アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
どうも、シンタロウです。
久々のカキコです。ところで皆さんに質問します。
皆さんは「日本の社会は腐ってる!」と思ったことはありませんか?
3 wrote:
>1 子供の頃、目の前に虹色のつぶつぶが、漂っていた。きれいだった。
あるある。物ははっきりみえているけど、大人になったいまでも、なんかそんなふ
うなチリチリした感じの光が見える・・・
>2 鉄琴や南部鉄の風鈴、グラスの高い響きが好き。
小さいころ棒が、平行に並んでいるフェンスをよく鳴らしていた。
>3 他人にも気持ちがあると、気がついたのは中学生の時。
もっと遅いかもしれない。今でも、けっこう「嫌がっている」という気持ちに鈍感なほう。
>4 人間が苦手
とにかく人がいっぱいいて、バタバタしている環境が苦手。「会社=何をされるか判らない恐ろしい場所」っていうイメージが強くて、就職する気になれない。
1 子供の頃、目の前に虹色のつぶつぶが、漂っていた。きれいだった。
他人から見れば、虚を見つめているみたいだったかも。
2 鉄琴や南部鉄の風鈴、グラスの高い響きが好き。
3 他人にも気持ちがあると、気がついたのは中学生の時。
4 人間が苦手
>しているだけなのです 孤高ではなくまるっきり孤独なのです
>反射しないんです 僕は古代の遺跡のようなものです
古代遺跡を見たこトがあります。。
すごー―く大昔の(釈迦の時代の)。。
遺跡にいるだけで、いろいろなことを、、具体的にではなく感じるのです。
そして沢山の人が、、何故か、、そこを訪れるのです。
本人(遺跡)とは、、関係なく。。。
もし。。。遺跡が人間だとしたら、それはそれで、、苦しいよね。。
皆勝手に、、自分のことを喜んだりとか、、勝手におもい、、おもいおもいに
ただ、、勝手に想うのですから。。
遺跡な、、思いは、、私も経験ありですね。。
こんにちは、ゆうろさん。
ゆうろ wrote:
>僕は基本的に独り言しかできません
>せっかく返事をかえしてきてきてくれてる人がいても、ありがとうございます
>とか感謝の言葉をかえせないんです
でもこう言う事を書くと言う事は、どこかでありがたがってるのかもしれませんよ?直接表現できないだけで……
>相手の方は反応がなくて物足りない感じをうけるでしょう
>どうしても気のかよった会話ができないんです
>だから哲学者のように偉そうなことを語り、知的な大人に相手にされようと
>しているだけなのです 孤高ではなくまるっきり孤独なのです
>反射しないんです 僕は古代の遺跡のようなものです
確かに反応を期待して、僕は書いてます。でも反応できない人を責めたら、それはすなわち、反応できない自分自信を責めている事になるんじゃないかと思います。反応できないのは自分も同じ。反応できないジャンルが違うだけ……と。
>ここにきているかたは全て会話をしています
>悩みを抱えていて誰かに救ってもらいたいわけです
>ということは悩みを実感している自分をもっているわけで
>他人とはっきり区別されてるわけです 境界ができてて自立しているのです
>それが自分にはうらやましく思います
>自分も悩みをもってみたいものです
うらやましいと思っている事。ということは、それこそまさしく悩みなのではないのかなと思います。最初は些細な事。それを言われ続けた(気づかされた)ために悩みになっていく。それがどんどん泥沼化していく。後は感じ方次第と言う事でしょうか。僕は心に正直過ぎるので、それが表面に必ず出ます。まあ、要するに自己否定から抜け出せない。これで良いのか悪いのか。
それに究極的な所まで行ったら、誰もが会話してるフリをしていると言う考えに僕は行くと思います。すいません、人間不信とは違いますよねごめんなさい。
>僕はこのように詩人みたいにかっこつけたしゃべりをします
>昔はそんな悟っているような自分に自信をもち傲慢になっていました
>ただの屁理屈が虚飾されたのです
>そして知識ある大人を騙していったのです
まあ、似たようなものです(違うかも)。こっちは何度も言われつづけたためかわざと人の嫌がる事をして勝ち誇ってました。「俺は貴様らができない事ができるんだぞ!」と。他のやつらに言わせれば、「異次元のサル山のボス」だそうでした。
……見ていただくだけで構いません。だんだん慣れれば良いんです。いきなり無理したら体に偏重きたします。……多分。
ここまで読ませておいて、気にしないでくださいとは言えませんが、駄目文なんでお気になさらずに。
油江宏明 wrote:
> 始めまして。
> 私、現在、京都大学理学研究科の地球物理学教室に在籍している、油江(ゆごう)といいます。
こんにちは、私は東海大学海洋学部海洋資源学科を卒業したものです。卒論・修論は、鉱物が好きなので、静岡県の御前崎周辺の第三紀層の砂岩を作っている砂粒鉱物について調べました。論文を上手かけなかったことから、すっかり自信をなくし、今は引きこもりで、ミネラルフェアーで買った鉱物の標本をただながめているだけです。
> 小さい頃から対人関係がとれないうえに運動能力が鈍く、いじめにあうこともしばしばでした。苦しい強迫思考にも、いつも襲われていました。
> 小学校高学年ごろから中学校にかけて、どうも、自分は、周囲の人間から見てよくも悪くも「非常にかわっている」と見られているらしいことを、はっきり自覚しはじめました。それまでは、自分からは周囲の人間しか見えないため、自分も似たようなものだと思っていたものを、周囲と自分との違いをある程度自分自身で分析してみるようになったのです。しかし、自分が何者なのか、さっぱり分からない。この状態にある意味で知見をあたえたのは、高3の夏の、ある事件に関わる報道でした。当時、ある男性が、幼女誘拐殺人の容疑者として、大々的に報道されたことがありました。この数ページにわたる新聞記事を見て、唖然としたのです。これは、まさに自分のことをいっているではないか、いや正確には、周囲の人間が自分を見てこう見えるだろう、ということが書いてあるではないか、と。しかも、何日間かにわたる記事を読むにつけ、さらにその類似性がはっきりしてくる、事件の事実関係はともかく、自分と同じ種類の人間をようやく見つけた、それにしても、短期間で、よくここまで調べたものだと思ったものでした。そうして、責任能力の問題に絡んで、「強い分裂気質であることは確かだが、精神分裂病ではない」とかいう苦しい書き方がしてあったりして、「そうか、自分は分裂病だったのか」とある意味ようやく安心できる大地に着地したような気分でした。
私も小学校から高校まで変わり者ということで、よくいじめられました。これまでの人生で生きやすかったのは幼稚園(実は誘拐殺人事件の犠牲者の1人と同じ・・・)と、一年前ボランティアをしていた福祉作業所ぐらいです。
私は本当は、何か子供に関わる仕事をしたいと思っていました。しかし、感情の起伏が激しく、字が汚く、気に入らないということに関してはどうしても筋を通す汚い性格なので、これはあっさりあきらめました。
未だに自分は何をして生きるべきか判らず、悶々とした日々を送っています。
p.s.
#私の大学時代の友達の中に京大の古生物教室で、鹿の化石の研究をして修論を書いた者がいます。彼は結婚して今、滋賀県の多賀町の町立博物館の学芸員をしております。多賀町は森がきれいで・天文台もあり、地学愛好家のリラクゼーションにはもってこいのところです。一度いってみてはどうですか。
シュッツさんwrete:
>理工系の本には「スペクトラム」を使うものも多いですよね、だからどちらを
>使っても違和感を感じないです
>「自閉圏」と「自閉症スペクトル」は別だと思ってました。
>自閉症から“健常者”に至るまでの全ての領域での、連続した変化の状態が
>「自閉症スペクトル」
>その中であいまいな境界より自閉症に近い領域が「自閉圏」
>私の頭の中での定義はこうです。
とてもくだらないことを考えてしまいました。
「自閉症スペクトル」というのは連続スペクトルなのでしょうか、それとも分散スペクトルなのでしょうか。
吸収線とか輝線というのは、どうやってできるのでしょうか。
発達段階において獲得するスキーマ(概念モデル)やアクシアム(基本法即)というのがあらかじめ決まっていて、その獲得の階梯(ステップ)を順次上がってゆくことで「障碍」を乗りこえてゆくことができるなら、分散スペクトル。
そうではなくて、自閉症とASというのは質的に違うのではなく、単なる程度の差であり、その先に「正常」の世界があると考えると、連続スペクトル。
発達段階において、ステップを上がってゆくことと、適応の度合いとが単調増加のかたちで進んでゆくのなら、輝線スペクトル。
「鳥は飛ぶ」という知識のあとに「ペンギンは飛ばない」「ダチョウは飛ばない」「ヤンバルクイナは飛ばない」といった知識が入ってくると混乱してしまうように、「(発達が)進んでいる」「遅れている」と「(障害の度合いが)重い」「軽い」関係は、単純には捉えられない、と考えると吸収スペクトル。
感じからいうと、「自閉症」というと、ある基本的なステップをクリアしてゆくことで、段がついたように発達してゆく感じがあり、ASのあたりまで来ると、連続的に発達はしてゆくんだけど、「例外」「競合するルール」のところで悩む、みたいな気がします。
つまり、「分散スペクトル」から「連続スペクトル+吸収線」という感じ。
そう考えると、「自閉症」は「算数」的で、「AS」は「数学」的という気がします。
自閉症の場合は、基本となる概念を明らかにしていって、それをひとつひとつ着実に身につけるという「療育的アプローチ」が有効。
ASの場合は、「こういうところで引っ掛かりやすいですよ」といったチェックポイントを用意しておいて、そこのところの競合を解消してやる「『教育+指導』的アプローチ」が有効。
……たんなる思いつきです。あまりマジメに受け止められても困りますが、どうなんでしょうか。
(Maria)
始めまして。
私、現在、京都大学理学研究科の地球物理学教室に在籍している、油江(ゆごう)といいます。
実は、私は、大学入学試験前日、京都に向かう電車の中、激しい強迫思考により精神的に致命傷を受け、どん底のうつ状態に陥りました。辛うじて試験を受け、合格通知を得たものの、既に半ば寝たきり状態で、まともに勉強できる状態ではなくなっていたのです。結局、どうしていいかわからないまま月日がながれ、学生相談所から診療所通いを始めたときには、既に、3年半が、たっていました。そうして、10年後の現在に至っています。最近、新聞で、精神医療関係のWebサイトをみつけ、リンクをたどっているうちにこのページにたどりつきました。
小さい頃から対人関係がとれないうえに運動能力が鈍く、いじめにあうこともしばしばでした。苦しい強迫思考にも、いつも襲われていました。
小学校高学年ごろから中学校にかけて、どうも、自分は、周囲の人間から見てよくも悪くも「非常にかわっている」と見られているらしいことを、はっきり自覚しはじめました。それまでは、自分からは周囲の人間しか見えないため、自分も似たようなものだと思っていたものを、周囲と自分との違いをある程度自分自身で分析してみるようになったのです。しかし、自分が何者なのか、さっぱり分からない。この状態にある意味で知見をあたえたのは、高3の夏の、ある事件に関わる報道でした。当時、ある男性が、幼女誘拐殺人の容疑者として、大々的に報道されたことがありました。この数ページにわたる新聞記事を見て、唖然としたのです。これは、まさに自分のことをいっているではないか、いや正確には、周囲の人間が自分を見てこう見えるだろう、ということが書いてあるではないか、と。しかも、何日間かにわたる記事を読むにつけ、さらにその類似性がはっきりしてくる、事件の事実関係はともかく、自分と同じ種類の人間をようやく見つけた、それにしても、短期間で、よくここまで調べたものだと思ったものでした。そうして、責任能力の問題に絡んで、「強い分裂気質であることは確かだが、精神分裂病ではない」とかいう苦しい書き方がしてあったりして、「そうか、自分は分裂病だったのか」とある意味ようやく安心できる大地に着地したような気分でした。
話は、受験当日の朝にとびます。前日、致命傷を被った私は、初めて、精神的ダメージで起きられない、という状況に陥りました。このとき、思い浮かべたのは、不登校の問題で、当人が、大げさじゃない、本当に学校へ行けないんだ、と語っているという幾らかの新聞記事です。当時は、自分が極端な完全癖をもっていると自覚していたこともあって、ある程度、彼ら(彼女ら)のことを理解しているつもりでいたのですが、全くわかっていなかったのだと思いしらされました。自分は、とりあえず幼いころから強迫思考に襲われて、訓練ができているからなんとかなったが、普通の人間がいきなりこんなことになれば、部屋から、いやベッドからでられない、と。
そうして、なんとか大学に合格し、通っているうちに、自閉症やLD障害、精神分裂病などに関する記述がまさに自分のことを指している(すくなくとも自分にはそのように思えた)ことに気づき、その関係の本を、読みあさりました。
しかし、どうしていいかわからないまま時が流れ、学生懇話室に相談にいったのは、3年半後でした。それから、自分と同じような症状で苦しんでいる人が大勢いることをしり、なぜこういう情報をもっとオープンにしてくれていなかったのか、本当に悔しく思いました。もし本当にひどい状態になったときに、直ちに治療を受けていれば、あるいは、やりたい勉強をしっかりやって、希望の進路に進めたかもしれない。現実には、まともに勉強などできないまま、不本意な進路を強要されている。もし、あのとき、直ちに医療施設へ駆け込んでいれば、という無念さが頭をはなれません。
また、小、中学校時に受けたいじめも、なんらかの病名がついていればなかったのではないか、という思いが頭をかすめます。
そういう観点から、私は出来るだけ自分の状況を周囲にオープンにしようと努めてきました。しかし、大部分が、事の深刻性をわかってくれない、無関心、というのが現状です。それにもかかわらず、報道などによれば、多くの人が、精神障害などといった言葉に大きな抵抗をもち、差別を受けるとおそれ、医師も「障害」という言葉を出来るだけ避けているといいます。いったい、どういうことなのでしょうか。私自身は、これだけ自分をさらけ出しているのにもかかわらず、差別など受けたことがない、むしろ、その逆のことで、苦悩しているのです。
まとまりのない文章で申し訳ありませんでした。
よかったら、下記のアドレスのページでも見て下さい。
これから、ちょくちょく書き込ませていただきたいとおもいます。では。
***********************************************
油江宏明
京都大学理学研究科 地球物理学第五講座
E-mail yugo@kugi.kyoto-u.ac.jp
TEL 075-753-3953
URL http://www-step.kugi.kyoto-u.ac.jp/~yugo/
************************************************
ミッドランド さん、こんにちは。
> 皆さんこんばんは、ミッドランドです。
> 僕の職業は何度も述べましたが、歯科技工士です。
おお、バスチアンくんのお父さんとおんなじだ!
(武田さんも同じこと書いていらっしゃいましたね)
かっこいい!!
> このように、性格も適性も正反対な職業が、歯科医療の世界ではうまく共存しているのです。
> ASと「いわゆる普通の人」の共存ができる、そんな世界のように思います。
"ASと「いわゆる普通の人」の共存"、けっこうありえるんじゃないかと思いました(お互いのいいところを活かしあって)。
ASには「職人」的な仕事が向いているのではと思います。
「歯科技工士」は思いつきませんでしたが、手先が器用であれば、ASな人にぴったりの職業のひとつですね。
私の場合は昔から「職人」の仕事にあこがれてきましたが、手先が不器用なのであきらめていました。でも結局、手先を使わないですむ「職人」的な仕事をしています。
> 神が授けた「一握りのチャンス」を存分に生かしたい ミッドランド
黙々と真摯にお仕事に取り組むミッドランドさんの姿が目に浮かびます。
これからもいいお仕事、してくださいね。
はじめまして、いつもROMさせてもらっています。
Tien wrote:
>こんばんは。最近自分で改めて気が付いたのですが、
>「(やみくもではなく)例えば、カードみたいなものを作成するように、きちんと
>線が引いてある紙を切ること」で、とても気分が落ち着くことに気づきました。
>
>あと、それとは逆に、冷蔵庫にマグネットで止めてある紙がきちんと揃っていない、または書類が揃っていないと(特にはじっこが)、とても嫌になることにも気が付きました。単に私が神経質なのでしょうか?そういう方いらっしゃいますか?
強迫行為を意識しないでやっている時、落ち着きます。
若い頃(中学生)何か対面したくないイメージ・観念を打ち消す時、ジャズの
即興アドリブ、ラップもどきの自己流スキャット、「しとしーとすててすれとと
ちしゃらすたぱっぷ」のような意味のない語を必死に口から唱え(はっきり音に
出しては周りにきこえるのでシャーシャー発声していました)この「強迫行為」
中は落ち着いていました(というか精神の平衡をとろうとしていた?)
若い頃はこれが巧く(?)できていたようでした。というのも「自分がこの行為
をしていること」に対しては意識しないでいたから(いられたから)
今またこのわけのわからないアドリブもどきが巧く(?)なりたいなぁと思ってい
ます。若いころの自分は、やはり自意識にがんじがらめの自分だったけど、ちょっ
とノスタルジィです。
ゆーりさん、こんにちは。ぶちと申します・・・
ゆーり wrote:
>ときは30年戦争、疫病大流行、魔女裁判、新教大弾圧で
>ヨーロッパの人口が3分の1に減った時代。
>ユートピア思想がもてはやされ、デカルトが登場し、近代科学の勃興で、
>ヨーロッパの思想が大転換する時代。
>
>神の摂理は、超然としてそこにあるのに、
>人間というのは自分が宇宙に組み込まれて
>きちんと役回りを果たしているとも気づかないで
>じたばたして、殺しあったり憎みあったりして、
>なんとあわれでおろかな生き物よ、というのがコメニウスの考え。
おもしろそう!おもしろそう!おもしろそう!
私はアジア文化大好きで、西洋物には全く興味がなかったんですが、
いいですねー。おもしろそう!
>なんか、まじめに語ってしまった。ひまだったら、読んでください。
探して読んでみます。こういう知らない事知ってる人大好き!
そんでもって、興味を持つきっかけをくれる人大好きです!
でも物を知らないんで、何でも誰でも「大好きっ!!」なんですけど。
すごいおもしろがりで、すごい知りたがりな、ぶちでした・・・
どーも、こんにちは。ぶちです。
思わず児童文学の話題で、とびついちゃいました。
Maria wrote:
>あさかぜさんwrote:
>> 児童文学になじみのない方にはつまらない話題でしょうから、読み飛ばして
>>くださいね。
>
> 大人にも面白い子供の本は以外に多いです。
そうそう! 確かに子供の頃は楽しかったけど、大人になると・・・って
物もないわけではないですけど、どの年齢で読んでも良い物はたくさん
ありますよね。
私は今でも、時々引っ張り出して読んでます
(ま、私はいつまでたっても、子供みたいなもんなんですけど)。
>> 昔自分の読んだ本を、いつか娘が読んでくれたらいいな〜と思い、それにつ
>>いて語りあえたらいいな〜と密かな楽しみを胸にいだいています。
うちも兄や私が読んだ本がとってあって、小さい子用のものから、
娘が読んでます。引越しが多かったので、その間に知人にあげてしまった
ものもたくさんありますが、強く記憶に残っているものは、探して買い
なおしたりしてます。残っている本は、子供の頃の私の落書きを鑑賞
したり、話を読んでもらったり、自分で読んでみたり、とにかく娘は
楽しんでくれています。
ドリトル先生シリーズや、ナルニア国物語シリーズ等は、大人に
なってから少しずつ、自分のために買いました(図書館で借りてた)。
娘には、「これはもう少し大きくなってからねっ!」って言ってます。
中高の図書委員会の後輩から「指輪物語は文庫なんか買っちゃだめ
ですよぉ、雰囲気ないから!」って言われましたが、文庫です
(活字がちっちゃい・・・)。
> ちくま文庫、詩人の天沢退二郎さんが書いた『光車よ、まわれ!』。泣いたなぁ。ファンタジーの傑作です。
私も天沢退二郎さんのファンです。例の図書委員仲間でもあんまり
話にならなかったから、あんまりメジャーじゃないのかなぁって
思ってました。かなり嬉しいです。
あるある、と思って最初に頭に浮かんだものは、みんな「落ち着く行為」じゃなくて、「しないと落ち着かない行為」でした。
髪の選別。気になる事項のてってー的な調査。ハマったゲーム。こういうのはちょっと違うなあ。半分強迫観念下でやってる気がする。
終わっても落ち着かないし、そもそも終わった気がすることがあまりない。
工作、ミシンかけや片づけもの (ためにためたやつをどっと) は落ち着くかもしれない。始めるまではすごく腰が重いけど、一旦始めたら、淡々と、でも静かな気持ちで作業します。ただし、工作系はできあがりを見て気分が荒れることもしばしば。
スーパーやデパートを意味もなく徘徊するのはすごく落ち着くな。数回目、がいちばん落ち着くかも。初めてだと落ち着くと言うよりはわくわくしすぎ。いつものスーパーでは、おもしろいものが見つからなくていらいら気味。
ちょっとハイになっていても落ち着く感じなのがプログラミング。とくにうまく行ってるときは静かな幸福感の中で、普段の1000倍くらいのスピードでコードを書く。
「明日も会社であのプログラムの続きがかける」と思うとちょっと幸せ。(ドキュメントやミーティングやデバグが控えてるとちょっと不幸せ)
僕は基本的に独り言しかできません
せっかく返事をかえしてきてきてくれてる人がいても、ありがとうございます
とか感謝の言葉をかえせないんです
相手の方は反応がなくて物足りない感じをうけるでしょう
どうしても気のかよった会話ができないんです
だから哲学者のように偉そうなことを語り、知的な大人に相手にされようと
しているだけなのです 孤高ではなくまるっきり孤独なのです
反射しないんです 僕は古代の遺跡のようなものです
ここにきているかたは全て会話をしています
悩みを抱えていて誰かに救ってもらいたいわけです
ということは悩みを実感している自分をもっているわけで
他人とはっきり区別されてるわけです 境界ができてて自立しているのです
それが自分にはうらやましく思います
自分も悩みをもってみたいものです
僕はこのように詩人みたいにかっこつけたしゃべりをします
昔はそんな悟っているような自分に自信をもち傲慢になっていました
ただの屁理屈が虚飾されたのです
そして知識ある大人を騙していったのです
:
>>こんばんは。最近自分で改めて気が付いたのですが、
>>「(やみくもではなく)例えば、カードみたいなものを作成するように、きちんと
>>線が引いてある紙を切ること」で、とても気分が落ち着くことに気づきました。
>>
>>あと、それとは逆に、冷蔵庫にマグネットで止めてある紙がきちんと揃っていない、または書類が揃っていないと(特にはじっこが)、とても嫌になることにも気が付きました。単に私が神経質なのでしょうか?そういう方いらっしゃいますか?
>
私の場合、活字・写真・テレビ・風景を見ることです。
何かどっかで聞いた話ですが、風呂に入らない・鼻くそをいじくる・自慰行為といった人から嫌われる癖も、実は「落ち着きたい」という願望から生じているということらしいです。
ウミノモクズ wrote:
>
>「ろうあ」+HIVの場合、、
>病気の理解の無さから 人間関係がうまくいかなくなり
>仕事を辞めなくてはならなくなった男性がいます。
>
>+βで 共存は難しくなります
>
>
私は以前、ある福祉作業所でボランティアをしていました。その作業所に1人ですが、「ろうあ+知的障害」という女の人がいました。その人とみんなは、職員の方がその人の手話を読みとって通訳するということで、初めて意志の疎通ができました。
その人は、とても知りたがり屋でお節介なので、けっこうトラブルメーカでした。でもそれはよく考えてみれば、「孤独でたまらない」「何とかして自分をアピールしたい」ということだったと思います。私がいた間に一度ですが、職員の方を「どうして判ってくれないの!」と突き飛ばしてしまったことがありました。
朝はいつも一番に、その人は作業所に現れていたようです。よく自閉症の人たちと一緒に袋のひも付け作業ををしている私の所に来て、仕上げたばかりの刺し子の図柄を見せてくれました。音楽療法の時は、太鼓の音の振動をことのほか喜んでいました。朝と帰りの会では、新聞で読んだことを必死になって話してくれました。私の服装のだらしがない所をよく指摘してくれました。
そんな彼女と「コミュニケーションできるようになりたい」、それが私が手話を覚えたいと思ったきっかけです。もっともASで、物の動きを目で追う・頭の中のことを表現する・適切な覚醒レベルの維持が苦手な自分には、手話を身につけるのは非常に難しく、習い初めて2年たった今でもまだようやく独り言が言えるようになったくらいです。けど少しずつ、少しずつ表現できる言葉を増やしていきたいと思います。
こんばんは。最近自分で改めて気が付いたのですが、
「(やみくもではなく)例えば、カードみたいなものを作成するように、きちんと
線が引いてある紙を切ること」で、とても気分が落ち着くことに気づきました。
あと、それとは逆に、冷蔵庫にマグネットで止めてある紙がきちんと揃っていない、または書類が揃っていないと(特にはじっこが)、とても嫌になることにも気が付きました。単に私が神経質なのでしょうか?そういう方いらっしゃいますか?
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