アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
くると wrote:
こんにちは。 くるとさん
私はずーっと、くるとさんのことを「女性」だと思っていました。(笑)
『繊細でやさしいお姉さん』のイメージを抱いていました。
青りんごさんが書かれた「息子」の文字を見たとき
ウッソー!!! みたいな気持ちでした。
でも、『繊細でやさしい』イメージは間違いないと思っています。
> まあ、病気療養中の身なので、、、、
お大事にね。。 マザー
bau さんwrote:
>説明といいわけの違いって何でしょう。
説明=物事人について相手に理解してもらうために話す。
「コピー機の使い方」「今度きた課長はどういう人か」「現在進めているプロジェクトの内容」などなど。
いいわけ=相手から納得の行く説明を求められているとき、もしくは責められているときに、
求められてもいない、きかれてもいないことをあれこれ言うこと。
「こんなことをしてどうしてくれるんだ」
「申し訳ありません。すぐに代わりの品をお持ちいたします」
これは説明。「どうしてくれる」という部分に対して、どうするか返答している。
「すみません。これにはわけがありまして・・・(以下略)」
これはいいわけ。誰も理由なんかきいてない。
たとえ相手に非があって、こちらは間違っていなくても、
店員と客というような力関係のある立場だと、
店員が「お客様がこうされたので」という言い方をすると
「いいわけ」と取られることがあります。
「いいわけ」になるかどうかは、言ってることの内容が正しいかではなく、
「相手の求めていることに添っているか」が判断基準になるのが、
何事も、第三者的に「説明」しがちなタイプの人には、難しいところ。
クレームに対して「いいわけ」にならないように対処するのは難しい。
「いいわけ」はしていなくても
「謝り方に誠意がない」とか言われることもあるし・・・
ひま人さん wrote:
>聞くところによると、教科書の内容がどんどんスリム化されて、このままでは
>学力が低下してしまうと「ケネン」する声が出ているという。
>さて、このことは教育の民活化への深謀遠慮ではないかと思われる。つまり、
>表向き、「これからは個人の経済状態や能力に応じて、それぞれの家庭が自分
>の責任に基づいてメニューの多様な民間教育機関をどんどん利用してください。
>そのために、国家の強制する部分を減らしていきましょう」とは言えないので
>ある。
そんなこたぁねぇな。教科書会社が教材屋と母体が一緒でちまちま教科書刷ってるより教材で儲けたほうがいいってんで乗り換えを画策しとるんなら話はわかるが、どうやらそういう話ではないらしい。
つまるところ文教族がのさばりすぎた挙句教師の指導力が落ちてしまい、教科書の内容を教えきれないところまで落っこってしまったというのが真相のような気がする。
おれはこないだ神保町の三省堂までわざわざ出向いて小学校の算数と理科の教科書に目を通してきたが、その内容たるやじつに酷いものだった。そのくせ装釘には金がかかっとってなかなかに安からぬ値段なのだ。あんなもんなら俺にも作れる、と言いたいところだが、文教族の圧力がしっかりかかるもんだから絶対に検定に通らん。算数や理科の教科書にいちゃもんの付けようもあるまいと思うだろうがさにあらず、遠山啓(とうやま・ひらく)さんの『みんなのさんすう』は、その手の嫌がらせに散々苦しめられたあげくに広域採択性によって駆逐された。今から三十年も昔の話だが、現状はまったく変わっとらん。
小学校一年生の算数の教科書は、だいたい数え上げから始まることになっている。ところがそこに描かれている繪には皿とか箱とか囲いとかが描かれておらず、しかもいきなり0が出てくるのだ。あのなぁ、0という概念を獲得するのに人類がどれだけかかっとるのかとおれは問いたい。つまりは0というのは「器が空っぽ」な状態なのだ。その器がなかったら、0という概念に到達するにはかなりの飛躍が必要となる。その飛躍ができない子供は落ちこぼれるしかない。
さらに問題なのは、予算制度である。たとえばの話、発達障礙児童の教育にコンピュータを利用したプログラム学習が有効だということが分かったとしよう。ところが建前上は「児童の学習能力には差がない」というのがあるもんだから、児童全員に対してコンピュータを導入するということでなければ予算がつかん。となれば発達障害児童用のソフトウェアを購入することもできんわけで、作るとなれば「誰にでも有効なCAIソフト」というものを開発せねばならんわけで、そうなると教師の仕事っつーのは何なのだ、という話にもなってくる。
そんなわけで日本の義務教育に関していえば、コンピュータの普及率は南洋のどっかの島(あえて差別語を使わせてもらう。百日紅さんごめん)より低いという現状があったりするのである。
ついでながらひま人さん、あんた日本国憲法をもう一度よく読んだほうがいい。
>義務教育という「徴兵制度の一変種」や、
などと書いていらっしゃるが、義務教育というのは「子供が学校に行きたいのに、仕事をさせて学校に通わせない」みたいなケースを想定したものであり、「子供はすべからく学校に通わねばならぬ」みたいな話でもなければ「嫌がる子供をむりやりにでも学校に通わせなければならない」とかいった話でもない。つまりは「健康で文化的な生活」を営むに足る教育を供給できるならば、べつに学校になんぞやらんでもいいのだ。ところが「学校教育」というメインストリートに対する脇道というのがせいぜい大検くらいしかないのが問題なのである。こうした問題があるせいで諸外国からの留学生というのは非常に苦労している。だったら何とかせんか、と言いたいのだがそうやって他力本願なことを言うておると「貴様は浄土真宗か」と言われてしまうので、とりあえずクリスチャンのMariaあたりにネタを振るのである。
で、
>日教組のような偏向教師や教科書問題などは、市場原理によって淘汰されるで
>あろうし、いじめ自殺や不登校や教師のノイローゼといった問題も、徐々に解
>消していくのではなかろうか。
なんぞという意見にもおれは毒づいてしまうのだな。日教組の連中は「授業で勝負する」とか言っておきながら、そのためのメソッドというものを持っておらんのだ。人間「わかる」っちゅーくらい面白いことはない。そもそも「面白い」というのが「わかる」の同義語である。その「面白さ」を生徒に伝える能力がないからごちゃごちゃ悩むのだ。、まずは水道方式でも勉強してみろ、とおれは言うぞ。
そんな訳で、おれは
>そしてもしこのように、国家の教育の強制的な配給力が低下してくれば、もとも
>と学校教育になじまないASの子どもも、安心してそれ専門に考えられた教育や
>教育機関を利用できるようになるであろうし、そうなっていくべきであろう。
といった意見にも批判的なのだな。商業主義が教育を支配すれば「おいしくない」部分は切り捨てられる。とはいえそこにこそビジネスチャンスがあるのだ、と考えるへそ曲がりがおったりもするのだ。
そんなわけで俺は所長やKILROYのような馬鹿が嫌いではないのである。
Mr.Moto
愛するXanadiiちゃんwrote:
>おひげの素敵なMariaちゃま wrote:
「ちゃんと剃ってる」ってさ。モヒカン同様オカマも貫くべきは貫かんとダサいからな。そういやぁ最近は女性の顔剃りも流行ってるらしい。
> おおっと忘れるところでありました。‘maria’って...あはは、クソッ、ほ
>んとだあ。私も気は使ってたつもりが……以後気をつけます。m(_ _)m
じつは本人はあまり気にしとらんらしい。ひろたくんとの一件があって、「ネット上の会話は顔が見えんだけに喧嘩になりやすいので、人の名前に関しちゃあ尊重するにしくはない」というアピールをしたかったというのもあるのだ。中にはその場の思いつきでハンドルを決める奴もおるだろうが、それぞれ思い入れなり愛着なりというのはあるもんだ。
> いちじが万事「あたしとあんたじゃあんたが悪い!」っていう姿勢の人間と
>は、つくづく話ができないなー(というよりしたくない)と思っているザナディ
>でした。
俺はこれが本質を突いてると思う。これは交流分析でいう「I'm OK, You are not OK.」型の認知構造っちゅーやつで、「だからお前はダメなんだ」って関係を相手に貼っつけてると、何を聞いても「言い訳」にしか聞こえんのだ。
ちなみに、人間関係の認知構造には、これ以外に、
「I'm OK, You are OK.」=「おぬしもなかなかやるのう」
「I'm not OK, You are not OK.」=「お前に人の事が言えるのか」
「I'm not OK, You are OK.」=「どうせあたしなんか。いじいじ」
っちゅーのがあって、Mariaはちょっと個人的にいろいろあって最後のパターンにはまっておったということなのだ。赦せ。
で、
>でもさあ、説明や言い訳って、突き詰めて考えれば「お互い様」ってことなん
>じゃないかな。たまたま言い訳を求める立場にいるかその逆かって気分? こ
>ろあいを見計らって、きちんと説明できさえすれば、相手も腹の居所を直すか
>も知れないという、タイミングを読み取ることができるかどうか。ましてAS、
>これができなくて損してる人間が、多いんじゃなかろうか。
についてなんだが、権威主義と「だからお前はダメなんだ」的な認知構造は結びつきやすい、っちゅーのがあるんだわ。
本来は相手の行為が不当であると感じられたときに「言い訳」になって、そういう「正当か不当か」といった評価を抜きにしたニュートラルなものが「説明」であるわけで、そうなると人間「言い訳」を「説明」として聞いたり、「言い訳」のつもりで聞いてたら結果的に「説明」になったという場合だってままあるわけだ。で、Xanadiiちゃんが言うとるのはつまるところ「説明」を「説明」として相手に受け入れさせるテクニックのことだと思うのだ。
けど、最初っから「だからお前はダメなんだ」的構造のなかに押し込められちゃってる人間もいるのだな。そうすると、何言っても「言い訳」にしかならん。逆に俺みたいに説得力がありすぎると「ダメなもんはダメなんだ!」とか言うて理屈そのものが通らん。そうするとこっちが正しかろうが正しくなかろうが、「言い訳はしません。ごめんなさい!」と頭を下げる以外にないということもある。もちろんその結果相手が納得してくれるかどうかという問題もあるのだがね(もっとも俺は人に頭なんぞ下げたことはないのだが)。
だもんだから、ここいらの話はASに限った話ではないように思う。ASを含めた自閉圏の人間は基本的に相手に対する思い入れっちゅーものがない。だからかえってイヤな奴とでも平気でつきあえるというところがある。それを考えると、馬鹿のお守りを任されて苦労させられる奴だって少なからずおるはずだ。「これができなくて損してる人間」ではなく、「これができてしまうがために損してる人間」も多そうに思うぞ。
Mr.Moto
くると wrote:
>
> ちょっとつかぬことをお伺いしますが、LDフォーラムに参加している
>青りんごさんですか?もしそうだとしたらあいさつもせずに申し訳ありま
>せんでした。
>
> そうじゃなかったとしたら、はじめましてよろしくです。(くると)
くるとさん、こちらでもお会いできるなんて光栄です(笑)
なぜか、くるとさんのカキコにはレスつけたくなってしまう私。
勝手に「息子」がひとり増えたような気になってます(笑)
こちらでも、よろしく。
おせっかいおばさんの 青りんご
おひげの素敵なMariaちゃま wrote:
> 朝の九時から十二時間以上。
>
> あたしはひとりぼっちだ。しくしく。
>
> − Maria −
おおっと忘れるところでありました。‘maria’って...あはは、クソッ、ほんとだあ。私も気は使ってたつもりが...以後気をつけます。m(__!m
ネタばらししてしまうと、私は書き込みのほとんどを、街のインターネットカフェ等を利用して発信しております。自分のハコはありません。(主として経済的理由により...)
いきおいどうしても、こういったログやミスのフォローが荒れてきたり、不良なチャット参加者の見本のようになってきてしまう自分の不始末とかね、こういうことの積み重ねが、人が離れてく原因になったりする。この自分の現状を、何とかしないといけないのは、わかっているのだけれど...それにはとりあえず、バイト増やさなきゃなんない(^_T)(泣き笑い)。
うまれつき脳内酸素濃度の異常に低い私にとって、事態はシンプルでも持て余し気味なわけでございます。
あ。こーゆー内容って、それこそ「説明と言い訳」(No.4555・bauさん参照)の悪い例の好例になっちゃってるか。とある事態を説明するのに個人の都合を優先的に主張する。でもさあ、説明や言い訳って、突き詰めて考えれば「お互い様」ってことなんじゃないかな。たまたま言い訳を求める立場にいるかその逆かって気分?ころあいを見計らって、きちんと説明できさえすれば、相手も腹の居所を直すかも知れないという、タイミングを読み取ることができるかどうか。ましてAs、これができなくて損してる人間が、多いんじゃなかろうか。
いちじが万事「あたしとあんたじゃあんたが悪い!」っていう姿勢の人間とは、つくづく話ができないなー(というよりしたくない)と思っているザナディでした。
bauさんwrote:
>説明といいわけの違いって何でしょう。
(中略)
>みなさんはどう思われますか?
自分に欠点や過ちがあったら、必ず弁明すべき
だと思います。言葉によって自分の身を守るのは
ある意味で正当な権利です。
その場合、今の状態を改善しようとするならば
「説明」、現状を維持しようとするならば「いい
わけ」と解釈されると思います。
「説明」と解釈されるためには、解決策を示して
おく必要があるように思います。
ただし、ひとつだけ指摘しておきたいことがあ
ります。まず「いいわけ」ができるようにならな
ければ、「説明」というより高い次元に到達する
ことは困難だということです。
こどもの頃に「いいわけ」をすることができた
こどもだけが、大人になって「説明」という次元
に到達できるような気がします。
青りんごさん wrote:
>
>新年度ということで周囲の人間関係が一変してしまいました。
>いままで散々人間関係で「痛い目」に遭ってきた私としてシンドイ季節。
>(PTAって辛いのよ〜。)
>
>『来る者は、よくよく吟味し、去る者は追わず』
>今年もコレで乗り切ろう。
>
> 優しい人は大歓迎 青りんご
ちょっとつかぬことをお伺いしますが、LDフォーラムに参加している
青りんごさんですか?もしそうだとしたらあいさつもせずに申し訳ありま
せんでした。
そうじゃなかったとしたら、はじめましてよろしくです。(くると)
Mariaさんwrote:
> 朝の九時から十二時間以上。
>
> あたしはひとりぼっちだ。しくしく。
>
> − Maria −
実は、わたしは2日間ひとりぼっちです。忙しいことは忙しい
のですが…
これだけ孤独な人が多いと孤独じゃなくなるでしょう?どうい
う連帯感なのかよくわからんが…
まあ、病気療養中の身なので、わたしはその方がいいみたいで
す。では(くると)
聞くところによると、教科書の内容がどんどんスリム化されて、このままでは学力が低下してしまうと「ケネン」する声が出ているという。
さて、このことは教育の民活化への深謀遠慮ではないかと思われる。つまり、表向き、「これからは個人の経済状態や能力に応じて、それぞれの家庭が自分の責任に基づいてメニューの多様な民間教育機関をどんどん利用してください。そのために、国家の強制する部分を減らしていきましょう」とは言えないのである。
小泉氏は郵政事業の民営化を以前から唱えてきたらしいが、それはそれで結構であろうが、それよりもまず始めなければならないのは、教育(というよりも学校)の民営化であろう。問題になっているいじめや校内暴力や授業崩壊などは、「教育の問題」なのではなく、公立学校が社会主義制度で運営されているという「システム上の問題」なのである(竹内靖夫)
ときどき話題になるが、問題教師が担任になっても、公立学校ではほかの先生へと変えてもらうことはできないし、転校するのも困難である(都心では学校が選べるようになってきているらしいが)また、自分の都合に応じてのカリキュラムを組むこともできない。すべて国家からの「強制的な配給」を無条件で受け入れるしかない。
教師にとっても同様である。問題生徒がいたとしても、公立学校では処罰することが困難である。塾などの民間の教育機関であれば、契約不履行として解除(退塾)することができる。同時にいいかげんな指導をする塾であれば、ほかのまともなところへ変えればよい。
公立学校というのは、生徒側も教師側も、問題のある人間が処罰されず、悪い者が得をするシステムなのである。これは、市場原理が働かないからである。
もしもこのことに着目すれば、義務教育という「徴兵制度の一変種」や、日教組のような偏向教師や教科書問題などは、市場原理によって淘汰されるであろうし、いじめ自殺や不登校や教師のノイローゼといった問題も、徐々に解消していくのではなかろうか。
「学校と地域とのレンケイ」「親と教師とのレンケイ」(最近どういうわけか、なにか社会的な問題が浮上してくると、まるで条件反射のように「関係機関の緊密なレンケイ」によって対処していこうという口吻がどこからともなく沸き上がるのである)などというそらぞらしい精神主義に頼らずに、このような、経済学的システム論的な分析に基づいての対処法を真剣に研究すべきであろう。
そしてもしこのように、国家の教育の強制的な配給力が低下してくれば、もともと学校教育になじまないASの子どもも、安心してそれ専門に考えられた教育や教育機関を利用できるようになるであろうし、そうなっていくべきであろう。
こう考えてみれば、文部省のカリキュラム削減も意味のあることなのではないだろうか。
追加です。
言い方を変えれば、「相手に迷惑をかけている」ことを意識し、
「どうすればお互いに納得のいく結論がえられるか」考えていれば説明。
相手に、「自分に非はない(あったとしても情状酌量の余地はあるんだ)!」と主張する場合はいいわけ。
実際自分に非が無いなら、いいわけにしかならないよね。
とにかく誠意をこめて謝る!! って態度もとりようがないんだから
(誠意をこめたら、謝れないはず。
私自身は、自分に関係することで何かあって「あんたの不手際だ」といわれたら、
たとえそれが本当は私のせいじゃなくても「そうなのかなぁ、じゃ私が悪いんだ」と
考えてしまうんだけど。後で「よく考えたら私が悪いんじゃないじゃん!!」と気づいて、
ぐちぐち心の中で怒ってしまう。
その場で「いや私のせいではない」と反駁していれば、話はもっと生産的な方向に進むだろうし、
「あんたが悪い」と言った人もあとあとまで不満もたれる必要はない。
私がその場で謝ってしまうというのは、かえって誠意を欠いた行動だと自分で思う)。
いいわけイコール悪じゃないぞ。
誠意のある人にまで「いいわけ」をさせてしまう人間は悪かもしれないが。
ま、「説明する」もしくは「あやまる」べき場面で自分の虚栄心・プライドが先行して
「いいわけ」してしまうのは、たしかによくあることだけど。
「説明」なり「いいわけ」なりをきくがわの人間次第ってことはあるよね。
bauさん wrote:
>こんにちは、bauです。
>説明といいわけの違いって何でしょう。
>私は「説明」したつもりでも、相手は「言い訳」だと思っていることって過去にたくさんあるような気がしました。
相手がこちらに理由のある事で本当に困っていることをちゃんと意識して、
問題をとくための建設的な話にすすめられれば説明。
相手の、こちらへの不満・怒りetcだけをとくために話す内容は、いいわけ。
だから、むこうがこっちにやつあたりしてる場合は
どんなに誠意込めたって相手にしてみれば「いいわけ」にしか聞こえないでしょう。
むこうが「建設的であること」をもとめてないんだからさ。とにかくこちらを責めたくてって場合は。
相手に「いいわけ」っていわれても、気にすることないよ。
話を利く耳のない人には、誠意を汲み取ろうという意識のない人には、
何を言ってもいいわけでしかないんだから。
今日はやさぐれモードだなあ……って、いつもか。
bauさん wrote:
>「説明」と「言い訳」の違いって何でしょう。
それって、「事情」と「都合」の差みたいなもんじゃないですか?
「こちらにも事情というものがございまして……」
「それはそっちの都合だろう!」
とか、
「ですから、説明させてくださいよ。」
「言い訳なら聞かんぞ。」
とか。
つまり、
「公(おおやけ)」のものが「事情」や「説明」で、
「私(わたくし)」のものが「都合」や「言い訳」。
こういうことなんじゃないでしょうか。
ちょっと立ち直ってる − Maria −
こんにちは、bauです。
説明といいわけの違いって何でしょう。
私は「説明」したつもりでも、相手は「言い訳」だと思っていることって過去にたくさんあるような気がしました。
今後「説明」の機会が増えそうなので、この違いについて知りたいです。
考えたのは、
自分に何か欠点や短所があって、それをわかりやすく解説して、相手にアクションを依頼もしくは、自分が代わりにできることを表明できたら「説明」。
解説にとどまっていたら、それは「言い訳」だと言われる。
それに相手の主観が加わる。
みなさんはどう思われますか?
新年度ということで周囲の人間関係が一変してしまいました。
いままで散々人間関係で「痛い目」に遭ってきた私としてシンドイ季節。
(PTAって辛いのよ〜。)
『来る者は、よくよく吟味し、去る者は追わず』
今年もコレで乗り切ろう。
優しい人は大歓迎 青りんご
Maria wrote:
> 朝の九時から十二時間以上。
>
> あたしはひとりぼっちだ。しくしく。
>
> − Maria −
僕はこの先どうやって生きていったらよいか、全くわからん!今年29来年30
どんどん歳だけはとっていく・・・
本来は60ぐらいで感じることを、今ありありと感じるのは、世の中の進歩にもうついていけなくなったから?鬱状態だから?
今一番欲しいのは、仲間と一緒にのんびりと悠々自適に暮らせる場所。
けど、みんないろんなしがらみがあるから、きっとこんなこと無理・無理・無理
でも、本当にあるといいな。
アスペルガー共和国・ジャングリラ・イーハトーブ・レスデテン・・・・・・・
それでも世界中のの法律が、こんな国の存在認めない・・・
それでも、あるといいよな・・・
Maria wrote:
> 朝の九時から十二時間以上。
>
> あたしはひとりぼっちだ。しくしく。
>
> − Maria −
あたしだって、しくしくしく。 青りんご
Mariaさん wrote:
> 朝の九時から十二時間以上。
>
> あたしはひとりぼっちだ。しくしく。
よし、よし。
ゴールデンウィークだし、こういうときもあるよ。
朝の九時から十二時間以上。
あたしはひとりぼっちだ。しくしく。
− Maria −
(今から十年以上まえ、学会のニューズレターに掲載された所長さんの文章です)
「日本語応用形態素解析研究団体設立のためのアジビラ」
私のよく知っている草の根BBSに「雑魚亭」という研究的な性格の強いネットがあり、自作派のネットワーカ等が何人か出入りしている。そこのオーナ兼システムオペレータの通称「所長」氏は、年中環境問題だの教育問題だので気炎を上げている「怒れるプログラマ」である。先日も、「現在のかな漢字変換アルゴリズムを陳腐化するような国語学上の大発見をしたぞ」「私は企業の日本語処理技術の独占と戦い日本語機械処理革命の捨て石となるのだ」とかいってアジビラを配付していた。
彼は誇大妄想の気はあるもののプログラマとしては実力派であり、彼が言うところの「大発見」というのも日本語の付属語の結合規則に関するものであってオリジナリティはともかく実用的価値は高い。試作品というプログラムも見たが、普通のパソコンが結構な性能で形態素解析をもりもり行なっている様は、漢字かな混じり文の機械処理の苦労を知っている者にはかなりの衝撃を与えるものであった。こうなると与太や冗談では済まない。ぜひともノウハウを公開して普及させてもらいたい。
ただし彼は企業の人間であるから、一応は会社の利益というものを考える必要があってノウハウの「無制限の」全面公開は難しい。国語学上の発見であるから、特許化や著作権による保護が可能だとしてもそれをすると周囲が非常に迷惑する。たとえば「四段・上一段・下一段」といった活用や「未然・連用・終止・連体」といった活用形の分類を「動詞の活用を処理するための表現技法」だとして法的に囲いこんだらどういうことになるか想像していただきたい。
彼の基本的な立場は「公共的な立場で日本語の処理技術および技術者を養成してゆきたいが、ノウハウを公開した結果競合する他者製品がのさばってきて会社がコケちゃっても困るのよ(^_^;)」といったところらしい。本来は各大学・ICOT・電総研といった公共機関で日本語の機械処理をしておられる研究者のような利害関係のない方を対象としたアジテーションなのだが、日本語処理に同じような立場で取り組もうという方であれば(いわゆる日本語のアマチュア研究者のような方でも)素養経験年令生別を問わず御一報をいただければ個人的に紹介の労を取るつもりである。
以下に、アジビラを著者の許可を得て紹介する。
そもそも我が国においては日本語ワープロ専用機を含めた多数の電算機から「機械可読な漢字かな混じりテキスト」という形で日本語のデータが日々大量に生産されているのであるが、これを電算機上で再加工ないし再利用しようと思うにきわめて貧弱な手段しか存在しないのである。
翻って英語圏では、スペルチェック、自動ハイフネーション、文体チェック、自然言語インタフェース(英語によるデータベースへの問合せ等)等がパーソナルコンピュータ上で利用可能である。機械翻訳系でも「英→日」に比して「日→英」は少ない。現状において、「漢字かな混じりテキスト」というのは情報処理におけるデータの「どんづまり」なのである。
かかる現状が言霊の幸ふ国のうるわしき「やまとことば」に対して「日本語は不合理であり非論理的だ」等の国辱的発言をも生む原因となっている。日本人としては真にもって無念至極である。
では、日本語の機械処理が英語の如くには実用水準に達していない理由は何なのであろうか。現在程の電算機の性能があればかえって漢字の多さは同音異義語の区別に貢献し、入力方式の差は技術的に吸収でき、表記の問題も日本語は外国語に学びつつ合理的な表記体系を千年以上にわたって培ってきた歴史を持つ世界でも珍しい言語であるし、日常の使用感からいうと非論理的でもなく非実用的な言語でもなさそうである。しからば理由は何なのであろうか。
日本語の機械処理を阻んできたのは実に日本語の構文法の遅れである。要は形態書解析のレベルで頓挫していたのである。「うつくしゅうございます」が「欝句集ございます」になり「かった」が「書った」になり「しんじゃった」が「新じゃった」になっているようでは構文解析どころではないのである。実用的な形態素解析の技術があれば、英語の構文解析の技術のほとんどが適用可能であり、当然英語圏にあるような自然言語処理系も作成可能になり、国語辞典も電子化されて作成も検索も容易になり、「漢字かな混じりテキスト」は宝の山と化し、電算機は日本語を喋り、ワープロの誤変換は減り、敬語で悩むことも少なくなり、文体分析や文法分析による作者および年代推定という分野が実用水準に達し、沖縄首里方言と東京弁と津軽弁は相互に変換可能となり、学校教育における日本語文法教育は変わり、日本人の英語コンプレックスはかなり軽くなるはずなのである。
ここでの前提は、「実用的な形態素解析の技術があれば」である。
「機械可読な漢字かな混じりテキスト」(早い話が某社の「えむえす何とか」の「標準ファイル」とかいう奴だな)を入力とし、市販のパーソナル・コンピュータ程度の機械(早い話が某N社の「何とか98」とかいった奴だな)で実現可能、辞書は数百KB程度、処理速度は人間が対話的に補助してワープロでの入力速度よりも十進ひと桁以上は速く、ほとんど言語を問わずにインプリメントが可能で、しかも相当にいい加減なインプリメントをしても実用的な変換効率(市販の「かな漢字変換」よりあきらかに上)で「構文要素の並び」を生成する技術があれば上記の夢が夢でなくなる可能性が出てくる。
今、我々は強力なる武器を手にしたことを高らかに宣言する。数ある「何とか文法」の中でも特にローカルな「総研文法」という日本語文法があり、それによれば日本語に内在する幾つかのあまり知られていない法則を利用すると、上記の仕様をみたすシステムは作成可能なのである。現在、この文法に基づいて実際に日本語構文解析系「JAI-Parser(はいぱーざ)」を作成中である。
たとえば、以下の実行例。
User> 吉野が近うございまして桜が美しゅうございますが行きとうございましょうか。
JAIP> [名:吉野] [強調助:が] [形容:近い] [動:ござる] [助動:ます] [名:桜] [強調助:が] [形容:美しい] [動:ござる] [助動:ます] [接続:が] [動:行く][形形態素:たい] [動:ござる] [助動:ます] [接続:か] [。]
User> 書かせられたがらなかったでしょう。
JAIP> [動:書く] [動形態素:ase] [動形態素:rare] [形形態素:たい] [動形態素:gar][形形態素:ない] [助動:かる][助動:です] [。]
User> 書かされたがらなかったでしょう。
JAIP> [動:書かす] [動形態素:are] [形形態素:たい] [動形態素:gar][形形態素:ない] [ 助動:かる] [助動:です] [。]
あまり例ばかり上げても紙面を喰うのでこの辺にて切るが、サポートする表現はかなり広い。応答はほとんど一瞬である。しかし、真の実力はまだこんなものではない。こいつは「相当いい加減なインプリメント」にもかかわらず、「見れる」「出れる」等の表現をはね、省略された体言があれば警告を発し、送りがなの表記のゆらぎに文句をつけ、「です」「ます」を含む敬語表現をチェックし、「書いてたんだ」を「書いていたのです」に、「困っちゃう」を「困ってしまう」に自動変換し、「書かす」を「書く」からの派生とみるか独立の語として立てるかの選択を迫るのである。最近では現代口語のみならず文語まで押えこみつつある。(註:「入れない」が「いれない」か「はいれない」のどちらかとか「歩いてきました」が「歩いてゆきました」か「歩いて来ました」のどちらかとかいった、構文レベルでは本質的に解決できない部分が最近は目について困るという)
自慢話や宣伝に使う紙面はない。話はさらに続いて本題に戻る。
残念ながら武器を手にしたとはいえ我々の前途は決して平坦ではなく、同志も多くはない。「かな漢字変換はブラックアートである」と言った御仁がいたが、応用という側面ではほとんどの日本語処理は企業のノウハウ程度の認識で国語学・国文法・言語学等とほとんど無縁であったために、「文学・国語学・言語学に精通したプログラマ」などという人材は盲亀の浮木優曇華の花ここで遭ったが百年目という程度に少ないのである。
建築における「構造と数値計算に精通したプログラマ」や工学における「技術や素材と情報処理に精通したプログラマ」等は産業としての建築や工学があるだけに金の草鞋でも履いて探せばまだ見つかる。しかし、「国文法と電算機」が出会う機会となると、「整数論と電算機」「数学基礎論と電算機」の組合せのそれよりもさらに少なく、さらにその貴重なる人材は面白そうな意味論や構文解析や機械英文和訳系方面に去ってしまい、「日本語の形態素解析と電算機」となるとミシンと蝙蝠傘が解剖台の上で偶然に出会うくらいの確率しか期待できないのが現状である。
応用レベルの日本語の形態素解析は未開の分野であり、しかもべらぼうに広い。かな漢字変換系の作成、データベースの日本語インタフェース、漢字かな混じり文による対話プログラム、日本語処理向き言語の開発、各種構文解析手法の日本語における検証、発音の研究、漢字かな混じり文の読上げ、日本語の文法の整理と整合性の検証等、パーソナルコンピュータでもできる分野だけでもどんどん思いつく。しかしながら想い描く夢の数々に比べ我々の力は微々たるものであり、まして国から金が出るでもなく企業から人が出るでもない(出るというなら遠慮なく頂戴しますが)。
しかし、金は出ずとも日本語ブームの昨今であるから商売抜きでも面白そうだと想う方々もいないとは限らない。頭数が揃えばそこそこ成果も上がるであろうし、面白い結果でも出れば「もっとやれ」とお捻りの二つや三つは飛んでくるかもしれない。
聞け心ある人々よ、日本語応用形態素解析の新天地に赴いて共に「誤変換が多かったり辞書がでかかったり変換がトロかったりするかな漢字変換のFEP」や「文字飾り等は豊富だが肝心の日本語機能が弱く、こっちはいちいち読みを入力しているのにルビも満足に振れない日本語ワープロ」といった敵を討ち滅ぼし、日本語機械処理の若き人材を育て、王道楽土(日本語のハイパーテキスト化)を築こうではないか。
(日本コンピュータ・ソフトウェア科学会・ニューズレター 九十年七月十五日)
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