アスペルガーの館の掲示板(旧)

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Re: 責任能力は問えるのか? 5390へのコメント
No.5408  Fri, 15 Jun 2001 13:18:11 +0900  くると [この発言にコメントする]

 くるとです。わたしとしたことが亀レスになってしまった…


武田好史さん wrote:
> さてこの事件でのキーワードは、犯人の「責任能力が問えるか?」という
>ことです。

>みなさんはどう思いますか?

問うべきだと思います。また、極端な意見かもしれませんが、障害の軽重
によって責任の有無や量刑を決めない方がいいと思います。犯罪を犯した人
が重度の精神障害者であるなら、刑務所内で適切な医療が受けられるように
するのが適当だと考えます。「障害があったから責任能力が問えない」とい
うのは、逆に障害者にとって失礼だと思います。


Re: ASって何なんだろう。 5396へのコメント
No.5407  Fri, 15 Jun 2001 11:11:41 +0900  gon・zo [この発言にコメントする]

>Maria wrote:
>そもそも何をもって「AS」と判断するんだろう。

Mariaさん、こんにちは。
それと、「あさかぜさん」には、お返事出せていなくてごめんなさい。「あさかぜさん」、いい人なんだろうなあ、と思いながら、結構私は考え込むタイプなので、考えているうちに時期を逸してしまいます。

 このところ書き込みをしてみましたが、書ける時期が限られていて、常連にはなれそうもありませんが、経験上考えてみたことを書いてみます。お返事をうまく書けないかも知れませんが、そのときはごめんなさい。

子どもや他の関係者を見ている限り、ASは、生涯その特徴的な感性自体を変えることができないということがいえると思います。生まれたときから今まで、特別な感性をもっていることはASかどうかの必須条件だと思います。 
それが「障害」にあたるかどうかは、うまい言葉がみつかりません。
というのは、本来人間が創造された時が完全な姿だとすると、年月を経るうちに「周囲の状況をより詮索しなければ暮らせなくなったかも知れない」、つまり、ASといわれている人の方が、創造主から見ると健全で、他の人が狡猾さを身につけたのかも知れない、とも思うのです。


 しかしながら、事実上、学習方法や、感性は明らかに他の人と異なり、現在の教育体制の中では不具合があると感じています。その違いは、普通の人たちから見ると、馬鹿げているけれども、一部の人から見たら、とても素敵な違いです。その違いを「素敵だ」と本人も家族も感じることができるには、世間の常識にとらわれずにいなければできないことです。この「素敵」は、一般の人から見ると、おそらく「障害」と名が付けられるでしょう。

「学習障害」は、ASと重なり合って起こることがある問題ですが、ASの一部の人に起こり得ることであって、根本的な部分ではないと考えています。学習障害のあるASの人は、「認知、感性の相違」というASの根本的な問題とを併せ持っているわけですから、社会の適応に関して、もっと大変と思われます。
 一方、「学習障害」や「知的な遅れ」は、問題自体大変ですが、ある意味では「見える障害」、「他人から確認できる障害」です。この部分においては、行政の区分ができやすいと思います。が、ASの問題は、あくまでも「見えない」「他人から測ることが難しい」ことが問題であり、「学習障害がなくても、障害がある」ことこそ問題なのです。
子どものころから、「普通児」にも「障害児」にもあてはまらない子どもたちです。


 それは、「どこか違うな?」というような軽いものではなく、よく海外の文献でtopsy-turvy(はちゃめちゃな、逆さまの)と紹介されていますが、そばに居る者にとっては、とても良くわかる表現です。
かといって、精神状態がおかしいという表現も適切ではなくて、価値観が「topsy-turvy」、だけど人間として向き合える、確かな深い感情があります。

 「異なる」ことが生活に支障をきたす人は、診断を受けることになると思います。逆に言えば、「ひた隠しにすれば、隠し通せる」様な違いともいえます。(見た目は何ら違いませんから。隠すような恥ずかしい状態という意味ではありません。)
 彼らのような、美しい感性をもった人たちが、この世に置かれた時はイジメなどにあうことは、すぐに想像できます。快・不快の基準が普通の人とは明らかに異なっていますから。
 だから、ASの人は、よい環境さえあれば、犯罪などとは一般人よりもほど遠いところにいると思われます。

 また、学習の方法も、明らかに異なると思えます。情報の取り入れ方や順序が違うというのでしょうか、それは視覚・聴覚の認知の違いか、あるいは脳の構造によるのか、わかりませんが、人格と知能の出来上がっていく順序が違っていると思います。
 ですから、私は「社会性の欠如」ではなくて「社会性が育つのが、知能の後におかれる」のだと考えています。社会性が育つ前に色々な苦い経験をしてしまうと、心的な外傷をうけてしまうのではないでしょうか。さて、社会性がいつ知識に追いつくか……永遠に続くように思います。
 親としては、社会性が育つまでは「守る!」と決心しているのですが、一生だとちょっときついですけどね。

>とはいえ、「私って普通の人とどっか違うなぁ」と思ってここに来て、「おお、私>はASだったのか!」みたいな自称ASのみどりさんやあたしのような人間もいたりす>る。だけど、機械的に「この人はAS」「この人は非AS」と分けることは、できない>し、無意味でもある。なんとなれば、知能テストなんていうのは「ASにとって困難>なこと」を発見するものであって、その「ASにとって困難なこと」を何らかの方法>で克服しちゃったASに対しては通用しないからなのね。だからあたしがAS児のお母>さまがたに助言もできるというものです。なにしろ「この道はいつか来た道」なの>ですから。

また、個人的な意見ですが、ASは、自閉とのスペクトラムだと思っています。したがって、「困難なこと」も、人によってその強弱があると思われます。これは、根底にある生まれ持った自閉の特徴がどのくらい強固なものかというのと、その後、知能レベルでどのくらいカバーできるか、それと、最も重要なのは、支えられる人が周囲にいるかどうかによって、社会適応の程度が結果としてあらわれるのではないかと思います。
裏返せば、自閉の特徴が全くないと思われるが、社会に適応しづらいというのは、ASとは言わないのではないかということです。

「困難なこと」は、克服できる可能性がある部分と、ない部分があると考えています。
たとえば、「不器用など神経的なこと。」これらは、訓練によって克服できたり、困難に優る「こだわり」によって、普通の人以上のものになる可能性があると思います。

しかし、「ASにとって困難なこと」の根本部分は克服できるものではないと思います。「心の理論」と言われますが、これは、模倣や理性でカバー出来るところがあると思います。しかし、真の意味に於いて、一般人と同じように感じるかと言えば、難しいかな?と思っています。
感性の部分とか、こだわりの部分とか、一般の人と違う部分をとってしまうことはできないし、「困難」は「長所」でもあり、個人の人格を否定してしまうような気がするのです。もっとも、むりやり訓練で変えようとしても、出来ない部分だと思います。したがって、訓練されて(あるいは状況が良くて)一見社会に適応しているようにみえるASの人でも、自閉の心は生き続けているものと考えています。

 けれど、この「自閉の特徴がどのくらいあるか」については、線引きは難しいと思いますし、これは他人が判断することではなくて、本人自身が感知できるものではないでしょうか。「わかる人にしかわからない感覚」というか……。

数値にしたり書類にしたり、まして行政の認可をうけるというのは、気が遠くなるほど難しく思えます。何といっても「見えない」ので、「自己申告」以外に方法がないからです。幼いときに「自閉性」があったか、という親や周囲の人の意見、これも確かではありません。

そうなると、現状で、社会に訴えかけることはとても危険だと言わざるを得ません。
ASではなくとも、社会に適応しづらい人は、たくさんいると思います。(この歪んだ社会に適応できる人の方が、私は不思議ですけど)自己申告において、社会適応できない人が全員ASと認められたりしたら、それほど怖いことはありません。そのうちの一人でも犯罪などおかしたらどうでしょう?
 また、医者の診断を受けた人だけがASと認定されるなら、ASであるのに認定を受けられない人が多く出ると思います。
 この頃の乳幼児検診などは、やっと進んできたようですが、それでも環境や親の感性などによって、すべてのASの人がスクリーニングできるとは思えません。また、情報の氾濫と医者の経験不足によって、「自閉症までいかないのでASかもしれない」「学習障害予備軍」のような扱いを受けているのも、現状です。
 療育にしても、「何とか社会と歩調をあわせるため」の訓練でしかありません。世界にたった一つしかない芸術作品の上に、皆真っ白なペンキを塗っていくように思えます。

 「何をもってASとするのか。」私自身結論が出ているわけではありません。
ただ、言えるのは、「そのままの自分でいることを許可してくれるところ」を見つけること」からはじめるしかないと思っています。そしたら、「違和感」でなく「素敵」にみられる可能性があると思います。行政や世論に訴えかけても、この世の常識で動いている世界に住んでいる以上、何ら変わりないどころか、ASに対する偏った興味が必要以上に増すだけだと思いますが。 

 ASである人が、自分たちの特徴を生かして、この世に貢献したり、慰めになる実績を作っていくことができれば素敵だと思います。大それた成功とか金儲けとかいうのではなく、隣にいる人が「あなたがいて嬉しい」と思ってくれることの積み重ねだと思います。大多数の人に認められるより、たった一人の人でも良いから「いてほしい」「生きててほしい」と。

 ASであっても困難に比較的遭わなかった方がいるとすると、置かれた状況が良かったり、あるいはASの要素が薄かったりということが考えられると思います。
 また、健常者と同様以上に、ある分野で秀でることはあっても、社会に適応の面で同様以上にできるということは、まずありえないと思われます。でも、社会に適応できないこと=不幸せではないと考えます。むしろ、普通の人以上に幸せに暮らす可能性を秘めていると信じています。


>ASは性別や皮膚の色や目の色のような、ある種の区別である。ただ、それは精神の>問題で、外からは判断することができず、本人の感覚によるしかない。その意味>>>で、ASはいわゆる「色弱」に似ているともいえます。いわゆる「正常な人」と同>じように色の区別はできる(ある場合には、「正常な人」よりもその判断能力は正>確です)けれど、異なった色の世界に住んでいる。

 うまい例が見つからないのですが、もし心に形があって、一般のひとがハートの立体型をしているとすれば、ハートのこぶが1つだったり、3つだったりする感じでしょうか。だから、本人にしかわからない感覚というよりも、本人は当たり前のことをしていても、正常な人と同じ様な感じ方をしないので、周りの人が違和感をいだくのではないかと感じました。
そして、生まれつきハートの形の変形が色々な人がいて、人生の途中でハートが変形したりという人もいるのではないでしょうか。もっとも、完全なハート型をもった普通人も存在しないとおもいますが。(ちょっと例が不適切。自分でもわからなくなった。)
 ASを単なる違いと思えるのは、ASの側であって、一般の人から見ると、やはり「滑稽」と映るでしょうね。ASの個性を「素敵」と思える人だけが、「単なる違い」と考えることができるのではないでしょうか。


 長くなってごめんなさい。


Re:Re: ASって何なんだろう。 5402へのコメント
No.5406  Fri, 15 Jun 2001 03:35:52 +0900  Maria [この発言にコメントする]

みどりさんwrote:
>自称ASのみどりです。Maria ちゃん、こんばんは。何度かすれちがった程度で
>ほぼ初対面といえる相手に「ちゃん」づけをするのも変なんですが、Mariaちゃん
>にはどうしてもちゃんをつけたいのです。嫌だったら言ってください。

 嫌ではありません。うれしいです。
 何かの義務の見返りとしてそこにいることを許されている、みたいな存在でいることにちょっと飽き飽きしているあたしとしては、「ちゃん」で呼ばれるのは気持ちいいです。
 「Maria様」とか呼ばれると、かなり居心地が悪いです。

I wrote:
>>ASを「症候群」として捉えると、たとえば知能テストだとか診断規準によっ
>>て「この人はAS」と診断された人がASだということになる。

>障害の場合も同じだと思います。法的に障害や疾病、そのほかなんらかの状態を
>認めるかどうかの基準は、行政事務のための便宜的な線引きにすぎないのだから、
>それ以外の場でその基準に沿わなきゃいけない理由はどこにもないはず。
>医療や研究上の分類基準についてもそう。まあ判断に困った場合には参考になる
>でしょうが。

 あたし自身はべつに公的な(行政上の)保護なんか受ける必要を感じていませんが、「AS児のお母さま」と言ったときに「AS」については、おおむね学習障害の一部としてのASが問題にされているので、それこそ行政上の区分が重要になってきます。

 みどりさんやあたしは「こっち側(社会的に適応した立場)」からASの子供たちを見て「迎えいれる」立場ですが、社会に「送り出す」立場のお母さまがたにしてみると、「公的な保護」について気にせざるをえません。
 「療育」や「特種学級」といった選択肢についても思うところがありました。あまり整理のつかないまま発言しちゃったので、ちょっと申し訳なく思っています。みどりさん、それにみなさん、ごめんなさい。

>> 閑話休題。「みどり」さんは、あの「みどりちゃん」なんでしょうか。謎です。
>「あの」がここの掲示板に以前投稿されていた「みどりちゃん」なら、別人です。
>ほかの「みどりちゃん」であれば、わかりません。

 こういう発言のスタイルって、あたし好き。「みどり」という名前も、いいなぁ、都思います。
 ちなみにロシア語では「赤い」は「美しい」の意味で使われ、エスペラントでは「緑の」は「よい」という意味で使われます。

 「赤摂也」さんという数学者の方がおられます。「赤緑」さんも、捜せばおられるかもしれません。

>具合が悪くて医者に行けず、抗うつ剤が切れてしまったおかげか、世界がぐるん
>ぐるんまわっている。うー気持ち悪いー

 「お大事に」としか言えない自分が悲しいです。だけど、お大事に。

 (Maria)


Re: 質問(人間が人間であるためにやらなければならないことって何?) 5404へのコメント
No.5405  Fri, 15 Jun 2001 00:32:19 +0900  るおう [この発言にコメントする]

武田好史 wrote:
>>なるほど!るおうさんの話から2つの答が判りました。
>「生き抜く」「周りの人の期待にわずかでも答える」

naruhodoそうかもしれない。
その最初に書いた人は、全てのことを他人に手伝ってもらって生きているけど
素晴らしいことを言うのだ


Re: 質問(人間が人間であるためにやらなければならないことって何?) 5401へのコメント
No.5404  Fri, 15 Jun 2001 00:20:06 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

るおう wrote:
>武田好史 wrote:
>
>>「人間=意識が正常であり・動ける人」というふうに解釈した場合は、どうでしょうか?
>
>すみません。。ちょっと話題からそれますので、、また元に戻っていただけると
>幸ですが、、
>
>全く動けなく、話すこともままならない人で、何冊も本を出し沢山の人に
>共感を得て、感銘を与えている人が居ます。
>
>そして意識は正常ではないけれど、例えば好きな音楽を聴いたときに、体温だけ
>上昇したという症例があります。つまり生きているのです。感じているのです。
>
>話しがそれました。ちょっとそんなことを思い出したので、、
>
>武田さんが今、、書かれたことは、、そう言うことを前提に、つまり、範囲を狭めて、話題を広げ様としていることだと解釈していますので、気になさらないで下さい。ちょっと思い出したので。。書きました。

なるほど!るおうさんの話から2つの答が判りました。
「生き抜く」「周りの人の期待にわずかでも答える」


Re: ASって何なんだろう。 5396へのコメント
No.5403  Fri, 15 Jun 2001 00:07:37 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

Maria wrote:
> 自分で調べればいいことを掲示板に書くのは反則という気はするけれど、書いてしまおう。「そういえば、考えたこともなかったなぁ」とかいって、興味を持ってくれるひともいるかもしれないから。
>
> そもそも何をもって「AS」と判断するんだろう。
> 日本国中にASの人というのは何人ぐらいいるんだろう。
> 男女比が五対一という数字は、どこから出てきたんだろう。
>
 東海地方にあるASの支援団体「アスペの会」の創始者の1人である、杉山登志夫さんは著書「発達障害の豊かな世界」の中で、「アスペルガー症候群」を次のようなものであると述べています。

#アスペルガー症候群とは、簡単に言えば、「自閉症−言語障害」である。自閉症#は、社会性の障害と、コミュニケーションの障害と、想像力の障害およびそれに#基づく行動の障害の3つを基本症状とする。このうちコミュニケーションの障害#の部分が軽微である(ただし全くないわけではない)のがアスペルガー症候群で#ある。言語発達の遅れは少なく、知的には正常であるものが多い。しかし自閉症#と同様の社会性の障害を生まれつきもっていて、また興味の著しい偏りやファン#タジーへの没頭があり、ときには儀式行為をもつ者もある。また非常に不器用な
#者が多い。

 「儀式的行為」という文言が何を意味しているか判りませんが、私自身ととしては不器用である・思いやりがなく自己中心的と人からよく言われる・計画的な行動が苦手ということが、どうもこの定義におけるASという範疇に入ってくるのではという気がします。
 でもこれは、まだASでない外の人から見た定義であって、我々アスペ人が、主観的にどのように世の中を感じて、快と感じたり不快と感じたり・理解できたと満足したり・判らないと落ち込んだりしているのかを、いわゆる「普通」と言われる人と比較・対照していくことを繰り返すにことによって、明らかにしていくことでより明白な定義が得られていくものであると私は思います。

 最近の研究によれば、日本におけるASの罹患率は200人に1人であると言われています。ある人の試算によると、現在日本には、「引きこもり」の人が800,000人いるということですが、そのうち4,000人がアスペルガー症候群であるということになります。

 また、男:女=5:1(4:1というのが正確かと思いますが・・・)という男女別の発生の比率は、不思議なことに学習障害・重度の自閉症にも共通のものなのだそうです。


Re: ASって何なんだろう。 5396へのコメント
No.5402  Fri, 15 Jun 2001 00:07:09 +0900  みどり [この発言にコメントする]

自称ASのみどりです。Maria ちゃん、こんばんは。何度かすれちがった程度でほぼ初対面といえる相手に「ちゃん」づけをするのも変なんですが、Mariaちゃんにはどうしてもちゃんをつけたいのです。嫌だったら言ってください。

Maria wrote:
>ASを「症候群」として捉えると、たとえば知能テストだとか診断規準によって「この人はAS」と診断された人がASだということになる。

ASが "A..... Syndrome" の略なら、それは間違いなく症候群でしょう。しかし、なにかの症候群であるために診断は必要ありません。罹患 (先天性のものも罹患というのかどうかは別として) しているだけで十分です。
障害の場合も同じだと思います。法的に障害や疾病、そのほかなんらかの状態を認めるかどうかの基準は、行政事務のための便宜的な線引きにすぎないのだから、それ以外の場でその基準に沿わなきゃいけない理由はどこにもないはず。
医療や研究上の分類基準についてもそう。まあ判断に困った場合には参考になるでしょうが。

> 閑話休題。「みどり」さんは、あの「みどりちゃん」なんでしょうか。謎です。

「あの」がここの掲示板に以前投稿されていた「みどりちゃん」なら、別人です。ほかの「みどりちゃん」であれば、わかりません。

具合が悪くて医者に行けず、抗うつ剤が切れてしまったおかげか、世界がぐるんぐるんまわっている。うー気持ち悪いー


Re: 質問(人間が人間であるためにやらなければならないことって何?) 5400へのコメント
No.5401  Fri, 15 Jun 2001 00:06:44 +0900  るおう [この発言にコメントする]

武田好史 wrote:

>「人間=意識が正常であり・動ける人」というふうに解釈した場合は、どうでしょうか?

すみません。。ちょっと話題からそれますので、、また元に戻っていただけると
幸ですが、、

全く動けなく、話すこともままならない人で、何冊も本を出し沢山の人に
共感を得て、感銘を与えている人が居ます。

そして意識は正常ではないけれど、例えば好きな音楽を聴いたときに、体温だけ
上昇したという症例があります。つまり生きているのです。感じているのです。

話しがそれました。ちょっとそんなことを思い出したので、、

武田さんが今、、書かれたことは、、そう言うことを前提に、つまり、範囲を狭めて、話題を広げ様としていることだと解釈していますので、気になさらないで下さい。ちょっと思い出したので。。書きました。


Re: 質問(人間が人間であるためにやらなければならないことって何?) 5398へのコメント
No.5400  Thu, 14 Jun 2001 22:23:51 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

あさかぜ wrote:
>武田好史さん wrote:
>
>> あなたが思うところ、人間が人間であるためにこれだけはやらなくてはならないことを一つあげるとしたら、何をあげますか?
>
> こんばんは。
> 最低三つあると思います。食べて・排泄して・眠ることです。
>
> 身体が動かない人がいます。意識のない人がいます。乳児は?ボケ老人(この言い方が気に障る方はすみません)は? 人間に含めますか?
>
> 質問における「人間」の範囲を設定していただけると嬉しいのですが……。すみません。

なるほど!人間全体全てを考えると、究極的にはこの3つにつきるのでしょう。
「人間=意識が正常であり・動ける人」というふうに解釈した場合は、どうでしょうか?


Re: ASって何なんだろう。 5396へのコメント
No.5399  Thu, 14 Jun 2001 20:45:37 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

Mariaさん wrote:
> 自分で調べればいいことを掲示板に書くのは反則という気はするけれど、書いてしまおう。「そういえば、考えたこともなかったなぁ」とかいって、興味を持ってくれるひともいるかもしれないから。

 こんばんは。
 反則とは思わないです。今のわたしに判りそうなことだけ考えさせてください。

>「私って普通の人とどっか違うなぁ」と思ってここに来て、「おお、私はASだったのか!」みたいな自称ASのみどりさんやあたしのような人間もいたりする。だけど、機械的に「この人はAS」「この人は非AS」と分けることは、できないし、無意味でもある。なんとなれば、知能テストなんていうのは「ASにとって困難なこと」を発見するものであって、その「ASにとって困難なこと」を何らかの方法で克服しちゃったASに対しては通用しないからなのね。

 同感です。知能テストの信頼性については意見が分かれるでしょうが(研究者の間ではという意味です)AS本人とその家族にとっては参考程度のものでしょう。

> こうなると、男女比が五対一というのも怪しいものだったりするわけです。男性が適応すべき環境と、女性が適応すべき環境というのは、将来の理想としてはともかく、現状としては別なのですから。(←ついついフェミニストに配慮してしまうあたしである)

 ご配慮に感服いたします。
「男女比五対一」は、診断を受けた人の数を元に算出されたものですよね? では診断を受けない人のすべてが社会に適応していて、何の問題も感じていないかといえば、そんなことはないだろうと推測できます。育った環境や個人の考えかたに大きく左右されると思うからです。

> あたしたちが「AS」というものをどう捉えるかが問題になってくるのですね。

 そう思います。要は「捉え方」ではないでしょうか。

> あたしはAS児のお母さまがたに、「親というのは、子供が社会と折合うためのお手伝い程度のことしかできない」とつねづね言ってきました。社会に自分を合わせようとすれば、自分が苦しい。自分に素直になると、社会とトラブルを起こす。だから、自分にとって居心地のいい場所を社会の中に見つける、あるいはそういった場所を作り出すためのお手伝いをするのが親のつとめだ、ということだったりします。

 ↑その程度のことしかできません。親も「社会に生きる人間」のひとりですし、子供へのサポートがすべて有効に作用するかどうかも予測は不可能ですが。自分が信じる道を進むしかないです。

> 「AS」と「健常者」の違いはまさしく「違い」でしかなく、「AS」を「AS」であると規定するものは、「一般社会のこういうところが苦手」「こういうふうな環境が快適」といった、「本人自身の感覚」だということになります。
> 考えてみれば、「AS」は病気ではないとか、「AS」と「健常者」は対等であるとかいったあたしの考えに、この発想はマッチしています。

 えーと……うまく言えないですが、足りない部分は何かで補えばいいし、あるいはサポートを要求してもいい(身体の障害のひとはそうしています)ですし、苦手な部分は避けて通ることも許されると思います。
 「健常者」が社会で要求されるもののすべてに「適応」しようと無理をするのは二次的な問題の元になりかねないです。実のところ「健常者」自体も病んでいるひとは非常に多く、現代社会がいかに苛酷と感じているかは(個人差はありますが)「癒し系の○○」を求める風潮や「心療内科」大はやりなどの現象に現れています。
 かく言うわたしも「心療内科」に通院し「抗うつ剤」「精神安定剤」の処方を受けている身です。それが別に悪いこととは思いません。病気になれば治療をするのは「当たり前」のことで、風邪をひいたって、うつ病になったって、医者にかかります。直したいという気持ちがあるのだもの、「心療内科」がだめなら「精神科」「神経科」も行きます。
 ↑こういうことに抵抗があるひとも多いというのも知っています。だからって、それがどうした?って感じですね。(なんか本題からはずれてしまってすみません)

> ASは性別や皮膚の色や目の色のような、ある種の区別である。ただ、それは精神の問題で、外からは判断することができず、本人の感覚によるしかない。その意味で、ASはいわゆる「色弱」に似ているともいえます。いわゆる「正常な人」と同じように色の区別はできる(ある場合には、「正常な人」よりもその判断能力は正確です)けれど、異なった色の世界に住んでいる。

 Mariaさんのように的確なたとえを使って説明することができません。
 わたしは、いうなれば「感覚人間」なので、理路整然と言葉で表現するのは苦手です。自分が感じていることや考えていることを人に知ってもらいたいという気持ちはありますが、言葉で伝えることのできる情報はとても少ないのです。
 一番楽なのは「わたしと同じような感じ方をする人と出会うこと」です。説明抜きで、お互いに感じます。45年の人生で、まだ一人しか出会っていませんけど。とても安心しました。確認作業は言葉でするしかないけれど、とても似ている自分達に驚きました。初めて会ったときから「十年来の親友」みたいでした。

 ごめんなさい、どんどんはずれていきますね。話題がそれる・集中困難(さっき参議院選挙のお願いの人に応対したら、気がそがれました。しくしく)…は、ADHD傾向の最も得意とする「技」ですね。

 あまり考えたとは言えない内容ですみません。わたしも他の方々のご意見が楽しみです。他力本願も平気ですもの。「できないことは、できない」「わからないことは、わからない」ので、すべてに答えが必要とは思っていませんけど、考えることや感じることは大好きなのです。
 ASとか健常者とか、あまり気にしてないのも「違い」が気にならないからでしょう……。世の中って「なんでもあり」だもの。そう言うと「変わってるね」と言われますが、わりと好意的な感じを受けますので「ほめてくれてありがとう」と笑顔を返すことにしているのでした。

 わ〜わ〜、どんどんずれてく〜!   しょうもないことで……申し訳ありませんでした。


Re: 質問(人間が人間であるためにやらなければならないことって何?) 5397へのコメント
No.5398  Thu, 14 Jun 2001 19:14:22 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

武田好史さん wrote:

> あなたが思うところ、人間が人間であるためにこれだけはやらなくてはならないことを一つあげるとしたら、何をあげますか?

 こんばんは。
 最低三つあると思います。食べて・排泄して・眠ることです。

 身体が動かない人がいます。意識のない人がいます。乳児は?ボケ老人(この言い方が気に障る方はすみません)は? 人間に含めますか?

 質問における「人間」の範囲を設定していただけると嬉しいのですが……。すみません。


質問(人間が人間であるためにやらなければならないことって何?)
No.5397  Thu, 14 Jun 2001 18:45:04 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

みなさんこんばんは。

いつも私のたわいもない質問に答えていただきまして、本当にありがとうございます。

さて、今日もまたつかぬ事をお尋ねします。

 あなたが思うところ、人間が人間であるためにこれだけはやらなくてはならないことを一つあげるとしたら、何をあげますか?


ASって何なんだろう。
No.5396  Thu, 14 Jun 2001 18:32:07 +0900  Maria [この発言にコメントする]

 自分で調べればいいことを掲示板に書くのは反則という気はするけれど、書いてしまおう。「そういえば、考えたこともなかったなぁ」とかいって、興味を持ってくれるひともいるかもしれないから。

 そもそも何をもって「AS」と判断するんだろう。
 日本国中にASの人というのは何人ぐらいいるんだろう。
 男女比が五対一という数字は、どこから出てきたんだろう。

 ASを「障害」として捉えると、「べつに困ってませんよ」というひとは、ASではないことになる。そうすると、ASをなんとかするために何らかのケアを必要とする人の数が、「AS人口」ということになる。

 ASを「症候群」として捉えると、たとえば知能テストだとか診断規準によって「この人はAS」と診断された人がASだということになる。そうすると、無作為抽出なりなんなりして、一斉にスクリーニングテストをして、その割合に全人口を掛ければ、一応の「AS人口」というのが出ることになる。

 とはいえ、「私って普通の人とどっか違うなぁ」と思ってここに来て、「おお、私はASだったのか!」みたいな自称ASのみどりさんやあたしのような人間もいたりする。だけど、機械的に「この人はAS」「この人は非AS」と分けることは、できないし、無意味でもある。なんとなれば、知能テストなんていうのは「ASにとって困難なこと」を発見するものであって、その「ASにとって困難なこと」を何らかの方法で克服しちゃったASに対しては通用しないからなのね。だからあたしがAS児のお母さまがたに助言もできるというものです。なにしろ「この道はいつか来た道」なのですから。

 閑話休題。「みどり」さんは、あの「みどりちゃん」なんでしょうか。謎です。

 こうなると、男女比が五対一というのも怪しいものだったりするわけです。男性が適応すべき環境と、女性が適応すべき環境というのは、将来の理想としてはともかく、現状としては別なのですから。(←ついついフェミニストに配慮してしまうあたしである)

 こうなると、あたしたちが「AS」というものをどう捉えるかが問題になってくるのですね。

 「精神遅滞」「学習障害」の一部として、「発達障害」を考え、「AS」をその一部と考えると、「AS」と診断されていなくて、これからもたぶんされないであろうみどりさんやあたしは「AS」ではないということになります。
 逆に、「AS」が一種の「性格の偏り」(もっとも「偏り」が具体的にどういうものなのかは不明なのですが)であるとして、「健常者」と異なったやりかたで学習を行なうことにより、「健常者」と同様以上に社会に適応できるとしたら、ASというのは男と女のようなたんなる「違い」でしかないことになり、「障害」ではなくなります。

 あたしはAS児のお母さまがたに、「親というのは、子供が社会と折合うためのお手伝い程度のことしかできない」とつねづね言ってきました。社会に自分を合わせようとすれば、自分が苦しい。自分に素直になると、社会とトラブルを起こす。だから、自分にとって居心地のいい場所を社会の中に見つける、あるいはそういった場所を作り出すためのお手伝いをするのが親のつとめだ、ということだったりします。

 だとすると、「AS」と「健常者」の違いはまさしく「違い」でしかなく、「AS」を「AS」であると規定するものは、「一般社会のこういうところが苦手」「こういうふうな環境が快適」といった、「本人自身の感覚」だということになります。

 考えてみれば、「AS」は病気ではないとか、「AS」と「健常者」は対等であるとかいったあたしの考えに、この発想はマッチしています。

 ASは性別や皮膚の色や目の色のような、ある種の区別である。ただ、それは精神の問題で、外からは判断することができず、本人の感覚によるしかない。その意味で、ASはいわゆる「色弱」に似ているともいえます。いわゆる「正常な人」と同じように色の区別はできる(ある場合には、「正常な人」よりもその判断能力は正確です)けれど、異なった色の世界に住んでいる。

 どうなんでしょう。みなさんのご意見を、伺いたいと思います。

 (Maria)


Re: 責任能力は問えるのか? 5393へのコメント
No.5395  Thu, 14 Jun 2001 18:27:48 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

さくらかのえ wrote:
>武田好史さん wrote:
>
>> さてこの事件でのキーワードは、犯人の「責任能力が問えるか?」ということです。
>
>>みなさんはどう思いますか?
>
>問えると思うし、問うべきではないでしょうか。
>それにしても、罰を逃れるために重度障害者と思わせるような錯乱を装うとは・・・嫌な気分です。

 本当にそうです!あんなやつの罪を許してしまったら、日本国中の良心的で社会に適応できないと日々思い悩んでいる、多くの精神障害者の方々の苦労が報われません!


Re: 裏方バンザイ! 5392へのコメント
No.5394  Thu, 14 Jun 2001 03:15:43 +0900  みどり [この発言にコメントする]

自称ASのみどりです。ここの古いログをぱらぱら見てます。いやー自分に似てるひとがこんなに世にたくさんいるとは知りませんでした。
古い話題にも、返事を書きたくてたまらないのがたくさんあったんですが、残念ながら私は記憶力には欠けるせいか、多すぎたせいか、全部忘れてしまいました。

ミッドランド wrote:
> 皆さんは「裏方の仕事」と聞いて、何を連想しますか?

裏方大好きです。昔バンドをやっていて、ソロまわしを頑固にパスするというバンドマンらしからぬ行動を取っていました。
いま考えると、どうしてバンドなんて集団行動ができたのか不思議ですが、そういやあの集団もみな世でいう変人ぞろいだったな。

話がそれました。
仕事でも趣味でも、ごくたまにならば表に名前が出るようなことがあってもミーハー的に喜んじゃいますが、普段は裏方の仕事の方が性にあってます。
表にきらびやかに出ているものを見て、ひそかに「私がいなければあれはできなかったのよ〜」とひとりほくそ笑むのが最高。(これもそうそう機会はありませんが)
つくづくエンジニアに向いてるやつだと思います。


Re: 責任能力は問えるのか? 5390へのコメント
No.5393  Wed, 13 Jun 2001 23:53:28 +0900  さくらかのえ [この発言にコメントする]

武田好史さん wrote:

> さてこの事件でのキーワードは、犯人の「責任能力が問えるか?」ということです。

>みなさんはどう思いますか?

問えると思うし、問うべきではないでしょうか。
それにしても、罰を逃れるために重度障害者と思わせるような錯乱を装うとは・・・嫌な気分です。


裏方バンザイ!
No.5392  Wed, 13 Jun 2001 17:34:13 +0900  ミッドランド [この発言にコメントする]

 皆さんは「裏方の仕事」と聞いて、何を連想しますか?
 「TV・映画の大道具・小道具」を挙げる人が多いでしょうか。
 彼らは表舞台には出てきませんが、舞台づくり、ディスプレイなど「作品」にするために必要なものを準備する、いわばバックボーン、屋台骨と言えます。

 大相撲の「床山」もそうです。力士たちのマゲ、あれは床山がいるからあの髪型にできるのです。彼らも大衆の前に顔を出すことは滅多にありませんが、彼らこそ
大相撲という日本古来の文化を支える大きな力と言っても過言ではありません。

 また、僕の職業「歯科技工士」もまた歯科医療における「裏方の仕事」です。歯の治療に来ている人で、詰め物・かぶせ物・入れ歯の製作を担っているのは僕たちである、ということを意識している人はほとんどいません。診療サイドで僕たちを見ることがほとんどないからです。
 しかし、そんな僕たちがいて歯科医療は成り立っているのです。
 詳しくはわからないのですが、「義肢装具士」も似たような色彩であると思います。
 
 これらに共通することは、
「表舞台には出ず、目立たないが、その世界では大きなチカラとなっている」ことです。
 これこそが「裏方」の大いなる意義と言えます。「縁の下の力持ち」とも言えます。

 10年くらい前の僕は、裏方の仕事に「暗い、ダサい」という凝り固まったイメージを持っていて見向きもしませんでした。そのうえ、
「将来仕事やるなら、人の前に出る目立つ仕事だ!」
と考えていました。そんな仕事、到底自分につとまりっこないのに、理想ばかりが先に進んでいったのです。

 その後、自分の適性と言うものを知り(ちなみにある適性検査をうけたところ、
「社交性」が最低の数字でした)、色々試行錯誤して今の仕事に落ち着いています。そこで裏方に対する偏見は消えました。
 今ではもう「裏方バンザイ!」です。

 今回、あまりASと関係ない投稿をしてしまった       ミッドランド


Re: 責任能力は問えるのか? 5390へのコメント
No.5391  Wed, 13 Jun 2001 16:30:28 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

武田好史さん wrote:
> この事件でのキーワードは、犯人の「責任能力が問えるか?」ということです。
>みなさんはどう思いますか?

 こんにちは、武田さん。

 わたしは、事件を起こした男性についてはコメントしたくないと思っていましたが、気が変わりました。

 当然問われるべきだと思います。

 個人訴訟手続きを行える能力があり、相当の法律知識があり、犯行直後に嘘をつけた人です。責任能力は「ある」と感じました。
 専門知識のないわたしには、それ以上のことは言えませんが。

 日常の中に飛び込んできた悪意にさらされたお子さんたちのことを思うと、胸が痛みます。心の傷・体の傷を受けた皆さんのこれからの人生に、ひとつでも多くの幸が訪れることを祈るしかありません。
 亡くなられたお子さんたちも、安らかであれと祈るしか。

 犯人が罰を受けたとしても、失ったものはもう戻ってこない……。


責任能力は問えるのか?
No.5390  Wed, 13 Jun 2001 15:17:15 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

 あの凄惨な大阪教育大付属池田小学校の児童殺傷事件から、5日あまりたちました。私たちにはあっという間でしたが、事件の当事者の人たちには、本当に辛く長い時間であったと思います。
 さてこの事件でのキーワードは、犯人の「責任能力が問えるか?」ということです。
 私は、薬の副作用で暴れたと嘘をついたこと、事前に「頭の良いエリートの子供たちを狙う」とターゲットを絞り、凶器の包丁を用意していたことから、明らかに場当たり的な犯行ではなく計画的な犯行であり、よって犯行当時心神喪失・耗弱であるとはいえず、犯人の生い立ちが不幸であったにせよ、責任を問われるべきだと思います。

みなさんはどう思いますか?


Re: 御礼です。 5384へのコメント
No.5389  Wed, 13 Jun 2001 12:57:01 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

やんちゃん wrote:
>こんばんは。思いっきり横レスです。

 いや〜、こんにちは! 優しいレスをありがとうございました。

>障害者か健常者か、というと私も多分健常者の方に入ると思うんですけど(日常生活にあまり支障がない)、さて、ではどのあたりにいるんだろうとなると、悩んでしまいます。レッテル付けなんてどうでもいいのかも知れませんが・・・。

 そうですね。レッテル付けは、わたしもあまり気になりません。「障害者」「健常者」という言葉が説明に必要になる場合があるから、仕方がないのだと思うことにします。言葉で説明しにくいこともたくさんあるんですけどね。
 娘はAS児ですから、それに関しては「障害」です。そのほかに「将来、障害になる可能性のある身体的欠陥を生まれながらに持つ」という説明も必要になるときがあり、長いよ〜面倒くさいよ〜と思ってしまいます(苦笑)。もっと簡潔に的確に述べる方法はないのか?と考える人がいて、「言葉」を発明(?)してくれるのでしょう、きっと。

>私もいろいろとんちんかんなことを言っていますが、ここは話の内容をちゃんと聞いてくれる場所です。もっとも、言葉の使い方を間違えたり勘違いしてたら鋭く指摘されちゃいますが(笑)。でもそれも助かっています。
>「素直になるってどういうこと?」「文章の書き方」など、とても丁寧な返事をもらって感激しました。(そういえば、私ちゃんとレス返してないですね。すみません)
>こんなこと書いたら変かな?と思っても発言してみて、その反応でいろいろ(自分は何者か、ということ含めて)分かることってあると思います。

 たっくさんあります!! ここの方々は優しくて丁寧なので……『がさつが服を着て歩いている』わたしは、デカイ身体を精一杯縮めながら「ありがとう。いつもありがとう」って感謝するしかないです。

>やっぱり、発言してみなきゃ損ですよー。

 はい、これからも発言はします。させていただきます。なにとぞ、よろしくお願いします。

>私はまだ自分探しの途中です。
>30歳過ぎても青春真っ只中??のやんちゃんでした。

 わたしも自分探しを続けます。
 40なかばにして「これから青春しちゃうぞ!」のあさかぜでありました。

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