アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
yukit wrote:
>どなたか教えてください。
>
>http://www.hi-ho.ne.jp/sugiyuki/
まずいずれの障害も共通点として、心因性のものではなく、脳の微細なダメージによって生じているということがあります。
ASすなわちアスペルガー症候群の人は、視覚・触覚・聴覚等の感覚を調節して
いく機構に問題が生じます。そのため何か会合に参加しても果たして何人の人がそれに参加していたのか判らなかったり、人から触られることを極端に嫌ったり、電話の音が聞き取りにくいといったことが起こります。またある分野が極端に優れているのに、他の分野では平均以下といったアンバランスな知能を持っています。またあることにこだわる・コミュニケーションスキル(表情・ジェスチャー・アイコンタクト)が乏しいということも、重要な診断基準です。
一方ADHD・ADDの場合は、意識や体の活動状況・注意力などを司るところに問題が生じます。知能の遅れは認められないことが普通のようですが、自閉症・学習障害・軽度知的障害と重なって現れることがあります。この障害があるとちょっとしたことでも疲労しやすい・部屋を散らかし放しにしてしまう・衝動的な行動に走りやすい・忘れっぽい・無計画にやたらと動き回ってしまうといったことが起こります。
どちらの障害にも、二次的な障害として「鬱病」などの精神的な問題が起こります。
ミッドランド wrote:
>武田好史さん wrote:
>>あなたにとって、「家族」とは何ですか?
>
> 僕にとっては「愛すべき存在、だけどもなかなか心が通い合わない存在」です。
>
私も似たような感じです。
子供の時はよく父や母から叱られてばかりいました。「箸の持ち方が悪い」「成績が悪い」「はっきり話せ」「金の計算しっかりしろ」・・・だから父や母に対して強い憎しみを持っていました。
しかし、最近母が入院してしまってから、ようやくそのようなことも一つの「愛情」というか、人の気持ちを「お互いを理解しあう」ために避けては通れないとか、それがあるから自分は本当にわずかながら「社会性」というものを持てたような気がします。
シンタロウ wrote:
ミッドランドwrote:>> 親も、僕があまりに自分たちと異なっていることで、不思議に思っていたようです。時にそれは僕へのいらだちとなって現れました。
> そんな親は殺したほうがいい・・・・・
シンタロウさんへ:
そりゃあ、一番愛情が欲しい・支えて欲しいはずの親に、私も通常でない感情=
憎しみ、を持っていた事もありますから、分からないこともないですが、
「殺した方がいい」と言うのは禁忌ではないですか?
あなた自身「こんな子は殺した方がいい」ともし言われたらどう思いますか?
ある人が嫌いだったら殺す、そしてまた嫌いな人が出てきたら殺す...
殺しても殺しても嫌いな人は絶えません。一人で生きていかれる世界はないと
思いますよ。「人を殺していい人」は存在しないはずです。
諍いのない家庭が、いい家庭だとは思わない。
事なかれ主義の、言いたい事も言えない家庭というのは、苦しい。
「なんであなたはそんな変なことを言うの?」みたいになじられるのも嫌だ。
「血が繋がっているのだから、分かってくれるのが当然だ」みたいなのも苦しい。
「血がつながっている」だけで家族になれるのなら苦労しないと思う。
親戚どうしの遺産相続の争いなんかすごいんだから。
赤の他人でも、いっぱい話しあって、いっぱい考えて、いっぱい泣いたり笑ったりすることで、「家族」になれると思う。
夫婦だってそうだ。もとは「他人」である。だけど家族だ。
『「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁を姑に。」』
(『マタイによる福音書』、10・34−35)
『イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
大勢の人が、イエスの周りに座っていた。
「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます。」と知らされると、イエスは、
「私の母、私の兄弟とは誰か」
と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。
「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行なう人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」』
(『マルコによる福音書』、3・31−35)
イエス先生だってこれなんだもん。われわれ凡夫俗夫は、しょうがないんじゃないでしょうか。
(Maria)
シンタロウ wrote:
>武田好史 wrote:
>>
>>あなたにとって、「家族」とは何ですか?
> 僕にとって家族はうざったい物体に他ならない。特に母親がうざったいです。
>母親はいつも僕だけを干渉してきます。僕が中学生の頃、母はいつも「勉強しろ!」とうるさく言ってきて、僕の部屋に入ってきて「お前まだそれしかできてないんか!」とよく怒鳴ってきました。学校の定期テストがかえってきた時、理科は92点を取ったのに母は「この英語の点数はなんだ!9点だぞお前!」と怒鳴ってきて「この能無しめ!」と言ってきました。僕の母は僕のいい所に目を向けてくれません。現在も怒鳴ってきます。僕は母親を殺したいです。
こんにちは。
私も、そうでした。九十五点を取ると、よくしかられました。
父にですけど・・・。でも、いま、子供ができてわかるんだけど、
あんたの、その落ち着きのない性格が、大事な五点をおとすのよね。
と、いいたい親の気持ちもわかる。
どういう風に考えてその五点を落としたかが、手に取るようにわかるのよ。
お母さんとあなたはにてるんじゃない?
お母さんは、あなたのなかに自分を見て、自分にも言ってるのだと思います。
でも、いつもだと、つらいよね。
わたしも、母との関係はだめでした。口うるさくて、文句ばかりで
人を誉めたことがありませんでした。
それも、愛情ということに今、気づきますけど、おかげで私は、自分に対して
卑屈になっていました。
後になって母に聞くと、あんたは、なんでもできて、心配をかけなかったから
楽だった。というのです。母にとって、わたしは心配をかけることのない
楽な子で、何をいっても大丈夫。と、思っていたのですね。
あるとき、大喧嘩をしました。
私が家から出てからですが、私がどんなに苦しかったか、どんなにつらかったか
どんなに我慢してきたか。ぶちまけました。
そのときは、強がっていた親も、一人になっていろいろ考えたのでしょう。
変わってきました。今では、私の一番の味方ですし、もともと、子煩悩の方
でしたから、ありがたいくらい大事にしてくれます。
孫である私の娘ゃ息子にも、沢山の愛情をかたむけてくれて、本当に感謝しています。
きっと、今はまだ親と子の関係で、親は親として上にたって居たいし、それも
じつは、愛情の裏がえしだとおもいますよ。
あなたが、大人になって親が一人前と認めたら、きっと親のほうで、変わってくると、思います。今は少し辛抱して。
私にはADHDの息子がいますけど、ともすると、僕は頭が悪い・・・。というので
そんなことないよ。五十点も取れたじゃない。算数が得意じゃない。
すごいすごい。と誉めまくっています。
上の普通の娘にはまた九十五点なのー。といってしまいます。
反省、反省。こんどは、すごーい九十五点じゃない。えらいねーって言ってあげよう。シンタロウさんのおかげです。ありがとう。
ほめてのばそう。でも悪いことは真剣にしかろう
をモットーにしている。みちることなおみの夢でした。
yukitさんへ
ひとまず、下記のホームページを確認してみてください。
http://homepage1.nifty.com/kanaipage/jiheigairyaku.html
後半の方に自閉症とAD(H)Dの違いに関する筆者の考え方が記
されています。おおまかにまとめると
(1)多動性
(自閉症) 無目的の多動。興味の偏在、執着
(ADHD)気が移りやすい
(2)注意力
(自閉症) 指向性注意の生涯
(ADHD)注意維持の困難・注意の無選択性
(3)平静時のようす
(自閉症) 固執の傾向
(ADHD)正しい判断が可能
(4)数唱問題 (5)符号問題
(自閉症) 良好 (自閉症) 良好または普通
(ADHD)不良 (ADHD)不良
(6)記憶問題
(自閉症) 良好
(ADHD)不良
こんな具合です。もっとも両者を厳密に区別するのは難しいでしょう。
また、両者は合併しても決して矛盾ではありません。(くると)
さとるの自転車さん wrote:
>俺の場合は、「少しでも幸せを感じるから」です、
>生きなければいけないと言う決まりはないと思います。
なるほど。
>「幸せのために生きる」というと、科学や哲学を熱心にやっている人達の、
>一部の人に、馬鹿にされることがあります。
むしろわたしが感じていたとまどいは、わたしの問いが一部の人にしか理
解されなかったことです。「なぜ生きるのか?」と質問しているのに「いか
に生きるか?」という答えにすりかえられてしまうことの方がとても辛かっ
たです。実質的には口封じされているも同然だったからです。
>だけど、単純に考えてもいいと俺は思います。
>俺や、あなたが生きていること事体、
>生きることの肯定にならないでししょうか?
(中略)
>俺は死ぬのは恐いし、いくら辛くても本気で死のうとは思いません。
>「生きたいから生きる」、「生きていた方がいいから生きる」
>それでいいんじゃないかな?
わたしの立場から言えば、それで納得できる人はそれ以上この問題
を追求する必要がないということです。少なくともわたしは「幸せに
なるために生きる」という結論を持つ人を馬鹿にするつもりはありま
せん。むしろ自分を含めて「なぜ生きるのか」という問いを持つ人の
方がはるかに愚鈍です。生きるためにはむしろ余計な考えだと言えま
す。
ただし、さとるの自転車さんが言う「単純に考える」というのは、
わたしにとっては決して単純ではありません。むしろ、「なぜ生きる
のか?」と問うことの方が、わたしにとっては「単純に考える」こと
だったからです。
わたしにとって「単純に考える」とは自分自身の思考パターンに従
って考えることです。わたしがこどもの頃から感じて苛立ちは、自分
本来の思考パターンとは異なる思考パターンを常に要求されていたこ
とです。(くると)
こんにちは、KILROYさん、みなさん。
この週末くらいまでは時間がなくて、とりあえずこれだけ。
KILROY wrote:
>
> ぶちさんやあさかぜさんや由佳子さんには非常に申し訳ないような気がするのだけれど、あんまり気にしないで聞いてほしい。
>
> 私はルドルフ・シュナイダーが嫌いだ。
別に申し訳なく思う必要はありませんよ。
私はシュタイナーの理論を、わかってもいないのに、
わかったような気になって、鵜呑みにしてひたりきっている
人の方が、問題だと思います。
それに理解出来たとしても、本当に理解するためには、同じ
ような経験を共有しているか、すごーく長い年月をかけて、
思いっきり研究しないと無理だと思うんです。
それなのに・・・って思ったりするんですよ・・・
私ってひねくれもの?
疑問を疑問としてはっきり持っているのは、いい事だと
思います。私自身、はっきり言って信じているわけではあり
ません(実は)。でもある程度逃げられない関係で勉強した
経験があり、その時に仕入れた知識に、由佳子さんの発言が
ピンと来ただけです。
でも事実として、由佳子さんの書かれている経験が、本で
ちょっとかじったシュタイナーの幼少時の経験に似ているのは、
事実だと思います。彼の場合は、それを大きくなってからも
持ちつづけていた(少なくとも彼はそう言っていたと思う)し、
それを書き残しているので、それが由佳子さんの自分探しの
手がかりの一部になれば・・・と思っただけです。
それに、読めば必ず何かがつかめるという確信があるわけ
でもないんですが・・・似たような経験を持った人の話を
聞くと、私の場合はこころの中の整理に役立つものですから・・・
もし、由佳子さんの役にたってくれればうれしいです。
だから怒ったり、むっとしたりしてないから大丈夫ですよ!
これだけ言いたくて、今回出てきました。
P.S. 由佳子さんがシュタイナーの著書を読んで、どう思うかも、
聞いてみたかったりする・・・私ってしりたがり・・・
武田好史さん wrote:
>今日はまたみなさんにお尋ねしたいことがあります。
>あなたにとって、「家族」とは何ですか?
すれ違う相手です。家族はわたしも家族と同じ欲望や感覚を持って
いると信じていました。でも、わたし自身は家族と全く違う欲望と感
覚を持っていました。
わたしが家族の意図を理解できないように、彼らもわたしの意図を
理解できません。(くると)
さくらかのえさん wrote:
>うちの母もそうでした。
>物心ついてから親にほめられた記憶ってない。
30も半ばになって、やっと「そういえばほめられた記憶がないぞ」と気がつきました。
あまりに当然のことで、気づかなかったのです。(大学を出るまで、身近に私のことをほめてくれる人はいませんでした)
30過ぎたおかげで、やっと母とも同等に話ができるようになりました。
私が鬱をわずらって長いせいか、ある日母が「ほめて育てなきゃいけないのよねー」と言い出しました。
そこで、「じゃあ私のことをほめられたらほめてあげよう」ということにしました。
しかし、実際にほめられてもよさそうな状況で「そらほめてみろ」と言っても、「でも〜じゃないと」となかなかうまくできず。
結局まる2週間かかって、やっと一度だけほめてもらえました。(買ってきたものを「おいしい」と言ってくれただけですが)
そしてさらに2週間、まだ二度目はありません。
>でも、わたしのとどまることを知らない雑談を聞いて、適切な反応を返してくれるのは、
>母しかいなかったりする。そしてやはりどこか似ているような気もします。
うちもそうです。いちいちケチつけられる点を除けば、話していて楽だなあと思います。
これも20歳半ばのある日気づいたのですが、わが家の会話には話のつながりというものがなく、みんながそれぞれに、話したいことを話したいように話してるだけでした。
たぶん、話の流れなどに気を使わなくていいのが楽なのでしょう。全員おしゃべりの早口なので、他人からみたらすごくうるさいのではと思います。
武田好史さん wrote:
>あなたにとって、「家族」とは何ですか?
私の命をつくり、人格の基礎を築いた小さな社会。
ある時は娘だったり、ある時は兄弟だったり、どんな場合にも役割があって、その役割の前につく修飾語によって、色々な感情が芽生えてくる所。
例えば、”優しい母”には”好き”という感情が、”怖い父”には”嫌い”という感情が芽生える。
日々の生活の中で、修復可能な気持ちと、不可能な気持ちをつくっていく人たち。
さくらかのえ wrote:
>でも正直なところ、相続税で苦労しない程度の財産残して
>早く死んでくれないかな、とか思ってたりもするな・・・
>人格はいらない。金だけほしい。
>でも葬式がめんどくさそう。
とはいうものの、やはり人生の長い時間を身近にすごし、
育ててくれた恩もあり、他の人に較べればよく知っている人たちなので、
それなりに愛着はある。死んだら悲しいだろうと思う。
たぶん、彼らがもっと歳とったら介護することになるんだろうなぁ。
そういえば母も、自分のことを「どこか変わっている」と思っていたのだそうだ。
>>>あなたにとって、「家族」とは何ですか?
うざい。でもいないと困る。
親の経済力があるから、今の生活も成り立っているのだと思う。
みどりさん wrote:
>私も90点のテストとともによくおこられました。ただ、うちの母は「なんで10点分間違えたの」と言って怒ります。
>母にとっては100点が当然らしく、100点を持ってかえってもほめられたことはありません。
横レスです。
うちの母もそうでした。
物心ついてから親にほめられた記憶ってない。
親と一緒に暮らしていた間(18年間)、小言を言われずに済んだ日は、
合計で10日もないと思う。
夕食の時間はたいてい小言タイムで、きちんと味わうこともできず、
おかげでどうやらわたしには「食事は楽しい」という概念は育たなかったようです。
でも、わたしのとどまることを知らない雑談を聞いて、適切な反応を返してくれるのは、
母しかいなかったりする。そしてやはりどこか似ているような気もします。
でも正直なところ、相続税で苦労しない程度の財産残して
早く死んでくれないかな、とか思ってたりもするな・・・
人格はいらない。金だけほしい。
でも葬式がめんどくさそう。
どなたか教えてください。
http://www.hi-ho.ne.jp/sugiyuki/
>
>『なぜ生きなければいけないのか』
>
俺の場合は、「少しでも幸せを感じるから」です、
生きなければいけないと言う決まりはないと思います。
けして治る事のない重病におかされ
自分が生きていても苦痛しか感じないと判断した人が、
自ら死を選ぶ場合もある様です。
俺はそれほどの苦痛を感じたことはないので、
その場相死を選ぶことの是非はわかりません。
ただ、俺は幸せを感じることができます、
そして訓練次第では、もっと幸せになれると信じています。
「幸せのために生きる」というと、科学や哲学を熱心にやっている人達の、
一部の人に、馬鹿にされることがあります。
だけど、単純に考えてもいいと俺は思います。
俺や、あなたが生きていること事体、
生きることの肯定にならないでししょうか?
少なくとも俺達は、私達は、死ぬことと生きることを選ぶ権利は持っています
俺は死ぬのは恐いし、いくら辛くても本気で死のうとは思いません。
「生きたいから生きる」、「生きていた方がいいから生きる」
それでいいんじゃないかな?
ミッドランド wrote:
>武田好史さん wrote:
>>あなたにとって、「家族」とは何ですか?
>
> 僕にとっては「愛すべき存在、だけどもなかなか心が通い合わない存在」です。
僕は家族から愛されたことが無い・・・・
>
> 僕の親兄弟は皆、社交的で友達も多く、人から好かれる存在です。その要素をもたない僕は、まさに家族の中では「特異な存在」だったのです。
社交性なんていらない、そんな家族は僕たちを苦しめるだけ、健常者には僕たちの気持ちなんてわからない・・・・・
>
> 親も、僕があまりに自分たちと異なっていることで、不思議に思っていたようです。時にそれは僕へのいらだちとなって現れました。
そんな親は殺したほうがいい・・・・・
>>あなたにとって、「家族」とは何ですか?
克服すべきものです。
母が気にするのはそれが事実かどうかだけ、事実であったらいかに相手が傷つくことでも言って構わないと思っています。
父はひたすら批判的なことしか言えない人です。批判だけで、アドバイスはありません。
ときどき自分の中に彼らの影を見つけて、ぞっとします。
シンタロウさん、私も90点のテストとともによくおこられました。ただ、うちの母は「なんで10点分間違えたの」と言って怒ります。
母にとっては100点が当然らしく、100点を持ってかえってもほめられたことはありません。
武田好史 wrote:
>みなさんこんばんは。
>今日はまたみなさんにお尋ねしたいことがあります。
>
>あなたにとって、「家族」とは何ですか?
僕にとって家族はうざったい物体に他ならない。特に母親がうざったいです。
母親はいつも僕だけを干渉してきます。僕が中学生の頃、母はいつも「勉強しろ!」とうるさく言ってきて、僕の部屋に入ってきて「お前まだそれしかできてないんか!」とよく怒鳴ってきました。学校の定期テストがかえってきた時、理科は92点を取ったのに母は「この英語の点数はなんだ!9点だぞお前!」と怒鳴ってきて「この能無しめ!」と言ってきました。僕の母は僕のいい所に目を向けてくれません。現在も怒鳴ってきます。僕は母親を殺したいです。
武田好史さん wrote:
>あなたにとって、「家族」とは何ですか?
僕にとっては「愛すべき存在、だけどもなかなか心が通い合わない存在」です。
僕の親兄弟は皆、社交的で友達も多く、人から好かれる存在です。その要素をもたない僕は、まさに家族の中では「特異な存在」だったのです。
子供の頃、幾度となく「なぜだ?」と思いました。親の要素が全然僕に遺伝していない。もしかしたら血がつながっていないのでは?などと今思えばくだらないことを考えたりしていました。
親も、僕があまりに自分たちと異なっていることで、不思議に思っていたようです。時にそれは僕へのいらだちとなって現れました。自分たちと似ても似つかない子が目の前にいて、どうすればいいのかわからずに、悩んでいたのでしょう。
なおかつ当時はASのことなど知る由もなく、僕のことは「性格の問題」と捉えられたので、ますます問題をこじらせることとなってしまいました。
最近になって、ASのことを親に話しました。すると向こうはすぐさま納得した表情を浮かべました。「やっぱり、そんな事情があったのか。」といった感じで。
特に母親は、僕にいらだちをぶつけてきたことを反省するかのごとく、
「こんな風に生んだ責任があるから、普通の子に育てなければ、と思っていた。」
と僕に言いました。それを聞いたとき、僕は胸中複雑でした。
責任なんかとる必要ないはずなのに、そんな強迫観念があったとは。でも無理もないでしょう。「発達障害」が「母親の愛情不足」に起因するという、間違った言説が流布していた時代だったのですから。
家族が僕に「愛情」を注いでくれていたことに、僕は最近気づき始めました。しかし悲しいことに、僕はいまだその「愛情」に見合うだけの「愛情返し」ができずにいるのです。「心を通わせる」ことが何たるかがわからず。
自分の仕事を持てたことでも「愛情返し」になるか? ミッドランド
武田好史 wrote:
>みなさんこんばんは。
>今日はまたみなさんにお尋ねしたいことがあります。
>あなたにとって、「家族」とは何ですか?
こんばんは、武田さん。
関係が悪かったとき:
親の理想通りにならなくて争いが多かった昔は
もう逃げたくて逃げたくて仕方がなかった
関係が良くなった今:
私の精神的な弱さやつらかった経験等を分かってもらえている今は
やはりいろんなことを理解してくれるかけがえのない存在ですね...。
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