アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
bauさん wrote:
>こんにちは、bauです。
>説明といいわけの違いって何でしょう。
>私は「説明」したつもりでも、相手は「言い訳」だと思っていることって過去にたくさんあるような気がしました。
相手がこちらに理由のある事で本当に困っていることをちゃんと意識して、
問題をとくための建設的な話にすすめられれば説明。
相手の、こちらへの不満・怒りetcだけをとくために話す内容は、いいわけ。
だから、むこうがこっちにやつあたりしてる場合は
どんなに誠意込めたって相手にしてみれば「いいわけ」にしか聞こえないでしょう。
むこうが「建設的であること」をもとめてないんだからさ。とにかくこちらを責めたくてって場合は。
相手に「いいわけ」っていわれても、気にすることないよ。
話を利く耳のない人には、誠意を汲み取ろうという意識のない人には、
何を言ってもいいわけでしかないんだから。
今日はやさぐれモードだなあ……って、いつもか。
bauさん wrote:
>「説明」と「言い訳」の違いって何でしょう。
それって、「事情」と「都合」の差みたいなもんじゃないですか?
「こちらにも事情というものがございまして……」
「それはそっちの都合だろう!」
とか、
「ですから、説明させてくださいよ。」
「言い訳なら聞かんぞ。」
とか。
つまり、
「公(おおやけ)」のものが「事情」や「説明」で、
「私(わたくし)」のものが「都合」や「言い訳」。
こういうことなんじゃないでしょうか。
ちょっと立ち直ってる − Maria −
こんにちは、bauです。
説明といいわけの違いって何でしょう。
私は「説明」したつもりでも、相手は「言い訳」だと思っていることって過去にたくさんあるような気がしました。
今後「説明」の機会が増えそうなので、この違いについて知りたいです。
考えたのは、
自分に何か欠点や短所があって、それをわかりやすく解説して、相手にアクションを依頼もしくは、自分が代わりにできることを表明できたら「説明」。
解説にとどまっていたら、それは「言い訳」だと言われる。
それに相手の主観が加わる。
みなさんはどう思われますか?
新年度ということで周囲の人間関係が一変してしまいました。
いままで散々人間関係で「痛い目」に遭ってきた私としてシンドイ季節。
(PTAって辛いのよ〜。)
『来る者は、よくよく吟味し、去る者は追わず』
今年もコレで乗り切ろう。
優しい人は大歓迎 青りんご
Maria wrote:
> 朝の九時から十二時間以上。
>
> あたしはひとりぼっちだ。しくしく。
>
> − Maria −
僕はこの先どうやって生きていったらよいか、全くわからん!今年29来年30
どんどん歳だけはとっていく・・・
本来は60ぐらいで感じることを、今ありありと感じるのは、世の中の進歩にもうついていけなくなったから?鬱状態だから?
今一番欲しいのは、仲間と一緒にのんびりと悠々自適に暮らせる場所。
けど、みんないろんなしがらみがあるから、きっとこんなこと無理・無理・無理
でも、本当にあるといいな。
アスペルガー共和国・ジャングリラ・イーハトーブ・レスデテン・・・・・・・
それでも世界中のの法律が、こんな国の存在認めない・・・
それでも、あるといいよな・・・
Maria wrote:
> 朝の九時から十二時間以上。
>
> あたしはひとりぼっちだ。しくしく。
>
> − Maria −
あたしだって、しくしくしく。 青りんご
Mariaさん wrote:
> 朝の九時から十二時間以上。
>
> あたしはひとりぼっちだ。しくしく。
よし、よし。
ゴールデンウィークだし、こういうときもあるよ。
朝の九時から十二時間以上。
あたしはひとりぼっちだ。しくしく。
− Maria −
(今から十年以上まえ、学会のニューズレターに掲載された所長さんの文章です)
「日本語応用形態素解析研究団体設立のためのアジビラ」
私のよく知っている草の根BBSに「雑魚亭」という研究的な性格の強いネットがあり、自作派のネットワーカ等が何人か出入りしている。そこのオーナ兼システムオペレータの通称「所長」氏は、年中環境問題だの教育問題だので気炎を上げている「怒れるプログラマ」である。先日も、「現在のかな漢字変換アルゴリズムを陳腐化するような国語学上の大発見をしたぞ」「私は企業の日本語処理技術の独占と戦い日本語機械処理革命の捨て石となるのだ」とかいってアジビラを配付していた。
彼は誇大妄想の気はあるもののプログラマとしては実力派であり、彼が言うところの「大発見」というのも日本語の付属語の結合規則に関するものであってオリジナリティはともかく実用的価値は高い。試作品というプログラムも見たが、普通のパソコンが結構な性能で形態素解析をもりもり行なっている様は、漢字かな混じり文の機械処理の苦労を知っている者にはかなりの衝撃を与えるものであった。こうなると与太や冗談では済まない。ぜひともノウハウを公開して普及させてもらいたい。
ただし彼は企業の人間であるから、一応は会社の利益というものを考える必要があってノウハウの「無制限の」全面公開は難しい。国語学上の発見であるから、特許化や著作権による保護が可能だとしてもそれをすると周囲が非常に迷惑する。たとえば「四段・上一段・下一段」といった活用や「未然・連用・終止・連体」といった活用形の分類を「動詞の活用を処理するための表現技法」だとして法的に囲いこんだらどういうことになるか想像していただきたい。
彼の基本的な立場は「公共的な立場で日本語の処理技術および技術者を養成してゆきたいが、ノウハウを公開した結果競合する他者製品がのさばってきて会社がコケちゃっても困るのよ(^_^;)」といったところらしい。本来は各大学・ICOT・電総研といった公共機関で日本語の機械処理をしておられる研究者のような利害関係のない方を対象としたアジテーションなのだが、日本語処理に同じような立場で取り組もうという方であれば(いわゆる日本語のアマチュア研究者のような方でも)素養経験年令生別を問わず御一報をいただければ個人的に紹介の労を取るつもりである。
以下に、アジビラを著者の許可を得て紹介する。
そもそも我が国においては日本語ワープロ専用機を含めた多数の電算機から「機械可読な漢字かな混じりテキスト」という形で日本語のデータが日々大量に生産されているのであるが、これを電算機上で再加工ないし再利用しようと思うにきわめて貧弱な手段しか存在しないのである。
翻って英語圏では、スペルチェック、自動ハイフネーション、文体チェック、自然言語インタフェース(英語によるデータベースへの問合せ等)等がパーソナルコンピュータ上で利用可能である。機械翻訳系でも「英→日」に比して「日→英」は少ない。現状において、「漢字かな混じりテキスト」というのは情報処理におけるデータの「どんづまり」なのである。
かかる現状が言霊の幸ふ国のうるわしき「やまとことば」に対して「日本語は不合理であり非論理的だ」等の国辱的発言をも生む原因となっている。日本人としては真にもって無念至極である。
では、日本語の機械処理が英語の如くには実用水準に達していない理由は何なのであろうか。現在程の電算機の性能があればかえって漢字の多さは同音異義語の区別に貢献し、入力方式の差は技術的に吸収でき、表記の問題も日本語は外国語に学びつつ合理的な表記体系を千年以上にわたって培ってきた歴史を持つ世界でも珍しい言語であるし、日常の使用感からいうと非論理的でもなく非実用的な言語でもなさそうである。しからば理由は何なのであろうか。
日本語の機械処理を阻んできたのは実に日本語の構文法の遅れである。要は形態書解析のレベルで頓挫していたのである。「うつくしゅうございます」が「欝句集ございます」になり「かった」が「書った」になり「しんじゃった」が「新じゃった」になっているようでは構文解析どころではないのである。実用的な形態素解析の技術があれば、英語の構文解析の技術のほとんどが適用可能であり、当然英語圏にあるような自然言語処理系も作成可能になり、国語辞典も電子化されて作成も検索も容易になり、「漢字かな混じりテキスト」は宝の山と化し、電算機は日本語を喋り、ワープロの誤変換は減り、敬語で悩むことも少なくなり、文体分析や文法分析による作者および年代推定という分野が実用水準に達し、沖縄首里方言と東京弁と津軽弁は相互に変換可能となり、学校教育における日本語文法教育は変わり、日本人の英語コンプレックスはかなり軽くなるはずなのである。
ここでの前提は、「実用的な形態素解析の技術があれば」である。
「機械可読な漢字かな混じりテキスト」(早い話が某社の「えむえす何とか」の「標準ファイル」とかいう奴だな)を入力とし、市販のパーソナル・コンピュータ程度の機械(早い話が某N社の「何とか98」とかいった奴だな)で実現可能、辞書は数百KB程度、処理速度は人間が対話的に補助してワープロでの入力速度よりも十進ひと桁以上は速く、ほとんど言語を問わずにインプリメントが可能で、しかも相当にいい加減なインプリメントをしても実用的な変換効率(市販の「かな漢字変換」よりあきらかに上)で「構文要素の並び」を生成する技術があれば上記の夢が夢でなくなる可能性が出てくる。
今、我々は強力なる武器を手にしたことを高らかに宣言する。数ある「何とか文法」の中でも特にローカルな「総研文法」という日本語文法があり、それによれば日本語に内在する幾つかのあまり知られていない法則を利用すると、上記の仕様をみたすシステムは作成可能なのである。現在、この文法に基づいて実際に日本語構文解析系「JAI-Parser(はいぱーざ)」を作成中である。
たとえば、以下の実行例。
User> 吉野が近うございまして桜が美しゅうございますが行きとうございましょうか。
JAIP> [名:吉野] [強調助:が] [形容:近い] [動:ござる] [助動:ます] [名:桜] [強調助:が] [形容:美しい] [動:ござる] [助動:ます] [接続:が] [動:行く][形形態素:たい] [動:ござる] [助動:ます] [接続:か] [。]
User> 書かせられたがらなかったでしょう。
JAIP> [動:書く] [動形態素:ase] [動形態素:rare] [形形態素:たい] [動形態素:gar][形形態素:ない] [助動:かる][助動:です] [。]
User> 書かされたがらなかったでしょう。
JAIP> [動:書かす] [動形態素:are] [形形態素:たい] [動形態素:gar][形形態素:ない] [ 助動:かる] [助動:です] [。]
あまり例ばかり上げても紙面を喰うのでこの辺にて切るが、サポートする表現はかなり広い。応答はほとんど一瞬である。しかし、真の実力はまだこんなものではない。こいつは「相当いい加減なインプリメント」にもかかわらず、「見れる」「出れる」等の表現をはね、省略された体言があれば警告を発し、送りがなの表記のゆらぎに文句をつけ、「です」「ます」を含む敬語表現をチェックし、「書いてたんだ」を「書いていたのです」に、「困っちゃう」を「困ってしまう」に自動変換し、「書かす」を「書く」からの派生とみるか独立の語として立てるかの選択を迫るのである。最近では現代口語のみならず文語まで押えこみつつある。(註:「入れない」が「いれない」か「はいれない」のどちらかとか「歩いてきました」が「歩いてゆきました」か「歩いて来ました」のどちらかとかいった、構文レベルでは本質的に解決できない部分が最近は目について困るという)
自慢話や宣伝に使う紙面はない。話はさらに続いて本題に戻る。
残念ながら武器を手にしたとはいえ我々の前途は決して平坦ではなく、同志も多くはない。「かな漢字変換はブラックアートである」と言った御仁がいたが、応用という側面ではほとんどの日本語処理は企業のノウハウ程度の認識で国語学・国文法・言語学等とほとんど無縁であったために、「文学・国語学・言語学に精通したプログラマ」などという人材は盲亀の浮木優曇華の花ここで遭ったが百年目という程度に少ないのである。
建築における「構造と数値計算に精通したプログラマ」や工学における「技術や素材と情報処理に精通したプログラマ」等は産業としての建築や工学があるだけに金の草鞋でも履いて探せばまだ見つかる。しかし、「国文法と電算機」が出会う機会となると、「整数論と電算機」「数学基礎論と電算機」の組合せのそれよりもさらに少なく、さらにその貴重なる人材は面白そうな意味論や構文解析や機械英文和訳系方面に去ってしまい、「日本語の形態素解析と電算機」となるとミシンと蝙蝠傘が解剖台の上で偶然に出会うくらいの確率しか期待できないのが現状である。
応用レベルの日本語の形態素解析は未開の分野であり、しかもべらぼうに広い。かな漢字変換系の作成、データベースの日本語インタフェース、漢字かな混じり文による対話プログラム、日本語処理向き言語の開発、各種構文解析手法の日本語における検証、発音の研究、漢字かな混じり文の読上げ、日本語の文法の整理と整合性の検証等、パーソナルコンピュータでもできる分野だけでもどんどん思いつく。しかしながら想い描く夢の数々に比べ我々の力は微々たるものであり、まして国から金が出るでもなく企業から人が出るでもない(出るというなら遠慮なく頂戴しますが)。
しかし、金は出ずとも日本語ブームの昨今であるから商売抜きでも面白そうだと想う方々もいないとは限らない。頭数が揃えばそこそこ成果も上がるであろうし、面白い結果でも出れば「もっとやれ」とお捻りの二つや三つは飛んでくるかもしれない。
聞け心ある人々よ、日本語応用形態素解析の新天地に赴いて共に「誤変換が多かったり辞書がでかかったり変換がトロかったりするかな漢字変換のFEP」や「文字飾り等は豊富だが肝心の日本語機能が弱く、こっちはいちいち読みを入力しているのにルビも満足に振れない日本語ワープロ」といった敵を討ち滅ぼし、日本語機械処理の若き人材を育て、王道楽土(日本語のハイパーテキスト化)を築こうではないか。
(日本コンピュータ・ソフトウェア科学会・ニューズレター 九十年七月十五日)
(以下に掲げるのは、国語学者による、現在も中学校で教えられている「学校文法」を批判する文章です。御参考までに)
不幸な学問
文法という学問は今日の日本では不幸な状態にあると思う。文法を組織的に学ぶのは中学校あるいは高等学校からだろうが、そこで国語を教える先生に、文法の好きな人が非常に少ない。一般に国語の先生は文学が好きで語学は好きでない。ことに文法は好きでない。それは先生が文法をよく習っていないせいかもしれない。私の経験でも、大学の国文学科の三年間に、ついに文法の講議はなかった。文法の学問を習っていなくては、教壇に立ってよく教えることができるはずがない。せいぜい自分が受験のときに覚えた知識、たとえば動詞が「か・き・く・く・け・け」と変化するとか、「け・け・く・くる・くれ・けよ」と変化するとか、その程度の知識で文法を教えようとする。それではうまくいかない。文法は断片的な知識ではなく、一貫した体系・組織なので、一度はしっかりと根本から学ぶ必要がある。ところが、好きでない先生には、それを自分で勉強しようとする意欲があまりない。教える人がわからないままで教壇に立つ。その授業が生徒に面白いはずがない。まず第一にそういうことがある。
第二に、もし文法が好きな先生がいたとしても、実は日本語の文法の学問がまだ整っていないという事情がある。日本語の性格はヨーロッパの言語と非常にちがう。単語が違うのは当然としても、文法的な仕組みがちがう。日本語と同じような文法の仕組みをもっている言語は、朝鮮語、満州語、蒙古語、トルコ語とか、ハンガリー語、フィンランド語などである。けれども、これらの言語の精密な研究を通して、これらの言語との比較文法論を確立し、それによって日本文法を考え直すといった研究は未だ誕生していない。ヨーロッパ語の文法を学んだ人々が、ヨーロッパ語の目で見て日本語の文法を組織立てることが多かった。ところが、ヨーロッパの言語の文法によってそれとは性格の異なる日本語の文法の大事なところを見ぬくことは、きわめて困難なのである。それならどうすればよいか。自分で自分の言語の文法を考えて組織立てていく以外に方法がない。
(中略)
もちろん、日本で自分たちの言語の文法を見極めようとする努力をした人が、明治時代以来なかったわけではない。ただ、全体として数が多くない。研究がいろいろな分野にわたらなければならないのに、その必要にくらべて文法学者は少なかった。その結果、学問がまだ十分に整っていないところがある。
(中略)
それに、ドイツ語やらフランス語やら英語やらのヨーロッパの言語を勉強した先生たちは、しばしば日本語は非文法的な言語であるという。あるいは日本語は非文法的な言語なのかもしれないと疑わしくなってくる。しかし、そうした疑問を抱くと同時に、それに対して私の心の中には「日本語には日本語としての仕組みがあるのではないか」という考えが消えなかった。それならば、日本語の日本語らしい仕組みとは何なのか。それを明らかに知りたいというのが、私の出発点だった。
大野晋『日本語の文法を考える』 (岩波新書)
+ + + + + + + + + +
(前略)現在、中学校でも高校でも、文法の指導が特設されていて、いわゆる学校文法なるものがおしえられているのだが、この学校文法なるものは、まったく支離滅裂なしろものであって、とても、科学的・体系的なことばのきまりの教育などとよべるようなものではない。したがって、学校文法をたたきこまれた子供たちが、いちように、文法ギライの状態においこまれてしまっているのも、もっともなことである。
鈴木康之『日本語文法の基礎』
+ + + + + + + + + +
学校文法の活用表
(前略)
(i)第一は、活用形の認定、定義、命名が無原則で一貫性がないということであろう。
「同じ動詞が、文中での使い方によって」あるいは「次へのつながりかたによって規則的に形をかえること」というけれども、では
(a)変わる形の一つ一つを一つの活用形とし、その「使い方」(少なくともその代表的な使い方)に着目してその活用形を「何々形」と名付けるのか、
(b) 同じ形でも使い方が違えば違う活用形と見るのか、あるいは逆に
(c) 前項とは逆に、形は違っていても「使い方」が同じと認められれば同じ活用とするのか。
「書く」を「終止形」、「書け」を命令形とするのは、(a)の原則によるもので、これは誰にも分かりやすい。
しかし、「書ケ」が「バ」につづいて「書ケバ」となって「仮定形」と呼ぶというのなら、「書カ」は「ナイ」につづいて「書カナイ」となって「打消」を表すのだから「打消形」というべきであり、同じ理屈で「受身形」「使役形」というべきだ、ということにならないだろうか。
「書コ」を「推量の助動詞」「ウ」につづく形であるから(あるけれども(?))やはり「未然形」とするというのは、なおいっそう理解しがたいだろう。
以上あげたような無原則な、首尾一貫しない活用語尾の特徴づけをもたらした根本的な原因は、文緒文法が文語の事実に即して作りあげた活用表を、ほとんどそのまま現代後の形の整理に押しつけようとしたところにあるといってよいだろう。「書コ」を未然形とするというのが最も端的な現れである。一方で、行と段によって活用語尾を何行何段としながら、「(書)カ、キ、ク、ケ、コ」と並べず、「(書)カ」と「(書)コ」を同じ「未然形」の枠の中に入れるのは、文語で推量の「ム」につづく形が「(書)カ」であったからというだけの理由である。書カム→書カウ→書コウという歴史的変化は無視し、推量の「ウ」につづく「(書)コ」は「ウ」が「ム」であったときに「(書)カ」という形であったから、というわけである。これはしかし、まだ「行」が同じだから、カ行内のことであるが、同じように、「接続詞テ」「過去(完了)の助動詞タ」につづく「(書)イ」という形が「もと 」「マス」や「ナガラ」につづく連用形「(書)キ」と同じ形であったから、同じ連用形の枠に入れるとなると、ア行の形がカ行の形に入り込んでくることになる。それに「ッ」や「ン」が加わって、いっそう混乱に輪をかけ、そもそも「何行何段」という言い方自体が現実と合わない事態になっているのである。これでは、日本の歴史を教えているのか、「現代の日本語の仕組みをはっきりと把握させ」ようとしているのか分からなくなってしまう。日本人の子弟を対象にするいわゆる国語教育でも、外国語として学習する人々を対象とするいわゆる日本語教育でも、上のような無原則さは許されてよいわけがない。
(中略)
(ii)無原則ということと同様に重大な欠点は、多くの説明に事実に合わない点があることである。
(中略)
(iii)学校文法の活用表は、上述のように原則の不統一や事実に合わない説明が致命的な欠陥であると思われるが、そのほかに、やはり文語文法の枠に固執するところからくる余分な、現代語の活用の記述にとっては意味がなく不必要と思われる点もいくつかある。
(中略)
以上のように見てくると、現在日本の中等教育で教えられている現代口語の活用表が、いかに矛盾に満ちた牽強付会のものであるかを改めて思わずにはおられない。先にも記したように、その矛盾、不合理は、要するに、過去の日本語の事実を説明すべく編み出された文法、活用記述の枠組みに、その日本語が変化したのちにも執着し、学習者に押しつけようとしたところから来ている。古文が好きだという中学生や高校生でも、現代国語の文法に全く知的興味を感じないというのも無理からぬことであると思われる。
寺村秀夫『日本語のシンタクスと文法』
武田好史さん wrote:
> 理科も危機的ですが、最近は語学の教育も危機的だろうと思います。
(中略)
> なおASなどのコミュニケーション障害の子供に、どのような言語スキル
>向上のプログラムを組むのかも、彼らが有意義な社会参加をしていくために、
>よく吟味しなくてはなりません。
>これらの点に関して、みなさんの意見をお待ちしています。
1)文法、音読、論述の指導を徹底すること。
2)英語の日常表現よりも、英単語の中に含まれるギリシャ語・ラテン語の要素についてくわしく教えること。
文法については、「文と述語(final verb)」について、ちゃんとした指導を行なうこと。ただし、現在の学校文法は、この「述語」についてちゃんと説明できていません。
日本語にはふたつの文型があります。
「我輩は猫である」のような、「AはBです」型の文。
「上を向いて歩こう」のような、「動詞終わり」の文。
すべての文はこの二つのどちらかの形をしている、ということを知っておかないと、和文英訳ができません。たとえば、「象は鼻が長い」は、「象は長い鼻の動物です」の形に直してやらないと、うまく訳せません。
「象は鼻が長い(和文)」→「象は長い鼻を持つ(英文)」みたいなパターンを知り尽くした上での翻訳は、習得がたいへんな上に、英語以外の言語に適用するのが困難で、一般性に欠けます。
音読は、「読解」の能力の向上にも役立ちます。
「これはピカソですか?」「これはゴッホです。」
と、
「これもゴッホですよね?」「これはゴッホです。」
では、「これはゴッホです。」の発音に違いが出てきます。つまり、
「これはピカソですか?」「これは<ゴッホ>です。」
「これもゴッホですよね?」「<これ>はゴッホです。」
みたいな差があるわけです。こういう部分を丁寧に指導してゆくといったケアが、いまの学校教育には欠けています。
また、日本の学校では、作文というと「感想文」に偏りがちですが、「論述文」のほうが日常の中では重要です。「感想」と「事実」をちゃんと区別するのは大事なことですし、「相手にわかりやすく書く」ということで、コミュニケーション能力の向上も期待できます。
また、ギリシャ語・ラテン語はヨーロッパの学術の基礎になっており、その要素はあらゆるヨーロッパ系言語にほぼ共通に現れ、漢字・漢文との関連で日本人にはなじみやすいという利点があります。
「米語における言い回し」や「会話の流暢さ」で日本人がアメリカ人と対抗するのはどう考えても無茶ですが、語彙の豊富さに関していえば、平均的なアメリカ人は日本人から見ると、「そこいらを歩いている頭の悪そうなガキ」程度の水準です。
− Maria −
さくらかのえさん wrote:
>「枕草子」では、テーマを決めて、いろんなものの魅力をあげているのが好き。
鶴は、
いとこちたきさまなれど、
鳴く声の雲居まで
聞ゆる、いとめでたし。
頭赤き雀。
斑鳩(いかるが)の雄鳥。
たくみ鳥。
〜39段「鳥は」より
私も、雀の頭の、赤くて「つるっ」と光っているところが好きです。
妹に聞いてみたら 、「雀は "ほっぺ" だ!」って反論されました。(^_^;
清少納言は、いろんなものに魅力を感じることのできる人です。
しかも、かなり「あぶない」ところがあります。
七月ばかりに、
風いたう吹きて、雨など騒がしき日、
おほかたいと涼しければ、扇もうち忘れたるに、
汗の香すこしかかへたる綿衣の
薄きを、いとよくひき着て、昼寝したるこそ、
をかしけれ。
〜41段「七月ばかりに、風いたう吹きて」
彼女は、汗のにおいに、「くらくらっ」とくる人です。
これは、けっこう、よくでてきます。
さやうなるに、牛の 鞦(しりがひ)の香の、なほ
あやしう、嗅ぎ知らぬものなれど、をかしきこそ、
もの狂ほしけれ。
〜207段「いみじう暑き頃」より
(私の訳)
そんな、牛の尻ひものにおいが、
なんといっても下品な嗅ぎ慣れないにおいなのに、
いい感じがするのも、気が狂っちゃってる。
私は、彼女のそんなところも、大好きです。
#あと、個人的に「枕草子」が好きなところは、
#この本が、「ランダムアクセス」可能な本だということ。
#
#好きなところをつまみ食いして楽しめるのが、気に入ってます。
>今、手元に本がないので正確に書けませんが、
>かわいいものはこれこれとか。
>楽しいことを見つけるのが上手かったと思います。
枕草子のテキストで「おすすめ」のやつは、
新潮日本古典集成「枕草子」(上・下)
校注:萩谷朴、新潮社(1977)
です。原文と現代語訳も載ってます。
メモ:「枕草子」web版(100段「中納言まゐりたまひて」まであります)
http://www.wao.or.jp/naniuji/koten/makurano.htm
ぴよ さんwrote:
わたしも清少納言は好きです。
知識があるのを自慢していたわけじゃなくて、
実際にいろいろ知っているのを隠さなかっただけではないかと
思います。
「枕草子」では、テーマを決めて、いろんなものの魅力をあげているのが好き。
今、手元に本がないので正確に書けませんが、
かわいいものはこれこれとか。
楽しいことを見つけるのが上手かったと思います。
大槻いつきさん wrote:
>男性では、「自分がそう感じたんだ!」ってことだけを根拠に、あれだけ自信を
>持った意見は書けないような。
I wrote in 『Re:Re: 質問・「あなた」は誰ですか? 』(No.4075):
> そんなわけで私は言います。ヤなもんはヤだしいいものはいい。そして正しい
>ことは正しいし、間違ってることは間違ってる。
そーそー。うち(大森総研)でも、こういうこと言えるのってあたしだけだもん。
大槻いつきさん wrote:
>それと、男がわざわざペンネーム使って書くのは、もっと叙情的で「男がこんな
>こと言うの恥ずかしいぜっ!」って文章なのでは。
うん、あるある。本音言えるところってあると思う。
>ま、性別に関係なく「どこにも存在しない人物」を創作してそいつにものをいわ
>せることで、批判をうけることなく好き勝手書きたかった、ってのはあるかもし
>れない。
一言もありませぬ。へこへこ。(←頭を下げている)
>紫式部日記だかなんだかに、清少納言に関する批判的な言葉があったと思うけど。
>「清少納言は『私(当時女性が覚えるものではなかった)漢字をいっぱい知って
>るのよ』なんて才女ぶってるくせに、そういって書き散らした漢字は結構まちがっ
>てるんです。
>女の人は、一という漢字も読めませんって顔をしてればよろしいのに」というよ
>うな話。
あたしは「女はバカで可愛いければいい」という風潮は間違ってると思うぞ。それに、パートナーの女性を成長させない男はバカだと思うし。
それに、「開発する」「開発される」っていう関係って、かなり「おいしい」関係だし。(『ふたりで聖書を』は、そういうところを描いてみました。まる)
>ところでJOSHYAさん、『ふたりで聖書を』読みました。
>あれ、女の人が書いた小説だと思いたかったなぁ。
と、いうことは、いくらか気にいっていただけたのだと思って嬉しく思っています。ありがとうございました。ぺこぺこ。(←また頭を下げている)
あの小説は、取材に協力してくれた……というか、今まで知りあった女性のみなさんの「思い」みたいなものを形にしたもので、あたしは「代筆」してるつもりで書いていたところがありました。あの原稿には二人の女性編集者に目を通していただき、ご意見をいただきました。ですから……まあ、何割かは「女性が書いた」小説だと……思っていただけません?
ついでながら、主人公の納屋さんは男性にはあんまり評判がよくなくて、女性には妙に評判がいいという、ミステリーの主人公としては、ちょっと例のないキャラになっています。いわゆる天才肌の探偵というのは、だいたい女性の気持ちをわかってないか、女性に冷たいタイプが多いんですね。ああいう「愛情べったり」の優しいキャラで、しかもハードボイルド系(ぜんぜんそうは見えないけど)というのは、けっこう女性読者に人気出そうな気がしてます。
できれば感想などお聞かせいただければ、うれしく思います。
Maria こと蘇好美
理科も危機的ですが、最近は語学の教育も危機的だろうと思います。
最近では、グローバル化に対応できるような人材を育てようということで、まだ我が国の言葉すなわち日本語を十分にマスターしていない子供を、英語漬けにしている親御さんがいます。
また、本来は国語というものは、対話とか表現力・多角的な分析力が重視されるべきなのに、どうも受験という目的のための画一的な回答を作ることに終始しているようです。
さらに最近では、南米のスペイン語圏.ポルトガル語圏・アジアの国々から多くの人たちが日本に来ていて、とどのつまり英語だけでは、十分なコミュニケションを取るのが難しくなってきています。会話ができるというより、これらの言語について、「ありがとう」「こんにちは」「ごめんなさい」くらいの基本的な知識はやはり判っていた方が無難といえるでしょう。国内の問題としては、これと同様のことが、ろう者の言語である手話にたいしてもあてはまるでしょう。
なおASなどのコミュニケーション障害の子供に、どのような言語スキル向上のプログラムを組むのかも、彼らが有意義な社会参加をしていくために、よく吟味しなくてはなりません。
これらの点に関して、みなさんの意見をお待ちしています。
理科の教育の問題は、教科書内容だけではなく、実験器材の不足もあると思います。
学校での理科の実験では、5人に1セットの実験道具しか渡されません。私のような、人と協調して作業を進めるのが苦手な人間には、満足な教育環境ではありませんでした。
「テストの点がよくても、実験に積極的でない人には良い成績はあげられないよ。」と、理科の先生によく言われました。成績の問題よりも、実験に興味があっても、参加できない自分が情けなくて、実験の授業は憂鬱でした。
もし1人に1セットの器材があれば、もっと理科に興味が持てたと思います。
大槻いつきさん wrote:
>紫式部日記だかなんだかに、清少納言に関する批判的な言葉があったと思うけど。
>「清少納言は『私(当時女性が覚えるものではなかった)漢字をいっぱい知ってるのよ』なんて才女ぶってるくせに、
>そういって書き散らした漢字は結構まちがってるんです。
>女の人は、一という漢字も読めませんって顔をしてればよろしいのに」
>というような話。
これなんですけど、私は、こんなふうに考えています。
清少納言は、裏表のない、嘘をつけない性格だった。
清少納言は、実際に、ものすごい知識を持っている才女だから、
正直に、「私は漢字をいっぱい知っている」といっていた。
でも、おっちょこちょいなところがあって、
漢字をよくまちがえるんだけど、そんなこと気にしない。
「男の人だから、女の人だから」という意識がなくって、
自分の思ったことをストレートに出していた。
私は、彼女のことは、とても魅力的な人間だと思っています。
ぴよさん wrote:
>Mariaさん wrote:
>>(ふと思ってしまった。清少納言って本当に女だったのかな。男性のペンネームだっていう可能性ってありそうに思うけど。)
>
>わたしは、清少納言のセックスは女性で正しかったと思います。
>ジェンダーがどうだったかは、別の話ですが…。
あそこまではっきりと物を言うのは、逆に女性の感覚ですよね。
男性では、「自分がそう感じたんだ!」ってことだけを根拠に、あれだけ自信を持った意見は書けないような。
それと、男がわざわざペンネーム使って書くのは、もっと叙情的で「男がこんなこと言うの恥ずかしいぜっ!」って文章なのでは。
紀貫之が土佐日記を女性として書いたのは、(当時男が使わないとされた)かなを使った文学を書きたかったからですよね。
枕草紙は、漢文で書いても内容かわらなそうだもん。
「女が書いたことにしときたい」って必要がない。
ま、性別に関係なく「どこにも存在しない人物」を創作してそいつにものをいわせることで、
批判をうけることなく好き勝手書きたかった、ってのはあるかもしれない。
紫式部日記だかなんだかに、清少納言に関する批判的な言葉があったと思うけど。
「清少納言は『私(当時女性が覚えるものではなかった)漢字をいっぱい知ってるのよ』なんて才女ぶってるくせに、
そういって書き散らした漢字は結構まちがってるんです。
女の人は、一という漢字も読めませんって顔をしてればよろしいのに」
というような話。
ところでJOSHYAさん、ふたりで聖書を、読みました。
あれ、女の人が書いた小説だと思いたかったなぁ。
Mariaさん wrote:
>(ふと思ってしまった。清少納言って本当に女だったのかな。男性のペンネームだっていう可能性ってありそうに思うけど。)
わたしは、清少納言のセックスは女性で正しかったと思います。
ジェンダーがどうだったかは、別の話ですが…。
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