が「安心して生きられる!」という環境がいかなる所なのか、ということを社会全体でよく考えるということだと思います。不安というものは、薬というもので100%コントロールできるものではなくって、刺激の少ない環境とはと考えて落ち着き・徐々に普通を目指していくことでコントロールしていくのが大切だと思います。また何も、「人並みに社会交流できること」をゴールと位置づけなくともよいと思います。
私もそろそろ気になってきたのですが、「親なき後どう生きる?」という問題があります。私たちのような精神的脆弱性を抱えている人間は、孤独で年金暮らしをしていたり・精神病院に入院して余生を送るよりは、似たもの同士寄り集まって・お互いをかばいあい・悠々自適にできる範囲で社会貢献できる環境で過ごした方がずっと幸せであると思います。
アスペが住まう楽園「レスデテン」をそのうちみんなで創りましょうか・・・・
#「レスデテン」と名付けた僕の夢の世界は、穏やかな安らぎに満ちていて、悪い#ことは何一つ起こらず、宇宙のどこか、遙か彼方の太陽の周りを回っています!
#僕が小さな子供だった頃には、この地球上の生活がつらく不可解な時はいつも、#僕はそこで、オリンピア河の急流が走り抜ける荘厳な山々の光景に身を隠してい#るのが好きでした・・・
#リチャード(ASの青年)作の詩から。
#トニー・アドウッド著「ガイドブック・アスペルガ症候群 親と専門家のために」より。
いつきさん、丁寧なご返事をありがとうございます。
いつきさんは小説を書かれるそうなのでお分かりいただけると思うんですけど、この「丁寧なご返事をありがとうございます」の一文を書くだけで、私はドキドキしてしまいます。「丁寧な」でおかしくないかな? 「ご丁寧な」とか書いたら皮肉みたいに聞こえちゃわないかな? 「RES」や「レス」じゃなれなれしいし、「レスポンス」だとキザな感じがするし、「ご返事」というと私信への返事みたいだし……そうやって、逆に自分の感覚から自分自身のイメージを逆算してゆく過程というのが、文章を書くときにはあるように思います。
そう……たとえば自分が何気なく書いた登場人物が、いろんなセリフを喋らせているうちに血肉をまとってどんどん具体的な「人物」になってゆく過程というのを、たぶん感じておられるのではないかと思います。
「自分」といっても、ふだんいろんな人と接しているときの「役割としての自分」、つまり「ペルソナ(仮面)」としての自分と、その下の……「顔のない顔」とでも言うんでしょうか?「生の自分」というのがあると思います。大槻さんの場合は「生の自分」というのがまずあって、インターネットという匿名性の中で「自分が自分らしくふるまえるペルソナ」というものを作りあげた、と思っていいのでしょうか。
だとしたらいつきさんはあたしやMr.Motoと同じですね。なんか、呼吸が楽、という感じがしませんか?(具体的な質問、ではありません。そうだったら嬉しいかも、ということです)
あたしの本体である「私」の場合、Mr.Motoという「怪物」を飼っているので、あたし自身はのほほんとしていられるところがあります。ですから、「私」は「私」の本当の気持を知りたいときには、あたしに喋らせる、ということをします。で、ときどき思いもよらないことをあたしが喋るので、びっくりしてたりします。
「私」って変な人かな? Maria
Mariaさま wrote:
> そこでお聞きしたいんですが、この掲示板に書込んでいる「あなた」は、あなたにとってどんな人ですか? もしもそれが普段感じているあなたとは別の「あなた」だとすると、あなたと「あなた」が対話したときに、どんな感じがしますか?
私の場合は、ほぼ素のままの「自分」です。
ここの掲示板では、もう100%といっていいかも。
ただ、自分が「利己的な遺伝子」の思想を支持しているからか、
(自分の体は、ただの「遺伝子の乗り物」にすぎない。っていう思想です)
ここに書き込んでいる「自分」は、
実はミームなんじゃないかと思っています。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2989/meme.html
Maria wrote:
> 「この掲示板に書込みをしている『あなた』は、どんな『あなた』ですか?」
まだ二回しか書き込んだことはありませんが・・・
書き込みをしてる自分は、全てをさらしている自分。
まわりの人はみんな、どこかで自分と同じ疑問を感じてるんじゃないか?と思いながら。
社会に当然のように適応してる「普通の人」にはさらせない顔で。
私は、人間社会の中で「違和感」を感じている人が好き。
違うっているということがどんな気のするものかわかってくれるから。
私が「普通の人」と違う目で周囲を見ていること、
ひとが見ているものがみえないかわりひとにみえないものが見えているということ。
「普通の人」がもしそれを知ったら、まるで視姦されてるように感じるんじゃないだろうか。
(逆に言えば、私だって「みえないはずのものを見られている」恐怖感にさらされて生きてるのだけど。)
だから、普段は自分にみえている本当の世界の話なんて周囲の人にはできないな。
ここのみなさんは、「同類」だから。
そして、インターネットという匿名のフィルターを通しているから。
ついでにいうと、この掲示板のことは友人には言えませんね。
自分の書き込みは友人の知らないハンドルでやってるからいいけど、
みなさんの全ての発言が(普通の人にとっての)「怪物」である自分をさらしているようで。
> 心理学における基本テーゼは、「意識は嘘をつく。けれど行動は嘘をつかない。」というものがあります。「自分が考えていること」と「自分の行動」が一致しないときは、行動のほうが本当の自分だ、ということです。
>
> 「文章を書く」ということは「行動」の一部ですが、「自分が考えていること」を書いているという意味では、「意識」の一部です。
> ですが……なんか違うんですよ。これが。
まったくだ。
小説とか書くときは、いかにかくということをを「行動」にかえるかに苦労します。
でも、「この文章は自分の「意識」の産物、つまり嘘なんじゃないか??」と思いながら書いた文章も、
しばらく時期をおいてから読み返してみると自分の「本当」がさらされていることに気づく。
嘘が下手なんでしょうかね。
「これは嘘だ」とわかってしまえば、あとは「このような嘘をついた」という行動が残るだけ。
ついた嘘のせいで真実をさらしてしまう。
余談ですが、私が「自分がアスペルガーなんじゃないか?」と思ったのは、
自分が趣味でかいた短編小説の登場人物に、あきらかにアスペルガーにあてはまる人
(自明とされるものを信じることができない、
ベタベタした人間関係は苦手だけど友人をもとめてはいる人)が登場してたから。
その小説は、そのアスペルガー的人物が自分の一番親しい友人に「自分に本当に見えていること」、
「自分はあなたとは違うものを見ている人間なんだ」ということを会話の中でわざと示す・・・
自分の中の、その友人や普通の人と異なる感性を暴露する、
それによって「友人」は彼と虚心につきあうことが難しくなる、
というストーリーです。
「友人」の一人称で。
私たちは、普通の人と違うことを感じている。
それって、「別の世界にすんでいる」のとどう違うんだろう?
行動や能力・適性の相違は認められても、
「感性の相違」って受け入れられるんだろうか?
私はいつも、他人の心を覗き見しているような感覚にとらわれてしまう。
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