アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
出先の中華料理屋で「肉うまにそば」を食べたら、野菜があんまり入ってない(カリウム不足)・うま味調味料がごってり入っていて塩気もきつい(ナトリウム過多)・ラードごってり(油分が多い)という悲惨な代物だった。こういう味は確かに若者受けはするだろうけど、身体がむくんじゃって今朝はえらいことになっている。近所の区営プールで汗を流し苦瓜・ピーマン・小松菜・ニラ・タマネギ等をもりもり喰い、鬱血を取ろうと思う。
さて、ボーダラインである。No.3628、No.4661、No.4666あたりで話題になったから、憶えておられるかたは憶えておられると思う。(←なんという無意味な定型句であろう)
私はボーダーラインは人格障害の一種だと思っている(実際に「境界性人格障害」と呼ばれてもいる)のだけれど、症候群、あるいは一歩かニ歩譲って性格傾向であると考えるひとがいる。
そういう見方には十分納得がゆくし、それを認めるのにも吝かではない。しかし、こう言っては何だけど、医者(精神科医)はあくまで第三者であって当事者ではない。しかも患者との関係を病院という組織と薬物療法を含む治療でコントロールすることができる。
ボーダーライナーと直接かかわった人間としては、いろいろと恨みつらみもあったりする。
……とはいえ、そういった部分を割り引いても、町沢静夫さんの『ボーダーライン 青少年の心の病い』(丸善ライブラリー 227)は分りやすくていい本である。興味のある方は一読をおすすめする。
ついでながら副題にある「青少年」の一語についてはいささか誤解を招きそうに思う。私がよく知るボーダーライナーは当時三十代なりたての女性だった。ソシアルな関係からプライベートな関係に踏みこんだとたんに社会性が消えて子供じみた聞き分けのなさが噴出し、感情的なゆさぶり(しがみつきと拒絶の繰返し)が始まるという悲惨な目にあった。「精神的に未成熟」という意味では「青少年」と呼んでいいのかも知れないが、被害者としてはサギにあったようなもんである。
いまどきの社会では大人に大人の分別を期待できない。それでも「病気」であればまだ治療を受けるよう説得することもできる。ところが本人に医療不信かなんかがあったらそれすら無理で、個人対個人として向き合い、苦しまなければならないのである。さらに「悪意の不在」が、心理的な逃げ場をなくしてしまっている。
そう考えると、「症候群」、あるいは「性格傾向」と考えるメリットというものもある。相手が「一時的におかしくなっている」のならば心理的にまともに向き合う必要はなく、「そういう性格なのだ」と思えばはっきり憎むこともできる。ところが「人格障害」となると、相手と人間的に深く関わり、癒しへと導かなければならない。ところがそのことに対する精神的・肉体的な負担はすさまじく、その結果として肉体的・精神的・社会的・経済的な破滅に追いやられるケースもある。ところが相手は一方的に関係を断ってどこかに逃げてしまうのである。
ボーダーラインの治療におけるドロップアウト率は、前掲の『ボーダーライン 青少年の心の病い』にあるガンダーソンのデータでは六ヶ月以内で五十%、一年以内で七十五%、最終的には九十%という高率であり、町沢静夫さん自身のコメントとして「治療者の人格にもさまざまな波紋を投げかけ、いずれも悪戦苦闘になることが必至である」という。
つまり、ボーダーライナーの女性に引っ掛かった男性は、一年以内にボロボロにされて棄てられる可能性がかなり高いということなのである。しかも相手には悪意がない。むしろ自分は被害者だと思っていて、下手をすると自分の不幸に酔っていたりもするのである。
こういう存在を私はどう捉えていいのかわからずにいる。意見をお寄せいただければ幸いである。
(KILROY)
少し前、私が眠剤とアルコール併用して飲んでるとカキコしたことで、武田さんや
Mariaさんにご心配おかけしました。痛み入ります。この件心配御無用。再度医師に確認しましたが、少量のアルコールならどうってことないということでした。少量とはどの程度かと聞いたら、それは人によるとのこと。このあたりの返答はさすが精神科医だなあと思いましたねえ。 (けど皆さんは私のまねしないでね。)
さるすべり(百日紅)さん wrote:
>質問です。
>「自閉症はなぜアイ・コンタクトがないのか」
>教えてください。
>
つい最近、このことを掛かりつけの医師とも話題にしたのですが、自閉症者は、人が人であることに余りこだわらないからじゃないでしょうか。つまり人が背後の風景と一体となって、そこに線を引けないからだと思うんです。じゃないのかしらん?。
どうも、わたしの基本表情は「楽しそうにしている」のようだ。
自分ではふつうにしてるのに「楽しそう」とか「テンション高い」とか
よく言われる・・・ そりゃあいっつもしょうもないこと考えてるけどさー。
あさかぜさん wrote:
> わたしは子供の頃「情緒不感症」というけったいな状態名をつけられていました。自分が記憶していたのではなく母に確かめたのですが、医者の診断を受けたわけではなく、学校の先生からそう言われたようです。
「情緒不感症」などというけったいな言葉、初めて見ました。
その先生の造語か?
わたしは自分がどういう表情をしているのかわかりません。
よく「道を歩きながらニヤニヤしていた」とか言われます。
自分としては腹を立てているのに、「落ち込んでいる」と言われたりします。
一生懸命あやまっても、「気持ちがこもっていない」「バカにしてる」と
言われることがあります。(前にも書いたなーこれ)
いつも一緒にいる人たちが黙っていると「怒っているのか?」と思います。
「文化的表情」は理解できるようですが、「本能的表情」を読むのは苦手・・・
シンタロウさん wrote:
> 僕は医療機関で診断されました。県立の子ども病院で診断されました。
じゃあ、たぶん医学的LDですね。その場合、「読み書き計算に部分的な
困難を抱えている」というのが診断基準になります。ただし、LDだからと
言って読み書き計算が全部できなくなるわけではありません。あくまで、
能力が落ち込んでいる部分だけがうまくいかなくなるだけです。
ところで、シンタロウくんはどんなことが得意で、どんなことが苦手で
すか?きっとシンタロウくんのLDは苦手なところだけにあるんだと思いま
すよ。
そんじゃ、また(くると)
すみません。名前変えてしまいました。yachan → strawberry
I wrote:
>お願いだから、のっぺらぼうのままの顔の私のままでいさせてよぉー。
ひぇー。またやってしまった。
^^;私には、目も鼻も口もあります。
私は時々、こんなおかしな表現を平気でしてしまったりします(汗)。
大森にはドイツ人学校があります。
ある平日の午後のこと。京浜東北線上り列車は空いており、乗客のほとんどはサラリーマン風の男性でした。
列車がJR大森駅に到着すると、そこに小学校三年生くらいの、二人の女の子が乗ってきました。おそらくはゲルマン系の、天使のような美少女ふたり。学校帰りらしく、ランドセルを背負っていました。で、ひとりの女の子が、もうひとりの女の子に、上下左右をせわしなく指差しながら、早口のドイツ語で何かを説明していました。もう一人の女の子は、頷きながらそれを聞いていました。
ふたりが頷きあい、両の拳を腰にに引いて、ぴたり、と斜めに構えます。
乗客は、それを見て見ぬふりをしながらも、緊張していました。
「Eins, Zwei, Drei,
あっち向いてホイ!」
……その時の乗客の表情を想像してみてください。
お互いがすがるような目で助けを求めていました。
「笑っちゃいけない。笑っちゃ失礼だ。だけど、分かるよな? 分かるよな!?」
奥歯を噛みしめ、ぶるぶると震えながら笑いを堪え、目だけは爆笑している。
それはそれは異様な表情なのですが、お互いがそれぞれ自分も同じ表情をしていることを知っている。で、それを目と目で赦しあっている。
俯いて、顔を覆って震えている人もいました。ときどき、涙だか鼻水だかをすすり上げています。
いい光景でした(^_^;)。「これこれ、電車の中で騒いではいけないよ」とかいって注意する人がいたら、他の乗客数名が飛びかかって、他の車輌に引きずってかれちゃってただろうと思います。
おいしい光景を見せていただいた二人のお嬢様に、お礼を申し上げたかったです。
(Maria)
くると wrote:
>
> LDのくるとです。わたしは教育診断でLDと診断されています。でも
>いちおう大学院には進学しました。調子が悪くて、卒業するのがやっ
>とでしたが。(シクシク)
僕も調子が悪くて、進級するのがやっとでした。(特に英語が苦手)
>
> ところで、シンタロウくんがLDの診断を受けたのは医療機関でしょ
>うか?それとも教育相談機関でしょうか?LDには教育学的LDと医学的
>LDの2種類があって、扱っている内容がかなり違います。
僕は医療機関で診断されました。県立の子ども病院で診断されました。
>
> ちなみにコメントを見る限り、シンタロウくんは年齢の割に言語能
>力が高いような気がします。
僕自身もそのような気がします。
Maria wrote:
>
> 自閉症の赤ちゃんが「あまり泣かなかった」「無表情だった」というのは、「他者としての母親」を認識していないからだと思います。つまりは「母親」というもっとも重要な依存の対象を持っていないわけですから、「おどおどしていた」「パニックを起こしやすい」といった特性があるのも当然のように思います。
赤ちゃん時代の娘は、あまり泣かずに「表情豊か」に一人遊びをし、関わろうとする周囲の人を「無表情」で眺めておりました。その「豊かな表情」を見たいがために、「一人あそび」を散々させておりました。(育児書とは逆だな)
>
> この「表情によるコミュニケーション」が下手な人、あるいは「それを行なわないことで人間関係をコントロールしている人」というのがいます。こういう人は、「無表情」と言われます。ですが、リラックスしている場面では、驚くほど豊かで自然な表情(こちらは「本能に基づく表情」)を見せることがあります。
現在の娘は自然な表情でよく笑います。岩波の国語辞典を読みながら「馬鹿笑い」をする姿はとても自閉症とは思えません。私より遥かに表情が豊かです。
二十歳の時、男性と同伴で映画を見にいきました。
隣に座ったその方が感動で涙するのを見て「ヤバイ。ここは泣かねば!」と思い「嘘泣き」をしていたのは私です。(戦争映画は嫌いなのに〜)
「聖子」みたいだな 青りんご
Mariaさん wrote:
> さて、聴覚障礙者の人たちは、手話の一部として「表情」を用いています。そのため、しばしば非・聴覚障礙者との間で誤解を生じることがあります。
そういえば、中学校の下校時になぜか頼まれて聴覚障害者の人たちと一緒に歩いたことがありますが、「鼻がかみたいのでちり紙を下さい」という要求がわからなくて、一生懸命身振り手振りしていた男の子を怒らせてしまったことがありました。自分の不甲斐なさが申し訳なくて、今でもはっきりと覚えています。
> つまり、「本能に基づく表情」ではなく、「後天的に文化の一部として獲得した、コミュニケーションの道具としての表情」というものが存在するわけです。
(中略)
> そんなわけで(どんなわけだ?)、「文化としての表情」というのは疲れるんですよ。さらに、「本能としての表情」は顔の上半分、「文化としての表情」は顔の下半分に出ます。「目は口ほどにものを言い」「目が笑ってない」「目が死んでいる」みたいな言葉は、これを表しています。だもんだから、ぼんやりしていて「文化としての表情」が消えているときは、「本能としての表情」がモロに出てきてしまいます。だから、気分がマイナーなときは、「怒っているように見える」「怖い」「暗い」とか言われてしまうわけですね。
そうなんですね。「自然体でいられる」ときは、周りのことなんか気にしませんし、疲れていると「演技」をする気力もなくなっていますものね。なるほど。
> あさかぜさんを「情緒不感症」と呼んだ教師はバカです。Mr.Motoは「ヤサが分かったら今すぐ行ってシメてくるんだが」とぽきぽき指を鳴らしています(こらこら(^_^!))。
をいをい(笑) ヤサはわかってますがな。母は今でもお付き合いがありますから……もう時効ですんでシメるのは勘弁してやって下さいませ。
シメるんだったら、小6のときの担任がいいなぁ。(まだ生きているかしら……失礼かな)男子に束になっていじめられていたのを訴えたのに、へらへら笑っているだけで何もしてくれなかった男性教師。でも、ウラミはそのことじゃないぞ〜!一生消えない恥を残すことになったからだ〜!!(詳細はこの場では公開できません)
小学校の卒業式に「これでこの学校ともおさらばだ。二度と来るもんか」と心の中は万歳三唱して躍り上がらんばかりの状態だったのに、表向きは「女子がみんな泣いているから、わたしも泣くことにしよう」という気持ちを高めて涙を出してみせるという「芸当」までできるようになっていたことを考えると、「コミュニケーションの道具として後天的に獲得した表情」は、使いかたひとつでいろいろなことができそうな気がします。
青りんごさんのように芋蔓式に記憶を掘り起こし始めた、あさかぜ でした。
yachan wrote:
>
>反対にさ、表情が豊かな人達を見ると、私は引いてしまう傾向があるかも。
>どうすればいいのか、戸惑ってしまう。
あるあるー。自分の無表情は悩まないけど、こちらの「戸惑い」の方が苦痛です。
>
>ホント、多くの人って、感心するぐらい表情がドンドン変っていく。すごい。
>喋り方だって、一本調子でなくて、メリハリがあって。(私にはとてもできない事だわ)
そうゆう人を見ると「まるで舞台女優だわー!」と思ってしまいます。
表情も顔の一部だと考えると「顔について意見する」なんて失礼よね。
放っておいてくれー 青りんご
Tien(蝶)さん wrote:
>ところでQ:「顔の表情が無い=乏しい=能面顔」と最近知人から言われて
>かなりショックだったのですが、そういう傾向があるんでしょうか?
銀八さん wrote:
>顔の表情がない……私もときどき指摘されることです。
>思春期の微妙な時期に
>※笑顔が似合わない
>※目が怖い
>と言われたのが気になって無表情になってしまいました。
あさかぜさん wrote:
> わたしは子供の頃「情緒不感症」というけったいな状態名をつけられていま
>した。自分が記憶していたのではなく母に確かめたのですが、医者の診断を受
>けたわけではなく、学校の先生からそう言われたようです。
> 喜怒哀楽の表情が乏しく、普通の子供だったら大喜びしそうな場面でも能面
>のように無表情だったことから、そういう名がつけられたとのことでした。
青りんごさん wrote:
>名前こそつけられていなったけど「覚めたガキ」だと言われ続けてました。
>二十代前半のOL仲間から「表情に乏しい」と言われて、知り合ったばかりの元
>夫からも「なんで喜ばないわけ??」などと言われておりました。
あさかぜさん wrote:
> 今では人から言われることはなくなりましたが、それは単に人と接するときは
>自分の中にこもらないように気をつけているだけのことです。安心して内にこも
>れる状況のときは無意識にこもっているらしく、先日も娘から「おかあさん、表
>情がない。なんか怖い」と言われてハッと我に返ったりしています(苦笑)。
青りんごさん wrote:
>実母にいつも「なんか〜、怒ってる??」と尋ねてました(笑)
>本人はなにも怒っていないと言ってますが、黙って無表情にしていると「怒って
>る?」と言われるそうです。
武田好史さん wrote:
> さてTienさんの質問ですが、おそらくは私たち自閉症の人たちは、先天
>的にものの動きを上手に目で認知できないからだと思います。実は人間は普通、
>赤ちゃんの時からお母さんなど周りの人の表情を見てまねることによって、
>「こんな気持ちの時は、こんな顔」というように表情を創り出す筋肉を鍛えて
>いるのです。ところが自閉症の子は、すでに赤ちゃんのころから「あまり泣か
>なかった」「無表情だった」「おどおどしていた」といったような異常をもっ
>ている場合が多いのです。
>きっと、視覚から入った情報を体の動きへ模倣していく機構に、先天的な不具
>合があるのでしょう。
> だから「情緒」はあるのに、「表情」として表現することが上手にできない
>ので、無表情というレッテルを貼られてしまったり、緘黙したり、馬鹿笑いを
>してしまったりするのではと私は思います。
武田好史さんの説によれば、生まれながらの視覚障礙の人は表情に乏しいはずですが、そういうわけでもないようです。あるいは、「他者の情動」を理解していないはずの自閉の人は、同じように「喜び」「怖れ」「悲嘆」といった表情を持たないはずですが、それは「他者との関係において表れることがない」だけのことで、表情そのものは存在します。つまり、「本能に基づく表情」というものが、存在するわけです。
自閉症の赤ちゃんが「あまり泣かなかった」「無表情だった」というのは、「他者としての母親」を認識していないからだと思います。つまりは「母親」というもっとも重要な依存の対象を持っていないわけですから、「おどおどしていた」「パニックを起こしやすい」といった特性があるのも当然のように思います。
さて、聴覚障礙者の人たちは、手話の一部として「表情」を用いています。そのため、しばしば非・聴覚障礙者との間で誤解を生じることがあります。
つまり、「本能に基づく表情」ではなく、「後天的に文化の一部として獲得した、コミュニケーションの道具としての表情」というものが存在するわけです。
この「表情によるコミュニケーション」が下手な人、あるいは「それを行なわないことで人間関係をコントロールしている人」というのがいます。こういう人は、「無表情」と言われます。ですが、リラックスしている場面では、驚くほど豊かで自然な表情(こちらは「本能に基づく表情」)を見せることがあります。
東大の解剖学教室で養老さんの下で働いていた布施さんは、養老さんの「本物の笑顔」というのを二度しか見たことがなかった、とどこかで書いていました。一度はテレビ番組でファーブルの業績を追ってフランスに行き、そこで「聖なるフンコロガシ(スカラベ・サクレ)」を見つけたときに番組の中で見せていた笑顔。もう一度は、解剖学教室にいたときに、廊下をじつに気持好さそうに口笛を吹きながらやってくる人がいて、誰だろう、と思って覗いてみたら養老さんだったそうです。で、「いま辞表を出してきた」(^_^;)。
……東大の教授って大変なんですね。そういえば、「あんなところに居たら、私は死んでしまいます。命には換えられないでしょう?」と学生の懇願をふりきって東大を辞め、理化学研究所に移ったのは寺田寅彦先生でした。
そんなわけで(どんなわけだ?)、「文化としての表情」というのは疲れるんですよ。さらに、「本能としての表情」は顔の上半分、「文化としての表情」は顔の下半分に出ます。「目は口ほどにものを言い」「目が笑ってない」「目が死んでいる」みたいな言葉は、これを表しています。だもんだから、ぼんやりしていて「文化としての表情」が消えているときは、「本能としての表情」がモロに出てきてしまいます。だから、気分がマイナーなときは、「怒っているように見える」「怖い」「暗い」とか言われてしまうわけですね。
世の中には、「文化としての表情」が豊かでありながら、その本質である「本能としての表情」を覆い隠せない人がいます。この点で、あたしがイヤな笑顔として筆頭にあげたいのは、「オウムの殺人機械」・新実被告のあの笑顔です。逆に、強面でありながら、子供に玩具にされてしまうようなタイプのひとがいます。うちの所長さんはそのタイプです。映画『ジョーズ』でロイ・シャイダーが見せている「怖い顔」。あれです。
あさかぜさんを「情緒不感症」と呼んだ教師はバカです。Mr.Motoは「ヤサが分かったら今すぐ行ってシメてくるんだが」とぽきぽき指を鳴らしています(こらこら(^_^!))。
あたしは一時期感情をゆさぶられることが多かったため、脳の感情を司る部分が腫れてんじゃないかと思った時期がありました。で、なるべく世の中のガサツな人とかかわらずに隠者のように生活して、患部を冷やして腫れが引いたころを見計らって、ごそごそ世間に這い出してきたように思います。
Tienさんやあさかぜさんや青りんごさんの文章と接しているときは、頭の中がクールでさわやかでクリアーな状態に保たれているのでラクでいいです。「頭は使うけど気は使わない」。これがあたしには性に合ってます。
(Maria)
Tien wrote:
>こんばんは。いつも皆さんからの心のケア感謝しています。
>ところでQ:「顔の表情が無い=乏しい=能面顔」と最近知人から言われて
>かなりショックだったのですが、そういう傾向があるんでしょうか?
こんにちは、Tienさん。(←人の真似をしている)
これ、以前から疑問に思っていたことです。
私もそうなんで、なぜなんだろうって。
怒っていないのに、怒っている?って聞かれて、慌てて否定したり、
「表情がないから、よう分からない(←何が??)」とか言われると、傷ついたりします。
これ(表情が乏しい問題)って、小さい時から言われつづけてきたことだから、結構、自分は気にしてるんだけどね。なんで、皆みたいに、表情が外に出ていかないのだろうかな・・?
(↑私の好きなアーティストもそうなのだわな^^; ところで、私は、自分と同じような人が作った曲にしか、反応できない。だから、私にとっては貴重な存在。←余談)
だけど、表情が乏しいから、賢そうに見られた時もあったぞ(ホントは、成績の悪い馬鹿だったけど^^;)。
私が笑わない(← あのー、普通なんですけど)から、私を笑わせようと試みる人も何人かいました。で、ちょこっと、笑ったら、
「笑うことができるじゃない!」とか「あっ、笑ってくれた!」って言われて、私は複雑な気分になる(私だって、笑いたい時には笑うよぉ。)。 顔が笑ってない私は、いけないんだろうか?
これが、普通なのに普通なのに普通なのに、どうして普通にしていたらいけないの? どうして、こういう顔になのだろう・・。(周りに何かを伝えようというものが人より少ないから、表情に変化がないのか?)
お願いだから、のっぺらぼうのままの顔の私のままでいさせてよぉー。
表情作ることもできるけど、疲れるよぉー。
風邪なんかひいた時なんか、絶対、表情なんか作るの無理だよぉー。
無反応を許してよぉー。 (← 書いてて、情けなくなってくるね)
反対にさ、表情が豊かな人達を見ると、私は引いてしまう傾向があるかも。
どうすればいいのか、戸惑ってしまう。
ホント、多くの人って、感心するぐらい表情がドンドン変っていく。すごい。
喋り方だって、一本調子でなくて、メリハリがあって。(私にはとてもできない事だわ)
たかが表情ごときに、悩むなってか? すみません。
たまーに、たまーに、気が向いた時に、書き込みしています(ども)(-_-)
さくらかのえさん wrote:
>ところで「系図」が好きだった人っていますか?
>特に外国の王室などのやたらと入り組んだ系図。
小学生の頃から、源氏物語の系図にこころ魅かれてます。
当時話の内容はわからなかったですが、系図を見るのが楽しかったようです。
#源氏物語の帖のタイトルの付け方や、出てくるものの漢字を眺めるのが
#すきです。橋本治の「窯変源氏物語」は日本語の絢爛豪華さをモットーに
#しているので、源氏本のなかで一番気に入ってます。
#帖ごとに系図が書いてあるし。
どうして系図がすきなのかは、自分でもよくわからないです。
bau
Tien さんwrote:
>ところでQ:「顔の表情が無い=乏しい=能面顔」と最近知人から言われて
>かなりショックだったのですが、そういう傾向があるんでしょうか?
今のところ言えるのは、ボランティア先で関わっているAS児の中に
「表情の変化が少ない子もいた」ということです。ただしASの人全員
がそうだとは断言できません。
>予約していたガイドブックアスペルガー症候群がまだ購入出来ていな
>いので分からないのですが。単に対人関係で傷ついた果ての防御策と
>しての結果かも知れませんが...。
わたしは「自分にとっての自然体」でいると、本当に無表情です。
でも精神的に傷ついていた訳ではありません。楽しいことも悲しいこ
ともたくさん経験してきました。単に表情に出ないだけなのです。
中学3年生ぐらいからクラスメートに「ぜんぜん笑わないね」と散
々指摘されてきました。仕方なく公私ともども「営業スマイル」をし
て、やりすごしています。
ただ、Tienさんの場合は女性特有の偏見に悩まされているかもしれ
ないですね。「女性は愛想がよくならなければならない」みたいな・
・・。別に「女性である」という事実から「愛想がよくなければなら
ない」という結論を導き出すことはできないのですが。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami