アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
俺も死のうと思ったことはあります。漠然と。
もし自分がいなくなっても、「何も変わらない」、「だれも悲しまない」とも、よく思いました。多くの人は、たいして親しくもないやつが自殺したって、何とも思わないんじゃないだろうか。「道ばたで猫の死体を見」とか、「ワイドショーで惨い殺人事件を見た」とか、その程度の問題でしかないのかないのかもしれない。
世の中、「善人」はたくさんいるのかもしれないけど。「死にたい」、なんて強い気持ちをぶつけられたら、たぶん逃げて行ってしまうと思う。自分の心が求めるから「善人」を選んだのではなく、「善人」の方が都合がいいからそうしているだけ。そんな人は多いと思う。
自殺しようとするなんて、勇気があると思う。
少なくとも、「生きること」や、「死ぬこと」真剣に考えている人じゃないと、自殺したりはしないし、そのエネルギーも湧いてこないんじゃないだろうか。実際にやってしまうとは、すごい行動力だと思う。
俺は自殺は、心のなかだけですればいいんじゃないかと思う。人間や世の中の良いところを探し、見つめることが大切なように、悪いところや、目をそらしたくなるような感情も、「死」も、真剣に見つめなければいけないと思う。
春の陽気が、爽やかな風が気持ちいいのは、今まで冬の、凍える寒さにたえてきたからでもあると思う。俺達は普段、いつも「心の春」を求めている。
そして、「心の春」にあまりにも慣れ過ぎてその喜びを忘れていると思う。
「冷水にうたれる」修行があるけど、俺はたまに風呂場のシャワーで滝にうたれる。たとえ真夏でも死ぬほど寒いけど。やってしまえば気分爽快。感覚も、感受性も研ぎすまされて、すばらしい気分になる。
死を本気で見つめ、考えることもそれと似ていると思う。それは、人間にとって究極の寒さかもしれないけど、その価値は絶対にあると思う。その後には、必ず新しい喜びや、幸せも、たとえほんの少しでも待っていると思う。
自殺が正しいことなのか、悪いのかなんて俺にはわからないけど。少なくとも俺は、人生をやめる必要はないと思う。
maria様、オフ会ではお世話になりました。
「ちょんの間」とも「ちょいの間」ともどちらも使うようです。
もともとは「ちょっとのあいだ」だそうです。
I wrote:
>「chop house」といって、横浜や神戸にあった外国人船員相手の簡易食堂
>のことを言ったのだそうです。で、「いわゆる売春婦を置いた店が多い」と
>注釈にありました
……とまあ、ここまでが前回の調査結果。今回はその続報。
横浜には「亀屋」というお店が多かったといいます。なぜかというと、異人さんが犬を呼ぶときに、“come here!”と呼ぶのが「かめや」に聞こえたからだといいます。
で、犬のことを「カメ」といい、「犬の餌」のことを「カメチャブ」と言いました。ですから、「チャブ」というと、「食事」という意識が、日本人にもあったようです。それで、「チャブ屋」という名前ができたのだと思います。
で、「卓袱台」がなぜ「ちゃぶだい」なのかという話になるのですが、「卓袱(しっぽく)料理」=「長崎地方の郷土料理で、日本化した中国料理。主として魚肉を用い、各種の器に盛って、各人取り分けて食する」とありますから、「共用する」というイメージがあったのだと思います。
江戸時代までは、各々のお膳というのは別でした。いわゆる「箱膳」というのがあって、食器一切は個人のものとして、別々のものでした。現在でも、お茶碗やお箸やお湯呑は、各人がそれぞれ自分のものを使う家が多いと思います。だからこそ、「直会(なおらい)」という神との会食においては、一つの器で酒を回し飲みする、といった、本来タブーに属する行為が行なわれるわけです。
それが、家庭に「卓袱」が入ることにより、「膳」を共用することになって、「卓袱」が「一家団欒の象徴」になったわけです。星一徹さんの「卓袱台ひっくり返し暴れ」は、つまるところ予定調和的は一家団欒の否定、という深層構造を内包していたわけなんですね(←ホントなの?)。
で、「日本人=個食」「外国人=共食」というイメージから、「共食膳」→「チャブ台」→「卓袱台」といった形で変遷していったのではないでしょうか。
最近は「個食の時代」とか言われていますけど、日本は伝統的にそうだったような気がします。だいたい、妻は夫が食事を済ませてから独りでご飯を食べる、というのが、戦後まもなくまで当たり前だったようですし。
で、なぜ「卓袱屋」が「売春」と結びついたかということです。
「chop house」というのは、現在でいう「ステーキハウス」です。
さらに、「chop」というのは、「厚切り肉」のことなんですね。ポークチョップとかラムチョップとかいった言葉はよく使います。で、肉というと「ミート」以外に「フレッシュ(flesh)」があって、後者は「肉体」も意味したりするわけなんです。
そんなわけで、「flesh を切り売りするお店」ということで、「chop house」という言葉が外国人船員の間で俗語的に使われており、それに呼応する形で「卓袱屋」という名前ができたのだと思います。
実際はどうか確証はないんだけど − Maria −
問1
あたたかい沖縄のどんなところが、うらやましいと思いますか。
また、どんなところが、たいへんそうだと思いますか。
●うらやましいと思うところ
海栗島
理由:レーダーサイトがあるだけだから、仕事が少ない。遊ぶところがないから、お金が貯まる。釣りができる。
●たいへんそうだと思うところ
那覇
理由:米軍と一緒だから、風当たりが強い。民間空港と共用だから、万一の事故が心配。誘惑が多く、お金が貯まらない。
問2
あぶらなを虫眼鏡で見た感想を書きなさい。
色収差と球面収差が大きい。やっぱりちゃんとしたルーペで観察したほうがいい。
所長
KILROYさん wrote:
> 「学校の成績」というものは、ペーパーテスト抜きには考えられない。
>
(中略)
>
> そんなわけで、学校では「のびのびと自由に発言しましょう」と教師が言ったとしても、文字通り「のびのびと自由に発言」したりなんかすると、たちどころに「授業の邪魔」ということになって特種学級に放りこまれてしまうのである。
>
> 発表授業とディスカッション、で、最後の一人が分かるまで徹底的に議論する。これでいいのではないだろうか。テストなんていうものは病院の検査みたいなもので、「どこが悪いか」を知るために行なう以外は必要ないのではないだろうか。そして検査結果というのは本人と親以外には知らせない、というのが当然であって、それが「成績」として残るなどというのはどっかおかしくないか。
>
> 私はそう思うのである。 Mr.Moto
とても気持ちのよい説明をありがとうございます。
現在8才の娘は、学校にはいってから一度もペーパーテストというものを経験しておりません。そういうわけで、学期末に通知表をもらいにいくと、担任がすまなそうな顔をして「評価できませんでした」と言ってくださるのです。わたしはといえば、個人懇談でわたしが話しているときに、目の前で舟を漕いでいる担任が気になって、思わず「大丈夫ですか?」と声をかけてしまったことのほうを覚えていて、何を話していたのかは記憶に残っていません。(学校の先生ってのも疲れる商売なんだな〜、こういうのは苦手だな〜、さっさと逃げたい・・・とわたしは思いました)
わたしは「娘は学校になじまないだろうなぁ」と早くから気づいていましたし、なんとなく自分の感じていたことが現実になるにつれ、自らの勉強不足・情報不足
にあたふたして、対応は遅れるばかりだったのです。
日本の学校って「規格品一丁あがり!」というパターンから、なかなか抜けていかないですね。教育産業関係者(塾や学習教材を扱っている人々)のあいだでは「文部省のやることは10年遅れている」というのが暗黙の了解になっているようですが、そういうあなたがただって日本の学校教育制度の洗礼を受けてきたんでしょうが!と、わたしは言いたいです。学習指導要領というお役所言葉で書かれたぶ厚い文書(これが日本語かい?というくらいわかりにくい)を、各県に持ち帰った教育委員会のお偉方さんがまず、わかりやすい日本語に翻訳することから始めて、それが市町村教委に下りてゆき、現場の学校まで届くのにどれだけの時間がかかるか知っている日本国民のひとりだろうに・・・。
あ、すみません。感情的になって文章が書けなくなってしまいました。もう少し冷静になってから、また来ます。
思考能力の低い、あさかぜでした。本当にごめんなさい(TT)
さくらかのえ wrote:
>「個性的」だということで苛められる人もいれば、
>「没個性的」ということでバカにされる人もいる。
>あれこれ言ってる人たちはいったい何を求めているのか。
>
>「個性」は誰でも持っている。「個性」がない人などいない。
>「個性」を押し殺して枠にはめるのは息苦しいが、
>「個性的」であることを強制されるのもまっぴらごめんだ。
同感です。
私から見ると、全ての子は「個性的」であり、また「普通」に見えます。
あれこれ言ってる人は、それぞれの「子」をよく見ていないのか、
その「子への見方」が間違っているのではないかと考えています。
子供だけでなく大人にも・・。
「子への見方」と「教師の子への見方」は別物だと思います。
母親だけでも子供に対しての「教師の子への見方」を外して
見てあげたいものだと考えてます。
非真面目な母 青りんご
長女は読解力に難がある。
問題自体をちゃんと把握出来ていないらしい。
例えば
「あたたかい沖縄のどんなところが、うらやましいと思いますか。
また、どんなところが、たいへんそうだと思いますか。」という設問に
●うらやましいと思うところ
沖縄
●たいへんそうだと思うところ
北海道
と回答している。間違っているので×である。
テストは「よく問題を読んでね」と書かれて返却されるのが常である。
「うらやましいと思うところ」ではなくて「うらやましいと思う点」と
設問を変えてくれれば、正解を書けたと思うんだが・・。
「ところ」=「場所」とかんがえたんだろうな。(親の想像)
「あぶらなを虫眼鏡で見た感想を書きなさい。」
には
「虫眼鏡で見ると大きい。」と書いている。
そーだそーだ。当たってるじゃないか?と親は思うが
学校では○はつけてくれない。
学校の成績は、悲惨な状況ではあるが
親としては「なかなか、いい味だしてるじゃ〜ん」と思ってる。
返却されるテストを見ては「ナイス!座布団一枚!」と
声をあげる非真面目な母です。
親子揃って学校とは相性が悪いらしい。 青りんご
「学校の成績」というものは、ペーパーテスト抜きには考えられない。
とはいえ、ペーパーテストによって測ることのできる「知的能力」などというものは、たかが知れている。
制限時間はあるのかないのか。
資料を持込んでもかまわないのか。
電卓を使ってもよいのか。
選択式なのか、穴埋め問題なのか、記述式なのか。
こういったそれぞれの形式によって、いろんな制約が生まれる。したがって、「知的能力」以外に、「その制約に対応できるかできないか」という適正の問題が出てきてしまうのである。
ゆっくり慌てずにやれば正しく答えが出せるけれど、急ぐと失敗する奴。
暗記ものが苦手で、数字や名前が覚えられない奴。
計算を間違える奴。
こういう奴は評価されない。
穴埋めでは「問題そのものの解釈」で迷ってしまう奴は落伍するし、穴埋め問題では年号や漢字を忘れる奴はちゃんと答えられないし、記述式だと文章力がないと認められない。
たとえばの話、
『以下の□に当てはまる数を答えなさい。
1+2=□
4+2=□
2+3=□
3+5=□』
なんていう問題があったとする。
1+2=3、4+2=6、2+3=3、3+5=7
と答えたとすると、
「ブール代数じゃないんだから(^_^;)」
ということになり、これを「間違い」と決めつけることは難しくなる。
言っておくが、これは笑い事ではない。複数桁の足し算なんかだと、使用している足し算のアルゴリズムの一部に誤りがあって、特定の問題について特定のパターンで間違える、ということが確かにある。教師の仕事は、「できた問題の数を数える」ことではなく、「間違えた問題から、間違えた理由を推理し、そこを修正する」ことなのである。あるいは、「答えられなかった問題について、答えられなかった理由をつきとめ、その部分をフォローする」のが仕事なのである。
ところが多くの教師はただ点数をつけることで事足れりとしているのである。
「なにがわからないかが、わからない」。こういう生徒がいるということは、すなわち教師が怠慢であるということに他ならない。
あるいは、
「『1+2』はあくまで『1+2』であって、決して3と『=』で結びつけられるものではないっ! 書くんなら『□←1+2』と書けっ!」
という奴だって、当然いるだろう。
こうなると、穴埋め問題にもいろいろと問題があることがお分かりいただけるであろう。
あるいは、
『コップの水の中に氷が浮いています。氷が溶けたら、水面はどうなるでしょうか。
1)上がる。
2)下がる。
3)変わらない。』
みたいな問題があったとする。普通なら、「迷わず(3)」である。
しかし、「迷わず(3)」という態度は果たして科学的なのだろうか。
解1)喫茶店で出す水の温度というのは、「四℃」というのが常識である。なんとなれば、シルバーのウォーターピッチャーに水と氷を入れ、上から霜がつくようになったときの底の水温が四℃だからである(理屈は各人考えるように)。
そこに氷を入れたら、その温度は0℃に近づく。水の密度は四℃のときに最大だから、0℃に近づくにつれて密度が下がる。すなわち体積が増えるため、水面は上昇する。よって(1)が正解。
解2)水は一般に温度が下がれば体積が減少する。したがって(2)が正解。
解3)私は実際にやったことがあるが、見たところ水面の高さは一定だった。すなわち(3)。
解4)常温常圧、湿度五十五%の雰囲気中で、容積二百五十mlのガラスコップ(熱容量は……(中略)によって、グラフ1のような予測結果を得た。そこでレーザー光を用いた測定器を用意し……(中略)……これによって、実験によってほぼ予想通りの結果が得られたことを確認した。
……とまあ、ここまで考えたら「正解とはなんだ!」ということになってしまう。つまりは、「教師があらかじめ用意した、隠された『正解』に期待通りに答える」というのが、テストの本質である、ということになる。
そんなわけで、学校では「のびのびと自由に発言しましょう」と教師が言ったとしても、文字通り「のびのびと自由に発言」したりなんかすると、たちどころに「授業の邪魔」ということになって特種学級に放りこまれてしまうのである。
で、そういう教育制度の中できっちり訓練された人間が大学に入って研究をするとどうなるか。
何もできないのである。
彼らは、答えが出るか出ないかわからない問題には、取組むことができない。教わることはできても、学ぶことができない。けっきょく、欧米の研究者が出した結果の後追いしかできないのだが、こういうものを「研究」とは言わない。
とはいえ大学も最近は就職予備校と化しているから、「研究」なんかできなくてもちゃんと優秀な成績で卒業できたりするのである。ところが大学で優秀だった奴というのは、大半が「まるっきり使えない奴」で、まれに「とんでもないタヌキ」が混じっているという状態なのである。で、昔はこのタヌキ野郎が他の連中の食い扶持を稼いでくれたものなのだが、昨今ではちょいと気の利いた奴はすぐに他の企業に引きぬかれてしまい、残るはクズばかり、ということになる。「リストラという名の首切り」が行なわれる背景には、こういうこともある。
つまるところ、大学で成績が悪かった奴ほど仕事ができる、という逆転現象が起きていたりするのである。
発表授業とディスカッション、で、最後の一人が分かるまで徹底的に議論する。これでいいのではないだろうか。テストなんていうものは病院の検査みたいなもので、「どこが悪いか」を知るために行なう以外は必要ないのではないだろうか。そして検査結果というのは本人と親以外には知らせない、というのが当然であって、それが「成績」として残るなどというのはどっかおかしくないか。
私はそう思うのである。 Mr.Moto
『いまでもわりに鮮明に覚えているのは、「式の計算を使って九九の暗記をいかにサボるか」というご講義だ。普通「九九」というと一の段とゼロの段は覚える必要がない。だから「二二が四」から始まるのである。次に「二三が六」を覚えていれば「三二が六」も覚える必要がない。で、ここからが眼目で、図形を使って五より大きな数の掛け算を五以下の数どうしの掛け算と足し算に分解して計算するのである。じつは納屋さんがしようとしていたことは、「数学における記号計算の体系」をあたしの頭の中に再構築することだった。
あたしはその後、納屋さんが設計した「可変長文字列に対する記号操作ベースの数値演算ライブラリ」というのの設計資料を見せられて、納屋さんが科学技術計算系プログラミングの鬼、すなわち「計算鬼」であるということを知ってしまった。なんでも天文計算から数式処理に興味を持ってその流れで人工知能の研究をしているうちに、「結果にあんまり影響しない部分の計算はサボる」「とりあえず大体の数値を出しておいて、そこから補正する」とかいった処理をコンピュータにやらせたくなって、「子供が計算をどのように間違えるか」に興味を持ち、ピアジェや遠山啓先生に傾倒してたりしていたのだそうである。その結果得られた結論は、人間は「計算の結果答えを出す」というより、「だいたいの見当をつけておいて後からそれを確認している」のだそうだ。
あたしたちの勉強法は、仮説検証型である。まず問題を一つ持ってきて、答えを予想する。それからふたりでごちゃごちゃお喋りをしながらその「予想した答え」が正しいことを証明してゆく。途中でその予想がおかしいんじゃないかと思ったら、それを修正してゆく。途中で手詰まりになってしまったら、そこでお休み。納屋さんは、あたしがなかなかに「おいしい間違えかた」をするといって喜んでいた。
で、あたしたちはお喋りばっかりしていて勉強らしい勉強もしてなかったから、成績に関してはぜんぜん期待していなかった。ところがその次の実力テストで、あたしはいきなり高得点をマークしてしまったのである。
あれはたしか夏休みの終わりに受けた模試のときだ。問題用紙を見たときに、前はごちゃごちゃに見えたのに、なんだか広々と、しかも整然としているように見える。「この問題とこの問題は同じパターン」「これは面倒臭そうだから後まわし」というのが見えてしまうのである。以来、試験時間は二倍か三倍くらいに使えた。答案を書き終わって「よしっ!」と思って身体を起こして周りを見るとほとんどの人はまだ必死に計算している最中(さいちゅう)で、「いかにも頭良さそう」風(ふう)の子と目なんか合っちゃって、その子ににっこり微笑まれ、思わず「すいません」とか縮こまってしまったりするのである。それに集中力が上がって、試験中の物音とかが耳に入らなくなった。ふぅ、とか息をついて顔を上げたら試験の監督係が覗きこんでいてびっくりした、ということもあった。答案を書きおえたら暑くもないのに汗びっしょりになっていた。そうか、「できる」というのはこういうことだったのか、と感動してしまった。
そういえば高校に入って間もないころ、数学のテストの後にクラスのよく知らない子が友達を連れてあたしのところにやってきて、「ねえねえ、あの問題の答何だった?」とか訊かれたことがある。そのときあたしがこれこれですって答えて、その子が「ほぉら、合ってんじゃないの」とかいって連れてきた子に胸を張り、連れてこられた子が「そうかぁ、スゥ(“好美”の“好”でもあるし、“蘇”の中国音読みだったりもする)が言うんならしょうがないな」とか言ってしょげるのを見て、「うっ……」とか詰まってしまって、いきなり泣いてしまったとかいうこともあった。「あ、泣かしてやんの」「おまえ優等生にいじめ入れてんじゃねーよ」「やだ、あたしいじめてないって。いじめてないよね?ね?」とかいって騒ぎになってしまったけれど、うれしかったです、ホント。だけど納屋さんはいぢわるだ。あたしがこの話をしても、「実力だな」と澄ましていて、「俺の教え方がよかったんだ」とは決して言ってくれなかった。それで「そんなんじゃなくってちゃんと威張ってよぉ」「いいじゃないか。おまえのこと認めてんだから」とかいって押し問答をしてしまった。で、その話を朋恵ちゃんにしたら、「のろけてんじゃねーよ」とか言われて、げしげし足蹴にされてしまった。
あたしの成績はその後着実に伸びてゆき、現在ではあろうことか理工系の四年制大学を狙える位置にいる。だけど、うちの母親は「女の子だから」という理由で文科系への進学を要求している。なぜ女の子だと文科系なのかという質問はしてはいけない。とにかく、そうなのである。』
『ふたりで聖書を』より
− Maria −
大槻いつきさんwrote:
>「高校大学いかない人間は半人前」なんて思ってるからそう見えるんじゃない?
>高校には行ったけど、それ以降で学んだこと役立てたことのない人って、いるに
>はいるんじゃない?
あたしが調査したところ、高校・大学で勉強したことがちゃんと頭に入っている人は、おおむね二十人に一人くらいしかいません。
『納屋さんは試験勉強というのはデートの約束みたいなものだと言っていた。何月何日何時何分どこそこ、とかいって約束したらびしっと頭に入って決して忘れないし、メモだって取る必要がない。だけど約束通りデートが成立したら、三日後には待合せの場所も日時もきれいに頭から消えていて、残っているのはデートの思い出なのである。つまり、人間の頭は用が済んだことは忘れるようにできているから、「試験」勉強をするとその内容は「試験」が終わったとたんに頭から消えてしまい、「受験」勉強の内容は「受験」が終わったとたんに頭から消えてしまう。大学生が受験をくぐり抜けてきたはずなのに高校で教わったことが何一つ頭に入っていないとか、サラリーマンが入社試験で見せたはずの一般常識がまるっきり身についていないとか、そういうのはこういう大脳生理学的原則からくる必然的な帰結なのだそうである。
「すなわち『仲のいい夫婦は結婚記念日を忘れている』という系がここから導かれるわけです」と納屋さんは言っていた。そうなのかな?かな?かな? だけどあたしと結婚したときのことを考えて予防線を張っているなら赦してあげよう。そのかわり結婚してからあたしの誕生日忘れたら怒っちゃうぞ。
つまるところ、「自分が興味を持てないことはしない。苦手なことがあったら、それを好きになろうとして努力だけはする」、これが大脳生理学が示すところのもっとも効率のよい学習法なのだそうである。「あたしのスタイルはこれだ」とあたしは決めた。それで結果がついてこなかったら、自業自得である。
だけど、自分のスタイルを守りつづけるというのは、難しい。周囲の人が何かにつけて偏差値だとか志望校だとかを話題にし、そうした目標に向かって暗黙のうちに追い立てられているうちに、あたしは自分のペースを維持できなくなってしまった。自分がどれくらい疲れているのかも分からなくなって、怖くて立ち止まることができなくなってしまった。』
『ふたりで聖書を』より
− Maria −
さくらかのえさん wrote:
>わたしは「偏差値教育」のもたらした最大の害悪は、
>試験の点数だけで人格まで判断すること(これも十分悪いけど)よりも、
>本来点数をつけるべきではないことにまで、序列や点数付けを
>するようになってしまったことじゃないかと思います。
>成績だけじゃなくて、「人間性」まで点数つけられるようになってしまった。
>
>(なんだか何を言っているのか、自分でもわからなくなってきたぞ)
そうなんですよね。
ADD(こっちは診断ついてる)の私としては、「成績+態度」で評価されるのは苦手だった。
ペーパーテストの成績はそれだけで「頭のよさと努力の総合得点」なんだから、
努力の部分を二重に評価することはないじゃないか、なーんて。
「努力する人」の美点が成績意外にもあらわれることはわかってるけど。
そもそも、「教師」という一個人に、自分の受け持つ全ての生徒の「人格」に対する評価ができるの?
誰にであれ、私は自分の全人格を採点されたくはない。
すくなくとも、今の「学校」に全人格を判定するだけの権威はないぞ。
「これから教育をかえる」なんて意気込まれても、教師の人間性はかわってないのに
「聖職」みたいな権威だけをくっつけて、親や社会に盲信させようとしてるだけって気がするけど。
よく努力する、性格はいい、成績は非常に悪いって子を無理に高校大学におしこむ必要なんて無いじゃん。
本人がよっぽどそれを希望してるなら別だけど。
こう考えることを、「頭のよさで人を差別している」といいますか?
「高校大学いかない人間は半人前」なんて思ってるからそう見えるんじゃない?
高校には行ったけど、それ以降で学んだこと役立てたことのない人って、いるにはいるんじゃない?
人間には、高校行く以外の「すばらしい生き方」があるんだからさ、
「性格は良いけど学問に向くかどうかわからない」人を「性格が良いから」進学させなくってもさ。
たぶん、さくらかのえさんの文脈からはそれてしまったのですが、ごめんなさい。
Maria さんwrote:
>『「優等生」はいつも敵視され馬鹿にされいじめられる』といった「いい子」である苦痛は無視されてきたわけです。
「「優等生」の問題は挫折を知らないために人の痛みがわからないこと」だとか
言ってるひと、未だにいるよね。はじめから「歪んでるヤツ」扱い。
「いまの学校は「偏差値偏向」だから、出来る子はいい思いをしてる」
という妬みの混じった思いこみに迷惑している「優等生」も多いはずだ。
それだけでなく「偏差値だけでなくいろんな面をみましょう」ってことになると
「優等生」はとたんに「勉強できないけど面倒見がいい」というような子より
「人間的にもうひとつ」ということになってしまったりする。
「勉強できるだけではだめだ」と言われたり。
わたしは「偏差値教育」のもたらした最大の害悪は、
試験の点数だけで人格まで判断すること(これも十分悪いけど)よりも、
本来点数をつけるべきではないことにまで、序列や点数付けを
するようになってしまったことじゃないかと思います。
成績だけじゃなくて、「人間性」まで点数つけられるようになってしまった。
(なんだか何を言っているのか、自分でもわからなくなってきたぞ)
青りんご さんwrote:
>「これからは個性の時代」と懸命に「個性」を探す親子あり、
ここから考えてみました。(独り言っぽくなってしまった)
「個性」ってそもそも「探す」ものなのだろうか。
「個性」=「突出したところ」と思ってる人って多いですよね。
ほんとは、ひとりひとりの全体、その人を形作ってる
(生まれつきの部分も、あとから習得した部分も)ものの総体が「個性」なのに。
「個性」=「突出したところ」と考えてるから、
特に突出したところがなく、たまたま周りと同じ事をしている人は
「個性がない」と言われてしまう。
「個性的」だということで苛められる人もいれば、
「没個性的」ということでバカにされる人もいる。
あれこれ言ってる人たちはいったい何を求めているのか。
「個性」は誰でも持っている。「個性」がない人などいない。
「個性」を押し殺して枠にはめるのは息苦しいが、
「個性的」であることを強制されるのもまっぴらごめんだ。
所長 wrote:
>ついでながらこういったクォーター形式(手元の英和辞典によれば「宿営」だ
>そうである)の施設が存在する場所、それも都会といってよい場所に存在する
>例というのは世界的みてけっこう珍しいのではないかと思う(かつては『チャ
>ブ屋』と呼ばれておったという)。
えー、所長さんは大森総研の所長に復帰しました。なんでかっていうと、あのひと「所長」っていう重圧から解放されると何するかわかんないひとだから。
で、かしこさん、nanaさん、みるさん、オフ会ではうちの所長がいろいろとご迷惑をおかけしたと思います。お気を悪くされたらごめんなさい。あれはあれでうちの所長のキャラクターなんです。
それから、あたしの書いた本を受けとってくださったそうで、感謝しております。できれば感想とか聞かせてくれると嬉しいです。
でもって、こともあろうに「卓袱屋」についての調査結果だったりします。
「卓袱」と書くと、ふつう「しっぽく」と呼びます。これはもともと中国のテーブルのことで、「卓袱料理」というと、長崎で日本化した中華料理のことをいいます。で、落語の『時そば』に出てくる「しっぽく」というのは、ちょうどお蕎麦におでんを載せたような、「しっぽくうどん」の蕎麦バージョン、といったものだったようです。
とすると、「チャブ屋」というと「簡易な」みたいな意味があるのかと思っていたら、これは「chop house」といって、横浜や神戸にあった外国人船員相手の簡易食堂のことを言ったのだそうです。で、「いわゆる売春婦を置いた店が多い」と注釈にありました(「たほいや」の問題でこういうの出したら顰蹙だろうな)。
なお、この「卓袱屋」については、岩永文夫さんというひとが、『フーゾクの経済学 欲望蚕業の原価がわかる本』(KKベストセラーズ、ワニのNEW新書)で紹介しています。
……で、あたしがなんでこんなことを書いているかということなんですが、これは研究者としてのプライドの問題だったりするわけです。
『フーゾクの経済学』では、この「卓袱屋」を含めたショートのムニャムニャを、「チョイの間」と表現しています。
違ぁーう! 「チョイの間」ではなく、「チョンの間」なんです。その根拠に関しては、『「ばかちょん」起源考』(No.3569)を御参照ください。
で、日本国内には、
川崎・堀ノ内
横浜・黄金町
横須賀・安浦
町田・通称「田んぼ」
石川・片山津
京都・五条楽園
大阪・飛田新地
大阪・松島新地
沖縄・真栄原(新町)
といった場所があるそうです。
こういう場所の成立事情、みたいなものは、あまり系統的にまとめられたものがないと思います。文献リストなんていうものも、おそらく作成されてはいないと思います。
調べてみると面白いかな、と思いつつ、「ちょっとなぁ……」と思います。
誰か調べてみませんか?
……と、人に振ってしまったりする − Maria −
あさかぜ wrote:
>武田好史さん wrote:
>>
>> good enough mather (ほぼよい母親)という言葉がある。パーフェクトではなく、good enough な母であればよい、という気持ちで暮らすのが、望ましいストレス対策である。
>>
>> 息子さんは今きっと、自分の人生の岐路にたって周りが見えずに苦しいのだと思います。やはり僕自身も同じことで悩んでいます。このトンネルを抜けていくことで、子供は大人へと発展していくんだと思います。「こうであらねば・・・」よりも、「今日はここよくできたね!」という言葉の方が、きっと彼の活力源になるものと思います。
武田さん、励ましの言葉をありがとうごさいます。
武田さんのレスで、元気百倍!!
>わたし・・・マザーさんにひとこと謝りたくて。そしたら、武田さんのこのコメントを見つけてしまったものですから。
> うまくことばにできないです、まだ。去年「死んでやる、自殺してやる〜」と泣きわめいた娘に「あんたの気持ちはよくわかった。どうしても実行するときは、おかあさんに一声かけてくれ。そんときゃいっしょにいってやるから」って、言っちゃったんです。その場はそれでおさまったのですが、わたしは・・・自分の考えがいかに足りないか思い出してしまって。すみません。えらそうなこと言える人間じゃないんです。
>
> 武田さん、ありがとうございます。”ほぼよい母親”ってことばを心にきざんでおきます。(なぜか武田さんは学校の先生だと思いこんでいて・・・我ながら、あきれるほど周りが見えていない、あさかぜです。ごめんなさい)
あさかぜさんも、心温まるレスをありがとうございます。
私も”ほぼよい母親”ってことばを自分に言い聞かせ、少し肩の力を抜いてみます。
成人LDのくるとです。
武田好史さんwrote:
> あなたが、家の外で見かけた、「この人(子)ASかも・・・」と思った人の例には、どんなものがありますか?
第1はある特定の分野に極端にくわしい子を見かけた時ですね。例えば数学とか恐竜とか科学とか電車とか…
あと、わたしが参加しているボランティア先(LDが専門)で、電話帳や商品カタログに強い関心を示している子供を見かけました。この子はASのまちがいなん
じゃないかなという気がしています。
そんじゃ、また
みなさんこんばんは。
こんなことを喜ぶのは何なのですが、最近町を歩いていると、一週間に一度くらい、「もしかして同胞のASの子・・・?」というような風変わりな子を見かけます。
今月の始め頃には、地元のデパートの屋上で、紫のチューリップの花束を持った18くらいの女の子が、一人で楽しそうに踊ったり・なにやらしげしげと北の方の空を見つめたりしているのを、見かけました。
そこでみなさんに質問です!
あなたが、家の外で見かけた、「この人(子)ASかも・・・」と思った人の例には、どんなものがありますか?
Maria wrote:
> 「個性」と「偏差」って、別物なんです。「優等生」も個性だし、「変わり者」も個性なんですよね。ですから、「その子が生きやすいように、うまく世間と折合いをつける」ことのお手伝いをする、ということになると思います。
はい。それを視野にいれて育てていこうと思います。
ありがとうございました。
>
> 「方言礼讃」という立場はあたしも同じです。「地域性の尊重」ということだから。あたしが問題にしてるのは、「地方はよくて中央はダメ」みたいな「地方ナショナリズム」に基づいた、『手放しの「方言礼讃」』なんですよね。「地方」対「中央」っていう構図によって、「東京=中央」という判断がなされてしまって、「東京」だって「地方」なんだっていう視点が欠落しちゃってる人がいるんです。
そうです。お蔭で混乱が治まりました。
> 「東京人は冷たい」「東京もんはええかっこしい」。そう言われます。
> だけど、東京くらいよそものに優しい土地はないように思います。
>
> だからこんなに大きくなっちゃったんだけどね。 − Maria −
雑多でスピード感があって優しい東京が好きですよ。
橋を渡ると、そこは埼玉(笑)東京暮らしが21年目の青りんごでした。
青りんごさんwrote:
>「あるいて(歩いて)」を「あるって」と言うのも「東京方言」なんでしょうか?
だと思います。「まっつぐ(真直ぐ)」「とっつき(入口)」「ぶつかる(行き当る)」なんかもよく使います。「この道をまっつぐ行ってぶつかったら右ぃ曲がって、左っかたの最初の路地ぃ入ったら、とっつきの左っかたが棟梁(とうりゅう)ん家(ち)」みたいな感じです。
>「これからは個性の時代」と懸命に「個性」を探す親子あり、「個性的すぎて」
>懸命に「枠」におさめようとする親子あり・・。
>たまったもんじゃありません。母はどうすればいいの??
「個性」と「偏差」って、別物なんです。「優等生」も個性だし、「変わり者」も個性なんですよね。ですから、「その子が生きやすいように、うまく世間と折合いをつける」ことのお手伝いをする、ということになると思います。
I wrote:
>そんなわけで、東京生まれで東京育ちの優等生としては、「方言」という個性を
>尊重しつつも、手放しの「方言礼讃」に対しては、ちょっと屈折した感情を抱か
>ざるを得ないのだな。
>「方言礼讃」じゃないですよー。
「方言礼讃」という立場はあたしも同じです。「地域性の尊重」ということだから。あたしが問題にしてるのは、「地方はよくて中央はダメ」みたいな「地方ナショナリズム」に基づいた、『手放しの「方言礼讃」』なんですよね。「地方」対「中央」っていう構図によって、「東京=中央」という判断がなされてしまって、「東京」だって「地方」なんだっていう視点が欠落しちゃってる人がいるんです。「東京の人間」だって、「地方」の出身者なんです。
そもそも、明治の中央政府というのは、薩摩・長州の出身者で固められていました。明治天皇は京都の人です。江戸っ子で幕臣だった勝海舟は、明治政府には参加せずに隠遁生活を続けていました。
明治以降の東京の人というのは、ずっと「遠慮」しながら生きてきたんです。「江戸っ子」なんていうのは、講談や落語の中にしか存在しません。
「漱石には千円札がよく似合う」と言ったひとがいました。『三四郎』他の漱石の作品には「『地方の人間』から見た『東京人』に対する警戒心や敵愾心」みたいなものがしばしば描かれています。ですが、漱石自身は東京人だったんですね。「自分」を描くんじゃなくて、「自分に向けられた視線」を描くことで間接的に「自分」を描く。東京人にはそうした屈折した感情があります。
元から住んでいる人間が少数派。で、「元から住んでいる」自分も、元はよそもの。
「東京人は冷たい」「東京もんはええかっこしい」。そう言われます。
だけど、東京くらいよそものに優しい土地はないように思います。
だからこんなに大きくなっちゃったんだけどね。 − Maria −
Maria wrote:
> 「標準語」=「東京のことば」だという根強い偏見があります。
>
> ところが、「東京方言」というものが、確かに存在するんです。
> たとえば、「鮭(さけ)」を「しゃけ」と呼んでみたり、「蠅帳(はえちょう)」を「はいちょう」と呼んでみたりします。「潮干狩り(しおひがり)」は、「ひよしがり」、「品質(ひんしつ)」は「しんしつ」です。
「あるいて(歩いて)」を「あるって」と言うのも「東京方言」なんでしょうか?
>
> 現在は、「まじめ」な人間が馬鹿にされる時代です。で、大人たちは子供から刃物を取り上げておきながら、「最近の子供はナイフで鉛筆を削ることもできない」とかいって馬鹿にし、勉強に追い立てておいて「最近の子供は泥まみれになって遊ぶ楽しさを知らない」とかいって馬鹿にするんです。
>
> そりゃあなた切れますよ。子供は産業用ロボットじゃないんだから。
「これからは個性の時代」と懸命に「個性」を探す親子あり、「個性的すぎて」懸命に「枠」におさめようとする親子あり・・。
たまったもんじゃありません。母はどうすればいいの??
> そんなわけで、東京生まれで東京育ちの優等生としては、「方言」という個性を尊重しつつも、手放しの「方言礼讃」に対しては、ちょっと屈折した感情を抱かざるを得ないのだな。
「方言礼讃」じゃないですよー。
たまたま「東京弁」に接触する機会が少ないだけだと思います。
生粋の東京人は、いそうでいない。
(私の周囲に地方出身者が多いだけ?)
>
> 「面(つら)」(平らになったところ)とか「当(あ)たる」(接触する/感触を確かめる/(本質に踏みこまない)表面的な接触をする)とか、「倣(なら)う」(意味を理解する以前に、形だけ真似る/形から入る。「前へならえ」の「ならう」)とか、大森にもいい言葉はいっぱいあるんだぞ。
>
> 今日はちょっと「東京人代表」みたいな気分になっている Maria
「東京」の「方言」もたくさん浴びれば好きになると思います。
「東京弁」もたくさん聞いてみたいです。
(あらら?これじゃあ、やっぱり方言礼讃ってことかしら???)
混乱する青りんごでした。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami