アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
みる wrote:
>でも、やはり、私は誰の目から見ても健常者のクズです。
違いますよ。
>でも、自分はADDの材料がこれだけそろってるのに、認められないのは
>つらいです。じぶんでなぜここまでレッテルにこだわっているのか解らなくなる
>ときがあります。でも、マルハナバチさんたちがたくさん書いてくれたように、
>「あなたはこれで正しいんですよ。クズじゃないよ。」って言われたい。
私たちの存在を忘れてもらっては困ります。クズじゃないです。
シュッツ wrote:
>ふとカウンターを見れば「あなたは20000番目のお客様です」の文字が。
>めでたい事だ。
>これも宗教の御利益か?
>「宗教」と言うのは便利な言葉だ。
シュッツさんずるいずるい!
かすってしまったあー・・・。
いいな。いいな。
ボンバーさんありがとうございます。
なるほど教育大学ですね。明るい光が見えてきました。
つらいって書いちゃったときは気分の波が下降気味だったので
勢いで書いてしまったところもあるのですが、
書いてみるもんです。ボンバーさん感謝します。
あるていど成功してからだ。
というところについてもっとお話がしたいのですが、
ちょっと出かけなければならないので、
またお話したいです。
みるさん、こんにちは。
みるさんは今までどういう病院の何科に行かれましたか?
私も受診したいと思うのですが・・・。
リタリンなどの薬物治療で少しでも自分がラクになれば良いなとも思います。
私はLD/ADHDの日本的な権威の方などに、自分の症状を話したことがあります。
検査してみないとわからないがADHDらしいねということでした。
その権威の先生は「私にカミングアウトするのは、ある程度成功し、
そういう自分自身に自信を持った人のみだ」と言われていました。
私も仕事ではそこそこ成功してますし、身辺自立は全然できていませんが
とりあえず生活できています。
しかし、つらいのですよ。人から見れば、普通に生活できているように
見えていますが、精神的にぐじゃぐじゃな日が多くあります。
大人のLD/ADHDももちろんいますし、そういう診断もされているそうです。
こんどその先生の大学で検査を受けようかと思っています。
みるさんもどこかの大学(教育大学)のADHDを研究しているところを
探して、そちらで受診されればどうでしょう?
向こうは大人のサンプルを欲しがっています。
ギブ&テイクです。
道徳的な拠り所の事だと思う。
診断名が付く事で道徳は身につかないと思います。
だから、自閉症スペクトル障害であると言う診断は、
宗教を得る事とは違うと思います。
これは私のまあ、私見です。
ふとカウンターを見れば「あなたは20000番目のお客様です」の文字が。
めでたい事だ。
これも宗教の御利益か?
「宗教」と言うのは便利な言葉だ。
青さんの例えって、難解です。
真意はいずこ?
宗教というのはみんなを良い人間へと導くためにあると思う。
診断は本当の自分を直視して認めるためにあると思う。
そのあとは自由。悲観的になろうと。喜ぼうと。やけくそになろうと。
診断と洗礼はちと違うのではないかな?
とりあえず私は今のところメジャーにも
新興宗教にも属していないなんにも信仰してない人間です。
これって宗教なのかしら?
どう見たって、他の人と比べて極端におっちょこちょいで、
こどももころはADHDの傾向がかなり強かったとしんだんされ
とろくて、要領が悪くて、今もむかしと何も変わってないのに
「ADHDは子供の病気だから」ですまされてしまうのは
もうつらいです。
もちろん経験は積んだから、少しは楽な生き方を見につけたと思います。
でも、やはり、私は誰の目から見ても健常者のクズです。
IQで乗り切るのも限界を感じるときがあります。
1つめの病院では「あれは子供の病気だから」といわれ
2つめの病院では「あなたはぜったいちがいますよ」といわれ、
納得がいかなくて、3つめはLDを診断してくれる所へいきました。
そうしてはじめて「こどものころはADDであった可能性がかなり強い」
といわれました。
いまは2つめの病院にかかっているので、知能テストの結果を持っていったり、
これからも、本の抜粋をもっていったり、
うちの両親から直接説明してもらったり、
大人でもADDがありうるということ、(この自分が1番の証明)
大人でもやっぱりうまく世の中をわたって行けないで苦しんでいるひともいることを、説得したいと思っています。
知能テストの結果を持っていき、
「LDの診断所でADDだったであろうといわれた」と、
2番目の病院で報告したところ、
はじめてわたしの過去にADDであっただろうことを認めてもらえました。
でも、今はやはり違うと。見ればわかると医師は言います。
私の場合大人になればなるほど、自分と他の人との違いが明瞭に感じられて、
日に日につらさが増しています。
だんだん憂鬱になり、今日は薬を飲んでも眠れなくて、
ここなら、とおもって愚痴を書かせてもらいました。
こういう時に要領よく、
どの機関へいって、どこへ相談して、何を準備して、どう説明するか、
それができればいいのですが。
それを考えることじたいがもっとも苦手なのに、
それだけのことをするだけで、なぜこんなに時間がかかってしまうんだろう、
とまた自己嫌悪におちいります。
はやく、大人のADHDと診断されたい。
自分の人生がうまくいかないのはADHDのせいだけではもちろんないでしょう。
人間だれでも、人生順風満帆というわけにはいかず、苦しんでます。
でも、自分はADDの材料がこれだけそろってるのに、認められないのは
つらいです。じぶんでなぜここまでレッテルにこだわっているのか解らなくなる
ときがあります。でも、マルハナバチさんたちがたくさん書いてくれたように、
「あなたはこれで正しいんですよ。クズじゃないよ。」って言われたい。
いまは、とてもつらいです。憂鬱です。
毎回、同じような内容の繰り返しですみません。
でも、これできょうは眠れそうな気がします。
マルハナバチ wrote:
>重度の方をたくさん見ておられる方から見たら、軽度のくせにぜいたくに見えるのでしょうね。でもね、「一つの個性と思う」っていうのと、「診断名をつけてもらう」っていうのは、排他的な概念ではないと思うんですよ。
色覚異常者のコミュニティでも昔から同じような議論が繰り返されています。
色覚異常は障害ではなく個性だ!と言う人や、
障害と個性は別物だという人がいます。
また、学校での色覚の診断を撤廃すべきという人もいます。(差別があるので)
私自身、色覚異常者なのですが、色覚異常と診断されなかった生活なんて想像できません。
ていうか、診断されたからこそ自分の事を説明できるし、苦手なことも分かっています。
苦手なことを避ける事や、解決する方法も知っています。
もし、自分の色覚のことを知らなかったら...と、考えるだけでも恐ろしいです。
色覚異常は、法律では障害者にならないような軽度の障害とされています。
だからこそ、一般社会で何の保護も受けずに生活していかなければなりません。
ASやADHDも一緒だと思います。
呼び名を「個性」に変えたところで、生活に問題が出てくる事に変わりはありません。
正式な診断名と、適確なアドバイスが必要です。
社会生活ができるだの個性だのといってみても、他人に分からない苦労がいっぱいあるんですよね。
実を言うと私は、自殺系の掲示板からここにたどり着きました。死にたかったんですね。
#あれ、これはPSWさんに返信すべきだったかな...。(^_^;
>私の場合、「診断名をつけてもらったこと」によって、初めて、「一つの個性」って思えるようになったからです。
だからこの気持ちよく分かります。ていうか昔から知ってたのかも。
>それまで、なんていうのかなあ、健常者のクズ、ゴミ健常者、健常者の出来損ないって思ってたのが、「AS」って診断がついて、その後、自助団体でおおぜい他のASの人や自閉症の人や発達性言語障害の人やチック障害の人と会ってみて、「ここでは普通だ」って思えて、それから初めて、「AS族」みたいな、集団アイデンティティみたいなものを手にすることができたのです。
会員証みたいなもんですよね。
実は、大きな仕事が一本終わったところだったので、まとめて書き込みしましたが、明日からまた大きな仕事が一本始まります。
私はぴりっと短い書き込みというのができません。説明が長くてクドイのは生まれつきだからたぶん治りません。
そして、この長くてクドイ書き込みの裏には、長くてクドイ考えこみの時間が隠れているのです(笑) これずっとやっていたのでは商売上がったりで日干しになってしまうので、またしばらく休みますね。
こういう観察だって、ああ、「これはコダワリっていうやつなのね」って客観的に見られるようになったからこそ、できるようになったものでしてね。
で、こういうコントロールだって、「目の前に見えないものは、無いのと同じになってしまう」という自分の性質を知ったからこそ応用できるのですよ。子どものとき、私は、なくしたものを探さない、というので、ひどく叱られたものでした。物を大切にしてないっていう解釈ですよ。
でもね、そのおんなじ性質が、「見なければ反応しない、書き込みしたくならない」→「だから忙しいときは読まない」っていうテクニックに使えるようになる。ありがたいことですよ。
診断前って、問題点って70個くらいある気がしてました。
診断後、実はそれは7個くらいの問題が、それぞれ10通りずつの現れかたをしてるだけじゃないのかっていうのがわかりました。
70個解決しないといけない、じゃなくて、対策は7つでいい、ってわかったのです。
>「心の問題→脳の問題」という移動を求めているんじゃないかっていう気がするんですよ。
正にこれですよ。
これを求めているんですよ。
私は精神科に行ったんだけど「あなたの心の問題は答えが出ていて、症状はそんなに重くないですよ」
と言われたけれど、約束を守ったり整理整頓をしたり行動の制御が効かない部分の説明には全くならず
仕方なく「他の要因があるんじゃないかと思うんですが・・・」と切り出して、脳波や頭部MRIの検査
なんかをして、一応出たのが「てんかん」と言う診断。
軽度の意識障害(らしい)ですから、普通に生活しています。
ただ、会社に勤めるとか幼稚園や学校の役員をやるって事は難しいと思いますが。
子供がASなので、先生に子供の事を説明する際に自分の事も説明しなければならないのが、一番面倒な
事ですが、これだって普通に暮らしてるって言ったら普通に暮らしてるって言えない事もないですよね。
後、「そうは見えない。だから大丈夫でしょう」って言われると「都合が悪いから理解したくない」と
言われているような嫌な気分になります。
子供の事も自分の事も「そうは見えない。だから大丈夫でしょう」と日常あらゆる場所でぶちあたる言葉
だから、神経質になっているって事も一つの要因だと思います。
診断名がつくのは、そんなに悪い事でしょうか?
例えば、円錐角膜ってご存知ですか?角膜の形状が円錐形をしているせいで、視点がボケて見えにくい
先天性のものです。これを診断しないで「乱視」と決めてかかってメガネをかけても目に負担がかかる
だけで本人には辛い状態が続きます。(しかもやっぱりよく見えません)
円錐角膜と知っていれば、度の入っていないコンタクトレンズを入れるだけで見えるようになります。
ですが、円錐角膜と診断名が付いてしまうと「障害」と名が付き、生命保険等に入ることが難しくなり
ます。
目なら診断が出た方が良いと思う方なら、脳の問題も同じように考えて下さいますか?
実は私も診断名は付いた方がいいのか?付かない方がよいのか?迷っていたクチです。
子供ならば迷わず付いた方が良いと思う私ですが、大人の場合は判断がつかなかったのが、マルハナバ
チさんの書き込みを読んで、やっと納得出来ました。
マルハナバチさん、ありがとうございました。
PSW wrote:
>
>こんなもので、病名など都合上つけるのであって、一つの個性としてしまえばそれはそれでいいのではありませんか?世の中にはもっと変わった人、個性の強い人、
>偏屈な人がたくさんいても本人はさほど気にもせず普通に暮らしていますから・・
>社会生活が出来るようでしたら何の問題もないでしょう。そうではなくて、同じ
>ASでも障害者手帳を申請しなくては生活が困難な人もいます。ASでは認定
>してもらえないので精神障害者という病名を付けざるを得ません。ここに
>書き込みをされる方なんかは私からみればホントに普通のかたと同じに見えます。
こんにちは。さきほど書き込みしたばかりのマルハナバチです。書いてしまってから、どうもうまく言えてない気がして、ずっと考えこんでいました。やっと、自分が違和感を感じたのがどの部分だったか見えてきたので、改めてもう一度書きますね。
重度の方をたくさん見ておられる方から見たら、軽度のくせにぜいたくに見えるのでしょうね。でもね、「一つの個性と思う」っていうのと、「診断名をつけてもらう」っていうのは、排他的な概念ではないと思うんですよ。
私の場合、「診断名をつけてもらったこと」によって、初めて、「一つの個性」って思えるようになったからです。
それまで、なんていうのかなあ、健常者のクズ、ゴミ健常者、健常者の出来損ないって思ってたのが、「AS」って診断がついて、その後、自助団体でおおぜい他のASの人や自閉症の人や発達性言語障害の人やチック障害の人と会ってみて、「ここでは普通だ」って思えて、それから初めて、「AS族」みたいな、集団アイデンティティみたいなものを手にすることができたのです。
そうそう、「個性」って、世間では簡単に使われているけど、これ、けっこうキツイ言葉ですよ。天才的な芸術家とかならともかく、一人で一流派、一人で一看板を張れる人なんて、そうそういるはずがありません。天才的芸術家でさえ、芸風があり、流派があり、その中での個性を発揮してるわけでしょう?
私は「AS」っていう診断を受けて、厳密に言えば「個性」というレッテルではなく「流派」「芸風」というレッテルを手にしたのだと思います。でもまあ、「AS」は人数が少ないから、一人しかいない地域社会に戻れば、そこでは「個性」になるわけですけどね。
「仲間がほしい」「自分がどの流派なのか、どんな芸風なのか知りたい」っていう思いを持っている人に対して、「一つの個性と思え」っていうのは、ある意味で、とても残酷な言葉になってしまう危険を感じます。
もう一つ、思い出話を許していただけますか。
私は今、めったに外出しませんし(外出しないでいい仕事を見つけたからです)、外出するときは、帽子をかぶっているか、丸坊主スタイルにしているか、どちらかなのですが、
高校までは、制服ですから、帽子をかぶるわけには行きませんでした。
私はね、抜毛でハゲだらけなんですよ(笑)
いまでは、帽子もかぶれる、丸坊主にもできるっていうので、ハゲはそんなに気にしていません。でも、なぜ気にならなくなったか。それはある本を読んでからです。とっくにご存じの方も多いのに、無知扱いするな、って怒られそうですが、違うんです、話の流れなんだから許してください。
ジュディス・ラパポート「手を洗うのが止められない」晶文社 っていう本でした。
もちろん、タイトルの通り、強迫性障害の本です。私はたまたま、神経科の本読むの、趣味なんですよ。心の本っていうか精神科関係とか精神分析の本とかは、わけわからないし難しいし嫌いなんです。神経科の本は、ほら、自分がどうとかっていうんじゃなくて、科学書として好きなんですよね。地質の本が好きとか、進化の本が好きというのとおんなじで。だからこの本も、趣味の科学書として読みました。でも、そしたら、中に一章、抜毛の話が出てきたのですよ。
うわ、抜毛も強迫のお仲間っていうか、親戚だったのか! しかも、生物学的なもので、内服薬がきくこともあるのか! 意志が弱い、ダメ人間だからじゃなかったのか!
もう、びっくりしましたね。何て言うか、すごく救われたけど、これまでの私の人生、何だったの、っていう取り返しのつかなさっていうか、徒労感みたいなものを感じました。
子どものときは、抜毛を叱られ、罰を受けていました。直そうというので、睡眠学習テープ(マクラにエンドレステープ入れるやつです)とか、いろんな方法もやりました。あと、親は私がいやだというのに高価なカツラを作ってくれて、私はいやだからかぶらないので、せっかく大金を出したのにともめたり、そんなこともありました。
大きくなってからは、抜毛が治るならって思って(まあ抜毛だけじゃないんですけどね。カンの悪さとか、物忘れとか、全部ひっくるめてですが)、断食とかヨガとか、新興宗教みたいなのとか、ナントカ訓練みたいなのとか、いろんなことを試して、大金を失い、時間を失い、自信も自尊心も失いました。
今思えば、新興宗教みたいなとこへ行ったときも、チックを直そうとして来た人がいました。今思ったら何だかすごくADHDっぽい雰囲気の人(もちろん、ADHDかどうかなんて、素人の私がわかることではありませんから、あくまで可能性だけの話ですが)で、遅刻や物忘れや失くし物や整理整頓下手や大言壮語や飽きっぽさを気にして断食をしているという人もいました。
あと、直接会った人ではないのですが、言語性LDの人で、診断がつく前は、「内向的な性格のせいだろう」と思い込んでいたので、東洋の宗教にのめり込んだっていう人の話も聞きました。瞑想とか、苦行とか、お金もずいぶん使わされたそうなので、きっと何か、カルトみたいなものだったのかもしれません。
でも、その人の場合、名詞の想起が弱いっていうタイプだったらしいから、そりゃあ会話してて単語がなかなか出てこなかったら、コミュニケーションだってしにくいし、「内向的な性格」みたいに見えるかもしれませんけど。
何かね、名前がつくことによって、別の原因(怠けている、親との葛藤が原因、性格が悪い、意志が弱い、等々)の可能性がつぶせますから、無駄なあがきをしなくてすむようになります。
たとえ、治療法のないものであったとしても、
あるいは、治療法はあるけれど、名前を知ったらそれ以上はもういいやと思って治療を求めないにしろ(ADHDと聞いただけで安心して、別にリタリンとかはいりませんっていうのがこのタイプですよね)、
「ほかのものじゃない」って知るっていうのは、それだけで、弾丸数をしぼれるようになるんですよ。下手な鉄砲だから数撃たなくては、っていうシバリがとれる。
そういえば、ASとかADHDとかの存在を知る前は、自分はACかな?と思ってた人って結構、いるんじゃないでしょうか? ASやADHDやLDの子って育てにくいから、子どもが親を育児ノイローゼにしちゃったりすることがあるかもしれないし。
そういう人が、たとえば自分のAS的傾向に気づくことで、「親に虐待されたのは、自分がたまたま育てにくい子だったからなんだ」とか、「親が冷淡だったのは、親にもチョッピリASっぽい素因があったのかなあ」とか、「親があんなにカッとなってキレては乱暴してたのは、ちょっとADHDっぽいタイプだったのかなあ」とか、そう思って、「親への恨み」から脱却していける、「親問題」から卒業していけることもあるのかもしれません。
PSW wrote:
>こんなもので、病名など都合上つけるのであって、一つの個性としてしまえばそれはそれでいいのではありませんか?世の中にはもっと変わった人、個性の強い人、
>偏屈な人がたくさんいても本人はさほど気にもせず普通に暮らしていますから・・
>社会生活が出来るようでしたら何の問題もないでしょう。そうではなくて、同じ
>ASでも障害者手帳を申請しなくては生活が困難な人もいます。ASでは認定
>してもらえないので精神障害者という病名を付けざるを得ません。ここに
>書き込みをされる方なんかは私からみればホントに普通のかたと同じに見えます。
>内面のことは本人しかわからないので文章だけでは判断できませんが。
こんにちは。こだわりとパニックと感覚過敏に縛られていますが普通のかたのマルハナバチです。社会生活は、できていますね。月に1、2度しか外出しないで、メールで納品する仕事についてからは。それまでは、できてませんでしたけど。
ここに集まっている人たちは、普通に生活できているのに、どうしてASの診断などほしいのか、不思議に思われてる方は多いみたいです。
私自身は、ASの診断を求めて専門家を訪ねたことはなくて、ADHDかなあ、もしかしたらLDも重なっているのかも? と思って調べてもらったら「そうじゃなくてAS」って向こうから言われたクチなので、「ASかなあ?」って思って調べてもらおうとしている人たちの代わりに発言するみたいなことは失礼だからしてはいけないのかもしれないのですが、でも、私が「ADHDかなあ?」って思っていたときの状態に似ているので、ちょっと書いてみますね。
ASもADHDもLDもOCDも、生物学的障害ですよね(LDとASは器質的だけどADHDやOCDは化学的なっていう違いはあるみたいですが、まあオイトイテ)。ということはね、私は思うんですけど、「ASじゃないか?」「ADHDじゃないか?」って思って確かめたがっている人たちっていうのは、
「健常者→障害者」という移動を求めているというよりも、
「心の問題→脳の問題」という移動を求めているんじゃないかっていう気がするんですよ。
何かもっと、器質的なもののような気がする、何かもっと、認知の問題のような気がする、何かもっと、生理的なもののような気がする…… そういう違和感がある人が割合に多いのではないかしら。
アメリカの人で、成人してから「多動のないADHDの軽症例」って診断された知り合いがいるんですが、その人は、ADHDっていうものの存在が知られるようになる以前、別の診断をされていました。「受動攻撃性人格障害」っていう名前だったそうです。
その人はずっと昔から、「忘れ物」「なくし物」「待ち合わせに遅れる」「締め切りに遅れる」「家事を途中でほったらかしにして忘れる」「人の話を聞いていてうわの空になる」といった問題でひどく悩んでいました。確かに、ADHDの人には「ああ、あなたもね!」と言われるようなものばっかりですね。で、この人が「受動攻撃性人格障害」って言われていた根拠も、おんなじ症状でした。「待ち合わせに遅れるのは、無意識のうちに相手を待たせてやりたいと思っているから」「借りた物をなくすのは、本当は、貸してくれた人を傷つけたいから」という解釈をされていたのだそうです。
でもその人は、「何か違う気がする」「そんな心の問題よりも、何かもっと生理的なもののような気がする」「何かもっと認知の問題のような気がする……」っていう違和感をずっと持ち続けていたそうです。
彼女はそこで、「忘れるのは、やはり無意識の攻撃ではなくて、ただの物忘れだという気がする。痴呆かもしれない」と考え、長年通っていた精神科を離れて、神経科に行き、「痴呆の検査をしてほしい」と言ったのだそうです。そして、その神経科で、「痴呆ではなくADHD」と言われたとのことでした。
アメリカでこの人に会ってこの話を聞いたとき、私はとても他人事とは思えませんでした。私は日本に住んでいたので、そして、日本では「受動攻撃性人格障害」なんて言葉がハヤリになったり、通俗解説書が売れたりしてなかったから、そう言われないですんだだけで、私がずっと昔、通っていた病院での説明も、内容的には似たような説明でした。教室が見つけられなくて講義に遅れるのは、講義に出たくないから。待ち合わせに遅れるのは、会いたくない相手だから。そんなに失敗ばかりしたくなる原因を一緒に探りましょうね、というような感じだった気がします。
でも違和感は残りました。「あの、予習バッチリで自信満々の講義でも、やはり迷子になるんですが……」「あの、お金をためて買った、お気に入りの時計も、やはり失くしたんですが……」っていう違和感です。
だから私も、ADHDを知らなかったころ、痴呆を疑ってみたことがありました。もう一つ、私は七歳のときに頭部外傷をやってるので、そのときに小さな傷でも残ったかなとも思いましたが、でも、私は二歳ごろからうっかり者のぼんやり者のオッチョコチョイだった記憶があって(それ以前の記憶はありません)、頭部外傷の前後で変化した覚えが全然ないから、それも違うという気がしました。で、そのときかかっていた先生に、「痴呆の検査してください」って言って笑われて断られたことがありました。「痴呆だったら大学に入れるわけありませんよ」ってね。
こんなこともありました。
私は、「奥行きがよくわからなくて、景色が平べったく見える」と先生に訴えたことがありました。
それで、いろいろと、あれはどうですか、これはどうですか、こんなことがありますか、と先生にきかれたのですが、何か話がかみ合わない。
先生は現実感の喪失みたいな話をしておられて、私は奥行き知覚の話をしてたんですよ(爆)
「そういうことじゃなくて、先生。ドアのノブで突き指をするし、つり革の手前で空中をつかむし。私は、コップにジュースなんかをこぼさずに注げるようになりたいのです」って言ったのですが、聞いてもらえませんでした。「いつごろからですか?」「生まれたときからですっ!」「そんなはずはないでしょう」(笑)
「ASかも」「LDかも」「ADHDかも」っていう人たちの中には、これに似た違和感を抱えている人たちがけっこう多いのではないかしらね。
余計なお世話をしてすみませんでした。
シュッツさん、あなたはとても正直な方だと思います。
私が、あのコピーを貼り付けたのは、何もだれそれが○○障害だという
見方をしているとかいないとかそんなことではなくて、正しい見識を持って
理解してみたら・・というつもりだったのです。
あなたが書かれたように、
シュッツ wrote:
>私の場合は(変人?)
>「『人格障害』と言われたことを議論に取り入れ、『人格障害』とはどういうもので
> どんな特徴があるかなどを分かる範囲で説明し『人格障害』とその周辺の
> 『精神的状態』について互いに理解を深める」
>
>ということです。
まさに、この事だったのですが、いろいろと議論になってしまったようですね。
しばらくぶりに見て驚きました。ごめんなさい。
私が関わっているASの方と違い二重造語や文語体調の言い回しもなく普通に
議論されている事にも驚きました。立派にコミュニケーションがとれていますよね。
同じASでも、△・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・○まで、の間に神経症、強迫症状、鬱などいろいろ症状が出ているかたもいますので、一人一人感じ方や見方が違って来るのはしかたないですね。
成人になってからの診断はとくに困難で最初は「ASの疑い」程度にしか
言えないと思いますが・・これも、「自閉的精神病質」などという言葉だとショックをうけます。アスペルガー症候群というと聞きなれない言葉だとある程度納得します。
こんなもので、病名など都合上つけるのであって、一つの個性としてしまえばそれはそれでいいのではありませんか?世の中にはもっと変わった人、個性の強い人、
偏屈な人がたくさんいても本人はさほど気にもせず普通に暮らしていますから・・
社会生活が出来るようでしたら何の問題もないでしょう。そうではなくて、同じ
ASでも障害者手帳を申請しなくては生活が困難な人もいます。ASでは認定
してもらえないので精神障害者という病名を付けざるを得ません。ここに
書き込みをされる方なんかは私からみればホントに普通のかたと同じに見えます。
内面のことは本人しかわからないので文章だけでは判断できませんが。
また、余計な事を書いたかもしれませんが・・・・・お許しください。
はじめまして、noriといいます。
以前から気になっていました。
私も「アスペルガ−」なのでは?と。
みなさんの書き込みを、ざっとですが、読ませて頂きました。
思い当たるとこや、似てるとこ、いっぱいあるんです。
現在は、(もう長いですが)精神科で、神経症と診断されています。
ただ、神経症の何々と、名前が付かないのです。
色々な症状を、持っている為です。
幼い頃から、症状はありました。
社会人になってからも、仕事は出来ています。
(ここ2ヶ月は、休養中ですが・・・)
ただ、感性を使う仕事しか、できません。
とーとつな書き込みで、すみません。
これからも、よろしくお願いします。
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